玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

40-41-42-43-44-45-46-47-48-49

age 44


50音インデックス



■44歳の
 シンクロニシティ


■44歳-?←戻る
ルクレティウス
ピーテル・ブリューゲル
大石内蔵助
市川團十郎-初代
朝日文左衛門
黒柳 召波
T・S・ラッフルズ
陸奥 亮子
ジルベール・クラヴェル
五十嵐一
井田真木子
山口真理子

■44歳-前半
スティーブンソン
サンテグジュペリ
ワイルド
野沢 尚
大塩平八郎
テーオドール・ヘルツル
リトビネンコ
スピノザ
フィッツジェラルド
アッシジのフランチェスコ
森安秀光
ビリー・ホリデイ
トハチェフスキー
井伊直弼
小池重明
エルネスト・ショーソン
堀内ひとみ
チェーホフ
谷風 梶之助(二代目)
D・H・ロレンス
田中 実 (俳優)

■44歳-後半-1→進む
スティーブ・アーウィン
ポロック
ミンコフスキー
ハインリヒ・ヒムラー
たこ八郎

■44歳-後半-2→進む
H・D・ソロー
如月小春
野村万之丞(5代目)
松原 みき
戸坂 潤
ジャン=D・ボービー
マルティン・ボルマン
ラスプーチン
若杉鳥子
マーヴィン・ゲイ


■44歳のエポック


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44歳の語録

最後の言葉は「お先に」
(大石内蔵助)

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
(『星の王子様』)

人間を「住まう者」と呼んだサン・テグジュペリ。

「ぼくは5年以上も自分の労働だけで生活してきて、1年に6週間ほど労働すればすべての生活費がまかなえることがわかったのだった。夏のほとんどと冬はすべての時間を勉強にあてた」
(ソロー)

「黙って生きている人が一番偉い」
(チェーホフ)



                         
44年と20日の生涯

スティーブンソン
Stevenson
 【『宝島』の生みの親】

(1850.11.13〜1894.12.03)
サモアで病死---蠍座

  • 少年冒険物の不朽の名作『宝島』『ジキル博士とハイド氏』などで知られる英国の作家。エジンバラに生まれる。
  • 基本的にはあまり腕白な子ではなく、おとなしく本でも読んでる方が好きな子であった。父は灯台の技術者、母は弁護士の家の出身。
  • 17歳でエジンバラ大学に入り、父と同じ技術者の道を進もうとしたが途中でコースを変更し法律の勉強を始め、25歳で弁護士の資格を取る。ところが、彼は弁護士にはならず、文学の道を志した。
  • 33歳で一家を連れて太平洋の島々を巡る長い旅に出るが、やがてサモアのアピアに定住する決心をし、ここに家を建る。結局彼はここで病死。
  • 旅を愛し、紀行文『旅はロバを連れて』(29歳)などを書く。小説に『宝島』(33歳)、『ジキル博士とハイド氏』(36歳)、「誘拐されて』(36歳)など。
  • 短編集『新アラビアン・ナイト』(32歳)詩集『童謡の花園』(35歳)、また吉田松陰をも扱った評論『人と書物について』(32歳)も知られる。
  • 吉田松陰が下田沖に停泊していたペリー艦隊に身を投じ、米国に密航しようとしたのは、1854年のことだ。国禁を犯したとして幽閉されるが、高杉晋作や伊藤博文ら、時代を動かした若者を松下村塾で教えたのは、この幽閉中のことだった。松陰伝を最初に著したのは日本人ではなく、「宝島」などの作品で著名なイギリスの文豪スティーブンスンだったことは、あまり知られていない。この事実に着目した特別展が来月4日まで、松陰の生誕地、山口県萩市の萩博物館で開かれている。スティーブンスンの伝記は維新から11年後の1879年に書かれた。会場に足を運んだわけではないが、松陰伝が収録された彼の評伝集「人物と書物に親しむ」の1894年刊行版も展示されている。渡英していた松下村塾出身の正木退蔵と晩餐(ばんさん)会で知り合い、話題に上った松陰の人生に創作欲をかき立てられたようだ。友人への手紙で「人の生命を生き生きとさせてくれる日本の英雄の話」だと説明しているという。正木は後に、東京工業大学の前身の東京職工学校初代校長となるが、原稿の添削もしたそうで、誕生から29歳で刑死するまで、大筋に誤りはない。松陰が密航に成功していたら、後世にこれほど名を残したかどうか。スティーブンスンが松陰伝を書くこともなかったに違いない」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.08.28朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2012.11.17更新)



▲少年冒険物の不朽の名作『宝島』『ジキル博士とハイド氏』などで知られる英国の作家スティーブンソン。


▲スティーブンソン『宝島』(初版)

44年1ヶ月と2日の生涯

サン・テグジュペリ
A- de Saint-Exupery
 【『星の王子様』の詩人】

(1900.06.29〜1944.07.31)
撃墜?偵察機で行方不明---蟹座

  • フランスの作家。リヨンの地方貴族の家に生まれる。
  • 海軍の学校は不合格、美術学校に通うが才能を認めてもらえず、20歳で兵役につき操縦士の資格をとり、22歳で除隊。タイル会社の事務員、トラックのセールスマンを経て航空郵便の飛行士となる。
  • 彼は民間パイロット時代にも冒険飛行に挑戦して失敗したり、軍で活動していた時も着陸失敗したりしていて、どうもパイロットとしての腕には疑問があったらしい。「飛行機を操縦すべき人ではなかったのかも」という評もある。
  • 『南方郵便機』(29歳)に続いて、夜間飛行の危険を通して人間の行動の高貴さを追求する『夜間飛行』(31歳)で作家 として成功。しかし、正直で世渡り下手で、金銭感覚がなく借金ばかりが増え、筆は遅かったといわれる。
  • 第二次大戦でパリがドイツに占領された後、アメリカに脱出し『星の王子さま』(43歳)を書く。今でも毎年百万部が売れているベストセラーだ。
  • しかし、亡命フランス人同士の派閥争いや中傷に疲れた彼は、志願して民間人資格のまま、偵察大隊に復帰、再び戦場にむかう。そして1944年(この年パリは解放されている)従軍中に敵地撮影のため、地中海・コルシカ島から一人乗り偵察機で飛び立ったまま行方不明。
  • 最後はなぞのままである。ドイツの撃墜記録にもなく、半世紀の間に何度も行われた捜索でも発見されなかった。
  • 1998年に飛行機の残骸と腕輪が発見が報告されたが不自然な点が多く依然「最後の謎」をめぐる騒動は続いている。
  • 乗っていたF5Bが地中海上空でドイツ軍のFW190Dに遭遇。約10分間の空中戦の末撃墜され、帰らぬ人となったともいわれている。
  • 代表作は『星の王子様』と『夜間飛行』。後者はゲランの香水としても名を残している。ほかに『人間の土地』、『戦う操縦士』、未完の大作『城砦』など。
  • 「---本書は童話の形式を持ってしか表現し得ない「超文学」の地位を確立しているのです」(船崎克彦)。
  • 「サン・テグジュペリははじめ郵便飛行士、晩年は偵察機のパイロットとして空を飛んだ。第二次世界大戦中、コルシカ島から出動後消息を絶った。地中海から揚がった機体がこのほど搭乗機と判明、60ぶりに終焉の地が確定した。祖国フランスの解放を夢見る作家が乗ったロッキードP38の操縦制限年齢は30歳、それを10歳も越えての搭乗だった。ただ飛行士でありながら、技術や進歩には懐疑的だったという。作家なのにことばを信じない節もあり、性格は矛盾に満ちていたようだ」(1)
  • ソクラテスの妻や、漱石夫人の鏡子にも負けず、サン=デグジュペリの夫人コンスエロ・スンシン・デ・サンドバルサンも、けっこう「悪妻」呼ばわれさてきた。贅沢好き、パティー好きで、夫婦の家計は常に火の車。結婚後数年で事実上別居し、大戦中疎開した先では年下の青年と親密に。自分勝手なその性格が、『星の王子様』野バラのモデルになった、云々。だが夫婦の問題は単純ではない。未亡人になったコンスエロを親しく知る著者の書いた本書からは、華やかな交遊と無謀な冒険に明け暮れる夫にほとほと参りながらも、愛情を捧げ続けた、可憐な女性像が浮かび上がる。離ればなれでいても、やっぱり互いに思いあっていたことを示す手紙や電報の数々が切ない。---画家としてのコンスエロの作品も興味深い」(2)。
  • 「〈ほめたたえるって、どういう意味?〉と聞く王子さまに、小惑星の見栄張り男は言う。「おれがこの星でいちばん美しく、いちばん身なりが良く、いちばん金持ちで、いちばん利口だと認めることさ」「でもこの星には君一人しかいないよ」。サンテグジュペリの「星の王子さま」はまず小惑星をめぐる。権威をつくろう王さまの星、見栄張りの星、酒を飲む恥ずかしさから酒をあおる飲み助の星、空の星の所有台帳作りにはげむ事業家の星---次が点灯夫の星だ」(3)。
  • 人間を「住まう者」と呼んだサン・テグジュペリ。王子様の伝説は、神話にまでなりつつある。
  • 2005年日本で初めて紹介されてから50年、池澤夏樹新訳の「星の王子様」(集英社)が文庫で登場。リズム感があり、みずみずしい訳だという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)日経新聞2004.04.09朝刊
    (2)読売新聞2006.08.06朝刊 アラン・ヴィルコンドレ著『サン=デグジュペリ 伝説の愛』の野崎歓の書評より抜粋。
    (3)毎日新聞2010.06.22朝刊「余禄」より抜粋。

