玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

50-51-52-53-54-55-56-57-58-59

age 55


50音インデックス


■55歳の
シンクロニシティ


■55歳-?←戻る
イソップ/アイソーポス
中臣鎌足/藤原鎌足
天武天皇
聖武天皇
在原業平
サラディン
コロンブス
バスコ・ダ・ガマ
オスカー・シュレンマー

■55歳-前半←戻る
イヴ・タンギー
魯迅
大森房吉
吉野作造
猪俣 公章
安井かずみ
アイ 高野
明石元二郎
ソシュール
平岡 浩太郎
ルイザ・メイ・オルコット
貴ノ花/花田 満
清沢 洌
ホ-フマンスタール

■55年-後半
久生十蘭
ルドルフ・ジーゼル
荻原朔太郎
花登 筐
グスタフ・クリムト
ヘンリー8世
フェノロサ
クロード・ドビュッシー
ビル・ヘイリー
いわさきちひろ
カエサル/シーザー
大浦 慶
生原昭宏
真部 一男
宿沢広朗
嵯峨天皇
ニーチェ
ゴーギャン
ロアルト・アムンゼン
シュペングラー
ウガンダ・トラ


■55歳のエポック


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55歳の語録

 

「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして」
(在原業平)

「できそうなことでも、実際にやってみなければやれないのと同じです」
(コロンブス)




55年6ヶ月ジャストの生涯

久生十蘭
Juuran Hisao   【小説の魔術師】

(1902.04.06〜1957.10.06)
死因?---牡羊座


  • 小説家。明治35年(1902)北海道函館市に生まれる。本名は阿部正雄。
  • 東京の聖学院中学中退後、函館新聞社に勤め、かたわら詩を書き演劇に熱中。 昭和3年、上京して岸田国士に師事し「骨牌遊びドミノ」を発表。
  • 昭和4年フランスに渡り、パリの国立工芸学校などに学ぶ。 帰国後、新築地劇団で演出助手をしながら「新青年」などに探偵小説を執筆。「金狼」「墓地展望亭」などを著わし、推理もの、ユーモアもの、歴史もの、現代ものと多彩に発表。 時代小説やノンフィクションノベルを含め大衆文学を幅広く手がけた。
  • 昭和26年に発表した「鈴木主水」で直木賞を受賞し、昭和30年には、前年読売新聞に連載した「母子像」が、ニューヨークのヘラルド・トリビューン紙の国際短編小説コンクールで一等に入選。
  • 博識な技巧家で”多面体作家”ともいわれ一部に根強いファンがいる。 代表作に「だいこん」「十字街」「うすゆき抄」「肌色の月」など。
  • 死後も夢野久作、小栗虫太郎らと並ぶ昭和の異色作家の一人としてたびたび再評価されている。
  • 鎌倉には、昭和22年から没年まで材木座に住み、材木座霊園に墓所がある。
  • 「---凝りに凝った小説手法と変幻自在なストーリーレリングで「小説の魔術師」と呼ばれた人。---母恋い、猜疑心、虚栄心、正義感---。人間の精神の深奥を見つめ、その情念が作り出すまか不思議な世界を、時代小説、ミステリーなど様々な文体でつづる」(1)。
  • 「久生十蘭が太平洋戦争中、南方戦線で記した「従軍日記」が神奈川県鎌倉市内で発見された。私生活などを明かさないことで知られた孤高の作家の戦争体験が克明につづられた貴重な資料になりそうだ」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    久生十蘭 かまくら GreenNet
    (1)読売新聞2005.08.21朝刊「ポケットに一冊」より抜粋。
    (2)読売新聞2005.08.11夕刊より抜粋。

(2005.08.31掲載)


★多面体作家

▲凝りに凝った小説手法と変幻自在なストーリーレリングで「小説の魔術師」と呼ばれ、江戸川乱歩に次ぐ探偵小説の大家・久生十蘭。

 

55年6ヶ月と12日の生涯

ルドルフ・ジーゼル
Rudolf Diesel   【ドイツの技術者】

(1858.03.18〜1913.09.30)
謎の失踪---魚座 

  • ドイツの技術者。ディーゼルエンジンの発明者。
  • 「ディーゼルエンジン(Diesel engine)は、ディーゼル機関・ジーゼル機関などともいい、ドイツの技術者ルドルフ・ディーゼルが発明した内燃機関」(1)。
  • 「日本では、ディーゼル燃料がガソリンに比べて安価であることから、主に経済性を優先する商業用の自動車や建設機械に多く使われる。 圧縮して高温になった空気にディーゼル燃料( 軽油 や重油)を吹き込んだ時に起きる、自己着火をもとにした爆発でピストンを押し出す(拡散燃焼)。軽油や重油の沸点は ガソリン よりはるかに高い(200℃以上)ため、引火などの危険が少なく、オットー式のようなプレイグニッション、ノッキングなどの危険が無いことから圧縮比を高くでき、また作動ガスの比熱比が高いため熱効率が高い。したがって、 ガソリンエンジン に比べて同じ仕事に対する 二酸化炭素 の排出量が少ないという利点がある。これはヨーロッパでディーゼルエンジン評価される一因でもある。 しかしその一方で常に ディーゼルノック (高セタン価燃料、高圧噴射である程度抑制可能)が発生しているため 騒音 ・ 振動 が大きくなりがちである。このディーゼルノックによる破壊を避けるため、また高い圧縮比を得るため、機関自体に剛性が必要であり、重量も大きくなりやすい。また拡散燃焼の機構上、混合気が均一にならないため、 黒煙 ・ HC ・ 窒素酸化物 (NOx)が大量に発生しやすい。NOxと黒煙は二律背反の関係にあり、同時低減は極めて難しい。ディーゼル燃料に残留する硫黄に由来する 硫黄酸化物 も排気ガス中に含まれる。ディーゼルの排気ガスに有効に作用する触媒の実用化が ヨーロッパ に比べてかなり遅れていたことなどにより 大気汚染 の原因のひとつとして問題視されていた。 近年の環境志向の高まりに伴って石油会社によるディーゼル燃料中の硫黄分の低減化や、ディーゼル用の触媒の実用化、高圧噴射、最大燃焼圧の増加、電子制御化、電動モータとのハイブリッド化などによってこれらの煤煙、有害ガスは軽減されている。またアクティブエンジンマウントなどの機構でボデーに伝わる振動の軽減も進んでいる」(2)。
  • ルドルフ・ジーゼルのプロフィールを調べましたが、ボクの力量ではたどり着けませんでした。ごめんなさい。ご存知の方がいらしたら御一報をお願いします。
  • 「たまさんルドルフ・ジーゼルをありがとうございました。生年月日:1858年3月18日/没年月日:1913年9月30日、死因は謎の失踪です。フェリーでイギリス海峡を渡る際にいなくなったそうで、今も謎のままです」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (2)「ディーゼルエンジン」ja.freeglossary.com/
    (3)投稿者:ユリウスさん 2005.11.30(Wed) 09:35[771]

(2005.11.30更新)



 
▲ディーゼルエンジンの発明者・ルドルフ・ジーゼル。


◆「ディーゼルエンジンはいかにして生みだされたか」(山海堂)
著者:ルドルフ・ディーゼル/訳・解説:山岡茂樹

 

