玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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30-31-32-33-34-35-36-37-38-39

age 32


50音インデックス


32歳の
 シンクロニシティ



イエス・キリスト
今井四郎兼平
ジプシー・ローズ
ダイアナ・ゴールデン


園井 恵子
阿部 典史
中川 勝彦
ジル・ヴィルヌーヴ
ジョン・H・ボーナム
ラマヌジャン


清河 八郎
ブルース・リー
青木達之
レム・ウィンチェスター
松井須磨子
可愛かずみ
保苅 実
北条時宗
永野一男
リチャード3世
森本六爾
カレン・カーペンター
津田恒美


32歳のエポック


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32歳の語録

32歳のシンクロニシティ!

  • 32年の生涯とは、サムシング・グレート(神)が、救世主をこの世に召還したことの足跡に思えてならない。キリスト、北条時宗である。
      
    ●十字架による処刑死で世界を救いたもうたイエス・キリスト(BC4.?〜AD28.?/BC6.?〜AD?.不詳)は、諸説あるが十字架での処刑死し32年?の生涯(?座)。
    ●蒙古襲来に対処するという大きな役目のためだけに生きたような、短くも烈しい生涯を駆け抜けた北条時宗(1251.06.05〜1284.04.20)も病死で32年10ヶ月と15日の生涯(双子座)で召された。
     
    ●同じ意味で、夭逝の数学者ラマヌジャン(1887.12.22〜1920.04.26)は肺結核/肝臓アメーバー症で32年4ヶ月?の生涯(山羊座)。
    ● 『燃えよドラゴン』で知られる香港の格闘家兼俳優・ブルース・リー(1940.11.27〜1973.07.15)も脳腫瘍で32年7ヶ月と23日の短い生涯(射手座)を走り抜けた。


    (2008.03.16更新)
        



32年?の生涯

イエス・キリスト
Jesus Christ【弱者の立場に立って神の救いを伝えたメシア】

(BC4.?〜AD28.?/BC6.?〜AD?.不詳)
十字架での処刑死---?座

  • キリスト教の教祖。ギリシア語で正しくはイエスス・クリストスInsous Christosで、〈油を注がれた者・王・救世主たるイエス〉の意。
  • この表現自体が彼を開祖と仰ぐキリスト教徒の立場を反映していることに注意しなければならない。福音書の伝えるその生涯は巌密な史学的検証に耐えないが、およそ以下のように推定される。
  • ヘロデ大王(前4年没)の晩年にガリラヤの北パレスチナのナザレの大工ヨセフとその妻マリアとの子として生まれ、後28年ころバプテスマのヨハネに洗礼を受けてその運動に参加。
  • のち独立してガリラヤを中心に宣教し、30歳頃、家を出て、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神の国の来臨の近いことを告げて、ユダヤ民族の悔改を迫る。
  • 神は慈悲深い父で、人間は皆同胞として相愛すべきことを説き、一切の偽善を排し、正義と愛との徹底を期した。
  • 初めガラリヤ地方に活動、後、首都エルサレムに上り、パリサイ党や祭司階級の宗教を批判し、ゴルゴタの丘の上に十字架上で刑死。
  • 弟子たちはイエスが死後3日目に復活したと確信し、「油そそがれたる」救主、すなわちメシアまたはキリストと信じ、新運動を開始、ここにキリスト教が興起した。
  • 死後復活して弟子たちに顕現したと伝える。ここに原始キリスト教が成立、以後の世界史に重大な役割を演じることになった。
  • 「はじめに言葉ありき。言は神とともにありき。その言は神なるがゆえ」(ヨハネによる福音書の冒頭):「思念(思い、想念)は「言葉」であり、「言葉」は創造主である。精神を統一して思念する時は、善きこと、光明化の目的にかなうことならば、必ず成就する」。
  • 英国人演出家で俳優のスティーブン・バーコフ作・演出の「メサイア(救世主)」で、バーコフは、キリストを「神の子」ではなく、カリスマ的革命論者として描き、ロンドンのオールド・ヴィック劇場で上演され物議を醸している。
  • 「かつてローマ帝国のなかには、多数の宗教があった。もともとローマ人は、いたって猥雑だが、欲望も充足できる儀礼を。あるいは、鰐も神とするエジプトの土着信仰。それに、征服されたユダヤ民族の共同体の神も。ギリシャ人は、神話と哲理の混淆のなかで祭儀を発案した。ペルシャ人は、光明と暗黒が交錯する ゾロアスター教をおくりこんだ。 神々の共存のなかで、キリスト教は、いったいどうやって登場し、帝国を乗っ取り、公式の国家宗教になっていったのか。ユダヤ教の改革者として現れたイエスと追従者たちが、少数者であるカルト教団から、倫理上のメッセージを発信しながら、ローマ帝国の臣民たちをとらえていった」(1)。
  • 「イエスとは何者か-----。この問いに対して、現代の聖書学は、ユダヤ教内部の反体制的な社会革命運動家だとか、家や共同体を離脱したキュウニコス派の賢者に似た遊行者だとか、様々な答えを用意してきた。これに対して著者は前著『イエスという経験』で、イエスは「予定の死を死んだのではない。覚悟の死を死んだのでもない。自分自身にとって意味不明の死を死んだのである」との問題提起を行った。本書で提示されたイエス像はさらに進んで、いわば「時を変容させる者」である」(3)。
  • 「宗教は物語を形にすべく実践される。またすぐれた物語は、人を宗教的な応答へと誘う。救いのために十字架に架けられるという不条理は、信仰というアングルから見れば、イエスが救い主であることの証だ」(4)。
  • 「エルサレムで見つかった2000年前の墓にはイエス・キリストと妻マグダラのマリア、そして息子「ユダ」が埋葬されていた。---〈本書はフィクションではない。全ては事実にもとづき、事実を忠実に追っている〉---ジェームズ・キャメロン(「序文」より)」(5)。
  • 「たまさん イエスの最後の言葉をお供えしたいのですが、聖書の中にいろいろあり、どれが本当に最後の言葉なのか門外漢には分かりません。
    〈わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか〉 −マタイ伝とマルコ伝−
    〈父よ、わたしの霊を御手にゆだねます〉 −ルカ伝−
    〈すべてが終わった〉 −ヨハネ伝−」(6)。
  • 初代・山田風太郎は『人間臨終図鑑-I』で「この人物の「臨終」についは、「異教徒」にとってまことにに書くことが難しい」と書いている。まったくもって同感である。
  • ボクの住む千駄ヶ谷に得体の知れない牧師・富澤さんがいる。彼はボクの将棋がたきなのだが、どう見ても聖職者には見えない。左翼出身の弁護士にはたくさん会ってきたが、左翼出身の牧師さんなんて初めてだった。しかし、彼は本物である。
  • その富澤牧師がいう「キリストの誕生年が西暦のBCとADの境としたのは計算間違えだったんだ」と。キリストの生没年はわかっていない。ボクたちの歴史はこのようなあやふやな起点を元に測られている“ゆらぎ”や“ずれ”のあるものなのだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2003.12.21朝刊 キーズ・ホプキンズ著『神にあふれる世界』の書評 樺山紘一より抜粋。
    (2)日本キリスト教団 無任所 教師 富澤孝之
    (3)読売新聞2006.07.23朝刊 大貫隆著『イエスの時』の神崎繁による書評より抜粋。
    (4)読売新聞2006.11.08朝刊 ウォルター・ワンゲリン著『小説イエス』の書評より抜粋。
    (5)シンハ・ヤコボビッチ+チャールズ・ペルグリーノ『キリストの棺』の新聞広告より抜粋。
    (6)投稿者:ユリウスさん..2007/ 9/16 23:09:25(日) [2355]

(2009.06.26更新)




▲十字架による処刑死で世界を救い たもうたイエス・キリスト。
(イラスト 玉野安実嬢)


(ダリ画)


“誓願”と題されたルオーの絵

◆イエス・キリストの誕生について
「イエスの誕生は文献から見ると、ヘロデ大王の治世に生まれた。ヘロデはBC4年になくなっているので、BC4C以前ということになる。---
現在用いられている暦は1582年にグレゴリュウス13世がそれまでのユリウス暦を廃し制定したものであり、日本でも19世紀に採用されている。この当時イエス誕生を0年とし紀元前(BC=Before Chistキリスト以前の略)紀元AD(Ano Domino=ドミノはラテン語ドミヌス=主=アドナイ=キュウリオス=ロード=I am what I am=ヤーウエ=創造、存在=神)としたのであるが、その後イエスの誕生はヘロデの死以前であることが解り、そこにずれが生じているが便宜的機能としての歴史認識には不都合が生じないのでそのままにした。また、イエスそのもの誕生は確定できないのであるから、そのままにして置かざるを得ない。
∴イエスの誕生
BC4〜8(BC6年頃を主張する学者が多い)。
イエスの十字架刑についてはAD30の4月17日(金)が有力(誕生日よりは資料的に確定しやすいが、それにしても断言できない。十字架時のヘロデはヘロデ・アンティバス(ヘロデ大王の息子)」以上(2)。

◆上記によるとキリストは36年の生涯が有力となるが、確定できないのであるから、ボクも32年の生涯そのままにして置くことにした。

 

