玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

50-51-52-53-54-55-56-57-58-59

age 59


50音インデックス


■59歳の
 シンクロニシティ


■59歳-?←戻る
司馬遷
鳩摩羅什
天台智ギ
光明皇后
藤原道綱の母
建礼門院徳子/平 徳子
直江兼続
安藤昌益
池辺 陽
加賀美 勣
ニカウ
高橋治則
ビリー・プレストン

■59歳-前半
アルベルト・S・デュモン
石田梅岩
山本五十六
中里介山
徳田球一
谷内六郎
隆の里 俊英
マゾッホ
エリック・サティ
荒瀬英生/荒勢永英
スタンダール
ヴァージニア・ウルフ
菊池 寛
澁澤龍彦
ドストエフスキー
アルフレッド・シスレー
藤原伊織
ユイスマンス
ヨハネス・ヘルダー
ジャン・ラシーヌ
後藤象二郎
高田真理
横井小楠
剣持 勇
岡田 資
レオナルド熊

■59歳-後半→進む
ルドルフ2世
木原光知子
モンテーニュ
海老沢泰久
W・クラーク
オーギュスト・コント
ギュスターブ・ホルスト
桂朱雀
坂田 昌一
亀井勝一郎
クラーク・ゲ-ブル
毛綱毅曠
マクシミリアン1世
市川 準
中部 銀次郎
白井民平
明治天皇睦仁
山之口 貘
カポーティ
島野 修
岡本 信


■59歳のエポック


WWW を検索
art-random.main.jp
  を検索


powerd by Google

 

 

59歳の語録

 

「天道は是か非か」
(天は必ず正しいのか)
(司馬遷)

墓碑銘「生きた、書いた、愛した」
(スタンダール)

「人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためでなく、幸福になるためである」
(スタンダール)

「死んで不幸せになった人を、ひとりでも見たことがあるかね」
(モンテーニュ)

「死にとって、快楽はわれわれを厭世や絶望から救う防御であり、快楽にとって、死はその節度を教える薬味のごときものとも言えるでしょう」
(亀井勝一郎)

「故人老いず生者老いゆく恨(うらみ)かな」
(菊池寛)



                         
59年と3日の生涯

アルベルト・S・デュモン
Alberto Santos-Dumont 【ヨーロッパの航空のパイオニア】

(1873.07.20〜1932.07.23)
ホテルでネクタイで首を吊って自殺---蟹座

  • アルベルト・サントス・デュモンは、ブラジル、サンパウロ州の裕福なコーヒー農園主の末っ子として生まれた。
  • ブラジルでは飛行機の父、飛行機王と呼ばれるほど偉大な発明家であり、飛行船を飛ばすことに成功、その後安定した飛行機を開発し、未完に終わったもののヘリコプターをも開発していたことで知られる。
  • 父、アンリ・ドゥモンが仕事中に落馬、骨盤を骨折して農園経営が不可能になったため、家族で先祖の国であるフランスに渡った。成年後、様々な飛行記録をつくった。
  • 1901年には半硬式の飛行船6号機で、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行にかけられたドゥーチ賞を獲得。ライト兄弟に遅れること三年、1906年10月22日に先尾翼の動力機14-bis号で公開で高さ3m、距離約60mを飛行。11月12日再び公開で高さ6m、距離220mを飛行し、100m以上の飛行にかけられていたアルシュデック賞(アルクデアコン賞)を獲得した。
  • 1910年頃から多発性硬化症を発病し、引退してパリ郊外に家を買って隠遁生活をしていた。
  • しかし、第一次世界大戦が勃発し、飛行機や飛行船が兵器として使用された事実に失望し、ヨーロッパを去り生国ブラジルに帰った。
  • ところが、平和の国と信じて帰ったブラジルで飛行機が内戦鎮圧に使用された。彼は著名人の署名を集め、飛行機を戦争に使用しない提言を行ったが、大統領や国会はこれを黙殺した。これに絶望し、1932年サンパウロ州グァルジャーのホテルでネクタイで首を吊って自殺した。
    米国のライト兄弟同様、生涯独身であった。
  • ブラジルにはサントス・デュモンの名前を冠した空港や博物館などの公共施設や勲章があるほか、催しも多い。
  • ファッションのセンスにも優れ、トレードマークである襟の高いハイカラーシャツを着ていたので、このスタイルがのちに日本でお洒落な人を指す「ハイカラ」の語源になったと言われている。また、カルティエ社の腕時計『サントス』は、彼の依頼によって作られたパイロット用腕時計を原型としている。ブラジルでは彼を腕時計の発明者と信じる人が多いが、これは誇張である。
  • サントス・ドゥモン(ブラジル発音)と記載されることもある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アルベルト・サントス・デュモン-Wikipedia
    Alberto Santos-Dumont - Wikipedia, the free encyclopedia

(2009.04.24掲載)



▲20世紀はじめにパリの空を自作の気球に乗って散歩でもするように飛び回ったブラジル人で、ブラジル有数の平和主義者であったアルベルト・サントス・デュモン。



59年と9日の生涯

石田梅岩
Baigan Ishida  【商人の役割を肯定した京都商道の開祖】

(1685.09.15〜1744.09.24)
死因?---乙女座

  • 江戸時代中期の貞享二、京都の山村(現在の亀岡市)に百姓の次男の農家に生まれる。子どもの頃から律儀でまじめな人だったらしく、生まれつきの理屈ぽい性格を改めようと努力した話や、奉公先のおばあさんから「たまには外に出かけてみたら」と夜遊びをすすめられたエピソードなどが残されている。
  • 11歳、京都の商家に丁稚奉公をするが、途中で止めて田舎に帰る。その後、23歳、再び京都の商家に奉公し、神道や儒教に関心を持つ。仕事のかたわらで「自分とは何か」「人間はいかに生きるべきか」などを真剣に考えるようになり、早朝から窓辺に向かっては書物を読み、夜もみなが寝静まった後に勉学にいそしむ。
  • 43歳、師の小栗了雲に出会う。裏の森で雀が鳴く夜明けに体験した、禅の悟りに似た自らの経験を、こう記述している。
    「その時、腹中(ふくちゅう)は大海の静々たるごとく、青天の如し。その雀の啼(な)ける声は、大海の静々たるに、鵜が水を分って入るがごとくに覚えて、それより自性見識の見を離れ給いしとなり。」
  • ついに京都車屋町御池上ルの借家に念願の講座を開く。梅岩45歳のことだった。梅岩の教えは「石門心学」と呼ばれる。儒教や仏教、日本古来の神道の思想を取り入れたもので、当時は憎むべきものとされていた商人の営利活動を積極的に認め、勤勉と倹約を奨励。彼のこうしたポジティブな考え方が、先取の気概にあふれた京都の町衆に広く受け入れられた。
  • 「聴講料無料、出入り自由、女性もどうぞ…」。これは梅岩が掲げた開講の行灯。梅岩は、京都の自宅で、質疑問答をまじえながら、集まってきた町人たちに無料で講釈し、「商人に商人の道あること」を教えた。
  • 梅岩は代表作である「都鄙問答」「倹約斉家論」を著してのち、59歳で他界。そのスピリットは多くの弟子へと受け継がれ、300年を隔てたいまなお、京都商法の中に生かされている。「士農工商」の封建社会にあって、広く庶民に「あきない」の基本を説き、京都商道の開祖ともいわれる。
  • 「仁・義・礼・智の心が信を生む心学講座(明倫舎蔵)
    梅岩は、商人が「仁(他人を思いやる心)」、「義(人としての正しい心)」、「礼(相手を敬う心)」、「智(知恵を商品に生かす心)」という4つの心を備えれば、お客様の「信(信用・信頼)」となって商売はますます繁盛するのだと説いています。そのため、商人の心構えとして、「人、三刻(6時間)働きて三石(450kg)の米を得る。われ四刻働きて三石と一升(約1.5kg)を得る。なんと素晴らしき哉」と述べて、勤勉に励む心(労働と努力の価値)の重要性を説いています。商人は商人らしく、ただひたむきに仕事に執心することが人格形成につながるのであり、決して目先の利益やひとときの我欲に惑わされてはならない−。梅岩はこの心のとらえ方を「ありべかかり」、つまり「〜らしく」という言葉で表現し、商人の職業道徳の指針を明確にしようとしたのです」(1)。
  • 「梅岩の凄いところは、今でいえば商店に勤める無学歴の事務員兼セールスマンでありながら、読書と思考をくり返して研鑚に勤め、やがて全く独自の思想を作り上げた所です。後に「石門心学」と言われるこの思想は商人の行動規範を示す哲学です。荻生徂徠、林子平等の「町人無用論」とは違い、当時の庶民(商人だけでなく、下級武士や婦人達)に生きる力を与えたと信じます。彼は「倹約斉家論」を発行した直後に世を去ります。「没後宅に遺りし物、書三櫃、また、平生人の問に答給う語の草稿、見台、机、硯、衣類、日用の器物のみ」で不必要なものは一切なかったと記されています。-主に山本七平著「日本資本主義の精神」を参考にしました-」(3)。
  • 山本七平氏はマックス・ウェーバーの『プロタンティシズムの倫理と資本主義の精神』になぞらえて、梅岩の思想を「日本資本主義の精神」と高く評価されています。当っていると思いますが、全国的にあまり知られていないので、正直なところ、そこまで言っていいのかなという感じはしてます。小生は江戸時代のプラグマティズムと見ても良いのではないかと思っています。京都生まれの企業、オムロン(立石一真)や京セラ(稲盛和夫)の創業者とその周辺にその精神が生きているように感じます」(4)。
  • 商業性というのは、無批判な精神のように思われているが、商業性こそが一番批判精神がある。商業性というものはクリティシズムそのものである、とボクは思ふ。そんな思いから、かつて「やりくり新首都十箇条」を書いた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    石田梅岩と石門心学
    (1)「石田梅岩と石門心学
    (2)「石田梅岩
    (3)(4)投稿者:ユリウスさん  投稿日:2004.10.11、16。

(2004.10.16掲載)



▲「士農工商」の封建社会にあって、広く庶民に「あきない」の基本を説き、京都商道の開祖ともいわれる石田梅岩。


▲売利を得るは商人の道なり
都鄙問答(亀岡市文化資料館蔵)
「商人の売利、天下お免しの禄なり」
(都鄙問答より)


▲心学講座(明倫舎蔵)

 

