玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

30-31-32-33-34-35-36-37-38-39

age 38


50音インデックス


■38歳の
 シンクロニシティ


稽康/ピンイン
W・レームブルック
木村信六


橋本平八
ギョーム・アポリネール
フェデリコ・ロルカ
古賀春江
関口秀明/ ベースウルフ
本田美奈子
多田 かおる
ルイ16世
岸田劉生


川村 カオリ
飯島夏樹
大杉 栄
メンデルスゾーン
ジョージ・ガーシュウィン
陰山和夫
太宰 治


■38歳のエポック


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38歳の語録

 

『人間失格』は太宰文学の総決算ともいうべき傑作。「自分には幸福も不幸もない。ただ一切は過ぎていく」という主人公は作者の自画像でもある。

「私の血液250グラムをあの痩身わ躯の中に入れて、夢のように死んでしまったのである」
(古賀春江の死に際した東郷青児)

「濁酒一杯彈琴一曲志意畢」
(一杯の濁酒と一曲の琴を弾く、これで私の志は終りだ)


38歳のシンクロニシティ!

  • 近代日本の特異な画家二人が38年の生涯を共有している。古賀春江岸田劉生だ。
     
    ●僧籍にありながら、二科会友として超現実主義主感の幻想的筆致による前衛画家・古賀春江(1895.06.18〜1933.09.10)は5回に及んだ輸血の甲斐なく病没し38年2ヶ月と23日の生涯(双子座)。
    ●「麗子像」で知られる洋画家・岸田劉生(1891.06.23〜1929.12.20)も冑潰瘍で38年5ヶ月と27日の生涯(蟹座)を駆け抜けた。

    (2003.07.29)    
             



38/39年?の生涯

稽康
Keikou          【竹林の七賢の一人】

(224.?〜 262.?/263.?)
死罪---?座

  • 三国時代の魏の文人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。字は叔夜。
  • ?国?(現在の安徽省宿州市)の人。曹操の曽孫の長楽亭を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、?中散とも呼ばれる。子に?紹がいる。
  • 非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めず、友人の山濤が自分の後任に稽康を吏部郎に推薦した時には「与山巨源絶交書」(『文選』所収)を書いて彼との絶交を申し渡し、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前に息子の?紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものである。
  • 後に友人の呂安が兄と諍いを起こしたとき彼を弁護したため、かねてから彼の言説を危険視していた司馬昭の側近鍾会の讒言によって死罪となった。
  • 稽康は琴を演奏することを好み、あるとき謎の人物から「広陵散」と呼ばれる琴の曲を学び得意としていたが、誰にもそれを教えなかった。刑の直前にこの曲を演奏し「広陵散今に於いて絶ゆ」と言い残し処刑されたという(『世説新語』雅量篇より)。
  • 「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。
  • 著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」「贈秀才入軍五首」などがある。
    「此方の画像を、ご参考までに。
    こちら p.s.「稽康」と言う銘柄は、純米吟醸でしたか。なお、蔵元には由来と成った欄間が有る様ですから、其れを写真に撮らして貰うと言う手も使えそうですね。こちら」(1)。
  • 「彼の言葉をみつけました。「濁酒一杯彈琴一曲志意畢」(一杯の濁酒と一曲の琴を弾く、これで私の志は終りだ)こちら」(2)。---とっても良い言葉ですね。アンソロジーに追加させていただきます。
  • 「竹林の七賢」といえば老成した世捨て人を思い浮かべるが、アラフォーにして「竹林の七賢」の主導的な人物の一人とは恐れ入ったの鬼子母神。我が山梨に銘酒「七賢」がある。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ケイ康-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 7/ 4 08:46:38(土) [5304]
    (2)投稿者:マイマイさん..2009/ 7/ 4 13:58:55(土) [5307]

(2009.07.04更新)



▲竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人・稽康。



稽康の言葉

「濁酒一杯彈琴一曲志意畢」
(一杯の濁酒と一曲の琴を弾く、これで私の志は終りだ)

38年?の生涯

レームブルック
Wilhelm Lehmbruck   【幻の芸術家】

(1881.?〜1919.?)
自殺---?座

  • 近代芸術の展開に重要な足跡を残した20世紀初頭ドイツの芸術家。1881年ドイツ北西部、デュースブルグ近郊で炭坑労働者の家に生まれる。1895年デュッセルドルフの工芸学校に学ぶ(〜99)
  • 1901年デュッセルドルフの美術学校に入り、記念碑や墓碑彫刻を学ぶ(〜1906)1904デュッセルドルフで開かれた国際美術展でロダンの彫刻を見る。
  • 1905年初のイタリア旅行。1907初めてパリを訪れる。パリの国民美術協会展への賛歌を始める。(〜1911)
  • 1908年(27歳)アニータ・カウフマンと結婚1910妻子とともにパリに移り、モンパルナスに住む。サロン・ドートンヌに出品。この年銅版画の製作を開始。
  • 1911年サロン・ドートンヌに《ひざまずく女》出品。アンデパンダン展に出品を始める。(〜1914)
    1912ベルリン分離派展、ケルンのゾンダーブント展、ハーゲンのフォルクヴァング美術館などドイツ各地の展覧会に出品。
  • 1913年ニューヨークで開かれた現代美術展「アーモリー・ショー」にドイツ人では唯一の参加者として《ひざまずく女》などを出品。
  • 1914年ベルリン親分離派に参加。初の個展をパリで開催。第一次世界大戦勃発にともないパリを離れ、ベルリンに移る。
  • 1915年ベルリンの傷病兵病院で看護兵として軍務につき制作も続行。《くずおれる男》(1915/16)を制作。
  • 1916年ドイツにおける生前唯一の個展をマンハイムで開催。中立国スイスのチューリヒに亡命。1917チューリヒで多くの亡命芸術家と交友。女優エリーザベト・ベルクナーを知る。
  • 1918年抑鬱状態が深刻化。素描と版画の制作に力を入れ、ベルリンとミュンヘンの自由分離派の展覧会に出品。1919値(38歳)ベルリンに戻り、当地で自殺。ベルリンに埋葬される。
    1962デュースブルクに帰葬。1964デュースブルクにヴィルヘルム・レームブルック美術館開館。
  • はじめ伝統的な技法を熱心に学び、やがてフランスのロダンマイヨールなどの作品を通して新しい近代的な造形に目覚め、当時さまざまな国からパリに集まっていた前衛的な作家たちと交流、独自の芸術を確立。
  • 深い精神性をたたえたその作品は、いまだ危機の時代を生きる人類にとって根源的な祈りのメッセージを発している。
    人間への眼差し:母と子、男と女といった普遍的な人間関係は重要なテーマで、人間の「生」の根源に迫るその表現は、レームブルック芸術の一つのハイライト。
    戦争のさなかに:その頃の作品には、過酷な現実に翻弄される人間存在への切迫した眼差しと、祈りにもにた将来への希望が、静かに、しかし力強く刻まれている。
  • 幻の芸術家:戦争という極限状態が彼の繊細な精神を確実に蝕み、さらに芸術家としての、またひとりの人間としての苦悩がそれに追い打ちをかけた。残された彼の作品は、ドイツ表現主義の重要な成果として高く評価されるようになるが、ヒトラーが政権を握ると、「頽廃芸術」の烙印を押され、その多くが押収され、晒しものにされるという受難の道をたどった。
  • 日本において早くからレームブルックの作品に注目した人物として、我が国近代建築の先駆者の一人である石本喜久治(1894-1960)がいる。
  • 「彼がいなかったら、私の彫刻家としての生涯はなかった」(1)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)現代美術のスーパースター、ヨーゼフ・ボイス。

(2003.09.24更新)



▲幻の芸術家レームブルック。

 


▲《ひざまずく女》部分。
細長い体、黙想的なまなざし。
彫像から声が聞こえそう。

 

▲ 《ひざまずく女》1911年
細長く引き伸ばされた四肢をもつこの女性像は、すみずみまで磨きぬかれた繊細なポーズによって、宗教的な雰囲気を発散している。聖母マリアの姿とも、聖母マリアに受胎を告げる天使の姿だとも言われますが、そうした具体的なテーマを越えて、見る者に普遍的な祈りのメッセージを感じさる。

38年?の生涯

木村信六
Shinroku Kimura   【樺太考古学の父】

(1903.?~1941.?)
病没---?座

  • 戦前、日本の領土だった樺太(ロシア・サハリン)で、並々ならぬ熱意をもって考古学調査に取り組んだ警察官がいた。その業績や収集した資料はほとんど忘れ去られていたが、近年、関係資料の発掘が進み、財団法人北海道北方博物館交流協会から『樺太考古学のパイオニア 木村信六伝』(野村崇編)として刊行された。
  • 1903年、現在の北海道島牧村に生まれた。
  • 1915年、一家で樺太の長浜村(当時)に移住。近くには竪穴住居跡などの遺跡が多数あり、石器や土器を拾い集める考古少年として成長していった。
  • 1925年、近衛師団での2年の兵役を終えた後、樺太に戻り、巡査となる。以降、赴任地周辺の遺跡分布調査に取り組み、新聞や学術誌などにその成果を次々と発表するようになる。33年には「木村郷土研究所」を設立して、調査を本格化させていった。
  • 木村の最大の業績は、108か所に及ぶ遺跡を網羅した「本斗郡先史時代遺物発見地名表」(34年)を作成したこと。これは、現代ロシアによるサハリン考古学研究の基礎として活用されている。
  • また、33年に札幌で開かれた北海道原始文化展覧会に、樺太で採集した土器を持参。それが網走市のモヨロ貝塚出土の「モヨロ式土器」と一致したことから、今の学術用語として定着している「オホーツク式土器」と新たに命名することにしたというエピソードもある。
  • 木村がこうした調査に熱中したのは、日本領となってまだ歴史の浅い樺太に対する住民の郷土意識を高めるためであった。そのために収集した資料を展示する博物館を設立するのが夢だったが、病を得て、41年、37歳という若さで急逝する。
  • 戦後、木村の事績は学術誌などで細々と伝えられてはいたが、北海道埋蔵文化財センターの西田茂氏が80年、ひょんなきっかけで木村信六の長女と知り合ったことから、一気に木村信六研究が展開し始めた。4000点に達する木村コレクションもサハリン州郷土博物館にほぼ当時のまま保管されていることが判明した。
  • 「樺太考古学」には、こうした木村の生涯や研究論文が収録されているほか、戦後の日露両国における木村再評価の動きも丁寧にまとめられている。
  • 「考古学と言っても、まだ骨董的な興味が強かった時代に、きちんと遺跡の位置と内容を記録し、現代の学術的な検証に堪える業績を残した意義は大きい」と、編者の野村崇・元北海道開拓記念館長は高く評価する。
  • 石油採掘ラッシュで開発ブームにわくサハリン。貴重な遺跡を守るためにも、木村信六の業績は長く伝えられなければならない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2008.12.26朝刊「『樺太考古学』開拓 木村信六の生涯に光」(片岡正人)より抜粋。

