玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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40-41-42-43-44-45-46-47-48-49

age 45


50音インデックス


■45歳の
 シンクロニシティ

■45歳-?
天智天皇
コレッジョ
鈴木 春信
長沢芦雪
月照
戸張弧雁
岩田準一

■45歳-前半
江利チエミ
ウィルバー・ライト
ジュールズ・パスキン
二葉亭四迷
フレディ・マーキュリー
有島武郎
ウエス・モンゴメリー
ヤン・レッツェル
梶山季之
シラー
初代 引田天功

■45歳-後半
→進む
マウリツィオ・グッチ
ヨハン・シュトラウス・父
チャールズ・L・ミルズ
宝井 其角
大村益次郎
松宮 一彦
宮崎 勤
上村一夫
三島由紀夫
古尾谷雅人
北天佑勝彦/二十山親方
竹内景助
奥 克彦
ナット・キング・コール
ジョルジュ・ペレック


■45歳のエポック


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45歳の語録

「誠に人生は夢の如しといふうちにも、小生の一生の如きは夢よりも儚くあわれなるものなるべし」
(四迷)

「世の常のわか恋ならはかくはかりおそましき火に身はや焼くへき」
(有島武郎)

「精神的能力においては第二級の人物が支配的地位を占め、凡庸なことを重々しくしゃべっている」
(ライト・ミルズ)

「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」
三島由紀夫)

「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐えし今日の初霜
三島由紀夫)

「ワン フォー オール オール フォー ワン」 (皆のためのひとり、ひとりのための皆)
奥克彦

 

45歳のシンクロニシティ!

  • 45年という生涯も因縁に溢れる。文学界では二葉亭四迷、有島武郎、三島由紀夫がともに枕を並べた。そして古尾谷雅人も---。
      

    ●『浮雲』で知られる明治期の小説家・二葉亭四迷(1864.02.28〜1909.05.10)はロシアからの帰国の途中、寒気のために結核が再発し、インド洋上で死去して45年2ヶ月と12日の生涯 (魚座)

    ●長編『或る女』を世に問い、名声を得るた有島武郎(1878.03.04〜1923.06.09)は「婦人公論」の記者波多野秋子と首吊り心中し45年3ヶ月と5日の生涯 (魚座)。ともに魚座だった。
    ●ノーベル賞の声も上がった世界的作家・三島由紀夫(1925.01.14〜1970.11.25)は自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺で45年10ヶ月と11日の生涯(山羊座)を終えた 。
    ●さらに、古尾谷雅人(1957.05.14〜2003.03.25)が自宅寝室で首吊り自殺し45年10ヶ月と11日の生涯(牡牛座)だったが、その生涯日数は、三島由紀夫と全く同じという因縁。自殺の理由と関係あるのだろうか?。

  • クラシック音楽界ではシラーヨハン・シュトラウスである。
     
    ●ベートーヴェンの第九を歌詞したドイツの国民詩人・シラー(1759.11.10〜1805.05.09)は、肺患で45年5ヶ月と29日の生涯(蠍座)。
    ●「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスは(1804.03.14〜1849.09.25)も作曲と娘の看病で疲労の極地に陥り45年6ヶ月と11日の生涯(魚座)を閉じた。


  • また、決して意図的な人選ではないのだが、45年の生涯を終えた人々は、魚座、蟹座、蠍座と「水」の星座の人々が圧倒的に多い。水の星座の厄年か?。

    (2008.05.21更新)    
             


45年?の生涯

天智天皇
Tenji Tenno     【第38代に数えられる天皇】

(626.?〜671.12.03) 
死因?---?座

  • 国風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)。中大兄皇子、幼名を葛城皇子という。舒明天皇の皇子。母は斉明天皇。大海人皇子・間人皇女(孝徳天皇皇后)の同母兄。倭姫王(古人大兄の子)を正室とする。大友皇子・大田皇女・菟野皇女(持統天皇)・建皇子・御名部皇女・阿閉皇女(元明天皇)・志貴皇子らの父。
  • 在位期間は661年7月24日〜671年12月3日 。蘇我入鹿らの専横に憤慨し、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした後、叔父を天皇(孝徳)に立てて自らは皇太子となる。そして大化という元号を制定し、さまざまな改革を行った(大化の改新)。
  • 友好国の百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図る。百済救援を指揮するために都を筑紫に移したが、そこで斉明天皇が崩御した。その後も長い間皇位に就かず称制したが、663年白村江の戦いで大敗を喫した後、大津へ遷都してそこで即位。
  • 同母弟で皇位継承の最有力候補だった大海人皇子(後の天武天皇)は、次々と皇位継承者を謀殺してきた天智天皇を怖れ、自ら吉野に出家。
  • 長子の大友皇子(後の弘文天皇)を後継に擁立すると、間もなく天智天皇は崩じた。 天智天皇は死に臨んで、息子の大友皇子に皇位を継がせたいと思ったが、崩御後に起きた壬申の乱により、弟の大海人皇子が勝利して即位した(天武天皇)。しかし、天武の系統の天皇は孝謙天皇(のち称徳天皇として重祚)までで、光仁天皇以降の天皇は、すべて天智の系統である。
  • 陵墓は山科陵、京都府京都市東山区山科御陵上 。
  • 「前述の二人の天皇についての補足です。
    1:天智天皇の娘、大田皇女と菟野皇女はいずれも天武天皇に嫁いでいます。同腹で弟に嫁ぐというのは今日では理解しがたいですが、当時は普通のことだったようです。
    2:天智天皇の息子、建皇子は聡明でしたが生まれつき口がきけず、おしくも夭折しました。
    3:菟野皇女(菟野讃良:「うののさらら」とも)は天武天皇にとつぎましたが、元々の婚約者は有間皇子だったとか。有間皇子の詳しい情報はこちらから。
    4:阿閉皇女はそののち、持統天皇の息子草壁王子(母は持統天皇、父は天武天皇)に嫁いでいます。母親の姉妹と結婚…。ここまでくると家系図がややこしすぎますね」(1)。

  • 天智天皇の歌は、小倉百人一首に採られ、冒頭に置かれている。大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名だ。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)投稿者:映さん 2005.05.06(Fri) 22:30

(2009.09.07更新)



▲蘇我入鹿らの専横に憤慨し、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした後、叔父を天皇(孝徳)に立てて自らは皇太子となり大化の改新を行った天智天皇。
(イラスト 大城さん)

◆「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわがころもでは露にぬれつゝ」
(小倉百人一首の冒頭に置かれている天智天皇の歌)。


