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59年と3日の生涯
アルベルト・S・デュモン
Alberto Santos-Dumont 【ヨーロッパの航空のパイオニア】
(1873.07.20〜1932.07.23)
ホテルでネクタイで首を吊って自殺---蟹座
(2009.04.24掲載)
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▲20世紀はじめにパリの空を自作の気球に乗って散歩でもするように飛び回ったブラジル人で、ブラジル有数の平和主義者であったアルベルト・サントス・デュモン。

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59年と9日の生涯
石田梅岩
Baigan Ishida 【商人の役割を肯定した京都商道の開祖】
(1685.09.15〜1744.09.24)
死因?---乙女座
(2004.10.16掲載)
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▲「士農工商」の封建社会にあって、広く庶民に「あきない」の基本を説き、京都商道の開祖ともいわれる石田梅岩。

▲売利を得るは商人の道なり
都鄙問答(亀岡市文化資料館蔵)
「商人の売利、天下お免しの禄なり」
(都鄙問答より)

▲心学講座(明倫舎蔵)
◆01:倹約
「倹約は、「知足知分(足るを知る、分を知る)」の表現とされ、道徳的価値を与えられる。そのポイントは、1)物を生かすという精神と、2)私欲を含まない「無私」の行為である、という点にある。「倹約と云ことは、世俗に説くと異なり、我が為に物事を吝(しわ)くするにはあらず、世界の為に、三つ入る(=要る)ものを二つにてすむようにするを倹約と云」(2)。
◆02:家業に精を出す(勤勉)
「商人の得る利益は、武士の俸禄と同じ、正当な利益である。だからこそ、商人は「正直」であることが大事。「実(まこと)の商人は先も立て、我も立つことを思ふなり」(2)。
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59年と14日の生涯-----2004年生誕120年
山本五十六
Isoroku Yamamoto 【真珠湾攻撃の立案者】
(1884.04.04〜1943.04.18)
戦死---牡羊座
(2009.08.08更新)
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▲連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃で戦果を挙げ、第二次大戦中は半ば神格化されるまでにたたえられた山本五十六。
★五十六の歌・辞世★
◆「ひととせをかえりみすれば亡き友の 数えたくもなりにけるかな」
◆「山本五十六の辞世です。一首は公的な辞世、一首は私的なものでしょうか。後の方は素直な詠いぶりで心をうちます。
〈天皇の御楯と誓ふま心はどどめおかまし命死ぬとも〉
〈大風に吾し思ひ心かくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや〉」(3)。
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59年と24日の生涯
中里介山
Kaizan Nakazato 【『大菩薩峠』の生みの親】
(1885.04.04〜1944.04.28)
腸チフス---牡羊座
(2006.12.18掲載)
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▲『大菩薩峠』で知られる小説家・中里介山。
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59年1ヶ月と2日の生涯
徳田球一
Kyuuichi Tokuda 【社会運動家、日本共産党指導者】
(1894.09.12〜1953.10.14=明治27年〜昭和28年)
糖尿病が悪化し、北京で客死---乙女座
- 名護の十字路近くに父・佐平の長男として生まれる。「球一」という名は「琉球一の男に」ということからの命名である。
沖縄で中学校を卒業し、23歳の時に上京。
- 日本大学で学んで弁護士になり、社会主義運動に参加、1922年の日本共産党結成に働いた。
- 1928年、3・15事件で検挙され、敗戦までの18年間獄中にあったが、戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、「徳球(とっきゅう)」の愛称で国民的支持と人気を得た。
- その後、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命。毛沢東やスターリンと会談し支持を得る一方、伊藤律らとともに亡命指導部「孫機関」から武装改革をはかるが失敗。
- 1953持病であった糖尿病が悪化し、北京で客死した。1955年までその死は明らかにされないが、同年9月13日に北京で追悼大会が行われ、三万人が参列したという。
- 遺骨は妻の徳田たつと志賀義雄の手によって帰国するが、ここ多磨霊園をはじめ青山霊園の革命戦士合同碑、八柱霊園(千葉県松戸市)の徳田家墓所に分骨されている。その生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現している。その業績を称えるため、記念碑も建立されている。
- 「浅沼稲次郎は『回想の徳田球一』の中で次のように球一を評している。「合法、非合法は別として、社会運動家にとって必要なことは、その組織力であり、行動力であり、政治力であると思う。
徳田氏はこれ等を備えたすぐれたる指導者であったと思う。戦前、戦後を通じてこの組織力、行動力、政治力を備えた政治家は少ない」(1)。
- 「1998年郷里名護に記念碑が建立されたが、この建立に際しては自民、公明、社会党などは保革を越えて賛成をした。
但し共産党が賛成も反対もしなかったことを特筆しておく」(2)。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)(2)「徳田球一」
(2005.08.27掲載)
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▲沖縄が生んだ偉大な思想家、政治家で、戦前、戦後の苦難の時代を高い志をもって社会運動に奔走し、日本を変革することに情熱を注いだ徳田球一。

