玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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age 57


50音インデックス


■57歳の
 シンクロニシティ


■57歳-?
ソロモン王
劉安
イブン=スィーナ
六角 定頼
本因坊道策
池 玉蘭? 玉瀾? 玉欄?
ザビーナ

■57歳-前半-1→進む
エド・マロー
大友宗麟
ハンフリー・ボガート
ハリー・パークス
下村 観山
マルセル・ジュノー
寺田寅彦
岩崎弥之助
小林 繁
福田和子
キャプシーヌ
マレービッチ
リシュリュー

■57歳-前半-2→進む
ヴィクター・ヤング
前田山 英五郎
須田 開代子
黒田 官兵衛 孝高
M・メンデルスゾーン
ザメンホフ
ローリングス
松尾 和子
アンドレ・シトロエン
トマス・モア
セルゲイ・ディアギレフ
古河緑波/ロッパ
金田 伊功
瑳峨 三智子
青山 孝史
岸田理生
菊竹六鼓

■57歳-後半→進む
戸谷 公次
ニコロ・パガニーニ
鴨居 玲
メーヌ・ド・ビラン
菅原道真
アタチュルク
ミッシェル・フーコー
中野正剛
スキャットマン・ジョン
中川一郎
北原白秋
柳亭 痴楽(5代目)
大松博文
加藤正夫
園山俊二
ピーター・ライス
岩倉具視
種田山頭火
土方 巽
砂澤ビッキ
山口小夜子
郷里 大輔
しばた はつみ


■57歳のエポック


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58歳の語録

 

つくづく思ふ、人間の死所を得ることは難いかな、私は希(ネガ)ふ、獣のやうに、鳥のやうに、せめて蟲のやうにでも死にたい、私が旅するのは死場所をさがすのだ!」
(種田山頭火)

57歳のシンクロニシティ!

  • 57歳では二人の詩人、歌人・俳人がシンクロする。
     
    ●「邪宗門」で知られる詩人、歌人・北原白秋(1885.01.25〜1942.11.02)は糖尿病と腎臓病で57年9ヶ月と8日の生涯(水瓶座)。
    ●流浪の俳人・種田山頭火(1882.12.03〜1940.10.11)も心臓麻痺で57年10ヶ月と8日の生涯(射手座)を終えた。


    (2009.08.02更新)    
     



