玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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age 59


50音インデックス


■59歳の
 シンクロニシティ


■59歳-?
司馬遷
鳩摩羅什
天台智ギ
光明皇后
藤原道綱の母
建礼門院徳子/平 徳子
直江兼続
安藤昌益
オーギュスト・コント
加賀美 勣
ニカウ
高橋治則
ビリー・プレストン

■59歳-前半→進む
アルベルト・S・デュモン
石田梅岩
山本五十六
中里介山
徳田球一
谷内六郎
マゾッホ
エリック・サティ
荒瀬英生/荒勢 永英
スタンダール
ヴァージニア・ウルフ
菊池 寛
澁澤龍彦
ドストエフスキー
アルフレッド・シスレー
藤原伊織
ユイスマンス
ヨハネス・ヘルダー
ジャン・ラシーヌ
後藤象二郎
高田真理
横井小楠
岡田 資
レオナルド熊

■59歳-後半→進む
木原光知子
モンテーニュ
海老沢泰久
W・クラーク
ギュスターブ・ホルスト
桂朱雀
坂田 昌一
亀井勝一郎
クラーク・ゲ-ブル
毛綱毅曠
市川 準
白井民平
明治天皇睦仁
山之口 貘
カポーティ


■59歳のエポック


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59歳の語録

 

「天道は是か非か」
(天は必ず正しいのか)
(司馬遷)

墓碑銘「生きた、書いた、愛した」
(スタンダール)

「人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためでなく、幸福になるためである」
(スタンダール)

「死んで不幸せになった人を、ひとりでも見たことがあるかね」
(モンテーニュ)

「死にとって、快楽はわれわれを厭世や絶望から救う防御であり、快楽にとって、死はその節度を教える薬味のごときものとも言えるでしょう」
(亀井勝一郎)

59歳のシンクロニシティ!

  • 真珠」繋がりで菊池寛澁澤龍彦
     
    ●『真珠夫人』の菊池寛(1888.12.26〜1948.03.06)は狭心症で59年2ヶ月と8日の生涯(山羊座)。
    ●「呑珠庵」と号した澁澤龍彦(1928.05.08〜1987.08.05)は頚動脈瘤破裂で59年2ヶ月と28日の生涯(牡牛座)だった。

  • また、クラーク繋がりでW・クラーククラーク・ゲーブル
     
    ●「ボーイズ ビー アンビシャス」で知られる札幌農学校(現在の北海道大学農学部)教頭W・クラーク(1826.07.31〜1886.03.09)は死因?で59年7ヶ月と12日の生涯(牡牛座)。
    ●『風と共に去りぬ』で知られるアメリカの俳優クラーク・ゲーブル(1901.02.01〜1960.11.16)も死因?で59年9ヶ月と15日の生涯(水瓶座)を閉じた。


  • また二人の独創的な作曲家もシンクロする。サティホルストである。
     
    ●『ジムノペディ』で知られるフランスの作曲家で環境音楽の始祖・エリック・サティ(1866.05.17〜1925.07.01)は死因?で、59年1ヶ月と14日の生涯(牡牛座)。
    ●占星術から着想を得て書かれた『惑星』で知られるイギリスを代表する作曲家ギュスターブ・ホルスト(1874.09.21〜1934.05.25)も出血性胃潰瘍で59年8ヶ月と4日の生涯(乙女座)を閉じている。

    (2006.12.04更新)      



59年?の生涯

司馬 遷
Shibasen   【中国、前漢の歴史家】

(BC145.?〜BC86.?)
死因?---?座

  • 中国、前漢の歴史家。敬称は太史公。若いころ全国を周遊、戦国諸侯の記録を収集した。
  • 父の意を継ぎ太史令となり、《史記》の編纂に着手。前98年、匈奴の捕虜となった李陵を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑を受けた。刑後、宦官として中書令(天子の秘書長)となり、全精根を傾けて《史記》を完成。
  • 孔子のすぐれた弟子、顔回(がんかい)は赤貧のうちに死に、大悪人の盗跡は天寿を全うした。司馬遷は史記の中で問うている。「天道は是か非か」(天は必ず正しいのか)」(1)。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
   (1)読売新聞2004.03.11朝刊「編集手帳」より

(2004.03.11更新)




▲中国、前漢の歴史家・司馬遷。


◆藤田勝久「司馬遷とその時代」
司馬遷はどのように構想し,どのような方法で中国最初の歴史書『史記』を完成させたのか.考古学や歴史地理の最新の研究成果をもとに,実地調査によってその生涯を追体験し,時代のうねりと著述とのかかわりを読みとき,新しい司馬遷像を描き出す.


▲加地伸行『史記 司馬遷の世界』(講談社現代新書1978)