   
(2010.06.24更新)




▲第二次世界大戦中、コルシカ島から出動後消息を絶ったサン・テグジュペリ。
(イラスト 玉野安実嬢)







◆CR製/33のロッキードF-5Bの写真。


◆集英社 単行本(池澤夏樹訳 \1200)
・集英社 文庫(池澤夏樹訳 \381)


◆訳者・池澤夏樹氏


サン・テグジュペリ語録

◆「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
(『星の王子様』)


◆「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」
(『星の王子さま』)

 

 

44年1ヶ月と15日の生涯

オスカー・ワイルド
 Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde
 【世紀末の美学】

(1856.10.15〜1900.11.30)
梅毒による大脳髄膜炎により病死---天秤座

  • アイルランド生まれの英国の小説家、劇作家、詩人。ダブリンで医師の子として生れる。オックスフォード大学卒業後、芸術至上主義を実践しロンドンの社交界の寵児となったが、男色事件に関係して投獄され、出獄後フランスに渡った。
  • 大胆な自画像ともいえる小説『ドリアン・グレーの肖像』(35歳)、機知と警句に富んだ風俗喜劇『ウィンダミア夫人の扇』(37歳)、『真面目が肝心』(39歳)。
  • フランス語で書かれた悲劇『サロメ』(37歳)などのほか、獄中記『深淵より』(49歳)、詩『レディング監獄の歌』(42歳)、また童話集『幸福な王子』(32歳)や評論『嘘の衰退』などもある。
  • 世紀末の美学、モダニズム的傾向、同性愛的観点など、20世紀の文化に大きな影響を与えた。晩年は不遇だった。
  • 「どの作家にも、この一作を書き終えたら死んでも云い、と思う作品があるはずである。もし私がオスカー・ワイルドなら『幸福の王子』はその作品だ(曽根綾子、入魂の新訳『幸福の王子』(パジリコ株式会社)のあとがきより)」(1)。
  • 「作家のオスカー・ワイルドは語っている。〈ネクタイを上手に結ぶことは人生の重要な第一歩である〉と。現在のフォアインハンドと呼ばれる形のネクタイは、おしゃれな彼が流行の起源とも伝えられる」(2)。
  • 「オスカー・ワイルドの言葉 :「オスカー・ワイルドの言葉をお供えします。It is personalities, not principles, that move the age.(時代を動かすのは主義主張ではない、人格である。)」(3)。
  • 戯曲『サロメ』で名声を不動のもにした人生の絶頂期に、同性愛の罪で2年間投獄され財産を喪失。妻子はワイルドのもとを去ったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    寿命データ人物辞典
    (1)読売新聞2006.12.05朝刊の新聞広告より抜粋。
    (2)読売新聞2009.05.18朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん..2011/ 1/28 18:38:49(金) [8688]


(2011.01.29更新)



▲世紀末の美学、モダニズム的傾向、同性愛的観点など、20世紀の文化に大きな影響を与えた詩人・オスカー・ワイルド。


 

ワイルド語録

◆「人間のことをあの人は善い人だとか、この人は悪い人だとか、そんなふうに区別するなんてまったく馬鹿げた話ですよ。人間は魅力があるか、さもなければ退屈か、そのどちらかですからね」

44年1ヶ月と21日の生涯

野沢 尚
Hisashi Nozawa
 【乱歩賞も受賞した人気脚本家】

(1960.05.07〜2004.06.28 PM2:30頃)
首つり自殺 ---牡牛座

  • 脚本家、作家。愛知県名古屋市出身。日大芸術学部映画学科卒。 1983年にシナリオ作家の卵らに贈られる城戸賞に入選。翌年、斯界の大ベテラン新藤兼人氏と共同執筆した「殺して、あなた…」でシナリオ作家としてデビュー。人気テレビドラマ「親愛なる者へ」「この愛に生きて」「青い鳥」などの脚本を担当。
  • 1999年に「眠れる森」で向田邦子賞を、2002年には「反乱のボヤージュ」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
  • 映画脚本としては「Vマドンナ大戦争」「マリリンに逢いたい」「その男、凶暴につき」「さらば愛しのやくざ」「課長島耕作」「ラストソング」などがある。
  • 小説の執筆にも取り組み、1997年には「破線のマリス」で江戸川乱歩賞を受賞。「深紅」など意欲的に発表を続けるマルチぶりを発揮していた。
  • 2006年からNHKで放送予定のスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」の脚本も任されていたが、野沢さんの取材に時間がかかり、2007年以降に放送が延期されていた。
  • 「28日午後2時半ごろ、作家野沢尚さん(44)が、東京都目黒区八雲にある野沢さんの事務所で、首をつって死亡しているのが見つかった。警視庁碑文谷署は、自殺とみて調べている」(1)。
  • 「精密なミステリーからホームドラマまで幅広く書ける脚本家で、小説や戯曲も書くことができる希有な人だった。---才能が枯渇したとは思えないので、自殺は不可解で信じられない」(2)。
  • 「執筆前に必ず、登場人物の詳細な「履歴書」を作った。出身地や家族構成、子供のころの思い出、恋愛遍歴---。実際に使われるのは一部だが、ユニークな人物造形法が作品の骨格とリアリティを支えていた」(3)。
  • 「時代をとらえるジャーナリスティックな嗅覚は確かで、構成力も見事だった。脚本では描ききれないところを小説で埋め、小説家としても優れていた」(4)。
  • 電車の中刷り広告にこんなのがあった。「野沢尚なぜ死んだ 女35、男45歳「心の危機」。仕事も家庭も「先が見えた」/元キャリア女性たちに襲う喪失感と空虚感。“ミッドライフ・クライシスをこう乗り切る”」。同じ世代、身にしみます。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「nikkansports.com > 芸能TOP > 芸能ニュース
    (2)読売新聞2004.06.29朝刊 脚本家・市川森一。
    (3)読売新聞2004.07.01夕刊 「野沢尚さんを悼む」より抜粋。
    (4)「砦なき者」をテレビ朝日で今春演出した鶴橋さん。

(2004.08.04更新)



▲乱歩賞も受賞した人気脚本家・野沢 尚。

44年1ヶ月と27日の生涯

大塩平八郎
Heihacthirou Ousio
 【大塩平八郎の乱の首謀者】

(1793.03.04〜1837.05.01=寛政5年1月22日〜天保8年3月27日)
約40日の潜伏ののち、火を放って自刃---魚座

  • 江戸後期の儒学者、陽明学者。大坂町奉行与力。諱は正高、号は中斎。父のあとを継ぎ、26歳で大阪町奉行配下の与力を務める。在職中には数々の功績をあげ、世に廉直の評が高かった。
  • 37歳のとき役人をやめて家塾洗心洞を開いて陽明学(実践を重んじる儒学の一派)を教える。
  • 1836年(43歳)天保の飢饉がおこると、大阪城内の非常用の米を分けて人々をすくよう申し入れたが、許されず、自分の蔵書を売りはらって、その金で人々を助ける。そのころは、幕府や大名の財政がいきづまり、さらに、飢饉や洪水が続き、物価は上がり、生きるのにたいへんな時代。
  • 大阪でも米の値段が上がり、米が買えず、餓死する人がたくさんいた。しかし、大阪城の倉には有り余るほどの米があったので、平八郎は町奉行に、倉を開いて、貧しい人に米をやるように申し込んだ。しかし、奉行はそれを断った。平八郎は大いにおこって、不正な役人や大商人たちを、こらしめようと思った。そのためには、口で言っただけではだめなので、実力で幕府を倒そうと考えた。
  • 1837年(44歳)、同志とともに窮民救済のため門下の者、近在農村の富農とともに大阪決起。町に火を放ち、船場を襲い鴻池家などの豪商の蔵を打ち毀し、金や米穀を窮民に与えた。
  • 大坂城代、近隣諸藩の武力によって1日で鎮圧され、約40日の潜伏ののち大塩は火を放って自殺。(大塩平八郎の乱)。大塩が声望のある元与力であったところから、この事件の影響は大きく、「大塩一党」と自称する百姓一揆が続いた。
  • 「飢饉に苦しむ窮民の救済策を建言して果たせず、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者の大塩平八郎が兵を挙げたのは1837年(天保8年)のことである。一党は町に火を放ち、豪商の蔵を襲った。「大丸は義商なり。犯すなかれ」。大塩の言葉で焼き打ちをまぬかれたと、大丸の社史にある」(1)。
  • 偉い人やねえ---。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2007.02.20朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.02.21更新)


