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60年6ヶ月と1日の生涯
シド・バレット
Syd Barrett 【ピンク・フロイドの設立メンバー】
(1946.01.06〜2006.07.07)
糖尿病に起因する合併症---山羊座
(2003.08.19)
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▲シド・バレット(Syd Barrett)の名でよく知られたイギリスの伝説的ロック・ミュージシャン。

◆1967年当時のピンクフロイド
◆アルバム・ディスコグラフィー
◆『帽子が笑う…不気味に』 The Madcap Laughs (1970)
◆『その名はバレット』 Barrett (1970)
◆『何人をも近づけぬ男』 The Madcap Laughs
& Barrett (1974)
◆『ピール・セッションズ』 The Peel Sessions (1987)
◆『オペル〜ザ・ベスト・コレクション・オブ・シド・バレット』 Opel (1988)
◆『クレイジー・ダイアモンド』 Crazy
Diamond (1994)
◆『ぼくがいなくて寂しくないの?』 The Best
Of Syd Barrett - Wouldn't You Miss Me? (2001)
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60年6ヶ月と3日の生涯
マッキントッシュ
C・R・Mackintosh 【英国の建築家、家具デザイナー】
(1868.06.07〜1928.12.10)
悪性の舌の病---双子座
- 英国の建築家、家具デザイナー、画家。グラスゴー生れ。設計事務所勤務のかたわらグラスゴー美術学校で建築を学ぶ。1890年代初期に同校の仲間と〈四人組〉を結成。
- スコットランドの伝統、古代ケルトのモティーフ、植物や人体にもとづく曲線などを用いたポスター、家具,工芸品を制作し、アール・ヌーボーと呼応する動きとして注目される。
- なかでも「ウィロー・ティールーム」(35歳)に代表されるグラスゴーの喫茶店の装飾は名高い。建築の作表作にはグラスゴー美術学校(第1期、31歳)やヒル・ハウス(35歳)などがある。
- またグラスゴー美術学校の第2期(41歳)では、それまでの曲線を捨てて水平・垂直の構成を用い、近代建築への道を開いた。同傾向のデザインの椅子「ハイバック・チェア」も知られる
- 確か、パゾローニ監督の映画『ソドムの市』に出ていた楕円形のハイバックチェアーも彼の手による作品。
- 晩年は珠玉の水彩画を描いた。実によい!
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)
(2003.08.19)
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▲英国の建築家、家具デザイナー・マッキントッシュ。
▲ハイバック・チェア

▲ 映画『ソドムの市』に出ていた楕円形のハイバックチェアー
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60年6ヶ月と5日の生涯
一条さゆり(初代)
Sayuri Ichijo 【ストリッパー、ポルノ女優】
(1937.01.29〜1997.08.03)
肝硬変 ---水瓶座
(2009.01.25更新)
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★釜ヶ崎に散ったバラ

▲1960〜70年代にかけて一世を風靡したストリッパー、ポルノ女優・一条さゆり(初代)。

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60年6ヶ月と11日の生涯
パウル・クレー
Paul Klee 【色彩と線の交響楽】
(1879.12.18〜1940.06.29)
皮膚硬化症(おそらく象皮病)---射手座
▲《ベルンのアトリエでのパウル・クレー》1939年
撮影:フェリックス・クレー
パウル・クレー・センター(ベルン)、遺族寄贈
(C)Zentrum Paul Klee, Bern
(2011.05.08更新)
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★たまには造形思考の夜のために
▲『造形思考』の生みの親で、現代絵画の巨匠・パウル・クレー。
(イラスト 玉野安実嬢)
▲ 自画像。

▲「喜劇的で幻想的なオペラ『船乗りシンドバット』からの戦いのシーン」1923
中央に斜めに走る舞台のハイライトに繋がる青のグラデーション、それに背景の闇に映えるエキゾティックな赤のモザイクが、美しくかつ穏やかに戦いの高揚感を訴える。戦いとは言えど、どこかユーモラスな物語絵である。