59年?の生涯

鳩摩羅什=クマーラジーヴァ
Kumaraju   【玄奘と並ぶ訳経僧/二大訳聖】

(350?-409頃?)
死因?---?座

  • 西域のオアシス都市「亀茲(きじ)」(クチャ)に来たインド出身の鳩摩羅炎を父に、亀茲国王女を母として亀茲国にその長男として生まれる。クマラジーヴァ、略して什・羅什と称す。
  • 356年 母と共に出家。羅什の母は,7歳の彼とともに出家して西北インドに学び,まず小乗仏教(説一切有部派)を,ついで龍樹の大乗仏教を修得。
  • 36X年 原始経典やアビダルマ仏教を学ぶ。369年 受具し、須利耶蘇摩と出会って大乗に転向。主に中観派の論書を研究。
  • 384年 亀茲国を征服した呂光の前秦軍に捕えられ捕虜となり涼州に移る。以降18年、呂光・呂纂の下、涼州で生活。その間中国語に精通し,中国に対する知識を深めた。
  • 401年(弘始3)に後秦王に召請され,都長安に迎えられた。ここで8年間,35部297巻という大部の大翻訳事業を遂行した。
  • 402年 (52歳)姚興の意向で女性を受け入れて破戒し、還俗させられる。以降、サンスクリット経典の漢訳に従事。翻訳された経と論は『法華経』『阿弥陀経』『大智度(だいちと)論』『中論』『十二門論』『百論』などである。
  • これら大乗の経・論は,初期中国仏教の最も重要な聖典となり,そこから法華宗(天台宗)・三論宗が成立した。
  • 廬山の慧遠(えおん)とも交渉があり,弟子幾千ともいわれ,僧肇(そじょう)・道生(どうしょう)などが著名である。
    409年 逝去。
  • 一部の経典において、大胆な創作や意訳の疑いが指摘されるものの、彼の翻訳によって後代の仏教界に与えた影響は計り知れない。なお、唐の玄奘による訳経を「新訳」と呼び、それ以前の鳩摩羅什による訳経を「旧訳」と呼んだ。
  • 著書:『大乗大義章』3巻(廬山の慧遠との問答集)
  • 弟子:道生、僧肇、慧観、僧叡の四哲など。
  • 鳩摩羅什=クマーラジーヴァ、何とも胃に良さそうなありがたいお名前である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    鳩摩羅什 - Wikipedia
    鳩摩羅什

(2006.04.29掲載)




玄奘と共に二大訳聖と言われる中国六朝時代の訳経僧・鳩摩羅什=クマーラジーヴァ。

 


鳩摩羅什語録
『大智度論』:伝龍樹著、鳩摩羅什により漢訳。

◆「塵も積もれば山となる」

◆「女人は、幼きは父母に従い、年少は夫に従い、老いては子に従う」

59年?の生涯

天台智ギ
Zhi-yi/Tigi Tendai    【天台宗の実質的開祖】

(538.? 〜 597.11.24)
死因?---?座

  • 潁川の陳氏として、草州華容(湖南省華容県)に生まれた。
    梁の高官で学問に通じた父と、仏教信仰の篤い母の間に生まれた。7歳の時に観音経を一度聞いて暗記してしまうなど幼少期から非凡の才能があった。
  • 17歳のとき梁が敗退して一家が難民となり、両親が死去する。両親の喪が明けた18歳で出家し、やがて天嘉元年(560年)光州大蘇山で慧思に学ぶ。
  • 光大2年(568年)から7年間、金陵(南京)の光宅寺/瓦官寺で『法華文句』を講義し、故郷の草州に玉泉寺を創建して『法華玄義』と『摩訶止観』を講義した。これらは弟子灌頂の講義録として現在に伝わる。
  • 太建7年(575年)からは浙江省の天台山に登って天台教義を体系付け、陳や隋の皇帝の帰依を受ける。南朝陳の同族であるため、皇帝や貴族層からの信任が厚く、要請により、至徳2年(584年)再び金陵に出て、光宅寺で『法華文句』を講義。
  • 陳末の兵乱を廬山に避け、開皇11年(591年)隋の晋王の懇請で晋王に菩薩戒、「總持」の法名を授け、晋王から「智者」号を賜わった。その後、荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』、『法華文句』、『摩訶止観』の天台三大部を講義した。
  • ほかにも『観音玄義』、『観音義疏』、『金光明玄義』、『金光明文句』、『観経疏』の天台五小部を著述。
  • 10年ぶりに天台山に帰り、国清寺を修復して教団の生活規定を制定。煬帝の要請で『維摩経疏』を著述し、揚州に向かう途中、(596年)西門石城寺で入滅。
  • 天台大師と称されるのは、天台山での修行で悟りを得て、天台山で入滅したから。
  • 中国の陳・隋時代の僧侶で天台宗の実質的な開祖であるが、慧文、慧思に次いで第三祖とされている。またインドの龍樹、上記に挙げた慧文、慧思につぐ第四祖ともされる。天台大師、智者大師ともいう。
  • 弟子に章安灌頂がいる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    智ギ-Wikipedia

(2006.04.28掲載)




