玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

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age 54


50音インデックス


■54歳の
 シンクロニシティ

■54歳-?
耶律楚材
太田道灌
明智光秀
服部半蔵 正成
香妃/イクバル・ホージャ
ガスパーレ・カンパリ
ベルト・モリゾ
小野兼弘

■54歳-前半
セベ・バレステロス
ビン・ラーディン
足利義政
近衛文麿
中江兆民
小泉八雲=L・ハーン
兒玉源太郎
福士敬章
星ルイス
バティスト・リュリ
ローレンス・スターン
北 一輝
天知 茂
川谷拓三

■54歳-後半→進む
村上一郎
ベーナズィール・ブットー
范 文雀
甘粕正彦
コリン・チャップマン
立原 正秋
ダニロ・キシュ
金原亭馬生
林 功
フランシスコ・バレーラ
タルコフスキー
最澄/伝教大師
林家三平(三代目)
ティコ・ブラーエ
カルバン
東由多加
青江三奈


■54歳のエポック


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54歳の語録

 

「一年とは余のためには寿命の豊年なり。もし短いと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり」
(喉頭癌で余命1年半と宣告された中江兆民)

「私ら大部屋俳優がスクリーンに出ても一瞬で終わってしまうんです。だからこそ、主役を食ってやろうと、体をはった演技をしてしまうんです。---ぼくらはとにかく目立たないとだめなんですよ」
(川谷拓三
)

「大ばくち、もとも子もなく、すってんてん」
(甘粕正彦辞世の句)

「得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり」
(最澄)

54歳のシンクロニシティ!

  • 54年という生涯には、政治家や政治的活動家が奇しくも寄り添っている。近衛文麿、中江兆民、北一輝、甘粕正彦である。そして二・二六事件の肯定論者・村上一郎も枕を並べた。不思議といえば不思議だ。
     
     
     
    ●軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった昭和の貴族政治家・近衛文麿(1891.10.12〜1945.12.16)は自宅で青酸カリを飲んで自殺し54年2ヶ月と4日の生涯(
    天秤座)
    ●「東洋のルソー」と呼ばれた魅力的な思想家、自由民権運動家・中江兆民(1847.11.01〜1901.12.13)は咽喉ガンで54年2ヶ月と12日の生涯(蠍座)。
    ●日本ファシズムの理論的指導者、右翼思想家・北一輝(1883.04.15〜1937.08.19)は二・二六事件の首謀者として刑死し54年4ヶ月と4日の生涯(牡羊座)。
    ●『北一輝論』が三島由紀夫に高く評価された文芸評論家、歌人、小説家、思想家・村上一郎(1920.09.24〜 1975.03.29)も自刃し54年6ヶ月と5日の生涯(天秤座)。
    ●満州に渡り政界の黒幕的存在となった日本陸軍軍人・甘粕正彦(1891.01.26〜1945.08.20)は自宅で青酸カリを飲んで自殺し54年6ヶ月と25日の生涯(水瓶座)を終えた。

  • 54年という生涯は、個性派俳優など劇団関係者も逝っている。
       


    ●独特の美貌でマダムキラーの異名ち俳優、歌手として活躍した天知 茂(1931.03.04〜 1985.07.27)も膜下出血で54年4ヶ月と23日の生涯 (魚座)。
    ●東映最後のスター・川谷拓三(1941.07.21〜1995.12.22)は肺ガンで54年5ヶ月と1日の生涯(蟹座)。
    ●「サインはV」でジュン・サンダース役を演じた范文雀(1948.04.15〜2002.11.05)は心不全で54年6ヶ月と21日の生涯(牡羊座)。
    ●劇団「東京キッドブラザース」の主宰者で劇作家、演出家、映画監督・東由多加(1945.05.12〜2000.04.20) は食道ガンで54年11ヶ月と8日の生涯(牡牛座)に幕を閉じた。


    (2007.03.11更新)    
               『月刊ランティエ。-長月』 天下国家を横目で見据えた男達より。
             



54年?の生涯

耶律楚材
Sozai Yaritsu  【チンギス・ハーンの中国語担当書記官】

(1190.?〜 1244.?)
死因?---?座

  • 楚材の家は遼(契丹)の太祖耶律阿保機の長男である東丹国の懐王(義宗・天譲帝)耶律突欲(とつよく、または図欲=とよく、漢姓名は劉倍)の九世の末裔とする遼の王族出身であり、出自は契丹人であるが、代々中国の文化に親しんで漢化した家系である。遼の滅亡後は金に官僚として仕え、祖父は耶律聿魯で、父の耶律履は金制においては宰相級の重職である尚書右丞に昇った。
  • 楚材は父が高齢になり、三男(末子)として生まれた子で、3歳の時に父が61歳で死んだため漢人である生母の楊氏に厳しく育てられた。字は晋卿。モンゴル名はウルツサハリ(「髭の長い人」の意)。また、異母兄の耶律弁才・耶律善才は彼よりも20歳も年が離れていたが、彼は生母と共に兄達から養われたという。
  • 成人すると宰相の子であるために科挙を免ぜられ、代替の試験を首席で通過して尚書省の下級官僚に任官した。モンゴルが金に侵攻したときは首都の中都(現在の北京)で左右司員外郎を務めていたが、1214年に中都が陥落したとき捕虜となった。
  • 楚材は家柄がよく長身長髭で態度が堂々としており、中国の天文と卜占に通じていたためチンギス・ハーンの目に止まり、召し出されて中国語担当の書記官(ビチクチ)となり、ハーンの側近くに仕えることになった。チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンにも仕え、元の基礎を築き上げた。
  • 税制を整え帝国の経済的基礎を確立させたり、漢の地の全国草地化をやめさせたりなど元に対する貢献度は高かった。
  • 1219年からの中央アジア遠征でもチンギス・ハーンの本隊に随行してもっぱらハーン側近の占星術師として働き、そのときの体験と詩作を『西遊録』に残した。
  • チンギス・ハーンの死後に後継者を巡ってクリルタイが紛糾すると、チンギスの遺志を尊重してオゴデイを立てることを説き、オゴデイの即位に大きく貢献したとされる。ただし、モンゴル貴族ではない楚材がクリルタイに出席して発言権をもったとするには無理があり、この話は中国で書かれた史料にしか伝わっていないことから、この逸話は疑わしいという説もある。
  • オゴデイが即位すると、新ハーンにも書記として仕え、中国語で中書省と呼ばれた書記機構の幹部となり、北中国の金の旧領の統治に携わった。
  • 楚材は、あるモンゴル軍人が、華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、捕虜たちを「万戸」と呼ばれる集団に分けて3つの万戸を置き、各万戸ごとに農民・職人など職業によって大別した戸籍をつくって、戸単位に課税する中国式税制を導入させた。新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。
  • 1234年にモンゴルが金を最終的に滅ぼし北中国を併合した後には、中国式に全土をハーンの直轄領にするために、モンゴル貴族に征服した領土を分与することに反対したが、これは黙殺された。また、儒学を家業とする家を「儒戸」に指定する制度を考案し、税を軽減するかわりに儒教の学問と祭祀と行わせ、実務官僚層の供給源とした。
  • オゴデイは中国の歴代王朝にならって孔子の子孫を保護するが、これも楚材の進言によるとされる。しかしオゴデイの晩年には、西アジア式に人を単位として課税する人頭税制度を中国に導入することを説く中央アジア出身のムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭して中国行政について干渉するようになり、伝統的な中国式統治システムを維持しようとする楚材らの派と対立。結局、西アジアの財務官僚に任せる方が単純に収入を確保しやすいことからモンゴル人は彼らを重用するようになり、楚材らは信任を失っていった。
  • 1241年にオゴデイが没した後はほとんど発言力をもたず、権力を握った皇后の寵臣をいさめたことから左遷され、失意のうちに没した。
  • 楚材は清貧の美徳を守ったので、その遺産は琴と書物が残るばかりであったという。詩作をよくし、詩集に『湛然居士集』がある。
  • 梁氏が産んだ長男の耶律鉉が30前後で早世したために、鄭氏が産んだ末子の耶律鋳が跡を継いだ。後に鋳は嫡子の希亮と共にフビライに仕えて中書左丞相に上ったため楚材は再評価され、太師、上柱国を贈られ、広寧王に追封されて文正と諡された。
    耶律楚材は中国や日本において、古来非常に高く評価されている。これは、モンゴル帝国の最初期において、いまだ国家の体制も定まっていない遊牧民の連合政権であったモンゴル帝国に中国の文人官僚を代表して仕え、中国統治の実務担当者として活動したとされることによっている。また、従来は楚材がチンギス・ハーンの中央アジア遠征に随行し、様々な助言を行ったことからチンギスに参謀として仕えたとされていた。
  • 日本のモンゴル史学者、杉山正明は、著書『耶律楚材とその時代』で楚材に関する碑文や楚材自身の書き残した文章の分析から、楚材が宰相として中国人から賞賛されたのは、楚材自身がそのような虚栄を好む小人物であったからだと結論し、楚材の人格も否定的に論評している。
  • 「耶律楚材(ヤリツソザイ)は二七歳でチンギス・ハンの宰相となり、三十余年、モンゴル帝国の群臣を仕切って〈一利を興すは一害を除くにしかず、一事を生かすは一事を減らすにしかず〉という言葉を残しました。功名心にかられて何か新しいことをしようとするより、今ある弊害の一つでも減らす方がどれだけ素晴らしい効果をあげるかわかりません。また、未知の新しいことを手がけるより、今ある雑事を省くことの方が大切だということです」(1)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    耶律楚材-Wikipedia
    (1)「耶律楚材(ヤリツソザイ)

(2006.01.06更新)




▲禅に深く帰依し、湛然居士と号した初期のモンゴル帝国に仕えた官僚、有名な宰相・耶律楚材。

54年?の生涯

太田道灌
Doukan Oota    【江戸城の築城者】

(1432.?〜1486.07.26)
謀殺される---?座

  • 室町時代の武将、軍事家で文学者。太田資清の子。名は資長(すけなが)、のちに剃髪して道灌と号した。扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家臣。
  • 扇谷上杉定正の執事として仕えたが、その能力が主人をこえていたので、しばしば問題を起こした。1457年(25歳)江戸城を築く。
  • 1476年(44歳)の山内上杉家の内紛を鎮圧したが、かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定(あきさだ)方の讒言により、謀殺された。
  • 道灌は糟谷館(神奈川県伊勢原市)で暗殺されてしまう。暗殺の場所は武具をもたない湯屋であり、死に際して、「当方滅亡」土佐犬だとされる。悲劇の最後である。
  • 足軽軍法に長じ、また和漢の学や詩歌にもすぐれたという。
  • 江戸城の築城でいまも有名。東京では開発の恩人とし、都庁前や新宿の中央公園に銅像をつくって顕彰している。
  • 「太田道灌にはエピソードが多い。真偽のほどの怪しいものも少なくないが、歌で知られるものが多いのが特徴である。鷹狩の際、雨に降られた資長が農家で蓑を借りたいと呼ばわった所、娘が何もいわずに一枝の山吹の花を差し出した。資長は不機嫌になり、帰城して近侍の者に話すと、中村重頼が、それは蓑がない、という意味だと説明し、『後拾遺集』の兼明親王の次の歌をしめした。「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞかなしき」この逸話にちなんで、東京は早稲田の面影橋の近くに「伝説・山吹の里」の碑が建っている」(1)。
  • 「七重八重花は咲けども山咲のみの一つだになきぞ悲しき」の歌は良く知られている。道灌はその意味が解らず、猛勉強したという。
    若い頃かなり嫌な奴だったらしい。複眼思考のすすめ。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)「太田道灌
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006.01.05 (Thu) 18:59[879]