(2009.01.29掲載)


   

★肖像を探しています。

▲戦前、日本の領土だった樺太(ロシア・サハリン)で、並々ならぬ熱意をもって考古学調査に取り組んだ木村信六。

38年と14日の生涯

橋本平八
Heihachi Hashimoto   【東洋のブランクーシ】

(1897.10.17〜1935.11.01=明治30年〜大正26年)
脳溢血 ---天秤座

  • 三重県度会郡四郷村大字朝熊46番屋敷(現在の伊勢市朝熊町1185番地)に父安吉、母ゑいの長男として生まれる。姉にふみがおり,次男健吉,三男正二,次女ゆき子の5人の兄弟姉妹であった。平八は祖父の名を嗣いで命名されたものである。
  • 1919年(大正8)に上京し、日本美術院同人の彫刻家佐藤朝山の内弟子となり、22年第9回日本美術院展(院展)に初入選、以後院展に出品をつづける。26年(昭和元)には郷里の伊勢市朝熊(あさま)にもどり、38歳で死去するまで同地で制作にはげんだ。
  • 1935年 11月1日、脳溢血で死去。
  • 平八は、朝山の技術的な厳格さをうけつぎつつ、近代性を加味した個性的な木彫を制作した。それらは、高村光太郎荻原守衛によってもたらされた、造形性を強くうちだした洋風彫塑とはことなり、円空仏(→ 円空)に影響されたように、木という素材と土俗的な精神性を意識したものであった。ヨーロッパの彫刻を受容した日本の近代彫刻の歴史の中では異端の位置にあるが、日本の近代彫刻の独自性をひきだした点では高く評価されている。代表作に「花園に遊ぶ天女」(1930)、「幼児表情」(1931)、「或る日の少女」(1934)などがある。
  • 木という素材と向き合い、固有の造形思考を掘り下げた橋本平八は、ボクには東洋のブランクーシ(1876.02.19〜1957.03.16)に見えてならない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    橋本平八 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト

(2007.11.17掲載)


   


▲木という素材と向き合い、固有の造形思考を掘り下げた彫刻家・橋本平八。


?子守 - 橋本平八  彫刻 - 431  昭和3年(1928) 木 彩色 全高35.7


?花園に遊ぶ天女 - 橋本平八  彫刻 - 470  昭和5年(1930) 木 淡彩 全高121.7

38年2ヶ月と14日の生涯

ギョーム・アポリネール
Guillaume Apollinaire   【フランスの詩人】

(1880.08.26〜1918.11.09)
スペイン風邪---乙女座

  • 『ミラボー橋』などで知られるフランスの詩人。イタリア人を父、ポーランド人を母としてローマに生まれる。
  • ローマからモナコ、ニースと移りながら学校を出た後、20歳でパリに出てきて銀行関係の仕事につく。仕事の傍ら文学活動を行い、やがて25歳、パブロ・ピカソと知り合う。
  • ピカソのアトリエ「洗濯船」で多くの芸術家と交流する。中でも27歳の時、画家マリー・ローランサンと出会う。この時ローランサンは22歳。二人は運命的な恋に落ちる。
  • まだ画家として自立していなかったローランサンをアポリネールは励まし、助言し、精神面から芸術家としての力を開眼させていった。しかしローランサンはやがて「洗濯船」のメンバーたちが熱心に描いていたキュビズムの絵に違和感を覚えるようになる。
  • この恋は6年間続いたが、恋愛期間が長くなり、アポリネールとの関係もマンネリ化して別れる。これをきっかけにしてローランサンは精神的にも技術的にも画家として一人立ち。しかしアポリネールはどうしても彼女のことを忘れることができず、終生、彼女を慕い続けた。
  • そしてこの別れから5年後、彼はスペイン風邪のため38歳の若さで死去、その枕元にはローランサンが描いた名作「アポリネールと友人達」が架けられていたそうな。
  • 象徴主義にシュルレアリスム的傾向を加え、モダニズムの先駆となる。評論《キュビズムの画家たち》などで絵画,演劇の新傾向を擁護。
  • 「ミラボー橋」を含む詩集『アルコール』(33歳)では大胆な想像力により対象をリアリズムの秩序から解放、『カリグラム』(38歳)で詩型革新を試みた。
  • ほかに短編集『異端教祖株式会社』、シュルレアリストなる語の最初のあらわれを見た戯曲『ティレジアスの乳房』。
  • 男の恋は犬のションベン、女の恋は猫のションベン。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.07.09掲載)



▲『ミラボー橋』などで知られるフランスの詩人ギョーム・アポリネール。

38年2ヶ月と14日の生涯

フェデリコ・ロルカ
Federico Garc Lorca 【20世紀のスペインを代表する詩人】

(1898.06.05〜1936.08.19)
銃殺---双子座

  • 1898年、アンダルシア州グラナダの村、フェンテ・バケーロス(Fuente Vaqueros)の農場主の家庭に、長男として生まれる。生後二ヶ月で小児麻痺にかかり、以後軽い歩行障害に悩まされるようになる。
  • 1909年、イエスの聖心学院入学。家庭ではヴェルディの弟子であったアントニオ・セグーラに音楽を習う。1915年、グラナダ大学の法学部と文学部へ入学。父親はロルカが弁護士になるのを希望していた。
  • 1918年、処女著作『印象と風景』を自費出版。反響はまったくなかった。1920年、マドリードの学生寮に住み、詩の朗読で有名になる。戯曲「蝶の呪い」が初演されるが、失敗に終わる。
  • 1921年、詩集『詩の本』を出版。新聞で批評されるなど評判は悪くなかった。1923年、法律の学士号を修得。この頃、ダリと出会っている。
  • 1927年、詩集『歌集』出版。マドリードのゴヤ劇場で最初の戯曲作品「マリアナ・ピネーダ」初演。バルセロナでロルカ素描展開催。
  • 1928年、詩集『ジプシー歌集』出版。文壇から絶賛され、名声が一気に高まる。
  • 1929年、アメリカ合衆国を訪問。コロンビア大学の英語講座に登録するも一週間で勉強をやめてしまう。ニューヨークにも滞在している。
  • 1930年、ウォール街に強い嫌悪を覚えたロルカはキューバを訪問。現地の芸術家と交流を行い、再びグラナダへ戻る。スペインではプリモ・デ・リベラ政権が崩壊、第二共和制が成立。
  • 1931年、『カンテ・ホンドの詩』出版。1932年、大学生劇団バラッカを設立。古典劇の普及に努める。
  • 1933年、「血の婚礼」初演。大成功を収める。10月にはアルゼンチンを訪問し、熱狂的に迎えられる。1934年、「イェルマ」初演。
  • 1935年、前年に牛に突かれた傷がもとで亡くなった闘牛士を悼んだ詩集、「イグナシオ・サンチェス・メヒーアスへの哀悼歌」出版。
  • 1936年、内乱の雰囲気が高まるなか、ロルカはマドリードから故郷グラナダへ戻る。数日後、モロッコでフランコが反乱軍を指揮し本土へ侵攻、スペイン内戦が勃発する。ロルカは友人のファランヘ党員の家へ逃げ込むが、8月16日、友人の留守中に逮捕、県庁舎に連行される。8月19日早朝、グラナダ近郊の村アルファカールで三人のレジスタンスたちと共に銃殺された。享年38。
  • フランコ政権によってロルカ作品は発禁となった。1953年に厳しく検閲された全作品集(Obras completas)が出版されたが、これには後期の作品の一つが収められていなかった。
  • 1975年にフランコ将軍が死去するまで、スペインでロルカを自由に語ることはできなかった。そのため、ロルカ作品の上演、研究はフランスなどのヨーロッパの方が先行していた(参考資料の小海永二はフランス文学者)。
  • 現在ではマドリードの広場にロルカの像が建てられている。
  • 詩集:『ジプシー歌集』(Romancermurio de gueco)、『カンテ・ホンドの詩』(Poema del cante jondo, 1931年)
    戯曲:「血の婚礼」(Bodas de sangre, 1933年)「イェルマ」(Yerma, 1934年) 。
  • 民族的・伝統的なテーマと新しい表現様式で戯曲の傑作を発表。すぐれた民衆詩人としても知られる。内戦勃発直後、フランコ側の手で銃殺。
  • 詩集「ジプシー歌集」、悲劇「血の婚礼」など。
  • ロルカは画家サルバドール・ダリや映画監督ルイス・ブニュエル、評論家セバスティア・ガッシュなど様々な親交があった。ダリには詩集を捧げている。また、ダリの妹とも親しかった。しかし、作品の内容から彼は同性愛者であったと言われている。
  • アンダルシアのジプシーを詠んだロマンセ(歌)集『ジプシー歌集』が代表作である。(もっとも、アンダルシア人からはこれは実像でないと批判された。作家ボルヘスは彼を「プロのアンダルシア人」と評した)。
  • 日本でも1930年には詩が訳されている。また、戦後になって劇作品が多く紹介され、非常に人気が高い。俳優の天本英世がロルカの詩を好んで朗読することで有名であった。
  • ガルシアとも表記される。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    フェデリコ・ガルシーア・ロルカ-Wikipedia

