玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

30-31-32-33-34-35-36-37-38-39

age 35


50音インデックス


■35歳の
 シンクロニシティ



鼠小僧次郎吉
重松 鶴之助
浜田州太


リューボフ・ポポーワ
ベルナデット・スビルー
シンザン
村田 渚
シャルル・フィリップ
芥川龍之介


中島忠幸
アメデオ・モディリアニ
ロバート・スミッソン
穂積由香里
武市 瑞山 /武市半平太
石川五右衛門
尾崎紅葉
ジャコ・パストリアス
鷺沢 萠
広瀬武夫
長塚 節
モーツァルト
S・レイ・ボーン
アンディ・フグ
嘉村磯多
ヘルマン・ゲッツ


■35歳のエポック


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35歳の語録

 

子規は、悟りとは平気で死ぬことではなく、「如何なる場合にも平気で生きて居ることであった」と書くに至る。

「人生は落丁の多い書物に似ている」
(芥川龍之介)

「人生は狂人の主宰になったオリムピック大会に似たものである」
(芥川龍之介)

「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦々々しい。重大に扱わなければ危険である」
(芥川龍之介)

「人生は地獄よりも地獄的である」
(芥川龍之介)

「石川や浜の真砂はつきるとも世に盗人の種はつきまじ」
(石川五右衛門辞世の句)

「食罰の紫にがき葡萄かな」
(紅葉)

35歳のシンクロニシティ!

  • モーツァルト正岡子規が共に35歳前後で他界している。洋の東西、何の関係もない二人だが、享年が同じというだけで何かがシンクロしてくると感じるのはボクだけだろうか。
     
    ●近世以降の音楽史上最大の天才・モーツァルト(1756.01.27〜1791.12.05)は他殺説もあるが、35年10ヶ月と8日で病死(水瓶座)

    ●俳句、短歌の革新を行い、写生の精神で日本語の文章を刷新した近代俳句の開祖・正岡子規(1867.10.14〜1902.09.19)は結核に侵された上、脊椎カリエスで寝たきりになり、34年11ヶ月と5日の生涯(
    乙女座)だった。
      
    もうひとり、日本を代表する名作を残した作家・芥川龍之介(1892.03.01〜1927.07.24)も睡眠薬自殺して35年4ヶ月と23日の生涯(魚座)を閉じた。
    ●さらに、エコール・ド・パリの代表的画家、彫刻家アメデオ・モディリアニ(1884.07.12〜1920.01.24)も貧窮による栄養不足などから結核性大脳皮質炎で35年6ヶ月と12日の生涯(蟹座)を終えた。

    (2008.02.12更新)
             



35年?の生涯

鼠小僧次郎吉
Jirokichi Nezumikozo   【義賊と呼ばれた大泥棒】

(1797.?〜1832.09.13=寛政9年〜天保3年8月19日)
獄門打首---?座

  • 本名、次郎吉(じろきち)。あわせて「鼠(ねずみ)小僧次郎吉」と称される事もある。
  • 本業は鳶職であったと言われ、義賊の伝承で有名な人物。盗んだ金を貧乏人たちにバラまいて「義賊」と呼ばれたといわれる大泥棒。
  • 歌舞伎の中村座の木戸番の長男で建具職人をしていたが、バクチで身を持ち崩し借金に追われて、無宿人となり、1823年頃から武家屋敷に泥棒に入るようになる。
  • 武家屋敷を狙うのは別にお金のありそうな所を狙おうという意味ではなく、武家屋敷は被害にあっても届け出ればむしろ「盗賊などにやられるとは不届き至極」とおとがめを受ける可能性があるので、まず届けることはなかったため。彼は身のこなしが軽く、ひとけのない所をうまく狙って盗んだので人を傷つけることなく、しかも処分に困るような物品には手を付けず現金だけを狙った。
  • 1825年には一度捕まって入墨の上追放の刑を受ける。十両盗めば首が飛ぶ時代にこの刑はやはり被害届が出ていなかったから。
  • しかし彼はこれで泥棒から足を洗わず、更に盗みを続け、とうとう天保3年(1832)5月8日、松平宮内少輔の屋敷に忍び込んだ所を捕まる。今度は二度目なので刑も厳しく、市中引廻しの上鈴ヶ森刑場で打首獄門になった。
  • 彼のお墓が回向院にある。伊勢屋四郎兵衛という商人が施主となって、建ててあげたものだそうだが、その墓石は「盗人の墓を削り取ったものを持っていればギャンブルに強くなる」という俗説のため大量に削り取られているという。なお彼の実際の行いについては後世の創作による部分が膨らみすぎてよく分かってい。本当に盗んだ金をばらまいていたかについても疑う人が多いという。
  • 「鼠小僧の伝説を要約すると「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与える」というものである。事実、彼がつかまった後で役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると、彼の生活が分をわきまえたつつましやかなものである事から、盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる。しかし現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金の殆どは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代において、大名屋敷を専門に徒党を組む事無く一人で盗みに入った事から、江戸時代における反権力の具現者として祭り上げられた。ただし鼠小僧自身にそのような意図は全く無く、当時は大名屋敷の警備が非常に手薄であったため、江戸において最も大金を盗み易いジャンルの家であったと言うだけのことであった。(町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代などに代表される江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の惧れを幕府に抱かせる惧れのある事を理由とし、警備を厳重にできなかったものと考えられ、また面子と体面だけは必死に守るために発覚しても被害を公にできないという事実があった)」(1)。
  • 「当時の処刑は連座制が適用されていたが、次郎吉は勘当されているために親兄弟とは縁が切れており、数人いた妻にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡しており、天涯孤独の身として刑を受けた。これがまた、鼠小僧を義賊たらしめる要因の一つとなっている。(自らの行いに対し、あらゆる人間を巻き込まないという行動傾向)。墓は、両国の回向院(えこういん)にある」(2)。
  • 「鼠小僧次郎吉をバイボにリクエストします。鼠小僧が辞世を残すような教養人であったかどうかについては、疑問の余地があります。あるいは後世人の創作かも知れません。それでもバイボには、この辞世で飾ってやって欲しい。
    天が下古き例はしら浪の身にぞ鼠と現れにけり〉(3)。
  • 「ねずみ小僧と言えば、大名屋敷などから大金を盗み、貧しい庶民に配ったという伝説が有名。義賊と称(たた)えられる大泥棒は江戸時代に実在した。東京・両国国技館の近く、「回向院(えこういん)」にあるお墓を小紙都民版が紹介していた。お参りすると受験に御利益があるという。大名屋敷のごとく立ち入りの難しい関門をくぐり抜けるから、とか、ねずみ小僧の戒名〈教覚速善居士〉が「教えを速やかによく覚える」と読めるから、とか、由来は諸説あり。ネズミ年は特に、願掛けに訪れる人が多いらしい」(4)。
  • 奇しくも、安土桃山時代の大盗賊・石川五右衛門も同じく35歳で逝っています。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    鼠小僧次郎吉(1797-1832)
    {1)(2)「鼠小僧 - Wikipedia
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.03.01(Wed) 13:26[1123]
    (4)読売新聞2008.02.09夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2008.02.10掲載)



▲江戸時代後期、化政時代に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯・鼠小僧次郎吉。


 


◆鼠小僧次郎吉の墓:東京都墨田区両国2−8−10 諸宗山 回向院

35年?の生涯

重松 鶴之助
Tsurunosuke Shigematsu     【画家で、左翼運動家】

(1903.?〜1938.11.30)
自殺---?座

  • 松山市生まれ。旧制松山中学校に入学。
  • 伊丹万作、伊藤大輔、中村草田男らと同志であった。また、後に映画監督となる山本薩夫の実兄でのちの建築家・山本勝巳もメンバーで、大学中退後の山本を伊藤に推薦し松竹に入れたのは重松であった。
  • 松山中を中退して上京。岸田劉生に心酔、影響を受け、春陽会、国画会に入選。1926年、東京府美術館での同館開館記念「第1回聖徳太子奉賛美術展」に、代表作となる「閑々亭肖像」を招待出品するなど活躍した。
  • 中学同級生でグループ共通の友人だった白川晴一の影響も受け、1931年日本共産党に入党。東京市委員会などで活動し、後に党関西地方委員会責任者となった。
  • 1933年秋、姫路連隊の出征兵士へ反戦ビラを配布し同年12月に逮捕。検挙、7年の刑を受け投獄されつつ、非転向を貫いた。
  • 満期釈放される朝、堺市の大阪刑務所で自殺。「背後関係に就いては遂に一語をも吐かず、…階上の訊問室から石畳に身を投じて自ら命を絶ったと伝へられた」と伊藤は書いている。また、増山太助『戦後期左翼人士群像』(つげ書房新社、2000年)は「何のために自殺したのか、その原因は未だに不明なままである」としている。
  • 1981年5月3日、NHK「日曜美術館」で山本薩夫出演で「私と重松鶴之助」が放映された。
  • 2003年10月11日〜11月16日、久万美術館で、「開館15周年記念自主企画展 生誕100年 重松鶴之助-よもだの創造力- 伊丹万作 中村草田男 伊藤大輔 『楽天』の仲間たちとともに」が開催された。
  • 現在までに確認されている重松の油彩は「自画像」1922年、「立秋の河原」1923年、「閑々亭肖像」1926年、「父重松宗五郎の肖像」など12点。そのうち10点を愛媛県久万高原町町立久万美術館が所蔵している。
  • 参考文献 :洲之内徹『気まぐれ美術館』新潮社、1978年/敷村寛治『風の碑 白川晴一とその友人たち』光陽出版社、2004年

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    重松鶴之助- Wikipedia

(2012.02.20掲載)



▲松山時代、雑誌『白樺』の影響を受けて芸術家志望の若者らと文芸や絵画の回覧雑誌『楽天』を発行っした重松 鶴之助。

 





35年?の生涯

浜田州太
Syuta Hamada   【“命”で撮ったSL】

(1970.?〜2005.01.25)
病死---?座

  • 兵庫県出身。写真を趣味にしてきた父親の影響で、中学生の頃から本格的に鉄道を取り始める。
  • 大学時代にはSLや地方の私鉄などの風景を追いかけて全国を回っていたという。卒業後は大手カメラメーカー「コニカ」(現コニカミノルタ)に入社。
  • 中国では長くSLが生活の足として利用されてきたが、近代化の歩みとともに、引退する車両が増えた。
  • 浜田さんはSLの勇姿を残そうと2002年から中国に4回渡航。蒸気機関車(SL)の勇姿を求めて中国へ撮影旅行を繰り返した。
  • 時には氷点下30°にもなる酷寒の中での撮影が続いたためか、体調を崩し、帰国後に35歳の若さで病死。
  • 「浜田州太」拝見しました。自分も日本全国(といっても北海道以外)鉄道でいろんな所に行っては写真を撮っていますが、中国まで渡ってSLの撮影をするくらい自分よりももっとスケールの大きい人がいたなんてと感心してしまいました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2006.09.08朝刊「都民版」より抜粋、リライト。
    (1)投稿者:MA-CHAさん 2006/ 9/17 02:07:29(日) [259]

