玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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20-21-22-23-24-25-26-27-28-29

age 21


50音インデックス


■21歳の
 シンクロにシティ


鬼塚道夫
中村恒雄


横山 友美佳
ナポレオン2世
奥 浩平


大島みち子
ビリー・ザ・キッド
伊藤隆大
田沢稲舟
シド・ヴィシャス
豊臣秀頼
ジャンヌ・エビュテルヌ
純恋(すみれ)
備仲 悟
青山加奈(永岡彩)


■21歳のエポック


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21歳の語録

 

「彼は人生の五分の四を人を待つ事に費やした」
(備仲 悟)


21歳のシンクロニシティ!

  • 21歳では秀頼ナポレオン二世がシンクロする。父親が一代の英雄・中々生まれなかった世継ぎの子・父親が糟糠の妻を棄てて仇の名家の姫に産ませた男の子であった(シンクロ提案者:Miwaさん)。
     
    ●ローマ王、ライヒシュタット公だったナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト/ナポレオン2世(1811.03.20〜1832.07.22)は、心身に無理を重ね、それが祟って病に倒れ21年4ヶ月と2日の生涯(魚座)。
    ●また豊臣秀吉の次男・豊臣秀頼(1593.08.03〜1615.05.08)も大坂城の炎上を見て、淀君とともに自害し 21年9ヶ月と5日の生涯(獅子座)。


  • 私事ながら、21歳の生涯にはボクの人生を大きく左右することになる備仲悟が、無限の可能性を秘めたまま敗血症による呼吸循環不全で21年11ヶ月と8日の生涯で早世した。
    霊よ安かれ。


    (2006.12.06更新)
                



21年?の生涯

鬼塚道夫
Michio Oniduka    【勇気の物語】

(1926.?〜1947.09.01)
殉職---?座

  • 1947年、鬼塚道夫(当時21)は木炭バスに長崎自動車車掌として乗務していた。時津村(現時津町)の上り坂を走行中、ブレーキが故障。後退を始めた車体が崖から転落する寸前、後輪の下に飛び込み、バスを… 咄嗟に車体の下に挺身以て大惨事をくいとめ、 自ら乗客三十有余名の命に代りて散萃した。享年二十一歳。
  • 「長崎県時津町本村郷。国道206号線で大村湾から長崎市に入る少し手前の打坂峠に一体のお地蔵様が建っています。この坂は今でこそ切り通されてなだらかな4車線の国道になっていますが、以前は「地獄坂」と呼ばれるくねくねと曲がった急勾配の街道最大の難所でした。今から60年前の戦後間もないころ、長崎自動車の木炭バスが走っていました。よく車は故障し、坂道で客が後押しをしたそうです。昭和22年9月1日。鬼塚道夫青年(当時21才)は、長崎行きのバスの車掌として、いつものように朝6時起床、木炭を熾し、乗客30人ほどを乗せて、バスに乗車しました。ところが、バスは峠で頂上にもう少しというところでストップしずるずると後退を始めたのです。エンジンも止まりブレーキも効きません。運転手が「石をかませ!」と叫ぶが早いか鬼塚車掌はバスから飛び降り、手近な石をかませましたが、加速の着いたバスは石を粉々に砕き、深さ20bの断崖まであと数bと迫りました。その時急にバスが止まったのです。ほっと胸をなで下ろす乗客と運転手。降りてみると、鬼塚車掌が自らの頭と体を後輪に突っ込み、タイヤとボディの間に体を挟んでバスを止めていたのです。駆けつけた人たちの手で病院に運ばれましたが、残念ながら息を引き取りました。この尊い行いに多くの人たちは心打たれましたが、戦後の混乱が続くなかで人々の記憶から遠ざかっていったのです」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)ニューモラル第441号より。


    (2006.07.24掲載)



・肖像を探しています。

▲自らの頭と体を後輪に突っ込み、タイヤとボディの間に体を挟んでバスを止めた長崎自動車車掌・鬼塚道夫。

 


21年?の生涯

中村恒雄
Tsuneo Nakamura       【殉職した機動隊員】

(1950.?〜197111.15)
殉職---?座

  • 1971年11月14日、沖縄返還協定の国会批准に反対した渋谷闘争=沖縄返還協定批准阻止闘争において、デモ隊と機動隊との衝突と混乱の中で渋谷区神山町一一番一〇号近藤忠治方前路上で機動隊員・中村恒雄巡査が火傷を負い、翌15日死亡。
  • 当日の現行犯逮捕は約三百名に及ぶが、殺人事件捜査としては、手掛かりがなかった。翌1972年1月19日、高崎経済大学在学中の黒ヘル・ノンセクトが令状逮捕された。
  • ここから、群馬の参加学生の構成等についての自供を得た捜査当局は、二月二日、奥深山幸男 ら群馬の学生七名 を、現住建造物等放火等で一斉逮捕するに至る。
  • 「渋谷暴動」から35年、慰霊祭が2006年11月14日行われ約120人が出席した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2006.11.15朝刊「都民版」より抜粋。
    請 求 の 趣 旨


    (2007.02.10掲載)




▲「渋谷暴動」で殉職した新潟県警新潟中央署の警部補・中村恒雄。


21年1ヶ月と15日の生涯

横山 友美佳
Tumika Yokoyama    【元バレーボール選手】

(1987.03.02~ 2008.04.17)
横紋筋肉腫---魚座

  • 中国・北京市生まれ。山梨県甲府市出身。小学校3年生より体力強化のためにバレーボールを始める。
  • 10歳の時、甲府市へ移住し、その後日本国籍を取得。甲府市立城南中から下北沢成徳高校に入学。1学年先輩の木村沙織と共に将来を嘱望され、高校1年生時に春高バレー準優勝を経験。
  • 2004年、高校2年生で全日本代表に初選出。アテネオリンピックには出場できなかったが、7月に開催されたワールドグランプリに最年少メンバーとして出場した。同年9月、アジアジュニア選手権準優勝。
  • その後、2005年3月に発症した癌治療の為、下北沢成徳高校を自主退学し都内の病院で闘病生活をおくりながら早稲田大学教育学部に入学するも、癌再発のため6ヶ月で自主退学した。
  • 2008年4月17日、横紋筋肉腫のため永眠。享年22(満21歳没)
  • 尊敬する選手は、高校の先輩であった大山加奈。実妹も現在、下北沢成徳高等学校のバレーボール選手である。
  • 親友である木村沙織選手は何度もお見舞いに訪れたという。(月刊バレーボール2008年6月号)
  • 木村沙織選手の親友。「長身から繰り出されるスパイクは、下北沢成徳高校のチームメイトの木村を凌ぐと言われた事のある選手。顔写真も「FIVBによる選手プロフィール」に載ってます。横山選手は5月に、本「明日もまた生きていこう/18歳でがん宣告を受けた私」(マガジンハウス)を発売します」(1)。
  • 「命を捨てるぐらいなら、私に下さい!!」(2)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    横山友美佳-Wikipedia
    (1)「女子バレーの横山由美佳選手が亡くなったそうですどんな選手だったの ...
    (2)横山友美佳著『明日もまた生きていこう-18歳でガン宣告を受けた私』(マガジンハウス)の新聞広告より抜粋。


    (2008.06.30掲載)


★命を捨てるぐらいなら、私に下さい!

