玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

50-51-52-53-54-55-56-57-58-59

age 55


50音インデックス


■55歳の
シンクロニシティ


■55歳-?
イソップ/アイソーポス
中臣鎌足/藤原鎌足
天武天皇
聖武天皇
在原業平
サラディン
コロンブス
バスコ・ダ・ガマ
オスカー・シュレンマー

■55歳-前半
イヴ・タンギー
魯迅
大森房吉
吉野作造
猪俣 公章
安井かずみ
アイ 高野
明石元二郎
ソシュール
平岡 浩太郎
ルイザ・メイ・オルコット
貴ノ花/花田 満
清沢 洌
ホ-フマンスタール

■55歳-後半→進む
久生十蘭
ルドルフ・ジーゼル
荻原朔太郎
花登 筐
グスタフ・クリムト
ヘンリー8世
フェノロサ
クロード・ドビュッシー
ビル・ヘイリー
いわさきちひろ
カエサル/シーザー
大浦 慶
生原昭宏
真部 一男
宿沢広朗
嵯峨天皇
ニーチェ
ゴーギャン
ロアルト・アムンゼン
シュペングラー
ウガンダ・トラ


■55歳のエポック


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55歳の語録

 

「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして」
(在原業平)

「できそうなことでも、実際にやってみなければやれないのと同じです」
(コロンブス)

55歳のシンクロニシティ!

  • 55歳の享年には三人のドイツ人がシンクロする。 構造主義の先駆者ソシュール、元祖ニヒリズムの哲学者ニーチェと『西洋の没落』の著者シュペングラーであ  
    ●20世紀人文諸学におけるパラダイム転換に重要な役割をはたした 構造主義の先駆者ソシュールは、死因?で 55年2ヶ月と27日の生涯(射手座)。
    ●一貫してニヒリズムと形而上学の克服を目指した哲学者・ニーチェは、梅毒からくる脳炎で55年10ヶ月と10日の生涯( 天秤座)。
    ●『西洋の没落』において思想界に衝撃的影響を及ぼしたオスヴァルト・シュペングラーは、死因?で55年11ヶ月と9日の生涯 (双子座)。

  • また二人の航海者も55歳で逝った。新大陸を発見した航海者コロンブスとインド航路開拓者バスコ・ダ・ガマだ。
     
    ● 新大陸を発見したイタリアの航海者・コロンブスは、失意と貧困の中に永眠し55年?の生涯
    ●ポルトガルのインド航路開拓者・バスコ・ダ・ガマは、インド総督として派遣されるが、その直後病死し55年?の生涯 (?座)。

  • さらに四人の画家も55歳で召された。タンギー、クリムト、いわさきちひろ、ゴーギャンである。
       


    ●シュルレアリスム運動のリーダーであったアンドレ・ブルトンをあいて「もっとも純粋なシュルレアリスト」であると言わしめたイヴ・タンギー(1900.01.5〜1955.01.15)も死因?で55年と10日の生涯(山羊座)。
    ●オーストリアのユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)の中心的存在だったグスタフ・クリムトはスペイン風邪で55年6ヶ月と23日の生涯(蟹座)。
    ●『あめの ひの おるばん』『戦火の中の子どもたち』などの絵本作家・童画家・いわさきちひろも、原発性肝ガンで55年7ヶ月24日の生涯(射手座)。
    ●後期印象派を代表するフランスの画家ゴーギャンも、ドミニカで熱病にかかり55年11ヶ月と1日の生涯だった(双子座)。

  • 50の坂を越えると、体もあちこち痛くなり親の介護など、しんどいことが多くなる。---」今井美佐子著『人生は55歳からおもしろいねん』

    (2008.05.14更新)    
             



55年?の生涯

イソップ/アイソーポス
Aesop   【古代ギリシアの寓話作家】

(BC619.?〜 BC564?)
死因?---?座

  • 奴隷だったと伝えられる。日本では英語読みのイソップ という名で知られる。当時の記録がなく、半ば伝説の人物であるが、実在したのは確からしい。
  • ヘロドトスの『歴史』に、歴史上の人物として名が出てくるのが、アイソポスに関する最初の記述である。多くのイソップ寓話を残したが、すべてがアイソポスの創作ではない。
  • それ以前から伝えられていた寓話、後に創作された寓話があとからイソップ寓話とされたりしたほか、アイソポスの出身地(恐らく、小アジアのどこかだろうといわれている)の民話を基にしたものも多数含まれているとされる。
  • 有名なイソップ寓話:アリとキリギリス(蝉(せみ)と蟻(あり)たち)、ウサギとカメ、北風と太陽、金の斧、嘘をつく子供、狐と鶴のご馳走、ガチョウと黄金の卵、すっぱい葡萄、ねずみの恩がえし、ネズミの相談、3本の棒、ずるい狐、犬と肉、鳥の王さまえらび、かりゅうどときこり、ねことねずみ、馬をうらやんだろば、おじかとライオン、からすときつね、ありとはと。
  • 「イソップ(ギリシャ語でアイソポス)は、紀元前6世紀頃のギリシャの奴隷である。奴隷と言っても、首と足に太い鎖をつけられて毎日鞭打たれているようなのではなく、金持ち市民の使用人といったところだろう。そのイソップが書いた物語は、奴隷としての「民衆一般」が生き延びていくにはどうしたらいいかという「道徳的教訓」、「処世術」であり、「凡俗醜悪な人生の活図」とまで(訳者が)言っているところがちょっと驚き。
    人に頼らず努力し(アリとキリギリス)、おごり高ぶらず精進し(ウサギとカメ)、負け惜しみを言わず(オオカミと葡萄)、嘘をつかず(羊飼いとオオカミ)、欲は張らず(金の卵)、人と助け合い(アリとハト)、自慢はほどほどにし(カエルの‥‥何だっけ、腹を膨らませ過ぎてパンクしてしまう話)、押してもダメなら引いてみな(北風と太陽)‥‥。ソクラテスプラトンアリストテレスは、そんな「凡俗」なことに心をわずらわされなくてもいい市民階級だったので、高邁な哲学をものすることができた。が、イソップはそういう御身分ではなかったので、自分と同様の下々の民衆のための人生訓を考えた。今で言うと、「サラリーマンの処世術」とか「人間関係で失敗しない方法」とかいう感じかもしれない」(1)。
  • 「人セム」もソクラテスやプラトンやアリストテレスには成り得ない。イソップでいいではないか。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アイソーポス-Wikipedia
    (1)「Ohno blog(2006-01-04)

(2007.06.24更新)




▲半ば伝説の人物であるが、実在したのは確からしい古代ギリシアの寓話作家・イソップ/アイソーポス。




55年?の生涯

中臣鎌足/藤原鎌足
Kamatari Nakatomi   【藤原氏の祖】

(614.?〜669.?)
死因?---?座

  • 飛鳥時代、藤原氏繁栄のもとを築く。中臣鎌子(なかとみのかまこ)とも。中臣御食子(みけのこ)の子。
  • 中大兄皇子らと蘇我氏を倒し、大化改新後は、内臣として政府の中核となった。臨終には、天智天皇から大織冠(たいしょくかん)の冠位と藤原の氏(うじ)を賜った。
  • 「“けまり”の会で、鎌足が中大兄皇子の脱げたくつをひろったことから、お互い言葉をかわすようになったといわれています。二人はともに中国(唐)の政治のしくみや制度を学び、中心の政治をおこなうために、当時、天皇をしのぐほどの勢力を持っていた蘇我氏を倒すことを計画しました。645年、蘇我蝦夷・入鹿父子をうちとり、大化の改新とよばれる新しい政治をはじめました。以後,中大兄皇子につぐ実力者として、皇子を助けました。鎌足が病に倒れた時,天智天皇となった中大兄皇子は,みずから鎌足を屋敷に見舞い,天皇につぐ高い位と藤原の姓を与えました。奈良・平安時代に大きな勢力をほこった藤原氏は、鎌足の子孫です」(1)。
  • 「弱小豪族の養子・鎌足と時の権力者の息子・入鹿は同じ私塾に学び、政治のあり方を語り合ってきた」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「中臣鎌足(なかとみのかまたり)
    (2)古代史スペシャル「大化改新」(NHK)の試写室より抜粋。