(2007.04.19掲載)




▲音楽、絵画においても多彩な才能を示すアーティストであったが、そのリベラルな作品と言動のため、スペイン内戦の際にファランヘ党員によって銃殺された詩人、劇作家のフェデリコ・ガルシーア・ロルカ。


◆マドリード市サンタ・アナ広場のロルカ像。


38年2ヶ月と23日の生涯

古賀春江
Harue koga   【夭逝の画家/昭和一桁の最先端】

(1895.06.18〜1933.09.10)
 5回に及んだ輸血の甲斐なく病没---双子座

  • 僧籍にありながら、二科会友として超現実主義主感の幻想的筆致による前衛画家。寺の住職の長男として福岡県久留米市の浄土宗善福寺 に生まれる。幼名は亀雄。青木繁、坂本繁二郎と同郷である。
  • 生来の病弱に加え、両親の寵愛を一 身にうけ、内向的で多感な少年に育っていった。
  • 15歳、中学明善校に入学した頃から、松田実(諦晶)に洋画 の手ほどきをうける。同校を3年で中退、上京、太平洋画会研 究所や日本水彩画会研究所に学ぶ。
  • そして早くも18歳で第11回太平洋画会展および第1回日本水彩画会展に 初入選を果す。
  • 大正4年、僧籍に入り良昌と改名、春江を 呼び名とした。翌年父の死により、跡を継ぐため宗教大学(現 大正大学)に入学するが、まもなく退学。
  • 彼は初め水彩画専門をもって任じていたが、ようやく大正7 年頃から油彩画も始める。
  • 1922年(27歳)の第9 回二科展に『埋葬』、『二階より』を出品し二科賞を受賞、また 同年、前衛グループ「アクション」の結成にも加わり、前衛画 家としての道を歩み始めた。
  • 「カメレオンの変貌」とも評された彼の画風は、キュビスム からクレー風、さらにシュールレアリスム風へと変貌していっ た。この変貌には、当時の美術界の振幅が反映されている とも いえるが、彼の前衛への志は高く評価されるべきである。
  • 昭和 4年(34歳)の第16回二科展で、彼は初めてシュールレアリスム的手法の作品を発表。
  • 昭和8年(38歳)7月、郷里から東京へ向かう車中で発病。 9月10日、川端康成ら友人の見守るなか息をひきとった。
  • 大正から昭和にかけて関根正二村山塊多青木繁、中村彝、長谷川三郎など夭折の天才と呼ばれた画家達がいた。古賀春江が一連の夭逝の作家達と異なるのはその表現が様々に豹変することだった。キュビスム風からクレーかと見まがうような作品(実際に彼は模写も行っている)。晩年はシュルレアリスム風に。
  • 表現主義、クレー、シュルレアリスムなどの影響を受けた特異な作風で知られる。代表作『海』『素朴な月夜』。
  • 素朴な純真さを作品にたたえながら、一方で、美術の世界でつねに時代の先頭に立とうとした洋画家。新しいアイデアや思いがけない図柄を貪欲に追い求め、グラフ雑誌から科学雑誌、医学書まで利用しようとした。
  • 38才で世を去るまでの間、仏教に題材を求めた作品、ルネサンス美術にもとづくもの、同時代のヨーロッパ美術に触発されたもの、様々な図や写真を引き写して組み合わせにしたもの、などを新しい試みに挑戦。
  • しかし、さらに驚いたことに最もいい作品が登場するのは1921年と22年の2年間だけだということ。この時の表現こそ古賀春江が辿り着き、生涯追求すべきものではなかったのだろうか?
  • 子供の死産という事件に遭遇した彼は、1921年に「観音」、1922年には「埋葬」という充実した作品を制作する。
  • 23年あたりからキュビスム的な表現が強くなり、25年頃からはパウル・クレーに強く影響された作品を制作。詩的な水彩画などを経て徐々に自分の表現にしていく。1929年、後年唯一彼の表現が結実した作品「素朴な月夜」を制作。その後、自ら関わっていた商業美術の影響であろう、雑誌の写真をそっくり借用した作品を制作し始める。ここで古賀春江は古賀春江であることを捨てたのだろうか?
  • 目先の面白さと平坦なマチエール。マグリットから思想を抜きとったような軽い画面。そして最晩年の作品は、観ていて痛々しさを感じるほど衰えた「サーカスの景」
  • 「古賀春江は浄土宗のお寺に生まれ、前衛画家の道を疾走した後、仏教的な宗教感情と通底する童画のような世界にたどり着く」(1)。
  • 「昭和初期の出版文化の隆盛と、流通する多様なイメージの群を前提とする自在な編集作業。「海」はそこに描かれた対象が都市の記号に満ちているというばかりか、都市の別の姿である」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.07.24朝刊 田中淳著『画家がいる「場所」』の三浦篤による書評より抜粋。
    (2)読売新聞2006.09.08朝刊(鈴木勝雄)より抜粋。

(2007.07.11更新)




▲大正期に活躍した日本の初期のシュルレアリスムの代表的な画家・古賀春江。


◆ 代表作「海」(1929年)


◆ 《遊園地》 1926年 水彩 
ブリヂストン美術館


◆「全くの出不精。画家仲間で古賀君のやうに読書と詩作に沈面したひとを他に知らない」(中川紀元)。

◆「君の全画境を一貫して流れて居るものは色彩の綺麗さ涼しさ多少の黒味を帯びた夢どこか可憐なものありて陰惨の気等は見られない」
(郷里、久留米の先輩画家・坂本繁二郎)

◆「彼は理智の機構を好み、冷ややかな哲学の後を追ひながら、終生牧歌的な詩情を離れることができなかった。其処に古賀の面白さがある」
東郷青児)。

◆「私の血液250グラムをあの痩身わ躯の中に入れて、夢のように死んでしまったのである」(東郷青児)。


38年3ヶ月と23日の生涯

関口秀明/ ビリー
Hideaki Sekiguchi  【「ギターウルフ」の名脇役】

(1967.01.08〜2005.03.31)
心不全---山羊座

  • 日本を代表するガレージ・ロック・バンド、「ギターウルフ」のベーシスト、ビリーこと関口秀明。
  • 演奏技術の評価は低いものの、ライブパフォーマンスで観衆を熱く湧かせるバンド。「ギターウルフ」の名脇役。
  • ギターウルフ (GuitarWolf) は、1987年に結成された日本のスリーピース・ロックバンド。所属レコード会社はキューンレコード。彼らの楽曲は、ロック、ガレージ・ロック、パンク・ロックから影響を受けている。また、彼らのパフォーマンスや、メンバーのセイジが多大な影響を受けた人物の1人、ジョーン・ジェットにちなんで、自らの音楽を「ジェット・ロックンロール」と呼ぶこともある。
  • トレードマークは革ジャン、皮パン、サングラス。セイジ以外のメンバーの髪型はリーゼントである。 ラモーンズを敬愛しており、ライブ前には、ラモーンズの曲がよく流されている。曲のスタイルはアルバムによって微妙にタッチは異なるが、一貫して3コードを基本としたシンプルな楽曲を展開。レコーディングは一斉録り(全員で一緒に演奏して、録音する方法)、一発録り以外はしない。セイジはレコーディング中でも、アンプからジャンプするなど、音よりもその場のエネルギーもまとめて収録したい、という思いがある。
  • その姿勢はライブでも顕著に表れており、アンプは大音量を流し、曲の大半はCDよりさらに速く、粗くなる。客の頭の上に仁王立ちしながら演奏したり、ギターの弦が切れても気にせず飛び跳ね回るなど、過激なライブパフォーマンスを展開する。演奏技術は決して高くはないが、技術云々ではない圧倒的なエネルギーを放っている。日本よりも海外でのリリースが早かったためか、アメリカやヨーロッパでの一般的な評価は日本国内のそれよりも高い。だが、アルバム『DEAD ROCK』リリース時には、紙媒体でのインタビュー等、プロモーション活動も行っている。
  • ビリー存命時は、作詞作曲のほとんどをセイジが担当していたが、一部の楽曲はビリーが作詞しボーカルを務めていた。UG加入後は、作詞作曲、ボーカル全てをセイジが担当している。メンバーは担当楽器によって、「ギターウルフ」「ベースウルフ」「ドラムウルフ」と呼ばれることもある。
  • 現メンバー:セイジ(ギター&ボーカル) - 寝る時もサングラスは外さない。UG(ベース) - 2005年9月加入。トオル(ドラム)UGは21歳。セイジ43歳、ドラムのトオル37歳と年は離れている(2007年1月31日時)。 旧メンバー:ビリー(ベース&ボーカル) - 2005年3月31日心不全により急逝(享年38)。
  • 1994年、アメリカにてアルバム『WOLF ROCK』でCDデビュー。日本国内では、1997年にアルバム『狼惑星』でメジャーデビュー。長らく、3人での活動が続いていたが、2005年3月31日未明にビリーが心不全により急逝。ベスト・アルバムをリリースした後、同年9月、ギターウルフのファンであったUG(ユージ)が加入。UGは楽器経験者ではなく、ヒップホップを好み、ロックはギターウルフしか聴いたことがなかったという。
  • セイジは抜擢の理由について、「UGが入ることによって予想できない新たな爆発を生み出したかった」といった旨の発言をしている。2000年に入ってから海外進出を果たすバンドも増える中、ギターウルフは早い段階で海外進出を果たしており、少年ナイフと並んで北米で最も注目を受ける日本のバンドと言える。それを物語るエピソードとしては、2004年リリースのトリビュートアルバムの、ジム・オルークやダイナソーJr.のJ・マスシス(因みにソニック・ユース同様前座のオファーを断られた過去がある)の参加や、2006年12月4日には、アコースティック公演を終えたフー・ファイターズのメンバーがギターウルフの新宿LOFTでのライブがあると聞きつけ、急遽メンバー全員で駆けつけるという出来事が挙げられる
  • 「〈ギターウルフ〉:1987年結成。ギターウルフ(Vo&G)、ベースウルフ(B)、ドラムウルフ(Dr)の3人からなるロックンロール・バンド。93年に初のアメリカツアーを行い、NYの大手インディーレーベル「マタドール」から3rdアルバム『ミサイルミー』をリリース。Ki/oonRecordsに移籍後、メジャーアルバムをリリースし、全米、ヨーロッパツアーを敢行するなど、世界中で勢力的に活動を展開。2003年にはフジ・ロックフェスティバルに出演、アルゼンチン&ブラジル・ツアー敢行。これまでに8枚のオリジナル・アルバムをリリース。しかし、2005年3月31日、ベースウルフことビリーが心不全により急逝。05年7月に発売された初のベストアルバムには、「ビリー追悼」の意味も込められている」(1)。
  • 「ギターウルフの曲作りは、ほとんどセイジが担当していたが、ビリーも作詞などを手掛けたりしていた。ライブで暴れまくるセイジの横でクールに髪の毛を整えながらベースを弾く姿は、それだで絵になっていた。ギターウルフはアメリカのライブシーンでは有名で、その訃報は、アメリカ人をも悲しませた。タレントのつるの剛士は芸能界きってのギターウルフファンであり自身のブログで『ビリーさん、天国でもジェットロックンロールし続けて下さい!心よりビリーさんの御冥福をお祈りいたします....あぁ本当に信じられない。ビリーさん,,,,,,,いくらなんでも早すぎます....本当に悲しいです』と書いている」(2)。
  • 「まだこれからの活躍も期待できましたね。2月25日から3月25日にかけて、全米24カ所ツアーを行って帰国したばかりだったそうで、疲れがたまっていたのでしょうか。合掌」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ギターウルフ-Wikipedia
    (1)「ギターウルフ
    (2)投稿者: うのさん ..2007/ 5/16 15:27:05(水) [1627]
    (3)「[N] 「ギターウルフ」関口秀明氏、死去