◆01:倹約
「倹約は、「知足知分(足るを知る、分を知る)」の表現とされ、道徳的価値を与えられる。そのポイントは、1)物を生かすという精神と、2)私欲を含まない「無私」の行為である、という点にある。「倹約と云ことは、世俗に説くと異なり、我が為に物事を吝(しわ)くするにはあらず、世界の為に、三つ入る(=要る)ものを二つにてすむようにするを倹約と云」(2)。


◆02:家業に精を出す(勤勉)
「商人の得る利益は、武士の俸禄と同じ、正当な利益である。だからこそ、商人は「正直」であることが大事。「実(まこと)の商人は先も立て、我も立つことを思ふなり」(2)。

59年と14日の生涯-----2004年生誕120年

山本五十六
Isoroku Yamamoto   【真珠湾攻撃の立案者】

(1884.04.04〜1943.04.18)
戦死---牡羊座

  • 海軍軍人。新潟県長岡市で、旧長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた。1915年(大正4)年に山本家を相続し、山本姓となる。
    1904年(明治37)、海軍兵学校を卒業。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗船していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。
  • 1919年(大正8)、ハーバード大学に留学。1929年(昭和4)、ロンドン軍縮会議に予備交渉代表として参加。1937年米内(よない)光政海相の次官となり、日独伊三国同盟の締結に反対する。
  • 1939年(昭和14)、海軍次官の後連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任。1940年海軍大将。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。
  • 1941年(昭和16)、太平洋戦争勃発。太平洋戦争で海軍の総指揮をとり、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの作戦を実施。真珠湾攻撃は山本の立案と言われている。
  • 1943年(昭和18)4月18日、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死。(海軍甲事件)彼の死は一ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表で公になった。 同年6月5日、日比谷公園で国葬が行われた。死後元帥。
  • 彼は歴代の連合艦隊司令長官で唯一の戦死者。古賀峯一大将は殉職扱いである。
  • 「確かに五十六は、エリート軍人としての顔のほかに、寡黙、頑固、気配りの人、涙もろい、豪快なばくち好き、色好み等々、相反するような幾つものイメージで語られてきた」(1)。
  • 「公人としての五十六は天皇に限りない忠誠を誓いながら、具体的な政策においては、対米戦争回避、戦艦でなく航空機重視といった信念を曲げ、半ば引き裂かれた状態で戦争に突入した。その分裂を維持できたのは、私人としての家族に対する厚い信頼と郷里・長岡に対する深い愛情があればこそと分析する」(2)。
  • 「広島県の呉海軍工廠(こうしょう)で戦艦大和を建造中のころである。自分が乗る艦だから一度見ておきたいと、連合艦隊司令長官の山本五十六が言った。呉鎮守府の長官がいさめた。見学には誰であれ、海軍大臣の許可が要る。取り次ぐのはいいが、断られたら連合艦隊司令長官の沽券(こけん)にかかわろう。「おやめになっては」と。泣く子も黙るさすがの五十六もあきらめたと、作家阿川弘之さんの「海軍こぼれ話」(光文社)にある。艦船の情報はときに一国の命運をも左右する。機密の保持にはそれだけの神経を用いたのだろう」(4)。
  • 「真珠湾のアリゾナ記念館に、山本五十六の肖像画がある。米国が決して忘れない攻撃を指揮したにもかかわらず、〈人望ある艦長にして卓越した戦略家。合衆国との戦争には反対していた〉と、説明書きは意外に好意的だ。責務を全うした軍人、というのがヤマモト評らしい。故郷・新潟県長岡市の訪問団が昨年秋、真珠湾の戦死者に花輪を捧(ささ)げた際、一行は米側から棘(とげ)のある言葉を聞くことも覚悟していたそうだが、杞憂(きゆう)に終わった。長岡も終戦直前の空襲で焦土と化している。山本の故郷ゆえに標的にされたとの説もあるが、定かではない。いずれにせよ、真珠湾で山本個人への悪感情に出会わなかった訪問団は確信した。あの戦禍を繰り返すまい、と訴えるのに長岡とホノルルほどふさわしい組み合わせはない、と---」(5)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)日経新聞2004.08.29朝刊 工藤美代子著『海燃ゆ 山本五十六の生涯』の書評より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.02.05(Sun) 22:32[1031]
    (4)読売新聞2007.12.14朝刊 「編集手帳」より抜粋。
    (5)読売新聞2009.08.02朝刊 「編集手帳」より抜粋。

(2009.08.08更新)



▲連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃で戦果を挙げ、第二次大戦中は半ば神格化されるまでにたたえられた山本五十六。

 

五十六の歌・辞世

◆「ひととせをかえりみすれば亡き友の 数えたくもなりにけるかな」

◆「山本五十六の辞世です。一首は公的な辞世、一首は私的なものでしょうか。後の方は素直な詠いぶりで心をうちます。
〈天皇の御楯と誓ふま心はどどめおかまし命死ぬとも〉
〈大風に吾し思ひ心かくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや〉」(3)。

59年と24日の生涯

中里介山
Kaizan Nakazato   【『大菩薩峠』の生みの親】

(1885.04.04〜1944.04.28)
腸チフス---牡羊座

  • 本名弥之助。神奈川県西多摩郡羽村(現東京都)生れ。
  • 木下尚江、白柳秀湖らを知り、『平民新聞』などに寄稿。『都新聞』に入社し、のち社会部長に起用される。
  • 明治末から小説をこの新聞に連載しはじめ、『高野の義人』が出世作となった。28歳から大作『大菩薩峠』を連載し、一躍文名を高め、大衆文学に新時代を開く。
  • しかし自らはマスコミの風潮を好まず、文壇を離れて多摩で塾を開き、「敬天愛人克己をスローガンとする教育にあたった。
  • 『大菩薩峠』は以後、56歳まで断続的に書きつがれるが、ついに未完。ほかに『夢殿』などがある。
  • 「1 戦時体制下:介山に対して文学報国会への参加が要請され、評議員に推薦されたが、これをにべもなく断っている。その言やよし。〈自分は文筆を始めてこのかた、ずっと報国をやってきたつもりだし、何も、今更報国ということでもあるまい。もともと自分は一人の百姓、弥之助としての立場以外に,何ら特別の地位も名分も果たしえない。〉※文学報国会=昭和17年五月、文学者を一丸となして戦争協力に動員するために結成された、内閣情報局きもいりの国策機関」(1)。
  • 「2 女性関係:ところが堅いだけの人物ではありません。彼は生涯独身を通したが、異性関係にはかなり恵まれていた。中でも、斉藤醜女(シコメ)とは20代の半ばに出会い、既婚の彼女ではありましたが、介山が病床にあった晩年は看病だけでなく、日記の口述筆記も引き受けているから、相当親密な関係であったらしい。参考資料:新人物往来社刊 「有名人の晩年」」(2)。
  • 大菩薩峠とはボクの故郷山梨県にあるのを君は知っていたか?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)投稿者:ユリウスさん2006/12/17 21:43:39(日) [670]

(2006.12.18掲載)



▲『大菩薩峠』で知られる小説家・中里介山。

59年1ヶ月と2日の生涯

徳田球一
Kyuuichi Tokuda  【社会運動家、日本共産党指導者】

(1894.09.12〜1953.10.14=明治27年〜昭和28年)
糖尿病が悪化し、北京で客死---乙女座


  • 名護の十字路近くに父・佐平の長男として生まれる。「球一」という名は「琉球一の男に」ということからの命名である。 沖縄で中学校を卒業し、23歳の時に上京。
  • 日本大学で学んで弁護士になり、社会主義運動に参加、1922年の日本共産党結成に働いた。
  • 1928年、3・15事件で検挙され、敗戦までの18年間獄中にあったが、戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、「徳球(とっきゅう)」の愛称で国民的支持と人気を得た。
  • その後、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命。毛沢東スターリンと会談し支持を得る一方、伊藤律らとともに亡命指導部「孫機関」から武装改革をはかるが失敗。
  • 1953持病であった糖尿病が悪化し、北京で客死した。1955年までその死は明らかにされないが、同年9月13日に北京で追悼大会が行われ、三万人が参列したという。
  • 遺骨は妻の徳田たつと志賀義雄の手によって帰国するが、ここ多磨霊園をはじめ青山霊園の革命戦士合同碑、八柱霊園(千葉県松戸市)の徳田家墓所に分骨されている。その生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現している。その業績を称えるため、記念碑も建立されている。
  • 「浅沼稲次郎は『回想の徳田球一』の中で次のように球一を評している。「合法、非合法は別として、社会運動家にとって必要なことは、その組織力であり、行動力であり、政治力であると思う。 徳田氏はこれ等を備えたすぐれたる指導者であったと思う。戦前、戦後を通じてこの組織力、行動力、政治力を備えた政治家は少ない」(1)。
  • 「1998年郷里名護に記念碑が建立されたが、この建立に際しては自民、公明、社会党などは保革を越えて賛成をした。 但し共産党が賛成も反対もしなかったことを特筆しておく」(2)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「徳田球一

(2005.08.27掲載)



▲沖縄が生んだ偉大な思想家、政治家で、戦前、戦後の苦難の時代を高い志をもって社会運動に奔走し、日本を変革することに情熱を注いだ徳田球一。



◆GHQの命令により、日本共産党幹部18年ぶりに釈放される--1945年10月10日・府中刑務所(写真左・徳田球一、中央・志賀義雄)



