玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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40-41-42-43-44-45-46-47-48-49

age 41


50音インデックス



■41歳の
 シンクロニシティ


■41歳-?
畠山 重忠
マゼラン
今川 義元
スチェパン・ラージン
橋口五葉
ニコラ・ド・スタール
岩下久美子

■41歳-前半
大久保 清
本多 延嘉
川上 とも子
早坂文雄
シャンポリオン
マタ・ハリ
尾崎放哉
ビキラ・アベベ
高橋 ひろ
萬鐵 五郎
佐藤 泰志

■41歳-後半→進む?
ファニー・M=ヘンゼル
葛西善蔵
ジェイン・オースティン
ルイ13世
河井継之助
上田 敏
ジャッキー佐藤
バド・パウエル
ラ・メトリー
石田文樹
島木 健作
川島芳子
アラン・チューリング
岩田暁美
尾形 亀之助
ムソルグスキー


■41歳のエポック


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45歳の語録

 

「生活の破産、人間の破産、そこから僕の芸術生活が始まる」
(葛西善蔵)

41歳のシンクロニシティ!

  • 41歳には分野は違うが、二人の先駆者がシンクロする。マゼランシャンポリオンだ。
     
    ●初の世界周航者として、マゼラン海峡の発見者マゼラン(1480.不詳〜1521.04.27) は、フィリピン群島マクタン島で先住民が投槍で刺殺され41年?の生涯(?座)。
    ●ロゼッタ・ストーンとオベリスクの銘文を比較して古代エジプト文字の解読に成功したシャンポリオン(1790.12.23〜1832.03.04)も脳卒中で41年2ヶ月と9日の生涯(山羊座)だった。


  • また、二人の女性ライターもシンクロする。岩下久美子岩田暁美である。
     
    ●「おひとりさま」の提唱者で日本におけるストーカー研究の第一人者・岩下久美子(1960.?〜2001.09.01)は、タイ西部プーケット島で高波にさらわれ水死し41年?の生涯(?座)。
    ●元ラジオニッポン社員で「長嶋番」名物リポーター岩田暁美(1961.08.05〜2003.07.24)は、結腸平滑筋肉腫で41年11ヶ月と19日の生涯(獅子座)だった。


  • さらにふたりの美女がともに銃殺刑で去っていった。マタ・ハリ川島芳子である。
     
    ●エキゾチックな顔立ちと官能的な肉体に東洋の衣装を身にまとい、神秘的な踊りで世紀末のパリでセンセーショナルを巻き起こしたマタ・ハリ(1876.08.07〜1917.10.15)は、二重スパイがばれて、41年2ヶ月と8日の生涯(獅子座)を銃殺刑で終えた。
    ●養父の人脈を利用して裏の政治・軍部で暗躍し、その美貌もあって「東洋のマタハリ」と称された川島芳子(1906.04.12〜1948.03.25)も、41年11ヶ月と13日の生涯(牡羊座)を銃殺刑で終えた。ああ、シンクロニシティ!。


  • 池田晶子が『41歳からの哲学』(新潮社)を上梓した。以下はその目次。
    第1章 平和な時でも人は死ぬ
    (なぜ人は死を恐れるか―戦争 死にたいのか、死にたくないのか―人間の盾 ほか)
    第2章 いったい人は、何のために何をしているのか
    (先のことはわからない。だからどうした?―生命保険 ほか)
    第3章 考えることに終わりはない
    (バカの壁を突破する―脳 夢の安楽死病院―老い ほか)
    第4章 なぜ人を殺してはいけないのか
    (死は現実にはあり得ない―自殺 死ねば楽になれるのか―再び自殺 ほか)
    第5章 信じなくても救われる
    (わからないということが、わかっていない―あの世とこの世 死んだらどうなる―墓 ほか)
(2008.03.23更新)    
          『月刊ランティエ。-葉月』 華麗な女“スパイ”の死亡年齢が一致より。
  



41年?の生涯

畠山 重忠
Shigetada Hatakeyama     【鎌倉幕府の御家人】

(1164.?〜1205.07.10=長寛2年〜元久2年6月22日)
死因? --- ?座

  • 源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して治承・寿永の乱で活躍。知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。 しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられ、一族とともに滅ぼされている。存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。
  • 畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族で、武蔵国男衾郡畠山郷(現・埼玉県深谷市畠山)を領し、同族には江戸氏、河越氏、豊島氏などがある。多くの東国武士と同様に畠山氏も源氏の家人となっていた。父の重能は源義平に従って源義賢を討ち、その遺児である駒王丸(源義仲)の命を救っている。平治の乱で源義朝が敗死すると平家に従った。
  • 治承4年(1180年)8月17日に義朝の三男・頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵。この時、父の重能が大番役で京に上っていたため17歳の重忠が一族を率いることになり、平家方として頼朝討伐に向かった。23日に頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して潰走。相模国まで来ていた畠山勢は鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇。合戦となり、双方に死者を出して兵を引いた。26日、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は三浦氏の本拠の衣笠城を攻め、三浦一族は城を捨てて逃亡。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取った(衣笠城合戦)。
  • 9月、頼朝は安房国で再挙し、千葉常胤、上総広常らを加えて2万騎以上の大軍に膨れ上がって房総半島を進軍し、武蔵国に入った。10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに長井渡しで頼朝に帰伏した。『源平盛衰記』によると重忠は先祖が八幡太郎義家(源義家)より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという。重忠は先陣を命じられて相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入った。
  • 重忠は御家人に列し、頼朝の大倉館への移転や鶴岡八幡宮の参詣の警護などの『吾妻鏡』の記事に重忠の名が見える。また、養和元年(1181年)7月の鶴岡八幡宮社殿改築の上棟式で工匠に馬を賜る際に源義経とともに馬を曳いている。この頃に重忠は頼朝の舅の北条時政の娘を妻に娶っている。
  • 寿永2年(1183年)、平家を追い払って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の範頼と義経に6万騎を与えて近江国へ進出させた。翌・寿永3年(1184年)正月、鎌倉軍と義仲軍が宇治川と勢多で衝突。『平家物語』『源平盛衰記』には、義経の搦手に属していた重忠が丹党500騎を率い、馬筏を組んで真っ先に宇治川を押し渡ったが、馬を射られて徒歩になってしまい、同じく馬を流された大串重親がつかまってきたため大力の重忠は重親を掴まえて対岸に放り投げ、重親は徒歩立ちの一番乗りの名乗りを上げたという話がある。
  • 『平家物語』によると、義仲軍を撃破した義経は京に入り、後白河法皇の御所へ駆けつけ、重忠は義経らとともに後白河法皇に御簾越しに拝謁して名乗りを上げている。『源平盛衰記』では重忠は三条河原で義仲の愛妾の女武者巴御前と一騎討ちを演じ、怪力で巴の鎧の袖を引きちぎり、巴は敵わないと見て逃げ出している。この宇治川の戦いで範頼、義経の鎌倉軍は勝利し、義仲は滅びた。
  • 2月、範頼と義経は摂津国福原(兵庫県神戸市)まで復帰していた平家を討つべく京を発向。重忠は範頼の大手に属している。『平家物語』では義経の搦手に属し、これを基に話を膨らませた『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで大力の重忠は馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下っている。一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝して、平家は讃岐国屋島へと逃れている。
  • その後、頼朝は範頼に大軍を預けて中国・九州へ遠征させているが、信用に足る史料である『吾妻鏡』ではこの軍の中に重忠の名は見当たらない。また、『源平盛衰記』では義経の軍に属して屋島の戦いを戦っているが、軍記物語だけに信頼性は低い。
  • 元暦2年(1185年)3月、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。
  • その後、頼朝と義経は対立し、義経は京で挙兵するが失敗して逃亡。義経の舅の河越重頼は連座して殺され、重頼の持っていた武蔵留守所惣検校職を重忠が継承した。
    文治2年(1186年)、義経の愛妾の静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めている。
  • 文治3年(1187年)、伊勢国沼田御厨で重忠の代官が狼藉をはたらいたため、重忠の身柄は千葉胤正に囚人として預けられた。これを恥じた重忠は絶食してしまう。頼朝は重忠の武勇を惜しみ赦免するが、重忠が一族とともに武蔵国の菅谷館へ戻ると侍所所司の梶原景時がこれを怪しみ謀反の疑いありと讒言(ざんげん)した。猜疑心の強い頼朝は重臣を集めて重忠を討つべきか諮る。小山朝政が重忠を弁護し、とりあえず、下河辺行平が使者として派遣されることになった。行平から事情を聞いた重忠は悲憤して自害しようとするが、行平がこれを押しとどめて鎌倉で申し開きするよう説得した。
  • 梶原景時が取り調べにあたり、起請文を差し出すように求めるが、重忠は「自分には二心がなく、言葉と心が違わないから起請文を出す必要はない」と言い張った。これを景時が頼朝に取り次ぐと、頼朝は何も言わずに重忠と行平を召して褒美を与えて帰した。
  • 文治5年(1189年)の奥州合戦では先陣を賜った。阿津賀志山の戦いで、三浦義村、葛西清重らが陣を抜け出して抜け駆けをしようとした。これを知った重忠の郎党が注進するが、「先陣を賜っている以上は功績はすべて自分のものである。先登をせんと張り切っている者たちを止めるのは武略の本意ではあるまい」と悠然としていた。この戦いで重忠は勝利し、藤原泰衡は平泉を焼いて逃亡し、奥州藤原氏は滅びた。
  • 戦後処理で梶原景時が泰衡の郎党の由利八郎を取り調べたが、景時が傲慢不遜な態度であったために八郎は頑としてこれに応じなかった。頼朝は重忠に取り調べに当たるよう命じ、重忠は礼を尽くして接し、これに感じ入った八郎は取り調べに素直に応じ、「先ほどの男(梶原景時)とは雲泥の違いである」と言った。
  • 奥州合戦の功により、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられた。葛岡郡は狭小の地だが、重忠は異を唱えなかった。と『吾妻鏡』にあるが、陸奥国に「葛岡」なる郡はない。玉造郡の「葛岡」なる地名にあてたり、「長岡郡」の誤写と見る説などがあるが、不明である。
    頼朝の二度の上洛には、重忠はいずれも先陣を務めている。
  • 正治元年(1199年)正月、頼朝は死に際し、嫡男・頼家の後見を重忠に任せた。
  • 同年10月、結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したのを梶原景時が頼家を誹謗したと讒言。これを知った三浦義村、和田義盛らが怒り、諸将66名による景時弾劾の連判状が作られ、重忠もこれに名を連ねている。景時は鎌倉を追放され、翌正治2年(1200年)に追討を受けて滅びた。
  • 建仁3年(1203年)の比企能員の変では重忠は北条氏に味方して比企氏一族を滅ぼしている。頼家は幽閉され、後に謀殺された。後継将軍には弟の実朝が就き、執権の北条時政が実権を握った。
  • 元久元年(1204年)11月、重忠の息子の重保が北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅と酒席で争った。この場は収まったが、牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求めた。翌・元久2年(1205年)6月、時政は息子の義時と時房と諮り、『吾妻鏡』によると二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」とこれに反対するが、牧の方から問い詰められ、ついに同意したという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    畠山重忠-Wikipedia


