玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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40-41-42-43-44-45-46-47-48-49

age 48


50音インデックス


■48歳の
 シンクロニシティ


■48歳-?
H・ホルツィウス
真田幸村
淀殿/淀君
高井 几董
都々逸坊扇歌(初代)
中島 三郎助
お登勢
本因坊 秀甫/村瀬秀甫

■48歳-前半
アル・カポネ
ジャン・ムーラン
織田信長
シドニー・パジェット
永山 則夫
ポリトコフスカヤ
上杉謙信
聖徳太子
渡辺崋山
ベンヤミン
カリール・ジブラン
坂口安吾
深浦加奈子
J.C.マクスウェル
レオン・フーコー
堀 辰雄
松本善豊

■48歳-後半→進む
ハーヴェイ・B・ミルク
ダグ・クームズ
平林初之輔
三木 清
マーガレット・ミッチェル
石井十次
ジェルジンスキー
逸見政孝
瑛九
太地喜和子
ロイ・ブギャナン
伊藤左千夫
カレル・チャペック
河島英五


■48歳のエポック



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48歳の語録

 

「臆病者の目には、敵はつねに大軍に見える」
(織田信長)

「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。ひとたび生えを得て、滅せぬ者のあるべか」(敦盛のひとふし)
(織田信長)

「作品は構想のデスマスクである」
(ベンヤミン)

「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信し 相愛す可き事」
(石井十次)

48歳のシンクロニシティ!

  • 48歳の人生は戦国大名にシンクロする。真田幸村、織田信長、上杉謙信だ。
      
    ●安土桃山時代の武将・真田幸村(1567.不詳〜1615.05.07)は大阪夏の陣にて戦死し48年?の生涯(
    ?座)。
    ●天下布武の改革者・織田信長(1534.05.12〜1582.06.02)は本能寺の変で48年と21日の生涯を自害(牡牛座)。
    ●越後の名将・上杉謙信(1530.01.21〜1578.03.13)も脳溢血で48年1ヶ月と20日の生涯(水瓶座)を終えた。

  • 小説家では坂口安吾、堀辰雄、マーガレット・ミッチェル、伊藤左千夫、カレル・チャペックがリンクする。
       
     
    ●太宰治と並んでデカダンスの作家としてあまりに有名な小説家・坂口安吾(1906.10.20〜1955.02.17)は脳溢血で48年3ヶ月と28日の生涯(天秤座)。
    ●『聖家族』で文壇デビューした堀辰雄(1904.12.28〜1953.05.28)は肺結核で48年5ヶ月ジャストの生涯(山羊座)。
    ●『風と共に去りぬ』で知られる米国の女性小説家・マーガレット・ミッチェル(1900.11.08〜1949.08.16)も酔っぱらい運転のタクシーに轢かれて48年9ヶ月と8日の生涯(蠍座)で死亡。
    ●男子たるものも涙流せる『野菊の墓』の生みの親・伊藤左千夫(1864.08.18〜1913.07.30)も脳溢血で48年11ヶ月と12日の生涯(獅子座)。
    ●チェコの作家, ジャーナリストで『山椒魚戦争』の作者として知られるカレル・チャペック(1890.01.09〜1938.12.25)も流行性感冒から48年11ヶ月と16日の生涯(山羊座)だった。

  • 哲学界ではベンヤミン三木清共に非業の死を遂げている。
     
    ●20世紀を代表するドイツのユダヤ系思想家・ベンヤミンがスペイン警察による強制送還の脅しにあい服毒自殺し48年2ヶ月と12日の生涯。
    ●『哲学ノート』などで知られる哲学者・三木清(1897.01.05〜1945.09.26) も治安維持法違反で入獄中に栄養失調、濃腎症で獄死し48年7ヶ月と21日の生涯(山羊座)で逝った。

  • 芸能界では太地喜和子河島英五である。
     
    ●「女」を演じた太地喜和子(1943.12.02〜1992.10.13)は不慮の自動車事故死で48年10ヶ月と11日の生涯(射手座)。
    ●「男」を歌った河島英五(1952.04.23〜2001.04.16)も肝臓疾患で48年11ヶ月と24日の生涯(牡牛座)をともに閉じた。

    (2006.12.09更新)    
                



48年?の生涯

ヘンドリック・ホルツィウス
Hendrik Goltzius  【オランダの版画家、素描家、画家】

(1558.?〜1617.01.01)
死因?---?座

  • ユーリッヒ公国のMillebrechtで生まれた。ホルツィウスは数年間、父親の下でガラス彩色の勉強をした後、オランダ人版画家D・V・コールンヘルトにビュランの技術を教わった。コールンヘルトはさほど実績もない人物で、ホルツィウスはすぐに師匠を追い抜いたが、師匠と弟子の立場は守り続けた。また、木版画出版者のフィリプス・ガレ(フィリップ・ガレ)に雇われ、ルクレティアの生涯を描いた連作版画を制作した。
  • 21歳の時、ホルツィウスはいささか年のいった未亡人と結婚した。彼女の出資でホルツィウスはハールレムに店を構えた。しかし、妻との関係は良好とはいえず、ホルツィウスは健康を害するまでに至った。1590年、ホルツィウスは思い立って、ドイツ経由でイタリアに旅行し、そこで見たミケランジェロの絵に強い衝撃を受けた。ハールレムに戻った時には健康も回復していて、それから死ぬまでその地で作品を作り続けた。
  • ホルツィウスのことを、彼が尊敬したミケランジェロの風変わりなイミテーションと断じる意見もあるようだが、ホルツィウスの肖像画(ほとんどがミニアチュールである)は、仕上がり具合からも人物の正しい把握からも、なかなかの出来で、その中でもとくに実物大の自画像はきわだっている。
  • ホルツィウスは「膨らんだ線」の使用に関してほとんど前例のないレヴェルに達している。遠景からの階調効果を生むために、ビュランはより厚い、より薄い線を描くよう扱われている。ホルツィウスは「点と菱形」技法のパイオニアで、階調の陰影をより精密にするために、点は格子模様によって作られた菱形の空間の中央に打たれていた。
  • ホルスタインはホルツィウスの版画を388点としているが、デザインだけ手掛けて他の版画家たちが制作したものは574点以上あると言っている。
  • ビュランの駆使技術に関してなら、ひょっとしたらホルツィウスはアルブレヒト・デューラーにひけを取らないのかも知れないが、それ以外の技術は、他のすぐれた版画家たちの腕には及ばない。それでも、ホルツィウスの突飛さ、過度の虚飾さはそれを補って余りある。作品も美しく、自由奔放である。ホルツィウスはバルトロメウス・スプランヘルの描いた絵の版画化で(後には彼自身の作品で)名声を高めた。
  • ホルツィウスは42歳になって絵を描きはじめ、そのいくつかはウィーンの帝国コレクションにあるものの、この分野ではとくに傑出したものは見あたらないように思える。キアロスクーロ版画も僅かながら作っている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヘンドリック・ホルツィウス-Wikipedia

(2009.01.31掲載)



▲バロック初期のオランダのエングレービングの代表的作家で、輝かしい才能と革新的技術を持っていたヘンドリック・ホルツィウス。
▲自画像


▲『ホラティウス・コクレス』
(1586年)


▲ホルツィウス『人類の堕落』
(1616年)

48年?の生涯

真田幸村
Yukimura Sanada   【真田十勇士のボス】

(1567.不詳〜1615.05.07)
大阪夏の陣にて戦死---?座

  • 安土桃山時代の武将。信濃上田城主昌幸〔1547-1611〕の子。本名信繁真田家は元々信濃の出身で、真田幸村の祖父の真田幸隆の代に頭角を表した。
  • はじめ海野平を拠点とする海野氏に仕えていたが武田信玄の父の信虎が1541年海野氏を破ると、信虎を追放して甲斐国主となった武田信玄の力量を見込んで、これに従う。しかしその信玄が上洛途中で死に、子の勝頼の代になると長篠の戦いで織田徳川の連合軍に敗れ、真田家当主の真田信綱も戦死。真田家は弟の真田昌幸が継ぎ、織田に仕える。
  • ところが織田信長は本能寺に倒れると、真田昌幸ははじめ徳川家康に従いうが、後に長男の信幸を徳川方に残し、自分と次男の幸村は豊臣秀吉に付き従う---これは次の天下が豊臣になるか徳川になるか分からないので、子供を双方に付かせれば、どちらかは生き残るであろうという、まさに小大名ならではの厳しい究極の選択。
  • そして兄弟は関ヶ原・大阪冬の陣・夏の陣、と敵味方に分かれて戦う。幸村は豊臣秀吉に近侍し、小田原征伐に参加。関ヶ原の戦で、父とともに徳川秀忠の西上を中山道で阻止。
  • 戦後高野山麓に蟄居したが、大坂の陣に豊臣秀頼に招かれ大坂城に入城。冬・夏の両陣に知略をもって奮戦し戦死。
  • 信幸は昌幸の意図通り生き残り、沼田の地で明治の廃藩置県まで大名として家が存続。
  • 戦国時代、天下を統一しようというほどまでの力量のない小さな大名はこうして、強そうな所、強そうな所に付き従って、生き延びていった。
  • 「真田幸村の辞世。(死の二ヶ月ほど前に、家臣に書いた手紙の一節)
    定めなき浮世にて候えば、1日さきは知らざることに候
    (秋庭道博著「サムライたちの遺した言葉」による)(1)。
  • 「猿飛というのは人の名ではない。猿飛の術を使う者すべて猿飛なのだ」(2)。
  • 真田十勇士は真田幸村に仕えたとされる10人の勇士の総称。猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、海野六郎、筧十蔵、根津甚八、望月六郎、由利鎌之助をいう。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.08.24(Wed) 11:55[550]
    (2)白土三平著『サスケ』(小学館文庫)

(2006.03.05更新)




▲安土桃山時代の武将・真田幸村。


◆真田幸村を演じた渡瀬恒彦。

 


◆智将 真田幸村
大阪の陣に本懐を遂ぐ
阿見宏介 著 / PHP研究所
家康の野望を見過ごすわけには行かぬ! 最後の激戦・大阪の陣に、武将としての意地を賭けて戦い抜いた男・真田幸村。痛快時代長編。

48年?の生涯

淀殿/淀君
Yodo       【天下人の愛人】

(1567.?〜1615.06.04=永禄12年〜慶長20年5月8日)
自害--- ?座

  • 近江国(滋賀県)に生まれる。戦国時代から江戸時代初頭にかけて生きた女性で、豊臣秀吉の側室。幼名は茶々(ちゃちゃ)。名字は浅井、浅井氏の本姓は藤原。名は菊子。
  • 近江の大名浅井長政の長女。母は織田信秀の娘のお市で、織田信長の姪に当たる。妹に初(常高院、京極高次夫人)と於江与(崇源院、徳川秀忠夫人)がいる。
  • 子に棄(鶴松、夭折)、拾(豊臣秀頼)。生年は長らく永禄10年(1567年)とされてきたが、近年では永禄12年(1569年)誕生説が有力になっている。
  • 1573年(天正元)に父・長政が母の兄・信長に敵対して攻められ、小谷城が落城すると母とともに信長に助けられた。
  • 信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に殺された1582年(天正10)、母お市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚すると、茶々は母とともに共に北の庄(現在の福井市)に移る。
  • 信長の死後に秀吉と養父・勝家が対立し、1583年の賤ヶ岳の戦いに勝家が破れると、お市は勝家とともに自害したが、茶々ら三人の娘は逃がされて秀吉の保護を受けた。実父・義父・実母の死亡にすべて秀吉が深く関わっているという、何とも皮肉な結果になっている。
  • 1588年頃、本人の意に反する形で秀吉の側室にさせられる。
  • 1589年にはお捨(鶴松)を生み、これを喜んだ秀吉によって山城国淀城を与えられ、淀殿あるいは淀の方と呼ばれるようになった(現在残っている淀城の遺構は江戸時代に再建された淀城跡である)。鶴松は1591年に死亡するが、1593年に秀頼を生み、秀吉の死後は秀頼の後見人として豊臣家政の実権を握った。 なお、鶴松を産んだときに高野山へ父母の肖像画をおさめ、秀頼を産んだときに父母ら血縁の菩提を弔うために、養源院(浅井長政の院号。開基は一族の成伯。)を建立した。秀吉死後、高野山の修復にも当たっている。
  • 1600年(慶長5年)に五奉行の石田三成が五大老となった徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣氏の直轄領は大幅に削減される。
  • 関ヶ原の後に江戸に武家政権を構築しはじめた徳川家康と対立し、臣従を求める秀頼の上洛要求などを拒否する。1614年(慶長19年)と1615年(慶長20年)の大坂の役で徳川勢に完敗し、大坂城落城に際して秀頼や大野治長らと共に自害した。
  • かつては一般に淀君という呼び方が知られていたが、「淀君」の「君」は遊女を指す言葉であり、江戸時代に広められた侮辱呼称であるため、現在では殆ど使われなくなった。
  • 墓所は京都市東山区の養源院ほか。戒名は大虞院英厳大禅定尼、大虞院花顔妙香、大広院殿英?と伝わる(秀吉の死後、落飾して「大広院」と名乗っていたという説あり)。
  • 「従来は豊臣の家を滅ぼした悪女として名高かった淀殿だが、現在ではこのような説が有力になってきている。大坂の役から元禄時代にかけての江戸時代初期の日本では、真田信繁など大坂方の武将達が、大名から庶民に至るまで幅広く多くの人々から英雄として扱われていたが、大坂を攻め滅ぼした幕府としてはこのような事態を放っておく訳にもいかず、かと言って全部を取り締まることも事実上不可能であった為、大坂方に悪役が必要となり、淀殿が「豊臣家を滅ぼした悪女」にされたのである」(1)。
  • 「淀殿について:大坂夏の陣直前、家康の講和条件を受け入れ江戸に人質に行こうとしたものの息子の秀頼がこれを嫌い夏の陣開戦となった。淀殿死後、侍女達はひっそりと彼女の墓前にあつまり代々法要を営んでいた(ウィキペディア)。さて近年、茶々姫はお市の方の連れ子で実は信長の子!?というとんでも説が流れていますが…肖像画の恰幅を見る限りお父さんの浅井長政さんにそっくりです。清楚で小柄な美人ではなくグラマラスな大柄美人だったようです。両親を早くに亡くした所為か妹、そして息子秀頼には深い愛情を持っていた。それが罪といわば言えと泉下の彼女は言い切るでしょう。大坂城落城の間際まで息子の助命を願っていたのもただただ息子の命を助けたかった為だと思います」(2)。
  • 「 淀殿について補足です。:夏の陣落城の時、妹お初、秀頼の妻で姪の千姫、そして多数の城内の侍女が落ち延びるのに成功しています。おそらく淀殿が逃がしたのだと思います」(3)。
  • 「学研まんが「淀君」は小学校時代の愛読書の一つでした(こちら)」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)本文「淀殿-Wikipedia
    (2)(3)投稿者:Miwaさん.2009/ 5/13 22:25:40(水) [4817] /..2009/ 5/13 22:38:31(水) [4818]
    (4)投稿者:マイマイ さん..2009/ 5/13 23:43:17(水) [4819]