32年?の生涯

今井四郎兼平/今井兼平
Kanehira Imai  【木曾四天王の一人】

(1152.?〜1184.?)
義仲の死を見届けたのち 自害---?座

  • 平安後期の武将。木曾義仲の乳母の子で、木曾四天王の一人。通称四郎。
  • 義仲に従って入京後、源範頼・義経の軍に敗れ、義仲の死を見届けたのち、自害。
  • 樋口次郎兼光、今井四郎兼平兄弟、根井行親、そして根井行親の六男・楯六郎の四人を木曽四天王と呼ぶが、この中でも今井四郎兼平は、義仲と兄弟のように育てられ、また年が近いこともあり義仲との絆が深かったといわれている。また中原兼遠の娘で、樋口次郎兼光・今井四郎兼平の妹でもある巴御前は、武勇にもすぐれた美女で、武将として兄の今井四郎兼平とともに、最後まで義仲に随従することになる。(義仲の菩提寺である徳音寺には、義仲の墓を取り巻くように母である小枝御前、巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓が建てられている。)
  • 謡曲にその名を借りた「兼平」がある。謡曲「兼平」は、木曾義仲の家臣、樋口兼光の弟の今井四郎兼平が、頼朝から義仲朝敵とされ、義仲と共に琵琶湖畔粟津にて戦うが、相次ぐ敗戦で数人の兵となって、天晴れの戦死をせし有様を劇化したもの。
  • 「平家物語で描かれている豪胆な武者ぶりと義仲への忠誠、最期の壮絶さ、ずっと惹かれている人物の1人です」(1)。
  • 「JR石山駅の北西200m、工場地帯をぬう小川のほとりに、今井四郎兼平と彫った丸みのある石の墓が石柵に囲まれて立っています。1184(寿永3)年ここ粟津で義仲とともに奮戦し、悲壮な最期をとげた兼平の墓で、現在の墓は今井家末孫により建てられたものです。 もとは兼平を尊敬した膳所藩主本多俊次(ほんだとしつぐ)が建立した墓でした」(2)。
  • 「信濃の権の守中原兼遠は、同族の源義平に闇討ちで父を殺された2才の木曽義仲を引き取って育てた養父であり、木曽軍の武将であった今井兼平、樋口兼光兄弟等の実父でもある。歳の近い彼らは幼児期から実の兄弟のように育ったのであろう。「死ぬ時は一緒に」と、共に粟津ガ原で果てたくだりは平家物語の中の最も感動的な場面として多くの人々の心を捕らえてきた」(3)。
  • 「〈今井がゆくゑのおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲を、三浦の石田の次郎為久おっかかってよっぴいてひやうふつと射る。〉盾となって奮迅する今井四郎のことが気がかりでふりあおいだ義仲は、その一瞬の隙を狙って射られます。頼朝が、後年、政治のために兄弟全員を滅ぼしていることを考えると、義仲のやさしさは、武将・政治家としては「弱さ」といえるでしょう。しかし、この弱さと人間らしさこそ、今井四郎をはじめ家臣たちが、終生義仲を愛し、支えた理由であるように思います」(5)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者映さん
    (2)「今井兼平の墓
    (3)?
    (4)「平家物語「木曽の最期」
    (5)投稿者:月の雫・映さん 2005.01.16(Sun) 20:19

(2005.01.13掲載)




▲木曾義仲と兄弟のように育てられ、また年が近いこともあり義仲との絆が深く、壮絶な最期を遂げた今井四郎兼平。

 


▲今井四郎兼平の墓。

『平家物語』木曾の最期の通釈:「今井の四郎と木曾殿は、ただ主従の二騎になっておっしゃるには、「普段は何とも思われない鎧が、今日は重く感じられること だ。」今井の四郎が申したのには、「お体もまだお疲れになってはいらっしゃらないし、おん馬も弱ってはおりません。どうしてわずか一両の御着背長を重いとはお思いなさるはずがございましょう。味方にご軍勢がございませんので、気落ちがしてそのよう にお思いなさるのでございます。兼平一人が従い申しているとは申せ、他の武者千騎と思いなされませ。七、八本ございますから、 しばらく防戦いたしましょう。あそこに見えていますのは、粟津の松原と申します。あの松の中でご自害なさいませ。」と申し上げ、馬を進めて行くうちに、また新手の武者が五十騎ほどでやって来た。「あなたは、あの松原へお入りなさい。兼平はこの敵を 防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃるのには、「義仲は、都で討死をするはずであったが、ここまで落ちのびて 来たのは、お前と同じ所で死のうと思ったためである。別々の所で討たれるよりも、同じ所でこそ討死をもしよう。」と言って、 馬の鼻を並べて駆け入ろうとなさったので、今井の四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取りすがって申したのには、「武士た る者は、常日頃どんなに武功がございましょうとも、最後の時に思わぬ失敗をしてしまうと、永久に残る恥辱でございます。お身 体はお疲れなさっていらっしゃいます。続く軍勢はございません。敵におし隔てられ、取るに足りない家来に組みつかれ(馬から)落とされなさって、討たれなされもしましたならば、『あれほど日本国中に名声をはせなった木曾殿をば、だれそれの家来がお討 ち申した。』などと(世間で)申すようなことが残念でございます。ただあの松原へお入り下さい。」と申したので、木曾殿は、 「それならば(入ろう)。」とおっしゃって、粟津の松原へ(馬を)駆けさせてお入りなさった。
今井の四郎はただ一騎で、五十騎ほどの中へ駆け入って、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声を上げて名乗ったのには、「常日頃 は、噂にも聞いていただろう。今は目に見なされ。木曾殿の御めのと子である今井の四郎兼平で、年は三十三に成り申した。その ような(優れた武者である)者が居るということは、鎌倉殿までがご存知でいらっしゃるであろうぞ。兼平を討って(鎌倉殿に)ご覧に入れよ。」と言って、射残してあった八本の矢を次々とつがえて射る。(敵の)生死の程は確かではないが、たちまちに敵 の八騎を射落とした。(矢を射尽くした)後には、刀を抜いてあちらに馳せて戦ったかと思うとこちらで戦い、次々と切って回る が、正面からまともに立ち向かう者はいない。多くの敵の武器なども奪ったことだった。(敵は)ただ、「射殺せよ。」と中に取り囲んで、雨が降るように射たけれども、鎧がよいので裏まで(矢が)通らない。(鎧の)隙間を射ないから手傷も受けない」(4)。

32年?の生涯

ダイアナ・ゴールデン
Diana Golden   【冬季パラリンピックの英雄】

(1969.?〜2001.?)
癌---?座

  • スポーツ選手。肉体的障害や心理的難題を乗り越えた素晴らしい精神の持ち主。
  • 乳ガンで両胸を失い、方足切断しながらオリンピックに参加、金メダリスト。(パラリンピックではありません。) 
  • 「世界的なスキープレヤーで冬季パラリンピックの英雄である。勿論、金メダリストでもある。彼女の名は母国では有名だそうだ。彼女の場合、ただの障害者とは違う。不屈の闘志の持ち主でで美人でもある。詳細は不明だが、片足がなく、義足で冬季パラリンピック出場、見事に金メダリストになったのである。ここまでなら、パラリンピックでは普通の障害者選手だが、後に彼女は乳ガンに侵され、両乳房を失った。それでも彼女は強く生きる決意をした。しかし、彼女を20代の若さにして病魔が次々と襲ったのである。次に子宮ガンとなり子宮を摘出した。流石の彼女も自分の姿を鏡に映して、絶望の淵へて追いやられて遂には自殺を決意、多量の睡眠薬を飲んだが一命を取り留めた。なんと、彼女は決意を新たに、ロッククライミングに挑戦した。そして再び生きる勇気を取り戻したかに見えたのだが。だが彼女には神は微笑みかけてはくれなかった。癌の転移が発見され、そして無常にも余命5年と宣告されのだった。そんなある日、彼女の元に招待状が届いた。沢山の招待客の中にダイアナ・ゴールデンの姿があった。そこに微笑みかけて来たのが、一人の青年実業家だった。その男は、以前から彼女に恋焦がれていたのである。彼女も何度か見かけた顔だと思っていたが、特に関心は持っていなかった。処が、その実業家は彼女に、自分の思いを打ち明けて、プロポーズをしたのだ。実はこのパーティは彼女の為に開いたものであった。彼女は言った。「私は片足が無く、両乳房も失い、子宮も取り除いた女なのよ子供だって産めない・・・それに余命5年と宣告されたのよ」だが、彼はそんな事は百も承知でプロポーズをしのだと言う。彼の熱意に心を打たれ彼女は結婚した。まるで神のような人と。そして医者の宣言通り彼女は四年後、夫に看取られ亡くなった。彼女が残し言葉。〈自分にとって未知のものを行うことは不安が伴うものですが、それに挑戦することが勇気であり、喜びをもたらすものである〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「小説を書く愛好会」

(2006.06.26掲載)




