玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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age 50


50音インデックス


■50歳の
 シンクロニシティ


■50歳-?
松尾芭蕉
正木退蔵

■50歳-前半
アルフレッド・ウェゲナー
アヒム・フォン・アルニム
グレン・グールド
エイゼンシュテイン
岩崎 弥太郎
長井 健司
新井将敬
エドワード・バッチ
ロベルト・ボラーニョ・A
コージー・パウエル
エロール・フリン
ジェームス・クック
松本たかし
ガエターノ・ドニゼッティ
ハーブ・リッツ
梶原一騎
アラン・ラッド
洪 秀全/ピンイン
A・ヴァレンシュタイン
S・S・ヴァン=ダイン

■50歳-後半→進む
一遍
フェルディナント大公
秩父宮擁仁
スーティン
スティーブ・マックィーン
岡倉天心
A.L.ラボアジェ
ベニグノ・アキノ
リラダン
マイケル・ジャクソン
ウイリー・キーラー
マキノ省三
景山民夫
グスタフ・マーラー
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ


■50歳のエポック


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50歳の語録

 

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人也」
(芭蕉)

「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
(芭蕉の辞世の句)

「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ」
(一遍)

「生活? そんなものは下僕にまかせておけばいい」
(リラダン)

50歳のシンクロニシティ!

  • 50歳の享年には「旅」に生きたふたりがシンクロする。芭蕉一遍だ
     
    ●旅を好んだ江戸俳諧の最高峰・松尾芭蕉(1644.不詳〜1694.10.12)は赤痢で50才?の生涯(?座)。
    ●遊行上人と称され諸国行脚しながら念仏を唱えた一遍上人(1239.02.15〜1289.08.23)も死因?で50年6ヶ月と8日の生涯(水瓶座)だった。

  • 50歳の異名に「知命」がある。「知命」とは論語の言葉「50にして天の命を知る」が由来。
    人知の遠く及ばない天の定めた運命に、ありのままに順応していく態度を云う。単なるのんきな処世態度を云うのではない。「楽天知命」の知命である。
  • 「人は定年になって、あるいは女性は更年期を境に、ゆっくりと「老い」が来ると考えるが、これが大錯覚で「老い」は50歳で来て、老後と呼ばれる人生はそれより四分の一世紀も遅れて75歳から始まるというのが、私の体験的事実なのである。「老前」50歳は人生の決断の花が咲く時、そのすべてが「老後」に実を結んでいく。(鈴木健二著『人は50代60代になにをなすべきか』(グラフ社)。
  • 「50歳は人生の曲がり角。上手に曲がって後半を楽しもう」(斉藤茂太)。

    (2006.12.04更新)
         



50年?の生涯---2004年生誕360年、没後310年

松尾芭蕉
Basyo Matsuo   【俳聖・漂泊の詩人】

(1644.不詳〜1694.10.12)
赤痢---?座

  • 旅を好み、故郷に旅した「野ざらし紀行」や東北・北陸5ヵ月間の大旅行の成果「奥の細道」が名高い江戸俳諧の最高峰。蕉風の祖。「俳聖」。伊賀国(三重県)上野の生まれ。
  • 奥州の旅で大自然の偉大さ、素朴な人情にふれ、栄枯盛衰のあとを眺めて人間の宿命を憐れみ、俳諧師として生きる意義を反省し、「誠」をもって俳諧の根本とし、「不易流行」をもって姿と考えるに至る。
  • 「不易」は詩的生命の基本的永遠性を有する体。「流行」は言葉における流転の相をいい、 その時々の新風の体。この二体はともに風雅の誠から出るもで、根本においては一つに帰すべきもとする考え方。
  • 延宝8年、深川の芭蕉庵に入居。元禄二年(1689年45歳)の三月、芭蕉は片雲の風に誘われて江戸・深川を発つ。日光、那須を抜け、白川の席から陸奥を北上。
  • 仙台、平泉、出羽三山、象潟を訪れ、北陸を通り、岐阜・大垣へと至る約2400キロ5ヶ月間の長旅であった。以後没年まで各地を行脚、紀行文を残し、芭蕉俳諧の頂点をきわめた。
  • 元禄7年、西国行脚の途次、50?歳で病没。西行に憧れ、漂白の思いやまぬ歌枕探訪の旅は、名作「奥の細道」として結実。発句は約1000、一座する連句は約160巻(歌仙形式以上のもの)が残されている。
  • 「過客(かかく)」とは旅人のことをいう。「光陰ハ百代(はくたい)ノ過客ナリ」と唐の李白は詩に詠んだ。李白の言葉を踏まえて芭蕉は「おくのほそ道」の書き出で「月日は百代の過客にして行きかふ年も又(また)旅人也(なり)」とある。
  • 芭蕉は俳諧において生涯変化を求めてやまなかった。
    「ふる池や かはづ飛び込む 水の音」によって蕉風開眼 。

  • 「芭蕉が岩手で曲がり、青森に行かなかったのは〈あれ、絶対に言葉がわかんなくなちゃったんだと思う〉」(1)。
  • 「松尾芭蕉は「俳聖」と呼ばれるだけあって、句を彫り込んだ句碑などが全国津々浦々にある。その数は与謝蕪村、小林一茶ら他の俳人に比べても圧倒的に多い。私は10年以上にわたり、北海道から鹿児島県までの句碑、塚碑、文学碑など3.230基を現地調査してきた」(2)。
  • 芭蕉は元禄2年(1689年=45歳)3月、のちに俳諧紀行「奥の細道」に結実することになる旅に出た。半年かけて、東北や北陸の各地を歩き、多くの句を詠んだ後、元禄7年10月12日(新暦では11月28日)に難波(現在の大阪府)で死去した。芭蕉は、深川の自宅「芭蕉庵」から隅田川を船で上り、千住で下船した。千住で仲間に見送られた芭蕉は、惜別の悲しさに涙がこぼれ、旅の最初の句として「行く春や鳥啼魚の目は泪」と詠んでいる」(3)。
  • 「〈奥の細道〉の起点だった足立区で2006年5月13.14の両日、全国から芭蕉ファンやゆかりの自治体関係者が集まる〈奥の細道 芭蕉サミット〉が開催される」(4)。
  • 「芭蕉は世界的にはイチローより知られている。文学性と庶民性が融合しています。こうゆう人は文学史を探してもほかにいない。---50年忌ごとに蕉風復興運動が起きて、江戸時代の終わりには神様になった。---芭蕉はずば抜けた存在。文学史上の巨大なダムのようです。」(5)。
  • 「神格化の例として、江戸時代の後期に俳壇が集団化した際、俳壇の家系図のほとんどが、その源を芭蕉としていました。---芭蕉人邪説のように、謎の部分が多く、誰もが好きに語れるという魅力もある。---芭蕉の句は1000に満たないようです。一茶は2万句。」西鶴は一昼夜で2万3500句。芭蕉は言葉を大切にし、良く推敲した。(6)。
  • 「芭蕉は伊賀の山国から来た失業文人である。句は観念が先行し、風景はさして見ない。このような一介の俳諧師が、名門藩士や医者や世捨人を配下に収め、強力な崇拝網を張ると何故出来たか。門下の軋轢、高弟の離合の中に、現在数百万と称される愛好者を直接間接組織化することに成功した俳句産業の原型を見る。著者は知るほど俳聖の凄みが見えてくるとへりくだっているが、俳聖なる言葉のむなしさがよく見える」(7)。
  • 「〈悪党芭蕉〉――芭蕉といえば〈俳聖〉が常識だが、嵐山光三郎作品のタイトルはこれだ。が、「この題を見て、偶像破壊の書を想像してはいけない」と選評の山崎正和さん。「徳川綱吉の悪政の世に生きて、適当に権力にたいして迎合もし、個性強烈な弟子どもを巧みに操縦もして、蕉門という派閥を率いた現実主義者の肖像」と、選評は続く。〈悪〉といえば、普通は文字通り〈悪い、よこしまな、望ましくない〉だが、例外的には人名などについて、その人が抜群の能力、気力、体力を持っていて恐るべきことを表す接頭語としても使われる。〈悪源太〉は源義平の通称、〈悪左府〉は藤原頼長の異称。嵐山さんが芭蕉を悪党と呼んだのも単なる悪者の意ではなく、したたかな人柄、手腕に敬意を寄せてのこと。その書〈悪党芭蕉〉が読売文学賞の評論・伝記賞に選ばれた。東京・神楽坂の飲み屋で受賞の報を受け、祝い酒は7軒はしごして朝まで続いたという。悪党芭蕉は悪党嵐山ならではの作だろう。奥の細道のように長く芭蕉と歩いてきた人の記念碑に乾杯!」(8)。
  • 「〈芭蕉にとって、『奥の細道』のような紀行は余技で、本業は俳諧興業のプロデューサー〉だったという。遊蕩児や路上生活者など才能はあっても癖の強い門弟300人を束ね、徳川綱吉の「生類哀れみの令」にも機敏に対応し、江戸や上方、伊賀をネットワークする一門を発展させていく。---」(9)。
  • 「〈旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る〉。芭蕉翁は最期の床でそう詠んだが、格別に辞世の句として遺したわけではなかった。門人には「平生則(すなわ)ち辞世なり」と説いている。常に日々を大切に生き、句作してきたということだろう。実際に亡くなった旧暦10月12日とは、ひと月余り季節がずれるものの、きょうを芭蕉忌とする行事も多い。翁(おきな)忌ともいう。だが、年譜を見ると享年は数えで51だ。満なら50歳になるかならないか。隅田川のほとり、東京・深川の芭蕉庵史跡庭園で翁の像と向かい合ってみた。当時としても若くして年長に見られた人らしい。とはいえ、今日の同世代とは雰囲気があまりに違う。現在、日本人の平均寿命は男性79・19歳、女性は85・99歳。芭蕉の時代よりはるかに長い。無論、長寿は喜ばしい。問題は人生が豊かになっているのかどうか。平生則ち辞世、などと思索する間もなく日々はあわただしく過ぎる。現代の50歳が翁に近い風貌になるころ、頼りの年金や医療は少々心もとない。芭蕉翁が今、数十年長い人生を過ごせばどうだろう。思う存分に「侘(わ)びしきを面白がる」ことになっても困る」(10)。
  • 「〈さまざまの事おもひ出す桜哉(かな)〉は芭蕉の句。苦境を振り返って笑える日が一日も早く来るようにと祈る」(11)。
  • 「芭蕉評は各様だ。俳壇での神格化にうんざりしていた正岡子規あたりは「過半悪句駄句を以(もっ)て埋められ」と辛かった。その上で、可なるもの200余句と認める。---」(12)。
  • 芭蕉は40歳を過ぎて「芭蕉翁」を名乗った。「衰ひや歯に食ひあてし海苔の砂」と詠んだのは48歳である。2005年、ボクもその歳になった。「は・め・まら」である!。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)永六輔
    (2)弘中孝
    (3)読売新聞2005.11.19朝刊より抜粋。
    (4)読売新聞2006.04.15朝刊「都民版」より抜粋。
    (5)読売新聞2006.06.13朝刊「芭蕉再発見」(長谷川櫂)より抜粋。
    (6)読売新聞2006.06.13朝刊「芭蕉再発見」(横浜文孝)より抜粋。
    (7)読売新聞2006.08.13朝刊 嵐山幸三郎著『悪党芭蕉』の櫻井孝項の書評より抜粋。
    (8)読売新聞2007.02.07朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (9)読売新聞2007.02.06朝刊 読売文学賞の人-4 嵐山幸三郎著『悪党芭蕉』(佐藤憲一)より抜粋。
    (10)読売新聞2008.10.12朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (11)読売新聞2009.04.04夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (12)朝日新聞2009.11.25朝刊「天声人語」より抜粋。

