玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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age 36


50音インデックス

36歳の
 シンクロニシティ


■36歳-?
紫式部
武田勝頼
お市の方
原 胤信/原 主水
原田直次郎
キン

■36歳-前半
エリック・ドルフィー
フランツ・マルク
飯島 愛
松本俊介
ダイアナ妃
マリリン・モンロー
仲 みどり
藤田憲一
斎藤緑雨
沖田浩之
ロベスピエール
ドク・ホリディ
バイロン
ボブ・マーリー
平野 国臣

■36歳-後半→進む
バブーフ
日高富明/トミー
ジョージ・A・カスター
鈴木いづみ
ジョルジュ・ビゼー
池田貴族
シュタウフェンベルク
ロートレック
国木田独歩
江美早苗
ジェラール・フィリップ
大伴 昌司
菱田春草


■36歳のエポック


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36歳の語録

 

「正義は呼号すべきものなり、印刷すべきものなり、販売すべきものなり、決して遂行すべきものにあらず」
(斉藤緑雨)

「僕は唯一つ不思議な願いを持っている。恋愛でもない、大科学者・大哲学者・大宗教家になることでもない。理想社会の実現でもない、結局それは喫驚(びっくり)したいという願いだ」
(国木田独歩)

36歳のシンクロニシティ!

  • 36年の生涯は、数えで37歳の「女の厄年」にあたるからか、6人の女性がシンクロする。紫式部、お市の方、飯島愛、ダイアナ妃、モンロー、そして鈴木いづみである。
      
       
    ●平安中期の女流物語作者にして三十六歌仙の一人・紫式部(978頃〜1014頃)は死因?で36年?の生涯(?座)。
    ●3姉妹を安全な場所へ逃した後、越前北ノ庄 の城の天守閣で柴田勝家、重臣達と自害したお市の方(1547.不詳〜1583.04.24)は36年?の生涯(?座)。
    ●「私的(わたしてき)には」というフレーズで流行語大賞をとったことがある飯島 愛(1972.10.31〜2008.12.?)は
    自殺?で36年1ヶ月?の生涯(蠍座)。
    ●英国元皇太子妃・ダイアナ・スペンサー(1961.07.01〜1997.08.31)はパリで謎の交通事故死で36年1ヶ月と30日の生涯(蟹座)。
    ●世界を魅了した伝説のスター、米国の映画女優マリリン・モンロー(1926.06.01〜1962.08.05)も致死量の睡眠薬で自殺か事故死で36年2ヶ月と4日の生涯(双子座)。
    ●70年代を体現した作家であり、元ポルノ女優の鈴木いづみ(1949.07.10〜1986.02.17)もパンティストッキングをくくりつけて首つり自殺で36年7ヶ月7日の生涯(蟹座)を閉じた。

  • 音楽界ではボブ・マーリー日高富明池田貴族もシンクロする。
      
    ●レゲエの音楽的成熟に貢献し、世界的なレゲエ・ブームを起こしたボブ・マーリー(1945.02.06〜1981.05.11)はガンで36年3ヶ月と5日の生涯(水瓶座)。
    「GARO 」のメンバーだった日高富明/トミー(1950.02.22〜1986.09.20)飛び降り自殺36年6ヶ月と29日の生涯 (魚座)。
    ●霊能力のある霊感ミュージシャンやよろず評論家として活躍した池田貴族(1963.05.08〜1999.12.25 AM3:35)も肝細胞ガンで36年7ヶ月17日の生涯(牡牛座)を閉じた。

  • また夭折の画家も二人。
     
    ●比類なき油絵の「技術」と「自然児」と言われた純粋な眼差しによって描かれた完璧な油絵を残した夭折の画家・原田直次郎(1863 .?〜1899.12.26 )は病没し36年?の生涯 (?座)。
    ●静かで透明な情感に満ちた作品を残して夭折した画家・松本俊介(1912.04.19〜1948.06.08)も持病の気管支喘息による心臓衰弱で1ヶ月と20日の生涯 (牡羊座)だった。

    (2009.04.19更新)
                                                    



36年?の生涯

紫式部
Murasakisikibu   【『源氏物語』の作者】

(978頃〜1014頃)
死因?---?座

  • 平安中期の女流物語作者、歌人。三十六歌仙の一人。生没年不詳。当時、有数の学者、詩人であった藤原為時の娘として、生まれた。
  • 藤原宣孝に嫁して1女(大弐三位)をもうけたがまもなく死別。宣孝の死後、召されて一条天皇の中宮彰子に仕え、『白氏文集』の進講なども行った。
  • この間に『源氏物語』を書き、『紫式部日記』、家集『紫式部集』を残す。日記や他の資料から、表面はひかえめな、しかし内面に強い自己意識と鋭い批評意識を秘めた人がらがうかがえる。
  • また、後世『源氏物語』の作者として、狂言綺語の罪によって地獄に堕ちた、とか、逆に紫式部は観音菩薩の化身であった、などという伝承が生まれた。
  • 女房名「紫式部」は『源氏物語』の紫の上と、父の旧官名による。
  • 「後世の美術、風俗、さらには本居宣長が〈もののあはれ〉と言った日本人の情緒、感性に『源氏物語』が及ぼした影響は計り知れない。---四世代に及ぶ“大河ドラマ”だけに人間関係を把握するだけで大変」(1)。
  • 「紫式部の辞世をお供えします。〈誰か世にながらへて見る書きとめし跡は消えせぬ形見なれども〉」(2)。
  • 「紫式部が日記で清少納言の酷評をしたことについて。…実は清少納言は「枕草子」で藤原宣孝(式部の夫)が派手な服を着て金峯山参詣を行って顰蹙を買ったことを書いているのです。もしかしたら式部は夫のしかえしを日記で果たしたのかもしれません」(3)。
  • ご存知世界最古のラブロマンスにして日本文学の最高峰。美貌と知性、富と権力、すべてを兼ね備えた理想のヒーロー光源氏を描いた「源氏物語」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.10.31朝刊「本よみうり堂」より抜粋。
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/ 8/30 07:34:33(水) [178]
    (3)投稿者:Miwaさん..2009/ 5/24 23:16:55(日) [4940]

(2009.05.25更新)




▲ 平安中期の女流物語作者、歌人で三十六歌仙の一人・紫式部。

 

◆「源氏物語」現代語訳
『潤一郎訳 源氏物語』(中公文庫)

与謝野晶子『全訳 源氏物語』
(角川文庫)

『円地文子の源氏物語』
(集英社文庫)

田辺聖子訳『新訳源氏物語』
(新潮文庫)

瀬戸内寂聴訳
(講談社)

橋本治著『窯変源氏物語』
(中公文庫)

小泉吉宏著『まろ、ん?大掴源氏物語』(幻冬舎)

江川竜也版『源氏物語』(集英社)

◆「すべて、よろづのこと、なだらかに、怨(えん)ずべきことをば、見知れるさまにほのめかし、恨むべからぬふしをも、憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし」


36年?の生涯

武田勝頼
Katsuyori Takeda   【甲斐武田家第20代当主】

(1546.?〜1582.04.03=天文15年〜天正10年3月11日)
天目山で自殺---?座

  • 武田二十四将の一人と数える場合もある。
    当初は諏訪氏を継いだため、諏訪四郎勝頼、あるいは信濃・伊奈谷の高遠城主であったため、伊奈四郎勝頼ともいう。または、武田四郎、武田四郎勝頼とも言う。父信玄は足利義昭に官位と偏諱の授与を願ったが、織田信長の圧力によって果たせなかった。そのため正式な官位はない。
  • 父は武田晴信(信玄)。母は信玄の側室である諏訪頼重の娘・諏訪御料人。正室は織田信長の養女・遠山夫人。継室に北条氏康の娘の北条夫人など。
  • 信濃への領国拡大を行った信玄の庶子として生まれ、諏訪氏を継ぎ高遠城主となる。武田氏の正嫡である義信が信玄後期の義信事件により廃嫡されると継嗣となり、元亀4年(1573年)には信玄の死により家督を相続する。
  • 越後との対立から甲相駿との同盟を破棄し駿河へ侵攻、西上作戦を行い三河に進出した信玄の方針を継承し、織田信長、徳川家康と対峙するが、天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗を喫する。以後急速に勢力が減退。越後と同盟し外交方針を転換するが、織田・徳川両氏と相模の後北条氏との両面作戦を余儀なくされ、領国の動揺を招く。
  • 政権末期には本国で新府城への府中移転により領国維持をはかるが、織田信長の侵攻(武田征伐)により失敗。
  • 1582年3月11日、天目山で自殺。これにより武田氏は滅亡した。
  • 近世から近現代にかけて神格・英雄化された信玄との対比で武田氏滅亡を招いたとする否定的評価や悲劇の当主とする好意的評価など相対する評価がなされており、武田氏研究においても単独のテーマとしては扱わることが少なかったが、近年では新府城の発掘調査を契機とした勝頼政権の外交政策や内政、人物像など多様な研究が行われている。
  • 武田家が上杉景勝支持に転じた理由として、上杉景虎が同盟するなら北信濃一帯及び上野沼田一帯の譲渡を求めたのに対し、景勝は武田家との同盟(事実上の臣従)と軍資金に困窮していた武田家に2万両とも云われる黄金を支払い(『甲陽軍鑑』による)、上野沼田城を譲るという条件面での差があったとされる。武田家自らが場当たりの利己主義で滅亡の遠因を作ったともされる一方で、景虎が上杉氏を継いだ場合でも将来的に武田領が北条勢力によって南北から挟撃される危険性もあった。
  • 織田・徳川に加え、北条さえも敵に回した外交方針は結果的には致命的な失策であると評されている(柴辻俊六ら)。また景勝との講和にあたり跡部勝資・長坂光堅両人が賄賂を受け取ったという逸話があるが、景勝との交渉は信濃方面の責任者・武田信豊が行っていることから、俗説である可能性は否定できない。
  • 嫡男・信勝がいたが、1582年に父・勝頼と共に死んでいる。他に娘もいたが、詳細は詳しく分かっていない。娘の1人・貞姫は、小山田信茂の娘・香具姫、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘・松姫に連れられ、武蔵国八王子に落ち延び、松姫により養育され、のちに足利公方家の系統の高家旗本宮原義久の正室となり、嫡男・宮原晴克を生み、子孫は江戸旗本宮原氏として幕末まで続いている。
  • 「うーん、私の好きな武将なんですが、甲州では嫌われている人だとか・・・。たまさんはどうですか?」(1)。
  • ----甲州人にとっては武田信玄が「ラストサムライ」なのです。歴史的評価は別として、これが甲州人の偽らざる心境なのだとボクは思います。
  • 「勝頼とともに妻も自刃して果てたそうです。享年19歳。蘭の花のような美女だったとか。女だからといって醜い最期はとげたくないと、辞世を詠み、髪を少し切って添え、小田原の北条家(実家)へ送ったといわれています。〈黒髪の乱れたる世ぞはてしなき思いに消ゆる露の玉の緒〉」(2)。
  • 「たまさん、おはようございます。勝頼公のリクエストを叶えていただきありがとうございました。彼の故郷の諏訪にもよく行くのですが、殆ど現地の人からも話題にされない、亡くなる時には殆ど家族だけだったという不遇な人です。後継者になる時の経緯と膨張していく信長との対決が不幸でした。長篠の戦いにおいて2倍以上の戦力差にも関わらず決戦に持ち込んだのも、留まる所を知らぬ信長の首を取る千載一遇のチャンスに賭けたのでしょう。好きな武将なのですがどちらかといえば、一武将タイプで、国主には荷が重かったと思います。生まれも、境遇も、時代も不幸な方だった…。唯一の救いは、最後まで共に闘ってくれた弟の盛信と奥方、息子さんが居た事でしょうか…」(3)。
  • 勝頼の最期の場所・天目山は山梨県の大月市にあります。小学校の遠足で行きました。絶壁です。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    武田勝頼-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwaさん..2009/ 9/25 06:51:11(金) [6193]
    (2)投稿者:ユリウス さん..2009/ 9/27 08:05:07(日) [6216]
    (3)投稿者:Miwa さん..2009/ 9/27 08:32:00(日) [6218]