▲素晴らしい女性であり、スポーツウーマンであり、チャンピョンであり、人々に感動を与えてきた講演者ダイアナ・ゴールデン。

32年15日の生涯

園井 恵子
Keiko Sonoi   【元宝塚歌劇団スター】

(1913.08.06〜 1945.08.21)
広島巡演中に被爆---獅子座 

  • 岩手県松尾村(現・八幡平市)に3人姉妹の第一子として出生。本名袴田 トミ(はかまだ・とみ)、宝塚時代の愛称はハカマ。身長公称155センチ。尚、園井の生年については1914年とする説・資料もある。岩手県松尾村祖父は同村長をつとめた家柄だが幼少時に実家は経済的苦境にたたされ後に小樽市へ転居。
  • 北海道立小樽高等女学校(当時)を2年で中退して宝塚歌劇団に入団、昭和4年(1929年)初舞台。春日野八千代・葦原邦子の一期下、また神代錦・櫻緋紗子らと同期。当初は男役として活動。
  • しかし実家が翌年破産。園井は彼女を追って宝塚市へ転入した両親・妹たちの扶養を余儀なくされる。
  • 演技力は入団三年目の昭和6年(1931年)に当時の劇団上層部から「今年最大の収穫」といわれたほど高い完成度を誇った。後年は身長の問題もあり女役、とくに母親役にまわる。
  • また園井一家の経済的苦境を見かね、演技力・善良な人柄を評価していた小林一三ら劇団上層部のすすめで在団後期から、宝塚映画「山と少女」、「雪割草」(昭和14年(1938年))、「南十字星」(昭和16年(1941年))、「南から帰った人」(昭和17年(1942年)などに出演。昭和17年(1942年)「ピノチオ」で退団。
  • 退団直後の昭和17年11月に東宝演劇研究会公演の『ファウスト』(帝国劇場)にマルガレーテとグレーチヘンの主役二役を客演,その後新劇「苦楽座」へ入団。戦局、言論・表現の統制、依然続いた一家の経済的苦境、(苦楽座の)薄給の逆境の中で舞台活動に打ち込む園井に転機が訪れる。
  • 宝塚の先輩にあたる小夜福子の推薦で大映『無法松の一生』に吉岡良子役で出演。映画は昭和18年(1943年)公開され、気品・美貌の誉れ高く一粒種の愛息へ深い愛情を注ぐ軍人の未亡人役を外見・内面とも見事に表現し、無法松・阪東妻三郎、吉岡敏雄(良子の一粒種・幼少時代)長門裕之(当時・沢村アキヲ)等とともに映画の大ヒットに貢献した。
  • このヒットで大映から専属契約の依頼を受ける。『無法松-』監督の稲垣浩や東宝で監督をしていた山本嘉次郎からも出演の依頼があったが、園井自身が「今の自分は未熟、もっと実力を磨くべく苦楽座での活動を続けたい」旨固辞。のちに「苦楽座」の中心メンバー俳優丸山定夫の誘いで軍隊慰問公演などの移動演劇隊"櫻隊"に参加。
  • しかし園井の選択は最悪の結末に直結してしまった。
    昭和20年(1945年)8月6日-奇しくも園井誕生日の朝、櫻隊「無法松の一生」中国地方巡回公演の為、広島市内滞在中に原爆が投下された。
  • 東京に帰っていた事務長・槙村浩吉と6月に戦争に召集されていた多々良純を除く隊員9人(男子2名、女子は園井を含め7名)が被爆。5人の女子隊員が倒壊した家屋の下敷きとなり、発生した火災で生きたまま焼かれ同日中に死亡。しかし園井は丸山、高山象三(俳優薄田研二の子)、仲みどりとともに屋外に吹き飛ばされ下敷きを免れ、一命をとりとめた。外見上は無傷でその日のうちに実家の家族のもとに無事の旨手紙を出したという。
  • 高山と一緒であったものの丸山・仲と混乱の中ではぐれてしまい、このまま広島に居続けるのは良くないと判断。そしてまだこのときは体力的に無問題であったことから運行再開した列車第一便で神戸市在住の宝塚時代の知人宅へ避難。8月8日神戸に到着。
  • しかし皮肉にも到着の矢先、園井・高山両名に原爆症の諸症状-脱毛、諸部位の内臓・皮下の出血、高熱が続く状態他が次々現れ、知人らの看護もむなしく高山が8月20日にわずか21歳の若さで他界。
  • 園井も翌8月21日、原爆症による耐え難い苦悶のうちに痛ましい最期をとげた。(丸山も8月16日宮島で44歳、仲も8月24日東大病院で36歳でそれぞれ原爆症のために亡くなっている。)
  • 宝塚時代からその死まで性格面について悪い話を聞かなかったといってよく、むしろ人格者・芸熱心さについては多方面・多数の者達が認めるところであった園井。その美貌と品格・演技の実力・善良な人柄が被爆などなかったら1940年代後半以降の日本の舞台・映画両分野を牽引していたことは間違いなかったであろうだけに薄幸・寡作のまま早世したことは日本芸能界痛恨の損失だったといえる。
  • 園井役は初演は三田和代。幾度か再演されており娘役だが宝塚OG森奈みはるも園井を演じた。
  • 園井 恵子の生涯は、キリ番にしたいくらいだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    中川勝彦…しってみたい
    中川勝彦 - Wikipedia
    (1)「バンド・ミュージシャン部門 恐怖の追跡 〜あの人たちは今?〜

(2006.03.16掲載)




▲女優、元宝塚歌劇団スター、そして広島原爆被爆者(犠牲者)である園井 恵子。

 

 

 

32年1ヶ月ジャストの生涯

阿部 典史
Norifumi Abe   【世界GP3勝の天才肌ライダー】

(1975.09.07〜2007.10.07)
Uターンしてきたトラックと衝突---乙女座

  • 東京都出身のモーターサイクル・ロードレースレーサー。エントリーネームはニックネームでもある「Norick Abe(ノリック・アベ)」。
  • 東京都世田谷区出身。父はオートレース選手の阿部光雄。5歳からバイクに乗り、ポケバイ、ミニバイクレースを経験。15歳で渡米しダートトラック、モトクロスの修行をする。全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった。
  • 1994年にはロードレース世界選手権(WGP)日本GPでケビン・シュワンツ、マイケル・ドゥーハン等と苛烈なトップ争いを繰り広げながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾る。 シーズン前の状況では、1994年に出場可能だったレースは、前年度に国内500CCチャンピオンを獲得したことによるワイルドカードでの、日本GPただ一戦のみであった。 「ほかのライダー達にとってはシーズンの始まりの一戦だが、僕にとってはこの日本GPが今年のシーズン全てだった。」と後に語っている。
  • 抜き去るだけ抜き去って、リタイアしてしまったため、抜かれたドゥーハンが「阿部は確かに良いライダーだが、もう少し僕の後ろを走る必要があった。」とコメントを出している。
  • 阿部のパフォーマンスのインパクトは、バレンティーノ・ロッシがこの阿部の勇姿に憧れ自らを「ろっしふみ」と名乗ったエピソードが物語っている。この時点で阿部はホンダ陣営(チームブルーフォックス)の所属だったが、この時の実力を高く評価したウェイン・レイニーからの強い誘いにより、シーズン中ながらヤマハ陣営へ異例の移籍を果たし、WGPにさらに2戦スポット参戦した。当時のヤマハは他社のワークス・マシンに乗っていた日本人ライダーと契約する前例はなく、ウェイン・レイニーの強い希望によって実現したといえる。
  • 1995年よりWGPフル参戦。1996年の世界GP第3戦日本GP(鈴鹿)では、1982年のスウェーデンGPでの片山敬済以来の日本人ライダーによる500ccクラスの優勝を飾る。
  • 2005年よりスーパーバイク世界選手権に参戦の場を移す。 2007年より13年ぶりに全日本ロードレース選手権(JSB1000クラス)に復帰を果たし、今期6戦を終え総合3位。自身のオフィシャルサイトでは10月20日に鈴鹿で行われるレースへの意気込みも記されていた。
  • しかし、2007年10月7日午後6時20分頃、神奈川県川崎市の市道を500ccバイクで走行中、Uターン禁止場所でUターンしてきたトラックと衝突し、午後8時50分過ぎ、搬送先の病院で急逝。32歳という若さだった。
  • スタートに秀で、WGP時代には予選10位台から1コーナーをクリアした時にはトップ集団に食い込んでいることも多かった。独特の前輪に荷重させたライディングスタイルはマイケル・ドゥーハンに「最も才能に恵まれているが最もリスキー」と言わしめた。
  • 全日本時代から長髪をトレードマークとしていた。ヘルメットからはみ出るその髪を日本のモータースポーツ関係者から「転倒時の危機管理意識が低い」と批判され一度短く切ったことがあるが、外国人中心のチーム関係者からは「らしくない」とからかわれ、再び伸ばしたことがある。2007年10月7日に事故死するまでは短髪だったが、これは本人のセンスの変化によるもの。
  • 「駆けつけた救急車は搬送先を探すために、約20分も現場を離れられなかったのだそうですが、折れた肋骨が大動脈を損傷させたと言う事実とも併せて、相対的には恵まれて居る筈の都内でも此の有様では、過去に矢張りたらい回しにされた経験を持つ身としては、我が国の救急医療の現実に肌寒い思いを禁じ得ません。さて、彼の戒名ですが「正道院弐輪英雄典久大居士(しょうどういんにりんえいゆうのりっくだいこじ)」とニックネームが含まれたものですね。 最後に、1994年の日本GPに於けるドゥーハン選手らとの死闘を見て彼のファンになったと言う、現役最強ライダー、V・ロッシからの弔電です。〈若い頃、あなたのポスターを部屋に貼っていた。2001年のへレス (スペインGP)では、一緒に表彰台に登りましたね。同じレースで戦えた事を誇りに思います。典史は僕の心の中でずっと生き続けます〉」(1)。
  • 日本に2輪ブームを再来させた立役者だった という。 

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    阿部典史-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori-Tungさん..2007/10/15 09:56:39(月) [2483]

(2007.10.15更新)




▲全日本ロードレース選手権フル参戦一年目の1993年に最高峰クラスの500ccクラスにおいて、史上最年少の18歳でチャンピオン、そして500ccクラス最後のチャンピオンとなった阿部 典史。

 

 

32年1ヶ月と28日の生涯

中川勝彦
Katsuhiko Nakagawa   【日本のデヴィッド・ボウイ】

(1962.7.20〜1994.9.17)
急性骨髄性白血病---蟹座-A 型

  • ミュージシャン・歌手、俳優。東京都出身。血液型はA型。主に1980年代に活動した。
  • 1978年に慶応高校に入学し、そこでバンド活動を始める。1980年(高校3年)の時に、NHK「ヤングミュージックフェスティバル」に出場し、デビューのきっかけとなる。
  • 映画「ねらわれた学園」、「転校生」などに出演し、人気を博す。
  • 音楽活動は美男子シンガーとして有名で、テレビドラマ等でも活躍していたが、1992年9月に急性骨髄性白血病で倒れ、以後9ヶ月の闘病生活を経て、1994年8月に白血病が再発し、32歳の若さで逝去する。
  • 娘はアイドルの中川翔子。彼女によれば美男子シンガーとして有名な父親も、家では「怪獣オタクの変なお父さん」だったそうである。
  • ドラマ:「時をかける少女」(1985年、南野陽子主演)、「白虎隊」(1986年12月30日〜12月31日、日本テレビ系列、沖田総司役)、「火煙高田馬場」(1987年、日本テレビ系列)
    アニメ:「超力ロボ ガラット」(1984年、名古屋テレビ/日本サンライズ)
  • 映画:「ねらわれた学園」(角川映画)、「転校生」(1982年:角川映画、一美の兄役)、「SPH」(1983年、手塚眞監督)
    出版:「アンノウン・メモリー 〜未知の記憶〜」(1993年12月25日、※白血病発病前から製作していた絵本)
  • 「中川勝彦氏は、 急性白血病の為お亡くなりになりました。 彼の骨髄は家族の誰とも合わなくて 骨髄バンクに期待が持たれていたのですが 結局、適合ドナーが見つからないまま お亡くなりになった...と思います」(1)。
  • 常在寺(東京都台東区谷中)に眠る。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    中川勝彦…しってみたい
    中川勝彦 - Wikipedia
    (1)「バンド・ミュージシャン部門 恐怖の追跡 〜あの人たちは今?〜

(2006.03.16掲載)




▲アイドルの中川翔子さんの父で、「日本のデヴィッド・ボウイ」と呼ばれた歌手・中川勝彦。

 

 