(2009.0514更新)




▲浅井氏滅亡後、母が再嫁した柴田勝家に養われ、柴田氏滅亡後、秀吉の側室となり、秀頼を産み秀吉に寵愛され、秀吉の死後秀頼を擁し、徳川家康に対抗したが、大坂の陣で敗れ自殺した淀殿/淀君。

 


◆「淀君人物叢書」 新装版  著者/訳者名 桑田忠親/著 吉川弘文館


◆(本郷座沓手鳥孤城落月)淀君(歌右衛門)


48年?の生涯

高井 几董
Kitou Takai          【俳句中興の祖】

(1741 ~1789.12.09=寛保元年〜寛政元年10月23日)
死因?---?座

  • 夜半亭三世。別号に晋明、高子舎、春夜楼、塩山亭。
  • 京都の俳諧師・高井几圭の次男として生まれる。幼名は小八郎。父に師事し俳諧を学び、初号を雷夫と称した。宝井其角には特に厚く私淑していた。明和7年(1770年)30歳の時、与謝蕪村に入門した。入門当初より頭角を現し蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。
  • 安永7年(1779年)には蕪村と二人で大坂・摂津・播磨・瀬戸内方面に吟行の旅に出た。温厚な性格で蕪村の門人全てと分け隔て無く親交を持った。門人以外では松岡青蘿、大島蓼太、久村暁台らと親交を持った。
  • 天明3年(1784年)に蕪村が没すると直ちに蕪村句集を編むなど俳句の中興に尽力した。京都を活動の中心に据えていたが、天明5年(1785年)蕪村が師である早野巴人の「一夜松」に倣い「続一夜松」を比野聖廟に奉納しようとしたが叶わなかったので、その遺志を継いで関東に赴いた。この際に出家し僧号を詐善居士と名乗った。天明6年(1786年)に夜半亭を継承。この年に「続一夜松」を刊行した。
  • 寛政元年(1789年)歿、享年49(数え)。
  • 「蕪村門下の重鎮となった。蕪村没後は夜半亭三世を襲名した。 温和質実で、同門すべてと親交し、句風は新鋭さはないが巧妙繊細であった。「基雪影」「井華集」等」(1)。
  • 几董(きとう)---読めまへんがな。亀頭ではありませぬ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    高井几董-Wikipedia
    (1)「SAIJIKI HOMEPAGE

(2006.04.17掲載)


★肖像を探しています

▲江戸時代中期の俳諧師・高井 几董。

几董の句
「水に落ちし椿の氷る余寒かな」
「絵草紙に鎮おく店や春の風」
「むらさきに夜は明けかかる春の海」
「明(あけ)いそぐ夜の美しき竹の月」
「秋あつき日を追うて咲く木槿(むくげ)かな」
「淋しさの年々高し花芒(すすき)」
「かなしさに魚喰ふ秋の夕べかな」
「やはらかに人わけゆくや勝角力」
「年かくすやりてが豆を奪ひけり」
「穢多村の裏を逃げ行く清水かな」
「年ひとつ老いゆく宵の化粧かな」
「松とれて世ごころ楽し小正月」

48年?の生涯

都々逸坊扇歌(初代)
Bousenka Dodoitsu   【都々逸の祖/なぞ坊主】

(1804.?〜1852.12.10=文化元年〜嘉永5年10月29日)
病に伏し没す ---?座

  • 都々一坊 扇歌とも表記される。水戸領磯部村(常陸国現在の茨城県常陸太田市)に、 岡玄作という医師を父に、四人兄弟(男二人、女二人)の末っ子として生まれる。 幼名は子の松(ねのまつ)、のちに福次郎と改める。
  • 七歳で痘瘡を患らった時に、治療医である父親が、 医書の真偽を確かめようと痘瘡の病人には大毒といわれる鰹を与え半失明となる。
  • 二十歳の頃江戸に出て、音曲噺で有名な落語家の初代船遊亭扇橋に弟子入りし、 その後、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍。
  • その芸は、都々逸をはじめとした唄・三味線だけでなく、 「なぞ坊主」の異名を取るほど謎かけに長けていた。 やがて、江戸で一番の人気芸人となり、 八丁四方では寄席の入りが悪くなるという意味で、 仲間うちから「八丁あらし」とあだ名された。
  • 世相を風刺した唄も沢山作ったが、 晩年にはそれが幕府・大名批判とされ江戸を追放される。 1852年に府中(現在の茨城県石岡市)に嫁いだ姉の住まいにて病に伏し没す。
  • 都々逸は、当時上方を中心に流行していた「よしこの節」や名古屋で流行していた「名古屋節」を元に扇歌が誰でも唄えるような曲調に仕上げたものと言われている。
  • 石川淳の『諸国畸人傳』に、都々一坊扇歌の伝記がある。
    落語『包丁』のまくらとして、六代目三遊亭圓生は都々逸坊扇歌の話を取り上げている。

  • 終焉の地の石岡市には、墓碑がある。
  • 「ドドイツドイドイ :扇歌堂 都々逸坊扇歌は、久慈郡佐竹村磯部(現常陸太田市)の医者の家に生まれた。音曲好きが極まって芸人になるべく郷里を出た。幼いころに患った疱瘡がもとで盲目に近かったが、三味線ひとつかかえて修行に出たという。各地を遍歴したのち、江戸に出て音曲噺家となり、高座に上るようになる。俗曲(流行歌)の『よしこの節』の調子と『名古屋節』の「そいつはどいつだ、ドドイツドイドイ」という囃子詞を組み合わせ、それが都々逸と呼ばれるようになった。自らも都々逸坊と名乗り人気を博したが、高座で幕府を風刺したために江戸払い(江戸追放)の処分を受けている(1850年)。その2年後に府中(現石岡市)で没した」(1)。
  • 「---と言う事で、都々逸坊の没地に建つ扇歌堂の案内板を拡大すると、其処には肖像が書かれて居ります。こちら 
    また、生誕の地に建つ石碑の前には、保存会の手に依って此の様な像が建ったとか………。こちら」(3)。

  • 都々逸とは七・七・七・五からなる短詩型の文芸。俳句や川柳、短歌の仲間。特に明治以降のどどいつは 純粋に「文芸」「詩」であるといっていい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    都々逸坊扇歌 - Wikipedia
    (1)「発見!! いばらき|都々逸坊扇歌
    (2)「常陸国府
    (3)投稿者;Thori_Tung さん..2008/10/ 8 11:04:49(水) [3715]


    ◆薬師堂の裏に小さな堂が一つ建っている。
    都々逸を江戸に流行させた都々逸坊扇歌の堂だ。
    風刺の効いた都々逸を流行させた罪で、江戸を追われ
    この地で没したという。彼の作と言われる都々逸を、紹介しよう。
    こうして こうすりゃ こうなるものと 知りつつ こうして こうなった。---(2)。

(2006.04.17掲載)




▲江戸末期に一世を風靡した寄席芸人で都々逸の祖・都々逸坊扇歌(初代)。

扇歌作の唄---それほど多くは残っていない。

◆「親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな」
藪医者の息子ごときが芸人として大成できるわけがない、と叔父に江戸行きを止められたときに唄ったとされる。
◆「わたしゃ奥山一もと桜 八重に咲く気はさらにない」
◆「たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車」
◆「白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡」
願人坊主のようななりで三味線片手に流浪していた際に自分の姿を唄ったものともいわれる。
◆「乗り出した船じゃわいな 沖の果てまで さあさやりましょ面舵取り舵ゃ 船頭さんの胸じゃいな」
扇橋に弟子入りを志願した際にこの唄を唄い無事弟子入りがかなったとされる。「船頭」は扇橋とかけている。
◆「磯部田圃のばらばら松は 風も吹かぬに木(気)がもめる」
生まれ故郷の風景を唄ったもの。
◆「諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた」
◆「都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな」 (辞世の唄)
また、扇歌作の狂句(川柳)も残っている。
◆「上は金 下は杭無し(食いなし) 吾妻橋」
庶民はその日食うにも汲々しているのに政官の連中は金にあかした生活をしている様を吾妻橋にたとえて風刺した。
◆「真直に 行けば五条(五常)の 道に出る」
◆「気に入らぬ 節もあろうに 材木屋」
通人で知られた千葉の材木屋の宴席に呼ばれた際に唄った唄。
◆「耕すの 恩は忘れず 米の味」
江戸で名を上げて故郷に帰った際に、両親や叔父の墓前で唄ったとされる