◆思想家・徳田球一の碑名護

59年1ヶ月と2日の生涯---2006年没後25年

谷内六郎
Rokuro Taniuchi  【『週刊新潮』の顔】

(1921.12.21〜1981.01.23=大正10年〜昭和56年)
急性心不全---水瓶座

  • 東京に生まれる。10代より新聞・雑誌などに作品を発表し始める。1955年「行ってしまった子」で第一回文藝春秋漫画賞受賞し、周囲の注目を集める。
  • そして翌年2月に『週刊新潮』が創刊されると、谷内の絵がその表紙を飾り、1981年の突然の死去まで表紙絵の連載は1号も休むことなく続けられた。
  • 既成の“漫画”とは作風の異なる谷内作品の受賞が、後の漫画界に大きな影響を与えることになる。
  • 1956年『週刊新潮』創刊時より表紙絵を担当。抒情と郷愁に満ちた作品が多くの読者を魅了した。1981年逝去。
  • 「昭和31年の創刊号以来、長く「週刊新潮」の表紙を飾り、その独創性と叙情性で多くの読者を魅了してきた故・谷内六郎。氏が遺した数多い秀作の中から「少女」をモティーフにした6作を精選しました。中でも、谷内氏の屈指の名作と評価の高かった「タネを吹く子」が最高水準の複製画にて初登場。タンポポのタネがバレリーナの形をして空中を浮遊する様子など、これまで表現できなかった細部までも最高水準のクオリティを誇るジークレー法※により、見事に再現することができました。シャボン玉、海水浴、かき氷、かざぐるま、雪遊びなど昔懐しい昭和の風景をどうぞお楽しみください」(1)。
  • 「谷内六郎というとまず、25年以上にわたり手がけていた『週刊新潮』表紙絵が思い出されますが、それと並行してさまざまな仕事を行なっていました。例えば、自らの絵と詩による絵本作り、雑誌などへの挿絵、100冊以上もの本の装幀、また企業から依頼された新聞広告やポスターデザインなど、その内容は幅広く、膨大な仕事量となります」(2)。
  • 25年間に渡って「週刊新潮」の表紙絵を担当するということは、並々ならぬことではあったであろうけど、サスティナブル・フリーダムを求める上でそのポジションを得て継続したことは大きい。だけど、その為に自身のスタイルを変えられなかったとしたら-----。「人生幸福の量保存の法則」を思ふ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「新潮社
    (2)「没後25年 谷内六郎の軌跡 -その人と仕事-

(2006.03.06掲載)



▲「週刊新潮」の創刊と同時に表紙絵を担当し、25年間にわたり多くの読者の心を魅了し続けた漫画家・谷内六郎。

59年1ヶ月と9日の生涯

隆の里 俊英
Toshihide Takanosato       【“おしん横綱”】

(1952.09.29〜2011.11.07=昭和27年 ~平成23年)
急性呼吸不全---天秤座

  • 青森県南津軽郡浪岡町(現在の青森市)出身で二子山部屋所属の元大相撲力士、第59代横綱。本名は高谷俊英(たかや としひで)、現役時代は身長183cm、体重159kg。得意手は、右四つ、上手投げ、吊り、寄り。 引退後は年寄・鳴戸を襲名。鳴戸部屋師匠として稀勢の里、若の里、隆乃若ら6人の関取を育成した。
  • 昭和27年9月29日、青森県浪岡町(現青森市)出身、59歳だった。葬儀、告別式は未定。
  • 関脇稀勢の里や幕内の若の里らを育てた鳴戸親方は、10月下旬から週刊誌で、弟子に対する暴行や、インスリンを注射させたなどの疑惑が報じられ、協会が調査に乗り出した矢先だった。
  • 昭和43年、元横綱若乃花の二子山親方に弟子入りし、同年名古屋場所で初土俵。49年九州場所で十両に昇進し、50年夏場所新入幕。同期で同郷の若三杉(後の二代目横綱若乃花、現間垣親方)が順調に昇進したのに対し、隆の里は幕下時代に患った糖尿病で苦しみ、当初は幕内に定着できないなど苦労した。
  • それでも医師の指導を受けて「相撲取りにとっての不治の病」を克服。58年名古屋場所で2度目の優勝を果たし、30歳で第59代横綱に昇進。東北の片田舎から上京したこと、辛抱を重ねて綱を取ったことから、当時の人気番組と重ねて「おしん横綱」と呼ばれた。
  • 61年初場所で引退。年寄・鳴戸を襲名し、平成元年2月に自らの部屋を開いた。横綱在位15場所、幕内優勝4回、464勝313敗80休。通算693勝493敗80休。
    十両時代には勝った翌日には負け、その翌日には勝つ(ヌケヌケと呼ばれる)というパターン「○●○●○●○●○●○●○●○」で8勝7敗とした場所(1975年1月場所)があり、これは相撲歴を辿っても珍しい星取りである。隆の里は星の取り方を見ても全体的にバラツキが目立つ方であり、特に1970年代後半(昭和50年代前半)は、幕内でもそれに近く、1つ2つ星が違えばヌケヌケとなるような成績を幾度も出していたほどである。
  • 大相撲の鳴戸親方(元横綱隆の里)が7日午前9時51分、急性呼吸不全のため福岡市内の病院で死去した。日本相撲協会が同日、発表した。
  • 大関から横綱に昇進したときの成績を見ると、15戦全勝(大関、初優勝)の後、10勝5敗と綱取りを逃しているものの、翌場所は11勝4敗→12勝3敗→13勝2敗→14勝1敗(優勝)→15戦全勝(新横綱、優勝)と1勝ずつ増やしながら全勝に辿り着いていて、これもまた珍しいものである。しかしその後は13勝2敗→13勝2敗(優勝)→11勝4敗→11勝4敗→10勝5敗→10勝5敗とだんだん降下している。その後、1984年(昭和59年)11月場所からは殆ど途中休場と全休の繰り返しとなり、最後の皆勤場所となった1985年(昭和60年)7月場所も10勝5敗だった。それでも新横綱で15戦全勝という偉業を成したことは、大力士と呼ばれた過去の横綱にもないことで、このときの隆の里が最強とも言われた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト
    新聞各紙訃報欄
    隆の里俊英 - Wikipedia

(2011.11.09掲載)



▲二子山部屋所属の元大相撲力士で、第59代横綱・隆の里 俊英。

59年1ヶ月と10日の生涯

マゾッホ
Leopold Sacher Masoch  【マゾの名の由来者】

(1836.01.27〜1895.03.09)
死因?---?座

  • オーストリア・ハンガリー二重帝国下のガリツィアのレンベルク (現、 ウクライナ領リボフ)に生まれ、ヘッセンのリントハイムに没した。
  • プラハとグラーツの大学で歴史学を学び、 弱冠 20 歳でグラーツ大学の新鋭歴史学講師として立ったが、まもなくアカデミックな経歴を放棄して作家稼業に専心。主として故郷ガリツィアの農民やユダヤ人の生態をテーマに数々の物語を書く。
  • 代表作『毛皮のビーナス』(1870) は、ギリシア人と称する美男に恋人ワンダを奪われながら、2 人に下男として仕える苦痛に快楽を覚える青年 S.クジエムスキーの性的偏倚 を描いたもの。 しかし、そこから彼の驚くべき恋愛神話が始まる。
  • 実生活では人妻 A.コトウィッツや女優 F.ピストール等との情事の後に、グラーツの貧しいお針子 A.リューメリンと遭遇して結婚、 彼女に自作の女主人公の名にちなんでワンダ・マゾッホを名のらせ、小説の筋書どおりの姦通を強要する奇行にふける。 その為に死後、その作品傾向並びに性的奇行が、「サディズム」のサド侯爵とともに精神医学者クラフト・エービングの注目するところとなり、「マゾヒズム」の定義の下に典型化された。
  • 「マゾヒズムという名は、好んでこのような性的行為を描いたオーストリアの作家マゾッホの名にちなんで、精神科医クラフト・エービングにより与えられたものである (1890)。狭義には、相手(時には自分自身)から身体的・精神的な苦痛や屈辱を被ることによって性的快楽を得る性倒錯を言う。
  • マゾヒズムの心理機制は、サディズムが反転して自己に向いたもの、サディスティックな相手への同一視、罰や苦痛を経験することによる快楽を伴った罪意識の軽減、本来権威的な両親像をなだめるためにとられた。従順な役割の性愛化、〈死の本能〉 の無意識的表現などが考えられている。また、今日話題になっているリストカットや薬物乱用を初めとする自傷行為にも精神分析学的に当てはめることができよう。精神療法的な二人関係においても、無自覚なままに支配と服従、攻撃と甘受といった対人様式が固定的に形成されてしまう場合、それはサド‐マゾヒズム的な関係と表現される。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト
    マゾッホとは?

(2003.12.12掲載)



▲マゾヒズム(マゾ)の名の由来であるオーストリアの小説家マゾッホ。

59年1ヶ月と14日の生涯

エリック・サティ
Erik・A・L・Satie     【環境音楽の始祖】

(1866.05.17〜1925.07.01)
死因?---牡牛座

  • フランス北部の港町オンフルールに生まれる。6歳でスコットランド人の母をなくし、祖父母のもとで育った。
  • 1878年(12歳!)パリ音楽院に入学するが、その保守性に反発し、学業なかばで軍隊に志願。ほどなく除隊し、モンマルトルの酒場でピアノ奏者として生計を立てつつ、ピアノ曲『3つのジムノペディ』(22歳!!)など初期の代表作を作曲。
  • サティは大衆の中に生きた作曲家。パリの町の片隅に住んでいて、毎日職場としている酒場に歩いて通い、ピアノを弾いて生活の糧を得ていた。そんな彼の才能を惜しいと思い、彼を表舞台に出してやろうと一肌脱いだのが親友のドビュッシーだった。1891年(25歳)ドビュッシーと知り合い、長く友情を結ぶ。彼は絶対うけると考えたこの『ジムノペディ』を自らオーケストラ用に編曲し、発表。それ故にこの曲は彼の曲の中で最も有名な曲となる。『ジムノペディ』とは古代のお祭りの名前 。しかしサティは、俺はこれが似合ってるんだという感じで、相変わらず毎日酒場にピアノを弾きに行く生活を変えようとはしなかった。この頃ユトリロの母として知られるスザンヌ・バラドンと恋愛関係にあったという。
  • 1903年(37歳)、形式への顧慮を忠告したドビュッシーに応え、古典的な音楽形式を皮肉るピアノ連弾曲『梨の形をした3つの小品』を作曲。以後、諧謔の精神に満ちた多くのピアノ曲が書き継がれた。
  • ダダを先取りする音楽喜劇『メデューサの罠』(1913年)を経て、1917年(51歳)ディアギレフの依頼によりバレエ音楽『パラード』(台本コクトー、振付マシン、舞台美術ピカソ)を発表。管弦楽にサイレンやタイプライターなどを組み入れたこの作品で、ロマン派やドビュッシーの美学と訣別し、以後「六人組」の作曲家と交流を深める。
  • その後の代表作に、永遠の美を思わせる交響的ドラマ『ソクラテス』(1917〜1920年)、バレエ音楽『本日休演』(1924年)などがある。
  • サティは早すぎたダダイスト、頑固な諧謔家、皮肉屋といわれた。サティの曲は現代のイージー・リスニングに通じるものがあるが、彼は自分の音楽を「家具のような音楽」と言っている。 その簡潔で醒めた音楽表現、座り心地の良い椅子のようにさりげなく聴く者に寄り添う「家具の音楽」の思想は、のちのメシアン、ケージまで幅広い影響を及ぼしている。
  • 人々が集まり騒いでいていろいろな音が混じっている酒場においては、人に「聴いてもらう」曲ではなく「邪魔にならず雰囲気だけ作ってくれる」曲が必要でだった。つまり彼の織りなす美しい調べは彼の職場故に生まれたもの。
  • サティは一部の人にはよく知られていたが近年大きくファンが広がったのは、著作権が切れて楽譜が自由に販売できるようになったため。それまで彼の遺族が楽譜の商業的流通を拒否していた。
  • サティの現代性は、慣習、権威、体裁にひどく弱い現代人たちを覚醒させるノンシャラス(無邪気な)な明るさこそにある。やたらと深刻ぶることの愚かさ、もったい付けることのうさん臭さ、権威を振りかざすことのばかばかしさ-----。サティは偽りの重さには敏感だった。
  • サティは高邁さを掲げた理想主義者ではない。かといって、世紀末的退廃でもやるせない諦観でもない。ふっと力を抜いて周囲を見渡してみれば、案外楽しいこともある心地よい感触の「朝の音楽」「5月の若葉とそよ風」(1)。
  • サティはアンビエント・ミュージック(環境音楽)の始祖、ミニマリズムの原点、異ジャンルの交流を図るインターメディアの先駆。そして、映画への接近。
  • ボクも設計した1989年の「横浜博覧会住友館」のプロモーションビデオの音楽にサティの『ジムノペティ』を選んだよ。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
   (1)サティの無邪気な明るさ 伊藤制子