▲長身から繰り出されるスパイクは、下北沢成徳高校のチームメイトの木村を凌ぐと言われた事のある横山 友美佳。


21年4ヶ月と2日の生涯

ナポレオン2世
Napoleon-II    【ナポレオン・ボナパルトの息子】

(1811.03.20〜1832.07.22)
心身に無理を重ね、それが祟って病に倒れる---魚座

  • 1811年3月20日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトとハプスブルク家のマリア・ルイーゼ(マリー・ルイーズ)皇后の間に生まれた。生まれてすぐにローマ王とされた。
  • 1814年4月6日にナポレオンがフォンテーヌブロー宮殿で退位すると、母マリア・ルイーゼと共に、5月21日にオーストリアに帰国した。フランソワは、ナポレオンの残党による誘拐を恐れたメッテルニヒによって、ほとんど監禁同然の身になった。
  • 1816年3月7日に、母マリア・ルイーゼがパルマ公国の統治を任され、パルマへと旅立っていった。その後、彼の生活は一変し、フランス語を話したり、フランス語の本を読む事を禁じられ、ドイツ語を学習する事を強制された。
  • 1817年5月1日に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯の娘アルベルティーヌを出産し、ウィーンでのフランソワとの面会の約束を破ってしまった。母親に約束を破られた彼は、この時大変に悲しんだという。マリア・ルイーゼが重い腰を上げ、フランソワに会いに行ったのは、それから2年も経った1818年の7月だった。それからパルマに戻ったマリア・ルイーゼは、1819年8月9日にはナイペルク伯の息子のギヨームを生み、また彼との面会の約束を破った。その後、ロシア皇帝アレクサンドル1世がフランソワの許を訪れた事があり、その時「綺麗で賢く、好感の持てるなかなか良い少年ではないか」と言ったという。
  • 1821年5月1日、幼い時に別れたまま一度も再会する事がなかった父ナポレオンがセントヘレナ島で死去した。父の死を知った彼は、椅子に身を投げ出し泣いたという。1822年の8月15日にマリア・ルイーゼは再びナイペルク伯の娘を出産し、9月上旬には正式にナイペルク伯と結婚した。この年と1825年に、マリア・ルイーゼはナイペルク伯の子供を出産し、この間にウィーンにいるフランソワに会いに行ったのはたったの1回だった。
  • 父への憧れ :母がナイペルク伯と結婚した頃から、フランソワはライヒシュタット公と呼ばれる事になった。彼は歴史に熱中するようになっていた。ライヒシュタット公はフランス語に対する愛着を持ち続けた。それまでドイツ語によるナポレオン中傷に囲まれながら育ってきたライヒシュタット公は、父の真の姿を知りたいと思い、フランス語を昼夜熱心に学んだ。ライヒシュタット公は宮殿内の図書館に入り込んでは、フランス語の本を貪るように読んだ。ナポレオンの部下ラス・カスが発表した『セント・ヘレナ島の記録』も、モントロン伯爵の『回想録』も、彼を感動で包んだ。ライヒシュタット公は、父ナポレオンが、常々オーストリア人達が言っているような「ヨーロッパの平和を乱した罪人」ではなく、偉大な英雄であった事を知った。ライヒシュタット公はこれ以降、父の事を深く尊敬し、強く憧れるようになった。結核にかかったのもこの頃だった。少しでも父に近づきたいと思ったライヒシュタット公は、耐寒訓練などの猛烈な軍事訓練に励むようになり、この事が病気を悪化させてしまったと言われている。
  • そんな日々の中ライヒシュタット公は、母マリア・ルイーゼが父ナポレオンの存命中、秘密のうちにナイペルク伯との子供のアルベルティーヌとギヨームを出産していた事を知った。しかし、ただ1人の親となった母親の愛を失いたくないと知らないふりをし、前にもましてマリア・ルイーゼに宛てて優しい手紙を書いた。しかし、この事実を知ったライヒシュタット公の衝撃と、母の軽率さに対する嫌悪は強く、後に「母は父にふさわしくなかった」と書き残している。そのうち、ライヒシュタット公はプロケッシュというオーストリア人の青年に出会う。彼は『ワーテルロー戦記』という著書の中で、徹底的にナポレオンを擁護していた。ライヒシュタット公は感激し、それから2人は親友になった。
  • その後、1832年7月21日にプロケッシュは、ローマにいたライヒシュタット公の祖母マリア・レティツィアの許を訪れた。そして彼は、ライヒシュタット公はナポレオンの息子にふさわしく、立派に成長していると話して聞かせた。この話を聞いたレティツィアは喜び、「あの子に父の意志の全てを尊重するようにと伝えてください。いつか、あの子の時代が来るでしょう。あの子はフランスの玉座に上る事でしょう」と言った。
  • しかしその同じ日、ライヒシュタット公は病の床に臥していた。教育係であるディートリヒ・シュタインの再三にわたる嘆願の手紙で、やっとウィーンに来たマリア・ルイーゼも、やつれ果てた息子の姿を見ると、さすがに良心の呵責に苛まれた。うとうととしていたライヒシュタット公は「馬の用意をしろ! 父の前方を行かなければならないのだ」と突然叫んだ。翌1832年7月22日、ライヒシュタット公は21歳という若さで死去し、ハプスブルク家の墓地であるカプツィーネ教会に葬られた。
  • 後にナチス・ドイツ占領下の1940年12月15日、ナポレオン崇拝者の1人でもあるアドルフ・ヒトラーによって、オテル・デ・ザンヴァリッドの地下墓所に葬られた。
  • ナポレオン1世の失脚時の1815年に、ナポレオンとフーシェから後継者として指名され、ナポレオンの弟リュシアン・ボナパルトによって議会上院に採択される。この措置によって一時的ではあるが、2世の即位は公的なものとなった。6月22日〜7月7日まで名目上フランス皇帝であった。
  • 幼少の頃に父母と別れ、家庭的には不幸と言える境遇にあったが、 一方、母方の実家ハプスブルク家の人々は父ナポレオンについては否定的であったものの、ライヒシュタット公自身には友好的に接した。 祖父フランツ1世はライヒシュタット公のためにオーストリア軍の軍服を与え、執務中そばで遊ぶ事を許した事もあった。 また義理の叔母ゾフィーと仲が良く、従兄弟にあたるマクシミリアン誕生の際は、二人の不倫が噂されるほどであった。
  • 「時代も生まれた場所も違うのに・父親が一代の英雄/・中々生まれなかった世継ぎの子/・父親が糟糠の妻を棄てて仇の名家の姫に産ませた男の子。ここまで一緒で、更には享年もいっしょの秀頼とナポレオン二世。…もしかして歴史に残らなかった(残されなかった)事実もいっしょの部分があったのかな…とも考えてしまいます」(1)。
  • 「母に愛されなかった彼は晩年、父を尊敬する青年と邂逅し父に近づく為に軍事の道へ進む。彼の抱いた夢は何だったのか…或いは天が許さずに彼を召したのか、それとも優しい彼はその夢で母親を傷つけたくないから生き急いだのか…。故国フランスから遠く離れた場所で亡くなった父親と息子は紆余曲折を経て今はフランスの墓所で隣同士に眠っています。ここにこの親子の絆の深さを感じます」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ナポレオン2世-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwaさん..2009/ 8/24 21:03:35(月) [5862]
    (2)投稿者:Miwa さん..2009/ 8/25 17:54:24(火) [5872]