(2006.01.06更新)



▲室町時代の武将、軍事家で文学者・太田道灌。

 

▲「大田道灌の辞世をバイボにお供えします。
〈かかる時さこそ命のをしからめかねてなき身と思ひしらずば〉」(2)。

54年?の生涯

明智光秀
Mitsuhide Akechi  【神に愛されなかった三日天下人】

(1528.?〜1582.06.13)
敗走の途中土民に殺された---?座

  • 安土桃山時代の武将。通称十兵衛、のち惟任日向守(これとうひゅうがのかみ}と称す。美濃の土岐氏の一族。織田家臣。近江坂本城主。その前半生には不明な点が多く、足利義昭に従って越前の朝倉義景に仕えたというが定説ではない。
  • 1568(永禄11)年以降、織田信長 に仕えて信頼を得、1569(永禄12)年には比叡山にあった浅井・朝倉軍攻撃に参加。信長に重用され、京都の庶政をつかさどったり、丹波攻略などに活躍。
  • 1571(元亀2)年の比叡山焼き討ちの際は、これに激しく反対し、一時信長の不興を蒙るが、焼き討ち後には近江坂本城を拝領する。
  • 1582年信長を京都本能寺に襲撃し自殺させたが(本能寺の変)、豊臣秀吉に山崎の戦で敗れ、敗走の途中土民に殺された。細川ガラシャはその娘。
  • 「光秀は「逆臣」「三日天下」という印象のみで語られがちだが、諸学に通じ和歌・茶の湯を好み、また内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在もかれの遺徳を偲ぶ地域が数多くある。 一説として、光秀は小栗栖では死なず、出家して江戸時代初期に活躍した僧南光坊天海になったとも言われるが、真相は定かではない」(1)。
  • NHK大河ドラマでも過去いろんな俳優が明智光秀を演じているが、ボクは高音が裏返る最近の萩原健一の狂気じみた光秀が好きだ。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)「明智光秀 - Wikipedia」

(2005.04.02更新)



▲信長を京都本能寺に襲撃し自殺させた明智光秀。

 

◆光秀辞世の句
「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す」

 

54年?の生涯

服部半蔵 正成
Hanzo Hattori  【伊賀者の統率者】

(1542.?〜1596.?=天文11年〜慶長元年)
病没---?座

  • 服部半蔵は戦国時代から江戸時代初期にかけて徳川氏の麾下で活躍した武士で、代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主たちである。また、歴代の当主は石見守(いわみのかみ)という官名の名乗りも持ち、服部石見守とも称した。
  • 第2代の服部半蔵正成のとき徳川家康に仕えて8000石の旗本になり、家康が伊賀出身の地侍を召抱えて編成した伊賀同心を配下に置いた。一般に服部半蔵といえばこの服部正成を指す。
  • 半蔵配下の伊賀同心となった伊賀者たちはいわゆる伊賀忍者であり、このため彼らを率いた服部半蔵の名は、徳川氏に使える旗本の武将としてよりも、忍者の上忍として後世に名を残すことになった。
  • さらにのちの時代につくられた忍者の登場する物語の中で服部半蔵は徳川氏に使える伊賀忍軍の頭領にして自身も卓越した忍者として描かれることが多い。服部半蔵家は伊賀国に出自をもつ豪族服部氏の一族、服部半三保長を初代とする。保長は伊賀を離れ、三河の松平氏に仕えた。彼自身は忍者であったと言われることもあるが、実際のところはほとんどわかっていない。
  • 保長の嫡子、服部正成は父の通称であった半蔵(半三)を受け継ぎ、服部半蔵を称した。正成は「鬼の半蔵」のあだ名をもつ勇猛な武将で、徳川家康に仕えて数々の戦いで戦功を重ねた。
    正成は忍者というよりは武士として活躍したことが明らかであるが、後世に書かれた彼の事績には、一方で初陣以来伊賀者を率いて放火などの活動をしていた、などという逸話も語られている。
  • また本能寺の変の直後に家康がわずかな供だけを連れて堺に滞在していた際、伊賀出身の人脈を生かして伊賀者を味方につけ、家康を伊賀を抜けて三河へと無事送り届ける「伊賀越え」を成功させたとも言われる。こうした活動が評価されたためか、家康が天正伊賀の乱で離散した伊賀者を召抱えて伊賀同心を編成すると正成はその支配を命ぜられた。
  • 家康が江戸城に入封すると半蔵は江戸城西の門の警備を任せられ、彼の警備した門は半蔵門の名で呼ばれるようになる。
  • 正成の嫡男、服部正就は父の死後、伊賀同心200人の支配を引継ぎ、父と同じく半蔵、石見守を通称とした。しかし正就は徳川家から指揮権を預けられたに過ぎない伊賀同心を家来扱いしたために配下の同心たちの反発を招き、ついに伊賀同心が寺に篭って正就の解任を要求する騒ぎに至った。このため正就は改易され、服部半蔵家は三代で絶えたと言われるが、正就の妻は桑名藩主松平定勝の姉であり、その息子・服部源右衛門正辰は松平家に仕えた。
  • また正成の嫡男の次男・服部半蔵正重もまた松平家に召し抱えられ家老職を与えられた。
  • その後、服部半蔵の名は代々継承され十二代目の服部半蔵正義は二十一歳で家督を継ぎ、桑名藩家老となって松平定敬を補佐し、鳥羽伏見の戦いにも参戦している。
  • 慶長元年病から没す。配下の忍者や家族たちに見守られ55年(数え)の生涯に幕を下ろした。
  • 歴史上の服部半蔵は伊賀者の統率者であっても自身の忍者としての性格は薄いが、現代では服部半蔵は最も名の知れた伊賀忍者のひとりとなっている。このため、服部半蔵という名前の忍者が登場する小説、時代劇、漫画、ゲームなどは数知れず存在する。以下にいくつか例を紹介する。伊賀の影丸 、サスケ 、忍者ハットリくん 、服部半蔵・影の軍団 、サムライスピリッツ 、ワールドヒーローズ 、あずみ 、信長の野望シリーズ、伊忍道 打倒信長、戦国無双など 、バジリスク 〜甲賀忍法帖〜、人造人間キカイダー 」。
  • 〈徳川殿は人持ちよ、服部半蔵鬼半蔵、渡辺半蔵槍半蔵〉ここにいう「鬼半蔵」とは、足利家から徳川家に仕えた服部半蔵保永の三男、半蔵正成のことである」(1)。
  • 正成は主君家康と同年1542年生まれである。そろそろ大河ドラマでも取り上げていいと思うのだが---。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    『事典に載らない日本史 有名人の子ども』(新人物往来社)
    服部半蔵-Wikipedia
    (1)柏崎永以『古老茶話』

(2007.01.11更新)



▲「鬼の半蔵」のあだ名をもつ勇猛な武将で、徳川家康に仕えて数々の戦いで戦功を重ね、伊賀忍者を率いた服部半蔵 正成。

 

 

54年?の生涯

香妃/イクバル・ホージャ
Kouhi    【体から芳しき香気を放った乾隆帝の寵姫】

(1734.?〜1788.?)
自殺---?座

  • 西方シルクロードゆかりのヤルカンドから献上された伝説の美女。乾隆帝が清代に莎車(現・新疆省)を陥落し、都へ連れ帰った。乾隆帝が香妃に執心を燃やした理由は、その姿が美しいことに加え、体からなんともいえない芳香が放たれていたためだという。
  • 回教徒の香妃は、心から愛していたカシュガル王に操をたて、夫を戦いで失い敵の乾隆の前に立たされたとき、どんな贈り物も甘い言葉も拒絶して、帰国か自殺を許してもらうよう訴えた。 乾隆帝はそれを許さず、狩猟などに伴わせその心を惹こうとした。
  • しかし母の太后が、この異国の女に息子が夢中になって政治を忘れることを慮って、ひそかに香妃に会いその死を許す。
  • 香妃は三度頭を下げて礼を言い、自らの命を絶った。乾隆帝が急いで駈けつけたが間に合わず、部屋には香妃の芳香が濃く漂っていたという。
  • 彼女の遺骸はシルクロードをたどり故郷のカシュガルに返され、母親の傍らで永遠の眠りについた。清朝の正式な記録には彼女の名は記されておらず、香妃と混同されているのではないかと思われる乾隆帝晩年の寵妃に「容妃」という后がいた。彼女の香妃のモデルとしての肖像画は 残っている。
  • 彼女は、清の乾隆帝の伝説の寵妃でその身体から芳香花「沙棗」の芳しい香りがしたという。
  • 中国古代の妙薬に、毎日十二錠服用すればその日から口臭はなくなり、二十日で体から芳香がするようになり、二十五日すると顔や手を洗った水さえ匂ってくるとされるものがあり、この薬を香妃が常用していたといわれ、その製剤法は今も伝え続けられている。
  • 「18世紀半ば、清朝の乾隆帝の時代の話です。この時代清朝は全盛期で今の新疆ウイグル自治区の全域を征服し、清朝で最大の領域を誇っていました。 この戦果として西方シルクロードゆかりのヤルカンドから献上されたのが伝説の美女香妃でした。香妃の名の由来はその美しさばかりか、体からもかぐわしい芳香を放っていたことからつけられた名前です。西域の遊牧民の生活を想像すると風呂には行っていなかったんだんべなぁ。とは思うのですが、「わきが」なんてものも本来は雌雄がお互いを呼び合うための芳香なのだそうで、悪い物ではないんだそうです。まあ、脳天を突き抜ける臭さで卒倒したドサクサにやっちまうのかな?などと思ってみてはいます。さてさて、もともとこの香妃はヤルカンド地方を支配する回族首長の妃でした。美貌の噂は遠くまで響いており、清朝が西域を支配すると香妃も捕らえられ、北京の宮廷へと送られてきました。絶世の美女を得て大喜びの乾隆帝もこうなればただのスケベオヤジです。紫禁城のなかにイスラムの宮室を建て、そこに香妃を住まわせました。 しかし、乾隆帝の熱意にもなびかず香妃は前夫への貞節を守り寵愛を受けませんでした。そればかりか夫や一族の仇を討つべく、懐に短刀を忍ばせてさえいました。いい歳こいた皇帝が若い美女に腑抜けになっていては国が治まりません。美女に腑抜けになって国が傾くのは歴史が証明しています。皇太后は乾隆帝にこの異邦の女を抹殺するか追放しろと忠告しますが聞き入れる乾隆帝ではありません。ついに皇太后は乾隆帝が出かけた隙を見計らって香妃を呼び寄せ、自殺を命じました。知らせを聞いた乾隆帝は慌てふためいて紫禁城に戻ってきますが、既に時遅し。香妃は息耐えていました。香妃に関しては清朝の記録にもなく、伝説に包まれた美女ですが、乾隆帝がカスティリオーネに描かせた絵が残っています。上の絵を見る限り、ウイグル人にしては漢族に近い顔立ちのようにも思えます。香妃の逸話も後に人々によって語られたもので、全盛を極めた皇帝でさえかなわぬ「愛」があったことが語り草になったのでしょう」(1)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    8月13日
    (1)「香妃