(2009.11.28更新)




▲漂泊の詩人・松尾芭蕉。




▲建部巣兆筆の「芭蕉像」。


◆千住宿奥の細道プチテラスに立つ芭蕉像。

 

芭蕉の句

◆「物言えば耳に聞こえて秋の暮れ」

◆「春もやや けしきととのふ 月と梅」

◆「秋深き隣は何をする人ぞ」

◆「行春や鳥啼き魚の目は泪」

◆「さまざまの事おもひ出す桜哉」
(桜の木の下で しみじみと 花をめでながら 若き日のあれこれを思い出す)

◆「草いろいろ おのおの花の 手柄かな」
(すべての花たちは、自分らしく、自分のありようでベストを尽くして咲き合っている様子をたたえている。金子みすずの「みんなちがって、みんないい」を思い出す)。

◆「造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ」
(宇宙の造物主が自然に作ったものは、どのような人が筆を振るい絵に描き、詩文に書きつくそうとしても、その美しさは描きつくすことができない)。

◆〈水とりや氷の僧の沓(くつ)の音〉――「お水取りがすむと、寒さがゆるむ」といわれる。

◆〈草の戸も住替る代ぞ雛の家〉
奥の細道の冒頭の句だ。旅立つ前に売り払った自分の草庵のようす。

◆「いざさらば雪見にころぶ所まで」

〈五月雨の降りのこしてや光堂〉

〈五月雨を集めて早し最上川〉

◆漂泊の詩人の辞世の句は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」だった。


◆『悪党芭蕉』 で読売文学賞した嵐山幸三郎。

50年?の生涯

正木退蔵
Taizo Masaki   【吉田松陰を初めて海外へ紹介した男】

(1846.?〜1896.?=弘化3年〜明治29年)
死因?---?座

  • 松下村塾門下生。退蔵は、弘化3年(1846)、長州藩士大組正木治右衛門の三男として、萩城下に生まれる。幼名を梅三郎といい、幼くして佐伯丹下の養子となりる。
  • 安政5年(1858)、13歳の時に松下村塾に入門し、吉田松陰に師事した。のち大村益次郎に蘭学を学んで、大変優秀な成績を修める。元治元年藩世子の小姓役として仕え、正義派として活躍。
  • 慶応元年俗論派排撃の運動に加わり、維新前後国事に奔走す。維新後は大村益次郎に学んだ洋学の知識をかわれ藩の留学生として、明治4年イギリス留学。
  • 帰国後、東京職工学校長(東京工業大学の前進)に任ぜられ、後外務省に奉職。明治24年ハワイ総領事となり、26年官界を退き、29年死去。
  • 維新後、政府から英国留学に派遣され、化学や物理学等の外国人教師を日本へ推薦した。明治9年ロンドン留学中に文豪スチーブンソンに出会い、旧師松陰の思い出を語り、これが「吉田寅次郎=YOSHIDA-TORAJIRO」という文章となり海外に松陰を紹介するきっかけとなった。
  • 「渡英していた松下村塾出身の正木退蔵と晩餐会で知り合い、話題に上った松陰の人生に創作欲をかき立てられたようだ。友人への手紙で「人の生命を生き生きとさせてくれる日本の英雄の話」だと説明しているという。正木は後に、東京工業大学の前身の東京職工学校初代校長となるが、原稿の添削もしたそうで、誕生から29歳で刑死するまで、大筋に誤りはない。松陰が密航に成功していたら、後世にこれほど名を残したかどうか。スティーブンスンが松陰伝を書くこともなかったに違いない」(1)。
  • 「川上徹太郎著「吉田松蔭」に正木退蔵とスティヴンスンの関係を詳しく述べている下りがあります。『「私は次の話を知的な日本の紳士正木退蔵氏の証言の下に書く。彼はそれを彼の名誉にふさわしい情熱を以って語った。」とスティヴンスンはいっている。』ただ、惜しむらくは、スティヴンスンの武士というものへの理解が浅いためか、松蔭の人となりや日常の挙措動作を述べた箇所について、小生は心外に思うところが多々あり、残念です。(松蔭が塾生の笑い者にされたとか言う話など、信じられますか。)」(2)。
  • 維新後、松陰門下生で東京に出て教育にたずさわったのは山田顕義と正木退蔵の二人のみであった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「松下村塾門下生 「吉田寅次郎」を初めて海外へ紹介 正木退蔵 」
    (1)読売新聞2005.08.28朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)投稿者:ユリウスさん 2005.09.20(Tue) 11:32[618]

(2005.09.21更新)



▲吉田寅次郎(=松陰)を初めて海外へ紹介した松下村塾門下生・正木退蔵。

50年1日または2日の生涯

アルフレッド・ウェゲナー
Alfred Lothar Wegene     【偉大なる気象学者】

(1880.11.01〜 1930.11.02/03)
心臓発作---蠍座

  • 大陸移動説を提唱したドイツの気象学者。現在でいう地球物理学者である。義父(妻の父親)はケッペンの気候区分で有名な気象学者ウラジミール・ペーター・ケッペン。日本では英語読みでアルフレッド・ウェゲナーとも表記される。
    ベルリン出身。
  • ヴェーゲナーは、本来は気象学を専門とし、気球を使った高層気象観測技術などの先駆者であった。自ら気球に乗って滞空コンテストに参加し、当時の最長滞空の世界最高記録 52 時間を実現した。
  • 1910年にヴェーゲナーは、世界地図(イギリスが中心に描かれているもの)を見て、南大西洋を挟んで、南アメリカ大陸の東海岸線とアフリカ大陸の西海岸線がよく似ていることに気づいた。これが大陸移動のアイデアの元となった。
  • 1915年にヴェーゲナーは、その主著『大陸と海洋の起源』の中で、地質学・古生物学・古気候学などの資料を元にして、中生代には大西洋は存在せず、現在は大西洋をはさむ四大陸が分離して移動を開始、大西洋ができたとする「大陸移動説」を主張した。彼の専門は気象学であり、地質学は専門外である上、当時の地質学は今日では古典的とされる化石の研究や同一地点の地層の重なりを調べる層序学を主流の手法としており、彼の主張は全く認められなかった。
  • 1929年には彼は『大陸と海洋の起源』の第4版(最終版である第5版はヴェーゲナーの死去により未出版)において、南北アメリカ大陸だけでなく、こんにち存在するすべての大陸は1つの巨大大陸「パンゲア」であったが、約2億年前に分裂して別々に漂流し、現在の位置および形状に至ったとする説を発表した。当時、地質学者たちは化石に基づく研究から彼が主張する大陸移動の根拠を「陸橋説」で説明し、「大陸は沈む事はあっても動くことはない」(現在では誤りと判明)として批判した。特に大陸移動の原動力をうまく説明できなかった彼の説は、またも完全に否定された。
  • 気象学分野では大気熱力学で業績をあげたものの、彼はそれでは満足せず、大陸移動説の根拠を探すために5度のグリーンランド探査を行い、その途中、1930年に(おそらく過労による)心臓発作により50歳で死去した。遺体は翌年の5月12日に発見された。墓標には「偉大なる気象学者であった」と記されているが、大陸移動説については何も触れられていない。
  • ヴェーゲナーがグリーンランドの氷河に消えてから約30年後の1950-1960年代に、大陸移動の原動力をマントル対流であるという仮説が唱えられ、さらに岩石に残された過去の地磁気の調査によって「大陸が移動した」と考えなければ説明できない事実が判明したことから大陸移動説は息を吹き返した。その後、これを発展させる形で地殻変動を総合的に説明できる説としてプレートテクトニクス理論が提唱され、ヴェーゲナーの大陸移動は「古くて最も新しい地質学」として再評価され、現在では高く評価されている。
  • 日本での紹介は戦前からおこなわれていた。ただし、この時代には「異端の説」という扱いであった。その時期にこの説を取り上げたものの一つに手塚治虫の漫画『ジャングル大帝』(1950〜1954年)がある。同作品のクライマックスは、大陸移動説の証拠となる石を発見するための登山であった。
  • その後、日本では1960年代になって、主に地球物理学系の学者によって上記のマントル対流とともに紹介され、1970年代には小学生向けの科学読み物にも取り上げられるなど、広く知られるようになった。特に1973年に小松左京が発表した小説『日本沈没』と同年公開のその映画版は、この説を普及させる上で大きな役割を果たした。
  • ただし、地球物理学系の学者と地質学系の学者の間でこの説の受容に差があり、1980年代までの高等学校の地学の教科書では出版社によって扱いに違いがあった。日本列島の形成史という地球規模ではミクロに属する領域までも大陸移動とプレート説による説明が日本で定着したのは、付加体説が受容された1990年前後のことである。
  • なお、1960年代から1970年代にかけての日本では、おもにアメリカ合衆国から大陸移動説やプレートテクトニクスの書物を取り寄せて紹介されたため、ヴェーゲナーの名は「ウェゲナー」の英語風の読みで広く定着することとなった。
  • 地球物理学系の学者は地震や火山のメカニズムをうまく説明できる大陸移動説を早くから支持したのに対し、フィールドワークに基づく地層の層序を地向斜説で説明してきた地質学系の学者は、大きな枠での大陸移動説は(古地磁気のデータから)受け入れたものの、自らのフィールドワークの対象である日本列島の形成史にプレート説を適用することには慎重であったり反発する傾向があった。このため、当時の地学の教科書では、地向斜説をマントル対流で説明したり、大陸移動説と地向斜説に基づく日本列島史をともに掲載する「折衷形」の記述も見られた。
  • ボクらが住む地球は動いている。大陸移動やプレートテクトニクスだけではない。24時間で自転し、365日で太陽の廻りを公転しながら猛スピードで飛来している宇宙船地球号なのだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アルフレート・ヴェーゲナー-Wikipedia

(2011.08.08更新)



▲現在で言う地球物理学者で、大陸移動説(プレートテクトニクス)の提唱者アルフレート・ロータル・ヴェーゲナー。

 

 

 



50年と5日の生涯

アヒム・フォン・アルニム
Carl Joachim Friedrich Ludwig Achim von Arnim
     【ドイツ・ロマン主義の代表的な文学者】