45年?の生涯

コレッジョ
Antonio Allegri da Correggio    【古典主義的かつ優美】

(1489頃〜1534.?) 
死因?---?座

  • ルネサンス期のイタリアの画家。北イタリアのモデナの近くのコレッジョで生まれ、同地で没した。パルマを中心に活躍した画家である。本名はアントニオ・アッレグリで、生地の町の名にちなんでコレッジョと呼ばれる。修業期の経歴については不明な点が多い。
  • 1506年頃マントヴァに移り、同地に重要な作品を残す画家マンテーニャの厳格な画風の影響を受けた。コレッジョは1519年頃にはパルマに移り、同地のサン・パオロ尼僧院の天井画、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画などを手がけている。後者の天井画における効果的な短縮法(遠近法の技法の一種)の使用や、天井に開いた穴から本物の空を見上げているような錯視効果をねらった表現は、マンテーニャの影響によるものであろう。
  • パルマのサンタントニオ聖堂の祭壇画として描かれた『聖ヒエロニムスのいる聖母』(1527〜1528年)は、聖母、幼児キリスト、マグダラのマリア、天使らの甘美な表情のなかに宗教的崇高さをも表現した代表作である。スフマート(輪郭線を煙がかかったように柔らかく表現する技法)を生かした作風にはレオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見て取れる。この作品は「イル・ジョルノ(昼)」と通称され、「ラ・ノッテ(夜)」の通称をもつ『キリストの降誕』(1529〜1530年頃)と対で紹介されることが多い。
  • このように、コレッジョの作品には複数の様式の影響が見られる。1530年、妻に先立たれたコレッジョは故郷に帰り、1534年、40歳代半ばで没している。
  • この時期の注目すべき作品群としては、マントヴァのゴンザーガ家のフェデリーコ2世の注文による『神々の愛』の連作(1530〜1531年頃)がある。連作の中でも「ダナエ」や「イオ」に見られるエロティシズムには、次世代のバロック絵画につながるものが感じられる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    コレッジョ-Wikipedia

(2008.01.01掲載)




▲パルマを中心に活躍したルネサンス期のイタリアの画家・コレッジョ。

▲聖ヒエロニムスのいる聖母 1527−28 パルマ国立美術館蔵


45年?の生涯

鈴木 春信
Harunobu Suzuki    【江戸時代の浮世絵師】

(1725.?〜1770.07.07= 享保10年〜 明和7年6月15日) 
死因?---?座

  • 細身、可憐で繊細な表情の女性像で知られる浮世絵師。錦絵が大流行するきっかけになったのが、平賀源内と春信が1765年以降に開催した絵暦交換会である(当時の太陰暦では毎年、大の月・小の月が変わるため、絵で月の大小を表したものが絵暦)。様々なデザインの絵暦が競って作られ、やがて錦絵の流行に発展していった。
  • 笠森お仙 - 春信の美人画のモデルとなり、江戸随一の美人として一世を風靡した一般女性。春信の知名度を高めるきっかけともなった。
  • 「鈴木春信は、錦絵創始期の第一人者として、また六大浮世絵師の一人として位置付けられる重要な絵師です。春信が好んで描いた若い恋人達、母と子、さりげない日常…、またそれに重ねられた絵暦、見立絵といった主題上の機知的な操作など、春信は小さな画面の中に、詩的で洗練されたイメージと江戸っ子らしい洒落の世界を豊かに築きあげました。またこの時代に木版によって鮮やかに色づけられた「錦絵」が誕生したことは、当時の人々にとって衝撃的なメディア革命でした。色を操り、幾層にも魅力を重ねた春信の豊かな表現は、21世紀を迎えた現在もなお我々の目には驚きであり、また同時に深い安らぎを与えてくれます」(1)。
  • 「鈴木春信の言葉をお供えします。これは太田南畝著「浮世絵類孝」のなかにある春信の言葉だそうです。「我は大和絵師也、何ぞ河原ものゝかたちを画くにたへんや」この言葉の所以はこういうことです。梅原猛先生の説ですが、春信の絵はおおく「見立て」の絵だそうです。「見立て」というのは、古い王朝の「勅撰集」などによって示される雅な情趣を、江戸に移したもの。本来、京の公家や姫が登場すべき世界に、江戸の遊女や物売りが登場しているのですね」(2)。
  • 春信と「春画」:この時期の絵師は、ほぼ全員が「春画」を残している。当時はこの種の絵を「わらひ絵」と呼び、現代の人間が受ける趣きとは異なるもののようで、母親が娘に見せるなどのような事が日常であったようだ。鈴木春信は「風流艶色真似ゑもん」という「春画」シリーズ作品を残している。色道修行のためにマメ粒大となった男が、あちらこちらで「現場」を見物するという趣向で描かれている。しかし他の絵師が残したような作品と違い、あくまでも、春信の作品らしい「清潔さ」が底流にある」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    鈴木春信-Wikipedia
    (1)「鈴木春信
    (2)投稿者:ユリウスさん..2008/ 4/ 6 17:47:13(日) [2948]
    (3)「http://www.geocities.jp/penpen1111/harunobu.htm

(2008.04.07更新)