(2009.05.05更新)



▲「ジムノペディ」で知られるフランスの作曲家・エリック・サティ。
(イラスト 玉野安実嬢)

59年1ヶ月と21日の生涯

荒瀬英生/荒勢 永英
Hideo Arase      【がぶり寄りのもみあげ関脇】

(1949.06.20~2008.08.11 AM5:541) 
急性心不全/心筋梗塞---双子座

  • 高知県吾川郡伊野町(現在のいの町)出身の元大相撲力士、エイビープロモーション所属のタレント。芸名は荒勢(あらせ)、本名は荒瀬 英生(あらせ ひでお)。 力士時代は花籠部屋に在籍し、最高位は東関脇(1977年9月場所〜1978年1月場所、1980年5月場所)。大相撲時代の体格は身長178cm、体重151kg。
  • 得意手は右四つ、寄り。公認候補者として所属した自由連合では、組織委員会文化スポーツ局次長を務めた。
  • 実家は農家。高知中学校在学時より相撲を始め高知高校、日本大学と相撲部で活躍。大学卒業を目前にした1972年1月に花籠部屋へ入門し同月、幕下付出で初土俵を踏んだ。当初の四股名は本名の「荒瀬」。以来一度の負け越しも無く、1973年7月場所に24歳で入幕を果たした。大学時代の2年先輩でもある横綱・輪島の土俵入りで露払いを務め、太刀持ちを務めた日大(柔道部)中退の魁傑とともに「日大トリオの土俵入り」と話題になった。
  • 右四つからの激しいがぶり寄りが特徴で、もみ上げも個性的でいごっそうを連想させる人気力士の1人であった。しかし横綱・北の湖に弱く、27連敗してしまったこともあった。また、立合いを合わせるのが下手で、「待った」の常連としてよく指弾された。1975年3月場所で敢闘賞を受賞した時には、立合いの悪さから受賞を見送るべきだという意見が三賞選考委員会の席上で出た。
  • また1976年7月場所にて若三杉(のちの横綱・2代目若乃花)と対戦した時は「待った」を8回も繰り返し、勝負審判が土俵上に上がって両力士を注意する事態も起きた。その他、これより三役のそろい踏みの時にも西方の扇の要の位置にあって後ろが見えなかったためか、あっさりと3回四股を踏んだ後振り返ると後方の力士はまだ2回目の四股にかかっていたということもあった。
  • 全盛期は1977年からの約2年間で、その間8場所連続三役を務めたこともあった。しかし三役での大勝ちが少なかった(10勝以上は、11勝4敗を挙げた1977年9月場所だけ)こともあり、「大関獲り」は夢に終わった。
  • 現役晩年は右膝を故障して十両に下がり、西十両7枚目で途中休場した1981年9月場所限り32歳で引退。場所後、年寄・間垣を襲名し花籠部屋の部屋付き親方となったが1983年2月、二所ノ関一門の横綱・2代目若乃花が引退後、名跡を譲渡して廃業。以降はタレントに転向してテレビ、CMなどで活躍した。2001年には自由連合から比例代表で第19回参議院議員通常選挙に出馬したが、2,711票しか獲得できず落選。その後2008年4月に脳梗塞で倒れ、実家のある高知県で療養していた。2008年8月11日、急性心不全のため死去。59歳没。
  • エピソード:下戸でありながら、ウイスキーのCMに出演したことがある。趣味は神社巡り。「日本人であることの再認識」が本人の弁。
  • 主な成績:現役在位:59場所/通算成績:420勝414敗11休 勝率.504/幕内在位:48場所(うち関脇9場所、小結5場所)/幕内成績:351勝367敗2休 勝率.489/三賞:殊勲賞1回(1974年5月場所)、敢闘賞2回(1974年9月場所、1975年3月場所)、技能賞1回(1977年9月場所)/金星:2個(琴櫻1個、北の湖1個)。
  • 改名歴:荒瀬 英生(あらせ ひでお)1972年1月場所-1975年7月場所/荒勢 永英(あらせ ながひで)1975年9月場所-1981年9月場所(引退)。
  • 故郷の土佐の方言「いごっそう(頑固で気骨のある男)」のイメージそのままの、野武士だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    荒勢永英-Wikipedia

(2008.12.09掲載)



▲豪快無比ながぶり寄りとトレードマークのもみあげで知られ、75年から「荒勢」を名乗った大相撲の元関脇・荒瀬英生/荒勢 永英。

 

59年2ヶ月ジャストの生涯

スタンダール
Stendhal   【文人旅行家】

(1783.01.23〜1842.03.23)
脳卒中---水瓶座

  • 本名Marie-Henri Beyle。グルノーブル生れ。
  • 青年時代はナポレオン軍に入ってヨーロッパを転戦、イタリアのミラノに感激する。
  • 1814年ナポレオンの失脚とともに職を離れ、ミラノに住んで『イタリア絵画史』(1817年)を書くが、革命思想を疑われて1821年パリに帰り、体験をもとに心理分析的な『恋愛論』(1822年)を発表。
  • また『ラシーヌとシェークスピア』ではラシーヌを批判してロマン派の作家と対立。
  • 1827年に最初の小説『アルマンス』、続いて1830年(47歳)に『赤と黒』を発表するがあまり認められず、社会小説としての評価が高まったのは半世紀後だった。
  • 七月革命後は領事としてイタリアに駐在し、自伝『エゴティスムの回想』『アンリ・ブリュラール伝』、小説『リュシアン・ルーベン』や『パルムの僧院』(1838年)を書く。
  • 1842年休暇でパリに帰ったとき急死。
  • 啓蒙思想の影響を受け、人生の幸福を追求、これを妨げる反動的社会を攻撃し、リアリズムの先駆といわれる。
  • 「お供えします。〈恋をすると、すぐ身近に、しかしいくら願っても手のとどかない巨大な幸福があるような気がする。しかもその幸福は、ただ一つの言葉、一つの微笑にのみ左右される。」−スタンダール「恋愛論」〉(1)。
  • 旅行を愛し、特にイタリアの風土を愛したスタンダールの墓碑銘は「生きた、書いた、愛した」は有名。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん..2008/ 1/17 00:57:32(木) [2718]

(2008.01.18更新)


◎『赤と黒』

▲『赤と黒』『恋愛論』で知られるフランスの作家・スタンダール。
(イラスト 玉野安実嬢)


スタンダール語録

◆「人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためでなく、幸福になるためである」


59年2ヶ月と3日の生涯

ヴァージニア・ウルフ
Virginia Woolf  【20世紀文学を代表する作家の一人】

(1882.01.25〜 1941.03.28)
入水自殺---水瓶座

  • 小説家・評論家。ロンドンの生まれ。父レズリー・スティーヴンと、母ジュリアの間に生まれる。両親ともに再婚だったため、一家の七番目の子供だった。
  • 父レズリー・スティーブンは著名な文芸評論家、哲学者であり、『イギリス人名辞典』(Dictionary of National Biography)の編集によって有名である。母ジュリアは1895年、48歳で死去。当時わずか13歳であったヴァージニアに大きな衝撃を与える。1904年、父親が72歳で死去。その後、兄弟と姉とブルームズベリー地区に移り住む。
  • 兄のケンブリッジでの友人たちを主たる構成員とするいわゆる「ブルームズベリ−・グループ」がここに自然発生的に成立する。後の経済学者ケインズを含むこの知的階級のグループについては本が日本語訳でも出ている。ヴァージニアの将来の夫となったレナード・ウルフもまた、この友人の輪に属していた。
  • 1912年に文明批評家のレナード・ウルフと結婚し、夫妻でホガース出版社を経営し、自身の作品の他、キャサリン・マンスフィールドやE.M.フォスターなどの作品を出版。
  • 1915年処女作『船出』The Voyage Outを発表。小説家としての道を歩み始める。代表作の「ダロウェイ夫人」や「燈台へ」など「意識の流れ」の手法を用いた作品を発表し、20世紀文学を代表する作家の一人となる。実験的な手法を用い登場人物たちの心理を深く掘り下げ高い評価を得る。
  • 文芸・社会評論でも活躍。1919年に発表された評論"Modern Fiction"は彼女のモダニストとしての立場と視点を明らかにするもの。また、『自分自身の部屋』 『三ギニー』などでフェミニストとして女性と創作活動、女性と平和などの問題を取り扱った。
  • 生涯、神経的発作(狂気?)に悩まされる。第二次大戦さなかの1941年3月28日、ウーズ川へ散歩に出かけ、入水自殺。書斎に夫レナードと、姉ヴァネッサへの書き置きが残されていた。
    遺作『幕間』Between the Actsは死後出版された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「はてなダイアリー - ヴァージニア・ウルフ」

(2005.02.02掲載)



▲実験的な手法を用い登場人物たちの心理を深く掘り下げ高い評価を得た、20世紀文学を代表する作家ヴァージニア・ウルフ。




◆ダロウェイ夫人(1925)

 