(1781.01.26〜 1831.01.31)
死因?---水瓶座

  • アヒムの名で多くは呼ばれるが、正式な名は、カール・ヨアヒム・フリードリヒ・ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニム。妻のベッティーナ・フォン・アルニムも著名な作家である。
  • 彼の父親はプロイセン王国の侍従ヨアヒム・エルトマン・フォン・アルニムである。彼は、ドイツ北東部のウッカーマルク地方のブランケンゼーの一家の出身。プロイセン公使としてコペンハーゲンとドレスデンに赴任しており、また通称「メガネの支配人」という名でベルリン市民劇場の劇場監督としても活動した。
  • アヒムの母親であるアマーリア・カロリーナ・ラーベスは、アヒムを生んだ直後に死亡している。
  • アヒムの長男カール・オットー・ルートヴィヒ・フォン・アルニムは「ピット」と呼ばれた。
  • 1811年に女流作家のベッティーナ・フォン・アルニム(兄はアヒムの友人でもあるクレメンス・ブレンターノ)と結婚した。アヒムはギーゼラ・フォン・アルニムらの父親にあたる。 
  • 幼少期と少年時代を祖母と共にベルリンなどで過ごした。ベルリンのギムナジウムへ通い、ハレ大学とゲッティンゲン大学で法律と数学を学ぶ。膨大な量の論文を科学雑誌に投稿した。
  • そして兄と共に1801年から1804年までヨーロッパ中を教養旅行に出かけ、1806年から1808年にかけて友人クレメンス・ブレンターノと共に、4巻からなる民族童話集「少年の魔法の角笛」を共同で執筆、そして1808年にロマン主義において重要な「隠者新聞」をハイデルベルクで発刊した。
  • 1809年からベルリンに在住。ハインリヒ・フォン・クライストも加わり「ベルリン夕刊紙」(Berliner Abendbla¨ttern)を発刊。
  • 1811年にドイツ晩餐会(Deutsche Tischgesellschaft)、後の政治的な会合になるキリスト教的ドイツ談話会(Christlich-deutsche Tischgesellschaft)を結成。
  • 1813年の10月から1814年の2月まではドイツ日刊紙「プロイセン特派員」の編集者になる。これによりプロイセンの愛国者たち(アダム・ミュラー、フリードリヒ・フーケ)らと交友を持つ。
  • 1814年から逝去するまでは多くをヴィーパースドルフで過ごす。たくさんの詩や劇作や論文や物語や雑誌と、ベルリン時代の自発的な出版物でもって、隠遁者として過ごしていたる
  • 1831年、50歳になる直前に同地で没している。
  • 彼は、たくさんのジャンルの文学作品を残し、現在ではドイツ・ロマン主義の代表的な文学者と見なされている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アヒム・フォン・アルニム-Wikipedia

(2008.08.30掲載)



▲ドイツロマン主義の最盛期の代表として著名な人物で、また同時代の文学者で義兄にあたるクレメンス・ブレンターノとの親交が深かった事でも有名であるアヒム・フォン・アルニム。

50年と9日の生涯

グレン・グールド
Glenn Gould  【エキセントリックな天才ピアニスト】

(1932.09.25〜1982.10.04)
脳卒中---天秤座

  • カナダのトロントで生まれる。父は毛皮商、母は声楽教師でその祖父のいとこが作曲家グリーグ。
  • 1945年にオルガン奏者としてデビューし、1946年:トロントのマッシー・ホールにて、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番第一楽章を演奏し、ピアノ独奏者として人生をスタートさせた。
  • 1955年:ニューヨークのCBSスタジオでソロデビュー盤のJ.S.バッハ「ゴールドベルク変奏曲」BWV.988を録音。
  • 1956年に初のアルバムであるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を発売し、世界的なピアニストの地位を確立。
  • 1964年:最後の演奏会。以降は演奏会など人前での演奏活動はせず、スタジオでのレコーディング・テレビ番組やラジオ放送ドキュメンタリー録画出演を専らとす。
  • 1982年9月27日:脳卒中でトロント総合病院へ入院。10月4日永眠。密葬に付される。享年50歳。
  • 彼のピアノは、当時「J.S.バッハはピアノで弾くべきではない」という常識を覆すほどの魅力を放つ。また、いわゆるテープつなぎを最初に公表した人でもある。つまり、何回か演奏したモノの良いところを部分部分つなげるのである。
  • また、ピアニストに多くありがちなコンサート嫌い(というか、コンサートというものに対して否定的であった)で、ある時期から、コンサートを一切止める。その代わりというか、録音時の映像が多数残ってあり、彼が、どのように曲を自分のモノにしていくかがわかり大変興味深い。
  • 「グレン・グールドはとてもユニークで、奇矯ではあるが、深い探求心を持ってピアノと向き合った芸術家だった。彼が残したJ・Gバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の録音は、20世紀におけるバッハ演奏の金字塔といえる」(1)。
  • 「聴衆と熱狂を共有することを嫌い、孤独な作業の中で完全な演奏を目指した。妥協のない、モラリスティック(道徳的)な芸術家」(2)。
  • 「ピューリタン(清教徒)的禁欲主義からメディア・テクノロジーに頼った彼のスタイルは、すでに終わった時代のもの」(3)。
  • 「従来の解釈を逸脱=超越した演奏によって、クラシック音楽に新たな表現の可能性を開いたグールド」(4)。
  • 「グールドは夏目漱石の『草枕』を愛読し、ラジオで朗読も行った。人情がからむ俗世間に疲れた主人公の画工は「非人情」の美学を信奉する。その「非人情」は「detachmento(デタッチメント=超然とした)」と英訳されている。ところが画工の「非人情」は、自然や他者との触れ合いによって揺さぶられ、苦悩し、結末にいたって新たな美を発見する。〈苦悩が美に転化されるそのプロセスに、グールドは憧れを抱いていたのかもしれません〉」(5)。
  • 「強烈な個性と魔法のような指づかいで、ピアノ界に衝撃を与え、演奏中に思わずもらす歌声からも、音楽にすべてを捧げた孤高の天才の人柄が偲ばれる」(6)。
  • 「31歳でコンサートからドロップアウトし、50歳で亡くなるまで、もっぱら録音スタジオにこもって演奏活動を続けた偉大なピアニスト」(7)。
  • 20世紀を見事に切り取ったピアニスト。それを可能にしたのが録音技術の発達だった。「天才」という言葉が一番似合うピアニストだったと思われる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「はてなダイアリー - グレン・グールドとは」
    「LovePiano(ラブピアノ) - プロフィール-グレン・グールド-PukiWiki」
    (1)読売新聞2005.11.04夕刊「文化」より抜粋。
    (2)モンザンジョン氏
    (3)高橋愁治
    (4)(5)読売新聞2005.11.19夕刊
     「新---私のいる風景」(宮沢淳一)より抜粋。
    (6)読売新聞2006.03.24夕刊の新聞広告より抜粋。
    (7)読売新聞2007.04.06夕刊「音故知新」(良)より抜粋。
    (8)読売新聞2007.09.11夕刊「言葉を生きる」(青柳いづみこ)より抜粋。

(2007.09.19更新)



▲聴衆と熱狂を共有することを嫌い、孤独な作業の中で完全な演奏を目指したグレン・グールド。

 

グレン・グールド語録

◆「(北には)謎めいたものがあります。それは---ネガティブな自然の中でポジティブな思想を醸造する発想です。」

◆「私は本当はたいへんなロマン派なのです。」

◆「ロマンティックな演奏者とは、ロマンティックな音楽に必要な自己限定をしないで、音楽に対して想像力をたくましくし過ぎる傾向のある人です」---ロマンティックなアプローチはロマンティックな音楽のそぐわないという、彼一流のパラドックスだ---(8)。

50年と19日の生涯

エイゼンシュテイン
Sergei Mikhailovich Eisenstein 【ロシアの映画監督】

(1898.01.23〜1948.02.11)
心臓発作---水瓶座

  • ロシアの映画監督。ラトビア生れ。モンタージュ理論とその実践である『戦艦ポチョムキン』(27歳)によって、世界の映画に大きな影響を与える。
  • その後ロシア革命10周年を記念した『十月』(29歳)などを製作するが、修正や改変を受ける。
  • 31歳から西欧をへてハリウッドに渡り、34歳で帰国。スターリン政権下で社会主義リアリズムからはずれた形式主義と批判されて製作が困難となり、映画学校での教育にもたずさわった。
  • 以後の作品に『アレクサンドル・ネフスキー』(40歳)、『イワン雷帝』(43〜48歳)がある。
  • 『戦艦ポチョムキン』は革命20周年記念映画として作られた。1905年オデッサ港に起こった戦艦ポチョムキンの水兵たちの反乱と、これに呼応したオデッサ市中の人民の虐殺を記録的に描く。
  • 『戦艦ポチョムキン』は個人ではなく群衆を主人公とし、オデッサ階段の虐殺シーンをはじめとする大胆なモンタージュ技法を用いた代表的古典。
  • 「新進気鋭の映画監督でありながら鬱屈した人生を送ったエイゼンシュテイン氏の哀しみが良く出ていますね・・・。あの当時のソ連の人は今の日本人よりはるかに苦しい生活をしていた。魂の自由の無い世界。作家さんや監督さんは物が見えるから本当にきつかったと思う。ましてや自分の理想とは真逆のものを作らされるなんて」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:Miwa さん ..2009/ 7/10 00:49:11(金) [5353]

(2009.07.13更新)



▲『戦艦ポチョムキン』で知られるロシアの映画監督・セルゲイ・エイゼンシュテイン。
(イラスト 大城さん)