・肖像を探しています・

▲浮世絵版画における「錦絵」技法の大成者としても知られる鈴木 春信。


45年?の生涯

長沢芦雪
Rosetsu Nagasawa   【奇想の画家】

(1754.?〜1799.07.10=宝暦4年〜寛政11年6月8日) 
毒殺とも自殺とも---?座

  • 江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。蘆雪とも。名は、政勝、魚。字は、氷計、引裾。通称、主計。芦雪の他、別号に千洲漁者、千緝なども用いた。現在の京都市伏見区に生まれる。
  • 同時代の高名な絵師と比べるとその履歴を示す資料は少なく、いつ応挙の弟子になったかさえはっきりとはわからない。後記の南紀滞在の際に芦雪自身が、自分の父が上杉彦右衛門であると述べたという資料が残っている。
  • その性格は奔放で、ある意味快活である一方、傲慢な面があったと伝えられる。そのせいか、「後年応挙に破門された」というような悪評とも言うべき根拠不明な巷説や異常な行動を伝える逸話は多い。その最たるものがその死である。毒殺とも自殺とも言われ、少なくとも普通の死ではなかったとされてきたが、事実は不明である。
  • その絵は伝えられる性格そのままに、自由奔放、奇抜なもので同時代の曽我蕭白、伊藤若冲とともに「奇想の画家」(辻惟雄評)、「奇想派」などと言われる。黒白、大小の極端な対比や、写実を無視した構図など師である応挙の作風から逸脱しており、この傾向は南紀滞在の折の障壁画にはっきり表れている。作風は基本的に明るく軽快であるが、晩年になって『山姥』のような時折グロテスクで陰惨な印象の作品を残した。
  • 1786年-87年(天明6-7年)、南紀に滞在した折に多くの障壁画を残している。現在、串本の無量寺、古座の成就寺、富田の草堂寺に計180面の障壁画が残る。無量寺境内には応挙芦雪館が開設されている。
  • 代表作:『虎図』(重要文化財)無量寺 串本応挙芦雪館(和歌山県串本町)/『竜図』(重要文化財)無量寺 串本応挙芦雪館(和歌山県串本町)/『群雀図襖』(重要文化財) 成就寺(和歌山県古座町)/『群猿図屏風』(重要文化財)草堂寺(和歌山県白浜町)/『紙本水墨寒山拾得図』(重要文化財)高山寺(和歌山県田辺市)/『猿之間』(重要文化財)大乗寺(兵庫県香美町)/『山姥図』(重要文化財)厳島神社(広島県廿日市市)/『宮島八景図』(文化庁保管、重要文化財)/『月夜山水図』(重要美術品)頴川美術館(兵庫県西宮市)
  • 「出来の悪い子ほど可愛い、という。けれど、出来が良すぎても可愛いものは、可愛い。円山応挙、という画家がいた。この名に覚えがなくても、美術の教科書に載っていた幽霊の掛け軸を見た覚えのある方は多いはずである。幽霊にしてはふっくらと色っぽい、足さえあるなら一夜を共にしてもいいと思えるような、あの掛け軸の作者である。応挙には山ほど弟子がいた。彼は京都に住んでいたのだが、遠くて通えない弟子には画集を送ったり送らせたりして指導していた。今でいう通信教育である。そういう弟子まで含めたら、何百という数になったであろう弟子の中で、破門された回数だったらまかせとけ、という弟子がいた。長澤蘆雪。ながさわろせつ、という。蘆雪の絵を目にする機会は、あまりない。戦後、外貨を稼ぐために海外に流されてしまったからである。応挙のように有名ではないし、直系の弟子もいない。だが、五十年足らずの生涯であった割には、残した作品は多かった。多かったし、技量の点では師を越えているようなところがあった。いや、越えている、というより、同じ画題でも内在する物が違うのだ」(1)。
  • 牛の如く、泰然自若に!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    長沢芦雪-Wikipedia
    (1)「鬼っ子

(2008.01.08掲載)



▲伊藤若冲とともに「奇想の画家」(辻惟雄評)、「奇想派」などと言われる長沢芦雪。
(イラスト 山口 晃氏)こちら


45年?の生涯

月照
Gessyou   【幕末期の尊皇攘夷派の僧侶】

(1813.?〜 1858.12.20=文化10年〜安政5年11月16日) 
前途に絶望して自殺---?座

  • 1813年、大坂の町医者の長男として生まれた。名は宗久、忍介、忍鎧、久丸。1827年、叔父の蔵海の伝手を頼って清水寺成就院に入る。そして1835年、成就院の住職になった。
  • しかし尊皇攘夷に傾倒して京都の公家と関係を持ち、徳川家定の将軍後継者争いでは一橋派に与したため、大老の井伊直弼から危険人物と見なされた。
  • 月照は弟に成就院を譲り、諸国を奔走し、尊皇攘夷を説いていた。幕府は、日米修好通商条約締結に際し、水戸藩に攘夷の決定を下させたのは月照の行動とみて、捜索していた。
  • 西郷隆盛と親交があり、隆盛が尊敬する島津斉彬が急死したとき、殉死しようとする隆盛に殉死を止めるように諭している。
  • 1858年8月から始まった安政の大獄で直弼から尊皇攘夷派の危険人物の一人として見なされて追われる身となり、隆盛と共に京都を脱出する。そして薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。
  • このため、月照も死を覚悟し、隆盛と共に錦江湾に入水自殺した。月照はこれで亡くなったが、隆盛は奇跡的に一命を取り留めている。享年46であった。
  • 月照は京都を脱出し、旧知の西郷の縁で島津斉彬を頼って薩摩まで行くが、斉彬は既に死亡しており、前途に絶望しての自殺と見られています。
  • 僧侶・月性とは別人。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    月照-Wikipedia
    月 照

(2007.01.25掲載)




▲安政の大獄で直弼から尊皇攘夷派の危険人物の一人として見なされて追われる身となった僧侶・月照。

 


辞世の歌
「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」

45年?の生涯

戸張弧雁
Kogan Tobari   【碌山の遺志を継いだ彫刻家】

(1882.?〜1927.?) 
死因?---?座

  • 戸張孤雁と荻原碌山は明治35年にニューヨークで出会った。二人とも若き画学生。
  • 碌山はその後パリに行き、ロダンと出会うことで彫刻に転じ、孤雁もまた碌山亡き後、碌山の遺志を継ぐかのように彫刻に転じた。
  • また孤雁は「創作版画」の世界でも大きな影響を与えた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2007.06.05更新)




▲碌山亡き後、碌山の遺志を継ぐかのように彫刻に転じた戸張弧雁。

45年?の生涯

岩田準一
Junichi Iwata   【男色研究のルーツ】

(1900.?〜1945.?)
胃潰瘍---?座

  • 志摩郡鳥羽町で生まれ。小学校の頃から絵が好きで、第四(宇治山田)中学校時代には既に雅号を持ち、屏風・軸・短冊に絵筆を揮っていた。
  • 抒情画家として有名な竹久夢二とも中学生のときに出会う。その後、親の意見もあって神宮皇学館に進むが、自由人としての肌にはなじめず、神宮皇学館を中退し、東京の文化学院絵画科に転校。
  • 文化学院は大正十年(1921)創立で、与謝野鉄幹晶子夫妻が創立に参画。与謝野夫妻とは古典全集の編纂などで既知の間柄で、竹久夢二も文化学院で教鞭をとっていた。そして、夢二の家の書生も務め、夢二の没後には『夢二抒情画選集』を編集刊行。準一の二十九歳のこと。
  • また、上京した準一は、江戸川乱歩とも旧交を温めた。乱歩は早稲田大学を卒業して鳥羽造船所に勤めており、中学生であった準一とは文学上の交わりがあった。乱歩の『パノラマ島奇談』や『踊る一寸法師』などの挿絵を担当したり、さらに、乱歩のピンチヒッターとして鼎銀次郎というペンネームで通俗読物も多数書いた。
  • 一方、準一は男色研究に強い意識をもっていた。風俗研究家と言われるゆえん。乱歩とともに関係資料を収集したり、南方熊楠翁と書簡による討議を行っているが、その傍ら民俗学も手掛けた。
  • 帰郷すると、早速「志摩のはしりがね」の習俗伝承の調査を継続するとともに、七年には当時民俗誌として有名な『郷土研究』に「志摩国鳥羽町方言集」を掲載し、注目される。その後、近畿民俗学会や渋沢敬三主宰のアチック・ミューゼアム(のち日本常民文化研究所と改称)の同人にもなり、特に志摩の民俗調査について多くの業績を残した。
  • 主なものをあげると、「志摩の蜑作業の今昔」(昭和九年)、「志摩のはしりがね」・「志摩国立神村の神事」・「志摩の漁夫の昔がたり」(昭和十五年)、「私の採集話」(昭和十六年)など。
  • そして、昭和二十年、準一は渋沢敬三から近衛首相の蔵書目録の作成を依頼され、上京後、胃潰瘍による出血のため他界。享年四十五歳。
  • 「江戸川乱歩、南方熊楠稲垣足穂、彼らはそろって男色に尋常ならざる関心を持っていた。岩田準一の『本朝男色考---』はこの分野に興味をもつ者すべてが出発点におくべき書物だが、岩田は在野の研究者だった。」(1)
  • 岩田準一は、大正時代に江戸川乱歩と男色文献収集を通じての交友があった。昨年末には、乱歩から岩田に送られた書簡が発見されている。
  • 鳥羽みなとまち文学館では、江古川乱歩や与謝野鉄幹、伊良子清白、稲垣足穂などの文学者と交わした書簡の一部を展示し、岩田準一の書斎も再現している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)朝日新聞2004.02.08朝刊『男色の民族学』?川全著の書評より。
    「県史Q&A 63−A」
    http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/Q&A/63A.htm