48年?の生涯

中島 三郎助
Saburousuke Nakajima     【幕末期の幕臣】

(1821.?〜1869.06.25=文政4年- 明治2年5月16日)
戦死---?座

  • 蝦夷共和国箱館奉行並。諱は永胤。雅号は木鶏。喘息の持病があったという。
  • 若い頃より勉学に励み、特に砲術を得意としたという。また俳諧、和歌を父・清司より手ほどきを受けたと伝えられている。 天保6年(1835年)、浦賀奉行与力見習となる。天保8年(1837年)、モリソン号事件で砲手を務め、褒美を受けている。 嘉永2年(1849年)、父の番代として、浦賀奉行与力に召抱えられた。
  • 嘉永6年6月(1853年7月)にペリー艦隊(黒船)が日本浦賀沖に来航した際に、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦サスケハナに乗船した。その後、浦賀奉行戸田氏栄ら重役に代わり、香山栄左衛門とともに米国使者の応対を勤めている。 アメリカ側の記録では、船体構造、搭載砲、蒸気機関を入念に調査したことから、密偵のようだと記されている。
  • ペリー帰国後、阿部正弘に提出した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張。嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副将に任命された。
  • 安政2年(1855年)江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所に第一期生として入所、造船学・機関学・航海術を修めた。 帰府後、安政5年(1858年)に築地軍艦操練所教授方出役に任ぜられた。 安政6年(1859年)、浦賀の長川を塞き止めて日本初のドライドックを建設、遣米使節に随行する咸臨丸の修理を行った。 万延元年(1860年)、軍艦操練所教授方頭取手伝出役に進んだが、病気のために文久元年(1862年)出役御免となり、与力に戻った。
  • 元治元年(1864年)に富士見宝蔵番格軍艦頭取出役に任ぜられたものの、再び病気となり、慶応2年(1866年)、出役御免、同年末には与力の職も、長男・中島恒太郎(1848-1869)に譲った。 慶応3年(1867年)に再奉公を命じられ、軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役に進んだ。
  • 慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁榎本武揚らと行動を共にして同年8月19日に江戸品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争に至った。箱館政権(蝦夷共和国)下では箱館奉行並を勤めた。戦時は本陣前衛の千代ヶ岡陣屋を守備し陣屋隊長として奮戦、箱館市中が新政府軍に占領されたため新政府軍より降伏勧告を受けるもこれを拒否。徹底抗戦を主張した。本陣五稜郭降伏2日前の明治2年(1869年)5月16日、長男恒太郎(22歳)・次男英次郎(19歳)・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)と共に戦死。享年49。
  • 中島は俳人としても知られていたと言う。江戸脱出の際にも一句詠んだ。〈乙島(ツバメのこと)や 翌日(あす)はときは(常盤)の 国の春〉明治2年(1869年)3月、箱館旧幕府軍追討令が新政府軍より下された事を知った榎本はじめ箱館政権幹部らは、同月14日に咬菜園と言われる当時箱館に名高い庭園で別盃の宴を催した。その際、中島は以下の2つを辞世の句として残したと言う。〈ほととぎす われも血を吐く 思い哉〉〈われもまた 死士と呼ばれん 白牡丹〉
    中島三郎助父子最後の地碑:昭和6年(1931年)、箱館戦争に散った中島父子を記念して千代ヶ岡陣屋付近の土地が中島町と名付けられた。現在中島町には中島三郎助父子最期の地碑が建っている。
  • 東浦賀町の東林寺が菩提寺である。 明治24年(1891年)、中島の二十三回忌にあたり、中島を慕う地元の人々によって、愛宕山公園に中島三郎助招魂碑が建てられた。またその時、中島の業績を称えて浦賀にドックを建設することを荒井郁之助が提唱、榎本武揚の支援を受け、明治30年(1897年)、浦賀船渠株式会社が設立された。現在、住友重機械工業の合併に伴い閉鎖されているが、中島三郎助まつり・咸臨丸フェスティバルの会場に利用され、横須賀市による整備計画も進められている。
  • 交友関係:勝海舟とは不仲であったという。(吉田松陰による)/吉田松陰・宮部鼎蔵 嘉永7年(1854年)に訪問を受け、海防について教授した。/来原良蔵(長州藩士・木戸孝允義弟) 安政元年(1854年)に操銃を教授した。/木戸孝允(桂小五郎) 安政2年(1855年)、中島家に寄宿し、造船学を学んだ。中島の死後、家族を保護し、中島の娘を養育した。/福澤諭吉 福翁自伝によれば、慶応3年(1868年)、公金横領の疑いで謹慎しているところを救ったという。/榎本武揚 長崎海軍伝習所以来の仲であり、三男・与曽八を養育した。
  • 親族:父・中島清司永豊は書院番与力・関氏から、代々浦賀組与力を勤める中島家に養子入りした人物で、弘化3年(1846年)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルとの交渉にあたった。幕府に提出した意見書「愚意上書」で軍艦の建造を主張している。与力に再任されていたが、安政五年(1858年)、三郎助次男、英次郎(1851-1869)に跡を譲った。/三男・中島与曽八は佐々倉桐太郎の尽力で、中島恒太郎の跡を継ぐ形で静岡藩三等勤番組となり、家名を残した。長じて海軍機関中将となり、勲一等旭日大綬章を受章している。/ペリー来航時、浦賀奉行と称して共に交渉に当たった香山栄左衛門は義弟にあたる。/岡田井蔵は妻すずの実弟であり、中島自身の従弟(父の弟の子)でもある。/三河吉田藩士・穂積清軒(幕府翻訳方を務めた洋学者)は甥(姉の子)である。
  • 「中島三郎助さんのお話:俳人である三郎助=木鶏は最後の箱館時代=同じく俳句を趣味とする豊玉氏こと土方歳三と親しかったらしい。二人は明治元年の師走29日、箱館山の麓に住む俳人、孤山堂無外氏に年忘れの句会に招かれた。それが二人の最後の年の瀬となったー。豊玉は友に死に遅れた悔いなのか、読んだ句は〈わが齢 氷る辺土に 年送る〉対して、開国の始まりから戊辰の最終局面まで体験してきた木鶏の句は〈さざ波の ままにみぎはの 氷かな〉文明開化の空気をいち早く感じた幕臣、中島三郎助は、幕府に殉じる形で箱館で散った。参考文献は「明治俳壇史」村山古郷著」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    中島三郎助-Wikipedia
    (1)投稿者:MIWAそーめんさん..2011/ 1/10 13:41:32(月) [8622]

(2011.01.11更新)



▲嘉永7年(1854年)に完成した日本初の洋式軍艦鳳凰丸の製造掛の中心として活躍した中島 三郎助。






48年?の生涯

お登勢
Otose    【維新は寺田屋の一室から生まれたり】

(1829.?〜1877.09.07=文政12年頃 〜明治10年)
死因?---?座

  • お登勢は明治30年のこの日に48歳で亡くなるまで、約30年間に渡って女将をつとめた。
  • 大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。
    京都伏見の船宿である寺田屋第6代目の主人・寺田屋伊助の妻となったが、夫は放蕩者で経営を悪化させたうえ、酒を飲みすぎたために病に倒れて若死にし、以後は彼女が寺田屋の経営を取り仕切った。
  • 人の世話をすることが大好きだったことから、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされて、牢に入れかけられたこともある。
  • 1863年、寺田屋事件が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった後、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたといわれている。
  • その後は龍馬や尊皇攘夷の志士をたびたび匿ったといわれている。1877年、死去。
  • 龍馬とは一説には愛人関係にあったと言われているが、彼女は龍馬より10歳以上は年上だったと言われているので、これは疑わしい。現在、龍馬が彼女に宛てた手紙の多くは、彼女に頼み事や泣き草を聞いてもらうようなものが多く、生母を12歳のときに失った龍馬にとっては、母親代わりのような存在だったのではないかと思われる。
  • 「維新の英傑、坂本竜馬が定宿としていた寺田屋。竜馬はここで日本の将来を想い、維新の英雄達と語り、命を狙われ、そして恋をした。勝海舟の筆によれば、『寺田屋は竜馬子、この宿にいることしばしなり。主婦は奇女にて、よく竜馬を知れり』と寺田屋伊助の妻、女主人お登勢を紹介。河原町四条上るに菊屋という本屋があり竜馬はその店をひどく気に入り、ましてやそこの息子の峰吉を可愛がっていた。場所は河原町土佐藩邸の向かい。竜馬はお竜と会うのに土佐藩邸では流石に都合が悪く、度々菊屋を利用していた。竜馬はお竜一家の悲惨な生活振りを聞いて、ある日、馬を飛ばして伏見の寺田屋まで行き、馬上から、お竜を養女にしてくれるよう寺田屋お登勢に願い出る。ビックリしたお登勢はまぁ竜馬の願いなら仕方なしと養女に頂戴しますと竜馬に返答。竜馬の騎乗した馬はもう砂塵をあげて竹田街道に向って駆けていた。と「竜馬はゆく」では書かれている」(1)。
  • 「文久2年討幕急進派は寺田屋に集い決起を企てた「寺田屋騒動」が起きる。建物は当時のまま現在でも使われており、薩摩藩士の同士討ちとなった寺田屋事件の刀傷や銃の弾創が、100年以上経た今でも店の柱に残っている。2階には竜馬の肖像画の掛軸や、竜馬の恋人、お龍が裸で上った梯子なども健在。店内はまさに、生きた坂本竜馬の息吹の感じられる数少ない場所である。竜馬ファンならずとも、幕末維新の志士・剣客の好きな方は一度は訪れておくべき場所。ところで、庭にはお登勢大明神が祀られている。これは、竜馬と恋人のお龍を引き合わせた当時の女将であるお登勢を祀ったもので、恋愛成就のご利益があるといわれている」(2)。
  • 「維新は寺田屋の一室から生まれたり」と言われる様に明治維新の舞台となった。「店」の問題。ボクはお登勢を「現代日本の生みの親」だと勝手に思う者です。記念すべきバイボ3000にはだいぶ前からお登勢さんと決めておりやんした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    お登勢-Wikipedia
    (1)(2)? 保存ミス ごめんなさい。

(2007.06.27掲載)




▲坂本龍馬ゆかりの宿、寺田屋の当時の女将・お登勢。





◆NHK金曜時代劇「お登勢」待ってます。日本の夜明け!  でのお登勢役(沢口靖子)

48年?の生涯

本因坊 秀甫/村瀬秀甫
Syuho Murase   【十八世本因坊】

(1838.?〜1886.?=天保9年〜明治19年10月14日)
死因?---?座

  • 本名は村瀬秀甫(むらせしゅうほ)。生国は江戸。本因坊丈策、秀和門下、八段準名人、十八世本因坊。法名は日寿。
  • 奔放な棋風で知られる。江戸幕府の庇護がなくなった明治期に囲碁結社方円社を主宰して囲碁界を支え、さらに西欧にまで広める端緒をつくった。著書に『方円新法』など。
  • 2007年に囲碁殿堂入り。
  • 坊門時代 :江戸の上野車坂下の、本因坊道場の隣家の貧しい大工の家に生まれる。幼名彌吉。弘化3年(1846年)8歳で本因坊丈策に入門。前述の家庭事情もあり、謝礼金を払えないこともあったという。そのためか内弟子になってからは家事万端よく働き、朝は一番に起きて夜は遅くまで碁の勉強に励んだという。11歳で初段。14歳の時に内弟子となる。
  • 嘉永7年(1854年)17歳で四段となり、この年に本因坊塾頭の岸本左一郎帰郷により、代わって塾頭を勤める。安政2年、秀和の美濃、京、大阪への旅行に随伴し、五段格を与えられる。万延元年(1860年)村瀬秀甫と改名。
  • 文久元年(1861年)六段、剃髪して御城碁に備えるが、翌年から御城碁は行われなくなり、出仕する機会を得なかった。兄弟子である秀策と十番碁を打ち(先)、6勝3敗1ジゴとする。この頃、秀策と秀甫は坊門の竜虎、碁界の圭玉と称された。文久2年に秀策が死去し、門下実力第一の秀甫が後継と見られていたが、文久3年に本因坊丈和未亡人・勢子の抗議により秀和の長男で14歳の秀悦が跡目とされる。この年に吉田半十郎と十番碁がある(半十郎二子)。
  • 元治元年(1864年)に井上松本因碩と争碁で3連勝し、七段昇段。御城碁への参加資格を得るが、この年から幕末動乱のため御城碁は中止となった。跡目の道を絶たれ、望みを失くした秀甫は越後方面に遊歴に出て、江戸には不在であることが多くなった。その中で慶応4年(1868年)には秀和との手合を先相先に進める。
  • 明治4年(1871年)帰京して秀和と先相先で8局対局し、秀甫の5勝3敗となる。10月に秀和に従い名古屋に赴く。明治5年、林秀栄とともに美濃、尾張、伊勢、大阪を遊歴する。秀和は明治6年に没し、秀悦が15世本因坊を継ぐ。
  • 方円社時代 :明治12年(1879年)、中川亀三郎が本因坊秀悦、安井算英、井上因碩、林秀栄らとともに研究会方円社発足を計画し、秀甫はその要請に従って越後より帰京してこれに参加、社長となる。方円社が毎月発行した「囲棋新報」に掲載される棋譜には秀甫の評が付けられた。
  • 方円社では各家元が脱退して独自の免状を発行するようになり、明治13年に段位制から級位制に移行していたが、この時期秀甫は他の棋士を先以下に打ち込んでおり、明治14年に方円社全員の推薦により2級(八段)へ進んだ。その後には水谷縫次がただ一人秀甫に先相先に進むが、明治17年に夭逝した。
  • またドイツ人の鉄道技師オスカー・コルセルトに碁の指南をして西洋へ碁を広めるきっかけを作った。
  • 明治15年に著書『方円新法』を方円社にて発行。明治17年から五段の本因坊秀栄と十番碁を開始(秀栄先)。明治19年に秀栄は秀甫の八段を正式に認めて、同時に本因坊を秀甫に譲り、秀甫は18世本因坊秀甫となる。また秀甫は秀栄に七段を贈った。秀栄との十番碁は8月6日に最終局を打って5勝5敗の打ち分けた。この最終局が秀甫の絶局となり、10月14日没する。
  • 評価 :秀甫は中江兆民『一年有半』で「近代非凡人三十一人」に数えられるほどの名声を得ていたが、道策・秀和・秀策・秀栄といった史上の大名人たちに比べると知名度は低く、時の第一人者でありながらその生涯は決して恵まれたものではなかった。しかしよき師とライバルに恵まれ、彼らとの対戦成績も劣ってはいない。師の秀和は「秀策が明治まで長生きしていたとしても、おそらく秀甫に分があっただろう」と極めて高く評価している。現代碁界でも石田章など、秀甫をこれら大名人の列に連なる実力者と見る者は少なくない。
  • 「村瀬秀甫の偉いところは囲碁が強かっただけではない、普及にも力をつくしたことだと思います。田村保寿(本因坊秀哉)、石井千治(二代目中川亀三郎)、喜多文子など、大正期から昭和初期の碁会(衰退していた)を支える人材を育てた。特筆すべきは方円社発足当初、女子の塾生が11人もいたそうで、その中から、喜多文子と竹田いつ子が女性棋士になったのです。その先見の明は驚き、まさに「具眼の士」というべきでしょう」(1)。
  • 「郵便碁」を打ったとされる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    本因坊秀甫-Wikipedia
    (1)投稿者:ユリウスさん..2009/ 7/ 7 12:03:45(火) [5331]