(2009.09.27更新)



▲戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐の武将・戦国大名・武田勝頼 。



▲甲斐大和駅横にある銅像


▲「おぼろなる月もほのかに雲かすみ 晴れて行くへの西の山のは」(辞世の句 )


36年?の生涯

お市の方(小谷の方)
Oichi no kata   【織田信秀の娘で信長の妹】

(1547.不詳〜1583.04.24)
勝家とともに福井北庄城で自害---?座

  • 1583年越前北庄で勝家滅亡の際、3人の娘を脱出させて自刃。3女は成長しそれぞれの側室淀君、京極高次(たかつぐ)の室常高院、徳川秀忠の室崇源(すうげん)院となる。
  • 織田信秀の娘。信長の妹。淺井長政・柴田勝家の妻。小谷(おだに)の方ともいう。初め近江小谷城主浅井長政に嫁ぐ。
  • 織田信長が朝倉義景を攻めて、 討ち取った後、信長は豊臣秀吉に命じて浅井長政とお市親子が居る小谷城を攻めた。秀吉が計略を使って お市と3姉妹だけを助けた後、浅井長政を討ち取る。お市の方は落胆のあまり自害しようとしたが、秀吉に止められた。その後、次ぎに柴田勝家に嫁いだ。
  • 信長が本能寺で明智光秀に闇討ちにあって死んだ後、信長の武将の柴田勝家は豊臣秀吉と意見が合わなくて 戦になった。何倍もの兵隊で攻めてくる秀吉には叶わなかった。3姉妹を安全な場所へ逃した。越前北ノ庄 の城の天守閣で柴田勝家、お市の方は重臣達と自害した。
  • 「小谷の城で父を殺され、北の庄の城では母を殺されて、叔父も、身内の人達が一人、又一人と無くなっていく。 3姉妹は何を考えていたのか」
  • 3姉妹の名前は5才の長女の茶々姫、4才の次女の高姫、1才の3女の姫。3女は成長しそれぞれ豊臣秀吉の側室淀君、京極高次(たかつぐ)の室常高院、徳川秀忠の室崇源(すうげん)院となる。「彼女は秀吉に勝ったのである」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)山田風太郎『人間臨終図鑑I』
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006.04.04(Tue) 11:41[1296]

(2006.04.04更新)




▲織田信秀の娘で信長の妹・お市の方。


 

◆「お市の方の辞世をお供えします。越前北ノ庄を秀吉軍に包囲され、もはやこれまでと、夫の柴田勝家とともに、炎上する城の中で自決しました。
〈さらぬだにうちぬるほども夏の夜の夢路をさそふほととぎすかな〉」---(2)。

36年?の生涯

原 胤信/原 主水
Tanenobu Hara/Mondo Hara  
           【江戸時代初期の旗本・キリシタン】

(1587.?〜1623.12.04=天正15年〜元和9年10月13日)
「江戸の大殉教」で処刑---?座

  • 千葉氏筆頭重臣である原氏最後の当主・原胤義の嫡男。幼名は吉丸。洗礼名はジョアン。受領名が主水助であったために、原 主水(はら もんど)の名で知られている。
  • 千葉氏の筆頭重臣であった原胤栄の孫として臼井城で生まれる。生後間もなく、父は後北条氏の人質となった千葉重胤に随従して小田原城に入る。ところが、豊臣秀吉の小田原攻めの最中に祖父が急死、父も敵軍に包囲された小田原城に籠城していた上に4歳の吉丸に城主が務まる訳も無く、同族の原邦房が臼井城城代として同城に入った。だが、間もなく豊臣軍に囲まれた臼井城は落城し、父は千葉氏の後北条氏への加担責任を追及されて姿を消してしまう(自害したとも出奔したとも言われるが、不明)。
  • その後、名族の出である事から徳川家康により小姓として召しだされる。慶長5年(1600年)ごろ、キリスト教の洗礼を受けているが、当時はキリシタン弾圧はそれ程ひどくは無く、若くして御徒組頭や鉄砲組頭に抜擢されている。
  • ところが、慶長17年(1612年)の岡本大八事件を機に本格的なキリシタン弾圧が開始され、キリスト教を信じる旗本に対して棄教が命じられた。だが、胤信はこれを拒んで岩槻藩に住む親族の元に出奔して現地で秘かに布教を続けた。ところが、2年後に藩主高力忠房によって捕らえられて棄教を迫られるものの、胤信はこれを拒み、激怒した家康の命によって額に十字の烙印を押され、手足の指を全て切断された上で翌元和元年(1615年)に追放された。
  • だが、その後も布教を活動を続けて後に江戸・浅草のハンセン病患者の家を拠点とするが、後に密告によって捕らえられ、元和9年に宣教師ら47名とともに江戸市中引回しの上、高輪の辻の札(高札場)にて火あぶりにされて殺され殉教した。死の直前に「私がここまで苦難に耐えてきたのは、キリストの真理を証明するためであり、私の切られた手足がその証である」と述べたと伝えられている。
  • 明治初期のプロテスタント信徒の原胤昭は、胤信の大叔父・胤親(胤栄の弟)の子孫にあたり、後に原氏宗家の断絶がキリシタン弾圧のせいである事を知ってその功績を伝える事に尽力している。
  • 2008年、ローマ法王庁はペトロ岐部と187殉教者を「聖人」に次ぐ敬称の「福者」に列した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    原胤信-Wikipedia

(2009.05.07掲載)


★肖像を探しています。

▲2008年、ローマ法王庁はペトロ岐部とともに「聖人」に次ぐ敬称の「福者」に列した原 胤信/原 主水。

36年?の生涯

原田直次郎
Naojiro Harada      【完璧なる油絵】

(1863 .?〜1899.12.26 =文久 3年8月30日〜明治32年)
病没---?座

  • 明治前期の洋画家。江戸生れ。東京外語大学を卒業。高橋由一に洋画を学び、ドイツに留学。
  • 本郷に画塾鐘美館をつくる。1889(明治22)明治美術会創立に参加。代表作は『靴屋のおやじ』・『騎竜観音』など。
  • 「日本の芸術教育の殿堂、東京芸術大学キャンパス内の大学美術館に所蔵されている原田直次郎・作『靴屋の親爺』。先頃、重要文化財に指定されました。本作は直次郎がドイツに留学してわずか2年、23歳のときに描いた油絵であります。眼光鋭い表情と、内面の頑固さを全身から発散しているような的確な人物描写。街角の名もなき靴屋があたかも歴史に名を残す英雄のように見えてくるほど完成度の高い作品であります。元東京芸術大学美術館館長であり、油絵技法研究者の歌田氏は「これほど上手い絵はヨーロッパの画家たちにも劣らない。技術力、対象を見る目、すべてが完璧」と絶賛します。赤外線写真で見ると、他の画家の作品で見られる変更や塗り直しが、この作品にはまったくないのです。迷うことなく、最初から最後まで描ききっていることが分かります。しかし、この天才画家の一生は決して華々しいものではありませんでした。直次郎は文久3年、東京・小石川に生まれます。岡山藩の兵学者で、後に貴族院議員となる父のもと、幼少時代からフランス語を習い、20歳のとき、高橋由一が主催する画塾「天絵学舎」で洋画を学び始めます。高橋由一は「絵事ハ精神ノ為ス業ナリ」と唱えた近代西洋画の先駆者。絵を描く精神を支えるのは、画布であり絵の具であり、それを使う技術であるという一貫した信念を持った人物でした。その高橋のもとで学んだ直次郎は明治17年、21歳でドイツに留学します。ミュンヘンアカデミーに入学し、見るもの、聞くもの、すべて貪欲に吸収しながら、めきめきと上達していきます。ドイツ留学は直次郎にとって、まぎれもない青春でした。そして直次郎はこの地で、作家・森鴎外と出会います。鴎外の短編小説『うたかたの記』の中に登場する、ミュンヘン留学中の日本人画家、巨勢のモデルは直次郎です。若き留学生同士、意気投合した直次郎と鴎外は、終生の友として親交を深めていきます。誰に対しても媚びず臆せず、芸術家としてまっしぐらに理想に突き進む直次郎を、鴎外は「自然児」という言葉で表現しました。そうしたキャラクターに加え、直次郎は豊かな才能と技量も持ち合わせ、恩師や友人のみならず多くの女性からも愛されていたといいます。明治20年、直次郎は3年のドイツ留学を終え、パリ滞在を経て日本に帰国します。東京・本郷の自宅に画塾「鐘美館」を開き、後輩たちの指導に乗り出します。塾は洋行帰りの直次郎に学ぼうとする若者たちで溢れました。直次郎自身も意欲的に創作に励み、明治の留学第一世代として華やかな活躍の場が約束されている筈でした。しかし当時の日本の美術界は、明治新政府による急激な欧米政策の反動として、国粋主義が急激に高まり始めていた頃でした。そのため洋画の価値が極端に低く見られ、直次郎は発表の場を奪われていきました。やがて黒田清輝に代表される留学第二世代が帰国すると、特徴的な印象派の明るい色彩が高く評価されるようになります。その新派は、直次郎のような油臭さはないものの、ヨーロッパの伝統的な油絵の基本となる「技術」が失われていきました。さまざまな色を塗り重ねることで、独特の発色を引き出すという直次郎の作風は、次第にないがしろにされていったのです。日本に帰国してから12年の月日が経ち、直次郎は病に倒れます。そして明治32年、入院先の東大病院にて息を引き取りました。享年36歳。森鴎外は、直次郎の死後10年目に回顧展を開きました。恵まれた才能を持ちながらも西洋のアカデミズムを日本に広げられず、時代からも忘れ去られようとしている直次郎の無念を親友・鴎外は伝えようとしたのです。油絵とは何か。それはこの作品そのものです。比類なき油絵の「技術」と「自然児」と言われた純粋な眼差しによって描かれた完璧な油絵、それが原田直次郎・作『靴屋の親爺』なのである」(1)。
  • 「そして直次郎はこの地(ドイツ)で、作家・森鴎外と出会います。鴎外の短編小説『うたかたの記』の中に登場する、ミュンヘン留学中の日本人画家、巨勢のモデルは直次郎です。若き留学生同士、意気投合した直次郎と鴎外は、終生の友として親交を深めていきます(2)。
  • 高橋由一と共に、「日本が画学生だった時代」の若々しい絵である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「美の巨人たち
    原田直次郎(1863-1899) 《老人像》 1866(明治19)年頃 油彩・キャンバス ...