57年?/80年?/110年?の生涯

ソロモン王 
Shlomo/ Sulayman 
         【“ソロモンの栄華”と呼ばれた王】

(BC982年頃~BC925年頃/BC1011年〜BC931年/BC1035年頃 〜 BC925年頃/諸説有り)
死因?---?座

  • 旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第三代の王。父はダビデ王。母はバト・シェバ。17歳の頃で王位についた。在位紀元前965年~紀元前925年頃。
  • 父ダビデ王が築いた国を継承し、 その王国をより強大にするためにもっぱら努カした。イスラエルの王ダビデは家臣ウリヤの妻バト・シェバと不義の関係を結び、夫ウリヤを死に追いやった。この二人の間に二人目の子として生まれたのがソロモンであり、彼は父の死後、アドニヤなど他の王位継承を狙う者たちを打倒して王となった。
  • ソロモン王はエジプトのファラオの娘をめとり、ギブオンで盛大なささげものをした。そこで神がソロモン王の夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモン王は知恵を求めた。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した。ここからソロモン王は知恵者のシンボルとなった(ソロモン王が子供のことで争う二人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、後に江戸時代の大岡裁きの話にまで取り込まれている。)。
  • シバの女王もソロモン王の知恵とエルサレムの繁栄を見て驚いたとされる。ソロモンのもとでイスラエル王国は繁栄をきわめ、ソロモンは初めてエルサレム神殿を築いた。
  • 近隣王国と条約を交わし、 政略結婚を重ね、国内に平安を確立し、王国を当時の世界の列強国に並ぶ国に育てあげた。 ソロモン王は外国との交易を広げ、銅の採鉱や金属精錬、など大きな事業を進めて国の経済を発展させた。また、政略上、経済上重要な町の防備を堅め、新しい都市の建設をも始めた。
  • ソロモンの建設事業で冠たるものはエルサレムの王宮と神殿であろう。これらはユダヤ人の民族生活、宗教、生活の中心となった。旧約聖書のなかの箴言と雅歌は、 ソロモンの手によるものといわれている。三代目の王のソロモンのときに最初の神殿(第一神殿)が建設された。
  • 晩年、ソロモンが異教徒の女性を側室にしたことは神の怒りにふれることになり、ソロモンの死後、イスラエルは分裂、衰退していくことになる。その後は息子のレハブアムが継いだ。
  • 長きに渡ってユダヤ教の伝承ではソロモンは知恵文学の著者とされていたが、歴史的な裏づけはない。
  • ソロモン(アラビア語ではスライマン、トルコ語ではスレイマン)はイスラム教においても預言者の一人とされる。スライマンは知恵に満ちていたと同時に、アラブの民間伝承である精霊(ジン)を自由自在に操ったとされる。
  • 「ソロモン王はエジプトのファラオの娘をめとり、ギブオンで盛大なささげものをした。そこで神がソロモン王の夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」というと、ソロモン王は知恵を求めた。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した。ここからソロモン王は知恵者のシンボルとなった(ソロモン王が子供のことで争う二人の女の一件で賢明な判断を示した逸話は広く世界に伝わり、後に江戸時代の大岡裁きの話にまで取り込まれている)。
  • 「ソロモンの晩年の妻たちは、シドン人の神アシュタロテ (フェニキア人が崇拝した女神。豊穣と性愛の神) やアモン人のミルコム (偶像神モレクの別名) やモアブのケモシュに従って行った。これらは人身犠牲を要求する神々だった」(1)。
  • 「楽しみに読ませていただいています。誤りと思われる記事を見つけましたのでご報告します。---またソロモンの生涯も(こちらは推測ですが)57年ではありません。参考にされているwikipediaも同じページで年数が違っているのですが、紀元前1035年頃 〜 紀元前925年頃ないしは、紀元前1011年 〜紀元前931年としております。前者なら110歳、後者なら80歳ということになります。ちなみに、ソロモンの年齢について具体的な数字は聖書に記されていませんが、その統治期間については「四十年であった」とされています。以上対応していただければ幸いです」(2)。
  • ---ぼうふうさん ご指摘だんだん。並記して判断は後世に委ねることといたします。
  • ソロモンは、イスラエルの神エホバから知恵を授けられたといわれるほど賢い王様だった。晩年700人の妻と300人のそばめを所有したと伝えられる。これもエホバの知恵なのか?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    集英社版・学習漫画 世界の歴史人物辞典
    ソロモン王-Wikipedia
    (1)「ソロモン王朝の分裂
    (2)投稿者:ぼうふうさん..2011/ 1/ 4 11:55:29(火) [8599]

(2011.01.05更新)


?肖像を探しています。

▲古代イスラエルの国王ダビデの子・ソロモン王。

 

 

 