◆GHQの命令により、日本共産党幹部18年ぶりに釈放される--1945年10月10日・府中刑務所(写真左・徳田球一、中央・志賀義雄)
◆思想家・徳田球一の碑名護
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59年1ヶ月と2日の生涯---2006年没後25年
谷内六郎
Rokuro Taniuchi 【『週刊新潮』の顔】
(1921.12.21〜1981.01.23=大正10年〜昭和56年)
急性心不全---水瓶座
- 東京に生まれる。10代より新聞・雑誌などに作品を発表し始める。1955年「行ってしまった子」で第一回文藝春秋漫画賞受賞し、周囲の注目を集める。
- そして翌年2月に『週刊新潮』が創刊されると、谷内の絵がその表紙を飾り、1981年の突然の死去まで表紙絵の連載は1号も休むことなく続けられた。
- 既成の“漫画”とは作風の異なる谷内作品の受賞が、後の漫画界に大きな影響を与えることになる。
- 1956年『週刊新潮』創刊時より表紙絵を担当。抒情と郷愁に満ちた作品が多くの読者を魅了した。1981年逝去。
- 「昭和31年の創刊号以来、長く「週刊新潮」の表紙を飾り、その独創性と叙情性で多くの読者を魅了してきた故・谷内六郎。氏が遺した数多い秀作の中から「少女」をモティーフにした6作を精選しました。中でも、谷内氏の屈指の名作と評価の高かった「タネを吹く子」が最高水準の複製画にて初登場。タンポポのタネがバレリーナの形をして空中を浮遊する様子など、これまで表現できなかった細部までも最高水準のクオリティを誇るジークレー法※により、見事に再現することができました。シャボン玉、海水浴、かき氷、かざぐるま、雪遊びなど昔懐しい昭和の風景をどうぞお楽しみください」(1)。
- 「谷内六郎というとまず、25年以上にわたり手がけていた『週刊新潮』表紙絵が思い出されますが、それと並行してさまざまな仕事を行なっていました。例えば、自らの絵と詩による絵本作り、雑誌などへの挿絵、100冊以上もの本の装幀、また企業から依頼された新聞広告やポスターデザインなど、その内容は幅広く、膨大な仕事量となります」(2)。
- 25年間に渡って「週刊新潮」の表紙絵を担当するということは、並々ならぬことではあったであろうけど、サスティナブル・フリーダムを求める上でそのポジションを得て継続したことは大きい。だけど、その為に自身のスタイルを変えられなかったとしたら-----。「人生幸福の量保存の法則」を思ふ。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)「新潮社」
(2)「没後25年
谷内六郎の軌跡 -その人と仕事-」
(2006.03.06掲載)
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▲「週刊新潮」の創刊と同時に表紙絵を担当し、25年間にわたり多くの読者の心を魅了し続けた漫画家・谷内六郎。
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59年1ヶ月と9日の生涯
隆の里 俊英
Toshihide Takanosato 【“おしん横綱”】
(1952.09.29〜2011.11.07=昭和27年 ~平成23年)
急性呼吸不全---天秤座
(2011.11.09掲載)
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▲二子山部屋所属の元大相撲力士で、第59代横綱・隆の里 俊英。
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59年1ヶ月と10日の生涯
マゾッホ
Leopold Sacher Masoch 【マゾの名の由来者】
(1836.01.27〜1895.03.09)
死因?---?座
(2003.12.12掲載)
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▲マゾヒズム(マゾ)の名の由来であるオーストリアの小説家マゾッホ。
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59年1ヶ月と14日の生涯
エリック・サティ
Erik・A・L・Satie 【環境音楽の始祖】
(1866.05.17〜1925.07.01)
死因?---牡牛座
- フランス北部の港町オンフルールに生まれる。6歳でスコットランド人の母をなくし、祖父母のもとで育った。
- 1878年(12歳!)パリ音楽院に入学するが、その保守性に反発し、学業なかばで軍隊に志願。ほどなく除隊し、モンマルトルの酒場でピアノ奏者として生計を立てつつ、ピアノ曲『3つのジムノペディ』(22歳!!)など初期の代表作を作曲。