    ▲鵯越えで馬を背負う重忠。画:歌川国芳、江戸時代


(2009.02.21更新)




▲中世の黎明期にあたる平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍を見せた武将・畠山 重忠。






41年?の生涯

マゼラン
Ferdinand Magellan    【悲運のポルトガルの航海者】

(1480.不詳〜1521.04.27)
フィリピン群島マクタン島で先住民が投槍で刺殺 --- ?座

  • ポルトガルの航海者。マゼランは英語読みの慣用で、正しくはマガリャンイスFernOo de MagalhOes。ポルトガルのオポルト付近で生まれたこと以外の若い頃の詳しい記録は不明。
  • 西方航路によりモルッカ諸島に達しようと企て、スペイン王カルロス1世(カール5世)の援助を得て、1519年9月(39歳)5隻の船で出発。
  • 1520年11月(40歳)にマゼラン海峡を通過。さらに南太平洋を横断して1521年3月(41歳)フィリピンに達したが、4月27日マゼランはマクタン島で原住民「ラプ・ラプ」と浅瀬の白兵戦で交戦中に(41才)戦死した。
  • 原住民ラプラプとその部下はスペインの侵略者たちを撃退し、その指揮官マゼランを殺した。 ラプラプはヨーロッパの侵略者を追い払った最初のフィリピン人であった。
  • しかし部下は航海を続けて、1隻が1522年9月6日に帰国。人類初の世界周航が達成された。初の世界周航者として、マゼラン海峡の発見者として歴史にさん然たる名を残しながら、マゼランはいつも悲劇的な色あいをおびて語られる。非業な最期に対する無念さのためだけではない。
  • マゼランの遺志は残された最後の1隻「ビクトリア号」に乗り移って地球を一周しスペインに戻ってきたが、もはやそれはマゼランの業績としては認められなかった
  • そればかりではなく、皮肉にも、マゼランにそむき彼の命がけの仕事を激しく阻もうとした人物にその功績のすべてが渡ってしまった。妻や息子はマゼランの後を追うように死んでしまい、マゼランの血筋は完全に絶える。
  • さらに、あのマゼラン海峡が、あまりにも危険な場所ゆえに、後の世にうとまれ無用のものとされ、パナマ運河が開通するとともに忘れ去られてしまう。この悲劇の人の犠牲の上に、全人類は初めて地球の大きさを知ることが可能になった。三年かかって世界をひとつに結んだが、植民地支配拡大のひとつの契機にもなった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.02.11更新)




▲ポルトガルの航海者・マゼラン。






41年?の生涯

今川 義元
Yoshimoto Imagawa        【海道一の弓取り】

(1519.?〜1560.06.12=永正16年〜永禄3年5月19日)
戦死---?座

  • 足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は正室で中御門宣胤の娘・寿桂尼。北条氏康の義兄弟、武田信玄の義兄でもある。
  • 寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させ、所領も駿河・遠江・東三河から、西三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げ、「海道一の弓取り」と呼ばれ恐れられた。尾張に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、戦死した。
  • 永正16年(1519年)、今川氏親の五男として生まれる。幼名は芳菊丸。生まれた時は既に跡継ぎとして、同母兄で後に第8代当主となる今川氏輝がいた為に4歳で仏門に出された。僧侶としては臨済宗の駿河富士郡瀬古の善徳寺に預けられて栴岳承芳(せんがくしょうほう(梅岳承芳(ばいがくしょうほう)とも)と称し、教育係を務めた今川家重臣出身の臨済僧・太原雪斎と共に京に上り、五山に学ぶ等、学識を深めた。
  • その後、兄・氏輝の命を受けて京より駿河に戻るが、その直後の天文5年(1536年)に氏輝が急死する。この時点ではまだ兄の今川彦五郎が居た為に継承権は無かったが、彦五郎迄もが相次いで死亡した為に継承権が巡って来た。氏輝・彦五郎ら二人の兄と同じ母(寿桂尼)を持つ事も後押しとなり、重臣達から還俗を乞われた承芳は主君であり本流に当たる足利家(足利将軍家)の足利義晴より偏偉を賜り今川義元と名乗った。だが当主継承は有力家臣であった福島氏の反対で混迷化し、最終的に福島家は自家の血を引く義元の異母兄・玄広恵探を正当な当主として掲げて反旗を翻した(花倉の乱)。
  • 恵探側は今川館に攻め寄せる等攻勢をみせたが太原雪斎・岡部親綱ら義元側の家臣団の奮戦の前に苦戦が続いた。加えて義元が伊豆(静岡県伊豆半島)・相模(神奈川県西南部)を領する後北条氏からの支援を得る事に成功すると一層敗色は濃厚となり、花倉城の陥落を以って恵探は自害した。内乱を鎮めて家督相続を果たした義元は今川氏第9代当主となり、自らに忠義を示した家臣を重用して支配体制を整えた。
  • 天文6年(1537年)2月、氏輝期迄の抗争状態にあった甲斐国の守護武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結ぶ(甲駿同盟)。周囲の守りを固めんとして行われた甲駿同盟の成立は、結果的に旧来の盟友(駿相同盟)として自らの当主継承にも助力した北条氏綱の怒りを買ってしまい、1536年に北条軍が駿河富士郡吉原に侵攻する(河東の乱)。花倉の乱による内部対立を引き摺っていた今川軍は北条軍に対して適切な反撃が行えず、河東(現在の静岡県東部)を奪われてしまう。義元は武田軍と連帯して領土奪還を試みたが、先のお家騒動で恵探側に組した堀越氏・井伊氏といった遠江に基盤を置く反義元派の武将らが離反した為に、戦いは長期化の様相を見せた。
  • 更に追い討ちを掛けるが如く、尾張(愛知県西部)の織田信秀が天文9年(1540年)に三河(愛知県東部)に侵攻を開始した。今川軍は三河の諸侯軍と連合して天文11年(1542年)に織田軍と一大決戦に臨むが、その猛攻の前に敗れたとされている(第1次小豆坂の戦い)。ただしこの戦いは後世の創作である可能性もあり、その場合は第2次小豆坂の戦いのみが存在する事になる。
  • 苦戦が続く中、天文10年(1541年)に北条氏綱が死去し北条氏康が家督を継ぐと、義元は氏康と敵対する山内上杉氏の上杉憲政と天文14年(1545年)に同盟を結び、北条氏を挟み撃ちにする策を立てた(第2次河東の乱)。8月22日、義元率いる今川軍は、武田氏の援軍を得て、氏康率いる北条軍を打ち破る。窮地に立たされた氏康は武田信玄の仲介により義元と交渉し、最終的に河東の地を今川家に返還するという条件で和睦した。
  • 一方、三河においては西三河の松平広忠の帰順を受け、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れる約束を交わす等、織田家に押されつつも三河勢の従属化を進めた。またこの際に護送を請け負った三河・田原城(愛知県田原市)の国人領主・戸田康光が裏切って護送中の竹千代を敵方の織田氏に送り届けてしまうという事件が起こった。これは前年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、戸田吉光の一族を滅ぼした為、戸田宗家の当主であった康光が反乱を起こしたものであった。これに激怒した義元は戸田宗家をも徹底して滅ぼし、その居城であった田原城に有力家臣である朝比奈氏を入れた。
  • 天文17年(1548年)、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が三河に侵攻してくるが、義元の軍師である雪斎と譜代重臣である朝比奈泰能らを大将とした今川軍は織田軍に大勝し、織田家の勢力を事実上三河から駆逐した(第2次小豆坂の戦い)。これによって継承直後から続いた織田・北条との戦いを勝利によって終えた。
  • 天文18年(1549年)、松平広忠が死去すると義元は今川軍を岡崎城(愛知県岡崎市)に送り込んで、事実上松平家の所領とその支配下にあった三河の国人領主を直接支配下に取り込んだ。また、織田方の三河安祥城(愛知県安城市)を攻略し信秀の庶長子にあたる城将・織田信広を捕らえ、人質交換によって竹千代を奪還。尾張進出の足掛かりを着々と築いていく。天文20年(1551年)に織田信秀が死去すると尾張への攻勢を一段と加速させる。
  • 更に天文22年(1553年)には亡父の定めた今川仮名目録に追加法(仮名目録追加21条)を加えたが、ここにおいて室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言、守護大名としての今川氏と室町幕府間に残された関係を完全に断ち切った。
  • 天文23年(1554年)、嫡子・氏真に北条氏康の娘(早川殿)を縁組し、武田氏・北条氏と互いに婚姻関係を結んで甲相駿三国同盟を結成した(この会談は善徳寺の会盟とも呼ばれている)。これにより後顧の憂いを断った。
  • また天文24年・弘治元年(1555年)に行われた第二次川中島の戦いでは武田晴信と長尾景虎の仲介を行って両者の和睦を成立させた。駿河・遠江・三河で検地も実施している。
  • 永禄元年(1558年)には、支配下においていた松平元康をして、三河加茂郡寺部城の鈴木重教を攻めさせて下している。
  • 永禄元年(1558年)からは息子である氏真と政務の分担を図るなど次代への継承準備も進めるが、弘治元年(1555年)に雪斎、弘治3年(1557年)には朝比奈泰能ら有力家臣が死去している。
  • 幼いころから仏門に入っていた為、武芸を鍛えられず、個人の武勇には優れなかったといわれている。しかし桶狭間の戦いでは信長の家臣・服部春安が真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退、更に毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした毛利の指を食い千切って絶命したと伝えられており、必ずしも個人的武勇が無かった訳ではない。
  • 公家文化に精通し、都を逃れた公家達を保護、さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていた事から、貴族趣味に溺れた人物とされる事もある。しかし公家のような化粧をした話は後世の作であるという説もある。また、たとえ事実であったとしてもそれは家格の高さを示す事こそあれ、軟弱さの象徴とは言い難い。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりかたしなみの一つであったと言う説すらある(笹間良彦『時代考証 日本合戦図図典』)。
  • 父氏親が三条西実隆に和歌の添削指導を受けていたように、義元は駿府に流寓していた冷泉為和に直接指導を受けていた。歌会は、毎月13日、のち11日に行うのが定例になっており、このように月次会を定期的に行うのは全国的に見ても珍しい。ただ、義元は連歌は好まなかったようで、連歌会の記録はほとんど残っていない。今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多く、また、同工異曲の似たような歌が頻出する。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っている。
  • 『信長公記』では義元の桶狭間の戦いの際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計(馬高五尺五寸の青毛の馬)なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えている。
  • 通説では松平広忠にとって唯一の嫡男である竹千代(徳川家康)を人質に取ったことは、今川家による松平家に対する過酷な処遇と解釈されてきた。しかし、近年の研究では、今川義元側の見地として、西三河最大の今川の与党である岡崎松平家を重視しての(好意的な)政策だったという説も唱えられるようになってきた。例えば、幼少期の家康を駿河国に留め置いたのは今川家の準一門扱いとして厚遇であり、人質というよりも「政務見習い」として預けられたという物である。実際に太原雪斎の英才教育を受けさせたとの説もある(小和田哲男などが支持しているが、異論もある)。また、姪である築山殿を嫁がせたことも、従来の通説では家康を今川家に縛り付けるために押し付けられたかのごとく解釈されているが、順当に考えれば今川家と縁戚関係を結ぶ厚遇である。しかし、松平家の家臣にとっては嫡男(特に広忠の死後は主君)を人質に取られていると言う事実に変わりは無く、立場上弱い面からの圧力などがあったようである(墓参りのために岡崎城に一時帰参した家康に対し、鳥居忠吉が今川の横暴を訴えている)。また、竹千代が義元の家臣(孕石元泰)から個人的な虐めを受けるなど、忍従の日々であったことに違いは無く、後世、徳川家側の主観のみが広がり、従来の通説になったと考えられる。もっとも家康は隠居先に忍従の日々だったはずの駿河を選んでいることも事実である(普通、幼年期につらい思い出のある地に人は住みたがらない)。
  • 永禄3年(1560年)の尾張侵攻は、上洛目的説と織田信長討伐・尾張攻略説とがある。ただ、浅井氏や六角氏、北畠氏といった道中の大名に対して外交工作を行った形跡がなく、年内に軍勢もろとも上洛しようとしていたという説にはやや無理がある。
  • 「今川家は足利御三家の一家。足利将軍家、今川家、吉良(上野介さんの)家。将軍家の血筋が絶えれば他の2家が将軍の名跡を継ぐ約束だったそうな」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    今川義元- Wikipedia
    (1)投稿者:MIWAそーめん さん..2011/ 2/22 13:20:25(火) [8813]