55年6ヶ月と12日の生涯

萩原朔太郎
Sakutarou Hagiwara   【口語自由詩の確立者】

(1886.10.31/11.01?〜1942.05.11)
肺炎---蠍座


  • 群馬県前橋市出身。詩人。実家は市内の開業医。六高中退後、1916年室生犀星と詩誌『感情』を創刊、反自然主義の立場から新しい抒情性を追究。
  • 大正6年に発表した『月に吠える』が詩壇の絶大な評価を受け、一躍詩壇の大御所の仲間入りを果たす。続く『青猫』『純情小曲集』、また漢語調を多用して詩風を一変させた『氷島』などの詩集によって近代抒情詩を一つの極点に導いた。
  • 現在では高村光太郎と共に 「口語自由詩の確立者」という形での評価が多いが、これは、第二詩集『青猫』(大正12・1923年)に象徴されるような幻想的な詩風による所が大きい。
  • 「口語自由詩」とは文字通り「口語」で書かれた「自由律詩(五・七・五のような定型を持たない詩)」の事で、明治40年に川路柳虹が出した『塵溜(はきだめ)』以降試作されるようになるが、 「詩」としての決定的な評価を持つものは朔太郎まで現れなかった。
  • 『青猫』発表後は詩論に力を入れ始めるとともに文語評価の言及が増え始め、初期文語詩をまとめた『純情小曲集』を大正14年に刊行。 そして昭和初期のモダニズム詩流行を横目で見ながら昭和9年に文語詩集『氷島』を発表。 しかしこの詩集は朔太郎の弟子を自認する三好達治によって酷評され、朔太郎自身もこれを口語詩からの「退却(レトリート)」と認めるに至る。 近代詩激動の時代に生き、詩壇の中心に立ちながら自らも口語詩と文語詩の間で揺らいだその姿が、現代詩史に重要な存在として刻まれる。
  • ほかにアフォリズム集『虚妄の正義』や詩的短編『猫町』、評論『詩の原理』『郷愁の詩人与謝蕪村』などがあり、晩年には伝統文化への関心を深め、『日本への回帰』などを書いた。
  • 「1926年(40歳)11月、「馬込文士村」と呼ばれた馬込め村に引っ越し、3年間を過ごす。隣接する山王、新井宿などを含めた一帯は、明治末期から昭和20年頃まで、尾崎志郎(1898〜1964)ら多くの小説家や詩人、画家が住んでいた。室生犀星(1889〜1962)や朔太郎を師と仰いだ三好達治(1900〜1964)らが毎日のように萩原家を訪れた。朔太郎たちは互いの家を行き来し、酒を飲んで芸術論を戦わせ、マージャンで遊び、ダンスをした。すでに詩集「月に吠える」などで評価を得ていた朔太郎は、この時期にそれまでの詩論をまとめた「詩の原理」を完成させた。住民たちで異彩を放っていたのは宇野千代(1897〜1996)だった。最新の流行の服を着た“モダンガール”で、日本髪が主流で、ようやく「洋髪」が出始めた頃に、ばっさりと短く切る「断髪」を始めた」(1)。
  • 「妻と別れて東京馬込村(現大田区南馬込)を離れ、二人の子供とともに故郷の前橋市へ向かう心情を、こう描いた。〈過去は寂寥の谷に連なり/未来は絶望の岸に向かへり〉闇を走る夜汽車のように、不安な道を走っていく。「本当は夜汽車ではなく昼間だったんですよ」」(2)。
  • 「萩原朔太郎の『望郷の詩人 与謝野蕪村』は、「子規以来単なる写実主義といふことで定評づけられ、一つもその真の詩的精神-俳句のエスプリする哲学原理-を批判されていない。」のを嘆いて、俳人蕪村の叙情的である俳句について「新鮮な、浪漫的な、多少西洋の詩とも共通するところの、特殊なみずみずしい精神」を浮き彫りにした」---朔太郎のいう望郷の意味は「魂の家郷」でありそこが蕪村と共通するのだった」(4)。
  • 〈こころは二人の旅人〉(「こころ」):萩原朔太郎は前衛的な詩風をもって詩壇に登場し、近代人の不安を多彩に描いたが、戦争が激化すると、ぷつりと詩作を断ち、散文しか残さなくなる。---彼にもはっきりわかっていたことは、心とはわが身に寄り添うもので、身と心の二人の旅人が人生を歩んでいくのだということだった」(5)。
  • 朔太郎は荻原だったのか、萩原だったのか未だによくわかんなくなる。
  • 『月に吠える』(萩原朔太郎) 
    「月は吠えるためにあるんじゃ」(玉野安実)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.12.27朝刊より抜粋。
    (2)朔太郎の子萩原葉子さん。
    (3)投稿者:ユリウスさん2006.05.03(Wed) 09:47[1443]
    (4)読売新聞2007.01.19朝刊より抜粋。
    (5)読売新聞2007.02.13夕刊「言葉を生きる」(中西進)より抜粋。
    (6)読売新聞2007.09.28朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2008.04.27更新)


★『月に吠える』で知られる詩人

▲反自然主義の立場から新しい抒情性を追究し、『月に吠える』で知られる詩人 ・萩原朔太郎。

朔太郎語録

◆「妻たちは決してその良人のためには化粧しない」    

◆「羞恥心は塩のようなものである。それは微妙な問題に味をつけ、情趣をひとしお深くする」

 

◆「萩原朔太郎の辞世をお供えします。
〈はかなしや病ひいえざる枕べに7日咲きたる白百合の花〉」(3)。

◆「〈郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はす…〉。萩原朔太郎の詩「郵便局」にある」(6)。

55年6ヶ月と22日の生涯

花登 筐
Kobako Hanato 【「細うで繁盛記」の生みの親】

(1928.03.12〜1983.10.04)
肺ガン---魚座

  • 劇作家・脚本家・演出家。本名:花登善之助(旧姓川崎)。大津市上北国町(長等一丁目)に生まれ。
  • 同志社大学卒業後、船場商社に入社するが病のため退社。民放開始とともにその才能を見出され、喜劇の道を歩む。
  • 昭和23年(1948年)、大津で自立劇団人間座の結成に参加、後に文芸座を創立するなど演劇活動に取り組む。
  • 昭和33年「やりくりアパート」(朝日放送)の脚本・演出でテレビデビュー、以後「番頭はんと丁稚どん」(朝日放送)、「細うで繁盛記」(読売テレビ)、「どてらい男」などで一世を風靡。
  • 劇団「笑いの王国」「喜劇」を主宰、昭和43年「飛騨古系」で芸術祭文部大臣賞、同57年、第一回滋賀県ブルーレイク賞を受賞。
  • その他舞台の脚本を担当。生涯の舞台脚本数500本、テレビ脚本6,000本に及んだ。女優、星由里子と結婚。
  • ちなみに超カルト野球アニメ「アパッチ野球軍」の原作者でもある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.09.21更新)





▲「細うで繁盛記」で一世を風靡した花登筐。

 

◆「銭の花は清らかに白い だがその匂いは汗の臭いがする」
(細腕繁盛記)

◆「泣くは人生、笑うは修業、勝つは根性」が人生訓。

55年6ヶ月と23日の生涯

グスタフ・クリムト
Gustav Klimt   【官能と恍惚の画家】

(1862.07.14〜1918.02.06)
スペイン風邪(梅毒?)---蟹座

  • オーストリアの画家。ウィーン生れ。
  • 1897年ウィーン・ゼツェッシオンを結成、オーストリアのユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)の中心的存在となる。装飾的・官能的な女性像を多く残す。
  • 金箔を用いた『接吻』(45〜46歳)をはじめとする諸作品には、世紀末ウィーンの甘美な雰囲気と崩壊の予感が濃厚にたちこめている。
  • 「母親や妹と暮らしたクリムトは独身だった。しかし、ウィーンで高級モードサロンを経営するエミーリエ・フレーゲと長く愛人関係にあったほか、女性の出入りが激しく、モデルを含めて何人もの女性がいたらしい。クリムトが死ぬと14人の子どもが名乗り出て、4人が実子として認知されている」(1)。
  • 「クリムトの女性像は多いに矛盾し、混乱しています。一方で男に仕え、妊娠し、子供を生み、老いる受け身の女性がいる。他方でマーラーの妻のアルマ・マーラーやエミーレ・フレーゲのように、社会に進出し男を虜にする力強い女性たちがいる。クリムトは生の深淵や生殖の神秘におそれを感じる一方で、新しく台頭してきた知的な女性をあがめ、支援した数少ない男性でした。こうしたアンビバレンス(両面価値)でマゾヒスティックな感情が表れている」(2)。
  • 「当時自由な文化都市ウィーンに魅せられ、多くの芸術家や学者が集まった。画家のオスカー・ココシュカエゴン・シーレ、作曲家のグスタフ・マーラー、批評家のカール・クラウス、建築家のヨーゼフ・ホフマン、精神医学のジグムント・フロイトなどだ」(3)。
  • 「クリムトの代表作「アデーレ・ブロッホバウアーの肖像」が、絵のモデルの親類で、米カリフォルニア州に住むマリア・アルトマンさん(89)に変換されることになった」(4)。
  • 「私の自画像はない。絵の対象としては自分自身に興味がない。むしろ他人、特に女性、そして他の色々な現象に興味が有るのだ」(クリムト)。
  • 「19世紀末ウィーン。時代に嫉妬された一人の天才画家がいた。---保守的なウィーンでタブーとされた裸の女性を描き続けたクリムト。彼自身もスキャンダラスな生活を送っていた。現実とも夢想ともつかない半生が、きらびやかな映像とともに描き出される」(5)。
  • 「狂気は彼だったのか?はたまた時代か?あらゆることは表裏一体。ふとそんなことを考えさせられた映画でした」(6)。
  • エゴンシーレの才能を見いだした最初のパトロンでもある。そのシーレも同じ年の10月31日に逝っている。
  • 昨日(2006.11.24)渋谷のル・シネマで映画「クリムト」を観た。映画としてはそれなりに良かったのだが、エゴン・シーレ役がクリ−ムシチューの有田みたいな役者で、いけてなかったのが大いに残念。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(3)日経新聞2004.06.20朝刊「美の美」(蒲田憲治)より抜粋。
    (2)アルベルティーナ美術館学芸員アントニア・ヘルシェマン博士。
    (4)読売新聞2006.01.18朝刊より抜粋。
    (5)映画「クリムト」の新聞広告より。
    (6)映画「クリムト」の新聞広告より(八代亜紀)。

     
    ▲「接吻」



    ▲アデーレ・ブロッホバウアーの肖像』

     
(2006.11.25更新)






▲19世紀末を象徴する画家・グスタフ・クリムト。


▲『パラス・アテーネ』。


▲「ダナエ」1907-08
黄金の雨に姿を変えたゼウスは幽閉されたダナエを訪れる。
身をふるわせるエクスタシーを優美に表現した作品である。
ゆたかな顔の表情は、数多くの女性像の中でも絶妙にして秀逸。
個人的に大好きな絵のひとつ。


