玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

40-41-42-43-44-45-46-47-48-49

age 43


50音インデックス



■43歳の
 シンクロニシティ


■43歳-?
ブルータス
柳生十兵衛
幾松=木戸松子
松本修治

■43歳-前半
植村直己
ヤン・スワンメルダム
直木三十五
若山牧水
甲斐智枝美
小島芳子
トニー・ソレイタ
サルバトーレ・リチートラ
ジミー・ギャリソン
フェルメール
大石 誠之助
三遊亭小円遊
金 玉均
岸田 森
ウィリアム・K・バルトン
永井 隆
ロレンツオ・デ・メディチ
スクリャービン
ジャンゴ・ラインハルト
小出楢重
田宮二郎
ナタリー・ウッド

■43歳-後半?進む

J・J・グランヴィル
尾崎 秀実
三輪田勝利
大杉君枝
有野修司
坂本 九
桂三木助(4代目)
スコット
長谷川 恒男
桂小五郎/木戸孝允
川端茅舎


■43歳のエポック


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43歳の語録

 

「ここは恐怖の場所です。せめて初到達という栄誉でもなければ」
(スコットの日記より)

「芸術は短く、貧乏は長し」
(直木三十五)

43歳のシンクロニシティ!

  • 43歳には芸能界にシンクロがみられる。田宮二郎坂本九である。
     
    ●『タイムショック』の司会者田宮二郎(1935.08.25〜1978.12.28)は、自宅で散弾銃を口にくわえ発砲自殺し43年4ヶ月と3日の生涯(乙女座)。
    ●米国で100万枚のセールスを記録した『上を向いて歩こう』で有名な坂本九(1941.12.10〜1985.08.12)は、日航機墜落事故に遭遇し43年8ヶ月と2日の生涯(射手座)で逝去した 。

  • 落語界でも将来を嘱望された若手の二人がシンクロする。三遊亭小円遊桂三木助だ。二人とも4代目だった。
     
    ●笑点スタート時からの大喜利メンバーで、「ボクちゃん」などキザを売り物にして人気を得た落語家4代目三遊亭小円遊(1937.08.03〜1980.10.05)は酒が原因で旅先で没し43年2ヶ月と2日の生涯(獅子座)。
    ●現代的なセンスを生かした話しぶりから“落語界の新人類”4代目桂三木助(1957.03.29〜2001.01.03)も自宅で首吊り自殺し43年9ヶ月と5日の生涯(牡羊座)を閉じた。

  • 偉大なる冒険家二人も刻印されるだろう。植村直己スコットである。
     
    ●五大陸最高峰登頂を世界で最初になしとげた世界に誇る日本の登山家・冒険家・植村直己(1941.02.12〜1984.02.13)はマッキンリー山で冬期単独初登頂後に遭難し43年と1日の生涯(水瓶座)。
    ●英国の南極探検家ロバート・ファルコン・スコット(1868.06.06〜1912.03.29)も辛苦の末に極点に達したが、約1ヵ月前にアムンゼンが達した後であり、43年9ヶ月と23日の生涯(双子座)を吹雪のため終える。

  • さらにふたりの歌人・俳人がともに逝っている。牧水茅舎だ。
     
    ●酒と旅の生活で知られる歌人・若山牧水(1885.08.24〜1928.09.17)は急性胃腸炎と肝硬変で43歳と24日の生涯(乙女座)。
    ●人道主義、求道精神を重んじ、その表現に努力した姿勢から「茅舎浄土」とも称せられた俳人・川端茅舎(1897. 8.17〜1941.07.17)も脊椎カリエス、結核などで43年11ヶ月と3日の生涯だった(獅子座)。

  • また桂小五郎/木戸孝允幾松=木戸松子のカップル。
     
    ●桂小五郎の愛人?/正室?にして激動の時代に自らの信念を貫いた若き芸妓 ・幾松=木戸松子(1843.?〜1886.?=天保14年〜明治19年)は死因?で43年?の生涯 (?座)。
    ●西郷隆盛、大久保利通とともに明治維新三傑といわれる桂小五郎/木戸孝允(1833.06.26〜1877.05.26)は 病死で43年11ヶ月ジャストの生涯(蟹座)。

    (2009.07.11更新)    
      



43年?の生涯

ブルータス(ブルトゥス)
Marcus Iunius Brutus   【古代ローマの政治家】

(BC85.?〜BC42.10.23)
アントニウス=オクタウィアヌス連合軍に敗れ、自殺---?座

  • 古代ローマの政治家。名門の出。小カトーの甥。
  • 共和制理念の護持者で、カエサルのもとで諸官職を歴任したが、前44年カエサル暗殺の首謀者となった。
  • のち東方にのがれたが、フィリッピの戦でアントニウス=オクタウィアヌス連合軍に敗れ、自殺。
  • さて瀕死のシーザー(カエサル)が、ブルータスが一味に加わっているのを見ていったのが「ブルータス、お前もか」の名せりふ。驚愕、怒り、落胆を浮かべるシーザーのまなざしを、ブルータスは見返せたのか。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「イタリア旅行(9) シーザーの址

(2004.06.09更新)


▲写真は、ミケランジェロの「ブルータス像」。小品だが、品格に満ちた傑作。美術大学などでデッサンを勉強するときに使うモデルの定番。共和制を維持するという信念のために、恩義あるシーザーに手を下すという苦悩にひしがれる青年の内面を感じさせる。

43年?の生涯

柳生十兵衛/三嚴  
Juubei Yagyuu   【江戸初期の剣客】

(1607.不詳〜1650.03.21)
死因?---?座

  • 江戸初期の剣客、剣術家。徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた柳生但馬守宗矩の長男。名は三厳、重兵衛とも。
  • 12歳で徳川家光に小姓として出仕、19歳で家光の勘気にふれ致仕し、大和柳生の道場で家法新陰流の研究と門弟の指導にあたる。
  • 同じく家光の剣指南役をしていたが、後に諸国を漫遊。
  • やがて郷里の伊賀・正木坂で道場を開き1万人以上の弟子に剣術を指南した。その弟子の中に、鍵屋辻の仇討ちで知られる荒木又右衛門などがいる。
  • 1638年(31歳)には再出仕している。ふつうこの十兵衛以後の流儀を柳生流と呼ぶ。
  • 新陰流は上泉伊勢守信綱が戦国末期に編み出した剣術で、二世の柳生石舟斎宗厳以降、柳生家に伝えられたため、柳生新陰流とも呼ばれる。
  • 江戸時代には将軍家だけが学ぶお留め技とされ、一般への伝授が禁じられていた。
  • 時代劇でおなじみ柳生但馬守は石舟斎の五男だが、彼は剣術よりも政治力により徳川幕府の中核に進出したもので、新陰流の完成者は但馬守の甥である四世・柳生兵庫助利厳であるとされる。
  • 「剣術の達人として徳川3代将軍家光の世に名をはせた柳生十兵衛。3巻そろえれば幕府を転覆するほどの奥義を身につけられる「柳生武芸帳」を巡り、反徳川、反柳生一派と繰り広げる壮絶な争いを描く」(1)。
  • 柳生十兵衛には千葉真一がよく似合う。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)日経新聞2010.01.01朝刊「大型時代劇」より抜粋。


     ▲テレビ東京系新春ワイド時代劇「柳生武芸帳」で十兵衛を演じる反町隆史。

    (2010.01.01更新)



▲江戸初期の剣客、剣術家・柳生十兵衛。(肖像はセンサー石畑さんが捜してくれました)





▲ 柳生十兵衛 千葉真一フィギュア。

43年?の生涯

幾松=木戸松子
Ikumatsu=Matsuko Kido
             【桂小五郎の愛人?/正室?】

(1843.?〜1886.?=天保14年〜明治19年)
死因?---?座

  • 三本木芸者。桂小五郎(のちの木戸孝允)の愛人。武家の出なので胆力があり、機転が利いた。芸者では舞の名手として名高い。桂小五郎の正室である。
  • 天保14年、木咲(生咲)市兵衛の次女として生まれる。母は若狭小浜藩の範医細川太仲の娘末子。幼名計(かず)。父市兵衛が失踪したことで、母も夫を追って上洛。その母を追って、計も7歳の時に上洛した。
  • しかし、父はすぐに病死。計九条家の臣、難波家の幼女になる。この養母が三本木の幾松として昔その名を知られていた。
  • 安政3年、計は木咲、難波両家の生計のために2代目幾松を名乗る。桂小五郎とは、文久2年6月〜7月頃に出逢い、桂は山科のある豪家と張り合った末に、武力で取り上げたという。幾松が桂と知り合ったときは、19歳である。
  • 伊藤俊輔(のちの伊藤博文)が、いろいろと話をつけて落籍した。幾松は明治になってから、長州藩士岡部利済の養女となり、木戸孝允夫人となった。
  • 元治元年、蛤御門の変後、桂小五郎に尽くす。幾松は、とても美しい女性だったということだが、同様に桂も男前で非常に頭の切れる男だった。美男美女のカップルだったという。
  • 慶応二年、山口に桂小五郎と住む。明治十年、木戸孝允(桂小五郎)死去。翠香院と号する。明治十九年、没。
  • 「京料理 幾松-床に華を添える維新の逸話:築200年、旧長州藩控屋敷の佇まいを今に伝える料理旅館。桂小五郎(木戸孝允)とその妻・幾松が恋人だった頃の逸話が残る場所でもあり、店名は彼女にちなんだものである。また、「古都の魅力に触れ、再び京都を訪れてほしい」との思いから、希望者には美しく保存された「幾松の部屋」を食前に解説付きで案内してくれる。そして料理は、賀茂なす、湯葉、鮎など、地の素材がふんだんに使われた京会席。明治維新に思いを馳せつつ、納涼の美食を堪能しよう」(1)。
  • ある記述では、桂小五郎の愛人。またある記述では桂小五郎の正室。はたしてどちら? 両方を兼ね備えていると言うことか? それって理想的なことなのか? どうかな?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    幕末列伝・女性
    幾松(木戸松子)
    (1)「鴨川が見える店 ++ お店紹介 INDEX

(2007.03.07掲載)



▲激動の時代に自らの信念を貫いた若き芸妓 ・幾松=木戸松子。



◆京料理 幾松

43年?の生涯

松本修治  
Syuuji Matsumoto  【松本引越センター社長】

(1964.?〜2007.09.07)
首つり自殺---?座

  • 2007年09月07日午後3時25分ごろ、大阪府四條畷市江瀬美町の運送会社「松本引越センター」大阪本社の非常階段で、松本修治社長(43)が首をつっているのを社員が見つけ、119番通報した。松本社長は搬送先の病院で死亡が確認された。社長室で遺書が見つかり、府警四條畷署は自殺とみて調べている。
  • 調べでは、松本社長は7階の非常階段の踊り場で、階段のはりにつり下げたロープで首をつっていた。足元にパイプいすが倒れていた。ピンク色のシャツに黒色のズボン姿で、救急隊が到着した時には心肺停止状態だったという。
  • 4階社長室の机に、家族あての遺書1通が会社の便箋で残されており、黒色のペンで横書きで「ママへ パパはこんな弱い男でした」「申し訳ないです」「こんな会社になってごめんね」などの言葉が書かれていたという。松本社長はこの日普段通り午前9時に出社、午後2時半ごろから姿が見えなくなった。
  • 同社は昨年(2006年)9月、創業者の松本博文氏が代表権のない会長に就任し、長男の修治氏が社長に昇格したばかりだった。
  • 松本引越センターは61年創業で、全国に営業所がある。ゾウのイラストをトレードマークにテレビCMも積極的に展開して、関西を中心に「ゾウのマークの引っ越し屋」として抜群の知名度を築いた。民間信用調査会社によると、06年6月期の売上高は63億円。
  • 引っ越し市場をめぐっては、バブル崩壊後の景気低迷で値下げ競争が激化しており、ここ数年は中小や中堅の会社の淘汰(とうた)の動きが出始めている。松本引越センターをめぐっても企業合併・買収(M&A)のうわさも出ていた。
  • 四條畷市の大阪本社では7日午後9時半、岡田邦夫専務らが緊急会見。岡田専務は冒頭、「松本社長は、先代が築き上げた会社経営という重荷に耐えられなかったのでは……」と語った。
  • 同専務らは、松本社長が最近急に会社を休むことが多くなりぜんそくを患って薬を飲んでいて、健康が心配されていたことを明らかにした。松本社長が「最近薬の量が増えた」「食欲が無い」などとも話していたという。また、株式上場時期を巡って、松本博文会長との意見の食い違いもあったとし、岡田専務は「社長は自分なりのカラーに染めていきたいという思いがあったと思う。『どうしたらもっと付いてくるんだろう』とこぼすこともあった」と話していた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2011.03.09掲載)