(2007.05.21更新)




▲中大兄皇子らと蘇我氏を倒し、大化改新後は、内臣として政府の中核となった中臣鎌足。




55年?の生涯

天武天皇
Tenmu Tenno     【第40代天皇】

(631.?〜686.10.01)
死因?---?座

  • 『皇統譜』によると第40代に数えられる天皇(在位673.03.20〜 686.10.01日)。国風諡号は天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)。名は大海人(おおあま)皇子。
  • なお、生年を631年とすることに反対する説もある。舒明天皇の次男で母は宝皇女(皇極天皇)である。天智天皇の同母弟。
    『日本書紀』によると才能に恵まれ、武徳に優れ天文、占星の術を得意としたとされる。
  • また、天武天皇の事跡の多くは『日本書紀』に述べられているが『日本書紀』編纂の中心人物が天武天皇の息子の舎人親王であるため、美化されているのではないかと疑う説もある。
  • 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破り、即位す。即位後は飛鳥浄御原宮律令の制定を命じ律令国家の確立を目指す。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めた。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。
  • これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。
  • 天皇の宗教的権威も高められた。伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。
  • 一説によると天皇号の使用も天武天皇が始めたとされる(天皇号の始まりは推古天皇説などもある)。
  • 飛鳥浄御原宮を建造したほか難波にも宮殿を建造。藤原京の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする説もある。
  • 外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)をうけ、新羅との国交保持のため唐との国交を断絶した。
  • 文化面では帝紀と旧辞を記し校訂する修史事業が行われた。また、五節の舞を始めとする宮廷儀礼の定式化も進められた。
  • 「日本書紀には天武天皇の生年月日が書かれていません。 これは、他の天皇と比べてもきわめて不自然なことです」(1)。
  • 「前述の二人の天皇についての補足です。
    1:天智天皇の娘、大田皇女と菟野皇女はいずれも天武天皇に嫁いでいます。同腹で弟に嫁ぐというのは今日では理解しがたいですが、当時は普通のことだったようです。
    2:天智天皇の息子、建皇子は聡明でしたが生まれつき口がきけず、おしくも夭折しました。
    3:菟野皇女(菟野讃良:「うののさらら」とも)は天武天皇にとつぎましたが、元々の婚約者は有間皇子だったとか。有間皇子の詳しい情報はこちらから。
    4:阿閉皇女はそののち、持統天皇の息子草壁王子(母は持統天皇、父は天武天皇)に嫁いでいます。母親の姉妹と結婚…。ここまでくると家系図がややこしすぎますね」(2)。
  • 「天武は、中国の天命思想を取り入れ、壬申の乱を革命として意識していた。大極殿を造ったのも、中国の「太極殿」(世界の中心を象徴)の思想を導入し、正当性を誇示しようとしたのだろう。「天皇」号の成立、天応は天照大神の子孫だとする天孫降臨神話の形成、国号「日本」の創出も天武朝と言われる。天武の王権は、正当性を示すための様々な舞台装置をつくった。その結果、晩年にいたって現人神としての権威を獲得することになったのではないだろうか」(3)。
  • 「天武天皇の治世、684年に四国の南岸を激しい揺れが襲った。「国挙(こぞ)りて男女叫び、唱(よば)いてまどいぬ。すなわち山崩れ河湧(わ)く」とは日本書紀の生々しい描写だ。列島の太平洋側で繰り返される巨大地震についての最古の記録だという」(4)。
  • 万葉集に四首の歌を残す(「或本歌」を加えれば五首)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)「はいつでこの「楽しもう歴史教科書」
    (2)投稿者:映さん 2005.05.06(Fri) 22:30
    (3)読売新聞2006.03.29夕刊「文化」(林部均)より抜粋
    (4)日経新聞2009.08.12朝刊「春秋」より抜粋。。

(2009.08.12更新)




▲『日本書紀』によると才能に恵まれ、武徳に優れ天文、占星の術を得意としたとされる天武天皇。



◆天武・持統天皇陵。


◆なお、持統天皇は天智天皇の皇女。諱(いみな。本名)は?野讃良(うのさらら)皇女。叔父にあたる天武天皇の后となるが、天武崩後、皇位を継承し、藤原不比等らを用いて律令制の確立につとめた。

55年?の生涯---2006年没後1250年

聖武天皇
Syoumutennou   【奈良時代の第45代天皇】

(701.?〜756.?=大宝元年〜天平勝宝8年5月2日)
死因?---?座

  • 大宝元年(701)聖武天皇は幼くは首(おびと)皇子といい、この年、藤原京に於いて、文武天皇と宮子夫人(藤原不比等の娘)との間に、第一皇子として誕生。この時文武天皇19歳。
  • 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、勝満(しょうまん)とも言う。
  • 子には、(孝謙天皇(阿倍内親王)のほか、光明皇后との間に夭折した基皇太子が、夫人県犬養広刀自との間には安積親王、井上内親王(光仁天皇皇后)、不破内親王が生まれている。
  • 元明天皇の714年に皇太子になるが、元明天皇が退位したときはまだ14歳と若いと言う理由で即位は見送られ、代わりに叔母の元正天皇が即位した。
  • 一説には不比等が天皇の外祖父として権勢を振るう事によって危惧される朝廷内部の確執の深刻化を避けたためだとも言われている。724年に、元正天皇より譲位を受け即位。在位:724年2月4日 〜 749年7月2日。
  • 727年9月29日には妃の藤原光明子が基王を出産した。基王は同年11月に皇太子に立てられたものの、生まれつき虚弱で、結局728年9月13日に基皇太子は亡くなった。この時の天皇・妃の悲痛は甚大なものだったといわれている。聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。
  • しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため、皇族しか立后されないのが当時の慣習であったため、長屋王は光明子の立后に反対していた。そこで、729年に長屋王の変が起き、長屋王は自殺した。729年には、藤原不比等の娘の光明子(母宮子の妹)が臣下としては初めての立后された。
  • しかしながら、不比等の息子である藤原四兄弟が737年に疫病で相次いでなくなり、740年には藤原広嗣の乱が起こっている。
  • 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、741年には国分寺建立の詔を、743年10月には、東大寺大仏の建立の詔を出している。
  • また、度々遷都を行って災いから脱却しようとしたものの官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
  • また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が取り仕切った。
  • 743年には、耕されない荒れ地が多いため新たに墾田永年私財法を制定した。これにより、律令制の根幹の一部が崩れた。
  • 744年1月13日には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺だという説がある。
  • 749年7月2日 娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を取ったともいわれる)。初の男性の太上天皇となる。
  • 752(天平勝宝4)年1.3、重態。大晦日まで殺生を禁断。同年4.4、東大寺行幸。4.9、東大寺大仏開眼供養会を挙行する。
  • 天平勝宝5年4月、盧舎那殿の前に戒壇を立て、皇太后・天皇と共に登壇して鑑真より菩薩戒を受ける。同年7.19、母の太皇太后宮子が崩ず。
    752年には大仏開眼界を挙行した。
  • 「古代史や考古学の近年の研究により、気弱で優柔不断だったとされる聖武天皇の評価が覆いされつつある。最近の発掘成果に基づいた関連の書物が相次いで3冊も刊行され、新たな国家建設への強い意志をもった君主像が示された」(1)。
  • 「盧舎那仏は聖武天皇にとって、皇統の「守護神」だったんだと思います」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    聖武天皇 - Wikipedia
    (1)読売新聞2006.02.14夕刊 「文化」より抜粋。
    (2)読売新聞2006.09.26朝刊 (遠山美都男)より抜粋。

(2006.09.26更新)




▲古代史や考古学の近年の研究により、気弱で優柔不断だったとされる評価が覆いされつつある聖武天皇。


◆聖武天皇鏡御影(東大寺、奈良国立博物館蔵)


◆聖武天皇陵

 


◆東大寺大仏

 