- サティは大衆の中に生きた作曲家。パリの町の片隅に住んでいて、毎日職場としている酒場に歩いて通い、ピアノを弾いて生活の糧を得ていた。そんな彼の才能を惜しいと思い、彼を表舞台に出してやろうと一肌脱いだのが親友のドビュッシーだった。1891年(25歳)ドビュッシーと知り合い、長く友情を結ぶ。彼は絶対うけると考えたこの『ジムノペディ』を自らオーケストラ用に編曲し、発表。それ故にこの曲は彼の曲の中で最も有名な曲となる。『ジムノペディ』とは古代のお祭りの名前 。しかしサティは、俺はこれが似合ってるんだという感じで、相変わらず毎日酒場にピアノを弾きに行く生活を変えようとはしなかった。この頃ユトリロの母として知られるスザンヌ・バラドンと恋愛関係にあったという。
- 1903年(37歳)、形式への顧慮を忠告したドビュッシーに応え、古典的な音楽形式を皮肉るピアノ連弾曲『梨の形をした3つの小品』を作曲。以後、諧謔の精神に満ちた多くのピアノ曲が書き継がれた。
- ダダを先取りする音楽喜劇『メデューサの罠』(1913年)を経て、1917年(51歳)ディアギレフの依頼によりバレエ音楽『パラード』(台本コクトー、振付マシン、舞台美術ピカソ)を発表。管弦楽にサイレンやタイプライターなどを組み入れたこの作品で、ロマン派やドビュッシーの美学と訣別し、以後「六人組」の作曲家と交流を深める。
- その後の代表作に、永遠の美を思わせる交響的ドラマ『ソクラテス』(1917〜1920年)、バレエ音楽『本日休演』(1924年)などがある。
- サティは早すぎたダダイスト、頑固な諧謔家、皮肉屋といわれた。サティの曲は現代のイージー・リスニングに通じるものがあるが、彼は自分の音楽を「家具のような音楽」と言っている。
その簡潔で醒めた音楽表現、座り心地の良い椅子のようにさりげなく聴く者に寄り添う「家具の音楽」の思想は、のちのメシアン、ケージまで幅広い影響を及ぼしている。
- 人々が集まり騒いでいていろいろな音が混じっている酒場においては、人に「聴いてもらう」曲ではなく「邪魔にならず雰囲気だけ作ってくれる」曲が必要でだった。つまり彼の織りなす美しい調べは彼の職場故に生まれたもの。
- サティは一部の人にはよく知られていたが近年大きくファンが広がったのは、著作権が切れて楽譜が自由に販売できるようになったため。それまで彼の遺族が楽譜の商業的流通を拒否していた。
- サティの現代性は、慣習、権威、体裁にひどく弱い現代人たちを覚醒させるノンシャラス(無邪気な)な明るさこそにある。やたらと深刻ぶることの愚かさ、もったい付けることのうさん臭さ、権威を振りかざすことのばかばかしさ-----。サティは偽りの重さには敏感だった。
- サティは高邁さを掲げた理想主義者ではない。かといって、世紀末的退廃でもやるせない諦観でもない。ふっと力を抜いて周囲を見渡してみれば、案外楽しいこともある心地よい感触の「朝の音楽」「5月の若葉とそよ風」(1)。
- サティはアンビエント・ミュージック(環境音楽)の始祖、ミニマリズムの原点、異ジャンルの交流を図るインターメディアの先駆。そして、映画への接近。
- ボクも設計した1989年の「横浜博覧会住友館」のプロモーションビデオの音楽にサティの『ジムノペティ』を選んだよ。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)サティの無邪気な明るさ 伊藤制子
(2009.05.05更新)
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▲「ジムノペディ」で知られるフランスの作曲家・エリック・サティ。
(イラスト 玉野安実嬢)
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59年1ヶ月と21日の生涯
荒瀬英生/荒勢 永英
Hideo Arase 【がぶり寄りのもみあげ関脇】
(1949.06.20~2008.08.11 AM5:541)
急性心不全/心筋梗塞---双子座
(2008.12.09掲載)
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▲豪快無比ながぶり寄りとトレードマークのもみあげで知られ、75年から「荒勢」を名乗った大相撲の元関脇・荒瀬英生/荒勢 永英。
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59年2ヶ月ジャストの生涯
スタンダール
Stendhal 【文人旅行家】
(1783.01.23〜1842.03.23)
脳卒中---水瓶座
(2008.01.18更新)
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◎『赤と黒』