(2006.09.17更新)



▲アマチュアカメラマン浜田州太。

 





35年1ヶ月と1日の生涯

リューボフ・ポポーワ
Liubov S. Popova    【ロシア構成主義を代表する芸術家】

(1889.04.24〜 1924.05.25)
死因?---牡牛座

  • 色彩とフォルムが調和したバランスのよい構成主義的絵画を多く残したている。
  • モスクワで生まれてモスクワで没した。「リューボフ・ポポーヴァ」や「リューボフィ・ポポーワ」と記載されることもある。
  • パリのジャン・メッツァンジェの元などでキュビスムを学び、未来派をも吸収する。
  • ロシアに戻り、1913年頃からウラジーミル・タトリンのもとで働く。「ダイヤのジャック」とも、その後期には接点を持った。
  • 色彩とフォルムが調和したバランスのよい構成主義的絵画を多く残した。
  • 1920年代には、織物、染色、舞台装飾(フセヴォロド・メイエルホリド作品「堂々たるコキュ」(1922年)など)、衣装、家具デザインなど広い分野で活躍した。
  • また、ヴフテマスなどにおいて後進の教育にも参加した。
  • 「他の芸術分野でどんなに成功しても、私の作った洋服を着た農婦や女性労働者だちの姿ほど深い喜びをもたらしてくれたことはない」(ポポーワ)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    リューボフ・ポポーワ - Wikipedia
    リューボフ・ポポーワ - 美術辞典

     

(2010.07.14掲載)



▲主にロシアで芸術活動を行った前衛画家・彫刻家・芸術家リューボフ・ポポーワ。




▲『ピアニスト』(1914年)

 





35年3ヶ月と9日の生涯

ベルナデット・スビルー
Bernadette Soubirous          【ルルドの奇跡】

(1844.01.07〜1879.04.16)
肺結核---山羊座

  • 彼女は『ルルドの泉』で有名。出身はフランスとスペイン国境付近のピレネー山脈のふもと、フランスの南西部のルルド村(現、オート=ピレネー県)。
  • ヌヴェール愛徳修道会の修道院で修道女になり、1879年4月16日、35歳の若さでなくる。
  • その後、死後30年経った1909年9月22日、お墓を掘り返してみるとまったく腐敗をしておらず生前のままだったと言う。
  • それから約16年後の1925年4月18日、再度、墓が掘り返されたのですが相変わらず同じ状態であった為「奇跡だ!」という事でヌヴェールのサン・ジルダール教会に移され一般にも公開され、現在に至る。ですが実際は2回目に掘り返した時に腐敗が進んでいた為、内臓を取り除き生前の写真を基にロウで精巧にマスクを作り、遺体の顔にかぶせて公開されている。
  • 「ルルドの奇跡の調査にあたったタルブのローランス司教は1862年に次のように報告している。〈われわれは、神の母である無原罪のマリアが、ルルドの町に近いマッサビエルの洞窟で2月11日から18回、実際にベルナデッダ・スビルーの前に出現したこと。この出現があらゆる真実味を帯びていること、信者たちがこれをたしかな事実として信じていることを正当と判断する。〉ローマ教皇もルルドの奇跡を本物と認めて、ベルナデッダを聖人のひとりに列した。教会の承認、聖堂の建設、鉄道網の整備、小説『ルルド』(エミール・ゾラ、1894)出版、聖母被昇天修道会の活躍、奇跡的な治癒の医学検証などの出来事を経て、ルルドは巡礼の聖地として確立されていく。ルルドの泉の水は多くの病人を奇跡的に治癒していると評判が広がった。現在では毎年130カ国から600万人以上がルルドの聖域を訪れている。ルルドの聖地化で興味深いのは、核となる聖母マリアの出現を実際に見たのは内気な少女ベルナデッタただひとりだということ。他の人々は何かを見ているベルナデッタの姿を見たに過ぎない。キリスト教の神はひとりの人間またはごく少数の限られた人々の前に姿を現してメッセージを託す伝統があるが、ルルドもまたその一例である。それから、ルルドへ行けば病気が治るとして病人の巡礼者が多いが、医学検証による奇跡的な治癒の公式認定者はこれまでにたった67人しかいない。教会はルルドの聖性は承認したが、そこで起きる奇跡を簡単には認めたがらない。それにも関らず、巡礼者は増えていく。結局、みんな信じたいのだ。19世紀の目撃以降、信じたかった人たちの働きが、いくつかの幸運にも助けられて、この聖地と大規模な巡礼運動をつくりだしていった。信じたい人たちが信じる人たちを増殖させていったのが、ルルドの奇跡の実態だったのではないか」(1)。
  • 「公式サイトに依りますと、誕生日は1844年1月7日との事ですし、当然乍ら肖像も在りますが、転載の可否に関しては判然としません。(こちら)と言う事で、矢張り無難なのは此方でしょうか………。(こちら)」(2)。
  • 「こんなサイトもありました。(こちら)ここベルギーからもルルドに参る人がいると訊きますが、謂れは知りませんでした。私の村にもルルドの聖母像に似た、人口の洞窟に祭られた聖母マリア像があります。何の御利益があるのかは知りませんが、いつ見ても蝋燭に火が灯っています」(3)。
  • ルルドには特別の想いがあります。大分別府の児童養護施設(こちら)の設計者を決めるコンペにおいて現地説明を受けた時、コンペ要項にはなかったのですがボクの密かな悩みは「敷地内にあるルルド像を何処に移すか」(写真下左)でした。設計者に選定されてからもこの悩みは続きました。---設計図にはセンター施設の玄関の横にニッチとしてしか表現してなかったので、ボク以外はベンチか何かとしか思っていなかったでしょう。完成して、倉庫にしまってあったルルド像をそっとそこに置きました(写真下右)。みんなビックリして喜んでくれました。今は亡き写真家の石松さんに珠玉の写真を残して頂きました。
  • 「彼女の死因についてですが、生前は喘息とか右膝結核性関節腫瘍も患って居た様ですが、此方にはTuberculosisと有りますから、肺結核と言う事で良いと思いますし、併せてスペルの件も解決ですね。(こちら)」(4)。
  • 「素敵な玄関ですね・・・特に暗闇の中の・・・しばらく見とれてしまいました。...Thanks to God.。あす生誕152周年を迎えるディーゼルの略歴が(こちら)にありました」(5)。
  • 「たまさん、やさしいお顔のルルド像ですね。小窓があるのが素敵です!そこからきっとやさしい太陽の光と風がはいるのでしょうね」(6)。

     




    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヨーロッパのどこかの教会に聖女の遺体が安置されていて、何百年も前に ...
    (1)「ルルドの奇跡 聖母の出現と病気の治癒
    (2)投稿者:Thori_Tungさん..2010/ 3/16 07:25:45(火) [7253]
    (3)投稿者:みさん..2010/ 3/16 18:30:53(火) [7254]
    (4)投稿者:Thori_Tungさん..2010/ 3/17 11:21:14(水) [7258]
    (5)投稿者:イアさん..2010/ 3/17 21:12:25(水) [7259]
    (6)投稿者:J さん..2010/ 3/18 01:12:27(木) [7261]

(2010.03.18掲載)



▲聖母マリアの出現を実際に見たという内気な少女ベルナデット(ベルナデッタ)・スビルー。

 





35年3ヶ月と11日の生涯

シンザン
Shinzan    【日本競馬史上有数の名馬】

(1961.04.02〜1996.07.13)
死因?---牡羊座

  • 性別:牡、毛色:鹿毛、品種:サラブレッド。
    父:ヒンドスタン、母:ハヤノボリ。
    生産:松橋吉松、生国日本、馬主橋元幸吉
    調教師:武田文吾(京都)
    競走成績:19戦15勝(2着4回)
    獲得賞金:6021万9700円(当時1位)
    担当厩務員は中尾謙太郎。
  • 通算成績は19戦15勝、しかももすべて連対(1着および2着)で、これは今も中央競馬レコードである。
  • 種牡馬としても内国産不遇の時代ながら成功を収め、二冠馬ミホシンザン等数多くの優駿を輩出した。その他にも軽種馬の長寿記録を保持している。
  • 1964年〜1965年年度代表馬。のち1984年顕彰馬に選出された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2005.11.05掲載)



▲日本競馬史上有数の名馬であり、1964年に戦後初の三冠を達成した他、有馬記念、天皇賞(秋)に勝つなど活躍したシンザン。


◆シンザン像(京都競馬場)

35年3ヶ月と14日の生涯

村田 渚
Nagisa Murata   【「鼻エンジン」のメンバー】

(1971.07.29〜2006.11.12 PM4:45)
くも膜下出血---獅子座

  • 本名:村田 渚(むらた なぎさ)三重県出身。
  • 1991年、桶田敬太郎と「フォークダンスDE成子坂」(ツッコミ担当)としてデビュー。フジテレビ系の人気お笑い番組「ボキャブラ天国」などに出演。
  • 1999年、「フォークダンスDE成子坂」解散後、当時所属していたホリプロを離れ、2000年から佐野忠宏と路上トークライブを行うなどフリーのピン芸人として活動を開始。
  • その後、ピンでホリプロコムに所属していたが、2005年3月31日付で退社。同年5月、元坂道コロンブスの松丘慎吾と新コンビ「鼻エンジン」を結成。
  • ソニーミュージックアーティスツに所属し、NHKの「爆笑オンエアバトル」などに出演。 同コンビを結成してすぐにM-1グランプリ2005に参戦、準決勝まで勝ち残る。
  • 2006年11月12日、自宅マンションの布団でうつぶせになって死亡しているのを発見される。
  • 警視庁荏原署によると、携帯電話に応答しないことを不審に思った所属事務所が管理人に連絡を取ったという。直前に体の不調を訴えていた。警視庁荏原署は13日に行政解剖を行った結果、死因はくも膜下出血と分かった。享年35歳。
  • 遍歴:フォークダンスDE成子坂(ホリプロ)→村田渚(フリー)→村田渚(ホリプロ)→村田渚(ホリプロコム)→鼻エンジン(ソニーミュージックアーティスツ)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    村田渚とは - はてなダイアリー

(2007.03.08掲載)