(2007.04.16掲載)




▲比類なき油絵の「技術」と「自然児」と言われた純粋な眼差しによって描かれた完璧な油絵を残した夭折の画家・原田直次郎。


▲森鴎外と出会い


◆『靴屋の親爺』


◆《老人像》1866(明治19)年頃油彩・キャンバス57.6x42.6cm

36年?の生涯

キン
Kin      【日本最後のニッポニアニッポン】

(1967.?〜2003.10.10.AM7:20)
☆老衰にて天寿全う☆---?座

  • 「ニッポニアニッポン」の学名を持つ国際保護鳥・トキ(雌)。国内で生まれ育った日本産トキの最後の一羽。
  • 新潟県新穂村の佐渡トキ保護センターで他界、日本のトキが絶滅した。キンは推定36歳で、人間でいえば百歳以上。死因は高齢による老衰と見られる。
  • トキは体長約75センチ、カーブした長いくちばしとピンク色の美しい羽を持っています。かつては日本全国にいましたが、羽や肉をとるために人間に撃(う)たれて、数が減っていきました。 農薬で田んぼからえさのドジョウなどがいなくなり、山の木が切られて巣がつくれなくなったことも原因で、1960年には「国際保護鳥」と認められました。国際保護鳥とは絶滅のおそれがあるため、世界中で守っていこうと決めた鳥です。 キンが新潟県・佐渡の田んぼに迷いこんだのは67年の夏。生まれたばかりで人間になついたため、佐渡トキ保護センターで保護することになりました。キンの子供を残そうと、飼育員は日本や中国のオスのトキを同じ小屋に入れましたが、キンが卵を産むことはありませんでした。 国は佐渡にいた5羽のトキを全部つかまえ、人間の力で増やそうとしましたが、5羽は次々と死んでしまいます。95年、キンは日本で最後の1羽となりました。 99年、センターに中国からオスの友友(ヨウヨウ)とメスの洋洋(ヤンヤン)がおくられてきます。2羽とその子供たちからは毎年ひなが生まれました。キンは世界一長生きのトキとして、若い世代を見守りました。 キンは死ぬ直前、小屋の中で最後の力をふりしぼって羽ばたいたといいます。仲間とはなされ、好きなえさも食べられず、一生のほとんどを小屋の中で過ごしたキン。トキがなぜ絶滅してしまったのか、私たちは考えなければなりません。 中国から来たトキの家族は、39羽にまで増えました。再び野生にもどすためには、人間とトキがいっしょに住める環境づくりが必要とされています」(1)。
  • 「ちなみに、日本の国鳥はキジ。一時期、トキが国鳥だと思い込んでました…」(2)。実はボクもそう思っていました。
  • 「一斉に飛び立ったトキの群れ、22羽の羽ばたきは、トキ保護会の長老、佐藤春雄さんのまぶたに刻まれている。昭和27年(1952年)11月下旬のことだった。「朱鷺(とき)色の翼は、赤、朱、桃、黄金……と羽ばたきするたびに変化してゆく。羽衣伝説はトキの飛ぶ姿がモチーフになったものではないか」----そのときの情景だ(朱鷺の遺言・小林照幸著)」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「こどもWeekly ニュースなぜなに ...
    (2)「雑記帳: 日本のトキはいなくなった
    (3)読売新聞2008.10.21夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2008.10.25更新)




▲「ニッポニアニッポン」の学名を持つ国際保護鳥・トキ。

36年と9日の生涯

エリック・ドルフィー
Eric Dolphy   【バスクラ・フルート・アルト奏者】

(1928.06.20〜 1964.06.29)
糖尿病による心臓発作---双子座

  • カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ。本名エリック・アラン・ドルフィー・ジュニア(Eric Allan Dolphy Junior)。両親は西インド諸島の血をひく。
  • 母親は独立派教会の聖歌隊の献身的メンバーだったことから、エリックは幼い時分からゴスペルに慣れ親しんでいたという。
    小学校入学と同時にクラリネットを学び、ほどなくオーボエのレッスンも始めた。
  • 13歳の時、カリフォルニア州学校バンド・オーケストラ協会が主催した第7回バンド・オーケストラ祭で賞を獲得。これが公的な場での初の受賞となった。
  • エリックが初めて聞いたジャズはファッツ・ウォーラーだったといわれる。デューク・エリントンやコールマン・ホーキンスにも早くから興味を抱いたらしい。しかし決定的な影響はロサンゼルス市立大学在学中、当時人気絶頂だったチャーリー・パーカーから受けている。パーカーとの出会いが彼の後年の音楽スタイルを決定づけたといってもいい。
  • 1948〜49年にかけて、エリックはロイ・ポーター楽団に所属、さらに1950〜52年にかけてのアーミー・バンド時代を経て、ジェラルド・ウィルソン、バディ・コレットらのバンドに加わり全米各地を演奏旅行した。
  • そして1958年の初め、当時の人気グループ、チコ・ハミルトン・バンドに加わった。この時期すでに、エリックの演奏は高いオリジナリティを見せていた。映画『真夏の夜のジャズ』(Warner Brothers)の中には、その独特なスタイルがフルートの演奏で残されている。1959年の末、彼は演奏拠点を西海岸からニューヨークに移す。
  • 翌1960年3月から10月にかけて、歴史的な名グループ、チャールス・ミンガス・グループに加わり、名盤『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』(Candid)など多数の録音に参加。同時に自身のリーダー作のレコーディングを開始。この1960年に、初のリーダー・アルバム『アウトワード・バウンド』(New Jazz)を録音している。以降、マックス・ローチやジョージ・ラッセル等のレコーディングに参加。1961年にはブッカー・リトルを含む自己のクインテットで、後世に語り継がれるファイブ・スポット・セッションを行った。
  • また単身でドイツ・スカンジナビア半島を演奏旅行し、ヨーロッパのミュージシャンたちとも多くのセッションを行った。トランペット奏者ブッカー・リトルとの双頭コンボを組むも、同年10月のリトルの急逝で頓挫。
  • ジョン・コルトレーン・クインテットの一員となったのは1961年の秋。Impulseレーベルにコルトレーン名義のアルバムを残している。ヴィレッジ・ヴァンガードの伝説的セッションにも参加。『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』『インプレッションズ』(共にImpulse)で彼の演奏を聴くことができる。
  • 1964年2月、Blue Noteレーベルで唯一のアルバム『アウト・トゥ・ランチ』を録音。この年の春から再びチャールス・ミンガス・グループに再び参加し、ヨーロッパツアーに同行した。このヨーロッパ演奏旅行中にミンガスと別れ、滞欧を決意。
  • 1964年6月2日、オランダで遺作となる『ラスト・デイト』(Fontana)を録音した。同月29日、かねてから患っていた糖尿病により旅先のベルリンで死去。享年36歳。
  • それまでクラシックのオーケストラで使用されるのが主だったバス・クラリネットを独奏楽器として用いたことは、後のジャズ奏者に多大な影響を与えている。
  • その生涯で残した録音アルバムは96枚。うちリーダー・アルバムは21枚。彼の愛用したフルートは形見としてジョン・コルトレーンの手に渡った。
  • 彼の独特な音楽観、プレイは時にアヴァンギャルドと捉えられることもあるが、基本的には音楽理論に乗っ取りアドリブを展開していくスタイルである。
  • 「When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again 」 「音楽を聴き、終った後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」 は、アルバム『ラスト・デイト』に収められた、ドルフィーの名言。百年の孤独は ノーベル賞作家 ガルシア マルケス(コロンビア)の小説からとったといわれる。
  • 百年の孤独---地球に生まれてしまった悲しみ。谷川俊太郎の詩に『20億光年の孤独』がある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    サイト・ドルフィー SITE DOLPHY
    エリック・ドルフィー-Wikipedia

(2006.12.16更新)



▲ジャズのバス・クラリネット、アルト・サックス、フルート奏者エリック・ドルフィー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


◆麦焼酎の逸品『百年の孤独』

36年24日の生涯

フランツ・マルク
Franz Marc   【20世紀初期のドイツの画家】

(1880.02.08〜 1916.03.04)
戦死---水瓶座

  • その作品は、馬、牛、猿、鹿、ロバ、狐、虎などの動物や森を主たる対象とした、極めて色彩にあふれた作品である。しかも、その色彩は、現実の色彩からかけ離れていることも多く、例えば、青い馬を描いた作品などは、マルク本人の死後のことであるが、
  • 自分自身古典的な作風の絵を書いていたことのあるヒトラーから、「青い馬などいるはずがない」と、「退廃芸術」作品と決め付けられた、という逸話も残っている。
  • 晩年には、カンディンスキーと同様に、作品の抽象化が進み、1914年の作品、「チロル (Tyrol)」や「戦う形・せめぎあう形 (Fighting Forms)」などは、具象を残しながらも、カンディンスキーと同系統の抽象絵画といっていいような作品に仕上がっている。
  • 空想的、というよりもっと精神的な絵画を提案した画家マルクは、第一次世界大戦で召集され、ヴェルダンで戦死。36歳であった。
  • 代表作:「小さな黄色の馬」(1912)(シュトゥットガルト美術館)
  • 「虎」(1912)(ミュンヒェン、レンバッハハウス美術館)
  • 「マルクは、動物を描いた。人間に裏切られた、汚点のない、純粋無垢の、自然の守護者として。マルクはこういった感覚を表現するために、マッケ同様、色彩を用いて、強調した。マルクが描く動物達は、まったく平和で、森の中で、くつろいでいる。彼らは自尊心の怒りなどなく生きることのできる種なのである」(1)。
  • 日本における主要な展覧会、本格的な回顧展は今まで開催されたことはない。
  • 青騎士の馬は「青」でなければならぬのだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    フランツ・マルク-Wikipedia
    (1)「フランツ・マルク

(2007.09.17更新)




▲カンディンスキーとともに、ドイツ表現主義のグループである「青騎士」の中心メンバーだったフランツ・マルク。


マルク語録

◆「青は鋭く精神的で、男性的原理の色であり、黄色はソフトで明るく感覚的で、女性的原理の色である」

 