(2009.07.09更新)



▲江戸時代から明治にかけての囲碁棋士.本因坊 秀甫/村瀬秀甫。





歴代本因坊

◆世襲本因坊
一世本因坊算砂
二世本因坊算悦
三世本因坊道悦
四世本因坊道策
 跡目本因坊道的
 跡目本因坊策元
五世本因坊道知
六世本因坊知伯
七世本因坊秀伯
八世本因坊伯元
九世本因坊察元
十世本因坊烈元
十一世本因坊元丈
十二世本因坊丈和
十三世本因坊丈策
十四世本因坊秀和
 跡目本因坊秀策
十五世本因坊秀悦
十六世本因坊秀元
十七世本因坊秀栄
十八世本因坊秀甫
十九世本因坊秀栄
二十世本因坊秀元
二十一世本因坊秀哉
◆タイトル五連覇による本因坊
二十二世本因坊秀格
二十三世本因坊栄寿
二十四世本因坊秀芳
二十五世本因坊治勲

 

 

48年と8日の生涯

アル・カポネ
Alphonso Capone   【ギャング団の首領】

(1899.01.17〜1947.01.25)
服役中に梅毒が進行、保釈後脳卒中に肺炎を併発---山羊座

  • 通称アル・カポネの米国のギャング団の首領。ナポリから来た移民の子としてニューヨークのスラムに生まれる。
  • 1920年代禁酒法成立後シカゴを本拠に市の政界・警察を買収して売春、賭博、酒類密売の総元締めとなり、巨額の収入を得、シカゴのギャングの帝王となる。
  • 他のギャング団との抗争も激しく、ギャングのライバルをかたっぱしから殺した。彼の手で20〜60人を殺し、すくなくとも400件の殺人の指揮をとったといわれる。
  • 相手と握手してその右手を封じて殺した シェークハンド・マーダー、警官に化けて7人の親分を並ばせ、いっせいに機関銃でなぎたおした「聖ヴァレンタインの大虐殺」など話はつきない。
  • しかし、33才のとき、脱税で検挙され、懲役11年と巨額の罰金を宣告され、入獄した。模範囚だったが、梅毒が進行のため1939年に40才で出所、マイアミの別荘でひっそりと暮らす。
  • 1947年、卒中につづく肺炎で、家族にみとられて死んだ。死後、彼の弁護士は「カポネは無一文で死んだ」と国税庁に申告した。事実だったようだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

    ▲「カポネ」人と時代 愛と野望のニューヨーク編」
    殺戮と絶望のシカゴ編 ローレンス・バーグリーン著
    常盤新平訳(集英社)

(2003.08.03掲載)





48年と18日の生涯

ジャン・ムーラン
Jean Moulin       【レジスタンスの英雄】

(1899.06.20〜1943.07.08)
拷問の末ドイツ移送中の列車中で死亡---双子座

  • ベジエに生まれる。1918年、徴用されるが第一次世界大戦には不参加。1925年ピエール・コットと出会い、1936年人民戦線内閣成立後、航空相ピエール・コットのもとで官房長官となる。1937年フランス最年少県知事となり、1939年、ウール=エ=ロワール県知事となる。
  • 1940年レトンドで講和条約締結後、ドイツ占領軍に協力せず、1940年11月ヴィシー政府から休職とされた。1941年10月25日ロンドンでシャルル・ド・ゴールと会う。
  • ド・ゴールは1941年11月、ムーランをフランス行政地域における自分の代理とし、1943年2月からは全土の代表としている。その目的は、ひとつの大きな組織「レジスタンス国民会議」を作ることであった。
  • 1942年1月1日の夜、ジャン・ムーランはただ一人、パラシュート降下でフランスに再潜入して、ジョゼフ・メルシエの偽名で仕事を始めた。その成果は着々と現れ、レジスタンス全国評議会(CNR)を組織し、1943年5月27日、自由フランスがレジスタンス全国抵抗評議会として結集し、初めて集まった。
  • この年には秘密軍事組織のドゥレストラン将軍が逮捕されている。6月21日、リヨン郊外のカリュイールでゲシュタポに逮捕され、拷問の末ドイツ移送中の列車中で死亡した。
  • のちド・ゴールによって国葬が行われた。現在、誰が彼を密告したのか不明であるが、ルネ・アルディによる密告が最も有力な説である。クラウス・バルビーはジャン・ムーランを死に至らしめた拷問の元凶である。
  • 「我が友ジャン・ムーラン―レジスタンスの英雄の生と死 (単行本) ピエール ムニエ (著), Pierre Meunier (原著), M. Voutey (原著), 福本 秀子 (翻訳), モーリス ブーテ 。本書は、ムーランの補佐役として十年間を共に過ごした著者が、長い沈黙を破って初めて語った、友の生と死の物語である。 フランス・レジスタンス運動の伝説的英雄にして殉教者ジャン・ムーランの生と死の真実。ムーランの補佐役として十年間を共に過ごした著者が、長い沈黙を破って初めて語った物語」(1)。
  • ムーランと聞くと我が師である須藤貘の友人末木氏が経営していた山梨一のキャバレー「ムーラン」を思い出してしまう。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジャン・ムーラン-Wikipedia
    (1)「Amazon.co.jp: 我が友ジャン・ムーラン―レジスタンスの英雄の生と死 ...

(2008.07.24更新)



▲フランスの政治家、レジスタンス運動の指導者ジャン・ムーラン。

 

48年と21日の生涯

織田信長
Nobunaga Oda          【天下布武の改革者】

(1534.05.12〜1582.06.02)
明智光秀に中国出陣を命じたが、本能寺に攻められ自殺---牡牛座

  • 尾張国(愛知県)の人。織田信秀の次子。幼名は吉法師。17歳で家督を継ぐ。26歳で桶狭間の戦で今川義元を倒し、28歳で三河の徳川家康と同盟、天下統一へ。
  • 33歳で美濃の斎藤氏を滅ぼし稲葉山城を岐阜城と改め、翌年足利義昭を擁して入京。しかし義昭との不和から1573年彼を追放、幕府を滅ぼす。
  • 一方、姉川の戦で浅井・朝倉両氏を破り(36歳)、延暦寺を焼き打ち(37歳)、長島の一向一揆や興福寺を討ち、41歳、長篠の戦で武田軍を破った。
  • 42歳で安土城を築いて安土桃山文化の基礎を固めキリシタン文化をも摂取、統一政権樹立を進めたが、功業半ばにして明智光秀のため本能寺で自刃。
  • 楽市・楽座の設置や関所の撤廃、検地などの新政策は豊臣秀吉に継承された。
  • 「信長の国家ビジョンを一口で言うなら「天下布武」。これは武力で天下を治めるということではなくて、武士が一元的に支配する世の中を作るということです。あの時代にこういうビジョンをもった信長は天才的でした。そしてそれを実行するために努力し続けるんです。ビジョンと行動とが見事に一致していた。しかし、こういう人間は一緒にいる人にとって大変疲れる存在なんです。明智光秀が謀反を起こさなくても、別の家臣によって討たれる可能性は充分あったと思います」(1)。
  • 「織田信長の家臣を評した歌に、「木綿籐吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という。木綿のように用途自在の木下籐吉郎、米のようになくてはならなぬ丹波五郎左(長秀)、押しては猛将柴田勝家、引いては沈着佐久間信盛がいる。前のふたりは「万能型」、後者は働きどころを得て持ち味を出す「職人型」だろう」(2)。
  • 「信長は今川義元を討ち取った桶狭間の戦いに出陣する際、立ったまま湯漬けをかき込んだ。「信長公記」にそう記されている」(3)。
    ---どうでもいことだが、おにぎりではなかったのだ!。
  • 「●鉄砲隊に15億円!マネーパワーで買い占め作戦
    ●信長のキャッチフレーズ「天下布武」に込めた意味
    ●丸裸だった今川義元!信長が仕掛けた桶狭間の罠
    ●城のライトアップから女装まで イベント好きのお祭り男
    ●子供は22人!父親譲りの性豪
    ●検証!本能寺の変 クーデターの黒幕は誰?
    ●信長の好奇心が育んだ相撲、鵜飼、金平糖---」(4)。
  • 「うちの妹曰く、西洋画の信長様の頬から顎にかけてのラインがスケーターの織田信成君に似ているとのこと…言われて見れば似ている!!血は争えないな〜」(5)。
  • 「織田信長とハーブ(薬草) :たまさん 下の事実は信長の開明的な一側面を示していると思います。記録によると、約440年前、織田信長はポルトガルの宣教師に約3000種の薬草を取り寄せさせて、伊吹山麓から山頂にかけて50ヘクタールの薬草園を作った。現在、伊吹山には280種類の薬草が自生しているが、それらはすべて日本の原産種であり、ヨーロッパ産の薬草は残っていない。ところが、ここには日本のどこにもないヨーロッパ原産の牧草が3種類自生している。この牧草は薬草と一緒に日本に入ってきてここに残ったのだろうといわれている。※ベニシア・スタンリー・スミス著「ペニシアの京都里山暮らし」を参考にしました」(6)。
  • 「信長の名言: たまさん つい先ほど、NHKの大河ドラマ「お江」で,信長は明智勢に討たれました。信長の名言をお供えします。当時としては大変抜きん出た「人材活用術」ですので、現在でも十分通用すると思います。〈人を用ふるの道は能否を択(エラ)ぶべし。何ぞ新故を論ぜん。〉(In employing others, ability or its absence must be the criterion of choice. Seniority should not be the basis of judgment. 訳:東京工大世界文明センター長、Roger Palvers)」(7)。
  • 『人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生えを得て、滅せぬ者のあるべきか』。信長は、この幸若舞いの敦盛のひとふしを好んだ。今川義元との桶狭間の合戦に臨んで、この数句を繰り返し舞ったことはよく知られている。
  • 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」と信長が口走った、とか云うのは作り話らしい。そもそもは江戸末期に平戸藩主松浦静山が記した随想集『甲子夜話』に出てくる話だという。
    「鳴かぬなら鳴くマネしようホトトギス」(玉野安実)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.02.03朝刊 堺屋太一
    (2)読売新聞2004.08.03朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (3)読売新聞2004.08.28朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (4)「歴史を作った先人達-日本の100人」の新聞広告より抜粋。
    (5)投稿者:Miwa さん..2009/ 9/10 06:20:43(木) [6042]
    (6)投稿者:ユリウスさん..2010/12/11 09:49:20(土) [8488]
    (7)投稿者:ユリウスさん..2011/ 2/ 6 21:17:48(日) [8741]

(2011.02.07更新)


★うつけと呼ばれた男

▲ 戦国・安土時代の武将・織田信長。
(イラスト 大城さん)



▲宣教師が描いたとされる織田信長の肖像画。最も実際の顔に近いとされている。安土城天守「信長の館」に掲示されていたもの。


▲2011年NHKの大河ドラマ「お江」での江(ごう・上野樹里)と織田信長(豊川悦司)。

 

信長語録

◆最後の一言「是非に及ばず」

◆「臆病者の目には、敵はつねに大軍に見える」
(行動の原理原則をもっていないものは、自ら不安を作り出してしまう)

◆「人間50年、下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしの如くなり。ひとたび生えを得て、滅せぬ者のあるべか」
(敦盛のひとふし---1560年信長が桶狭間の合戦に出陣する前夜に舞ったとされる)