(2007.10.12掲載)



▲カシュガルのホージャ一族の娘で西域の美女・香妃/イクバル・ホージャ。


◆イタリアの宣教師カスティリオーネが描いた香妃の肖像画。

 

54年?の生涯

ガスパーレ・カンパリ
Gaspare Campari       【カンパリの創始者】

(1828.?〜1882.?)
死因?---?座

  • ノヴィラ(イタリア)生まれ。ノヴィラはトリノ市とミラノ市の中間にあり、周辺は平坦な農村地帯。そのため、イタリア語で「平野の」を意味するカンパーレからカンパリと言うファミリーネームが生まれたという。
  • ガスパーレは、14歳(1842年)でトリノ市の酒場の見習いになる。そこで酒造りの知恵を身につけた後、ミラノに進出する。ドゥオモ(聖堂)前の広場の一角に、酒販店兼酒場を開店した。
  • 商売は地の利を得て繁盛し、1867年には近くの目抜きアーケード街ヴィットリオ・エマヌエレ道りで「カフェ・カンパリ」を経営するようになった。
  • ここでガスパーレが作ったリキュールは人気商品となり。イタリア国王ウンベルト1世やイギリス国王エドワード7世も訪れたという
  • ガスパーレは成功裡に1882年に死去。
  • あとを継いだ次男のダヴィデは「ビッテル・アルーソ・ドランディア」と言う長い名前のリキュールを家名のカンパリに改名、イタリア国内での販売を始めたがそれが成功するとフランス、スイス、など国外に輸出。
  • その後、イタリア移民の多いアメリカ大陸にも輸出し事業の拡大を計った。
  • 現在では、ビター系リキュールでは世界170カ国で愛飲され不動の人気を誇っている。
  • 夕日を思わせる朱の色が美しいカンパリはほどよい苦味と爽やかな甘さが特徴。カンパリの原料配合比率は誕生以来、レシピは門外不出となっているがビター・オレンジ果皮を主原料にキャラウェイ、コリアンダー、カルダモン、シナモン、ナツメグなど30種類以上のハーブを浸して作られている。それらを100度で煮出した後、中性スピリッツを加えアルコール度数69度で15日間タンク熟成させる。これに水、砂糖、アルコール、天然色素コチアニン(洋紅)を加えさらに一ヶ月熟成の後に濾過して瓶詰めされる。
    基本情報:種類 リキュール/度数 24%/発泡 なし/主原料 詳細は非公開/原産国 イタリア/色 鮮やかな赤(透明)/カンパリ(Campari)は酒の一種。リキュールに分類される。色は赤く、苦みがあって甘い。
  • イタリアのトリノでバーテンダーをしていたガスパーレ・カンパリ(Gaspare Campari)が開発し、1860年、当時の流行に乗って「ビッテル・アルーソ・ドランディア」(オランダ風苦味酒)と名付けて売り出した。その後息子のダヴィデ・カンパリが「カンパリ」と名前を変えた。現在の製造元はダヴィデ・カンパリ社。なお、カンパリ社は、ヴェルモットのチンザノ、ウオツカのSKYYなどを傘下におさめる、酒造業界の一大グループとなっている。
  • カンパリの製法は明らかではないが、ビター・オレンジ、キャラウェイ、コリアンダー、リンドウの根など、60種類にのぼる材料が使われていると言われる。リキュールの中ではビター系リキュールに入る。
  • 鮮やかな赤い色と苦味を特徴としており、通常何かで割って飲んだり、カクテルのベースとして使われることが多いが、ストレートでも飲むことができる。イタリアでは白ワインと1:1で割って飲むことが多い。
  • 着色料として、長らくカルミン酸色素=コチニール(エンジムシから取れる染料)が使用されていたが、2007年10月以降は代替着色料として赤色2号、青色1号、黄色5号を使用したロットに切り替わった為、該当する食品添加物の摂取を避けている場合には注意が必要である。
  • その他に、カンパリ社では、ベリー類のリキュールである「コーディアル・カンパリ」という製品を出していた。色は無色透明であり、「カンパリの白」とも言われたが、現在は販売を終了しており、一般での入手は難しくなっている。
  • カンパリを使ったカクテル :カンパリは、カンパリ・ソーダ、カンパリ・オレンジのように、何かで単に割るだけでも特徴的な味になる。苦味が爽やかなので夏向きとされる。カンパリを使ったカクテルには、ロング・ドリンクとショート・ドリンクの両方が存在する。
  • ロング・ドリンク :アメリカーノ - しかし、正式なレシピでは、カンパリを使用しない。/カンパリ・オレンジ - カンパリをオレンジ・ジュースで割ったもの。/カンパリ・グレープフルーツ - カンパリをグレープフルーツ・ジュースで割ったもの。/カンパリ・ソーダ - カンパリを炭酸水で割ったもの。/カンパリ・ビア - カンパリをビールで割ったもの。/スプモーニ
  • ショート・ドリンク :オールド・パル/スカーレット・レディ/ネグローニ
  • 「[赤いパッション]というキャッチフレーズで親しまれているカンパリ!独特な風味はほのかに甘くほろ苦い。ハーブやフルーツなどの植物を煎じて作られるレシピは未だに秘密でその伝統的な製法は一族の中でもたった一人しか知らないと、いわれているそうです。最近ある雑誌でカンパリが人の名前からということを知りました。そして好きな人のために作ったお酒ということも。ちなみに、私はオレンジジュースで割っていただくのが好きです」(1)。
  • 芸大の建築科の同期にバリバリの神戸出身のお嬢様がいた。ある日、一緒に先輩のYさんのアトリエに行ったことがある。飲み物を訊かれたとき、彼女は「カンパリ・ソーダを」と言った。山ザルのボクはそのハイカラな名前も存在も知らなかった。甘くて苦かった---。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    カンパリ-Wikipedia
    HITOSHIブログ! | 世界170カ国で愛飲され、人気を誇る ...
    (1)投稿者:Jさん..2010/ 3/25 00:59:27(木) [7295]

(2010.03.25更新)



▲イタリアの赤いリキュール「カンパリ」を開発したガスパーレ・カンパリ。

 

 

54年?の生涯

ベルト・モリゾ
Berthe Morisot  【フランス印象派の女流画家】

(1841.?〜1895.?)
死因?---?座

  • フランス印象派の女流画家。父はプールジュ市長、母はフラゴナールの遠縁にあたる家庭に生まれる。
  • ベルト・モリゾと姉エドマは、素描と油絵のレッスンを受けたのち、パリに出てバルビゾン派の画家コローに学び、戸外の自然と軽く素早い筆触を学び、風景画を制作して1864年にサロンに初入選。
  • 家族のつきあいで多くの芸術家、文学者、芸術愛好家との交流があったが、ルーヴル美術館でファンタン=ラトゥールに紹介されてマネと知りあった彼女は、マネのサークルに加わり、マネの周辺の画家、美術評論家たちとの交際を深めるとともに、都会生活のモティーフの洗練された扱い、軽快な筆さばきはマネに大きな影響を受ける。
  • また、マネの何点かの絵のためにモデルにもなっており、1869年の《バルコニー》はそのひとつである。1874年、彼女はマネの弟ウジェーヌと結婚して娘のジュリー・マネを授かるが、ウジェーヌは画家の道を歩むよう励ました。
  • サロン入賞に熱心なマネの忠告に逆らって、彼女は印象派展に熱心に参加し、娘の生まれた1877年の第4回を除いて全てに出品した。
  • ベルト・モリゾは、その時代の彼女のような身分の女性芸術家に与えられた限界の範囲で制作を行い、彼女の作品はすべて娘や姪たちなどの身近な人々、滞在した各地の風景を表現したもので、ゆるやかに絡み合った長い筆触と明るい色彩と素早い筆致を基盤とする、独創的で意欲的な個人様式を編みだした。
  • 代表作の《ゆりかご》など、娘の成長を見つめた作品や、女性らしい情感を盛った母子像に、繊細な感受性がうかがわれる。
    また、男性画家たちが見逃しがちな現代生活のさまざまな側面を、女性らしいきめの細かいエレガンスと、母と子などの親密なモティーフを加え、ドガ、カサットと並んで印象派の風俗的側面を代表する。
  • カフェでの印象派の集まりは彼女のような身分の女性が出かけるのは好ましくなかったので参加しなかったが、その代わりに自分の住まいで食事会を開催し、印象派の画家たちの交流の場に提供した。
  • 風景画、肖像画などの油絵のほか版画をも手がけた。モリゾが死ぬとルノワールドガが回顧展を組織して、大きな決定的な成功を収めた。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2010.06.17朝刊「マネとモダンパリ」(黒柳徹子)より抜粋。

(2010.06.18更新)



▲エドュアール・マネ(1832-83)「黒い帽子のベルト・モリゾ」
(1872年、個人蔵)
印象派グループ結成時の唯一の女性画家ベルト・モリゾをモデルにした、この画家が好んだ黒の効果を最大限に生かした作品。




▲エドュアール・マネ(1832-83)「横たわるベルト・モリゾの肖像」(1873年、マルモッタン美術館蔵)
「〈私に一番似ている〉と、この絵のモデルのベルト・モリゾは言った。美しい女流画家としてファンの多いモリゾは、マネから送られたこの絵を大切にしていた。---のちに、モリゾはマネの弟の妻になる。マネとモリゾの関係は色々と噂されていたけれど、芸術家同士の尊敬と信頼感を私は見る」(1)。

 