50年と29日の生涯

岩崎 弥太郎
Yataro iwasaki     【三菱財閥の創業者】

(1835.01.09〜1885.02.07=天保5年11月11日〜 明治18年2月7日) 
病死---山羊座

  • 実業家。土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。
  • 曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。子供の頃から極貧の中で暮らした。頭脳明敏で12歳で儒者・小牧米山に弟子入りし、14・5歳になると詩才を発揮するようになったという。
  • 安政元年(1854年)21歳のとき藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ出、安積艮斎(あさかごんさい)の門人になった。父の奇禍で帰国,父に連座し入牢。
  • 1859年,土佐藩参政吉田東洋の門下生となり,下横目の職を得,長崎に出張するが,無断帰国し,解職される。帰国後、土佐藩の執政・吉田東洋を知り後藤象二郎と親しく交わる。幕末時に坂本龍馬の知遇を得る。
  • 慶応2年(1866年)には藩の開成館貨殖局に勤務。維新後の明治3年(1870年)10月から九十九商会という海運業を行う私商社の指揮者となる。
  • 同商会は廃藩置県後1873年に三菱商会と改名し、岩崎弥太郎個人の企業になった。新政府の軍需輸送を独占して巨利を占め、全国汽船総トン数の73%を手中に収めた。これと並行して海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎を築く 。
  • 明治10年(1877年)に勃発した西南戦争時には、三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として需要を独り占めにし、これによって得た運輸代金は1300万円という莫大な額にのぼった。
    更に戦争終了後の軍需品の処分でも大きく儲けた。
  • 明治14年(1881年)、三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚し、弥太郎は三井家の背後にいる井上馨・渋沢栄一を敵に回し、共同運輸会社と死闘を繰り広げた。そのさなか、健康の衰えにより明治18(1885年)年2月7日50歳で没した。
  • 1873年に現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、弥太郎の死後、政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。
  • 岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。また弥太郎の孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜らがおり、曾孫には鎮西清高(古生物学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく古生物学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)らがいる。
  • なお弥太郎の死後、嫡男の久弥が父の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。
  • 「---いずれにせよ、明治以降の近代的会社組織において、 はじめてボーナスを支給したのは、社員の奮闘に報いようとした岩崎弥太郎である可能性は高いといえる」(1)。
  • 「ボクが浪人時代に下宿していた文京区駒込には、ルネサンス風の洋館と様式庭園は鹿鳴館を設計したコンドルの手による旧古河邸庭園跡とともに六義園があって、よく散歩した。ここは徳川綱吉の時世に御側用人として権勢を誇った柳沢吉保の下屋敷だった。京都の桂離宮庭園の様式を取り入れた回遊式築産泉水庭園で、元禄期の代表的な江戸大名庭園。池の東側には六義館と呼ばれた下屋敷があり、柳沢吉保は56歳の生涯をここで閉じた。その後子孫が幕末まで所有していたが、明治11年岩崎弥太郎が買収し一時別邸として使用、岩崎家3代目・久弥が昭和13年に東京市に寄付した。
  • 今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」(2010年、NHK)では香川照之が弥太郎の視点から龍馬を描くというコンセプトで、作品内では幼少期より弥太郎が龍馬をライバル視している設定だ。香川さん福山君を喰ったらあかんぜよ!
  • 「たまさん 観てます!観てます!香川照之の弥太郎から目が離せません」(2)。
  • ---香川照之の弥太郎の「歯」がすごいですね。SFXとゆうか、特殊メイクがリアルです。本当は龍馬もみんなあんな歯だったんでしょうね。お竜さんなんて、お歯黒だったのかも。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岩崎弥太郎
    岩崎弥太郎
    岩崎弥太郎 - Wikipedia
    (1)「土佐の人物伝 〜岩崎弥太郎〜
    (2)投稿者:J さん..2010/10/11 12:13:13(月) [8262]

  

(2010.10.12更新)



▲海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎を築いた岩崎 弥太郎。

 


◆六義園(正面が吹上茶屋)


◆旧古河庭園



50年1ヶ月ジャストの生涯

長井 健司
Kenji Nagai    【銃撃された映像ジャーナリスト】

(1957.08.27〜 2007.09.27) 
銃撃され死亡---乙女座

  • 愛媛県今治市出身の映像ジャーナリスト(カメラマン・記者・レポーターの三役をこなす)である。
  • 愛媛県立今治西高等学校を卒業した後、東京経済大学経済学部に進学。卒業後にアメリカに1年間留学した。
  • 日本に帰国してフリージャーナリストとしてのキャリアを開始する前はアルバイトで生活していたという。1997年よりAPF通信社(東京・赤坂)の契約記者として活動。
  • 常々「誰も行かないところに誰かが行かなければ」と語り、パレスチナ紛争、イラク戦争、アフガニスタン空爆などを現地取材し、戦争の本質を捉えた映像を撮り続けた。
    生涯独身だった。
  • 2007年9月27日、ミャンマーのヤンゴンで軍事政権に対する僧侶・市民の反政府デモを取材中、軍兵士に至近距離より銃撃され死亡したと報道されている。
  • 彼は反政府デモを取材するために2007年9月25日にミャンマーに入国した。27日、ヤンゴンのトレーダー・ホテルから数ブロック離れたスーレ・パゴダ近くでデモを撮影していたが、軍の治安部隊がデモ隊に発砲した際に彼を殺害し、伝えられるところでは別の外国人ジャーナリストも負傷した。
  • 当初ミャンマー政府は治安部隊が発砲した際に前からの流れ弾に当たったと説明した。しかし日本のテレビでも放送された、別の角度から映されたビデオは、背後から近づいた軍人が至近距離で彼を撃ったと思われる姿を捉えていた(ただし、至近距離から撃たれた場合に残る火傷や火薬の粒子などは確認されていないという)。
  • 警視庁の発表では、銃弾は左腰背部から右上腹部に抜け、肝臓を損傷し大量の出血を引き起こしたと伝えられている。
  • 国境なき記者団は長井の殺害を非難した。ワシントン支局長のルーシー・モリロンは「彼が撃たれた時、カメラを手にしていてジャーナリストと識別出来た筈だ」と語った。
  • 日本外国特派員協会もミャンマー政府と治安部隊による、長井の殺害をはじめとした暴力の使用を非難した。福田康夫内閣総理大臣は「長井さんが亡くなられた事はまことに残念で、お悔やみを申し上げる」と述べた。記者団から経済制裁などについて問われたが「もう少し状況を見たい」としている。
  • 町村信孝官房長官は「日本政府は弾圧的な実力行使をしないように求めてきたが、邦人が巻き込まれて犠牲になった事は極めて遺憾だ。ミャンマー政府に強く抗議する」と述べると共に「事件の真相究明をミャンマー政府に求めていく」と発言。更に「在留邦人の安全確保のため、適切な対処を求める」と述べた。
  • 高村正彦外務大臣はニューヨークの国連本部でミャンマーのニャン・ウィン(Nyan Win)外相と会談。「平和的デモに強圧的な実力行使が行われ、日本人が死亡した。大変遺憾であり強く抗議する」と述べ、ニャン・ウィン外相が謝罪した。また「報道の映像で見る限り、至近距離から射殺されており決して流れ弾のようなものではない。真相解明を強く求める」と発言した。
  • 外務省は30日に薮中三十二外務審議官をミャンマーに派遣。ネピドーでチョー・サン情報相、マウン・ミン副外相と会談した際に長井の死亡について強く抗議したが、情報相は「デモを解散させる中で偶発的に起きた事件」と強調した。
  • アメリカのコンドリーザ・ライス国務長官は高村外相と会談した際「国際社会は平和なデモ参加者が殺されて、傷つけられるのを許容する事は出来ない」と発言している。
  • 反政府デモの混乱が続くミャンマーで、日本人ジャーナリスト長井健司さんが死亡した。そのときの様子が少しずつ分かってきた。長井さんは、デモ隊に警告をする治安部隊の前面からカメラで撮影していた。外国人記者とみられる一団と一緒で、現場ではかなり目立つ動きだったという。警告後の威嚇射撃を撮影しようと部隊の前に出たところ、ほぼ正面から至近距離で撃たれた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    長井健司-Wikipedia

(2007.10.06掲載)




▲アジアプレス・インターナショナル所属のAPF通信社契約記者・長井 健司。

 


50年1ヶ月と7日の生涯

新井将敬
Syoukei Arai   【自殺した[元]自民党衆議院議員】

(1948.01.12〜1998.02.19) 
首吊り自殺---山羊座

  • [元]自民党衆議院議員。
  • 新井将敬衆議院議員が、港区内のホテルで首つり自殺。
  • 前日の釈明会見では「もうみなさんとお会いすることはないかも知れません」というセリフを口にしていただけに、決意は固かったのかもしれない。
  • 新井氏の自殺について、いろんな報道が流れた。「病気を苦にしての自殺ならまだ分かるが、ああいう死に方はおかしい」「逮捕を苦にしての自殺は許されないのか」。
  • 自殺は「逃避」か「権利」か。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.07.18更新)




▲[元]自民党衆議院議員・新井将敬

50年3ヶ月と3日の生涯

エドワード・バッチ
E・Bach        【フラワーエッセンス】

(1886.09.24〜1936.11.27)
死因?---天秤座

  • みんなが持っているマイナス感情を癒し、より楽な性格へと私たちを変えてくれる花療法、38種類のフラワーエッセンス「バッチフラワーレメディ」。
  • 博士は1886年9月24日に、イギリスのウォーリックシャ州に生まれる。「苦しんでいるすべての生き物から、苦しみを取り除いてあげたい」この気持ちの非常に強かった彼は、少年の頃すべての病気を治療できる簡単で、単純な治療法を発見している夢をよく見ました。
  • その願いをかなえるために、医学の道を志し20歳でバーミンガム大学に入学し、「何も傷つけない、より単純な治療法」を追い求める道を歩み始める。  
  • 同じ病気の症状に対して施した治療法でも、患者によって反応が違い過ぎる事実。この事実に、彼は特定の病気に特定の薬を投与するという治療法にますます疑問を深めていく。彼は病気の治療には症状よりも、性格のほうがより重要であることを、経験的な知識として得ていった。
  • 病理学者、細菌学者となった彼に一つの転機が訪れる。それはハーネマンが100年前に創設したホメオパシーとの出会い。自然界から得たものを主に治療薬として用いて、個人の性格や個性に応じた治療を施し、個々に適した薬を使う。このハーネマンの医療哲学に、彼は深く共鳴。
  • バッチ博士は、正統医学にホメオパシーの原則を取り入れた研究に着手。患者の明らかに違う7つの性格に対応する「バッチの7大ノソード」と命名された7つの経口ワクチンを完成させる。これらは、医学界に熱狂的に受け入れられる。
  • 医学者、臨床医として大きな実績を残したバッチ博士は、いままでとは違うもっと純粋な薬を作りたいという想いがつのっていきました。この想いがバッチフラワーレメディの発見につながっていく。
  • 1930年の春、43歳のときにいままでとはまったく違った方法で仕事を始める決意をした。いままでの研究で用いてきた科学的手法の代わりに、優れた直観力で自然界の植物の中から、何の副作用も苦痛もともなわない薬を見つけ出していく仕事に着手。
  • バッチ博士は、植物の花弁や花を手に取ったり、舌で触れたりすることで、花の持つ効能を感じ取ることが出来るようになっていた。苦しみの原因となっているすべてのマイナス感情を網羅している38種類のフラワーエッセンス、バッチフラワーレメディを自然界から発見し花療法を作り上げる。
  • 発見し終わった翌年、1936年11月27日に50歳の人生の幕を閉じることになる。バッチ博士は、亡くなる直前次の言葉をいい残している。
  • 「バッチフラワーレメディは人間の魂の本質的なものをすべて満たしており、これだけで完全である」
  • エドワード・バッチ博士の50年という短い生涯。それは、病気や苦しみの原因となっているマイナス感情を癒す簡単な方法、花療法バッチフラワーレメディを発見するために捧げられた一生であった、といえる。
  • 「バッチフラワー「療法」はフラワー・エッセンス療法の一形態である。英国の医師、エドワード・バッチ博士が創始した。代替医療の一種である。バッチフラワー「療法」は、38種類の花の花びらの上の朝露から作られるホメオパシー・チンクチャー(原チンキ材)から作られる、液体療財(レメディー)を用いる。各レメディーは単独で使われることもあるが、しばしば他のレメディーと連携して使われる。 それぞれの花は、レメディーに特殊な特性を与えると信じられる。 一般にプラクティショナーと呼ばれるバッチフラワー「治療」を専門に行う者が、それぞれの患者それぞれの必要に応じて「処方」し、「服用」させる。 これらのレメディーは、第一に情緒的、精神的状態に合わせ、さらにうつ症状、心配、不眠症およびストレスを含め、しかもそれらに限られることなく使われる。
    最も有名なバッチフラワー・レメディーはレスキュー・レメディーである。これは、はんにち花、ホウセンカ、クレマチス、オオアマナ、およびチェリープラムのレメディーをあらかじめ組み合わせ混合したレメディーである。 これは、その成分が、特に緊急事態において鋭いストレス、心配、およびパニック発作を救うと信じられるので、レスキューレメディーと呼ばれている。レスキューレメディーは必要に応じて、スプレー付き小瓶、スポイト付きガラス瓶の中で、または皮膚塗布用‘レスキュークリーム’として販売されている。レメディーは、一回に数滴のしずくを舌に落として服用する。 レスキュー・レメディーと他のバッチフラワー・レメディーはペットと家畜にも使われ、それらを鎮静させ、問題行動を改善することにおいて効果的であると報告されている。 しかし、どのようなコントロールされた研究も、これらの主張を裏付けていない。バッチフラワー・レメディーは人工防腐剤または添加物を全く含んでいない。 チンキ剤は腐りやすいので保存しにくく、従って、それらはブドウアルコールまたは他のアルコール溶剤(通常、水を加えたブランデーまたはコニャック)を防腐剤として混ぜる。また、日本のように酒税の問題のある国では、防腐剤としてビネガーを使用したものを輸入している。 (追記:2006年8月から日本での保存剤はグリセリンに変更された) 世界中の「フラワー・レメディー」メーカーはエドワード・バッチによって「発明」されたオリジナルな原則に基づき、追加のレメディを作成した。 バッチフラワー・レメディーは、ホメオパシーのレメディーと特徴と特性が似ており、それに対する非難も受けている。アメリカ国立衛生研究所はホームページにおいて「厳密な臨床試験の結果、バッチフラワー・レメディがプラシーボ効果を超えるという仮説は、支持されていない」と公表している。アメリカ癌学会(米国対ガン協会)はホームページにおいて、注意欠陥障害の臨床試験におけるプラシーボ群との優位差は認められなかったとするイスラエルの研究、不安障害の臨床試験におけるプラシーボ群とフラワーエッセンス群に優位差は無かったとするドイツの研究を報告している。さらにFDAに届け出る必要のない栄養補助食品やサプリメントとして販売されていること、他の医薬品、食品、またはハーブやサプリメントとの相互作用や有害作用を調べるためのテストがなされていないことも補足されている。相互作用や有害な影響の公開がなされていないため臨床研究として不完全と見なされる必要がある、と結論づけている。最後に、「癌治療の代替医療としてこのタイプの治療に依存して従来の医療を避けたり延期したりすると、健康に深刻な影響をもたらす可能性がある」と警告している」(1)。
  • 「たまさま、どうもありがとうございました。以下のエピソードとメッセージも付け加えていただけると嬉しいです。---彼は発見した治療薬を一日も早く多くの人に広めたいという思いで新聞に広告を出しましたが、医師会は広告を取り下げないなら医師免許を剥奪すると連絡して来ました。しかし彼は、「この治療法は自らの意志で治療を受けたいと歩いてこられる患者にこそ有効である」と考えていたので、ほとんど意に介さなかったそうです。---〈自分と向き合うことを恐れずに自分の不調和の原因を突き止め、理解し、受け入れた時、病気は日なたの雪のように溶けてなくなくなるのです〉(画像はイングランドにある英国バッチセンターで、彼が人生最後の2年間を過ごし、バッチフラワーレメディを完成させた場所です。現在もここで、レメディの母液が当時のままの製法で手作りされています)」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    バッチ博士の紹介 バッチフラワー協会
    (1)「バッチフラワー-Wikipedia
    (2)投稿者:イアさん..2010/ 3/21 23:51:26(日) [7285]