▲煬帝(隋の第二代帝)から智者の号を賜ったので智者大師、あるいは天台智者大師ともいう天台智ギ。



◆天台大師智 (智者大師)
中国天台山国清寺 智者塔院(眞覺寺)蔵

59年?の生涯

光明皇后
Koumyou Kougou   【聖武天皇の皇后 】

(701.?〜760.07.27=大宝元年〜 天平宝字4年6月7日)
死因?---?座

  • 安宿媛(あすかべひめ)、光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)ともいう。 天平応真仁正皇太后。
  • 聖武天皇の皇太子時代に結婚し、718年(養老2年)阿倍皇女(あべのひめみこ)を出産。
  • 724年(神亀元年)夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。727年(神亀4年)基皇子(もといのみこ)を生んだ。
  • 728年(神亀5年)皇太子に立てられた基皇子が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾したが、長屋王の変後、729年(天平元年)皇后にするとの詔が発せられた。
  • これは皇室以外からはじめての立后である。 以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。なお長屋王の変は阿倍皇女を皇太子にするために藤原氏が仕組んだ謀略といわれている。
  • こうしてライバルを次々に除き、娘である阿倍皇女の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(749年(天平勝宝元年))によって、光明皇后は天皇の母として実権を握った。
  • 皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。 756年(天平勝宝8歳)太上天皇となっていた夫の聖武天皇が亡くなる。 その2年後には皇太后号が贈られた。 760年(天平宝字4年)逝去、佐保山東陵に葬られた。
  • 「光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。 夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。また、書をよくし、王羲之の書を臨書した「楽毅論(がっきろん)」などを残している。和歌は「萬葉集」に4首とられている」(1)。
  • 「大阪府和泉市にある光明池の名前は、光明皇后生誕の地という伝説から由来している。また仏教の庇護者としてさまざな伝説も伝えられており、光明皇后が、病人の膿をみずから吸ったところ、その病人がアシュク如来であったという話はよく知られている」(2)。
  • 「古くから入浴と仏教には密接な関係がありました。 中野栄三著『入浴・銭湯の歴史』には「入浴の起源は、仏像を湯で洗い浄めたことに始まる。」とあります。またお寺では寺僧の入浴後、近隣の人々に寺の風呂を無料で開放しました。 これは「施浴」と呼ばれるもので、布教の目的もありました。施浴については八世紀後半からの記録があるそうです。 この施浴にまつわる伝説として有名なものに「光明皇后の施浴」があります。 皇后はある悲願のために、奈良法華寺の施浴において千人の俗人の垢を洗い流すことを決めました。 ところが、最後の千人目にあらわれたのは、全身に血膿をもつ悪疾の患者でした。 しかし、皇后は厭うことなく、背中を流し、さらに患者に乞われるまま膿まで吸い出してやりました。 その瞬間、浴室に紫雲がたなびき、患者は立ち上がって黄金の光をはなち、「我は阿しゅく仏なり」と言葉を残し消え去りました。
    ちなみに湯屋の石榴口が寺の屋根の形をしているのはこの施浴のなごりだそうです」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    本文、(1)(2)「光明皇后-Wikipedia
    (3)「光明皇后の施浴

(2006.07.29掲載)



?肖像を探しています。

▲仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる光明皇后。

 


◆光明皇后陵

 

 

 

 

 

 

 

 


◆光明皇后の施浴

59年?の生涯

藤原道綱の母
Fujihara Michituna no Haha    【私小説の元祖】

(936.?〜995?〜承平6年? 〜長徳元年5月2日)
死因?---?座

  • 藤原倫寧の娘。中古三十六歌仙の一人藤原長能の姉。菅原孝標女は姪に当たる。また、道綱母も中古三十六歌仙の一人であり、女房三十六歌仙の一人でもある。『尊卑分脈』では本朝三美人の一人と称され、才媛とうたわれた。
  • 藤原兼家の妻の一人となり一子道綱を儲けた。また、兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしている。兼家との結婚生活の様子などを『蜻蛉日記』につづった。
  • 晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われているが詳細は不明。『蜻蛉日記』は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。家集に『傅大納言母上集』がある。
  • 「なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる」- 『拾遺和歌集』恋四・912、 小倉百人一首 53番
  • 小倉百人一首:歌人
    1 天智天皇 - 2 持統天皇 - 3 柿本人麻呂 - 4 山部赤人 - 5 猿丸大夫 - 6 中納言家持 - 7 阿倍仲麻呂 - 8 喜撰法師 - 9 小野小町 - 10 蝉丸 - 11 参議篁 - 12 僧正遍昭 - 13 陽成院 - 14 河原左大臣 - 15 光孝天皇 - 16 中納言行平 - 17 在原業平朝臣 - 18 藤原敏行朝臣 - 19 伊勢 - 20 元良親王 - 21 素性法師 - 22 文屋康秀 - 23 大江千里 - 24 菅家 - 25 三条右大臣 - 26 貞信公 - 27 中納言兼輔 - 28 源宗于朝臣 - 29 凡河内躬恒 - 30 壬生忠岑 - 31 坂上是則 - 32 春道列樹 - 33 紀友則 - 34 藤原興風 - 35 紀貫之 - 36 清原深養父 - 37 文屋朝康 - 38 右近 - 39 参議等 - 40 平兼盛 - 41 壬生忠見 - 42 清原元輔 - 43 権中納言敦忠 - 44 中納言朝忠 - 45 謙徳公 - 46 曽禰好忠 - 47 恵慶法師 - 48 源重之 - 49 大中臣能宣朝臣 - 50 藤原義孝 - 51 藤原実方朝臣 - 52 藤原道信 - 53 右大将道綱母 - 54 儀同三司母 - 55 大納言公任 - 56 和泉式部 - 57 紫式部 - 58 大弐三位 - 59 赤染衛門 - 60 小式部内侍 - 61 伊勢大輔 - 62 清少納言 - 63 左京大夫道雅 - 64 権中納言定頼 - 65 相模 - 66 大僧正行尊 - 67 周防内侍 - 68 三条院 - 69 能因法師 - 70 良暹法師 - 71 大納言経信 - 72 祐子内親王家紀伊 - 73 権中納言匡房 - 74 源俊頼朝臣 - 75 藤原基俊 - 76 法性寺入道前関白太政大臣 - 77 崇徳院 - 78 源兼昌 - 79 左京大夫顕輔 - 80 待賢門院堀河 - 81 後徳大寺左大臣 - 82 道因法師 - 83 皇太后宮大夫俊成 - 84 藤原清輔朝臣 - 85 俊恵法師 - 86 西行法師 - 87 寂蓮法師 - 88 皇嘉門院別当 - 89 式子内親王 - 90 殷富門院大輔 - 91 後京極摂政前太政大臣 - 92 二条院讃岐 - 93 鎌倉右大臣 - 94 参議雅経 - 95 前大僧正慈円 - 96 入道前太政大臣 - 97 藤原定家 - 98 従二位家隆 - 99 後鳥羽院 - 100 順徳院
  • 「文(手紙)見えたり。天下のそらごとならむと思へば、「ただ今、ここちあしくてあれば」とて、やりつ(返事も出さなかった)(藤原道綱(ふじわらのみちつな)の母『蜻蛉(かげろう)日記』)「千年の後に『蜻蛉(かげろう)日記』を読んでいて、あっ、ここに私がいる、っていう気が、女ならどなたもなさると思うのです」(作家、田辺聖子さんの随筆から)。作者は「本朝三美人」の一人とうたわれ、歌人としてもほまれの高かった平安中期の女性。名前は伝えられず、きょうが命日とされる(没年は不祥)。一粒だねの道綱は「此(こ)の世をば我が世とぞ思」った藤原道長の異母兄にあたる。一夫多妻制の時代に彼女は、藤原兼家(かねいえ)に見初められ、正夫人の一人となる。兼家はのちに壮絶な権力争いの末に、関白の座を手にするだけに恋の道でも豪腕かつ海千山千。しかし、彼女はその兼家に正面からいどみ、不実とみるや、冒頭のように会うことすら度々拒否する。とっぴな比較で恐縮だが、そんな激しい個性のぶつかりあいは『風と共に去りぬ』の主人公、スカーレット・オハラとレット・バトラーを思わせるところがある。二人は互いを猛烈に愛していた、はずである。しかし、一つにとけ合うことはなく、やがて別離が訪れる。「ものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」-。そう回想しながらつづられたこの歌物語は、「悲恋物語」でもある」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    藤原道綱母-Wikipedia