36年1ヶ月18日の生涯

飯島 愛
Ai Iizima   【元タレント・元AV女優】

(1972.10.31〜2008.12.17)
肺炎---蠍座

  • 東京都江東区出身。本名:大久保 松恵(おおくぼ まつえ)元ワタナベエンターテインメント所属。身長163cm。血液型:A型。
  • 既に芸能界を引退しているが、飯島 愛としてブログ(飯島愛のポルノ・ホスピタル)を続けており、連日ファンのコメントで賑わっている。
  • 1992年、AV女優となる。本名が「大久保松恵」であることは2007年4月8日放送分の『ウチくる!?』にて、中山秀征により公表された(その後、2007年5月2日に自身のブログでもさりげなく公表している)。
  • 生年月日は、当初は1973年8月25日と公表していた。本人の弁によれば、デビューしたのが夏で、すぐに芸能界からいなくなるからその前に誕生日が来ればプレゼントがもらえると思って8月生まれと言った、とのこと。現在でも、1973年8月25日生とする資料がある。
  • 芸名は水商売時代、所属していた店のママが「みんなから愛される子になるように」という願いを込めて「愛」という源氏名を付けてくれたことによる(自著「プラトニック・セックス」より)とあるが、以前テレビ番組で「ラブ」という源氏名を自らつけたことを告白している。「本名が垢抜けないから好きではない」と、思い切った名前をつけた。
  • 芸名に「飯島」という姓がつけられたのは、当時の所属事務所社長(オフィスレオ)が飯島直子の大ファンだったため。飯島直子側はこれを快く思っていないと報じられることが多く、「W飯島」と括られることもあるが共演はほとんどなかった。
  • 1990年代前半、とんねるずのみなさんのおかげですのスタッフととんねるずの木梨憲武が、飯島のビデオのファンであったことから番組にハプニングゲストで出演(これがテレビ番組初出演になる)。
  • 1990年代前半、深夜番組「ギルガメッシュないと」(テレビ東京系)で、スカートをめくり、世の男たちに活力をあたえた。『Tバックの女王』と呼ばれる。その後、次第に大人の女性としてトーク番組等でバラエティタレントとして活躍している。近年は気だるく重い口調が特徴。
  • 2000年、半自伝的な小説「プラトニック・セックス」でAV出演や性病感染、整形手術していたこと等をカミングアウトしベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、以来作家活動も行っている。週刊朝日にコラム「飯島愛の錦糸町風印税生活」を執筆。また性感染症予防の啓蒙活動でも知られる。
  • ゲスト出演から準レギュラーを経てレギュラーになる事が多かった。例としては「スパスパ人間学!」、「決定!これが日本のベスト」、「ロンドンハーツ」等がある。
    胸や顔の整形等についてカミングアウトしていて、自らのスッピンネタ等自虐系の発言も時々する。そのメイク技術はテレビ番組『くりぃむナントカ』でも、「飯島さん、メイクの本を出すべきですよ!」と言われたほどだった。
  • 2005年にブログを始める。同年、ネット配信番組に連動した株取引に関するブログも、短期間公開された。
  • 2006年11月11日、個人事務所の経理担当の人間から数千万円もの横領被害に遭ったことをブログで告白した。
  • 2007年3月31日、所属事務所から正式に芸能界を引退することが発表された。
  • 2008年12月24日、東京都内のマンションで死亡しているのが発見された。
  • 引退報道:2007年3月3日、芸能界引退の報道が、流れる。
  • 腎臓病(腎盂炎)であることが報道された。それによると「症状が予想以上に重く、仕事を続ける意欲を完全に失っているという。」と理由付けされている。
  • 2007年3月31日に「目標や夢が見い出せず、芸能界で生き残っていくことは不可能」として所属事務所から正式に引退が発表された。
  • 2008年12月24日、都内マンションにて死亡しているのが発見された。警視庁渋谷署によると、この日午前中に東京・大塚の監察医務院で行政解剖を実施。死因は特定できなかったが、遺体の腐敗状況などから死後約1週間と推定。自宅室内には風邪薬や睡眠薬のハルシオンなど数種類の薬品があったが、いずれも医師が処方したもので、薬物反応や薬の大量摂取については「分からない」。遺書も見つかっておらず、引き続き病理検査を行い、薬物の服用と死亡との関連を調べる。同署は「検査結果は出ていない。今までの例だと何日か、かかっている」と話しており、死因特定までにまだ数日はかかるとみられる。
  • 逸話:人気AV女優・後藤えり子にスカウトされてAV界に入った。
  • 岡本太郎とバラエティ番組「鶴太郎のテレもんじゃ」で共演した際、岡本が飯島の胸元を覗き込んだが、このとき『きゃあ、助平ジジイ』と叫んだ。
  • TVの前のキャラと違い、共演者・スタッフ達にはプレゼントを欠かさず贈り、営業に余念が無いと(あくまで)自ら告白している。
  • TVでは自由奔放で辛口発言や暴言が多いと思われがちだが、実際は非常に繊細で、辛口や暴言を吐いた相手に対し、気遣いとフォローを忘れない。また気が回りすぎて、つい虚勢を張ってしまうタイプであることを、前所属事務所の社長により告白されているが、真実は定かではない。
  • 父親は自民党後援会員を務めている。その縁で、都知事選で柿澤弘治を応援したことがある。
  • 「飯島愛さんの死因は肺炎と判明したそうですよ。ファンだったので、自ら死を選んだ訳じゃなかったとわかってよかったです」(1)。
  • 「飯島愛ちゃんのご命日と死因:飯島愛さんのご命日(死亡推定日)は12月17日、死因は肺炎です(警察の検死、病理検査より)。最晩年、アニメ映画の「スカイクロラ」に感銘を受けて同映画監督の押井守さんにシナリオを持ち込んで添削を受けていたそうなので、絶対自殺じゃないです。最後まで生きたかったんだと思います」(2)。
  • 「私的には、飯島愛さんの魅力は、中山秀征さんが、「ウチくる」という番組で引き出していたと思います。中山氏が愛ちゃんがレギュラーで出ていた「ギルガメッシュないと」にゲストに行った後に、愛ちゃん本人が直接社長に売込み電話をして、渡辺プロに入ったという経緯があると中山さんが阿川佐和子さんに話しています。「ウチくる」の愛視聴者としては、非常に同意できます。愛ちゃんは、人の気持ちを思いやることができる人だったと思います」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    飯島愛-Wikipedia
    (1)投稿者:みーこさん..2009/ 2/ 4 17:38:25(水) [4243]
    (2)投稿者:Miwa さん..2009/ 5/22 12:34:53(金) [4916]
    (3)投稿者:自転車おじさん ..2009/ 7/ 3 21:57:37(金) [5295]

(2009.07.04更新)




▲「私的(わたしてき)には」というフレーズで流行語大賞をとったことがある飯島 愛。
(イラスト 玉野安実嬢)

36年1ヶ月と20日の生涯

松本俊介
Syunnsuke Matumoto   【夭折の画家】

(1912.04.19〜1948.06.08)
持病の気管支喘息による心臓衰弱---牡羊座

  • 静かで透明な情感に満ちた作品を残して夭折した画家。昭和の戦乱期に活躍した画家。盛岡市生まれ。
  • 2歳の時、東京より花巻に上京。中学入学式の前日に発病した流行性脳脊髄膜炎で聴力を失う。盛岡中学時代から画に熱中し、この幼年期に賢治と出会っている。それは大きく彼の人生に影響した。盛岡中3年から東京の太平洋画研究所に転入。
  • 1935年(昭和10)「建物」で二科初入選。月刊『雑記帳』発行(14号まで)、1940年「お濠端」・「都会」で二科特待・会友・前衛九室会員。続いてノヴァ美術協・フォルム展同人。第27回仁科展「都会」を出品し、特別賞を受賞。画風は細かい線と、青や茶の濃淡が基で、その色調からも東北の風土が感じられる。
  • 靉光・麻生三郎らと新人画会展を持つなど聞こえぬ世界にたゆみなく英知と情熱を注ぎ「議事堂のある風景」・「画家の像」・「建物」(絶筆)など多数の前衛的な名作を残した。
  • 戦後『美術』誌に美術家組合を提唱、美術界再建に活動したが、1948年6月8日、持病の気管支喘息による心臓衰弱のため自宅で死去。
  • 「優れた都市風景を中心に、自画像や肖像画などを手掛け、透明感あふれるモダンで都会的な画風を確立した。人物表現においては、広範な西洋美術研究を行っており、残されたデッサンやスケッチ帖にはボッティチェリ、レンブラント、ドラクロワなどの模写が見られる。36歳で早世したため渡欧経験はないが、多くの画集や美術雑誌の複製図版から、特に顔の部分を繰り返し写し取り、作画に生かした。本作品は、親交を深めていた靉光の肖像とする説もあるが、おそらく、積み重ねた模写から発展したものと思われる。スケッチ帖に写されたベラスケス《バッカスの勝利》の右端の男に、この肖像は酷似しており、輪郭やあごひげなど、多くの共通点を挙げることができる。松本はこの横顔を、線描を極力排し、勢いのある激しいタッチを重ねて描き出している。模写から展開された作品とはいえ、松本ならではの味付けによって、深みのある屹然とした肖像画として仕上げられた。ちなみに、本作品の右下のサインには「俊」とあるが、1944年頃から署名を「俊介」から「竣介」に改めている」(1)。
  • 「都会とそこに生きる人々をヒューマニスティックな眼差しで描いた画家である。戦時下に表現の自由が抑圧されていく中で、友人たちと「新人画会」をつくり、ささやかながらも自分たちの描きたい絵を発表し続けた」(2)。
  • 「戦時色濃い1941年(昭和16年)、軍部による美術への干渉に抗議して、雑誌『みづゑ』に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られている。都会の風景やそこに生きる人びとを、理知的な画風で描いた。---兄の彬は、「生長の家」の谷口雅春に傾倒していた。竣介は、彬が1933年(昭和8年)に創刊した雑誌『生命の藝術』の仕事を手伝い、小説などを寄稿してもいた。また、妻の松本禎子とは「生長の家」の仕事を通じて知り合ったという。竣介自身も1936年(昭和11年)にデッサンと随筆の月刊誌『雑記帳』を創刊しており、この雑誌は24号まで刊行された」(3)。
  • 短い作家活動の中でさまざまに変遷を重ねながらも、 松本竣介の絵には宮沢賢治 の 世界と相通ずる感性が感じられると度々指摘されている。 ... 現在、松本竣介の作品 は、岩手県立美術館の収集作品の柱のひとつとなっている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    【芸術・文学】 松本竣介
    (1)「松本竣介「顔」
    (2)読売新聞2006.03.10朝刊「近代美術の東京」(大谷省吾)より抜粋。
    (3)「松本竣介-Wikipedia

(2009.05.04更新)




▲静かで透明な情感に満ちた作品を残して夭折した画家・松本俊介。




▲朝鮮アザミ (アクリル 4F)

 

◆「正面からバチっと描くんだ・・・どんな安っぽい建物でも必ず何本かの立派な線を持っている。たとえ貧しくともひとつでも窓が深い影を持っていればそれで満足する」
(松本俊介)