(2011.02.23更新)



▲駿河国(現在の静岡県中部・東部)に本拠地を置いた守護大名・戦国大名・今川 義元。


▲今川義元首塚 愛知県西尾市東向寺



 

41年?の生涯

スチェパン・ラージン
Stiepan-Riazin       【大規模な農民反乱の指導者】

(1630.?〜 1671.06.16)
生きたまま四つ裂きの刑に処された---?座

  • 日本でもいわゆるロシア民謡である『ステンカ・ラージン』と共に名高い。しばしばステンカ・ラージンとも呼ばれるが、「ステンカ/ステニカ」(Стенькаスチェーニカ)は「ステパン/スチェパン」(Степан)の縮小形の一つで愛称・卑称として用いられる。
  • スチェパン・ラージンは、ロシア帝国のドン州、「小ロシア人の集落」と呼ばれたジモヴェーイスカヤ集落で、ドン・コサックの家で生まれた。
  • ラージンに関する最も古い記録は、1661年のドン・コサックからカルムイク人への外交使節の派遣文書に見られる。同年、ラージンは白海のソロヴェツキー修道院へ巡礼の旅に出た。その後6年間というもの、ラージンの消息は途絶える。
  • ラージンはTishina川とIlovlya川の間にある湿地帯・Panshinskoyeの盗賊団のリーダーとなって再び登場する。それ以降、ヴォルガ川を行き交う全ての船を脅して金を巻き上げた。
  • 1654年から1667年までのポーランドとのロシア・ポーランド戦争(13年戦争)、1656年から1658年までのスウェーデンとの北方戦争はロシアの人々に重い負担を強いた。ツァーリ専制体制が確立され、徴税と徴兵が強化された。多くの農奴・小作農は南に逃れ、ラージンのコサック盗賊団の仲間になっていった。農民だけでなく下層階級の人々やカルムイク人などの非ロシア民族の人々もまたラージンの一味となった。
  • ラージンの名が初めて轟いたのは、財宝やモスクワの総主教や金持ちの商人を積んだ船団を撃破した時である。その後、ラージンは35隻のガレー船からなる水軍でヴォルガを下り、行く手の砦を落としていった。1668年初めアストラハンが差し向けたヴォイヴォダの軍勢を破り、さらにダゲスタンやペルシア(サファヴィー朝)に18ヶ月にわたって侵攻した。
  • 1669年、ラージンは再びアストラハンに現れ、そこで皇帝・アレクセイ1世の恩赦を受けた。人々はラージンの活躍に魅せられていった。アストラハンのようなロシアの国境地帯はまだ無法地帯で、人々はいまだに遊牧民的であり、ラージンの武装蜂起を受け入れるような環境が整っていた。
  • 1670年、ドン川のコサックの首領という表向きで、ラージンは反政府の武装蜂起を公然と開始する。チェルカースク(今のスタロチェルカースカヤ村)、ツァリーツィン(今のヴォルゴグラード)などを陥れ、6月24日にはアストラハンに進軍した。反抗する者を皆殺しにし、リューリク朝の二人の王子も殺害、バザールを略奪した後で、アストラハンをコサックの共和国にした。「国民」は、千人、百人、十人単位で分けられ、ヴィエチェ(veche)や総会の決定による長が置かれた。
  • 酒池肉林の3週間を過ごした後、モスクワに攻め込む計画で、ヴォルガ全域をコサックの共和国にするために200の艀に兵隊を満載してアストラハンを発った。サラトフとサマーラは陥落させるも、シンビルスク(今のウリヤノフスク)で苦戦する。10月1日と4日の スヴィリ川での2度の攻防戦の結果、ラージンの軍は屍の山を築いて敗走、進路をヴォルガ下流に転じた。
  • この敗北でラージンの反乱は終わった訳ではなかった。ラージンの使者は扇情的な声明文を手に現在のニジニ・ノヴゴロド、タンボフ、ペンザなどを回り、人々を洗脳して行った。その勢いはモスクワやノヴゴロドにまで達した。抑圧されていた人々はラージンの声明に飛びついて反乱に加わっていった。ラージンは、この蜂起の目的はロシアの貴族・官吏を追放し、階級の存在しない平等な「コサックの国」をモスクワ大公国全てで実現することである、とした。
  • しかし、1671年初頭には、ラージンの声明文の実現は疑わしいものとなった。8度の戦闘の後に反乱は収束に向かった。シンビルスクではラージンの威光は完全に失われ、ラージンの根拠地のサラトフやサマーラでもラージンに門を閉ざすことになった。モスクワ総主教がラージンを破門したと聞いたドン・コサックも、ラージンに叛旗を翻した。
  • 1671年、ラージンと兄のフロール・ラージンは最後の砦であったKaganlykで捕らえられ、モスクワに連行された。ラージンは拷問の後、赤の広場で生きたまま四つ裂きの刑に処された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    スチェパン・ラージン- Wikipedia

(2012.02.22掲載)



▲コサックのアタマンで、モスクワ・ロシア南部において貴族とツァーリの官僚機構に対する大がかりな抵抗運動を指揮したスチェパン・チモフェエヴィチ・ラージン。


▲カスピ海を渡るスチェンカ・ラージン


▲ヴォルガ河のスチェパン・ラージン



 