(2010.01.16掲載)



▲平安時代中期の歌人で『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者・藤原道綱の母。



59年?の生涯

建礼門院徳子/平 徳子
Tokuko Kenreimonin    【建礼門院という悲劇】

(1155.?〜1214.01.25=久寿2年〜建保元年12月13日)
壇ノ浦の戦いで滅亡---?座

  • 高倉天皇の中宮。安徳天皇の国母。父は平清盛、母は平時子。異母兄に重盛、同母兄弟に宗盛、知盛、重衡がいる。院号は建礼門院(けんれいもんいん)。
  • 安徳天皇の即位後は国母となるが、高倉上皇と清盛が相次いで死去、木曾義仲の攻撃により都を追われ、壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水、平氏一門は滅亡する。徳子は生き残り京へ送還されて出家、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔った。
  • 『平家物語』「灌頂巻」では大原を訪れた後白河法皇に自らの人生を語り、全巻の幕引き役となっている。
  • 久寿2年(1155年)、平清盛と正室・時子との間に生まれる。父の清盛は保元の乱・平治の乱に勝利して武士として初めて公卿となり、軍事・警察権を掌握して朝廷内に大きな勢力を築きつつあった。
  • 仁安元年(1166年)10月10日、後白河上皇は清盛の支援により憲仁親王(後の高倉天皇)の立太子を実現し、院政を開始する。清盛は大将を経ずに内大臣に任じられるという破格の待遇を受けた。しかし、後白河院政は内部に院近臣・堂上平氏・武門平氏・摂関家などといった互いに利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機を孕んでいた。高倉天皇の即位後も、嘉応の強訴において後白河と平氏の政治路線の違いが表面化し、殿下乗合事件では平氏と摂関家が衝突するなど、政局の動揺が続いた。
  • 承安元年(1171年)、高倉天皇が元服すると徳子入内の話が持ち上がる。『愚管抄』によると清盛が「帝ノ外祖ニテ世ヲ皆思フサマニトリテント」という望みを抱いたとする。後白河も政治基盤の強化のためには清盛の協力が不可欠であり、入内を認めた。実現の背景には両者の対立を回避し、高倉天皇の治世安定を願う建春門院の意向が大きく反映したと思われる。
  • 12月2日、院殿上において入内定が行われ、徳子は従三位に叙せられる(『玉葉』『兵範記』同日条)。待賢門院の例が用いられ、徳子は後白河と重盛の猶子となったが「かの例頗る相叶はざる由、世以てこれを傾く」(『玉葉』11月28日条)と周囲からは疑問の声が上がった。12月14日、徳子は法住寺殿に参上して、建春門院の手により着裳の儀を行ってから大内裏へ向かった。後白河と建春門院は七条殿の桟敷から行列を見送ったが、その夜は「明月の光朗らかにして、白沙は昼の如し」(『兵範記』同日条)であったという。16日、徳子は女御となり、翌承安2年(1172年)2月10日、立后して中宮となった(『玉葉』同日条)。
  • 徳子には子がすぐには生まれず、高倉天皇は乳母との間に功子内親王、小督局との間に範子内親王を儲けた。この時、清盛が激怒して小督局を追放したという話が『平家物語』にあるが事実かどうか疑わしい。高倉と徳子の関係が冷たいものだったという見方もあるが、天皇が側室を持つこと自体は珍しいことではなく『建礼門院右京大夫集』を見る限り仲睦まじい関係にあったと思われる。安元3年(1177年)の安元の強訴では、徳子は高倉とともに内裏から法住寺殿に避難している(『玉葉』4月14日条)。
  • 治承2年(1178年)5月24日、徳子の懐妊が明らかとなり、朝廷は出産のための祈祷に明け暮れた。その様子は中宮権大夫・中山忠親の『山槐記』に詳しい。後白河も安産祈願に駆けつけている。11月12日、徳子は皇子を出産し、翌12月には「言仁」の名が定められ、立太子する。なお、翌治承3年(1179年)2月28日には藤原殖子所生の第二皇子(守貞親王、後の後高倉院)が誕生しているが『山槐記』の記述は極めて簡略であり、中宮所生の皇子と女房所生の皇子との格差を表している。
  • 治承3年(1179年)11月14日、清盛はクーデターを断行して後白河を鳥羽殿に幽閉した(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月21日、高倉は3歳の言仁に譲位して院政を開始、高倉院庁の別当は平氏一門と親平氏貴族で固められた。安徳の践祚に伴い、徳子も政治の案件について諮問を受けたり、指示を与えることが多くなる[5]。4月22日の即位式において、徳子は安徳を抱いて高御座に登っている(『玉葉』『山槐記』同日条)。
  • しかし成立したばかりの高倉院政は、5月の以仁王の挙兵によって大きく揺さぶられた。挙兵は早期に鎮圧されたが園城寺・興福寺など反平氏勢力の脅威は依然として残り、6月2日、高倉は清盛の強い意向により福原行幸を行う。しかし遷都計画の挫折、高倉の体調不良、各地の反乱激化もあり11月には京都に戻った。