32年3ヶ月と20日の生涯

ジル・ヴィルヌーヴ
Gilles Villeneuve    【史上最高のF1レーサー】

(1950.01.18〜1982.05.08)
走行中事故死---山羊座

  • カナダ人のカーレーサー。カナダのケベック州で生まれる。フランス語を母国語とするフランス系カナダ人であった。ジル・ビルヌーヴと表記されることも多い。
  • スノーモービルの選手であったが、自動車レースに転向しフォーミュラ・フォード、フォーミュラ・アトランティックのチャンピオンになる。
  • 1977年7月17日の第10戦イギリスGPでマクラーレンからデビュー。エンツオ・フェラーリにスカウトされ、同年の10月9日の第16戦カナダGPからはフェラーリから参戦。同年の10月23日の第17戦日本GPでは観客を巻き込む大事故(観客2名死亡、重軽傷者9名)を起こし、 日本におけるF1開催は一時撤退されることになった。
  • 1978年からフェラーリでフル参戦。以後、フェラーリ以外のチームで走ることはなかった。第6戦ベルギーGPで4位初ポイント。第12戦オーストリアGPでは、タイヤがバーストによる三輪走行をしたにもかかわらず初表彰台を得る。第16戦では初優勝し、その頭角を現す。
  • 優勝三回(当時のF1は数回の優勝でチャンピオンになることが多く現在よりも接戦であった)を記録したが、 惜しくも4ポイント差でチームメイトのジョディ・シェクターにチャンピオンを譲ることになる。エースドライバーのジョディ・シェクターに対してチームオーダーを忠実に守った結果とも言われている。
  • 1982年のマシンであるフェラーリ126C2は他チームと遜色のないマシンに仕上がり、ようやくヴィルヌーヴはチャンピオンを目指す環境を手に入れた。第4戦サンマリノGPでヴィルヌーヴはトップを走行し、優勝を目前にしてスローダウン走行を行っていた。そのときチームメイトのディディエ・ピローニは2位を走行。フェラーリでは1-2走行をしているとき他のチームに追いつかれる心配がなければフェラーリのマシン同士で 順位を変えてはいけないと言う約束があったため、ヴィルヌーヴはリスクを冒して走行せずにスローダウンして走行していた。しかし、その約束を破ってピローニがヴィルヌーヴを追い越しそのまま優勝してしまう。ヴィルヌーヴは裏切りに気がついて加速したが間に合わず2位になった。これが原因でヴィルヌーヴとピローニの関係が悪化。
  • 1982年5月8日のベルギーGP。ピローニの予選タイムを上回るための予選アタックを開始したヴィルヌーヴは冷静さに欠けていた。ピローニに復讐するためである。冷静さを欠いたヴィルヌーヴはスロー走行中のヨッヘン・マスのマシンに接触し、そのタイヤに乗り上げて空中を舞ったマシンは大破。マシンから投げ出されたヴィルヌーヴは地面に叩きつけられて死亡。
  • こうしてヴィルヌーヴの短いF1人生は終わった。一度もチャンピオンになれなかったが、彼の速さに疑問を持つものはいなかった。他のマシンに故意に接触するような卑怯な真似は決してせず、常にフェアなレースをした。そして、不利な環境でも決してあきらめず、いくつかの優勝を勝ち取った。
  • ヴィルヌーヴが死亡してから15年後の1997年、ジル・ヴィルヌーヴの息子であるジャック・ヴィルヌーヴがF1のワールドチャンピオンを獲得。父の果たせなかった偉業を達成。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2005.02.01更新)




▲ チャンピオンになった経験がないにもかかわらず「史上最高のF1レーサー」とも言われる伝説のドライバー・ジル・ヴィルヌーヴ。

 

◆ジル・ヴィルヌーヴ全成績。
出走:67回。
優勝:6回。
ポールポジション:2回。
ファステストラップ:8回。
ランキング最高位:2位 (1979年)
獲得総得点:107点 (有効101点)

32年3ヶ月と25日の生涯

ジョン・ヘンリー・ボーナム
John Henry Bonham 【レッド・ツエッペリンのドラマー】

(1948.05.31〜1980.09.25)
不慮の事故---牡羊座

  • レッド・ツエッペリンのドラマー。イギリス人。ドラックの過剰摂取にアルコールを飲酒。吐瀉物を喉に詰まらせ、ジミー・ペイジの自宅で窒息死する。
  • レッド・ツエッペリンは1980年、ドラマーのジョン・ボーナムの死によって正式に解散。過剰飲酒ではあったが、直接の死因は不明。ドラムのグルーブ感やノリに特徴があり、彼のバンドサウンドへの貢献度も高かったため、何名かが名乗りを上げ、バンドでも人選について議論されたが、「彼なしでのバンド継続は無理」と判断されたもの。
  • しかしながら、1985年のライヴエイドより、残りの元メンバー3人が集まった時のみ(1988年からは、故ジョン・ボーナムの息子であるジェイソン・ボーナムがドラマーとして参加し)、「LED ZEPPELIN」名義のステージパフォーマンスが、その後何度か節目に行われてきた。1995年、ロックの殿堂入り」。
  • 「パワーあふれる音と体型(?)の名ドラマー“ボンゾ” :
    デビュー前はレンガ職人だっただけあって、もともと腕力は申し分なしだったボンゾですが、体型は最初から太めだったわけではありません。実際、デビューした当初は痩せていましたから、どうやらバンドの成功に気を良くして好きなビールをたくさん飲みすぎたようです。その酒癖は相当に悪かったらしく、来日公演の時にはホテルの窓からテレビを投げ落としたことも。そしてついに80年、ジミー・ペイジの家で酔いつぶれたボンゾは、吐瀉物を喉に詰まらせて窒息死するという悲劇的な幕切れを迎えてしまったのでした…。ともあれ、ドラミングの面で世界中のミュージシャンに多大な影響を与えたボンゾですが、ビジュアル面でのカッコ良さも要求されるロック・バンドの世界にあって、ドラムスを唯一“太めでも許されるポジション”と認知させたのも彼の偉大な功績の一つ(?)かもしれません」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    投稿者:水のさん  2005.02.042(Fri) 14:50
    (1)「おんがく日めくり

(2005.02.13更新)




▲ビジュアル面でのカッコ良さも要求されるロック・バンドの世界にあって、ドラムスを唯一“太めでも許されるポジション”と認知させたレッド・ツエッペリンのドラマー・ジョン・ヘンリー・ボーナム。

 


32年4ヶ月と2日の生涯

ラマヌジャン
Srinivasa・A・Ramanujan 【無限の天才】

(1887.12.22〜1920.04.26)
肺結核/肝臓アメーバー症---山羊座

  • インド生まれの天才数学者。
  • インド生まれの彼は非凡な才能を持っていたが、貧しい家庭に生まれ、正規の大学教育を学べなかった境遇の持ち主。ある日彼は、ケーリー講座数学講師でありトリニティ・カレッジのフェローでもあるG.H.ハーディ教授宛てに手紙を出す。内容は彼の得意としていた発散級数から始まり、第二種オイラー積分(オイラーマクローリンの定義)の内容へと渡った。H.ハーディは極めて優れた数学の才能を見抜き、その後の数回に渡る手紙のやり取りで、ラマヌジャンを英国で最も優秀な学生の集まるケンブリッジ大学へ招くことを決意する。渡英したラマヌジャンは、年額60ポンドの奨学金を受けてケンブリッジ大学で非凡な才能を存分に発揮。
    残念なことに1917年初め、病に倒れる。その後、インドに戻って最高の医療を受けるが1920年4月没。(享年32歳)病は結核と言われている。(最近では肝臓アメーバー症とも言われる)非凡な才能ながら、殆ど世に名前が知れ渡る前に没した数学者ですが、彼が更に生きていると数学界が一変したと言われます。一方アインシュタインも尊敬すべき非凡な物理学者ですが、相対性理論はアインシュタインがいなくても何れ誰かに発見されたと言われています」(1)。
  • 「ラマヌジャンは「我々の百倍も頭がよい」という天才ではない。「なぜそんな公式を思い付いたのか見当がつかない」という天才なのである。アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくとも、2年以内に誰かが発見しただろうと言われる。数学や自然科学における発見のほとんどすべてには、ある種の論理的必然、歴史的必然がある。だから「10年か20年もすれば誰かが発見する」のである。数学では、大ていの場合、少し考えれば必然性も分かる。ところがラマヌジャンの公式群に限ると、その大半において必然性が見えない。ということはとりもなおさず、ラマヌジャンがいなかったら、それらは百年近くたった今日でも発見されていない、ということである」(2)。
  • 証明無しの定理だけの謎めいたノートを残したらしい。「対の無限のストリー ム ラマヌジャン数」といわれても凡人には解らない。ラマヌジャンは一時ブームだったらしい。ボクは彼のことを赤瀬川源平の 「愛書日記」で初めて知りました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「ラマヌジャンについて
    (2)「oms71
    詳しくは「数学

(2005.01.23更新)


◎夭逝の数学者

▲インド生まれの天才数学者ラマヌジャン。
(イラスト 玉野安実)