▲映画「クリムト」


「公園」


55年7ヶ月ジャストの生涯

ヘンリー8世
Henry VIII,   【16世紀の英国王】

(1491.06..28〜1547.01.28)
ロンドンで心臓麻痺のため死亡---蟹座

  • テューダー朝のイングランド王(在位 1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位、1542年 - 1547年1月28日、自称)。
  • ヘンリー7世とエリザベスの間の第二子で、長子アーサーの死(1502)により王位継承者となる。即位後,アーサー未亡人キャサリン=オブ=アラゴンと結婚するが、その後離婚・再婚を繰り返し結婚はつごう6回を数えた。 キャサリン・アン=ブーリン・ジェイン=シーモア・アン=オブ=クレーヴス,キャサリン=ハワード、最後はキャサリン=パーである。このうち、キャサリン=オブ=アラゴンとの離婚は宗教改革の導火線となる。
  • ヘンリー8世はルターの宗教改革を批判する「七秘蹟の擁護」を著した功で、教皇レオ10世から「信仰の擁護者(Defender of Faith)」の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であったが、後にキャサリン王妃との離婚および、アン・ブーリンとの再婚を巡る問題から教皇クレメンス7世と対立。1534年には国王至上法(首長令)を発布し、自らをイギリス国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した。
  • 妃やトマス・モアをはじめとする側近を次々と離別・処刑し、カトリック修道院の財産を没収するなど苛烈な人物で、イギリス王室の権威確立に寄与した。
  • シェイクスピアの史劇の主人公として取り上げられているほか、音楽にも造詣が深く、ヘンリー8世作曲とされる楽譜(合唱曲『Pastime with Good Company』など)が現存しているなど、文化史にもその名をのこしている。
  • 16世紀の英国王ヘンリー8世は離婚問題から発展して宗教改革を断行、絶対君主制を確立した。今では考えられない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    ヘンリー8世

(2005.12.17更新)




▲離婚問題から発展して宗教改革を断行、絶対君主制を確立したヘンリー8世。

55年7ヶ月と3日の生涯

フェノロサ
Ernest Francisco Fenollosa  【米国の東洋美術史家】

(1853.02.18〜1908.09.21)
ロンドンで心臓麻痺のため死亡---水瓶座

  • 米国の東洋美術史家、哲学者。ハーバード大学卒。
  • 1878年(25歳)来日して東大で哲学、経済学を講じたが、かたわら日本美術に興味をもち、日本画の復興を提唱。
  • 1884年(31歳)美術団体「鑑画会」を設立、独自の日本美術観を樹立して狩野芳崖、橋本雅邦らに影響を与えた。
  • 東京美術学校設立後は美術史教授として岡倉天心とともに新日本美術運動の中心となり、1890年帰米後もボストン美術館東洋美術部主管として日本美術の紹介に尽力。
  • 1896年ふたたび来日。主著『東亜美術史綱』。
  • 「フェノロサは、ロンドンで心臓麻痺のため死亡しました。因みに戒名は「玄智院明徹諦信居士」だそうです」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者石畑さん 2005.01.11

(2005.01.11更新)




▲日本美術の紹介に尽力した米国の東洋美術史家、哲学者・フェノロサ。


▲メアリー夫人

55年7ヶ月と3日の生涯

クロード・ドビュッシー
Achille-Claude Debussy  【近代仏音楽の雄】

(1862.08.22〜1918.03.25)
直腸癌のため死去---獅子座

  • パリ近郊のサン・ジェルマン・アン・レーに生まれる。
  • ヴェルレーヌの義母モテ夫人にその天分を見出され、10歳でパリ音楽院に入学、22歳、にカンタータ『放蕩息子』でローマ大賞を得て卒業。
  • R.ワーグナーに傾倒し、象徴主義の詩人たちと交わり、ことにマラルメの〈火曜会〉に影響を受けた。
  • やがてワーグナーの美学への疑念を深める中、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』を知り、27歳でのパリ万国博覧会でガムラン音楽(ガムラン)を聴き、決定的な影響を受ける。
  • マラルメの詩による管弦楽曲『牧神の午後への前奏曲』(30〜32歳)で作風を確立し、続けてメーテルリンクの戯曲によるオペラ『ペレアスとメリザンド』(31〜40歳)を完成。
  • 伝統的な和声理論にとらわれない独自の手法で音の色彩を追究、20世紀を先導する作曲家となった。その音楽は作曲家の本意とは別に、絵画史上の概念から借りた印象主義の名で呼ばれることになる。
  • 1918年3月25日、直腸癌のため死去。3日後、ペール・ラシェーズに埋葬される(のちパッシー墓地へ移葬)。翌1919年に、クロード=エマも死去し、ドビュッシーの血筋は絶える。
  • 彼は交響詩「海」の構想に、自信所蔵していた北斎の「富嶽三十六景神奈川波裏」からインスピレーションを得たといわれる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    クロード・ドビュッシー(1862-1918)

(2009.05.23更新)



▲近代フランス音楽の雄とされる作曲家・クロード・ドビュッシー。
(イラスト 玉野安実嬢)

◆「音楽は本質的に、窮屈で伝統的な形式には収まらぬものだという事を、私は、ますます以て確信している。音楽は、色彩と律動づけられた時の流れによって構成されるのだ。」

55年7ヶ月と3日の生涯

ビル・ヘイリー
Bill Haley     【ロックン・ロールの出発点】

(1925.07.06〜1981.02.09)
心臓麻痺---蟹座

  • ビル・ヘイリーこと、ウイリアム・ジョン・クリフトン・ヘイリーはミシガン州ハイランドパークに生まれる。17歳の頃からヨーデル歌手として活動するようになり、ヒルビリーやカントリー&ウエスタンのバンドで歌い旅回りをし始める。
  • 1948年には自らのバンドを結成し、ペンシルヴァニア州のチェスターでラジオのDJとしても活躍。いろいろなジャンルの音楽を聴きながら、しだいに黒人たちの間でブームになっていたR&Bの影響を受ける。
  • もともと彼のバンドは、フォー・エイセズ・オブ・ウエスタン・スウィングという名で活動するカントリー系のバンド。その名をビル・ヘイリーと彼のコメッツと改め、本格的にロックン・ロール・バンドとして活動。その最初のヒットが「クレイジー・マン・クレイジー」で、この曲はロックン・ロール・ナンバーとして初めて全米チャートの15位まで上昇。
  • その後も、ジョー・ターナーの元祖R&Bナンバーとも言われる曲「シェイク・ラトル・アンド・ロール」をカバーヒットさせるなど、着実に人気を獲得。そんな中、1955年5月映画「暴力教室 Blackboad Jungle」が公開。監督&脚本はリチャード・ブルックス。この作品は教師と不良学生が対決する学園ドラマの原点であると同時にロック・ナンバーをテーマに用いた最初の映画。
  • 実は「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、シングルのB面として1954年すでに発表されていたが、まったくヒットせづに終る。しかし、この映画のテーマ曲として使われ再発されたとたん、この曲は大ヒットを記録。
  • 「ロック・アラウンド・ザ・クロック」にとって、映画「暴力教室」は、長尺のミュージック・ビデオの役割を果たし、それ自体が「ロックン・ロール」という音楽自体のイメージ・ビデオとなって社会全体に強烈なインパクトを与えた。
  • さらにこの年には、エリア・カザンの名作「エデンの東」と「理由なき反抗」が公開され、翌年、遺作となった「ジャイアンツ」を残してこの世を去ることになる永遠の青春スター、ジェームス・ディーンが登場。
  • そして真打ちエルヴィス・プレスリーが登場。彼は歌だけではなくダンス・パフォーマンスや生き方も含めて、すべての面で黒人音楽を自分のものにし、白人青年の新しい文化を見事に体現する存在として活躍。
  • 卵形の頭のおでこにキューピーちゃんのような前髪、ちょっとダサいチェックのスーツに、早くも中年ぶとり気味のお腹。この曲を発表したとき、すでに彼は32歳。そんな彼に若者たちの反乱のイメージを抱くことは難しかった。
  • その後、1970年代にジョージ・ルーカスの映画「アメリカン・グラフィッティ」が大ヒットすると、再び「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はリバイバル・ヒット。こうして、10年に一度ぐらいの割合で、ロックン・ロールのリバイバルが起きるたびに、この曲は甦り続けている。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、いつまでもビル・ヘイリーの名前とともに残るの
  • 「ロックン・ロールの始まりは、ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」からといわれています。1954年に発売され、翌年の映画「暴力教室」の主題歌に使われてから空前のヒットとなったこの曲は、以後10年間で2,200万枚の売り上げを記録しました。曲の内容は、時計(クロック)の12時間を「ロック」との語呂合わせで歌った他愛のないものでしたが、校内暴力をテーマにした映画「暴力教室」の衝撃もあり、ティーンエイジャーの反逆を表現した新しい音楽として受け取られたのでした。 この曲の大ヒットによって、翌56年にはロックン・ロールをテーマにした映画が作られ、ヘイリー自身も出演。「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「シー・ユー・レイター・アリゲイター」などのヒット曲も生まれますが、2年ほどで彼らの名前はヒットチャートから姿を消してしまいます。ベビーフェイスでお腹のでた、人の良さそうな風貌のヘイリーは、ロック・スターとしてはたぶん刺激不足だったのでしょう。しかし彼はその後もステージに立ち続け、これらの曲を同じスタイルで歌い続けました。ロックン・ロールという新しい音楽の創始者としての誇りが、彼を支えていたのでしょうか」(1)。
  • 「ところで、ロックンロールは懐かしいです。確か高校一年のときに「暴力教室」を封切館で見ました。その少し前からロックは聴いていたと思います。映画評論家が「アメリカで起こっていることは10年後に日本でも起こる」といいました。小生は「まさか」と思っていましたが、10年後、日本でも教室が荒れてきました。こんなものまでアメリカの後を追うのがどうしても分かりませんでした。文明の進歩が引き起こす歪みなのでしょうか?」(2)。
  • かつて「悪魔の音楽」と嫌われていたロックというジャンルを築き上げた彼の功績は21世紀の今も変容を遂げながら50年の歴史を刻み続けている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    - ロックン・ロールの先駆けとなったおじさん -
    (1)「おんがく日めくり
    (2)投稿者:ユリウスさん 2005.05.20(Fri)

(2005.05.20更新)




▲ロックンロールの先駆者、"ロックンロールの父"にして、1曲だけで音楽史に名を残したロッカー、ビル・ヘイリー。

 