  • 徳子は行幸の際は安徳と同輿するなど母后としての責務を果たしていたが、12月になると院号宣下を受けて后位を退き、病床の高倉と同居することが検討された(『玉葉』12月19日条)。安徳と同輿する准母には近衛基実の娘・通子が候補となったが、叔父の服喪で准后宣下が延引されるという事態になった。徳子は代わりの准母として、妹で近衛基通の正室である完子を推した(『山槐記』12月24日条)。結局は当初の予定通りに通子が准母となったが、徳子が安徳准母の選定について発言力を有していたことが分かる。
  • 高倉上皇の病状は悪化の一途を辿り、治承5年(1181年)正月14日、21歳の若さで崩御した。この前日に高倉没後に中宮を法皇の後宮に納めるという破天荒な案[6]が飛び出し、清盛・時子も承諾したという情報が流れたが(『玉葉』正月13日条)、徳子は拒絶し、後白河も辞退した。従順だった徳子が両親の意向に逆らったのは、この時だけだったと思われる。
  • 高倉の死により後白河院政の復活は避けられないものとなり、平氏は国政に関与する手段を失った。清盛は院近臣の解官・畿内惣官職の設置など矢継ぎ早に対策を講じていたが、徳子の中宮の地位を利用して影響力の保持を図った。平頼盛の八条邸への安徳行幸が中宮令旨によって諮問され(『玉葉』正月29日条)、高松院領荘園も高倉上皇の遺言と称して徳子に相続される。しかし清盛は熱病に倒れて、閏2月4日に死去した。
  • 清盛の死後、後白河は安徳を八条頼盛邸から閑院に遷し(『吉記』4月10日条)、11月25日に徳子が院号宣下(建礼門院)を受けると殿上人を自ら清撰した(『明月記』12月1日条)。天皇と母后を平氏から引き離し、政治の実権を奪取する狙いがあったと推測される。寿永元年(1182年)には安徳准母も、通子から亮子内親王にすげ替えられた(『玉葉』『吉記』8月14日条)。
  • 平氏と後白河の間には当初から解消することのできない対立が存在したが、かつては建春門院が調整役を果たしていた。しかし周囲の状況は、以前と大きく変化していた。各地では反乱の火の手が燃え盛り、後白河も院政停止・幽閉を経たことで平氏に不満を通り越して憎しみを抱いていた。夫を失い父も失った徳子には対立を抑える力はなく、政権の崩壊は目前に迫っていた。
  • 寿永2年(1183年)5月、平氏の北陸追討軍が木曾義仲に撃破されたことで(倶利伽羅峠の戦い)、今まで維持されてきた軍事バランスは完全に崩壊した。延暦寺が義仲軍についたことで京都の防衛を断念した宗盛は、徳子に都落ちの計画を伝えた(『平家物語』)。しかし、7月24日深夜、後白河は密かに法住寺殿から比叡山に脱出していた。翌25日、後白河の脱出を知った宗盛は六波羅に火を放ち、安徳天皇・徳子・基通・一族を引き連れて周章駆け出した(『吉記』7月25日条)。都に戻った後白河は平氏追討宣旨を下し、ここに平氏は官軍から賊軍に転落することになる。西国に落ちた平氏は元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いで滅亡した。
  • 『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月1日条の「頼朝が平家没官領の中から摂津国真井・島屋両荘を徳子に与えた」こと、文治5年(1189年)に配流先から京都に戻った前権少僧都・全真が大原を訪ねたこと(『玉葉和歌集』)が知られる程度である。『平家物語』(覚一本)は建久2年(1191年)2月に没したとするが、この時期はまだ人々に平氏への関心が高く、徳子の死も何らかの記録に残ったはずで可能性は薄い。そのため『皇代暦』『女院小伝』『女院記』などの記述から、建保元年(1213年)に生涯を閉じたとする説が一般的となっている。ただし角田文衛は、建保元年(1213年)12月12日に殷富門院(亮子内親王)が絶入(気絶)した事実(『明月記』12月14日条)を徳子と取り違えたのではないかとして、同年の『明月記』に徳子死去の記述が全く見えないことから建保元年説に異を唱え、『平家物語』の「延慶本」「四部本」の記述から、徳子は大原から法性寺(延慶本)もしくは法勝寺(四部本)の辺りに移り住み、承久の乱後の貞応2年(1223年)に亡くなったとしている。法勝寺の西南には徳子の妹が嫁いだ藤原隆房の管理する善勝寺があり、隆房が徳子を迎えて保護したのではないかと推測している。
  • 「『平家物語』では大原御幸の後、程なく亡くなったとの記述とは違い、本当は長く生きた方なのですが、やはり亡くなった家族の事をずっと憶えているのが供養だと思われたのではないでしょうか。息子の安徳天皇を抱いて波の下の都を目指した祖母の時子。よくどうして徳子さんが息子と一緒に飛び込まなかったと言われますが、やっぱり母親はどんな形でも子供には生きていて欲しいと思うから…出来なかったと思います」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    平徳子-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwa さん..2009/ 9/15 06:58:49(火) [6099]

