玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

20-21-22-23-24-25-26-27-28-29

age 25


50音インデックス


■25歳の
 シンクロニシティ


伊庭 八郎
増田敬太郎
稲垣仲静


村上恵梨
岩田ゆり
ロコ・スコット・ラファロ
オグリキャップ
ランディ・ローズ
ジョン・キーツ
森田 必勝


北村透谷
SACHIKO
橋本左内
オーブリー・ビアズリー
チャーリー・クリスチャン
クリフォード・ブラウン
木藤亜也
久保克彦
住宅顕信
M・リヒトホーフェン
沖田総司


■25歳のエポック


WWW を検索
art-random.main.jp
  を検索


powerd by Google

25歳のシンクロニシティ!

  • 25歳の生涯にも共鳴現象がかいま見られる。画家では久保克彦ビアズリーだ。
     
    ●東京美術学校を首席で卒業しながら、太平洋戦争のため戦死した夭折の画家・久保克彦(1918.?〜1944.07.?)は25年?の生涯(?座)。
    ●アール・ヌーボーの挿絵芸術の頂点をなすオーブリー・ビアズリー(1872.08.21〜1898.03.16)も肺結核で25年6ヶ月と23日の生涯(獅子座)だった


  • 詩人では北村透谷住宅顕信である。
     
    時代の屈折を先取りした明治期の詩人・北村透谷(1868.11.16〜1894.05.16) は自宅の庭にて自殺し25年6ヶ月ジャストの生涯(蠍座)。
    ●早世の自由律俳人・住宅顕信(1961.03.21〜1987.02.07)も急性骨髄性白血病で25年11ヶ月と17日の生涯(牡羊座)を閉じた。

    (2006.12.02更新)    

                                      


25年?の生涯

伊庭 八郎
Hachiro Iba        【隻腕の剣士/武士・幕臣】

(1844.?〜1869.06.26=天保15年〜明治2年5月17日)
モルヒネを飲み干し安楽死---?座

  • 天保15年(1844年)に、伊庭軍兵衛秀業の長男として江戸に生まれる(天保14年・1843年生まれという説も有り)。諱は秀穎(ひでさと)。
  • 「幕末江戸四大道場」の一つに数えられる御徒町の剣術道場「練武館」を開いていた心形刀流宗家・伊庭家の御曹司(ただし、伊庭家では実力のある門弟が養子となって流儀を継承することが多い)。
  • 八郎は幼少の頃、剣術よりも漢学や蘭学に興味があり、剣術の稽古を始めたのは意外と遅くなってからだった。しかし、天性の才能から頭角を現し“伊庭の小天狗”“伊庭の麒麟児”と異名をとる様になる。
  • 元治元年(1864年)、幕府に大御番衆として登用されると直ぐに奥詰(将軍の親衛隊)となる。幕臣師弟の武術指導の為、講武所がつくられると八郎も出仕して教授方を務めた。
  • 慶応2年(1866年)に奥詰が改編され遊撃隊となり、八郎も遊撃隊の一員となる。慶応3年(1867年)10月、遊撃隊に上洛の命令が下り江戸を出立、将軍を護衛して大坂に下った後に八郎は伏見に布陣。翌4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発するが、新政府軍に敗れて江戸に敗退する。
  • 江戸帰還後、遊撃隊の一部と共に木更津に行き、請西藩主林忠崇に協力を要請する。協力に応じた請西藩士を含んだ遊撃隊は、前橋藩が守備する富津陣屋を無血開城させて武器弾薬を接収した後、房総半島の館山から出帆し、相模真鶴に上陸。その後、伊豆韮山 - 甲府 - 御殿場−甲州黒駒−沼津と転陣、途中で加盟する者も多数有ったので沼津滞陣中に遊撃隊を再編成し、八郎は第二軍隊長となる。
  • 上野で彰義隊が戦争を始めたと聞き、これに呼応し、江戸に向かう新政府軍の江戸入りを阻止する為箱根の関所を占拠しようとして小田原藩兵と戦闘となる。一時、和睦が成立したものの、再び敵対した小田原藩と箱根山崎で戦いが起こり、三枚橋で小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に左手首の皮一枚を残して斬られた。このため、以後、左手は不自由となった。
  • 江戸退却の後、八郎などの離脱者を除いた遊撃隊士は林らに率いられて奥州へ。八郎は怪我の治療を受けた後に榎本艦隊に投じ蝦夷地へ向けて出帆するが、銚子沖で乗船「美賀保丸」が座礁。救出された八郎は、友人らの協力を得て横浜からイギリス艦で箱館へ向かう。
  • 箱館に到着後、旧幕軍役職選挙で八郎は歩兵頭並、遊撃隊隊長となる。隻腕で有りながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが、木古内の戦いで重傷を負う。箱館病院で治療を受けるが既に為す術も無く、五稜郭開城の前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干し安楽死した。
  • 享年26(数え)。命日は墓碑には5月12日と刻まれているが、田村銀之助の話から5月16日〜17日とする説が有力である。
  • 墓所は東京都中野区の貞源寺。法名は秀院清誉是一居士。
  • 俳句・短歌
    「朝涼や 人より先へ 渡り舟」(征西日記の中に登場する俳句)
    「其の昔 都のあとや せみしぐれ」(征西日記の中に登場する俳句)
    「あめの日は いとど恋しく 思ひけり 我良き友は いずこなるらめ」(横浜にて潜伏中に詠んだ短歌)
    「まてよ君 冥土も共にと 思ひしに 志はしをくるる 身こそ悲しき」(辞世の句とされているが、戦死した親友に向けて詠んだ短歌)
  • 「彼の遺体は今もって発見されず、不明のままです-「八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らにあり」。十代のころは試衛館(近藤勇の道場)に来て後の新選組の皆と遊んだとか。自ら負傷した左手を切り落とした剛毅な青年は友を愛し愛された青年でもありました。多くの戦友の死を見届けて戊辰戦争終戦の前日に亡くなった彼に「まてよ君 冥土も共にと…」の辞世はあまりにも嵌りすぎて哀しい。試衛館の天才剣士、沖田総司君と同じ享年でした」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    伊庭八郎- Wikipedia
    (1)投稿者:MIWAそーめんさん..2011/ 2/ 4 17:09:26(金) [8729]

    (2011.02.05掲載)

 


▲隻腕の剣士にして幕府遊撃隊の隊長伊庭 八郎。


25年?の生涯

増田敬太郎
Keitaro Masuda   【コレラ防疫につくした警察官】

(1895.10.?〜1920.07.26)
コレラ---?座

  • 日清戦争が終わって下関条約が結ばれた明治二十八年、熊本県泗水村(現在の熊本県菊池郡泗水町)出身。警察官になる夢を抱いて佐賀県警察学校に入る。
  • 増田青年は、三ヵ月ほどかかる教習課程をわずか10日間で習得するなど優秀な成績で卒業し、佐賀県唐津警察署に配属。当時の日本は伝染病であるコレラが各地で流行。佐賀県東松浦郡入野村高串地区も例外ではなく、コレラが猛威を振るっていた。しかし、この当時高串地区にいた駐在巡査は病気がちで、村人たちを助けることができず、県の警察本部に応援を求めていた。そこで、県の警察本部は、新任の巡査のなかに適任者はいないかと面接調査を行い、その結果、知識もあって行動力のある増田巡査が抜擢。
  • 人一倍正義感が強い増田巡査はすぐに引き受け、唐津から交通機関が何もない山道をたどり高串地区に向かう。赴任するとさっそく地区の様子を調査し、区長たちとコレラ対策を立てる。高串地区の人々は、病気に対する恐怖を抱いていたもののコレラという伝染病に対する知識をあまり持っていない。そのため増田巡査は先頭に立って患者の家の消毒を行い、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止しました。また、生水を飲んだり、生のままの魚介類を食べないよう指導して回る。
  • しかし、増田巡査の懸命の努力とは裏腹に、すでに手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけとして、「毒薬を飲ませている」という何の根拠もないうわさが広まった。このうわさによって、治ると思われる症状の患者まで「この薬は毒薬だから飲まない」といい出す。増田巡査は村中を回り、根気強く人々の誤解を解いていく。
  • また、病気が移ることを恐れて村人がコレラで亡くなった人の遺体を運ぶことを拒むようになっても、増田巡査はたった一人で遺体を背負い、対岸の丘の上の墓地に埋葬した。そして、患者への手厚い看病や予防活動に不眠不休で取り組む増田巡査の疲れも極限に達す。コレラは疲れきっていた増田巡査の体にも容赦なく襲いかかり、高串に赴任して三日目の午後、とうとう倒れる。
  • 「このようになっては、回復の見込みはないと覚悟しています。しかし、高串のコレラは私が全部背負っていきますから安心してください。また、村人たちには、私が指導したように看病と予防をしっかりやるように伝えてください」死の間際にこう遺言し、増田巡査はついに帰らぬ人となる。
  • 頼りにする巡査の悲報を聞いた村人たちは深い悲しみに暮れた。増田巡査が警察官になって七日目、高串に来てわずか四日目のできごと。
  • 増田巡査の遺体は翌日、高串沖の小松島(で村人により火葬された。その後、増田巡査の言葉どおりコレラが収まり、村にはまた穏やかな平和な日々が戻たという。それ以後、増田巡査は、住民から「増田さま」と呼ばれて慕われ続け、1937年、葬られた秋葉神社の社殿の改築が行われた際、増田巡査の御霊も合祀され、名称も増田神社と改められた。
  • 日本で唯一神社に奉られている警察官。
    ボクの母よし子さんは、「親孝行 したいときには親はなし」とわざわざ絵手紙で送ってくるような人である。増田敬太郎の行いは確かに素晴らしい美談である。だが、このように伝承されるのはよし子さんと同質で、いかがなものか?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    伝えたいふるさとの100話
    「ニューモラル」NO.420「増田敬太郎の生き方」。