55年7ヶ月24日の生涯

いわさきちひろ
Thihiro Iwasaki   【絵本作家、画家】

(1918.12.15〜1974.08.08)
原発性肝ガン---射手座

  • 福井県武生市で生まれ、翌年東京に移る。
  • 12歳、東京府立第六高等女学校(現・都立三田高校)に入学。14歳、 岡田三郎助に師事、デッサン・油絵の勉強を始める。17歳、第六高女を卒業。朱葉会女子洋画展に入選 、2.26事件。
  • 18歳、小田周洋に師事、藤原行成流の書を習い始める。 日中全面戦争開始、20歳婿養子を迎え結婚、満州へ渡る。第二次世界大戦勃発、21歳で夫の自殺により帰国。23歳、中谷泰に師事、再び油絵を描き始める。25歳4月、満州勃利女子開拓団に同行し満州へ渡る。夏、戦況悪化のため帰国。
  • 26歳5月、空襲で家を焼かれ母の実家(長野県松本市)に疎開。日本降伏・第二次世界大戦終結。27歳、長野県で日本共産党に入党。
  • 春、上京し人民新聞の記者となる。日本共産党宣伝部・芸術学校に入学。 28歳で前衛美術会創立に参加。日本美術会、日本童画会のメンバーになる。
  • 30歳、紙芝居「お母さんの話」を描き、翌年文部大臣賞受賞。31歳、松本善明と結婚。朝鮮戦争勃発。32歳、長男・猛誕生。 33歳、東京・練馬区下石神井に家を建てる(現・ちひろ美術館)
  • 絵本『ひとりでできるよ』を描く。41歳『あいうえおのほん』を描き、翌年サンケイ児童出版文化賞受賞。44歳、雑誌「こどものしあわせ」の表紙を描き始める。 世界婦人会議参加のため、ソビエトを訪問。
  • 45歳、安泰、滝平二郎、箕田源二郎らと「童画ぐるーぷ車」を結成。47歳ヨーロッパを旅行。帰国後アンデルセンの『絵のない絵本』を描く。長野県黒姫にアトリエを兼ねた山荘を建てる
  • 48歳、『わたしがちいさかったときに』を描く。夫・善明が衆議院議員となる。49歳『あめのひのおるすばん』を描き、初めて文章も手がける。
  • 52歳『ことりのくるひ』を描き、翌々年ボローニャ国際児童展グラフィック賞受賞。54歳)『戦火のなかの子どもたち』を描く。
  • 〈柔らかな筆づかいと淡い色彩で、子どもの明るい姿を描き続けた画家いわさきちひろは死の前年、「戦火の中の子どもたち」を出した。ガンと闘いながら制作した絵に託された思い。日常において、怒ることなく、静だった人は、反戦を声高に叫ばなかった。最初の夫を自殺で失い、空襲下を逃げまどった彼女は、「憎悪や欲心からはいいものは生まれない。悲惨なことはどんな場合でも私は好きになれない」と日記に記し、傷つき、死にゆく人間の悲惨さは描かなかった。描いてもボツにした。あの、ちひろの絵に特有な子どものつぶらな瞳が、戦争で、とんがり、うつろになる様を静に表現した〉(1)。
  • 長男の松本猛さんは、幼いころ、女の子の洋服を着せられてモデルになたという。練馬区下石神井に瀟洒ですてきな美術館がある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.03.07朝刊
    「試写室」日曜美術館「いわさきちひろ戦場の少女を見つめて」より抜粋

(2007.12.26更新)




▲『あめの ひの おるばん』『戦火の中の子どもたち』などの絵本作家、童画家、画家・いわさきちひろ。




55年8ヶ月と3日の生涯

ユリウス・カエサル/シーザー
Gaius Julius Caesar  【世界の運命を握った男】

(BC100.07.12〜BC44.03.15)
暗殺---蟹座

  • 古代ローマの将軍、独裁官、政治家。英語読みではシーザー。「ローマの帝政の基礎を築いた人」。
  • 名門の出であったが民衆派(ポプラリス)であったため、閥族派(オプティマテス)首領スラの在世中は不遇。スラ没後政界に入り、財務官、大神官などを歴任。前60年ポンペイウス、クラッススと結んで第1回三頭政治を始め、前59年コンスルとなり、国有地分配法を成立させた。
  • 前58年―前51年ガリア地方を平定し,再度ブリタニアに渡海遠征した。前49年ポンペイウス,元老院保守派による軍指揮権取上げに反対し、ルビコン川を渡ってローマに入り、反対派を倒す。 以後ポンペイウスを追ってエジプトに進攻、前47年クレオパトラを王位につけ、小アジア、イベリア半島の反乱を鎮圧、独裁的権限をふるった。
  • 「ローマ」といえば「皇帝」というイメージだが、カエサルの時代のローマは、元老院主導の共和政だった。国が小さいうちはこれでうまくいっていたが、ローマが次々と他国を征服し、領土が拡大するにつれ、現状に合わなくなる。そこでカエサルは、権力が一人の人物に集中するように政治改革を行う。前44年終身ディクタトルとなり、救貧・植民などの社会改革、ユリウス暦制定などに貢献。
  • 誕生月である7月の呼び名を自らの名前「ユリウス」に改めた。7月の英語名「ジュライ」はこれに由来する。カエサルに後継者アウグストゥスも8月を自分の名前に改めた。英語の「オーがスト」である。そして2月から1日切り取って8月を「大の月」に変えている。
  • しかし改革を完成する前の前44年、カエサルは、ポンペイウス回廊でカシウス、マルクス・ブルートゥス、カッシウスら熱烈な共和主義者たちによって暗殺される。
  • カエサルの改革は彼の養子オクタヴィアヌスによって確立され、オクタヴィアヌスは初代皇帝アウグストゥスとなる。その後の皇帝たちはカエサルを神として崇め、祭っている。
  • 人間としてのカエサルは、名門貴族の生まれであったばかりでなく、知性、判断力、忍耐力にも優れ、人間的な魅力のあふれる人だった。彼の魅力にひかれ、兵士たちは喜んで彼に従ったという。まさに指導者たる素質をすべて持っていたといえる。
  • カエサルはまた、「禿げの女たらし」のあだ名どおり、たくさんの愛人がいた。中でもプトレマイオス朝エジプトの女王、クレオパトラ7世が特に有名。2人の間には、カエサリオン(プトレマイオス=カエサル、のちプトレマイオス15世)という息子が生まれる。
  • カエサルは文化人としても有名で、彼の著作には、ガリア(現フランス)遠征の様子を描いた『ガリア戦記』と、ポンペイウスとの戦争の経過を記した『内乱記』などの史書を残す。どちらも今日まで読まれており、ローマ時代の文章の傑作に数えられる。
  • 「若き日のカエサルは「千三百タレント」の借金があったという。兵士10万人を1年間、雇える額である。大半は書籍と愛人への贈り物に消えたらしい。借金も巨額になれば借り手の悩みに種ではなく、貸し手の悩みの種になる。カエサルが平然としていられたのは、貸し借りの心理を見抜いていたからだろう」(1)。
  • 「「三月十五日に御用心を」「なに奴(やつ)だ、あれは?」「占い者が三月十五日に御用心をと申しております」「連れてまいれ、これへ……」。シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』(岩波文庫・中野好夫訳)の一場面だ。古代ローマの独裁者シーザーは、紀元前44年の3月15日に、元老院の議場で暗殺された」(2)。
  • 「カエサルは40代後半から生え際の後退が著しく、禿を隠すのに苦労するほどの美男ではなかったにもかかわらずモテた。塩野さんの『ローマ人の物語』の分析によると
    1-莫大な借金を抱えるくらいお金を使い、愛する女性たちを豪華な贈り物攻めにした。
    2-愛人の存在を誰にも隠さなかった。それによってスキャンダルになることはなかった。
    3-カエサルは女たちとの誰とも手を切らなかった。それゆえに恨まれなかった。
    ---潮野さんは断言します。「女は無視されるのが一番何よりも傷つく」「女と大衆はまったく同じだ。人間の心理をどう洞察するかは、性別も数も関係ないからである」(3)。
  • 「軍人にして天才政治家ユリウス・カエサル。素朴な共和国家を世界帝国にジャンプアップさせた頭脳と行動!!」(4)。
  • 「すべての道はローマに通じるが、すべての金はローンにまわる」(詠ミ人知ラズ)。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  「イタリア旅行(9) シーザーの址
  (1)新潮社「ローマ人の物語IV」塩野七生。
  (2)朝日新聞2006.03.15朝刊「天声人語」より抜粋。
  (3)読売新聞2006.11.11朝刊「五郎ワールド」より抜粋・      リライト。
  (4)「マンガローマ帝国の歴史 前3巻」の新聞広告より抜粋。

(2007.04.01更新)