(2009.09.16更新)



▲清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内して第一皇子・言仁親王(後の安徳天皇)を産んだ建礼門院徳子/平 徳子。


▲壇ノ浦古戦場址の碑 


▲寂光院 


▲陵墓入口


59年?の生涯

直江 兼続
Kanetsugu Naoe     【愛をかぶった戦国武将】

(1560.?〜1619.01.23=永禄3年〜元和5年12月19日)
死因?---?座

  • 父は長尾政景に仕えた樋口兼豊(木曾義仲の重臣・樋口兼光の末裔といわれている)、母は信州泉氏・尾崎重歳の娘(上杉家重臣・直江景綱の妹説もある)。仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子が窺える史料は皆無であり父・兼豊の身分についても見解が分かれている。米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったという。
  • のちに諱を重光と改めるが、通例では初名の「兼続」と呼ばれることが多い。
  • 通説では兼続は永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として越後の坂戸城下(現在の新潟県南魚沼市)に生まれ、永禄7年(1564年)に主家の「上田長尾家」長尾政景が死去すると上杉輝虎(謙信)の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま景勝の小姓・近習として近侍していたとされているがこれを立証し得る信憑性のある史料は極めて少ない。
  • 天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が確認できる。8月15日(9月23日)には景勝印判状の奏者をつとめている。天正6年(1578年)の御館の乱では父・兼豊と共に景勝方に付いた。
  • 天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱と山崎秀仙が毛利秀広に殺害されるという事件が起きると景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚(お船の方にとっては再婚)し、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。
  • 天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後、兼続は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し事実上、二頭政治に近いものであった。天正14年6月22日(1586年8月7日)、上洛の最中、主君・景勝は従四位下・左近衛権少将に昇叙転任するが兼続も従五位下に叙せられる。
  • 天正16年8月17日(1588年10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の姓を授けられ、豊臣兼続としてあらためて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐では景勝に従い関東諸城を攻略し、文禄元年(1592年)からの朝鮮征伐においても景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。
  • 安定した豊臣政権の中で、兼続は戦乱で疲弊した越後を立て直そうと奔走する。兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励する。越後の平野部は兼続の時代に新田開発が進み、現在に至る米所「越後」の礎となった。さらに兼続は産業を育成し、商業の発展に努める。その元となったのが青苧(あおそ)と呼ばれる繊維だった。越後に自生していたカラムシという植物から取れる青苧は、木綿が普及していなかった当時、衣服の材料として貴重としたものであった。兼続はこの青苧を増産させ、織り上げた布を京で売り捌き、莫大な利益をもたらした。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらした。
  • 天正23年(1595年)1月、景勝が秀吉より越後・佐渡の金山支配を任せられると、兼続はその代官となる。
  • 慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領を与えられている。この国替えにより上杉領は、最上領により会津・置賜地方と庄内地方に大きく分断された。兼続は、この分断された領国の連絡路として、朝日軍道と呼ばれる連絡路を整備した。朝日連峰の尾根筋を縦走する険しい山道で、関ヶ原の合戦後はほぼ廃道となった。
  • 慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意する。そして徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどしてやがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。
  • 関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍の主力が上杉攻めを中止し、三成との決戦のために西進したのを見届けた兼続は、東軍に与した最上義光の領地である山形に総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。
  • その頃、美濃では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが水原親憲、前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。この撤退戦は語り草となり兼続は敵である義光、家康にも称賛され旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられているほど見事なものだったという。
  • 結果として上杉軍の最上侵攻は山形の攻略が成らなかったばかりか逆に反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。
  • 慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)に重光に改名する。
  • 上杉家と徳川家の融和を図り、本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である本多政重が一時
    慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、武功を挙げた。
  • 元和5年12月19日(1619年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死した。享年60(数え)。
  • 初め米沢市の徳昌寺に埋葬。その後、徳昌寺と米沢市の林泉寺の間に争いが起こり敗れた徳昌寺が廃絶したため林泉寺に改葬された。
  • 昭和13年(1938年)4月30日、米沢市丸の内鎮座の松岬神社に配祀。以後、終戦まで米沢市祭として直江祭を毎年4月30日に執行する。
  • 2004年6月2日放送の『トリビアの泉』にて「愛をかぶった戦国武将がいる」と兼続のエピソードが紹介された際には榎木孝明が演じている。
  • 「 漫画「義風堂々!!直江兼続〜前田慶次月語り」(原哲夫原作)では実は兼続は上杉謙信の隠し子だったのではなかったかという説が出ています。この説だと兼続が無名の小姓の身分から家老職まで上り詰めた謎が解けてしまうから不思議」(1)。
  • 今年(2009年)もNHK大河ドラマみてます、みてます!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    直江兼続-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwa さん..2009/ 8/23 07:41:41(日) [5835]