▲江戸後期の儒学者、陽明学者・大塩平八郎。

44年2ヶ月と1日の生涯

テーオドール・ヘルツル
Theodor Herzl
 【シオニズム運動を起こした一人】

(1860・05・02〜1904・07・03)  
死因? 牡牛座

  • 1968年発行の旧100イスラエル・リラ紙幣から1978年発行の旧10シェケル紙幣まで肖像が使用されていた。
  • ヘルツルは、1860年ハンガリー(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)のブダペストで生まれた。18歳の時にウィーンに移り、法律・ジャーナリズム・文学を学んだユダヤ人作家である。
  • 当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてフランスのドレフュス事件(1894年)の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘスの影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。
    1893年、キリスト教社会党(英語版)党首で反ユダヤ主義を主張していたカール・ルエーガーがウィーン市長に選ばれたことも彼に衝撃を与えた。ルエーガーがウィーン市長選に勝った月にヘルツルは、「ユダヤ人の間には一種の絶望感が漂っている」と日記に書いた。
  • 同じ頃の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害(ポグロム)、また、当時のオーストリアにおけるルエーガーやゲオルク・フォン・シェーネラー(英語版)による反ユダヤ主義的大衆運動に接することによって、彼の態度が鮮明になったといわれる。
  • 『ユダヤ人国家(英語版)』:1896年、シオニズム運動のさきがけをなす著作『ユダヤ人国家(英語版)』を出版した。ここでは、ユダヤ人国家像と国家建設のプログラムを詳細に記されている。
  • 翌1897年、スイスのバーゼルにおいて最初のシオニスト会議をひらいた。第1回シオニスト会議では、各国のユダヤ評議会によって選出された代表200人が参加したが、ヘルツルの威厳のある立居振舞いは「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれるほどであったという。
  • また、かれは小説『古く新しい国』(1902年)の冒頭に「もしあなたが望むなら、それはお伽噺ではない」と書いて、ユダヤ人国家の建設を訴えている。
  • 1904年に44歳の若さで亡くなったが、その遺志は多くのユダヤ人に受けつがれることとなった。
  • シオニズムの名の由来 :シオニズム運動の名前の由来はこの聖書の言葉からきている。主はこう仰せられる。「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    テーオドール・ヘルツル- Wikipedia

(2013/04/14掲載)


▲失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした一人テオドール・ヘルツル 。

44年2ヶ月と24日の生涯

リトビネンコ
Alexander Litvinenko
 【暗殺リトビネンコ事件】

(1962.08.30〜2006.11.23)  
タリウム中毒/毒殺?---乙女座

  • 1962年にロシアのヴォロネジに生まれた。1980年、中学校卒業後、軍に召集。
  • 1988年からKGBの防諜部門に勤務。1991年からロシア保安省(MB)、ロシア連邦防諜庁(FSK)、FSBの中央機構で勤務。専門は、テロ対策と組織犯罪対策。1997年、FSB組織犯罪組織工作・活動阻止局の先任作戦職員、第7課副課長。
  • 1998年11月、局の同僚7人と共に記者会見を開き、1997年11月に局長エフゲニー・ホホリコフ少将とアレクサンドル・カムイシュニコフ大佐がボリス・ベレゾフスキーとミハイル・トレパシュキンの暗殺を口頭で指示し、彼らは、命令を拒否したと発表した。また彼は、FSBの一部幹部職員が政治的脅迫や契約殺人(つまり殺し屋)などの犯罪活動にFSBを利用していると告発した。それ以来、彼は脅迫を受けるようになった。ウラジーミル・プーチンは当時、FSB長官を務めていた。
  • 1999年3月、権限踰越の容疑で逮捕され、レフォルトヴォ拘置所に収監。同年11月、無罪となったが、無罪判決の言い渡し直後にFSB職員により別件逮捕され、ブトゥイルスカヤ刑務所に収監。
  • 2000年、犯罪構成要件の不在により裁判は停止されたが、3度目の刑事告発が行われた。今度は、出国しないという条件の下で釈放された。
  • 2000年11月1日に彼は、政治的弾圧を非難して、ロシアからトルコ経由でイギリスに亡命した。このため、4度目の刑事告発が行われ、2002年、欠席裁判において禁固3年半(執行猶予1年)の判決が下された。2006年10月にイギリスの市民権を得た彼は、ロシアのプーチン政権と、チェチェンに対するロシア政府の対応を徹底的に批判する。
  • 2002年に Yuri Felshinsky,Geoffrey Andrewsと『Blowing Up Russia:Terror From Within』を共著。そのなかで彼は、「1999年にモスクワなどロシア国内3都市で発生し、300人近い死者を出したロシア高層アパート連続爆破事件は、チェチェン独立派武装勢力のテロとされたが、 実は第2次チェチェン侵攻の口実を得ようとしていたプーチンを権力の座に押し上げるためFSBが仕組んだ偽装テロだった」と証言した。
  • 同年の「ルビヤンカの犯罪集団」(2002年)ではプーチンがFSB時代、自ら組織犯罪に手を染めていたと暴露。
  • 2003年には豪テレビ局の取材に対し、モスクワ劇場占拠事件の疑問点を指摘し、犯行グループの内2人はFSBの工作員だった可能性を指摘した。
  • 彼は、FSBでの活動に多くの経験をもつ一人であるため、プーチン大統領に対する彼の批判をよく思わない敵がいるモスクワからの手配者リストに載っているとされていた。加えて、ロシア内務省の特殊部隊「ヴィチャージ」の射撃訓練で、彼の顔写真を標的に使っていたことが、英国の報道等で発覚している。
  • 2006年11月1日に、彼は、プーチン政権に対し、批判的な報道姿勢で知られたジャーナリスト:アンナ・ポリトコフスカヤの射殺事件の真相を究明する為、イタリア人教授:『マリオ・スカラメッラ』(事件後、『武器密輸』、『国家機密漏洩』の罪状で、イタリアはナポリの空港で逮捕された。)と名乗る人物と、ロンドンのピカデリーサーカス周辺の寿司レストランで会食後、体調が悪化、病院に収容された。 11月19日、イギリスのマスコミは、タリウム中毒が疑われ、プーチン政権による毒殺未遂の可能性が濃いと報道、翌日リトビネンコは集中治療室に移された。ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の対テロ捜査部門は、毒殺が企てられたものとして捜査を開始。11月22日病院側は,毒物はタリウム以外の放射性物質であると発表した。
  • ロシア大統領府のペシコフ副報道官は、「リトビネンコ氏の毒殺未遂事件にロシア政府が関与するなどあり得ない。全くばかげたことだ」 と反駁した。
  • 彼は、集中治療室に収容されていたが、11月23日に死亡。享年44。
  • 11月24日のBBC放送は、彼の体内から、ウランの100億倍の比放射能を有する放射性物質のポロニウム210が大量に検出されたと報じた。ポロニウム210が体内に取り込まれた場合、アルファー線を被曝することになる。大量のポロニウム210を人工的に作るには、原子力施設など大がかりな設備が必要とされる。英外務省は同日、フェドトフ駐英ロシア大使を通じ、事件関連情報の提供をロシア政府に要求した。
  • 21日に作成されたリトビネンコの遺書は、25日に公表された。その遺書のなかで、プーチン大統領を名指し、「冷酷者プーチンよ、あなたは一人の人間を黙らせることに成功したかもしれない。だがプーチンよ、あなたの耳には終生、世界中の人々の抗議の声が響き続けよう」と警告。更に、「あなたは、自らの野蛮で冷酷な一面を示したのだ」と指摘して、プーチン大統領を激しく糾弾した。
  • 2007年1月に、リトビネンコの中毒死事件を題材にした映画をジョニー・デップがプロデュースし、制作すると報じられた。 2007年5月に、カンヌ国際映画祭にアンドレイ・ネクラーソフ監督のドキュメンタリー映画『暗殺・リトビネンコ事件』が出品された。
  • 映画「暗殺リトビネンコ事件」が2007年12月22日(土)よりユーロスペースにてロードショーされる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アレクサンドル・リトビネンコ-Wikipedia