◆「女が小説を書くためには、鍵のかかる部屋と、自分の自由になるお金がなくてはならない」

59年2ヶ月と8日の生涯

菊池 寛
Kan Kikuchi   【『文芸春秋』の創刊主宰者】

(1888.12.26〜1948.03.06)
狭心症---山羊座

  • 大正・昭和の小説家、劇作家。本名寛(ひろし)。高松生れ。京大英文科卒。
  • 一高時代に芥川竜之介、久米正雄らを知り、第3次、第4次『新思潮』同人となる。戯曲『屋上の狂人』『父帰る』を発表したが認められなかった。
  • 30歳の『無名作家の日記』以後『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』『真珠夫人』などで一躍流行作家となった。
  • 『恩讐の彼方に』は大分県の名勝、耶馬渓の青の洞門にまつわる伝説に基づく骨太な人間賛歌。
  • 35歳、『文芸春秋』を創刊主宰、また文芸家協会を設立』、芥川賞、直木賞を設定するなど作家の社会的地位の向上にも貢献した。他にも「オール読物」や「モダン日本」を創刊させた。
  • 戦後、公職追放になり、失意のうちに死ぬ。
  • 「菊池寛は友人の芥川龍之介らと違って学生時代を京都で過ごしたため夏目漱石の漱石山房グループに入り損ね、作家としてのデビューは出遅れた。だが京都大学の図書館でアイルランド文学を片っ端から読み耽り、開眼する。アイルランドから宗主国イギリスが見えた。朝鮮半島もアイルランドだと思った。その時京都から東京が、日本が見えた。東京の日本の文学は、ひたすら縮はじめている---」(1)。
  • 「ようやく作品を発表しはじめると菊池寛は短編集のタイトルを『心の王國』とした。漱石の『こころ』を意識してのことではないか---。菊池寛が創り上げようとした文学とジャーナリズムの「王国」(あるいはその挫折)---」(2)。
  • 「文学青年の信仰を横に眺めつつ菊池寛はあえて「生活第一、芸術第二」と述べた。この言葉は誤解されたままになっている」(3)
  • 「菊池寛は生涯の友、芥川龍之介の九回忌に追悼の句を詠んでいる。〈故人老いず生者老いゆく恨(うらみ)かな〉。亡き人の遺影に向かうとき、誰もが感じる痛みだろう」(4)。
  • 『真珠夫人』といい、『新・愛の嵐』といい、古典文学を原作にした昼のメロドラマが再ヒットしている。古典の新解釈、「150年後の『嵐が丘』」か?。
  • 高校時代の同窓生のメール・サイトに「真珠夫人」を名のる女性がいたのには驚いた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)〜(3)読売新聞2004.06.15夕刊 「菊池寛が築こうとした王国」
    (猪瀬直樹)より抜粋。
    (4)読売新聞2008.04.28朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2009.07.17更新)



▲『真珠夫人』などで一躍流行作家となった・菊池寛。
(イラスト 大城さん)

菊池寛語録

◆「故人老いず生者老いゆく恨(うらみ)かな」

59年2ヶ月と28日の生涯

澁澤龍彦
Tatuhiko Shibusawa  【澁澤ワールドの住人】

(1928.05.08〜1987.08.05)
読書中に頚動脈瘤破裂によって死去---牡牛座

  • 小説家、評論家、仏文学者。東京・高輪生れ。本名澁澤竜雄。東大仏文科卒。卒論は「サドの現代性」。
  • 28歳で『マルキ・ド・サド選集』の翻訳刊行によって日本初の本格的サド研究家となる.『悪徳の栄え』続巻の翻訳が猥褻とされたことによって、いわゆる「サド裁判」の被告となる(1969年(41歳)有罪確定)。
  • 1968年(40歳)、三島由紀夫稲垣タルホ土方巽らが集う雑誌「血と薔薇」を創刊。オカルティズムからユートピア思想にいたる該博な知識に支えられた多くのエッセー・スタイルの作品によって、特に若い世代の読者を獲得した.主著『夢の宇宙誌』『思考の紋章学』(泉鏡花賞)、『高丘親王航海記』(読売文学賞)ほか。
  • 「快楽主義者」として自分流のスタイルを公私ともに貫き通したが、昭和61年9月、以前から悩んでいた喉の痛みのため、慈恵医大病院にて診療、即入院手術.気管支切開のため声を失うが、病床になれてからの彼は、真珠を呑んだせいで声を失ったという見立てで「呑珠庵」と号し、また、「無聲道人」を名乗ったという。その後病は進行するばかりで、「高丘親王航海記」を完結し、その4カ月後の昭和62年8月5日午後3時35分、読書中に頚動脈瘤破裂によって死去した。
  • 彼が愛した書物とは「書物という形の中に、一つの(もしくは多数の、場合によっては無限の)宇宙が閉じこめられている」ということ(1)。
  • 「澁澤龍彦がエッセイ「穴ノアル肉体ノコト」で自分の病気について書いている。悪性の下咽頭癌で気管支切開をし、喉に穴をあけたため、首を吊っても死にはしないが、お風呂で首まで浸かると溺死してしまうという。こんな生き様でありながら、彼は自分自身の死の悩み、不安については書いていない。ほんまもんのダンディズム?」(2)。---ほんまもんのアナキズムと云うべきでしょう。
  • 三島由紀夫から土方巽に及ぶ特異な交友関係も注目される。
    「幸福より快楽を‥‥」

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)入沢康夫
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/12/ 4 22:45:31(月) [597]

(2008.08.08掲載)


★澁澤龍彦、略して「シブタツ」
▲「快楽主義者」として自分流のスタイルを公私ともに貫き通した澁澤龍彦。
(イラスト 玉野安実嬢)

59年2ヶ月と29日の生涯

ドストエフスキー
Fyodor Mikhailovich Dostoevsky    【ロシアの文豪】

(1821.10.30〜1881.01.28)
死因?---蠍座

  • 『罪と罰』で知られるロシアの作家。トルストイとともに19世紀ロシア文学を代表。人間の内面の矛盾を追求して近代小説に新しい可能性を開いた。
  • モスクワの医師の家に生まれる。父はモスクワの慈善病院の医師。16歳のときペテルブルグの工兵士官学校に入り、卒業して工兵局に勤めるがわずか1年で職を捨て小説家を目指す。処女作『貧しい人々』(25歳)の成功を機に文筆活動に専念する。
  • 間もなく空想的社会主義者ペトラシェフスキーのサークルに接近、28歳で逮捕され、死刑執行の直前に特赦と称してシベリア送りになり、その体験はのちに『死の家の記録』(41歳)に描かれる。
  • 10年後モスクワへの帰還を許された後は賭博に狂い、借金と締め切りに追われながら原稿を書き続けた。42歳で最初の妻と死別した後、原稿料を前借りした悪徳編集者にだまされかけながら執筆した『賭博者』で速記を務め、危機を救う手助けをした女性と45歳で再婚。
  • 『罪と罰』をはじめ、『白痴』(47歳)、『悪霊』(50歳)、『未成年』(54歳)、『カラマーゾフの兄弟』などの大作群を発表した。その文学の第一の特質は、人間精神の不条理性を芸術的に剔出し得た点にある。その思想的系譜は実存主義にまで及び、内外の多くの文学者に影響を与えた。一方で、バフチンをはじめとする文学方法論研究により、新たなドストエフスキー像が形成されつつある。
  • 「ドストエフクキーは『罪と罰』の結末を春の朝に設定した。殺人の罪で服役しながらいまだ改悛とは無縁の青年ラスコーリニコフが降り注ぐ陽光の下、突如、生まれ変わったような高揚感を覚える。春の蘇生力が冷酷な主人公に外界との交感、空想からの回帰を促したかのように」(1)。
  • 「鍵は、タイトルの「父親殺し」にあるのだが、ここには、暴君だった父を農奴に殺された作家の青年時代の実体験、父=皇帝=神の表象連鎖が隠れている。それを解明する糸口として、空想社会主義者として死刑宣告を受け、恩赦によってシベリア流刑となった作家の国粋主義イデオロローグへの転向を、絶えず秘密警察の監視下に置かれた元国事犯の「二枚舌」と見抜き、従来破滅型と解釈された女狂いと賭博癖も自己の無用性を権力に見せつけるための演技、かのポリフォニーも本心を押し隠すための装置ではないか、と推論するあたりは、『磔のロシア』の著者の面目躍如である」(2)。
  • 「ドストエフスキーの文学に何かはかりしれぬ力があるとすれば、それは「無垢」を愛する力であり、それこそがこの混沌とした世界を見すえる唯一の真理となる」(3)。
  • 「〈2×2=4(ににんがし)は、死の始まり〉。ドストエフスキーは、ある作品でこう書き残しています。不条理な行動をとったり、自意識が肥大化し精神を病んだり。方程式では割り切れない人物が多く登場する事が、彼の作品の魅力です。膨大な作品群は、死後120年以上たつ現在も、人間とは何かを私たちに問い続けます」(4)。
  • 「ドストエフスキーの最後の言葉をお供えします。最後の日の朝、彼は妻に言った。「アーニア、僕はもう3時間もずっと考えていたんだが、今日、僕は死ぬよ」11時頃目覚め彼は言った。〈君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しかろう〉」夜8時30分、死亡」(5)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)朝日新聞2004.03.11朝刊「春秋」より抜粋。
    (2)読売新聞2004.10.24朝刊 亀山郁夫著『ドストエフスキー 父親殺しの文学』への米原万里の書評より抜粋。
    (3)読売新聞2004.11.27夕刊「言葉を生きる」(亀山郁夫)より抜粋。
    (4)読売新聞2005.02.27「HONライン倶楽部」より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん 2006.06.04(Sun) 22:13[1692]

(2006.12.05更新)


★ロシアのゲネウスロギをめぐって

▲過酷な監獄体験を『罪と罰』などの長編小説の原動力にしたロシアの作家ドストエフスキー。


◆イラスト・南伸坊

◆イラスト・南伸坊

◆1月28日、ロシアの文豪ドストエフスキーは、喀血して8時40分死亡。その夜ペテルブルク師範学校の学生が、ドフトエフスキーの法要に出席。法要のあと出棺のときと墓地での整理を依頼される。1月31日正午前、イサク大寺院唱歌隊が加わって短い祈祷をすませたあと、葬儀委員長の合図で出棺となった。待機していた輿に棺を乗せて修道院まで担いで行ったので、柩車は空車のままあとに従った。葬列の一団一団の間に唱歌隊が入った。学生達が棒で支えた大きな長い花輪が、棺を中心に故人と親しかった人たちや文壇の代表者たちを取り巻くようにして進んだ。野辺送りの人出は5万人を数え、沿道は大修道院の手前まで大変な人垣が出来た。2月1日。日曜日。午前10時、ネフスキー大修道院聖霊礼拝堂で葬儀が営まれた。前日同様、礼拝堂にはとても入れず墓地も人で埋めつくされていた。礼拝堂では弔辞がいくつかあった。大勢の僧侶、教会合唱隊、修道僧が墓に向かい、墓前でも弔辞が述べられた。
(「有名人の葬儀」より)