▲『赤と黒』『恋愛論』で知られるフランスの作家・スタンダール。
(イラスト 玉野安実嬢)

★スタンダール語録 ★
◆「人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためでなく、幸福になるためである」
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59年2ヶ月と3日の生涯
ヴァージニア・ウルフ
Virginia Woolf 【20世紀文学を代表する作家の一人】
(1882.01.25〜 1941.03.28)
入水自殺---水瓶座
(2005.02.02掲載)
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▲実験的な手法を用い登場人物たちの心理を深く掘り下げ高い評価を得た、20世紀文学を代表する作家ヴァージニア・ウルフ。

◆ダロウェイ夫人(1925)
◆「女が小説を書くためには、鍵のかかる部屋と、自分の自由になるお金がなくてはならない」
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59年2ヶ月と8日の生涯
菊池 寛
Kan Kikuchi 【『文芸春秋』の創刊主宰者】
(1888.12.26〜1948.03.06)
狭心症---山羊座
(2009.07.17更新)
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▲『真珠夫人』などで一躍流行作家となった・菊池寛。
(イラスト 大城さん)
★菊池寛語録★
◆「故人老いず生者老いゆく恨(うらみ)かな」 |
59年2ヶ月と28日の生涯
澁澤龍彦
Tatuhiko Shibusawa 【澁澤ワールドの住人】
(1928.05.08〜1987.08.05)
読書中に頚動脈瘤破裂によって死去---牡牛座
(2008.08.08掲載)
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★澁澤龍彦、略して「シブタツ」
▲「快楽主義者」として自分流のスタイルを公私ともに貫き通した澁澤龍彦。
(イラスト 玉野安実嬢)
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59年2ヶ月と29日の生涯
ドストエフスキー
Fyodor Mikhailovich Dostoevsky 【ロシアの文豪】
(1821.10.30〜1881.01.28)
死因?---蠍座
(2006.12.05更新)
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★ロシアのゲネウスロギをめぐって
▲過酷な監獄体験を『罪と罰』などの長編小説の原動力にしたロシアの作家ドストエフスキー。