(2007.12.23掲載)



▲元ロシア市民で、ソ連国家保安委員会(KGB)、ロシア連邦保安庁(FSB)の元職員だったアレクサンドル・ヴァルテラヴィチ・リトビネンコ 。

44年2ヶ月と27日の生涯

スピノザ
Baruch de Spinoza
 【『エチカ』の生みの親】

(1632.11.24〜1677.02.20)  
孤高貧困のうちに肺結核で没---射手座

  • オランダの哲学者、神学者。ポルトガル系ユダヤ商人の子で、初めユダヤ教の教育を受けたが、デカルトらの思想に触れて正統教義に批判的となり、24歳、ユダヤ教会から破門された。
  • レンズ磨きで生計を立てつつ、「単独者」として質素・高潔な生涯を貫いた。
  • 世界の根元を唯一の実体たる「神即自然」とし、物心はその二つの「属性」、物心両界の事象は実体の「様態」と規定した。
  • 事物を神との必然的連関のもとに直観するところに最高の認識と「神への知的愛」とが成立し、人間の最高善があると説いた。国家と法をめぐる思索も重要。
  • 死後長く無神論者、唯物論者とみなされ、その著書は禁書となった。
  • 18世紀後半から19世紀にかけて再評価され、ドイツ観念論の成立にも深い影響を及ぼしたほか、構造主義以後の現代思想に絶大な示唆を与え続けている。
  • 著書『知性改善論』『神学政治論』『エチカ』など。
  • 「生涯独身を通したスピノザはたしかに孤独を愛した。晩年のハーグ時代を屋根裏部屋で過ごした。しかし、思索する時間をだれにも邪魔されたくないために屋根裏部屋に閉じこもったと考えるべきなのであろう」(1)。
  • 幾何学的演繹法で汎神論を分析・解明した17世紀の指標。
  • 21世紀は「エシックス」こそ最重要問題になる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)『哲学・思想がわかる』渋谷大輔他共著 日本文芸社より抜粋。

(2007.01.10更新)


▲『エチカ』で知られるオランダの哲学者、神学者・スピノザ。

 

44年2ヶ月と27日の生涯

フィッツジェラルド
Francis Scott Key Fitzgerald 
 【『グレート・ギャツビー』の生みの親】

(1896.09.24〜 1940.12.21)
心臓麻痺---天秤座

  • アメリカ合衆国の小説家。一般にはF・スコット・フィッツジェラルドと称される。アメリカ合衆国北西部ミネソタ州のセントポールに生まれた。カトリックを信仰する両親は共にアイルランド系の家系であり、母はセントポールにおける著名な実業家の娘であった。
  • 父はフィッツジェラルドの生まれる以前に事業に失敗し破産していたが、一家は母の実家からの援助もあり裕福と言えないまでも過不足のない生活を送っていた。アメリカ国歌の作詞をおこなったフランシス・スコット・キーは父方の遠縁にあたる。
  • 1898年から1901年および1903年から1908年までをニューヨーク州バッファローで過ごした。父がプロクター&ギャンブル社に解雇されると一家はミネソタ州へと戻り、フィッツジェラルドは地元の学校セントポール・アカデミーに入学。
  • その後ニュージャージー州のプレップ・スクールニューマン・スクールへと入学し1913年プリンストン大学へと進学。大学では、終生の友人であり後に自身の編集者を務めることになるエドマンド・ウィルソンと出会っている。ウィルソンはフィッツジェラルドの一学年上級であった。大学のアカデミックな雰囲気に居心地の悪さを感じていたといわれ、1915年には単位不足と病気の為一時大学を休学しミネソタへと帰省している。
  • さらに1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると大学を中退し陸軍へと入隊。予備将校訓練学校での訓練の中で創作への情熱と戦争に対する不安に苛まれたフィッツジェラルドは、アラバマ州モントゴメリー付近のキャンプ・シェリダン滞在中に小説『ロマンティック・エゴイスト』の執筆を開始。この作品を出版社スクリブナーズへと持ち込んだ。編集者は作品を評価したものの、出版は認められなかった。
  • 第一次世界大戦は1918年に終結し、ヨーロッパへと渡る事なくフィッツジェラルドは陸軍を除隊。セントポールで彼は家の一室にこもり、『ロマンティック・エゴイスト』の推敲に心血を注いだ。書き上げられた作品は前回と同様にスクリブナーズへと送られその価値を認められた。
  • 翌年1920年3月に『楽園のこちら側』と題され出版されると、この作品は高く評価されると同時にベストセラー入りし時代の寵児となった。4月には再び婚約していたゼルダとニューヨークのセント・パトリック大聖堂で結婚。1921年には娘のフランシスが誕生。
  • 1920年代は間違いなく彼が最も輝いたときだった。1922年に出版された二作目の長編小説『美しく呪われし者』は未熟な部分もあった前作に比べ格段の進歩を遂げていた。
  • そして1925年には『グレート・ギャツビー』が出版されている。多くの批評家と読者はこの作品を20世紀のアメリカ文学における代表作にあげている。執筆の合間をぬってヨーロッパに旅行に出かけている。パリや南仏のリヴィエラではアメリカを抜け出してきたアーネスト・ヘミングウェイらと出会っている。
  • フィッツジェラルドは小説を書くことに関しては真面目な人間であったが、ニューヨークの社交界におけるゼルダとの奔放な生活を満たすほどの収入は得られなかった。そこで彼は日刊紙や雑誌に短編小説を書きまくり、自身の小説の映画化権を売って生活費を稼ぎだしていた。彼は生涯にわたって金銭的なトラブルに悩まされており、しばしばマクスウェル・パーキンスなどの編集者から原稿料を前借りしていた。
  • 1920年代の終わり頃から4つ目の長編に取りくみ始めたが、生活費を稼ぐ為に収入のいい短編を書かざるを得ず執筆は遅滞した。
  • 1929年のウォール街での株価大暴落に端を発する世界恐慌、さらには1930年には妻のゼルダが統合失調症を発症し彼の生活に暗い影が差し始めた。
  • 1932年にゼルダはボルチモアの病院に入院し、スコットは一人で家を借りて長編小説に取り組み始めた。この作品の主人公である、若く将来を約束された精神科医ディック・ダイバーは彼の患者であった富豪の娘ニコルと恋に落ちる。不安定な妻に翻弄され転落していく主人公を美しい文章で描いたこの作品は、『夜はやさし』と題して1934年に出版された。批評家の中には『グレート・ギャッビー』でなくこの作品こそが彼の最高傑作であると考える者もいる。
  • しかし恐慌下のアメリカで彼は既に過去の人となっており、作品の売り上げは芳しいものではなかった。絶望からしだいに彼はアルコールに溺れるようになっていった。アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたスコットは心臓麻痺を何度か起こした。1940年の12月21日、フィッツジェラルドは再び心臓麻痺をおこしグラハムのアパートメントで死亡。
  • その葬儀は少人数でおこなわれた。参列した詩人のドロシー・パーカーは『グレート・ギャツビー』中の主人公の葬儀における言葉 "the poor son of a bitch"を泣きながら呟いていたといわれる。ゼルダは1948年に入所していた施設の火事で亡くなった。ふたりの遺体はメリーランド州ロックヴィルの墓地に埋葬されている。
  • フィッツジェラルドの最後の長編は未完成のままに終わった。エドムンド・ウィルソンは彼が書きためていたプロットを整理し1941年に『最後の大君』として出版した。夫妻の娘フランシスはジャーナリストとして活躍し、1986年に亡くなっている。
  • 作家の村上春樹がスコット・フィッツジェラルドの代表作『グレート・ギャツビー』を翻訳、刊行した。「60歳になったら訳してみたい」と願ってきた「人生で最も大切な小説」という。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    F・スコット・フィッツジェラルド-Wikipedia