▲「ゾウのマークの引っ越し屋」として抜群の知名度を築いた「松本引越センター」の新社長・松本修治。



43年と1日の生涯---2004年没後20年

植村直己  
Naomi Uemura   【世界に誇る日本の冒険家】

(1941.02.12〜1984.02.13)
マッキンリー山で冬期単独初登頂後に遭難---水瓶座

  • モン・ブラン(25歳)、キリマンジャロ(25歳)、アコンカグア(27歳)、エベレスト(29歳)、マッキンリー(29歳)の五大陸最高峰登頂を世界で最初になしとげた世界に誇る日本の登山家・冒険家。その後、犬ぞりによる極地探検に転じ、北極圏1万2000kmの単独走破(33から34歳)、単独北極点到達(37歳)、グリーンランド初縦断(37歳)などの快挙で世界的な評価を得る。
  • 1941年、兵庫県城崎郡日高町の農家に6人兄弟の末っ子として生まれる。明治大学農学部に入学し、山岳部に入部して始めて登山を知る。大学卒業後、日本脱出。アメリカの農場で不法労働で逮捕されるが、担当者の温情で日本への強制送還は免れ、ヨーロッパへ。モルジンヌのスキー場に就職し、登山資金を貯める。
  • 1965年、明大ゴジュンバ・カン登頂隊に途中から参加、第二次アタック隊として初登頂を果たす。フランスに帰った後、モンブラン、マッターホルン、ケニア山、キリマンジャロと意欲的に山に登る。南米最高峰アコンカグア単独登頂、アマゾン河を筏で下るなどした後、日本に帰国。
  • 1970年、日本山岳会のエベレスト遠征に参加し、松浦隊員と共に日本人初登頂。直後に北米最高峰マッキンリー単独初登頂を果たし、世界で最初の五大陸最高峰の登頂者となる。この頃から南極横断の夢を抱く。夢の実現のため、エスキモーと共に生活し、犬橇と極地での生存術を学ぶ。1974年野崎公子と結婚。犬橇単独12000kmの旅に成功。
  • 1978年北極点単独行、グリーンランド縦断に成功し世界的名声を得る。1981年始めて隊を率いて冬季エベレストを狙うが、隊員の死もあり断念。アルゼンチン軍の協力を得て進めていた南極横断の夢も1982年フォークランド紛争の勃発により断念せざるを得なくなる。
  • 新たな夢、野外学校設立の参考のためミネソタの野外学校に講師として参加。
  • 198年2月、世界初のマッキンリー冬季単独登頂後、下山中に消息を絶った。
  • “ルートがよく分かりませんでビバークいたしました”マッキンリー登頂後に上空を飛ぶ取材機に送った最後の無線連絡。
  • 「〈すぐ帰ってくるからね〉と妻に言い残して旅立つのが常だったという」(1)。
  • 板橋で暮らした1984年2月13日までの約15年間のうち、半分近くの時間、冒険などに出かけていた人生だったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.02.13朝刊「冒険家・植村直己」より抜粋。
    (1)読売新聞2004.11.253朝刊「冒険家の押し入れ」より抜粋。

(2011.05.03更新)



▲五大陸最高峰登頂を世界で最初になしとげた世界に誇る日本の登山家・冒険家・植村直己。
(イラスト 大城さん)




▲マッキンリー頂上に上村さんが残した日本国旗と星条旗。

直巳語録

「〈冒険〉とは生きて帰ることである」

「人はだれでも生活の中で冒険している」

43年と5日の生涯

ヤン・スワンメルダム
Jan Swammerdam  【赤血球を初めて記載

(1637.2.12〜1680.2.17)
死因?---水瓶座

  • 17世紀初めには顕微鏡がなんとか利用できる代物になっていき、なんと一般人の レーウェンフック(1632〜1723) は自作の顕微鏡で約200倍?の倍率を出し、 多種多様な物を測定して今日への記録を残した。
  • 顕微鏡により極微世界を覗ける---世の中の興味は身体の大きい哺乳類だけではなく、 室内や掌に載せたりして、自然の神秘を感じられる小さな昆虫へ俄然高まっていた。
  • そんな中で、スワンメルダムは登場する。1658年 、 ヤン・スワンメルダムは、顕微鏡下で赤血球を観察した。
  • スワンメルダムはオランダの大富豪の家に生まれたが、身近にいる小昆虫を顕微鏡で観察し、 その観察結果を逐一文書化するという作業に朝から晩まで熱中していた。こういった状況に父親から 家督を継ぐか昆虫遊びを放棄するか? と迫られたがスワンメルダムは昆虫研究を選び、以後は 経済援助を受けられない貧乏人になった。
  • その後、オランダのライデン大学で医学を学ぶも健康を損ない、医師としての仕事はせず 知人・友人の支援を受けながら研究を続けた。カエルの赤血球の発見や、人体ではリンパ系 が重要な働きをしていること、胎児の肺についても調べている。
  • 『昆虫学総論』の出版
    スワムメルダムの名を知らしめるのは、顕微鏡により、蜜蜂や蜻蛉などの小昆虫を調べて 著した「昆虫学総論」である。 この著書の中で彼は、蝶の蛹を解剖すると、完成された身体の蝶が翅と肢を折りたたんで 眠っていることを発見したと著した。この時代は、まだ生命の発生について「前成説」と「後成説」を唱える人々 どちらにも根拠となる決定打がなかった。この発見は、「前成説」すなわち「入れ子説」「生命は雌雄の生殖により生まれるものでは無く、発生する卵の中には次世代の成虫が入り、  その成虫の中にはまた次世代の卵があるという無限連鎖が世界の終末まで計算されて存在している」の根拠となり、「前成説」を裏付ける 強力な援護射撃となった。
    しかしながら前成説自体は、後に「後世説」によって否定されてしまうのだが、 観察という新しい事実探求方法から生まれた驚異だった。
  • 『自然の聖書』の出版
    スワンメルダムは、その熱狂的なまでの昆虫観察も相まってか、若くして世を去ったため、 生前には観察結果を公表していないものが多く、また一部は焼き捨てたとも言われる。
  • 死後、オランダの科学者ブルーハーウェが遺稿を整理し、「自然の聖書」と題して出版した。 題名はスワンメルダムが考えていた。
  • スワンメルダムは、カタツムリの眼の構造を解明して詳細な解剖図を制作した際、 これを真実として信じてくれるものがいるだろうか、と不安に駆られたという。
  • 「しかし、一体誰がこれを信じるのだろうか? 私がこの論文をしたためるのに 使っているペンの先ほどもない小さな点にこれほど精密でこれほどの奇跡が見出 されるなどと!」 ・・・『自然の聖書』より
  • 「---そして 赤血球を初めて記載し、リンパ管の弁を発見したオランダの博物学者は? A.スワンメルダム (学問 並び替え) ※ヤン・スワンメルダム オランダ かえるの赤血球の発見や、人体ではリンパ系が重量な働きをしていること、胎児の肺についても調べる」(1)。
  • 「たまさん おはようございます。どうもありがとうございました(今朝はとても早いおつとめですね。お忙しいのですか?お体お大事になさってくださいね)。彼のファーストネームですが、ウィキペディアなどでは「Jan」となっていました。また、生没年月日は、1637.2.12〜1680.2.17 だそうです。以上よろしくお願いいたします」(2)。
  • 今リンパ・マッサージが注目されている、らしい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    スワンメルダム
    (1)「関節にもよいです。。リンパ : チーズケーキ
    (2)投稿者:koromo姫..2007/11/27 04:33:16(火) [2577]

(2007.11.27更新)



▲その熱狂的なまでの昆虫観察も相まってか、若くして世を去ったため、 生前には観察結果を公表していないものが多く、また一部は焼き捨てたとも言われるヤン・スワンメルダム。




43年と12日の生涯

直木三十五  
Sanjuugo Naoki   【年ごとに筆名を変えた小説家】

(1891.02.12〜1934.02.24)
脊髄カリエス---水瓶座

  • 小説家。本名植村宗一。大阪市生れ。早大中退。
  • 38歳で『週刊朝日』に『由比根元大殺記』を連載し、作家として認められた。
  • 39歳から『大阪新聞』『東京日日新聞』に『南国太平記』を連載し、これによって一躍流行作家となった。
  • 大仏次郎とともに時代小説の領域を広げ、リアリティの質を高めると同時に、大衆文学への過小評価を改めさせようとした理論的な闘士でもあった。
  • 筆名は31歳のとき直木三十一とし、以後年ごとに三十二、三十三と改め、三十四はとばして三十五で定着。
  • 「映画監督のマキノ雅弘さんが中学生のころ、家に直木三十五が居候していた。「まさ公」と呼びつけにしては、用事を言いつける。「たばこを買って来い」。お金がないと答えると大声で怒鳴られた。「盗んでこい」むちゃを命じる居候に肝をつぶした往時を、自伝「映画渡世」(平凡社)で回想している」
  • 「女性に送るからとハンドバックを五つ六つまとめ買いし、家賃は15ヶ月ためる。「必要な金は出さないで、無駄な金ならば惜しまない」(菊池寛の直木評)。独自の金銭感覚は晩年まで変わらなかった。
  • 「芸術は短く、貧乏は長し」と語った人は、実働10年も満たない期間に38の長編と200以上の短編を残し、亡くなった。没後直木賞が設定された。「流行作家の登竜門として名高い文学賞にわが名が冠されていることを知ったら、無頼派の文士はくすぐったそうな顔をするかもしれない。長者番付に顔を出す当代の人気作家たちには、“おい、少し割り前をよこせ”と、むちゃを言いそうな気もする」(1)。
  • 「菊池寛創刊の雑誌「文芸春秋」の主要執筆者として小説、雑文を書きまくった。伝奇的なチャンバラ小説が主流だった大衆文学にあって、「彼出て初めて、日本に歴史小説が存在した」と評価した菊池は、直木の死の翌年、芥川賞と共に直木賞を創設した」(2)。
  • 「小説家として本格的に活動したのは大正、昭和の10年に満たないが、“直木の辻斬り論法”と称された辛辣な文壇ゴシップ記事をはじめ700編に及ぶ小説・雑文を残し、執筆量では、芥川と並ぶ文壇の横綱格だった。何より新しがり屋で、一流志向。外国製の自動車を乗り回し、飛行機が大好きで出版事業を興したかと思えば日本初の文芸映画とされる「京子と倭文子」(菊池寛原作「第二の接吻」)を制作する。雑誌、映画の成長期にあって、八面六臂の活躍だった」(3)。
  • 「本名は植村宗一だったので、「植」の字を二つに分解して「直木」とし、短評を書き出したとき、たまたま、31歳だったので「直木三十一」というペンネームにした。それがなんで三十五になったかは既に「バイボ」に書いてありました」(4)。
    ---
    植村直己の隣に位置したのも何かの縁ですね。
  • 直木は1時間に5枚から10枚を書き飛ばし推敲はしなかったという。洗練にはほど遠いが文章に勢いがある。
  • 直木の故郷、大阪に今年(2005)2月「直木三十五記念館」がオープンした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.02.24朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)(3)読売新聞2005.07.26夕刊「金曜コラム」より抜粋。
    (4)投稿者:ユリウスさん 2006/ 9/15 01:07:09(金) [251]