(2009.08.23更新)



▲戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で上杉氏の家老・直江 兼続。
(イラスト 玉野安実嬢)

59年?の生涯

安藤昌益
Soueki Ando  【江戸時代の独創的な社会思想家】

(1703.?〜1762.?=元禄16年 〜宝暦13年)
病没---?座

  • 江戸中期の思想家、医師。伝記には不明な部分が多いが、秋田藩久保田城下大館二井田村(現秋田市)の上層農民の家に生まれる。
  • 昌益は医者としての名前の一つで他にも確竜堂良中や確竜堂安氏正信と名乗っている。 ちなみに安藤家は村の肝煎(村長のようなもの)でその当主としての名は孫左衛門というらしい。
  • 京都の味岡三泊のもとで医学修業。1744年には八戸で町医者を開業。医学・本草学等を修めて南部八戸の医師となり、宝暦年間まで生存、その間、長崎に赴いて海外事情を研究。
  • 1745年には八戸藩士、藩医、僧侶らの知識層と博学の学者として交流している。1750年代前半に主著、稿本《自然真営道》を著したと推定されている。この著で昌益は、当時の身分制社会と儒仏思想を全面的に否定し、支配・被支配関係のない,万人が〈直耕〉(農業生産)に従事する〈自然の世〉を提唱。
    農耕を天然自然の本道として人間生活における基本的重要性を力説。
  • 儒仏等の倫理的教説を徹底的に批判して、君主・支配者を耕作農民に寄生する徒食の輩と痛罵、すべての人間が農耕を基礎として平等である「自然世」社会へ帰る事を理想とした。
  • 儒教、仏教などの宗教をはじめ国家、商業をも否定し、 農業を根本とした全ての人間が平等な社会を築くことを主張。 のちに農本共産主義と評される。
  • 昌益についての詳しい生涯は未だ謎が多く不確定な部分が多い。
  • 1758年故郷に帰り生家を復興、村役人層を門人として村を指導し、凶作による疲弊から救って、みずから守農大神を名のった。晩年は故郷に住み、その思想の普及と実践に当る。
    1762年 二井田で病没 。
  • 著書には刊本『自然真営道』100巻93冊とこれを要約した『統道真伝』五巻がある。
  • 江戸期にはほとんど知られず、明治期に狩野亨吉が発見・紹介し、第2次大戦後E.H.ノーマンの《忘れられた思想家》により世界的に有名になったが、昌益の思想の位置づけについてはなお定説をみない。
  • 「人は自然の全体なり。故に自然を知らざる時は吾が身神の生死を知らず、生死を知らざる則は自然の人に非ず。人に非ずして、生きて何をか為さんや」安藤昌益。
  • 封建制のさなかの江戸中期に平等主義を説き封建的身分制度を果敢に批判、「直耕」つまり人々が額に汗して働く「農」を中心とした「自然世」を理想とした昌益。革命家かユートピア主義者か。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2006.12.18掲載)




▲儒仏等の倫理的教説を徹底的に批判して、君主・支配者を耕作農民に寄生する徒食の輩と痛罵、すべての人間が農耕を基礎として平等である「自然世」社会へ帰る事を理想とした安藤昌益。


▲安藤昌益の墓

刊本 『自然真営道』


◆若尾政希著「安藤昌益からみえる日本近世」
安藤昌益は,自らが生きた時代,社会といかに切り結び,独自の思想を形成していったのか.思想家・昌益の葛藤の実像を明らかにするとともに,そこからみえてくる彼が生きた近世日本という時代を描きだす.日本思想史研究を新たな段階へと進めるべき労作.

安藤昌益語録
「人は自然の全体なり。故に自然を知らざる時は吾が身神の生死を知らず、生死を知らざる則は自然の人に非ず。人に非ずして、生きて何をか為さんや」

59年?の生涯

加賀美 勣
Isao Kagami   【甲府一高美術部の大先輩】

(1939.?〜1999.?)
癌---?座

  • 1939年 山梨県甲府市に生まれる。
  • 1963年 東京芸術大学卒業。グループ九夢結成('66第5回展まで開催)1965年 同大学院修了、大橋賞受賞。同大学副手となる。
  • 1966年 愛知県立芸術大学助手となる、 国画賞、国画会40周年記念賞受賞。十騎会に参加。
  • 1971年 愛知県立芸術大学在外研修員としてヨーロッパからアメリカへ研修(〜72年)。
  • 現代版画65人展、具象現代展等、特にグループ展を中心に制作発表を行っている。数野繁夫との二人展(5回)。加賀美勣水彩素描展。12作家12展(神田画廊)毎年出品
  • 須藤獏の弟子にして、甲府一高美術部の大先輩である。具象と抽象の間を独自のリリシズムで描いた。
    かつて、芸大の大沼教授(洋画家)のアトリエを八ヶ岳の麓に計画していたとき、加賀美さんの明野村のアトリエにおじゃましたことがある。奥さんは陶芸家。
  • ある年、年賀状でボクが手術をして、地主(痔主)にお別れし、平民になったことを告げると、同病であったことをわざわざ返信してくれた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.04.17掲載)