(2007.05.21更新)




▲日本を代表するガレージ・ロック・バンド、「ギターウルフ」のベーシスト、ビリーこと関口秀明。


◆ワイルドゼロ

38年3ヶ月と26日の生涯

本田美奈子
Minako Honda   【「ミス・サイゴン」のヒロイン】

(1967.07.11〜2005.11.06 AM4:38)
急性骨髄性白血病---蟹座

  • ミュージカルなどで活躍した歌手、女優。本名・工藤美奈子。東京都出身で、1985年4月に「殺意のバカンス」で東芝EMIからデビュー、日本歌謡大賞などの新人賞を総ナメにした。
  • 「One way Generation」「1986年のマリリン」などヒット曲多数。92年4月から「ミス・サイゴン」でヒロイン・キム役を公演して以来、数々のミュージカルに出演し高い評価を得た。
  • 今年1月から急性骨髄性白血病が判明して緊急入院、4月18日に無菌室から一般病棟に移った。一時は抗がん剤の副作用による体力衰退で病状が悪化したが、精神力で乗り越えていた。
    ★「惜しい歌手を失った」…細川たかし
    本田さんとテレビの歌番組で何回か共演したという細川は「歌が上手い子、惜しい歌手を失ったと思う。難しい病気なんだね」と重々しい表情で語った。
    ★「残念でならない」…由紀さおり
    歌手、安田祥子(64)と由紀さおり(56)姉妹が7日、東京・渋谷のオーチャードホールで20年目を迎えた童謡コンサートの全国ツアーをスタートさせた。公演前に会見を行い、6日に亡くなった本田美奈子.さんについて、テレビ音楽番組で共演した由紀が「まだこれから10年以上にわたってステージを踏めたはず。残念でならない」と悔やんだ。
  • 「本田美奈子さんが歌う「アメイジング・グレイス」とは、賛美歌第2編167番。18世紀に英国の奴隷商人だったジョン・ニュートンが嵐に遭い、神に祈り助かったことで、「こんなに愚かな者をも救ってくださった」と作った歌だと書いてあった」(1)。
  • 「さて、昨日ようやく発売された此の本は、急性骨髄性白血病と壮絶に戦った、本田美奈子の人生を描いたものです。原宿等でスカウトされてオーディションを受けた19人の殆どが、人気アイドル達の曲を持ち込んだ中で、彼女は『天城越え』を選んだそうですが、ウチでは演歌は募集して無いと言われて次に歌ったのは『ラブ・イズ・オーバー』。抜群の歌唱力は「長崎歌謡祭」のグランプリ受賞で証明され、後の歌手デビューへと繋がる訳ですが、只ならぬモノを感じた私の手許には、当時購入したファーストアルバム「M'sシンドローム」が今も残って居ります。なお、此の本の売上げの一部は、下記の団体に寄贈されるとの事です………。こちら」(2)。
  • へそ出しルックなどの過激な衣装とパワフルな歌声でヒット曲を出した本田美奈子。そういえば、歌手の吉田美奈子さん、本田るつ子さんはいまどうされているのでしょう?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄 。
    (1)読売新聞2005.11.29朝刊「プラザ」(堀口静代)より抜粋・リライト。
    (2)投稿者:Thori-Tungさん..2007/ 4/21 06:26:25(土) [1494]

(2007.04.21更新)




▲1992年4月から「ミス・サイゴン」でヒロイン・キム役を公演して以来、数々のミュージカルに出演し高い評価を得た本田美奈子。


 

◆「舞台の幕が開くと、痛みは忘れてしまう不思議な世界に入れるんです」

38年5ヶ月と14日の生涯

多田 かおる
Kaoru Tada        【少女漫画家】

(1960.09.25〜 1999.03.11)
脳内出血---天秤座 A型

  • 大阪府寝屋川市生まれ。
  • 1977年、第3回別冊マーガレット新人長編マンガ賞佳作受賞(『琴美の婚約者』)。同年、『キッスの代償!?』でデビュー。
  • 1985年5月10日、バンドPRESENCEのボーカル(当時)西川茂と結婚。
  • 『イタズラなKiss』連載中の、1999年2月21日に誤って大理石のテーブルに頭をぶつけて意識不明となり、18日後の3月11日、脳内出血にて急逝。享年38。
  • ジョディフォスターの熱狂的なファンとしても知られ、とんねるずが司会を務める公開オークション番組『ハンマープライス』に一般客として参加し、見事ジョディフォスターの書き初めを落札。
  • 「たまさん、こんばんは。多田かおるさんの掲載、ありがとうございます。ところで、その多田さんの「作品リスト」の「イタズラなKiss」の補足ですが、1996年10月から12月までテレビ朝日系でドラマ化されていました。主演は、佐藤藍子さん&柏原崇さんです」(1)。
  • 作品リスト
    ◆「愛してナイト」1983年、テレビアニメ化。堀江美都子、ささきいさお 主演。2004年、ネットシネマ化。全12話。
    ◆「デボラがライバル」1997年、映画化。吉川ひなの 主演。
    ◆「イタズラなKiss」

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    多田かおる - Wikipedia
    (1)投稿者:伝川(ツタガワ) 正之さん 2006.04.07(Fri) 22:00[1316]
     

(2006.04.08更新)