(2006.09.15更新)



▲没後直木賞が設定された直木三十五。 無頼派の文士そのものの顔をしている。


◆「直木三十五記念館」



直木語録

◆「藝術は短く、貧乏は長し」

◆「小心にして傲岸、寡黙にして雄弁、稀代の浪費家で借金王、女好きのプランメイカー」
(『直木三十五伝』の帯より)


43歳と24日の生涯

若山牧水 
Bokusui Wakayama   【酒と旅に生きた歌人】

(1885.08.24〜1928.09.17)
急性胃腸炎と肝硬変で死去---乙女座

  • 「秋風の歌」で知られる歌人。本名繁。宮崎県東臼杵郡東郷村に生まれた。祖父・健海、父・立蔵とも医者。早大英文科卒。尾上柴舟に師事。
  • 1910年(25歳)の歌集『別離』は自然主義の思潮を受けた清新な歌風で注目された。歌誌『創作』を創刊主宰。
  • 1912年『死か芸術か』、翌年の『みなかみ』では生活的・心境的な苦悶を口語破調で表現したが、次第に本来の詠風にかえり、『山桜の歌』などを出した。
  • 宮崎県生まれの牧水が、妻子とともに東京から沼津に移住したのは1920年。早稲田大学時代から、「明星」に対抗する歌誌「新声」に尾上柴舟らと集い、自然主義歌人として次第に歌壇の中心人物となったが、経済的には苦しく、ようやく定まった住まいだった。
  • 1925年(40歳)には、沼津市市道町に五百坪の土地を買って自宅を新築、いよいよ永住を決めた。翌年、名勝の千本松原が伐採されそうになった時には、反対運動の急先ぽうとなったりしている。
  • 「桜を愛した西行がその花どきに入寂したように、酒の歌人は白玉の歯に酒のしみとおる季節に逝った」(1)。
  • 「1928年(昭和3年)は残暑が厳しく、なきがらが告別式までもつか心配されたが、異臭も死斑もでずきれいな姿で会葬者に別れを告げた。〈カカル現象ハ内部ヨリノ『アルコホル』ノ浸潤ニ因ルモノカ〉」(2)。
  • 「若山牧水は大正の末年、九州を旅した。51日間の長旅だが、紀行文に記録された酒量が並大抵でない。朝の4合から始まり、〈一日平均二升五合に見つもり、この旅の間に一人して約一石三斗を飲んで来た〉(九州めぐりの追憶)。飲んだ酒の量を語って石(約180・4リットル)の単位を用いる人はそうはいまい。九州旅行の3年後、肝臓を患った牧水は43歳で死去した。日に2升5合と聞けば、体内のアルコールが防腐剤となって遺体が傷まなかったという伝説にも、さもありなんとうなずくよりほかない。牧水の歌には、耳に快い調べがある。絶望を詠んで、しかり。〈海底(うなぞこ)に眼(め)のなき魚の棲(す)むといふ眼の無き魚の恋しかりけり〉。貧しさを嘆いて、しかり。「抽匣(ひきだし)の数の多さよ家のうちかき探せども一銭もなし」。天分が酒に磨かれて生まれた、流麗な調べに違いない。旅と酒の歌人は1885年(明治18年)の8月24日、宮崎県に生まれた。きょうは生誕120年の日にあたる。その人の歌に命を吹き込んだ薬効に感謝しつつ、その人の命を縮めた毒性を恨みつつ、牧水短歌を愛唱する人々の対「酒」感情は複雑だろう。〈かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ〉。2升はお付き合いしかねるが、歌集を傍らに故人と盃(さかずき)を傾ける。夕べの風が心地よい季節である」(3)。
  • 「若山牧水の最期の言葉をお供えします。死の前日、吸い飲みでは酒の味がしないといって起きあがり、杯で酒を飲ませてもらった時、こう言った。〈ああ、これでこそ酒の味がする〉」(4)。
  • 「〈秋かぜや日本(やまと)の国の稲の穂の酒のあぢはひ日にまさり来れ〉。酒と旅の歌人は稲穂を見ても喉(のど)が鳴ったらしい。たしなまぬ人に、酒好きの考えることは想像に余るだろう。ある男が神様に3年間の酒断ちを誓ったが、どうにもつらい。6年に延ばし、晩だけは飲むのを許してもらった…とは、落語のマクラである」(5)。
  • 「臨終の前夜まで、五、六合の酒を薬代わりに飲んで居たのだそうですから、まるで緩慢な自殺に近い酒だった、と大岡信氏が言われたのも納得出来る話です。---師匠だった尾上柴舟が詠んだ追悼の一首です。
    〈そのかみの 西行芭蕉良寛の 列に誰置く われ君を置く〉」(7)。
  • 「---人妻との激しい恋と失恋、見知らぬ遠い土地への「あくがれ」などをめぐる親密で知的な対話の中に、人間らしい歌人の姿がのぞく」(8)。
  • 酒と旅に生き、酒で命を縮めた人。9月17日は「牧水忌」である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.09.17朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)大岡信「若山牧水」(中公文庫)の主治医の手記。
    (3)読売新聞2005.08.24朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (4)投稿者:ユリウスさん 2006/10/ 1 22:23:04(日) [326]
    (5)読売新聞2006.10.06朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (6)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/ 7 16:00:23(日) [802]
    (7)投稿者: Thori-Tung 2007/ 1/ 7 19:15:17(日) [804]
    (8)日経新聞2010.10.03朝刊「文庫・新書」-伊東一彦、堺雅人著『ぼく、牧水!』より抜粋。

(2010.10.03更新)




▲酒と旅の生活で知られる歌人・若山牧水。

 

牧水の歌

◆「われとわが悩める魂の黒髪を撫づるとごとく酒を飲むなり」

◆「かんがえて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ」

◆「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」

◆「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」『路上』(1911年)。

◆「幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」

◆「かの星に人の棲むとはまことにや晴れたる空の寂し暮れゆく」

 


◆「牧水の辞世をお供えします。
〈酒欲しさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を〉---(6)。
---酒飲みのはしくれとしては身に浸みます。

43年と24日のの生涯

甲斐智枝美
Chiemi Kai 【昭和50年代後半に活躍した元アイドル】

(1963.06.16〜2006.07.10=昭和38年〜平成18年)
首つり自殺---双子座

  • 6月16日、福岡・大牟田市生まれ。本名・長谷部智枝美。昭和54年に日本テレビ系「スター誕生!」の第29代グランドチャンピオンに選ばれ、翌55年「スタア」で歌手デビュー。
  • 女優としても、ドラマ「野々村病院物語」「見上げればいつも青空」や映画「逃がれの街」などに出演した。
  • 平成2年8月に7年の交際を実らせ、徹さんと結婚。翌3年10月の長男の出産を機に引退し、2男に恵まれた。
  • 智枝美さんは2年前、日本テレビ系特番「あの人は今スペシャル」にゲスト出演し、アイドル時代のヒット曲を熱唱。番組では千葉・習志野市内の生花店で働く姿など、智枝美さんの元気で明るい姿を紹介していた。それだけに、この2年間で智枝美さんの身の上に何が起こったのか。芸能界でも、自ら命を絶った早すぎる死に、悔やまれる声が後を絶たない…。
  • 「“チェミィ”の愛称で知られ、人懐っこい笑顔と明るい性格で人気だった智枝美さんが、首つり自殺という衝撃的な結末でこの世を去った。習志野市消防本部によると、10日午前6時45分ごろ、徹さんからの119番通報で駆け付けた救急隊員が、智枝美さんの死亡を確認した。自宅2階の寝室で首をつって死んでいたという。千葉県警習志野署の検視の結果、自殺と断定された。親族らによると、智枝美さんは亡くなる前日の9日に中3の長男と小6の二男が所属するサッカーチームの練習に付き添い、通常より遅めに帰宅。入浴を済ませ就寝したという。翌10日朝になって智枝美さんが起きてこないことから、子供が起こしに行って変わり果てた姿になった智枝美さんを発見した。2、3年前、2週間ほど入院したことがあり、心臓が弱かったようです。疲労が溜まっていたのかも知れない」と声を詰まらせた。子育てに悩んでいたのか、それとも病気を苦にしてなのか…。今のところ遺書は発見されていない。2人の愛息を残したままの自殺だけに、謎は深まるばかりだ。智枝美さんは、高校1年の昭和54年に「スター誕生!」で29代グランドチャンピオンに選ばれ、“ポスト山口百恵”を期待されホリプロ入り。55年に「スタア」で歌手デビューし、女優としても活躍。平成2年に堀越学園の同級生で、SQUARE(現・T−SQUARE)のドラムだった徹さんと結婚し、翌3年10月に長男を出産して引退した。主婦業の傍ら、数年前から習志野市内の生花店で働いていた。家族4人、幸せそうに見えた智枝美さんが胸の奥で抱えていたものは、いったい何だったのか…」(1)。
  • 「甲斐智枝美さん首つり自殺に先輩・榊原郁恵、悲痛…:ホリプロの3年先輩で、智枝美さんが引退後も親交があった榊原は「頑張り屋さんでした」と人柄を偲び、「彼女の二男が小さい時に芸能界に復帰したいと相談されたことがあったんです。その時、橋渡しをすることができなかった…」と言葉を詰まらせ、涙ぐんだ」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)(2)「甲斐智枝美さんが首つり自殺… ...