    (2004.09.03掲載)

 


▲コレラに感染しながら防疫につくした警察官・増田敬太郎。

25年?の生涯

稲垣仲静
 Tyuusei Inagaki       【夭折の日本画家】

(1897.?〜1922.?=明治30〜大正11年)
腸疾患---?座

  • 京都生まれ。本名は広太郎。明治45年に京都市立美術工芸学校に入学、大正6(1917)年同校卒業後、京都市立絵画専門学校に進学。当時、一学年上には前田荻邨や山口華楊、一学年下には堂本印象ら京都画壇の中心画家達が在籍していた。
  • 在学中の大正8年、第2回国画創作協会展に出品した《猫》が初入選して画壇の注目を集める。卒業後の大正11年には福村祥雲堂が主宰する「九名会」のメンバーに選ばれ、同会展にも出品。しかし同年、腸疾患のため25歳の若さで夭折した。
  • 京都市立絵画専門学校在学中に第2回国画創作協会展へ出品した《猫》で画壇の注目を浴び、克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として将来を期待されながら、25歳の若さで亡くなった稲垣仲静。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    稲垣仲静 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]

    (2010.12.17掲載)




▲克明な自然描写の中に官能性や凄みを表現する画家として将来を期待されながら、25歳の若さで亡くなった稲垣仲静。


▲「猫」

 


25年1ヶ月と15日の生涯

村上恵梨
Eri Murakami  【グラビアアイドル/タレント】

(1982.05.23〜2007.07.08 AM2:00)
盲腸低分化腺癌---双子座---B型

  • 愛知出身。1メートル69、B87W59H85の抜群のスタイル。
  • 2003年(平成15年)にサッポロビールのキャンペーンガールに抜擢。2004〜05年(平成16、17年)に2年連続でユニチカのマスコットガールに起用された。
  • 平成16年には芸能人女子フットサルチーム「HbG」に所属していた。2007年7月8日、死去。25歳。
  • 関係者によると、昨年11月に腹部に痛みが発症。年が明けても治まらなかったため実家のある愛知県内の病院で検査を受けたところ、がんと判明。腫瘍を摘出したが、すでに肺などに転移していた。
  • グラビアタレント、村上恵梨さんが8日午前2時、のため愛知県内の病院で死去していたことが12日、分かった。26歳の若さだった。所属事務所の公式ホームページで発表された。
  • 所属:セントラルジャパン
    特技:書道  趣味:読書  スポーツ:テニス・水泳
    興味のあること:哲学
  • 「たま様、おはようございます。ショッキングな出来事ですが、こちらおよびこちらから、2004・2005年ユニチカマスコットガールに選ばれた村上恵梨さん(1982年5月23日〜2007年7月8日、盲腸低分化腺癌)が亡くなられました。ほとんど毎日の作業で大変ですが、リクエストをお願いいたします。村上恵梨さん死去ですが、同じグラビアタレントだった堀江しのぶさん(023)、砲丸投げの選手で同じような病気で亡くなった森千夏さん(026)が私にはダブってしまいます」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    村上恵梨とは - はてなダイアリー
    (1)投稿者:MA-CHAさん..2007/ 7/14 04:03:26(土) [1985]

    (2007.07.15掲載)




▲2004〜05年(平成16、17年)に2年連続でユニチカのマスコットガールに起用された村上恵梨。

 


25年2ヶ月21日の生涯

岩田ゆり
Yuri Iwata   【雑誌「ViVi」の元モデル】

(1981.06.12〜2006.09.02 AM0:18)
脳内出血---双子座---血液型 O型

  • 千葉県出身。本名同じ。ナオプロジェクトに所属していた。
  • 1999年から女性ファッション雑誌『ViVi』(講談社)のレギュラーモデルとして活躍。2001年10月から1年間、TBSの深夜番組「ワンダフル」で第5期ワンギャルも務めた。
  • 東京ガールズコレクション(第1回、第2回)にモデル出演。芸能人女子フットサルチーム「chakuchaku J.b」の主将としても活躍。
  • 昨年8月の大会では、強豪ハロー!プロジェクトのチームを下し、優勝した。2005年に退団。
  • ガルシア・マルケスから生まれた彼女自身のブランド「HbG」を立ち上げ、ファッションディレクターとしても活動。ラスベガスへは、ブランドのプロモーションのために訪れていた。
  • 滞在先の米ラスベガスで2日午後0時18分(日本時間)、脳内出血のため死去したことが3日までに分かった。25歳だった。
  • 岩田さんが生前出演していたファッションイベント「東京ガールズコレクション」が3日、発表した。
  • 公称サイズ(2005年時点):身長:169 cm、体重:45 kg
    スリーサイズ:B78 W58 H83、足のサイズ:24.5 cm
    特技:英会話/趣味 音楽鑑賞、絵を描くこと
  • 「岩田ゆりさんについての補足ですが、芸能人女子フットサルチーム「CHOOP(シュープ。現chakuchaku J.b)」(http://ja.wikipedia.org/wiki/Chakuchaku_J.b)のキャプテンもつとめておられました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岩田ゆり-Wikipedia
    (1)投稿者:MA-CHAさん 2006/ 9/10 09:30:14(日) [237]

    (2006.09.11掲載)





▲1999年から女性ファッション雑誌『ViVi』(講談社)のレギュラーモデルとして活躍した女性タレント・岩田ゆり。


25年3ヶ月と3日の生涯

ロコ・スコット・ラファロ
Rocco Scott LaFaro   【ベストの若手ベーシスト】

(1936.04.03〜1961.07.06)
交通事故---牡羊座

  • ニュージャージー州のニューアーク市に生まれ、音楽家の一家に生まれ育った(父親は色々なビッグバンドに所属し演奏していた)。
  • 小学校の時にピアノをはじめ、その後中学校でクラリネット、高校に入りテナーサックスを始めた。彼がダブルベースを手にしたのは大学に入る前の夏のこと、大学の音楽科で弦楽器が必修だったため。
  • 大学に入り約3ヶ月後にはベースに専念することを決意。音楽を勉強するために大学に入ったが、2年目にバディー・モロー率いるビッグバンドに加わるために中退。その後、自分の運をロサンジェルスのミュージックシーンで試すため、クロス・カントリー・ツアーを終えた後ビッグバンドを去る。その後すぐ、仕事を見つけることができ、若手ベーシストの中でもベストの一人と知られるようになった。
  • その後チェット・ベイカー(Chet Baker)、パーシー・ヒース(Percy Heath)、ヴィクター・フェルドマン(Victor Feldman)、スタン・ケントン(Stan Kenton)、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)など色々な有名ジャズミュージシャンと共演した後、ビル・エヴァンスと共になる。
  • その時ビル・エヴァンスはマイルス・デイヴィス・セクステットをから脱退したばかりであった。2人はもう一人、ポール・モチアン(ドラム)を加えてトリオを結成。オーネット・コールマンもこの頃彼を使ったことがある。
  • 1961年の夏、フリント、ニューヨーク州ジェ二ヴァあたりで交通事故で死去。スタン・ゲッツ(Stan Getz)とニューポートジャズ・フェスティバルで演奏を終えた二日後のことであった。
  • 彼のキャリアはたったの6年で幕を閉じた(1955-1961)が、彼の革新的なアプローチは今までのジャズベースの演奏を再定義させ、多くの同世代、その後のベーシストに影響をあたえた。
  • 「1957年5月20日、父ジョセフ他界、享年51。葬儀の直後、彼は姉にこう語ったと言う。「ぼくは25歳で死ぬような気がするんだ」そして、運命の7月6日、木曜日、午前1時45分、ジニーヴァの西7マイルにて大木に激突。それから4年後の1965年2月28日、パリでサインを求められたエヴァンスは、未だ喪失感が癒えぬのか、此の様に記したと言うHope to see you in Geneva soon.」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    スコット・ラファロ-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori-Tungさん 2007/ 1/18 19:45:08(木) [871]