(2004.02.08更新)



▲江戸川乱歩と男色文献収集を通じての交友があった岩田準一。

45年1ヶ月と2日の生涯

江利チエミ
Chiemi Eri   【「テネシー・ワルツ」の歌手】

(1937.01.11〜1982.02.13) 
泥酔のため、吐いたものが気管支に詰まり死亡---山羊座

  • 「テネシー・ワルツ」「ウスクダラ」「新妻に捧げる歌」などのヒットで知られる歌手、「三人娘」の一人。東京市入谷区生まれ。本名久保智恵美。
  • 1951年14歳の時に「テネシー・ワルツ」でデビュー。
  • ジャズ、ラテン、ポップス、などさまざまなジャンルの外国曲を見事に歌いこなし、これらの音楽にあまりなじみがなかった当時の日本人の心に、すばらしい歌の数々を刻だ。この幅広い表現力は、小さいころ米軍キャンプ周りで身に付いた英語とリズム感、そして自身の明るい性格に支えられていた。
  • 同世代の人気スター、美空ひばり、雪村いづみと共に「3人娘」と呼ばれた。この3人を主人公にした映画『ジャンケン娘』『ロマンス娘』などは、ステージでは見られない3人の女学生ぶりや、豪華なレビューのシーンなど見所が満載で、大ヒットを飛ばした。
  • また、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』や『スター誕生』で主役を演じる。
  • 一方、持ち前の明るさとコメディ・センスを生かした映画『サザエさん』シリーズでも活躍するという、多彩なエンターティナーでもあった。
  • 「テネシー・ワルツ」は高倉健主演。『鉄道員・ぽっぽや』の映画の中にも使われている。高倉健は彼女と結婚、そして離婚したのだった。
  • 孫のあいりちゃんは、ボクの娘と小学校の同級生。(関係ないか)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.08.02掲載)




▲「テネシー・ワルツ」のヒットで知られる歌手・江利チエミ。

45年1ヶ月と14日の生涯---(2003年人類初の動力飛行から100年)

ウィルバー・ライト
Wilbur Wright   【人類初飛行者】

(1867.04.16〜1912.05.30) 
腸チフスで死去---牡羊座

  • 米国の飛行機製作者。ライト兄弟の兄。弟はOrville Wright〔1871〜1948〕。
  • 兄弟は牧師の子。共同で自転車店を営むかたわら飛行機を研究。グライダーによる飛行実験などを行う。
  • 1903年12月17日午前10時35分、米東海岸の砂丘ノース・カロライナ州キティ・ホークで、12馬力ガソリンエンジンを積んだ複葉機により、世界最初の動力飛行(この日の最高記録は滞空59秒、距離260m)に成功。 キティ・ホーク(現キル・デビル・ヒルズ)は大西洋に面した細長い砂州の真ん中にある。
  • 「ライト兄弟が人類初飛行を成し遂げてから、今年でちょうど百年。その時の飛行機「フライヤー」を、ビス一本に至るまで復元し、同じ時刻に同じ場所で再びとばそうという試みが記念行事の目玉として秒読み段階に入っている」(1)。
  • その後の航空機は、まさに幾何級数的な速度で発展した。「キティホークから月面まで、わずか66年だった」(オルドリン宇宙飛行士)。
  • 「人類が月面に立ったとは言え、なぜライト兄弟が飛べたのか完全に解明できていない。なぜ、兄弟がわずか4年間の研究で突然、飛行機を飛ばせたのかもわかっていない。世界最高の推理小説だ」(ケン・ハイド)
  • 「車並みのスピードから超音速へ、一人乗りから5000人乗りへ、-----稲垣足穂の『ライト兄弟に始まる』のなかに、第二次大戦のさなかの1943年12月12日、初飛行から40周年を祝う大統領主催の式典がワシントンであった。招かれたライト兄弟の弟オービルは、その夜航空関係者にこう言ったという「悪い奴が飛行機を歴史上最も致命的な武器に使用している(『稲垣足穂全集』筑摩書房)」(2)。
  • 「兄弟の空飛ぶ機械の構想は、ロマンと同時に、二人の工場の先行的製品の開発にねらいがあったといわれている」(3)。
  • 「---初飛行から11年後の第一次世界大戦では、早くも戦闘機が登場している。自転車屋だった兄弟は、エンジンとプロペラをチェーンつなぐ駆動方式にこだわったが、最終的にはエンジンにプロペラを直結した構造の飛行機に主導権を奪われてしまった。ウィルバーは1912年45歳で死去、これを機に、オービルは飛行機の開発をやめ、表舞台からひっそり姿を消した」。(4)。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  (1)読売新聞2003.12.05朝刊
  (2)2003.12.17朝日新聞朝刊「天声人語」のリライト
  (3)2003.12.18読売新聞夕刊「よみうり寸評」
  (4)(5)読売新聞2003.12.23朝刊「いきいきサイエンス」

(2004.08.17更新)






▲米国の飛行機製作者ライト兄弟の兄・ウィルバー・ライト(左)と弟オービル。


▲「ライト・フライヤー」の復元飛行機。 全長6.4m、巾12.3mの複葉機。2枚重ねの主翼と前後の補助翼を持ち、4祈祷2馬力のエンジンを搭載。パイロットは腹這いになって操縦する。初飛行には 5人の目撃者しかいなかった。---(5)