57年?の生涯

劉安 
Ryuan      【『淮南子』の主著者】

(BC179.?〜BC122.?)
自害---?座

  • 漢の高祖(劉邦)の末子(六男)・淮南q王劉長の子。紀元前174年、父・劉長は柴奇の謀反に加わったとして流罪となりその地で絶食死したが、劉長の4人の子はすべて列侯に封ぜられた。劉安も紀元前172年に阜陵侯となり、ついで紀元前164年には淮南王に転じた。
  • 景帝の即位後、紀元前154年に呉楚七国の乱が発生するとこれに同調しようとしたが、臣下にとどめられ未遂に終わった。しかし、以後も数千の兵を雇い、武備をかため、しばしば反乱を企図する。 紀元前124年、子の劉遷が謀反を起こそうとしたと疑われ、所領を削減されたことにますます不満を募らせた。劉安は臣下の伍被らと計らい反乱の計画を練ったが、伍被の密告により露顕し、劉安は自害。一族はことごとく処刑された。
  • 学問を愛し、書や琴を好んだ。多くの食客を抱え、方術の士を招いたという。彼らとともに道家・儒家・法家・陰陽家のなどの諸説・思想を収集して編纂し、内書21篇、中書8篇、外書23篇を著して「鴻烈」と命名した。そのうちの内書が今日『淮南子』として知られる。
  • 劉安は、中国のことわざ「一人が道を得れば、鶏や犬も天に昇る」の出典としても知られる。王充の『論衡』道虚篇によると、劉安は神仙の術を求め、霊薬を自ら調合し、それを服用すると、身体が空に浮き上がった。それどころか、家で飼っていた鶏や犬までもが天に昇ったという。現在では「一族のうち一人でも出世すれば、能力もない親戚や側近まで地位が上がる」という意味で用いられる。
  • 漢書巻44 淮南衡山済北王伝第十四
  • 「淮南子は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年-紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
    『三国志演義』に登場する架空の人物の劉安は別人。
    「中国の古典「淮南子」に見える「足を削って履(くつ)に適す」は、本末転倒を形容する成句として知られる。確かに、靴のサイズに合わせて足を痛めつけるのでは、筋が通らない」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    劉安-Wikipedia
    淮南子-Wikipedia
    (1)読売新聞2008.12.22朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.03.18掲載)



▲中国前漢時代の皇族(淮南王)、学者である劉安。
▲淮南王・劉安(左の人物)(《神仙伝》より)





57年?の生涯

イブン=スィーナ 
Ibn Sina   【アリストテレス思想の保存者】

(980.08.?〜1037.?)
死因?---?座

  • 中央アジアのブハラ出身で、イランの各地で活動した。
    当時の世界の大学者であると同時に、中世ヨーロッパのスコラ学に多大な影響を与えた。
  • ペルシアのハラ付近のアフシャナに生まれ、ブハーラ(イスラーム世界の東端のトルキスタン)で育った。父アブダーラと母シタラの長男。全名アブー=アリー・アル=フサイン・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=スィーナー。ラテン名:アウィケンナ (英語読みの、アヴィセンナも普及している)Avicenna。
  • 父アブダーラはバルフ出身のペルシア系の教養ある人で、ブハラに移ってサーマン朝の徴税吏となり、土地の女性シタラと結婚した。父はシーア派の一派イスマイル派の信者であった。
  • シーナが5歳の時一家はブハラ市内に移り住んだ。シーナは私塾に入れられ、勉学に励んだ。10歳の時、アリストテレス学派の哲学者が家庭教師についた。15歳頃より独学で勉強を続けた。また、幼いころからあらゆる分野の学問に天分を発揮し、10歳でコーランを暗誦し、シーナは勉強に疲れるとブドウ酒を飲んだ。
  • 16歳で医学を修めるなど、エリートの道を順調に歩んでいた。シーナは無料で病人を治療して経験を積んでいく。やがて、医者として有名になっていく。
  • サーマン朝の王の知遇を得て、王の病気の治療に成功した。イブン・シーナはこのご褒美としてブハラの宮廷図書館の利用を許された。次から次へと読書して、18歳の時にはほとんどの学問を修めた。
  • しかし999年にはサーマーン朝が滅亡、20歳を過ぎた頃よりブハラを離れ、以後各地を転々とし放浪の旅に出る。再びブハラに帰ってくることはなかった。この間彼は生涯独身で過ごし、家族はいなかった。
  • タジキスタンの研究者によると、著作数は全部で約290点にのぼる。そのうち、医学関係が約40点、哲学関係か約185点、天文学・自然科学関係が約30点、音楽関係のものや文学関係のものもある。
  • 代表的なのはアラビア語で書かれた『医学典範』である。『医学典範』は紀元1000年頃から書かれはじめ、1020年頃に完成したようである。約100万語からなっているという。
    その一つの章に「旅と旅人について」というのがある。その書き出しは「旅人は、日頃家庭で慣れているものから切り離され、疲れと体の不調に襲われる。旅人は自らさまざまな病に冒されぬよう注意しなければならない」である。
  • ブルガーンに居を定めた後1015年にブワイフ朝に高い地位で招聘される。1020年に『医学典範』の執筆を終え、同じころ『治癒の書』を書き始める。その後彼は政争に巻き込まれ、再び放浪の旅に出る。1021年イスファハーンに移り住み、その地の君主の庇護を受ける。
  • 君主に同行しハマダーンへ向かう旅の途上1037年にその生涯を終える。享年57であった。
  • 哲学者としての彼の主著『治癒の書』は、膨大な知識を集めた百科事典的なものである。この書は、後学のイスラーム知識層に多大な影響を与えたのもさることながら、アリストテレスの思想を保存、紹介したことにも大きな意義がある。彼12世紀以降イブン・シーナーの著作はヨーロッパに紹介され始め、古代ギリシャの知識が失われていた中世ヨーロッパ世界に、特にスコラ学の大成に、イブン=ルシュドと共に大きな影響を与えた。
  • 医学者として、彼はヒッポクラテスやガレノスを参考に理論的な医学の体系化を目指し『医学典範』を執筆した。『医学典範』は当時におけるギリシア・アラビア医学の集大成であり、ラテン語に翻訳された後17世紀ごろまでヨーロッパの大学で使用され、またインドではさらに長く20世紀初頭まで使用されていた。
  • その他『指示と覚知』、『救済の書』、『科学について』等の他膨大な著作があるが、現在までにその多くが散逸している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    イブン=スィーナー-Wikipedia
    アルク城(新発見!イブン・シーナーの肖像画)