36年1ヶ月と30日の生涯

ダイアナ妃
Diana Frances Spencer   【英:元皇太子妃】

(1961.07.01〜1997.08.31)
パリでなぞの交通事故死---蟹座

  • ダイアナ・スペンサー(英:元皇太子妃)。現スペンサー伯の3女としてノーフォーク州サドリンガルに生まれる。
  • 1968 両親が別居。のちに離婚後、父親に引き取られる。1974 祖父が死去。一家はロンドン郊外のオルソープ城に移る。
  • 1976年父が再婚。1977年1月、長姉セーラが皇太子妃候補と騒がれる。この頃チャールズ皇太子と会う。6月 全寮制学校を卒業。その後スイスの花嫁学校に入るが、6週間で帰国。
  • 1979年11月、女王主催の狩猟パーティに招かれ、皇太子に再会。11月、ロンドン市内の幼稚園に保母として勤める。この頃曾祖母の遺産で購入したロンドン市内のマンションで友人と共同生活を始める。
  • 1980年16月、皇太子はスコットランドの大地主の娘に失恋、その後、夏ごろからダイアナを結婚相手として考え始める。
  • 1981年12月24日、皇太子との婚約を発表。7月29日 皇太子とセント・ポール寺院で挙式。8月 1日、ヨットで2週間の地中海ハネムーン旅行。 11月 5日、おめでたを発表。
  • 1982年16月21日 午後9時30分、長男ウィリアム王子を出産。翌日には退院し、国民を驚かせる。1984年11月10日、新ダイアナカットが報道される。9月15日 午後4時20分、次男ヘンリー王子出産。
  • 1985年12月26日皇太子の元侍従がダイアナ妃と女王、アン王女の不仲を暴露。1987年7月、英大衆紙が不仲による離婚説を一斉に報道。
  • 1997年8月30日 午後アルファイド氏とショッピングにため、フランス・パリに到着。夜、高級ホテル「リッツ」で夕食。
  • 8月31日、午前0時すぎ、黒のベンツでリッツを出発、カメラマンが追跡。午前0時35分−40分 セーヌ川沿いの自動車道路内のトンネルでベンツが中央分離帯の柱に激突し、反動で右壁に衝突。アルファイド氏と運転手は即死状態。午前0時45分、最初の救急車が現場到着。その場で元妃に約1時間にわたる蘇生処置の後、病院へ搬送。午前4時、死亡確認。
  • 9月6日 ロンドン・ウエストミンスター寺院で王室特別別葬。
  • 「ダイアナ元英皇太子妃がパリで事故死する約10か月前の1996年10月、自筆の手紙の中で、「私の夫」が自分に対する事故を計画しているとの不安を記し、チャールズ皇太子に対する恐怖心をあらわにしていることがわかった」(1)。
  • 「ダイアナ元英皇太子妃の死因を調べていたロンドン警視庁は、約3年にわたった調査内容を公表した。前長官は「悲劇的な事故によるもので、殺害の陰謀はなかった」と暗殺説を否定し、運転手の飲酒運転が事故の原因と認定した。元妃の妊娠説も同時に否定した」(2)。
  • 元妃と中東系のドディ氏の交際に反対する英王室が暗殺したとする説が絶えない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.01.07朝刊 6日付の英大衆紙デイリー・ミラー。
    (2)読売新聞2006.12.15朝刊より抜粋。

(2008.02.16更新)




▲英国元皇太子妃・ダイアナ・スペンサー。 (イラスト 玉野安実)

36年2ヶ月と4日の生涯

マリリン・モンロー
Marilyn Monroe   【世界のセックス・シンボル】

(1926.06.01〜1962.08.05)
致死量の睡眠薬で自殺か事故死---双子座

  • 世界を魅了した伝説のスター、米国の映画女優。本名ノーマ・ジーン・ベーカー。カリフォルニア州生れ。
  • 父は不明で、母が精神を病んだため、6歳で孤児院に入れられ、生活のために16歳で結婚。様々な屈辱をへて、肉体美により映画スターになった。
  • 20歳で映画界入り。『ナイアガラ』(27歳)での「モンロー・ウォーク」とこの年創刊された雑誌『プレイボーイ』に載った無名時代のヌード写真が大きな話題を呼んだ。『紳士は金髪がお好き』(27歳)、『七年目の浮気』(29歳)、『お熱いのがお好き』(33歳)等で「セックス・シンボル」として世界的な人気を得た。
  • それから彼女は、野球選手J.ディマジオ、劇作家A.ミラーらとスキャンダラスな結婚をし、J・F・ケネディとの情事さえ噂され、謎の死をとげた。
  • 1962年8月5日 早朝、自宅で裸体のまま死体となって発見されたが、その死因は謎につつまれている。モンローほどその死について取りざたされた人も珍しい。
  • 最後の言葉は死の前日、俳優ピーター・ローフォードからの夕食会の招待の電話で、夕食会には出られないと答えた後。
    「夫人にさよならと伝えて頂戴、大統領にもさよならと伝えて、あなたにもさよならをいうわ」8月5日午前3時半、看護婦はマリリンの部屋を確かめに行くと、彼女は電話の受話器を握ったまま死んでいた。
  • 解剖の結果、死因は全臓器鬱血で、これは睡眠薬による死を物語っていた。葬儀はハリウッド近郊のウエストウッドで行なわれた。
  • 500人の会葬と数人の俳優が招かれ、記者は禁じられたモンローの演技指導を行なったリー・ストラスバーグが弔辞を述べた「彼女の人生で、貧しい少女が惨めな環境から一つの神話を築きあげた。全世界のために、彼女は永遠の女性のシンボルとなった」。
  • なお翌年11月ダラスでケネディ大統領が暗殺されている。
  • 女優マリリン・モンローは、1962年8月5日、睡眠薬自殺を図った(36歳)8月8日、ロサンゼルス市のウエストウッド教会で彼女の葬儀が行われた。葬儀は、マリリンの異父妹のバーニス・ミラクルの許可を得て、マリリンの3番目の夫デイマジオと、マリリンのマネージャーだったイネズ・メルスンがとりしきった。主催者側は、わずか20数名のごく内輪の者しか葬儀に招待しなかった。スターや有名人の参列は、ディマジオによって拒絶された。見物人が教会を遠巻きにしている。入口の前には報道関係者やカメラマンが詰めかけた。式が始まり、リー・ストラスバーグの弔辞。ついで無宗派教会の牧師による告別の辞。そしてパイプ・オルガンが、彼女の愛したメロディ『虹の彼方に』を演奏して短い葬儀は終了した。会葬者は順に花束を棺の足元に捧げた。マリリンは棺に横たわり、手には薔薇の花を握っていた。棺は教会を出発してウエストウッド・メモリアルパークに向かい、壁面式の霊廟に収められた。
  • モンローは、いま20世紀を代表する「愛の女神」とたたえられているが、生前は「セックス・シンボル」とおとしめられていた。マリリン・モンローは、20世紀に初めて訪れた大衆の時代、「淋しい群衆」の時代の前半を象徴していた。小型カメラとT型フォードで幕を開けた20世紀は何より大衆の世紀であった。
  • 「当初はモンローを女性の恥辱と嫌ったフェミニズムにおいても、やがて彼女の真価を発見し仲間に取り込んでいく過程が興味深い」(1)。
  • かつてノーマ・ジーンと呼ばれた少女が、ハリウッドの女優となり、世界のセックス・シンボルともてはやされ、華麗なる男性遍歴をへて、やがて謎の死をとげる一生。孤独な生い立ち、母親との確執、父親探しをしながら、自分のいるべき場所を求め続けた。
  • マリリンモンローは50錠の睡眠薬を使用したという。
    里子に出されている。モンローという名はその母の名前だ。
    モンローウォークは映画「ナイヤガラ」で生まれたらしい。
    流産。全てを手にしたモンローがほしかったのは子どもだった。
  • 記念すべき「人セム」の最初のノミネートはマリリン・モンローだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 朝日新聞2005.02.20朝刊「読書」より抜粋。
    (2)投稿者:ユリウスさん 2005.08.31(Wed) 01:27[560]
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.04.21メールにて。

(2008.01.03更新)




▲20世紀を代表する「愛の女神」・ マリリン・モンロー。
(イラスト 玉野安実)


◆ マリリン・モンローの「7年目の浮気」の名シーンです。撮影現場を訪れた夫のジョー・ディマジオはこのシーンを目撃して激怒したというエピソードが残されています。---(3)

 

マリリン・モンローの言葉

◆ベッドで何も身につけていないという噂がささやかれていた頃 
"What do I wear in bed ?  Why, Chanel No. 5, of course."
(ベッドでは何をつけているのか、ですって? シャネルの5番よ。)

◆セックスシンボルと貶められていた頃
"Sex is part of nature . I go along with nature."
(セックスって自然の一部よ。私は自然についていくわ。)---(2)。

36年2ヶ月と5日の生涯

仲 みどり
Midori Naka      【人類史上初の原爆症患者】

(1909.06.19〜1945.08.24=明治42年〜 昭和20年)
原爆症---双子座

  • 昭和時代の新劇女優。太平洋戦争中、移動演劇桜隊に所属し公演先の広島市で原爆投下の被害を受けた。
  • 東京市日本橋区本町(現・東京都中央区日本橋本町)の塗料問屋で近衛騎兵中尉・仲万次郎の三女として生まれる。
  • 仏英和高女(現・学校法人白百合学園)に進学するが中退。大阪のウヰルミナ女学校(現・学校法人大阪女学院)を卒業後、浅草の剣劇団「明石潮一座」を経て昭和6年(1931年)、築地小劇場内に設立されたプロット(プロレタリア演劇同盟)研究所に入所。
  • 同年劇団東京左翼劇場(のちに東京中央劇場)で新劇女優として初舞台に立つ。東京中央劇場が新協劇団に吸収される形で解散した後は、映画出演、喫茶店の経営、陸軍戦地慰問団への参加などを転々とし、昭和17年(1942年)、丸山定夫らの立ち上げた苦楽座に参加する。
  • 苦楽座解散後に丸山が結成した移動演劇桜隊にも参加し全国各地を巡業するが、昭和20年(1945年)8月6日、桜隊として広島市滞在中に原子爆弾が投下されたことによって被害を受ける(桜隊メンバー9名のうち森下ら5名が即死、4名が後に原爆症で死亡)。東京に戻った後、同年8月24日に入院先の東大病院で死去。
  • 明石潮の証言によると「男勝りの性格」だったという仲は、家庭に複雑な問題を抱えていたものの、それを決して表には出さない気丈な性格だったという。体格も良く健康的で気転の回る性格であり、原爆投下直後も、生存者を助け起こし勇気づけたといわれている。
  • 原爆投下後、仲は宇品の臨時収容所に避難したが、医療施設が全滅したために手の施しようがない収容所の惨状に危機感を募らせて脱走し、8月8日に復旧した列車で命からがら東京に逃げ帰ってきた。帰宅後、極端な食欲不振と胸の苦痛に悩み、8月16日に東京帝国大学(現・東京大学)付属病院に入院。同病院には幸運にも放射線医学の権威・都築正男教授がいたため、仲は手厚い看護を受けることが出来たが、背中に出来た肉腫の悪化、脱毛、高熱、下血、胸の苦痛など原爆症の症状は悪化の一途を辿った。白血球数が400しかないという常識外の事態も医師たちを困惑させた。しかし、苦痛をやわらげる処置が功を奏したのか、8月24日、仲は安らかに息を引き取った。一緒に被爆した丸山、園井恵子、高山象三(俳優薄田研二の子)が苦しみ悶えながら満足な医療を受けられず壮絶な最期を遂げたのに対して、仲の最期はまったく幸運だったといわれる。
  • 死後、綿密な剖検が行われ、死因は「原子爆弾症」と特定された。これにより、仲は医学上認定された人類史上初の原爆症患者とされる。被爆直後から臨終まで続いた胸部の苦痛の原因となった出血した肺と、機能低下し再生不能性貧血の症状を示す骨髄は、標本として今も同病院に保存されている。原爆の投下が人間の体に及ぼす影響を的確に示す初めての標本と言われている。
  • 桜隊遭難の映画化:移動演劇桜隊の遭難を同時代の演劇人の証言などのドキュメンタリーとドラマで再現した新藤兼人監督の映画『さくら隊散る』(1988年制作)において、八神康子が仲を演じている。
  • 「桜隊の人々を襲った症例は中性子被曝ともいうべきもので、一見無傷でも細胞が遺伝子レベルで破壊されて再生不能になっているという恐ろしいものでした。みどりさんが必死に生きたいと東京までたどり着き、入院して亡くなった東大病院に遺したのは、おそらく未来の科学でも修復できない破壊された内臓の標本でした…(右欄)。 64年前の広島と長崎…あの暑い太陽の下で苦しみながら死んでいった人達の事を思うと、本当に胸が詰まります…」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    仲みどり-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwaさん..2009/ 8/15 07:34:50(土) [5756]