    (2009.08.26更新)



▲ローマ王、ライヒシュタット公だったナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト。

 

 

21年4ヶ月と25日の生涯

奥 浩平
Kouhei Oku     【青春の墓標】

(1943.10.09〜1965.03.06)
服毒自殺---天秤座

  • 東京に生まれる。1959年4月、都立青山高等学校入学。1960年、安保闘争参加。1963年4月、横浜市立大学文理学部入学。原潜寄港阻止闘争、日韓会談反対闘争などに参加。
  • 1963年7月、マルクス主義学生同盟中核派加盟。1965年2月17日、羽田で展開された外相訪韓阻止闘争で警棒により鼻の骨を折られ入院。
  • 1965年に同年3月6日、敵対党派と恋人への愛に悩み、「ああ、生きることはかくも厳しく闘うことなのか。かくも激しく分断されることなのか。それ故の確かさよ」という言葉を残して、プロバリン三百錠を服用し自宅で自殺。享年二十一歳。
  • 奥浩平は中核派、高校時代の同級生で恋人であった中原素子は早大生で革マル派に属していた。自殺の前年、革共同が中核派と革マル派に分裂し、敵対しあっていたことが、彼の自殺の動機の一つになった。
  • 高野悦子に強い影響を与えた人物がいた。奥浩平である。しかし彼は1965年3月、大学2年生の時、亡くなっている。その後、遺族が彼がつけていた日記と、友人などに宛てた手紙を一冊の本にまとめ、1965年10月に文藝春秋より「青春の墓標」として出版 された。彼は高校2年の頃、樺美智子の死に影響を受け安保闘争に参加する。大学入学後は中核派の活動家として活発に闘争に加わる。彼の恋人は、敵対する革マル派に入っていたが、セクト間の抗争が激しくなるにつれ2人の関係はギクシャクしていった。闘争と恋に疲れ、ノートに「死にたい!」と書きなぐったりしていくようになる。やがて彼女に避けられるようになり、恋は終わった。1965年2月17日の羽田闘争で、警官隊に警棒で殴られ、鼻硬骨を砕かれ入院することになる。最期の日は元気に父親を送り出したが、その時「今日は友達が来るから帰宅を遅らせて欲しい」と頼んでいた。しかし帰宅後の父親が見たものは、自室の布団の上でうつ伏せで亡くなっていた彼だった。手に一輪のピンクのカーネーションを握りしめて。致死量をはるかに超えるブロバリン(睡眠薬)を服用していた。(ピンクのカーネーション・花言葉/感動、愛を信じる)」(1)。
  • 「1964年(昭和39年)9月19日、20日のノートから。
    9月19日・・・実際おれは20歳でありながら、15歳にしかみえないのだ。〈見える、見えない〉ではなしに、15歳のねうちしかないのだ。おれの精液は女の腹の中に吐き出されねばならない。おれの、これまでの人生はあまりにも単線的ではなかったのか!女を力一杯抱きしめてみたい!全力で愛してみたい!こんな生活はいやだ!こんな毎日はいやだ!ボードレールもランボーも読めない人間、全く爬虫類のごとき存在だ!ああ、25日が近づいてくる。25日―横浜市内デモ!市大から50名以上の大動員!市大に反スタをうちたてるか否かは9月25日の斗争いかんなのだ!鏡の中のぼくの顔は、いつも 凛々しく美しい。それは21才の少年だ!
    9月20日 なぜこんな朝早く目を覚すのだ!おれの胃の腑は飢えきって、今日もがらがらと音を立てている。乾ききって、満たされたことがない おれの醜い臓物。死にたい!」(2)。

  • 「青春の墓標」はマル学同中核派の活動家であった奥浩平の遺稿集である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    全共闘時代用語の基礎知識・さ行
    (1)「1969-1972 連合赤軍と「二十歳の原点」高野悦子5
    (2)「1969-1972 連合赤軍と「二十歳の原点」奥浩平


    (2006.07.07掲載)




▲敵対党派と恋人への愛に悩み、プロバリン三百錠を服用し自宅で自殺した奥 浩平。


◆奧のノート 。

 

 