◆イラスト・南伸坊
◆イラスト・南伸坊
◆1月28日、ロシアの文豪ドストエフスキーは、喀血して8時40分死亡。その夜ペテルブルク師範学校の学生が、ドフトエフスキーの法要に出席。法要のあと出棺のときと墓地での整理を依頼される。1月31日正午前、イサク大寺院唱歌隊が加わって短い祈祷をすませたあと、葬儀委員長の合図で出棺となった。待機していた輿に棺を乗せて修道院まで担いで行ったので、柩車は空車のままあとに従った。葬列の一団一団の間に唱歌隊が入った。学生達が棒で支えた大きな長い花輪が、棺を中心に故人と親しかった人たちや文壇の代表者たちを取り巻くようにして進んだ。野辺送りの人出は5万人を数え、沿道は大修道院の手前まで大変な人垣が出来た。2月1日。日曜日。午前10時、ネフスキー大修道院聖霊礼拝堂で葬儀が営まれた。前日同様、礼拝堂にはとても入れず墓地も人で埋めつくされていた。礼拝堂では弔辞がいくつかあった。大勢の僧侶、教会合唱隊、修道僧が墓に向かい、墓前でも弔辞が述べられた。
(「有名人の葬儀」より)
★ドストエフスキー語録★
◆「俺は神の作った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できない」
(「カラマーゾフの兄弟」)
◆人間は柔軟な動物であり、どんなことにも馴れてしまう存在である。
◆「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
(「カラマーゾフの兄弟」)
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59年2ヶ月と30日の生涯
アルフレッド・シスレー
Alfred Sisley 【典型的な印象派の画家】
(1839.10.30〜 1899.01.29)
死因?---蠍座
(2009.01.19掲載)
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▲フランス生まれのイギリス人の画家アルフレッド・シスレー。

▲アルフレッド・シスレー(ルノワール作)

▲洪水と小舟 1876 オルセー美術館
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59年3ヶ月ジャストの生涯
藤原 伊織
Iori Fujihara 【『テロリストのパラソル』の生みの親】
(1948.02.17〜2007.05.17 AM10:14)
食道癌---水瓶座
(2007.06.24掲載)
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▲「博打の借金」から生まれた直木賞といわれる『テロリストのパラソル』の作家・藤原 伊織。
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59年3ヶ月と7日の生涯
ユイスマンス
Joris-Karl Huysmans 【『さかしま』の生みの親】
(1848.02.05〜1907.05.12)
咽頭癌---水瓶座
(2005.10.16更新)
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▲神秘的、象徴主義的な『さかしま』を書いたユイスマンス。
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59年3ヶ月23日の生涯
ヨハネス・ヘルダー
Johann Gottfried Herder 【歴史哲学の祖】
(1744.08.25〜1803.12.18)
死因?---乙女座
(2004.07.28更新)
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▲スピノザ、ライプニッツの影響を受け汎神論的世界観を説き、人間を自然の頂点とし、民族の詩と言語の歴史における重要性を説いたヨハネス・ヘルダー。
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59年4ヶ月ジャストの生涯
ジャン・ラシーヌ
Jean Baptiste Racine 【古典劇の最高峰】
(1639.12.21〜1699.04.21)
死因?---射手座
(2005.04.24掲載)
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▲古典劇の法則を駆使して、情熱のとりことなる人間を主人公に格調高い心理劇を作り上げたフランス古典主義の代表者ラシーヌ。
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59年4ヶ月と16日の生涯
後藤象二郎
Shoujirou Gotou 【自由民権運動家】
(1838.03.19〜11897.08.04)
死因?---魚座
- 明治の政治家、自由民権運動家。土佐高知藩の出身。
- 公議政体論を唱え前藩主山内豊信に大政奉還を建白させた。明治政府では参与。参議を歴任したが征韓論に敗れ、西郷隆盛、板垣退助とともに下野。副島種臣、江藤新平らと愛国公党を組織し民撰議院設立建白に参画。1881年板垣退助らと自由党を結成。
- 1887年大同団結運動を起こしたが政府に買収された。1889年以降逓相、農商務相を歴任。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