    (2007.01.19更新)




▲20世紀のジャズ・シーンにおいて重要な役割を果たしたジャズベーシスト、ロコ・スコット・ラファロ。

25年3ヶ月と6日の生涯

オグリキャップ
Oguri Cap        【「平成三強」の一頭】

(1985.03.27〜 2010.07.03)
安楽死---牡羊座

  • 1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など。
  • 多くファンから人気を博し、競馬ブームを支えたアイドルホースで「オグリ」「芦毛の怪物」などの愛称で呼ばれたオグリキャップ(牡25歳)が3日、余生を送っていた北海道・優駿スタリオンステーションで、脚部を骨折して死亡した。
  • オグリキャップは1987年に地方・笠松競馬でデビュー。12戦10勝と圧倒的な成績を残し、1988年に中央競馬(JRA)に移籍した。中央競馬では引退レースとなった1990年の有馬記念を含む重賞12勝(うちGI4勝)という偉大な記録を残した。通算成績は地方、中央を含め32戦22勝。
  • 競走馬の引退後は種牡馬となったが、中央競馬での重賞勝ち馬を出すことはできなかった。主な活躍馬にクイーンS2着のアラマサキャップや小倉3歳S2着のオグリワンがいる。地方競馬ではアンドレアシェニエ(牡9歳、現役)が14勝を挙げている。2007年に種牡馬を引退し、余生を過ごしていた。
  • オグリキャップは父ダンシングキャップ、母ホワイトナルビー、母の父シルバーシャークという血統。笠松時代は鷲見昌勇厩舎、中央時代は瀬戸口勉厩舎に所属。1988年にJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年にはJRA最優秀5歳以上牡馬および、年度代表馬になった。
    その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。32戦22勝(地方競馬時代含む)の成績を残して競走馬を引退した後は種牡馬となったが、中央競馬の重賞優勝馬を輩出することはできず、2007年に種牡馬を引退した。
  • 2010年7月3日、脚部を骨折したため安楽死の措置が執られた。25歳だった。
  • オグリキャップの母のホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。
  • 1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した。
  • なお、オグリキャップは仔分けの馬(具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の所有権を半分ずつ持つ取り決めがなされていた)で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。
  • オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向(脚が外側を向いていること)しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。
  • ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋頃には他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前に他の馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。
  • 1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場に移り、3ヶ月間馴致が施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。
  • 当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている。また、ハツラツは育成牧場にいた馬の中では3,4番手の地位にあり、他の馬とけんかをすることはなかったという。食欲については稲葉牧場にいた頃と同じく旺盛で、その点にひかれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    オグリキャップ- Wikipedia
    新聞各紙訃報欄

    (2010.07.07掲載)

★「芦毛の怪物」

▲第二次競馬ブーム期にハイセイコー以来といわれる高い人気を得た競走馬オグリキャップ 。


▲笠松競馬場正門横に立つオグリキャップ像。(2006年8月16日、笠松競馬場にて)


▲2008年11月9日 東京競馬場での一般公開にて


▲1989年 マイルチャンピオンシップ優勝時(内側白帽)

25年3ヶ月と13日の生涯

ランディ・ローズ
Randall William Rhoads   【永遠のギターヒーロー】

(1956.12.06〜1982.03.19)
飛行機事故---射手座

  • サンタモニカで生まれる。まだハイスクールの時にクワイエット・ライオットを結成。LAで評判になり、日本においても注目を浴びた時期もあったが、残念ながら全米での評価を得るまでには至らなかった。
  • そんな彼に転機が訪れたのはオジー・オズボーンとの出会いであった。オーディションで小さなアンプを抱えてやって来たランディをオジーは一発で採用!。
  • バン ドのメンバーとして「血塗られた英雄伝説」(25歳)、「ダイアリー・オブ・ア・マッドマン」(26歳)と2枚のアルバムを残した彼は、当時ヴァン・ヘイレン をと並び称されるほどの評価を得ている。
  • そんな彼に突然の悲劇が訪れたのは83年3月19日、ランディとバンドのメイクアップ・アーティストを乗せた小型飛行機が墜落、操縦士を含む3人が命を落とす事故となった。
  • 彼は今も多くのキッズにとって永遠のギターヒーローであり続けている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

    (2003.08.05掲載)




▲永遠のギターヒーロー:ランディ・ローズ 。

25年3ヶ月と23日の生涯

ジョン・キーツ
John Keats   【ロマン主義の夭折詩人】

(1795.10.31〜1821.02.23)
結核---蠍座

  • ロンドンのモーゲートにて馬丁の長男として生まれる。人生の初めの7年は幸せであったが、1804年、父を落馬事故による頭部骨折で亡くしたのが困難の始まりであった。
  • 母はまもなく再婚したが、再婚相手とはすぐに別れ、子供たちをつれてキーツの祖母と同居するようになる。1810年、母は結核で死去。祖母の計らいで外科助手として奉公に出される。
  • 1814年まで奉公を続けたが、親方との激しいやり取りの後、奉公を終えて地方病院の学生となることができた。このころ、詩作に傾倒しはじめる。
  • 1817年の春、ジョンはワイト島へ1週間ほどの旅行に出かけた。同年、処女詩集『詩集』( Poems by John Keats )を出版。
  • 1818年、スコットランドを旅行した時にファニー・ブーロン( Fanny Brawne )と知り合い翌年婚約を交わす。同年、彼は4巻4千行にも及ぶ寓意叙事詩『エンディミオン』( Endymion )を出版したが、評論誌、雑誌から激しく批判される。気落ちした彼は、スコットランドとアイルランドへ旅行に出かけ、ブリテン島最高峰のベン・ネヴィス山頂に立った。このときの体験は彼を精神的に成長させたといわれている。
  • 旅行中、ジョン自身も結核の兆候を示したので、旅行を短縮して帰郷した。弟トム・キーツは1818年に彼の母と同じように結核により死去。
  • キーツはミルトン風無韻詩による哲学的叙情詩『ハイぺリオン』( Hyperion )を書き出すが、未完に終わる。これをスタイルを変え改稿し『ハイぺリオンの没落』( The Fall of Hyperion )として新たに書き始めたが、こちらも未完に終わる。
  • ジョンの病状も悪化し、医者の勧めでイギリスの冷たい空気をさけ、イタリアで療養することになった。イタリアでの住まいはローマのスペイン広場の近くであった。
  • 1819年には、『秋に寄せて』( To Autumn )、『ギリシャの古壺のオード』( Ode on a Grecian Urn )などの代表的オード( Ode )が次々と発表された。病状は好転せず、彼はファニーとの結婚を諦める。
  • 友人たちの手厚い看護もむなしく、ジョンは1821年2月23日、25歳の若さで死去。ローマの新教徒墓地に葬られる。彼の遺言により、墓石には"Here lies one whose name was writ in water."「その名を水に書かれし者ここに眠る」と彫られている。
  • 「キーツはニュートンが太陽光をプリズムで7色に分解した実験を非難し、虹の美しさを破壊したとけなしている」(1)。
  • 「キーツの墓碑銘について:写真で見るキーツの墓石は、上部にギリシャの竪琴を描き、その弦の半分ほどが切れている。大望半ばにして命果てた若い詩人を象徴させているのでしょう。そして、墓碑銘とは、故人の意思でなく、友人の意思によって書かれるもの、という当時の考えに従って、下のような碑文が書いてあります。〈この墓は/英国の若き詩人の/全亡骸を収む/彼は/敵共の悪意の力に/心を痛め/死の床の中で/次の言葉を墓石に/刻むことを希望す/「その名を水上に/とどめしもの/ここに眠る〉※水上にとどめる(書かれる)とは「すぐに消える」という意味。(参考文献:岡地嶺著「英国墓碑銘文学序説」)」(2)。
  • 「キーツの最後の言葉をお供えします。ひとりの友人に〈セヴァーン・・・ぼくのからだを起こしてくれ、ぼくは・・・死ぬんだから。ぼくは、ぞうさもなく死ぬよ。驚いたりしないでくれ! ありがたい! 死がやってきたよ〉クロード・アヴリーヌ著「人間最後の言葉」より」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョン・キーツ-Wikipedia
    (1)読売新聞2006.10.02夕刊「佐倉統のサイエンスサラダ」より抜粋。
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/10/ 6 20:32:52(金) [347]
    (3)投稿者:ユリウスさん ..2007/11/30 23:59:46(金) [2585] 」

    (2009.09.01更新)

 


▲イギリスのロマン派のロマン主義の詩人・ジョン・キーツ。
(イラスト 大城さん)

 