◆どんなに暑い陽が照りつけていても、ポケットに十円しかなくても、僕は輝かしい気持ちで生きている。

21年6ヶ月と4日の生涯

大島 みち子
Michiko Ooshima  【「愛と死をみつめて」のモデル】

(1942.02.03〜1963.08.07)
顔面軟骨肉種---水瓶座

  • 父忠次、母しげ子の長女として兵庫県西脇市小坂町に生まれる。中学生のころから秀才肌で常に成績はトップクラスだった。順調にいけば本人が夢見ていたジャーナリストになるはずであった。しかし、暗い病気の影が、西脇中学の二年生のときに「このごろにおいがわかりにくくなった。」といった頃からあらわれはじめる。
  • 1958年、県立西脇高校2年在学中の5月13日に発病。「顔が痛い!」といって学校から帰ってきた大島みち子は「一日も早く神戸の県立医大病院へいきなさい」と告げられる。これが闘病生活の始まりであった。卒業までに入退院を繰り返す。
  • 1960年の夏、大阪大学附属病院に入院中に河野実と初めて出会う。1962年、同志社大学入学の夏、再発。大阪大学附属病院に再入院するが、一度も退院することなく、1963年8月7日永眠。
  • 河野 実:1941年8月、大阪市に生まれ、後に長野県伊那市に移る。1960年、県立伊那北高校を卒業、浪人中に入院した大阪大学附属病院で大島みち子と初めて出会い、退院後、大阪と信州の間で文通が始まる。1961年、中央大学に入学後もそれは続き、二人の往復書簡は3年1ケ月間で計400通を超えた。
  • 「愛と死をみつめて」1964年。高野誠(浜田光夫)が小島道子(吉永小百合)と知り合ったのは、浪人時代に阪大病院へ入院したとき。誠の退院、上京後も彼らは「マコ」「ミコ」と呼び合い、文通と交際を続けている。しかし道子の病気は軟骨肉腫。不治の病であるうえ、延命のため顔面中央を切除しなければならない。誠に励まされた道子は懸命に闘病を続けるのだが…。21歳で逝去した大島みち子さんと、恋人の河野実さんの書簡集を原作にした純愛映画」(1)。
  • 「一方、河野さん(63)はその後、結婚、2女をもうけ、現在はジャーナリストなどで活躍中。復刊に「40年の風雪を経て、なお忘れられていない存在と実感しました」と語る一方、「ある時期、このことが“重荷”になっていたが、娘が中学生のときに知って『パパ、すごいじゃん』っていってくれた。ただ、娘2人を育て、還暦もすぎた今、当時のみち子さんのご両親のせつなさも感じ、猛烈な感慨も味わっています」と話した」(2)。
  • 「病院の外に健康な日を三日下さい。一日目、私は故郷に飛んで帰りましょう。---二日目、私は貴方所へ飛んでいきたい。---三日目、私は一人ぼっちで思い出と遊びます。そして静に一日が過ぎたら、三日間の健康をありがとう、と笑って永遠の眠りにつくでしょう」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「愛と死をみつめて のシネマレビュー(JTNEWS)
    (2)「Yahoo!ニュース - エンターテインメント - 夕刊フジ
    (3)「若いいのちの日記-愛と死の記録」の新聞広告より抜粋。


    (2006.04.17掲載)




▲1960年代を代表する本である『愛と死をみつめて―ある純愛の記録―』は大島みち子と河野実の往復書簡である。


◆映画「愛と死を見つめて」は、大島みち子さんの『若きいのちの日記』が映画化されたもの。21歳で終る日記の最後に、「私の21歳という人生は決して不幸な人生ではなかった。ただ不運なだけだったんだ」そして、「人生長きがゆえに尊からず、人生深きがゆえに尊し」と記す。






◆42年ぶりにレメークされた純愛物語「愛と死をみつめて」。
主演は草なぎ剛と広末涼子。

21年7ヶ月と21日の生涯

ビリー・ザ・キッド
Billy the KId      【西部を代表するアウトロー】

(1859.11.23〜1881.07.14)
射殺される---射手座

  • 21年の生涯でメキシカンとインディアンを除いて21人を射殺したとされる西部を代表するアウトロー。主にニューメキシコ州を拠点にしていた。
  • 恩人のタンストールが殺されたのをきっかけにリンカーン郡戦争でガンマンとして名を上げるが逮捕され最後は脱走しフォート・サムナーで保安官のパット・ギャレットに射殺される。
  • その生涯は映画〔ヤングガン〕やダイムノベル等に多く取り上げられており、今でも人気は高く墓石も数度盗難にあっている。左利きの二挺拳銃説他、その生涯はダイムノベルで色々脚色されているため実像は不明な点が多いが、アウトローにもかかわらずその人気は今でも高い。
  • 「映画ビリー・ザ・キッド(1930)Billy the Kid:「ハレルヤ」「活動役者」と同じくキング・ヴィダー監督作品で、ウォルター・ノーブル・バーンズ作の「ビリー・ザ・キッドの伝説」に基づいて、前記2映画のワンダ・タショックが脚色し、ローレンス・ストーリングスが台詞を書いた。主役は「妻呼ぶ怒涛」「恋多き女」のジョン・マック・ブラウンが勤め、「ビッグ・ハウス」「ロマンスの河」のウォーレス・ビアリー、「略奪者」「マダム・サタン」のケイ・ジョンソンをはじめ、カール・デーン、ウィンダム・スタンディング、ラッセル・シンプソン、ジェームズ・マーカス等が助演している。カメラは「ハレルヤ」のゴードン・エイヴィルが担任した」(1)。
  • 「ビリー・ザ・キッドの墓碑銘にはこう書かれているそうです。〈真実と経歴。21人殺害。ごろつきの少年王 彼は彼らしく死んだ〉」(2)。
  • 「彼を射殺したギャレット保安官はビリーの元友人だそうな。(ウィキより)  人セムを見るまでは架空の人物だと思っていました(汗)」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「開拓史時代の有名人」
    (1)「ビリー・ザ・キッド - goo 映画
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006.05.25(Thu) 11:11[1631]
    (3)投稿者:Miwa さん..2009/ 5/19 14:52:10(火) [4888]



    (2009.06.27更新)



▲実像は不明な点が多いが、アウトローにもかかわらずその人気は今でも高いビリー・ザ・キッド。
(イラスト 大城さん)