55年?の生涯

在原業平
Narihira Ariwarano   【三十六歌仙の一人】

(825.不詳〜880.05.28)
死因?---?座

  • 平城天皇の皇子阿保親王第5子、母は桓武天皇皇女伊都内親王。
  • 826年、兄・行平らとともに在原姓を賜る。通称在五中将。紀有常の女を妻とし、官位は蔵人頭、従四位に至る。
  • 『古今和歌集』序の「その心あまりてことば足らず」という紀貫之の評言や、『三代実録』の「放縦不拘」の記述から、情熱的歌人であったことが知られる。
  • 『伊勢物語』の主人公とみられ、二条后との密通。それゆえの東下り、伊勢斎宮との密通など典型的なの人物としてさまざまな伝説に彩られている。
  • 家集に『業平集』があり、『古今集』以下の勅撰集にも多数入集している。
  • 「ついに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思わざりしを」在原業平の辞世の歌。
  • 「在原業平は恋愛の大天才だった。歌も激情型。
    「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして」

    凡人ならば月は昨年と同じなのに人の心の移ろいやすさよと悲しむのに、この人は逆。自分だけを残して月も春も変わってしまったと嘆く」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.04.04朝刊「四季」

(2009.09.18更新)



▲平安前期の六歌仙、三十六歌仙の一人・絶世の美男子にして平安のプレーボーイだった在原業平。
(イラスト 大城さん)



◆三十六歌仙は平安中期,藤原公任の編んだ歌合形式の秀歌撰『三十六人撰』に基づく36人の主要歌人のこと。柿本人麻呂,紀貫之,凡河内躬恒,伊勢,大伴家持,山部赤人,在原業平,僧正遍昭,素性法師,紀友則,猿丸大夫,小野小町,藤原兼輔,藤原朝忠,藤原敦忠,藤原高光,源公忠,壬生忠岑,斎宮女御,大中臣頼基,藤原敏行,源重之,源宗于,源信明,藤原清正,源順,藤原興風,清原元輔,坂上是則,藤原元真,小大君,藤原仲文,大中臣能宣,壬生忠見,平兼盛,中務。

◆六歌仙は『古今和歌集』の仮名序で紀貫之が論評した平安初期の6人の歌人。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、大友黒主をいう。

 

55年?の生涯

サラディン
Christopher Columbus 【イスラムの英雄】

(1138.?〜1193.03.04)
死因?---?座

  • イスラームの将軍・君主サラディン。現イラク北部のティクリート出身で、チグリス河畔のアルメニアのクルド人一族の出自である。
  • 本名をユースフ(・ブヌ・アイユーブ)(アイユーブの息子ユースフの意。ユースフはヨセフの、アイユーブはヨブのアラビア語形。)。サラーフッディーン とは「宗教/信仰(Di?)の救いを意味するラカブ(当時のムスリム成人男性が帯びた尊称で、中国史上の人物の字(あざな)に相当する)である。同時代の十字軍側のラテン語資料などではSalahadinusまたはSaladinusなどとと称し、これを受けて欧米では慣習的にSaladin(サラディン)と呼ばれる。
  • 1169年、エジプトのファティマ朝の宰相となったが、1171年、王朝を廃し、自らアイユーブ朝を興し、シリア・エジプト・メソポタミアを支配し、スンニ派の支配下に置いた。
  • 1187年にはエルサレムを十字軍諸国からの手から奪還。
    このため第三回十字軍と戦うことになったが、リチャード1世やフィリップ2世の軍を撃破。最終的には1192年に和議を結び、エルサレムを引き続き確保した。
  • 軍事的な英雄であるばかりでなく、文化の振興にも力を入れ、イスラム神学と法学の研究の奨励をし、カイロに寺院や学校を建設した。現在でもイスラム教徒の間で名君の誉れが高い。
  • 十字軍との戦いにおける人道的・平和的な対処は有名で、文芸作品にしばしば登場している。
  • 敵からも敬意を払われた君主と言われる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    サラディンとは - はてなダイアリー
    サラーフッディーン-Wikipedia

(2007.09.28掲載)




▲エジプト、アイユーブ朝の創始者(在位1169年〜1193年)でイスラムの良心を体現した英雄サラディン/サラーフ・ウッディーン・イブン・アイユーブ。

 


◆バールベク サラディンは大いなるローマ遺跡のある町で育っていった。

55年?の生涯

コロンブス
Christopher Columbus 【新大陸を発見した航海者】

(1451.不詳〜1506.05.20)
失意と貧困の中に死す---?座

  • 新大陸を発見したイタリアの航海者。イタリア語名ではコロンボCristoforo Colomboで、Columbusは英語表記。ジェノバ生れ。
  • 大西洋を西航してインドに達し得ると考え、数学者トスカネリらの支持を得た。41歳、スペイン宮廷の援助と総督の地位を得ることに成功。8月サンタ・マリア号など3隻の船でパロスを出帆。
  • 10月バハマ諸島のグアナハニ島に上陸、そこをインドの一部と誤認し神に感謝しつつ〈サン・サルバドル(聖なる救済者)〉と名づけた。その後キューバなどに寄りながら1493年(42歳)帰国。
  • 第2回(1493年―1496年)、第3回(1498年―1500年)と航海を重ねるが原住民の反乱に悩まされ、第4回航海(1502年―1504年)の際には総督の地位からはずされた。
  • その後も宮廷は彼を重んぜず、彼は死に至るまでアジアの一部を発見したと信じつつ失意のうちに死す。コロンブスがアメリカ大陸から持ち帰ったとされるものに梅毒、タバコ、トウガラシなどがある。
  • 15、6世紀は大航海時代といわれる。造船技術の進歩は遠洋航海を可能にし、ヨーロッパはいっせいにアジアへの海路に注目しはじめた。こうして世界の目が東に注がれているとき、「西まわりこそアジアへの近道だ」と言い出したコロンブスがドン・キホーテ的な扱いを受けたのは当然。人々はジェノバの狂人とか妄想家などとあざけりながら、コロンブスが第一回の航海に成功すると「誰だって西へ進めば島へたどりつけた」と笑いものに。するとコロンブスはテーブルの上の卵を指さし「この卵をたてることができますか」と言って、観衆の前で卵の底を割ってテーブルにたてていった。
  • 誰もやらなかった西まわりの航路でコロンブスは新大陸に到達。しかし、そこがインドではなく新しい大陸であると主張したのはアメリゴだった。歴史は新大陸を「アメ リカ」と命名した。
  • 1492年、コロンブスはアメリカ大陸に到達した。自然と一体になった独自の文化を築き上げていたアメリカ・インディアンは、このときを境に急速に衰退へと向かう。最近再評価されつつある彼らのエコロジカルな文明とその悲劇。
  • 「2004年1月12日、南米ベネズエラでチャベス大統領の支持者たちがコロンブスを「大量虐殺者」として非難し、銅像を引き倒すなど激しい抗議行動を行った。中南米諸国の多くは、コロンブスによる1491年10月12日の新大陸上陸を記念し、10月12日を祝日にしている。これに対し、チャベス大統領は2002年、この日を「インディオの抵抗の日」と命名した」(1)。
  • 世界を一変させた男コロンブス。しかしその人生は意外なほど謎が多い。「ユダヤ人説」などの諸説がある。 「聖者」か「侵略者」か。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.10.13夕刊 ロイター。

(2008.03.16更新)




▲ 新大陸を発見したイタリアの航海者・コロンブス。

◆「できそうなことでも、実際にやってみなければやれないのと同じです」
(コロンブス)