▲坂本龍馬とはかつて敵同士だった二人だが、手を結ぶことにより、亀山社中は土佐藩から支援を受け、海援隊として結成された。いろは丸事件の海援隊の勝利は、後藤の参加があってこそと言われる。(港区港郷土資料館所蔵)
(2010.05.03更新)
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▲明治の政治家、自由民権運動家・後藤象二郎。
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59年4ヶ月と19日の生涯
高田真理
Mari Takada 【青い三角定規元メンバー】
(1947.05.07〜2006.09.26)
飛び降り自殺---牡牛座
- 兵庫県出身。1971年に西口久美子・岩久茂とともにフォークグループ「青い三角定規」を結成。ギターを担当した。
斬新なサウンドが時流にマッチし、「太陽がくれた季節」などのヒット曲を飛ばした。
- 1973年のグループ解散後は一時ソロとして活動したが、ほどなくして音楽活動から離れ、埼玉県入間市に居住した。居酒屋を経営したこともあったが、近年は無職だった。
- その後、ソロ歌手として活躍していた西口が2006年に歌手生活35周年を迎えることを記念して、青い三角定規の再結成が決定。2006年8月11日には正式に活動再開が報じられ、日本テレビの24時間テレビに出演。
- しかし、その直後の9月11日に高田は原付バイクを運転中に人身事故を起こし、業務上過失傷害と道路交通法違反(酒気帯び運転)の現行犯で逮捕され、処分保留のまま釈放された。折悪しく飲酒運転による事故の報道が過熱するさなかでの著名人による初の事故だったため、マスコミなどから強烈な非難が集中。
- 世論に配慮する形で、再結成は中止された。高田はそうしたことにより心労が重なり、2006年9月26日、ビルの12階から飛び降り自殺をはかり、死亡した。享年59。
- 引退後、5年間の山篭りを敢行。仙人のような暮らしをしていたという。マイペースな性格。
真理という名であるが、男性である。生涯独身で通した。晩年は高齢の両親との3人暮らしであった。埼玉医科大学助教授の高田真理は同姓同名のまったくの別人。晩年は居酒屋に入り浸り、”歌がうまい”と評判になっていた(歌手として認識されていなかった)
- 「26日、午後4時ごろ、埼玉県入間市内のマンションで遺体で発見された。高田さんは敷地内にうつぶせで倒れており、所持品に知人あての遺書があることなどから、狭山署は飛び降り自殺とみている。高田さんは今月11日に酒気帯び運転で人身事故を起こし、現行犯逮捕されていた。大ヒットを飛ばしたグループのメンバーの最後は壮絶なものだった。狭山署の調べではマンションは12階建て。住民の男性がドスンという大きな音を聞き、外に出たところ、うつぶせに倒れている高田さんを発見した。すぐに110番通報し、警官が駆けつけたが高田さんは設置してあるポールに突き刺さるような状態で即死だった。高田さんは黒のジャンパーに黒のズボンといういでたち。身に着けていたショルダーバッグの中にあった免許証から身元が判明した。バッグの中にはB5の半分ほどの紙に「死にたい」などと書かれた知人あての遺書があった。現場は高田さんの自宅から4〜500メートル離れたマンション。高田さんは両親と3人暮らしだったが、両親あての遺書は発見されていない。高田さんは今月11日に入間市内でミニバイクを酒気帯び運転して自転車の女性をはね、1カ月の重傷を負わせた。業務上過失傷害と道交法違反の現行犯で逮捕され、13日には送検、その後釈放されていた。28日に呼び出し命令を受けており、「行きます」と答えていたという。関係者は「変わった様子はなかったが、事故の後は精神的には参っていたんじゃないか」と語っている」
- “青春は太陽がくれた季節”---giveがsunsetになっちまった。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
新聞各紙訃報欄
「高田真理-Wikipedia」
(2006.10.10掲載)
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▲1971年に西口久美子・岩久茂とともにフォークグループ「青い三角定規」を結成し、太陽がくれた季節」などのヒット曲を飛ばした高田真理(左端)。
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59年4ヶ月と24日の生涯
横井 小楠
Syounan Yokoi 【熊本藩士、儒学者/明治新政府の参与】
(1809.09.22〜1869.02.15=文化6年8月13日〜明治2年1月5日)
攘夷派によって暗殺される ---乙女座
- 家系は桓武平氏北条氏嫡流・北条得宗家に発する。北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまり。
- 横江時利の子は横井時永といい、その子孫は時勝、時延、時泰、時安---と続いた。北条氏の子孫として代々祖先の通字であった「時」の字を名乗りに用いる。