▲「考え込んで」1939年(918番)
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60年6ヶ月と17日の生涯
江畑 謙介
Kensuke Ebata 【軍事評論家】
(1949.03.23〜2009.10.10)
呼吸不全---牡羊座
(2009.10.17更新)
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▲兵器システムについての該博な知識に基づく冷静な戦況分析を得意とし、とりわけ戦術から戦略レベルでの分析に長けていた江畑 謙介。
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60年6ヶ月と26日の生涯
シンケル
Karl Friedrich Schinke 【ドイツ建築界の巨匠】
(1781.03.13〜1841.10.09)
死因?---魚座
(2004.03.13更新)
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▲19世紀ヨーロッパの新古典主義を代表するドイツ建築界の巨匠・シンケル。
▲建築家シンケルとベルリン
H・G・プント 著 杉本俊多 訳
定価 13,000円 B5判上製カバー装 本文280頁
ISBN4-8055-0012-3
カール・フリードリヒ・シンケルは19世紀ヨーロッパの新古典主義を代表するドイツ建築界の巨匠である。若くしてゲーテの称賛を得、のち最高建設官としてベルリンの歴史的都市部の多くの都市計画を指導した。本書は、建築史・美術史家である著者による厖大なシンケル資料の閲覧・照合の作業を通して初めて構想された労作であり、都市の造形家シンケルの全貌を明示。
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60年6ヶ月と28日の生涯
石原 莞爾
Kanji Ishihara 【陸軍中将】
(1889.01.18〜1949.08.15)
死因?---山羊座
(2005.12.09更新)
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★大日本帝国陸軍軍人 
▲太平洋戦争へと到る激動の1930年代において重大な役割を果たした陸軍軍人・石原 莞爾。
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60年7ヶ月と4日の生涯
八木一夫
Kazuo Yagi 【陶芸の冒険】
(1918.07.04〜1979.02.08=大正7年)
心不全のため急逝---蟹座
(2006.09.11掲載)
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60年7ヶ月と10日の生涯
ヴィルヘルム・ライヒ
Wilhelm Reich 【「オルゴン・エネルギー」の主張者】
(1897.03.24〜1957.11.03)
不遇のうちに獄死---牡羊座
- 宇宙エネルギーの発見者。オーストリア生れの精神分析学者。若い時は精神分析を学び、フロイトの俊英の弟子となり、のちに袂を分かつ。社会科学と自然科学の研究に没頭する。
- 著書『性格分析』(35歳)によって自我心理学的精神分析の端緒を開いた。とりわけ、社会的抑圧からの性の解放を唱えた「性革命」理論で知られる。
- また精神分析とマルクス主義との統合を試みるが、36歳でドイツ共産党から、翌年には国際精神分析学会からも除名される。
41歳の米国亡命のころより精神に変調をきたし、「オルゴン・エネルギー」なる宇宙エネルギーの存在を主張。
- 晩年は狂人扱いされ、「オルゴン・エネルギー」を集める金属性の「オルゴン・ボックス」に入ると性障害が治るなどと称して販売したが、薬事法違反に問われ、不遇のうちにアメリカの刑務所で獄死。
- 著作物はアメリカ食品・医薬品局により焚書にあう。そのためライヒ文庫は50年間閉鎖されている。時代に先がけすぎて多くの誤解を招いたが、現在、彼のセラピー技法は、様々な形で世界に根をおろしている。
- 主な著書に、『性と文化の革命』(48歳)「オーガズムの機能」「性格分析」「衝動的性格」『ファシズムの大衆心理』(36歳)などがある。
- 1960年代後半以降の対抗文化の高まりの中で再評価された。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)
(2005.01.26更新)
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▲「オルゴン・エネルギー」なる宇宙エネルギーの存在を主張した精神分析学者・ヴィルヘルム・ライヒ。

◆『ウィルヘルム・ライヒ 上 生涯と業績』【著者】マイロン・シャラフ【訳者】国永史子+村本詔司
【内 容】時代を先駆けたプロメテウス人間ライヒ。愛と冷酷さと創造性をあわせもった巨人の全貌を、かつての弟子が葛藤をこめて描く。待望の、そして究極の伝記。
【上巻】ライヒの象徴的な人生を血肉化し、膨大な資料、丹念な調査とインタビューでライヒにまつわるさまざまな神話に、そして幼児期のトラウマ、フロイトとの葛藤に光をあてる。
【下巻】時代を先駆けた人物とその発明に対する官民こぞっての攻撃で、一人の才能ある医学・科学者が破滅していく過程がみごとに描かれる。
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60年7ヶ月と27日の生涯
日蓮
Nichiren 【日蓮宗(法華宗)の開祖】
(1222.02.16〜1282.10.13)
病死---水瓶座
(2010.12.13更新)
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▲ 日蓮宗(法華宗)の開祖・日蓮 。
(イラスト 大城さん)