21年8ヶ月11日の生涯

伊藤 隆大
Takahiro Ito           【俳優、声優】

(1987.06.25〜2009.03.08)
練炭自殺/死因は急性一酸化炭素中毒 かに座 血液型A型

  • 千葉県船橋市出身。千葉県立国府台高等学校卒業。法政大学キャリアデザイン学部在学中だった。クォータートーンに所属していた。兄は、俳優の伊藤淳史。
  • 1990年、3歳の頃に兄が所属していた劇団日本児童に入団。
  • 1992年、「リツ子・その愛、その死」(テレビ東京)で子役としてデビュー。幼少時から数々のテレビドラマや映画に出演し、実績を残している。2005年には、フジテレビドラマ「電車男」とNHK大河ドラマ「義経」で兄の伊藤淳史と共演を果たした。ドラマ「のだめカンタービレ」では、主人公のライバルの瀬川悠人を演じ、自前のピアノを披露した。趣味はピアノ、ヴィオラ演奏。特技は韓国語。
  • 2009年3月8日、神奈川県相模原市の相模湖近くの石材会社駐車場に停まっていた乗用車の中で練炭自殺しているのが発見され、車内から遺書と思われる家族あての手紙が発見されたと報道されている。死因は急性一酸化炭素中毒。
  • 映画 :天才えりちゃん金魚を食べた(1997年、シネマ・ワーク)竹下龍之介役/蓮如物語Rennyo(1998年、東映)布袋丸役/アンドロメディア(1998年、松竹)バスの中の少年役/ガメラ3 邪神覚醒(1999年、東宝)比良坂悟役/第22回日本映画学校そつせい祭グランプリ受賞作品「回転する空の下で」(2004年、KAWASAKI しんゆり映画祭)主演/10minutes diary「愛の日記」(2005年、ポニーキャニオン)/容疑者Xの献身(2008年、東宝)森英太役
    「俳優、伊藤淳史(25)の実弟で、8日午後に神奈川・相模湖畔で自殺しているのが見つかった俳優、伊藤隆大(たかひろ)さん。21歳の若さで自ら命を絶った理由は、ナゾに包まれている。神奈川県警津久井署によると、隆大さんの遺体が見つかった乗用車からは練炭や、家族や友人に当てた複数の遺書が見つかったという」(1)。
  • 「伊藤さんはドラマ「のだめカンタービレ」(06年)や遺作となった映画「容疑者Xの献身」(08年)などに出演。先月22日付のブログには、高校時代のクラス会の楽しい様子がアップされているが、これを最後に更新されていない。伊藤さんの兄は俳優伊藤淳史で、8日夜に遺体と対面したという。ショックを受け、この日夕方に予定されていた出演映画「フィッシュストーリー」の会見をキャンセル。だが、夜に行われた同映画のライブイベントに、バンドメンバーの1人として登場。「個人的なことでご心配かけてすいません。この歌を天国の人にも聞いてもらえれば」と、涙を流しながら歌った。また、淳史は報道各社にファクスで「隆大は常にいいところを見せようと頑張りすぎるところがあった。彼なりの優しさが、最後にこういう不幸な形を作ってしまいました」とコメント。4月スタートのTBS系連続ドラマ「漂流ネットカフェ」の兄弟共演が決まり、収録が始まる直前だった」(2)。
  • 「弟さんは私はのだめカンダービレでぐらいしかみたことありませんが。お兄さんとはまた違う俳優さんでいいなって思いました。ブログをみたら元気そうだったし、まさか自殺するとは思いませんでした。何があったかわかりませんけど、これからの俳優さんだったのに生きて欲しかったです」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「伊藤隆大-Wikipedia」http://ja.wikipedia.org/wiki/伊藤隆大
    (1)「「子役出身者には特有の悩みが…伊藤隆大さん自殺のナゾ」:イザ!
    (2)「伊藤隆大さん練炭自殺、兄淳史ライブで涙 - 芸能ニュース ...
    (3)投稿者:かものはしかも さん..2009/ 6/11 16:57:20(木) [5079]


    (2009.06.12更新)


▲ちびノリダーや電車男で有名な 伊藤淳史さんの弟・伊藤 隆大。




21年8ヶ月13日の生涯

田沢稲舟
Inafune Tazawa   【明治の女性作家】

(1874.12.28〜1896.09.10=明治7年〜明治29年)
病没---獅子座

  • 鶴岡市生まれ。樋口一葉と同時代の作家で、希有と美貌と才稟にめぐまれ、文学の上でも耽美妖艶の花を大輪に咲かせる閨秀として期待されながら、21歳の短い人生を終わった。
  • 作家を目指して上京し当時新進の流行作家であった山田美妙の門を叩く。やがて美妙と恋に落ち,その引きで文芸雑誌に小説を寄稿,新進女流作家として認められる。美妙と結婚したが病に倒れ離婚,鶴岡に帰郷してほどなく死去。
  • 「田沢稲舟は樋口一葉と同時代に生きて、希有の美貌と才稟にめぐまれ、文学の上でも嘆美妖艶の花を大輪に咲かせる閨秀として期待されながら、あたら23歳(数え)の若さで散った。同郷の詩人・作家である伊東聖子さんは、この薄命の女人を明治開花期の混迷の闇から照らし出し、犀利な批評眼と明晰な表現で解明してくれた」(1)。
  • 「---『小町湯』なる一編がある。---興味深いのは、稲舟が一時、人気作家山田美妙の妻であったこと。美妙こそは本邦初のヌード論争の火付け役だ」(2)。
  • 「「「明治二十八年十二月、稲舟は山田家の人となったが、わずか四ヶ月ののちには、郷里の鶴岡に帰る。美妙の女性関係、同居の義祖母との折り合いの悪さ、そして名門の令嬢としてかしずかれて育った稲舟には、赤貧の作家の妻としての暮らしは耐えがたがった。同年初秋、稲舟は二十三歳(数え年)の短い生涯を閉じる。胸を病んでいた彼女の睡眠薬の飲みすぎが直接の原因だったが、巷には自殺説が流れ、ために美妙は不徳義漢として世から葬り去られる結末となった」
    (人物近代女性史第二巻「明治に開花した才媛たち」講談社より)。古い本なので最新の調査とはもしかしたらずれているかもしれません。稲舟さんの作品、「しろばら」は結婚を断わられた男が相手の女性を襲って殺してしまうお話。「五大堂」はスキャンダルに巻き込まれた小説家と思いを寄せていた女性が心中してしまう結末。ともに女性の貞節を重要視している感じがありまして稲舟さんの人生感が伺えます。美妙氏に弟子入りした後、稲舟さんは美妙と男女の仲になったのですが、そんな不義(当時は婚前交渉も道徳的に悪でした)を彼女はどう思っていたのか。「…結婚前までは綺麗な身体でなくちゃ」(五大堂)。五大堂の結末はヒロインが愛する小説家と心中してしまう結末。稲舟さんはもう手の届かない(このころ美妙は再婚している)美妙と一緒に死ぬことを夢見ていたのでしょうか・・・結果的に稲舟さんの死が美妙を文壇から葬りさったきっかけになりました」(3)。
  • 作家としての活動はわづか2年ほどだったが小説5編を残した。顕彰碑のある場所は生家前にあたるそうな。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    田沢 稲舟(小説家、鶴岡市) 遊学館アーカイブ
    (1)「社会評論社 作家・田沢稲舟 伊東聖子
    (2)読売新聞2007.11.14朝刊『つれづれ」(前)より抜粋。
    (3)投稿者:Miwa さん..2009/ 5/10 00:52:32(日) [4780]


    (2009.05.10掲載)