(2006.07.14更新)



▲昭和54年に日本テレビ系「スター誕生!」の第29代グランドチャンピオンに選ばれ、翌55年「スタア」で歌手デビューした甲斐智枝美。


◆18歳の誕生日記念に大型ヨットで初々しいビキニ姿を披露した甲斐智枝美さん。当時、1メートル60、B84W60H87という素晴らしいプロポーションだった=昭和56年6月17日


◆ドラマ「GO GO!チアガール」にも出演(左、中央は三原じゅん子、右は島田歌穂)



43年と25日のの生涯

小島芳子
Yoshiko Kojima   【古楽器フォルテピアノ奏者】

(1961.04.26〜2004.05.21)
肺ガンで死去---牡牛座

  • フォルテピアノ・チェンバロ奏者。福岡で生まれる。
  • 桐朋学園大学ピアノ科卒業。ピアノを小川京子、徳丸聡子、チェンバロと古楽アンサンブルを村井頌子、有田正広、有田千代子、鍋島元子の各氏に師事。在学中よりピアニスト、チェンバリストとして活躍。
  • 1985年オランダのデン・ハーグ王立音楽院に留学、フォルテピアノをスタンリー・ホッホランド、チェンバロをエヴァディン・ダーニェの各氏に師事。
  • 1986年ブリュージュの「第2回国際モーツァルト・フォルテピアノコンクール」で第2位受賞。ヨーロッパ各地で活発な演奏活動を行なう。
  • 1989年ソリスト・ディプロマを得て同音楽院を卒業。同年秋に帰国。東京でのリサイタルをはじめ、東京バッハ・モーツァルト・オーケストラとの共演、栃木の「蔵の街」音楽祭、北とぴあ音楽祭(東京・北区)、福岡古楽音楽祭に出演するなどソリスト、室内楽プレーヤーとして盛んな演奏活動を行なう。
  • 1991年アントワープ音楽祭(J.V.インマーゼル氏主宰)、94年シドニー音楽祭、2000年モントルー(スイス)とユトレヒトの音楽祭などに招かれたほか、1995年にはスタンリー・ホッホランド氏との連弾でツアーを行なう。
  • CDも内外の主要レーベルから多数リリースしている。主なものには92年「キラキラ星〜モーツァルト変奏曲集」(創美企画)96年「ベートーヴェン:初期クラヴィーア作品集」98年「ハイドン/クラヴィーア作品集」(以上、DENON)、チェロの鈴木秀美とのデュオで「シューベルト/アルペジオーネ・ソナタ」、「ベートーヴェン/ピアノとチェロのための作品全集」(以上ドイツ・ハルモニア・ムンディ)、若松夏美とのデュオで「モーツァルト/ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」(BIS,2000年)がある。
  • 東京藝術大学、東海大学で講師としてチェンバロ、フォルテピアノ、合奏の指導をしたほか,香港芸術学院でも演奏と指導を行なっていた。
  • 2000年からは東京芸術大学・大学院に新設のフォルテピアノのコースを担当し,CDとしては「ハイドン/ピアノソナタ全集」(Brillant,2000年)のなかの2枚と鈴木秀美との小曲集「ロマンス」(ドイツ・ハルモニア・ムンディ,2002年)を残した。また花岡和生のレコーダーのCD(trout record) : オットテール(2000年),デュパール(2001年)に夫・福澤宏と参加。
  • 2002年夏に足を骨折し,その治療中に肺癌が発見された。2003年3月から肺癌との闘病にはいり,2004年5月21日早朝に転院先の福島県・郡山で永眠。享年43歳。
  • 「3歳の時以来続けてきた現代ピアノから、バロック時代の鍵盤楽器チェンバロへ、さらにフォルテピアノへと活躍の領域を広げていった。(フォルテピアノは)音に色彩感があり、まるで香りが感じられるよう---」(1)。
  • 「〈音楽によって生を与えられ、、また生きる力を音楽に注ぎ込んだ〉と弔辞を読んだ鈴木秀美さん」(2)。
  • 「オカッパ頭のまだ少女の気質が抜けない可愛い方だった。逝去されたのが2004年5月だから、今年で3回忌を迎えることになる。肺がんだそうである。死後に実父である小島順氏が開設されたサイトに詳細が記されてあるが、指の骨折が原因で、なにげに撮ったレントゲン、それで肺がんが見つかったという。この時はすでに胸腔の縦隔のリンパ節に癌が転移しており、少なくともIII期aの段階との記述もあって、手術を受けた後、わずか一年余りで他界された」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    小島芳子のサイト」のプロフィールより抜粋。
    (1)(2)読売新聞2004.07.04朝刊「追悼妙」より抜粋。
    (3)「Yahoo!ブログ - 死ぬまで生きよう!

(2007.03.22更新)



▲古楽器のフォルテピアノをよみがえらせた小島芳子。


◆画像1:「Yahoo!ブログ - 死ぬまで生きよう!」より。


◆画像2:「Yahoo!ブログ - 死ぬまで生きよう!」より。



43年と26日の生涯

トニー・ソレイタ
Tolia "Tony" Solaita       【サモアの怪人】

(1947.01.15〜1990.02.10)
射殺---山羊座

  • アメリカ領サモア出身の元プロ野球選手(一塁手)。愛称「サモアの怪人」。
  • なぜか過去の選手名鑑には、ソロモン諸島出身の記述がある。
  • 1965年にニューヨーク・ヤンキースと契約。1968年9月16日にメジャー初昇格。その後は長いマイナーリーグ生活を経て、1974年にカンザスシティ・ロイヤルズでメジャー再昇格を果たす。その後は、カリフォルニア・エンゼルス、モントリオール・エクスポズ、トロント・ブルージェイズと渡り歩き、特にエクスポズではオールタイム・ロースターにも選ばれている。
  • 1980年に日本ハムファイターズに入団し、来日。来日1年目は打率が.239と低迷するものの45本塁打を放つなど、その他数々の日本記録を残した。
  • 翌1981年には打率.300、44本塁打、108打点という素晴らしい成績を残し、本塁打王と打点王の二冠に輝いた。同期入団のトミー・クルーズと共に日本ハムの19年ぶりとなるリーグ優勝の立役者となったが、MVPはチームメイトの江夏豊に譲る。
  • 1982年には指名打者部門のベストナインを受賞。
  • 1983年まで4年連続30本塁打以上を記録。1983年限りで退団して現役を引退し、故郷のアメリカ領サモアへ帰国した。
  • 1990年2月10日、土地取引のトラブルに巻き込まれ路上で射殺された。43歳だった。
  • タイトル・表彰・記録 :NPB/本塁打王:1回 (1981年)/打点王:1回 (1981年)/最多勝利打点:1回 (1981年)/ベストナイン:1回 (1982年)/オールスターゲーム出場:1回 (1981年)/1試合4本塁打:1回 (1980年4月20日) - 王貞治以来の快挙で、パ・リーグでは初/4打数連続本塁打をシーズン2度記録:1980年4月20日、9月4日〜5日にまたがっての記録(NPB新記録)/1試合5三振:1980年7月4日(NPBタイ記録)
  • 「彼がいた当時の日ハム、特にリーグ優勝した1981年は、まさに黄金時代でした。監督は大沢啓二親分。ソレイタと共に主砲だったトミー・クルーズ。ピッチャーは開幕から15連勝無敗の間柴茂有、リリーフエース江夏豊、前年新人賞の木田勇、高橋一三といったサウスポー陣、それをリードしてきた大宮龍男、敬遠球をホームランにした柏原純一、前年に二盗・三盗・ホームスチールと連続盗塁を成功させた島田誠、と素晴らしい選手が揃っていました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    トニー・ソレイタ- Wikipedia
    (1)投稿者:コミバナさん..2011/ 6/13 08:24:25(月) [9215]

(2011.06.13更新)



▲「王に次ぐ1試合4ホーマー」のトニー・ソレイタ。




43年と26日の生涯

サルバトーレ・リチートラ
Salvatore Licitra      【イタリアの世界的テノール歌手】

(1968.08.10〜2011.09.05)
運転中の事故---獅子座

  • 1968年スイス生まれ。両親はシチリア島出身。1998年に歌手デビュー。2002年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場でパバロッティ氏の代演を務め、国際的評価を得た。
  • リチートラさんは先月27日、滞在先の同島でスクーターを運転中、壁に激突し、頭などを打って重体に陥っていた。
  • 9月5日に南部シチリア島カターニアの病院で脳死判定で死亡が宣告された。43歳。遺族は臓器提供に同意したという。同国メディアやリチートラ氏の公式サイトが伝えた。
  • 日本にもファンが多く、9月のボローニャ歌劇場の日本公演で、ベルディ「エルナーニ」の主役を歌う予定だった。
  • 2007年に死去した三大テノールの一人、パバロッティ氏の後継と目されていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2011.09.10掲載)



▲スイス生まれのイタリアのオペラ歌手・サルバトーレ・リチートラ 。


 



43年1ヶ月と4日の生涯

ジミー・ギャリソン
Jimmy Garrison   【ジャズ・ベース奏者】

(1933.03.03〜1976.04.07)
死因?---?座

  • 1958年にニューヨークで、ベーシストとして活動を始め、ビル・エヴァンス、ケニー・ドーハム、レニー・トリスターノ、オーネット・コールマンらのサイドを務める。
  • 中でも1961年から1967年までのジョン・コルトレーン・カルテットでの活動がよく知られている。
  • 特に大きなアコースティック・ベースをクラシック・ギターのように奏でる驚異のテクニックを持ち、コルトレーン・カルテットのコンサートでは従来のベースでは考えられないほど長く自由なソロ・スペースを与えられた。
  • 代表作:Jazz Contrasts(ケニー・ドーハム,1957)/Swing, Swang, Swingin'(ジャッキー・マクリーン,1959)/Impressions(ジョン・コルトレーン,1961)/Speak Low(ウォルター・ビショップJr,1961)/Ornette On Tenor(オーネット・コールマン,1961)/Ballads(ジョン・コルトレーン,1961)/Illumination!(エルヴィン・ジョーンズ,1963)
    A Love Supreme(ジョン・コルトレーン,1964)/East Broadway Run Down(ソニー・ロリンズ,1966)/Attica Blues(アーチー・シェップ,1972)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジミー・ギャリソン - Wikipedia

(2011.07.04掲載)



▲アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の、ジャズ・ベース奏者ジミー・ギャリソン 。


 



43年1ヶ月と16日の生涯

フェルメール
Joannes Jan Vermeer   【カメラの目を持った男】

(1632.10.31〜1675.12.15)
不明----蠍座

  • オランダの画家。デルフト生れ。生涯についてはほとんど不明。作品は、三十数点が知られるが、その多くは当時オランダで流行した室内画で、入念な構成、黄と青を主調とする調和的な色彩などに卓抜した手腕を示した。
  • 最高傑作『画家のアトリエ』の他、代表作に『手紙を読む婦人』(31歳ころ)、『牛乳を注ぐ女』(28歳ころ)、『デルフト眺望』(29歳ころ)などがある。
  • フェルメール、アウエ・ランゲンデイクで死去。死亡記事に8人の未成年児(25歳以下を意味する)を遺すとある。旧教会に埋葬される。同所はすでにフェルメールの3人の遺児が眠っていた。
  • 43年間で描いた絵は50点前後にすぎないと推測されている。作画期間を20余年とすれば、年に2.3点というスローペースだ。
  • 寡作なフェルメールだったが、夫妻には子供が15人生まれ、11人を育てた。寡作だったのは単なる遅筆のせいかもしれないが、あるいは時間を見つけては日曜画家のように描いていた可能性もある。弟子や助手がいたとは思えないから、絵の具も自分で作っていただろう。手間のかかる制作のかたわら、画家組合の理事や市民隊の隊員になったこともある。彼は結構多忙だったと想像される。
  • 写真を思わせる精密な遠近法や珠のような微妙な光の表現などから、カメラ・オブスクラの利用も推測されている。
  • 「美術家の森村泰昌は、美術史家やコンピュータの専門家の協力を得て、床のタイルの大きさ、天井の高さ、人物の身長を割り出し、実物大の部屋を再現。自らモデルの格好をして、絵とほぼそっくりの写真を撮った。いかにフェルメールが厳密な画家だったが良く伝わってくる」(1)。
  • 「2週間ほど前、ロンドンのオークションでフェルメールの小品に32億の値が付いた。画家の妻が知ればなんと思うだろう。夫の死後、売れ残った絵と11人の子どもを抱えた彼女は自己破産を申請。これは実話だ」(2)。
  • 「フェルメールは金と同じ値段であったという貴重な青=天然のウルトラマリンを作品に使った。直接見えるところだけでなく、鮮やかな洋服の下地や壁にまで、うっすらとウルトラマリンを忍ばせた。なぜフェルメールは貴重な青にこだわったのか」(3)。
  • 「---フェルメールのカメラ・オブスクラは従来考えられていたような箱形の小さな器具ではなく、部屋の片隅にテントの暗室を作り、そこにレンズを設置したものであると推測。そこに映る像は倒立していたが、画家はこれを巧みに写しとったという。この厄介な制作方法からは、フェルメールの画風だけでなく、その極端な寡作ぶりも説明できるだろう。---」(4)。
  • フェルメールの絵は思いの外小さい。だから盗まれやすいのだという。
  • まさに「フェルメリアン」とでも呼びたくなるようなフェルメールのフリークがいる。今日伝わる三十数点の「全点踏破」を目指して、世界の美術案を行脚するそうな