55年?の生涯

バスコ・ダ・ガマ
Vasco da Gama   【インド航路開拓者】

(1469.不詳〜1524.12.24)
マラリアに感染---?座

  • ポルトガルの航海者で、探検家である。インド航路開拓者。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初の人物であり、しばしばインドへの航路を初めて「発見」したヨーロッパ人であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。
  • ポルトガル国王マヌエル一世によるインド航路開拓の命を受け、ダ・ガマ率いる4隻の船団は1497年7月8日(28歳)に4隻の船隊を指揮してリスボンを出航。1497年11月22日、アフリカ南端の喜望峰を通過し、当時はアラブ人支配下にあった現在のモザンビークに到達。
  • 当時はアラブ人がインド洋のアフリカ東岸の貿易を支配しており、ダ・ガマはここで水先案内人を雇い入れて、1498年5月20日(29歳)、インド南西のカリカット(コジコーデ)に到達した。
  • 当時のカリカットはアラブ人との貿易で潤っており、ヨーロッパ人のダ・ガマとアラブ人商人とは対立関係にあったが、カリカットのサモリン王は双方との取引を望み、いささか不明瞭ながら貿易許可状を与えた。
  • 3ヶ月現地に滞在した後、ダ・ガマは数人のポルトガル人を残して帰路につく。帰路は生鮮食料品の不足のため壊血病になる者が続出し、180人の船員の内30〜100人がこの病気に罹って死亡した。ダ・ガマの弟パウロも死亡し、乗員の足りなくなった船一隻を放棄するなど苦しい航海が続いたが、1499年にザンジバル島(現在はタンザニア領)に寄航した後、9月にポルトガルに帰還した。
  • 「インド洋提督」の称号を得たダ・ガマは1502年に20隻の船団を率いて再びインドへ航海した。アラブ商人に対してカリカットでのポルトガルの貿易権を獲た功績をもって、帰国後伯爵に序せられた。
  • インド洋航路の開拓は大航海時代をもたらし、ヨーロッパ諸国の勢力圏を大幅に拡大させた。なお彼は、モガディシオにて、伝説の王国プレスター・ジョンを発見したと伝えられている。
  • 1524年、インド総督として赴任のため3度目の航海を行ったが、ゴアに到着して間もなくマラリアに感染しクリスマスイブの12月24日に死亡した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヴァスコ・ダ・ガマ-Wikipedia

(2006.10.22掲載)




▲ポルトガルのインド航路開拓者・バスコ・ダ・ガマ。





55年?の生涯

オスカー・シュレンマー 
Oskar Schlemmer 【バウハウス教授】

(1888.?〜1943.?)
死因?--?座

  • 主に舞台工房を率い、人間をメインテーマに作品を制作した。最も有名な作品はトリアディッシュ(トリアディック)・バレエ(Das Triadische Ballett)。
    スピードのある都市や機械の登場が人々に衝撃を与えた1920年代、その影響はアートの世界にも及んでいった。
  • シュレンマーの絵画や、舞台に登場する人間たちは、まるで機械仕掛けのロボットのようにもみえる。
  • 彫刻家あったオスカー・シュレンマーは1921年〜1929年までバウハウスで教鞭をとり、1923年からは舞台工房を担当している。彼は、その間に絵画理論をはじめ、劇場という総合的演技空間から多くの示唆を受けて、ダンスにおける抽象化の理論化(アブストラクト・ダンス理論)を実践した。
  • 『トリアディック・バレエ(三つ組みバレエ)』は彼が1916年〜21年にかけて完成させた作品で、バレエといってもダンス・クラシックの技法を用いているわけではなく、立方体、円錐、球体の3つの幾何学基本形が使われた独特のコスチュームをつけたダンサーが、メカニックな動き(=まるでロボットのようにぎこちない動き)をするようなタイプのものだったというが、形態と色と光によって構成される新しい舞台空間を創りだした。
  • この『トリアディック・バレエ』は1922年にシュツットガルトで初演され、その後も話題をよんだが、バウハウス閉鎖後は、1989年東西ドイツの統合時にバウハウスが再建された際、復元公演がとり行われている。
  • ※トリアディックは「三つ組み」の意味で、「滑稽な場」「荘厳な場」「ファンタジックな場」の3場面を3人のダンサーが12通りのダンスを18種類の衣装を付けて踊ったという。とにかく3にこだわっていた。
  • シュレンマーのトリアディック・バレエ とタルホ・イナガキの人間人形のコレスポンダンス。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    イヴ・タンギーの経歴と作品
    イヴ・タンギー-Wikipedia

(2007.09.16掲載) 

★身体改変のためのコスチューム

▲ドイツはシュトゥットガルト生まれの画家、舞台美術家でバウハウスで教鞭を執った一人オスカー・シュレンマー。



◆1924年オスカー・シュレンマー『トレアディック・バレエのポスター』


◆1989年『トリアディック・バレエ』復元公演

55年と10日の生涯

イヴ・タンギー 
Raymond Georges Yves Tanguy 
         【20世紀のフランスの画家】

         

(1900.01.5〜1955.01.15)
死因?--山羊座

  • 20世紀のフランス出身の画家。フランスのパリで船乗りの家庭に生まれる。幼少時はブルターニュ地方で過す。海軍に志願した後、船員などさまざまな職を経験。
  • ショーウィンドウに飾られていたデ・キリコの作品を見て、絵画に目覚める。1926 オートマティスムの原理に共感。
  • 1927年、初めての個展を行なうが、シュルレアリスム運動のリーダーであったアンドレ・ブルトンは、この個展を見て、タンギーを「もっとも純粋なシュルレアリスト」であると評した。
  • 1927-29 煙のモチーフが中心となる。1930 “流れ”がモチーフになっていく。1937 代表作ともいえる『緩慢な日』を制作。、1939年第二次世界大戦の勃発にともない、ケイ・セージ(Kay (Katherine Linn) Sage, 1898年6月25日 - 1963年1月8日)とともにアメリカに移住。
  • 1942年 『岩の窓のある宮殿』を制作。巨大な画面へ移行。1955年 死去。
  • タンギーの作品では、昼とも夜ともつかず、どこともわからない場所に、何とも名付けようのない物体がひしめきあっており、観る者を不安にさせずにおかない。
  • 代表作「緩慢な日」(1937年)「岩の窓のある宮殿」(1942年)。
  • タンギー、じつにいいどす。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    イヴ・タンギーの経歴と作品
    イヴ・タンギー-Wikipedia

(2007.02.25掲載)

 





▲シュルレアリスム運動のリーダーであったアンドレ・ブルトンをして「もっとも純粋なシュルレアリスト」であると言わしめたイヴ・タンギー。

 

55年と14日の生涯

魯迅
Rojin   【『阿Q正伝』で知られる 中国の作家】

(1881.09.25〜1936.10.09)
結核の悪化で死去--蠍座

  • 中国の作家、思想家。浙江省紹興の生れ。本名周樹人。字は予才。魯迅のほか数十の筆名がある。周作人の兄。
  • 家は富裕な読書人階級であったが、幼時に没落し、社会の冷酷さを味わいつつ成長。
  • 11歳で南京に、21歳で日本に留学。南京では改革派の、日本では革命派の影響を受ける。
  • 23歳、医学を志し、仙台医専に学んだが、国民国家を創造する力を文学に見いだして文学の研究・翻訳に転じた。
  • 帰国後、五・四文学革命期(五・四運動,文学革命)に『狂人日記』(37歳)を発表し、旧体制下の中国を痛烈に批判。
  • 40歳で『阿Q正伝』を著し、中国における近代文学の黎明を告げた。39歳以後は北京女子師範などで教鞭をとる。45歳、三・一八事件で北京を逃れ、上海に落ち着く。この間、『中国小説史略』などの古典文学論、『故郷』『祝福』『孤独者』などの小説と散文詩『野草』や、「雑感」と呼ばれる多くのエッセーなどによって中国文学の中心的存在となった。
  • 49歳で中国左翼作家聯盟が成立するとその実質的な指導者となり、芸術至上主義や右翼民族主義の『正面の敵』と闘う一方、革命陣営内のセクト主義など「内部の敵」にも鋭い批判を浴びせた。
  • その死は中国各階層から哀悼された。新中国になってから詳細な全集が刊行され、日本でも竹内好らによる優れた研究がある。
  • 仙台医学専門学校時代、解剖学の藤野厳九郎教授は魯迅を励まし、彼のノートを朱筆で添削し続けた。これがのちに中国を代表する作家を生むきっかけになる。
  • 「むかし景気が良かったものは復古を主張し、いま景気がよいものは現状維持を主張し、まだ景気の良くないものは革新を主張する」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)岩波文庫「魯迅評論集」。

(2009.09.17掲載)



▲『阿Q正伝』で知られる 中国の作家、思想家・魯迅。
(イラスト 大城さん)