41年?の生涯

橋口五葉
Goyo Hashiguchi     【漱石の世界を彩る五葉】

(1880.?〜1921.?=明治13年〜)
死因?---?座

  • 明治13年、鹿児島市樋之口町に生まれる。本名は清といい、五葉は生家の庭の五葉松にちなんでつけられた雅号で、東京美術学校時代から使っていたという。
  • 清は三男で、長男は貢、次男は半次郎といった。橋口貢は漱石の熊本の第五高等学校時代の生徒で、後に外交官になった。五葉はこの兄を通して漱石と出会ったと思われる。
  • 次兄の橋口半次郎は船の設計家であり、その関係で五葉は日本郵船のパンフレットの表紙を描いている。五葉は狩野派の絵を習い、橋本雅邦に入門。しかし同じ鹿児島の出である黒田清輝に、やはりこれからは洋画を学ぶべきだとすすめられ、明治32年、白馬会研究所で洋画を学んだ。そして翌年の明治33年、東京美術学校西洋画科に入った。
  • 在学中に夏目漱石の知遇を得て、雑誌『ホトトギス』に挿絵を描くようになったと共に漱石の単行本の装幀を担当。
  • 明治38年卒業。五葉は「ホトトギス」にカットを描き、漱石に気に入られる。明治38年、漱石の『吾輩ハ猫デアル』上巻の装丁をした。装丁デザインに興味があった漱石は、ヨーロッパの本や雑誌を見せ、世紀末芸術の話を聞かせて、新しいデザインをつくらせようとした。
  • そして漱石・五葉のコンビによって、明治39年『漾虚集』、明治40年『鶉籠』、明治41年『草枕』『虞美人草』などのデザインが生まれる。
  • 美術評論家の海野弘は「橋口五葉は、漱石の草枕のモデルとなった画家である」といっている。漱石とのコンビは、その後も『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』まで続く。
  • 明治40年、油彩屏風「孔雀と印度女」、第1回文展に「羽衣」を出品。明治44年、三越百貨店のポスターが一等になり一躍有名になる。
  • この頃から油絵をやめ、日本画の无声会(むせいかい)に入り、浮世絵の研究をはじめた。大正4年、渡辺版画店から木版「浴場の女」を出し、大正9年まで新版画を制作。
  • 次兄橋口半次郎は美術史家上野直昭の妹と結婚。大正10年の「浮世絵之研究」第二号は五葉の追悼号であるが、上野直昭は「橋口五葉伝」を寄せている。半次郎は岩波茂雄とも親しかった。
  • 大正8年に五葉が岩波書店から、『広重東海道五十三次』、『歌麿』、などの復刻を出すのも、次兄の仲介があったからかも
  • しれない。
    大正に入り浮世絵研究家としても知られるようになった。浮世絵研究を重ねると共に、版元渡辺庄三郎の勧誘を受けて、自ら版下絵を描き、彫師・摺師と共に木版画制作を行うといった「新版画」運動を展開。
  • その最初の作品が1915年の「浴場の女(浴後裸体女)」となった。 その後「耶馬渓」、「化粧の女」、などの多色摺木版画を制作する一方で、浮世絵普及のための浮世絵名品復刻事業も行った。
  • 1920年に「髪梳ける女」をはじめ10点の版画を完成したが、翌1921年2月逝去。享年41歳であった。
  • 存命中に完成した大判の木版画は13点と少ないが、気品・優美・繊細な大正版画の代表的版画家として国際的評価が高い。
  • 杉浦非水(1876-1965)、橋口五葉などの作品には、アール・ヌーヴォー様式による図案の試みがみられる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ケペル先生のブログ: 橋口五葉と夏目漱石
    短大研究室紹介・文学研究室:2

(2007.10.11掲載)


?肖像を探しています?

▲漱石の草枕のモデルとなった画家・橋口五葉。



 

41年?の生涯

ニコラ・ド・スタール
Nicolas de Stael 【具象とも抽象ともつかない絵を描いた画家】

(1914.?〜1955.?)
自殺---?座

  • ペテルスブルクにロシア貴族の子息として生まれる。ロシア革命のため亡命を余儀なくされ、ベルリン、ブリュッセルに住んだ。ブリュッセルでは美術アカデミーでデッサンを学ぶ。1938年にパリに移った。
  • 1939年、外人部隊に入る。亡命者の不安、理想主義者の不安が原因とみられる。しかし、ブラックやレジェとの出会いによって、芸術上でも大きな成果を上げ、表面的には平安な時期が始まる。
  • 晩年は現実への叙情的な回帰が、具象的な表現へと変化していく。
  • 1955年、アンティーブで自殺した。
  • 「やるだけのことはやった。あとは見る人にゆだねる」
  • スタールいいね。好きです!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ニコラ・ド・スタール - Wikipedia

(2012.04.22更新)


▲ロシア生まれの画家・ニコラ・ド・スタール。


 

41年?の生涯

岩下久美子
Kumiko Iwashita   【「おひとりさま」の提唱者】

(1960.?〜2001.09.01)
タイ西部プーケット島で高波にさらわれ水死---?座

  • 日本ではまだ水面下にあったストーカーに関して、いち早く取材を始め、1996年4月、日本で初めての被害実態ルポを発表。このルポが、日本においてストーカーを社会問題として広く認知させるきっかけとなる。被害者と加害者双方からの綿密な取材をもとに、1997年7月「人はなぜストーカーになるのか」(小学館)を上梓。
  • 2000年3月より、警視庁「ストーカー問題対策研究会」委員として、東京都のストーカー行為防止条例案の検討に携わる。
     また、現代社会特有の“コミュニケーション不全”と取り組み、人間の心の闇と社会問題、新しい男女関係のあり方など、独自の視点で取材・考察を行い、インターネットなどのメディアを介した人間関係・恋愛の現実を丹念に取材した『ヴァーチャルLOVE』(1999年に扶桑社から上梓)は各方面で話題を呼んだ。
  • 一方、フードジャーナリストとしても活躍。「日経トレンディ」の創刊に携わり、「クレア」等でレストラン批評を執筆。1990年前後約10年間の飲食店の盛衰(グルメブーム)を通して、バブル前後の日本経済を検証する「TOKYOレストラン・クロニクル」を『婦人公論』で連載。その他、各雑誌で「食と時代」、「食と人」について多数執筆。
  • 1999年2月、女性が一人で快適に外食をしたり、旅をすることを応援する「おひとりさま向上委員会」を設立し、主宰。“おひとりさま”という言葉に、新しい意味と価値観を定義づけた。ここで言うところの“おひとりさま”とは、人間として当たり前の「個」の確立ができている大人の女性のこと。シングル(独身)主義や非婚提唱ではないし、自閉や孤立、利己主義とも違う。英語で最も近い言葉は、individual。「おひとりさま」は、私たちが手を取りあって、“自他共生”していくための、ひとつの知恵。最終的に仕事も恋もサクセスできるのは、背筋がスッと伸びた「おひとりさま」。「おひとりさま」への道は、究極の女磨き。このテーマのもとに設立したのが「おひとりさま向上委員会」である。
  • 2001年9月1日、休暇で訪れいてたタイ西部プーケット島で高波にさらわれ、水死した。
  • 生涯を通じ、現代社会に特有の“コミュニケーション不全”の人間関係をテーマに執筆を続けると同時に、女性が魅力的に生きるためのスキルを追求。時代感覚に則した女性論を、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・講演等、多方面で展開した。
  • 著書「人はなぜストーカーになるのか」(小学館/文春文庫PLUS)「ヴァーチャルLOVE」(扶桑社/文春文庫PLUS)「おひとりさま」(中央公論新社)。
  • 「岩下久美子さんが掲載されているのを発見し、懐かしい思いと何ともいえぬ感慨を受けましたので投稿させていただきます。岩下さんは、彼女の最後の著書になる『おひとりさま』のカバーデザインを頼まれたことがきっかけでお会いした人でした。その本の印刷が出来上がるという、その日の朝のニュースで高波にのまれて亡くなったのを知り、衝撃を受けたことを思い出します。普段はあまりスポーツをやらないという彼女が、海水浴中に高波にさらわれるという不可解な最後にも当時釈然としない思いを抱いたものです。同じ年齢の女性だったこともあり、深く記憶に残りました。カバーデザインを赤ベースで行こうとなった時に、『この赤が好き』とバカラのショッピングバッグをわざわざ持ってきてくれたお茶目な一面など、その時の思いをフラッシュバックのように思い出しました」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「おひとりさま向上委員会
    (2)投稿者:satoviさん 2006.03.18(Sat) 17:20[1203]

(2006.03.18更新)





▲日本におけるストーカー研究の第一人者・岩下久美子。


 

◆自立した女性を世の中に広める
「おひとりさま向上委員会」:
仕事をしていても自分の居場所が見つからない、自分の行き方が確立できないなど、結婚やキャリアを積んだ人でもメンタルな問題を抱える女性達は多い。「おひとりさま向上委員会」とは、そんな女性達が自立しながら、個性豊かな生活を送れる社会を目指そう、個として、自分の人生を胸張って生きてゆこうと集まったメンバーだ。提唱者はジャーナリストとして活躍していた故 岩下久美子さん。特別な参加資格はなく、「おひとりさま」に賛同した人達は皆メンバーだ。「女性の一人暮らしはいろいろな意味で不安を抱えますし、特に20代後半はものすごく悩む時期です。30歳になってこれから自分はどう生きていくのだろうという葛藤もあります。また自分は気にしていなくても世間では、いつまでも結婚しないとか、女性一人でレストランに入る、一人でホテルに宿泊するのがしづらい社会です。仕事から疲れて帰ってきても、気軽に夕食に行ける所が少ないなど夕食難民といわれる現象も起きています」(1)。

 

41年と5日の生涯

大久保 清
Kiyoshi Ohokubo   【連続強姦殺人犯】

(1935.01.17〜1976.01.22)
絞首刑---山羊座

  • 連続強姦殺人犯。群馬県高崎市生まれ。父親は国鉄職員で広大な土地をもち裕福。8人兄弟の3男。
  • 1971年(36歳)、車で15〜28歳の若い女性を言葉巧みに誘い出し、わずか2ヶ月の間に8人を絞殺。山林や畑に埋めた。その残忍な手口と猟奇的な性格から、犯罪史に類を見ない凶悪性犯罪事件とされた。
  • 後悔・謝罪の念を示すことはなく、「権力への反骨」と称して、警察の取調べに挑戦的な態度を取り続けた。
  • 両親から「ボクちゃん」と呼ばれ溺愛されて育った大久保は、20歳から32歳まで数々の婦女暴行事件を起こし(前科4犯)、刑務所生活を送っていた。前科を隠して結婚、二人の子供をもうける。
  • しかし、1971年(36歳)3月、2度目の仮出所をすると両親に金をせびり、白塗りのマツダロータリークーペを購入。この車で、わずか2ヶ月あまりの間に150人の女性に声をかけ30人以上と関係を持った。抵抗した女性を容赦なく殺した。仕事についておらず、両親からの小遣いや被害者から奪った金で犯行を重ねた。
  • 1976(昭和51)年、東京拘置所にて死刑となった。
  • IQ102、言語性IQ117。高校中退。祖父がロシア人、祖母は遊郭の遊女という。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2005.01.22更新)