▲元坂道コロンブスの松丘慎吾と新コンビ「鼻エンジン」を結成しM-1グランプリ2005に参戦した村田 渚。



35年4ヶ月と17日の生涯

シャルル=ルイ・フィリップ
Charles-Louis Philippe   【夭折したフランスの作家】

(1874.08.04〜1909.12.21)
死因?---獅子座

  • 35歳という若さで夭折したフランスの作家。フランス中西部の小さな町セリイという小さな町に木靴職人の子として生まれる。双子の妹がいた。英語読みではチャールズ。
  • フィリップが生まれた年には町の人口は約2900人、それが1900年になると町の人口は約1600人になってしまっていた。リセ卒業後パリに出て、市役所勤めのかたわら創作活動。娼婦との同棲体験から生まれた小説『ビュビュ・ド・モンパルナス』を発表。
  • 繊細で熱烈な短い生涯を送ったフィリップは、ラルボージッド、エリ・フォールらと交友をもつ 。
  • 『小さな町で』 (みすず書房)はフィリップの傑作短篇集。
    フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップが、パリの新聞ル・マタンに掲載した49編のごく短い小説のうちの26編に、2編の作品が加えられて28編入った「小さな町で」という本に収録された全作品と、残りの作品が収録された「朝のコント」という本から抽出した5編が加えられたのがこの翻訳本。 この本に収録した作品のほとんどは、そのセリイという小さな町が舞台。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2006.09.08更新)



▲繊細で熱烈な短い生涯を送ったフランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ。


◆『小さな町で 』
シャルル=ルイ・フィリップ[著]
山田稔/[訳](みすず書房)。

◆帰宅/求婚/小さな弟/箱車/アリス/いちばん罪深い者/聖水/贋金/犯罪の後で/自殺未遂/素朴な人々の死/老人の死/来訪者/降誕/ジャン・モランタン/ある生涯 /やきもち/ふたりの乞食/火口屋の娘/囚人の帰宅/無言/お隣同士/強情な娘/火あそび/子供の悲しみ/犬の死/ふたりの泥棒/死にぞこない/バターの中の猫/仔犬/再会/ティエンヌ/ずるやすみ。

35年4ヶ月と23日の生涯---2007年没後80年

芥川龍之介
Ryunosuke Akutagawa  【侏儒の言葉の生みの親】

(1892.03.01〜1927.07.24)
睡眠薬自殺---魚座

  • 東京京橋入船町にうまれる。号は澄江堂主人など、俳号は我鬼。東大英文科卒。長男比呂志は新劇俳優、三男也寸志は作曲家。
  • 早くから天才ぶりを発揮。在学中「新思潮」に参加し『鼻』を夏目漱石に認められた。翌25歳で第1創作集『羅生門』で新進作家随一の地歩を占める。
  • 以後、主題・題材も、『芋粥』など『今昔物語集』の説話から材をとったもの、『奉教人の死』などキリシタンもの、『枯野抄』『戯作三昧』など江戸を舞台にしたものと多岐にわたる。
  • 文体や結構も題材に応じて変える、理知的・意識的な小説作法を示した。しかし心身の衰弱とともに次第に作風は変化し、『玄鶴山房』『河童』を発表後自殺。ほかに『地獄変』『藪の中』や、童話『蜘蛛の糸』など。遺稿に『歯車』『或阿呆の一生』。
  • 芥川の母は芥川の生後九ヶ月ころ発狂した。芥川自身も強度の神経衰弱を病んだり、家庭的な問題で悩んでいた。友人の久米正雄には「自分は発狂する前に死ぬ」と語っていたという。
  • 自殺は2年前から考えていたらしい。昭和2年7月23日の夕方に家族と夕食を共にし、その夜、24日未明、未来に対する「ぼんやりした不安」という理由を遺書に残し、睡眠薬自殺。
  • 夫人には「いつもの睡眠薬を飲んだ」といったという。夫人や菊池寛ら友人あてに遺書が4通あった。
  • 「近代作家では随一の読書量といわれる芥川龍之介は、食事中も書物を離さず、普通の英文学書ならば一日1200〜1300ページは楽に読んだという」(1)。
  • 「芥川龍之介は、精神の病を、はじめて文学の主題にした作家だったと思う。その意味できわめて現代的作家だったと思う。芥川にとっての精神の病とは、自分が自分であることの根拠が崩れていくことの不安である。自分で自分がわからなくなる。もうひとりの自分がいるように感じられてくる。自己分裂、離魂現象、分身幻想。とりわけ「ドッペルゲンゲル」(もうひとりの自分がいるという幻想)に悩まされ『二つの手紙』(大正年)、『影』(昭和2年)などの作品でその不安をメランコリックに描き続けた。---最後には、飛行機で天空を飛んでいる人間は、次第に地上の空気に耐えられなくなるという「飛行機病」にまで囚われていった。芥川の見ようとした精神の闇は、確実に現代人の心も浸している」(2)。
  • 「『羅生門』のなかの「老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されている」という一文。この「全然」は誤法に近いのでは?」(3)。
  • 「芥川龍之介は名文意識に振り回された。「で」とか「が」という濁点付の仮名が嫌いで、二日も三日も悩んだ」(4)。
  • 「〈芥川君の死因については種々の複雑な想像が行われたが、そういういろいろの原因の上に、あんまり暑いので腹を立てて死んだのだろうと私は考えた〉作家の内田百間が「河童忌」と言う文章に書いている。〈ぼんやりした不安〉を抱いて芥川が命を絶ったのは1927年の暑い盛り、7月24日である。芥川にこと寄せて、暑さに立腹したのは百間自身であったかも知れない」(5)。
  • 「芥川龍之介が「河童」に書いている。〈最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑(けいべつ)しながら、しかもそのまた習慣を少しも破らないように暮らすことである〉」(6)。
  • 「恋愛は閑人の行為と断じた芥川龍之介:〈ウェルテル、ロミオ、トリスタン---古来の恋人を考えて見ても、彼らはみな閑人ばかりである〉」
  • 〈我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化していない〉(芥川龍之介『河童』)---河童は人間よりも進化している。したがってより不幸だ。このロジックを、笑いとともに受容できるくらいでないと、芥川龍之介の優秀な読者になれない」(7)。
  • 「芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄、菊池寛らの有名な作家や詩人は、大正から昭和にかけて田端(北区)の半径約500メートルの地域に固まって暮らしていた。この地域は、作家の近藤富枝さんが「田端文士村」という本を出してからクローズアップされるようになった。---1927年(昭和2年)芥川が自殺したことで中心人物を失い徐々に姿を消していった」(8)。
  • 「(短編『馬の脚』は)面白さと闊達さという点で屈指の短編といえる。シュールな展開という点ではゴーゴリやカフカを彷彿とさせる」(9)。
  • 「たばこ好きだった芥川龍之介に、その伝来をめぐる『煙草と悪魔』という短編がある。宣教団にまぎれた悪魔が、タバコの種を耳の穴に隠して日本に持ち込み、栽培する。だが、そのうち正体がばれて追放される。かくて悪魔は、日本人の肉体と魂を奪うのには失敗する。その代わり、たばこを広めるのに成功した。そんな、たばこの誘惑と害を隠しテーマにした話である。くゆる紫煙は、好きな者には天使の香りでも、嫌いな人には悪魔さながらだ。天使と悪魔は、同じ場所で穏やかには暮らせない」(10)。
  • 「きょうは芥川龍之介の忌日にあたる。「あんまり暑いので、腹を立てて死んだのだろう」と述べたのは作家の内田百間だが、芥川がみずから命を絶った83年前の気温は35〜36度とか。午前中に各地で37度を超す今年は、それをもしのごう」(11)。
  • 辞世の句は「水涕や 鼻の先だけ 暮れ残る」
    ---「死して尚 鼻でせせらふ 河童かな」 (たま川柳)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)『芥川龍之介の読書遍歴』
    (2)読売新聞2004.04.18朝刊「現代人に通じる精神の闇」川本三郎
    (3)読売新聞2004.04.18朝刊 福島県の高校2年生 山口さん
    (4)朝日新聞2004.18井上ひさし+小森陽一編著『座談会 昭和文学史1〜6』の栗田旦の書評
    (5)読売新聞2004.07.21朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (6)朝日新聞2005.06.22朝刊「天声人語」より抜粋。
    (7)読売新聞2006.05.11朝刊「言葉を生きる」(出口裕弘)より抜粋。
    (8)読売新聞200612.06朝刊「とうきょう歴史散歩」より抜粋・リライト。
    (9)読売新聞2007.07.06朝刊より抜粋 ジェイ・ルービン。
    (10)朝日新聞2008.04.28朝刊「天声人語」より抜粋。
    (11)読売新聞2010.07.24朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2010.11.06更新)


◎「ぼんやりした不安」

▲日本を代表する名作を残した作家・芥川龍之介。
(イラスト 玉野安実)


▲学生の頃。


▲1921年(29歳)頃。


▲最後とされる写真。


▲イラスト 南伸坊 (読売新聞)

龍之介語録

◆「人生は狂人の主宰になったオリムピック大会に似たものである」

◆「人生は落丁の多い書物に似ている」

◆「権力も畢竟はパテントを得た暴力である」

◆「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦々々しい。重大に扱わなければ危険である」

◆「人生は地獄よりも地獄的である」

◆「青蛙おのれもペンキぬりたてか」

◆「僕は滅多に憎んだことはない。その代わりには時々軽蔑している」

◆「偶然すなわち神と闘う者は常に神秘的威厳に満ちている。賭博者もまたこの例に漏れない」

◆「道徳は常に古着である」

◆「我々人間の特色は、神の決して犯さない過失を犯すということである」

◆「幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと」

◆「政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののこと(侏儒の言葉)」


35年6ヶ月と6日の生涯

中島忠幸
Tadayuki Nakashima  【「カンニング」のメンバー】

(1971.06.14〜2006.12.20 AM11:46=昭和46年〜平成18年)
白血病ウイルス性肺炎---双子座

  • 福岡県生まれ。1992年、吉本総合芸能学院(NSC)で小学校からの同級生、竹山隆範と漫才「カンニング」を結成。
  • 東京・中野の総菜店の副店長をしながらの下積みが続いたが、2003年ごろに貧乏をネタにした自虐漫才でブレーク。怒鳴る竹山に、戸惑う中島さんというスタイルを築き、売れっ子に。
  • 2004年12月から、急性リンパ球性白血病で入院していた。2006年夏ごろは骨髄移植の手術を行い、その後、退院して自宅からの通院で治療を続けていた。一時快方に向かっていたが、11月末に再入院した。
  • 12月19日に容体が急変し、帰らぬ人となった。趣味は魚釣り、特技は料理。168センチ、血液型O。
  • 先月末に体調不良で再入院したが、相方の竹山は今月5日のイベントの会見で「入院したり退院したりですが、徐々に快方に向かっていまして。来年春にまた一緒にやる計画があります。入退院を繰り返していますが、生きていることは確かです!」と、相方の復帰を心待ちにしていた。しかし19日、中島さんは肺炎を併発し容体が急変。そのまま帰らぬ人となった。竹山は中島さんの容体を気にしながらバラエティー番組の収録に参加。最期をみとることができなかったが、スタッフを通じて悲報を知り大きなショックを受け、この日深夜のラジオのレギュラー番組も「心の整理が付かない」と出演を取りやめた。
  • 中島さんは92年に小学校の同級生の竹山とカンニングを結成。日本テレビ「エンタの神様」で03年から人気が出始めた。私生活でも、04年に3年間交際した夫人(35)と結婚した。同年9月に長男が誕生し、公私ともに順調だった。だが、長男誕生直後の12月、体調不良を訴え検査入院。その結果、白血病と分かり、長男と初めて過ごすはずだった正月は、病院のベッドで迎えていた。
  • カンニングは現在のお笑いブームに火を付ける人気コンビで、将来が有望視されていた。しかし、最も注目を浴びたはずの時期に中島さんは闘病生活を送った。病床から竹山にメールでアドバイスやダメ出ししながら、相方の隣に立つ日を待望していた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2006.12.22掲載)