 

魯迅語録

◆「人間というものは寂しいものではない。楽天的なものだ。生命は進歩するものだから」

55年と19日の生涯

大森 房吉
Fusakichi Ohmori   【日本地震学の父】

(1868.10.30〜1923.11.18=明治元年9月15日〜大正12年)
脳腫瘍---蠍座

  • 1868年、福井県福井市に下級武士大森藤輔の五男として生まれる。小学生の時に上京し、1890年に東京帝国大学理科大学(現東京大学)物理学科を卒業。
  • その後大学院で気象学と地震学を専攻し、イギリスから招かれた地震学者ジョン・ミルンの指導のもとで1891年に発生した濃尾地震の余震についての研究を行った。そして、1894年に本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す(余震の)大森公式も発表している。
  • 1894年から3年間ヨーロッパへ留学し、帰国後(1896年)、帝国大学理科大学地震学教授となる。
  • 濃尾地震を契機に文部省(現文部科学省)内に設置された震災予防調査会の幹事を長らく務め日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている。
  • 1898年に世界初の連続記録可能な地震計、大森式地震計を開発。1899年に初期微動の継続時間から震源までの距離を決定できることを示す(震源距離の)大森公式を発表。
  • 1905年に同じ講座の助教授であった今村明恒が今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌「太陽」に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。大森は震災対策の必要性は理解を示していたが、そのために社会に混乱を起こすことを恐れていた。そのため、その記事を根拠の無い説として退ける立場をとった。
  • 1910年の有珠山の噴火の際には、地震計を壮瞥町に設置して火山性地震の詳細な観測を行った。
  • 1923年に大森は汎太平洋学術会議に出席するためオーストラリアに出発。その留守の間に関東大震災が発生。大森はちょうどシドニーのリバビュー天文台でこの地震が地震計に記録されているのを見たという。この帰国途上の船上で脳腫瘍のために倒れ、そのまま帰国後に死去した。
  • 「大森先生は、現福井市で生まれられ(生誕の碑が、手寄町にあります。お父様の関係から、東京に向かわれ、帝国大学に入られました。初代地震学講座関谷清景教授のもと、助教授を勤められ、後に、二代地震学講 座教授になられました。後輩に今村教授(三代)がおられます。大森先生は、大森 公式(震源距離 =α(SーP))や、大森式地震計、余震の大森公式等を開発され、地震学の父と称されています」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    大森房吉-Wikipedia
    (1)「大森先生資料館

(2007.10.07掲載)




▲濃尾地震を契機に文部省(現文部科学省)内に設置された震災予防調査会の幹事を長らく務め日本の地震学の指導的な立場にあり、「日本地震学の父」とも呼ばれている地震学者・大森 房吉。

 


◆画像-1大森房吉先生(博士)の肖像写真(大森先生資料館)

55年1ヶ月と19日の生涯

吉野作造
Sakuzou Yoshino   【民本主義の創始者】

(1878.01.29〜1933.03.18)
死因?---水瓶座

  • 政治学者、評論家、思想家。宮城県生れ。東大卒。31歳で東大助教授、のち教授。
  • 『中央公論』を中心にキリスト教的ヒューマニズムに立脚して文筆活動を展開。
  • デモクラシーに民本主義の訳語を与え、普通選挙論、枢密院・貴族院権限縮小論、軍部改革論を主張して大正デモクラシーに理論的根拠を与えた。
  • また新人会・黎明会などを組織し、学生・インテリに強い影響を与えた。1924年朝日新聞社に入ったが、筆禍事件で退社。『明治文化全集』を編集。社会民衆党結成にも尽力。
  • 「〈政治は民衆のためにするもの〉と、民本主義を提唱し、大正デモクラシーを理論的に支えた。体外政治では、当初、大隈内閣が大陸侵略戦争を本格化させようと、山東半島での権益などを求めた「対華21か条の要求」を容認していたが、後に、軍部主導の大陸侵略政策を批判した」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2007.12.31更新)




▲ 民本主義を創始した政治学者・吉野作造。

55年1ヶ月と29日の生涯

猪俣 公章
Kousyo Inomata    【作曲家、作詞家】

(1938.04.11〜 1993.06.10)
死因?---牡羊座

  • 福島県河沼郡会津坂下町出身。
    開成高校、日本大学芸術学部音楽科を経て、古賀政男に師事。
  • 森進一のデビュー作にして大ヒットとなった『女のためいき』(1966年)を作曲、その後も森に『港町ブルース』、『おふくろさん』、『冬の旅』などの大ヒット曲を提供する。
  • 他にもテレサ・テンに『空港』、藤圭子に『京都から博多まで』や『女のブルース』、水原弘に『君こそわが命』、五木ひろしに『千曲川』を提供し、成功を収めた。君こそ我が命 (1967年) 作詞:川内康範、歌唱:水原弘  
  • 「演歌の名曲を残しただけでなく、多くの演歌歌手を育て上げた猪俣公章。日大芸術学部に在学中からバンドマンとして活躍し、演歌の大御所作曲家・古賀政男に師事して作曲を学びました。26歳で作曲家としてデビューし、森進一を見い出して「女のためいき」「おふくろさん」「港町ブルース」などの大ヒットを生み出しました。彼は若手の育成にも力を入れ、才能のある演歌歌手を“内弟子”として自宅に住まわせ、炊事、掃除や洗濯など、生活の基本から身につけさせました。そのレッスンは非常に厳しく、どんなにうまく歌えても、心がこもっていないと認めてもらえなかったといいます。内弟子になった人もレッスンだけだった人もいますが、藤あや子、香西かおり、坂本冬美、マルシアなど、現在の演歌界を支えている歌手の多くが、彼の教えを受けています」(1)。
  • 「今日と言う日は:もしかすると、既に皆様もお気付きなのかも知れませんが、本日は中村八大吉田正の忌日と思って居たら、何と猪俣公章までもが、全く同じ日に召されて居りました………。こちら」(2)。
  • ---確かにそうですね。当サイトでは忌日によるシンクロニシティは扱っていませんが、新しく猪俣公章のバイボを作ってこの事実をお供えしたく存じます。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    猪俣公章-Wikipedia
    (1)「おんがく日めくり
    (2)投稿者: Thori-Tung さん..2008/ 6/10 23:49:43(火) [3158]

(2008.06.15更新)