(2010.03.22更新)



▲バッチ・フラワー・レメディーの創始者エドワード・バッチ。



50年2ヶ月と16日の生涯

ロベルト・ボラーニョ・A
Roberto Bolano Avalos   【ラテンアメリカの新しい声】

(1953.04.28〜2003.07.14)
死因?---牡牛座

  • チリのサンティアゴ出身。幼少期をロサンゼルス、バルパライソなどで過ごす。
  • 1968年、メキシコに移住。
  • 1973年、サルバドール・アジェンデを支持してチリに帰国。
  • 2003年に50歳の若さで亡くなったが、没後も国際的な評価は高まるばかりである。
  • 『通話』-スペインに亡命中のアルゼンチン人作家と“僕”の奇妙な友情を描く『センシニ』、第二次世界大戦を生き延びた売れないフランス人作家の物語『アンリ・シモン・ルプランス』ほか3編。『刑事たち』-メキシコ市の公園のベンチからこの世を凝視する男の思い出を描く『芋虫』、1973年のチリ・クーデターに関わった二人組の会話から成る『刑事たち』ほか3編。『アン・ムーアの人生』-病床から人生最良の日々を振り返るポルノ女優の告白『ジョアンナ・シルヴェストリ』、ヒッピー世代に生まれたあるアメリカ人女性の半生を綴る『アン・ムーアの人生』ほか2編。本書は彼の第一短編集で、全三部構成。第一部<通話>では、おもに売れない作家や三流詩人たち、さらにはボラーニョ自身を投影した人物(B)が登場する。「ものを書く」「伝達する」という行為に対する、屈折しながらも共感に満ちたまなざしが随所に表れている。第二部<刑事たち>には、不可思議な体験を語る男たちが登場する。第三部<アン・ムーアの人生>では、女たちの奇妙だが真摯な生き様が語られる。いずれの作品にも、「世に知られないテクスト/名もない人々の声」への強い関心がみられる。また、各々の短編を流れているのは、得体の知れないさまざまな<恐怖>の感覚である。これはしばしば、1973年9月11日に起きたチリ・クーデターに根ざしている。「皮肉とユーモア、不安と恐怖が、知性の房を抜ける鮮血となって、文学の心臓を支えている」(堀江敏幸氏)
  • 小説:Consejos de un disci´pulo de Morrison a un fana´tico de Joyce (1984年)/La pista de hielo (1993年)/La literatura nazi en Ame´rica (1996年)/Estrella distante (1996年)/Llamadas telefo´nicas (1997年) - サンティアゴ市文学賞を受賞/ロベルト・ボラーニョ/松本健二訳『通話』白水社、2009年6月。/野生の探偵たち Los detectives salvajes (1998年) - ロムロ・ガジェーゴス賞、エラルデ賞を受賞。/Monsieur Pain (1999年)/Amberes (2002年)/2666 (2004年)
  • 詩 :Tres (2000年)/La universidad desconocida (2007年)/El secreto del mal (2007年)
  • 「ボラーニョという作家を知りたくて読んだが読んだ後の方が、果たしてどういう作家だったのかわからなくなった。作風がバリエーションに富んでいて、どれも濃密。「ウディ・アレンとタランティーノとボルヘスとロートレアモンを合わせたような奇才」と評されたいたそうだが異能の複合体である。---ボラーニョはチリのサンティアゴで生まれて、メキシコへ移住、その後エルサルバドル、フランス、スペインなどを放浪して過ごした後、1984年小説家デビュー。90年代後半になって文学賞をいくつか受賞して、作家として注目を集めたが、2003年に50歳の若さで亡くなった。---この短編集は作風が雑多な印象があるが、敢えて言えば常にマイノリティの側に立った描き方をするのが特徴だ。無名の売れない作家や迫害される亡命者など、主人公たちはメジャーに対するマイナーの視点ででてくる。だが、彼らは不遇や権力に抵抗するというわけでもなくて、境遇を受け入れたうえで、そこに生きる意味を見出そうとする。マイノリティのしたたかな生きざまの文学である」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ロベルト・ボラーニョ- Wikipedia
    (1)「情報考学 Passion For The Future

(2010.08.24掲載)



▲ラテン・アメリカの知る人ぞ知る小説家・ロベルト・ボラーニョ・アバロス。



50年3ヶ月と7日の生涯

コージー・パウエル
Cozy Powell   
   【ハードロック・ヘヴィメタル界で渡り鳥ドラマー】

(1947.12.29〜1998.04.05)
衝突事故死---山羊座

  • 本名:Colin Flooks
  • 12歳の時学校のオーケストラでドラムを担当したことからキャリアを始める。1960年代ハーモニー・ヴォーカルのポップバンドザ・ソーセラーズに加わりドイツのクラブ・サーキットで活動をする。1968年イギリス・バーミンガムに移り住み、ザ・ムーヴのベーシスト、エース・ケフォードのエース・ケフォード・スタンドやセッション・ドラマーとして活動し、ザ・ソーセラーズのメンバー、デイヴ・ボール、デニス・ボールらとビッグ・バーサを結成して活動する。
  • 1970年、ジェフ・ベックに見出され、1971年に第二期ジェフ・ベック・グループのドラマーとしてキャリアを上げる。
  • グループ消滅後はセッション・ドラマーとして仕事を続け、録音した個人名義のEP、「Dance with The Devil(1972)」が1974年になってスマッシュ・ヒット作となり自身の名を冠したバンド、コージー・パウエルズ・ハマーを結成する。1975年、リッチー・ブラックモアのレインボーのオーディションに応募し第2期レインボーを支えるドラマーとなる。また、1979年に初のソロ・アルバム『オーヴァー・ザ・トップ』発表。
  • 「Theme one」はBBCの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスのオープニング曲に使われ、タイトル曲は、チャイコフスキー「序曲1812年」に合わせてのドラム・ソロ(レインボーのライブでも披露されていた演出)が収録されている。
  • レインボーでのパフォーマンスが認められ、1980年代にはグラハム・ボネット、ロバート・プラント、マイケル・シェンカー・グループ、ホワイトスネイク、エマーソン・レイク・アンド・パウエル、ブラック・サバス等、ハード・ロックを代表するドラマーとして数々のレコーディングやバンド・メンバーとして契約した。1990年代には一時落馬事故によって重傷を負い、約一年間に渡りリハビリに励む事になり活動を休止せざるを得なくなるが、1992年に本格的に活動を再開、ベーシストのニール・マーレイと組んで、ブライアン・メイやピーター・グリーンのバンドに参加。
  • その他、イングヴェイ・マルムスティーン等と共演。
  • 26インチのツイン・バス・ドラムをノー・ミュートで演奏できる数少ないドラマーである。
  • レーサーへの転向を考えて一時期音楽をやめたこともあるほど自動車の運転が好きだったが、1998年4月5日未明、イギリス・ブリストル郊外の高速道路にてサーブ9000ターボを運転中、時速167kmで中央分離帯に衝突事故死した。後の捜査と検視によって、シートベルトを着用していなかった事や、基準値を上回る血中アルコールが判明し、飲酒運転であった事や、事故当時ガールフレンドと携帯電話で通話中に事故に遭った事が判明している。
  • 使用機材 :ジェフ・ベック・グループやレインボー時代までラディックを使用していたが、レインボーの活動中期から末期の頃にヤマハのドラムにスイッチし、生涯にわたりヤマハのドラムを愛用していた。前述の様に、バスドラムなどには殆どミュートを掛ける事は無く(レインボーの頃は特にミュートを掛けていない)、それによるパワフルかつ図太い音がトレードマークともなっていた。シンバルはパイステを長らく愛用していた。
  • スティックは15mm径以上のかなり太いスティックを愛用していたが、これについてはブラック・サバス在籍時に、ヤマハの招聘によってドラムクリニックによって来日した際の「Player」誌のインタビューで「その頃参加していたバンドのあのギタリストが、ライブの度にマーシャルのアンプを壁の様に並べてしまうようなとんでもないヤツだったんでね(笑)。それで試しに子供用のオモチャのバットで叩いてみたら、これがいい感じの音量になったんだ。それがきっかけさ(笑)。」と語っている。
  • グリップはジェフ・ベック・グループの頃はレギュラーグリップが多かったが、レインボーの頃からはマッチドグリップが多くなっている。以降は完全にマッチドグリップに移行していた。
  • シンコーミュージック刊「リッチーブラックモア レインボー編」によれば、レインボーに加入する前の一年間は音楽をやめてカーレースに没頭しており、レインボーに加入していなければ1976年にはフォーミュラ3に参加する予定だった。
  • 「ありがとうございます。今回コージーパウエルをリクエストをしたのは、最近亡くなったロニージェイムズディオのつながりということでリクエストしました。実際ロニーもコージーも一緒にRAINBOWにいた時期もありますし。あちらの国では音楽のバラエティ番組に出ていてライブの時とは違うおちゃめな姿を映像でみたことありますね。ほんとに面白かったです。結局リッチーブラックモアとロニーとコージーでRAINBOWを再結成することは出来ませんでしたねほんとに残念です」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    コージーパウエル-Wikipedia
    (1)投稿者:かものはしかも さん..2010/ 6/ 4 22:39:47(金) [7708]