48年24日の生涯

シドニー・パジェット
Sidney Paget  【シャーロック・ホームズの挿絵家】

(1860.10.04〜1908.10.28)
死因?---天秤座

  • 1860年10月4日、クラーケンウェルの教区会書記を務めた故ロバート・パジット氏の五男として生まれる。シティーの学校で学び、小さい頃から絵の才能をみせた。学校を卒業すると、2年間、大英博物館の古典美術から学ぶ(古典美術のスケッチを続けた)。
  • その後、ロンドンのニューマン街にあるヒザリー美術学校に進み、絵画を学ぶ。18才で作品2つを出展して以来、王立美術院にいつも出展し、評価を獲得していく。アトリエを構えて、肖像画や小作品、さらに挿絵を手がけ、主にエジプトやスーダンの戦争画を描いた。21才で王立美術院の6年の課程に進み、重要な賞をいくつも獲得するが、絵画への金賞をめぐっては他の学生と同点になり、決定票でこれを逃してしまった。1893年に結婚し、ハートフォード州の美しい田園に住み、ケンジントンのホーランド・パーク通りにもアトリエを構えている。この3、4年は主に挿絵を描いており、かのシャーロック・ホームズの挿絵で、この名探偵の人気を支えている。
  • 「人形を撮影するようになってから、シャーロック・ホームズの挿絵を改めて眺めています。しみじみ思うのは、やはりシドニー・パジェット氏の絵は素晴らしいですね。時間を忘れて魅入ってしまいます。写真と見まごうほど精密で、躍動感があり、ハッとする一瞬をとらえる。そんな絵があったからこそ、ホームズの物語はより生き生きと当時の人々にとらえられたのでしょう。なにより、ワトスン先生が惚れ惚れするほど格好いい♪座っているときはだいたい足を組んでいるみたいですね。グラナダのワトスン、ハードウィック氏の足の組み方は完璧です。あの仕草に惚れたんですから、私。ほっそりしたホームズの立ち姿も魅力的です。カウチに寝そべっている姿はまた格別。「バスカヴィル家の犬」の中の、月をバックに丘の上に立つ男の絵など、まるで絵画のようです。
    どれもこれも美しいです。それにしてもグラナダのミルヴァートン、挿絵そっくり」(1)。
  • 「たまさん おはようございます。どうもありがとうございました。ホームズといえば「鹿撃ち帽にインバネスコート」を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、作者のドイルが作品の中でこのような格好をさせていたのではなく、彼が作り出したものなのだそうです」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ストランド誌 1895年12月号 Artists of "The Strand Magazine"より 訳 清水 健
    (1)「シドニー・パジェット(Sidney Paget)
    (2)投稿者:織田佑さん..2008/ 8/10 08:08:45(日) [3370]

(2008.08.10更新)




▲シャーロック・ホームズのもう一人の生みの親、シドニー・パジェット。


▲ホームズ(右)とワトソン(左)、シドニー・パジェット画


▲ボヘミアの醜聞・馬を扱う人に変装したホームズ。この後、アイリーン・アドラーの結婚式の証人者になる。

48年1ヶ月と5日の生涯

永山 則夫
Norio Nagayama    【連続射殺事件の死刑囚】

(1949.06.27〜1997.08.01)
死刑---蟹座

  • 1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家でもあった。1983年、小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞。
  • 1949年6月27日、北海道網走市呼人(よびと)番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)として生まれる。父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、稼ぎの大半を博打につぎ込み、家庭は崩壊状態。現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。
  • 1954年(当時5歳)に、母親が青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。兄弟全ての電車賃が出せないため、則夫を含む4人を網走に残したままの家出だった(後に書いたノートで母は悔いている)。残された則夫を含む4人兄弟は、漁港で魚を拾ったりして極貧の生計を立てていたものの、年少の則夫は始終兄や姉たちから虐待を受けていた。
  • しかし、1955年、近隣住民が福祉事務所に通報したのをきっかけに、4人は板柳の母親の元に引き取られた。その後、母親は行商で生計を立て、兄弟を育てた。
  • 中学時代に、函館と福島に家出した。
  • 1965年3月、板柳から東京に集団就職する。渋谷の高級果物店・西村総本店に就職した彼は、北海道育ちのため「東北弁コンプレックス」も無く、接客を要領よくこなしていた。やがて新規店を任される話が持ち上がるほどの信用を勝ち得る。しかし、戸籍謄本の本籍が「網走無番地」だったため、「網走刑務所生まれ」だと誤解されてからかわれ、さらに過去の窃盗を指摘される。やがて店内での立場が微妙になり、結局、退職。その後も宇都宮市、守口市、川崎市など職や住所を転々とするものの、どこも長続きしなかった。それでも、新宿区の牛乳店で働きながら勉学し、1967年4月、明治大学附属中野高等学校の夜間部に入学。しかし同年7月に除籍処分を受ける。永山が新宿区の喫茶店『ヴィレッジ・ヴァンガード』で早番のボーイとして働いていた時、ビートたけしが遅番のボーイとして働いていた。その後、熱海市で定期便トラックをヒッチハイクして神戸に向かい、密航を企てるも失敗、横浜に戻る。
  • 杉並区の牛乳店で働きながら1968年4月、同校に再入学し、クラス委員長に選ばれる。その後、退学し故郷の板柳町に帰る。そして、陸上自衛隊試験に落ちた。
  • 初めての検挙は、横須賀の米軍基地内での自販機荒らしで、この時は保護観察処分となっている。
  • 横須賀市の米軍宿舎から盗んだ22口径の回転式6連発拳銃で、1968年10月から1969年4月にかけて、東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺し、いわゆる「連続ピストル射殺事件」(広域重要指定108号事件)を引き起こす。永山は1965年に起こった少年ライフル魔事件の現場近くで働いていたためにこの事件を目撃しており、これに刺激された犯行ではないかという見方もある。
  • 1969年4月(当時19歳10ヶ月)に東京で逮捕された。
  • 1979年に東京地方裁判所で死刑判決。1981年に東京高等裁判所で無期懲役に一旦は減刑されるが、1990年に最高裁判所で「家庭環境の劣悪さは確かに同情に値するが、彼の兄弟は凶悪犯罪を犯していない」という理由で死刑判決が確定する。
  • この判決では死刑を宣告する基準(永山基準)が示された。
    獄中で、読み書きも困難な状態から独学で執筆活動を開始し、1971年に手記『無知の涙』、『人民をわすれたカナリアたち』を発表した。この印税は4人の被害者遺族へ支払い、そのことが1981年の高等裁判所判決において情状の一つとして考慮され、無期懲役という減刑につながった(のち差し戻し審で死刑判決、最高裁の上告棄却により1990年4月17日に死刑確定)。
  • 1980年かねてから文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。
  • 1983年には小説『木橋(きはし)』で第19回新日本文学賞を受賞した。1990年には、秋山駿と加賀乙彦の推薦を受けて日本文藝家協会に入会を申し込むが、協会の理事会にて入会委員長の青山光二、佐伯彰一など理事の一部が、永山が殺人事件の刑事被告人であるため入会させてはならないと反対した結果、入会が認められず、それに抗議した中上健次、筒井康隆、柄谷行人、井口時男が、日本文藝家協会から脱会するという出来事も起こった。なお理事長の三浦朱門とその妻曽野綾子は入会賛成で、江藤淳は反対の立場からテレビで中上健次と討論した。その一方、1996年、ドイツ・ザール州作家同盟には正式入会を果たしている。
  • 獄中から手記や短歌を自ら発表する死刑囚は多い。しかし、自らの罪を認める一方で、自己の行動を客観的にふりかえるという手法で創作を行い、文壇において一定の地位を獲得するまでに至った永山は、死刑囚としては珍しいといえる。
    また連合赤軍の永田洋子死刑囚ら収監されていた多くの殺人犯に影響を与えた。
  • 永山は獄中からたくさんの手紙を書いている。内容は獄中結婚した妻や支援者とのやり取りから本の読者からの悩み相談まで多岐に渡る。また永山は返信する文面を写していたため遺品の中には受け取った手紙と返信した手紙が対になって保管されている。手紙のやり取りの中で国家に対する心情から贖罪意識に変わる様子がうかがえる。
  • 1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。48歳だった。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報じた。
  • 生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする数人の証言がある。このため、永山の死体は死刑執行後、速やかに火葬されたと言われている。
  • 永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発、厳罰化を求める声が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた。
  • 永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、妻だった和美の手によって散布された(差戻し決定時に離婚成立)。
  • 死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。
  • 「孤独がこり固まった永山則夫。---ペルーではサンタクロースの連続殺人犯」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    永山則夫 - Wikipedia
    (1)日経新聞2011.07.17朝刊「奇縁まんだら」(瀬戸内寂聴)より抜粋。

(2011.07.09掲載)



▲1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)を引き起こした刑死者(元死刑囚)である永山 則夫。


(イラスト 横尾忠則)

48年1ヶ月と7日の生涯

ポリトコフスカヤ
Anna Stepanovna Politkovskaya
             【ロシアのジャーナリスト】

(1958.08.30〜2006.10.07)
射殺体で発見された---乙女座

  • ノーヴァヤ・ガゼータ紙評論員。ロシア人。ニューヨーク生まれ。1980年モスクワ大学ジャーナリスト学科を卒業。大学卒業後の1982年イズベスチヤ紙に入社し記者として勤務。
  • ヴォズドゥーシュヌイ・トランスポルト(航空輸送)紙、創作団体「エスカルト」、出版社「パリテート」、メガロポリス・エクスプレス紙の評論員を経て、1994年〜1999年、オープシチャヤ・ガゼータ(総合新聞)紙の評論員、同紙のチレズヴィチャーイナヤ・プロイスシェーストヴィヤ(緊急事態)課長。
  • 1999年6月、ノーヴァヤ・ガゼータ紙に移り、評論員となる。また、ノーヴァヤ・ガゼータ・オンラインニュース版ではコラムを担当している。同年からチェチェンを取材し、第二次チェチェン戦争の報道に当たった。
  • 2002年10月モスクワ劇場占拠事件では、チェチェン武装勢力からロシア当局との仲介を依頼され、人質釈放の交渉に当たった。事件後も犠牲者の家族に対する支援に関与した。
  • 2004年、ベスラン学校占拠事件が発生。彼女はチェチェン独立派に対する取材のためベスランに向かっていたところ、航空機内で意識を失った。
  • 本人は、機内で茶を飲んだ後に意識を失ったとして、これをロシア当局による毒殺未遂と主張している(ただし、彼女の証言を裏付ける証拠は現在のところ存在しない)。しかし、ロシア当局はこれを認めておらず、ロシアのジャーナリスト保護委員会も、病気の原因は特定されていないとしている。
  • ポリトコフスカヤは一時重体に陥るが、健康を回復。本人曰く「ロシア当局や、民族派のテロを恐れたため」ロシア国外で活動を再開していた。
  • 2006年10月7日、モスクワ市内の自宅アパート建物エレベーター内で射殺体で発見された。
  • ロシア警察は事件直後、犯人らしき人物が写っている防犯カメラの映像を公開するなど、積極的に捜査を行い、チェチェン人2人の身柄を拘束している。
  • 彼女の殺害に関しては、何かしら政治的な思惑が働いているのではないかとの見方も存在している。
  • 2000年1月、「ロシア金ペン賞」受賞。ロシア連邦ジャーナリスト連盟の「善意の行為-善意の心」賞、汚職対策の記事に対してジャーナリスト連盟賞、チェチェンの一連の記事に対して「ゾロトイ・ゴング-2000」賞、アムネスティ・インターナショナル英国支部から「世界人権報道賞(2001)」、国際ルポルタージュ文学賞「ユリシーズ賞」を受賞。
  • ロシア国内における彼女の報道姿勢に対する評判は、どちらかといえば否定的なものが多い。主な理由としては、まず自身の著書において、高い支持率を誇るプーチン政権を徹底的に批判し続ける姿勢が一般国民の感情的反発を招いた事が挙げられる。また、プーチン政権と対立していた政商ミハイル・ホドルコフスキーとの「連帯」を表明し、著書のなかでホドルコフスキーの所有していたユコス社を「ロシアで最もガラス張りの企業」と評するなど、露骨にホドルコフスキーを賞賛したことも、彼女のイメージを傷つける要因となった(一般的に、ロシア国民のホドルコフスキーに対する感情は悪い)。
  • また、自らの著書の中でプーチン大統領を、ロシアの作家ゴーゴリの作品「外套」に登場する小役人アカーキイと重ね合わせたり、「理由は自分でもわからないが、とにかく(プーチン大統領が)嫌い」と述べるなど、いささか感情的に過ぎるともとられかねない態度をとることもあった。
  • さらにチェチェン問題では、ポリトコフスカヤ自身は「中立」を表明しているものの、明確にチェチェン独立派よりに立った報道姿勢を貫いていた。ベスラン学校占拠事件やカディロフ大統領暗殺事件など、チェチェン武装勢力側が犯行声明を出した事件に対しても「ロシア政府の陰謀」であり「チェチェン独立派とは一切無関係」と主張していた。このことも、彼女の評判を下げる要因のひとつとなっている。
  • しかしながら、生命の危険にさらされつつも、チェチェン情報を発信し、ロシア国内の人権問題を問い続けた、彼女のジャーナリストとしての姿勢は高く評価されていたのも事実である。
    チェチェンへの潜入取材で知られるジャーナリストの林克明は「(アンナは)あまりにも本当の事を書きすぎた」とテレビ番組で語っている。
  • ちなみに、ロシアでは1999年〜2006年の間に126名のジャーナリストが死亡、もしくは行方不明となっているという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アンナ・ポリトコフスカヤ-Wikipedia

(2007.10.11掲載)