54年?の生涯

小野兼弘
Kanehiro Ono  【宗教法人釈尊会会長】

(1953.?〜2007.04.18 PM:4:54)
肝不全---?座

  • 岡山県出身。この日、若村さんが直筆のファクスで小野さんの死去を発表。小野さんは2月ごろから体調を崩し、18日午後2時半ごろ容態が急変。午後4時54分に亡くなった。
  • 仕事から戻り、最期を見届けた若村さんは「あまりにも突然のことで、この事実を受け入れることがまだできません」と悲しみをつづっている。
  • 僧侶らしいそり上げた頭に大柄な体格が印象的な小野さんと若村さんは、03年9月に結婚。
  • 若村さんは結婚会見で「お釈迦様の前でプロポーズされた。見た目ではなく人柄にひかれた。楽しい気持ちにさせてくれる。大きく包まれている感覚。人生の喜びを得ました」と小野会長の魅力を語っていた。
  • 「沿革:小野会長が立正高校在学中、「釈尊と日蓮聖人に会いたい」という誓願を立て、日蓮聖人の御入滅の地である東京・池上本門寺にて、日参行を行じられました。そして昭和43年10月、池上本門寺で行われた「御会式」の後、本堂で熱心に祈祷する中で、日蓮聖人と感応道交するという希有な体験をされました。突然のできごとながら、小野会長の胸中には、日蓮聖人の説かれた 『撰時抄』 の中にある「仏眼をかって 時機を勘えよ 仏日を用って 国土を照らせ」の御言葉が熱く胸をよぎりました。また、昭和45年秋には釈尊が法華経を説かれた霊鷲山山頂で祈祷中、偉大な釈尊の御姿を拝し、仏光に包まれました。そのあまりに広大な御姿に感動し全身に振るえを覚え、「釈尊こそ我が親、自らは子」という親子の心情を覚知されました。「釈尊こそ原点」と悟った会長は、数々の修行を経て昭和57年に『釈尊会』を発足。「法華経こそ正法であり、釈尊の金言」を原点に、会員をはじめ多くの人々に「生きて法華経を受持できる悦び(幸福への道を知り得た喜び)」を伝え、多くの人々に幸福への道を説き続けているのです。そして、「釈尊こそ我が親、自らは子」という親子の心情を実感されました」(1)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)「釈尊会ホームページへようこそ!

(2007.09.23掲載)




▲女優若村麻由美さんの夫で宗教法人釈尊会会長・小野兼弘。

 


54年と28日のの生涯

セベ・バレステロス
Severiano Ballesteros  【「七色のアイアンショット」

(1957.04.09〜2011.05.07)
脳腫瘍---牡羊座

  • カンタブリア州 (スペイン) 出身のプロゴルファー。本名はセベリアーノ・バジェステーロス(Severiano Ballesteros)。
  • 酪農家の家庭に男ばかり4人兄弟の末っ子として生まれる。キャディのアルバイトをしていた兄の影響でゴルフに触れ、7歳のときにもらった3番アイアンのヘッドに枯れ枝を取り付けてクラブに見立て、小石を打つなどして遊ぶことによりゴルファーとしての基礎を自然と身に付けた。
  • 8歳になると本物の3番アイアンを手に入れ自分の体の一部のように終始離さず、たった一個のボールが擦り切れて中のゴムが露出するまで打ち続けた彼は、12歳の頃にはスクラッチプレーヤーの腕前に達し、1974年わずか16歳でプロとなる早熟ぶりだった。180cm・78kgのバランスの取れた体格はゴルフをするために生まれてきたと評され。プロ転向した年に欧州ツアーで早くも2勝を挙げ、2年後の1976年には19歳の若さで欧州ツアーの賞金王に輝いた。
  • 1976年のマスターズ直前にはアメリカゴルフダイジェスト誌が「史上初めての10代優勝の可能性」と特集を組むほどの逸材だった。マスターズの初優勝は1980年だったが、当時の最年少優勝記録を更新する勝利だった。その前年22歳で全英オープンでメジャー大会初優勝。メジャー大会では通算5勝している。
  • また1997年のライダーカップではキャプテンとしてヨーロッパチームを勝利に導いた。全盛期の1980年代には世界ランキング1位を通算「61週」保持するなどの強さを誇り、マスターズ初優勝時にはコメントを求められたジャック・ニクラスが「彼の将来にはたくさんのグリーンジャケットが待っている」と語るなど期待されていた。
  • しかし1990年頃から腰痛に悩まされ、1991年に6回目の欧州ツアー賞金王を獲得以降次第にスランプへ陥る。その後のスイング改造の失敗でさらに調子を崩して世界ランキングも急降下、全盛期の輝きを取り戻すことなく2007年7月16日に競技ゴルフから退く事を表明した(最後の欧州ツアー優勝は1995年)。
  • 2008年10月6日にスペインのマドリード空港で倒れ意識不明のまま病院に搬送された。精密検査の結果、脳腫瘍と判明、計4度の腫瘍摘出手術と化学療法によりゴルフができるまでに回復した。1997年にジョニー・ミラー、ニック・ファルドとともに世界ゴルフ殿堂入り。
  • 2011年5月7日、長い闘病生活の末に逝去。54歳没。
  • プレースタイル:全盛期には天才の名を欲しいままにし、圧倒的な存在感でライバルたちを恐れさせた。彼のゴルフスタイルはジーン・サラゼンの言葉に代表される様に飛ばし屋の攻撃的ゴルファーの典型だった。ドライバーの安定感はトップ選手らしからぬものだったが、アイアンショットの切れ味鋭く、また多種多様なショットを放つことができ、林の中からなどグリーンを簡単には狙えないような所からでもバーディーを奪ったりすることから、「七色のアイアンショット」と呼ばれた。
  • プレーを語るにあたり最も有名なのが1979年の全英オープンでの最終日の“駐車場ショット”である。16番ホールでティーショットを大きく右に曲げ臨時駐車場の車の下にボールを打ち込んでしまった彼は、ルール上の救済により車を移動し打球可能な状態にはなったが、優勝争いからは脱落したと思われた。ところがこの芝生の生えていない土の上から、グリーンすら見えない状況の中ホールカップからわずか4mあまりの所にボールを乗せ、まさかのバーディーを奪い、自身初めてのメジャータイトル獲得を手繰り寄せた。このスーパープレーは全英オープンの語り草となっている。またアプローチやバンカーショットなどのショートゲームも巧みで、特にパッティングはゴルフ史上に残る名手の一人と評される。
  • 評論 :ニクラスにはパター。俺には飛距離。ゴルフの神様は誰しもに必ずひとつ欠点を与える。ただしセベ以外には。(リー・トレビノ)
  • トム・ワトソンはスイングを完璧にしようと考えている。セベは勝つことだけを考えている。(バイロン・ネルソン)
  • セベはほとんど完璧なゴルファー。トラブルに見えても彼にとってはそれは難問じゃないんだ。(ベン・クレンショウ)
  • とにかく上手かった。憧れてよくマネをした。(丸山茂樹)
  • まるでフェラーリのような躍動感で、他のプレーヤーとは全然違った。(横田真一)
  • このひとには不可能はないのかと思っていた。(丸山大輔)
  • 多様にボールを操る技術はタイガーよりずっと上だろう。(倉本昌弘)
  • 日本での活躍 :既に世界のトッププレーヤーとなっていた1970年代後半から1980年代にかけて毎年のように来日し、日本オープンには1977年・1978年の大会2連覇したほか、三井住友VISA太平洋マスターズでは1988年(当時:VISA太平洋マスターズ)に勝ち、ダンロップフェニックスでは1977年と1981年の2度の優勝がある等たびたび上位に顔を出したため日本人選手にとっても強敵だった。
  • またサッポロ「黒ラベル」のCMに出演するなど、日本での人気も高かった。また2000年代になってからも、ときおりゴルフ雑誌で特集が組まれるなどしている。
  • メジャー大会優勝 :マスターズ:2勝(1980年、1983年)/全英オープン:3勝(1979年、1984年、1988年)
  • 「改めて言うまでも無く、此は3.11の出来事に心を痛めた彼のメッセージですが、'11オーガスタ・ベストアマと成った松山英樹の許には、先月28日に直筆サイン入りの手紙が届いたそうです。こちら」(1)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    セベ・バレステロス- Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tung さん..2011/ 5/10 06:36:37(火) [9119]

(2011.05.11掲載)




「セベ」の愛称で親しまれ、欧州ツアー35勝、米ツアー4勝、日本でも日本オープン2年連続優勝など全世界で80勝以上を挙げるなどし、ゴルフ史上に残る名プレーヤーの一人に数えられたセベ・バレステロス。

 

 

54年1ヶ月と22日?の生涯

ウサーマ・ビン・ラーディン
Usama bin Muhammad bin Awad bin Ladin
                【数々のテロ事件の首謀者】

(1957.03.10? 〜2011.05.02?)
射殺---魚座

  • アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされるサウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。アルカーイダの司令官(アミール)。FBIにおける最重要指名手配者の1人であった。身長194cm。体重約73kg。FBIの指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。
  • 2011年5月2日(米国現地時間5月1日)、米国海軍特殊部隊が行った軍事作戦によって死亡したと報道された。
  • 日本語では、ウサマ・ビン・ラーデン(外務省)、オサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)、ウサマ・ビンラーディン(読売新聞など)などとも表記される。
  • 1979年、アフガニスタンのソビエト軍と戦うためにアブドゥッラー・アッザームの呼びかけに応じパキスタン入りし、ムジャーヒディーンの1人となる。
  • 1988年、マクタブ・アル=ヒダマトが分裂。ペシャワールでアル・カイーダを組織。
  • 1990年、アフガニスタンの英雄としてサウジアラビアに帰国。
  • 1991年、湾岸戦争で、異教徒のアメリカ軍の介入や聖地メッカのあるサウジアラビアへのアメリカ軍駐留に反発し、スルタン・ビン・アブドルアジーズ・アル=サウード王子に交渉するも拒否され、反サウード家を鮮明にする。
  • 1992年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、スーダンに身を寄せる。スーダンで建築事業を営みインフラ整備に携わる。アル・カーイダの組織はこの時期この地で大幅に拡大され、国際的なネットワークが繋がり、「イスラムの教えに反する者全てに聖なる戦いを仕掛けよ」と呼びかけた。
  • 1996年、アフガニスタンに移動しイスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアル・カーイダの基地を作り、テロ訓練を行う。
  • 1998年、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線結成。「アメリカと同盟国の国民を殺害せよ」というファトワをアイマン・ザワーヒリーと連名で出す。アメリカ大使館爆破事件。スーダンの化学工場とアフガニスタンの訓練キャンプがアメリカ軍のミサイル攻撃を受ける。
  • 1999年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1267でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
  • 2000年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1333でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
  • 2001年秋、アル・カーイダのメンバーであるモハメド・アタ他数名による9.11アメリカ同時多発テロ事件発生。ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。
  • ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
  • 2002年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1390でビン・ラーディンとアル・カーイダ関係者およびターリバーン幹部の資産凍結を決定。
  • 2004年2月28日、イラン・イスラム共和国放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン・ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
  • 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。
  • 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン・ラーディン死亡説を報道した。
  • 2007年1月31日、米CNNはアラブ首長国連邦のドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。
  • 2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードで米軍によって射殺される。
  • アメリカ政府はかねてからのFBIの情報収集活動などにより、早くからイスラム系国際テロ組織アル・カーイダとそのリーダーであるウサーマが9/11テロ実行犯と断定していたが、ウサーマは当初事件への関与を否定していた。
  • ところが2001年11月、アフガニスタンのジャラーラーバードでターリバーン掃討作戦を行っていたアメリカ兵が破壊された民家から一本のビデオテープを発見、その中でウサーマが同志にこの事件については事前に知っていたと語るシーンがあったことから大騒ぎになった。ウサーマ本人がビデオテープによりアルカーイダによる911テロの犯行声明を公に発表したのは、それから3年後の2004年11月のことである。
    彼は左利きである。
  • ウサーマと言う名は、シリアの伝説的な詩人の名から付けられたもの。
  • ウサーマの兄サーリム・ビンラーディンはアメリカ合衆国テキサス州において小型飛行機事故で死亡している。
  • 2006年・インド東部の村を荒らしまわった象はビン・ラーディンと名付けられた。
  • 2009年2月・オーストラリア・ハミルトン島の観光ガイドのアルバイトに、ビン・ラーディンを名乗る、応募のビデオテープが送られてきた。内容は、何者かがビン・ラーディンを騙った、ただのブラックジョークだった。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    ウサーマ・ビン・ラーディン - Wikipedia