▲演歌の名曲を残しただけでなく、多くの演歌歌手を育て上げた猪俣 公章。

55年2ヶ月と5日の生涯

安井かずみ
Kazumi Yasui    【愛称はズズ(ZUZU)】

(1939.01.12〜1994.03.17)
肺癌 ---水瓶座

  • 神奈川県横浜市出身。本名は漢字で一美。 フェリス女学院中・高等部を経て、文化学院油絵科を卒業。在学中にみナみカズみのペンネームで訳詞をしたことがきっかけで作詞家となる。
  • この頃、彫刻、生け花、茶道、ピアノも習得。 絵画から音楽に進み、昭和40年に「おしゃべりな真珠」(歌・伊東ゆかり)でレコード大賞作詞賞を受賞した。独特の発想による歌詞世界で知られる。
  • 1967年(昭和42年)、ローマで結婚。翌年、ニューヨークで離婚と華やか。1960年代はNYにも住む。 西欧、東欧、アメリカやアフリカのサファリなど世界各地も旅した。
  • 1970年代、安井の自宅は「川口アパート(プール付き)」と呼ばれ、親友加賀まりこ、野際陽子、コシノジュンコ、かまやつひろし、吉田拓郎や当時のトップモデルなど多くの業界人が集った。酔っ払ってフェラーリをぶつけて「いいの、また買うから」と言ったらしい。 親友加賀まりことともに伝説のレストランキャンティ常連組の一人。
  • 1965年伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で日本レコード大賞作詞賞など多くの賞を受賞した。コシノの話では、貰ったトロフィーや盾はジャマだからとゴミ箱に捨てていたらしい。
  • 1977年に、作曲家の加藤和彦(サディスティック・ミカ・バンド)と結婚。コンスタントにエッセイストとしても活動したが、1994年3月17日、肺癌のため55歳の若さで逝去した。
  • 作品は約4千曲にのぼる。歌謡曲ヒットナンバーを手掛けた作詞家の一人でもあり、エッセイストやモデルなど幅広く活動した。
  • 代表曲に「私の城下町」「恋のしずく」「よろしく哀愁」「赤い風船」などがある。その作風は、自らのライフスタイルに象徴されるようにお洒落なもの。
  • 沢田研二に提供した「危険なふたり」「あなたへの愛」「あなただけでいい」「追憶」など独特の美意識でスーパースター“ジュリー”を創り上げた。また、訳詞家の先駆けとしても活躍し、「ヘイ・ポーラ」「悲しき雨音」「オー・シャンゼリゼ」などから「ドナドナ」まで数多くの作品を手がけ、なかでもS.アダモの「雪が降る」日本語詞はカラオケ人気曲のひとつとして歌い継がれている。
  • 東京・六本木を活動の拠点に文化人との交流も深く、自立した女性として常に時代の先端を歩き続けた彼女。その作品を通じて団塊の世代やそれに続く若者達のライフスタイルや恋愛観に多くのメッセージを残した。
  • 「〈♪いろんなことがあるけれど それは誰でもそうだけど 悔いのない青春を 詩って歩きたい〉 
    個人的に大のお気に入りで有る「折鶴」と言う詩の一部です。 なお、本人は盟友たる(加賀)まりこに対して、チビで色黒でブスだったとコンプレックスを持って居た様ですが、渚ゆうこのBlogに有るポートレイト等を見ると、俄には信じられないのですけれど…(右欄)……こちら」(1)。
  • 数々の有名人からも人望が厚く、信仰の厚いクリスチャンでもあったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    安井かずみ-Wikipedia
    Utrecht[ユトレヒト] | 人物リスト
    (1)投稿者: Thori-Tungさん..2007/ 9/ 8 13:51:07(土) [2297]

(2007.09.08更新)





▲昭和40年代に数々のヒット曲を世に送り出した作詞家、翻訳家、エッセイスト安井かずみ。

55年2ヶ月と20日の生涯

アイ高野
Ai Takano    【好きさ、好きさ、好きさ…】

(1951.01.12〜2006.04.01 AM11:33)
急性心不全---山羊座

  • 東京都生まれ。本名・高野元成(たかの・もとなり)。
    1966年、グループサウンズ「ザ・カーナビーツ」でデビュー。ボーカルとドラムスを担当。「おまえのすべて」と叫び「好きさ好きさ好きさ」を大ヒットさせた。
  • 以後、「ザ・ゴールデン・カップス」に加わり、80年には「クリエーション」に参加。「ロンリーハート」などがヒットし、1960〜70年代に一世を風靡した。
  • 「好きさ、好きさ、好きさ…おまえのすべてぇ〜」。キュートなルックスにハイトーンボイス、そしてドラム・スティックを観客に差し向けるパフォーマンスで、若者を熱狂させた。
  • 3月21日に体調の不良を訴え入院。一度は持ち直したものの容体が急変し、帰らぬ人となった。関係者によると、高野さんは10年ほど前に肝硬変を患ってから、定期的に病院に通院。
    その頃から体調はすぐれなかったが、先月21日に突然、胸の苦しみを訴え、都内の病院に緊急入院した。3日後に容体はいったんは落ち着いたが、今月1日午後11時33分、帰らぬ人になった。
  • 「奇しくも倒れた日は、2月28日に収録したNHK−衛星第2「わが青春のグループサウンズ」の放送日。高野さんは「好きさ好きさ好きさ」など数曲を歌い、ドラムを叩いた。他にオックス、ハプニングス、ジャガーズなどGSの人気バンドが顔を揃え、高野さんはうれしそうだった。収録時の様子について、NHK衛星放送局の田中雅之チーフプロデューサーは「とても元気な様子で得意なドラムスティックを楽しそうに振りながら、にこやかな表情で力強く歌ってくれました」と振り返り、「まさか1カ月あまりで亡くなるなんて想像できません。また出演していただきたいと思っていたのに…」と絶句した。高野さんは昭和42年、16歳の時にザ・カーナビーツを結成。「好きさ−」が大ヒットし、若者のアイドルに。芸名は、愛、I、Eyeの3つの意味を込め自分で付けた。愛称の“もっちん”は本名の元成(もとなり)から。44年に同グループを解散し、ザ・ゴールデン・カップスにドラマーとして加入。54年にはクリエーションにボーカルとして参加し、日本テレビ系ドラマ「プロハンター」の主題歌「ロンリー・ハート」が大ヒットした。団塊の世代の“アイドル”として、これからも活躍が期待された高野さん。55歳とは、あまりにも早すぎる死だった」(1)。
  • 好きさ、好きさ、好きさ、忘れられないんだ、おまえのすべてぇ〜

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)サンケイスポーツ - 4月4日8時2分

(2006.04.08掲載)





▲ザ・カーナビーツ、ゴールデンカップスなどで活躍したドラマー兼ボーカル・アイ高野。


◆遺影は3年前のライブ時に撮影されたもの。母、香寿子さんが選んだ。


◆一世を風靡したザ・カーナビーツ時代のアイ高野(右手前)

 

55年2ヶ月と25日の生涯

明石元二郎
Motojiro Akashi   【第7代台湾総督】

(1864.09.01〜1919.10.26=元治元年8月1日〜大正8年)
死因?---乙女座

  • 福岡県福岡市出身。修猷館中学(現・福岡県立修猷館高等学校)を経て1889年(明治22年)に陸軍大学校を卒業。1901年(明治34年)にフランス公使館付陸軍武官となる。
  • 1902年(明治35年)にロシア公使館付陸軍武官に転任する。日露戦争中に、参謀本部より当時の金額で100万円を工作資金としてロシア革命支援工作を画策。内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポチョムキン号の叛乱等に関与。 ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本に勝利をもたらす。 彼の活躍は一人で陸軍10個師団に相当するとも言われている。
  • 寺内正毅朝鮮統監の下で、憲兵司令官と警務部長を兼務し、韓国併合の過程で、いわゆる「武断政治」を推し進めた。
  • 台湾総督在任中には、水力発電所を設置し、日本人と台湾人が均等に教育を受けられるよう法を改正、華南銀行を設立した。遺言により、遺体は台湾に埋葬され、2000年現地有志により改葬された。
  • 日露戦争が勃発するとスウェーデンに移り、 この地を根拠としてロシアの革命分子と連絡をとるなど、対ロシア諜報活動に従事した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2006.05.01掲載)





▲一人で陸軍10個師団に相当するとも言われた明治、大正期の陸軍軍人(最終階級:大将)明石元二郎。

55年2ヶ月と27日の生涯

ソシュール
Ferdinand de Saussure   【構造主義の先駆者】

(1857.11.26〜1913.02.22)
死因?---射手座

  • スイスの言語学者、構造主義言語学の祖。ライプチヒ、ベルリン両大学で印欧比較言語学を学んだ。
  • パリの高等学術研究所で比較言語学、のちジュネーブ大学で比較言語学、サンスクリット学を担当。
  • フランコ・スイス学派、ジュネーブ学派の基を築いた。印欧比較言語学についてもすぐれた業績を残す。
  • 生前、ソシュールはまとまった本は残さず、没後弟子によって編集・出版されたのが『一般言語学講義』(1916)。同書はパロールとラングの分析、共時言語学と通時言語学の区別など、言語学の方法論を明確にし、構造言語学の基礎となった画期的著作。
  • その理論は文化人類学のレヴィ・ストロース、精神分析のラカン、哲学のフーコー、文芸批評のバルトなど他分野でも継承、発展され、構造主義の先駆となる。
  • 構造主義は人間を構造の中のひとつの要素としてとらえ、それぞれの要素は、他の要素との関係の中でのみ意味を持つと考えた。これに対し、サルトルらは歴史と人間の主体性を否定する冷たいイデオロギーだ、と非難した。
  • 「ソシュールの講義ノート全訳 完結---言葉の変化 音で追う思考---「差異の体系」 構造主義へ発展---1907〜11年にジュネーブ大学で3回に分けて行った「一般言語学」講義で、「言語とは何か」という根本問題に取り組んだ」(1)。
  • 「実体概念から関係概念へ」という20世紀人文諸学におけるパラダイム転換に重要な役割をはたした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2008.04.11朝刊「文化」より抜粋。-