▲ローマの帝政の基礎を築いた政治家・ユリウス・カエサル/シーザー。

55年8ヶ月と14日の生涯

大浦 慶
Kei Ooura    【日本茶輸出貿易の先駆者】

(1828.07.30〜1884.04.13=文政11年6月19日〜明治17年4月13日)
死因? 獅子座

  • 文政11年(1828年)に油商の大浦太平次、佐恵の娘として生まれる。後に、賀古市郎右衛門の次男、大五郎(1818年 - 1837年)が婿養子として大浦家に入る。しかし、慶が9歳のときに死ぬ。
  • 大五郎の死後、幕末の動乱の中で変わり、財政的にもたなくなってきた。それに追い打ちをかけるように、天保14年(1843年)10月24日の夜に出来鍛冶屋町より出火した火は、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生した。大浦家は、この大火で大損害を受けた。この時、慶は16歳。慶は大浦家再興に尽くそうとした。
  • 翌年、蘭学を学びに長崎にきていた天草の庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日に追い出した。以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなる。
  • 嘉永6年(1853年)に通詞品川藤十郎と協力し、出島のテキストルというオランダ人に嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの三ヶ国へ茶を三階級にわけて、それぞれ、3斤ずつで計9斤なのを9袋にわけ、3袋にして送ってもらった。そして、同年9月にテキストルが出島から出港した。
  • その約3年後の安政3年(1856年)8月にイギリスの商人、W・J・オールトが来航。そこで、テキストルに託した茶の見本を見せ、巨額の注文をした。嬉野茶だけでは足りず、九州一円の茶の産地を巡り、やっとのことで、1万斤を集め、アメリカに輸出された。これが日本茶輸出貿易の先駆けとなった。1861年に南北戦争が勃発し、一時的に輸出は停滞するが、1865年に終結した途端、爆発的に増え、翌年には長崎からの輸出はピークに達した。安政から慶応にかけての約10年間は大浦家の全盛期であった。
  • 日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬大隈重信松方正義陸奥宗光らと親交があったとされる。
  • しかし、1860年代が終わろうとすると、輸出に陰りが見えはじめる。九州より大きい茶の産地である。静岡からの茶の輸出が増えていき、慶は違う商品も貿易を考えていた。
  • 明治4年(1871年)6月そこへ、熊本藩士の遠山一也が現れる。遠山は品川藤十郎の通詞で慶にイギリスの商人、オールト商会との熊本産煙草15万斤の売買契約したとのことで、慶に保証人になってほしいと頼まれたが、熊本藩から派遣されたと装い、勝手に同藩の福田屋喜五郎の名を使い、連署人として偽の印を押した証書を見せた。品川もやたらと連判することを慶勧めた。保証人を引き受けたが、それが命運のつきとなった。遠山に手付金3000両を差し出した。しかし、期限の9月になっても煙草を全く送ってこない。そして、オールト商会から手付金を返すように求められ、熊本藩と交渉し、遠山家の家禄5ヵ年分に相当する、約352両の支払いを受けたが、オールト商会に納めることしかできなかった。実は遠山は輸入反物で失敗し、借金を返済するために慶を騙したのであった。これが、後にいう遠山事件だった。
  • 明治5年(1872年)1月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶自身も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが慶は連判したということで、1500両ほどの賠償金の支払いをすることとなる。負債の3000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになった。これにより、大浦家は没落し、慶の信用も地に落ちた。家財も差し押さえられ、取り立てが毎日、慶の家にきていたという。
  • 明治12年(1879年)6月にユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は国賓として、各県令らと共に慶が艦上に上った。その時、艦上にいた国賓で女性は慶だけであった。
  • 明治17年(1884年)当時、県令であった石田英吉が当時農商務省の農商務権大書記官であった岩山敬義に慶が既に危篤状態であるため、生きているうちに賞をあげてほしいと要請したところ、4月5日に受賞の知らせを西郷従道から電報でえられ、翌日に石田の使者が慶の家に出向いて受賞をしらせた。明治政府は慶に対し、日本茶輸出貿易の先駆者としての功績を認め、茶業振興功労褒賞と金20円を贈った。
  • その1週間後、慶は57歳(数え)で生涯をとじたのであった。慶は死ぬまでに借金を完済していたとされる。
  • 墓所は長崎市高平町曇華院跡大浦家墓地。
  • 演じた人物
    竹下景子(『野望の国』・1889年 - 1990年・日本テレビ)
    松たか子(『龍馬がゆく』2004年1月2日 テレビ東京の新春ワイド時代劇枠)
  • 「先ずは3,900人目の達成、お目出度う御座います。昨年の秋には此の様な記事が話題に成りましたが、実際に志士達を支援して居たのかどうかは定かでは無い様です。こちら 余談乍ら巷の噂では、慶役を努めるのは主役と同じ事務所の所属で、大分県出身の某女優では無いかと言われて居りますが、果たして如何相成りますでしょうか」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    大浦慶-Wikipedia
    大浦慶 - 「ナガジン」発見!長崎の歩き方
    (1)投稿者:Thori_Tung さん..2010/ 1/ 8 06:37:38(金) [6962]

(2010.01.09更新)



▲日本茶輸出貿易の先駆者として知られる大浦 慶。

55年9ヶ月と6日の生涯

生原昭宏
Akihiro Ikuhara    【通称「アイク生原」】

(1937.01.20〜1992.10.26)
胃癌 ---山羊座

  • 日米間の野球交流の発展に尽力した人物。右投左打、ポジションは捕手。
  • 福岡県出身。早稲田大学を経て、亜細亜大学野球部の監督を務める。1965年、ロサンゼルス・ドジャースのオーナーであったウォルター・オマリー氏と親交のあった鈴木惣太郎の紹介により渡米。
  • ドジャース傘下のマイナーチームの用具係からたたき上げでドジャースの職員となり、いつしか苗字か名前か不明であるが冒頭の部分をとってアイクの愛称で呼ばれる(よって日本の文献でも「アイク生原」と紹介されることが多い)。日米野球の親善大使を務め、野球の国際化に貢献するなど、日米野球界の掛け橋として尽力。
  • その後ウォルターの息子であるピーター・オマリーがオーナーに就任すると、生原は1982年からドジャース球団のオーナー補佐兼国際担当として、巨人や中日のベロビーチキャンプ実現の便宜を図ったり、日本のプロ球団から送られてくる野球留学生の面倒を見るなど、アメリカにおける日本人選手の父親的存在として知られていた。日米大学野球選手権の開催などプロ、アマを問わず幅広い日米野球交流の中心的役割を果した。
  • 1988年、1A、アメリカベロビーチ・ドジャースに野球留学してきた山本昌広(山本昌)を鍛え、カーブ、スクリューボールを伝授する。
  • 1992年10月26日、胃癌の為逝去。オマリー家の墓の隣にて眠っている。
  • 2002年、新世紀特別表彰で野球殿堂入り。
  • ---それを如実に表すエピソードとして、1992年に生原が亡くなった際に日本で行われた葬儀に参列した山本昌(中日)は棺の前で泣き崩れ、同じく野球留学で生原の世話になった長嶋一茂(ヤクルト、巨人)らに脇を抱えられなければ立ち上がれないほどだったという(山本曰く、「他の留学生と違い、自分は入団5年目でロサンゼルスに送られ、後がない状態だったのに、アイクさんが試合でリラックスするコツや、チェンジアップやスクリューを投げるタイミングを教えてくれたおかげで、自分は日本に戻って自信をもってプレーすることができたから、アイクさんから離れたくない思いが強かった」)。現在ドジャースはオマリー家の家族経営から離れてしまったが、生原はロサンゼルス郊外にあるオマリー家代々の墓の隣にある墓で眠っている。日米の野球交流に多大な貢献をした功績が認められ、2002年、特別表彰にて野球殿堂入りした。
  • 「昨日(2006.09.16)、中日ドラゴンズの山本昌投手が対阪神タイガース戦(@ナゴヤドーム)で史上最年長のノーヒットノーランを達成しましたが、彼が18年前に米メジャー1Aに野球留学に行った際に面倒を見てくれた人が「アイク生原」こと生原昭宏ですので、リクエストをお願いいたします」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    生原昭宏とは - はてなダイアリー
    生原昭宏-Wikipedia
    (1)投稿者:MA-CHAさん 2006/ 9/17 04:08:09(日) [260]

(2006.09.18掲載)