▲プーチン政権に対する批判的論陣で知られたロシアのジャーナリスト、アンナ・ステパノーヴナ・ポリトコフスカヤ。

48年1ヶ月と20日の生涯

上杉謙信
Kenshin Uesugi   【合戦の天才児】

(1530.01.21〜1578.03.13)
脳溢血---水瓶座

  • 戦国武将、戦国大名。越後守護代長尾為景の子として春日山城で生まれる。母は栖吉城主長尾房景の娘。生まれた年が庚寅だったので、干支にちなんで幼名は虎千代と名付けられ、元服して景虎と称したのち輝虎。
    この時代は室町時代後半、南北朝期から戦国時代に当たる。
  • 18歳で家督を継ぎ越後を統一。天文十七年に兄晴景と争い、守護上杉定実の調停で長尾の家督を譲られ春日山城主となる。
    以後、戦国動乱の時代にあって、紺地日の丸、白地に毘字の旗幟をなびかせて、北陸・信濃・関東に出陣を重ねた。
  • 関東管領上杉憲政、信濃の村上義清らに援を求められ、北条氏康、武田信玄と戦う。宿敵武田信玄との五度にわたる「川中島の合戦」は戦国時代の合戦中の白眉として名高い。
  • 永禄四年、上杉憲政から家を譲られ関東管領職に就き、上杉政虎、ついで輝虎と名乗る。40歳、出家して謙信を称した。
  • 天正四年、本願寺と和睦し、織田信長との同盟関係を断ち、はるか遠く中国筋の毛利氏と連携して織田信長挟撃を策した。翌年九月織田方の能登七尾城を陥し、ついで信長軍を加賀手取川に撃破。しかし、翌天正六年三月、関東への陣触れをした直後、織田信長との決戦を目前に脳溢血で倒れた。法号「不識院殿心光謙信」。
  • 毘沙門天の生まれ変わりを自任し、欲がない。悪いやつは許せない、天に代わって相手を討つという、大義のために戦い抜いた武将。戦国時代を疾風の如く駆け抜けた、合戦の天才児。「尺進合って寸退なし」。
  • 「〈四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒〉
    天正五年(1577)9月13日に、七尾城攻略の陣中にあって、詠じたといわれる。後世の仮託だという説もあって、本当の所はわからない。しかし、謙信は六尺近く眼光鋭い偉丈夫だったのに、和歌をよくし、書も巧みだったというから、ありえないわけではないと思う。−中西進著「辞世のことば」を参考にしました−」(2)。
  • 「信長が恐れた男。乱世に「義」を貫き、爽快に生きた男の魅力。決戦川中島、宿敵信玄との激闘と友情---」(3)。
  • 少年時代はつっぱり屋で、我が強かったらしい 。いわゆるカンの強い子だった。ほんとうはこころねの優しいこだったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 「上杉謙信
    (2)投稿者:ユリウスさん 2005.12.10(Sat) 23:15[805]
    (3)読売新聞2006.02.06朝刊 新聞広告より抜粋。

(2009.09.10更新)



▲越後の名将上杉謙信。
(イラスト 大城さん)


◆1960年の映画「風林火山」で謙信役を演じたときの石原裕次郎。


2007年の大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信役のGackt。ガクト出陣!。

【敵に塩を送る】
「武田信玄と上杉謙信はお互い何度となく戦った敵同士であった。ある時、武田信玄が今川氏を攻めたため、おこった今川氏は武田信玄に塩を送らないようにした。武田信玄の領地である甲斐(山梨県)は山国であるため、塩がとれず人びとは生活に困ってしまった。この時、上杉謙信は「武士は戦場で戦うものであり、塩や米を送らず、罪のない人びとを苦しめるのはひきょうであり、武士がすることではない」といって今川氏を非難(ひなん)し、上杉謙信は敵であった武田信玄に塩を送ったという」---(1)。

48年1ヶ月と21日の生涯

聖徳太子/厩戸豐耳皇子
Shoutokutaisi   【虚構の聖人?】

(574.01.01〜622.02.22 621/02/05説あり)
不明---山羊座

  • 父は用明天皇、母は穴穂部間人皇后。幼名は厩戸豊聡耳皇子。のち上宮王ともいう。
  • 母が宮中の馬小屋の前に来たとき生まれたとつたえられ、厩戸皇子とよばれた。
  • 592年に即位した推古天皇の摂政として仏教を基調とした政治を行った。大臣の蘇我馬子と協調し29歳、冠位十二階を定め、翌年には十七条憲法を制定。
  • 33歳、小野妹子を派遣し隋との対等の国交を開き、留学生・留学僧を送って大陸文化の導入に努めた。
  • 仏教に対しては深い理解と信仰を示し、その著作とされる『三経義疏』には独自の解釈がうかがわれ、法隆寺・四天王寺・中宮寺・橘寺・広隆寺・法起寺・妙安寺の7寺を建立。太子の仏教奨励策の結果、都のあった飛鳥地方(奈良盆地の南部)を中心に、すぐれた仏教文化がさかえる。
  • 墓は磯長谷(大阪府太子町)の叡福寺の伽藍北側にあり、叡福寺北古墳ともよばれる。叡福寺は推古天皇が太子の墓を守護追福するため坊舎を営んだことに始まると伝え、724年聖武天皇の勅願によって広大な伽藍が建立されたという。
  • 大山誠一中部大学教授は「聖徳太子は実在しなかった」とする大胆な学説だし賛否両論。政治的要請から日本書紀の中で生み出された虚構の聖人にすぎないとする。
  • キリストの誕生とそっくりな誕生逸話は、唐代中国で流行していた景教(キリスト教ネストリウス派)の知識が日本に移入され、太子伝と重ねられて太子生誕逸話となったのではないかという説が有力。
  • 「すべては伝説にすぎない---。実在の根拠とされる文献や遺物にどのような問題があるのか?だれがこの虚構を必要としたのか?」(1)。
  • 「法隆寺は聖徳太子の怨霊鎮魂の寺」(2)。
  • 「聖徳太子が実在したかどうか。古代史研究でも議論のたえぬ所だが、---つまり、実証的な近代の歴史観では、歴史は過去現在未来と連なる直線的な時間に即して生起するのだが、中世人の心の中では過去と未来は自由に交錯し、合わせ鏡のように照らし合う形で意識されていた」(3)。
  • 「聖徳太子が定めたという十七条憲法の第十条に、〈人の違うを怒らざれ。人みな心あり〉とある。人がそれぞれ違っているのを咎(とが)めるなと。時代、宗教、国境を超えた普遍の戒めだろう。日本書紀には、聖徳太子が仏教の経典を「悉(ことごと)に達(さと)りたまひぬ」(すべて悟得された)とある。漢字の表記などから国文学者の中西進さんはある対談のなかで、太子が釈迦(悉達太(シッダール)子(タ))の生まれ変わりだという考えがあったのだろう、と推測している」(4)。
  • 「聖徳太子の最後の言葉をお供えします。〈財物は亡びやすくして 永く保つべからず。ただ三宝の法は 絶えずして 永く伝うべし〉※上は大安寺伽藍縁起竝流記資材帳が太子の遺詔として伝えるものです」(5)。
  • ---異論はございましょうが、ボクは「すべての税金0%、ただし相続税のみ100%」論者です。
  • 「たまさん〈財物は滅びやすくして 永く保つべからず〉に異論あるお方でも、〈バイボは絶えずして 永く伝うべし〉に異論のあるお方様はいらっしゃらないのではないでしょうか?ここに集う我々は、これを胸に秘めて、シッカリやっていきましょう!」(6)。
  • ---バイボへの応援歌、ありがとうございました。
  • 神武天皇もそうだが、1月1日生まれというのもかなり後で作られたフィクションの匂いがプンプンしてならない。「世間虚仮(せけんこけ)」と深いため息をついて死んだといわれている 。
  • 「 おはようございます。居なかったと言われている聖徳太子ですが、やっぱり実在したと個人的に思いたいなあ…。皇族の贈り名に“徳”の時が使われているのは怨念封じの鎮魂の為とか。そういえば、孝徳、称徳、安徳、崇徳天皇は個人や一族が不幸な方ばかりだった…」(7)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)谷沢永一著『聖徳太子はいなかった』の新聞広告より。
    (2)梅原猛の説。
    (3)読売新聞2006.02.11朝刊 小峰和明著「中世日本の予言書」の河村二郎による書評より抜粋。
    (4)読売新聞2008.11.28朝刊 「編集手帳」より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん..2009/ 4/ 2 21:03:21(木) [4537]
    (6)投稿者:ユリウスさん..2009/ 4/ 3 12:11:15(金) [4544]
    (7)投稿者:Miwa さん..2009/ 9/11 07:24:07(金) [6053]

(2009.09.12更新)


★世間虚仮★

▲飛鳥時代の中心的政治家、思想家、皇族、推古天皇の摂政・聖徳太子。
(イラスト 大城さん)


▲聖徳太子馬上の図 太子御廟の図
竹内街道資料館にあった。
14才の時に、物部氏と戦った時の絵。

 

聖徳太子語録

◆「和を以て貴(たっと)しと為す」
---十七条憲法は平和憲法である。

◆「われ必ず聖にあらず、かれ必ず愚にあらず、ともにこれ凡夫のみ。是非の理なんぞよく定むべけん。

48年2ヶ月と7日の生涯

渡辺崋山
Kazan Watanabe  【異才の改革者】

(1793.09.16〜1841.11.23=寛政5〜天保12)
自刃--- 乙女座

  • 江戸後期の洋学者、画家、思想家にして藩政家。三河国田原藩三宅侯の家臣渡辺定通の長男。江戸半蔵門外、田原藩上屋敷裏門脇の長屋で生れた。通称登(のぼり)。幼少のころから赤貧の家計のため画事に励み、初め華山と号した。
  • 儒学を佐藤一斎・松崎慊堂(こうどう)に、絵を谷文晁らに学ぶ。生計のため画を修め、儒学を佐藤一斎、のち松崎慊堂に学んだ。のち谷文晁に師事し写生派画家として大成し、甲乙会などの画会を経営して、士分でありながら画工という近代職業観に徹した。
  • 「一掃百態」・「鷹見泉石像」・「佐藤一斎像」などはその名作である。田原藩士としては江戸詰留守居役を務め、1832年(天保3)から年寄役として藩政改革を行ったが失敗。
  • 日本の海防の強化を目的とする尚歯会は崋山や高野長英・小関三英らによって1833年(天保4)に結成され、多くの蘭学者を集めた秘密結社であった。
  • 1839年幕府に処罰され「蛮社の獄」に連座し、田原蟄居を命じられた。崋山は「慎機論」で幕府の海防政策を批判。田原侯三宅友信の援助で洋学の新智識となったが、のち友信侯に累が及ぶのを心配して田原で自殺した。
  • 『崋山全集』(1910〜1915)は、崋山の近代感覚で満たされている。
  • 画業は、初期には沈銓・谷文晁の影響を強く受けたが,西洋画の陰影法を取り入れた肖像画や,遠近法を活用した山水画などに新風を開いた。
  • 「画家としての崋山:画家として名高い。西洋画の技法を取り入れ、写実性を高めた。肖像画「鷹見泉石像」は国宝」(1)。
  • 「蛮社の獄:天保8年(1837)、米国船籍のモリソン号が日本に通商を求めるために来航し、幕府が「外国船打払い令」により砲撃して退去させる「モリソン号事件」が発生した。幕府の強硬論に対し、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆し、慎重論をとった。蘭学者らと交友し、影響力をもっていた崋山の存在を警戒していた幕府は、これを理由に崋山と長英を処罰した。「蛮社」とは、崋山らのサークルの呼称」(2)。
  • 「渡辺崋山の辞世です。〈梓弓矢竹ごころの武士(モノノフ)も親にひかれて迷ふ死出かな〉」(3)。
  • 「渡辺崋山が従来と違った種類の肖像画を作り出したのは、たぶんオランダの書物の挿絵に影響されてのことだったと思われる。---崋山はリアリズムこそが絵画の本質だと考えるに至った。崋山は西洋から学ぶことに熱心だった。それは画の上達を図るためだけでなく、世界について理解を深めるためだった。---崋山は逮捕された。崋山の唯一の罪は、西洋を賛美することで暗に日本を批判したことだった」(4)。
  • 「渡辺崋山さんのご命日は天保12年10月11日(1841年11月23日)。崋山さんは本当は画業に専念したかったらしいのですが時代と才能が許さなかったらしいです。地元田原藩の農業改革や藩政改革を断行。天保の大飢饉では田原藩内で一人も餓死者を出さなかったそうです。改革者と蘭学者のイメージが強くて、骨董に興味を持つ前は絵の大家だとはまったく気がつきませんでした(汗)」(5)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    渡辺崋山
    (1)(2)「渡辺崋山
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.06.10(Fri) 22:03[1050]
    (4)読売新聞2006.12.09朝刊 「私と20世紀のクロニクル」(ドナルド・キーン)より抜粋。
    (5)投稿者:Miwa さん ..2009/ 5/11 07:54:05(月) [4799]

(2009.05.12更新)