45年2ヶ月と5日の生涯

ジュールズ・パスキン
Jules Pascin   【モンパルナスの王子】

(1885.03.31〜 1930.06.05)
浴槽で手首を切り自殺---牡羊座

  • 1885年3月31日 ブルガリアのヴィディンに穀物商を営むユダヤ系一家に生まれる。本名 ユリウス・モルデカイ・ピンカス Julius Mordecai Pincas.
  • 1902年 ヨーロッパや北アフリカ、アメリカなどを旅行。ウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどでデッサンを学ぶ。ミュンヘンで「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として専属契約を結び、早くも素描家として高い評価を得る。
  • 1905年パリ移住。本格的に油画に取り組む。サロン・ドートンヌやアンデパンダン展に作品を発表する。
  • 1913年ニューヨークで行われた大規模な展覧会「アーモリー・ショー」に選抜され出展。 (アーモリー・ショーはアメリカで初めて本格的にヨーロッパのモダンアートが紹介された展覧会。デュシャンが『階段を降りる裸体No.2』を出展し名声を博した。)
  • 1914年第1次世界大戦を逃れ、ロンドンへ。 ニューヨークへ行き展覧会に出品。具象的な作品を描き始める。 その後、フロリダ、キューバへ行く。 1918年エルミヌ・ダヴィットと結婚。 アメリカの国籍を取得。
  • 1918年第1次世界大戦終結。 1921年、パリのモンマルトルに居を定める。 独自の画風を確立し、成熟期を迎える。 カフェの「ル・ドーム兄弟」や「ラ・クーポール」などで華やかな社交生活を送るも、アルコール依存と鬱病に苦しむようになる。 友人ペル・クローグの妻のリュシーと不倫関係になる。
  • 1930年6月5日 浴槽で手首を切り自殺。ドアに血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書かれていた。
  • パスキンの葬儀の日にパリのすべてのギャラリーは閉じて喪に服した。 何千人もの知人がサントゥアン墓地まで3マイルの道のりをパスキンの棺の後に列を成したという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジュール・パスキン-Wikipedia

    (2007.11.28掲載)


◎現実の魔術師

▲エコール・ド・パリ全盛の1920年代、モンパルナスで華やかな浪費生活をし「モンパルナスの王子」の異名を得たブルガリア人の画家ジュールズ・パスキン。


45年2ヶ月と12日の生涯

二葉亭四迷
Shimei Futabaei   【『浮雲』の生みの親】

(1864.02.28〜1909.05.10)
インド洋上で結核を再発し客死---魚座

  • 本名長谷川辰之助。江戸生れ。東京外語大露語科中退。
  • 坪内逍遥と交わり、評論『小説総論』を発表。また言文一致体のリアリズム小説『浮雲』(1887〜1889年)を書いて近代小説の先駆をなした。
  • ツルゲーネフを訳した『あひゞき』『めぐりあひ』の2編も最初の芸術的翻訳として知られる。
  • 1889年(25歳)以後創作の筆を断ったが、日露戦争後長編小説『其面影』『平凡』を書き、文学者としての名声を復活。
  • ロシアからの帰国の途中、寒気のために結核が再発。インド洋上で死去。
  • 「二葉亭四迷の「余が言文一致の由来」に記している。〈何かひとつ書いてみたいと思ったが、元来の文章下手で、皆目方向が分からぬ。そこで坪内先生の所へ行って、どのようにしたらよかろうかと話してみると、君は円朝の落語(はなし)を知っているやう。あの円朝の落語の通り書いて見たらどうかといいふ〉仕上げた作を見た坪内逍遙は〈忽ちはたと膝を打って、これでいい、この?でいい、生じっカ直したりなんぞせぬ方がいい〉と言ったという」(1)。
  • 「---だから『浮雲』は新しかったのだ。ただ、今読むには文章が難しくてとつっきにくい。私はそのうち、現代語訳『浮雲』というのを書いてみようと思う」(2)。
  • 「四迷の最後の言葉をお供えします。ペテルブルグで若い頃の肺結核が再発。明治42年5月10日、日本へ向かう船がベンガル湾に差しかかったところで絶命した。そのおり乗組員に家族への遺言を聞かれて、望郷の思いをおし隠すかのように「何もない」と答えた。ペテルブルグ出発前に既に遺書は書かれていた」(3)。
  • ペンネームの「二葉亭四迷」は「くたばってしめえ」から来ているのは有名。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)朝日新聞2004.08.12朝刊「天声人語」に載った「明治文学全集」(筑摩書房)からの引用を抜粋。
    (2)読売新聞2006.02.01夕刊「名作ここが読みたい」小谷野敦より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん..2009/ 4/28 18:58:28(火) [4688]

(2009.07.06更新)



▲『浮雲』で知られる明治期の小説家・二葉亭四迷。
(イラスト 大城さん)


◆南伸坊によるイラスト「雪雲」。

 

◆「誠に人生は夢の如しといふうちにも、小生の一生の如きは夢よりも儚くあわれなるものなるべし」
(四迷)

◆「凡人は聖人の縮図なり」
(二葉亭四迷)

45年2ヶ月と19日の生涯

フレディ・マーキュリー
Freddie Mercury   【「クィーン」のボーカル】

(1946.09.05〜1991.11.24)
HIV感染症---乙女座

  • イギリスのミュージシャン。「クィーン」のボーカル。ファルーク・バルサラ(フレディの本名)は、当時イギリス領だったアフリカ・ザンジバル島に生まれる。
  • 5才のころ、叔母からピアノの手ほどきを受けたのが、彼のミュージシャンとしてのスタートと言われ、その後寄宿学校時代に初めてのバンド「ザ・ヘクティクス」に参加し、ピアノとヴォーカルを担当。
  • ジミ・ヘンドリクスには、自らが移民であり、さらに白人でないという被差別意識、そして過去に例のないダイナミックでユニークな音楽性とファッション性をもっているという点で共感し、みずからのアイドルとしていた。
  • クイーンにおいては、独特のステージング、繊細かつパワフルで魅力的な声質のヴォーカル、キャッチーでいてユニークな音楽性で、ミュージシャンとしてのオリジナリティは誰にも真似のできないものだった。
  • また、クイーンのステージやグラフィック・アートなどの視覚的イメージのコントロールにも彼のセンスが発揮されており、メンバー4人の星座をモチーフにした「紋章」がフレディのデザインなのは有名。
  • クイーン結成後、クイーンの活動に留まらず、42歳にはアルバム「バルセロナ」でスペインのオペラ歌手モンセラ・カバリエとの競演に挑戦するなど、多彩な音楽的才能をしめした。
  • フレディはHIV感染症(エイズ)によりそのミステリアスな生涯を閉じた。
  • 名曲「ボヘミアン・ラブソディ」そして「レット・ミー・リブ」「伝説のチャンピオン」。実にオペラティークな楽曲だ。
  • 2004年、木村拓也主演のドラマで再ブレークしている。
  • WE WILL ROCK YOU! 昨夜は改装あいなった新宿コマ劇場で、ロックミュージカル「WE WILL ROCK YOU」を観た。チケットは水のさんが用意してくれ、彼の甥っ子と男三人で観た。全てQUEENの楽曲を使用したエンターテイメントだ。内容は「人生のセイムスケール-ロック編」を観る思いだった。実にオペラティークないい舞台だった。水のさんありがとう!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2009.07.20更新)