?肖像を探しています。

▲具象と抽象の間を独自のリリシズムで描いた加賀美 勣。

59年?の生涯

ニカウ
nikau   【ブッシュマン】

(1948.?〜2003.07.04)
自然死とあるので天寿をまっとう?---?座

  • ロイター通信などによると、映画「ミラクル・ワールド ブッシュマン」シリーズに主演したニカウさんがナミビアの自宅近くで4日までに死去した。59歳ぐらいだったとみられる。
  • アフリカの先住民族コイサン人(ブッシュマンは別称)。出演したシリーズ4作(1981〜93年)のうち、第1作は航空機から捨てられたコーラの空き瓶を見つけたコイサン人の混乱ぶりを描いた。
  • ニカウさんの天衣無縫さがうけて世界的に大ヒットしたが、人種差別的との批判もあった。
  • 90年代初頭にアフリカ南部の故郷に戻り、家畜を飼い、トウモロコシなどを栽培していたという。1日に自宅からまきを拾いに出て戻らず、家族が草原で死んでいるのを見つけた。
  • 自然死とみられるという。(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)【ヨハネスブルク共同】 2003年7月5日毎日新聞東京夕刊から。

(2003.08.17掲載)




▲映画「ミラクル・ワールド ブッシュマン」シリーズに主演したニカウ。

59年?の生涯

高橋治則
Harunori Takahashi      【リゾート王】

(1946.?〜2005.07.18)
くも膜下出血---?座

  • 旧東京協和信用組合元理事長で背任罪に問われていた高橋治則さんが18日、死去した。
  • 旧東京協和、安全両信用組合から、自身が社長を務めるリゾート開発会社イ・アイ・イ―インターナショナルに不正融資した疑いで、1995年6月に背任罪で東京地裁に起訴された。同年、有罪判決。2003年6月東京高裁の二審で懲役3年6月の実刑判決を受けたのち、最高裁に上告し、審理中だった。
  • 両信用金庫は経営破綻し、日本銀行からの公的融資を受けたが1995年2月に解散した。またイ・アイ・イ―インターナショナル社は2000年に破産宣告を受けた。
  • 朝日新聞の報道によれば、高橋さんは新しい事業を始めていた矢先の死去であった。
  • 「高橋は長銀破綻の黒幕的な存在としてマスコミに叩かれてきた「日本のバブルの申し子」である。日本のバブルを「象徴」する存在だった高橋を語らずにバブルを「総括」することはできない。---高橋はこう語っている。「もし、自分が2信組の資金を私的に流用などしていたら、とても裁判は戦えないですよ。勝ち目なしですから、もう、『はい、はい』と、罪を認めて刑務所に入り、すぐ帰ってくる道を選びます。そうしていれば、もうとっくに決着していますよ。しかし、それでは私の良心というか正義感がもちません。自分や自分を信じてくれた家族や友人、そしてリゾート開発という戦場でともに闘った仲間の名誉のためにも、陰で積み重ねられてきた長銀の不正行為やリップルウッド、新生銀行のデタラメを許すわけにはいかないのです」このように強い意志を語っていた高橋だったが、「くも膜下出血」で2日前の18日に亡くなってしまった。59歳。産経の記事によると「新宿区の病院で死去」となっているが、そのほかの詳しいことはどこの新聞社もいまのところ報じていない。先日の「本間忠世の“死”に対する“闇”」を見てもわかるように、高橋のような重要人物が死んだ場合、それが病気・事故・自殺など、どのように報じられても、私は“事件”の可能性を疑うことを忘れないようにしている。アメリカで起こした裁判では、高橋が勝訴している。サイパンの裁判では、新生銀行に対する損害賠償請求額は「1兆円を超えるという額」になった。もし新生銀行が負ければ、懲罰的賠償(見せしめの効果を狙って)で請求額の3倍まで賠償させることが可能である。つまり3兆円‥‥「日本のバブルの申し子」が逝ってしまった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    訃報 高橋治則さん - ウィキニュース
    (1)「高橋治則が死去 - 灼熱 - 楽天ブログ(Blog)

(2007.07.24掲載)




▲「イ・アイ・イ」グループを率いた元東京協和信組理事長・高橋治則。



 

59年?の生涯

ビリー・プレストン
Billy・P?      【5人目のビートルズ】

(1947.?〜2006.06.06)
腎不全で米アリゾナ州の病院で死去---?座

  • 米シンガー・ソングライター、キーボード奏者。米テキサス州生まれ。
  • 友人だったジョージ・ハリスンの誘いで、ビートルズの「レット・イット・ビー」「ゲット・バック」などの演奏に参加。「5人目のビートルズ」とも呼ばれた。
  • ローリング・ストーンズなど多数の大物ミュージシャンの演奏に参加したほかソロとしても成功、「ナッシング・フロム・ナッシング」などの作品がある。作曲家としても活躍したが、薬物中毒に苦しんだ。
  • 90年代には、薬物中毒や保険金詐欺事件などスキャンダルに見舞われ、その後は、ゴスペル音楽分野で演奏活動を続けた。
  • 腎不全のためアリゾナ州内の病院で死去、59歳。昨年11月に受けた腎移植手術失敗の後、意識不明の昏睡状態が続いていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2006.06.10掲載)




▲「5人目のビートルズ」とも呼ばれたビリー・プレストン。



 




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