▲漫才コンビ「カンニング」のツッコミで知られた中島忠幸。




◆カンニング:竹山隆範


◆13年目のフレッシュ若手コンビ?キレまくる竹山に戸惑う中島。 そんな二人はいつも叫ぶ!「誰が売れてやるか〜!」


35年6ヶ月と12日の生涯

アメデオ・モディリアニ
Amedeo Modigliani    【モンパルナスの灯】

(1884.07.12〜1920.01.24)
貧窮による栄養不足などから結核性大脳皮質炎---蟹座

  • 北イタリアのリボルノの裕福なユダヤ人家庭に生れる。
  • 22歳でパリの土を踏み、彫刻家ブランクーシに傾倒。30歳まではアフリカ民族に伝わる彫刻の研究と制作に没頭するが、飲酒と麻薬の耽溺による身体の衰弱や、材料費の不足のために断念。画家に転ずる。
  • 人物を主題にした作品が多いが、とりわけ恋人ジャンヌをモデルにした裸婦像は、大胆な官能性と単純化された量感のなかに哀調をたたえて、独特の美を作り出している。
  • 安易な成功を拒む理想主義者でありながら、酒浸りの日々を過ごした。生前全く認められず、貧困と過度の飲酒による荒廃した生活の中で、理想と現実の間に引き裂かれて死んだ。
  • 横たわる裸婦という古典的なモティーフと、近代的な量感の捉え方、明快さ、あからさままでの肉感性。美の探求と、地上的な人間への関心。
  • 極端ななで肩、長い首、楕円形の輪郭、そして瞳はなくとも、描かれたモデルの性格や心理までも映し出すようなまなざし。不安と苦悩、そして激しさを隠そうともせず、多くの芸術家が集まる街で、熱狂的に、本能的に多くのスケッチを描き、創り上げられたその作風。20世紀の初頭、自由と芸術の街、華やぐパリ・モンパルナスを舞台に、短く、そして時に激しく生き抜いた彼の36年の生涯は、小説や映画となり、今なお人々に伝説として語り継がれている。
  • 子どもの頃「ひょっこりひょうたん島」を毎日楽しみにしていた。ここに登場する人形はあきらかにモディリアニの彫刻を参照していた。
  • 「もしもモディリアニが静物画を描いたら?」このコンセプトで描いた高校二年の時の油絵が、山梨県の読売文化賞になった。いまだにボクの最高傑作。モディリアニよ恩にきます。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)


    ▲自画像。

(2008.05.08更新)


★神に愛された天才★

▲エコール・ド・パリの代表的画家、彫刻家・アメデオ・モディリアニ。
(イラスト 玉野安実)


▲タッシェン・ニュ−ベ−シック・ア−トシリ−ズ
アメデオ・モディリアニ


◆「モンパルナスの灯 58仏」
モジリアニの伝記映画(監督・脚本 ジャック・ベッケル ・ 出演 ジェラール・フィリップ(ジェラール・フィリップは、映画公開翌年にモジリアニと同じ36才で亡くなった)/アヌーク・エーメ/リノ・バンチェラ)。




35年6ヶ月と18日の生涯

ロバート・スミッソン
Robert Smithson   【ランドアートの創始者】

(1938.01.02〜1973.07.20)
飛行機の墜落で死亡---山羊座

  • ニュージャージーに生まれ。60年代の終わり頃からミニマル・アートに影響を受け、またこの頃から「スラッグ」(鉱滓、からみ、溶鉱炉で鉱石を溶練するときに出る非金属性のカス)を被写体としてとりあげる。
  • 66年頃からドナルド・ジャッドらとニューヨーク郊外ニュージャージー州の石切場などをフィールド・ワークし、その結果をギャラリーに「非ー場所」として展示。
  • 60年代末から70年代初頭にアメリカ南西部の砂漠や荒野を舞台にデ・マリア、M・ハイザーらとともに屋外環境を利用した大規模なプロジェクト作品を展開。
  • のちにランドアート、アースワークと呼ばれる表現を開拓。彼は、サイト(場所)とノンサイト(非-場所)とが対話する風景をつくる。
  • 主な作品には、三枚の鏡で開かれた立方体をつくり、コーナーに岩塩を置いた「コーナー・ピース」(31歳)や、「スパイラル・ジェッティ(渦巻き型の突堤)」(32歳)など。
  • 彼の作品の核心はエントロピー概念にある。秩序から混沌へ、混沌から秩序へと両義的な法則性の検証が、創造と破壊そして人工と自然の瀬戸際に探求された。好んで用いるのは「エントロピー」という概念で、人工物と自然物を対比させてその双方に恒常的な安定がないことを示した。
  • 「1973年7月20日、スミッソンはテキサス州でのプロジェクト『Amarillo Ramp』の予定地を探していたときに飛行機の墜落で死亡した。(以上、ウィキペディアより)」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ((1)投稿者:Miwa さん..2009/ 5/ 7 12:31:19(木) [4744]

(2009.05.08更新)




▲ランドアート、アースワークの創始者・ロバート・スミッソン。


▲《螺旋状の突堤》(1970年)

 


▲“スパイラル・ジェティー”施行中のスミッソン

35歳8ヶ月と2日の生涯

穂積由香里
Yukari Hozumi  【「積木くずし」のモデル】
 

(1967.12.16〜2003.08.18)
心不全---射手座

  • 俳優、穂積隆信の長女で280万部の大ベストセラー「積木くずし」のモデルとなった元タレント。本名・鈴木由香里。
  • 穂積の所属事務所などによると、由香里さんは都内にある自宅の自室ベッド脇で亡くなっているのを家人が発見。
  • 由香里さんは昭和58年にトルエン所持、60年に覚せい剤取締法違反で逮捕。61年に芸能界デビューしたが、平成2年に再び覚せい剤取締法違反で逮捕された。
  • 「積木くずし」は非行少女と家族の対立を描いた記録で、穂積が昭和57年に出版した。非行に走る娘と父親とのかっとうを描き、280万部の大ベストセラーとなった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「SANSPO.COM」

(2004.07.05更新)




▲俳優、穂積隆信の長女で280万部の大ベストセラー「積木くずし」のモデルとなった元タレント。本名・鈴木由香里。

35歳8ヶ月と12日の生涯

武市 瑞山 /武市半平太
Zuizan Takechi      【武士・土佐藩郷士(白札)】
 

(1829.10.24〜1865.07.03=文政12年9月27日〜慶応元年閏5月11日)
切腹---蠍座

  • 通称は半平太であり、武市半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛、諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は、吹山を雅号とした。
    父は土佐藩郷士の武市正恒、母は大井氏の娘。半平太はその長男。妻は土佐藩郷士島村氏の娘の富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。
  • 優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事斡旋によって一時は藩論を主導するが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主山内容堂によって投獄される。
  • 以蔵の自白により半平太の罪状はおおむね決定したが、それでも半平太たちはあくまでも東洋暗殺を否認した。この為、東洋暗殺を罪状に加えることができず慶応元年(1865年)閏5月11日、老公・容堂より「君主に対する不敬行為」という罪目で死罪を命ぜられる。他の判決は岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎が死罪、9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。
  • 即日、刑が執行されて以蔵ら4名は獄舎で斬首され、上士身分となっていた半平太は切腹を許され、三文字の切腹を成し遂げて武士の気概を見せて絶命した。享年37。土佐勤王党は壊滅した。
  • 辞世の歌は、「ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり」。
  • 半平太の死によって土佐勤王党は事実上壊滅した。中岡慎太郎ら一部の同志は藩を見限って脱藩し、浪士となって倒幕活動を進めることになる。後に土佐藩は薩長とともに討幕勢力の一翼を担うことになるが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり大政奉還を主導し、戊辰戦争で土佐藩兵を率いたのは乾退助(後の板垣退助)であった。
  • 維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。病床にあった時には「半平太ゆるせ、ゆるせ」とうわ言を言っていたとも伝えられる。
  • 明治10年(1877年)に名誉回復され、明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎とともに正四位が追贈された。
  • 明治17年(1884年)に元土佐藩士の土方久元、田中光顕、佐々木高行らが中心となって瑞山会が結成されて土佐勤王党殉難者の記念碑建立と武市半平太の伝記編纂が決められ、翌年、高知縣護國神社に「南海忠烈碑」が建立され、伝記は坂崎紫瀾が主筆となり20年余の史料収集・編纂作業を経て大正元年(1912年)に『維新土佐勤王史』が刊行されている。
  • 武市家の家禄は召し上げとなり、未亡人となった富子の生活も困窮した。明治39年(1906年)、当時宮内大臣に出世していた元土佐勤王党の田中光顕が富子に援助の手を差し伸べ、田中をはじめとする瑞山会の庇護によって晩年の富子は手厚く遇され、武市家の養子の半太も医学の道に進むことができ、梼原村(現高知県高岡郡梼原町)で開業している。 また、朝廷から半平太に正四位が贈位された際、上京した富子を囲んで祝宴が開かれたが、かつて半平太に尋問を行い、最終的には切腹を申し渡した責任者である後藤象二郎と、同じく半平太に対して尋問を行った板垣退助から富子に対し、その席で「武市半平太を殺したのは、我々の誤りだった。」と、後悔の言葉があったと伝えられる。 富子は大正6年(1917年)に87歳で亡くなった。
  • 高知市にある半平太の旧宅と墓所は国の史跡に指定されており、旧宅近くに半平太を祀る瑞山神社がある。
  • 言説さわやかで人格も高潔にして誠実、武士道仁義を重んじていた。見た目は色白・美形・堂々たる体格(180cm前後)であったと伝えられ、行友李風の戯曲『月形半平太』の題名役(主人公)のモデルともなった。ただし劇中の半平太は女性を魅了する色男として描かれているが、半平太は1歳年下の妻、富子とは睦まじい暮らしぶりであったとされる。
  • 顎が大きかったとされる。司馬遼太郎『龍馬がゆく』では、顎が大きいため龍馬に「アゴ」とあだ名されている描写があり、また龍馬自身も半平太のことを「顎」と呼んだ書簡を残している。みなもと太郎『風雲児たち』でも同様に顎が大きな人物として描かれている。
  • 剣の腕も一流で教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていた。芸術方面では南画の腕もあり、獄中自画像や美人画など多くの優れた作品を残している。
  • 武市夫妻に子が授からないことを心配した吉村虎太郎が、富子に七去を説いて実家へ帰らせ、その留守に若い娘を女中として送り込んだが、武市は次々と送り込まれた娘たちに手をつけず、吉村の計略に気づいて、吉村を叱りつけたという。
  • 武市が投獄されて死ぬまでの1年9ヶ月、富子は毎日3食を欠かさず牢に差し入れ、また夫を慰めるため書籍や自作の押絵なども共に差し入れていたという。半平太の切腹の際に身につけたのも、富子が縫いあげて届けた死装束であった。富子は大正6年(1917年)まで存命し、墓所は高知県高知市で武市の傍にある。
  • 武市の人格を評する「一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった」や「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことがうかがえる。
  • 身分が低く粗野な岡田以蔵をひそかに軽蔑していたともいわれ、そうした内容の手紙を、実弟や実家に対して書き送っている。
  • 維新後、木戸孝允は山内容堂との酒の席で酔い「殿はなぜ武市を斬りました?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたきりだったといわれる。
  • 全国で唯一、銅像の創り直しが行われた人物でもある。
  • 2010年のNHK大河ドラマ『竜馬がゆく』では大森南朋が武市半平太を熱く演じています。観てます、観てます。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    武市瑞山-Wikipedia