キーツ語録

◆「何事も経験してみるまでわからない。諺も、人生で経験してみるまでは諺にならない。」

◆「知性を高める唯一の方法は、どんなことについても断定しないこと、すなわち自分の精神をあらゆる思想に対して広く開けておくことである。」

25年4ヶ月ジャストの生涯

森田 必勝
Masakatsu Morita   【烈士と呼ばれる男】

(1945.07.25〜1970.11.25)
切腹---獅子座

  • 三重県四日市市出身。三歳のときに相次いで両親を亡くす。海星中学、海星高校を卒業。当時の建設相河野一郎にあこがれて政治家を志す。早稲田大学政治経済学部を受験するも不合格。その後二年間の浪人期間を経て1966年早稲田大学教育学部入学。
  • 当時の同学部においては珍しい二浪の新入生のためクラス委員に推挙される。空手部入部。この年、東京都豊島区にある育誠社という出版社から月刊誌「論争ジャーナル」が出版される。林房雄の紹介で同雑誌の副編集長である万代潔に出逢った作家三島由紀夫は彼を気に入り、同雑誌と強い関係を結ぶ。
  • 同年11月14日、“左翼に牛耳られた早稲田の正常化を目指す”と標榜する民族派学生組織「早稲田学生連盟」(のちの日本学生同盟)の結成に参加。1967年、早稲田大学国防部の結成に参加。このころ三島由紀夫が祖国防衛隊の構想を持っていることが日学同のメンバーに伝わる。森田の感想は「世界的に著名な作家が私兵軍団を作るなんてヘミングウェイみたいだね」
  • 三島との出会いは、同年6月19日銀座の喫茶店「ビクトリア」で行われた三島と早大国防部との会見においてだと言われるが、詳細は不明。『禁色』の美青年南悠一のモデルとなった実在の男性(戦後の一時期、三島と同性愛関係にあった)と森田が瓜二つだったという証言もある(木村徳三『文芸編集者 その跫音』TBSブリタニカ、1982年)。
  • 同年7月2日から一週間にわたって、三島と共に陸上自衛隊北恵庭駐屯地へ体験入隊。戦車に試乗。「論争ジャーナル」のメンバーも体験入隊への随行を希望したと言われる。三島、日学同、「論争ジャーナル」の三者関係が徐々にできあがる。しかし三島の「祖国防衛隊」構想を巡って、これに賛成する「論争ジャーナル」と反対の立場を取る日学同との間に亀裂が生じる。
  • 直接行動、テロリズムへの憧れをもっていた森田を始めとする日学同内のメンバーは、三島と「論争ジャーナル」への接近を深める。
  • 1968年10月5日、三島は民兵組織を正式に結成。万葉集防人歌「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は」より「楯の会」と名づける。
  • 1969年2月森田日学同を脱退。脱退メンバーは十二社にあるアパートで共同生活をしていたため「十二社グループ」と呼ばれた。テロルも辞さない集団。同年9月、楯の会の学生長に任命される。1970年6月三島、決起の具体案を森田、小賀正義、明治学院大学の小川正洋に話す。同年9月、神奈川大学の古賀浩靖が計画に参加。
  • そして同年11月25日自衛隊市ヶ谷駐屯地へ。益田・東部方面総監を人質にとり、集合した自衛隊員を見下ろす形でバルコニー上から三島演説。決起を迫るが果たせず、三島切腹(三島事件)。
  • 森田が介錯するも果たせず、剣道居合の経験者であった古賀が介錯。続いて森田が切腹。同じく古賀が介錯。森田の辞世の句「今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは」25歳4ヶ月の生涯だった。
  • 本人は名の「必勝」を「ひっしょう」と呼ぶのを好んでいたという。地元三重県四日市市に銅像がある。 なお実兄の森田治は教諭となり、後に三重県議会議員を務めた。
  • ボクの青春時代を顧みるとき、三島よりも森田に感情移入してしまう自分がいる。森田必勝と森田童子?!。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    森田必勝-Wikipedia
    壮絶な自決から36年…憂国の烈士・森田必勝を讃える 東アジア黙示録 ...

    (2009.07.18更新)

 


▲三島切腹(三島事件)の介錯するも二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた森田 必勝。
(イラスト 大城さん)


◆三島由紀夫

25年6ヶ月ジャストの生涯

北村透谷
Toukoku Kitamura   【日本近代詩の始祖的存在】

(1868.11.16〜1894.05.16)
自宅の庭にて自殺---蠍座

  • 明治期の詩人、評論家。本名門太郎。神奈川県小田原の旧藩医の家の生れ。
  • 1881年(13歳)上京、透谷は泰明小学校に転入学。翌十五年卒業式にて「空気および水の組成」と題して演説。
    『「明治日報」のごときはその雑報欄に、北村門太郎の演説の傾聴に値するところ、まさに奇童というべし、と褒めそやした。天才の風貌はすでにこの時十分に伺えたのであろう』(舟橋聖一「北村透谷」)。
  • 小学校卒業後私塾数カ所を経て、1883年(15歳)東京専門学校(早稲田大学)に入学。このころから三多摩自由民権運動に参加、大矢正夫、石坂公歴らと交わったが、1885年(17歳)大阪事件を機に離脱。その挫折感と深い懊悩が近代思想家としての透谷を形成。
  • 1887年(19歳)キリスト教に入信、1888年(20歳)石坂美那と結婚、1889年(21歳)には日本最初の自由律長詩『楚囚之詩』を発表。日本近代詩の始祖的存在として知られる。
  • 1891年(23歳)の劇詩『蓬莱曲』ではキリスト教的世界観からインド仏教的世界観への屈折がみられる。
  • 1892年(24歳)ごろから多くの評論をあらわして、当時の社会にはびこっていた封建的な習慣や思想をはげしく攻撃。評論には『内部生命論』『厭世詩家と女性』などがある。
  • 1893年(25歳)、島崎藤村らと雑誌『文学界』を出して浪漫主義の文学運動をおし進め指導者となった。
  • 自由民権運動、キリスト教にも深く関わり、文学・政治・恋愛においてもそのはげしいロマンティシズムとともに生きたといわれている。
  • また雑誌『平和』を編集して平和運動の指導者として足跡も残したが、1894年、理想と現実のくいちがいに絶望し、東京・芝公園内の自宅の庭にて縊死。
  • 「透谷は明治元年、藤村は明治5年生まれであり、透谷は藤村に深い影響を与えた文学上の先達であった。---透谷は藤村と出会わなくとも透谷でありえたが、藤村はその若き日に透谷と出会わなければ、藤村になり得なかったのである。藤村はそれをよく知っていた。---大正10年の「北村透谷二十七回忌に」の中に「その惨憺とした戦ひの跡には拾っても尽きないやうな光つた形見が残った。彼は私達と同時代にあって、最も高く見、遠くを見た人の一人だ」と書いている」(1)。
  • 中村光夫は、近代日本には二人の批評家しかいなかった、それは北村透谷と小林秀雄だと言った。二人は、反自然主義であること、また「同時代にあって、最も高く見、遠くを見た人」であることが共通している」(2)。
  • 友人の中分さんからから透谷の自殺についてメールを頂いた。「自殺という点では北村透谷の自殺も印象的です。受験勉強のために読んだ評論の中で、透谷の自殺は時代の屈折を先取りしたものだ、という説を展開していた人がいました。(小林秀雄か福田恒在)」。
  • 透谷は言った「文学は人間と無限を研究する一種の事業なり」---しからば「人セム」も文学なり。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)読売新聞2006.03.14夕刊「文化」より抜粋。

    (2006.03.22更新)

 


▲ 時代の屈折を先取りし自殺した北村透谷。

透谷語録

◆「文学は人間と無限を研究する一種の事業なり」

◆「つらつらと人間の一生を見るに、罪というよりも、罪という事を自ら知らざるものほど大なる罪人はあらじと、思わるるなり。おのれあくまでも清しと思い、おのれ何処までも善人なりと信ずるものほどに罪多きものはなかるべし」