ドストエフスキー語録

◆「俺は神の作った世界、神の世界なるものを認めないのだし、認めることに同意できない」
(「カラマーゾフの兄弟」)

◆人間は柔軟な動物であり、どんなことにも馴れてしまう存在である。

◆「人生の意味より、人生そのものを愛せ、というわけか?」
(「カラマーゾフの兄弟」)

59年2ヶ月と30日の生涯

アルフレッド・シスレー
Alfred Sisley       【典型的な印象派の画家】

(1839.10.30〜 1899.01.29)
死因?---蠍座

  • シスレーはパリ生まれで生涯の大半をフランスで過ごしたが、国籍はイギリスである。父親はパリで造花の輸出業をしていた。
  • 1857年から1861年までロンドンで商売の修業をするが、1862年には画家を志望してパリに戻る。同年グレールのアトリエ(画塾)に入り、モネルノワールらと知り合った。彼らとともに戸外で主に風景画を制作し、1874年の第1回印象派展にも出品している。1874年の7月から10月にかけてイギリスに滞在した後、フランスに戻り、セーヌ河流域のルーヴシエンヌ、マルリ=ル=ロワ、ヴヌ=ナドン、モレ=シュル=ロワン、レ・サブロンなどを転々として風景を描いた。
  • 1899年モレ=シュル=ロワンで没した。
  • シスレーの作品の大部分はパリ周辺の風景を題材にした穏やかな作風のもので、もっとも典型的な印象派の画家といえる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アルフレッド・シスレー-Wikipedia



(2009.01.19掲載)



▲フランス生まれのイギリス人の画家アルフレッド・シスレー。


▲アルフレッド・シスレー(ルノワール作)


▲洪水と小舟 1876 オルセー美術館

59年3ヶ月ジャストの生涯

藤原 伊織
Iori Fujihara  【『テロリストのパラソル』の生みの親】

(1948.02.17〜2007.05.17 AM10:14)
食道癌---水瓶座

  • 本名:藤原 利一(ふじわら としかず)。直木賞作家。大阪府出身。大阪府立高津高等学校卒。東京大学文学部フランス文学科卒業。卒業後電通に勤務する。
  • 1977年「踊りつかれて」で第4回野性時代新人文学賞佳作、1985年「ダックスフントのワープ」で第9回すばる文学賞受賞。1995年『テロリストのパラソル』で第41回江戸川乱歩賞を全選考委員の絶賛をあび受賞。同作品は翌年、第114回直木賞にも輝く。95年度週刊文春傑作ミステリー・ベスト10第1位。96年度このミス第6位。2002年退社。
  • 2005年の小説誌「オール読物」6月号(文芸春秋)で食道癌の告知を受けたことを告白していたが、2007年5月17日午前10時14分、食道癌のため東京都品川区の病院で死去。享年59。
  • 著書は他に『ひまわりの祝祭』『雪が降る』など。
  • 「昨夜(5月16日)、奥さんから「あと2日間」というようなメッセージを留守電にもらい、驚いた。今朝一番で駆けつけるのに、手ぶらでは拙いと花屋に作らせたアレンジメントが30分もかかったうえ、都営浅草線のダイヤの乱れで予定より40分遅れて、10時39分に五反田NTT病院に着いた。 教えられた10A13号室に入ろうとすると、中年の看護婦が飛んでくる。「患者さんがどういう状態かご存知ですか?」と詰問する。事情を話すと彼女は「待ちなさい」と中に入る。悪い予感。奥さんが泣きはらした顔で出て来て、「主人は10時14分に息を引き取りました」と。 もう「藤原の文学」は読めないのか 。藤原伊織(本名・利一)の身体は肋骨が露わにやせ衰え、いつものような蟷螂(かまきり)みたいな顔も頬はこけ、口をあんぐりと開けて優しい顔をしている。「藤原!」と言って額に触るとまだ暖かい。今にもむっくり起き上がりそうな気配。涙が思わず頬を伝わる。もう藤原の文学は読めないのか。 31年前、電通にいた藤原は大阪から東京へ転勤になり、筆者の営業部に部員として加わった。以来、大酒を飲み、文学を語り、映画を議論して過ごした仲だ。 最初に会った時から酒とギャンブルの好きな男だった。酒を飲むと間もなく眠り化石状態になるので、誰かが川崎の自宅までタクシーで送って行かなければならなかった。だから誰でも藤原宅は知っているし、何よりもインターセクションを降りた近くの交番がしょっちゅう尋ねられるので藤原宅までの順路を暗記していて、直ぐ教えてくれた。 ギャンブルは凄く、マージャンはレイトが高くて仲間うちでは付き合いきれず、プロと打っていた。CMの撮影でエジプトへ送り出したら、そこにカジノがあったらしく、CM制作費をプロダクションから前借りして何百万円もつぎ込み、スッカラカンになって帰国したのを怒ったことがある。ギャンブルの借金がかさんで川崎の家を売り、賃貸のアパートに移ったが、負けは更に込んでいたようだ。 「1000万円を返さなければ命を取られる」 私がアメリカ電通でNYにいる時に電話がかかって来た。どうしても10月までに 1000万円を返さなければ命を取られる。江戸川乱歩賞が賞金1000万円で、それを取る自信はある。ついてはNYの地理、曲がりくねった交通事故の多そうな道路や5番街の様相などを教えてくれと。それが「テロリストのパラソル」になり、見事乱歩賞を取った。 NYから帰った翌年の春、突然今晩付き合ってくれと言う。心細いから新宿のバーで直木賞の発表を待つのだが仲間がいる、と。「お受けします」と電話で頭を下げていた藤原の姿を今でも思い出す。 昨年の秋、病院から電話があった。「ウチのカミさんには言わないで欲しいが、もう少し経ったらオランダに一緒に行ってくれないか」と。「苦しんで死ぬのは嫌だ。人間は尊厳死を保つべきだ。オランダは唯一尊厳死を認める国だから、英語が出来るあなたとカミさんと3人で旅立ちたい」。 奥さんはそのことを知らなかったようだが、聞くと苦しまず静かに亡くなったと言う。確かに死に顔は安らかだった。 松島恵介(「365日映画コラム」担当) 」(1)。
  • 代表作の「テロリストのパラソル」は、95年に江戸川乱歩賞、翌年に直木賞を受け、史上初のダブル受賞が話題になった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    藤原伊織-Wikipedia
    藤原伊織 - 書評Wiki
    藤原伊織とは - はてなダイアリー
    (1)「J-CAST ニュース : 追悼・藤原伊織さん 「博打の借金」から生まれた直木賞

(2007.06.24掲載)



▲「博打の借金」から生まれた直木賞といわれる『テロリストのパラソル』の作家・藤原 伊織。

59年3ヶ月と7日の生涯

ユイスマンス
Joris-Karl Huysmans  【『さかしま』の生みの親】

(1848.02.05〜1907.05.12)
咽頭癌---水瓶座

  • フランスの作家。本名Georges Charles Huysmans。50歳まで官吏を務めた。
  • 文学的には、自然主義作家として出発したが、やがて緻密な文体を駆使しながらも、神秘的、象徴主義的な『さかしま』(36歳)を書く。
  • さらに『彼方』(43歳)では悪魔崇拝を描いたが、1892年カトリックに改宗、『出発』『大伽藍』などで中世のカトリシズムに対する神秘主義的なあこがれを吐露した。
  • なお美術評論に『近代芸術論』『絵画論』等があり、モロールドンを評価した。
  • 「咽頭癌が顔面(特に舌)に転移してすごい顔貌になったそうです」(1)。
  • 「同時代のある批評家がユイスマンスを評して、女主人を慕うブルドックのように美にひたすら執着し、女主人の敵には見さかいなしに吠えかかる、といった」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:センサー石畑さん 2005.01.26(Wed) 00:42
    (2)読売新聞2005.10.16朝刊ユイスマンス著『三つの教会と三人のプリミティブは画家』の川村二郎による書評より抜粋。

(2005.10.16更新)



▲神秘的、象徴主義的な『さかしま』を書いたユイスマンス。

59年3ヶ月23日の生涯

ヨハネス・ヘルダー
Johann Gottfried Herder   【歴史哲学の祖】

(1744.08.25〜1803.12.18)
死因?---乙女座

  • ドイツの哲学者・文学者・批評家。ケーニヒスベルクに生まれ。ケーニヒスベルク大学でカントに学び、ハーマンの感化を受ける。ゲーテと交友し、ゲーテの斡旋でワイマールの宮廷牧師となる。
  • カントの理性主義に反対して、理性は根源的なものではなく、その根底に精神と自然と一なるものがあるとし、その直接的産物としての民衆の詩や宗教に着目した。彼はまた神と世界も一であり、さらに感性と悟性も区別すべきものではなく、また美も単なる形式ではなくて内的生命の象徴としての完全性であるとする。
  • さらに彼は人類を一全体ととらえてその発展を歴史とみ、これが幼年時代(東洋)・少年時代(エジプト・フェニキア)・青年時代(ギリシア)・壮年時代(ローマ)・老年時代(キリスト教世界)をへて人間性の完成へむかうと考えて、歴史哲学の祖と称される。ヴィコと同様に、神話研究を新しい科学の中心に据えようとした。
  • スピノザライプニッツの影響を受け汎神論的世界観を説き、人間を自然の頂点とし、民族の詩と言語の歴史における重要性を説いた。著書「人類史哲学の理念」「言語の起源」など。
  • 「〈この世の二大暴君とは、「偶然」と「時間」である〉人を苦しめるのは同じでも手の下し方は違う。不意の一撃で殴り倒すのが「偶然」ならば、いつ終わるとも知れぬ末という行為を通して、慢性疾患のように人をさいなむのが時間だろう」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヘルダー
    (1)読売新聞2004.07.07朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2004.07.28更新)