(2007.03.18掲載)




▲ペルシアを代表する知識人で、哲学者・医者・科学者であったイブン=スィーナ。
画像-1:「イブン=スィーナー-Wikipedia」


画像-2:「アルク城(新発見!イブン・シーナーの肖像画)」


画像-3:「世界の哲学・思想のすべて」(日本文芸社)107P





57年?の生涯

六角 定頼 
Sadayori Rokkaku      【南近江の戦国大名】

(1495.?〜1552.01.21=明応4年〜天文21年1月2日)
死因?---?座

  • 南近江(滋賀県)の守護大名。六角高頼の次男。
  • 幼少の頃から京都にある相国寺に僧侶として入っていたが、兄氏綱が戦争で重傷を負ったために、還俗して家督を相続することとなった。
  • 定頼は織田信長に劣らない先見の明を持つ優秀な人物で、特に内政手腕に優れていた。まず、家臣団を本拠である観音寺城に集めるために城割を命じた。これは後世の一国一城令の基になったと言われている。そして経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。これは後の信長が倣った楽市楽座令と同義である。
  • このように六角氏の最盛期を築き上げた定頼は、足利氏から管領に準ずる地位も与えられた。
  • 定頼は三好氏・浅井氏と両面に敵を抱えながら巧みにこれらを打ち破り、また中央政権にも参画して六角定頼の名を天下に轟かせた。しかし結果的には、京都に平安をもたらすには至らず、浅井氏に対してもこれを駆逐もしくは屈服させることはできなかった。
  • そして天文二十一年(1552)一月、野望を達成できぬまま定頼は死没する。享年五十八歳(数え)であった。子の義賢が跡を継いだ。
  • 先進的な手法で、内政にも手腕を発揮した。大永3年(1523年)には日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じた。これは後世の一国一城令の基になったと言われている。
  • 織田信長が行ったことで有名な楽市楽座を創始したのも定頼である。定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したのである。
  • 子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略も巧みで、さらに足利将軍家の後ろ盾になることで、当時では中央政治をも左右するほどの勢力を持っていた。
  • 「定頼がさまざまな人脈を通じて幕府政治を遠融コントロールしていたという新事実が浮かび上がってきた」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    六角定頼-Wikipedia
    (1)?