(2010.05.05更新)



▲イングランドのグロスタシャー州サイレンセスター出身のドラム奏者コージー・パウエル。



50年3ヶ月と24日の生涯

エロール・フリン
Errol Flynn    【冒険活劇の分野の大スター】

(1909.06.20〜1959.10.14)
心臓発作---双子座

  • 本名:エロール・レスリー・トンプソン・フリン(Errol Leslie Thomson Flynn )。オーストラリア・タスマニア島生まれ。
  • フリンは冒険活劇の分野の大スター。作品によって海賊だったり軍人だったり、派手なアクションと颯爽たるサーベル捌きがかっこいい。
  • 若いころの代表作は、「海賊ブラッド」(1935)、「進め龍騎兵」(1936)、「ロビンフッドの冒険」(1938)、「シー・ホーク」(1940)など。ちなみに監督はいずれもあの「カサブランカ」のマイケル・カーティス、ヒロインは「シー・ホーク」以外はオリヴィア・デ・ハヴィランド。
  • フリンという人は実際私生活でも快活でアウトドア派な性格だった。加えてこれまた私生活でも映画と同様ロマンスに事欠かない人物だった。
  • 「数週間前、ぼくは海賊だった。今日のぼくは西部の男だ。この商売は頭が混乱するよ」 (1)。
  • 「ぼくは三十歳で、金もできつつある。ぼくは声と顔と身体の商品だ。この商品がすり切れるまでにできるだけ金を生ませようとして、年に三本か四本の映画に出るというわけだ。本当は君にかわって指定の場所に行って、ゆすってる奴のそっ首をへし折ってやりたいんだ。けれど投資資本としてのぼくは、今や大きくなり過ぎているらしいよ」(2)。
  • 「因みに「カンサス騎兵隊」(1940)で、若き日のロナルド・レーガン元大統領と共演しています。「壮烈第七騎兵隊」(1942)のカスター将軍役が、すごくカッコいいです」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「「ロビン・フッドに鉛の玉を」、依頼人エロール ...
    (3)投稿者:センサー石畑さん 2005.01.17(Mon) 21:29

(2005.01.16更新)



▲作品によって海賊だったり軍人だったり、派手なアクションと颯爽たるサーベル捌きがかっこいい冒険活劇の分野の大スター・エロール・フリン。


◆ロビン・フッドの冒険

50年3ヶ月と28日の生涯

ジェームス・クック
James Cook    【英国の探検家、航海者】

(1728.10.27〜1779.02.14)
航海中ハワイで先住民との紛争に巻込まれ死亡---蠍座

  • 英国の探検家、航海者。通称キャプテン・クックの愛称で、知られているジェームズ・クックはイギリスのヨークシャーの貧しい家庭に生れた。
  • 人々の好意で早くから航海術を教え込まれ、バルト海を渡る貿易船に乗組み経験を重ねていたといわれている。折りしも勃発した英仏戦争で頭角を現したクックは、若くして艦長に昇進し北アメリカのケベック攻防戦にも参戦した。
  • 1768年(40歳)には、海軍省の金星観測のため、タヒチ島で金星の食を観察した後、太平洋を踏査。南米大陸最南端のホーン岬から太平洋に入り、ニュージーランド、オーストラリア、ニューギニア、ジャワなどの海域調査を進めながらインド洋を横断、喜望峰を北上して1771年(43歳)に帰国し世界一周の航海を達成。またオーストラリア大陸の英国領有を宣言した。
  • 1772年(44〜47歳)からは、当時存在が信じられていた南方大陸発見のため南極海城から南太平洋を調査し、ニューカレドニアに到達。二度目の大航海を成就させた。
  • また、1775年よりは北太平洋調査を目的としてハワイ諸島から北米大陸西岸沿いに北上し、ベーリング海峡を越え北極海にまで到達するという三度目の大航海を行った。北極海での航海は船にとっても乗組員にとっても苛酷なもので、帰途、修理と休養の必要性から寄港したハワイ諸島で、原住民との間に生じた小競り合いの中、あえない最期を遂げた。
  • 太平洋での諸発見と調査を重ねたクックの業績は、彼が考案した航海術や乗組員の長期健康管理体制と共に、イギリスの海外発展史の中でもひときわ輝く存在として人々に語り継がれている。世界航海は3回に渡り、ヨーロッパ人として初めてハワイを訪れるという成果を上げた。
  • 「文明化したヨーロッパの歴史的時間と、ヨーロッパ的意味では文明化していない神話的時間」の衝突が偉大な航海者の死につながった(多木浩二)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジェームズ・クック

(2004.02.02更新)




▲英国の探検家、航海者・ジェームス・クック。

50年4ヶ月と8日の生涯---2006年没後50年

松本たかし
Takashi Matsumoto 【専業俳人/生来の芸術上の貴公子】

(1906.01.05〜1956.05.11=明治39年〜昭和31年) 
肺炎の併発症---山羊座

  • 東京神田生れ。本名は孝。父祖は代々宝生流座付の能役者で、父・長は名人とうたわれた。代々宝生流の能役者の家に育ち、8歳から舞台に立つ。小学校卒業後は能の稽古 に励むかたわら、漢学、習字、英語などを学び、また文芸書に親しみ、芝居や寄席に 通う。
  • 大正9年、病気療養中に「ホトトギス」を読み、俳句に興味をいだき、そ の後、能役者仲間の句会「七宝会」へ出席、やがて高浜虚子に師事。高雅典麗な作風で、物心一如の世界を求めた。
  • 病弱なため能役者になることを諦め、20歳の頃から本格的に俳句に取り組み、昭和4年ホト トギス同人となり、川端茅舎と並称され、「生来の芸術上の貴公子」と茅舎によって 評される。
  • 昭和10年「松本たかし句集」を刊行、以後、「鷹」「弓」「野守」と 句集を出版し、昭和21年、主宰誌「笛」を創刊句集のほかに「えごの花」「鉄輪」などの随筆集がある。また宝生九郎の伝記小説も著わす。著書『俳能談』。
  • 鎌倉には、大正14年の夏に療養で来たあと、翌年から住むようになり、昭和20 年に岩手県へ疎開するまで浄明寺に住んだ。その間、鎌倉在住の人々と鎌倉俳句 会を催したりして、鎌倉の句を数多く詠んでいる。
  • 「〈ひく波の跡美しや桜貝〉。俳人松本たかしは父祖代々の能役者、宝生流の名家に生まれている。6歳から稽古に励んだが、やがて肺を病み、神経衰弱も重なって能の道をあきらめた。「能役者になろうと一生懸命自分をしめつけたことが病気の原因にもなったのだろう」。詩人の大岡信さんは「百人百句」(講談社)に書いている。若き日の深い挫折を経て、俳句の道に進んだ人である。〈夢に舞ふ能美しや冬籠〉。読売文学賞を受賞した句集「石魂」に収められている。病弱の身を俳句と寄り添うように生きた人の胸には終生、能舞台に立つ我が身の幻影が映じていたのかも知れない。50歳で死去したのは1956年(昭和31年)の5月11日、きょうで50年になる。見苦しい姿は嫌だからと、亡くなる前日、病床で頭髪にハサミを入れさせ、爪は自分で切った。「跡美しや…」そのままに。代表句に、〈金粉をこぼして火蛾(かが)やすさまじき〉がある」(1)。
  • 命日は《牡丹忌》と呼ばれる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    松本たかし かまくら GreenNet
    俳句人名ーま
    (1)読売新聞2006.05.11朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2005.05.17更新)




▲若き日の深い挫折を経て、俳句の道に進んだ松本たかし。


松本たかしの句

◆「チチポポと鼓打たうよ花月夜」

◆「秋晴の何処かに杖を忘れけり」

◆「冬山の倒れかかろを支え行く」

◆「流木の行くを天日に寒く瞰る」

◆「芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり」

◆「我去れば鶏頭も去りゆきにけり」

◆「雨音のかむさりにけり虫の宿」

◆「鈴虫は鳴きやすむなり虫時雨」

◆「赤く見え青くも見える枯木かな」

◆「玉の如き小春日和を授かりし」

(松本たかし句集より)








50年4ヶ月と10日の生涯

ドニゼッティ
Gaetano Donizetti      【オペラの作曲家】

(1797.11.29〜1848.04.08) 
肺炎の併発症---射手座

  • イタリアのベルガモに生れ同地で没したオペラの作曲家として有名である。
  • 1806年(9歳) - サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の楽長を勤めていたヨハン・ジモン・マイールの慈善音楽院で学ぶ。
  • 1815年(18歳)- マイールの尽力でボローニャ音楽院入学。その後、法律家になる事を期待した父親の束縛を逃れる為に軍隊に志願。兵籍のまま作曲を続ける。
  • 1830年(33歳) - オペラ『アンナ・ボレーナ』を発表し、名声を確立した。
  • 1839年(42歳) - オペラ『ポリウト』をナポリで上演しようとしたが検閲官に拒否され、『殉教者』と改題しフランス語によりパリで初演。
  • 1844年(47歳) - この頃から頭痛、神経性麻痺に見舞われ、1848年に故郷ベルガモに戻り50歳と4ヶ月で没する。
  • オペラは70作品ほど作られたが、現在上演される作品はそれほど多くなく初期作品は未だ日の目を見ないものもある。
  • レクイエム(1837年作曲)…ベッリーニの追悼用に作曲。
  • 弦楽四重奏曲19曲、協奏曲、シンフォニア、合唱曲などを多数残している。
  • ドニゼッティの兄について:ガエターノの兄ジュゼッペ(Giuseppe Donizetti,1788-1856)は、当初軍人としてオスマン帝国に駐在したが、その後軍楽隊の洋楽教師となった。後にオスマン帝国の事実上の国歌となったマーチなどを作曲し、その功によりパシャの称号を与えられた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ガエターノ・ドニゼッティ-Wikipedia