▲MLB、ロサンゼルス・ドジャース球団職員で、アマチュア野球選手・指導者、生原昭宏。

55年9ヶ月と8日の生涯

真部 一男
Kazuo Manabe     【将棋界のプリンス】

(1952.02.16~ 2007.11.24)
転移性肝腫瘍---水瓶座

  • 将棋棋士。棋士番号111。東京都荒川区出身。加藤治郎門下。
  • 1981〜83年に日本将棋連盟理事を務める。若手時代は1950年代生まれの棋士の代表格として期待され、当時の名人だった中原誠に対する対戦成績の良さから「将来の名人候補」との評判も勝ち得た。
  • 若き日には端麗な容姿も手伝って「将棋界のプリンス」と呼ばれ、時代劇に幕末の名棋士天野宗歩役でテレビ出演するなどマスコミにもしばしば取り挙げられた。また、将棋界有数の囲碁の強豪としても有名であった。草柳文恵と結婚するも、のちに離婚。
  • 文筆の分野での活躍も目立ち日本将棋連盟の月刊誌「将棋世界」に「将棋論考」を10年以上連載した。この連載によって1998年度(第10回)将棋ペンクラブ大賞の「一般部門」で大賞を獲得している。連載は第111回と第112回の間、筆者の肺炎・胸膜炎のため、初めて穴が開いてしまった(同じ理由で、棋士になって以来初の不戦敗も記録)。
  • 真部は1日にタバコ(ハイライト)を2箱吸うヘビースモーカーであったが、この病気と喫煙との因果関係を担当医師に指摘された経緯については真部自身が連載再開後に記している。なお、「111」は、奇しくも真部の棋士番号と同じであり、第112回(2006年7月号)の文章の冒頭でも真部がそのことに触れている。
  • 2007年11月1日から2009年3月31日までの1年4カ月間、病気療養のため全棋戦を休場することが日本将棋連盟から公式発表されたが、11月24日、転移性肝腫瘍のため死去、55歳没。
  • 公式戦通算成績は598勝614敗。600勝(将棋栄誉賞)を目前にしての早世だった。弟子に小林宏がいる。
  • 2007年11月24日付で日本将棋連盟より九段が追贈された。
  • 幻の妙手△4二角 【33手目 ▲6七銀引まで】△真部一男八段 持ち駒 角 ▲豊島将之四段 持ち駒 角(右欄)
    2007年10月30日の順位戦C級2組の対局(対豊島将之戦)で、体調が悪化して指し続けることができず、33手で投了したのが最後の対局となった(右図)。真部はこの投了の局面で、妙手「△4二角」を発見していたが、その手を指せば相手が長考に入り次の自分の手番まで体が持たないだろうとして投了したという。その後、真部の通夜が行われた11月27日のC級2組順位戦、村山慈明-大内延介戦で偶然にも同一局面が出現し、後手の大内が34手目にこの手を指した。そして真部の懸念通り、この手を見た村山は110分の長考に入っている。後日、豊島はこの対局について「△4二角は指されたら絶対に長考していた」とコメントしている。
  • 真部の幻の妙手と、大内がそれを再現したことは、棋界で大きな話題となった。翌年3月に行われた将棋大賞の選考では、真部-豊島戦を名局賞に推す声も上がったが、一手の価値を認められて升田幸三賞(新戦法や妙手に与えられる)の特別賞が与えられた。これまで実際に指されなかった手に升田幸三賞が与えられたことはなかったが、構想にあったことは明らかであり、「指したのも同じ」とされた。
  • 奨励会時代から俊英として知られ、山口瞳の「血涙十番勝負」にも「真部一男三段。毎年惜しくも昇段を逃しているが、奨励会実力ナンバーワンは衆目の見る所。それどころか、順調に進めばA級間違い無しの俊秀である」という一節がある。
  • 四段昇段後は毎年惜しいところで順位戦昇級を逃していたが、C級2組3年目となった1975年度には全勝でC級1組昇級、翌年も9勝1敗の好成績でB級2組に昇級する。1979年度の順位戦でB級1組に昇格した後、1987年度には9勝3敗の成績で昇級。晴れてA級八段となる。A級には通算2期在籍。
  • 若手時代は、当時脂の乗りきっていた米長邦雄を得意とし、1982年度の早指し選手権決勝三番勝負では米長をストレートで下すなど、80年代中頃までは米長相手に大きく勝ち越していた。この理由について本人は「奨励会時代から米長から目をかけて貰い、『ぶつかり稽古』と称した練習将棋を多い時は月に百局以上も指すなど、若い頃から米長将棋を吸収できたため」……というようなことを著書で述べている。
  • その一方で森安秀光や谷川浩司といった「神戸組」の棋士を苦手としており、森安には83年から84年にかけて、王座戦の挑戦者決定戦と棋王戦の勝者組決勝という大一番で続けざまに負かされ、谷川相手にも第28期(1987年)の王位戦本戦リーグで谷川以外には全勝したものの、相星決戦となったプレーオフで再び谷川に敗れ、挑戦者決定戦進出を逃している。
  • このエピソードからも分かるように、あと一番というところでなかなか勝てぬ事が災いし、ついにタイトル戦出場は叶わなかった。挑戦者決定戦での敗退3回は、タイトル戦未出場の棋士では小林健二の5回に次いで歴代2位である。
  • 80年代半ばに首が回らなくなるという奇病を患って以来、プロ棋士としての成績はやや低迷したものの、著述・評論の分野で活躍。近著『升田将棋の世界』は第18回・将棋ペンクラブ大賞の著作部門大賞に選ばれている。
  • 晩年、振り駒の公平性(歩の裏表が出る確率は1/2より偏っているのではないか)に疑問を抱いたことから棋士総会で振り駒の統計を取ることを提案。提案は受理され日本将棋連盟は1年間にわたって全公式戦の振り駒結果(表が何枚、裏が何枚)を記録、統計をとることになった。
  • テレビ時代劇 銭形平次
    第521話「平次一番勝負」(1976年)に天野宗歩役でゲスト出演した。
  • 著書 :真部一男の将棋の指し方(1980年7月、日東書院、ISBN 4-528-00482-8)/ぼくらの詰将棋入門(ジュニアライブラリー)(1981年1月、成美堂出版、ISBN 4-415-03916-2)/将棋戦法大事典(共著、1985年12月、大修館書店、ISBN 4-469-01211-4)/新・駒落革命(1994年1月、木本書店、ISBN 4-905689-48-1)/升田将棋の世界(2005年7月、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0230-0)
  • 家族:土佐浩司(将棋棋士) 義弟(妹の夫)
    草柳文恵(キャスター) 元妻
    小沢遼子(評論家・元埼玉県議会議員) 内妻


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    真部一男-Wikipedia

(2009.04.19掲載)



▲若き日には端麗な容姿も手伝って「将棋界のプリンス」と呼ばれ、時代劇に幕末の名棋士天野宗歩役でテレビ出演するなどマスコミにもしばしば取り挙げられた真部 一男。

55年9ヶ月と16日の生涯

宿沢 広朗
Hiroaki Syukusawa     【運を支配した男】

(1950.09.01〜2006.06.17)
登山中に心筋梗塞を発症---乙女座

  • 東京都生まれ。(なお、宿沢の「沢」の文字は、当初「沢」だったが、いつしか「澤」の旧字が使われるようになった。ラグビーでは「沢」、銀行では「澤」が使われていたが、ここでは便宜上「宿沢」とする。)
  • 埼玉県立熊谷高等学校でラグビーを始める。全国高等学校ラグビーフットボール大会(花園)出場歴はなし。
  • 早稲田大学政治経済学部に入学。学業も優秀だった宿沢は、本当は東京大学への進学を考えていたが、当時の東大紛争で入試が中止されたので、やむなく早大へ進学した(宿沢は1950年生まれだが、同年生まれで、東大に現役合格した者はいない)。早大での成績は「優」が20個以上もあったという。
  • 英語も堪能で、ラグビーの海外遠征時には現地で英語でスピーチできるほどの宿澤は、アマチュア・ラグビー界では文武両道の「模範生」と言われた。
  • 1年生からレギュラーに定着。160cmの小兵ながら、卓越したゲームコントロール、機敏なプレー、果敢なタックルで常にグラウンドを沸かせ、早大最大の黄金時代を担った。
  • 2年生の時には新日鉄釜石、3年生の時には三菱自工京都を破って、2年連続の日本一に輝く。4年生時は主将を務め、大学選手権3連覇を目指すも、決勝で明治大学に敗退。
  • 日本代表キャップ3。ポジションはスクラムハーフ(SH)。歴代屈指のSHとの評価が高い。卒業後は住友銀行(現・三井住友銀行)に入行。同行はラグビー部がないため、1975年の英国遠征を最後に現役を引退。1973年に入行した住友銀行では新橋支店に配属される。
  • 1977年末より7年半ロンドン支店に駐在。帰国後は主に為替ティーリング畑を渡り歩く。埼玉県の自宅から毎日一時間半かけて通勤しながら、厳しい個人練習で日本代表の座を守る。
  • 大学ラグビーで活躍したため、入行前から有名な存在で、当時専務取締役の磯田一郎がやたら目をかけていた。新橋支店に配属が決まったのは支店長が東京大学ラグビー部出身だからだったという。貸付業務・カントリーリスク・為替ディーリング業務に携わる。ラグビーのファイブ・ネイションズ(現・シックス・ネイションズ)やテストマッチを数多く観戦した。
  • 49歳の若さで、執行役員(市場営業統括部長)に抜擢され、これは住友銀行に限らず、銀行業界の中でも異例のスピード出世であった。
  • 代表監督を依頼されていた時、本人は「銀行が許してくれない」と固辞していたが、銀行から「どうせやるなら、しっかり」と言われ、快諾したという。
    第2回ラグビーワールドカップ(1991年)で、監督として日本代表の今までの唯一の勝利を得た。
  • 1989年5月28日、秩父宮ラグビー場でIRB所属のスコットランドに、28-24で勝った。また、試合前から「スコットランドには勝てると思います」と公言していた。宿沢以降の日本代表の遠征では、アイルランドに9-78(監督・平尾誠二)、ウェールズに6-80、スコットランドに8-100(監督はともに萩本光威)という壊滅的な敗戦を喫している。
  • ワールドカップでは、アフリカのジンバブエに52-8で勝利した。在任期間の戦績は5勝9敗。しかし、得失点差などの数値は歴代の監督でも最良で、宿沢の優秀な手腕が窺える。
  • 1994年に早稲田大学の監督としてラグビー界に再登場。住友銀行の支店長職と兼任した。2003年の第3回ワールドカップ後に強化委員長を辞任し、専務理事として協会に残った。
  • ラグビー界の改革の重要性を訴えていた宿沢は、様々なメディア・講演会に登場。三井住友銀行という大銀行の常務執行役員の肩書きも有利に作用、Jリーグチェアマンの川淵三郎とも対談し、快く思わない古参幹部もいたと思われる。実際、「宿沢は頭も下げず、生意気だ」と語った幹部がいる。これは現在の専務理事の真下昇氏といわれるが、事実かどうか定かでない。
  • 宿沢が尊敬していた、ラグビー協会会長・町井徹郎(東大ラグビー部、東芝副社長)が癌で急逝し、後任に元首相の森喜朗が座ってから、協会による宿沢への冷遇が始まったと言われる。
  • 2006年6月17日、登山中に心筋梗塞を発症、55歳で急逝。
  • 告別式の際、当時の頭取で旧住友出身の奥正之が弔辞の中で、「君の人生が不規則バウンドして、ノーサイドを迎えたことが悔しい」と述べている。銀行マンであると同時にラガーマンとしての実績をもっと遺憾なく発揮してほしいということを代弁していたと云われている。また、奥は2007年4月の三井住友銀行の入行式で、新入行員たちに宿沢の座右の銘『努力は運を支配する』を引き合いに出した。
    戒名は「廣徳院賢融球道居士(こうとくいんけんゆうきゅうどうこじ)」。
  • 葬儀には、4000人が参列。主な参列者に政界からは森喜朗、河野洋平、町村信孝、財界からも多数の著名人が出席、また平服のラグビーファンまでつめかけ、宿沢との別れを惜しんだ。
  • ラグビーの用事は、基本的に土日祝日・有給休暇しか使わない。
  • 座右の銘は「努力は運を支配する」「勝つ事のみ善である」。
  • 講演会などで「戦略は大胆に、戦術は緻密に」「リーダーは選ぶものではではなく、育てるもの」と自身の信条をよく述べていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    宿澤広朗-Wikipedia