(2008.04.11更新)



★近代言語学の祖

▲20世紀人文諸学におけるパラダイム転換に重要な役割をはたした ソシュール。




▲町田健/著 研究社

55年3ヶ月と3日の生涯

平岡 浩太郎
Koutaro Hiraoka  【自由民権運動家】

(1851.07.21〜1906.10.24=嘉永4年6月23日〜 明治39年)
心臓病 蟹座

  • 福岡藩士平岡仁三郎の次男として福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。号は玄洋。内田良平の叔父。藩校修猷館に学ぶ。
  • 1868年(明治元年)戊辰戦争で奥羽に転戦し功をなし、その後同志と共に藩兵隊就義隊を組織する。
  • 1875年(明治8年)高知の立志社に倣って武部小四郎が矯志社を組織すると箱田六輔等と共に参加する。
  • 1877年(明治10年)西南戦争に呼応して越智彦四郎、武部小四郎等が挙兵(福岡の変)するとこれに加わり、その後単身西郷軍に合流し豊後日向の本営において謀議に参与、敗戦後東京の獄に懲役一年の刑を受ける。
  • 出獄後は自由民権運動に参加、1878年(明治11年)12月箱田六輔、頭山満、進藤喜平太等と共に向陽社を組織し、1881年(明治14年)向陽社を玄洋社と改名すると初代社長に就任する。
  • 1882年(明治15年)朝鮮の壬午事変に際し義勇軍計画を起こすなど早くからアジア問題に関心を示した。その後実業方面に進出、赤池・豊国炭鉱などの経営に成功しその豊富な資産で玄洋社の対外活動を支えた。
  • 1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選し以後当選6回。1898年(明治31年)には憲政党結成に尽力し隈板内閣樹立に努めた。
  • ロシアの満洲侵略が顕著となると1903年(明治36年)に対露同志会に参加し対露強硬論を唱えた。
  • 1906年(明治39年)心臓を病み10月24日死去。享年56。
  • 関連項目:内田良平、頭山満、玄洋社、黒龍会、憲政党

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    平岡浩太郎-Wikipedia

(2008.11.04掲載)



▲日本の政治団体玄洋社初代社長、平岡 浩太郎 。

55年3ヶ月と7日生涯

ルイザ・メイ・オルコット
Louisa May Alcott   【若草物語の生みの親】

(1832.11.29〜1888.03.06)
水銀中毒の後遺症---射手座

  • 米国の女性作家。 アメリカ ペンシルヴェニア州 ジャーマンタウン生まれ。少女時代をボストンで過ごす。父ブロンソンは生活力に乏しい教育者で、オルコットは若い頃から働く必要があった。
  • 作家になるのが夢だった彼女は、16歳で「花物語」を書く。南北戦争さなかの30歳の時、志願して従軍看護婦となり、その経験から「病院スケッチ」を書いて認められる。
  • これより数年、いわゆる彼女の「隠れた年月」の間に、通俗的スリラーやゴシック小説を偽名等で発表し、明るい家庭小説の作家とは異なる一面を示す。
  • 1968年、「若草物語」で大成功をし、家庭生活を中心とした自伝的色彩の濃い子供向けの作品を多数発表した。
  • 「ルイザの父はエマソンソローとともにアメリカ思想史に名を残すほどの人でしたが、理想主義の傾向が強く、時にはお金に困ることも……。けれど、4人の娘達は「物質的困窮と不幸は違う」と教えられ育つのです。ルイザは家計を助けるために16歳の時には家庭教師などを始めますが、エマソンの娘に書いた物語「フラワー・フェイブルス」を父が雑誌の編集者に見せたところ「お嬢さんは教師に向いています。作家にはなれません」と言われたことが作家になろうと思ったきっかけだと言います。南北戦争に従軍看護婦として北軍に参加した後、その経験を書いた「病院のスケッチ」が好評となり、ロバーツ・ブラザーズ社のナイルズ氏に少女向けの作品を書いて欲しいと頼まれます。そして生まれたのが「若草物語」。氏は最初の12章を読んで「退屈な話」と言いますが、ルイザは落胆するどころか奮起して書き上げ出版します。常々、男に生まれたかったと言っていたというルイザは、竹を割ったようなさっぱりとした性格で、美人ではなかったけれど、背が高く均整の取れた、その気丈な性格が姿に現れているような印象深い女性であったと彼女の伝記作家チェニィは伝えています。ルイザは姉と妹の幸せのために全身全霊を尽くし、総ての子供のための学校作りを夢見た父の願いを数々の小説の中で実現させ、1888年に「花物語」を出版したあと亡くなりました。父が死んで2日後のことでした。---「若草物語」は、ハリウッドでは何度も映画化されている。それだけ愛されている作品なのだろう。日本で有名なのは、1933年にジョージ・キューカー監督、キャサリン・ヘップバーン主演の作品と、1949年にマービン・ルロイ監督で映画化され、ジューン・アリスンが主演した2作」(1)。
  • 「まず、彼女の没日と死因についての記述がこちらにありましたのでお知らせいたします。「健康状態の悪化に反して、オルコットは残りの生涯も物語を書き続け、最後には南北戦争中の労働時に発症した水銀中毒の後遺症で倒れた(略)。ルイーザ・メイ・オルコットは1888年3月6日、死の床に伏していた父を見舞った2日後にボストンで逝去した。」また、同ページからですが「後半生において、オルコットは女性参政権の主張者となり、コンコードで初めての投票権をもつ女性となった」そうです」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    【ザ】作家辞典を作ろう
    (1)「ルイザ・メイ・オルコット
    (2)投稿者:野市さん..2008/11/29 18:59:17(土) [3978

(2008.11.30更新)