(2011.06.12掲載)




▲ウサーマ・ビン・ラーディンことウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン。


54年2ヶ月と7日の生涯

足利義政
Yoshimasa Ashikaga  【東山山荘(銀閣)の造営者】

(1436.01.20〜1490.01.27)
死因?---山羊座

  • 室町時代中期、室町幕府8代征夷大将軍。在職は1449年−1473年。父は足利義教で、母は側室である日野重光の娘の日野重子。正室は日野富子。側室に今参局。兄弟に足利義視、足利義勝。幼名は三寅、三春。
  • 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らはもっぱら数奇の道を探求した文化人であった。
  • 1441年に父の足利義教が嘉吉の乱で赤松満祐に殺され、1443年に兄足利義勝が死去すると管領の畠山持国などに補佐され8歳で将軍職に就任。
  • 義政は義教の政策を復活させようとするが、三魔と呼ばれる乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家、将軍家執事伊勢貞親や正室日野富子の実家の日野家等の側近が政治に介入し、実権のない傀儡であった。
  • 1464年(寛正5)に29歳で隠居を思い立ち実弟の義尋を足利義視と還俗させ、養子として次期将軍に決定するが、翌年に実子足利義尚が誕生すると夫人の日野富子は義尚への将軍後継を望み、山名持豊(宗全)に協力を頼み、義視は管領の細川勝元と結び足利将軍家の家督継承問題が起るが義政は将軍職を譲らず、管領家や斯波氏の家督相続と関係して1467年(応仁元)応仁の乱が発生
  • 京都の市街が戦火で焼失する花の御所から小川邸へ移り、富子とは不和であったとされ別居おり、花の御所が焼失し富子が小川邸へ移ると義政は東山山荘へ移る。
  • 1473年(文明5)に将軍職を義尚へ譲り、1482年(文明14)には東山山荘(銀閣)を造営、隠居。義尚は1489年に六角氏討伐の為の陣中で没し、再び将軍になり1490年に死去。
  • 庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、能楽者の音阿弥らを召抱え、東山銀閣寺(慈照寺東求堂)を建て、戦乱をよそに茶の湯、絵画など風雅な生活を送り、いわゆる東山文化が栄える契機となった。華やかな北山文化に対してわび・さび に重きをおいた東山文化を開花させて東山殿と呼ばれた。
  • 「足利義政の辞世をお供えします。この人、将軍としては問題があったと思われますが、文化人としてのレベルは相当なものではないでしょうか。小生はこういう人、好きですね。
    〈何ごとも夢まぼろしと思ひしる身にはうれひもよろこびもなし〉」(1)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)投稿者:ユリウスさん 2006.03.24(Fri) 00:52[1242]
    (2)読売新聞2006.01.07朝刊より抜粋・リライト。

(2007.09.17更新)



◎オタクの芸能集団を身近に召し抱えた将軍様。


華やかな北山文化に対してわび・さび に重きをおいた東山文化を開花させて東山殿と呼ばれた室町幕府8代征夷大将軍・足利義政。

 


▲ 東山山荘(銀閣)
「銀閣寺の外壁には定説通り、創建当時から銀箔が施されていなかったことが、初の調査でわかった。銀閣寺はこけらぶき2層の楼閣。銀箔を張る計画が見送られたのは幕府の財政難が理由ともいわれ、金閣に対し、銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代とされる」(2)。

54年2ヶ月と4日の生涯

近衛文麿
Fumimaro Konoe    【「黙」して死す】

(1891.10.12〜1945.12.16)
自宅で青酸カリを飲んで自殺---天秤座

  • 34,38,39代総理大臣。軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった昭和の貴族政治家。
  • 49歳で第2次内閣を組織、組閣前から起こしていた新体制運動を発展させ大政翼賛会を創立、日独伊三国同盟を締結した。
  • 50歳で第3次内閣を組織したが日米交渉失敗や中国撤兵をめぐる東条英機との対立などのため退陣。
  • 第2次大戦後東久邇内閣の国務相として憲法改正案の起草にあたったが、戦犯容疑者に指名されて服毒自殺。
  • 「昭和20年12月近衛元首相は連合軍の出頭命令を前に自決した。そこには木戸らの歴史の捏造と恐るべき陰謀があった。---すりかえられた戦争責任」(1)。
  • 近衛文麿は当時のポピュリストだったという。ある意味小泉純一郎と共通項がある。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)鳥居民著『近衛文麿「黙」して死す』(草思社)の新聞広告より抜粋。

(2009.09.16更新)




▲軍部を中心とする勢力にかつがれて三たび首相となった昭和の貴族政治家・近衛文麿。
(イラスト 大城さん)


54年2ヶ月と12日の生涯

中江兆民
Chomin Nakae    【東洋のルソー】

(1847.11.01〜1901.12.13)
咽喉ガンで死亡 ---蠍座

  • 「東洋のルソー」と呼ばれた魅力的な思想家、自由民権運動家。名は篤介。ほかに青陵・秋水と号。土佐高知藩出身。
  • 24歳で岩倉使節団とともに渡欧してフランス留学。27歳で帰国し東京番町に仏学塾を開く。34歳で西園寺公望の《東洋自由新聞》の主筆。
  • 35歳で『政理叢談』を創刊し、ルソーの『社会契約論』を訳した『民約訳解』などを掲載し天賦人権論を説き、民権運動に大きな影響を与えた。40歳、保安条例により東京から追放され大阪に移る。
  • 43歳で第1回衆議院議員に当選、第1議会土佐派の裏切りを憤慨し辞任。その後実業活動に従事したが失敗。51歳で国民党結成、53歳、国民同盟会などに関係した。
  • 著書『三酔人経綸問答』に登場する洋楽紳士、豪快君、南海先生の三人は兆民の分身。他に『一年有半』『続一年有半』など。
  • 明治の思想家の中江兆民は、明治34年12月13日午後7時半死亡。遺体は遺言によって大学病院で解剖された。
  • 中江は日頃より、死後葬式を営まずただちに荼毘にふするように遺言をしていたが、親戚友人は「告別式」を行なうことを提案して、17日午前9時自宅出棺、青山墓地において式が行なわれた。式のあと棺は、世田谷区の落合火葬場で荼毘にふされた。中江兆民はルソーを日本に紹介したが、日本で初の告別式を行なった者として記憶にとどめておくに値する人物である(有名人の葬儀より)。
  • 「中江兆民がついた頃のフランスは、前年にある大事件を迎えた直後でした。それは、「パリ・コンミューン」という世界で最初の労働者政府が、一時的にもせよ誕生した一種の革命だったのです。そして、パリ・コンミューンに携わった人たちが思想的な拠り所としていたのが、ルソーやボルテールの著書でした。中江兆民より一年早くフランスに留学していた西園寺公望は、このパリ・コンミューンをリアルタイムで目にする機会を得ましたが、公家出身であった彼は、どちらかといえばコンミューンを単なる反乱軍のようにしか捉えていませんでした。しかし西園寺は、フランス生活の中で政治学者エミール・アコラスと知り合い、フランスにやってきた兆民にアコラスを紹介しました」(1)。
  • 「元々、中江兆民は孤独を好む物静かな人間だったから、啓蒙家・民権運動家として活動を続けるためには、本来の自分を踏み出したところで別の人間になる必要があった。シャイで小心な人間は、追いつめられると大胆な行動に出る。それと似た心理で、彼にとって異界と感じられる政界にあって、兆民は本来の性行とは反対の奇人の役を演じ続けたのである。時代に対する怒りが激しくなるにつれて、彼の奇行も激しくなっていった。彼の奇行がしばしば行き過ぎてマゾヒズムを感じさせるほど陰惨な色彩を帯びる。不自然な自己劇化を繰り返したためである。学生時代の私は、啓蒙家・民権運動家としての兆民に目を奪われて、彼が二重底の人間だとは思い至らなかった。中江兆民には、マスコミをにぎわす奇行家という面と物静かなマイホーム主義者という面があり、前者は後者によって支えられていたのである。21歳で上京するまでの兆民と、政界から退いて実業に従事した45歳以後の兆民は謹厳実直なマイホーム主義者だった。彼の生涯は始めと終わりで繋がっている円環型の構造をしており、奇人中江兆民はその上に咲いたあだ花だったのである」(2)。
  • 兆民は「民権これ至理なり、自由平等これ大義なり」と叫び、この至理大義のために生涯をかけた。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)「中江兆民のページ
    (2)「中江兆民

(2005.06.11更新)




▲「東洋のルソー」と呼ばれた自由民権運動家・中江兆民。

◆「一年とは余のためには寿命の豊年なり。もし短いと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり」
(喉頭癌で余命1年半と宣告された中江兆民)。