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)新日曜美術館「フェルメール“画家のアトリエ”再現」より抜粋。
    (2)日経新聞2004.07.21「春秋」より抜粋。
    (3)NHKハイビジョン「迷宮美術館」の新聞広告より。
    (4)日経新聞2010.11.28朝刊フィリップ・ステッドマン著「フェルメールのカメラ」より抜粋。

(2010.11.28更新)



▲透徹した光と色彩表現によって、日常的な情景を慈しむように描いた画家・フェルメール。


▲『レースを編む女』
1669-1670年ごろ



▲オランダの画家・フェルメールの「画家のアトリエ」。


◆「フェルメール「画家のアトリエ」 栄光のオランダ・フランドル絵画展:「特筆すべきはフェルメール作「画家のアトリエ」が日本初公開となることです。フェルメールの作品は、現在知られる限り30点余りしかないという希少性はもとより、精巧な筆致と透明感のある色づかいで世界の美術ファンを魅了しています。本作品は、フェルメール生涯の最高傑作として名高く、門外不出の至宝であり、美術館外で公開されることはきわめて希でした。本作品が日本にやってくることそのものが、“歴史的事件”であるとも言えるでしょう」。



43年1ヶ月と26日の生涯

大石 誠之助 
Seinosuke Ooishi     【社会主義者・キリスト者、医師】

(1867.11.29〜 1911.01.24)
死刑---射手座

  • 紀伊新宮仲之町(現和歌山県新宮市)出身。同志社英学校英語普通科中退後、神田共立学校で英語を学び中退。
  • 1891年6月渡米し、ワシントン州ワラワラ市のセントポーロ中学校入学。1893年オレゴン州立大学医科に入学。
  • 1895年4月1日オレゴン州立大学卒業。同年4月から7月までモントリオール大学で外科学を学び、10月帰国。
  • 翌1896年新宮町で医院を開業。 ドクトル(毒取る)と、多くの市民や、とりわけ被部落差別の人々から慕われていた。というのも、貧しいものからは無理に診察代や薬代をとらず、「できるだけ払ってください」という札を診療所にかけてはいたものの、無理なとりたてなどはしなかった人物であったため。また、患者には極めて優しかったという。 さらに病気は待ってはくれないと往診にも精力的に励んだ。
  • 1899年伝染病研究のためシンガポール及びインドのボンベイ大学に留学。1901年帰国。ボンベイ滞在中から社会主義関係の文献を読み始め、帰国後は幸徳秋水や堺利彦らと交流を持ち、自宅には多くの社会主義者やアナキストなどが集った。
  • 1910年幸徳事件(大逆事件)により検挙され、旧知の与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだが、1911年1月18日死刑を宣告され、24日午後午後2時23分死刑執行。43歳没。
  • 近年、故郷の新宮市では、大石誠之助を名誉市民へという運動とともに 無実の罪でその生命を落とした大逆事件の事実を広める運動が起こっている。
  • 長兄大石余平の長男は西村伊作。姪孫(坂倉ユリ、伊作の次女)の夫は坂倉準三。次兄玉置酉久の長男は玉置醒(元新宮市議会議長)。酉久の妻の従甥は山本七平。
    森長英三郎『禄亭 大石誠之助』岩波書店、1977年 ISBN 9784000025584
    Joseph Cronin (ジョセフ・クローニン) 『The Life of Seinosuke:Dr. Oishi and The High Treason Incident―誠之助の生涯:ドクトル大石と大逆事件』 White Tiger Press 2007年、入手:編集グループSUREより可能
    辻原登『許されざる者』上・下、毎日新聞社、2009年、ISBN 978-4-620-10735-6 (上)、978-4-620-10736-3(下)。2007-2009年毎日新聞に連載された小説。主人公の槇隆光が大石誠之助をモデルとしている。
  • 雅号は「禄亭」(ろくてい)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    大石誠之助- Wikipedia

(2011.09.05掲載)



▲幸徳事件(大逆事件)で処刑された12名の1人・大石 誠之助。






43年2ヶ月と2日の生涯

三遊亭小円遊 
Koenyuu Sanyuutei   【キザな風貌、落語は本格派】

(1937.08.03〜1980.10.05)
酒が原因で旅先で没---獅子座

  • 落語家。昭和30年高校を中退して、4代目三遊亭円遊に入門し、三遊亭金遊で前座。昭和33年に二つ目。昭和43年には三遊亭小円遊を襲名し、真打となる。
  • 笑点スタート時からの大喜利メンバーで、「巷では・・・」「ボクちゃん」などキザを売り物にして人気を得た。
    特に大喜利では親友でライバルでもある桂歌丸とは、"ハゲ"の歌丸に対して"化物"の小円遊などといわれ、壮絶な罵り合いは番組の名物でもあった。
  • そのゴツい顔とキザな風貌に似合わず、落語は本格派の芸に精進し、大看板"円遊"の襲名も近いと思われていた。しかし無類の酒豪であり、先輩の噺家衆や歌丸も心配し酒を控えるよう勧めるほどであった。
    結局その酒好きが原因で体をこわし、地方出演の旅先で亡くなった。まだ43歳でこれからというときに惜しまれる逸材であった。
  • 「余談ではあるが、この"小円遊"の名跡は4代数えるが、そのうち3人は旅先で、しかも若くして亡くなっており、何かの因縁であろうか、あまり縁起のよい名前ではない」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    お笑い人名辞典

(2007.06.05更新)



▲キザな風貌に似合わず、落語は本格派だった三遊亭小円遊。






43年2ヶ月と5日の生涯

金 玉均 
Gim Okgyun    【朝鮮の独立改革運動家】

(1851.01.23〜1894.03.28)
暗殺---水瓶座

  • 安東生まれ。字は伯温、号に古愚。
  • 1872年に科挙分科に合格。朴珪寿、呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福沢諭吉の支援を受ける。
  • 留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。日本の明治維新に範を取った朝鮮の近代化を目指す啓蒙的活動家だったが、近代化運動を大衆的レベルで組織することは出来ず、そのため外国の支援に依存せざるを得なかった。
  • 1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。
  • 清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機とみて、12月には日本公使の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。
  • 日本では東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日上海で閔妃の刺客、洪鐘宇に暗殺された。遺体は朝清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。
  • その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で曝された。
  • 遺髪と衣服の一部は金玉均を敬愛していた日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、葬儀を浅草寺で営んだ。さらに、犬養毅らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。
  • 墓碑には朴泳孝の撰文、大院君の孫 李 呵O(イ・ジュンヨン)書で以下が刻まれている。  
    「嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死..(以下略)」( ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死..)※可読性のため、原文に読点を挿入した。
  • 金玉均の妻子については処刑されたとも逃亡したとも噂され行方不明であったが、日本軍が調査の末、忠清道沃川付近で発見し保護した。この資料はアジア歴史資料センターレファレンスコード:B03030202500『金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日』の発第130号 『朴泳孝復爵甲申明治17年罪犯赦免金玉均妻女発見ノ件』でみることができる。
  • 著作には『治路略論』、『甲申日録』がある他書家としての才能も評価されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    金玉均-Wikipedia
    金玉均とは - はてなダイアリー

(2007.09.23掲載)


?肖像を探しています?
▲李朝末期の朝鮮の開化派の指導的政治家で、李朝時代後期の開明派として知られる金 玉均(キムオクキュン) 。





43年2ヶ月と11日の生涯

岸田 森 
Shin Kishida     【日本の誇る吸血鬼俳優】

(1939.10.17〜1982.12.28)
食道ガン---天秤座

  • 俳優、声優。東京市麹町区(現、千代田区麹町)。海城高校卒業。法政大学英文科中退後、昭和35年 文学座付属研究所1期生となる。女優・岸田今日子、童話作家・岸田衿子は彼のいとこにあたる。
  • 1966年文学座を退団し、草野大悟・悠木千帆(現・樹木希林)らと劇団『六月劇場』を結成。知的で冷徹な半面、コミカルな味も出せる個性派俳優として多数の映画・テレビ・舞台などで活躍。
  • 映画・テレビ・舞台などで活躍。代表作は和製ドラキュラを演じた東宝「血を吸う」シリーズ。あるいは実相寺昭雄監督作品「歌磨・夢と知りせば」(昭和52年)。
  • 岡本喜八、実相寺昭雄、神代辰巳監督作品の常連で、松田優作、萩原健一、水谷豊ら岸田を慕った俳優も多かった。
  • 勝新太郎も岸田を気に入り、共演作が多数あり、勝が主催した俳優学校「勝アカデミー」の講師も務めた(教え子に小堺一機、ルー大柴らがいる)。
  • 昭和57年12月28日、食道ガンのため死去、43才の早すぎる死だった・・・・。
  • 数々の円谷プロ作品にも出演し、朱川審の名で脚本も手がけている(帰ってきたウルトラマン第35話のプリズ魔の回など)。実名でファイヤーマン12話において30分の児童対象の番組においては極めて異色な実験的演出等を数多く取り入れた作品の脚本を手がける。岸田は殆ど台詞を話さず、その動作と口の微かな動きだけで感情や意思を観る者に伝えるという点等、演技の分野だけに絞っても、他の追随を許さぬ傑作となった。放映当時は理解を得にくかったが再放送やソフト化による再評価でさらにその価値は光り、多くの役者や製作者を脱帽させる。
  • 「自称、”円谷育ち”で「怪奇大作戦」「帰ってきたウルトラマン」「ファイヤーマン」の円谷プロ作品にレギュラー出演してる他、「帰ってきたウルトラマン第35話・残酷!光怪獣プリズ魔」「ファイヤーマン第12話・地球はロボットの墓場」では脚本も執筆しています。二作とも独特の世界感を持つ名作です!」(1)。
  • 「---岡本喜八監督の映画の常連でもあり、「怪奇大作戦」などの特撮ものでも活躍され、1982年12月に食道がんで亡くなった、希代の名優、岸田森さんをお願いいたく存じます。酒がたたったとも言われていますが、俳優という仕事に殉じた岸田森さんの生涯もまた、貴サイトでぜひ読みたいと思っています。何卒、よろしくお願いいたします」(2)。
  • 「還ってきたウルトラマンでの坂田 健(岸田 森) :元レーサーだったがレース中の事故で負傷し、自動車修理工場を営んでいる。郷を1流レーサーにするのが夢で郷のMAT入隊後もいっしょに流星2号を作成している。郷が慢心または弱気になったときには適切な助言をしている。(特に2話や19話が顕著)37話でアキを救おうとしてナックル星人に殺されてしまう」(3)。
  • 「〈アラン・ドロンかなあ〉の台詞でも知られる水谷豊出演のエスビー食品のスナックチップのCF演出も手がけた岸田森。映画やドラマの現場でも演技や殺陣の指導・アドバイスをする姿も見かけられ、将来は演出や監督の仕事をやりたかったのではと振り返る知人も少なくありません。また、酒に関して「怪奇大作戦」で監督を務めた実相寺明雄によれば、“怪奇”の頃は全く口にしなかったのが、「アルコールの量がいつの頃からか、だんだんと増えてきて」「絶えずブランデーだかウイスキーだかをポケットに持ち歩くように」なったといいます。それにしても、三遊亭小円遊若山牧水水原弘(42才)など、この年代には酒が死期を早めた芸術人が多いことに驚かされました。〈今思えば俺はおまえに甘かった ぶん殴ってでも絶交してでも酒を止めさせればよかったと後悔している ことある度にともに真剣に芝居を演技を語り合ったおまえを失って かなしいというより怒りを覚え俺は悔しい」〉(昭和58年1月12日、千日谷会堂で行われた告別式での若山富三郎の弔辞[代読:吉田日出子]より)参考:小幡貴一 小幡友貴編『不死蝶 岸田森』(ワイズ出版)」(4)。
  • ボクはウルトラQからウルトラマンの世代なので「還ってきたウルトラマン」での岸田 森をリアルタイムでは知らなかった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「岸田森について
    (2)投稿者:suiminshaさん 2006.03.20 (Mon) 03:11[1214]
    (3)「帰ってきたウルトラマン 登場人物
    (4)投稿者:suiminshaさん 2006.03.24(Fri) 01:22[1244]