▲西部開拓時代に、前向きで進歩的で自立した女性として生きた作家ルイザ・メイ・オルコット。


◆映画「若草物語」


55年3ヶ月と11日の生涯

貴ノ花/花田 満
Mitsuru Hanada   【角界のプリンス】

(1950.02.19〜2005.05.30 PM5:40)
口腔底がん---魚座

  • 大相撲の元大関貴ノ花で、若乃花、貴乃花の兄弟横綱の父で師匠の二子山親方(本名花田満=はなだ・みつる)。元横綱・初代若乃花で元同協会理事長、花田勝治さん(77)の実弟。室蘭生まれ、青森県弘前市出身。
  • 競泳で当時の中学生記録を更新するなど活躍したが、「水泳ではメシを食えない」と兄の二子山部屋に入門し、1965年夏場所で初土俵。
  • 体重100キロそこそこの細身軽量ながら、強じんで柔らかい足腰を活かし、1968年春場所で、当時史上最年少で新十両(18歳0カ月)に昇進。18歳8カ月で新入幕。新三役(小結)の70年秋場所には横綱大鵬を破って初の三賞となる殊勲賞を獲得。1972年 秋場所後にライバル輪島とともに大関に昇進。小兵の大関として人気を集める。
  • 輪島、北の湖(現相撲協会理事長)両横綱のライバルとして場所を盛り上げ、1975年春場所で北の湖を破って初優勝し、史上初の兄弟優勝を果たす。
  • 同年秋も制し、優勝2回、史上1位の大関在位50場所を記録したが、1981年初場所で引退。
  • 1982年に藤島部屋を設立し、1988年春には勝さん、光司さんがそろって角界入り。「入門した瞬間に親子の縁を切った」と宣言して猛げいこをさせた。貴乃花は94年九州場所後、三代目若乃花も98年夏場所後に横綱に昇進。空前の人気を呼んだ「若・貴フィーバー」を師匠として支えた。
  • 1993年に二子山部屋を吸収合併し、二子山の名跡も兄から継いで一時は関取11人を抱える隆盛を誇ったが、2004年に貴乃花親方に部屋を譲った。また1996年から同協会理事を5期務め、審判部長や、ナンバー2の事業部長として土俵の活性化に尽力したが、2003年11月の九州場所前に検査入院。この時にあごのリンパ節を手術したという。
  • 口腔底がんで入院していた二子山親方の容体が急変したのは30日午後5時すぎ。がん細胞が皮膚を破って表面に出るほど病巣が広がり、片側の肺も動かない状態になっていた。通常の倍のモルヒネを打って痛みに耐えながら病魔と闘っていたが、5時40分帰らぬ人となった。
  • 「バタフライの中学新記録を出した五輪候補の有望な水泳選手、花田満少年が角界入りしたのは昭和40年(1965年)、東京五輪の翌年のことだった。「水泳ではメシが食えない」――彼の決断に角界はいくら感謝してもしきれない。昭和40年代と50年代前半の大相撲を支えた人気力士、大関在位50場所は史上1位の記録。名大関、貴ノ花の土俵には華があった。甘いマスクにいつも悲壮感が漂っていた。最後まで勝負を捨てない粘り、驚異的な反り腰は行司泣かせ。今の力士には見られないお手本である。「つき手」か「かばい手」かで論議になった対北の富士戦、渾身(こんしん)の力で寄り切った北の湖との優勝決定戦、一瞬早くまげから落ちて敗れた高見山戦、数々の土俵がまぶたに浮かぶ。〈角界のプリンス〉という異名は土俵の鬼・初代若乃花を兄に持つ重い十字架でもあった。自身は、綱を張れなかったが、若貴兄弟を横綱にした。「子育てを藤島部屋へ聞きに行き」。そんな川柳もあった。入門から40年、貴ノ花とともに駆け去った時代を思う。二子山親方を悼む」(1)。
  • 「〈忍〉---生前の彼は色紙にこの一字をよく書いた。その字に〈元貴ノ花 二子山〉とサインを添えた。最後まであきらめず、粘り強かった大関らしい。忍耐の忍は〈おし〉とも読み、〈押し〉にも通じる。相撲界では「押すには強い意志が必要。引くは簡単。引くのを我慢して押すことに徹すれば強くなる」と教えられる。「押さば押せ、引かば押せ」が鉄則だ。貴ノ花は押し相撲ではなかったが、あの細身で真っ向からぶつかり、立ち合いで決して変化はしなかった。忍こそ彼の身上だった」(2)。
  • ボクの奥さんが双子山部屋騒動を巡る井戸端会議の芸能ネタを披露してくれた。それはもう仰天もので、とてもここには書けない内容である。真偽のほどは定かではないが、いずれ世間に出てくるだろう。嗚呼、「人生の幸福の量・保存の法則」!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.05.31夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (2)読売新聞2005.06.03夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2005.12.31更新)




▲小兵の大関として人気を集めた「角界のプリンス」貴ノ花。


◆優勝決定戦の末、北の湖を破って初優勝を決めた貴ノ花(1975年3月23日)。



◆息子・貴乃花の断髪式で。

 

貴ノ花語録

◆「足が土俵に吸い付いている」

55年3ヶ月と13日の生涯

清沢 洌 
Kiyoshi Kiyosawa   【ジャーナリスト、評論家】

(1890.02.08〜1945.05.21=明治23年〜昭和20年)
急性肺炎 水瓶座

  • 長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の比較的裕福な農家の三男として生まれた。なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。
  • 当時の同地での渡米熱をうけて、1907年(明治40年)、17歳のとき研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航した。シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ(ただしその履歴を示す文書は残されていず、朝日新聞社への就職の際は「米国の大学」をおえたとしている)。
  • 1911年(明治44年)頃からは現地の邦字紙の記者となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。当時はアメリカ西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた。日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の自由主義平和思想家であった。
  • 1918年(大正7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々としたのち、1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。
  • 1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。だが清沢のリベラルな論調は右翼勢力からの激しい攻撃にさらされた。特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判され、1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる。
  • フリーとなった清沢は1929年から1932年(昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。1929年にはアメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐慌を現地で体験することになったし、また1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議は、雑誌「中央公論」の特派員という肩書で取材した。会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。その他、この欧米滞在中にはチェコスロバキア外務大臣ベネシュ、イタリア首相ムッソリーニ、実業家ヘンリー・フォードなどと会見、それら会見記は公刊されている。
  • また1931年(昭和6年)の満州事変勃発、1932年の上海事変は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい世論を目の当たりにすることにもなった。
  • 1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。満州国単独承認問題、国際連盟における満州問題の討議、引き続くリットン調査団派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した外相内田康哉、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権松岡洋右をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本のジャーナリズムに対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき自由主義の立場を明らかにしていった。
  • 1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。
  • 帰国後の清沢は再び本来の、対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り戻す。彼は「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれに対する米国の一連の対抗措置はことごとく彼の希望と反する方向に進んだ。
  • 1941年2月26日、情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳、等)。これ以降の清沢は時事問題に対する直接的な意見の表明は不可能となり、外交史に関する著作という形で間接的に当時の政策を評論することとなった。幕末開国時から日ソ中立条約までを俯瞰する『外交史』およびその増補改訂版として太平洋戦争開戦までを記す『日本外交史』は著名であるし、大久保利通がいかにして征韓論を打破し、台湾出兵およびその後の北京における対清交渉を果断にまとめていったかを賞揚する『外政家としての大久保利通』は、昭和戦前期日本外交に対する痛烈な批判となっている。大久保の外戚である吉田茂(妻が牧野伸顕の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。
  • その他、石橋湛山が主幹を務める「 東洋経済新報」誌上では匿名執筆の形で時事問題をしばしば論じる一方で、ダンバートン=オークス会議にて討議された国際連合憲章原案をいち早く入手、分析批判し、清沢の対案を同誌上で提示している(石橋の勧めもあったという)点などは、その先見性を示すものといえる。
  • 開戦後1年経過した1942年(昭和17年)より、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記したこの日記は、終戦後『暗黒日記』の題で出版された。
  • 清沢自身は、終戦を目前に控えた1945年(昭和20年)5月21日、東京の聖路加病院にて急性肺炎で急逝。
  • 吉田茂、石橋湛山という後に首相となる2人を知己にもち、仮に戦後まで存命であれば政界あるいは言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    清沢洌-Wikipedia

(2008.06.11更新)




▲外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い清沢 洌。

 

 

55年5ヶ月と14日の生涯

ホ-フマンスタール
Hugo von Hofmannsthal  【早熟型の天才詩人】

(1874.02.01〜 1929.07.15)
死因?---水瓶座


  • 印象主義的な新ロマン主義の代表的作家。本邦では、ホフマンスタールと表記することも多い。ホーフマンスタール家は、チェコ出身のユダヤ系の商人イザーク・レーフ・ホーフマン が貴族の称号を受ける。
  • 地名姓風の姓(ホフマンの谷)を名乗るようになったことに始まる家系なので(正しくは Hofmann von Hofmannsthal)、「ホーフマンシュタール」は誤読。初めLoris、Theophil Morrenなどの筆名を使った。のちにソフォクレス・エウリピデスなどの古典劇に近代的解釈を加えて、優れた翻案・改作を作り出した。
  • ウィーン世紀末文化を代表する青年ウィーン派(Jung Wien)の一員。16歳にして自らの詩集が認められるという早熟型の天才詩人。
  • 小説『チャンドス卿の手紙』では言葉から意味が失われ、伝達的手段として無力な存在になってしまった苦悩を描く。
  • そのような思想的な理由でぱったりと詩作をやめた後は演劇などを書き始める。後期の文学作品では、リヒャルト・シュトラウスと協力して製作したオペラ台本『ばらの騎士』や『影のない女』等が有名。
  • 「リルケやホーフマンスタールも、舞踏に触発され、舞踏としての詩を紡ごうとした」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ホフマンスタールとは - はてなダイアリー
    フーゴ・フォン・ホーフマンスタール-Wikipedia
    (1)読売新聞2006.02.25朝刊 山口庸子著「踊る身体の詩学」の林道郎の書評より抜粋。

(2007.02.28更新)




▲オーストリアの詩人、作家、劇作家フーゴ・フォン・ホ-フマンスタール。

 

 




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