▲犯罪史に類を見ない凶悪性犯罪事件とされた連続強姦殺人犯・大久保清。

41年1ヶ月と8日の生涯

本多 延嘉
Nobuyoshi Honda        【新左翼活動家】

(1934.02.06〜1975.03.14)
殺害---水瓶座

  • 1934年2月6日 東京神田和泉町に出生。父は全逓労働者。旧浅草区鳥越で育つ。柳北小学校に入学。太平洋戦争中は、一家で埼玉県北足立郡足立町(現志木市)に疎開。同地で宗岡小学校を卒業。
  • 1946年4月 県立旧制川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)入学。中学生で日本共産党の青年組織・青年共産同盟(のちの日本民主青年同盟)に加盟。川越高等学校で共産党に入党。1953年4月 早稲田大学第二法学部入学。
  • 1954年4月 早稲田大学第一文学部国史学科に転入学(1958年中退)。早稲田大学新聞編集長として精力的に活動。早大新聞、共産党早大細胞(当時400名いた)の指導的地位を占める。
  • 1956年のハンガリー動乱に衝撃を受け、既成の日本共産党の組織および理論・路線を「スターリニズム」として決別し、1957年末 黒田寛一の弁証法研究会に参加する。さらに日本トロツキスト連盟(トロ連)結成に参加した。
  • 1958年 トロ連が発展して結成された革命的共産主義者同盟内部で黒田寛一らと「革命的マルクス主義グループ(RMG)」を形成し「トロツキズムを乗り越えた」と称する「反スターリン主義派」として、国際革命組織第四インターナショナルへの革共同の加盟を主張する西京司(大屋史郎、沢村義雄)らの組織内「トロツキスト派」と対立した。
  • 1959年に黒田による共産党の情報を警視庁に売ろうとしたスパイ事件が発覚(いわゆる「黒田・大川スパイ問題」)。本多は一貫して黒田を弁護し、同年八月の革共同第一回大会で除名された黒田の後を追って、他のRMGのメンバーとともに革共同を脱党。8月31日、黒田とともに革命的共産主義者同盟全国委員会を結成。黒田は議長、本多は書記長に就任する。
  • 1962年の革共同第3回全国委員会総会で、本多が起草した議案の「党建設方針」や「労働運動方針」をめぐって、黒田との理論的対立が表面化。1963年2月に黒田派が分裂し、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成。本多派の全国委員会本体は「中核派」と称されるようになる。
  • 1969年4月27日、破防法個人適用を受け、逮捕(予備・陰謀容疑)。
  • 1975年3月14日未明、埼玉県川口市の自宅マンションで就寝中、革マル派の襲撃を受け殺害される(中核派書記長内ゲバ殺人事件)。
  • 「周知のように、中核派と革マル派は長期にわたる「内ゲバ」を繰り広げ、その死傷者は1000人に及ぶとされている(現在、両派は公式に表明していないが、実質上、内ゲバを停止した模様)。そうした内ゲバの中でも、「暗殺」と位置付けられているのが、75年3月14日に埼玉県川口市でおきた中核派・本多延嘉書記長に対するテロである。「犯行声明」を出した革マル派が、最初から本多書記長の殺人を目的としていたことは明らかで、このテロは革マル派が組織の総力をあげて実行したものであるとされる。
  • 「革マルは警察を装って本多さんが交通事故にあった、と夫人に電話した。当然、夫人は防衛上の観点から前進社(中核派の公然拠点)などに事実確認の電話をしている。ところが、夫人の電話はすべて革マルのアジトに繋がるように工作してあったのだ。本多さんの身の回りの物を持って出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった」この時、本多書記長の所在を知らされていたのは、夫人と極く限られた中核派最高幹部だけだったという」(1)。
  • 極右と極左はあらゆる意味でパリティ(対称性)を保存している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    本多延嘉- Wikipedia
    (1)「【取材メモ】本多延嘉・中核派書記長「暗殺事件」: 東京アウトローズ ...

(2010.11.29掲載)


▲革命的共産主義者同盟全国委員会の最高指導者・本多 延嘉。

 

41年1ヶ月と15日の生涯

川上 とも子
Tomoko Kawakami          【女性声優】

(1970.04.25〜2011.06.09)
卵巣がん---牡牛座

  • 本名:川上 倫子(読みは同じ)。桐朋学園大学短期大学部芸術学科演劇専攻、専攻科演劇専攻を卒業。ぷろだくしょんバオバブ所属。東京都出身。血液型はO型。愛称はとも蔵。
  • 代表作に『少女革命ウテナ』(天上ウテナ)、『ヒカルの碁』(進藤ヒカル)、『ケロロ軍曹』(日向冬樹)、『遙かなる時空の中で』(元宮あかね)、『史上最強の弟子ケンイチ』(風林寺美羽)などがあった。
  • 1981年にはじまったテレビアニメ『六神合体ゴッドマーズ』をみて声優という職業を意識するようになる。高校時代は演劇部にはいり、声優養成所のバオバブ学園へ入所(3期生)。芝居が好きになり、短期大学も演劇科へ進学した。短大では朴?美と同期。20歳のころの思い出は「大学の仲間たちと、わいわいがやがやしていたこと」と語っている。高校時代から声優デビューころにかけてはバオバブ学園で講師をしていた山本正之の目にとまり、山本のコーラスグループ「ピンクピッギーズ」に参加しており山本のアルバム等にクレジットされている。
  • 1994年、大学在学中のテレビアニメ『メタルファイター?MIKU』で声優デビュー。翌1995年の『ふしぎ遊戯』での張宿がはじめて名前のある役のレギュラーとなる。1997年に『少女革命ウテナ』で主役を演じてからは数々の主役級をものにしてアニメのみならず吹き替えでも活躍。1990年代終盤以降のぷろだくしょんバオバブの女性声優の出世頭となった。
  • 2008年8月に体調不良を訴えたことから、精密検査を受けたところ8月16日に入院し19日に手術を受けることとなった。手術後は成功し、散発的に一部の作品に出演しながら病気療養のため休業に入ることとなった。
  • しかし、それから約3年後の2011年6月9日に死去したことが所属事務所の公式ブログにより発表された。41歳没。報道では療養中に公表していなかった病名が卵巣がんであったことが報じられている。
  • 彼女の突然の死は声優界に衝撃を与え、特に田中理恵は川上の訃報にショックを受け、「混乱してしばらく凍りついていた」とブログでコメントしている。また、大学時代からの同期である朴?美はブログにて「涙しか出てこない」と悔しさをコメント。川上の通夜にも参列し、彼女を暖かく見送った。1990年代後半から数多くの作品で共演し共に活躍し、『ケロロ軍曹』や『BLEACH』で川上の代役を務めた桑島法子は、「私たちにしかない絆があった、あなたにバトンを渡したかった」と川上のことを大切な戦友だったとコメントし、川上との絆の深さを覗かせていた。
  • 2010年春頃までは病気療養中にも一部の作品に出演していた。以下は休業期間中に発表された出演作品の一覧で、病気療養以前に収録したものも含まれる。
  • 姉が1人いた。自身でも最も印象に残っている仕事という『少女革命ウテナ』でヒロイン・天上ウテナを演じ話題となった。騒々しい女の子から可憐な少女、『BLEACH』の砕蜂のような男勝りな女性役、『ケロロ軍曹』の日向冬樹や『ヒカルの碁』の進藤ヒカルなどの少年役、さらには『Bビーダマン爆外伝』のルイルイや『ポケットモンスター ダイヤモンド&パール』のミミロルといった動物系キャラクターまでさまざまなタイプのキャラクターを演じわけた。『ダイヤモンド&パール』からはポケモンの声の出演が多くなり、ポケモン図鑑の音声も担当していた。
  • 愛称の「とも蔵」はラジオ番組『川上とも子のうさぎのみみたぶ』の前身番組『川上とも子のメサCANネットワーク』で初めて1人でパーソナリティをつとめるのだから愛称があった方がいいという番組スタッフの提案で公募され、『少女革命ウテナ』の監督である幾原邦彦が無理矢理決定した。その後自称にもなり、業界内でも定着した。ちなみに中学生時のニックネームは「かわこ」だった。声優デビュー後は「ともちゃん」と呼ばれることが多く、デビュー当初より川上を知る声優やスタッフは今でも「ともちゃん」と呼ぶこともある。また、当時は「川上」と自称していた。
  • マーブルと名付けたウサギを飼っていたことがあり、『うさぎのみみたぶ』というタイトルはここから取られている。
  • 2003年4月14日にマーブルを亡くした後は、アポロと名付けた犬を飼っていた。川上は4月15日生まれのアポロを、マーブルの生まれ変わりとみなしていた。
  • 自動車が趣味(特にF1レース)であり、「とも蔵号」と名付けられた自家用車もレーシングカー仕様だった。サーキットで走行したこともあったが、本人はスピードが遅いと発言していた。好きなアーティストはorange pekoeなど。またデビュー以前に親交のあった山本には「歌を作ってもらうのが夢だった」と語り、ラジオCDのアルバムで実現した。
    声優ユニット「あまえ隊っ」のメンバーの1人。
  • 相生恭介とはラジオ番組でよく共演しており、仲が良かった。男性に求めるのは「誠実さ」とのこと。2005年に発売された『極上生徒会』DVD第5巻の特典映像「第5回極上クイズ王決定戦」で自分が結婚相手に求めるものを問われた際に即答した。
  • 愛読書は『新約聖書』および『旧約聖書』で、本人いわく「愛眠の友」とのこと。2008年に病気療養に入った後にカトリックの洗礼を受けている。洗礼名は「セシリア」という。
  • 「奇しくも、同じく声優業を中心に活躍された新山志保と同じ1970年生まれですね。この人が活躍していた頃は、俺は既にアニメ離れが始まっていましたので、あまり馴染みがありませんが、「少女革命ウテナ」の天上ウテナ、「ケロロ軍曹」の日向冬樹の役を演じていました。また、俺がたまにネットカフェなどで読んでいる「ふたりエッチ」の小野田優良の役も演じていました。声優通の嫁さんにも馴染みはあったそうで、川上とも子が他界した直後、彼女に関する動画を色々と見ていました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    川上とも子- Wikipedia
    (1)投稿者:コミバナ さん..2011/ 6/27 11:21:36(月) [9276]