(2006.03.24更新)



▲数々の円谷プロ作品にも出演し、朱川審の名で脚本も手がけた不死蝶岸田森 。


◆「不死蝶 岸田森」:小幡 貴一 (編集), 小幡 友貴 (編集) 単行本(ソフトカバー) (2000/06) ワイズ出版


◆DVD怪奇大作戦 Vol.1
[出演者] 岸田森/勝呂誉


◆DVD怪奇大作戦 Vol.2
[出演者] 岸田森/勝呂誉


43年2ヶ月と25日の生涯

ウィリアム・K・バルトン 
William Kinnimond Burton   【日本の上下水道の父】

(1856.05.11〜1999.08.05)---2006年生誕150年
病没---牡牛座

  • スコットランドのエディンバラに生まれる。上下水道技術者としてロンドンで活躍。
  • 1887年(明治20年)、31歳のとき、疫病の流行に悩む明治政府の招聘に応えて来日し、帝国大学工科大学衛生工学講座の初代教授として多くの優れた上下水道技術者を育成する一方、内務省衛生局顧問技師として、東京をはじめ全国主要都市の上下水道計画の基礎を作り上げた。その業績は今日の日本の衛生工学、環境工学の原点となっている。
  • また、当時ヨーロッパで写真家として著名であったバルトンは、日本の写真界の振興と技術の向上、海外への日本文化の紹介にも大きく貢献。
  • さらに、日本最初の高層タワー「浅草凌雲閣(浅草十二階)」の設計者としても知られている。バルトンの惜しみない努力は、明治の日本に未来への希望をもたらした。
  • 来日以来12年間、休むことなく日本の近代化に尽くしたバルトンは、ようやく休暇を得て家族とともに故国スコットランドへ帰国する直前、病により1899年8月5日、東京で逝去。享年43歳。
  • 友人や教えを受けた人々は、その死を惜しみ、東京青山霊園に墓碑を建立。バルトンの故国への帰還は、果たされないまま106年の歳月が流れた。
  • 「忌部川の水は左水(さみず)の水源地から千本ダムに流れ込む。千本ダムは松江で伝染病が発生したのをきっかけに、水道を求める声が高まり、1918(大正7)年に完成した。「日本の上下水道の父」といわれるイギリス人技師、ウィリアム・バルトンが調査し、「サミズ泉ヲ以テ最上の水源池ニ指定セリ」と報告した。今は大谷ダムの水とともに忌部浄水場から、市の上水道を引く世帯の3割に水を供給する重要な水がめだ」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    英国大使館:W・K・バルトン生誕150年記念事業
    (1)「asahi.com:「環境を守る心」根付く/松江市忌部地区 - マイタウン島根

(2007.02.17掲載)



▲親日家で写真家でもあった日本の上下水道の父ウィリアム・K・バルトン。

 


◆千本ダム

43年2ヶ月と28日の生涯

永井 隆 
Takashi Nagai     【己の如く人を愛したひと】

(1908.02.03〜1951.05.01=明治41年〜昭和26年)
原爆病---水瓶座

  • 1908年(明治41年)2月3日 島根県松江市にて、医師であった父寛、母ツネの長男(5人兄弟)として誕生する。
    祖父文隆より1字を授かり隆と命名される。幼少青年期を三刀屋町(現・雲南市)ですごす。
  • 1928年(昭和3年)4月 長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学。大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献する。 
  • 1931年(昭和6年) 浦上天主堂近くの森山家に下宿する。なお森山家の一人娘が後に妻となる緑(洗礼名:マリア)であった。森山家はカトリックであったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言われている。
  • 1932年(昭和7年)4月 大学卒業後、助手として放射線医学教室に残り、放射線物理療法の研究に取り組む。
  • 1933年(昭和8年)2月1日 幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、満州事変に出征。
  • 1934年(昭和9年)2月1日 帰還する。大学の研究室助手に復帰。6月 洗礼を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。無料診断・無料奉仕活動などを行ない、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。8月 森山緑と結婚する。緑との間には一男二女(次女は原爆投下前に夭折)をもうけた。
  • 1937年(昭和12年)長崎医科大学講師に就任。日華事変に第5師団衛生隊隊長として出征。
  • 1940年(昭和15年) 長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任。1944年(昭和19年)3月3日 『尿石の微細構造』で医学博士号を授与される。
  • 1945年(昭和20年)6月 長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。この時、白血球数10万8000、赤血球数300万であった。(正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)8月9日 長崎に原子爆弾が投下される。爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆する。右側頭動脈切断という重症を負いながらも布を頭に巻くのみで、救いを求める人々の為に尽力する。8月10日 帰宅。台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見、骨片を拾い埋葬。8月12日 救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。9月10日頃 昏睡状態に陥る。直前、辞世の句として一句。「光りつつ 秋空高く 消えにけり」9月20日 再び昏睡状態に陥る。このため救護班は解散となる。10月15日 「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成。長崎医大に提出する。
  • 1946年(昭和21年)1月28日 長崎医科大学教授に就任。7月 長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏すことになる。11月17日 長崎医学会にて研究発表。題名は「原子病と原子医学」。
  • 1948年(昭和23年)荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈する。これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。3月 浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成する。「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付ける。8月 大学を休職し、療養に専念する。10月18日 来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。
  • 1949年(昭和24年)5月27日 昭和天皇に会う。5月30日 ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿が見舞いに訪れる。8月1日 長崎市長から表彰を受ける。9月30日 長崎医科大学教授を退官する。12月3日 長崎市名誉市民の称号を受ける。
  • 1950年(昭和25年)5月14日 ローマ教皇特使としてフルステンベルグ大司教が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。
    1951年(昭和26年)2月3日 白血球数が39万を超える。4月25日 右肩内出血により執筆不能となる。5月1日 長崎大学付属病院に緊急入院。21時50分、逝去。享年43。5月2日 遺体解剖(医学解剖に献体する)。5月3日 教会葬が執り行われる。5月14日 長崎市公葬。長崎市坂本町にある国際外人墓地に葬られる。
  • 「―こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ……。詞 サトウハチロー、曲 古関裕而のヒットソング〈長崎の鐘〉の歌い出しだ。長崎原爆忌の夏にいつも口ずさむ。62回目の忌を迎えた長崎の昨夜は、この歌がひとしお心にしみた。犠牲者を悼むたいまつ行列の先頭に「被爆マリア像」が、初めて加わっていた。〈長崎の鐘〉は昭和24年のヒット曲。原爆症で亡くなった長崎医大教授・永井隆博士の同名のベストセラーを映画化した際の主題歌で、歌詞には「召されて妻は 天国へ……かたみに残るロザリオの 鎖に白きわが涙」。「ミサの声」「十字架」「貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様」……。各節の結びは「なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る」のリフレインだ。被爆マリア像は爆心から約500メートル、浦上天主堂の祭壇にあった像。がれきの中から焦げた頭部だけが掘り出された」(1)。
  • 「遠からぬ死を予期してだろう。「長崎の鐘」の永井隆博士は病床で、二人の幼子に幾つかの言葉を書き置いている。著書「この子を残して」に、名前の売れることを戒めた一文がある。〈有名になるな! 名前なんてものは、茶の間で、あめ玉がわりに一分間しゃぶられるだけのもの〉だと」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    己の如く人を愛したひと 〜永井 隆〜
    永井隆 (医学博士)-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.08.15夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (2)読売新聞2007.10.16朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.10.17更新)



▲「長崎の鐘」「この子を残して」の著者で、医学博士の永井 隆。







◆永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)