(2009.08.15更新)



▲医学的に認定された人類史上初の原爆症患者として知られる仲 みどり。



▲仲 みどりの内臓の標本

36年2ヶ月と10日の生涯

藤田憲一
Kenichi Fujita   【末期ガンになったIT社長】

(1970.08.03〜2006.10.12 PM2:22)
胃がん---獅子座

  • 愛媛県出身。中央大法卒。大手広告会社で商品開発や広告戦略を手がける。その後、シンクタンクで新規事業を担当、女性向けサイトのCEO(最高経営責任者)を務める。
  • 2003年大手電機メーカー子会社の事業部長に就任。同年8月同事業部の分社化により現職。33歳でガン発病、35歳で再発、余命3カ月の宣告を受けた。
  • 『末期ガンになったIT社長からの手紙』の著書もあり、その闘病生活がNEWS 23などでも報じられた。
  • 「藤田憲一様のお父様 藤田郁夫様よりブログ読者の皆様へのご挨拶:長男藤田憲一儀かねて療養中のところ、10月12日(木)午後2時22分胃がんのため永眠いたしました。葬儀・告別式は近親者のみで既に執り行いましたことをお知らせ申し上げます。彼は最後まで自分の信念を強く持って生き抜きました。10年後の医療ではなく今苦しんでいる人への医療を、という彼の意志が形になるには時間が短すぎましたが、各メディアや友人の方々のお力添えによって、問題提議をする事だけは出来たのではないかと考えております。まだまだ発信したいメッセージが彼にはあったと思いますが、ブログ読者の皆様をはじめ多くの方々にご賛同頂き、可能であればその遺志を引継いで頂ければ幸いです。これまで、彼を勇気付け励まして下さいましたブログ読者の皆様には、故人に代わりまして心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
    平成18年10月17日 藤田郁夫」(1)。

  • 「人に任せていいのは、「情報の提供」と「労働」だけである。「考えること」と「判断すること」は絶対に人に任せてはいけない」(2)。
  • NCI社長の藤田憲一さんが医師から余命3カ月と宣告されたのは、2006年1月23日。くしくも堀江貴文ライブドア社長(当時)逮捕の日だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    【君たちへ】ニートと社長は紙一重 NCIの藤田憲一社長-話題 ...
    (1)「≪訃報≫末期ガンになったIT社長からの手紙の「藤田憲一氏」死去|局の ...
    (2)「藤田憲一の名言

(2009.08.03更新)



▲株式会社nci代表取締役社長・藤田憲一。

36年2ヶ月と20日の生涯---2004年没後100年

斎藤緑雨
Ryokuu Saito   【明治文壇の異才】

(1868.01.24〜1904.04.13=慶応 3年12月30日〜明治37年4月13日)
死因?---水瓶座

  • 伊勢国(三重県)神戸の本多藩典医謙堂の長男として生まれる。本名は賢(マサル)、別号は江藤緑、正直正太夫。登仙坊などとも称した。
  • 1877(明治10)年9歳の時、父とともに上京。明治義塾、明治法律学校に学んだか、いずれも中退。其角堂永機に俳諧を学び、その紹介で「今日新聞」に入社、戯作者・仮名垣魯文に師事し戯作小説を発表。花柳風俗と男女の心理的うがちを主題とした代表作に『油地獄』『かくれんぼ』(1891年)があり、下町情調に少年少女の思慕をからませた『門三味線』(1895年)などを書いた。
  • 一方、辛辣なる風刺的文壇批判に長じ、『小説八宗』『初学小説心得』『小説評語問答』などがあり、パロディー風な表現で大家たちの作風を風刺したものにすぐれたものがある。森鴎外の主宰する『めざまし草』[1896年創刊]の匿名合評『三人冗語』『雲中語』にするどい短評もした。
  • 著書には上記のほか、『見切帳』『あま蛙』『あられ酒』『わすれ貝』『みだれ箱』『緑雨集』『緑雨遺稿』などがある。小説の他、ユーモアと皮肉を利かせた警句で知られる。
  • 彼の独壇場は明治20〜30年代における保守的な立場からする風刺評論家という点にあり、皮相な流行現象に対する辛辣な戯評的妙文をふるった。
  • 彼は一生ついに無妻、蓬髪(ホウハツ)垢面(クメン)で人力車を乗りまわし、自筆の死亡広告を出すなど奇行の多い人生をおくった。「〈僕本月本日を以て目出度死去仕候(めでたく死去つかまつり候)---4月13日 緑雨 斉藤賢〉。読売新聞の第6面に奇妙な死亡広告が載ったのは1904年4月14日、百年前の今日である」(1)。
  • 「正太夫としは二十九、痩せ姿の面やすごみを帯びて唯口元にいひ難き愛敬あり」「逢えたのはただの二度なれど、千年の馴染みに似たり」(樋口一葉)。緑雨は同じように貧しかった一葉の葬儀や死後の出版に尽力した」(2)。
  • 「小説家として名を挙げた緑雨は、批評家としても注目を集、ており、辛辣な語り口によって「皮肉屋」の異名を与えられている。実力を推し量ろうとする緑雨を、一葉は「かねても聞けるあやしき男なり」と警戒していた。---緑雨もまた一葉の実力を認め、一葉没後はその借金の始末に奔走し、全集出版にも力を注いだ」(3)。
  • 「宇宙広しといえども間違いのないものが二つある。「わが恋と、天気予報の『所により雨』」。明治の作家、斎藤緑雨の小説「かくれんぼ」の一節である」(4)。
  • 斉藤緑雨は一葉より六歳年上で、当時文壇の毒舌家として知られていた。一葉を高く評価し、死後は妹くにの世話をしたり、母たきが亡くなった時も葬儀全般を引き受けたりした 。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.04.14朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)朝日新聞2004.04.29朝刊「天声人語」より抜粋。
    (3)読売新聞2004.10.15朝刊「樋口一葉から斉藤緑雨への書簡」
    (4)読売新聞2005.12.29朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2006.05.27更新




▲明治時代の小説家、評論家・斎藤緑雨。

 

斉藤緑雨語録

◆「正義は呼号すべきものなり、印刷すべきものなり、販売すべきものなり、決して遂行すべきものにあらず」

◆「拍手は人を愚かにする道」

◆「絶えず貢献なる語を口にする人あれども、おもふに腹のふくれたのちの事なるべし。片手業なるべし小唄なるべし」

36年2ヶ月と20日の生涯

沖田浩之
 Hiroyuki Okita   【俳優、歌手】

(1963.01.07〜1999.03.27)
自宅で首吊り自殺---山羊座

  • 俳優、歌手。本名(旧姓名)置鮎広之。神奈川県川崎市出身。
  • 青山学院大学経済学部中退。昭和55年TBS「3年B組金八先生パート2」に出演。昭和58年東宝「時代屋の女房」。
  • 初シングルは昭和55年CBSソニー「E気持」。円谷作品は昭和61年CX「ザ・サムライ」。平成9年MBS「ウルトラマンティガ」。
  • テレビ出演は「ひまわりの歌」「愛を裁けますか」「パパ スカートはいてよ」「天晴れ夜十郎」。映画出演は「日本海大海戦 海ゆかば」「私をスキーに連れてって」「天と地と」「ガメラ2 レギオン襲来」。
  • ビデオ出演:「がんばれ!青春先生」。舞台出演:「火の鳥」「薔薇と棺桶」「デストラップ」「澪つくし」など。
  • 趣味・特技:アマチュア無線、ゴルフ、サッカー、スキー、乗馬。
  • 「沖田浩之さん(36歳)の自殺の動機としては、借金苦があげられていますが、そのようなカッコ悪いことに耐えられなかったのかもしれません。精神科医の町澤静夫(夕刊フジ99年3.29)は、「中年クライシス」という言葉を使って説明しています。自由な青年から中年の大人になろうとしている時期に、どのような大人(中年)になったらよいかに迷い、精神的に不安定になっていたのではないかということです」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「自殺と自殺予防の心理学2(沖田浩之さんらの ...