▲『無限の天才〜夭逝の数学者ラマヌジャン 』ロバート・カニーゲル著、田中靖夫訳  工作舎

32年4ヶ月と2日の生涯

ジプシー・ローズ
Jipsy Rozue      【ストリップの女王】

(1934.12.18〜1967.04.20)
酒瓶を握りしめて死亡---射手座

  • 伝説のストリッパー。本名・志水敏子。1949年(14歳)ローズ・マリーという名で浅草常盤座で初舞台を踏み、1950年15歳で浅草・常磐座の「亜熱帯の女ども」でデビュー。のち1951年(19歳)に改名してジプシーローズになる。
  • その彫りの深い美貌と見事なプロポーションの加え、1分間に60回も腰を振るグラインドを9分間の曲「リズム・オブ・グラインド」に合わせて踊り、「ストリップの女王」と謳われる程人気を得る。
  • 昭和32年、ヌードダンサーとして名高かったジプシー・ローズは神経衰弱と肝臓病で満身創痍の体だった。ヌードショーの歴史は戦後から。
  • 昭和22年、新宿で額縁ヌードショーが話題となり、これが日本のヌードショー第1号。額縁ヌードを披露したのは甲斐美春であった。静止画であった額縁ヌードがストリップとなったのはヒロセ元美からで、ヒロセは昭和25年から昭和27年頃にかけ、初めて鳥の羽の扇を使ったストリップで話題となった。その際の音楽がベサメ・ムーチョだった。
  • この頃のショーの小屋は東宝が日劇小劇場、松竹が東劇バーレスクだったが、昭和27年1月に日劇小劇場が解散、ストリッパーの呼び名がヌードダンサーとなったのもこの頃。
  • その後も企画のマンネリや取締りの強化などでヌードショーは昭和29年には衰退、東劇バーレスクも潰れ、失業しかかったヌードダンサーが大挙して押し寄せた浅草の公園劇場でナンバーワンだったジプシー・ローズが名前を売るようになる。ジプシー・ローズはディック・シルバー(後の岡田真澄)との共演などで話題を呼ぶ。
  • その後、日劇ミュージックホールでメリー松原、伊吹まり代らとヌードダンサーの姐御格として君臨したが、ジプシー・ローズはこの時分にはまだ28歳であった。
  • ほかには有名なヌードダンサーに狂死したアリ水木、既に引退したバイオレット滝、グレース松原などがいた。
  • 内縁の夫で演出家の正邦乙彦と山口県でバーを経営していたが、1967年に常用のスロージンの空瓶を左手に急死。
  • ボクも“かぶりつき”で“本物”を観たかったよ〜お!
    ジプシー・ローズは行方不明群に仮安置している「東京ローズ」と同一人物なのだろうか? ご存知の方は教えて下さい。
  • 「ストリッパーの東京ローズさんとジプシーローズさんの関係はわかりませんでした。さらに最近ジプシー・ローズを名乗る方もおられまして、ややこしくなっております」(1)。
  • 「ジプシーローズ (1934‐1967)昭和時代後期のストリッパー。昭和9年12月18日生まれ。25年東京浅草の常盤座でローズ・マリーの芸名で初出演。演出家の正邦乙彦にみいだされ、美貌と情熱的な踊りで、20年代後半に「ストリップの女王」とよばれた。アルコール中毒のために40年に引退。昭和42年4月20日死去。32歳。福岡県出身。不知火女学校中退。本名は志水敏子」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    山田風太郎著『人間臨終図鑑-I』
    誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディ
    プレ究杯
    (1)投稿者: Miwaさん..2009/ 5/23 21:58:46(土) [4927]」
    (2)「ジプシーローズとは-コトバンク

(2009.05.25更新)




▲ その彫りの深い美貌と見事なプロポーションの加え、1分間に60回も腰を振るグラインドを9分間の曲「リズム・オブ・グラインド」に合わせて踊り、「ストリップの女王」と謳われる程人気を得たジプシー・ローズ。

 

32年6ヶ月と6日の生涯

清河 八郎
Hachiro Kiyokawa  【庄内藩の尊攘派志士】

(1830.11.24〜1863.05.30=天保元年10月10日〜文久3年4月13日)
斬殺---射手座

  • 出羽国田川郡庄内清川生まれる。斎藤治兵衛豪寿(ひさとし)(雅号:雪山)と亀の長男。諱:正明。字:士興。通称:幼名元司、八郎。変名:大谷雄蔵、日下部達三。雅号:芻堯、楽水、晩年は震。
  • 文雅を嗜み、藤本鉄石ら諸国の名士を歓待する家に育った。
  • 弘化4(1847)年18歳の春、江戸に出て東条一堂の塾に入門、安積艮斎(あさかごんさい)に師事、昌平黌に学び、剣を千葉周作に習う。間崎哲馬、山岡鉄舟、美玉三平らの知己を得る。
  • その後数回郷里に帰ったが、関西、四国そして肥前長崎などへの旅を通じて熱烈な攘夷論に傾倒し、憂世憂国の志士として世間からも認められるようになる。
  • 安政元(1854)年神田に開塾、文武二道を指南しつつ山岡や伊牟田尚平、北有馬太郎らと虎尾の会を結成し、尊王攘夷を画策。
  • 安政5(1858)年神田お玉ヶ池に文武指南所を開き同志を募った。万延1(1860)年12月同志の薩摩藩士伊牟田尚平らとともにヒュースケンを暗殺。
  • 翌文久1(1861)年5月、一市井人を無礼討ちにしたため幕吏から追捕される身となり、関東・東北から京都へと知友を頼り逃避したが、それを介して縁故を広げていくことで潜伏から遊説へと意義を変えた。
  • 田中河内介、平野国臣、小河(おごう)一敏らと文久2(1862)年の島津久光上洛を機に挙兵しようとした。同年4月の京都所司代襲撃を企てて失敗した寺田屋事件には直接関与しなかった。しかし、尊王攘夷の実をあげるべく、各派の調停を図り、九州の勤王家と連絡していたことなどから、その背後の工作者の一人とみられていた。藩という背景を持たなかったために志士間で孤立、やがて運動の対象を幕府へと移していく。
  • 翌3(1863)年、山岡、間崎を通じて政事総裁職松平慶永に尊攘派の大赦と浪士組編成を建言。同年2月幕府の浪士隊編成に応募して上洛し、いわゆる壬生浪人の中心人物となったが、学習院への攘夷決行の建白が幕府の忌諱に触れ江戸に戻される。
  • 江戸でも攘夷実行を企て、横浜外人居留地焼打ちの企て(文久3年4月15日)を進めるなか、決行の二日前に、親交のあった上山藩の重臣金子与三郎宅で夕食した帰途、麻布一の橋で幕府見廻組佐々木只三郎により斬殺。
  • その朝、寄寓する山岡宅を出て高橋泥舟(でいしゅう)を訪うた際の「魁けてまたさきがけん死出の山まよひはせまじ皇(すめらぎ)の道」が奇しくも辞世となった。
  • 「明治維新のさきがけである清河八郎の百年記念事業の一つとして、昭和37年に建設された。その遺品及び明治維新資料は百数十点が保管され、その一部は常時展示している。その中で山形県文化財として指定されているものは51点。荘内戊辰の役清川口古戦場御殿林を背景に、清河神社境内に建立されている」(1)。
  • ボードレールやリラダンの翻訳、並びに研究の鬱然たる大家であった斉藤磯雄氏は清河八郎の子孫であった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    清河 八郎(きよかわ はちろう)
    (1)「清河八郎記念館

(2005.10.07掲載)




▲明治維新のさきがけである憂世憂国の志士・清河八郎。

 

 

 

32年7ヶ月と18日の生涯

ブルース・リー/李小龍
Bruce Lee   【アチョー!】

(1940.11.27〜1973.07.15)
脳腫瘍?---射手座

  • 香港の舞台俳優だった中国人の父、ドイツ人と中国人の混血の母を持ち、幼少時から中国武術を習い、18歳で単独渡米。
  • ワシントン大学に通うかたわら、自ら創始した「ジークンドー」という名の空手と中国武術を合わせた新しい武術の道場を始める。活動に目を付けたテレビ関係者にスカウトされ1966年(26歳)、米TVドラマ「グリーン・ホーネット」の準主役に抜擢。
  • 1970年代にクンフーアクションブームを起こした。電影代表作『精武門(ドラゴン怒りの鉄拳)』『龍争虎門(燃えよドラゴン)』『死亡遊戯』ほか多数。
  • 映画「ドラゴンへの道」は1973年、ワーナー映画が国際的に最も成功した映画の一つである。ブルース・リーは5作目の映画「死亡遊技」の映画が半分完成した時点、台本を打ち合わせ中に頭痛を訴え薬を飲んだ。そのまま意識が戻らず32才の短い人生を終えた。
  • 彼の死は、公式発表では、ホンコンにある女優ベティのアパートで、シナリオを打ち合わせ中、彼は突然頭痛を訴え、沈痛剤を与えたという。そしてその夜、彼は病院で死亡したという。検視によると、リーは沈痛剤のアレルギー反応の結果、脳浮腫(脳が膨れる)になったという」
  • ホンコンでの葬儀には3万人の群衆が集まり、第2回目の静かな葬儀がアメリカのシアトルで行なわれた。この葬儀にはスティーブ・マックイーンも参列している」
  • 「死亡診断書には『事故死』と書かれているという。かしファンはこの死因に疑いを持ち、様々な憶測が乱れ飛び交っている。例えば健康管理のための食事療法が原因であるとか、彼が映画の中で、空手の秘密を明かしたために殺されたなど。死亡当時はスパイに暗殺されたとか、忍者に殺されたとかかなりアヤシイ噂もあった、当時、リー様は麻薬をゴハンにかけて食べていたと言う噂あった。なにかのきっかけで、脳圧亢進症状をおこし、一度は助かったけど、燃えドラ・死亡遊戯の撮影の疲労もあって、二度目の発作をおこしかけていた。それを単なる頭痛と考えて、手遅れになったとか。もともと脳腫瘍があって、ベティ・ティンペイのくれた頭痛薬にアレルギーがあったというのが定説。とにかく、香港映画は、ここからスタートした」
  • カンフー映画『燃えよドラゴン』の主演で一躍有名となった香港の映画スター、ブルース・リーは、1973年7月15日、香港のクィーン・エリザベス病院で死亡した。32歳であった。彼の葬儀は香港とシアトル(ワシントン州)で2回行われた。最初の葬儀は香港の友人とファンのためで、2度目のそれは内輪のものであった。彼は中国服を来て棺に納められた。葬儀は香港の九龍殯儀舘(葬儀場)で仏式で行われた。式場には遺族や友人、映画関係者がおおぜい列席していた。儀式が開始したときには棺はなく、祭壇にはリボンをかけた遺影が安置され、生花が飾られ、「芸海星沈」(芸術の海にスターが沈む)という幟りが張られていた。遺影の前には3本の線香と2本のローソクが飾られ、弔問者は3度づつ礼をして最後の別れを告げ、中央ホールに戻って着席した。楽団は伝統的な葬儀の曲を演奏した。式の途中で遺体が納められた棺が運びこまれ、祭壇近くに置かれた。棺の蓋は開かれたが、表面は遺体を保護するガラスで覆われていた。葬儀場の前にはおよそ2万5千人の人々が集まってきていた。 葬儀が終わって数日後、遺体は妻とともにシアトルに帰った。シアトルでの葬儀は、親戚・友人ら100人が列席した。音楽は故人が好きだった最近の曲が選ばれた。棺は陰陽の象徴である白、黄、赤の花で覆われていた。葬儀には、スティーブ・マックイーン、ジェームズ・コバーンなどが参列し、棺を担った。そのあと棺は、ワシントン湖を見下ろすレーク・ヴュー墓地に埋葬された」(1)。
  • 「ワシントン大学で哲学を学んだリーは、日本の武道家の心が宿っていたといわれる。彼の武術の基本は「心を空にして水のように動く」とうもの。リーは「心も体も、自在に流れる水に習う」(「五輪の書」より)という宮本武蔵に心酔しており、二人の哲学には共通点が多かった」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「有名人の葬儀」より。
    (2)読売新聞2006.04.10夕刊 「映画の中のスポーツ」(下山田郁夫)より抜粋。