▲スピノザ、ライプニッツの影響を受け汎神論的世界観を説き、人間を自然の頂点とし、民族の詩と言語の歴史における重要性を説いたヨハネス・ヘルダー。

59年4ヶ月ジャストの生涯

ジャン・ラシーヌ
Jean Baptiste Racine     【古典劇の最高峰】

(1639.12.21〜1699.04.21)
死因?---射手座

  • 17世紀フランスの劇作家で、フランス新古典主義を代表する悲劇作家、詩人。古典劇の最高峰としてコルネイユと並び称せられる。
  • シャンパーニュ地方出身。収税吏の子に生まれたが3歳で両親を失い孤児となる。ポール・ロアイヤル修道院(ポール・ロアイヤル運動)でジャンセニスト(ジャンセニスム)の付属学校で、厳格なカトリック教育やギリシア古典の高度の教育を受ける。ジャンセニスムの影響下にある修道院ラシーヌはこの学校で古典文学に対する教養と、ジャンセニスムの世界観を身につけたことは後のラシーヌの作品に深い影響を及ぼした。
  • 1659年パリに出て哲学を学びつつ詩作を始める。一時南仏ユゼスに行くが1663年パリに戻り文学に専念。パリで第1作『ラ=テバイード』(1664初演)を発表。以後、1677年までに『アレキサンダー大王』『ブリタニキュス』『アンドロマク』『ベレニス』『ミトリダード』『イフィジェニー』『フェードル』などの傑作を次々に発表。
  • ルイ14世の愛顧を得、アカデミー会員となる一方、モリエールやコルネイユとのあいだに確執を生じた。
  • 1677年王室修史官となって作劇の第一線を退いく。この分野の業績に『ポール=ロワイヤル小史』(1694)がある。彼の子ルイも文筆家で、『ジャン=ラシーヌの憶出』を書いた。
  • この年結婚、またルイ14世の修史官となる。以後作品としてはサンシルの少女たちのために書いた宗教劇《エステル》《アタリー》のみ。
  • 古典劇の法則を駆使して、情熱のとりことなる人間を主人公に格調高い心理劇を作り上げたフランス古典主義の代表者。作品は古典主義の三位一致の原則を守って簡素な筋立てのなかによく人間感情の悲劇を盛り込んでフランス悲劇最高の完成度を示し、観客を感動させた。
  • 「その悲劇作品のほとんどは、三一致の法則を厳格に守り、主にギリシア神話、古代ローマの史実に題材をとる。旧約聖書に題材をとるものを、ラシーヌは悲劇とせず史劇と読んでいる。ラシーヌは均整の取れた人物描写と劇的な筋の構成を、アレクサンドラン詩行と呼ばれるイアンボス6詩脚の丹精で華麗な韻文に綴った。後期の聖書を題材とする作品を除けば、ラシーヌの劇は、二人の若い恋人を中心とするものが多い。二人は愛し合っているが、女性が王など高位の男性に望まれる、あるいは二人が敵対しあう家系にいるなどして、恋愛は成就しない。この葛藤がラシーヌの悲劇の中心となる。これに第三者の嫉妬、政治闘争などが加わり筋が複雑になり、最終的に二人の恋は成就せず、主人公の死をもって幕が下りる。またラシーヌは自身の作品を印刷に付し刊行する際、必ず書き下ろしの序文をつける習慣があった。このためラシーヌの作品は、たんに悲劇としての価値のみならず、演劇論としての価値をももつ。ラシーヌの詩論のなかではオスマン帝国の皇位継承争いを題材にする『バジャゼ』につけた序文での「悲劇の題材は観客から適切な隔たりをもつものでなければならない。この隔たりは神話や古い歴史のような時間的な隔たりだけでなく、時間的にはあまり遠くないがわれわれの風俗になじみのない距離的な隔たりであってもよい」とするものなどが知られる」(1)。
  • ラシーヌとシラーヌが佛!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ラシーヌ
    (1)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2005.04.24掲載)



▲古典劇の法則を駆使して、情熱のとりことなる人間を主人公に格調高い心理劇を作り上げたフランス古典主義の代表者ラシーヌ。

 



59年4ヶ月と16日の生涯

後藤象二郎
Shoujirou Gotou   【自由民権運動家】

(1838.03.19〜11897.08.04)
死因?---魚座

  • 明治の政治家、自由民権運動家。土佐高知藩の出身。
  • 公議政体論を唱え前藩主山内豊信に大政奉還を建白させた。明治政府では参与。参議を歴任したが征韓論に敗れ、西郷隆盛板垣退助とともに下野。副島種臣、江藤新平らと愛国公党を組織し民撰議院設立建白に参画。1881年板垣退助らと自由党を結成。
  • 1887年大同団結運動を起こしたが政府に買収された。1889年以降逓相、農商務相を歴任。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:


▲坂本龍馬とはかつて敵同士だった二人だが、手を結ぶことにより、亀山社中は土佐藩から支援を受け、海援隊として結成された。いろは丸事件の海援隊の勝利は、後藤の参加があってこそと言われる。(港区港郷土資料館所蔵)

(2010.05.03更新)




▲明治の政治家、自由民権運動家・後藤象二郎。

59年4ヶ月と19日の生涯

高田真理
Mari Takada     【青い三角定規元メンバー】

(1947.05.07〜2006.09.26) 
飛び降り自殺---牡牛座

  • 兵庫県出身。1971年に西口久美子・岩久茂とともにフォークグループ「青い三角定規」を結成。ギターを担当した。
    斬新なサウンドが時流にマッチし、「太陽がくれた季節」などのヒット曲を飛ばした。
  • 1973年のグループ解散後は一時ソロとして活動したが、ほどなくして音楽活動から離れ、埼玉県入間市に居住した。居酒屋を経営したこともあったが、近年は無職だった。
  • その後、ソロ歌手として活躍していた西口が2006年に歌手生活35周年を迎えることを記念して、青い三角定規の再結成が決定。2006年8月11日には正式に活動再開が報じられ、日本テレビの24時間テレビに出演。
  • しかし、その直後の9月11日に高田は原付バイクを運転中に人身事故を起こし、業務上過失傷害と道路交通法違反(酒気帯び運転)の現行犯で逮捕され、処分保留のまま釈放された。折悪しく飲酒運転による事故の報道が過熱するさなかでの著名人による初の事故だったため、マスコミなどから強烈な非難が集中。
  • 世論に配慮する形で、再結成は中止された。高田はそうしたことにより心労が重なり、2006年9月26日、ビルの12階から飛び降り自殺をはかり、死亡した。享年59。
  • 引退後、5年間の山篭りを敢行。仙人のような暮らしをしていたという。マイペースな性格。
    真理という名であるが、男性である。生涯独身で通した。晩年は高齢の両親との3人暮らしであった。埼玉医科大学助教授の高田真理は同姓同名のまったくの別人。晩年は居酒屋に入り浸り、”歌がうまい”と評判になっていた(歌手として認識されていなかった)
  • 「26日、午後4時ごろ、埼玉県入間市内のマンションで遺体で発見された。高田さんは敷地内にうつぶせで倒れており、所持品に知人あての遺書があることなどから、狭山署は飛び降り自殺とみている。高田さんは今月11日に酒気帯び運転で人身事故を起こし、現行犯逮捕されていた。大ヒットを飛ばしたグループのメンバーの最後は壮絶なものだった。狭山署の調べではマンションは12階建て。住民の男性がドスンという大きな音を聞き、外に出たところ、うつぶせに倒れている高田さんを発見した。すぐに110番通報し、警官が駆けつけたが高田さんは設置してあるポールに突き刺さるような状態で即死だった。高田さんは黒のジャンパーに黒のズボンといういでたち。身に着けていたショルダーバッグの中にあった免許証から身元が判明した。バッグの中にはB5の半分ほどの紙に「死にたい」などと書かれた知人あての遺書があった。現場は高田さんの自宅から4〜500メートル離れたマンション。高田さんは両親と3人暮らしだったが、両親あての遺書は発見されていない。高田さんは今月11日に入間市内でミニバイクを酒気帯び運転して自転車の女性をはね、1カ月の重傷を負わせた。業務上過失傷害と道交法違反の現行犯で逮捕され、13日には送検、その後釈放されていた。28日に呼び出し命令を受けており、「行きます」と答えていたという。関係者は「変わった様子はなかったが、事故の後は精神的には参っていたんじゃないか」と語っている」
  • “青春は太陽がくれた季節”---giveがsunsetになっちまった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    「高田真理-Wikipedia」

(2006.10.10掲載)