(2010.04.30更新)



▲獄中での過激な拷問と病魔に耐えながら至誠を貫いた土佐勤王党の盟主・武市 瑞山 /武市半平太。




▲獄中で描いた自画像


▲武市瑞山寓居跡 京都三条木屋町上ル


▲武市瑞山寓居跡(京都市中京区木屋町)


▲武市瑞山(半平太)銅像


35歳8ヶ月と12日の生涯

石川五右衛門
Goemon Ishikawa   【安土桃山時代の大盗賊】
 

(1558.12.12〜1594.08.24)
油で煮られる釜煮の刑---射手座

  • 安土桃山時代の大盗賊。史実不詳。1594年捕らえられ京都三条河原で釜ゆでの刑に処せられたという。
  • その生涯が『金門五三桐』など歌舞伎、浄瑠璃に脚色されて有名。
  • 「今ではほとんど見られなくなった「五右衛門ぶろ」。じか火で湯を沸かした鉄釜に入ることが釜ゆでのさまに似ていることから名付けられたが、平安時代末に宋で学んだ僧が作らせたのが起源というのが定説になっている。京都・大原の民宿「大原の里」(075・744・2917)では、露天ぶろとして大型の五右衛門ぶろを復活させている」(1)。
  • 歌舞伎の名場面「山門」での名セリフ〈絶景かな、絶景かな---〉。
     
    ◆五右衛門ぶろ

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「ときめき歴史散歩|市川猿之助さんと「五右衛門 ...」

(2007.10.05更新)




▲安土桃山時代の大盗賊・石川五右衛門。 文化7年に江戸中村座で上演された「楼門五三桐」の役者絵。七曜星(北斗七星)を見て、自らの命運を占う石川五右衛門の姿を描いている。五右衛門を演じるのは、江戸後期に京都・大阪・江戸で活躍した<3>中村歌右衛門。


▲ルパン三世 (五右ェ門)。

◆辞世の句「石川や浜の真砂はつきるとも世に盗人の種はつきまじ」

35年9ヶ月と20日の生涯

尾崎紅葉
Kouyou Ozaki   【『金色夜叉』の生みの親】

(1868.01.10〜1903.10.30=慶応3年12月16日〜明治36年10月30日)
胃ガン---射手座

  • 『金色夜叉』で知られる明治期の小説家、俳人。本名徳太郎。幇間で牙彫の名人惣蔵の子として江戸に生まれる。
  • 東大国文科中退。18歳で山田美妙らと硯友社を結成し『我楽多文庫』を創刊。
  • 『二人比丘尼色懺悔』で認められ、写実的態度を深めるとともに井原西鶴に傾倒、『伽羅枕』『二人女房』『三人妻』を発表し、幸田露伴とともに紅露時代を築いた。
  • また『二人女房』からは「である」調の言文一致に近づいた。
  • その後『源氏物語』の影響で心理描写に進み、『心の闇』『多情多恨』を書き、30歳、大作『金色夜叉』の連載を始め、たいへんな評判をよんだ。これは断続的に書きつがれたが、ついに未完のまま終わった。
  • 門下は多く、泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声ら。
  • 「この季節にふさわしい尾崎紅葉の辞世の句をおとどけします。死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き   尾崎紅葉 」(1)。
  • 「紅葉はその代表作『金色夜叉』で洋風の装飾品が人々の心をさらった瞬間を書きとどめている。貫一・お宮の中を引き裂く金満家、富山の「金剛石(ダイヤモンド)を飾れる黄金の指輪」が一座を騒がせた場面である。「金剛石!」「うむ、金剛石だ」「金剛石??」「成程金剛石!」「まあ、金剛石よ」-----くどいほどの感嘆の声は、その輝きがいかに魅力的だったかを伝える」(2)。
  • 「泉鏡花「婦(おんな)系図」の主人公、早瀬主税(ちから)のせりふに「高利を世話し…」とある。高利に「アイス」とルビが振られている。高利貸しと氷菓子、しゃれである。鏡花の師匠、尾崎紅葉の「金色夜叉」も、お金の鬼と化した主人公の選んだ職業はアイスだった。身にまとう冷酷非情のにおいも取り入れて、明治期の隠語はよくできている」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん 投稿日:10月25日(月)21時58分
    (2)読売新聞2005.02.26夕刊「日本のカタチ」より抜粋。
    (3)読売新聞2006.03.09朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2006.03.09更新)




▲『金色夜叉』で知られる明治期の小説家、俳人・尾崎紅葉。

 

◆「食罰の紫にがき葡萄かな」
(紅葉)

35歳9ヶ月と20日の生涯

ジャコ・パストリアス
Jaco Pastorius   【夭折の天才ベーシスト】
 

(1951.12.01〜1987.09.21)
撲殺---乙女座

  • 夭折の天才ベースギタリスト。アメリカはペンシルバニア州ノーリスタウン生まれ。
  • 独学でベースを学び、彗星の如く音楽界に登場する。革新的な奏法と音楽性の高さからそれまでのジャズベースに革命をもたらした。ウェザー・リポートのベーシストとしてジャズ界に衝撃的デビューを飾った天才。
  • その驚異的なテクニックと比類無い素晴らしい音楽性でエレクトリック・ベースの唯一無二のパイオニアと称され、1987年にその35年の短い生涯を閉じた。
  • 「痛い!! 何がって? 音が痛いのだ。ヒリヒリとした音が聴き手の心に容赦なく突き刺さってくる。不世出の革命児べーシスト、ジャコ・パストリアスは、ジャズという枠を突き破り、レッド・ゾーンを振り切り、狂気の世界にまで表現を高めてしまった。超絶テクニックをもって自分の内面を禁欲的に追求していく姿は、まるで滝に打たれる修行僧のようだ――いや、彼は酒もドラックも大好きだったので、究極の快楽主義者と言った方がよいのか? また、「天才と狂人は紙一重」という言葉がこれほど似合う人もいない。奇行のエピソードは数知れないが、繊細なメロディ感覚とR&Bバンドで培ったファンク魂を持ち合わせビッグ・バンドからソウル、カリプソまでを呑み込んだサウンドは、本当に圧巻。35才であの世に旅立ってしまうが、今も生きていたら一体どんなサウンドを創りだしていたのだろうか………」(1)。
  • 「アタシは新宿厚生年金ホールで生前の演奏を聴いています」(2)。
  • 天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスが悲劇の死を遂げたあと、幾人ものベース・ヒーローが出現したが、ジャコの圧倒的な存在を越える存在はいまだ現われていない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「Jaco Pastorius | Excite エキサイトミュージック 〜 Jaco Pastorius ...」文 : 金子博之
    (2)投稿者:水のさん  2005.02.042(Fri) 14:50

(2005.02.13掲載)




▲その驚異的なテクニックと比類無い素晴らしい音楽性でエレクトリック・ベースの唯一無二のパイオニアと称されたジャコ・パストリアス



35歳9ヶ月と22日の生涯

鷺沢 萠
Megumu Sagizawa   【最年少で文学界新人賞を受賞】
 

(1968.06.20〜2004.04.11)
首吊り自殺---双子座

  • 作家。本名・松尾めぐみ。東京都出身。
  • 上智大学に入学した1987年(18歳)、「川べりの道」で当時最年少で文学界新人賞を受賞して華々しく文壇にデビューし、みずみずしい感性で人の心の動きをとらえた小説で知られる。
  • 1992年に「駆ける少年」で泉鏡花文学賞。家族間や男女の葛藤を、透明感のある文体で表現した。
  • 父方の祖母が韓国人で、小説「ほんとうの夏」、1993年からの韓国留学体験を綴ったエッセー「ケナリも花、サクラも花」で、出自や日韓関係を見つめた。
  • 作家で泉鏡花文学賞を受賞した鷺沢萠が11日未明、心不全のため東京都内の自宅で死去したことが14日、分かった。鷺沢さんは一人暮らしで、12日に自宅を訪れた知人が亡くなっているのを発見した。35歳。
  • 東京都目黒区の自宅で11日未明に死亡した作家の鷺沢萠さん(35)は自殺だったことが15日、警視庁の調べで分かった。調べでは、鷺沢さんは1人暮らしだったが、友人が12日夜に鷺沢さん宅を訪れ、首をつって死亡しているのを見つけた。遺書などはなかったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.04.15朝刊

(2004.04.16更新)