(2006.11.30掲載)


▲失われた世代を代表する作家の一人フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルド。

44年2ヶ月と28日の生涯 

アッシジのフランチェスコ 
Francesco d'Assisi
 【イタリアの守護聖人】

(1182・07・05〜1226・10・03)
死因?---蟹座

  • 本名 ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone
  • 「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている。
  • 原音主義にしたがい、ここではイタリア語の「フランチェスコ」という表記を採っているが、日本のカトリック教会ではアシジの聖フランシスコと呼び慣らわし、典礼暦には「聖フランシスコ(アシジ)修道者」と記載されている。彼の名前を冠した、彼自身によって創設されたフランシスコ会もそれに倣い「聖フランシスコ」の呼称を採用している。
  • 「フランシスコはイタリアのウンブリア地方アッシジの町で、裕福な織物商人(高利貸も営む)の子として生まれましたが、20代前半までのフランシスコは禁欲・清貧・謙譲を説くキリスト教の信仰生活とはほど遠い生活をしていました。フランシスコの父は織物商を生業とするお金持ちのピエトロ・ディ・ベルナルドーネ、母はピカでしたが、母親のピカは生まれたばかりの子どもに初め“ジョヴァンニ”という名前をつけました。しかし、父のピエトロ・ディ・ベルナルドーネは自分がフランスでの商売で大きな利益を上げたことから、『フランス風』という意味を持つ“フランチェスコ(フランシスコ)”のほうがいいと言って、結局、フランチェスコという名前に決定しました。後年になると父親のピエトロは、フランチェスコが修道士になるくらいだったら、ジョヴァンニという名前のほうが良かったという後悔をしたともいいますが、ピエトロは息子フランチェスコに自分と同じ裕福で有能な商人になって欲しいと考えていたようです。10代のフランチェスコは、外向的な明るい性格で派手な娯楽(歌謡)や交友を好んでいましたが、時に、友人と王族のような豪華なパーティを開いて父親の財産を浪費したりすることもありました。衣服は華美で上質な絹織物を好んでおり、友人と贅沢な遊びをするために、家にある宝石・高級家具・芸術品などを持ち出したりすることもありました。更には、突然、ペルージアとの戦争に参加するといって家を飛び出し、ペルージア軍の捕虜になって父親が莫大な身代金を支払わせられたこともありました。家族に散々な迷惑を掛けて放蕩三昧を尽くしたフランチェスコでしたが、1206年頃から、フランチェスコは急速に宗教的な回心を見せ始めることになります。しかし、キリスト教の禁欲と献身の精神に従って『信仰者としての人生』をひたすらに生きることは、父親のピエトロが期待した息子の人生とは違っていました。フランチェスコは小さな頃から、自宅の近くにあった小さなカトリックの教会で、サン・ジョルジョという年老いた司祭の教えを受けていましたが、父親が気づかないうちに放蕩(贅沢三昧)な生活から禁欲の信仰者としての生活に転換を始めていたのです。中世ヨーロッパでは、ハンセン病(ライ病)は神罰を受けた『穢れた病気』として忌み嫌われており、医学知識が十分に発達していないこともあって感染力が強いという誤解を受けていました。ハンセン病の患者は公共の道路を通る時に、鈴の音を鳴らして自分たちの接近を告げなければなりませんでしたが、みんなが患者を恐れて避けている時に、フランチェスコは往来に飛び出してハンセン病患者の身体を強く抱き締め、病者に対する慈愛の念を示しました。キリスト教の根本精神である『弱者への献身・病者への慈愛』を実践的に示したフランチェスコは、急速に熱烈な宗教者としての顔貌を見せ始めるのです。フランチェスコは『神への献身』を示すために、自宅にある高級な絹織物を勝手に売却して、聖ダミアノ教会の修復のためにそのお金を寄付しました。この『世俗のものは、神のものへ』という所有権の放棄と安楽の否定は、中世キリスト教の修道士に共通した禁欲精神であり、フランチェスコが後に築いたフランシスコ修道会では一切の余剰(贅沢)と安楽を戒める『清貧の思想』が徹底して教育されました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アッシジのフランチェスコ- Wikipedia

(2013.09.24掲載)



▲フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士アッシジのフランチェスコ。

44年3ヶ月と5日の生涯

森安秀光
Hidemitu Moriyasu
 【「だるま流」の勝負師】

(1949.08.18〜1993.11.23)
長男によって刺殺 ---獅子座

  • 将棋棋士、岡山県笠岡市。13歳で坂田三吉の弟子だった藤内金吾八段の門下生となり、「新人王戦」で3度優勝。
  • 昭和57年、第七期棋王戦でタイトル戦初の挑戦者になったが惜しくも敗退。
  • 翌年、第四十二期・棋聖位決定五番勝負で中原誠棋聖(当時)に挑戦。2連敗後の3連勝という大逆転で、関西では3人目の棋聖位を獲得した。
  • 転んでもすぐ起き上がる「だるま流」の勝負師で、一時は将棋界をリードした。通算成績は712勝469敗。勝率は6割3厘。
  • 兵庫・西宮の自宅で 中1長男に刺殺される。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    日本将棋連盟棋士の紹介

(2005.06.17更新)



▲転んでもすぐ起き上がる「だるま流」の異名をとった将棋棋士・森安秀光。

44年3ヶ月と10日の生涯

ビリー・ホリデイ  
 Billie Holiday
 【「レディ・デイ」】

(1915.04.07〜 1959.07.17)
肝臓病---牡羊座

  • サラ・ヴォーンエラ・フィッツジェラルドと並んで、ジャズ史上最高の歌手の一人に数えられる。
  • ビリーことエリノラ・フェイガン・ゴフは、1915年にフィラデルフィアで生まれ、メリーランド州ボルチモアのフェルズ・ポイント地区で育った。彼女が生まれたとき、母セイディ・フェイガンは19歳、父クラレンス・ホリデイ17歳。
  • 母セイディはボルチモアで次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては異性関係を重ねた。異性関係――それはおおむね報酬を伴うもの、つまり売春であった。
  • 親族の家を転々として生活していたエリノラにとっても、日々の生活は楽なものではなかった。数年後、母セイディはエリノラを再び手元に引き取った。
  • 1927年2月まで生活した修道院は、13〜18歳の黒人少女が集められた更生施設だと謳っていたが、内情は虐待やいたずらが日常茶飯事の場所であり、しかも感化院だった。
  • やがてビリーは、禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになった。大量のアルコールと朝まで響きわたるジャズ。無一文で、住むところも追い立てられる状況の中、地元のクラブで「Body & Soul (身も心も)」を歌うビリーに、観客は皆、涙したと伝えられる。
  • 様々なクラブで仕事をするようになったホリデイは、ハーレムの有名なジャズクラブ「ポッズ&ジェリーズ」でも歌い始めた。この頃、エリノラの父クラレンス・ホリデイはフレッチャー・ヘンダーソン楽団で演奏しており、彼女は父親との再会を果たしていた。
  • ジョン・ハモンドに見出され、初レコーディングはベニー・グッドマン楽団と行う。その後、テディ・ウィルソン楽団、カウント・ベイシー楽団らと共演。特に、著名なミュージシャンたちから大きな目標とされていたサックス奏者レスター・ヤングとの共演が名高い。
  • そんななか、偶然に導かれるように彼女はサックス奏者のケニス・ホーロンと出会い、彼と共にクイーンズとブルックリンで最初の契約を手に入れる。エリノラ、15歳。不世出のジャズ・シンガー、「ビリー・ホリデイ」の誕生である。30年代の後半からレスター・ヤング、テディ・ウイルソンらを迎えて、歴史に残るレコーディングを次々に行なう。
  • 代表曲「奇妙な果実」は黒人リンチ殺人を題材にしたリアルな抵抗の歌だった。ブルースをベースにした歌唱は即興性に優れ、どんな曲でも彼女の歌になった。究極のジャズ・ヴォーカルのスタイルといえる。
  • 第二次世界大戦終結後、ビリーは頂点を極める。彼女はピアニストのボビー・タッカーとのコラボレーションを開始。同じ頃、彼女はジョー・ガイとよりを戻し、今度はLSDに手を出す。1947年初頭、マネージャーのジョー・グレイザーは解毒治療のために彼女を私立クリニックに入院させるが失敗に終る。
    結局、数週間後にビリーは麻薬不法所持で逮捕され、懲役1年の刑に処される。
  • それからというものスキャンダルは途切れず、経済的にも追い込まれていった。彼女のギャラは麻薬と、取り巻きの男たちのポケットへと消えていったのだ。彼女が出所したのは1948年3月16日だった。品行方正を認められての釈放だったが、彼女の心身は破壊されていた。
  • 1948年3月27日、彼女はカーネギーホールで歌う。晴れやかな声、髪に挿した永遠のクチナシの花、彼女は力尽きるまで歌う。21曲、アンコールに応えて更に6曲。公演は大成功だった。
  • 1959年7月17日朝3時10分、ビリー・ホリデイ、死去。44年の生涯であった。
  • 人種差別や、麻薬・アルコール依存症との闘いなど壮絶な人生を送った彼女は、多くの人々を魅了したその声も晩年にはかれ、音域も極端に狭くなっていた。しかし、なお情感豊かな歌声は他に並ぶ者がないほどの高い評価を与えられ、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。
  • 彼女の生涯において代表的なレパートリーであった「Strange Fruit (奇妙な果実)」や「God Bless' the Child (神よめぐみを)」、「I Love You, Porgy(アイ・ラブ・ユー、ポーギー)」、「Fine and Mellow(ファイン・アンド・メロウ)」は、後年、多くのミュージシャンに取り上げられるジャズ・ヴォーカルの古典となった。
  • 「7月17日と言うのは、J.コルトレーンそして石原裕次郎の命日として、忘れがたい日では有りますね。さて、今宵は自叙伝『奇妙な果実/油井正一・大橋巨泉訳/晶文社刊』に述べられている一節を紹介して置きたいと思います。「欧州の記者たちは、もっとよく音楽を知っている。彼らは耳をもっていた。米国の記者や評論家は、ジャズの中でどんなことが起こったかを、10年も経ってから気がつくのだ。わが国では死んでしまうまでその価値を認めて貰えない。死んだあとに、初めて偉大な存在だったと騒がれだすのだ」そして、ジャズ専門誌「ダウン・ビート」が「名声の殿堂」にようやく彼女を選んだのは、死後2年目の事でした」(1)。
  • 「たまさん ビリー・ホリデー(ジャズ・シンガー)の最後をお供えします。アルコールと薬物の依存症から肝臓病になり死去しそうです。死の直近、ドラッグの所持により警察に逮捕され、病室のドアから警官に監視された状態で死を迎えたといいます。このような場合、医者は死因を肝臓病と書くのでしょうか? 人セムでは死因をどうしますか? 
    チャーリー・パーカー、マイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、セロニアウ・モンク、ビル・エヴァンスなどの偉大なジャズメン達は、薬物やアルコールを乱用し、精神的な問題を抱えながら死が近づいても、なお見事な演奏をし続けたのでした。参考書籍「死因百科」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ビリー・ホリデイ-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori-Tungさん 2006/12/ 7 23:07:50(木) [618]
    (2)投稿者: ユリウス さん 2013/08/31 7:07 PM