▲1971年に西口久美子・岩久茂とともにフォークグループ「青い三角定規」を結成し、太陽がくれた季節」などのヒット曲を飛ばした高田真理(左端)。

59年4ヶ月と24日の生涯

横井 小楠
Syounan Yokoi 【熊本藩士、儒学者/明治新政府の参与】

(1809.09.22〜1869.02.15=文化6年8月13日〜明治2年1月5日) 
攘夷派によって暗殺される ---乙女座

  • 家系は桓武平氏北条氏嫡流・北条得宗家に発する。北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまり。
  • 横江時利の子は横井時永といい、その子孫は時勝、時延、時泰、時安---と続いた。北条氏の子孫として代々祖先の通字であった「時」の字を名乗りに用いる。
  • その子孫である横井小楠は1809年肥後熊本(現在の熊本県)に、熊本藩藩士の次男として生まれる。「小楠」は、かれが使った号のひとつ。諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存(たいら・の・ときひろ[ときあり])。通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。
  • 私塾「四時軒(しじけん)」を開き、多くの門弟を輩出した。また、坂本龍馬井上毅など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
  • 藩校時習館時代、徂徠学から出発したが、江戸遊学後朱子学に転向。その思想は政治、経済、教育、外交等幅が広い。明治維新のスローガンである尊王攘夷は、政治と経済の問題であった。小楠は政治の問題として公議公論を提唱。経済的には「天地間固有の定理」とする民富論を展開。
  • 主著『国是三論−富国論・強兵論・士道論』(1860)で、真の富は金銀ではなく、生活に必要な豊富な財であると説き、生活必需品、便益品を国富とするスミスと同じ視点に立っていた。
  • 経済活動の基本に「至誠惻怛の心」、「四海同朋主義」を貫く経済論を展開した。その他の主著、談録に、『時務策』、『学校問答書』、『沼山対話』、『沼山閑話』等。
  • 松平春嶽(慶永)の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわる。
  • 世襲制を問題視し、武家政権の問題は、支配者が自己の家のための政治をしていて公共という概念を持っていないことであると見抜き、国際的レベルでも国内の藩同士でも、個人のレベルでも、交易、通交、討議、対話という倫理的で相互的な関係が重要であると考え、そのような意味で当時の日本を「無道」の「鎖国の政治」であると批判した。
  • 慶応4年(1868年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都市中京区寺町丸太町下る東側(寺町通り)で暗殺される。享年61。殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。
  • 鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を「公共」と「交易」の立場から模索した。
  • 小楠は、「公共」性・「公共」圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。また、「交易」を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも「交易」として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。
  • 体系的に小楠の国家論が提示された文書として、1860年に越前福井藩の藩政改革のために執筆された「国是三論」がある。そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた1852年執筆の「学校問答書」、ペリーやプチャーチンへの対応についての意見書である1853年執筆の「夷虜応接大意」、1864年の井上毅との対話の記録「沼山対話」、1865年の元田永孚との対話の記録「沼山閑話」などがある。
  • 「小楠は米初代大統領ワシントンへの敬愛の念ひとかたならぬものがありましたが、この同じ年に十六代リンカーンも生まれています。幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれます。しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学しました。ここでも頭角を現し、やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。ところが、小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。それは、時習館の教えは学問のための学問に終っているのではないかという疑問です。小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそであり、要は理屈より実践をという主張です。このため小楠やその同志たちは「実学党」と呼ばれます。これに対して時習館出身者で占める藩の主流派「学校党」は「横井平四郎さんな実学めさる。学に虚実があるものか」と皮肉ります。しかし、小楠の唱える「実学」は単に実際の利益や実用だけを追いかけるものではありませんでした。国を富まし、民に力をつけ、立派な国づくりを実現するための方策でした。そのことは甥の左平太・大平を渡米させた際の送別の漢詩「何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」にもよく表されています」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    横井小楠-Wikipedia
    横井小楠とは - はてなダイアリー
    (1)「横井小楠と維新群像

(2007.08.09掲載)



▲勝海舟、坂本龍馬、西郷、木戸、大久保などに影響を与えた幕末の思想家、経世家・横井 小楠。

59年5ヶ月と1日の生涯

剣持 勇
Isamu Kenmochi  【「ジャパニーズ・モダン」の祖】

(1912.01.02〜 1971.06.03) 
ガス自殺---山羊座

  • 第二次世界大戦後に渡辺力・柳宗理・長大作・水之江忠臣らと共にジャパニーズ・モダンと呼ばれるデザインの礎を創ったと言われる。
  • 廉価なうえに高機能を求められることの多いインダストリアルデザイン分野で手腕を発揮し、1958年に発表された積み重ね可能な「スタッキング・チェア(スタッキング・スツール)」と呼ぶ椅子は普及品として今なおベストセラーの地位を維持している。
  • 1961年に発表されたラタンチェアーは日本の家具としては初めてニューヨーク近代美術館(MOMA)の永久収蔵品に加えられた。
  • 丹下健三設計の香川県庁舎のインテリアデザインや、ホテルニュージャパンの内装を手がける。「グッドデザイン」運動を推進するなど、日本のインテリアデザインの草創期を築いた。
  • 乳酸菌飲料として日本国内シェアの高いヤクルトの容器も剣持デザインの代表作である。
  • 1912年:東京府で生まれる。
  • 1932年:東京高等工芸学校木材工芸科(現・千葉大学工学部デザイン学科)を卒業。卒業後、商工省(現・経清産業省)工芸指導所に入り、来日していた建築家のブルーノ・タウトに師事。椅子に求められる機能性の研究を行なう。
  • 1952年:渡辺力、柳宗理とともに日本インダストリアルデザイナー協会を結成。
  • 1955年:剣持勇デザイン研究所を設立。スタッキングスツール(秋田木工)をデザインする。
  • 1958年:スタッキングスツール(秋田木工)の販売が開始。
  • 1964年:代表作であるラウンジチェアがニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久コレクションに選ばれる。
  • 1968年:日本航空の航空旅客機ボーイング747のインテリアを担当する。
  • 1971年:ガス自殺により死去。
  • 「---我が国におけるインテリア・デザイナーの「はしり」であり、彼なくして日本のインテリア・デザインは存在しないほど、剣持勇の存在は偉大です。それにもかかわらず、剣持について語られること少ないのは、その最期が自死であったという事実が、あまりに暗く重いからでしょうか---」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    剣持勇 - Wikipedia
    (1)「剣持勇の存在感のわけ 〜抑圧された情念〜:ジャージの王様:So-netブログ

(2008.03.21更新)



▲日本そして世界を代表するインテリアデザイナー剣持 勇。


▲イサム野口と剣持勇


▲ラウンジ・チェ


▲S-5007HA(天童木工)

59年5ヶ月と3日の生涯

岡田 資
Tasuku Okada  【大日本帝国陸軍の軍人】

(1890.04.14~1949.09.17) 
刑死---牡羊座

  • 1890年4月14日、鳥取県に生まれる。
    1911年 陸軍士官学校卒業(第23期)、歩兵少尉任官。歩兵第四十連隊付を命ぜられる
    1922年 陸軍大学校卒業(第34期)
    1925年 駐英大使館付武官補佐官としてロンドン勤務を命ぜられる
    1927年 歩兵少佐昇任、東京へ転勤
    1928年 陸軍大学校教官
    1930年 参謀本部員、秩父宮雍仁親王付侍従武官
    1933年 教育総監部課員
    1935年 歩兵第八十連隊長
    1937年 第四師団参謀長
    1938年 陸軍少将昇任、歩兵第八旅団長、武漢三鎮攻略戦に参加
    1939年 陸軍戦車学校長
    1941年 陸軍中将昇任
    1942年 戦車第二師団長に親補
    1943年 東海軍需管理部長
    1945年 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官親補
    1945年12月1日 予備役編入 同日より東海復員監(〜12月21日まで)
  • 1949年9月17日 戦争犯罪人【B級】(捕虜虐待罪)として刑死。享年60(59歳没)
  • 岡田資は中尉時代の1916年12月から約1年間半にわたって、陸軍士官学校の7期後輩である第30期第3中隊第3区隊長を務めている。この第3区隊員の中には、後に、日中和平工作に尽力し、バターン戦線では兵団本部からの米比軍捕虜千余名の処刑命令に抗して釈放した陸軍少将今井武夫がいた。 岡田は1930年には秩父宮付武官を務めている。 若者を愛した人で「青年将軍」の通称があった。 第十三方面軍司令官兼東海軍管区司令官を務めていた1945年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠は与えられており、私的制裁の類ではない)で処刑した(11名は軍律会議で死刑判決、処刑は6月28日、瀬戸市付近。残り16名は5月14日空襲より後の捕虜、略式手続きのみで7月12〜15日に軍司令部庁舎裏にて4回に分けて処刑。処刑方法はいずれも斬首であり、このことも戦犯裁判での争点となった)。戦後、国際法違反(捕虜虐待罪)に問われ、B級戦犯としてGHQに逮捕され、軍事裁判(横浜法廷)に掛けられた。
  • 戦犯裁判での岡田は米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」と徹底的に主張し、検察や米軍関係者による爆撃正当化を批判した。また「私ひとりが一切の責任を負う」として、捕虜処刑の罪について全てを被った。1949年9月17日、巣鴨プリズンにて絞首刑が執行された。「大岡昇平「ながい旅」は岡田中将を扱った書である」(1)。
  • 「B級法廷での戦いだったので、映画を見るまで小生は岡田中将のことを知りませんでした。日本人の誇りを目覚めさせてくれる映画でした。 もう一点、誰も指摘しないのですが、米人捕虜を殺害したとする罪を、戦勝国の論理で裁く法廷で、米国の無差別爆撃の違法性を盾に戦った訳ですから、大変な困難が伴いました。その際、特筆されるべきは、戦勝国の開く法廷も、弁護人(米国人)も極めて公平な論理で貫かれていたということです。戦争裁判でこれだけの公平性が保たれたことは他にあったでしょうか。日本の戦前の思想犯を裁く法廷には全くありませんでしたし、現在の中国の騒乱罪などの裁判も酷いものです。(罪は裁判の前に決まっており、かりに却下されないことを縷々述べても考慮されることはありません。)戦勝国が公平な裁判を行ったというアメリカの正義と言うものに対する広い度量に小生は頭を下げたいと思いました」(2)。
  • なお、「岡田 資」をテーマにした映画「明日への遺言」が2008年3月1日に公開された。公式オフィシャルサイトは次の通り

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岡田資-Wikipedia
    (1)「岡田資
    (2)投稿者:ユリウスさん ..2008/ 3/20 21:38:18(木) [2897]

(2008.03.21更新)


★『明日への遺言』

▲「法戦」にたった一人で立ち向かった男=最終階級は陸軍中将・岡田資。

59年5ヶ月と14日の生涯

レオナルド熊
Kuma Reonarudo  【コント・レオナルドのコメディアン】

(1935.06.27〜1994.12.11) 
癌---蟹座

  • 「コント・レオナルド」のコメディアン。1980年代初頭のMANZAIブームが終わりに近づく頃、入れ替わるようにスターになったのが「コント・レオナルド」である。
  • 1983〜4年の事だ。30年間、ドサ回りの芸人で腕を磨いてきた「レオナルド熊」と東映の役者出身「石倉三郎」のチグハグなコンビが世間を沸かせたのである。
  • 石倉三郎はいつも怒っていた。正当なことで怒っていた。熊さんはいつも「ヘ理屈」を言っていた。その「ヘ理屈」がやがて道理となり、「一般大衆」を味方にしていくのだった。 世間や政治の疑問点、矛盾点をコントに仕立てあげ聴衆を笑いの渦に巻き込んでいくのだ。だから今現在、当時のVTRを観ても十分に笑えるのである。特に演目「守ルモ攻メルモ」は自衛隊のあり方の疑問をぶつける熊さんと自衛官役の石倉のやり取りが絶妙で、コントの名作。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2008.11.07更新)


▲「コント・レオナルド」のコメディアン・レオナルド熊。




50-51-52-53-54-55-56-57-58-59

スケールバー

スケールバー

 


人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
トップページprofilelink


Copyright(c) 2003 Kazumasa Tamagawa, All rights reserved.

当サイトは Internet Expolorer4.0 以上、Netscape Navigator6.0以上、Javascript ON でご覧ください。