(2007.06.21掲載)




▲元ラグビー選手、ラグビー日本代表監督にして三井住友銀行取締役専務執行役員コーポレートアドバイザリー本部長を務めて金融界においても実績を残した天才ラガーマン・宿沢広朗。

55年10ヶ月と8日の生涯

嵯峨天皇
Saga      【平安初期の第五十二代の天皇】

(786.09.07〜842.07.15)
死因?---乙女座

  • 平安初期の第五十二代の天皇(在位:809.04.01~823.04.16)。 名は神野(かみの)。 桓武天皇の第二皇子で、母は藤原乙牟漏。皇后は橘嘉智子。平城天皇(名は安殿-あて-)の同母弟。この時代はまだ親王に「仁」という字を付ける風習は生まれていない。
  • 即位の翌年810年に薬子の変が起こった以外は、平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期を過ごした。
  • 蔵人所(くろうどどころ)、また検非違使(けびいし)をおき、賀茂斎院(かものさいいん)を設置、白馬節会(あおうまのせちえ)の創始者ともいわれ、弘仁格式や《新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)》の編修も行った。
  • 詩文・書道をよくし、三筆の一人に数えられる。空海の書風の影響が強く、最澄の弟子光定に与えた《光定戒牒(こうじょうかいちょう)》が直筆とされる。
  • 皇子皇女多数。皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。 河原左大臣源融は嵯峨天皇の子の一人。
  • 陵墓は京都の嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)。
  • 「嵯峨天皇は中国の新しい文化を伝えた入唐求法の僧侶のうち、ことに弘法大師空海と親交を深められ、高野山開創の勅許、東寺の下賜と恩寵を賜りました。当時起こったという飢饉に際して、天皇は般若心経を写経、皇后は薬師三尊像を浄写、弘法大師は嵯峨院持仏堂の五覚院で五大明王に祈願しました」(1)。
  • 「嵯峨天皇は55歳の生涯で50人の子がいた。徳川家斉は67歳の生涯で55人、効率は家斉よりよい。そのうち32人が源氏に天下りしたという」(2)。
  • 「聖武天皇が一時的に死刑廃止の詔書を下した後、次に嵯峨天皇が818年(32歳)に律令を改正し、300年以上も死刑という刑罰はわが国から消えた。が、保元の乱で斬刑が復活。以後死刑が廃止されたことはない」(3)。
  • 皇は京都の嵯峨野の地を愛し、そもそも「嵯峨野」という地名はこの天皇に由来している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「annai
    (2)2004.08.07のTBSラジオ渡辺千里のコーナーより。

(2005.03.12掲載)




▲56歳の生涯で50人の子がいた嵯峨天皇は。そのうち32人が源氏に天下りしたという。

55年10ヶ月と10日の生涯

ニーチェ
Friedrich Wilhelm Nietzsche
          【元祖ニヒリズムの哲学者】

(1844.10.15〜1900.08.25)
梅毒からくる脳炎---天秤座


  • ボン、ライプチヒ両大学に学び、ワーグナーとショーペンハウアーに傾倒した。古典文献学の師F.リッチュルに認められ、24歳でスイスのバーゼル大学教授。
  • 35歳で大学を辞し、10年に及ぶ漂泊を経て55歳で発狂、ワイマールに没。処女作『悲劇の誕生』(28歳)、主著『ツァラトゥストラ』(39歳〜41歳)、遺稿『力への意志』。
  • あらゆる価値転倒の試みにあっては、その矛先をソクラテス的主知主義、ドイツの教養俗物、ワーグナー、キリスト教的プラトン主義等へと向け、一貫してニヒリズムと形而上学の克服を目指した。
  • 20世紀思想の責務はニーチェの課題の深化にあると言って過言ではなく、とりわけ構造主義以降の諸思潮に多様なかたちでのニーチェ再読の動きが見られる。
  • 「危ない奴はあらかじめ無害化せよ---。テロ対策の原則は思想家対策の原則でもある。ニーチェなどはその最大の標的かもしれない。やり方も巧妙だった。「未完の天才哲学者」と祭り上げることで、読者が勝手に自分の思想を読み込めるようにし、異物でなくしてしまう。おかげで危険な哲学者だったはずが、今や哲学界のアイドルだ」(1)。
  • 「ニーチェは44歳で発狂するのだが、語るべきことをすべて語り尽くした上で発狂した」(2)。
  • 「ニーチェの知的生涯は1889年1月(44歳)、その精神に変調を来して幕を閉じたが、その後の10年あまり、冬は地中海沿岸、夏はアルプス高地を周期的に巡り、失われた健康を取りもどそうとしていた。この時期に書かれた晩年の主要な著作が、ノマド(遊牧民)的生活を志向をしたニーチェの身体性と深く関わっている」(3)。
  • 「ニーチェに遡ること100年前、ゲーテは「永続するローマ」にあこがれ、馬車でイタリアを旅行した。しかし古典文献学が専門のニーチェはローマに関心を示さず、鉄道で新しいリゾート地を行き来した。強大化するドイツの独善を嫌い、異国の保養地を旅するにニーチェに目的地はない。「近代を乗り越える試みは、滞在先での散歩を伴う思索であり、健康への強い意志は晩年の自己超克の思想とつながる」(4)。
  • 「〈真の自己〉について、それを発見されるものとするソクラテスに対して、創造されるものだとするニーチェの批判は、同じ問題意識を持つがゆえにそり先鋭化した。---それは人生を芸術作品と見たニーチェ自身の態度の通じる」(5)。
  • ニーチェのこの言葉をお供えしたいです。「人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱である。− 深淵の上にかかる綱である。
     渡ってかなたに進むのも危うく、途上にあるのも危うく、うしろをふり返るのも危うく、おののいて立ちすくむのも危うい。
     人間において偉大な点は、かれがひとつの橋であって、目的ではないことだ。人間において愛しうる点は、かれが過渡であり没落であるということである」(6)。

  • ニーチェの有名なキーワードは「神の死」「超人」「永劫回帰」だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)佐藤俊樹
    {2)清水真木著『ニーチェ』
    (3)(4)読売新聞200408.29朝刊「本よみうり堂」岡本民夫著『旅するニーチェ リゾートの哲学』の書評より抜粋。
    (5)読売新聞2005.08.28朝刊「よみうり堂本」アレクサンダー・ネハマス著『ニーチェ』の神崎繁による書評より抜粋。
    (5)投稿者・ユリウスさん..2008/ 1/13 22:28:45(日) [2708]

(2008.04.27更新)


★観念の仮面劇(マスカレード)
▲あらゆる価値転倒の試みにあっては、その矛先をソクラテス的主知主義、ドイツの教養俗物、ワーグナー、キリスト教的プラトン主義等へと向け、一貫してニヒリズムと形而上学の克服を目指した哲学者・ニーチェ。(イラスト 玉野安実)

 