▲一時、人気作家山田美妙の妻であった田沢稲舟。




21年8ヶ月と23日の生涯

シド・ヴィシャス
Sid Vicious 【パンク・ロックのど真ん中を駆け抜けた男】

(1957.05.10〜1979.02.02)
ヘロインのオーヴァードースで急死---牡牛座

  • 1975年〜78年に活動した伝説のパンク・ロック・バンド、セックス・ピストルズのベーシストにしてパンクの「永遠のカリスマ」。彼は音楽というより、その鮮烈な生き様で、パンクの凝縮されたイメージを体現するアイコンとして生命を得ることになった。客とケンカして血まみれになりながらベースを弾く姿や、映画『D.O.A.』での、ヘロインでキマりまくったインタヴュー・シーンに、多くの若者はショックを受けた。
  • 生い立ちからドロップアウトした少年時代。ジョニー・ロットンとの出会い、セックス・ピストルズへの加入、恋人ナンシー・スパンゲンの殺害容疑での逮捕、そしてヘロインの過剰摂取による死――。あまりに劇的な生涯を駆け抜けた男は、一体何に突き動かされたのか!?当時のパンク・ムーブメントとは、あらゆる既成の社会通念や権威に対する反抗・挑戦であり、そうした先鋭的な若者文化すべてを指すもの。
  • 本名ジョン・サイモン・リッチー。ロンドンのイースト・エンドに生まれる。15歳でオーディナリー・スクールをリタイアし、アート・スクールに通うようになり、同級生だったジョン・ライドンと知り合う。やがてジョンはセックス・ピストルズに加入、シドはスージー・スーらと共に親衛隊として、ピストルズのギグで大暴れするようになり、それと共にピストルズの評判はロンドン中に広がっていった。
  • もともとセックス・ピストルズは、ロンドンの突飛なファッション・ブティック「セックス」に出入りしていた若者4人が1974年に組んだバンド「スワァンカーズ」が前身。そこに1975年、「セックス」の経営者・マクラーレンの強い勧めでボーカルのジョニー・ロットンが加わり、「セックス・ピストルズ」になった。
  • シド・ヴィシャスは始めからセックス・ピストルズのメンバーではなかった。1976年にバンドが「アナーキー・イン・ザ・UK」で衝撃的なデビューを飾った頃、シドはピストルズの熱狂的なファンとしてライブ会場の聴衆の中にいた。なお、いわゆるポゴ・ダンスはシドが最初に始めたとの説もある。やがてEMI、A&Mとピストルズが相次ぐ契約破棄事件で揺れる中、ジョンとベーシストのグレン・マトロックの仲が悪化し、グレンが脱退、代わりにシドが加入。
  • シドはスージー&ザ・バンシーズの初代ドラマーであり、その後キース・レヴィン(後にジョンとPILを結成)らと共にフラワーズ・オブ・ロマンスというバンドを結成してヴォーカリストとして半年ほど活動していたが、それまで彼はドラマーでベースには触った事もなかった。ピストルズにとって重要だったのは、彼のテクニックではなく、ファッションやパンクに対する姿勢だった。おまけにシドはガールフレンドのナンシー・スパンゲンの影響で重度のヘロイン中毒だった。すったもんだの末ピストルズはヴァージンと契約、バンドはクリス・トーマスのプロデュースで1stアルバムを制作するが、ベース・パートのほとんどはスティーヴ・ジョーンズか、脱退したグレンが呼ばれて弾き、曲作りもシドはほとんど関わっていない。音楽的にシドの貢献は何もなかった。
  • やがて1978年初頭、アメリカ・ツアー中にジョンが突然の脱退を宣言。その後バンドは列車強盗ロナルド・ピッグスとの共演や映画『グレイト・ロックンロール・スウィンドル』の公開などで延命するものの、1978年の全米ツアー終了後、あっけなく解散。 1978年10月、シドはナンシー殺害容疑で逮捕され、保釈直後の1979年2月にヘロインのオーヴァードースで急死。21歳という若さで世を去った。
  • シドを、リーダーのジョニー・ロットンと同じくらい有名にしたのは、後に『シド・アンド・ナンシー』として映画化もされたその悲劇的な最後。バンド解散の翌年、彼は恋人のナンシーを刺殺し、自身も麻薬の過剰摂取で死んでしまった。パンクが目新しくなくなり、本来の破壊的なエネルギーを失いつつあった当時、最後まで社会通念に反抗し続けたシド・ヴィシャスこそ、純粋なパンクの精神を最もよく体現していたといえる。
  • 「パンクのオーソリティ、セックス・ピストルズのベーシストだったシド・ヴィシャス。彼の場合は、恋人を刺し殺しちゃった挙げ句にオーバードーズだから.....ちょっとフォローのしようがないのですが、破滅型のロッカーのスタイルを極めている....とも言えるかも。21歳で亡くなっているし、何より美形です」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    Sid Vicious (しど・びしゃす)(シド・ヴィシャス)
    おんがく日めくり
    (1)「Diary of a Madman: シンクロニシティ


    (2007.06.25更新)




▲伝説のパンク・ロック・バンド、セックス・ピストルズのベーシストにしてパンクの「永遠のカリスマ」シド・ヴィシャス。


21年9ヶ月と5日の生涯

豊臣秀頼
Hideyori Toyotomi   【温室で育てられた偶像】

(1593.08.03〜1615.05.08)
大阪城の炎の中で自刃---獅子座

  • 豊臣秀吉の次男。幼名をお拾い(拾丸)。1596年(慶長元)幼くして従四位下とされ、秀頼と名づけられる。母は側室の淀君(浅井氏)。
  • 1599年秀吉の遺命により大坂城西の丸へ移った。同年従二位権中納言。秀吉存命中、諸将は再三秀頼への忠誠を誓わせられたが、死後は諸将の不和が激化、関ケ原の戦いを中心とする全国戦乱(1600)がおこった。秀頼の名をもって集められた西軍は大敗。戦後徳川家康が征夷大将軍となるとともに、秀頼は摂津・河内・和泉60余万石の一大名に転落した。次いで内大臣となり、徳川秀忠の長女千姫と結婚する(1603)。1605年右大臣。
  • 1614年、秀頼は秀吉創建の方広寺の大仏再建を完成させたが、寺の鐘に刻まれた〈国家安康、君臣豊楽〉の文字が、家康の名を二つに分けて呪うものだなどと家康の怒りを買った(方広寺鐘銘事件)。
  • これがきっかけとなり大坂冬の陣がおこり同年講和。翌年再び挙兵(大坂夏の陣)し、5月8日敗色濃いなかを秀頼自らも初めての出陣を楼門まで試みたが、城内に放火の噂があって中止。
    同日、大坂城の炎上を見て、淀君とともに自殺した。民間伝承では、鹿児島に落ちのびたともいわれる。
  • 「温室で育てられた偶像。ある意味不幸です。極度のマザコンであったのでしょうか。淀の方が豊臣家を滅亡に追い込んだといってもいいのですが、それに対して何もできなかった、しなかった秀頼にはガッカリもしますし、それが豊臣家滅亡の一番大きな要因だともいえます。また、武田勝頼は猛将がゆえ武田家が滅びましたが、秀頼は何もしなかったがゆえ豊臣家が滅んでしまったというように見えます」(1)。
  • 「 秀頼さんのお話:秀頼はよく馬に乗れないと後世から無能扱いされていますが実は身長約197cm、体重161kgあったそうなので実際には乗る馬がなかったというのが本当の話でしょう。戦国男性の身長は平均160pだったのでこの体格は驚異的。家康が身長155cm程度だったので秀頼と対面した時に驚愕した話も判ります。冬の陣に徳川から和議を持ち込まれた時に徹底抗戦を唱えた事、そして母親の頼みで和議を受け入れた事。夏の陣の前、母親を人質にする位ならと家康と再度開戦した(以上ウィキペディアより)所を見るあたり、祖父浅井長政同様の潔さと肉親(母親)への情愛を感じます。勇将長政とあまりにも似た部分があると看破したからこそ家康は秀頼を殺したのだと私は思えます」(2)。
  • すべての男はマザコンである。なぜならば、釈迦もソクラテスもプラトンも、ニーチェもサルトルもすべからく、あの母の股の間から生まれてきたのだから。ボクもワガママ・ヨシコさんには手も足も出ない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「豊臣秀頼
    (2)投稿者:Miwaさん..2009/ 5/14 10:30:49(木) [4828]