▲「クィーン」のボーカル・フレディ・マーキュリー。
(イラスト 玉野安実嬢)


▲ロックミュージカル「WE WILL ROCK YOU」

45年3ヶ月と5日の生涯

有島武郎
Takeo Arishima 

(1878.03.04〜1923.06.09)
「婦人公論」の記者波多野秋子と首吊り心中---魚座

  • 小説家、評論家。明治十一年、東京小石川(現、文京区)に高級官僚の長男に生まれる。
  • 三十四年、札幌農学校卒業。札幌農学校在学中キリスト教の感化を受け、卒業後渡米し社会主義に傾き、ホイットマンらの影響を受ける。キリスト教との葛藤、アメリカ留学と激動の青春期を過ごす。
  • 四十一年、母校の教授に赴任。翌春、神尾安子と結婚。四十三年(32歳)、志賀直哉武者小路実篤らと「白樺」を創刊、作家として出発。
  • 大正五年、肺結核で病床にあった妻安子、三児を遺し死去。大きな転機を迎え、本格的に文学者としての道を歩みだす。以後、短編「カインの末裔」、「生れ出づる悩み」ほかを発表。さらに八年、長編『或る女』(国木田独歩の妻だった佐々城信子をモデルに自由を求める新時代の女性の生き方を描く)を世に問い、名声を得る。つづき九年、『惜みなく愛は奪ふ』を上梓、本能的生活を軸とする自己絶対化の思想を展開。しかしその理想の作品化に困難をおぼえ、しだいに創作意欲を減退させてゆく。そしてまた階級運動の高まりにつれ、じしんが否定されるべき階級にあることを自覚させられる。
  • 34歳『宣言一つ』で階級闘争の激化に対する自己の限界を表明し、翌年人妻波多野秋子と情死。
  • 代表作に『或る女』『生まれ出づる悩み』『小さき者へ』など。
  • 「有島武郎と波多野秋子の情死。ことは大震災の年の大事件だった。人道主義を標傍する作家と有夫の美人記者が何故に心中を? 世間は驚嘆した。---疲労の色が濃くただよい、虚無の暗い影がぬぐえない。そこに出現するのが秋子である。十一年九月、ロシアのアンナ・パブロア舞踏団の「瀕死の白鳥」が公演される。このときたまたま武郎と席を近くした秋子は、機会を逸さず思い入れたっぷりの手紙をしたためる。これから二人の行き来ができ年を越して急速に親しくなる。秋子の美貌は有名だ。情死事件を報じる新聞に寄せて山田耕筰は言う。「妖婦的な感じのするあの黒い大きな眼で見据ゑられると大抵の男はすくんでしまう」。子供の頃から「臆病者で、言ひたいことも言はずにすますやうな質」(「一房の葡萄」)の武郎である。あるいはどここかで、すくんでしまったか。---六月五日、武郎と秋子は結ばれる。「姦通罪」があった時代である。これがすぐに夫春房の知るところとなる。じつはこの夫君がとかく評判の宜しくない問題の少なくない人士なのである。---九日未明、愛宕山山麓は有島別荘淨月庵で縊死。七月七日、発見。遺体には瀧のように蛆がわき腐乱していた」(1)。
  • 「有島武夫が足助素一に宛てた遺書の中の一節です。辞世の言葉としていいのではないでしょうか?
    〈愛の前に死がかくまでも無力なものだとはこの瞬間まで思はなかった〉」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「恋歌 恋句」
    http://homepage1.nifty.com/B-semi/koiku/arishima.htm
    (2)投稿者:ユリウスさん 2005.10.20(Thu) 01:14[690]

(2005.12.07更新)




▲「婦人公論」の記者波多野秋子と首吊り心中した作家・有島武郎。


◆「一房の葡萄」イラスト:南伸坊

 

◆「世の常のわか恋ならはかくはかりおそましき火に身はや焼くへき」
(有島武郎)

45年3ヶ月と9日の生涯

ウエス・モンゴメリー
Wes Montgomery   【ジャズ・ギターの革命者】

(1923.03.06〜1968.06.15)
心臓病説・ドラッグ説・過労説など---魚座

  • 米国インディアナ州インディアナポリス生まれ。19歳からギターを始め、地元のクラブで生活費を稼ぐためにライブハウスなどの出の演奏活動を開始する。
  • 親指によるピッキング、オクターヴ奏法、和音を駆使したフレージングなど独創的なプレイでジャズ・ギターに革命をもたらした。
  • 1948年ライオネル・ハンプトン楽団に参加するものの、50年に退団、インディアナポリスに戻る。1959年にキャノンボール・アダレイとの競演でブレイクする。
  • 彼の最高傑作と評されるアルバム「インクレディブル・ジャズ・ギター」もこの年に録音されている。この初リーダー作を発表してからは驚異的なテクニックでジャズ・ギターの表現力を大きく発展させた。
  • その後も、ビ・バップのスタイルで「フルハウス」などの名盤をリリースしていたが、67年に「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」でイージーリスニング路線に転向、セールス面でも成功する。
  • 1968年6月15日、故郷インデイアナポリスで、心臓発作のため生涯を閉じた。死因は心臓病説・ドラッグ説・過労説などがあるが本当のところは不明である。
  • スター・ギタリストとして第一線で活躍した期間は約10年と短いが、後進に与えた影響は計り知れない。
  • 親指1本でピッキングを行なうのが最大の特徴。 チャーリー・クリスチャンによって初めてエレキ・ギターでの単音弾きのソロがジャズに持ち込まれたわけだが、ウェスはそのスタイルを大幅に進化・成熟させて、ジャズ・ギターの礎を築き上げた。それまでアクセント的に使われるだけだったオクターブ奏法を頻用しジャズ・ギターの代名詞にまで引き上げ、シングル・ノートはもちろんのこと、ダイナミックなコード奏法を織り交ぜたスタイルは、ウォームながらドライヴ感のある音色とともに、現在までのジャズ・ギター・シーンに決定的な影響を与えている。
  • 「偉大なるウエス・モンゴメリーの名前を出さずしてジャズ・ギターを語ることは不可能だ。モンゴメリーはチャーリー・クリスチャンの後を引き継ぎ、エレクトリック・ギターをジャズ楽器として確立する上で重要な役割を果たした。58年から約10年間、ハード・バップにおける究極のギター奏者であり、稲妻のように速いバップのフレーズを、その泥臭くブルージーな音色と融合したのだった。彼はフォーク・ミュージックで見られるようなサム・ピッキングのスタイルを用い、また、よくオクターヴ奏法を使ってソロを弾いた。このことによって彼の音色はより豊かで柔らかいものとなったのだ。モンゴメリーはジャズ・スタンダードとして知られる「フォア・オン・シックス」、「ウェスト・コースト・ブルース」という2曲を書き、また何ダースものバップ・アルバムをレコーディングした。60年代半ばに入ると、よりコマーシャルなジャズを演奏するようになり、ポップスのヒット曲のインスト・ヴァージョンなどをレコーディングしてかなりの商業的成功を収める。この時期に彼は後のフュージョン・ミュージックの礎を築き始めたが、残念なことに68年、フュージョンが本格的に盛り上がる前に死亡してしまった。モンゴメリーの影響は現在のジャズのさまざまな分野において感じることができる」(1)。
  • ちなみに、映画スタートレックのトラヴィス・メイウェザー役などで有名な俳優のアンソニー・モンゴメリー(Anthony Montgomery)は、ウェスの孫。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    CDJournal.com - アーティスト - ウエス・モンゴメリー
    ウェス・モンゴメリー-Wikipedia
    (1)「Yahoo!ミュージック - ウェス・モンゴメリー - アーティスト情報