(2013.08.31更新)


▲不世出といわれる史上最高の黒人女性ジャズ・シンガーのビリー・ホリデイ。


◆「奇妙な果実」

 

 


44年3ヶ月と26日の生涯

M・N・トハチェフスキー
M・N・Tukhachevskii
 【赤いナポレオン】

(1893.02.16〜1937.06.11)
刑務所で銃殺---水瓶座

  • ソビエト陸軍元帥。トルストイの遠縁。ロシア貴族の家に生まれる。ニックネームは「赤いナポレオン」。
  • 第1次世界大戦に騎兵将校(中尉)として従軍。ドイツ軍の捕虜となる。フランス語が堪能だったため、収容所でシャルル・ド・ゴールらフランス軍の捕虜と親交。収容所内でスラブ神話の戦争と嵐の神・ペルンの面を作り、崇めていた。収容所を脱走し、帰国。赤軍に参加。25歳の時、軍団長(中将待遇)に抜擢される。
  • 1920(大正9)年 ソ連軍、ポーランド侵攻。当時、西方面軍司令官。
  • 1932(昭和7)年 機械化軍団を編成。空軍力、空挺部隊の増強に尽力。
  • 1935(昭和10)年 元帥に昇進(赤軍初の5人の元帥のうちの一人)。
  • 1937(昭和12)年5月26日 逮捕される。6月11日 秘密軍法会議で死刑を宣告される。6月11日 モスクワ、ルビヤンカ刑務所でスターリンによる大粛清で処刑される(銃殺)。
  • ヴァイオリンを演奏し、作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチと交流があった。
  • 「トハチェフスキー事件:1937年赤軍の最高指導者・元帥トハチェフスキーら8将軍がスターリンによって粛清された事件。独・日のスパイ、反スターリン・クーデタ計画等が罪状とされたが、スターリン批判後これらは事実無根であることが明らかにされ、1961年名誉回復」。
  • スターリンとの嫉み(そねみ)と妬み(ねたみ)による対立。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    トハチェフスキー
    ソ連ーポーランド戦争

(2008.09.06更新)


▲スターリンによって粛清されたソビエト陸軍元帥ミハイル・ニコラエビッチ・トハチェフスキー(右)とブジョンヌイ(左)。


▲1934年元帥昇進時の記念写真
上、左がプジョンヌイ(赤軍第1プロレタリア騎兵軍司令官)下、左がトハチュフスキー中央はウォロシロフ(第2次大戦開始時の赤軍参謀総長)右上はブリューヒャーだが、張鼓峰事件の責任者として1938年銃殺された。この事件も戦後、マルクス主義歴史学者の手で日本軍が完敗したと説明されることが多いが、謬説である。日本の老兵からなる国境警備隊に約4倍の1個師団半でソ連軍が計画的に襲撃したものだが、ソ連軍は陣地に篭る日本軍に歯が立たず、4倍に昇る、4000人の損失を出した。結局モスクワで停戦協定が結ばれ、中間線で決着がついた。この襲撃を外交上得策でないとして見せしめのため殺されたのだろう。

44年4ヶ月と4日の生涯

井伊直弼  
 Naosuke Ii
 【幕末の大老】

(1815.10.29〜1860.03.03)
桜田門外の変で斬殺---蠍座

  • 1850年(35歳)家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)と称し、藩政に努めた。開国和親を主張し尊攘派と対立。
  • 1858年(43歳)大老に登用され、将軍継嗣問題では一橋派を排して紀州和歌山藩主徳川慶福(のちの14代家茂)を迎え、また勅許をまたずに日米修好通商条約を結んだ(条約勅許問題)。
  • これに反対する水戸藩主徳川斉昭以下を強硬処罰し、安政の大獄を起こした。1860年桜田門外の変で暗殺された。
  • 直弼は諸学に通じ、なかでも茶道は石州流を学んで自ら一派を立てるほどだったとか。
  • 「井伊直弼の辞世をお供えします。 〈咲きかけしたけき心のひと房は散りての後ぞ世に匂ひける〉」(1)。
  • 「井伊直弼は「一期一会」の言葉を広めた茶人でもあった。---生涯一度の機会と思い、お互い真剣に茶をいただくという「一期一会」の思想。---直弼はまた、「独座観念」という独自の考えを打ち出した。茶会を催した者は、客人を送り出した後、一人で茶を飲んで己と向き合え、との勧めだ」(2)。
  • 奇しくも4並びの生涯年数であった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん 2006.05.19(Thu) 22:36[1588]
    (2)読売新聞2007.11.09朝刊「文化」(渡辺達治)より抜粋・リライト。

(2007.11.10更新)