25年6ヶ月ジャストの生涯

SACHIKO(平沢幸子)
Sachiko Hirasawa   【DOUBLEの姉】

(1973.11.21〜1999.05.21)
くも膜下出血---蠍座---血液型B

  • 人気姉妹デュオDOUBLE(ダブル)の姉SACHIKO(さちこ)本名平沢幸子。新潟県生まれ。妹のTAKAKOとコンビを組み、地元の新潟のクラブで歌手活動を開始。
  • 1997年(平成9年)10月、米軍横田基地のクラブで日本人としては27年ぶりにレギュラーライブを行う。
  • 1998年2月、フォーライフからメジャーデビュー。今まで「BED」「Shake」など4枚のシングルをリリース。今年3月から全国8都市でクラブツアーを行っていた。
  • DOUBLEはR&B(リズムアンドブルース)を歌い、若者たちが集まるクラブで熱烈な支持を得ていた。
  • 妹のTAKAKO(23)は「姉の遺志を継ぎたい」と活動を続ける意向だ。所轄の東京・世田谷署では事件性はないとしている。
  • 「クラブ音楽で宇多田ヒカルに次ぐ人気となっていたDOUBLEのSACHIKOさんが急死した。関係者によると、SACHIKOさんは22日に故郷の新潟でライブを行う予定だった。前日にSACHIKOさんと連絡が取れなくなったため、不審に思った関係者が都内の自宅を訪れたところ、亡くなっているのが発見された。解剖の結果、事件性はなく死因はくも膜下出血による突然死だった。妹のTAKAKOはかなり混乱しておりコメントができる状態ではないという。22日のコンサートは中止し、近親者だけで通夜、葬儀を済ませた。所属レコード会社フォーライフの後藤由多加社長は「日本人離れしたハーモニーは彼女たちの大きな魅力で渋谷のDJ、高校生に着実に支持を集めてきた。その矢先だけに残念でなりません」と話した。TAKAKOは「姉の遺志を継ぎたい」と話しており、DOUBLEは何らかの形で継続していくという」(1)。
  • 「DOUBLEのSACHIKOに関して:こんにちは、一年に何度か、ふいに訪れてはしみじみと思いに耽らせていただいております。ところで、こちらのSACHIKOさんの写真ですが、(姉妹で写っているアルバムのジャケットです)明記が間違っております。左は妹のTAKAKOさん、右が姉のSACHIKOさんです。気になったので訂正希望させていただきます」(2)。
  • ---匿名さん、ご指摘だんだん。お詫びして、訂正させていただきました。
  • ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「日刊スポーツ・訃報・SACHIKOさん
    (2)投稿者:匿名 さん..2010/ 8/19 17:45:22(木) [8073]

    (2010.08.20更新)




▲R&B(リズムアンドブルース)を歌い、若者たちが集まるクラブで熱烈な支持を得ていた日本一の美人姉妹デュオ、DOUBLE!。
(写真右:左は妹のTAKAKOさん、右が姉のSACHIKOさん)

25年6ヶ月と13日の生涯

橋本左内
Sanai Hashimoto   【幕末の先覚者/開明的な開国論者】

(1834.04.19〜1859.11.01)
安政の大獄で斬罪---牡羊座

  • 幕末の越前福井藩の志士。号は景岳(けいがく)。福井市常盤町で生まれる。藩医橋本長綱の長子。字は伯綱、号は藜園,桜花晴暉樓,景岳は宋の忠臣岳飛を景慕するによる。変名桃井伊織。
  • 幼いときから学問を好み、わずか十才で漢文の「三国志」を読破したという。十二歳の時には宋の武将・岳飛にあこがれ「景岳」と名乗る。
    1848年(嘉永元)、15歳で藩儒吉田東篁につき才学抜群、『啓発録』を著し政治への関心を示すとともに、自己の生き方を明らかにする。
  • 翌年十六歳の時、大阪に出て適塾の医者の緒方洪庵・杉田成卿に師事し蘭方医学に学ぶ。梅田雲浜、横井小楠らと交際した。
    帰国後は藩医として父の跡を継いだが学問への思いは熱く、
  • 1854年〜1855年、江戸に遊学し大いに学び、杉田成卿らに就く。江戸では水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠などとも国事を語る。実学を尊重し洋書習学所も設立、儒教道徳を根幹に封建支配補強のため人材育成をはかった。
  • その才能卓説を嘱望されて御書院番となり、1857年、藩校明道館学監として学制改革に尽力。彼の目指す教育は、日本古来の精神を基本としながらも、科学教育を重んじ、外国の優れた思想や文化を幅広く取り入れ、日本を近代化することを目指したもので、洋書習学所や算科局などを新設したほか、総武芸稽古所を館内に併設し、和魂洋才の学風を確立。幕藩体制の再建強化と親露反英・親米の開国論をもって諸方に運動。
  • 1857年藩政改革に由利公正らと腕を振るった。雄藩連合による統一国家の構想をもつ。安政の将軍継嗣問題では三条、鷹司、近衛、青蓮院宮などに出入し春嶽を助け、徳川慶喜擁立に奔走。
  • 幕政改革を経て西欧の先進技術の導入、日本とロシアの提携の必要性を説くなどグローバルな視点を持っていた。先見の明があり注目されたが、攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。
  • 安政6年(1859年)、春嶽が隠居謹慎処分に命ぜられた後、安政の将軍継嗣問題で一橋派を押したとういう理由で、南紀派の大老である井伊直弼が発令した安政の大獄で捕らえられ、運動は破れて藩主慶永は謹慎、左内も入牢、翌年死刑。《橋本景岳全集》がある。
  • 開明的な開国論者としても知られる。
  • ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    橋本左内
    橋本左内
    藤高偉人伝〜藩校明道館〜

    (2007.06.16更新)




▲藩政改革に由利公正らと腕を振るい、雄藩連合による統一国家の構想をもっていた橋本左内。



 

左内語録

◆「器機芸術は彼に取り、仁義忠孝は我に存す」

25年6ヶ月と23日の生涯

オーブリー・ビアズリー
Aubrey ・V・Beardsley 【アール・ヌーボーの挿絵画家】

(1872.08.21〜1898.03.16)
肺結核---獅子座

  • 英国の挿絵画家。ブライトンのバッキンガム通りにある母方の祖父ウィリアム・ピット軍医少佐邸で生まれる。一つ上に、姉のメイベルがいた。
  • 絵画を独学し、1892年6月大伯母の遺産で、初めてパリに行く。秋、デント社から「アーサー王の死」の挿絵を依頼される。美術学校も会社もやめ、画業一筋に生きる決心をする。
    1893年2月 「ベル・メル・パジェット」誌上に作品掲載始まる。「ステュディオ」 誌第1号にJ・ペネルのビアズリー礼賛の一文「新進の挿絵画家―オーブリー・ビアズリー」が掲載される。文中に、フランス語版ワイルドの「サロメ」のための挿絵「ヨカナーンの首に口づけするサロメ」や「マダム・シーガルの誕生日」など五点が印刷され、ビアズリーを世にだすきっかけになる。
  • ラファエル前派や日本の浮世絵などの影響を受け、感受性豊かな装飾的様式を確立。
  • 『イェロー・ブック』『サボイ』などの雑誌やトマス・マロリーの『アーサー王の死』(21歳)、ワイルドの『サロメ』(22歳)、アレグザンダー・ポープの『髪の毛盗み』(24歳)に挿絵を描く。
  • ビアズリーの挿絵は、デカダンスの魅力に溢れ、アール・ヌーボーの挿絵芸術の頂点をなしている。
  • ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    サロメ  オスカー・ワイルド 岩波文庫
    中世騎士物語  トマス・ブルフィンチ 角川文庫
    The early work of Aubrey Bearksley  DOVER PUBLICATIONS,INC,NEW YORK
    ビアズリーと世紀末     河村錠一郎 青土社

    (2007.06.05更新)