- その子孫である横井小楠は1809年肥後熊本(現在の熊本県)に、熊本藩藩士の次男として生まれる。「小楠」は、かれが使った号のひとつ。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存(たいら・の・ときひろ[ときあり])。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。
- 私塾「四時軒(しじけん)」を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
- 藩校時習館時代、徂徠学から出発したが、江戸遊学後朱子学に転向。その思想は政治、経済、教育、外交等幅が広い。明治維新のスローガンである尊王攘夷は、政治と経済の問題であった。小楠は政治の問題として公議公論を提唱。経済的には「天地間固有の定理」とする民富論を展開。
- 主著『国是三論−富国論・強兵論・士道論』(1860)で、真の富は金銀ではなく、生活に必要な豊富な財であると説き、生活必需品、便益品を国富とするスミスと同じ視点に立っていた。
- 経済活動の基本に「至誠惻怛の心」、「四海同朋主義」を貫く経済論を展開した。その他の主著、談録に、『時務策』、『学校問答書』、『沼山対話』、『沼山閑話』等。
- 松平春嶽(慶永)の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわる。
- 世襲制を問題視し、武家政権の問題は、支配者が自己の家のための政治をしていて公共という概念を持っていないことであると見抜き、国際的レベルでも国内の藩同士でも、個人のレベルでも、交易、通交、討議、対話という倫理的で相互的な関係が重要であると考え、そのような意味で当時の日本を「無道」の「鎖国の政治」であると批判した。
- 慶応4年(1868年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都市中京区寺町丸太町下る東側(寺町通り)で暗殺される。享年61。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。
- 鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を「公共」と「交易」の立場から模索した。
- 小楠は、「公共」性・「公共」圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、「交易」を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも「交易」として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。
- 体系的に小楠の国家論が提示された文書として、1860年に越前福井藩の藩政改革のために執筆された「国是三論」がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた1852年執筆の「学校問答書」、ペリーやプチャーチンへの対応についての意見書である1853年執筆の「夷虜応接大意」、1864年の井上毅との対話の記録「沼山対話」、1865年の元田永孚との対話の記録「沼山閑話」などがある。
- 「小楠は米初代大統領ワシントンへの敬愛の念ひとかたならぬものがありましたが、この同じ年に十六代リンカーンも生まれています。幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれます。しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学しました。ここでも頭角を現し、やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。ところが、小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。それは、時習館の教えは学問のための学問に終っているのではないかという疑問です。小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそであり、要は理屈より実践をという主張です。このため小楠やその同志たちは「実学党」と呼ばれます。これに対して時習館出身者で占める藩の主流派「学校党」は「横井平四郎さんな実学めさる。学に虚実があるものか」と皮肉ります。しかし、小楠の唱える「実学」は単に実際の利益や実用だけを追いかけるものではありませんでした。国を富まし、民に力をつけ、立派な国づくりを実現するための方策でした。そのことは甥の左平太・大平を渡米させた際の送別の漢詩「何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」にもよく表されています」(1)。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「横井小楠-Wikipedia」
「横井小楠とは
- はてなダイアリー」
(1)「横井小楠と維新群像」
(2007.08.09掲載)
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▲勝海舟、坂本龍馬、西郷、木戸、大久保などに影響を与えた幕末の思想家、経世家・横井 小楠。