(2009.10.15掲載)



▲六角高頼の次男で六角家の全盛期を築き上げた六角 定頼。


◆六角定頼書状

 





57年?の生涯

本因坊道策 
Dousaku Honinbo  【四世本因坊/実力十三段/前聖】

(1645.?〜1702.?=正保2年〜元禄15年3月26日)
死因?---?座

  • 江戸時代の囲碁の棋士。石見国馬路(島根県大田市、旧邇摩郡仁摩町)に、父山崎七右衛門、母ハマの二男として生まれる。本名は山崎三次郎。法名は日忠。名人碁所。
  • 実弟の道砂は同じく算悦門下で、後に井上家を継いで3世井上因碩となった。7歳の頃から母に囲碁を習い、1658(13歳)江戸へ上り、三世本因坊道悦に入門。
  • 1667年、御城碁初出仕。延宝5年(1677年-32歳)、三世道悦の跡を継ぎ四世本因坊となり、それと同時に名人碁所に就く。
  • 寛文8年(1668年)の安井算知の名人碁所就位時以降、碁所の地位は他の家元と実力、或いは政治工作で争われる事が多かったが、道策の名人碁所就位の時は他家からの異論は全くなかったと言われる。道策はそれ程卓抜した実力を持っていた。道策は圧倒的強さを誇り、当時の一流棋士達をことごとく先以下に打ち込み、実力十三段と称揚された。
  • 天和2年(1682年)には琉球の親雲上浜比賀に4子置かせて勝っている。1687幕府より碁所証文を授かる。
  • 段位制度を整え、御城碁制度を整備、優秀な師弟を多く育成、近代的な「手割論」を創始。元禄期の隆盛を導く。天下敵なしと言われ、「碁聖」と称えられる。近世囲碁の基盤を確立し、近代囲碁への展望、飛躍の道を拓いた。
  • 道策は手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出した。また、従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれる。
  • 丈和・秀策の後聖に対して、前聖と称される。史上最強の棋士として、道策の名を挙げる人は極めて多い。
  • 名人を九段、名人上手間を八段、上手を七段とし、以下二段差を1子とする段位制を確立した。この段位制は1924年に日本棋院が設立されるまで使われていた。
  • 墓所は、京都の妙泉山寂光寺、東京の本妙寺、生家の山崎家の3箇所にある。生家には三次郎時代に愛用した磐石も残されている。
  • 歌聖人麻呂、画聖雪舟と並び、石見三聖の1人ともされる。
  • 道策には五虎と呼ばれる小川道的、佐山策元、桑原道節、熊谷本碩、星合八碩などの、優秀な弟子がいた(これに、外家で初の上手を許された吉和道玄を加えて「六天王」ということもある)。道策はまず道的を跡目に指名したが、これに桑原道節が反発、自分と勝負の上で跡目を決定してもらいたいと申し出た。しかし道策はこれを拒み、実弟の三世井上因碩(道砂)を説得して引退させ、道節を井上家四世に据えて納得させた。しかしこれほどの期待をかけた道的はわずか21歳で夭逝し、代わりに再跡目とした佐山策元もまた25歳で世を去った。そして策元の死後は跡目を立てなかった。これは2人の死のショックからというよりは、道知の成長に期待をかけたためといわれている。道知は道節の後見を得つつ成長し、無事本因坊家五世を継いで後に名人碁所になった。なお道知は道策の実子という説もある。
  • 「四世本因坊道策は当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(ハンデの種類)にまで打ち込み、実力十三段と称揚された。もちろん名人にも文句なしに就任している。始祖算砂、棋聖道策と言う二人の不世出の棋士により、本因坊家は名実共に四家の筆頭となった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    第1回囲碁殿堂入り
    本因坊道策-Wikipedia
    (1)「囲碁の歴史 - Wikipedia

(2009.07.18更新)



▲手割の考え方など多くの革新的な手法を生み出し、従来の力戦ではなく、全局の調和を重視した合理的な打ち方を用いたことなどから、近代囲碁の祖と呼ばれる本因坊道策。

 



歴代本因坊

◆世襲本因坊
一世本因坊算砂
二世本因坊算悦
三世本因坊道悦
四世本因坊道策
 跡目本因坊道的
 跡目本因坊策元
五世本因坊道知
六世本因坊知伯
七世本因坊秀伯
八世本因坊伯元
九世本因坊察元
十世本因坊烈元
十一世本因坊元丈
十二世本因坊丈和
十三世本因坊丈策
十四世本因坊秀和
 跡目本因坊秀策
十五世本因坊秀悦
十六世本因坊秀元
十七世本因坊秀栄
十八世本因坊秀甫
十九世本因坊秀栄
二十世本因坊秀元
二十一世本因坊秀哉
◆タイトル五連覇による本因坊
二十二世本因坊秀格
二十三世本因坊栄寿
二十四世本因坊秀芳
二十五世本因坊治勲