▲ アール・ヌーボーの挿絵芸術の頂点をなすオーブリー・ビアズリー。


◆わずか25歳で逝ったイギリス世紀末の異端の天才画家ビアズリーの伝記。

25年7ヶ月と3日の生涯

チャーリー・クリスチャン
Charlie Christian     【不世出のギタリスト】

(1916.07.29〜1942.03.02)
結核に肺炎を併発---獅子座

  • テキサス州ダラス生まれ。父はトランペッター、母はピアニスト、兄弟もみなミュージシャンという音楽的に恵まれた環境の中で幼年時代を過ごす。
  • 1921年に一家はオクラホマに移住。幼少時代をオクラホマで過ごし、父母がミュージシャンであったことから自らも楽器をたしなむようになる。その頃からトランペットを始めるが、同じ頃ギターへ転向していた父の影響でギターとベースを弾き始める。“モダン・ブルースの父”となるT・ボーン・ウォーカーと当時交遊があった。
  • その後、兄弟で作ったグループでローカル・クラブに出演するようになり、レスター・ヤングともセッションをした。
  • 1935年頃からエレクトリック・ギターを手にし、1937年にはエディ・ダーハムから直接、扱い方の手ほどきも受けた。
  • 1938年にはアルフォゾ・トレントやジター・ピラーズの楽団で活躍。中西部では“独創的なエレクトリック・ギター・プレイヤー”として名声が高まり、テディ・ウィルソンやメアリー・ルー・ウィリアムスなどから注目された。
  • メアリー・オズボーンがこの当時のクリスチャンを目撃し、後にこう語っている。「彼は既にトランペット、サックスに次ぐ第3のホーンとしてのギター奏法を確立し、あたかもテナー・サックスのようにギターを響かせていた」と。
  • 彼の独創的なプレイの噂は遂に、大物プロデューサーであったジョン・ハモンドの耳に届き、1939年に彼の引きでベニー・グッドマン楽団に参加。初顔合わせの時、グッドマンと延々45分のバトルを繰り広げたエピソードは有名だ。
  • ここで脚光を浴びたクリスチャンは、ニューヨークのクラブで夜な夜なセッションを繰り広げ、ビ・バップの誕生に立ち会うことになる。
  • 1942年に他界してしまったためライオネル・ハンプトン、アイダ・コックス、エドモンド・ホールなどとのレコーディングを除くと、活躍の場はほぼグッドマン楽団に限られてしまう。
    しかし1940年頃からは、ニューヨークのハーレムに開店したミントンハウスにも積極的に出入りし、セロニアス・モンク、ケニー・クラークらと、後にビ・バップと呼ばれる事になる新しいジャズを模索。
  • わずか24歳(25歳?)で早逝してしまうが、ジャズ界に革命を起こした不世出のギタリスト。それまで単にリズムを刻むだけであったギターを、メロディ楽器として成立させた功績は余りにも大きい。
  • ホーン・プレイヤーからの影響を昇華したシングル・トーンのギター・ソロは今聴いても斬新であり、モダン・ジャズ・ギターはクリスチャン1人で完結してしまったといっても過言ではない。
  • また、ジャンプ・ブルースやロックンロールに与えた影響も見逃せない。
  • 「こうしてベニー・グッドマン楽団で一躍有名になったクリスチャンですが、しかし彼の才能はスイング・ジャズよりもはるかに進んだところを歩んでいました。彼は仕事が終わると、ジャズ・クラブ“ミントンズ・プレイ・ハウス”に出かけてゆき、ピアノのセロニアス・モンクやドラムのケニー・クラークらと夜な夜なジャム・セッションに興じました。彼らがそのジャム・セッションから生み出した新しいジャズは“ビバップ”と呼ばれ、のちのモダン・ジャズの礎となったのです。しかし当のクリスチャンは過度の飲酒と麻薬癖がたたり、自らが生み出したビバップの隆盛を見ることもなく、1942年3月2日、わずか 25歳の若さで世を去ったのでした」(1)。
  • 「ジャズ史においてギターがどのように絡んできたのかと考えてみれば、エレキ・ギターの発明が大きく関わっていることに注目できる。これは音楽全般に渡って言えることだ。それまでは当然生音しか出すことができず、マイクロフォンで拡声したとしても、それなりのPAシステムが必要となり、ギターはいつまでたっても陰役を演じる羽目になる。そんなことから、ビックバンドにおいてもギターの音はかき消されてしまい、ギターは必要なかったのだ。しかし、エレキ・ギターが発明されてからは事情が変わってくる。当時のジャズ演奏は、規則正しく刻まれる四度進行のコードも、同じコード楽器であるピアノとバッティングしないように予め打ち合わせが必要で、目立たないようにハイテンション(一弦側)は弾くことを控え、またベースともカチ合わないコードフォームをキープし続けなければならない。これは現在でもジャズ演奏の基礎であり、クリスチャンが編み出していった奏法である。(余談ではあるが、ザ・ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは、昔一弦は必要ないといって最初から一弦を張っていないギターで演奏していた。)更に、音が大きくなったことから、ソロ演奏も可能となり、ジャズの音色が大きく変わっていくことになる。その後、ブルース界ではマディー・ウォーターズがエレキ・ギターを最初に取り入れ、シカゴ・ブルースが確立し、ザ・ローリング・ストーンズも生まれることになる。チャリー・クリスチャンは音楽史において、これらの先駆けとして後生に影響を与え続けている」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    チャーリー・クリスチャン - goo 音楽
    チャーリー・クリスチャン Charlie Christian
    (1)「おんがく日めくり | YAMAHA
    (2)投稿者:水のさん 2007/ 1/27 10:29:34(土) [916]

    (2007.01.27更新)

 


▲わずか25歳(24歳?)で早逝してしまうが、ジャズ界に革命を起こした不世出のギタリスト。チャーリー・クリスチャン。



25年7ヶ月と27日の生涯

クリフォード・ブラウン
Clifford Brown    【不出世の天才トランペッター】

(1930.10.30〜 1956.06.26)
交通事故---蠍座 

  • ハード・バップ期初期の卓越したプレイヤーであり、ドラマーのマックス・ローチとのバンド活動は高く評価された。
  • 1956年6月26日、リッチー・パウエル(バド・パウエルの弟)の妻、ナンシーの運転する車にリッチーと共に便乗してフィラデルフィアからシカゴに向かう途中、ペンシルヴァニア・ターンパイクで交通事故死。事故当夜は雨が降っており、ナンシーを含めて3人全員がこの事故で亡くなった。
  • 半年前に子どもが生まれたばかりだった。
  • 代表作に「スタディ・イン・ブラウン」「ブラウン=ローチ・イン・コンサート」などがある。
  • サックス奏者のベニー・ゴルソンは、1957年、ブラウンを追悼してバラード「アイ・リメンバー・クリフォード」を作曲した。この曲はジョン・ヘンドリックスによって追悼の歌詞を与えられ、ジャズ・スタンダードとなった。
  • 「1956年6月26日早朝、Pennsylvania 州で1つの交通事故が起こった。雨上がりの Pennsylvania Turnpike(*1) を走っていた1台の自動車が運転を誤り、脇 の土手に激突したのである。車は大破し、乗っていた3人は全員死亡した。Bud Powel の実弟 Richie とその妻、そして Clifford Brown の3人は、その前夜 Philadelphia で行われた地元ミュージッシャンとのジャムセッションのあと Chicago に行き Max Roach と落ち合う予定を立てていた。55年に Charlie Parker を失ったジャズ界は、またしても歴史に残る天才トランペッターを、そ れも25歳の若さで失うのである。(*1)(有料)高速道路: 語源は、植民地時代の米国で道路所有者が pike (遮断棒 )で道をふさぎ,料金を払った人にそれを turn させて通したことから 」(1)。
  • 「マイルス・デイビスがジャス、トランペット奏者の大御所ならば、若くして夭逝したクリフォード・ブラウンは美しいメロディラインのみならず即興パートでも香りに満ちた宝石のようなアーティストです。常に演奏に「歌」があったトランペッター---」(2)。
  • 「ディジー・ガレスビー、チャーリー・パーカーによって見出されたトランペット奏者クリフォード・ブラウンは、数々のバンドやクインテットに参加。そして、ドラマーとして活躍していたマックス・ローチと共に、ブラウン=ローチ・クインテットを結成する。これが本当にアドリブなのか? と疑いたくなるほどメロディアスなブラウンのプレイと、それに呼応するフレキシヴルなローチのドラミング――彼らが織り成すサウンドは高い完成度を誇り、他の追随を許さなかった。ブラウンが4年という短い活動期間でみせたパワフルかつ流麗な演奏は、モダン・ジャズ界におけるひとつのトランペット・スタイルを確立してしまった。56年の交通事故による死は、余りにも惜しまれる」(3)。
  • 「命日までには何とかと思って居りましたが、早々のミッション恐れ入ります。さて、彼のペンに成る『ラルー』と言う美しいバラードは才色兼備の妻に捧げられた曲ですが、或る晩にサンタモニカの浜辺で持っていたトランペットを取り出し、砂浜と海を背景に此の曲を吹いた後、「僕の音楽と僕と結婚して呉れないか」と彼女に告げたそうです。なお、同曲は終生レコーディングされませんでしたが、二人が結婚式を挙げたのは彼女の誕生日でも有る'54の6月26日ですし、それから2年後の同日に待ち受けていた運命は………。こちら」(4)。
  • 歌手のヘレン・メリルとの共演したアルバムも有名。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    クリフォード・ブラウン-Wikipedia
    (1)「Clifford Brown
    (2)「クリフォード・ブラウン
    (3)「試聴:Clifford Brown (くりふぉーど・ぶらうん)(クリフォード ...
    (4)投稿者:Thori-Tungさん..2007/ 6/12 22:22:41(火) [1808]

    (2007.06.13掲載)

 