?肖像を探しています。

▲未完となった少女マンガ「イタズラなKiss」の作者・多田かおる。



38年4ヶ月と29日の生涯

ルイ16世
Louis XVI de France  【ルイ15世の孫】

(1754.08.23〜 1793.01.21)
ギロチンで斬首刑---乙女座

  • 妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。
  • 1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王(兼ザクセン選帝侯)アウグスト3世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生。ベリー公となる。
  • 1760年9月8日、ヴォギュヨン公爵が家庭教師となる。1761年の復活祭の日、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフが結核で死亡し、1765年に父の死によりフランス王太子(ドーファン)となった。
  • 長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリアのマリア・テレジアにより娘マリア・アントーニア(Maria Antonia)とブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフとの政略結婚が画策されていたが、1761年のルイ・ジョゼフ死去により1763年5月、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣された。結婚の反対者であったルイの父が1765年に死亡した後の1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの結婚式が挙行され、王太子妃はマリー・アントワネットとなった。
  • 1774年5月10日にルイ16世はフランス国王となり、1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行なった。
  • 1775年5月、パリで食糧危機に対する暴動が起き、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。
  • 1777年4月、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。1778年長女マリー・テレーズ、1781年長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、1785年次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、1786年次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)が誕生する。
  • なお、アメリカ独立戦争を支援したことから、「アメリカ建国の父」たちにはルイ16世に崇敬の念を抱く者が多かった。
  • 貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てたことで、結果的に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命を呼び起こした。国民議会の封建制廃止などの要求に対して、ルイ16世は「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう」と強硬な姿勢を崩さなかった。10月、20万人の群集によるヴェルサイユ行進に際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可している。
  • ルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかったため、1791年に家族とともにフランス脱出を企てたが、ヴァレンヌで発見され捕らえらた(ヴァレンヌ事件)。ルイ一家はただちにパリへ護送され、以後テュイルリー宮殿に軟禁された。
  • 1792年6月、オーストリアなどによる対仏戦争の最中、デュムーリエは国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続けるルイに対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように」と述べたという。6月20日、群集がテュイルリー宮に押し寄せた際、そのリーダーが王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍を王に向け振り回した。喧騒の中、王は冷静に次のように述べ、威厳を示した。「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」。8月10日事件で王権が停止、ルイ一家はテュイルリー宮からタンプル塔に幽閉された。
  • 幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。その間、王の処遇を巡って、処刑を求めるジャコバン派と裁判に慎重なジロンド派は対立した。
  • 1793年1月14日、国民公会はルイ16世の処遇を決定する投票を行った。各議員はまず賛成693対反対28(棄権5)で有罪を認定した。ジロンド派は、公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張したが、これは292対423(欠席29、棄権5)で否決された。そして、刑罰を決める投票が行われ、387対334で死刑が決まった。もっとも、死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定した。1793年1月21日シャルル=アンリ・サンソンによりギロチンで斬首刑にされた。
  • 遺体はまず共同墓地となっていたマドレーヌ寺院に葬られた。のちの第一帝政時代に皇帝ナポレオン1世の命令により彼の22回目の命日である1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻アントワネットと共に改葬された。
  • ルイ16世は「狩猟と錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な王」、「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という2つの相反する評価を受ける。とくにシュテファン・ツヴァイクの伝記小説『マリー・アントワネット』においてルイ16世を暗君として描いたイメージが広く知れ渡っている。現代のフランスでもニコラ・サルコジ大統領が「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」とルイ16世を無能な政治家の譬えとして発言している。
  • ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であった。農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者であった。さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権をつきくづそうとした。
  • 「のちに革命への対応に失敗したからといって、さかのぼって無能の烙印を押すことは避けたほうがよい。とくに欠陥のある国王というわけではなかったろう。ただ、変動期に決断をせまられたときに、強力な指導力を発揮できるような人ではなかった。政治感覚がひどく鈍かったわけではないが、ありていにいえば優柔不断だったのである。」(福井憲彦)
  • 後のロシア革命に直面したニコライ2世と同様に、平穏な時代であれば国王としては平凡な人生を送れたかもしれないが、革命という動乱の時代に国王となってしまったことが悲劇であったとも言える。
    ルイ16世は日々の細かなことを手帳に書き記す、メモ魔であったが、そのメモの7月14日の欄。「リアン(何もなし)」
  • 読書家であり、ディドロらの『百科全書』も購入しており、啓蒙思想にも明るかったといわれている。また冒険旅行の本も好んだ。ラペルーズを太平洋探索の大航海に派遣したのは、当面の競争相手イギリスに対抗するためだけではなく、王の個人的な関心のなせるところでもあった。
  • ルイ16世の遺言書は、処刑直前にタンプル塔で書かれたものがフランス歴史博物館にマリー・アントワネットの遺書と共に展示されている。それ以前に、ヴァレンヌに逃亡する際執筆した遺言書の存在が写しでのみ知られていた。2009年になって、ルイ16世の直筆原本がアメリカで発見され、オークションの末にフランスの研究家が落札した。
  • この遺言書は「全てのフランス人に告ぐ」と題されており、逃亡の理由を説明すると共に、革命派を厳しく批判し、「国王の元に戻れ」と国民に呼びかけている。
  • 「実は自由の女神のルーツはこの人にあり」(1)。
  • 「 『ベルばら』のおかげで善良で平凡な王様だと思っていたのですが、実は凄い賢君と知って感動しました。不器用なれど絶対王政の中で啓蒙君主制を模索していた人だったんですね。間接的にアメリカ独立の祖の一人でもあり、もっと評価されて良い方だと思います。死の前日、息子さんに「国民を恨んじゃいけないよ」と言い残した彼は行き過ぎた革命が祖国をどう導くか悟っていたのでしょうか?泣けます…」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ルイ16世 (フランス王)-Wikipedia
    (1)投稿者:MIWAさん..2009/ 9/ 4 08:05:12(金) [5964]
    (2)投稿者:MIWAさん..2009/ 9/ 6 07:04:45(日) [5992]

(2009.09.06更新)



▲ブルボン朝第5代のフランス王(在位:1774年 - 1792年)ルイ16世。



▲20歳当時のルイ16世


▲パリへの帰還


38年5ヶ月と27日の生涯

岸田劉生
Ryuusei Kishida   【大正洋画壇の異才】

(1891.06.23〜1929.12.20)---2009年没後80年
冑潰瘍---蟹座

  • 岸田吟香の子として東京・銀座に生まれる。中学を中退して白馬会研究所で洋画を学ぶ。
  • 父は洋学者、新聞記者、薬屋の主人を兼ねたと云われる岸田吟香。
  • 21歳、高村光太郎らとフュウザン会を結成、後期印象派やフォービスムに近い絵を発表した。
  • やがて北方ルネサンスの影響を受けた写実的で重厚な作風に転じ、24歳草土社を創立。『切通しの写生』などの風景画、静物、『麗子像』などを描いた。
  • 大正末期になると初期肉筆浮世絵や宋元画に興味を示し、東洋的な味わいのある油絵や日本画を制作。著書『初期肉筆浮世絵』『劉生絵日記』『美の本体』など。
  • 「その名を高めたのが、愛娘、麗子の肖像シリーズ。いわゆる「麗子像」によって、劉生芸術は開花。「麗子の肖像をかいてから、僕は又一段或る進み方をした事を自覚する。今迄のものはこれ以後にくらべると唯物的な美が主で、これより以後のものはより唯心的な域が多くなつてゐる。」(「個人展覧会開催に際して」『白樺』第10年第4号)自身でこう語っているように、徹底して写実をつきつめようとしていた劉生は、麗子像を機に、目に見える形の美しさだけでなく、目には見えない内面的な美しさを自覚的に追求するようになる。 (1)。
  • 「画家がある他の美術に感心するのは、自然のよき見方を教えられるということである---真心ある模倣は芸術の自然性である---古来すぐれた天才は、ある一面においてこの模倣性の強い人であった」(2)。
  • 「大正が始まった1912年(21歳)10月、第1回「ヒューザン展」に参加する。劉生は「影響というより、露骨にゴッホを模倣した」作品を展示した。---展覧会初日、会場を訪れた一人の女性が劉生の絵に感激し、その後、画家にファンレターを送った。東京府立第二高等女学校在学中から、日本画家・鏑木清方に師事していた小林しげる(1892〜1964)である。---二人の交際は次第に熱を帯びてゆき、1913年7月に結婚、翌年4月には長女麗子が産まれた。〈僕が自分の道を見つけた1912年〉。様々に解釈される劉生の言葉」(3)。
  • 「劉生も画壇では孤独でしたが、僕も文壇では孤独です」(4)。
  • 「岸田劉生は、1913年から数年間、〈岸田の首狩り〉と呼ばれるほどに多数の友人知人の肖像を描いています。とはいっても注文制作ではなく、劉生自身が周囲の親しい人物にモデルになることを頼んだのです」(5)。
  • 最後の言葉は「バカヤロ−」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「岸田劉生《毛糸肩掛せる麗子肖像》
    (2)日経新聞2004.02.29朝刊「美の美」。
    (3)読売新聞2004.06.01朝刊「銀座 岸田劉生 恋の物語」より。
    (4)NHK日曜美術館に出演した松本清張。
    (5)読売新聞2007.02.09朝刊「近代 美術の東京」(鈴木勝雄)より抜粋。

(2009.04.07更新)