 





57年?の生涯

池 玉蘭? 玉瀾? 玉欄? 
Gyokuran Ike-no    【池大雅の妻】

(1727.?〜1784.?=享保12〜天明4)
死因?---?座

  • 江戸中期の女流画家。京都に生まれる。旧姓は徳山、名は町、号は玉蘭?、玉欄?、玉瀾?。別号に、松風、遊可、葛覃居がある。祖母は歌集『梶の葉』で知られる歌人梶、母も同じく歌人の百合。代々、才色兼美の家系で、祖母以来、祇園社門前の茶店を営んだと伝えられる。
  • 池大雅の妻となり、真葛ケ原に居をかまえた。始め松風柳沢淇園に学び、画は大雅に似ており、蘭竹梅菊を得意とした。また和歌も能くする。のち大雅に南画を学び、当時一流の女流画家として知られた。
  • 大雅の画風をよく受け継いでおり、明澄な色彩美と流麗な運筆がしめされるものの、大雅の豪放さに対して、穏和・繊細な傾向をしめすとされる。
  • 代表作として、当館所蔵の≪渓亭吟詩図≫のほか、≪便面図巻≫(東京国立博物館)などがある。大雅と同じように自由三昧な生活をし、奇行・逸話等が多い。天明4年(1784)歿、57才。
  • 「ロンメルの下を見たら池大雅でした。ついででスミマセン。彼のバイボに寒梅に漱石の素晴らしい句を添えてお供えします。
    〈玉蘭と大雅と語る梅の花〉 夏目漱石
    (たまさん、玉蘭はこの字が正しいようです)」(1)。

  • ---ユリウスさん 漱石の素晴らしい句、おおきにです。大雅のバイボに捧げました。生没年月日が和暦によるものだったので訂正しました。お言葉ではありますが、ボクが調べた範囲では玉瀾はこの字が正しいようです。こちら
  • 「たまさん おっしゃるとおり「玉瀾」が正しいです。スミマセンでした。広辞苑もそうなってました。お手数ですが、漱石の句も訂正をお願いします。ちなみに、「玉蘭」は白木蓮のことだそうです。蛇足ながら、たまさんが調べた静岡県立美術館の記述では『号は玉欄』なんて書いていますから、ネットでは何が正しいのか、訳が分からなくなることがままあります」(2)。
  • 「念のために岩波文庫の坪内稔典編「漱石俳句集」に当たってみたら、あれれっ、「玉蘭」となっています。ひょっとしたら、漱石は知っておりながらこの漢字を使ったのかも知れません。俳句の方はそのままでよろしいのではないかと思えてきました。たまさんの判断にお任せします」(3)。
  • ---玉蘭、玉瀾、玉欄---“たまらん”ですわ。この場では、いろいろあるちゅーことで並存させ、判断は後世に委ねることにします。
  • 「〈たま〉つくし/一つ たまたま、ロンメル将軍の下が池大雅だった。/二つ 大雅の奥さんは玉蘭?、玉瀾?、玉欄? /三つ もあって、おったまげた。/四つ 玉(たま)の下は何が本当?/五つ またまた、難問が・・・。/六つ バイボのたまはたまらんという。/七つ 悩むたまさん、玉川に身を投げそう。/八つ 鎮魂(たましずめ)の祭りが必要?/九つ みなさま、目の玉を蘭瀾と光らせて、正解を見つけて!/とお とう、弾も尽きました」(4)。
  • ---ユリウスさん新春に相応しき品格のある「たま」つくしの数え歌、ありがとうございました。大笑点のようで“たまりません”どしたぇ〜。
  • 「エピソード1:ある日、夫の大雅が出かけた時、絵筆を置き忘れていったのに気がついた玉瀾が、やっと追いついて筆を差し出すと、夫は「どこのお方か存じませぬが、拾って戴いてありがとうございます」と深々と頭を下げた。それを受けて妻は「どういたしまして」と最敬礼をして引返したという」(5)。
  • 「エピソード2:また、ある日のこと、大雅が衣を売って酒と肴を買ってきた。相当盛り上がったのでしょうね。『妻も裸になって琴を弾ず』と古書にあるそうですから、夫婦とも裸で酒盛り?まさか、漱石先生、これを知っていて、わざと梅の花を持ってきて、文人趣味の句にしたてあげたのではないでしょうね」(6)。
  • 「玉瀾?玉蘭?玉欄? こりゃたまらん!」がユリウスさんのブログ「もの言う翔年」に掲載されました。
  • 「続・たまらん!」がユリウスさんのブログ「もの言う翔年」に掲載されました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:池 玉瀾】
    (1)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/ 3 13:46:10(水) [770]
    (2)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/ 3 17:19:01(水) [772]
    (3)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/ 3 17:28:32(水) [773]
    (4)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/ 4 10:27:44(木) [777]
    (5)(6)「もの言う翔年(ユリウス)続・たまらん