(2008.03.15更新)




▲『燃えよドラゴン』で知られる香港の格闘家兼俳優・ブルース・リー。

32年8ヶ月と17日の生涯

青木 達之
Aoki Tatsuhiko   【東京スカパラのドラム】

(1966.08.15〜1999.05.02)
不慮の事故/自殺?---獅子座

  • ミュージシャン。東京スカパラダイスオーケストラのドラム。東京都出身。
  • 「人気バンド「東京スカパラダイスオーケストラ」のドラマーやクラブDJと して活躍した。また作曲など曲を提供するなど音楽界で人気を得ていたが、 1999(H11)5月2日午後11時15分ごろ、東京都世田谷区豪徳寺の小田急線の線路 上にあお向けに横たわっているところを、相模大野発新宿行き上り急行電車に はねられ死亡した。現場は豪徳寺駅から約70メートル新宿寄りの線路上。同駅 のホームから線路に降り、歩いて事故現場まで行き、電車にはねられたとみら れている。警視庁北沢署の調べによると自殺の可能性が大きいとしている。遺書などは見つかっていない。享年32歳。葬儀・告別式が6日、世田谷区の成勝寺 会館(小田急線「豪徳寺」駅下車)で営まれた。スカパラのメンバー8人をはじ めファンら約300人が参列した。会場には作曲した小泉今日子のヒット曲「丘を 越えて」などが流れ、遺体は渋谷区の代々幡斎場で荼毘に付された」(1)。
  • 「苦難の歴史をもつバンド。それにしても、リーダーASA-CHANG の脱退、ギムラの死去、冷牟田の瀕死の交通事故、そして今回の青木の死。凄い歴史を持ったバンドになってしまいました」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 1999.05.04産経新聞訃報記事
    (2)「スカパラ 99新潟公演

(2007.06.09更新)






▲「東京スカパラダイスオーケストラ」のドラマーやクラブDJと して活躍した青木 達之。


▲人気バンド「東京スカパラダイスオーケストラ。

32年9ヶ月と25日の生涯

レム・ウィンチェスター
Lem Winchester    【幻のヴァイブ奏者】

(1928.03.19〜1961.01.13)
ロシアン・ルーレットで暴発---魚座

  • 黒人のヴァイブ奏者。この人の本職は警官だったらしい。
    ペンシルバニア州フィラデルフィアで生まれる。ハイスクール時代にピッコロを手がけ、後にテナー、バリトンに切り替えたが、1947年以降はヴァイブに専念。
  • 1950年代に入ってデラウェア州ウィルミントンの警察に勤めるかたわら、ヴァイブを叩いてローカルな仕事をやっていた。
    1958年にニューポート・ジャズ祭に出演したのがきっかけで一般的な人気を得るようになる。
  • 1960年以降は音楽に専念するようになったが、出演中のナイト・クラブの経営者が所有していた拳銃で得意のロシアン・ルーレットをやって暴発。インディアナポリスにて世を去った。
  • 不運にもロシアン・ルーレットで死んたことから「悲劇のヴァイブ奏者」「幻のヴァイブ奏者」などと呼ばる。そのため活躍した期間はとても短いものだった。
  • 最高傑作はラムゼイ・ルイス・トリオと組んだアルバム。クリフォード・ブラウン(トランペット奏者でジャズ)に捧ぐということで吹きこまれたものらしい。
    レム・ウィンチェスターはマイナーではないが、ヴァイブ奏者ミルト・ジャクソンが有名過ぎてあまり知られていない。ミルト・ジャクソンをさらにソウルフルにしたようなヴァイブ奏者がこのレム・ウィンチェスターだという。
  • 「ブルージーな感覚と硬質なトーンをモダン・ヴァイブの世界に持ち込んで、不敗の帝王たるミルト・ジャクソンの影響を感じさせながらも、初めてその壁を突き破ろうとした彼の代表作は、その卓越した統率力が大いに物を言い、"いまひとつの作品ここにあり"と言わしめた、Another Opus (Status ST-8244)に他ならない………」(1)。
  • ボクにとって、レム・ウィンチェスターは未知の人でした。彼ののバイオグラフィーに関して、ご存知の方は教えて下さい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヴァイブの殿堂“レム・ウィンチェスター”
    (1)投稿者:Thori-Tungさん 2005.03.10(Thu) 21:59
    参考文献:ジャズ・レコード・ブック/粟村政昭/東亜音楽社/1968ほか

(2005.03.12掲載)






▲ 不運にもロシアン・ルーレットで死んたことから「悲劇のヴァイブ奏者」「幻のヴァイブ奏者」などと呼ばるレム・ウィンチェスター。



◆レム・ウィンチェスター・アンド・ラムゼイ・ルイス・トリオ(1958年録音 ARGO原盤)




32年9ヶ月と28日の生涯

松井須磨子
Sumako Matsui   【一時代を画した新劇女優】

(1886.03.08〜1919.01.05)
島村抱月の後を追い自殺---魚座

  • 日本初の新劇女優、歌手。本名小林正子。長野県埴科郡生まれ。03/04、07/20生まれ説あり、 戸籍上は11/01。
  • 23歳、文芸協会演劇研究所に第一期研究生として入学。坪内逍遥、島村抱月の指導を受け、『ハムレット』のオフィーリア、『人形の家』のノラの好演で注目をあびる。
  • 坪内逍遙の弟子の島村抱月との不倫恋愛で世間的には有名。抱月との恋愛事件で文芸協会を除名され芸術座を結成、『復活』のカチューシャ役で日本全国を巡演。「人形の家」のノラ、「サロメ」、「アンナ・カレーニナ」、「復活」のカチューシャなどなど、多数の役を演じた。
  • その野性味と熱演で、新時代の女優として一時代を画したが、スペイン風邪に罹り死亡した島村を追って「カルメン」上演中に自殺。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.02.10更新)






▲ 新劇女優・松井須磨子。


32年10ヶ月ジャストの生涯

可愛かずみ
Kazumi Kaai   【ボクと誕生日が同じの女優】

(1964.07.09.〜1997.05.09)
プロ野球選手の自宅マンションから飛び降り自殺---蟹座

  • 俳優。本名・久我知子。東京都目黒区駒場のマンション7階から飛び降り、救急車で東京医大病院に運ばれたものの全身打撲の為、死亡。
  • 目黒区駒場のマンションは、オートロック式である為、関係者以外は入れない構造になっている。7階の共同廊下には、靴が揃えて置いてあった。
  • 可愛かずみのマンションは、東京都港区元麻布にある為、自殺の現場である目黒区駒場のマンションに住んでいるヤクルトスワローズの川崎憲次郎投手との関係が原因ではないかと思わせる。川崎憲次郎さんには、当時恋人がいる。しかし、信頼している人の死も、一因であるという情報がある。
  • また、青年実業家である28才の婚約者(国保尊弘)がいた。もう既に結婚を約束されていた。婚約者本人も「こんな事になるとは」と、驚きの様であった。ウエディングドレスの仮縫いが、もう少しで、済むところであった。
  • 大物女優のいじめが原因ではないかという一部の報道があるが、6年前の事であるので、説得力に欠ける。港区の光善寺で、葬儀が行われ、桐谷斎場に移された。
  • 以前から、躁鬱的な症状があった様で「病気が原因ではないか」といわれる。
  • ボクと誕生日が一緒なのに。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.08.07掲載)




▲プロ野球選手の自宅マンションから飛び降り自殺した可愛かずみ。

32年10ヶ月と2日の生涯

保苅 実
Minoru Hokari   【若き歴史学者】

(1971.07.08〜2004.05.10)
悪性リンパ腫---蟹座

  • 1971年、新潟市に生まれる。新潟大学教育学部附属小・中学校、新潟県立新潟高校卒業。
  • 1994 年、 一橋大学経済学部・経済学学士取得。1996年、一橋大学経済学部経済学研究科・経済学修士取得。
  • 1996年04〜1999年03 、 日本学術振興会特別会員(DC)。
  • 1996〜1999年、ニューサウスウェールズ大学在籍 歴史学Ph.D専攻。
  • 1999〜2001年、オーストラリア国立大学在籍 歴史学Ph.D専攻、取得(2001)。
  • 1999年05〜1999年08、オーストラリア国立大学・太平洋&アジア研究所(人類学科)客員研究員。2001年04〜2002年03、オーストラリア国立大学・太平洋&アジア研究所(歴史学科)客員研究員。
  • 2002年06〜2003年05、オーストラリア国立大学・人文学研究所(Humanities Research Centre) 客員研究員。
  • 2002年04〜2005年03、日本学術振興会特別研究員(PD)・慶応義塾大学。
  • 2003年07 、フィールドワークに向かう途中にて発病(悪性リンパ腫)。2004年05 、豪・メルボルンにて永眠。
  • 「まぁ、どうなるかわかりませんが、ここ10年本当にやりたいことを生き生きとやってきたので、最悪の場合でもまぁいいやと思っています。10年前にこの診断を受けたら、僕はもう少し狼狽していたかもしれません。とはいえ、しぶとくあと20年くらいは生き延びるつもりでいますので、社会復帰の際にはまたお会いできれば幸いです。そのときまで、皆さんもお体には十分お気をつけて!」(1)。
  • 「彼の実践は周囲の共感を呼んだ。博士号を取得したオーストラリア国立大学では、没後に「保苅実奨学基金」の設立を決めた」(2)。
  • ボクはこの人物をまったく知らない。だけど何かを感じるのである。ご存知の方、略歴も含め投稿してくださいな。---ある晩、お姉さまからメールがあった。ビックリ!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)+履歴「HOKARI MINORU
    (2)読売新聞2004.12.10夕刊「文化」(泉田友紀記者)。

(2005.11.29更新)




▲西欧中心主義に陥れがちな歴史学の多元化に挑戦し、志半ばで逝った保苅実。
写真提供:保苅実の姉、由紀さん(版権・読売新聞 )


◆保苅実著 『ラディカル・オーラル・ヒストリー---オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』(御茶の水書房)---西欧中心主義に陥れがちな歴史学の多元化に挑戦した。

 

「歴史は楽しくなくっちゃ」

◆「人との繋がりの中で今の僕があり、今の僕が支えられています」
(最後のメール)


 