▲「蛮社の獄」に連座した画家、思想家にして藩政家・渡辺崋山。

48年2ヶ月と12日の生涯

ベンヤミン
Walter Benjamin   【都市の遊歩者】

(1892.07.15〜1940.09.27)
スペイン警察による強制送還の脅しにあい服毒自殺---蟹座

  • 20世紀を代表するドイツのユダヤ系思想家。ベルリンに生まれる。
  • マルクス主義とユダヤ神秘思想のメシアニズムとに立脚しつつ、アレゴリーを批評の装置としてヨーロッパ近代文化総体の検証を図ろうとした「市民社会の幻視者」。
  • 『暴力批判論』(29歳)、『ドイツ悲劇の根源』(36歳)、巨大な断片群として残された『パサージュ論』(43歳)、『複製技術の時代における芸術作品』(44歳)、『歴史の概念について』(48歳)など。
  • ブレヒト、ショーレム、フランクフルト学派、バタイユなど同時代人との交流も重要なトピック。
  • 41歳以降亡命生活にあり、1940年アメリカに向かう途次、フランス・スペイン国境で自殺。
  • 「都市の遊歩者」と呼ばれたベンヤミンの『パサージュ論』は重層的な範列性を特徴とする。この本の構造は、ほとんどが引用と思想断片からなっている。一種独特の形態をもったこの本は、本と呼ぶにはふさわしくなく、彼自身がそう名付けたように「仕事」と呼んだ方がいいようだ。
  • 『パサージュ論』は20世紀最大の思想的課題を秘めたゲーム・ブック。本の形を取ったロール・プレイング.ゲームのようなもの。天才的詩人の情動性(ポエジー)と哲学者の哲学的認識の同時表現である。
  • 「ベンヤミンにとっては「配列」と「布置」こそがすべてであって、そこから何が抽出され、そこに何が引用されたかが最大の問題なのである。個人とはその抽出と引用の質量の代名詞であったのだ」(1)。
  • 「ベンヤミンが一貫して、個人よりも、こうした「集団の夢」に関心をもちつづけたことは、近現代思想のレパートリーではかなり特異なものである。なぜなら近代社会ではやっと個人や自我が歴史や社会と対応して、その確立と懐疑に向かえたからだ。それなのにベンヤミンは20世紀の半ばに向かっても、むしろ19世紀の集団が夢みた痕跡の解明にこだわった。それはヘタをすれば資本主義が商品や製品に託した幻影のようなものの追慕になりかねない」(2)。
  • 「思想家ベンヤミンの言葉を思い出す。「夜を歩み通すときの助けになるものは橋でも翼でもない。友の足音だ」と」(3)。
  • 「書かれた」ことに意味があるのではなく、「書きとめられた」ことに意味を持つ本である。その精神はこの『人生のセイムスケール』の基本姿勢としたいものだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「松岡正剛の千夜千冊『パサージュ論』
    (3)2008.06.28読売新聞朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2008.06.29更新




▲『パサージュ論』で知られる20世紀を代表するドイツのユダヤ系思想家・ベンヤミン。


▲ベンヤミンの著作「複製技術時代の芸術作品」は写真、映画の出現によって芸術作品の価値、見方がどう変わったかについて 1936年出版されたものでよく知られた本である。今回美術史専門であるが他分野でも多くの評論を書いている多木氏がこの著書についてベンヤミンの他の著作も引用しながら解説したのがこの本である。
多木浩二著 岩波現代文庫


ベンヤミン語録

◆「作品は構想のデスマスクである」

◆「ファシズム=政治の耽美主義化の極まりとして戦争が出現する」

48年3ヶ月と4日の生涯---2006年、生誕100年

カリール・ジブラン
Kahlil Gibran  【“愛の啓示”の詩人・小説家・画家】

(1883.01.06〜1931.04.10)
結核と肝硬変---山羊座

  • 1883年、現在のレバノンの山間部、標高1400mにあるビッシャリ村で、キリスト教マロン派の貧しい家庭に生まれた。父は、詐欺と脱税のために投獄されるなど、善良な人間ではなかった。
  • 住む土地も没収され、貧困の中で育ったカリールは、教育も受けられず、孤独に考え込む子どもであった。無教養だが強い意志を持つ母は、親戚を頼ってアメリカ移住を決意する。
  • 1894年、11歳の時、母と兄弟と共に渡米。ボストンに居を構えたが、生活は貧しく、母は、行商人として生活費を稼いだ。
    貧困移民としての環境は厳しく、家族の中で、カリールただひとりが、学校教育を受けられることになった。
  • 13歳の時、ボストンで設立された、スラムと移民の子どもの芸術的才能を援助する団体(デニスンハウス)で、彼は、知と芸術に対する刺激を受ける。
  • 1897年、14歳の時、アラビア語をマスターしたいという願望をもち、一時レバノンへ帰国。ベイルートのハイスクールで高等教育を受ける。15歳の時、『THE PROPHET(預言者)』の草稿をアラビア語で書く。「私はこの本を書くために生まれてきたのだ」と後に彼は語っている。1902年、19歳の時、ボストンへ戻る。この年、結核で母を含む家族3人を失う。
  • 21歳の時、ボストンのアメリカンスクールの女性校長、メアリーと出会う。彼女は、カリールの芸術活動のサポートをするようになり、後には恋仲にもなっていく。
  • 1905年、22歳の時、アラビア語の散文詩『音楽』で文壇デビュー。
  • 25歳の時には、2年間にわたりパリに滞在。美術学校に学び、ロダンに師事したといわれる。ロダンは、美術・文学両面にわたるジブランの才能を愛し、現代のウイリアム・ブレイクにたとえて絶賛した。また、音楽家ドビュッシーらとも交遊を結んだ。
  • 27歳でボストンへ戻った彼は、アメリカのアラブ移民の文学者サークルの中心人物となり、生涯の親友となるミハイル・ナイーミと出会った。
  • 1912年、29歳の時、唯一の小説、アラビア語で書いた『壊れた翼』をニューヨークで発表。定住先をニューヨークに移す。この頃、ユングにも出会う。
  • 1916年、33歳の時、オスマントルコの支配が強まり、母国は飢餓に苦しんでいた。カリールは救済基金を集める活動を始める。
  • 35歳の時、英語による初の著書『THE MADMAN(狂人)』を出版。1920年、37歳の時、『THE FORERUNNER(先駆者)』を発表。
  • 1923年、40歳の時、ついに20年以上にわたる推敲を重ねた『THE PROPHET』を英語で出版。一躍ベストセラーとなり、国際的な作家としての地位を築く。この作品は、彼が最も傾倒し尊敬していた思想家ニーチェの、『ツァラトゥストラかく語りき』から受けた、深い感銘によって生み出されたと言われている。
  • 長く援助を受け、恋人だったメアリーとは、この頃別れることとなった。名声を手にした彼だが、体の不調と痛みで、禁酒法にもかかわらず大量のアルコールを飲むようになる。
  • 1931年、48歳の時、結核と肝硬変のため、48歳の若さでニューヨークの病院にて死去。死後、彼の希望どおり、遺体は故郷の村の修道院に葬られた。
  • 「“愛の啓示”温めた原風景:首都ベイルートから車で約2時間半。曲がりくねった山道を登ると、次第に肌寒くなってくる。ふもとにあったオリーブ畑は姿を消し、沿岸では既に収穫が終わっているアーモンドはまだ白い花を咲かせている。さらに登ると、道路脇にはまだ白い雪が残り、温暖で開放的な地中海岸の都市とは全く違った幻想的な雰囲気を感じさせる。この標高約1400メートルの山あいにある静かな町ブシャーレこそ、詩人、画家として活躍したジブラン・ハリル・ジブランの故郷だ。---「預言者」はジブランが1923年に発表した代表作。預言者アルムスタファが12年暮らした異国の町を離れ、船で故郷に戻ろうとする章から始まる。「愛について」「結婚について」「子供について」などと題された26の章では、町の人々からそれらの意味を問われた預言者が答えるという形式になっている。日本でも複数の翻訳が出ている。---彼の名は日本ではそれほど知られていないが、欧米での人気は高く、特に米国では1991年5月、ジブランの名を冠した記念庭園がワシントンにオープン。--代表作の「預言者」は、「愛し合いなさい、/しかし愛をもって縛る絆(きずな)とせず、/ふたりの魂の岸辺の間に/ゆれ動く海としなさい」(神谷美恵子著「ハリール・ジブラーンの詩」、角川文庫より)など、人が生きているうちに避けて通れない基本的な事柄について、ジブラン独自の言葉で表現。米国だけで900万部以上も売れ、「20世紀の米国で聖書の次に売れた書物」と言われるほど広く愛されている。(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    プロフィール全文「spiritual bookstore BOOK CLUB KAI / people /
    (1)「ジブランの詩集「預言者」ゆかりの地(ブシャーレ=レバノン)
    (2)投稿者:Koromoさん..2007/ 4/28 06:39:10(土) [1554]

(2007.054.29掲載)




▲30種以上の言語に訳され、世界中の人々に愛読される、伝説的な本『THE PROPHET(預言者)』があるカリール・ジブラン。


◆ジブラン美術館からは、山と谷を望むブシャーレの美しい町並みを見渡すことができる。

 

ジブラン語録
あなたの喜びは、あなたの悲しみが仮面を脱いだもの。

◆仕事とは目に見える愛である。

◆衣裳は美しさを覆い隠しはしても醜さは隠せない。
---『The Prophet(預言者)』より
---(2)。


48年3ヶ月と28日の生涯---2006年、生誕100年

坂口安吾
Ango Sakaguthi      【完璧なる挫折者】

(1906.10.20〜1955.02.17)
脳溢血---天秤座

  • 太宰治と並んでデカダンスの作家としてあまりに有名な小説家。新潟市生まれ。代議士坂口仁一郎の五男。東洋大印哲卒。当時の新潟放送社長は安吾の長兄献吉氏。
  • 東洋大学でインド哲学を学びながら、アテネ・フランスに通った22、23歳。
  • 25歳で『風博士』『黒谷村』で認められたが、観念的な作風のため一般には親しまれず、戦中の卓抜なエッセー『日本文化私観』『青春論』で注目される。
  • エッセー『堕落論』、小説『白痴』で戦後の混乱期の人びとの心をとらえ一躍流行作家となった。
  • 偽善より堕落をよしとする野人精神を発揮して太宰治、織田作之助らとともに「無頼派」と呼ばれた。
  • 「---(安吾の)堕落とは既成の価値観、定説から自由になることであり、物事の本質を見抜くために没落せよ、ということ。しかも「人は堕ち抜くためには弱すぎる」こと、すなわち、自分の物差しではない別の価値観にたよってしまうであろうということ。堕落するためには強くなければならないのか?」(1)。
  • 「大人の顔が不要な時代になった。文士の顔、それはひとことで言えば無頼。だれにもたよらない。筆一本で生きてやる。全世界を敵に回しても生きる。そういう覚悟が表情にあった」(2)。
  • 「むしろ、現在の日本で断罪されるべきは、魅力によって妻の心をひきとめておくことのできない「悪夫」の方である。魅力のない男は、これはもう、決定的な「悪夫」なのだ」
    (3)。
  • 「法隆寺や平等院よりも、累々たるバラックの屋根に夕日が落ちている光景の方が美しい、と言い放ったのは没後50年になる作家の坂口安吾である。評論「日本文化私観」の中で、生活の必要にこそ美があるとし、〈必要ならば、法隆寺を取り壊して停車場をつくるがいい〉とまで書いた」(4)。
  • 「半年のうちに世相は変わった。特効の勇士は闇屋になり、けなげな心情で戦地に行く男を送った女性たちも位牌にぬかずくこと事務的になり、新たな面影に胸をふくらせようとしている。この焼け跡の現実を見て、〈人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけ〉と坂口安吾が『没落論』で書いたのは昭和21年である。それから半世紀---」(5)。
  • 「安吾の敵はナショナリズムだった。彼の文章の題名に「日本」を冠したものが多いのは、彼の仮想敵が常に「日本」であり「日本文化」であり「日本精神」であり、そしてもろもろの日本ナショナリズムであったことを意味している」(6)。
  • 「少年の頃に見ていたに違いない故郷・新潟の刑務所の風景、矢田湯横に対する愛蔵と嫉妬、偏愛したフランス18世紀の小説『危険な関係』、あるいは痛快無比な安吾の断言に潜む矛盾点。安吾とは何者であったか。---〈何をどう書けば自分の才能を100%開花させることができるのか、その肝心要のところでいつも自分を見失ってしまった大器〉」(7)。
  • 「当時(22.23歳)住んだ東京・蒲田の木造アパートには机がなく、畳に原稿用紙や万年室が置かれ、隣室には自動車へ故意に飛び込んで生計を立てる「トビコミ屋」の夫婦が暮らしていた。それでも安吾は〈書けないことをこぼしたことはあるが、収入がないことをこぼしたことはなかった〉。安吾と言えば、親との不和や落第、実らぬ恋などが注目されがちだ。だが、戦前の不遇な環境が人間観椰子層を鍛え、戦後の超人的な活躍につながった面は見落とせない」(8)。
  • 「安吾は危機の時代に良く読まれる」(9)。
  • 「安吾は自分の総体を、自身でもつかめなかった」(10)。
  • 「安吾賞の初受賞者が、劇作家の野田秀樹(050)に決まった。安吾の没後10年で生まれた野田さんは「生まれ変わり」を自称する。安吾の長男網男さん(053)は、〈天国の父は『あいつが生まれ変わりか』と苦笑しているだろう〉」(11)。
  • 2月17日は祥月命日。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)平岩俊司。
    (2)新井満。
    (3)鹿島茂
    (4)読売新聞2005.09.18朝刊「本よみうり堂」より抜粋。
    (5)読売新聞2006.02.26朝刊「本よみうり堂」より抜粋。
    (6)読売新聞2006.04.29朝刊「本よみうり堂」より抜粋。
    (7)読売新聞2006.04.25朝刊「2006文学」(山内則史)より抜粋。
    (8)読売新聞2006.08.15朝刊「文化」(持田普哉)より抜粋。
    (9)関井光男。
    (10)出口裕弘。
    (11)朝日新聞2006.09.05朝刊より抜粋。