▲「麗子像」で知られる大正期を代表する洋画家・岸田劉生。


▲「麗子像」

38年6ヶ月と5日の生涯

川村 カオリ
Kaori Kawamura  【「翼をください」!】

(1971.01.23〜2009.07.28)
乳ガン---水瓶座

  • 本名及び旧芸名・川村かおり。モスクワ出身。英国四天王寺学園(四天王寺大学)高等部卒業。
  • モスクワで貿易会社の駐在員を務めていた日本人の父とロシア人の母の間に生まれる。11歳の時に家族と共にモスクワから千葉県に移住。 都内の中学校に通いながら新宿Loftやツバキハウスなどにライブを聴きに行くうちに音楽関係者と知り合い、1988年に辻仁成プロデュースにより、「川村かおり」として(後にカオリに改名)シングル『ZOO』および同名アルバムでデビュー。
  • 1990年、『神様が降りてくる夜』が「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」のテーマ曲となりヒットする。1991年には『翼をください』もヒット。また1989年4月から1991年6月までニッポン放送「オールナイトニッポン」土曜2部のパーソナリティを務めた。
  • 1991年、「東京の休日」で映画初主演。同年4月、当時の内閣総理大臣であった海部俊樹に、当時のソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフとの晩餐会に招待された。1992年、エッセイ集「volume-僕の手の中」を発表。
  • 1993年より活動休止し、ニューヨーク等で生活。
  • 1995年6月、音楽活動を再開しシングル「Big Beat」を発表した。1996年、NHK-BSのテレビドラマ「新宿鮫」に出演。1997年、「新宿鮫・毒猿」に出演。
  • 1998年、クラブ向きの音楽制作を目的としたソロプロジェクト「SORROW」を開始し、クラブイベントでのDJとしても活動を始めた。また、モデルの坂田かよと共にクラブイベント「696」を開催し好評を博す。この頃、「川村かおり」から現在の「川村カオリ」に改名した。また同年、母が乳癌で死去。
  • 1999年2月、「SOBUT」のギタリストであったMOTOAKIと結婚。同年、手塚眞監督の映画「白痴」に出演。
  • 2000年、「SORROW」のメンバーに中村達也を加えてイベントを全国で展開。以降、夫を含む4人編成のバンドとしてインディーズで活動を続ける。2001年、ツアーの様子を自ら撮影したドキュメンタリー映画「696 TRAVELING HIGH」を発表した。同年、行定勲監督「贅沢な骨」に出演。また同年12月には長女を出産。2003年、ユニバーサルミュージックよりアルバムを発表し、メジャーデビュー。
  • 2004年、乳癌が発覚。左乳房の切除手術と抗がん剤治療を経て、2005年に芸能活動を再開した。9月、フォトエッセイ「Helter Skelter」を発表。少女期に受けたいじめや、音楽活動の紆余曲折、乳癌を患った事とその闘病生活などを明かした。2006年、手塚眞監督の映画「BLACK KISS」で主演を務める。
  • また、国内アパレルブランドのモデルとしてパリ・コレクションなどのファッションショーに出演。
    2007年2月、「SORROW」の活動休止を発表。同年、北村龍平監督の「LOVE DEATH」に出演。6月、3年半の別居の末MOTOAKIと離婚。9月29日、ピンクリボン運動のイベントでトークショーに出演。「年に1度はマンモグラフィー検査に行ってほしい」と訴えた[4][5]。イベント終了後の記者会見では、話し合いを経て共に悔いの無い心境で離婚届を提出した事、長女の親権は川村が持つ事などを明かした。
  • 2008年10月1日、ブログでがんの再発を発表。同日に参加したピンクリボンフェスティバル終了後の記者会見では、昨年関節炎と診断された胸の痛みの原因が実際はがんである事が1月に判明、リンパ節・骨・肺の3ヶ所に転移しており、手術が不可能なため点滴での抗がん剤治療を続けている事を明かした。
  • 2009年1月23日、11年ぶりの誕生日ライブを東京・原宿アストロホールで行う。『バタフライ』など7曲を歌った。
  • 同年3月18日に徹子の部屋にゲスト出演する。
  • 同年3月22日、東京渋谷HMVでシングル『バタフライ』と書籍『MY SWEET HOME』の発売記念インストアライブにて、トークと『バタフライ』を1フレーズ歌い、握手会を行った。
  • 同年4月4日、単発特番の川村かおりのオールナイトニッポンが放送される予定だったが、体調不良のため川村本人は生出演せず、急遽『川村カオリのためのオールナイトニッポン』として放送された。MCは構成作家の鈴木おさむ。
  • 同年5月5日、東京渋谷CCレモンホールにてライブを行った。全席完売の会場で全13曲を歌い、合間にオールナイトニッポンの公開録音を行った。公演中は椅子に座った状態だったが、アンコールの『ZOO』ではギターを抱えて立って歌った。ゲストは鈴木祥子、浅井健一、高橋研、吉川晃司、渡辺俊美、鈴木彩子で、13年ぶりのフルアルバム『K』に参加したメンバーが入れ換わりで演奏した。オールナイトニッポンの公開録音は、4月4日に生出演できなかったことからリベンジ企画としておこなったもの。放送予定はいまのところ未定。
  • 同年5月27日、13年ぶりのフルアルバム「K」を発売。同年7月1日、ブログでガンの新たな転移が見つかったことを報告した。
  • 2009年7月28日午前11時01分、乳ガンのため都内病院にて死去した。享年38。
  • 「こんばんは さきほどTV見ていたら、乳ガン治療中の歌手川村カオリさんがなくなったと聞きました。最初それを聞いたとき嘘やろ?って思いましたが。ほんとに残念です。たまさん取り上げていただけないでしょうか?」(1)。
  • 「 私もショックです…昨日、Yahoo!のトップで死去の文字を見た時は…小さいお子さんを残して、さぞ心残りだったでしょう。38なんて、若すぎるよ…私、同い年なんですよ…誕生日も1ヶ月違いで…昔、かおりがオールナイトニッポンをやっていた時は土曜日の深夜、次の日が日曜と言う事もあって毎週欠かさず聴いていました。ライブも行きました。今でも、その時のライブチケットは取ってあります。(今改めて見たら、90年の10月17日の日付でした。)神様は本当にいるのでしょうか…残されたるちあちゃんが心配です…まだ小さいのに…シングルマザーだったかおり。一体これから、どうするのでしょう。可哀想すぎます。まわりの人が助けてあげてほしいです。かおり、よく頑張ったね。ゆっくり休んで下さい…」(2)。
  • 「 川村カオリと同じく歌手活動を中心に活躍していた、本田美奈子(1967〜2005)も38歳没でしたね。白血病も癌の一種と考えるならば、似たような死因ととる事も出来ます。何たる偶然でしょうか。あさって、7月31日は美奈子姉さんの誕生日、今も御健在ならば42歳。複雑な気持ちになります」(3)。
  • 「私は川村カオリという人を全然知らないのですが、ニュースやウィキペディアなどから、私が去年なった同じ乳がんで同じような手術をしており、また同じく2001年12月に女児を出産していることを知りました。どんなに娘さんのことが心残りだったことでしょう。
    生かされていることを本当に感謝しなければなりませんね。合掌」(4)。
  • 「何故か彼女の愛車はNONDA(!)では無く、赤のE46でナンバーも375(みなこ)だったのは、ファンなら先刻ご周知の事でしたね。こちら」(5)。
  • 「川村さんはファンって訳ではないですけどデビューした頃から知ってました。キンスマでドキュメントみましたが本人は闘病中であって、歌手活動するにもすごいしんどかったと思います。シングルマザーで小学生のお子さんがいるのに、何故本人は死なないといけないのかなって思いました。お子さんを残して死ぬのってほんとに無念だったと思います。ご冥福をおいのりします」(6)。
  • ボクには赤い鳥の名曲「翼を下さい」のリメイクが印象に残る。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    川村カオリ-Wikipedia
    (1)投稿者:かものはしかもさん..2009/ 7/28 22:07:29(火) [5555]
    (2)投稿者:ゆきさん..2009/ 7/29 06:58:57(水) [5565]
    (3)投稿者:コミバナさん..2009/ 7/29 17:11:03(水) [5570]
    (4)投稿者:みさん..2009/ 7/29 18:47:49(水) [5573]
    (5)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 7/29 20:40:19(水) [5576]
    (6)投稿者:かものはしかもさん..2009/ 7/31 16:51:10(金) [5595]

(2009.08.01掲載)



▲日本人の父とロシア人の母を持ち、ヒット曲「神様が降りてくる夜」「翼をください」などで知られる歌手・川村 カオリ。


38年6ヶ月と12日の生涯

飯島夏樹
Natsuki Iijima   【世界的プロウィンドサーファー】

(1966.08.16〜2005.02.28)
肝臓ガン---獅子座

  • 東京都八王子市生まれ。日本人で唯一、8年間ワールドカップに出場し続けた世界的プロウィンドサーファー。
  • 2002年6月、肝細胞ガンと診断される。2004年6月、余命宣告を受ける。 病に出逢って「自分が生かされている」ということを体感し、病床で始めた執筆活動に生き甲斐を見出した。
  • 2004年7月30日処女小説『天国で君に逢えたら』が2005年3月現在15万部を突破。新潮社ホームページ上で連載していたエッセイ「今日も生かされてます」を一冊にまとめた『ガンに生かされて』が2005年3月22日新潮社より発売予定だった。最期の時まで自らの思いを書きつづけた。
  • 肝細胞ガンとの闘病生活を送っていたハワイ州ホノルルで2005年2月28日の深夜(現地時間)に逝去。
  • 「80年代後半から90年代中頃まで、世界の海を舞っていたプロウィンドサーファーの飯島は、2002年6月に肝臓ガンと宣告された。「ガンといっても不治の病ではないだろ」と悲観してはいなかったが、大手術や肝移植断念を経て、徐々にうつ病とパニック障害を併発、1年以上「死」よりも過酷な体験に苦しむことになる。そして2004年5月、医師より「類血管内皮腫と血管肉腫」と診断され、余命6カ月の宣告を受けた。この余命宣告と前後して、飯島は小説を書きはじめる。「僕は弱い人間だから、ガンや死を深刻にリアルに描く闘病記は書けない。でも、小説なら書けるかもと思ったら、頭の中にストーリーが自然に溢れだして、書かずにはいられなくなった。書きはじめたら、なぜかうつも癒えた。「今はもうガンに感謝してるよ」こうして生まれたのが、『天国で君に逢えたら』――。医師とガン患者、そしてその家族の人間模様を描いたラブストーリーだが、「ガン」や「死」という重く深刻なテーマを扱いながら、ユーモアたっぷりに描かれ、その読後感は爽快そのもの」(1)。
  • 「一昨年、がんで亡くなったウィンドサーファー、飯島夏樹の半生を描く「Life 天国で君に逢えたら」の撮影が進んでいる。---8月25日公開予定」(2)。---(右欄) 

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    公式サイト:飯島夏樹
    (1)「新潮社
    (2)読売新聞2007.04.20夕刊「映画」より抜粋。

(2007.04.21更新)




▲世界の海を舞っていたプロウィンドサーファーの飯島夏樹。


◆映画「Life 天国で君に逢えたら」

38年8ヶ月と30日の生涯

大杉 栄
Sakae Ohosugi   【無政府主義の社会運動家】

(1885.01.17〜1923.09.16)
憲兵隊により虐殺---山羊座

  • 無政府主義の社会運動家、理論家。香川県丸亀生れ。
  • 名古屋陸軍幼年学校時代上官に反抗して放校、東京外国語学校仏語科在学中、平民社に出入りし、幸徳秋水らの影響をうけ、社会運動に参加。
  • 電車賃値上反対のデモで投獄され、以後入獄のたびに「一犯一語」をめざして外国語修得に努めた。23歳、赤旗事件で入獄し、大逆事件を免れる。
  • 27歳で荒畑寒村と『近代思想』、29歳で、月刊『平民新聞』創刊。大逆事件以来沈滞していた社会主義運動を復活させる。また「労動運動」を発刊、サンディカリズムの立場から経済的直接行動主義を主唱し、また国際無政府主義運動において活躍。このころ、労働運動におけるマルキシズムとアナーキズムとの対立が現われてきたが(アナ・ボル論争)、彼の活勒によってアナーキズムの影響力はきわめて大きかった。
  • 第1次大戦後アナ・ボル論争の中心人物となったが、関東大震災直後、妻伊藤野枝とともに憲兵大尉甘粕正彦に首を絞められ、古井戸に投げ込まれた(甘粕事件)。
  • 著書に『自由の先駆』『自叙伝』など、訳書にクロポトキン『一革命家の思出』、ダーウィン『種の起源』など。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2009.06.23更新)