    (2009.05.15更新)




▲大坂城の炎上を見て、淀君とともに自害した豊臣秀頼。

21年9ヶ月と20日の生涯

ジャンヌ・エビュテルヌ
Jenne Hebuterne  【モディリアーニ最後の恋人】

(1898.04.06〜1920.01.26)
飛び降り自殺---牡羊座

  • パリに生まれ。父親は会計士であり、17世紀文学の研究家。兄は画家で、彼女もまたアカデミー・コラロッシで絵の勉強をする画学生で、控えめで聡明な女性で、現在残されている数少ないジャンヌの絵には、画家としての豊かな天分が認められると言われてる。そして、きちんとした家庭で育てられたジャンヌは、心優しく、慎ましく、そして美しい女性だったという。
  • そんなジャンヌがアカデミー・コラロッシでモディリアーニと知り合うのが、ちょうどこ1917年(19歳)の謝肉祭の日。二人は出会ってすぐに、安ホテルを転々としながら共同生活を始める。もちろん、ジャンヌの両親の猛反対を押し切ってのこと。そのとき、モディリアーニは33歳、ジャンヌは19歳だったから、両親の反対はもっともなことだった。しかも、ジャンヌと一緒に暮らしても、モディリアーニはその放埒な生活態度を少しもあらためようとはしなかった、彼女はただ、じっと耐えて夫を待つだけの毎日だった。二人の間には女の子が誕生している。
  • 1920年、モディの死去の翌々日1月26日未明(墓標の日付は25日)、2番目の子どもを身ごもったまま両親のアパートの6階から飛び降りて自殺した。
  • 「モディリアーニがジャンヌの瞳を描かなかったのは、彼特有の人物の普遍化、永遠化のためだけだったでしょうか。ジャンヌの悲しみをよくわかっていながら幸せにしてあげることのできない彼には、瞳のない青い目を描くことしかできなかったかも知れません。「私が描く人物は見ることができる。たとえ瞳をつけてやらなくても....」。モディリアーニのその言葉を、この作品の中のジャンヌは、どんな思いで聞いているのでしょうか。ところで、モディリアーニの描く人物たちの特徴として、その首の長さを挙げる人も多いかも知れません。これは、彼の作風が、不思議に古典主義的な特質を堅持していたことに依るところが大きいとも言われています。おそらく、初期ルネサンス、マニエリスム、またアフリカの彫刻、浮世絵、そしてセザンヌ、キュビスムあたりの影響も混在して在ったかと思われます。モディリアーニは、20世紀初頭のパリの、前衛的な美術運動に加わるには、故国イタリアの伝統的な美術を吸収し過ぎていたかも知れません。しかし、それでいて、伝統的なイタリア美術を信奉するには、彼の中にあるユダヤ系の血が、パリに住むユダヤ人たちとの交流を深くさせ過ぎてしまってもいました。ところが、東欧や北欧からの異邦人が多かったパリのユダヤ人社会で、彼のようなイタリア人は、一種特異な存在とも言えたのです。そんな、複雑な孤独を抱えたモディリアーニの心の奥もまた、若いジャンヌには理解しきれなかったかも知れません。アルコールとはとうとう縁が切れず、貧困と病いのうちに死を迎えたモディリアーニは、その死の間際、「もう一度イタリアを見たい」とつぶやいたと言われます。それは、帰るべき故郷を持たない、または帰る意思のない異邦人画家たちに共通した呟きだったかも知れません」(1)。
  • 「当初から二人の仲に反対だったジャンヌの両親は彼女がモディリアーニと同じ墓に入ることを許さず、彼女は共同墓地に葬られた。ジャンヌがペール・ラシェーズにあるモディリアーニの墓の隣に葬られることになったのは、その5年後だったという。墓碑には「すべてを捧げたアメデオ・モディリアーニの献身的な伴侶」と刻まれているそうだ。 天才画家との偶然の巡り合いゆえ、わずか21年で閉じることになったの彼女の一生は、芸術の息吹華やかなりし時代のパリの悲恋の物語として、今後も語り継がれていくだろう。しかし、モディリアーニによるこの肖像画はそのようなセンチメンタリズムを越えた高みにあると私は思う。画家の死後、皮肉にもその名声は確固たるものとなり、ジャンヌもまた、愛する人のキャンパスの中で永遠の生を得ることとなったのだ」(2)。
  • 「ジャンヌは繊細さと哀愁をもつモディにとって理想のモデルで20点以上の肖像を描いた。亡くなる前に「天国でもモデルになってほしい」と言い残したともいわれている」(3)。
  • 「モディリアーニの奥さんのジャンヌ・エビュテルヌさんの誕生日は1898年4月6日です。ウィキペディアにジャンヌさんの写真と描いた絵が掲載されています。とっても現代的な美人です!!びっくりしました!!」(4)。
  • 今日(2005.08.04)、妻と二人で久々に映画に行った。日比谷シャンテなど数館でしかやっていない『モディリアーニ 真実の愛 』だ。本編終了後、字幕と共にボクの涙腺は決壊した。妻の手を握りしめていた。若者よ、エピソード3など見なくていいからこの映画を観るべし。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ
    (2) 「無題ドキュメント
    (3)映画『モディリアーニ 真実の愛』のパンフレットより抜粋。
    (4)投稿者:Miwa さん..2009/ 5/14 12:16:35(木) [4829]


    (2009.05.14更新)


     


▲モディリアーニの20点以上の肖像画のモデルになった最後の恋人ジャンヌ・エビュテルヌ。


▲(映画『モディリアーニ 真実の愛 』でジャンヌを演じたエルザ・ジルベルスタイン)




◆「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」 
アメデオ・モディリアーニ (1917年) ニューヨーク、 メトロポリタン美術館 蔵