(2007.01.10更新)




▲当時一流の女流画家として知られた才色兼美の池 玉蘭? 玉瀾? 玉欄?。

 


◆渓亭吟詩図 18世紀(江戸中期) 紙本墨画着色 掛幅装 58.0×125.0cm
雄大な山水の景のなか、四阿(あずまや)につどい詩を吟じる文人たち。大雅から学んだ透明感のあるみずみずしい色彩とリズム感ゆたかな流麗な描線によって、山塊や種々の樹木が生き生きと描かれ、健康的で明るい絵画空間が生み出されている。画の中心となる四阿の場面には、衣をあざやかな朱色であらわした人物が配されている。これが、画中人物を際立たせる効果を生むとともに、アクセントとなって、緑を基調とした画面に変化をあたえている。また、画面左方、喬松の樹葉の下に、通りぬける爽やかな風を暗示するかのように、玉瀾の愛用した朱文楕円印「松風」が捺されている。こうした機知にとんだ遊印のあつかいにも注意したい。玉瀾画のなかでは最大級の大きさをもつ作品であり、整然とした画面構成、自律した描線の運動、明朗な彩色によって大画面を統制している点、筆者の力量と筆技の確かさをしめす優品といえる。なお、本作品の箱書きは、美濃の代表的な南画家として知られる高橋杏村(きょうそん)(1804‐68)によって安政元年(1854)6月になされている。(Yy)

 