54年2ヶ月と30日の生涯---2004年没後百年

小泉八雲=L・ハーン
Lafcadio Hearn   【明治の文豪、評論家、随筆家】

(1850.06.27〜1904.09.26)
狭心症の発作---蟹座

  • 明治の文豪、作家、評論家、随筆家。本名、ラフカディオ・ハーン。ギリシアの レフカダ島生れの英国人。
  • 父はギリシャに駐留中のイギリス軍軍医、チャ−ルス・ブッシュ・ハ−ン、母 はロ−ザ・カシマティというギリシャ人であった。父はハ−ンの生後間もなく命を受けて西インドに赴 任し、母子は父の家のアイルランドで生活した。しかし、間もなく父母は離婚し、母はギリシャへ帰る。
  • ハ−ンは四歳にして母と生別し、再婚した父は後にインドへ赴任したが、その帰国の途中に病没し た。ハ−ンは七歳にして父母を失い、肉親の情愛を一身に受けて育つことはなかった。伯母に引き取られてフランスとイギリスの宗教学校で学ぶ機会を与えられた。
  • 学校で遊戯中に左目を 負傷し、視力を失った。なぜかハ−ンの写真の殆どは右側を向いており、正面や左側から撮った写真が 余りない。伯母の破産で全ての支えを失い放浪の後、1869年、19歳でアメ リカに渡り、新聞記者となった。
  • 1890年来日。明治24年(1891)11月、熊本大学の前身である第五高等中学校(明治27年、第五高等学校と改称)の英語教師として、島根の松江中学校から赴任。明治27年(1894)10月までの3年間を、熊本で暮らす。小泉節子と結婚。日本の文化、風土を愛して1895年帰化し小泉八雲を名乗った。日本の印象記《知られぬ日本の面影》(1894年)や短編集《怪談》を英語で発表。他に「東の国から」で日本を世界に紹介した。
  • 東京大学や早稲田大学でも英文学を講じ、没後講義集《英文学史》などが刊行された。
  • 全国を転々とした八雲は、1902年豊玉郡大久保町西大久保(現在の新宿区大久保)に転居し、2年後に54歳で生涯を閉じた。
  • 19歳でアメリカに渡り新天地で記者や翻訳などの文筆活動を始めたハーンは、出版社と旅行会社の企画で日本の紀行文を書くことになり、明治23年(36歳)に来日する。ところが、出版社とのトラブルから契約を破棄して、島根県の松江中学の英語教師として赴任することになったらしい。熊本での生活はハ−ンにはなじめなかったようだ。いつしかジャ−ナリストに戻りたいと思い、三年 住んだ熊本を後にして神戸へ移った。
  • 「アテネから西の方に約400キロ、イオニア海に浮かぶ島レクカダで生まれた。出生地はリュウカディアと呼ばれていた。それは「放浪」を意味するといわれている。母のギリシャから父の出身地アイルランド、さらに英米仏、領西インド諸島などを経て.1890年(30歳)には日本へ。ハーンの人生の旅も長かった」(1)。
  • 「英国留学から帰った夏目漱石に追われて帝大講師の座を失う人気者のハーンに対し、学生の間で激しい留任運動が起きた。漱石先生の内心は穏やかではなかったに違いない」(2)。
  • 「ハーンの日本での仕事の大半は日本語というマイノリティの言語の口承を耳で聞き、英語という大言語による再話で、世界に発信する作業であった。著者によれば、親に捨てられ異端児として「養子化」を続けたハーン自身の哀切な過去と重なる役割だったのだ。そして「近代化」という歴史が急速に進行する日本だったからこそ、彼はその仕事に駆り立てられたのだともいえる。近代化とは新しい言語・生活に順応、適応しながら新しい社会に「養子」にもらわれていくようなものだからだ」(3)。
  • 「杵(きね)で米をつく音がする。やわらかく、鈍く、心臓の鼓動のように規則正しい。やがて寺の鐘が鳴る。勤行の始まりを告げる太鼓が響く。あちこちの家で神棚にかしわ手を打つ音、物売りの声、木橋を渡る下駄(げた)の音がつづく(「知られざる日本の面影」)。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は島根県松江市の朝を、枕辺に届く音で描いている。左目を失明し、右目も0・1を切る視力であった人の耳は繊細に研ぎ澄まされていたのだろう。音のひとつひとつを脳裏に浮かべてみると、清澄な朝の空気に包まれている心持ちで身の養生になる」(4)。
  • 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは「耳なし芳一」や「雪おんな」など日本怪談の魅力を世界へ紹介した。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    ヘルン文庫と小泉八雲(ラフカディオ・ハ−ン)
    Koizumi Yakumo
    (1)朝日新聞2004.09.25朝刊「天声人語」より抜粋。
    (2)日経新聞2004.09.26朝刊「春秋」より抜粋。
    (3)読売新聞2004.10.17朝刊 西成彦著「耳の悦楽」の吉田直哉による書評より抜粋。
    (4)読売新聞2006.04.22朝刊 「編集手帳」より抜粋。

(2007.07.24更新)



▲日本の印象記《知られぬ日本の面影)や短編集《怪談》を英語で発表し、他に「東の国から」で日本を世界に紹介した小泉八雲=L・ハーン。


▲写真は、来日前の39才の時(1889年頃)、アメリカで撮影されたもの。八雲は16歳の時失明した左眼を写されるのが嫌で、両眼が写っている写真は稀とのこと。

 

◆「日本の将来の危機は実にこの途方もない自負心にあるともいえる」
(大国への道をひた走ろうとする日本の将来に対して)

54年3ヶ月と9日の生涯

兒玉源太郎
Gentaro Kodama  【武士、そして陸軍軍人】

(1852.04.14〜 1906.07.23=嘉永5年閏2月25日〜明治39年7月23日)
脳溢血/暗殺説あり---牡羊座

  • 陸軍大将勲一等功一級子爵(なお、現在では通常児玉 源太郎の表記の方が多い。「兒」は印刷字体、「児」は手書き書体)。
  • 嘉永5年(1852年)、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、長州藩の支藩「徳山藩」の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男として生まれる。父とは5歳で死別し、家督を継いだ姉婿に養育された。しかし、源太郎が13歳のときこの義兄は佐幕派のテロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。
  • 熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。
  • 台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
  • 東郷平八郎乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導いた戦略家の1人として有名である。
  • 日露戦争開戦前には内務大臣を務めていたが、 明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた参謀次長の田村怡与造が死去し、大山巌参謀総長から特に請われて降格人事でありながら田村の後任を引き受ける。日本陸軍が解体する昭和20年(1945年)まで、降格人事を了承した人物は兒玉源太郎ただ一人である。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務め、旅順攻囲戦においては、満州軍総司令官大山巌の承認を得て第三軍司令官乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされる。しかし、旅順陥落直前に督戦に訪れたことは事実であるが、兒玉大将の指揮権介入を事実として証明する一次資料は存在せず、また、このエピソードが広く知られるきっかけとなった司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』以前に、そのような経緯を記した信頼に足る記録も見出せない事から、司馬の創作であるとする意見がある。
  • 一般に知られている説によれば、明治37年(1904年)12月5日、兒玉は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという奇抜な作戦を取ったとされる。そして砲撃と突撃隊の突撃を同時に行い、半日で陥落させた。さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して203高地越えに旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦は旅順湾街に降り注ぐ砲弾を少なくするため次々と自沈し壊滅した。これによりバルチック艦隊は単独で日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順攻囲戦の目的は達成された。旅順要塞のロシア軍は203高地陥落を境に弱体化し、この1ヶ月後に降服する。
  • 兒玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典に対する尊敬の念を終生抱き続けたと思われる。
  • 兒玉は日露戦争勝利のために心血を注ぎ込んだともいわれ、戦争終結8ヶ月後、脳溢血で急逝した(暗殺説あり)。
  • 日本軍の参謀育成の為、教官として招かれたドイツ陸軍参謀将校のメッケルから才覚を高く評価され、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本にコダマ将軍が居る限り心配は要らない。コダマは必ずロシアを破り、勝利を勝ち取るであろう」と述べたという。兒玉の能力を語るエピソードである。
  • 晩年、浅草の凌雲閣(通称十二階)で開催された日露戦争展で、小柄な兒玉をナポレオンに準えて語り合う二人の陸軍将校の傍に歩き寄り「兒玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが兒玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむと言うというお茶目な面もあった。
  • 乃木と兒玉は旧知の間柄であった。千葉県佐倉東京鎮台第二連隊長時代、演習で乃木(同第一連隊長)の指揮する部隊を兒玉の部隊が奇襲によって大いに破った時、部下に「気転の利かぬ野狐を七分小玉で打ち上げた」と歌わせ、乃木をからかったという。「気転」は乃木の名「希典」の音読み、「野狐」は「ノギ(乃木)ツネ」。「七分小玉」は小さな花火のことで、身長の低かった兒玉が「一寸に満たないほど小さい兒玉」と自分自身をもじったものであるとされる。
  • 兒玉は乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれる。日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がったが、兒玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したという。兒玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられる。
  • 神奈川県藤沢市江ノ島および山口県周南市にある兒玉神社は、彼を祀ったもの。
  • 長男は大蔵官僚で国務大臣などを歴任してきた児玉秀雄、三男児玉友雄は陸軍中将、九男の児玉九一は内務官僚で厚生次官、曾孫の児玉進は映画監督・テレビ映画監督。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    兒玉源太郎-Wikipedia

(2008.06.21掲載)



▲東郷平八郎、乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名な兒玉源太郎。

54年3ヶ月と17日の生涯

福士敬章
Hiroaki Fukushi   【元プロ野球選手】

(1950.12.27〜2005.04.13)
病死とみられる---山羊座

  • 鳥取県出身の元プロ野球選手(投手)。登録名は1978年まで松原 明夫、1979年は福士 明夫。
  • 鳥取西高から1969年のドラフト外で巨人に入団。1973年に南海へ移籍。1977年に広島に移籍後は先発投手として活躍し、リーグ優勝にも貢献。
  • 1983年に張明夫の登録名で韓国プロ野球の三美スーパースターズに入団。60試合 30勝 16敗 6セーブ 36完投の成績で最多勝を獲得。30勝は現在でも韓国プロ野球記録である。1986年にピングレに移籍。同年引退。その後は韓国でコーチを務めた。339試合 91勝 84敗 9セーブ 、785奪三振 、61完投、 13完封 、防御率3.68。最高勝率1回(1980年)。
  • 「和歌山県みなべ町のマージャン店で死亡しているのを友人が見つけた。田辺署によると、福士氏は店のソファで寝ていたが、起きてこないので見にいくと死亡していたという。病死とみられる。福士氏は1年ほど前から同店の店長をしていたという」。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2005.05.31掲載)