(2007.12.04更新)




▲太宰治と並んでデカダンスの作家としてあまりに有名な小説家・坂口安吾。

 




▲ 「人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない(角川文庫『堕落論』より)」

坂口安吾語録

◆「ふるさとは語ることなし」
(坂口安吾文学碑の碑文)

◆「悪妻というものには、一般的な型はない。もしも魅力によって人の心を開くうちは、悪妻ではなく、良妻だ。いかに亭主を苦しめても、魅力によって亭主の心を惹くうちは良妻なのだろう。魅力のない女は、これはもう、決定的な悪女なのである」 
(『堕落論』・「悪妻論」)

◆「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」

◆「人間は人間のみを恋す」

◆「人間の尊さは 自分を苦しめるところにある」

48年4ヶ月21日の生涯

深浦 加奈子
Kanako Fukaura   【鋭いバイプレーヤ】

(1960.04.04〜2008.08.25=昭和35年~平成20年)
S状結腸癌---牡羊座

  • 東京都立日比谷高等学校を経て、明治大学文学部演劇学科卒業。大学在籍中に第三エロチカ旗揚げに参加する。以降は看板女優として全公演に出演して活躍するが、1989年(平成元年)に退団する。
  • その後も舞台を中心に活動するが、テレビドラマ「家なき子」や「スウィート・ホーム」での演技で世間に広く認められるようになった。特に小姑役やお局役で鋭いバイプレーヤーぶりを発揮するため、その手の役はハマリ役であると評された。
  • 東京パノラママンボボーイズのライブ、CDではリリィ深浦、六本木ネネの名で、パンチのある昭和歌謡を披露。
  • プロレスラーのザ・ロックの熱狂的なファンであり来日の時サインを求めたこともあった。
  • 2008年8月25日午後10時57分、S状結腸癌のため死去した。48歳没。2003年頃から闘病しながら仕事を続けており、「恋人は仕事」と仕事に専念し独身を貫いていた。
  • 最後の仕事は、フジテレビ系列のテレビ新広島の報道特別番組「描けなかった2枚の絵」のナレーションだった。体調が思わしくないにも関わらず、「このテーマは絶対やりたい」と姉に付き添われて、広島まで出向いた。芝居では、ルーツである小劇場の演劇舞台「新しい橋」(2008年2月・下北沢駅前劇場)が最後だった。
  • 明治大学在学中に劇団「第三エロチカ」旗揚げに参加、看板女優として活躍。退団後もテレビドラマ「家なき子」「スウィート・ホーム」「私の青空」などに出演、脇役として幅広く活躍した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    深浦加奈子-Wikipedia

(2008.09.27掲載)



▲小姑役やお局役など様々な役柄をこなし、名脇役と評された女優・深浦 加奈子。

 


48年4ヶ月23日の生涯

J.C.マクスウェル
James Clerk Maxwell  【電磁気学理論体系の建設者】

(1831.06.13〜1879.11.05)
胃癌---双子座

  • 英国の電磁気学の物理学者、理論物理学者。イギリス(スコットランド)エディンバラ生まれ。姓はマックスウェルと表記されることもある。
  • ケンブリッジ大学を出て、アバディーン大学、キングズ・カレッジ、ケンブリッジ大学教授を歴任、43歳でキャベンディシュ研究所初代所長。
  • 29歳にして気体分子の速度分布法則を理論的に導き、気体の粘性率から平均自由行程を算出して気体分子運動論に貢献。
  • 1864年(33歳)でファラデーの場の考えを数式化し、マクスウェルの方程式を基礎とする電磁気学理論体系を建設。
    さらにこの式から電磁波の存在を予言、光を一種の電磁波とする光の電磁理論の基礎を築いた。マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、マクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立。
  • さらに電磁波の存在を理論的に予言し、その伝播速度が光速度に同じで、横波であることを証明した。土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学などの研究でも知られている。
  • 1847年 エディンバラ大学へ入学。1850年 ケンブリッジ大学へ転校。1854年 ケンブリッジ大学を卒業。1856年 アバディーン大学教授に就任。土星の環を研究、「ファラデーの力線について」を著す。1859年 気体分子の速度分布関数及び平均自由行路を導入。1860年 ロンドン大学キングスカレッジ教授に就任。1861年-1862年、「物理学的力線について」を著す。
  • 1864年 「電磁場の動力学的理論」でマクスウェルの方程式を導く。1871年 ケンブリッジ大学教授に就任。1873年 「電気磁気論」を著す。1874年 キャヴェンディッシュ研究所初代所長に就任。1879年 統計力学にアンサンブルの概念を導入。
  • 「マクスウェルの方程式(Maxwell's equations)は、電磁場のふるまいを記述する古典電磁気学の基礎方程式。ファラデーが幾何学的考察から見出した電磁力に関する法則から1864年にマクスウェルが数学的形式として整理し導いた。マクスウェル-ヘルツの電磁方程式、電磁方程式などとも呼ばれる。日本語では「マクスウェル〜」「マックスウェル〜」の二つの表記があるが、『学術用語集 (物理学編)』では前者になっているので、本稿でも「マクスウェル〜」で統一した」(1)。
  • 他に土星の環や色彩感覚に関する研究もある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジェームズ・クラーク・マクスウェル-Wikipedia
    (1)「マクスウェルの方程式 - Wikipedia

(2006.12.12更新)




▲ マクスウェルの方程式を基礎とする電磁気学理論体系を建設。

 


48年4ヶ月と24日の生涯

レオン・フーコー
Jean Bernard Leon Foucault  【フーコーの振り子】

(1819.09.18〜1868.02.11)
死因?---乙女座

  • 物理学者ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは1819年に生まれ、パリ天文台の教授を務めていた。
  • 1851年、地球の自転を証明するための装置を思いつく。長い糸に重い重りをつけて揺らし続けると、重りの振れる角度が一定の速度でゆっくりと変わってゆく。
  • 本来なら、振り子は一定の方向を保って揺れ続けるのに、地球の方が回転しているために、地上の私たちには相対的に振り子が回転しているように見えるのである。
  • 「1851年、望遠鏡の制御に用いる時計の制作過程で、 振り子による地球の自転の証明を思いつき、 自宅の地下室で長さ2メートル の金属線に3キロのおもりをつけた 振り子を振らせて振動面の回転を確かめたところ試みが成功した。 なぜこれで証明できるのか:フーコーの振り子の証明は数式から証明することが出来る。 しかし、ここでは数式を用いず、簡単に 紹介するため、興味のある方は専門のサイト様に足をお運びただきたい。 これは我々が自転を実感できる簡単な装置です。 まず、金属線などに球をつけ、振り子にして揺らします。 すると、最初は棒に当たならなかった球が、時間が経つと 棒にぶつかります。ただこれだけで地球が自転することが証明出来たわけです。 18世紀以前から振り子は一定の方向に揺れるということが証明されていました。 これは運動を続けようとする慣性の法則などから求められています。 しかしながら台に置いた棒のついた装置は地球の自転により移動するために、 球は立てておいた棒に衝突することになるのです」(1)。
  • 「この装置を見てみたい・体験したい:この装置は科学館などいろいろなところで目にすることが出来ます。 しかし、私のお勧めは福済寺です。 九州の長崎にあり、 日本第一位、世界第三位の振り子があります。 200円で有料ですが、詳しい説明が受けられます。 また、この振り子は「恒久の平和」という意味がこめられています。 自分自身は、九州旅行で、偶然立ち寄りました。 みなさんも九州を訪れる機会があるなら、観光のひとつとして取り入れられてはいかがでしょうか」(2)。
  • 「地動説は徐々に浸透していったが、万人が納得するかたちで自転を証明する決定打を示したのは、あのケプラーでもニュートンでもなく、フランスの在野の科学者レオン・フーコーであった。実感できるのはただひとつの実験・振り子。彼は、その単純な仕掛けで、地球の自転を目に見える形で示しただけでなく、その原理を数学的に証明した。〈地球が自転するのを見に来られたし〉とうたわれた公開実験には、多くの科学者、市民が殺到し、宗教界を含めて万人が地動説を認める歴史的転換点となった。だが、当時の科学者集団からの彼の評価は、在野であったゆえに、低いままであった」(3)。
  • また、渦電流を発見し、ジャイロスコープを発明した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「地球の自転
    (3)読売新聞2006.02.19朝刊 アミール・D・アクゼル著「フーコーの振り子」の渡部潤一による書評より抜粋。

(2006.02.20掲載)




▲フーコーの振り子の発明で知られるフランスの物理学者レオン・フーコー。


◆幾何学模様の床の上で揺れる振り子。


◆パンテオン外観=アントワーヌ・プーペル。

48年5ヶ月ジャストの生涯-----2004年生誕100年

堀 辰雄
Tatsuo Hori   【『風立ちぬ』の生みの親】

(1904.12.28〜1953.05.28)
肺結核---山羊座

  • 昭和期の小説家。東京都出身。東大国文科卒。一高入学後肺を患い、軽井沢で療養中に関東大震災で母を失う。芥川竜之介室生犀星に師事。
  • 東京帝国大学に入ると、中野重治と同人誌『驢馬(ろば)』を創刊。三好達治らとの『四季』に詩、小説等を発表。
  • 1930年(26歳)『聖家族』で文壇デビュー。軽井沢の療養所で婚約者を失った経験をもと『風立ちぬ』を執筆。純粋な愛と死をフランス文学的な叙情で描き上げた。ほか代表作に人間の愛と死を主題にした『菜穂子』等の作品や、王朝文学の影響を受けた『かげろふの日記』、『美しい村』などがある。
  • 「結核を病み長い療養生活を過ごした堀は、病魔と連れ添った生涯を48年で終えた。終焉の地、長野県軽井沢町の自宅は今、記念館になっている。深い親交を結んだ折口信夫は「菜穂子の後 なほ大作のありけりと そらごとをだに我に聞かせよ」と弔歌を寄せた。うそでもいいから---切ない呼びかけは円熟の季節を待つことなく逝った作家その人の無念を語って余りある」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.07.29朝刊「編集手帳」より抜粋・リライト。

(2004.07.29更新)




▲『風立ちぬ』で知られる昭和期の小説家・堀辰雄。

48年5ヶ月と29日の生涯

松本善登
Yoshito Matsumoto   【いつも二番手】

(1933.06.15〜1981.12.14) 
癌---双子座

  • シンザンに乗ったジョッキー。島根県出身。
  • 「〈シンザンという名馬がいた〉という書き出しで始まる。ちょうど40年前の秋の天皇賞と有馬記念を含め、日本の競馬史上、初の5冠馬である。この有馬記念でシンザンに騎乗した松本善登(よしと)騎手の人生を追った「二番星は二度輝く」(緑新聞社)が出版された。総立ちの観客に隠れ、瞬間的にシンザンの姿がテレビ画面から消えた。名場面集では必ず登場するレースだ。71歳になる著者の松井俊堯さんは、55歳の選択定年で三菱農機を辞めたあと、プラスチック製品のメーカーで役員を務め、さらに人材紹介会社で転職者や退職者のアドバイザーとしても活躍した人だ。現役を退いた昨年、島根県大田市の小中学校の1年先輩で、48歳でがんに倒れた「善さん」の執筆を思い立った。転勤族だったこともあり、京都や東京の競馬場に通い詰め、騎乗姿を何度も見てきた。そんな松井さんの、一つの時代への鎮魂歌でもある。「善さん」は、緊急入院した騎手の代役としてシンザンに乗った。14年後、カツラノハイセイコで日本ダービーを初制覇。この時もファンからは落馬負傷した騎手の代役とみられていた。「いつも二番手」でありながら大仕事をした男だった」(1)。
  • 「いつも二番手」というのはボクにとっては憧れに近いポジションだ。将棋でいえば森下卓八段。ボクの人生は何時だって三番手以下だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.10.30朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2005.11.07更新)




▲日本の競馬史上、初の5冠馬であるシンザンに騎乗した松本善登騎手。




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