◆昭和九年 妻 森山(永井)緑

43年3ヶ月と7日の生涯

ロレンツオ・デ・メディチ 
Lorenzo de' Medici 【ルネサンスのパトロン・豪華王】

(1449.01.01〜1492.04.08)
死因?---山羊座

  • 中世からルネサンス期のヨーロッパを代表する名家といえば、イタリアの古都フィレンツェを支配したメディチ家。そのメディチ家を代表する人物の一人が、豪華王あるいは大ロレンツォとも称されたロレンツォ・デ・メディチ。ルネサンス文化の最盛期は当主であったコジモ一世やロレンツオの時代にシンクロする。
  • 国父コジモ・デ・メディチ(ロレンツォの祖父)、痛風病みのピエロ(ロレンツォの父)と受け継がれてきたフィレンツェの統治者の地位を引き継いだとき(1469年)、ロレンツォは20歳の青年だった。それから西暦1492年に亡くなるまで、ロレンツォ・デ・メディチは古都フィレンツェを統治。
  • フィレンツェの旧家をはじめとする反メディチ勢力は、メディチ家の支配を覆そうとしていた。
  • 1478年4月26日の日曜日、フィレンツェの中心にある花の聖母マリア大聖堂(ドゥオモ)の中、法王シスト4世の親戚にあたるサンソーニ枢機卿を迎えて行われたミサの最中、パッツィ家の陰謀により、ロレンツォ・デ・メディチの命が狙われた。
  • 結局、豪華王ロレンツォの弟ジュリアーノ・デ・メディチは暗殺されたものの、パッツィ家の陰謀は失敗に終わり、フランチェスコ・デ・パッツィ、ヤコポ・デ・パッツィ、サルヴィアティ大司教らの陰謀加担者たちは処刑され、パッツィ家・サルヴィアティ家の人々は市民権を剥奪された。
  • パッツィ家の陰謀加担者たちの遺体は、フィレンツェ市内のサンタ・クローチェ教会の中庭の奥にあるパッツィ家礼拝堂に葬られた。ところが、怒りの治まらないフィレンツェ市民は、パッツィ家の礼拝堂から陰謀加担者たちの遺体を引きずり出し、さんざんに引き回した上でフィレンツェ市内を流れるアルノ川に投げ捨てた。
  • メディチ家は、コジモ、そして偉大な男の異名を持つといわれるその孫のロレンツオなど、その行政手腕とともに芸術・学問の庇護に熱心で、多くの芸術家が集まり競った。
  • 「メディチ礼拝堂には、「バッツイ家の陰謀」で殺されたジュリアーノとロレンツオ豪華王、他に、ヌムール公ジュリアーノ、ウルビーノ公ロレンツオ、そして、なんとアレッサンドロ・デ・メディチも葬られているらしい。アレッサンドロは、黒人の召使に生ませた子、とかで肌の色が黒かったという」(1)。
  • 「『ロレンツォは、国家を統治し、財産を管理し、協議会で馬上槍試合をし、優れた詩を書き、選りすぐりの芸術家や作家を後援した。また、学者や哲学者、農民や道化師と気さくに交わり、カーニバルで一緒になって行進し、猥褻な歌を歌う一方で優雅な賛美歌をつくり、娼婦と戯れる一方で後に教皇となる子をもうけ、ヨーロッパ中でその時代のもっとも偉大で高貴なイタリヤ人として認められた。この人物ほど、イタリヤ・ルネッサンスの複雑さと多様性、道徳と行動様式をよく表している者はいないだろう』」(2)。
  • 「メディチ家の他のロレンツォと区別する意味もあって、ロレンツォ・イル・マニーフィコ Lorenzo il Magnifico と呼ばれる。イル・マニーフィコは「偉大な」の意味でしばしば君主などに使われた称号であるが、「イル・マニーフィコ」だけでも通るのはロレンツォのみである。よく「ロレンツォ豪華王」とも訳されているが、王ではないので適切でない。」この説はなるほどと思わせるものがります。豪華王と呼ばない方が望ましいように思いますがどうでしょうか」(3)。
  • 今こそは全てと言ひしロレンツオの舞踏会こそメディチ家の華(イタリア組曲より)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「ヨーロッパの歴史風景(中世)」西暦1478年、パッツィ家の陰謀により ...
    (1)「(゚д゚)<メディチ家
    (2)(3)投稿者:ユリウスさん 2005.04.17(Sun) 23:32/18(Mon) 13:03

(2003.07.30掲載)



▲ルネサンス文化の最盛期、国家を統治し、財産を管理し、協議会で馬上槍試合をし、優れた詩を書き、選りすぐりの芸術家や作家を後援したロレンツオ・デ・メディチ。



◆ヴァザーリの描いたロレンツォ・デ・メディチの肖像画。
(フィレンツェのウフィツィ美術館)


43年3ヶ月と21日の生涯

スクリャービン 
Alexander Scriabin  【ロシアの作曲家、ピアニスト】

(1872.01.06〜 1915.04.27)
膿瘍による敗血症 山羊座

  • 作曲者自身はフランス語風に Alexandre Scria`bine (もしくは Scriabine)と綴ることを好んだ。英語では Alexander Scriabin、ドイツ語では Aleksandr Skrjabin となる。
  • モスクワの小貴族(軍人貴族)の家系に生まれる。祖先はタタール系であるとされる。父親は中近東の言語や政情に通暁した外交官として国内外を飛び回って家庭を顧みず、生母はスクリャービンを生んでまもなく産褥熱で急死した。このため叔母リューバの監督下で育つ。ちなみにスクリャービンの亡母はモスクワ音楽院に学び、テオドル・レシェティツキにも師事してアントン・ルビンシテインに祝福されたピアニストであった。第二次世界大戦当時のソビエト連邦外務大臣として著名な政治家のヴャチェスラフ・モロトフは父方の甥に当たる。イギリスのロシア正教会スールジ主教区の府主教アンソニー・ブルームは母方の甥である。
  • 幼児期からピアノを始める。自ら望んで陸軍兵学校に進むが、小柄で虚弱なことと学業が優秀なこと、そして楽才が顕著なことから、特別にモスクワ音楽院への通学が認められ、14歳から院長タネーエフに作曲と音楽理論を、ズヴェーレフにピアノを師事。
  • もともと即興演奏を好む少年だったが、この頃から作曲したものを五線譜に残すことを習慣付けるようになる。1888年から周囲の勧めで、正式にモスクワ音楽院に転学、ピアノ科でサフォーノフに、作曲科でアレンスキーに師事する。同級生にラフマニノフがいた。気難しく扱いにくい性格のあったスクリャービンにアレンスキーは手を焼いた。結局スクリャービンは作曲科を修了することが出来ず、ピアノ科のみで単位を取得した。このころ作曲家としてはラフマニノフが、ピアニストとしてはスクリャービンが有望視されていた。
  • かろうじてオクターブをつかむことができたと言われるほど小さな手の持ち主だったにもかかわらず、学生時代の同級生ヨゼフ・レヴィーンらと、超絶技巧の難曲の制覇数をめぐって熾烈な競争を無理に続け、ついに右手首を故障するに至った。回復するまでの間に、左手を特訓するとともに、ピアニストとしての挫折感から作曲にも力を注ぐようになる。右手以上の運動量を要求され、広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれる独自のピアノ書法をそなえた、作曲家スクリャービンの誕生であった。《左手のための2つの小品》作品9(前奏曲と夜想曲からなる)は、当時を代表する作品の一つである。
  • 1891年頃、ミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となり、リムスキー=コルサコフの知遇を得て、生涯に渡る親交を結ぶ。またベリャーエフ出版社から、定期的に作品の出版が開始される。1897年に衝動的に改宗ユダヤ人女性と結婚するが、これは庇護者ベリャーエフの意向に沿わず、年金がカットされたために、翌1898年から母校モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任。教育者としての評価が下されることは少ないが、学生の間では誠実で忍耐強く、学生の意欲を尊重する教師として評判がよく、ウィーン音楽院のピアノ科からスカウトされたほどだった。
  • 1900年ごろからニーチェ哲学に心酔し、とりわけ超人思想に共鳴する。その後は神智学にも傾倒し、この二つから音楽思想や作曲に影響を受ける。1902年に作曲に専念するとしてモスクワ音楽院を辞職するが、すでに門人タチヤナ・ド・シュリョーツェルと愛人関係を結んでいた。1904年に家庭を捨ててタチヤナとともにスイスに出奔、西欧各地を転々とする。この頃からロマン派の影響を脱し個性的かつ神秘主義的な作風へと向かう。露暦でのクリスマス生まれだったことも、スクリャービンの神秘主義や、救世主きどりに拍車をかけた。1909年から1910年までブリュッセルに住み、デルヴィルらのベルギー象徴主義絵画に興味を寄せつつ、マダム・ブラヴァツキーの著作にいっそう親しんだ。これにより、自らの芸術を神智学思想を表現するためのものとして考えるようになり、後期の神秘和音を特徴とする作品を残す。それとともに前衛的作曲家として国際的に認められるようになった。
  • 1910年帰国。このころに、アコースティック録音とピアノロールに自作の録音を残し、クーセヴィツキーやラフマニノフの指揮で自作の協奏曲や《プロメテ》を演奏。作曲のかたわら国内外で精力的に演奏活動にとり組む。虚弱体質の反動から生涯にわたり健康を気にしすぎる気味があったが、皮肉なことに唇への虫刺されが炎症を起こし、膿瘍による敗血症がもとでモスクワで1915年に急逝した。
  • スクリャービンは、《法悦の詩》において調性音楽から離脱したが、これはドビュッシーが《前奏曲集 第1巻》においてフランス印象主義音楽の音楽語法を完成させ、またシェーンベルクが《弦楽四重奏曲 第2番》においてドイツ表現主義音楽の開拓に突入したのとほぼ同時期のことであった。この点をもってスクリャービンは、現代音楽の先駆者の一人と認められている。
  • 永らくスクリャービンは一過性の存在であり、音楽史上に何ら影響を与えなかったと看做されてきた。初期において濃厚な影響を受けたストラヴィンスキーでさえ、後にスクリャービンを「単なる妄想狂」と切り捨てている。しかしながら現在では、スクリャービンの影響がロシアやソ連の国境を越え、国際的な広がりを持っていることが近年になって明らかにされてきた。スクリャービンの支持者は、フェルッチョ・ブゾーニやアルバン・ベルクがおり、信奉者はカロル・シマノフスキや山田耕筰、チャールズ・グリフス、ルース・クロフォード=シーガーなどがいる。スイス時代のスクリャービンにピアノを学んだカナダ人女性は、シカゴで音楽教師として立ち、結果的にジャズ・ピアニストの育成に貢献したとされる。
  • スクリャービンの音楽美学はロシア・アヴァンギャルドを含む次世代のロシアの作曲家たちに強い影響を与えた。比較的スクリャービンに近い作曲家はニコライ・オブーホフであり、独自の記譜法とクロワ・ソノールと呼ばれる十字架の形をした楽器の開発で知られる。イワン・ヴィシネグラツキーもスクリャービンの模倣から出発したものの、やがて微分音を含む一オクターブ内に十数個の音から成る和音の共鳴に惹かれていき、オブーホフ同様に新しい楽器の開発にたずさわった。しかしながら、調性を超えた音楽の先に神秘的な力を視るというイメージは、明らかにスクリャービンの規範なしにはありえなかったといってよい。ちなみにオブーホフはラヴェルに愛され、ヴィシネグラツキーはメシアンから敬慕の念を受けていた。オブーホフの、長々と宗教的な題名をつける傾向は、メシアンの場合と共通点が認められる。
  • スクリャービンは自身が卓越したピアニストであったことから、自然とピアノ曲を数多く作曲した。「本質的にミニアチュール(小品)作家であった」と言われるように、小品のほとんどは3分程度にも満たない。これはラフマニノフら同世代のロシアの作曲家に比べて分かるように、スクリャービンは優れた旋律家ではあったものの、息の長い旋律を続けざまに書くという発想がなく、古典的な楽節構造を好んでいたこととも関連する。このことは、まったくといっていいほど声楽曲を手がけていないこととも関連していよう。
  • スクリャービンは少年時代からショパンやリストを敬愛したため、ピアノ書法や旋律の発想において、この両者から非常に大きな影響を受けている。しかしながら左手の特訓の結果、右手に匹敵するほど柔軟な運動力を身につけたことから、この両者と異なる独自のポリフォニックな発想も顕著である。ショパンの影響は、練習曲や前奏曲、マズルカといった楽種だけでなく、初期の作風(1900年ごろまで)にも明らかに残っている。一方、リストやワーグナーに影響された中期(1902年から1905年ごろまで)の代表的作品として、練習曲(Op.42、1903年)があり、独自の音楽語法を形成した後期の代表的な作品に、ピアノのための詩曲「焔に向かって」(Op.72、1914年)が挙げられる。
  • ピアノ曲以外で主要な分野は管弦楽曲のみである。室内楽曲は数曲、歌曲は1曲、ほかにオペラのスケッチが残されたに留まる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アレクサンドル・スクリャービン-Wikipedia

(2009.11.25掲載)



▲現代音楽の先駆者の一人と認められているアレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン。
▲1900年頃に撮影されたスクリャービン

 