▲日本と韓国のプロ野球で投手として活躍した福士敬章。

54年3ヶ月と21日の生涯

星ルイス
Ruisu Hoshi   【「星セント・ルイス」の漫才師】

(1950.11.17〜2005.03.10 PM02:05)
肺がんで急死---蠍座

  • 元「星セント・ルイス」の漫才師。1980年代漫才ブームの立役者だった「セント・ルイス」の星ルイス(本名藤江充夫=ふじえ・みつお)。東京都生まれ。
  • 「田園調布に家が建つ」などのギャグで80年代漫才ブームの頂点に立ったが、2003年にコンビを解散。元相棒のセントさんが肺がんで右肺を全摘出し、さらに声帯まで摘出したが、2004年7月に56歳で他界。
  • その後、司会や俳優、漫談で頑張っていたが、今月7日に救急車で埼玉県内の病院に運ばれ、わずか3日で亡くなった。ルイスさんが食欲不振を訴えたのは昨年暮れのこと。「まだオレ頑張れるから、やせた顔見られたくないよ、みんなに内証にしといてよ」と語ったと言う。その翌日の急変。
  • 「芸能界のことは全く知らないですし、兄としてはテレビの中の弟の顔と病院での苦しみの顔のギャップがあまりにも大きく、最期はただ涙で手を握りさすってやるしかできませんでした」(1)。
  • 「コンビ別れはしたけど、今でも誰か中に入って、コンビ復活しろと言ってくれるのを待ってる。相棒オレもいつかそっちへ行くよ」。葬儀で号泣したルイスさんだったが、自身もまた肺がんで急逝する形となった。佐俣社長は「相棒を追った形ですねぇ。どこまで行ってもやっぱりコンビだったんですよ。ボクにできることはご遺族の意思を尊重することだけです」と肩を落とした」(2)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)兄の敦夫さん。
    (2)所属事務所の佐俣淳彦社長。

(2005.03.17掲載)



▲「田園調布に家が建つ」などのギャグで80年代漫才ブームの立役者だった「セント・ルイス」の星ルイス(左)。

54年3ヶ月と22日の生涯

ジャン=バティスト・リュリ
Jean-Baptiste [de] Lully  【管弦楽曲の重大な変革者】

(1632.11.28〜1687.03.22)
指揮杖で足を打ったことが原因で死亡 射手座

  • イタリア生まれながら若いう ちにフランスに渡り、フランス様式のオペラを確立する。人間性の評判は甚だ 悪く、国王ルイ14世の寵愛を利用して音楽職の地位を独占した。ルイ14世の宮廷楽長および寵臣として、フランス貴族社会で権勢をほしいままにした。元々はジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ(Giovanni Battista Lulli)という名のイタリア人だったが、1661年にフランス国籍を取得。
  • フィレンツェの粉挽き職人の家庭に生まれ、音楽の専門教育を含めて、ほとんど教育は受けていなかったが、ギターやヴァイオリンの演奏を習い覚える
  • 。1646年にギーズ大公に見出されてフランスへと連れて行かれ、大公妃アンヌに下男として奉公する。同妃に才能を認められて音楽教育を受け、ニコラ・メトリュに音楽理論を学ぶが、大公妃について尾篭な言葉で詩を書き、結局は解雇された。
  • 1687年1月8日、リュリはルイ14世の病からの快癒を祝して《テ・デウム》を指揮した。当時の習慣に従って、長くて重い杖を指揮棒として使い、それで床を打ってリズムをとっていたのだが、誤って足を打ち、膿瘍ができた。やがて傷口から壊疽を起こして、3月22日に急死した。最後のオペラ《アシールとポリュクセーヌ》は未完成のまま残された。臨終の床で、「いざ死すべし、なんじ罪びとよ Bisogna morire, peccatore 」と書き残したと言い伝えられている。
  • リュリは音楽史の観点からはバロック音楽中期(1650年〜1700年)に属す。通奏低音が曲の推進力となる典型的なバロック様式の音楽を構築し、その後のフランスのバロック音楽に深く影響を残した。また、リュリの音楽は、速い楽章の快活さや、悲しげな楽章における情緒性を兼ね備え、幅広い表現でも名高い。特にコメディ・バレやトラジェディ・リリックのクライマックスで多用されるパッサカーユやシャコンヌは人気があり、例えば『アルミード』のパッサカーユにはジャン=アンリ・ダングルベールの編曲なども残されている。宗教曲の分野でも、たとえば宰相セキエ(Sequier)の葬送音楽《われを憐れみたまえMiserere 》は称賛を受けた。
  • リュリの影響力は、宮廷舞曲そのものの様式にも急激な革命をもたらした。それまで支配的だった緩やかで荘重な動きに代わって、急速な動きの舞曲をリュリが採り入れたからである。リュートやクラヴサンを始めとする器楽曲の発展も重なり、ブレ、ガヴォット、ジーグ、パスピエ、メヌエット、サラバンド、シャコンヌなど新しい舞曲が流行する一方で、中世からルネサンスを経て受け継がれてきたいくつかの舞曲は流行おくれとなって廃れ、生き残ったものも、例えばアルマンドは2拍子から4拍子にかわるなど、前世紀とは性格的な違いを示すようになった。
  • リュリは管弦楽曲の作曲にも重大な変革を引き起こし、いくつかの新しい楽器をオーケストラに採り入れている。弦楽器の弱音器使用の指示を楽譜に書きこんだのも、一説ではリュリが最初とされる。当時は「序曲」と呼ばれていた管弦楽組曲においても、フランス風序曲の構成(壮麗な2拍子の行進曲調の導入部と、より対位法的な、普通は3拍子の主部との組み合わせ)は、リュリのオペラの序曲に由来している。恋するヘラクレス Ercole Amante / Hercule amoureux (1662年):同上。台本バンスラード。
  • オイディプス Oedipe (1664年):ピエール・コルネイユの作品
  • 英国国歌の旋律や、フランス民謡「月の光」の原型を作曲したのがリュリだと言われることもある。
  • 男色家であっ たことや指揮杖で足を打ったことが原因で死亡したことも有名。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    ジャン=バティスト・リュリ-Wikipedia
    MAB音楽資料室:リュリ

(2008.01.06掲載)



▲フランス・バロック音楽の基礎を築いた作曲家ジャン=バティスト・リュリ。



54年3ヶ月と22日の生涯

ローレンス・スターン
Laurence Sterne   【18世紀イギリスの小説家、牧師】

(1713.11.24〜1768.03.18)
病没(結核?)---射手座

  • 南アイルランドのクロンメル生まれ。ローレンスの曾祖父リチャード・スターンはケンブリッジ大学ジーザス・カレッジの学寮長に選ばれ、王政復古後のヨーク大主教だった。父ロジャー・スターンは陸軍将校で、ローレンスは7人兄弟の長男であるが、姉のマリーと末妹カトリーヌ以外は早世した。
  • 10歳近くまで、ローレンスは家族とともに、父ロジャーの連隊の移動に伴って各地を転々とする。
  • 1722年、ヨークに住む伯父リチャードに預けられ、ハリファックス近郊のグラマー・スクールへ入学。
  • 1731年、父ロジャーが一羽のガチョウをめぐる喧嘩がもとで同僚と決闘。相手に刺され、一命はとりとめたものの、すぐにジャマイカ島へ派遣となり、ロジャーはこの地で熱病にかかって没してしまう。
  • 1733年、ローレンスは伯父(ロジャーの兄)リチャードやその子で従兄に当たるリチャードの援助を受け、ケンブリッジ大学へと進学。その後、曾祖父であるスターン大主教によって創設されていた奨学生に選ばれる。1737年に学士、1740年には修士を取得。その後サットンで教区牧師となる。
  • 1741年に結婚。妻エリザベスとの間には娘リディアが生まれた。以降、聖職者としての地位は徐々に上がったものの、当時としてはごく平凡な田舎牧師であった。
  • ただ、大学時代に知り合った友人ハル・スティーヴンソンは裕福な蔵書家で、スティーヴンソンとの交流によって、フランスの滑稽文学やモンテーニュセルバンテスロックラブレーらの著作に親しく接した。
  • 1759年、スターンはヨーク地区の宗教界の勢力争いを風刺した小冊子を刊行し、好評を得た。その後『トリストラム・シャンディ』の執筆にとりかかる。
  • 1760年1月、『トリストラム・シャンディ』第1巻・第2巻を自費出版する。このときスターン46歳。 この作品は大評判となり、スターンはヨークばかりかロンドンでも有名人となる。社交界に迎えられると、彼の個性的な人柄によってますます人気者となった。当時、スターンと晩餐をともにするには2週間前から予約が要るほどであったとされる。この年、スターンはコックスウォルドに住いを移す。
  • 1761年1月、『トリストラム・シャンディ』第3巻・第4巻を出版。同年12月に『トリストラム・シャンディ』第5巻・第6巻を出版。スターンは以前から結核の症状があったが、この年に再び喀血した。
  • 1762年、フランスで転地療養する。病状は小康を得て、パリの社交界での歓迎にも気を良くしたという。一方、妻のエリザベスとは次第に冷めた関係となり、この年以降、スターンと妻エリザベスがそれぞれに転地療養のためにフランスへ渡ることが多くなり、別居同然となった。
  • 1765年1月、『トリストラム・シャンディ』第7巻・第8巻を出版。1767年1月、『トリストラム・シャンディ』第9巻を出版。しかし以後は続編を出せず、未完のまま終わった。
  • この年、若き人妻エリザベス・ドレーパーと知り合って恋愛関係となり、彼女がインドの夫のもとへ帰る際、お互いに日記をつけることを約束した。この日記は20世紀に入って、『イライザへ送る日記』(The Journal to Eliza)として出版された。1768年2月、『センチメンタル・ジャーニー』(A Sentimental Journey)を出版。これは静養を兼ねた大陸旅行の体験から生まれた作品で、『トリストラム・シャンディ』にも登場する人物名を使って「ヨリック著」としている。
  • 『センチメンタル・ジャーニー』は『トリストラム・シャンディ』にも増して好評を博したが、病状が悪化、しばしば喀血し、同年3月ロンドンで没した。
  • 『トリストラム・シャンディ』は、物語の主人公であるはずのトリストラムがなかなか登場せず、筋書きが脱線に次ぐ脱線になっていると同時に、奇抜なページデザインや記号使用が駆使されていて、「どこが頭で尻尾かわからない、海鼠の化物みたいな作品」と形容される。 この作品は、大きく二つの特徴が指摘されている。ひとつは、一見脈絡のないでたらめな展開でありながら、小説で取扱われる様々な事件は、実は時系列的に順序立てられていて、再構成が可能となっていること。二つには、これらの「脱線」には、ジョン・ロックが『人間悟性論』(1689年)で初めて指摘した「連想」あるいは「観念連合」の原理が用いられていて、この原理によって、構成的にも内容的にも作品全体が支えられていることである。
  • ローレンス・スターンの小説は、19世紀にはユーモア文学の一材料としての評価に過ぎなかったが、20世紀に入って、ジェイムズ・ジョイスマルセル・プルーストヴァージニア・ウルフら「意識の流れ」を追求した文学の潮流が起こると、これらの源流的位置付けを占める存在として再評価されるようになった。1968年には、没後200年を記念してイギリスで「スターン200年祭」が開かれた。
  • ローレンス・スターンを日本に初めて紹介したのは夏目漱石である。1897年(明治30年)に漱石は『トリストラム、シャンデー』と題する文章を発表、自身の小説『吾輩は猫である』などにも影響を及ぼしたものと見られる。
  • 「シニックな牧師であり、不実な夫であり、快楽に取りつかれた病人といわれ、「トリストラム・シャンディ」を書いた魅惑的な作家、ローレンス・スターンをお願いします」(1)。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    ローレンス・スターン-Wikipedia
    (1)投稿者:ユリウスさん..2007/ 3/ 8 11:11:14(木) [1184]
    (2)投稿者:ユリウスさん..2007/ 3/ 9 20:58:51(金) [1189]