(2011.06.27更新)




▲愛称の「とも蔵」出親しまれた声優の川上とも子。


 

41年1ヶ月と26日の生涯

早坂文雄
Fumio Hayasaka   【音楽と映画の調和を究めた男】

(1914.08.19〜1955.10.15)---2005年没後50年
死因?---獅子座

  • 仙台市で生まれ、4歳の時に一家で札幌市へ移る。家が素封家で、幼時、ピアノを習うなどしていたが、父親が出奔、一家は困窮する。母親も生活苦と病で亡くなり、弟と妹の世話と経済的理由の為、高等学校進学を断念。以降、作曲を独学。生活費を稼ぎながらも音楽への情熱はいささかもおとろえず、この頃交友を深めていた伊福部昭、三浦淳史らと新音楽連盟を結成。
  • 1934年、「国際現代音楽祭」を開催し、ストラヴィンスキー、サティ、ファリャ、カセルラなど、当時最先端をいく作曲家を紹介した。その後も生活を支えつつ作曲に没頭。
  • 1938年『古代の舞曲』がワインガルトナー賞を授け、中央にその存在を知られることとなる。1939年9月、当時の東宝映画社長・植村泰二の引きで東宝撮影所に入社、専属作曲家となる。
  • 第一作は「リボンを結ぶ夫人」(1939/山本薩夫監督)、以降「燃ゆる大空」(1940)「旅役者」(1940)「民衆の敵」(1946)「女優」(1947)「暁の脱走」(1950)、そして溝口健二監督の「雨月物語」「近松物語」「山椒大夫」等を作曲。
  • 黒澤明監督とは「酔いどれ天使」(1948)で出会い、以降「生きものの記録」途中で急逝するまで二人は様々な映画音楽の実験と試みを行った。
  • 「作曲家の早坂文雄は生涯にわたって肺結核に苦しめられ、その命はいつ終わるともしれなかった。〈あと5年、それが無理ならせめて2年生きたい〉---それから間もない1955年10月早坂は41年の短い生涯を終えた。---39年より東宝映画専属の作曲家として活躍し、黒澤明と溝口健二という、日本映画を代表する監督の全盛期を支えた」(1)。
  • 「近づきすぎれば火傷する危険な太陽に近づいた希有の星(黒澤明)があった。その輝くもう一つの太陽が早坂文雄だった」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    Hayasaka
    (1)読売新聞2005.11.18夕刊「文化」(石塚潤一)より抜粋。
    (2)読売新聞2005.12.18朝刊 西村雄一郎著『黒澤明と早坂文雄』の吉田直哉による書評より抜粋。

(2005.12.19更新)



▲39年より東宝映画専属の作曲家として活躍し、黒澤明と溝口健二という、日本映画を代表する監督の全盛期を支えた早坂文雄。


▲「羅生門」の受賞祝賀パーティーで左から橋本忍(脚本)、黒澤明(監督)、早坂文雄(音楽)

 

41年2ヶ月と9日の生涯

シャンポリオン
Jean Francois Champollion   【エジプト学創始者】

(1790.12.23〜1832.03.04)
脳卒中---山羊座

  • グルノーブル大学教授として、1822年(32歳)ロゼッタ・ストーンとオベリスクの銘文を比較して古代エジプト文字の解読に成功。
  • 象形文字が表音文字としても使われることやその文字構成を研究、発表。
  • 1828年―1829年には現地調査で多数の象形文字文献を得た。1831年コレージュ・ド・フランスにエジプト学講座を開設。
  • 「解決できない難問に対し、人はどこまで情熱を傾け続けることができるものだろうか。ロゼッタ・ストーンに刻まれた古代エジプトの文字、ヒエログリフの解読に文字どおり一生を捧げた人物がいた。 十一歳の時、シャンポリオンはある運命的な出会いをする。十二歳年上の兄に連れられていったフーリエのサロンで、彼は初めてヒエログリフを見せられた。フーリエとは数学者フーリエのことである。フーリエから、このなぞの絵文字を読んだ人物がまだだれもいないということを聞いて、シャンポリオンは俄然興味を抱き「大きくなったら自分が必ず読んでみせる」とその場で公言した。 さてそれからの彼はこの遠大な目標に向かってまっしぐらだった。17歳までに13ヵ国語をマスター、僅か18歳でグルノーブル大学の教授となった。しかしその後も苦悩する日々が続く。シャンポリオン以外にも多くの学者が解読に挑戦したがついに誰ひとりとしてなしえた者はいなかった。彼が解読に成功したのはヒエログリフが表音文字と表意文字が混交していることに気づいてからである。この間、実に20年が経過していた。この偉業によって2千年間忘れ去られていた文字が復活したのである。しかしあまりの熱心さに健康を害したシャンポリオンは41歳の若さでこの世を去ってしまった」

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    不可能を可能にした男たち(47) シャンポリオン

(2005.10.18更新)




▲ フランスのエジプト学創始者、考古学者。




▲【ヒエログリフの謎をとく】
ミシェル・ドヴァシュテール著
吉村作治監修
遠藤ゆかり訳
古代エジプトの文字ヒエログリフが、エジプト王朝3000年の歴史を初めて語り出したのは1822年9月のことだった。王朝滅亡後2000年の間、誰一人として解読不能だった古代文字を解き明かした男、J・F・シャンポリオン。古代と現代をつなぐ書記として、近代エジプト学に大きな貢献を果たしたシャンポリオンの数奇な生涯と、古代文字解読へのダイナミズムを描く。(創元社刊)

 

41年2ヶ月と8日の生涯

マタ・ハリ
 Mata Hari   【女スパイとして知られる踊子】

(1876.08.07〜1917.10.15)
銃殺刑---獅子座

  • 女スパイとして知られる踊子。マタ・ハリはマレー語で「暁の目」の意。本名マルガリータ・ゼレ(ゲルトルード・ツェレ)。フランスの隣国オランダ北部レーワルデンの裕福な帽子商に生まれる。
  • 17歳、オランダ将校マック・レオド大尉と結婚。ジャワに渡る。すぐに浮気者の夫に愛想をつかし離婚。
  • 1905年頃、仕事を探してフランスはパリに。見よう見まねで踊ったジャワ舞踊が好評を得て、セミ・ヌードの踊り子「マタハリ」としての道を歩みはじめる。ジャワ人の混血児と称して、パリのオランダ劇場、ミラノのスカラ座と渡り歩いて、またたくまに世界中の人気者になる。エキゾチックな顔立ちと官能的な肉体に東洋の衣装を身にまとい、神秘的な踊りで世紀末のパリでセンセーショナルを巻き起こす。
  • 美貌の踊子、娼婦として上流社会にも出入し、社交界の寵児となって独軍将校や仏人銀行家ら愛人と贅沢に暮らす。
  • 第1次大戦戦争の勃発で失職し、1916年に報酬目当てにドイツ諜報機関の女スパイ・暗号名「H21」になる。一方で同年フランス防諜機関に協力して二重スパイになるが、処刑される(銃殺)。その波瀾万丈の人生はきわめて有名ではあるが実質的な活動はあまりなかったといわれる。
  • 「宝石をちりばめた衣装を身にまとい、エキゾチックな顔立ちのマルガレーテは神秘的なダンスとともに自分の出生をつくりあげていった。インド生まれでヒンズーの血が流れている。マハラジャといっしょに象に乗って虎狩りに行った。父親は貴族だった。などなど…ホラ話はしだいにエスカレートしていった。そしてこの頃から「マタ・ハリ」と名のるようになる。そして彼女はステージでは決して笑うことがなかった。それがさらに神秘的な印象を強めたとも言われる。しかし世間は移り気なもの。彼女の亜流があらわれると客たちは若い踊り子たちに夢中になっていったのである。第一次世界大戦が始まった頃には表舞台から離れてオランダに帰国していたマタ・ハリだったが、1916年5月、ドイツ領事フォン・クラマーの訪問を受けて彼女はドイツ側スパイとしての活動を開始する。さらにドイツスパイでありながらフランススパイを引き受ける、つまり二重スパイをやった。1917年2月17日の明け方、泊まっているホテルでフランスの警視によってマタ・ハリは逮捕された。結局7月24日パリ第三軍法会議で彼女は銃殺刑の判決をうける。処刑後の彼女の遺体は関わりになるのを恐れて誰も引き取り手がなかった。そのためパリの教育病院の解剖教室に寄付された。魅惑のダンサー、マタ・ハリとして彼女がデビューしたのはエッフェル塔のムーラン・ルージュ。そして彼女がドイツのスパイと見破られたのもやはりエッフェル塔の無線傍受機だった」(1)。
  • 「英国諜報機関の長がいみじくもいった言葉がある。「女スパイの最大の欠点は、男を得るために国を売ってしまう事だ。」その理由付も明快、以下のごとし。天下国家は男が勝手に造ったものだから女は興味を持たない。女にとって最大の退屈しのぎは恋愛、だから執着する」(2)。
  • 「マタハリの名誉回復を探る動きが出ている。「マタハリに死刑を宣告した17年の裁判は冤罪だった」「マタハリは仏政権にぬれぎぬを着せられた」「仏政権は大戦が長引き、仏軍の被害増大の結果、国民に疲弊感と不満が広がる中、マタハリを処刑することで国民のガス抜きを図ったのではないか」「マタハリは戦時ナショナリズムの犠牲」「20世紀の最初の女が、19世紀の最後の男達に銃殺されたのです」」(3)。
  • 「マタ・ハリの最後の言葉:銃殺刑で今まさに発射の命令を下そうとしている仕官に向かって〈ごくろうさま〉クロード・アヴリーヌ著「人間の最後の言葉」を参考にしました」(4)。
  • あの大女優グレタ・ガルボもマタ・ハリを演じている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「奇人発見伝
    (2)「身体雑学 美女伝説マタ・ハリ
    (3)読売新聞2005.04.10朝刊「地球万華鏡」より抜粋。
    (4)投稿者:ユリウスさん 2007/ 2/16 18:57:36(金) [1042]