32年10ヶ月と15日の生涯

北条時宗
Tokimune Houjo   【日本の危機を救った青年執権】

(1251.06.05〜1284.04.20)
病死---双子座

  • 鎌倉幕府の第八代執権(在職1268年−1284年)である。父は第五代執権の北条時頼で、母は北条重時の娘。正室は安達泰盛の娘。幼名は正寿。通称相模太郎。
  • 相模国(神奈川県)に生まれる。異母兄に北条時輔がいたが、母の身分の差などもあって、父・時頼から後継者に指名された。1257年(康元2)、将軍宗尊親王より一字を賜り時宗と名乗り元服。1261年の極楽寺での武芸大会で、将軍の宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。同年、従五位下左馬権頭に叙任。1263年 父の北条時頼が死去。
  • 1264年(文治元)、14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。翌年、従五位上に昇叙。同年、但馬権守、更に相模守をも兼任する。そして第7代執権である北条政村や一族の重鎮・北条実時と協力して、1266年(文永3)に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位、惟康親王の擁立などを行なった。
  • 1268年(文永5)、政村から執権職を継承し、第8代執権となる。同年、高麗の使節が中国の元朝の国書を持ち博多の大宰府へ来日して服属を求めて来ると、朝廷は返書を求めるが幕府はこれを拒絶する。翌年に再び使節が来日し、武力侵攻を警告すると、少弐氏や大友氏をはじめとする西国大名に対元の戦争準備を整えさせて対外政策を行う。同年、左馬権頭を辞任。また、得宗家の権力を磐石なものとするため、1272年(文永9)には弟の時宗が執権になったことに不満を持って朝廷に接近していた六波羅探題南方の兄・時輔や一族の評定衆の名越時章を誅殺している(二月騒動)。1274年には日蓮を佐渡に配流した。
  • 1274年、元軍が日本に襲来。いわゆる元寇であるが、この時の日本軍は元軍の集団戦法や新兵器などに苦戦し、暴風雨の到来で元軍をようやく追い返したというものであった。このため時宗は、この文永の役を教訓として博多湾岸に今でも残る石塁を構築し、さらには異国警固番役などを新たに設置して国防を強化。
  • このため、1281年の弘安の役で、元軍は最終的には暴風雨で追い返されたとはいえ、石塁などで防御が強化された日本軍の抵抗に苦戦した。こうして時宗は元軍の襲来という国難を回避したが、戦後に今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、三度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。同年、正五位下に昇叙。1284年に病死。法名:宝光寺殿道杲。菩提所:鎌倉市山ノ内の瑞鹿山円覚寺。
  • 時宗は父の時頼と並んで歴代執権の中でも国難に立ち向かった名君として高く評価される一方で、使者を黙殺して対日交渉を決裂させた鎌倉幕府の国際情勢に対する無知も指摘されている。さらに信心深く、晩年には渡来僧の無学祖元に師事し、鎌倉に円覚寺を建立。しかし死後は、外戚である安達泰盛と内管領長崎頼綱の台頭が激化し、それが死の翌年に勃発した霜月騒動にまで繋がったという。
  • 「北条時宗は、外国からの攻撃にはじめて立ち向かった人物である。それも、日本の何十倍もある大国の中国(元)を敵にしてである。どう考えても、日本とって勝てる戦いではない。自分の判断が、日本をほろぼすことになるかもしれない。その思いは、北条時宗にとって、相当な重圧であったことだろう。暴風雨という幸運もあったが、北条時宗の強い精神力のおかげで、今日の日本があると言ってもいいであろう。中国(元)のきょうはくに負けることなく、武士をまとめ上げ日本を守った北条時宗の精神力をたたえたい。北条時宗の不幸は、この元寇の後しまつであったろう。武士に恩賞を渡したくても、その土地がない。そのジレンマが北条時宗の命をうばったのであろう。この元寇が、鎌倉幕府がほろびる原因の1つになったは皮肉である」(1)。
  • 「蒙古襲来に対処するという大きな役目のためだけに生きたような、短くも烈しい生涯…。その後…。あまりに巨大化した元は、徐々に国力を失い、時宗の死から10年後、フビライが80年の命を終えたとき、同時に日本への野望も消え去るのである」(2)。
  • 歴史に「もし」はないのだが、元の来襲を受けていたならば、日本文化はかなり異なったものになっていたであろう。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)「北条時宗
    (2)「次回の知ってるつもり?!

(2005.01.06掲載)




▲蒙古襲来に対処するという大きな役目のためだけに生きたような、短くも烈しい生涯を駆け抜けた北条時宗。

 


 

32年10ヶ月と17日の生涯

永野一男
Kazuo Nagano   【刺殺された豊田商事会長】

(1952.08.01〜1985.06.18)
マンション内で刺殺---獅子座

  • 豊田商事会長。岐阜県恵那市東野に生まれ。
  • 15歳のとき、島根県の叔父の家に預けられ、中学を出た。集団就職で愛知県の「日本電装」刈谷工場に勤めたが、2年で退職。その後、1年ほど経ってから、消火器のセールスをした。
  • 名古屋の不動産会社「名藤富士開発」に入社したが、ここでは給料分だけの仕事をした。この頃から競輪、競馬に凝り始めた。その後、商品取引会社の「岡地」に転職し、ここでは外務員として働いたが、地域ごとに5人ずつに編成されたグループのグループ長に1年ほどで昇進。
  • 21歳にして、年収6、700万円を稼いだ。だが、顧客から預かった3000万円を勝手に小豆相場につぎ込んで、1800万円の穴をあけ、会社をクビに。
  • それから5年ほどは、ダイヤモンド販売のセールスをしたり、職をめまぐるしく変えた。
  • 1981年(昭和56年)4月22日、永野は大阪豊田商事株式会社を設立(当時、社長は道添憲男、永野は副社長)、純金ファミリー証券を販売するペーパー商法を始めた。
  • 「豊田商事」という名前にしたのは、お客さんに自動車会社がバックについていると錯覚させるためである。1982年(昭和57年)4月21日、商号変更して豊田商事株式会社となる。
  • 1985年(昭和60年)4月、関係会社の外交員が逮捕され、大量の書類が押収された。6月15日、外為法違反で豊田商事の強制捜査があり、17日、永野は事情聴取された。
  • 「1985年(昭和60年)6月18日午後4時半ごろ、大阪市北区にあるマンション「ストークマンション扇町」の回りには、約30人のガードマンや、報道陣で人垣が出来ていた。その人垣を押しのけて、2人の男が5階のドアの前に立った。飯田篤郎(56)と矢野正計(30)であった。ガードマンに詰問されると、飯田は、「名前なんかどうでもええ。鉄工所を経営しとるもんや。永野に会いたいんや。開けんかい。お前ら、よう、こんなやつのガードしとるな」と怒鳴った。報道陣の問いかけに、飯田は、「被害者6人から、もう金はいらんから、永野をぶっ殺せと頼まれてきたんや。ドアを開けんかい」と声を荒げ、飯田は報道陣から取り上げたパイプ椅子でドアを激しく打ったが、応答はなかった。矢野が玄関脇の窓のアルミ桟を数回、力まかせに蹴った。2人は折れた桟をはぎ取ると、窓ガラスを蹴破り、呆然としている報道陣を尻目に、部屋に飛び込んだ。報道陣のカメラがいっせいにその窓の中へと集中した。数分後、室内で格闘する声が聞こえてきたのち、飯田が窓から出てきた。血まみれの銃剣を持ち、服にも返り血があった。飯田は胸を張って、周りを見渡した。「殺ってきた。俺が犯人や。警察を呼べ」そう言うと、再び、部屋に戻った。2、3分して2人が出てきた。飯田は勝ち誇ったように言った。「これで死んどらんかったら、またやったる。87歳のボケ老人を騙しくさって、850万円も取ったやつやからな。当然の報いじゃ」これが、豊田商事社長、永野一男の最期だった。これ、リアルタイムで見ていました。あっという間の出来事で、何が起こったのか、呆然としていた記憶があります。なので、詳しく調べてみました。翌1986年3月12日、大阪地裁は飯田に懲役10年、矢野に懲役8年の判決を下しました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 投稿者:センサー石畑さん 2005.01.23(Sun) 19:42

(2005.01.24更新)




▲刺殺された豊田商事会長・ 永野一男。


 

32年10ヶ月と20日の生涯

リチャード3世
Richard III   【ヨーク朝イングランド王】

(1452.10.02〜1485.08.22)
殺害される---天秤座

  • ヨーク朝イングランド王(在位、1483年 - 1485年)。エドワード3世の曾孫ヨーク公リチャードの8男。即位前はグロスター公。戦死した最後のイングランド王。
  • 1484年1月、王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。
  • 幼くして父ヨーク公リチャードを失ったリチャードは、兄エドワードや実力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護をうけて成長した。
  • ウォリック伯の元で少年期を過ごし騎士としての修業を積み、1461年兄エドワードがエドワード4世を称してイングランド王に即位するとグロスター公に叙位された。
  • 政権内の争いから、1470年、エドワード4世がランカスター派に寝返ったウォリック伯によって追放されたとき、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓い、翌年の兄王の復位に貢献した。1472年、 ヘンリー6世の継嗣エドワードの未亡人でウォリック伯の娘でもあったアン・ネヴィルと結婚したことから、1478年、同じくウォリック伯の娘イザベル・ネヴィルを娶っていた兄クラレンス公ジョージが処刑されると、広大なウォリック伯領を独占相続して名実ともに実力者としての地位を確立した。
  • その後、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになる。
  • 1483年、病死したエドワード4世の跡目を襲ったエドワード5世の摂政に就任するや、リチャードはリヴァース伯アンソニー・ウッドヴィルらの王妃一派を捕らえて粛清した。
    エドワード5世とその弟ヨーク公リチャードをロンドン塔に幽閉すると、3ヵ月後の同年6月26日、エドワード5世の正当性を否定した議会に推挙されてイングランド王リチャード3世として即位。
  • 同年10月、リチャード3世政権の樹立に貢献のあったバッキンガム公ヘンリーが反乱を起こすとこれを鎮圧したが、反乱の噂は絶えず政情は不安定なままに置かれた。
  • 1485年、ランカスター派の ヘンリー・テューダーがフランスから侵入し、ボズワースの戦いで自ら斧を振るって奮戦したが殺された。遺体は当時の習慣に従って丸裸にされ晒された。
  • リチャードはシェイクスピアによって、ヨーク朝の後継王朝であるテューダー朝の敵役として性格・容姿ともに稀代の奸物として描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。近代に入って歴史の再考査が行われるようになり、その人物像も再評価されるようになる。最も有名な肖像画(右参照)でも左肩が右肩よりも極端に下がった状態で描かれているが、最新の鑑定結果、後世に加筆されて改竄されていたことが判明している。また、エドワード5世、クラレンス公ジョージ、自らの妃アン・ネヴィルら、多くの人々の暗殺に関わったと伝えられるが、これらもシェイクスピア史劇の創作とされ、今後の真相究明が待たれている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    リチャード3世 (イングランド王)-Wikipedia