◎「一期一会」「独座観念」

▲幕末の大老、近江彦根藩主・井伊直弼。


44年4ヶ月と7日の生涯

小池重明  
 Juumei Koike
 【“新宿の殺し屋”と呼ばれた真剣師】

(1947.12.24〜1992.05.01PM4:20)
肝不全---山羊座

  • 本名:しげあき。通称:新宿の殺し屋、じゅーめい。名古屋市中村区生まれ。中学生の時、父親と本格的に将棋を指し始め、高1で道場通い。
  • 1964年頃:高1の時、中部日本学生将棋選手権で優勝。高2の時、大学生と初の真剣3番勝負で2連勝。退学。
  • 1968年頃:関則司を頼って、東京へ上京上野将棋センターで有田4段に平手で勝つ。松田茂行8段推薦で奨励会受験目前で使い込み,失踪。197?年:東京に舞い戻り、天狗道場で、新宿の殺し屋の異名。1979年11月3,4日:大阪で加賀敬治と真剣勝負を戦い、7勝7敗将棋世界のアマプロ戦で飯野健二4段に勝つ。
  • 1980年5月24,5日:アマプロ対抗リーグ戦で、若手プロに4勝1敗。9月 9日:加賀,沖元二を破り、アマ名人戦優勝。9月29日:中原誠名人に、角落ちで勝つ?。大山康晴十五世名人に、角落ちで大勝。
  • 1981年:アマ名人戦2連覇。1982年 2月27日、升田幸三との角落ち戦で完敗。1982年 6月11日:森けいじと平手戦で逆転勝ち(1番手直り3局)。読売日本一で優勝。1983年:大山会長に直訴し、松田8段師匠でプロ目指すも 否決。
  • 1991年:天野高志アマに2連勝(最後の公式戦)。1992年5月1日午後4時20分、肝不全で他界、享年44歳。
  • 「真剣師とは、賭け将棋で生計を立てる将棋指しのことである。今はたぶん、そういう人はいない。いても極めて少数だろう。そうした特殊な世界の中でも、小池重明は際立って特殊だった。将棋以外の勝負には滅法弱く、そのくせ賭け事が好きだった。酒が好きで、金がなくても誘われればついていった。女性に、とりわけ人妻に弱く、何度も家庭を持とうとして果たせなかった。悪気も自覚もないままいくつかの事件を起こし、たびたび棋界を騒がせた。そして、驚くほど将棋が強かった。本書は、晩年の小池と深い交流があった団鬼六が、改めて彼に関する文章をまとめたものだ。巻末には、生前の小池が団の依頼で書いた「自叙伝」も収められている。団鬼六は、小池の魅力に誰よりも強く惹かれていた。小池が肝硬変で入院していた10年前、団は雑誌「将棋ジャーナル」の主宰だった。最後の天才真剣師も、もう先が長くない。自身の雑誌で「小池、余命いくばくもなし」と発表した団が、いたずら心で小池の「生前香典」を募集したところ、たちまち予想を超える額の現金が各地から送られてきた。それらをすべてパチンコにつぎ込みながら、小池は言った。「先月はほとんどなかったけど、今月は少し僕の香典、集まりそうでしょうか」勝負ごとに詳しい人なら分かると思うが、アマがプロに勝つことなど、将棋の世界では通常あり得ない。小池は、わざと負けることさえ自在だったのである。一方で、異常なまでの生活力のなさ。44年の太く短い人生は、まさに天衣無縫というにふさわしい。 」(1)。
  • 「小池っていうのは真剣師(賭け将棋差し)でね、アマ名人になったこともある男ですが、懸賞金をつけて指させると奨励会の三段とか四段にも勝つ。それで「いやあ、プロは強い。もし、(団)先生が3万円くれなかったら絶対に負けてました」なんて憎たらしいことをいって金を持っていく。駆け落ちとか寸借詐欺問題を起こしたりしてアマにもプロにも嫌われた男ですけど、人間ちゅうのは困った奴を使うとかえって成功する場合があるね。」(2)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)小笠原淳。
    (2)団鬼六。

(2003.10.04掲載)



▲ 真剣師 小池重明
“新宿の殺し屋”と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯
団 鬼六 著
出版社 / イースト・プレス

44年4ヶ月と21日の生涯

エルネスト・ショーソン
Ernest Chausson
 【フランスの作曲家】

(1855.01.20〜 1899.06.10)
自転車事故---山羊座

  • パリ出身。はじめは法律を学んでいたが、24歳でパリ音楽院に入り、マスネ、セザール・フランクに作曲を学ぶ。
  • しかし一年で退学し、その後はフランクに私淑する一方でバイロイトにしばしば行き、ワーグナーの影響を強く受ける。
  • 1886年にサン=サーンスが組織したフランス国民音楽協会に参加したため作曲のペースは落ちたが、細々と作曲を続けた。パリ郊外のイヴリーヌ県リメ(Limay)の別荘で自転車事故により44歳で死去し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
  • 彼の死により作曲中だった「弦楽四重奏曲」は全4楽章中3楽章の途中までの未完の絶筆となり、友人のヴァンサン・ダンディが補筆・出版した。
  • 交響曲、室内楽、歌曲、歌劇など幅広い分野での作曲を手がけた。41歳(1896年)のときに作曲したヴァイオリンと管弦楽のための「詩曲 」が群を抜いて有名だが、「交響曲 変ロ長調 」や「愛と海の詩」、「コンセール」も頻度は少ないものの演奏機会がある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エルネスト・ショーソン- Wikipedia

(2012.07.24掲載)


▲ 交響曲、室内楽、歌曲、歌劇など幅広い分野での作曲を手がけたエルネスト・ショーソン/ショソン
▲エルネスト・ショーソン(1897年撮影)

 

44年4ヶ月と21日の生涯

堀内ひとみ
Hitomi Horiuchi
 【「まつり」のママ】

(1959.09.26〜2004.02.16)
脳溢血---天秤座

  • 千駄ヶ谷の「まつり」のママ。
  • 一人娘のあさみちゃんが子供(未来ちゃん)を産み、40歳でおばあちゃんになった。
  • 祭りが好きで、女にしておくのはもったいないようなきっぷのいい性格だった。合掌。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.02.20更新)



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44年5ヶ月と16日の生涯-----2004年没後100年

アントン・P・チェーホフ
Anton Pavlovich Chekhov
 【ロシアの劇作家】

(1860.01.29〜1904.07.15)
死因?---水瓶座

  • ロシア、タガンローグ出身の劇作家・小説家・医師。南ロシアのタガンログの小商人の子として生まれる。父は解放農奴。
  • 1884年,モスクワ大学医科を卒業。在学中よりチェホンテなどの筆名でユーモア物を発表。短篇小説家として登壇。
  • 1889年『退屈な話』でインテリの小市民性、俗物性を描き出す。1890年、肺結核をおして樺太旅行をし、その旅行をもとに悲惨な流刑生活をえがいた『サハリン島』(1893〜1894年)を発表。
  • しだいに社会的テーマに移行し、1896年の『かもめ』で気分劇の演劇形式を確立。1897年の『伯父ワーニャ』では人間の細い心理と滑稽さを扱う。
  • 1901年の『三人姉妹』、1903年の『桜の園』で絶望の時代の中で安価な享楽を見いだそうとするインテリの無能、没落貴族の時代錯誤と新興ブルジョワの愚かしさをえがき、社会的推移に対する冷やかな笑いを表現する独自の境地を開いた。他に、『コーラス女』、『六号室』,『決闘』、戯曲『結婚申込』、『白鳥の歌』などがある。
  • ドイツのバーデンワイラーで療養中に死去。
  • 帝政期に、ユーモアと諷刺に富んだ短編小説を数多く残した。簡潔な表現で日常生活をさりげなく描きながら、人間の俗物性を批判するヒューマニズムに貫かれた作風をもつ。
  • 「辛苦の末にシベリアを横断したチェーホフがサハリンに到達したのは1890年7月(30歳)。3ヶ月間流刑地で囚人の実態を調査した。中でサハリンにつきこう書いている。〈最初の探検の名誉は日本人のものであって、日本人が最初に南部サハリンを占領したことは疑いない〉。---シーボルトの大著『日本』がロシア語訳される際、間宮林蔵の海峡発見の記載が削除された。---チェーホフ博物館ペンコウ館長はこう語った。〈サハリンはチェーホフ研究の極東における中心です。彼は日ロ両国をつなぐ橋なのです〉」(1)。
  • 「チェーホフの『桜の園』ほど日本人に愛された翻訳劇はまれだ。ラネーフスカヤ夫人という優雅な没落地主のたたずまいと、はかなく散る桜の風情とが多くの人の心の中で解け合ったのだろう。は園芸家にあこがれていたチェーホフは晩年住んだ「白い別荘」(ヤルタ)の庭に日本の木をたくさん植えた。とりわけサクラとアヤメを愛した。『桜の園』の桜には、日本への思慕の念が映されていたという。---日本のラーフネスカといえば東山千栄子」。
  • 「人間の嘆きを書いたチェーホフは革命後のソ連で「黄昏の作家」として遠ざけられた。作家受難の時代、その清らかな祈りを守り伝えたのは、わが日本のナイーブな演劇人たちだった」(3)。
  • 日本は冠たるチェーホフ大国。ロシアをのぞけば、これほど多くの舞台が上演されてる国は他にないという。
  • 「こんにちは、たまさん。チェーホフさんといいますと不思議なシーンを一つお書きになっていますね。「かもめ」の冒頭でトレープレフくんがニーナに朗読劇をさせるのですがその題材が「地球の総ての魂が集合しても孤独な女神」実はアニメ映画の「新世紀エヴァンゲリオン」で同じように総ての魂が一人の女神(ヒロインのレイ)に集合するという展開がありまして、(どうも製作スタッフは「かもめ」知らないようなので、偶然の一致だと思いますが)人間の思考や発想は潜在意識で繋がっているのではないかと思った次第です」(4)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    チェーホフ
    (1)日経新聞2004.08.01朝刊「芸文百話」より抜粋。
    (2)「チェーホフ格言集
    (3)日経新聞2004.08.22朝刊「芸文百話」より抜粋。
    (4)投稿者:MIWAそーめんさん  2012/08/31 4:52 PM