▲18歳の時に当時最年少で文学界新人賞を受賞して華々しく文壇にデビューした鷺沢萠。

35年10ヶ月ジャストの生涯

広瀬武夫
Takeo Hirose        【破弾の軍神】

(1868.05.27〜1904.03.27)
敵弾に倒れる---双子座

  • 明治元年に大分で生まれる。父重武は裁判官、兄勝比古は海軍少将。飛騨高山の小学校を卒業後、小学校の教師をしていたが退職して上京、海軍兵学校に入学。攻玉社を経て明治22年(1889)海軍兵学校卒業。
  • 明治30年(1897)ロシア留学に抜擢され、同国駐在武官としてドイツ・フランス・イギリスを視察。2年後には駐在員となり、ロシア人の貴族社会で交際を広げた。日本のサムライである広瀬は多くのロシア人から慕われ、恋人もできた。
  • 33年(1900)少佐。日露戦争には戦艦「朝日」の水雷長として出征。
  • 37年(1904)3月27日、第2回旅順港閉塞戦で福井丸の指揮官となり、行方不明の部下、杉野孫日七上等兵曹捜そうと沈没寸前の船に残り、敵弾に倒れた。その悲話は、国定教科書や文部省唱歌に取り上げられ、広瀬は「軍神」とまでたたえられた。
  • 死後中佐となり、軍神として国民的英雄となったが、これは緒戦のつまずきに焦りを募らせ、国民を萎えさせず、総力戦に向かわせる方策を講じなければならなかった軍が世論操縦をしたものだった。
  • 「広瀬は(敵国に同情的だとして)愛国心を疑われるのを恐れ、戦場に散ることで国家への忠誠心を証明した」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2005.02.26朝刊「肖像」より抜粋。
    広瀬武夫 | 近代日本人の肖像
    (1)ロシアの歴史作家ビタリー・グザーノフ氏。

(2005.03.15更新)




▲行方不明の部下を捜そうと沈没寸前の船に残り、敵弾に倒れれ「軍神」とまでたたえられた海軍軍人・広瀬武夫。



35年10ヶ月と5日の生涯

長塚 節
Takashi Nagatsuka   【正岡子規の正当なる後継者】

(1879.04.03〜 1915.02.08=明治12年〜大正4年)
結核---牡羊座

  • 茨城県岡田郡(結城郡?)国生村(現・常総市国生)の豪農の家に生まれる。茨城県尋常中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)に入学したが4年進級後に脳神経衰弱のために退学。療養に過ごした郷里の自然に親しみつつ、文学への関心を高めていった。
  • 19歳の時に正岡子規の写生説に共感、21歳で子規を直接訪ね、入門、『アララギ』の創刊に携わる。『馬酔木』『アララギ』に多数の短歌を発表。
  • もっぱら万葉の短歌の研究と作歌にはげんだが、子規の没後もその写生主義を継承した作風を発展させた。また散文の製作もてがけ、写生文を筆頭に数々の小説を『ホトトギス』に掲載。
  • また、長編「土」を『東京朝日新聞』に連載、その代表作となった。農民小説のさきがけの一人として知られ、当時の農村の写実的描写が見事である。「土」は日本の農民文学を確立した作品といわれる。
  • 晩年は喉頭結核を発病、病に苦しみ九州帝国大学医学部で加療。大正4年、九州帝大にて没した。享年36(数え)。
  • 正岡子規の正当な後継者であると言われている。現在、常総市では短編小説・短歌・俳句の三部門について長塚節文学賞が隔年で実施されている。
  • 「昔びとすぎてあとなし。あしおとの聞こえし土は しづかなれども」(1)。
  • 「烈しい西風(にしかぜ)が目に見えぬ大きな塊(かたまり)をごうつと打ちつけて又ごうつと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛(いじ)め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響を立てゝ泣いた。短い冬の日はもう落ちかけて黄色な光を放射しつゝ目叩(またゝ)いた。さうして西風はどうかするとぱつたり止んで終(しま)つたかと思ふ程靜かになつた。泥を拗切(ちぎ)つて投げたやうな雲が不規則に林の上に凝然(ぢつ)とひつゝいて居て空はまだ騒がしいことを示して居る。それで時々は思ひ出したやうに木の枝がざわざわと鳴る。世間が俄(にはか)に心ぼそくなつた。ー(『土』の冒頭・写真は初版表紙に歌友、平福百穗が描いた鳳仙花)」(2)。
  • 「子規の元へ弟子入りする際に持参した手土産は、地元の銘菓で有る此方なのだそうです………。こちら」(3)。
  • 3歳のときすでに百人一首を暗誦できたとの言い伝えがある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    長塚節-Wikipedia
    図書カード:長塚節歌集
    (1)折口信夫「土」の時代(長塚氏をおもふ)。
    (2)「長塚節研究
    (3)投稿者:Thori Tungさん..2007/ 5/ 8 20:26:20(火) [1588]
    (4)「翁屋の歴史 こだわり素材

(2007.05.09更新)




▲3歳のときすでに百人一首を暗誦できたとの言い伝えがある農民文学の確立者で歌人の長塚 節 。

 


◆画像-2:長塚節生家の門


「長塚節先生の御贔屓に:歌人にして名作「土」の作者であります長塚節先生は、少年時代より度々本舗においでになりました。明治三十三年三月、上京して正岡子規先生を根岸庵に始めてご訪問するとき、この松皮煎餅を御土産品としてお宅の丹波栗と共にお持ちになりました。子規先生がたいへんよろこばれたと伝え聞いております。
〈妹(いも)がきる裳(も)のしもつまの 翁屋の翁さびすも 松皮煎餅〉
〈衣手(ころもて)の常陸(ひたち)の国のしもつまの 菓子うる家の せんべいぞこれ〉」(4)。

35年10ヶ月と8日の生涯

モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart  【音楽史上最高の天才】

(1756.01.27〜1791.12.05)---2006年生誕250年
病死、他殺説あり---水瓶座

  • 正式にはウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。作曲家レオポルト・モーツァルト〔1719-1787〕の末子としてザルツブルクに生まれる。幼時から天才ぶりを示し、5歳のときの作品も現存。
  • 父レオポルドはザルツブルクの宮廷楽団ヴァイオリン奏者。早くから息子の才能を見い出し、6歳の時にもならない内にパリ、ロンドンなどヨーロッパ各地に演奏旅行でを訪問、音楽的見聞を広めた。
  • 6歳でオーストリア女帝マリア・テレジアの御前で演奏。女帝を感動させ、大礼服を賜る。7歳ではパリでルイ15世に謁見、8歳ではロンドンでジョージ3世と謁見。この時バッハとも出会っている。
  • 12歳にはジングシュピール『バスティアンとバスティエンヌ』を初演。13歳からザルツブルク大司教に仕える。15歳、ミラノでオペラ『ルチオ・シッラ』。モテット『エクスルターテ・ユビラーテ』などを作曲。
  • 帰郷後、交響曲第28〜30番(18歳)、5つのバイオリン協奏曲(19歳)などを書く。21〜23歳に職さがしのためマンハイム、パリを訪れるが、道中で同行の母が他界し、職も見つからなかった。その間、『フルート協奏曲ト長調』『交響曲第31番(通称パリ)』(22歳)などを作曲。25歳、ウィーンに出て自由の身となるが、生活はしだいに窮乏。
  • その後のウィーンを拠点として活動。ウィーンでは主として貴族の子弟の音楽教師をして暮す。26歳には作曲家ウェーバーのいとこコンスタンツェ・ウェーバーと結婚、28歳、フリーメーソンに加入。彼は1787年(31歳)4月にウィーンを訪れた16歳のベートーヴェンと会う。この時、彼の演奏を聴いたモーツァルトは「諸君、この少年を記憶しておきたまえ」と言ったと伝えられる。
  • この二人の天才は正反対の性格。ベートーヴェンの楽譜に多くの修正痕が残るのに対して、モーツァルトの楽譜にはそれが全くない。ベートーヴェンは多くの苦渋の中から曲を絞り出したが、モーツァルトは天から聞こえてくる調べを記憶から消えない内に一気に書き記した。
  • この頃から彼は自分の作品の目録を作り始める。それ以前の作品は後にケッヘルによって整理され年代の推定が行われた.そのため、彼の作品は「作品番号」ではなく「ケッヘル番号」で呼ばれる。例えば、モーツァルト「ピアノ協奏曲第26番ニ長調《載冠式》K(ケッヘル).537」といった具合。タイトルの中に、二人の人名が含まれている。
  • 創作活動は生涯最高の高まりをみせ、オペラ『フィガロの結婚』(31歳)、『ドン・ジョバンニ』(31歳)、『魔笛』(35歳)、などの代表作が次々と誕生。「魔笛」などもフリーメーソンの団員の依頼により作られたもので、この劇の中には魔術の儀式や象徴が多く取り込まれている。
  • この魔笛が公開された年1791年のある日、伝説によれば突然モーツァルトの家を黒い服装をした謎の男が現れ『レクイエム(鎮魂曲)』の作曲を依頼。しかし彼はこの年の夏過ぎ頃から急速に体調を崩す。9月頃友人に宛てた手紙の中で「私は見知らぬ人の影を自分の目から追い払えません」と書いている。彼は死神の姿を見たのか?。
  • 10月、出産のため彼の許を離れていた妻コンスタンツァが戻ってくると、彼女は夫の衰弱した姿に驚く。そしてこの年12月5日0:55分、天才音楽家はわずか35年10ヶ月の生涯を閉た。
  • モーツァルトの『レクイエム』は35歳の死まで書き続けたカトリックの「死のためのミサ」。結局未完に終わり、10歳若い弟子のジュスマイヤーが補作して依頼主に納品された。現在では、この全曲版がよく演奏される。カーネーによれば「今日ではモーツァルトが毒殺されたとみる方が妥当である」という。
  • 生涯に作成した交響曲41本、更に50本以上の協奏曲(ピアノ27本,ヴァイオリン7本など)、23本の弦楽四重奏曲、20本のオペラ、20本のミサ曲、などなど。
  • その作品は短い生涯にも関わらず、極めて多数でしかも高品質。特に交響曲に関しては、彼以上の作品数を残したのはハイドンのみ。ハイドンと並んで古典主義の確立者といわれる。
  • 「モーツァルトの曲には不思議な力があるといわれている。世界各地の〈音楽療法施設〉ではモーツァルトの音楽が聴覚異常や発達障害などの症例改善に利用され、モーツァルトを聴くことで生まれてからまったくしゃべることが出来なかった少年が言葉を話せるようになったり、学生の知能指数が聴く前より格段にアップしたというエピソードが数多く報告されている。---モーツァルトの曲のもつ不思議な力の謎を解くキーワードは、各駅停車の電車のリズムと同じリズムの「1/fゆらぎ」、脳を刺激し自律神経を覚醒させる「高周波」、音楽と共鳴して影響を与える「タンパク質」の3つだという」(1)。
  • 「オーストリアの国営テレビは、2006年1月8日、モーツァルトのものとされる頭蓋骨の遺伝子(DNA)鑑定結果を明らかにした。しかし、今回の鑑定も、1世紀にわたって続いてきた頭蓋骨の真贋論争に決着を付けることはできなかった」(2)。
  • 「「世界3大悪妻」と呼ばれる女性たちがいる。ソクラテス、モーツァルト、トルストイの妻ということになっている。何日か前の新聞にそのひとり、モーツァルトの妻コンスタンツェの名前があった。作曲家の亡きあと、妻が二つに引き裂いた楽譜がロンドンの大英図書館で170年ぶりの“再会”を果たし、ひとつの楽譜に戻ったという。楽譜にはモーツァルト17歳の作品である弦楽四重奏のメヌエットなどが書き記されている。夫の没後、楽譜の断片を収集することが流行し、妻は二つに裂くことで売りに出す遺品の価値を高めようとしたらしい」(3)。
  • 「モーツァルト効果:モーツァルトの音楽に含まれる特定の周波数は、難聴や耳鳴りの改善、心拍の安定に効果があるという。モーツァルトは現代の「万能薬」(4)。
  • 「シルヴィー・バルタンの「悲しみのシンフォニー」は「交響曲第41番」、薬師丸ひろ子の「花のささやき」は「ピアノ協奏曲第23番」、ポール・モーリア「そよ風のメヌエット」とKREVA「国民的行事」は「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のメロディをカバーしている」(5)。
  • 「モーツァルトの作品には聴くだけで効用がある、とする研究が近年増えている。中でも、「ピアノ・ソナタを聴かせたら思考能力が高まり、知能指数が上がった」という1993年の米ウィスコンシン大の発表は波紋を広げ、頭脳の働きへの効能をうたう企画やCDや関連図書があふれた。---「人間がもっとも聞き取りやすい高い周波数がバランス欲組み込まれ、緊張をほぐす“ゆらぎ”をもたらす。---そのためモーツァルトを聴くと体をリラックスさせ流副交感神経の働きが促され、免疫力の向上や、心拍血圧の安定、脳疾患の改善などがみられる」(和合治久教授)という。---“手ごろで副作用のない薬”として、kやはり関連本やCDが静に熟れ続けている。福島県の酒造では、酒のもろみに“聴かせて”醗酵を活性化させ、薫り高い日本酒を作るなど、人間以外への幅広い効能も報告されている」(6)。
  • 「モーツァルトがわずか35年の生涯に残した曲の多彩さと見事さは、驚嘆に値する。その音楽は長調であっても、ほのかな憂いや陰りを漂わせる。だからこそ、ストレスで痛めつけられた現代人の心に、すっと染み込んでいくのだろう」(7)。
  • 「 モーツァルトの父はステージパパだった。モーツァルトは受注作曲家で600曲は作曲していたので結構リッチだったという」(10)。
  • 「モーツァルトのレクイエムはもともと葬儀のためではなく、追悼式用に書かれたものであり、その場合、鎮魂曲は、「リベラ・メ(我を解放し給え)で終わらなくてはならないと、指揮者マルゴワールは言う」(11)。
  • 「モーツアルトが死んだ時、多額の負債が残った。そのため、妻のコンスタンツェは遺産相続を放棄している。負債額は現在の価値に換算すれば約7万5千マルク。コンスタンツェは、負債の放棄と同時に、手元に残っていた夫の作品の所有権も放棄した。彼女は、夫のために地位相応の葬式を出す事さえ出来なかった。かくしてモーツアルトは共同墓地に埋葬された。最近の研究結果では、モーツアルトの度重なる借金はギャンブルの穴埋めだったとされている。楽長デトゥシュは「彼はトランプ賭博や賭けビリヤード(当時は高額な金銭が掛けられることがあった)に血道を上げる賭博狂だった」と述べている。彼の借金申し込みの手紙に見える「いますぐ入用」はこういう理由だったのです。ゲルハルト・プラウゼ著「天才たちの私生活」を参考にしました」(12)。
  • ---楽聖モーツアルトに相応しきエピソードですね。ボクとしては正の遺産の相続放棄であってほしかったですね。
  • 映画「アマデウス」:神に才能を与えられたモーツァルトと、与えられなかったサリエリ アマデウスとは「神に愛されし者」という意味。
  • 8歳で交響曲を11歳でオペラを、生涯で800曲を書いたといわれる天才脳。
  • 彼の若すぎる死に驚いたハイドンは「彼のような天才は今後100年しても現れないでしょう」と追悼の意を表した。しかし200年以上たった今も彼に並ぶ天才は現れていない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 読売新聞2004.07.03夕刊「モーツァルト鬼籍の響き」より抜粋。
    (2) 読売新聞2006.01.10朝刊より抜粋。
    (3) 読売新聞2006.01.14朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (4) 読売新聞2006.01.18夕刊「トレンド館」より抜粋。
    (6)〜(9) 読売新聞2006.01.28朝刊「モーツァルト・イヤー」より抜粋、リライト。
    (10)2006.04.09TBSラジオの番組より。
    (11)読売新聞2006.05.01朝刊 「地球文化」より抜粋。