21年10ヶ月と14日の生涯

純恋(すみれ)
Sumire   【雑誌「小悪魔ageha」モデル】

(1987.07.28〜2009.06.11)
脳出血 獅子座 A型

  • 純恋さんは1987年生まれの21歳で、今年3月に仙台から上京し、モデルとしての活動を本格化させたばかり。身長は156センチ。
  • 6月10日に発売されたGacktのニューシングル「小悪魔ヘヴン」では、荒木さやか、早川沙世ら人気age嬢とともにジャケット撮影に参加していた。
  • 雑誌「小悪魔ageha」で活躍中のモデル、純恋(すみれ)さんが11日に脳出血のため、自宅マンションで亡くなっていたことが13日、わかった。21歳だった。
  • 10日夜に純恋さんと連絡が取れないことを心配した事務所担当者が確認した。警察、消防によると事件性はないという。純恋さんは5月に自身の公式ブログでたびたび頭痛を訴えるようになり、下旬からブログの更新が滞り、最後となった3日付の「6月2日。」という題のエントリーで身体の調子が悪く、地元に帰っていたことを明らかにしていた。オフィシャルサイトでは「本当に悔しいです」と無念さをにじませ、「詳しい事は、葬儀後にお知らせ致します」としている。
  • 「公式サイトの発表によると、純恋さんが亡くなったのは6月11日のこと。10日夜に連絡が取れないことを心配した事務所の担当者が自宅マンションを訪れたところ、室内で脳出血のため亡くなっていたという。警察や消防によれば、事件性はないそうだ。公式ブログ「純恋童話」には5月頃から、たびたび体調不良を訴えるメッセージが残されている。5月8日には「頭痛がして…今日一日中頭痛がひどぃ」「頭いちゃぃ」、9日には「今日もちょっとダケ頭が痛いので、大人しく寝て治したいと思います」、11日には「頭痛が治らないから病院に行って治してる」「きっと薬飲めば治るでしょう」。そして最後の更新となった6月2日のエントリーでは、「前のブログから、ちょぃちょぃ頭痛いとか具合悪いのを言ってたけど、ちょっと身体の調子が悪くて地元にひっそり帰ったりしてました」と、頭痛が悪化していることを明かしていた」(1)。
  • 「再度アップしていただき、ありがとうございます。今では記録される事はありませんが、前述のとおり、彼女が他界された直後は、彼女のブログはアメブロの「有名人ブログランキング」で1位を記録しました。彼女の最後の記事は6月17日現在では11000を超えるコメントが寄せられております。純恋chanは若くしてこの世を去ってしまいましたが、今を生きている皆さんが精一杯生きることが、彼女達故人への何よりの供養になるのではないかと思います」(2)。
  • 脳内出血と脳梗塞を経験済みのボクは断言する。脳の病気には必ず予兆がある。そのサインを見逃さないこと。それを察知したなら、何を置いても最優先に信頼できる施設が整った病院に迷わず行くこと。仕事は代替え者が可能だが、人生に代役はいない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)「「小悪魔ageha」などで活躍のモデル---
    (2)投稿者:コミバナ さん..2009/ 6/17 11:32:18(水) [5150]


    (2009.06.18更新)



▲雑誌「小悪魔ageha」で活躍中だったモデルの純恋(すみれ)。




21年11ヶ月と8日の生涯

備仲 悟
Satoshi Binnaka   【霊よ安かれ】

(1968.07.28〜1900.07.05)
敗血症による呼吸循環不全 ---- 獅子座

  • 作家・備仲臣道氏の長男。山梨県に生まれる。3650グラムであった。聖愛幼稚園、甲府私立羽黒小学校、竜王中学校、西校。
  • 大阪大学美学科美学・文芸学を専攻。大学時代は内田百聞の名文に傾倒していた。また太宰漱石を好んで読んだようである。
  • その後、大阪大学4年生で「無限の可能性」を秘めたまま病魔に倒れる。病室には闘病中に買い込んで読みあさった百冊近い本があったという。
  • 清風院修学諦悟居士となって眠る。
  • 「とても親孝行な子で、「浪人しないで入る」と合格した大学は「四年間授業料なしで卒業することにした」と笑いながら報告し、入院中にも、個室のお金を気にするような子でした。痛いの寒いのと言ったことのないこの子は、治療が苦しくても決して人に当たらず、歯を食いしばり、目に涙をにじませてもじっと黙ったままの壮絶な、文字通りの闘病でした」(1)。
  • 彼はボクのアパートから大学受験した。前日、山梨からやって来たのだ。ボクは受験前日の彼を思って、部屋を出た。女友達の家に泊まった。後でお父さんに聞くと、前夜は受験準備ではなく、ボクの本棚にある偏った傾向の本に夢中になっていたらしい。それならもっと話をしたかった。千葉大学と大阪大学両方に合格。いわゆるガリ勉ではない逸材だった。そして数年後、彼は足早にこの世を駆け抜けていった。キミは、何故そんなに生き急いだのか?。彼の父の手作りの仏壇・仏像に焼香をしにいった日、備仲臣道氏は不在だった。その後ボクの人生に決定的な影響を与えることになる加賀美尤祥氏に会っていたのだった。悟君がボクを加賀美氏を引き合わせてくれた---。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「不忘備仲悟」備仲臣道 (新山梨社)


    (2004.09.21更新)




▲「無限の可能性」を秘めたまま病魔に倒れた備仲悟。


▲「不忘備仲悟」備仲臣道
 (新山梨社)

21年11ヶ月と14日の生涯

青山加奈(永岡彩)
Kana Aoyama     【レースクイーン】

(1976.03.07〜1998.02.21)
急性心筋梗塞により死去---魚座

  • “ポスト飯島愛”として期待されていたレースクイーンでタレント。身長163センチ、B83センチ、W58センチ、H86センチの抜群のプロポーションを武器に、車部品メーカー「5ZIGEN」のレースクイーンとしてデビュー。
  • 東京ローカルの深夜番組などに準レギュラーとして出演し、飯島愛(24)が以前所属していた「オフィスレオ」の所属だったことから、“ポスト愛”と呼ばれていた。
  • 生前、将来の夢として「浅野ゆう子さんのような女優になること」などと話しており、女優をめざして頑張っていた矢先だった。
  • 「関係者によると、青山さんは21日午前2時すぎ、宿泊先の大阪市中央区のホテルの部屋で突然倒れ、近くの病院に運ばれたが、午前4時ごろ死亡した。行政解剖の結果、死因は急性心不全と分かった。青山さんはもともと発熱しやすい体質で、直前に下痢症状を訴えていたという。青山さんは数日間の休暇を取り、私用で来阪、21日に東京に戻る予定だった」(1)。
  • 医学は門外のうえ無知ながら、21歳で心筋梗塞になり得るとは知らなかった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「TOPICS


    (2004.06.24更新)




▲“ポスト飯島愛”として期待されていたレースクイーンでタレントの 青山加奈(永岡彩)。

 21歳のエポック!

  • イプセン、1849年(21歳)ローマの失敗した革命家に取材した戯曲『カティリーナ』を処女作として発表。
  • シュバイツァー、21歳(1896年)の時「人類への直接奉仕に入ろう」という決意に従い、アフリカへの医療伝道を決意。
  • 荒畑寒村 、21歳(1908年)の時赤旗事件で入獄。
  • 埴谷雄高、21歳(1930年)で不敬罪等で起訴、刑務所内でカントの『純粋理性批判』を読み、多大の影響を受ける。

    (2003.08.05)



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