(2012.09.01更新)


▲インテリの無能、没落貴族の時代錯誤と新興ブルジョワの愚かしさをえがき、社会的推移に対する冷やかな笑いを表現する独自の境地を開いたチェーホフ。

 

チェーホフ語録

◆「老人の厭世主義は外部からひょっこりやってくるのではなく、自分自身の頭脳の奥深いところからくるのだ。
散々苦しみ、数え切れないほどの過ちをしでかした後、下から上までの全階段を上り終わった時に、初めてやってくるのだ」(「灯火」)

◆「人間は好んで自分の病気を話題にする。彼の生活の中で一番面白くないことなのに」

◆「学問のある人間が大勢集まってあらゆる機械や薬品を考え出したが、いまだに女性が原因で起こる病気の薬を考え出そうとした学者はいない」

◆「男と交際しない女は次第に色褪せる。女と交際しない男は次第に阿呆になる」

◆「人間に理性と創造力が与えられているのは、自分に与えられたものを増やすためである。だが、人間は今日まで破壊するばかりで創造をしたことがない」

◆「黙って生きている人が一番偉い」


44年5ヶ月と19日の生涯

谷風 梶之助(二代目)
Kajinosuke Tanikaze-II
 【「天下無敵」の4代横綱】

(1750.09.08〜1795.02.27=寛延3年8月8日〜 寛政7年1月9日)
流行病---乙女座

  • 今の仙台市若林区霞目生まれの大相撲力士。小野川喜三郎とともに実質的な横綱第1号とされ、大相撲史上屈指の強豪。本名、金子与四郎。
  • 1769年(明和6年)4月、伊達関(のち達ヶ関)の四股名で看板大関として初土俵。しかしこれをよしとせずに前頭に降格、のちに実力で大関位を手にした。
  • 1777年(安永6年)10月から1782年(天明2年2月)まで分・預・休をはさみながらではあるが、土つかずで63連勝(止めたのは小野川)。のち昭和の時代に双葉山が69連勝を達成するまで、約150年にわたって記録保持者であり続けた。
  • 江戸本場所における通算成績は、49場所254勝14敗16分16預5無勝負106休で、勝率.949、優勝相当21回と「天下無敵」の名にふさわしい記録が残っている。
  • 体格は、全盛時代で身長189センチ、体重169キロのアンコ型巨人だったと伝わる。
  • 1789年(寛政元年)11月、小野川喜三郎とともに吉田司家吉田追風から横綱を免許される。この時が実質の横綱制度の発祥とする見方が、現在では定説である。
  • 征夷大将軍徳川家斉観戦の寛政3年(1791年)6月11日小野川喜三郎と上覧相撲をおこなう。またこのとき将軍家より弓を賜り、これを手に土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
  • 小野川喜三郎や後続の雷電爲右衞門らとともに、寛政に最初の相撲黄金時代を築いた。上述の横綱制度や、弓取式など現在までのこる相撲界の形式の多くがこの時代に形作られた。
  • 流行病のために44歳で35連勝のまま現役死した。このことから、風邪のことを「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が「土俵上で儂を倒すことはできない。倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」と語った時(天明4年頃)に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。 死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれていたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    谷風梶之助 (2代)-Wikipedia

(2006.09.23掲載)



▲小野川喜三郎とともに実質的な横綱第1号とされ、大相撲史上屈指の強豪といわれる谷風 梶之助(二代目)。



◆谷風梶之助(2代)の 銅像。

44年5ヶ月と19日の生涯

D・H・ロレンス
David Herbert Lawrence
 【英国の作家】

(1885.09.11〜1930.03.02)
肺結核---乙女座

  • 英国の作家。炭鉱夫の父、教師の母の4男として、英国ノッティンガムシャーで生まれる。教育のある母には溺愛された。
    1908 (23歳) ノッティンガム・ユニバーシティ・カレッジを卒業.教員資格取得。クロイドンの小学校に教員として就職。
  • 1912 (27歳) 体調不良により教職を辞し、故郷に戻る。恩師のウィークリー教授夫人フリーダと駆け落ちし、ドイツで共に生活。文名を確立した小説『息子と恋人』(1913年)には母をめぐる思春期の自画像がみられる。
  • 1914(29歳)英国に帰国し、ケンジントンにてノッティンガム大学の恩師の妻フリーダと駆落結婚。
  • 1919(34歳)英国を離れ、以後、欧州各地・オーストラリア・メキシコ・米国ニューメキシコなどで長期滞在。欧米を転々としつつ、現代の文明と人間を性の視点から深く掘り下げた。
  • 1925(40歳)欧州に戻る.主にイタリアに滞在するが,健康状態が次第に悪化。1930 (45歳) 南仏にて没。
  • 作品に『虹』(30歳)、『恋する女たち』(35歳)、『アーロンの杖』(37歳)、『カンガルー』(38歳)、『翼ある蛇』(41歳)、『チャタレー夫人の恋人』(43歳)、『死んだ男』(46歳)。ほかに評論『無意識の幻想』(38歳)、『アポカリプス』(44歳)や詩集など。A.ハクスリー編集の『書簡集』(1932年)がある。
  • 「生命の血漿が言うに言われぬ震動をして、未来を吸い込み、過去を吐き出す。それは双方の生皮でありながら、そのどちらでもない」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)ロレンス『新詩集』序文より。

(2005.01.22更新)



▲現代の文明と人間を性の視点から深く掘り下げた作家・D・H・ロレンス。

44年5ヶ月と29日の生涯

田中 実 (俳優) 
Minoru Tanaka
 【俳優、声優】

(1966.10.27〜 2011.04.25)
首つり自殺---蠍座

  • 俳優・仲代達矢主宰の無名塾出身。死去時の所属事務所はオスカープロモーション。身長184.5cm、体重73kg。
  • 東京都大田区池上出身。本名:同じ。実家は、池上で焼き鳥屋「鳥よし」を営んでいたが、父親が死去したことにより店を閉めていた。
  • 大田区立蓮沼中学校、東京都立雪谷高等学校卒業後、無名塾に入塾、1987年、日本テレビ系の大型刑事ドラマ『ジャングル』の若手刑事役でデビュー。
  • 1990年、NHKの連続テレビ小説『凛凛と』で主人公・畠山幸吉を演じて注目を浴びる(男優が単独で主演を務めたのは『いちばん太鼓』以来)。
  • 以降、TBS系で放送の昼帯ドラマ『温泉へ行こう』で人気を不動のものとし、2時間ドラマの常連役者となった。
  • 2011年4月25日、東京都大田区の自宅マンションで首を吊っているところをマネージャーと母親が発見し、病院に救急搬送されたが死亡が確認された。44歳没。
  • もみあげの部分に毛が生えてこないので髪の毛を伸ばしてもみあげ部分を作っている(トーク番組より)。
    若村麻由美 -無名塾での同期塾生。
  • 「田中さんのブログをみたら何か意味深な感じがしていたのですが、まさか自殺するとは思いませんでした。昔は2時間ドラマの仕事もあって結構順調だったらしいですね。でも最近になって単発の仕事ばかりで、色々と仕事の悩みとかあったんですかね、自殺した理由はわかってないみたいですが」(1)。
  • 「ハンサムなのですが、屈折した役を演じられると一品でした。好きな俳優さんでした。ご冥福をお祈りします」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    田中実 (俳優) - Wikipedia
    (1)投稿者:かものはしかも さん..2011/ 5/ 5 23:38:28(木) [9095]
    (2)投稿者:MIWAそーめん さん..2011/ 5/ 6 09:02:31(金) [9100]

(2011.05.07更新)



▲昼ドラ温泉にいこうとかに出ていた田中 実 (俳優)。





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