(2006.11.04更新)




▲近世以降の音楽史上最大の天才・モーツァルト。


▲モーツァルトの最後の肖像画。


▲長編オペラ映画「魔笛」
モーツァルトの名作オペラを映画化(イングマル・ベルイマン監督,1975年制作)。古代エジプトを舞台に、魔力を秘めた笛を授かった皇子らが、不思議な世界へ紛れ込む。


▲「音と科学のミステリー」より。


▲妻・コンスタンツェを傍らに演奏するモーツァルト。

 


◆「悪魔が人間をからかうために生み出した音楽」
(デーテ)。

◆「彼が提出するものは、何でも、悪魔であれ天使であれ、僕達は信じざるを得ぬ」
(小林秀雄)。

◆「モーツァルトはハズレがないので、いろいろ聴いて自分の好みを見つけていく面白さがある」
(石田衣良)

 

◆日本人が好きなモーツァルト作品
1-アイネ・クライネ・ナハトムジーク
2-ピアノ・ソナタ第11番「トルコ行進曲」付 
3-過激「魔笛」 
4-アベ・ベルム・コンプス 
5-交響曲第0番ト短調 
6-クラリネット五重奏曲イ長調 
7-交響曲第41番「ジュピター」 8-過激「フィガロの結婚」 
9-「レクイエム」 
10-フルートとハーブのための協奏曲----(8)。


◆日本人が好きな作曲家
1-ベートーベン 
2-モーツァルト 
3-ブラームス 
4-バッハ 
5-ショパン---(9)。

◆オペラ『フィガロの結婚』、『ドン・ジョバンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』を四大オペラという。

35年10ヶ月と24日の生涯

スティービー・レイ・ボーン
Stevie Ray Vaughan   【ブルース系ギタリスト】

(1954.10.03~1990.08.27)
ヘリコプターの墜落による事故死---天秤座

  • 1990年にヘリコプターの墜落事故で亡くなったブルース系ギタリスト。疾風の如く駆け抜けた35年の生涯。
  • テキサス州ダラス生まれ。ブルースに深く傾倒していた3歳年上の兄、ジミー・ヴォーンの影響でギターに興味を持つようになり、13歳の頃には兄のバンドのベーシストとして参加。
  • 高校に通う頃になると、ダラス市内の黒人が出入りするクラブ等でプレイするようになり、音楽活動に専念するため学校を中退。
  • その後、同じテキサスのオースティンに活動の拠点を移し、幾つかのバンドを転々とした後、1978年にオースティン・ラッシュのレパートリーをバンド名にしたローカル・シーンながら精力的な活動を開始し、徐々に頭角を現していく。
  • 彼にとって大きな転機となったのが,1982年にスイスのモントルーで毎年開催されている有名なイヴェント”モントルー・ジャズ・フェスティヴァル”のブルーズ・デイへの参加。そのステージを偶然観ていたデヴィッド・ボウイがレイ・ヴォーンのプレイに惚れ込み、制作中だったアルバム「LET'S DANCE」へ参加を要請し、レイ・ヴォーンの存在は世界中のロック・ファンに知れ渡る。デヴィッド・ボウイからツアーにも参加して欲しいという話もあったが、あくまで自分のバンドでの活動を優先したいということで断り、1983年6月にデビュー・アルバム「TEXAS FLOOD」をリリース。2ndの「COULDN'T STAND THE WEATHER」はプラチナ・ディスクを獲得。
  • 1985年1月には来日公演を実現し、アルバム以上にアグレッシヴなプレイで、その存在感を強烈にアピールした。
  • 当時のレイ・ヴォーンはミュージシャンとしては、まさに順風満帆だったが、身体はドラッグとアルコールに蝕まれボロボロの状態で、1986には入院治療を余儀なくされる。シーンに復帰後、初のアルバムとなった「IN STEP」はそれまで以上に深みのある音楽世界が印象的な素晴らしい仕上がりで、翌1990年には兄のジミー・ヴォーンとのプロジェクト”ヴォーン・ブラザーズ”をスタートさせる。
  • 最も影響を受けたミュージシャンと本人も認めている兄との共演で、よりディープなブルーズにチャレンジするなど、新たな展開を予感させた矢先の1990年8月27日、ツアーの移動中にヘリコプターの墜落による事故死…。ドラッグとアルコール依存から完全に立ち直り、ミュージシャンとしても違った面を打ち出しつつあっただけに、残念としか言い様がない。あまりに早過ぎた死だが、ケニー・ウェイン・シェパードのようにレイ・ヴォーンのプレイを聴いてギターを弾くようになったという若い世代のギタリストも少なくないし、”ブルース・オリエンテッドなギターの魅力”というレイ・ヴォーンが蒔いた種は確実に根づいている。(ヤングギター1999年9月号より)。
  • スティービー・レイは小柄で身丈も小さく、小さい頃から兄の後ろに隠れながら劣等感の塊でもあったらしい。しかし手は大きく、人差し指の第二関節だけでバーコードが押さえられたらしく、彼のギタープレイに良く現れている。シンプルながら力強く、野太いあの音は、彼の指からも想像できる。それに加え前例のない弦の太さ。その太い弦によるテンションを補うためにハーフ・チューニング(半音下げ)を採用していた。あのボロボロに剥げ渡ったストラトキャスター「ナンバー・ワン」は、あまりにも有名。
    彼のバンド、ダブル・トラブルは、ドラム=クリス・レイトン、ベース=トミーシャノン、後にキーボードにリース・ウィナンスが加わり、最強のメンバーとなる。
    ブルースを主体にした楽曲を中心に、スクールバスを改造したおんぼろツアーバスで全米各地を転々と歩き回る最中、「TEXAS FLOOD」は録音された。しかしそのままお蔵入り。彼等のバンドはとにかくライブが有名である。噂が噂を呼びつけ、ミック・ジャガーやジェフ・ベック(後に一緒にセッションをする。ジェフが前座を努めたライブもある。)らが、お忍びで聞きに来た。そしてデヴィッド・ボウイのレコーディングに参加することになる。だがこのとき既に「TEXAS FLOOD」が録音されていたこともあり、彼のツアーには参加しなかった。そしてアルバム「TEXAS FLOOD」が発売される。当時、日本で最初に発売されたのは「COULDN'T STAND THE WEATHER」だったのは今では知る人も少ないだろう。
    1990年に出された「FAMILY STYLE」は兄のジミーとの競演だったが、惜しくも発売されたときスティービー・レイ・ボーンはこの世にいなかった。2002年に行われた日比谷野音でのブルース・カーニバルになんとゲストでジミー・ボーンがバディー・ガイと共に出演しTEXAS FLOODを演奏してくれた。前列5番目からじっくりと拝見させていただいたが、目元がよく似ていて何故か嬉しくなったのを思い出す。
    今年2004年行われたクラプトンのクロスロード・オークションに、スティービー・レイのギター「レニー」も出されていた。これは彼の別れた奥さん「レニー」からの贈り物だった。
    謹んでご冥福をお祈り致します」(1)