(2008.02.24更新)




▲ロッシーニやヴィンチェンツォ・ベッリーニと共に19世紀前半のイタリアを代表するオペラ作曲家として人気を博したガエターノ・ドニゼッティ。

 




50年4ヶ月と13日の生涯

ハーブ・リッツ
Herb Rits   【Mr.アメリカンフォトグラファー】

(1952.08.13〜2002.12.26) 
肺炎の併発症---獅子座

  • 写真家。米国カリフォルニア生まれ。大学では経営学を専攻。
    卒業後、家業の家具店の経営に参加。 70年代に無名のリチャード・ギアのスナップ写真がきっかけでプロデビュー。
  • その後80年代中頃までにスタイルを確立し、マドンナ、ジャック・ニコルソン、シルベスタ・スタローンなどの「セレブ」たちの質の高い、透明感のあるポートレートで高い評価を受けた。またゲイの美意識を取り込んだ完璧なフォルムでアイデア満載のメール・ヌード、中性的な女性のヌード作品は衝撃を与えた。
  • 80年代後半から 90年代にかけて“ヴォーグ”、“GQ”、“インタビュー”、“ローリングストーン”、“ヴァニティー・フェアー”などの有名雑誌のカバーを飾り、多くのファッション・ページを席巻。
  • 日本では人気が頂点だったマドンナの“トゥルー・ブルー”のカバー写真の横顔で知られている。
  • 代表的な写真集には“ピクチャーズ”(1988)、“メン・ウィメン”(1989)、“デュオ”(1991)、“ノートリアス”(1992)、“アフリカ”(1994)などがある。
  • 肺炎の併発症でロサンゼルスの病院で50歳で亡くなっている。
  • 「ハーブ・リッツの画面に欠けているもの、それはこういってよければ、「細部」である。ずっと白黒の肖像写真をエラボレイトし続けてきたはずの彼の技術が、被写体のディテールに対して大雑把で粗野だという意味ではない。そうではなくて、写真とそれを見る者という映像表象の構制そのものを、ぐらっと揺るがしてしまうような細部の存在に対する、本質的な無関心さを言うのである。この存在論的な細部のありかたを、やはり同性愛者であったロラン・バルトなら、punctumというラテン語で指そうとするだろう。それは見る者を深く痛く刺し貫かずにはおかない、フェティッシュな光の粒子のことだ。そのような強度を排除して、ひたすら薄く広がり続ける"studium"としての眼差し、それがハーブ・リッツ的な繊細さである。われわれはそのつるつるした表面のどこにもとどまることができないのだ」(?)。
  • 「美見いだす目 初めての回顧展:世界中の有名人から「最も写真を撮ってもらいたい写真家」といわれ、02年に50歳で急死したハーブ・リッツの初めての大規模回顧展が開かれる。サラリーマン時代のことだ。友人の若い俳優とドライブに行った先で、車のタイヤがパンクした。修理中に暇つぶしに撮影した写真が全米の雑誌に掲載された。友人はまだ無名だったリチャード・ギア。彼の成功につれて、リッツも超売れっ子の写真家となった。 写真を撮ってほしいと思わせたのは、写される本人も気がつかない「美」を見つけだす審美眼。頭に手術の跡が残るエリザベス・テーラーも彼の写真には納得していた。 本展ではマドンナやシュワルツェネッガー、スーパーモデルらの型にはまらないショットやヌードなど芸術性豊かな作品が展示される」(1)。
  • リッツはダライ・ラマ師らも撮影している。同氏は亡くなる10日前まで、俳優ベン・アフレック氏の撮影などをこなしていたという。宇宙に日曜日はない!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「asahicom:イベント情報:HERB RITS ハーブ・リッツ ...

(2006.06.13更新)




▲「最も写真を撮ってもらいたい写真家」といわれ、「セレブ」たちの質の高い、透明感のあるポートレートで高い評価を受けたハーブ・リッツ。

 


◆リチャード・ギア(俳優)







50年4ヶ月と17日の生涯

梶原一騎
Ikki Kajihara    【「巨人の星」の原作者】

(1936.09.04〜1987.01.21)
急性心不全の為死去---乙女座

  • 「巨人の星」や「あしたのジョー」の原作者として知られる漫画原作者。本名高森朝雄。熊本県生れ。
  • 高校時代から雑誌の懸賞小説に応募しジュブナイル作家を目指していたが、やがて漫画以前の「絵物語」の原作を書くようになる。
  • スポーツ小説を執筆し、19歳で絵物語『鉄腕リキヤ』(吉田竜夫画)を発表。26歳、プロレス物『チャンピオン太』(吉田竜夫画)で初の原作を手がける。
  • 野球漫画『巨人の星』(川崎のぼる画、32歳〜35歳)、高森朝雄名義のボクシング漫画『あしたのジョー』(ちばてつや画、32〜37歳)により、「スポ根」漫画ブームを巻き起こす。
  • その後は青春物『愛と誠』(ながやす巧画)を発表する一方、映画製作や格闘技興行のプロデュースも行った。
  • 彼はこれだけ多くの作品を世に送り出したにも関わらず、常に漫画界にも一般社会においてもドロップアウトしたかのような生き方をしていた。 原作者としてデビューしたてのころも、編集者側からの修正要求などを一切拒否して困らせたりすることが多かった。晩年には若手作家への恐喝、編集者への暴行などで有罪判決。
  • 暴行事件により47歳より一線を退く。自伝『男の星座』(原田久仁信画)が未完の遺作となった。
  • 壊死性劇症膵臓炎という病気に苦しめられながらも、病気から生還すると最後の作品にするつもりで『男の星座』(画:原田久仁信)に取りかかるが、その途中で再び病魔に倒れる。
  • 「梶原一騎は“スポ根”の人だと思われがちだが、『巨人の星』の作者ながら野球についてほとんど知らなかったものである。つまり、対象への思い入れがなかったからこそ怪しげな魔球が飛び交うルール無用の野球漫画が描けたのであり、逆に大好きなボクシングを題材にした『あしたのジョー』は過剰な思い入れゆえリアリズムを追求することになった、と」(1)。
  • 「それなら『柔道一直線』はどうか。 もともと梶原は柔道出身なのに、なぜリアリティ皆無な必殺技を乱発する作品を描いたのか?要はそれだけ柔道に失望していたということだろう」(2)。
  • 日南キャンプがある宮崎では「巨人の星」のテーマソング「思いこんだら---♪」 の歌詞を「重い米俵---♪」と歌うそうな(あるラジオ番組で)。そういえば、芸大の故・野口三千三先生も言っていた「重いと想いは同じである」と。
  • 「 常に強面の部分が強調されがちな人ですが、影で支え続けた篤子夫人が、星空の下を歩きながらポツリと言われた、プロポーズの言葉………。〈何も知らない男の純情よりも、何もかも知ってる男の純情を信じてくれ…〉」(3)。
  • 「Thori_Tungさん・たまさん 星空の下でこんなプロポーズされたら、胸キュンです」(4)。
  • 「Thori_Tungさん、コワモテな人だったけどロマンチックな方だったんですね〜。破天荒な方だったけど、最後はご家族の元へ帰られて亡くなったのを思い出しました」(5)。
  • Thori_Tung さん いい言葉ですね。左胸をドキュ〜ンと完全に打ち抜かれました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)朝日新聞2004.04.18朝刊 吉田豪「コミック教養講座」より抜粋。
    (3)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 9/14 05:18:45(月) [6083]
    (4)投稿者:J さん..2009/ 9/14 23:47:11(月) [6088]
    (5)投稿者:Miwa さん..2009/ 9/15 04:04:23(火) [6091]

(2009.09.154更新)



▲「巨人の星」や「あしたのジョー」の原作者として知られる漫画原作者・梶原一騎。
(イラスト 大城さん)



50年4ヶ月と26日の生涯

アラン・ラッド
Alan Walbridge Ladd    【シェーン、カムバック!】

(1913.09.03〜1964.01.29)
睡眠薬の多用---乙女座

  • アメリカ合衆国出身の俳優。1913年9月3日にアーカンソー州で生まれた。計を助けるために8歳頃から新聞売りを始める。元々病弱で体を鍛えるためにスポーツに専念。高校時代はダイビングの選手などで活躍し、大学から声が掛かるほどの成績を残したという。
  • その後職を転々としていた時にユニヴァーサルにスカウトされスタジオ内の演劇学校に通うが半年で退学。ジャーナリストを志すが才能を悟り、再び演技を学びながら下積み生活を送る。やがて端役で映画出演した後「拳銃貸します」に出演。兵役を終えた頃には、甘いマスクと敏捷な立ち振る舞いが受けて名が知られるようになった。
  • 長い下積みを経て、ワーナーと契約し、パラマウントで残りの契約を消化中の53年、「シェーン」に出演してこれが大ヒット、スターとなる。。
  • それ以降も西部劇で主役を演じ小柄ながらも精悍な身のこなしで50年代から60年代初頭にかけてハリウッドを代表するスターとなった。だが作品数は当時のハリウッドの大スターにしては多くない。
  • しかし、「シェーン」が唯一の代表作となって以降は低迷。60年代を過ぎてからは人気に陰りをみせて自身もノイローゼになっていく。
  • 極度のアルコール依存症に陥った後の62年には拳銃による自殺未遂(発表は事故)を起こし、64年に薬物とアルコールの乱用によってパーム・スプリングスの別荘で死亡している所を発見された。
  • 精神的にとても弱かったと言われている。結婚は2回で前妻との子供、アラン・ラッド・Jrは後にプロデューサーからFOX、UA、MGMの社長を歴任した。
  • 最後は睡眠薬の多用が原因で亡くなった。
  • 二番目の妻は1920年代末〜1930年代にアイドル女優として活躍後、俳優のエージェントに転向したスー・キャロル。知り合った当時は無名俳優だったアラン・ラッドの人間性と才能に惚れ込んだ妻の尽力で、次々と人気作品に起用されスターへの足がかりを掴んだ。 最初の妻との間に生まれた息子のアラン・ラッド・Jrは、60年代後半から70年代にかけての名プロデューサーであり、後に、20世紀フォックス、UA、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの社長を歴任した。20世紀フォックス時代に、他社で企画を没にされていた「スター・ウォーズ」の製作にゴー・サインの決断をくだした人物でもある。
  • またスー・キャロルとの間に儲けた息子で、製作者のデビッド・ラッドの元妻は、TVドラマ『チャーリーズ・エンジェル』で知られる女優のシェリル・ラッド。その娘で、アラン・ラッドからは孫にあたるジョーダン・ラッドも女優。
  • 主な出演作品 :市民ケーン Citizen Kane(1941年)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アラン・ラッド - Wikipedia
    アラン・ラッド(Alan Ladd) のプロフィール - allcinema

(2010.07.29更新)



▲西部劇映画の代表作『シェーン』で主役のシェーンを演じたアラン・ラッド。

 