(2004.06.28更新)






▲俳優、歌手・沖田浩之。

36年2ヶ月と22日の生涯

ロベスピエール 
Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre
             【フランス革命期の政治家】

(1758.05.06〜 1794.07.28)
ギロチンによって処刑---牡牛座

  • フランス北部・アルトワ州アラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。幼くして母を亡くし、父も身を持ち崩したため、わずか6歳で家長となる。貧しい苦学生だが秀才の誉れ高く、学生代表として雨の中、膝をついてルイ16世の行幸を出迎えたという。皮肉なことに後にロベスピエールは、国民公会において、ルイ16世を激しく非難し、即時処刑すべきと主張した。
  • アラス大学卒業後、判事を経て、アルトワ州高等法院で弁護士となり、学会にも選出された。このころ発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という論文は高く評価された。
  • 1789年、30歳にして、三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じジャコバン派内の山岳派に属しジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対した。後のイメージからは想像しにくいが、このころは死刑廃止法案を提出したり、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わる等、人権派弁護士上がりの議員として多数の人道的法案に関わっていた。「死刑は犯罪抑止力となりえない」という、先進国のほとんどが死刑を廃止している現代であればともかく、当時としては驚くべき感覚の持ち主であった。対外戦争にも、純粋に人道的見地からではないにせよ反対する立場を取った。
  • サン・キュロットの支持を得て、1793年6月2日、国民公会からジロンド派を追放し権力を掌握すると、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治(Terreur:テルール 、テロの語源)を断行し反対派をギロチン台に送った(彼自身"terreur"を必要なものだと信じ、「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」と主張した)。
  • 1793年7月13日の盟友マラーの死に際しては、マラーを神格化することでジロンド派の支持を奪い、さらにジャコバン派内部でのロベスピエールのリーダーシップを不動にした。1794年2月、ヴァントーズ(風月)法を可決。同年3月に最左派エベール一派、同年4月に右派ダントン一派を粛清して、自己の理想とする独立小生産者による共和制樹立を目指した。このころから、自らの主体的な神(正確には「至高の存在」)の定義を議会で通すなど横暴が目立つようになる。そして、6月8日に自らの主体的な神のための最高存在の祭典を挙行する。
  • 対外戦争(フランス革命戦争)が好転し国内危機が一段落すると、1794年7月27日(革命暦II年テルミドール9日)、反ロベスピエール派は結束してロベスピエールを逮捕した(テルミドールのクーデター)。この時ロベスピエールは、ピストルで顎が吹き飛ぶ重傷を負ったが、それは自殺の失敗と最後の抵抗の時に撃たれたとの説がある。傷の出来方の科学的な見地からは自殺の失敗の説でほぼ間違いないのだが、後にナポレオン軍で将校になるシャルル・アンドレ・メルダがロベスピエールを撃ったと自称し、その光景を描いた絵が流布したため、後者が俗説として広まることとなった。
  • 1794年7月28日、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートンらとともにギロチンによって処刑された(ギロチンに上ったときは先の自殺未遂の傷を押さえるため、口にハンカチを巻いていた)。
  • 私生活は至って質素で、紳士的な服装や振る舞いは広く尊敬を集めた。しかし、あまりにも高潔で純粋すぎたために、ともすれば利や欲で動く人間を見極めることができなかったとも考えられる[誰?]。生涯独身で直系の子孫は居ないが、下宿先の主人の娘・エレオノールが唯一恋仲であってもおかしくない存在であった。ジロンド派とジャコバン派で立場は異なってはいたが、ロラン夫人もロベスピエールには好感情を抱いていた。
  • 語録 :「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」
  • 「 元々は人権弁護士で優しい人だったのに、理想を追求して体制を否定し、権力を持つに至ると恐怖政治を敷いたあげくに自分の作り上げた神様を讃えろとお祭りまでしてしまう。権威を否定していた人が権威そのものになってしまう。夢が悪夢になる恐怖。人間は怖いんだなと教えてくれた人です」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    マクシミリアン・ロベスピエール-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwaさん..2009/10/ 2 07:24:31(金) [6264]

(2009.10.03更新)



▲ルソーを目指したジャコバン派のリーダーで、粛清による恐怖政治で多くの反対派を断頭台に送ったため「ルソーの血塗られた手」と呼ばれたマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール 。


▲反ロベスピエール派によるテルミドールのクーデター。この絵ではロベスピエールはピストルで撃たれているが、実際の傷は自殺の失敗によるものである。


▲恐怖政治の象徴としてギロチン刑に処せられるロベスピエール

36年2ヶ月と25日の生涯

ドク・ホリディ
Doc Holliday  【西部の英雄】

(1851.08.14〜1887.11.08)
結核---獅子座


  • 本名「John Henry Holliday」。ジョージア州グリフィン生まれ、コロラド州グレンウッドスプリングスにて他界。
  • もともとはテキサス州ダラスで歯医者を開業していたが、賭博に熱中してギャンブラーとして各地を転々としてドッジ・シティでワイアツト・アープと知りあう。
  • OK牧場の決闘では、アープらと共にクラントン一家と対決した。愛人のロング・ノーズ・ケイトとのロマンスは有名。
  • 最後はコロラドの療養所で結核のため死亡。最近その墓が発見され話題となる。映画ではワイアット・アープ絡みで多数有り。
  • 「ワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)は3兄弟で牛を追ってカリフォルニアに向かうが、途中アリゾナ州のある町で末弟は殺され、牛は奪われる。そこで復讐のために保安官になったワイアット・アープは、酒場で出会った賭博師ドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)の協力で、憎い仇クランプトン一家とOK牧場での決闘を申し込むのだった。世界中で親しまれているテーマ曲「いとしのクレメンタイン」。いまだに西部劇の最高傑作といわれている。西部の男たちは無類の酒好きだ。ワイアット・アープもドク・ホリディも。酒場での初対面の1杯目こそドク・ホリディにシャンペンをごちそうになったが、2杯目からはずっとワイアット・アープの好きなウイスキーだ。ドク・ホリディを追いかけてきた美しい女性クレメンタインに一目惚れしてしまう保安官ワイアット・アープ。けれど彼女の目にはドク・ホリディしか映らない。けれどそんなクレメンタインにつれないドク・ホリディ。自分の気持ちを隠しながら、ストレートウイスキーを飲みながら「あんないい女はいない」と言うワイアット・アープの言葉も無視して、「俺は死にたい」と呟き、飲み続けるドク・ホリディ。酒場でワイアット・アープが手のひらでカウンターを5回叩く。それはバーテンダーのマックにウイスキーを催促する合図。クラントン一家との決闘に勝ったワイアット・アープとドク・ホリディとマックは祝杯をあげる。やがて一人だけ酒場を後にするドク・ホリディ。残されたワイアット・アープとマックは静かにウイスキーを飲み続ける。ワイアット・アープのショット・グラスを持った指がカウンターを叩く。「マック、恋の経験は?」と訊ねると、「いや、私は野暮な方で」と答えるマック。ワイアット・アープがその言葉を聞いて酒場を出て行った後、マックはウイスキーのボトルとランプを片づける。カウンターには男たちがストレートウイスキーを飲んだショット・グラスだけが残されていた」(1)。
  • 「早撃ち稼業にとっては0.1秒が命取りになるため、銃身を短くし、照星が無く、なだらかなカーブを描いたハンマーとすぐ撃てるトリガー(引き金)に改造したコルトシングルアクション45(通称『ピースメーカー』)を愛用していました。ちなみに、僕は海外に行くと必ず、S&W マグナム45を撃ちます。ダーティーハリーの使っていた銃です。対照的に、ワイアット・アープは「バントライン・スペシャル(Buntline Special)」という、とんでもなく長い銃身の銃を使用していました」(2)。
  • すでに伝説化されてしまった感のある西部の英雄、ドク・ホリディやワイアット・アープ。ウイスキーのボトルを持ったら離さないそれが酒好きの西部の男のウイスキーの楽しみ方、だよね。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「ウイスキーと映画の世界 ウイスキー映画大全 ...」
    (2)投稿者:センサー石畑さん 2005.01.19(Wed) 23:27

(2005.01.20更新)




▲すでに伝説化されてしまった感のある西部の英雄、ドク・ホリディ。




◆『荒野の決闘』MY DARLING CLEMENTINE (1946 アメリカ)
監督/ジョン・フォード原作/サム・ヘルマン、スチュアート・N・レイク
出演/ヘンリー・フォンダ、リンダ・ダーネル、ヴィクター・マチュア、キャシー・ダウンズ



◆「OK牧場の決斗」Gunfight at The O.K.Corral(1957) 
ジョン・スタージェス監督
バート・ランカスター カーク・ダグラス ライル・ベドガー ジョン・アイアランド 他


◆ドク・ホリディが使用していたコルトシングルアクション45(通称『ピースメーカー』)


◆ワイアット・アープが使用していた「バントライン・スペシャル(Buntline Special)」

36年2ヶ月と28日の生涯

バイロン
George Gordon Byron  【英のロマン派の代表的詩人】

(1788.01.22〜1824.04.19)
熱病---水瓶座

  • ロンドンに生まれ、2歳の時にスコットランドのアバディーンに移ったが、1798年に第5代バイロン男爵が亡くなったため、第6代バイロン卿となり、父祖の地ノッティンガム州へ移った。
  • 翌年ロンドンに出てハロー校をへて1805年にケンブリッジ大学に入学したが、学業を顧みず放埒な日々を過ごした。
  • 詩集『懶惰の日々』(Hours of idleness, 1807年)を出版したが、翌年エディンバラ・レビュー誌に非難され、諷刺詩『イギリス詩人とスコットランド批評家』を出版して鬱憤を晴らした。
  • 1808年にケンブリッジを去り、1811年までポルトガル、スペイン、ギリシアなどを旅し、帰国後ロンドンに住み、1812年上院で紡績工のラッダイト運動を弾圧することに抗議する演説をおこなって名を挙げた。
  • この年旅行の成果である『チャイルド・ハロルドの巡礼』1・2巻(Childe Harold's Pilgrimage, 1812年)を出版、生の倦怠と憧憬を盛った詩風と異国情緒が時代の好尚に投じ、大評判になった。
  • その間社交界の寵児として恋に憂き身をやつしたが、1815年にアナベラ・ミルバンクと結婚した。このときにもうけた子が世界最初のプログラマーとされているエイダ・ラブレスである。
  • だが翌年に別居し、その乱れた生活が指弾を受けたため、イギリスを去りスイスのジュネーヴでシェリーに会い、ともにスイス各地を巡遊し、ヴェネツィア、ラヴェンナ、ピサ、ジェノヴァで退廃した生活を続ける。
  • 特にグィッチョーリ伯爵夫人(Teresa Guiccioli)との関係が有名である。多くの作品の中で、冷笑と機知に満ちた『ドン・ジュアン』(1819-24年)がこの期の代表作である。
  • 反俗の青年貴族としてヨーロッパ大陸を遍歴し、ギリシャ独立戦争に参加するために1824年ミソロンギに上陸したが、熱病にかかって同地で客死。
  • 劇詩「マンフレッド」、長詩「ドン=ジュアン」など。
    いわゆるバイロニズムは、当時の偽善と偏見を嘲罵し、イギリス・ロマン主義を代表する作風であり、ロシアをふくむヨーロッパ諸国の文学に影響を与えた。日本でも明治以来もっともよく知られたイギリス詩人の一人である。