  • 水野さんフォローありがと。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    Tribute to S・R・V
    (1)投稿者:水のさん 投稿日: 9月 2日(木)11時13分52秒

(2004.09.02掲載)




▲1990年にヘリコプターの墜落事故で亡くなったブルース系ギタリスト。


35年11ヶ月と14日の生涯

アンディ・フグ
Andy Hug   【元K−1チャンピオン】

(1964.09.07〜2000.08.24)
急性前骨髄球性白血病(APL)---乙女座

  • 元K−1チャンピオン。スイスのチューリッヒで生まれ。小さい頃から喧嘩にあけくれていて、10歳の時に友人に道場に連れて行かれたのをきっかけに、空手を始る。
  • 15歳の時に極真空手スイス道場に移り、17歳でスイス・チャンピオンに。少年時代のあこがれは小さな身体で大男をなぎ倒すブルース・リーだったという。
  • そして19歳で第三回極真世界大会で世界にデビュー。23歳、日本で行われた第4回の極真空手世界大会では準優勝。これは決勝戦で松井章圭に僅差の判定で敗れたもの。
  • 25歳で極真空手ヨーロッパ大会で優勝。28歳で極真を離れ、正道会館主宰の「格闘技オリンピック2」に電撃参加。得意の「かかと落とし」や「上段後ろ回し蹴り」などで破壊力を誇示。同年の「カラテ・ワールドカップ」で優勝。翌年も決勝戦で佐竹雅昭と決着が付かず試し割判定で惜しくも準優勝でした。この1993年から「K−1グランプリ」が始まる。
  • 「K−1」の「K」とは、空手・キックボクシング・カンフーなどの頭文字を取り「F−1」を模して考案された名前で、立ち技・打撃系の格闘技の最高峰を決める大会という意味。
  • 一度負けた相手にしっかりリベンジするこの不撓の強さにより、この頃からフグは「ミスターK−1」「不屈の鉄人」などと呼ばれるようになる。彼の人気とともにK−1の人気も高まる
  • 1999年大会では調整不足がたたってベスト8止まりになり、これを機会に、今まで日本とスイスを往復しながら試合をしていたのを日本での闘いに集中するべくスイスでの引退を表明。
  • 2000年10月に福岡で行われるK-1の試合に備えて来日準備中に体調の不調を覚える。多少白血球が多い程度でそんなに重い症状とは思われなかったため8月15日そのまま来日。しかし高熱が続き19日に入院。急性前骨髄球性白血病(APL)と診断された。フグは22日にファンに向けて闘病の強い決意を示すメッセージを発表したが、病状は急速に進行。そして他界。
  • K−1グランプリ96チャンピオン、UKF世界スパーヘビー級チャンピオン、欧州空手トーナメント2連覇、WMTC世界スーパーヘビー級チャンピオン、WKA世界欧州ムエタイスーパーヘビー級チャンピオン。
  • あの肉体が病原菌ごときに冒されるとは---信じがたい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.07.28更新)




▲元K−1チャンピオン・アンディ・フグ


35年11ヶ月と15日の生涯

嘉村磯多
Kamura Isota     【早逝した特異な私小説作家】

(1897.12.15〜1933.11.30)
腸結核---射手座

  • 早逝した特異な私小説作家。反プロレタリア。山口県良敷郡(山口市)仁保の農家に生まれる。生れつき短躯色黒(体が小さく色黒)のために村の子供たちに「黒坊主」とはやされ、劣等感に悩まされる。
  • 1911(明治44)県立山口中学校入学、四年生の時に退学。
    初恋の相手とは両親の反対で挫折し、結ばれた別の女性とは婚前の不品行を疑い、妻子を捨てて愛人小川ちとせと出奔上京、その体験を「業苦」に書く。
  • 『業苦』『途上』『父の家』など独自の私小説を発表。
    小説の本領は自分の事を書く“私小説”にあるとの当時の思潮を愚直に実践し、自己暴露的な私小説二十余篇を残す。わずか6年の作家活動の後に病死。
  • 「<不同調>(新潮系:反プロレタリア文学雑誌)の新人号(S2/2)に井伏も選ばれ「歪なる図案」を掲載したが、これが商業誌に載った井伏の最初の作品で、小説で初めて原稿料を貰ったという。評論家村松正俊の辛口の批評(読売新聞)にショックを受けたが、<不同調>の編集部にいた嘉村磯多の励ましを受けて意を強くした」(1)。
  • 「彼は「神前結婚」という短編で、中央公論から作品を掲載するとの電報を読んで、「天下を取ったぞ−」と叫んで卒倒し、気が付いたときにはよだれや鼻水がたらたらと垂流していたという描写をしている。これは凡百の私小説作家は、絶対に書かないことである。彼は自我の分裂を起していない。だから他の私小説作家が忘れ去られるのに対し、嘉村磯多は細く長く読み継がれているのである」(2)。
  • 山口が生んだ異色、中原中也種田山頭火、嘉村磯多。その中でも磯多はかなりレアものだとボクは思う。私小説・刺小説・死小説!!!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「Part 2 ”阿佐ヶ谷将棋会” の文士たち
    (2)「昨日今日 - 第六回 -

(2005.01.24更新)




▲小説の本領は自分の事を書く“私小説”にあるとの当時の思潮を愚直に実践し、自己暴露的な私小説二十余篇を残した嘉村磯多。





?嘉村磯多語録?

◆「宗教によってよりも、芸術への思慕そのものによって救われたい」
        
◆「私は都会で死にたくない異郷の土にこの骨を埋めてはならない」


35年11ヶ月と26日の生涯

ヘルマン・ゲッツ
Hermann Gustav Goetz    【ドイツ人の作曲家】

(1840.12.07〜 1876.12.03)
結核 射手座

  • ドイツの政治家 Hermann Go¨tz (1914-1987) は別人。ベルリンに学んだ後、1863年にスイスに転居。音楽評論家やピアニスト、指揮者としての活躍に加えて、創作活動を行なった。
  • 商人の子に生まれ、早くから音楽に親しむ環境に育つが、本格的なピアノの教育を受けたのは1857年になってからだった。しかし、作曲はそれより数年前から始めていた。1850年代の終わりになって数学で学位を取得するため準備に入るが、それを中座してベルリンのシュテルン音楽院に進学し、ピアノをハンス・フォン・ビューローに師事。
  • 1862年にぶじ卒業することができた。翌年、カール・ライネケの助力のおかげでヴィンタートゥール市のオルガニストに採用され、その地でピアノ教師としても活動を始め、作曲家としても名を揚げるようになる。
  • 1868年に結婚してホッティンゲン(現在はチューリヒ郊外)の集落に移るが、1872年までヴィンタートゥールに雇われていた。
  • 1870年から1874年まで音楽雑誌に批評を寄稿。
  • 1850年代から持病の結核に悩まされていたが、最晩年には、その悪化により、教壇や演奏活動から引退し、ついには結核のために夭折した。
  • ゲッツは、交響曲と単一楽章のヴァイオリン協奏曲、二つのピアノ協奏曲、たくさんのピアノ曲、ピアノを含んだいくつかの室内楽曲を遺した。シェイクスピア原作のオペラ《じゃじゃ馬ならし》のほか、ダンテの原作によるオペラ《フランチェスカ・ダ・リミニ》の作曲を進めていたが、誕生日を目前にした急死により、その遺稿は、スイスの作曲家エルンスト・フランクの手により完成された。
  • ゲッツはメンデルスゾーンやシューマンの流れを汲む穏健なロマン主義の作曲家であった。ブラームスやビューローと親しく、その支持を受けた。当時は、フランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーらの新ドイツ楽派が優勢であったが、ブラームス同様に、ウィーン古典派の伝統に心酔し、伝統的な音楽観のもとに作曲活動を続けたため、これ見よがしの効果をほぼ完全に避け、作曲技法の習熟を創作の特徴とした。ゲッツ作品は、抒情性と明晰さが際立っている。
  • グスタフ・マーラーが作品の数々を指揮したとはいえ、永年にわたってゲッツの名は忘れられてきた。その重要性が見直されるようになったのは、1990年代になってからのことである。ゲッツは、決して新音楽の急先鋒ではなく、むしろ作曲技法を完全に操作できる作曲家であった。その作品は高水準を保っており、ゲッツを過小評価することが正しくないことを裏付けている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヘルマン・ゲッツ-Wikipedia

(2009.02.03更新)



▲当時は、フランツ・リストやリヒャルト・ワーグナーらの新ドイツ楽派が優勢であったが、ブラームス同様に、ウィーン古典派の伝統に心酔し、伝統的な音楽観のもとに作曲活動を続けたため、これ見よがしの効果をほぼ完全に避け、作曲技法の習熟を創作の特徴としたヘルマン・(グスタフ・)ゲッツ。







 35歳のエポック!

  • 釈迦、35歳で仏陀加耶の菩提樹下に座して悟りを得る。
  • 1863年(35歳)、ジュール・ヴェルヌは気球船を建造中のナダールと知り合い、それに触発されて『気球に乗って5週間』を書き上げる。
  • メンデレーエフ35歳(1869年)で元素の周期律について発表。のちこれに基づき未知元素(ガリウム、スカンジウム、ゲルマニウムなど)の周期表上の位置と性質を予言。
  • 柳田国男、35歳(1910年)で『遠野物語』を刊。岩手県遠野市の民間伝承を土地出身の佐々木喜善から聞書きし、神、妖怪、年中行事、家の話などに整理配列。
  • ル・コルビジェ、1922年(35歳)には機能主義デザインの最も明快な理論とされる「近代建築の5原則」発表。
  • 柳家小さん、35歳(1950年)で「五代目柳家小さん」を襲名。
  • 山本直純、1967年(35歳)にチョコレートのCM「大きいことはいいことだ」で、その大仰な指揮や身振りともども、売れっ子タレントになる。
(2004.11.02更新)

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