 



50年5ヶ月ジャストの生涯

洪 秀全/ピンイン
Syuuzen Kou/hong xiu quan  【中国の宗教家・革命家】

(1814.01.01 〜1864.06.0=嘉慶18年12月10日〜同治3年4月27日)
病没---山羊座

  • 原名はもともとは洪仁坤・洪火秀。広東省広州福源水村出身で後に官禄土布村に移った。客家人。
  • 洪秀全は農村の読書人の家庭に生まれ科挙及第を目指していたが、郷試に失敗し、特に25歳の時の3度目の失敗では失望感から病床についている。その病床で老人より現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の1843年春に再度郷試に臨むも落第した。この時梁発の『勧世良言』の影響を受けた洪秀全は孔孟の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。『聖書』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として拝上帝教を説き始めた。拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性は兄弟、女性は姉妹とし、ヤハウェを天父、キリストを天兄と称した。これはキリスト教教義との差異が大きく、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次子とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。
  • 洪秀全は当初広州付近で布教を行ったが成功はしなかった。1844年、洪秀全は馮雲山とともに広西に移動し布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。1845年から1846年の間に洪秀全は『原道醒世訓』、『原道覚世訓』、『百正歌』等の作品を発表している。1847年初め、洪秀全は広州に戻り教会で数ヶ月教義を学習し洗礼を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい馮雲山と合流、拝上帝会の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と対立するようになり、1851年1月に起義を宣言し、清朝に反旗を翻した。
  • 1851年初、洪秀全は天王を自称し太平天国を建国した。
  • 1852年、太平軍は広西から湖南へと進出、1853年には南京を占拠、天京と改称し太平天国の首都に定めた。太平天国前期では軍事関係は全て軍師により指揮され、洪秀全は軍事行動と距離を置いて朝政を司っており、その大権は東王楊秀清によっていた。
  • 天京に首都を定めた後、洪秀全は四書五経を禁書としようとしたが楊秀清はこれを拒否、結局禁書指定は行われなかったが、この事件をきっかけに洪秀全と楊秀清の溝が深まることとなった。洪秀全は同じく楊秀清に不満を募らせている北王韋昌輝、翼王石達開、燕王秦日綱と協力し、
  • 1856年に3人に対し楊秀清誅殺の密詔を出し、9月には天京事変が発生、楊秀清、韋昌輝、秦日綱が粛清された。事件後は翼王である石達開が実権を掌握したが、洪秀全は兄弟である洪仁発、洪仁達を重用し石達開を牽制、結果石達開の不満を引き起こし、石達開は大軍を率いて洪秀全の指揮を離脱した。一連の政変で太平天国の実権を掌握した洪秀全であるが、これ以降太平天国の勢力は急速に衰えていく。
  • 太平天国討伐のための清軍が天京に迫るが、陳玉成や李秀成などの活躍にもあり数年間は太平天国はこの攻撃を撃退していた。1859年、族弟の洪仁?が天京に到着すると、洪秀全は軍師、干王に封じ、名義上の総理として太平天国の朝政を総覧させた。なんら実績のない洪仁?を重用したことで人臣の離反を恐れた洪秀全は、歓心を買うための王爵を乱発するようになり、これ以降で王に冊封された者は2千名を超えた。1862年、陳玉成が清軍に殺害されると、太平天国の国勢はますます衰え、天京付近の拠点は清軍に奪回された。
  • 洪秀全の晩年は保守化した思想面以外にも、宗教に過度に依拠した政策へと突き進んだ。一度は国号を上帝天国に変更しようとしたが、周囲の反対により天父天兄天王太平天国としている。李秀成は長期的に天京を守備することを困難と判断し、天京を放棄し中原に転戦することを献策しているが、逆に洪秀全の怒りを買うという事件もあった。困難な局面下で洪秀全は適切な政策を打ち出すことができず、また軍隊も非正規軍が母体であるため清軍に対抗することができなかった。
  • 1864年3月、天京が包囲され城内の食料が不足すると、洪秀全は草木で飢えを凌いでいたがやがて病にかかり、1864年6月1日に病没した。屍骸は清軍により遺棄されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    洪秀全 - Wikipedia

(2012.04.25掲載)



▲キリスト教を基にした宗教教団、拝上帝会を興し天王を自称、南京を首都として清に反旗を翻し、国号を太平天国とした(太平天国の乱)洪 秀全/ピンイン。


▲太平天国天王玉璽


▲南京市天王府跡内の洪秀全像


 

 



50年5ヶ月と1日の生涯

A・ヴァレンシュタイン
Albrecht von Waldstein       【傭兵隊長】

(1583.09.24〜 1634.02.25)
暗殺---天秤座

  • もとの姓はヴァルトシュタイン(Waldstein)。
  • ボヘミアのドイツ系プロテスタントの小貴族の家に生まれるが、カトリックに改宗してイタリアのパドヴァ大学に遊学した。
  • 帰国後に傭兵となる。
  • 1618年にボヘミア反乱が起こると神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に味方し、軍資金不足の皇帝に私兵を提供して皇帝軍総司令官に任命された。
  • 1623年に北ボヘミアのフリートラント侯に任じられる。
    陸上での戦争ではデンマーク王クリスチャン4世などのプロテスタント諸侯に対し連戦連勝している。その間に免奪税などの軍税制度を創出して占領地から取り立て、これが批判される一方、他の軍の略奪行為との兼ね合いから波紋を広げる。
  • 功績が認められてメクレンブルク公となるが、旧来の帝国諸侯たちの反感を買い、皇帝の命で総司令官を解任された。
  • その後、スウェーデン軍の侵入で後任の総司令官ティリー伯が戦死し、窮地に陥ったフェルディナント2世の懇願を受け復職した。このときに、選帝侯位を要求したとも言われる。
  • しかし、かつてのように自ら鍛え上げた軍団ではなく、皇帝軍という既成の組織を指揮したこともあって精彩を欠き、1632年にはライプツィヒ郊外のリュッツェンの戦いでスウェーデン国王グスタフ・アドルフを戦死させながらも皇帝軍は敗走し、独自に講和を結ぼうとしたことから反逆の疑いをかけられ、同年2月にエーガーの居城で皇帝軍の将校に暗殺された。齢51。
  • 選帝侯位を得た後は、ボヘミアの王位を狙っているものとも噂された。グスタフ・アドルフが居なくなったことで、ヴァレンシュタインの存在価値は急激に失い、裏切りの可能性から皇帝に危険視されたとも言われている。
  • 彼を題材にシラーが書き上げた戯曲「ヴァレンシュタイン」がある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン - Wikipedia

(2011.07.27掲載)



▲中世の三十年戦争期のボヘミア(ベーメン[Bo¨hmen])の傭兵隊長であるアルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン。


▲暗殺されるヴァレンシュタイン。

 

 

 



50年5ヶ月と27日の生涯

S・S・ヴァン=ダイン
S. S. Van Dine 【ヴァン・ダインの二十則】

(1888.10.15〜 1939.04.11)
冠状動脈血塞---天秤座

  • 本名はウィラード・ハンティントン・ライト(Willard Huntington Wright)といい1888年アメリカ・ヴァージニア州チャーロッツヴィルに生まれる。S・Sは汽船(Steamship)の略語から取ったとされている。
  • カリフォルニア州セントヴィンセント・カレッジからポモーナ・カレッジを経て、ハーヴァード大学の英文学の特別聴講生に。ハーバード大学卒業後、美術評論家として雑誌や新聞に寄稿していた。
  • しかし生活への不安などから健康を害し長期療養を余儀なくされる。病気療養中、暇つぶしに読んだ英国ミステリーに圧され、2年間で2000冊の推理小説を読破したといわれる。
  • 退院後、推理小説を書き始め1926年、第一作『ベンスン殺人事件』を上梓したちまち大評判となる。その後、死去するまでに12作の長編推理小説といくつかの犯罪実話を執筆しさらに評論・アンソロジー等も精力的に発表した。
  • アンソロジー『世界短編傑作集』序文の推理小説を書く上での鉄則を記したいわゆるヴァン・ダインの二十則も有名である。アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』を酷評したことでも知られる。
  • 12作の長編全てに名探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する12作のうち、前期6作とくに『グリーン家殺人事件』や『僧正殺人事件』の評価は非常に高い。対照的に後期6作の評価は芳しいものではない。
  • 自国の本格ミステリー小説が低迷していたアメリカに彗星の如く現れ、以後のミステリーに絶大な影響を与えた。以後のアメリカ本格派を代表するエラリー・クイーンも彼の影響を公言している。
  • 「S.S.は汽船SteamShipの頭文字です。ヴァン・ダインは祖母の旧家名。心理探偵ファイロ・ヴァンスを生んだ米国作家です。本格推理小説とはかくあるべしという「二十則」を提唱しました。ミステリーの作品はたった12の長編しかありません。 米ヴァージニア州に生まれます。ハーバード大学院を優秀な成績で卒業した後、ミュンヘンとパリで美術を学びます。1907年から「ロサンゼルス・タイムズ」を始め、いくつかの出版物で美術評論家、文芸評論家として活躍します。1923年に神経衰弱の病いに倒れ、2年以上の療養生活をしている間に2000冊以上の推理小説を読破し、ついに自ら筆を取ったのが「ベンスン殺人事件」です。「一人の作家が生涯に六つ以上の創意ある長編探偵小説の筋を考案するのは無理だ」という考えから、自分も6つ以上書かないつもりでいたが、実際は出版社に攻め立てられ倍の12編書いてます。51歳で亡くなる時には遺産は1万3000ドルしかなかったといいます。ヴァンダインの推理小説ニ十則 1928年9月号の「アメリカン・マガジン」に発表。ヴァンダインが選んだ推理小説英国ベスト11 1928年にイギリス作品に限定して選考」(1)。
  • 著作・ ファイロ・ヴァンスもの
    ベンスン殺人事件 (The Benson Murder Case, 1926年)
    カナリヤ殺人事件 (The Canary Murder Case, 1927年)
    グリーン殺人事件 (The Greene Murder Case, 1928年)
    僧正殺人事件(The Bishop Murder Case, 1929年)
    カブト虫殺人事件 (The Scarab Murder Case, 1930年)
    ケンネル殺人事件 (The Kennel Murder Case, 1931年)
    ドラゴン殺人事件 (The Dragon Murder Case, 1933年)
    カジノ殺人事件 (The Casino Murder Case, 1934年)
    誘拐殺人事件 (The Kidnap Murder Case, 1936年)
    ガーデン殺人事件 (The Garden Murder Case, 1937年)
    グレイシー・アレン殺人事件 (The Gracie Allen Murder Case, 1938年)
    ウインター殺人事件 (The Winter Murder Case, 1939年)
    原題は第11作を除き、全作が「The + 英単語6文字 + Murder Case」で統一されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    S・S・ヴァン=ダイン-Wikipedia
    (1)「S. S. VanDine

(2007.07.27更新)



▲アンソロジー『世界短編傑作集』序文の推理小説を書く上での鉄則を記したいわゆるヴァン・ダインの二十則で有名な米国の推理作家・美術評論家S・S・ヴァン=ダイン。






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