43年3ヶ月と23日の生涯

ジャンゴ・ラインハルト 
Django Reinhardt 
       【ジャズ・ミュージシャン、ギタリスト】

(1910.01.23〜 1953.05.16)
脳出血---水瓶座

  • 本名ジャン・バティスト・レナール(Jean Baptiste Reinhardt)。ベルギー・リベルシーの出身。
  • ジプシーとして、幼少の頃からヨーロッパ各地を漂流して過ごし、そこでギターやヴァイオリンの演奏を身につけて育った。
  • 1924年、歌手の伴奏でバンジョーを弾く。これが初のレコーディング経験となった。その後ギタリストとして活動。
  • 18歳のときにキャラバンの火事を消そうとして、左指2本の動きを失う大火傷を負ったが、そのハンディを奇跡的に乗り越え、独自の奏法を確立。1934年にはフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成。映画『ギター弾きの恋』の中でも名前がでている。後世のミュージシャンに多大な影響を与える多くの傑作を、その短い生涯の中で幾つも発表した。
  • 1949年、フランス・ホット・クラブ五重奏団の盟友であるステファン・グラッペリ(ヴァイオリン)と共にローマに渡り、現地のミュージシャンと共にクラブで演奏していた模様を収めた『ジャンゴロジー』は、傑作として名高い。
  • 1953年5月16日、ジャンゴは友人の経営する店で突然倒れ、その日の夕方には死去。死因は脳出血とされた。
  • 影響 :ジャズの分野では主に伴奏楽器として使われていたギターを、ソロ楽器として使用した先駆けであり、アメリカでジャズ・ギターの開祖とされることの多いチャーリー・クリスチャンよりもはるかに早い時期から、ギターを主役とした即興演奏を行っていた。ギブソン・レスポールの開発者として知られるレス・ポールは、早くからジャンゴの音楽に強く影響を受け、1930年代中期にはジャンゴに近いスタイルで演奏していたという。
  • また、ロマ音楽とジャズを融合した音楽性から、ジプシー・ジャズの開祖とされる。ジャンゴの音楽性の継承者としては、やはり出自がロマであるフランス人ギタリスト、ビレリ・ラグレーン等が知られる。1992年、ジャンゴにちなんだ音楽賞である「DjangodOr」がフランスで創設された。
  • アメリカのジャズ・ミュージシャンにも、ジャンゴの音楽を愛する者は多く、多くのトリビュート作品が作られた。著名なものとしては、モダン・ジャズ・カルテットの楽曲「ジャンゴ」(1954年初演)、ジョー・パスのアルバム『フォー・ジャンゴ』(1964年)等が挙げられる。ジャズ以外の分野では、オールマン・ブラザーズ・バンドのディッキー・ベッツがジャンゴの奏法にインスパイアされて作曲したインストゥルメンタル「ジェシカ」(オールマン・ブラザーズ・バンドのアルバム『ブラザーズ・アンド・シスターズ』収録)等が知られる。
  • 日本ではゴンチチがジャンゴからの影響を公言しており、2003年にはゴンチチが選曲を担当した日本企画のコンピレーション・アルバム『GONTITI recommneds Django』がリリースされた。
  • 映画『ギター弾きの恋』の主人公エメット・レイは、「自分は世界でもジャンゴ・ラインハルトに次ぐギタリストだ」と信じているという設定になっている。2002年のコンピュータゲーム『Mafia: The City of Lost Heaven』のBGMには、ジャンゴの楽曲が多用されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジャンゴ・ラインハルト-Wikipedia

(2011.05.01掲載)



▲ジプシーの伝統音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィング(マヌーシュ・スウィング)の創始者として知られるジャンゴ・ラインハルト。


▲ジャンゴ・ラインハルト(左)、ステファン・グラッペリ(右)


▲ジャンゴ・ラインハルトの銘板(フランス、セーヌ=エ=マルヌ県)


 




43年4ヶ月ジャストの生涯

小出楢重 
Narashige Koide  【大正〜昭和期の洋画家】

(1887.10.13〜1931.02.13=明治20〜昭和6)
死因?---天秤座

  • 大阪市南区長堀橋筋に生まれる。生家は膏薬「天水香」で知られた薬舗。市岡中学時代は心臓疾患のため進級が遅れたが、早くから画才を顕わし、1907(明治40)年東京美術学校日本画科に入学(西洋画科は不合格)、松岡映丘らに学ぶ。
  • 下村観山の指導を受けるが、のち洋画に転向。1909(明治42)年白馬会洋画研究所に通い、西洋画科に転科。
  • 1914(大正3)年美校同科を卒業し帰郷して作画に励むが、草土社風の暗渋な色調が容れられず、文展で落選を重ねる。この頃、松原三五郎の天彩画塾に通った。
  • 1919(大正8)年、広津和郎の勧めで第6回二科展に出品、失意の時代の一家の団櫟を描いた≪Nの家族≫(大原美術館)で樗牛賞を受賞。
  • 翌第7回展では≪少女於梅像≫が二科会賞を得て会友に推され、画壇にデビューした。1921(大正10)年夏より半年間渡仏、特に画風を変えることなく帰朝する。
  • 1923(大正12)年二科会員、大阪市美術協会創立委員となる。翌年、鍋井克之らと信濃橋洋画研究所を創立して後進を指導、洋画界に貢献。1926(大正15)年芦屋にアトリエを構える。翌年、全関西洋画展を創設し、新人の登竜門とした。1930(昭和5)年より身体の不調を訴え、≪枯木のある風景≫を絶筆として芦屋に没する。
  • 初期の重厚な写実画法から次第に独自な様式化を進め、渡欧後は日本の裸婦像の一典型を確立する。晩年に集中して描かれた裸婦像は、西洋絵画に見られる理想化された裸婦像とは一線を画した、日本人による日本独自の裸婦表現を確立したものとして高く評価される。同時に花、蔬菜、人形などによる静物画を多作し、栖脱な味わいを示した。
  • 手すさびに優れたガラス絵を制作し、また独特の名文で随筆集『楢重雑筆』(1927・昭和2)、『めでたき風景』(1930・昭和5)、『油絵新技法』(同年)などの著書も残した。
  • 芦屋市立美術博物館の庭に、小出楢重のアトリエが復元・保存されている。
  • 「小出楢重は大阪の色を濃くにじませた画家である。明治20年大阪島之内に生まれ、東京美術学校へ入学したものの、卒業した後は大阪の近くに住んで、大阪の土着性や美意識を盛り込んだ彼独自の洋画を描いた。美校を卒業後も午前中は裸婦、午後は静物を描くといった、写実の基礎を築く格闘を続ける。その頃結婚し、彼の新しい気力に満ちた生活の前後に生み出された作品が本作である。この約2年後には≪Nの家族≫(大正8)が樗牛賞を受賞、彼の様式を確立することになるのだが、既に本作にもその萌芽がうかがえる。テーブルを画面に広くとり、その中央に林檎、みかんを載せた果物皿を配し、左に花瓶と花、右に陶器のワイン・グラスや、ほかに檸檬、敷物、色皿をテーブルに配し、後ろには平面的で装飾的な壁紙がそれらの静物を引き立てつつ、強い色で本作を引き締める効果も発揮している。考え抜かれた構図をはじめとして、構成、静物の質感表現にまことに確かな技量を既にみせており、確かなヴァルールなど彼の優れた研鑽ぶりをよくあらわしている。この時期、文展に落とされても落とされても、ひたむきに絵に取り組んでいた作者のことを知れば、本作の何よりも真正面から静物に取り組む真摯さが、見るものに力強さとすかすがしい感じを、そして勇気さえ与えてくれるように感じるのも当然と思われる。(Oy) 」(1)。
  • 小出楢重は客観的・普遍的にみなが同じ答えに辿り着く数学(算術)を嫌い、その教科書を見ると死に神を思いだしたと言っている」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    小出楢重-Wikipedia
    (1)「静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:小出 楢重】
    (2)読売新聞2006.10.02夕刊「佐倉統のサイエンスサラダ」より抜粋。

(2006.10.12掲載)


▲大阪に生まれて、大阪で生涯を終えた画家・小出楢重。

 




◆『Nの家族』は画家自身の家族の肖像。



43年4ヶ月と3日の生涯

田宮二郎 
Jirou Tamiya   【元祖「白い巨塔」のニヒルな俳優】

(1935.08.25〜1978.12.28)
自宅で散弾銃を口にくわえ発砲自殺---乙女座

  • 『白い巨塔』『悪名』のニヒルな俳優。『タイムショック』の司会者。柴田光太郎の父。
  • 港区元麻布の自邸で散弾銃で自殺。ベッドに入り、足の指で引き金を引いたものらしく、弾は心臓部に直径3センチの穴をあけ即死。
  • 彼は死ぬ10カ月前に3億円の生命保険に入っており、生命保険は1年以内に自殺した場合、保険金は支払われないという規約があるが、彼の場合には欝病と認められ、保険金が支払われた。
  • 1月12日、青山齋場で行なわれた葬儀で勝新太郎が弔辞を述べたという。
  • 「日本の役者さんの中で、一番ダンディでカッコよかった。今思えばダーク・ボガード氏やショーン・コネリー氏とタメを貼れる方だったのである。幼心に好きだったなあ。パイロット役が素敵でした」(1)。
  • 「 田宮二郎の最期のメッセージです。〈病で倒れたと思って欲しい。事実、病なのかもしれない。そう思って、諦めてほしい〉(出典は赤瀬川原平監修「辞世のことば」)」(2)。
  • 近年、唐沢寿明が リメイクしている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 投稿者:Miwaさん..2009/ 8/21 22:53:10(金) [5815]
    (2)投稿者:ユリウスさん..2009/10/24 10:31:46(土) [6489]

(2009.10.24更新)



▲元祖「白い巨塔」のニヒルな俳優田宮二郎。 (イラスト 大城さん)



43年4ヶ月と9日の生涯

ナタリー・ウッド 
Natalie Wood    【恋多き女優】

(1938.07.20〜1981.11.29)
撮影中のボートの転覆事故---蟹座

  • 本名Natalia Nikolaevna Zakharrenko。両親はロシアからの移民。米カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。子役として「三十四丁目の奇蹟」で人気スターとなる。
  • 1955年 「理由なき反抗」でアカデミー助演女優賞にノミネートされた。子役から大人の女優への転身を上手く果たしたが、70年代に低迷する。
  • 1957年に俳優のロバート・ワグナーと結婚。破局後、ウォーレン・ベイティと婚約していたが結婚はしなかった。
  • 1961年「草原の輝き」1963年「マンハッタン物語」でアカデミー主演女優賞。1969年にプロデューサーのリチャード・グレグソンと結婚し、娘ナターシャをもうけた。ナターシャは後に女優になった。リチャード・グレグソンとの破局後、再びロバート・ワグナーと結婚している。
  • ウッドは恋多き女優としても有名で、エルビス・プレスリー、デニス・ホッパー、レイモンド・バー、クリストファー・ウォーケンらと派手に浮名を流した。
  • 1981年、映画「ブレインストーム」撮影中のボートの転覆事故により不遇な死を遂げる。
  • 「たまさん、ナタリー・ウッドなら、小生は「ウエストサイド物語」のマリア役が第一に思い浮かびます。この映画広告はいかがでしょう?(右欄)」(1)。
  • ---「ウエストサイド物語」のマリア役のナタリー・ウッド、ありがとうございます。ジェット団とシャーク団が織りなす現代版ロメオとジュリエットでしたね。
  • アメリカでのナタリー・ウッドとは森さん、林さん、木村さんて感じなのだろうか?
  • 最近(2011年11月)ナタリー・ウッドの死因に疑問の声が上がっているという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ナタリー・ウッド
    ナタリーウッド-Wikipedia
    (1)投稿者:ユリウスさん 2006/10/ 6 12:34:58(金) [342]

(2011.11.19更新)



▲アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身の女優ナタリー・ウッド。

◆「ウエストサイド物語」





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