▲無政府主義の社会運動家、理論家・大杉栄。
(イラスト 大城さん)



▲妻の伊藤野枝。

38年9ヶ月1日の生涯

F・メンデルスゾーン
Felix Mendelssohn   【ロマン派の作曲家】

(1809.02.03〜1847.11.04)
姉の急死の衝動から過労死---水瓶座

  • ドイツの作曲家、指揮者、ピアニスト。ユダヤ系ドイツ人としてハンブルクに生まれ、ベルリンで育つ。祖父は高名な哲学者モーゼス・メンデルスゾーン〔1729-1786〕。
  • 早くから優れた才能をあらわし、9歳でピアニストとしてデビューし成功する。12歳でゲーテの前で演奏をし、ベートーベンの再来とまで絶賛される。
  • 16歳で『弦楽八重奏曲』(1825年)を、17歳で劇付随音楽『夏の夜の夢』の序曲(全曲完成1842年)を作曲。
  • 20歳、ベルリンでJ.S.バッハの『マタイ受難曲』を復活再演し、「バッハ・ルネサンス」の扉を開く
  • 各国を旅してベルリオーズ、ショパンリストらと親交を深め、管弦楽曲『フィンガルの洞窟』(23歳)、『イタリア交響曲』(24歳)、『スコットランド交響曲』(33歳)などを書く-
  • 26歳でライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団の指揮者となって楽団を育成し、34歳でライプチヒ音楽院を創立。
  • 間もなく過労のため健康を損ないライプチヒで38歳という短い生涯を閉じる。「エリア」製作のための過労が元ではないかともいわれている。
  • 26歳で合唱団員であったフランクフルトの名家の娘セシル・ジャンルノーと結婚。三男二女を得る。
  • 古典派的傾向をもつロマン派の作曲家で、気品に満ちた均整美には他に求めがたい魅力がある。姉のファニー〔1805-1847〕もピアノ奏者、作曲家として知られる。
  • 彼の作品は、明るく伸びやかなものが多く、幸福感のあるメロディーが多くの人に愛された。又、指揮者としても活躍。
  • モーツァルトと並ぶほどの早熟の天才児であった。38年の短い生涯としては多作である」(1)
  • 「メンデルスゾーンはライプツィヒで、音楽院の院長として晩年を過ごし、有名なヴァイオリン協奏曲などを作曲している。なによりメンデルスゾーンは、バッハの『マタイ受難曲』を復活上演することで、「バッハ復興」を決定づけた人物だ」(2)。
  • 初期の指揮者としても知られる。以降、次第に作曲と指揮は分業化されていったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「フェリックス・メンデルスゾーン - Wikipedia」
    (2)読売新聞2004.06.16夕刊「海外の文化」(澤谷夏樹)より抜粋。

(2008.01.03更新)




▲ロマン派の作曲家・メンデルスゾーン


38才9ヶ月と15日の生涯

ジョージ・ガーシュウィン
George Gershwin 【「サマータイム」の生みの親】

(1898.09.26〜 1937.07.11)
脳腫瘍---天秤座

  • アメリカの作曲家。本名ジェイコブ・ガーショヴィッツ(Jacob Gershowitz)。ロシア・ユダヤ系の移民の息子として、ニューヨークに生まれる(もとの姓はゲルショヴィチ Gershovich < *Hirschowicz)。
  • クラシック音楽に触れたのは小学生のときに聴いたドヴォルザークの『ユモレスク』だという。10代の終わりからポピュラーソングの作曲を始める。
  • ティン・パン・アレーの楽譜屋で試演の仕事(当時レコードは簡単に手に入れられるものではなかったので、楽譜を買いにきたお客に対して、実際に係の者がその譜面を弾いてみせていた)をしながら、後には作詞を手掛ける兄のアイラ・ガーシュウィン (w:Ira Gershwin) と組んで、数々のヒットミュージカルを作曲。スワニーがヒットし、一躍人気ソングライターとなる。
  • クラシックにも取り組み、1924年(26歳)には『ラプソディ・イン・ブルー』(Rhapsody in Blue )を発表。ジャズとクラシックを融合させた「シンフォニックジャズ」の作品として世界的に評価された。 他の管弦楽作品としては『パリのアメリカ人』(An American in Paris、1928年) もよく知られている。
  • 1935年初演のフォーク・オペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess )は大成功をおさめ、アメリカ音楽の古典となっている。劇中で歌われる「サマータイム」(Summertime )はポピュラーソングのスタンダードナンバーとして広く親しまれている。
  • 1937年7月11日、脳腫瘍のため、ハリウッドにて逝去。亡くなる直前「頭の中で何かが焼ける音がしてから、自由が利かなくなった」との発言から、死因はクモ膜下出血ではないかとの説もある。
  • 「サマータイム」はボクが英語もどきで歌える数少ないレパートリーだ。それがどうした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2005.09.25掲載)




▲ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍し、「アメリカ音楽」を作り上げた作曲家として知られるジョージ・ガーシュウィン。




◆「クラシック音楽」の主な作品:
「ラプソディ・イン・ブルー」
「ピアノ協奏曲ヘ調」
「パリのアメリカ人」
「アイ・ガット・リズム変奏曲」
「3つの前奏曲」
「セカンド・ラプソディ」
「歌劇『ポーギーとべス』

38才10ヶ月と1日の生涯

蔭山和夫
Kazuo Kageyama   【鶴岡の参謀】

(1927.01.16〜1965.11.17)
急性副腎皮質機能不全で監督就任の4日後に急死---山羊座

  • 昭和中期(1950年代)のプロ野球選手。ポジションは三塁手。旧制市岡中学から早稲田大学卒業(主将)後の1950年、南海ホークスに入団。翌年には打率.315を打ち、新人王に選ばれた。
  • 1959年に現役引退後はコーチとなり、鶴岡一人監督を支える名参謀ぶりを発揮した。球界でも有数の理論家として知られ、現役時代の野村克也の良き理解者だったといわれる。
  • 1965年11月13日鶴岡監督勇退を受けて南海監督に就任したが、4日後の17日に急性副腎皮質機能不全のため急死した。蔭山の死去を受けて鶴岡は勇退を撤回し、1968年まで指揮を執った。
  • 獲得タイトル:新人王(1951年)、ベストナイン(1951年、1952年)
  • 通算成績:1044試合 打率.264 881安打 53本塁打 302打点。
  • 蔭山和夫は1950年、年間15三塁打を放っている(歴代三位)。このことは彼がかなりの俊足であったことを物語り特筆に値する、と元野球部(竜王中学主将・センター・1番)のボクは思う。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    蔭山和夫 - Wikipedia

(2006.09.12更新)