57年?の生涯

ザビーナ・シュピールライン 
Sabina Spielrein     【女性精神分析家】

(1885.?〜1942.?)
死因?---?座

  • 南ロシアの、ドン河がアゾフ海にそそぐ河口に近いロストフ・ナ・ドヌの、裕福なユダヤ人家庭に生まれる。父親は実業家で、母親は当時としてはめずらしく大学教育を受けた女性だった。
  • 幼い頃から抜群の想像力を示し、自分だけの豊かなファンタジー世界をもっていたが、多感な少女時代に精神の安定を欠きいていた。両親は、娘に医学を学ばせるため、そして同時に精神療法を受けさせるために、スイスのチューリヒに留学させた。
  • サビーナはブルクヘルツリ病院に入院。彼女の担当医は、フロイトの新しい理論に傾倒する若きカール・グスタフ・ユング。病状は急速に好転し、翌年の夏には退院することができた。彼女はさらに翌年までユングに個人的に分析を受ける一方で、チューリヒ大学の医学部に入学。
  • ちなみに、ユングにトーニ・ヴォルフという愛人がいたことはかねてから知られていたが、このシュピールラインとの関係はごく最近になってはじめて明らかになった。いずれにせよ、ユングは女性患者にたいする影響力は抜群で、妻のエンマも「女性患者は一人のこらず夫に恋します」と言っている。またユングの女性弟子のなかには、かつて彼の患者だったものも多い。
  • ユングとシュピールラインがいつから恋仲になったのか、正確なことはわからないが、これが分析関係における転移の問題と密接に関わっているであろうことは疑いない。
  • ユングはブルジョワの娘エンマとの結婚生活に「飽きて」いた。フロイトは四十代になって夫婦間の性生活もとだえてしまうと、あとは死のことばかり考えるようになったが、ユングは尽きることのない生命力の持ち主だったし、なにしろシュピールラインと知り合ったとき、まだ三十にもなっていなかった。ユングは彼女に「一夫多妻【ポリガミー】」を説き、「これはぼくとぼくの妻以外は読んだことがないのだよ」といって自分の日記をみせ、「ぼくはユダヤ人女性に弱いんだ。きみを見ていると、S・Wを思い出す」と打ち明けた。
  • 二人の関係はしだいに人びとの知るところとなり、だれか(おそらくはユングの妻)がこのことをザビーナの両親に手紙で知らせた。しだいにシュピールラインにたいするユングの熱はさめていった。シュピールラインは彼のあまりに破廉恥な振舞いに憤慨し、フロイトに「直訴」しようと思い、会見を申し込む。ただし彼女は復讐を意図したわけではない。ユングにたいする愛情は、おそらくは死ぬまで変わることがなかった。
  • ユングはシュピールラインに会うのを避けるようになり、二人の「恋愛関係」は終わりを告げる。彼女はその後ベルリンに移り、ユダヤ人医師と結婚し、女の子をもうけた。だが、ユングとの文通は続いていたこと、ユングをなおも愛しつづけていたこと、そして「ジークフリート」の夢をすてぬばかりか、それに託してフロイトとユングの仲を取り持とうと努力を続けた。
  • 「精神分析医ユングの患者で愛人、その後ユングの影響で精神分析家となり、フロイトとも交流した女性だそうです。実は夕べ、ユングとザビーナの関係を描いた映画「The Soul Keeper」を見たんです。昨年末にもザビーナの別の映画が公開されたようですね。確かタイトルは「I was Sabina Spielrein」。---タイトルは「My name was Sabina Spielrein」の間違いでした。よろしくお願いします」(1)。
  • 「ユダヤ人、ザビーナ・シュピールライン博士の話が傑作。彼女は元ユングの患者・愛人だが、後にユング、フロイトの交流、離反、それぞれの理論発展の鍵をにぎる才女。彼女は 肉の父にユング、霊の父にフロイトをもつ英雄的息子を産むことを熱望していた。息子の名前は、フロイトの名前ジークムントを「指輪」におけるジークムントにかけて ジークフリートと決めていた。このジークフリート問題に両巨頭は人種問題もからんで大困惑」(2)。
  • 「シュピールラインはのちに、祖国ロシアに帰り、子供のための施設を設立し、彼らの世話に人生を捧げたようです。が、スターリンは、法によって精神分析を禁じ、分析家は次々に粛清され、シュピールラインの施設も閉鎖を余儀なくされました。1937年まで、シュピールラインの名はロシアの精神分析家のリストに載っているそうですが、それ以後の活動は不明で、ただ1942年ロシアでナチスに殺害された(ユダヤ人ですから)という記録だけが残っているということです」(3)。
  • ユングにおけるザビーナ・シュピールライン、ハイデガーにおけるハンナ・アーレント。 (ちなみにこのふたりの女性はユダヤ人家庭に生まれている)。
    今、ポリガミー(一夫多妻)が再び世間の話題になってきた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ザビーナ・シュピールライン
    (1)投稿者:みさん 2006.01.25(Wed) 20:05[983]
    (2)「【ワーグナー関連書籍】一言批評集
    (3)投稿者:みさん 2006.02.01(Wed) 23:56[1010]

(2009.05.30更新)






▲ユングとフロイトの運命を変えた ザビーナ・シュピールライン。

 


◆秘密のシンメトリー―ユング・シュピールライン・フロイト
深層心理学の歴史を一人の女性が変えた。ユングとシュピールライン、フロイトの秘められた関係を新発見の文書から解明し、世界に論争の渦を巻き起した問題作。

 








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