(2007.04.17掲載)




▲オクターブ奏法で一世を風靡したアメリカのジャズ・ギタリスト、ウエス・モンゴメリー。

45年3ヶ月と22日の生涯

ヤン・レッツェル
Jan Letzel        【チェコの建築家】

(1880.09.04〜1925.12.26)
死因?---乙女座

  • ヤン・レツルとも表記される。ポーランド国境に近いボヘミア・ナーホトで生まれた。実家はホテルを経営をしていた。
  • 1900年プラハで美術専門学校に入学し、ヤン・コチェラ教授の指導を受けた。彼はコチェラから石やコンクリートによるシンプルな近代建築の手法の影響を受けたほか、ユーゲント・シュティールやアール・ヌーヴォーの影響も吸収した。
  • エジプトで働いた後、1907年に来日、ゲオルグ・デ・ラランデの事務所を経て1909年に独立。第一次世界大戦中の1916年、チェコに帰国した。
  • 1918年、チェコ独立後、貿易省の仕事で再度来日。関東大震災後、チェコに帰国し、1925年にプラハで死去した。
  • レッツェルが設計を手がけた日本国内の建造物は、廃墟として姿を止めている広島県物産陳列館(原爆ドーム)を除き、ほとんどが地震・戦災・火災により消失し現存していない。
  • オリエンタルホテル(2代目、1907年頃、デ・ラランデとの共同設計):1945年、神戸大空襲により焼失。
    聖心女子学院校舎(1909年竣工):関東大震災で倒壊。正門のみ現存。
    上智大学:関東大震災で倒壊。
    双葉高等女学校校舎(1910年竣工):現存せず。
    大日本私立衛生会会館(1911年竣工):現存せず。
    宮城県営松島パークホテル(1913年竣工):1969年3月、火災により焼失。
    宮島ホテル(1917年竣工、広島):1952年8月、火災により焼失。
    広島県物産陳列館(1915年竣工):現在の原爆ドーム。
  • この他には、東京ステーションホテルの内装(現存せず)やチェコ通産省庁舎(現存)の設計も手掛けたと言われる。
  • 森照信『建築探偵奇想天外』によればチェコの温泉地ムシュネーにレツルの作品(1905年)が残っており、アール・ヌーヴォー風の壁画が描かれているという。
  • 「原爆ドームの設計者、ヤン・レッツェル」などと紹介されることがあるが、設計したのは広島県物産陳列館であって、原爆ドームではない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヤン・レッツェル-Wikipedia

(2009.01.27更新)



▲広島県広島市の広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の設計者として有名なヤン・レッツェル。

 

▲レッツェルの設計により竣工した広島県物産陳列館(1921〜33年頃)。この当時は県商品陳列所と呼ばれていた。




▲聖心女子学院校舎

45年4ヶ月と9日の生涯

梶山 季之
Yukitoshi Kajiyama  【時代を先取りした作家】

(1930.01.02〜1975.05.11)
食道静脈瘤破裂と肝硬変---山羊座

  • 父が朝鮮総督府に勤務の為、朝鮮京城で生まれた。五木寛之は南大門小学校の後輩。敗戦後引き揚げ両親の郷里、広島県佐伯郡廿日市町地御前(現廿日市市)で育つ。
  • 広島二中(現広島観音高)を経て広島高等師範学校国語科に入学。在学中から地元の同人誌を糾合し、広島文学協会を設立するなど精力的に活動。また私淑していた作家原民喜の自殺に衝撃を受け、彼を記念する碑の建立に奔走した。
  • 1953年卒業後上京。横浜鶴見工業高校の国語教師を務めた後、喫茶店の経営をしながら同人誌を主宰。
  • 1955年三浦朱門らのいた「新思潮」(第15次)同人になり小説を書く一方、フリーで「週刊明星」「週刊新潮」に記事を書いた。
  • 1958年ルポライターになり、1959年「週刊文春」創刊に際しトップ屋グループを作り名を売った。またこの時期「梶謙介」のペンネームで小学館の学年誌などに多くの冒険小説も書いた。
  • 1962年、自動車企業間の苛烈な競争を背景にした経済小説『黒の試走車』がヒット。「企業情報小説」、「産業スパイ小説」という新分野を開拓した。トップ屋をやめ多くのベストセラー小説やルポを書き、高度成長期の一躍流行作家となった。
  • 1966年、『週刊新潮』連載の小説『女の警察』により、刑法175条(猥褻物頒布)の容疑で略式起訴され、同誌編集長野平健一と共に罰金5万円の有罪判決を受ける。
  • 1969年には文壇長者番付第一位となった。
  • ジャーナリストの世界において、記事執筆のためのデータ収集を専門とする「データマン」、そしてデータマンの集めた情報を元に記事を執筆する「アンカーマン」という分業体制を確立したのは、日本では梶山が最初であると言われている。
  • あらゆるジャンルの作品を手掛けたが、生涯のテーマは、朝鮮・移民・原爆とも言われ、日韓併合による創氏改名に迫った『李朝残影』など資質の高い作品も残している。
  • 晩年は繁栄する世相を反映しエロティシズムへの傾斜を深めた。一文ごとに改行するスタイルは、時に原稿料目当ての枚数稼ぎとも揶揄された。
  • 1971年月刊「噂」を自費創刊。
  • 1975年5月7日、ライフワークである長編小説『積乱雲』の取材のために訪れた香港のホテルで突如吐血。一時は容態が安定するもののその後急変、5月11日早朝、食道静脈瘤破裂と肝硬変で死去した。まだ45歳の若さだった。
  • 作品数は多く、現在まで合計1000万部を超える売り上げとなっている。文庫でも絶版が多くなっているものの、近年、雑誌などの特集により、その膨大な作品群を再評価する動きが出ている。
  • 「梶山は文壇の先輩柴田錬三郎とドボンに興じて負け続けた結果、柴田に多額の借金を作ってしまった。その後、両人が或るホテルの開業記念式典に来賓として招かれた折、柴田は梶山に向かって「来賓として挨拶する時、お前が××××(女性器の卑語)と言ったら、これまでの借金を全部帳消しにしてやる」と言った。すると梶山は、自分の番が廻ってきた時、壇上のマイクの前で「私はポルノ作家の梶山季之であります。人生は、××××であります」と挨拶した。(立川談志「酔人 田辺茂一伝」1994年、講談社、p.187)
    女性の名器を指す「ミミズ千匹」を一般に知らしめたのは梶山の小説「女の警察」といわれる。この作品の創作のきっかけは、中国地方の温泉芸者で、昭和40年前後に400万のマンションを建てた女がいて、さっそく「ぜひお話をうかがいたい」と梶山が会いにいったことから。色白で27歳のなかなかの美人に「なぜそんなにお金がたまったか」と聞くと、某有名人が毎月30万ずつ送ってくれ、他にもいろいろ旦那がいたという。その訳を聞くと女は「私のはミミズ千匹らしいのです」と答えた。さらに試してみるかと言われ「30秒我慢できたら、私のマンションを差し上げます」とまで言われた。当然ながら挑んだ梶山だったが、17秒フラットでダウン。それでも「先生はお強い方ですわ」と言われた。様々な分野で流行小説を量産した梶山だが、そのバイタリティーは女に対しても同様で、スケベ物に関しての梶山の体験は、読書への情報とサービスになった。講演旅行で4日間のうち3晩は女を変え、一晩のうちに違う女を2人相手にすることもあったという。しかし梶山の浮気は律儀型浮気と言われ、生活の中に乱れたものはなく、人に恨まれることもなかったという」(1)。
  • 「梶山はめまぐるしく人生を歩み、膨大な作品を残した。死後、資料の整理を続けてきたが、私もその全貌を理解できない」(2)。
  • 「梶山季之の物凄いエピソードを一つ。彼はマスコミの注文に、内容如何を問わず、ことごとく応じた。それは師の大宅壮一の命ずるところだった。昭和43年の「別冊文芸春秋」新春特大号の締め切り一週間前に有馬頼義が倒れ、急遽梶山に依頼が来た。さあ大変、どうしたか。正味二日半、一睡もせずに「ミスター・エロチスト」なる三百枚の原稿を書き上げたという。作家というより、これはもうライティング・マシーンと言うしかありません。何ともすざましい才能の食いつぶし方」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    梶山季之-Wikipedia
    (1)東京スポーツ、日本性豪列伝 有栖川寧文、2007年7月11日
    (2)妻の美那江さん
    (3)投稿者:ユリウスさん..2007/ 8/24 20:32:26(金) [2238]