  • 「・嘘とは何か。それは変装した真実にすぎない。―「ドン・ファン」―
    ・全ての悲劇は死によって終幕となり、全ての喜劇は結婚によって終焉となる。―「ドン=ジュアン 第3幕」―
    ・女は美しくて、甘ったるい嘘つきだ。男は、すぐに彼女を信じてしまうだろう。―「女に」―
    ・快楽は罪だ。そしてときとして罪は快楽である。―「ドン=ジュアン」―
    ・古きよき時代――すべての歳月は古くなるとよくなる。―「黄金時代」―
    ・男の恋は生涯の一部だが、女の恋は全生涯だ。―「ドン=ジュアン」―
    ・女は最初、恋人を恋するが、次からは恋を恋する。―「愛の幻滅」―
    ・恋と結婚は同じ故郷に生まれた仲でありながら、ほとんど結びつくことはない。―「愛の幻滅」―
    ・時だけが恋を退屈させ、慣れてくると恋は消え去る。―「愛よいつまでも」―
    ・大義のために死ぬものは失敗することはない。―「マリオ=フェリエロ」―
    ・逆境は真実ヘの第一歩。―「ドン=ジュアン」―
    ・社会は今、強力な二つの種族から成る。つまり、退屈な連中と退屈させられている連中から。
    ―「ドン=ジュアン」―
    ・後悔も憧れもともに甲斐なければ、私が望むのは忘却のみ。―「メリア=チュアスに」―
    ・数多い恋人の情を集めても、我が胸に燃える友情の火には及ばぬ。―「懐かしいメアリ=アンに」―
    ・友情は翼のないキューピットだ。―「翼の中の友情と恋」―
    ・人間よ、汝、微笑と涙との間の振子よ。
    ・死ぬことなどは、なんとも思わない。だが、この世に愛するものを残していくのはなんと心残りなことだろう!……さあ、それでは眠ることにしよう。--臨終の言葉--」(1)。
  • 「たまさん バイロン、ロマン派の詩はいいですね。ご労苦に感謝いたします。ありがとうございました。プログラミング言語の「エイダ(Ada)」がバイロンの娘さんにちなんだものとは知りませんでした。彼女はバベッジの考案した汎用計算機についての著作まであるのです。そこにはバベッジすら気づかなかった解析機関の可能性に言及しているというから、ほんとうにびっくりです。数学的才能があったのは確かですね。それにバイロンのDNAを受け継いで凄い美人(右欄)」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョージ・ゴードン・バイロン-Wikipedia
    (1)「バイロン格言集
    (2)投稿者:ユリウスさん..2007/ 4/19 12:22:50(木) [1485]

(2007.04.19更新)




▲日本でも明治以来もっともよく知られたイギリス詩人ジョージ・ゴードン・バイロン。


◆世界最初のプログラマーとされているエイダ・ラブレス。
(画像はWiqipedia より)


36年3ヶ月と5日の生涯

ボブ・マーリー
Bob Marley   【レゲエのカリスマ】

(1945.02.06〜1981.05.11)---2005年生誕60周年
ガン---水瓶座

  • ジャマイカのレゲエ歌手、作曲家。本名Robert Nesta Marley。セント・アン生れ。
  • なんと彼は18歳の時にすでにジャマイカにおいてヒット・チャートの1位を獲得し2ヶ月間もトップを守り続けるという快挙を成し遂げている。
  • 19歳で「ザ・ウェイラーズThe Wailers」を結成し、レゲエの音楽的成熟に貢献、世界的なレゲエ・ブームをおこすきっかけとなった。
  • 数枚のアルバムを発表した後、30歳にロンドンのライシウム・ボールルームで公演を行う。このコンサートは今でも人々に語継がれレゲエという音楽を世界中に 知らしめた公演だった。
  • 78年には功績が称えられ世界平和勲章を授与。
  • ミラノにおいて10万人動員コンサートを行うなど精力的に活動。マジソン・スクエア・ガーデンで公演を終えた直後彼の容体は悪化(3年前にフットボールをしていた時に足の爪先を痛めていた)。それが原因で癌になり約8ヶ月もの間、病と闘うが81年5月11日、マイアミの病院で静かに息を引き取った。
  • 現在も教祖的存在としてレゲエの音楽家から敬愛されており、また世界中のポピュラー・ミュージシャンにも絶大な影響を与えている。故郷ジャマイカだけでなく世界の誰もが認めるレゲエの神様。
  • 代表作に『ナッティ・ドレッド』(30歳)、『エクソダス』(32歳)などのアルバムがある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)


(2008.10.18更新)



▲ 世界の誰もが認めるレゲエの神様・ボブ・マーリー。
(イラスト 玉野安実嬢)




▲ボブ・マーリー/ワン・ラヴ・ピース・コンサート (1978年)
出演:ボブ・マーリー/ピーター・トッシュ
◆1978年4月、ボブ・マーリィの歌声がジャマイカを変えた!故郷ジャマイカで行われた、まさに「愛と平和」を謳った伝説のコンサート。ジャマイカの対立する2大政党の党首を壇上にあげ、数万人の群集の前で握手をさせたエピソードなど、「非暴力」と「音楽の可能性」を訴え続けてきた、レゲエ界不世出のスーパースター、ボブ・マーリィの感動ライヴ。ピーター・トッシュやU-ロイ、デニス・ブラウン、ジュディ・モワットら豪華アーティストも参加。収録曲:「ナッティ・ドレッド」「ゲット・アップ・スタンド・アップ」「ジャミング」ほか、全19曲。

36年3ヶ月と9日の生涯

平野 国臣
Kuniomi Hirano  【武士・福岡藩士、志士】

(1828.05.12〜1864.08.21=文政11年3月29日〜 元治元年7月20日)
斬首---牡牛座

  • 通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。贈正四位。 福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の二男に生まれる。父吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分取り立てられている。国臣は足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子になった。
  • 弘化2年(1845年)に江戸勤番を命じられ、江戸に上っている。福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。また、お由羅騒動で薩摩藩から筑前へ亡命していた島津斉彬の側近北条右門(木村中之丞)と親交を持っている。ペリーが来航した嘉永6年(1853年)に再び江戸勤番になり、江戸で剣術と学問に励んだ。この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、安政元年(1854年)に帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
  • 安政2年(1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった(現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。
  • 国臣の尚古主義は止まず、安政4年(1857年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉されている。この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様である。国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。
  • 安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。ところが7月に斉彬は急死し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。国臣の志士活動のはじまりである。その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。
  • 結局、西郷たちの工作は失敗し、幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照を薩摩へ逃そうとするが、藩情が一変して難航。筑前で国臣は月照たちと合流し、供となって薩摩へ向かった。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。国臣は追放され筑前へ帰った。
  • 12月に近衛家へ機密文書を返すために再び京へ上る。京では安政の大獄が吹き荒れていたために、翌正月に備中国連島へ隠れ住んだ。同年12月に下関の豪商白石正一郎邸へ移る。ここで水戸藩士や薩摩藩士と大老井伊直弼暗殺計画を話し合った。翌安政6年(1859年)3月、井伊大老暗殺の機が熟したと感じた国臣は掘次郎とともに福岡へ戻り、藩主黒田斉溥へ大老が暗殺されれば大乱となるから薩摩藩との連携と攘夷のための軍備の充実を求める建白書を提出。3月3日に桜田門外の変が起こり、井伊直弼は水戸藩士と薩摩藩士によって暗殺された。
  • 村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、結局、国臣は退去させられることになった。失望した国臣は「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」と詠じている。
  • 国臣は鹿児島に潜入。大久保に『英断録』を差し出した。大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。薩摩滞在中に村田新八、美玉三平ら急進派と会談し、一挙の成功を確信した。国臣が肥後へ戻ると「島津久光が討幕の兵を挙げる」との噂が広まった。
  • 文久2年(1862年)3月、久光は藩士1000人を率いて上京の途についた。噂を信じた尊攘浪士が京、大坂に集まり、不穏な情勢となる。国臣そして有馬新七ら誠忠組の急進派もこの機に兵を挙げるつもりでいた。ところが、久光には討幕の意思なぞない、上洛は公武合体の運動のためだった。4月になって急進派の動きを知った久光は驚き、直ちに鎮撫させるか従わなければ上意討ちするよう命じた。
  • 4月23日、鎮撫に遣わされた奈良原繁、大山綱良ら9人と急進派が寺田屋で斬り合いになり、有馬ら6人が死亡し、他は捕縛され薩摩へ送り返された。(寺田屋事件)
  • 国臣はこれより前の4月12日に参勤交代の途上で大坂の近くまで来ていた福岡藩主黒田斉溥へ情勢の不穏と、挙兵への協力を訴える嘆願を提出すべく、藩公行列に出頭していた。驚いた福岡藩の役人はとりあえず国臣を旅館へ案内してもてなしたが、そこへ薩摩藩の捕吏が押し込み国臣を捕縛してしまった。浪人嫌いの久光の命令であった。
  • 国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまった。
  • 情勢が再び勤王派に有利となった文久3年(1863年)3月に釈放された。この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。8月16日、京へ上っていた国臣は学習院出仕に任ぜられた。
  • 17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
  • 急ぎ京へ戻るが、すでに京の攘夷派は壊滅状態になっていた。国臣は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎と連携して、生野天領での挙兵を計画した。長門国三田尻へ赴き、長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら30数人の浪士とともに生野に入った。この時点で天誅組は壊滅しており、国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの強硬派に押されて挙兵に踏み切った。
  • 10月12日に生野代官所は無抵抗で降服。農民に募兵を呼びかけて2000人が集まり意気を挙げた。だが、幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられ、13日の夜に主将の沢が逃げ出してしまった。農民たちは騙されたと怒り、国臣らを「偽浪士」と罵って襲いかかった。国臣は兵を解散して鳥取への脱出を図るが、豊岡藩兵に捕縛され、京へ護送され六角獄舎につながれた。
  • 元治元年(1864年)7月、禁門の変を端にして発生した火災(どんどん焼け)は京都市中に広く延焼。獄舎に火が及び、囚人が脱走して治安を乱すことを恐れた京都所司代配下の役人が囚人の処刑を決断。処分は未決状態ではあったが、他の30名以上の囚人とともに斬首された。享年37。
  • 明治24年(1891年)、正四位を贈られた。
  • 福岡市中央区の西公園に銅像が、京都市上京区の竹林寺に墓がある。同じく、京都霊山護国神社にも墓碑および石碑が建立されている。
  • 「個人的には、もう少し知名度が上がっても良いと思われる、平野二郎国臣について早速のご紹介を有り難う御座いました。さて、文久2年(1862)4月に国臣は福岡唐人町の獄に繋がれましたが、此の時に野村望東尼が勤王の思いに感銘し、桝木屋牢の国臣へ慰めの歌を送って居ります。たぐひなき 聲になくなる 「鶯は 籠にすむ憂きめ 見る世なりけり」 対する国臣からの返歌は、Wikipediaでも唐突に保有する京大図書館がリンクされて居る、有名な紙縒文字で書かれた物です。獄中では筆や硯が許されないため、粗末な紙で作った紙縒を字の形にして、米粒で別の紙に貼り付けた労作で、彼の思いは切々と望東尼の心にも伝わった事でしょう。こちら「おのづから 鳴けば籠にも 飼はれぬる 大蔵谷の うぐひすの聲」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    平野国臣-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 7/28 09:55:50(火) [5551]

(2009.07.29更新)



▲攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた 平野 国臣。




▲平野国臣像(福岡市中央区)


▲六角獄舎跡


▲京都霊山護国神社内の国臣の墓




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