(2007.03.10更新)



▲未完の長編小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(『トリストラム・シャンディ』)の作者として知られるローレンス・スターン。



◆「たまさん ローレンス・スターン、完璧です。ありがとうございました。写真は昭和44年に買った朱牟田夏雄先生の訳「トリストラム・シャンディ」です。上、中、下、揃っており、今や骨董品です」---(2)。

54年4ヶ月と4日の生涯

北 一輝
Ikki Kita   【日本ファシズムの理論的指導者】

(1883.04.15〜1937.08.19)
二・二六事件の首謀者として死刑---牡羊座

  • 本名は輝次郎。新潟県出身佐渡の生れ。佐渡中学中退後、1904年早稲田大学聴講生。
  • 23歳、独学で『国体論及び純正社会主義論』を発表。発禁処分を受ける。
  • 普通選挙と経済革命、世界連邦を提唱する。この本の出版がきっかけで中国革命同志会、黒龍会とつながりが出来る。中国革命同盟会に入り、28歳で辛亥革命で宗教仁に招かれ上海で行くが、宗の暗殺事件を受け国外退去令が出され帰国。
  • 帰国後『支那革命外史』を書き、中国革命に関する本を執筆し、革命の支援と列強の中国分割政策撤回を主張。33歳、上海へ渡航。
  • 36歳、パリ講和会議の結果5・4運動が起こり、浪人生活中の上海で『国家改造案原理大綱』を執筆。天皇を奉じて革命を起こし、階級制を打破した後、亜細亜連盟を掲げ、英国の侵略からアジアを解放すべきであると主張。
  • その執筆中に帰国。20年これを『日本改造法案大綱』と改めて、刊行。青年将校に大きな影響を与え、国家主義運動の重鎮となる。
  • 大川周明の猶存社参加し、宮中某重大事件、安田生命争議、十五銀行事件、朴 烈怪写真事件と各種の事件に関わり政府攻撃を展開、30年のロンドン軍縮条約では統帥権干犯を問題としたこの頃からテロの標的になることを恐れた企業からの献金を受けるようになる。
  • 二・二六事件では事前謀議など直接の関係はなか ったが、西田税を通じて皇道派の青年将校に影響を与え、蜂起した部隊に真崎大将に後事を一任するよう助言し、鎮圧後に逮捕。
  • 民間人だが非公開の特設軍法会議に掛けられ、死刑判決。直接に指揮はしなかったが二・二六事件の首謀者として死刑。
  • 「大輝よ、此(こ)の経典(きょうてん)は汝の知る如く父の刑死する迄、読(どく)誦(しょう)せるものなり。汝の生るると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦(しょう)持(じ)するに至れるなり。即ち汝(なんじ)の生るるとより、父の臨終まで読誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此法華経をのみ汝に残す。父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、又楽しき嬉しき時、此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ、念ぜよ。然(しか)らば神霊の父直(ただ)ちに汝の為に諸神諸仏に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。経典を読誦し解脱するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦住三昧を以て生活の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神諸仏の加護、指導の下に在るを得べし、父は汝に何物をも残さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり 昭和12年8月18日 父 一輝
    二・二六事件の民間側首謀者として特設軍事法廷で死刑判決を受けた北一輝が処刑前日に我が子大輝あてに書き残した遺書。大川周明により「魔王」と仇名された革命家というより父親としての心情が溢れ出ている名文である。また、この大輝が北の実子ではなく辛亥革命の時に亡くなった革命家の遺児であることを思うといっそう哀しさが漂う。刑場で銃殺される前に、隣の西田税が「天皇陛下万歳三唱をしましょうか」と問うたところ「私はやめておきましょう」と言い残した話は有名。北一輝は天皇制思想をコミンテルン側からではなくもっと違うナショナルな面から突き抜けていたのである」(1)。

  • 右翼、と一言で片付けられてしまっていた北一輝であるが、彼は社会主義者でもあった。そして日蓮宗=法華経の熱心な信者でもあった。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)「逝きし昭和の言葉

(2009.08.12更新)



▲日本ファシズムの理論的指導者、右翼思想家・北一輝。
(イラスト 玉野安実嬢)


▲革命家・北一輝
「日本改造法案大綱」と昭和維新
豊田穣 著 / 講談社
主著『日本改造法案大綱』に記された壮大な国民救済の論理と日本民族発展の理想は、青年将校に多大な影響を与えた。“昭和維新の聖典”としてもてはやされたばかりではなく、その後の大日本帝国の運命をも変えた。本書は、昭和初期の最大のイデオローグであった北一輝の生涯と思想を追究した傑作評伝である。

54年4ヶ月と23日の生涯

天知 茂
Shigeru Amachi  【マダムキラー/非情のライセンス】

(1931.03.04〜 1985.07.27)
膜下出血---魚座

  • 愛知県名古屋市出身。本名、臼井 登(うすい のぼる)。旗本水野十郎左衛門の子孫。芸名は大ファンである中日ドラゴンズの天知俊一監督と杉下茂投手が由来。
  • 東邦商業学校(現・東邦高等学校)卒業後、1949年に松竹へ入社。しかし仕事がなく、しばらく不遇をかこった後、新東宝を経て大映に移る。新東宝時代の1959年、中川信夫監督作品『東海道四谷怪談』で民谷伊右衛門役に抜擢され、迫真の演技力により注目される。
  • 大映に移籍後は『座頭市物語』の平手造酒役での個性的な演技で頭角をあらわし、悪役俳優として注目されるようになったが、当人は普通の二枚目役を望んでいたので不満だった。
  • しだいに役域を広げる機会に恵まれ、1965年には三島由紀夫の依頼により、美輪明宏主演舞台『黒蜥蜴』(原作は江戸川乱歩、脚色は三島)で明智小五郎役を演じ、これが大当たりの役となる。
  • その後は独立し、アマチプロゼを設立。(池田駿介、堀之紀などの俳優が所属していた。)ニヒルな渋さを漂わせた個性派俳優として地位を確立。ハードボイルドの代表的スターの一人となり、かつてとは逆に、刑事など社会正義派的な役どころがはまり役となっていく。
  • テレビ朝日系で放送された『非情のライセンス』や、土曜ワイド劇場で連続放映された『江戸川乱歩の美女シリーズ』は人気のシリーズとなり、明智小五郎は天知でなくては務まらないほどになった。
  • 『非情のライセンス』では主題歌「昭和ブルース」を歌ってヒットしたため、遅まきながら「歌う映画スター」に仲間入りする契機ともなった。
  • また時代劇においても、映画界時代以来培ってきた安定感のある演技力で主演および主要脇役として活躍。『雲霧仁左衛門』『十六文からす堂』『江戸の牙』等連続ドラマやシリーズものの主演多数、TBS系高視聴率番組『大岡越前』では与力・神山左門役で存在感を示した。
  • 独特の美貌はマダムキラーの異名を持ったが、私生活では浮ついたところがなく、よき家庭人だったそうだ。夫婦げんかなんか一回もしたことがなかったと葬儀の際夫人が証言している。
    また奥田瑛二・宅麻伸が天知の付け人であった履歴をもつ。
  • 俳優以外の活動としてアマチフィルムを設立。自らも宇寿木純というペンネームをメガホンをとった。
  • 明智シリーズも軌道に乗り始めコメディドラマでも味を見せていた矢先の1985年7月27日、くも膜下出血で急逝。享年54。
  • 作家澁澤龍彦は天知のファンで、『地獄』(中川信夫監督)その他の作品における彼の存在感と演技力を高く評価していた。また元角川書店社長の角川春樹は、テレビドラマ『夜の賭け』で天知が演じた六本木のバーの経営者に憧れて、大学卒業後に新宿でバーを経営していたことがある。
  • カーク・ダグラスの顎の皺と双璧をなす天知茂の眉間の皺。子どもの頃、セロテープで真似しました。「昭和ブルース」は浸み入りますね。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    天知茂-Wikipedia

(2009.07.10掲載)




▲独特の美貌でマダムキラーの異名を持った俳優、歌手として活躍した天知 茂。
(イラスト 大城さん)

54年5ヶ月と1日の生涯

川谷拓三
Takuzo Kawatani   【東映最後のスター】

(1941.07.21〜1995.12.22)
肺ガン---蟹座

  • 俳優、東映最後のスター。本名・仁科拓三。
  • 34歳のころ、東映の大部屋俳優時代で故・深作欣二監督の人気やくざ映画「仁義なき戦い」シリーズに脇役で出演、その体当たりの迫力ある演技で人気が急上昇。
  • 本物のやくざ顔負けの演技、特に銃で撃たれて死ぬ演技は圧巻で多くの映画ファンの心をつかんでいた。
  • 「私ら大部屋俳優がスクリーンに出ても一瞬で終わってしまうんです。だからこそ、主役を食ってやろうと、体をはった演技をしてしまうんです。---ぼくらはとにかく目立たないとだめなんですよ」。
  • 当時、川谷は他の大部屋俳優仲間と一緒に10人ぐらいでピラニヤ軍団というグル ープを作って売り出していた。
  • 軍団仲間には北海道出身で本物のやくざから組員にスカウトされた経験のある室田日出男、いまやテレビで売れっ子中年男の小林捻持らがいた。
  • 映画一家に生まれ、誰よりも映画を愛した川谷。大部屋俳優として、斬られ殺された回数は約3.000回。
  • その苦労は筆舌に尽くしがたかったものがあると思われるがその後の活躍はテレビ、映画でもおなじみ。
  • 故郷の京都の病院で亡くなった。死因は肺癌だった。日本映画界はまた、ひとりのスターを失った。東映からはもうこんなプロの役者根性をもったスターは出てこないと思う。
  • 川谷拓三の長男仁科貴は、NHKの朝の連続ドラマ「オードリー」や映画「暗殺の街」などに出演している俳優。拓三に生き写しだ。

    ¶:参考文献・参考サイト:
    (1)

(2009.07.16更新)




▲東映最後のスター・川谷拓三。
(イラスト 大城さん)




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