▲「ブラウニー」の愛称で親しまれているアメリカ合衆国のジャズミュージシャン(トランペット奏者)クリフォード・ブラウン(左)。


25年10ヶ月と4日の生涯

木藤亜也
Aya Kitou  【「1リットルの涙」の原作者】

(1962.07.19〜1988.05.23)
脊髄小脳変性症で夭折---蟹座

  • 愛知県豊橋市生まれ。
    14歳のときに脊髄小脳変性症を発症、25歳と10ヶ月でその生涯を終えたが、発症から21歳のときまで日記を書き綴った。
  • 中学3年で受験を控えた木藤亜也は、いつものように通学する途中、転倒して顎を強打。亜也を診察した医師は亜也の母に衝撃的な事実を告げる。亜也は脳の神経細胞が変化し、ついには消えていってしまう難病“脊髄小脳変性症”だというのだ。現在の医療では治療法のない不治の病に冒された娘のため、自分にできることはすべてしてあげようと堅い決意をする。
  • 難関の志望校・東高校に合格した亜也は、医師の勧めで日記をつけ始めていた。病状が進行し、日常生活にも不便をきたすようになるが、級友や周りの人々の助けで学校生活を送る亜也。しかし、担任教師は学校に障害者向けの設備がないことを理由に転校を勧める。周りの友人たちの負担を考えた亜也は、東高校を離れ養護学校へ転校することを決意。
  • 養護学校での寮生活に移った亜也は演劇の発表会で裏方として活躍、成功を収める。「いつもいつも人のやるのをみてばっかり。でもやれたんだ」と感動する亜也。やがて養護学校を卒業した亜也。自宅療養と入院を繰り返すようになるが、それでも社会に出て行く希望を捨てずにリハビリに励む。
  • 「1リットルの涙 :脳の神経細胞が変化、徐々に体の運動機能が衰え、やがて体の全機能が停止してしまうという不治の病“脊髄小脳変性症”。『1リットルの涙』は、この難病と闘った実在の女性をモデルにした映画である。1リットルの涙」が生前の1986年に出版され、現在までに57万部のベストセラーとなっている。この本と、亜也さんを見つめ続けた母親・木藤潮香さんの著書「いのちのハードル」を原作として映画化したのが映画『1リットルの涙』である。監督:岡村力」(1)。
  • 「25歳に載っている「木藤亜也」さんですが今日本屋に行ったら新しく亜也さんの本が出ていて昔、1リットルの涙といのちのハードルと言う本を読んだ事があるものですから、ふと手にとってみたのですが生年月日は1962年の7月19日と書いてありました。命日の方はちょっとわかりませんでした。お役に立てずすいません…」(2)。
  • 「ふたたび、ゆきです。今日も用事で本屋に行きまして、木藤亜也さんの本を見てきました。命日がわかったのですが、今書こうと思ってど忘れしてしまいました。え〜と、え〜と…確か…1988年の5月23日だったと思います。ぐぉ〜明日また本屋に行ってきます」(3)。
  • 「医者の先生に「(こんな病気になってしまって)私、結婚できますか?」って亜也さんが聞いた時、先生は「出来ないと思う。」って答えるんですよね…すごくショックだったろうに「本当の事を教えてくれてありがとう」って日記に書くんですよ〜(泣)あそこのくだりは読んでいてホントに泣けたわ〜!」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「1リットルの涙〜ストーリー〜
    (2)投稿者:ゆきさん 2005.09.07(Wed) 19:02578]
    (3)投稿者:ゆきさん 2005.09.12(Mon) 20:33[591]
    (4)投稿者:ゆきさん 2005.09.13(Tue) 19:15[594]

    (2006.01.02更新)

 




▲14歳の時に脊髄小脳変性症という不治の病を発症し、以後、治療法のない難病と向き合いながらも25歳10ヵ月の生涯を懸命に生きた木藤亜也さん。


◆映画「1リットルの涙」
母・潮香役かとうかずこと大西


原作:「1リットルの涙」木藤亜也著(エフエー出版)「いのちのハードル」木藤潮香著(エフエー出版)


フジテレビ系ドラマ「1リットルの涙」で亜也さん役を演じた沢尻と木藤潮香さん。


亜也さんの直筆の日記には、涙で文字のインクのにじんだ跡がそのまま残っている。(読売新聞)

25年10ヶ月と13日の生涯

久保克彦
Katsuhiko Kubo  【太平洋戦争で戦死した夭折の画家】

(1918.09.05〜1944.07.07.18=大正7〜昭和19)
湖北省で狙撃されて戦死---乙女座

  • 山口県平生町出身の画家。1918年、佐賀村佐合島(現平生町佐合島)で生まれた。間もなく徳山市へ移り、旧制徳山中を卒業。1938年、東京美術学校工芸科図案部に入学。
  • 戦争の激化で1942年9月に繰り上げ卒業。10月、陸軍へ入隊した。1844年4月に中国へ送られ、7月、湖北省で狙撃されて戦死。
  • 久保の代表作は、卒業作品で、東京芸大が買い上げた五枚組みの「図案対象」(縦一・五メートル、横七・〇メートル)。
  • 大半が「画家でなく学生の作品」と映る彼の作品の中で、「図案対象」だけは違う。海に墜落するような戦闘機を、中央に配した。「帰れない覚悟が伝わってくる。自分すべてを注ぎ込み、ものすごい集中力で仕上げてある」。生きていれば、大きな可能性を発揮したと思う。
  • 「図案対象」は、グラフィックデザインの先駆的作品として高く評価されている。芸術への志を絶たれて戦死した若者の葛藤と懊悩は、戦時中の社会と歴史の一断面を語っている。
  • 「久保は、戦争反対を声高にいう同級生に、「やめろ」といった。どう反対してみても、今の体制下ではどうにもならないということを知っているかのような口ぶりだった。だから、久保が卒業制作にのこした”戦争画”は、日本国民の士気を鼓舞するものでも、皇軍大和の必勝を期待するものでもなかった。
    傷ついた蝶のように落下する飛行機、傾く戦艦、その向こうに広がるピンク色の空と蒼い海。それは、人間の営みの愚かしさと虚しさだけがただようやるせない、”反戦争画”だった」(1)。
  • 「久保さんは戦地ではまったく一言も口をきかなかったそうです。たぶん久保さんは、あの戦争に人一倍疑問と後悔の念をもって参加していたのでしょう。なんともいえず情けなく腹立たしかったのでしょう---親友原田新さんの弟 茂さんの記憶」(2)。
  • 志半ばで戦場に散った無念さ、心の叫び。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)戦没画学生慰霊美術館 「無言館」HPより抜粋。
    (2)投稿者: Miwaさん..2009/ 5/21 10:46:25(木) [4906]

    (2009.05.22更新)

 


▲東京美術学校(現東京芸術大)を首席で卒業しながら、太平洋戦争のため二十五歳で戦死した久保克彦。

25年11ヶ月と17日の生涯

住宅顕信
Sumitaku Kenshin   【早世の自由律俳人】

(1961.03.21〜1987.02.07)
急性骨髄性白血病で夭折---牡羊座

  • 早世の自由律俳人。岡山市生まれ。本名春美。
  • 短い句作期間ながら数多くの名句を残し、62年2月7日急性骨髄性白血病のため死去。
  • 放哉自由律の実質的な作句期間が約二年五ヵ月であったことを思うと、ここにも放哉と顕信の奇しき符合がある。
  • 白血病が発病してから妻と別れ、亡くなる二年前に生まれた長男を入院先の病室で育てながら作句を続けた。総句数、281。
  • 「気の抜けたサイダーが僕の人生 四角い僕の夜空にも星が満ちてくる 淋しい指から爪が伸びてきた」

    「冷たい朝をゆく人の背ばかり 若さとはこんなに淋しい春なのか」

    「月明かり、青い咳する」

    「よるが淋しくて 誰かが笑い始めた」

    「こわした身体で 夏を生きる」

    「仕事のない指が 考え事をしている」

  • 句碑には「水滴の ひとつひとつが 笑ってる 顔だ」。
  • 何でもあるのに何かが足りない。日々の暮らしの中で、そんな過剰感、欠落感を覚える人が増えている。今という時代そのものが、定型には収まりきらない字足らず、字余りの器であるに違いない。
  • 表現したい心の過剰感と、残された命の欠落感。今、「私の気持ちをわかってくれる人がいる」と若者の心に響く魂削った自由律。
  • 住宅顕信と尾崎放哉との作品の相似性は、見目誠の『放哉と顕信』に詳しい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

    (2004.06.06更新)

 