(2007.03.01掲載)




▲薔薇戦争の最後を飾るイングランド王リチャード3世。


32年10ヶ月と20日の生涯

森本六爾
Rokuji Morimoto   【弥生時代の稲作文化研究の先駆者】

(1903.03.02〜1936.01.22)
死因?---魚座

  • 桜井市出身。
  • 弥生時代の稲作文化をいち早く指摘しながら学界から無視され、32歳で早世した考古学者。弥生文化研究の基礎を築いた六爾の考古学は多くの門下生によって受け継がれた。
  • 「六爾は独学で考古学を学んだ。県立畝傍中(現畝傍高)を卒業後、小学校の代用教員を経て24年に上京。東京考古学会を組織して雑誌「考古学」を発刊。土器に付いたもみ粒の跡をヒントに、弥生時代に稲作が存在したことを主張するなど多くの論文を残した。死の直後、36年12月に田原本町で唐古池(唐古・鍵遺跡)の発掘が始まり、木製農具が弥生土器とともに出土して六爾の主張が裏付けられた。発掘担当者は六爾の理解者だった京大の故末永雅雄(橿考研初代所長)だった。六爾の短い生涯は、松本清張の初期短編「断碑(だんぴ)」のモデルになった。「日本青銅器時代地名表」「日本原始農業」などの著作あり。「こんにち、弥生時代が農業社会であったことは広く知られています。しかし、昭和の初め頃は、弥生時代がどのような時代なのか、 まだはっきり分かっていませんでした。そんな時期に、弥生文化と農業のかかわりに光をあて、新しい弥生文化研究に、果敢に取り組んだ若い考古学者がいました。森本六爾もりもとろくじです」(1)。
  • 「松本清張の短編「断碑」の主人公でもある。(現在も桜井市大字大泉に生家があり、松本清張もこの家を訪れている。) 」
    「昭和27年、「或る「小倉日記」伝」により第28回芥川賞を受け文壇に出た松本清張氏は、翌28年東京に移り、続いて「断碑」という作品を書きます。そのモデルとなったのが、桜井市出身の森本六爾先生なのです。以下、清張氏の述懐です。〈私が初めて、森本六爾の名を知ったのは九州の新聞社に勤めていたときである。そのころ、同じ職場にいた人が考古学に興味をもっていて、何かと私に話してくれたが、あるとき、とうとう森本六爾もなくなりましてね、夫婦で、考古学と討ち死したようなものです、と感懐深そうにいった。当時、私は森本六爾がどのような人か知らなかった。昭和28年の暮れに、私は東京に転勤となった。このとき初めて、森本六爾の人物を調べてみようと思った。これは彼の伝記が残っていないので、その交遊関係から調べてゆくほかない。私は森本六爾と親しかった国学院の考古学主任教授樋口清之氏に話を聞いた。同教授の話から、森本六爾周辺の人たちが、初めてわかった…〉」(2)。
  • 「六爾の甥(おい)で数学者の森本徹・奈良女子大教授(59)は「わずか10年余の間に激しい情熱を傾けて成し遂げた学問の大きさに深い感銘を受けます」と話す」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「特別展示室−平成15年秋季特別展
    (2)「桜井ふるさと散歩1

(2006.03.23掲載)




▲弥生〜古墳時代等の論考に優れたものを多く残した早世の考古学者・森本六爾。


◆パリ留学時の森本六爾


◆調査ノートや書簡などの遺品=県立橿原考古学研究所付属博物館で

32年11ヶ月と2日の生涯

カレン・カーペンター
Karen Carpenter   【アメリカを象徴する清らかな若者】

(1950.03.02〜1983.02.04)
拒食症に伴う急性不全---魚座

  • 兄リチャードと結成された米国の兄妹ヂュオグループ、カーペンターズのボーカル。
  • 19歳、アルバム『TICKET TO RIDE』でデビュー。セカンド・シングル「遥かなる影」が全米トップ1となる。グラミー賞3回受賞。
  • 妹のカレンはとても美しいヴォーカリストとして良く知られているが、デビュー当時はその声よりもドラムがうまいことで注目され天性のあのヴォーカルは後にプロが見出すこととなる。
  • 70年には初来日。この頃にはもう日本でも人気が出始めていた。アルバム「ナウ・アンド・ゼン」を発表後の日本武道館などの公演の模様はビデオ化されておりライブLPとしても発売された。
  • 順調かに見えた彼らだったが、兼ねてから拒食症に悩まされていたカレンは、拒食症に伴う急性不全のため、カリフォルニアのダウニー記念病院で二度と帰らぬ人となり、グループの活動は終わった。
  • 70年代半ばに洋楽のヒットチャートを独占したカーペンターズは、活動停止状態だった。その理由を「彼らは兄と妹だけど、結婚したのだ」と噂が流れた。
  • この噂にはご丁寧にも「アメリカでは法律上認められていないので、こうしたことが許 されているある外国の小さな島で結婚式をあげたのだ」という補足が付けられていた。
  • カーペンターズの曲は「イエスタディ・ワン・スモア」をはじめとしてポップスのおいしいところをちょいちょいと一つの折り箱に詰め込んだようなものだった。
  • カーバー曲も「ヘルプ!」「涙の乗車券」などビートルズより、カーペンターズの方がぼくにとっては馴染み深く、カーペンターズの方がオリジナルのようだった。
  • カレンの歌声は時のニクソン大統領をして「アメリカを象徴するよ うな清らかな若者」と言わしめたほどだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2007.08.17更新)




▲ 兄リチャードと結成された米国の兄妹ヂュオグループ、カーペンターズのボーカルだったカレン。


32年11ヶ月と19日の生涯

津田恒美
Tunemi Tuda   【炎のストッパー】

(1960.08.01〜1993.07.20)
キャンプ中に頭痛に襲われ入院。脳腫瘍---獅子座

  • プロ野球選手。広島カープ投手。山口県生まれ。投手。右投右打。背番号15。南陽工高から社会人の協和発酵を経て1982年、ドラフト1位で広島に入団。
  • 炎のストッパーは意外にも少年時代は「ノミの心臓」と言われるほど、気の弱い子供だった。球はめっぽう速いが、そんな気の弱い性格が災いしてなかなかレギュラーを奪えずにいた。
  • 「西の江川」 とまで言われ、高3の春、夏と連続して甲子園へ出場した南陽工高は優勝候補の一角とまでいわれるほどだった。しかし、たった1球の弱気が命取りになり南陽工高は2回戦で敗退。
  • 津田は「弱気は最大の敵」という言葉を噛み締めるのだった。ドラフト1位で広島カープへ入団した津田は、球団初の新人王を獲得するなど順風満帆に見えた。
  • しかし、2度のケガに泣き失意のどん底を味わった時期もあっが、不死鳥のように甦った。マウンド上で飛び跳ね、真っ向勝負で打者に挑む姿を見ていつしか「炎のストッパー」というニックネームが付いた。
  • 変化球主体の時代にあって、敢えてストレート勝負にこだわる津田。そのストレートには魂が篭っていて、即席じ ゃない重い真っ直ぐだった。
  • ばねのある綺麗な、しかもダイナミックなフォームから、渾身の力で 投げ込むあの外角ぎりぎりに決まるストレートを今でも脳裏に焼き付けている人は少なくない。
  • もう二度と津田のような真っ向勝負にこだわる男は現れないかもしれない。それだけに、津田という男は語り継ぐに値する男なのだ。その人生は太く短く、わずか32年の生涯であった。
  • そして試合が終わった後の、勝負師とは縁遠いようなあの人懐っこい笑顔が今でも思い出される。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2009.06.28更新)



▲広島カープの「炎のストッパー」だった津田恒美投手。
(イラスト 玉野安実嬢)




 32歳のエポック!

  • アレクサンドロス大王:マケドニア人アレクサンドロス(かつてギリシャ人は、彼の父フリポス二世を決してギリシャの一員として認めようとしなかった)は、ああらゆる非ギリシャ人を二流の人種とする考え方になじまなかった。32歳のあアレクサンドロスは、ペルシャのスーサで、一千人以上ものギリシャ兵とペルシャ女性との集団結婚式を挙行した。ついでにと言っては失礼ながら、彼自身も貴族の娘ロクサネと結婚していたのだが、このとき二人のペルシャ女性(ダリウス三世の娘とアルタクセルクセス三世の娘)を娶った。この結婚式は征服民族と非征服民族の融合と言う彼の願いの表れと思います」(1)。
  • トーマス・エジソン、32歳(1879年)で白熱電球を発明。
  • チャールズ・チャップリン、32歳(1921年)で 『キッド』を発表。独特の扮装とすぐれた人間観察、鋭い社会風刺で名声を得る。
  • ド・ブロイ、32歳(1924年)物質波の考えを発表、波動力学の先駆をなした。
  • バックミンスター・フラー、32歳(1927年)より「ダイマクションDymaxion計画」を推進し、住宅や自動車の設計を行う。
  • 今 東光、プロレタリア文学にも接近するが、32歳(1930年)で出家して天台宗の僧侶となり、以後約20年間、文壇からは遠ざかる。
  • 田河水泡 、32歳(1931年)から雑誌『少年倶楽部』に連載した『のらくろ』シリーズで子ども漫画界を風靡した。
  • クロード・シャノン、32歳(1948年)で『通信の数学的理論』と題する長大な論文を研究所の雑誌に発表。この分野の古典となる。
  • 寺山修司、32歳(1967年)演劇実験室「天井桟敷」主宰・結成し、市街劇など多彩な実験演劇を試み、小劇場運動の担い手となった。
  • 梶原一騎、32歳(1968年)から野球漫画『巨人の星』、ボクシング漫画『あしたのジョー』の連載開始。「スポ根」漫画ブームを巻き起こす。

(1)投稿者:ユリウスさん..2009/ 2/23 12:41:54(月) [4336]

 

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