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59年5ヶ月と1日の生涯
剣持 勇
Isamu Kenmochi 【「ジャパニーズ・モダン」の祖】
(1912.01.02〜 1971.06.03)
ガス自殺---山羊座
(2008.03.21更新)
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▲日本そして世界を代表するインテリアデザイナー剣持 勇。

▲イサム野口と剣持勇

▲ラウンジ・チェ

▲S-5007HA(天童木工)

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59年5ヶ月と3日の生涯
岡田 資
Tasuku Okada 【大日本帝国陸軍の軍人】
(1890.04.14~1949.09.17)
刑死---牡羊座
- 1890年4月14日、鳥取県に生まれる。
1911年 陸軍士官学校卒業(第23期)、歩兵少尉任官。歩兵第四十連隊付を命ぜられる
1922年 陸軍大学校卒業(第34期)
1925年 駐英大使館付武官補佐官としてロンドン勤務を命ぜられる
1927年 歩兵少佐昇任、東京へ転勤
1928年 陸軍大学校教官
1930年 参謀本部員、秩父宮雍仁親王付侍従武官
1933年 教育総監部課員
1935年 歩兵第八十連隊長
1937年 第四師団参謀長
1938年 陸軍少将昇任、歩兵第八旅団長、武漢三鎮攻略戦に参加
1939年 陸軍戦車学校長
1941年 陸軍中将昇任
1942年 戦車第二師団長に親補
1943年 東海軍需管理部長
1945年 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官親補
1945年12月1日 予備役編入 同日より東海復員監(〜12月21日まで)
- 1949年9月17日 戦争犯罪人【B級】(捕虜虐待罪)として刑死。享年60(59歳没)
- 岡田資は中尉時代の1916年12月から約1年間半にわたって、陸軍士官学校の7期後輩である第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。 岡田は1930年には秩父宮付武官を務めている。 若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠は与えられており、私的制裁の類ではない)で処刑した(11名は軍律会議で死刑判決、処刑は6月28日、瀬戸市付近。残り16名は5月14日空襲より後の捕虜、略式手続きのみで7月12〜15日に軍司令部庁舎裏にて4回に分けて処刑。処刑方法はいずれも斬首であり、このことも戦犯裁判での争点となった)。戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)に問われ、B級戦犯としてGHQに逮捕され、軍事裁判(横浜法廷)に掛けられた。
- 戦犯裁判での岡田は米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」と徹底的に主張し、検察や米軍関係者による爆撃正当化を批判した。また「私ひとりが一切の責任を負う」として、捕虜処刑の罪について全てを被った。1949年9月17日、巣鴨プリズンにて絞首刑が執行された。「大岡昇平「ながい旅」は岡田中将を扱った書である」(1)。
- 「B級法廷での戦いだったので、映画を見るまで小生は岡田中将のことを知りませんでした。日本人の誇りを目覚めさせてくれる映画でした。 もう一点、誰も指摘しないのですが、米人捕虜を殺害したとする罪を、戦勝国の論理で裁く法廷で、米国の無差別爆撃の違法性を盾に戦った訳ですから、大変な困難が伴いました。その際、特筆されるべきは、戦勝国の開く法廷も、弁護人(米国人)も極めて公平な論理で貫かれていたということです。戦争裁判でこれだけの公平性が保たれたことは他にあったでしょうか。日本の戦前の思想犯を裁く法廷には全くありませんでしたし、現在の中国の騒乱罪などの裁判も酷いものです。(罪は裁判の前に決まっており、かりに却下されないことを縷々述べても考慮されることはありません。)戦勝国が公平な裁判を行ったというアメリカの正義と言うものに対する広い度量に小生は頭を下げたいと思いました」(2)。
- なお、「岡田 資」をテーマにした映画「明日への遺言」が2008年3月1日に公開された。公式オフィシャルサイトは、次の通り。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「岡田資-Wikipedia」
(1)「岡田資」
(2)投稿者:ユリウスさん
..2008/ 3/20 21:38:18(木) [2897]
(2008.03.21更新)
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★『明日への遺言』

▲「法戦」にたった一人で立ち向かった男=最終階級は陸軍中将・岡田資。
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59年5ヶ月と14日の生涯
レオナルド熊
Kuma Reonarudo 【コント・レオナルドのコメディアン】
(1935.06.27〜1994.12.11)
癌---蟹座
- 「コント・レオナルド」のコメディアン。1980年代初頭のMANZAIブームが終わりに近づく頃、入れ替わるようにスターになったのが「コント・レオナルド」である。
- 1983〜4年の事だ。30年間、ドサ回りの芸人で腕を磨いてきた「レオナルド熊」と東映の役者出身「石倉三郎」のチグハグなコンビが世間を沸かせたのである。
- 石倉三郎はいつも怒っていた。正当なことで怒っていた。熊さんはいつも「ヘ理屈」を言っていた。その「ヘ理屈」がやがて道理となり、「一般大衆」を味方にしていくのだった。
世間や政治の疑問点、矛盾点をコントに仕立てあげ聴衆を笑いの渦に巻き込んでいくのだ。だから今現在、当時のVTRを観ても十分に笑えるのである。特に演目「守ルモ攻メルモ」は自衛隊のあり方の疑問をぶつける熊さんと自衛官役の石倉のやり取りが絶妙で、コントの名作。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(2008.11.07更新)
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▲「コント・レオナルド」のコメディアン・レオナルド熊。

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