ニーチェ語録

◆「人間は樹木のようなものだ。高みへ、明るみへ登れば登るほど、その根はいよいよ強く地中へ、暗い方へ、悪へ向かう」

◆「地球は皮膚を持っている。そしてその皮膚は様々な病気を持っている。その病気の一つが人間である」

◆「私の文体は、舞踏なのです」

55年11ヶ月と1日の生涯

ゴーギャン/ゴーガン
Paul Gauguin   【探し求めた南方の楽園】

(1848.06.07〜1903.05.08)
ドミニカで熱病---双子座

  • 「ゴーガン」とも呼ばれる。パリ生れ。
  • 35歳で株式取引店を辞し、次いで妻子とも別れて画業に専念。当然の貧困からきた家庭崩壊。初めピサロに学び、印象派に接近。
  • ブルターニュとマルティニク島を往復する間にサンテティスムに魅せられ、装飾性をもちながらも,単純な色彩と形態を通して精神の深みを追求し、独特の象徴主義絵画に到達した。
  • エミール・ベルナールらとポンタベン派を形成している。その後、南仏アルルでのゴッホとの共同生活と悲劇。
  • パリのデカダンな生活を呪ったあげく、南洋人の原始性にあこがれて、1891年にタヒチ島に渡り、「タヒチの女」など明るく強い陽光の下に輝く色彩で女達の生活を描く。
  • 後いったん、パリに戻るが、腐敗したヨーロッパ社会にあきあきしていたゴーガンは、タヒチに移り住み、さらに、ドミニク島に移り、「海辺の騎手」などの、人間の存在意味を深く問いただす多くの作品を制作。
  • 10年余り滞在したタヒチ島で数々の傑作を残す。ゴーギャンはこのタヒチにもだんだん西洋文化が流入してくることを嫌い、更に1901年タヒチから1500km北東のヒヴァ・オア島に移る。ここが彼の最期の地に。
  • 生活苦の中、現地の人たちともいさかいを起こしたりしつつ、1903年5月8日マルキーズ諸島のドミニカ島で不遇と孤独のうちに死んだ。
  • 代表作に『黄色いキリスト』(1889年)、『イア・オラナ・マリア』(1891年)、『われわれはどこから来たのか。われわれは何か。われわれはどこへ行くのか』(1897年)などがある。
  • 『ノア・ノア』は1891年の最初のタヒチ滞在の紀行文。行き詰まった西洋文明から逃避し、タヒチにわたり、印象派の技法を捨てて、プリミティブな表現の中に自己発見の道を求め続けた。純色の広い色面を用いる総合主義を始め、「黄色いキリスト」「タヒチの女」などの傑作を描いく。
  • 「ゴーガンはヨーロッパの文明に疲れ、自らを野生の美と官能の中に解放し、そこから新たな創造を生み出そうとした。彼は大胆な色彩とタッチで大自然の中を生きる島の女たちを描いた。島には神話的世界を表現する絵画や彫刻もあった。つまり島にも芸術はあったが、芸術家とか画家といった職業も言葉もなかった。だから人の姿を描いて過ごすゴーガンを、島の人は「人間を作る人間」と呼びかけた」(1)。
  • 「ゴーギャンは1891年から93年にかけてタヒチに滞在し、その後一旦フランスへ戻ってくる。経済的困窮がその理由だが、タヒチで描いた作品を世に問い、画壇に確固たる地位をきづき、デンマークにいた妻子を呼び寄せて、もう一度家庭をきずきたいという思惑もあったようである。しかしその希望は無惨にもうち砕かれ、彼はヨーロッパに愛想を尽かし、は永住を覚悟して、1895年、再びタヒチへ向かう。けれどこの第二次滞在は、貧窮、病苦、孤独と、楽園どころか地獄の様相さえ呈した。1898年(50歳)、彼は、最愛の娘アリーヌの死を知らせる妻の短い手紙を受け取ったあと、遺言のつもりで大作「われらはどこから来たのか?われらは何者なのか?われらはどこへゆきのか?」を描き、直後に自殺をはかったほどだった」(2)。
  • 「水兵、株式仲買人、そして画家。三つの人生を生きた男の人間力」(3)。
  • 自らをキリストにも野蛮人にも見立てたゴーガンの波乱の人生は、彼の自画像に刻印されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.09.17夕刊 松山巌「言葉を生きる」より抜粋、リライト。
    (2)読売新聞2006.10.16夕刊「大エルミタージュ美術展」(岡谷公二)より抜粋。
    (3)「Gayguin」(東京通信社)創刊号の新聞広告より抜粋。


    ◆「われらはどこから来たのか?われらは何者なのか?われらはどこへ行くのか?」

(2008.05.16更新)




★「野蛮」を夢見た誇り高き男★

▲後期印象派を代表するフランスの画家・ゴーギャン。
(イラスト 玉野安実)




▲自画像。


◆【かぐわしき大地】 ポール・ゴーギャン[フランス 1848-1903][油彩・キャンバス 92×73.5? 1892] 大原美術館[岡山県] 
南国の楽園に見つけた,たくましき大地の女神。


◆「果実を持つ女」(1893) 中央で果実を持つ女は、当時ゴーギャンが一緒に住んでいたマリオ族の少女、テフラといわれる。


「黄色いキリスト」

55年11ヶ月と2日の生涯

ロアルト・アムンゼン
Roald Amundsen   【ノルウェーの探検家】

(1872.07.16〜1928.06.18)
スピッツベルゲンに向かったまま消息を絶った---蟹座

  • オスロ大学で医学を修めたのち、探検に志して航海術に熟達、1903年―1906年小帆船ヨーア号で北西航路の初の周航に成功。
  • 1910年に南極探検に出発、R.F.スコットとの激しい競争の末、1911年(39歳)12月14日初めて南極に到達。
  • 1925年エルズワースとともに飛行艇による北極横断を試みたが失敗。
  • 1926年5月ノビレ、エルズワースとともに飛行船ノルゲ号で北極横断飛行に成功。
  • 1928年6月北極飛行中に遭難したノビレの救援に飛行機で出発したが、スピッツベルゲンに向かったまま消息を絶った。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2004.01.05掲載)




▲初めて南極に到達したノルウェーの探検家・ロアルト・アムンゼン。

55年11ヶ月と9日の生涯

O・シュペングラー
Oswald Spengler   【『西洋の没落』の著者】

(1880.05.29〜1936.05.08)
死因?---双子座

  • ドイツ連邦共和国のハルツで生まれる。
  • ミュンヘン、ベルリンなどの大学で哲学・数学・歴史などを広く学び、一時ギムナジウムの教師になったが、そのあとミュンヘンで自由な著述家として一生暮らした。
  • 主著『西洋の没落』(2巻。1918年、1922年)において従来のヨーロッパ中心主義的・合理主義的・進歩主義的歴史観を根底からくつがえす有機体的文化史観を展開。思想界に衝撃的影響を及ぼした。
  • 著書はほかに『プロイセン精神と社会主義』・『人間と技術』(1931)・『政治論集』(1932)・『講演論文集』(1937)などがある。
  • 「第一次世界大戦直後、西ヨーロッパの人々がアメリカの登場とロシア革命に動揺と不安を感じヨーロッパ文明の危機を意識したとき、大著『西洋の没落』(1918〜22)を書いた。この本は文化が生物有機体と同じように発生、成長、衰退、死滅の過程をたどるといい、西洋文明は今や没落期にあるといったので人々に衝撃を与えた。彼の思想はこの悲劇的な運命に耐えて生き抜く、ニーチェのような「英雄的ペシミズム」であったが、西洋を最後に8つの文化有機体が消滅するこの世界史の形態学が、これまでのヨーロッパ中心の直線史観を破って新しい歴史の見方をさせたことに意味がある」(1)。
  • 建築学生時代『西洋の没落』 を貪り読んだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「シュペングラー

(2005.04.15更新)


★ドイツの思想家・歴史哲学者

▲『西洋の没落』において思想界に衝撃的影響を及ぼしたオスヴァルト・シュペングラー。


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55年11ヶ月と25日の生涯

ウガンダ・トラ
Tora Uganda   【元ビジーフォー】

(1952.06.06〜2008.05.31)
急性呼吸不全---双子座

  • 本名は佐藤 信一郎。東京都港区六本木出身。アミーパーク所属。芸名はウガンダ共和国の元大統領イディ・アミンと似ていた事に由来するが、本人にはウガンダ共和国との関係はない。
  • 10代の頃から「スリーチアーズ・アンド・コングラッツレイションズ」のメンバーとして芸能活動を開始。同グループには後にビジーフォーを結成するグッチ裕三もいた。
  • 1978年にグッチ裕三、モト冬樹らとコミックバンド「ビジーフォー」を結成し、ドラムスを担当。コミックソングやものまねで人気を得る。
  • 1984年頃、ビジーフォーの解散を受けて単独で活動するようになり『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)などに出演。1990年代の前半までは芸名をただ単に「ウガンダ」としていたが、「ウガンダ・トラ」に改名した。
  • 近年はタレント業のほか、東京・大久保で焼き鳥店「うがちゃん」を営んでいた。最近では『A女E女』(フジテレビ)の第3回放送にゲスト出演、得意のドラムを披露し出演者の女性を悶えさせた。また、『うたっておどろんぱ』(NHK教育)にレギュラー出演した。
  • Vシネマのロケ先に向かう2008年5月10日の朝に「足元がふらつく」と不調を訴え入院。2008年5月31日に死去、55歳没。肝臓の持病のほか糖尿や心臓病などを患っていたものが悪化したと見られていたが、解剖の結果、死因は急性呼吸不全だったと6月2日に発表されている。
  • 1994年にタレントのラッシャー板前の妻の姉と結婚したが近年離婚していたようで、6月4日に行われる葬儀・告別式は実弟が喪主を務める。
  • 体重115kgという巨体を売りにするキャラクター、いわゆるデブキャラの先駆けと言われ、得意の早食いに関しては「カレーライスは飲み物である」と公言している。ちなみに石塚はパパイヤ鈴木とともにテレビ東京の番組『元祖でぶや』の収録で「うがちゃん」を訪れており、メニューも何品か賞味している。
  • 実父はジャズドラマーの佐藤イサオ。たけし軍団のラッシャー板前は元義弟(元妻がラッシャー板前の妻と姉妹)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウガンダ・トラ-Wikipedia

(2008.06.07更新)


★デブキャラの先駆

▲元・ビジーフォーメンバーで、男性タレント、ドラマーのウガンダ・トラ。

ウガンダ名言集

◆「カレーライスは飲み物、幼少時代から噛んだことがない」: 『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」でのバックのセットの一部としてカレーライスを食べるという配役をしていたところあまりにその食べるスピードが早く、思わずインタビューされてしまった時の一言から来ている。

◆「カレーは別腹」:『ラジかるッ』の「彦摩呂のまんぷく道場」にて発した。

◆「オカワリって言ったら、下品かなぁ」





 55歳のエポック!

  • イワン・パブロフ、消化液分泌の神経支配を解明した業績に対し、1904年(55歳)ノーベル生理医学賞。
  • ビリー・ワイルダー、「アパートの鍵貸します」で1961年(55歳)にアカデミー賞の作品賞と監督賞、脚本賞を受賞し、同賞の3部門を初めて制す。
  • 千石イエス(千石剛賢)、55歳(1978年5月)26人の会員と集団失踪、各地を転々とする。
(2004.07.23更新)

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