▲走、攻、守の三拍子そろった南海のトップバッターだった蔭山和夫。


◆最高殊勲選手・岡本伊三美(右)と蔭山和夫。

38才11ヶ月と24日の生涯---2009年生誕100年

太宰 治
Osamu Dazai   【『人間失格』の生みの親】

(1909.06.19〜1948.06.13)
愛人山崎富栄と入水心中---双子座

  • 小説家。青森県金木町の大地主の家に生れる。本名津島修治。津島佑子は娘。旧制青森中学卒、東大仏文科中退。
  • 東京帝大在学中、左翼運動に関わるがやがて離れ、心中事件を起こし相手の女性だけ死亡。この体験から書かれた『道化の華』は芥川賞候補になり、この辺りから作家としての活動が始まる。
  • この頃の生活は薬物中毒で入院したり、また心中事件を起こしたり乱れていた。それが昭和初期に戦争が始まると突然明るくなり、『富嶽百景』『走れメロス』などの肯定的な作品を生み出す。
  • 井伏鱒二に師事。27歳で第一創作集『晩年』で認められる。しかし日本が戦争に負けるとまた落ち込んでしまい、美しくも暗い作品群を書く。
  • 『ビヨンの妻』『斜陽』『桜桃』等は世評高く、坂口安吾織田作之助らとともに「無頼派」の代表作家とされる。
  • 38歳1月、上旬喀血。3月から富栄に付き添われ、栄養剤を注射しながら5月にかけ、敗残の青年に仮託された自画像ともいわれる『人間失格』を執筆。
  • 『人間失格』は太宰文学の総決算ともいうべき傑作。「自分には幸福も不幸もない。ただ一切は過ぎていく」という主人公は作者の自画像でもある。一方、『如是我聞』志賀直哉ら文壇批判をする。この頃、疲労はなはだしく、不眠症もつのり、しばしば喀血。自殺未遂も繰り返す。
  • 6月13日深更、『グッド・バイ』の草稿、遺書数通、伊馬春部に遺した歌等を机辺に残し、愛人山崎富栄と共に玉川上水に入水心中。19日、遺体が発見され、21日、葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二等によって告別式が行われ、7月、三鷹の黄檗宗禅林寺に埋葬される。
  • 遺体の発見された6月19日(誕生日でもある)は桜桃忌と呼ばれ、毎年多くのファンが東京都三鷹市の禅林寺に墓参りする。
  • 「彼の中にはきわめて優秀な読者がひとりいて、その読者とずっと対話を交わしていた」(高橋源一郎)。精魂こめた日本語、さえる「語り」、「おかしみ」も魅力。
  • 「周知の通り、彼ほど厄介な作家もいない。津軽の大事主の六男に生まれ、左翼崩れで女・酒・薬にのめり込む。別々の相手と何度か失敗した心中を最後に“成功”させた。弱さを売り物にしている、と破滅型の人生や作品をいとう人も少なくない。が、没半世紀を過ぎても色あせない太宰文学の希有な生命力は、誰も否定できない。---「富士には、月見草がよく似合う」の文学碑が建つ御坂峠でいまも営業している天下茶屋は、2階が太宰記念館」(1)。
  • 「太宰治の辞世です。
    〈池水は濁りににごり藤なみの影もうつらず雨ふりしきる〉」(3)。
  • 「太宰治の代表作「斜陽」に、経済学を作者流に定義したくだりがある。〈人間というものはケチなもので、永遠にケチなものだという前提が無いと全く成り立たない学問…〉であると」(4)。
  • 「津軽が生んだ異才である二人のシュウジ・太宰治(本名・津島脩治)と寺山修司。---小説『富岳百景』で富士山を〈俗でだめだ〉と切り捨てた太宰の性格は、津軽弁で“えふりこき”と呼ばれる津軽人特有のものだ。格好をつけたがるというだけでなく、自分を過大に大きく見せようとする気持ちを含む場合もある。---普段はおとなしくても、何かあると条件反射的によく見られたいと思ってしまう。それが“えふりこき=芯のあるきキザ”だ」(5)。
  • 太宰治と三島由紀夫は所詮水と油だった? 昭和22年1月の文学青年の会合が練馬豊玉であった時の話です。出席者の中には太宰治、亀井勝一郎、三島由紀夫、矢代静一(劇作家)、中村稔(詩人、弁護士)等がおり、座の中心は太宰治で、彼は上機嫌だった。 一人酒も飲まず、神妙な顔をしていた三島が、森鴎外の文学について、太宰に質問した。「鴎外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもいただけないねえ」とはぐらかした。と、三島は「ぼくは太宰さんの文学はきらいなんです」とニコリともせずに言ったという。 三島のエッセイ「私の遍歴時代」の中で「氏(太宰)の稀有の才能は認めるが、最初からこれほど私に生理的反発を感じさせた作家もめずらしい。」と書いていますから、しょせん水と油だったのでしょうか。大村彦次郎著「文士のいる風景」を参考にしました」(6)。
  • ---女を道連れにした太宰と男を道連れにした三島。ひとりで死ねなかった男という点ではかなりの共通項があるので、近親憎悪だったのかも---。
  • 「>近親憎悪だったのかも---。そうかもしれません。ただ、三島は太宰をこんな風に見ていました。〈太宰の性格的欠陥は、すくなくともその半分が冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった〉後年、ボディビルや水泳や剣道に励み、頑健な肉体改造に余念のなかった三島には、単なる弱さは我慢ならなかったのではないでしょうか? 三島の好きな小生にはそのように思われるのです」(7)。
  • 「太宰治の名言を二つ、お供えします。
    1 「生れて、すみません」
    2 「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」

    これはギリシャの詩人テオグニスの言葉、「人間にとって何よりも良いのは生まれて来ないこと。だが、生まれた上は出来るだけ早くこの世を去ることだ。」と驚くほどよく似ています。また、唐詩撰には『人生足別離』の一句があるそうで、これも似ている。
    フロイト説に人間の中心には生の衝動「エロス」とともに死の衝動「タナトス」があるというのがありますが、梅原猛先生の分類ではタナトス派は太宰、三島由紀夫、川端康成だそうで、後はみんなエロス派らしい」(8)。

    ---「タナトス」、一時浸ったことがあるボクにとっては懐かしき概念です。思わずかつての大学ノートを引っ張り出してしまいました。
    「エロス」は、生命の統一性を保持し、より包括的な統一性を構築しようとする傾向をもっている。そして「エロス」は、性衝動を中心とするが、自己保存衝動をも発揮する。一方「タナトス」は、生命的緊張の完全なる解消へと向かう。「タナトス」は生命を無機物へと還元しようとする特徴を持っている。「タナトス」は、人間の内部に向かうと自己破壊として働き、外部へ向かうと攻撃衝動となって現れる。ギリシャ神話で のタナトス (死の神)は精神分析で 死の本能を意味する。「生の衝動=エロス」と「死の衝動=タナトス」の二元論はフロイトの精神構造分析による。サディズム、マゾヒズムは両者が混在する状態である。最終的にはタナトスが勝利する。「エロス」はホモフォニーの一面だが、「タナトス」はヘテロフォニーの一面であるのだ。
  • 「人生足別離の「足」の読み方が分かりましたので、お知らせします。読み下せば「人生別離足(おお)し」です。取り扱いはお任せいたします」(9)。
  • 「太宰治の『人間失格』の表紙をデスノート出知られる人気漫画家、木畑健さんのライトなイラストにした集英社文庫の新装版が異例の売れ行きになっている(右欄)」(10)。
  • 「『新釈 走れメロス』。こんな表題の小説が昨年、世に出た。著者は国内屈指のコメディー小説家森見登美彦さん(29)(京都市)。メロスの物語を、現代の大学を舞台に再現した」(12)。
  • 「弱さも強さもさらけ出す人間くささにひかれる」(13)。
  • 「元気で行こう。絶望するな。では、失敬。」(14)。
  • 女を道連れにした太宰と男を道連れにした三島
    心中は40歳未満限定か?ならば急がねば、いやもう遅い?
    「走れエロス!」ださ〜い!さむ〜い!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.04.11朝刊「太宰治 富嶽百景 御坂峠」(永井一顕記者)より抜粋。
    (2)読売新聞2005.09.27夕刊より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.01.27(Fri) 00:01[991]
    (4)読売新聞2006.02.03朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (5)読売新聞2006.06.12朝刊「高校グラフィティー」より抜粋・リライト。
    (6)投稿者:ユリウスさん 2006.07.08(Sat) 18:24[2009]
    (7)投稿者:ユリウスさん 2006.07.10(Mon) 13:34[2033]
    (8)投稿者:ユリウスさん..2007/ 3/24 00:43:44(土) [1312]
    (9)投稿者:ユリウスさん..2007/ 3/25 01:21:08(日) [1325]
    (10)読売新聞2007.08.18朝刊朝刊より抜粋。
    (11)読売新聞2008.04.01夕刊「太宰 青春の落書き」より抜粋。
    (12)読売新聞2008.06.18朝刊「太宰 新風景ー10」より抜粋
    (13)読売新聞2009.05.13朝刊「太宰の故郷で朗読会」(原きよこ)より抜粋。
    (14)『津軽』の結びの一節。

(2009.06.20更新)


★『サヨナラ』ダケガ人生ダ

▲愛人山崎富栄と共に玉川上水に入水心中した太宰治。
(イラスト 玉野安実)


◆ドラマ「太宰治物語」での太宰(豊川悦司)と愛人・太田静子(管野美保=右)。
「太宰は、ふだんの生活に生きがたさを感じていた人。現在でも、同じような感覚で、ニートやフリーターになっている人たちの共感を呼ぶのではないか」(2)。




「自画像とみられる似顔絵や、ペンネーム「辻島衆二」の書き込みがある太宰治の旧制高校時代のノート」(11)。

◆「王を殺そうとして捕まったメロス。妹の結婚式に出るため処刑に三日の猶予をもらう。戻らねば親友セリヌンティウスが身代わりに処刑される約束。メロスは信義と親友の命のために必死で走り続ける」

◆「人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ」
(『走れメロス』より)。

◆『走れメロス』 は借金を返すために走り回った太宰の実話から生まれたらしい。

◆「津軽の雪---こな雪 つぶ雪 わた雪 みず雪 かた雪 ざらめ雪 こおり雪」

◆「恥の多い生涯を送ってきました」(「人間失格」の冒頭)

 


◆太宰治の『人間失格』の表紙をデスノート出知られる人気漫画家、木畑健さんのライトなイラストにした集英社文庫の新装版。




 38歳のエポック!

  • ダニエル・ベルヌーイ、38歳(1738年)で著書『流体力学』において「ベルヌーイの定理」を発表。
  • イプセン、1864年(38歳)帰らぬ覚悟でイタリアに行き、以後ドイツとイタリアで27年間を過ごす。
  • ヒルベルト、38歳(1900年)パリの国際数学者会議で23の未解決の問題を提出、今世紀の数学の発展に多くの示唆を与えた。
  • マルティン・ハイデッガー、38歳(1927年)で主著『存在と時間』前半部を刊行。大きな反響を得る。
  • バートランド・ラッセル、38歳(1910年)ホワイトヘッドとの共著『プリンキピア・マテマティカ』によって、記号論理学・数学基礎論の発展に貢献。
  • 志賀直哉、38歳(1921年)から唯一の長編小説『暗夜行路』を書き始める。
  • 仁科芳雄、1928年(38歳)オスカル・クラインとともにコンプトン散乱の有効断面積を計算し、有名な「クライン・仁科」の公式を完成して世界的に有名になる。
  • 村野藤吾、38歳(1929年)で独立。村野建築事務所開設。
  • 毛沢東/マオツォートン、38歳(1931年)で瑞金を首都として中華ソビエト共和国を樹立、その主席となる。
  • 井深 大、38歳(1946年)で盛田昭夫とともに東京通信工業(現在のソニー)を設立。
  • 丸山真男 、38歳 (1952年)に『日本政治思想史研究』発表。主体的な批判精神とリベラリズムに基づき、現実政治についても積極的に発言。
  • フランク・シナトラ、1953年(38歳)に『地上より永遠に』でアカデミー助演男優賞を獲得。以後ステージ、レコード、映画と活躍し、米国芸能界を象徴する大スターとなる。
  • 春風亭柳昇、1958年(38歳)で真打ちに昇進。
(2003.07.09)

30-31-32-33-34-35-36-37-38-39

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