▲早世の自由律俳人・住宅顕信。


◆「未完成―住宅顕信句集」
by 住宅顕信
23歳で白血病に倒れ、妻にも去られ、病室で幼子を育てながらわずか25歳で世を去ったひとりの俳人。

25年11ヶ月と19日の生涯

M・リヒトホーフェン
Manfred Albrecht von Richthofen  【紅の男爵】

(1892.05.02〜1918.04.21=明治25〜大正7)
戦死---牡羊座

  • ドイツ陸軍大尉(戦闘機パイロット)。実に80の敵機を撃墜した彼は、赤く塗った愛機に搭乗し、連合軍から「レッド・バロン」の異名で怖れ、語られた。
    機体を赤く塗装したアルバトロス、ハルバーシュタットD.2、
  • フォッカーDr.1に搭乗し80機を撃墜(第1次世界大戦のトップ・エース)、勇名を轟かせる。
  • 彼は、男爵の爵位を持ち“Red Baron”或いは“Red Devil”等とも呼ばれた。11歳で陸軍幼年学校に入学し、士官候補生訓練課程修了後、騎兵隊に配属される。
  • 1914(大正3)年、第1次世界大戦勃発時騎兵少尉として従軍、後に航空隊に転属(偵察機部隊に配属)。1916(大正5)年3月、第2戦闘機中隊に配属、同年9月17日、初の撃墜を記録する。
  • 搭乗機はアルバトロスDII、DIII、DV、フォッカーDr.I等。 中でも最後に乗ったDr.Iが彼のトレードマークになっているが、 実際のスコアの多くはアルバトロスで挙げた。
  • 1918(大正7)年4月20日、通算80機撃墜(120機という記録もある)の記録を樹立するも、4月21日、ソンム上空でイギリス第209飛行中隊のアーサー・ブラウン大尉(ロイ・ブラウンという記述もある)に撃墜され戦死(墜落・戦死原因については異説も多い)。 英アーサー・ロイ・ブラウン大尉(Arthur Roy Brown)(カナダ人)操縦の ソッピーズF1キャメルによる撃墜という説が有力だが、 オーストラリア陸軍による対空砲火と言う説もあり、決着はいまだについていない。
  • 彼の機が赤く塗られていたことから、連合軍からレッドバロンと呼ばれていた。 1918年4月21日戦死。
  • 不時着した機体から彼の遺体が見つかると、連合軍は、50万人の参列を記録する国葬をもって、英雄を弔ったと言う。騎士道精神華やかりし頃。
  • 「Fokker Dr.1は、航空戦黎明期の第一次世界大戦、ドイツの撃墜王、リヒトホーフェンの愛機としてあまりにも有名な三枚翼の優雅なスタイルの機体である。リヒトホーフェンの愛機と言えば機体を深紅に塗ったDr.1と言うくらい知られているが、実は彼の乗機にも数種類の塗色、マーキングが存在したようである。本機は1917/08/21に登場、本格運用はその年の11月からであったという。1918年半ばには徐々に退役し始め、第一次世界大戦終結時には訓練機として残るのみだったと言うから、意外に寿命が短かったと言えよう。 当時イギリスが開発した「ソッピーズ・トライプレーン(三葉機)」に影響を受け、開発中であったFokker D.6を三枚翼に設計変更した物がDr.1試作機である。最初の量産機では翼取付強度に問題があり、その改修に時間がかかったと言う。運動性能に優れた戦闘機で多くのドイツ軍エースに愛されたが、速度は遅く、迎撃局地戦、特に格闘戦に於いてのみ真価を発揮したらしい。この美しいアングルの写真もそうだが、Dr.1はリヒトホーフェンの真っ赤な機体がイメージなのだろう」(1)。
  • 「---以前フリーダ・フォン・リヒトホーフェンを登場させていただきましたが、マンフレット・フォン・リヒトホーフェンは血族なんでしょうか? 第一次世界大戦で愛機を真紅に染めていたことから、『レッドバロン』と呼ばれ、イギリス軍から恐れられていたパイロットです。1918年24歳で撃墜されて亡くなりますが、やはり男爵家の生まれとあります」(2)。
  • 「早速のご対応、ありがとうございます。1971年にロジャー・コーマン 監督、ジョン・フィリップ・ロー主演で『レッド・バロン』という映画も作られました」(3)。
  • 「フリーダとの関係、自分なりに調べてみました。日本語で検索すると「妹」というのが2件ヒットしました。でも、英語のWikipedia (こちら)を見ると、「ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンと同様、遠い親戚のフリーダ」と書かれています。年齢的にも二人は13歳開きがありますから、こちらの方が信憑性はありそうです」(4)。
  • 享年24歳との記述が多いのだが、没年月日引く生年月日だと享年25歳になる。
  • 貴族元帥=ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(最終階級:空軍元帥)(1895-1945)は従弟にあたる。1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件で次々と貴族系軍人(いわゆるフォン族)が失脚していく中で、彼は最後までヒトラーの信頼を保持し続けた数少ない一人だったといわれる。
  • マンフレット・フォン・リヒトホーフェンはたしか宮崎アニメ『紅の豚』のモデルではなかったか?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「対決・20世紀ミリタリー 第一次大戦編」
    (1)「愚行連鎖:飛行機大好き/Fokker Dr.1」
    (2)(3)(4)投稿者:みさん 2006.06.07(Wed) 22:52[1709] 2006.06.08(Thu) 17:04[1719] 2006.06.08(Thu) 19:26[1721]

    (2006.06.08掲載)




▲第一次世界大戦の伝説的なエースパイロット=紅の男爵:RED BARONことマンフレット・フォン・リヒトホーフェン。

◆Fokker Dr.1について:フォッカー三葉単発・単座戦闘機 Dr.1、
1917-1918年(生産機数320)、
全長:5.77m、
全幅:7.19m、
全高:2.98m、
全備重量:586kg、
最高速度:185km/h(実際には165km/h位/失速速度 64km/h)、
航続距離:200km、
到達高度:4,300mm、
エンジン:オベルウーゼル UR2 110馬力、
武装:スパンダウ7.9mm機銃×2


M・リヒトホーフェン語録

◆「人間は完璧ではない。だがいつも完璧を目指している」


◆映画「レッド・バロン」


◆『紅の豚』は、飛行艇時代の地中海を舞台に、誇りと女と金をかけて空中海賊と戦い、紅の豚とよばれた一匹の豚の物語である。時は1920年代のイタリア。かつて空軍のエースだった男が、迫り来る新たな戦争を前に、再び「国家の英雄」になることを拒み、自分で自分に魔法をかけてブタになってしまう。男は賞金稼ぎとなって、地中海を荒らし回っている海賊ならぬ「空賊」とたたかうのだった。

25年11ヶ月と29日の生涯

沖田総司
Souji Okita    【新撰組一番隊組長】

(1842.06.01〜1868.05.30)
潜伏中に肺病で死亡---双子座

  • 武蔵国江戸(東京都)出身 。天然理心流。
  • 沖田総司は、奥州白河藩阿部豊後守の臣沖田勝次郎の嫡男として 6月1日に生まれたという。生まれた年は、1842(天保13)年または 1844(弘化元)年の 2説ある。その出生に関しては謎が多い。白河藩の江戸下屋敷で生まれたと いわれているが、父の名前にも異説が あり母の名前もわかっていない。
  • 8才くらいの時に、近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。 総司が天然理心流を学び始めたのは、9歳の時である。剣技は天才的で、十代のうちに免許皆伝に達し、文久元年(1861)には塾頭になっている。
  • 近藤周助の 試衛館に、住み込みの弟子として入門したのだが、この時に近藤勇と出会った。そして近藤を通して土方歳三をも知ることになる。 その後総司は試衛館の師範代を務めた。土方をはじめ 、玄武館で免許を取った藤堂平助や山南敬助も総司にはかなわなかった というから、やはり天賦の才能と言うべきだろう。近藤の代わりに多摩の佐藤 家などへ出稽古に行くこともあった。
  • ただし天才によくあることだが、教える のが下手でしかも短気だったから、門弟たちは近藤より恐れていたらしい。 慶応3年6月に新選組が不動村に屯所を移してからは病気が悪化。鳥羽 伏見の戦いのころには寝たきりとなり、大坂を経て江戸に戻る。甲陽鎮撫隊 にも参加するが日野あたりまで同行して、病状が悪化してそこからは先に行 けなかった。
  • そして5月30日にボクの住んでいる千駄ヶ谷の植木職人の離れで、一月前の近藤の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。
  • 新選組の隊士の中で、近藤勇土方歳三など、写真が残っている人物は何人か居るが、幸か不幸か、沖田総司の写真はない。
  • 総司は美男子といわれているが、これは司馬遼太郎の小説の影響らしい。実際はヒラメ顔で、新撰組でのイケメンNO-1は土方歳三である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「一番隊沖田総司

    (2004.06.25更新)




▲新撰組一番隊組長・沖田総司。


▲ 沖田総司。
(成瀬浩子のホームページより)

 25歳のエポック!

  • C.L.ティファニー、25歳(1837年)でジョン・B.ヤングと文房具などを販売するために「ティファニー」をニューヨークに設立。1841年よりヨーロッパの宝飾品を扱う。
  • M.デューイ、25歳(1876年)で『十進分類法』の初版を刊行して今日の分類理論の基礎を築く。
  • 平塚らいてう、25歳(1911年)で婦人文化運動研究の「青鞜社」をつくり機関誌『青鞜』を発刊。「元始、女性は太陽であった」に始まる発刊宣言を書く。
  • 武者小路実篤、25歳(1910年)で志賀直哉らと雑誌『白樺』(白樺派)を創刊。自己主義を主張して小説『おめでたき人』、戯曲『わしも知らない』などを書く。
  • アルヴァー・アアルト、25歳(1923年)でユバスキュラに設計事務所を設立。26歳、建築家アイノ・マルシオと結婚。
  • イザム・ノグチ、25歳(1929年)でニューヨークのユージン・シェーン画廊で最初の個展。
  • 盛田昭夫、25歳(1946年)生涯のパートナーとなる井深大と東京・日本橋の白木屋デパート3階に東京通信工業を設立。

    (2003.08.05)
 


20-21-22-23-24-25-26-27-28-29

スケールバー

スケールバー

 


人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
トップページprofilelink
Copyright(c) 2003 Kazumasa Tamagawa, All rights reserved.

当サイトは Internet Expolorer4.0 以上、Netscape Navigator6.0以上、Javascript ON でご覧ください。