(2007.08.25更新)




▲週刊誌の創世記に「トップ屋」と呼ばれるルポライターとして活躍し、経済推理小説の分野を切り開いた小説家・ジャーナリスト梶山 季之。

 

45年5ヶ月と29日の生涯

シラー
Schiller    【ドイツの国民詩人】

(1759.11.10〜1805.05.09)
肺患---蠍座

  • ベートーヴェンの第九の歌詞、戯曲『ウィリヘルム・テル』などで知られる詩人・劇作家・歴史家。シュワーベンのマールバハの軍医の子。大公の命令で規律厳格なカール学校で法律と医学を学ぶ。
  • 処女作《群盗》や市民悲劇《たくらみと恋》などは〈シュトゥルム・ウント・ドラング〉の革命的情熱を示している。
  • 26歳では友人の領地に招かれ、ベートーベンにより『第九交響曲』の合唱テクストに用いられた『歓喜に寄す』の詩、戯曲『ドン・カルロス』を書く。
  • 28歳でワイマールへ行き、30歳からイエナ大学で歴史を講じ、カント哲学を研究、『三十年戦争史』や『素朴文学と感傷文学について』などの美学論文を著す。
  • 35歳から始まるゲーテとの親交は、やがて古典主義作家としての成熟をもたらし、『ワレンシュタイン』三部作、『ウィルヘルム・テル』などの大作を次々と発表。戯曲『デメトリウス』を未完のまま病没した。
  • シラーの戯曲は、自由の理念を追求する主人公が、破滅しつつも勝利者となる倫理的理想主義に貫かれており、ゲーテとともにドイツの国民詩人とたたえられる。
  • その活動は常に同時期のゲーテと比較された。筆が速く多作な人で、特に晩年になるほどスピードアップしているが、残念ながらわずか45歳で他界。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.08.02掲載)




▲ ゲーテとともにドイツの国民詩人とたたえられるシラー。

45年5ヶ月と28日の生涯

初代 引田天功
Tenkou Hikida   【魔術師】

(1934.07.03〜1979.12.31)
心筋梗塞でダウン→闘病生活を続けるも回復せず---蟹座

  • 最近何かと話題のプリンセス・テンコーの師、神奈川県横浜市で生まれ。本名は引田功。
  • 日大工学部を卒業。在学中に松旭斎天洋に師事。(日本のマジックを手妻から手品へと大発展させたのは「魔術の女王」とい われた松旭斎天勝とその師である天一。
  • 34歳から41歳まで7回にわたって行われた日本テレビの特番での大仕掛けな脱出マジックが彼の名前を高めた。
  • 特に特番で実行した「海中大脱出」は、手錠をかけ箱に入れられて水深20mの海に沈められた状態から脱出するというもの。アメリカの手品師ハーリー・フラーニが失敗して命を落としたという危険なもの。
  • 43歳にもまた新たな大脱出の特番を計画していたが直前に心筋梗塞でダウン。その後闘病生活を続けるも回復せず1979年12月31日死去。
  • 天功は自分以外に一座の中にスターを作ることを嫌う性格であったため、彼の死後誰が2代目を襲名するか明確でなく、結果的に弟子間でかなり激しい争いがあった。
  • これを最終的に制したのがその最後の特番の代役・朝風まりで、彼女が1980年12月「2代目天功」を襲名。襲名後ほぼ最初のテレビ出演で懐かしい「水槽大脱出」をやってみせる。
  • このとき彼女は今までにない大胆な衣装で登場。新しい時代の到来を予感させた。その彼女は、現在「プリンセス・テンコー」のニックネームで親しまれ、日本とアメリカを舞台にイリュージョニストとして盛んに活動。
  • プレイボーイとして多くの浮き名を流し、お金の管理もあまりうまくなくて2億円の借金を残して他界したという。
  • 「奇術師の苦悩というのがあるそうだ。観客をあっといわせる素晴らしい奇術をしてみせる。しかし、裏にあるのは往々にして、「あまりにばからしくて、奇術師自身が恥ずかしくて認めたくない」ようなトリックだという」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)C・グリースト『奇術師』(早川書房)。

(2004.06.17更新)




▲最近何かと話題のプリンセス・テンコーの師・初代 引田天功。




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スケールバー

スケールバー

 


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