(2008.03.22更新)




▲エキゾチックな顔立ちと官能的な肉体に東洋の衣装を身にまとい、神秘的な踊りで世紀末のパリでセンセーショナルを巻き起こしたマタ・ハリ。
(イラスト 玉野安実)


◆踊り子姿のマタハリの肖像写真を展示した「マタハリの間」で名誉回復への意欲を語るコープマンス氏(オランダ・フリース美術館で)。

41年2ヶ月18日の生涯

尾崎放哉
Housai Ozaki   【革新的自由律俳人】

(1885.01.20〜1926.04.07=明治18年〜大正15年)
癒着性肋膜炎湿性咽喉カタル---山羊座

  • 鳥取市立川町の士族の家に生まれる。本名尾崎秀雄。父・信三母なかの次男として生まれるも長男天折のため秀雄が長男。父は地方裁判所の書記。12才 、姉は山口秀美を養子として迎える。 14才、この頃より俳句を作りはじめる。
  • 20歳 、春一高卒業後九月に東京帝大学法学部に入学。いとこの沢芳衞に求婚。親類の反対のため断念 。
  • 一高、東京大学を卒業後、生命保険会社に勤務。結婚して出世街道を突き進んだ彼は、理想的な人生の一典型であり当時の超エリートコースをたどる。
  • 保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。彼をそうさせたものは何なのか。彼があまりにも純粋過ぎ、そしてあまりにも周りよりも秀でていたために、世の垢にまみれることに堪えられなかった。うそや偽りに満ちた会社での人間関係に嫌気を感じた。
  • ある時から彼はその道を自ら逸脱し、妻とも別れて病に冒されながら世捨人のような放浪の生活に入り、以後漂泊の旅を続ける。
  • 大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とする間、膨大な自由律俳句を詠み才能を見事に開花させていった。
  • 放哉の「水晶のように透き通った哀しみ」に満ちた俳句が、そういう周りとかけ離れた知性と感性から生み出された。自由律を生きた五七五の形式にとらわれず自由な俳句を詠む。
  • その生きかたも型破りであり、自由。放哉は会社勤めの頃から酒びたりの生活。酒を飲むと人が変わ り、京都では酒癖の悪さから、住んでいた寺を追い出されることもある。
  • そんな放哉を見捨てなかったのが、俳句の師である萩原井泉水だった。大正14 年、井泉水は全幅の信頼を置く同人が暮らす香川県小豆島へと放哉を送り出す。放哉は小豆島の南郷庵で、ひとり極貧の中にも自由な暮らしを謳歌。西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となる。在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作る。
  • やがて激しいせきと吐き気に襲われる。医者の診断は肺結核。寒さが忍び寄る中、放哉の病は日に日に重くなる。翌年四月孤独のまま生涯を終えた。亨年四十二歳 戒名は大空放哉居士 墓は庵近くの共同墓地の中にある。記念館は平成六年に当時の南郷庵を復元したものである。
  • 戒名大空放哉 居士。
  • 晩年、放哉の身の回りを世話していたのが、近所の住んでいた南掘シゲさん。衰えていく放哉の姿を見るに見かねて、炊事や洗濯をかって出たという。
  • エライ!
  • 「小説『こぼれ放哉』の著者・吉田十駕さんは〈病的な酒で、ひどく絡んで他人が遠ざかっていった〉と話す。決まったレールを走る息苦しさが彼に酒を飲ませ、暗い孤独に追い込む。だがその瞬間、寂寥と奔放を併せもった放哉の本当の俳句が生まれた」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2007.09.09朝刊持田晋哉「ホントの旅」より抜粋。
    (2)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 8/ 3 12:03:33(月) [5633]

(2009.08.04更新)



★風狂の俳人

▲明治から大正時代にかけて、季語や形にとらわれない革新的な俳句を残した自由律俳人・尾崎放哉。

 

尾崎放哉の句

◆「落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事」

◆「入れものが無い両手で受ける」

◆「咳きをしても一人」

◆「春の山のうしろから烟が出だした」

◆「あすからは禁酒の酒がこぼれる」

◆「窓あけた笑ひ顔だ」

◆「犬よちぎれる程尾を振ってくれる」

◆「辞世〈春の山のうしろから煙が出だした〉」(2)。


41年2ヶ月と18日の生涯

ビキラ・アベベ
 Bikila Abebe      【裸足の英雄】

(1932.08.07〜1973.10.25)
脳出血---獅子座

  • オリンピック2連覇のエチオピアのマラソンランナーで「裸足の英雄」といわれた。13回のマラソン競技に出場し、優勝11回。
  • エチオピアの首都郊外のモウト(Mout)のキリスト教徒の両親の元に生まれ、ハイレ・セラシエの親衛隊の一員(階級は軍曹)になった。19歳の時、ハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊員となる。ニックネームは「はだしの英雄」「走る哲学者」。オンニ・ニスカネンの指導を受ける。
  • 28歳でローマ・オリンピック、マラソン競技で優勝。32歳で東京オリンピック、マラソン競技で優勝。マラソン競技2連勝はオリンピック史上初。36歳 メキシコ・オリンピック、マラソン競技では途中棄権。
  • 36歳 自動車の運転をあやまり崖下に転落。半身不随となり以後車椅子生活。アーチェリー等を手がけ、パラリンピックにも出場した。
  • しかし事故の後遺症から次第に病気がちになり,1973年脳出血により41歳の若さで病死する。
  • 首都、アディスアベバにアベベの名前を冠した国立スタジアムがある。
  • 「このレース前にはアベベは全く無名の選手で、ゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってきたとき各国の報道関係者も「あれは誰だ」と騒然となった。この快挙を可能にしたのは、スウェーデンから招かれたコーチのニスカネンが指導した高地トレーニングであった。(国土に高原地帯が広がるエチオピアでは国内で高地トレーニングができた)アベベの成功は高地トレーニングが広く取り入れられるきっかけとなった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「アベベ・ビキラ-Wikipedia

(2008.03.26更新)


★走る哲学者

▲「裸足の英雄」といわれたマラソンランナー・ビキラ・アベベ。
(イラスト 玉野安実嬢)


41年2ヶ月と25日の生涯

高橋 ひろ
Hiro Takahashi    【シンガーソングライター・作曲家】

(1964.08.10〜2005.11.04)
後腹膜腫瘍による多臓器不全---獅子座---B型

  • 本名:高橋裕幸(たかはし ひろゆき)
  • 1984年頃から「POPSICLE」というバンドで活動していたが、財津和夫に才能を認められ、1987年にチューリップの第三期から加入しプロデビュー(ちなみに「心の旅」のヒットは1973年で、87年の時点でデビュー時のオリジナルメンバーは財津のみであった)。
  • アルバムとしては「PRIMARY COLOR」、「そんなとき女を好きになる」、「Well」の3枚のアルバム及びライブ作品「TULIP FINAL TOUR Well」に参加。当時は本名の高橋裕幸を名乗っており、ボーカル、キーボード、パーカッション、サックスを担当。バンド内でもシングルのカップリング曲のボーカルを手がけたり、アルバム曲に自作曲を提供するなど財津も高橋の才能を買っていたようだ。
  • 1989年、チューリップが解散すると一時的に「POPSICLE」を再結成し、インディーズからアルバムをリリースしたのち、1993年ソロ・デビュー。「幽☆遊☆白書」のエンディング・ソングとなった「アンバランスなKissをして」(約50万枚の売り上げ)、「太陽がまた輝くとき」は大ヒットを記録し、音楽番組にもしばしば顔を出すまでになったが、所属レーベルの解散により、歌手活動を縮小し、曲提供を中心とした活動に軸足を移した。以降、アニメソングや舞台音楽、テレビ・ラジオのジングルを主に作曲していた。
  • 2005年度の「ニッポン放送ショウアップナイター」の番組ジングルも彼の作品であった(その後も2008年度まで引き続き使用された)。 生前、北海道の静内町(現・新ひだか町)を気に入り、町のために「SIZUNAI〜僕の好きな風景〜」を制作。町の協力のもと、地元の有志「CD制作実行委員会」によりCD化、地元CDショップや観光協会で販売されている。
  • 2005年11月4日、後腹膜腫瘍による多臓器不全で逝去、41歳没。
  • ミュージックステーションで、中学生時代にタモリが当時ラジオで軟派系ミュージックを批判しているのを聞いて、それがきっかけで軟派系のレコードを捨てて音楽性を変えたという話をしている。
  • 小学校5年生の時に「女心」と「北の街」という曲を作曲したことをHEY!HEY!HEY!で明かした。
  • 2010年3月15日、没後4年を経てポニーキャニオンより高橋ひろ ベスト・コレクションがリリースされた。
  • アルバム :君じゃなけりゃ意味ないね(1993.11.19)/WELCOME TO POPSICLE CHANNEL(1994.11.18)/new horizon(1995.11.17)/Great Big Kiss(2000.11.11)/高橋ひろ ベスト・コレクション(2010.03.15)
    シングル:いつも上機嫌(1993.11.19)/アンバランスなKissをして(1993.12.17)/君じゃなけりゃ意味ないね(1994.2.18)/太陽がまた輝くとき(1994.6.17)/くちびるがほどけない(1995.6.21)/しあわせのパイロット(1995.11.1)/ソーダ・ファウンテン(1998.10.1)/なぜなに君の大図鑑(2002.3.23)/華麗なるone step(2002.9.16)/微笑みの爆弾(歌:馬渡松子)/アンバランスなKissをして/太陽がまた輝くとき(2005.6.1)
  • 「 「ひろさん」のことは、是非ひとりでも多くの方に知っていただきたいのです。「運」って大事ですね。この方、せっかく歌手として乗って来た時、所属レーベルの倒産、そして病気になって、活動もままならなかったと聞いています。よかったら、動画サイトに映像もありますので、聞いてみてください」(1)。
  • 「たまさん、さっそくのUPありがとうございます。内容は、言うことなしです。改めて「age41」に『高橋ひろ』が載ったことによって、事実なんだな・・・と悲しい確認をしました。リクエストしたのに、すみません(涙)フォローってほどのことではありませんが、今月4月17日にポニーキャニオン本社にて、「高橋ひろベストコレクション発売記念イベント」が開催されました。私も参加しました。もちろん本人はいませんが、元スタッフによるトーク&秘蔵映像集上映が行われました」(2)。
  • 「幽幽白書のテーマは、たびたび車で聴いていますが、歌手の方がなくなっていたなんて、今まで知りませんでした。彼の没年月日は2005年11月4日、奇しくもその2日後に同じく音楽界で活躍されていた本田美奈子が他界しています。どちらも、薄命の音楽家として歴史に残るでしょう」(3)。
  • 「コミバナさんありがとうございます。「高橋ひろ」の訃報について、まだまだ知られてないため、「今まで知りませんでした」・・・という声多数です。今回、たまさんに取り上げていただいて、コミバナさんにも届いて、よかったと思います。「薄命の音楽家」そうですね。でも高橋ひろの作った音楽は、これからも愛されていくと思います。コミバナさんも、よかったら聞いて見てくださいね」(4)。
  • 「追加で・・・。現在も『ニッポン放送ショウアップナイター』の番組ジングルは、彼の作品です」(5)。
  • 「私もこの人取り上げたいと思っていました。なんか財津和夫がいるTULIPに最後の方にいてた方ですよね。一度TULIPは解散したのですけど(数年後に再結成しましたがその後また解散)その後どーしてるのかなと思っていたらアニメ主題歌歌っていたとはびっくりしました」(6)。
  • 「そうです、そうです。約2年、TULIPで活動していました。TULIPでボーカル(作曲など)を担当した曲もあり、今聞いても名曲です(涙)20代前半の瑞々しい感性が表現されています。当時40代の先輩(?)たちに囲まれて、頑張っていたのでしょう!
    蛇足ですが、ひろさんは血液型B型で〜す」(7)。

  • まっこと、君じゃなけりゃ意味ないね!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    高橋ひろ-Wikipedia
    (1)投稿者:ぱふぱふ さん..2010/ 4/26 07:54:11(月) [7435]
    (2)投稿者:ぱふぱふ さん..2010/ 4/27 09:35:50(火) [7442]
    (3)投稿者:コミバナさん..2010/ 4/27 11:47:05(火) [7445]
    (4)投稿者:ぱふぱふ ..2010/ 4/27 16:00:19(火) [7446]
    (5)投稿者:ぱふぱふ..2010/ 4/27 16:03:50(火) [7447]
    (6)投稿者:かものはしかもさん..2010/ 5/ 6 09:32:40(木) [7519]
    (7)投稿者:ぱふぱふさん..2010/ 6/ 1 16:00:14(火) [7681]

(2010.06.02更新)



▲「アンバランスなKissをして」で約50万枚の売り上げた高橋 ひろ。




41年5ヶ月と14日の生涯

萬鐵五郎
Tetsugorou Yorozu  【日本キュビスム絵画の代表】

(1885.11.17〜1927.05.01)
結核に肺炎を併発---蠍座

  • 洋画家。岩手県生れ。上京して早稲田中学に学ぶかたわら白馬会研究所に通い、1907年東京美術学校に入った。
  • 27歳の卒業制作にフォービスム風の『裸体美人』を描いて注目され、同年フュウザン会を結成。のち、二科展、院展、春陽会に出品。キュビスムなど新しい傾向を試み、独自の様式を完成。
  • 1914年(大正3年)郷里の岩手県に帰り、創作に集中する。故郷岩手の土沢の自然や土俗的なものを、独自の造型表現の中に溶かしこんだ。ポスト印象派やキュビズムをいち早く摂取し、『もたれて立つ人』(32歳)は日本におけるキュビスム絵画の代表作とされる。
  • 昭和2年、結核に肺炎を併発し、5月1日、茅ヶ崎の自宅で死去、41歳。
  • 転地先の茅ヶ崎ではさらに池大雅浦上玉堂を研究し、南画的なものを志向した(1)。
  • 「師の黒田清輝を憤慨させたという東京美術学校の卒業制作『裸体美人』(1912)は、斜めに立てかけた戸板の上にモデルを寝かせて描かれたものだった」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.07.24朝刊 田中淳著『画家がいる「場所」』の三浦篤による書評。
    (2)読売新聞2006.06.09朝刊 中林和雄「坂に見る画家の思い」より抜粋。

(2006.06.10更新)



▲日本におけるキュビスム絵画の代表作『もたれて立つ人』で知られる洋画家・萬鐵五郎。


◆萬鉄五郎『もたれて立つ人』

41年5ヶ月と14日の生涯

佐藤 泰志
Yasushi Sato      【『そこのみにて光輝く』】

(1949.04.26〜1990.10.10)
自殺?---牡牛座

  • 北海道函館市高砂町出身。國學院大學文学部哲学科卒業。
    1949年4月26日、高砂町(現・若松町)にて佐藤省三・幸子の長男として生まれる。
  • 1962年に函館市立松風小学校を卒業し、函館市立旭中学校に入学、読書クラブに所属し、3年生のときには部長を務める。中学校在学時、第10回北海道青少年読書感想文コンクールに「『赤蛙』を読んで」が入選する。
  • 1965年、北海道立函館西高等学校に入学し文芸部に入部する。1966年、小説「青春の記憶」が第4回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞。1967年、函館西高等学校で起きた防衛大学校入学説明会阻止闘争に取材して執筆した小説「市街戦の中のジャズメン」で第5回有島青少年文芸賞優秀賞を受賞するものの、この作品は高校生が書いたものとしては内容的に問題があるとされ、北海道新聞への掲載を拒否される。
  • 高校卒業後、函館で浪人生活を送る。「市街戦の中のジャズメン」を書き直し、「市街戦のジャズメン」と改題して『北方文芸』に掲載する。
  • 1970年、上京して國學院大學文学部哲学科に入学し、中野区上高田に住む。同人誌『黙示』が創刊された際には高校時代の友人らと参加する。1971年に大学の同級生だった漆畑喜美子と中野区上薬師で生活を始める。7月、『黙示』を脱会し、『黙示』同人だった藤川巖、茜堵志哉、岩崎理らと同人誌『立待』を創刊し、創刊号に小説「贋の父親」を掲載する。1974年に大学を卒業、卒業論文の標題は、「神なきあとの人間の問題」。同人誌『贋エスキモー』を、藤川巖、酒井俊郎と謄写版で創刊し、創刊号に小説「休暇」を掲載する。就職を希望し、市役所を15ヵ所も受験するがすべて不採用となり、やむなく服装メーカーで製品値札付けのアルバイトを始め、翌1975年、あかつき印刷に勤務。小説「颱風」が第39回文學界新人賞候補となる。
  • 1976年、小説「深い夜から」が第1回北方文芸賞佳作となる。1977年、精神の不調に悩み、3月に上目黒診療所で受診し自律神経失調症と診断され通院を始める。以後、死去するまで精神安定剤の服用を続けることになる。9月から一橋大学生活協同組合に調理員として勤務する。『新潮』6月特大号に掲載の小説「移動動物園」が第9回新潮新人賞候補作となる。
  • 1978年5月、長女・朝海(あさみ)誕生。10月には同人誌『贋エスキモー』をあらたにタイプ印刷で第1号から発刊し、その第1号に小説「光の樹」を掲載する。
  • 1979年、梱包会社の株式会社大崎に正規採用の従業員として就職する。1979年12月9日、睡眠薬による自殺未遂で入院。翌1980年、小説「もうひとつの朝」で第16回作家賞を受賞。
  • 1980年1月、長男・綱男誕生。1月23日、退院する。
  • 1981年、函館市に転居。職業訓練校の建築科に入学する。『文藝』9月号に掲載の小説「きみの鳥はうたえる」が第86回芥川賞候補作となる。
  • 1982年、東京に戻り、国分寺市日吉町四丁目に住む。『きみの鳥はうたえる』が河出書房新社より刊行される。『新潮』10月号に掲載の小説「空の青み」が第88回芥川賞候補作となる。
  • 1983年ころから、文芸誌の新人賞下読みの仕事と、新聞での書評の仕事を依頼されるようになる。『新潮』6月号に掲載の小説「水晶の腕」が第89回芥川賞候補作となる。『文學界』9月号に掲載の小説「黄金の服」が第90回芥川賞候補作となる。
  • 1984年5月から『日刊アルバイトニュース』でエッセイ「迷いは禁物」の連載を始める。週に1篇の掲載で、1985年6月までで56篇を執筆する。5月には国分寺市日吉町三丁目に転居し、歿するまでの住居となった。同月、次女・佳乃子誕生。
  • 1985年、『文學界』5月号に掲載の小説「オーバー・フェンス」が第93回芥川賞候補作となる。 1988年4月から共同通信社の配信でテレビドラマの時評「放送時評」・「テレビ時評」を月に1回のペースで執筆し、1989年3月まで継続する。
  • 1989年、小説家が河出書房新社より刊行され、第2回三島由紀夫賞候補作となる。
  • 1990年10月9日夜、ロープを携えて外出し、翌日、自宅近くの植木畑にて遺体で発見される。享年41であった。
  • 没後はすべての作品が絶版となっていたが、2007年に個人出版社クレインが作品集を刊行。熱心なファンの働きかけや『海炭市叙景』の映画化が追い風となり、2010年以降に『海炭市叙景』『移動動物園』『そこのみにて光輝く』が次々と文庫で復刊され再評価がなされるようになった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    佐藤泰志 - Wikipedia

(2011.07.10掲載)



▲次々と文庫で復刊され再評価がなされるようになった小説家・佐藤 泰志 。







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