◆日蓮入滅の図
★日蓮語録★
◆「矢のはしる事は弓のちから、くものゆくことは竜のちから、をとこのしわざは女(め)のちからなり」
(物事の裏にはかならず、その力を生み出す何者かが潜んでいる)
◆「われ日本の柱とならむ。われ日本の眼目とならむ。われ日本の大船(たいせん)とならむ」
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60年8ヶ月と10日の生涯
グールド
Stephen Jay Gould 【修正ダーウィニズムの最大の論客】
(1941.09.10〜2002.05.20)
死因?---乙女座
(2006.10.29掲載)
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▲ダーウィン主義をベースにした進化論の論客であり、膨大な読書量からくる博学の科学エッセイストとして活躍したスティーヴン・ジェイ・グールド。
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60年8ヶ月と17日の生涯
皇妃エリザベート
Elisabeth 【ハプスブルクの美神】
(1837.12.24〜1898.09.10)
テロリストによる暗殺 ---山羊座
- 1837年のクリスマスにバイエルン王国に生まれた公女エリザベート。自由主義者であった父の許での自由奔放な少女時代を経て、シシィと呼ばれた彼女は15歳の時、姉ヘレーネとオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの見合いの場に同席したことから、若きオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに見初められ、僅か16歳にして13世紀から続く名門ハプスプルク家に嫁ぐ。オーストリア帝国・ハプスブルグ家の皇妃となった。
- しかし、人も羨むはずの宮廷生活は、エリザベートにとってまったく憂鬱なもの。ハプスブルク家の厳格な宮廷儀礼は自由に育ったシシィには馴染めないもので皇帝の母ゾフィとの確執に傷つき、生まれた長女と皇太子ルドルフはシシィから引き離され、愛し合いながらも擦れ違う夫フランツ・ヨーゼフとの仲。さらには、愛する息子ルドルフの非業の死。
- 彼女は皇帝を愛しながらも心身の傷を癒しに漂泊の旅に逃れる。世紀末のヨーロッパ王室は自由主義と革命の動乱の時代を迎え、ルートヴィヒ2世やメキシコ皇帝マクシミリアン、皇太子ルドルフなどシシィと皇帝の親族には次々と不幸と死が見舞った。
- そんなウィーンの宮廷に背を向けたエリザベートは、自らの美しさへの執着を強め、独自の美容術に傾倒して行く。そして、孤独な放浪の旅に身を委ね、その旅路の果てがテロリストによる暗殺という悲劇の終章。
- 「シシィを刺したのは25歳のイタリア人ルイジ・ルケーニ。無政府主義者のルケーニは「高位にある人なら誰でもよかった」と供述した。最初ジュネーブ滞在予定のフランス皇位継承者オルレアン公を狙った、しかしオルレアン公は予定を変更したため、次に高位の獲物としてオーストリア皇后を狙った。当日朝の新聞にはシシィが宿泊している事が報道されていた。シシィの胸を突き刺した凶器はヤスリの先端を削って鋭く尖らせた物で、外傷は小さかったが傷は肺と左心室を貫通していた。ルケーニは判事からシシィが死んだことを知らされると「アナキスト万歳」と叫んだ。無政府主義者の会合で皇后の暗殺を命じられたとの容疑もかけられたが、ルケーニは単独の犯行だと主張し謀議の証拠も得られなかった。10月から始まった裁判で「ルケーニは皇族や金持ちは殺しても洗濯女は殺さない」と主張したルケーニは反省や後悔の態度を見せず自ら死刑を求めた。精神鑑定が行われたが結局正常であると判断され終身禁固の判決が下された。ルケーニが殺したのは皇族・貴族の階級にありながらそれを望まず、むしろそこから逃れたいと願っていた女性だった」(1)。
- 洗練されたファッション、美への情熱、そして自由と愛を求め続けた波欄の生涯。彼女の類稀なる美貌と、数奇な運命は、今なお幾度も映画化やミュージカル上演がなされ、多くの人々の心を捉えている。ちなみにクリスマスに生まれている。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「皇妃エリザベート展」
(1)「シシィ・彷徨の皇妃エリザベート」
(2)?
(2008.04.05更新)
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▲19世紀激動のヨーロッパ、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇妃で、「シシイー」の愛称で親しまれていた皇妃エリザベート。
(イラスト 凛香さん)

◆『麗しの皇妃エリザベト』ジャン・デ・カール (著),
三保 元 (翻訳) :まず一読を。口絵で最初にノックアウト。この本によると皇妃は「シシ(鳩)」ではなく「シシィ」と呼ばれるのを嫌ったとか。今は「シシィ」の呼び名が一般的。とても気になる。---(2)。
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60年8ヶ月と21日の生涯
鈴木ヒロミツ
Hiromitsu Suzuki 【「モップス」のボーカル】
(1946.06.21〜2007.03.14 AM10:02)
肝細胞がん ---双子座
- 東京都文京区旧・小日向台町出身。東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。モップス時代は「鈴木ひろみつ」「鈴木博三」「すずきひろみつ」とも表記。
- 1967年、グループサウンズ「モップス」のボーカルとしてデビュー。「たどりついたらいつも雨ふり」「気らくにいこう」などをヒットさせた。
- モップス解散後は俳優・タレントとして活躍。俳優に転身してからは、「夜明けの刑事」などのテレビドラマや映画などに多数出演。個性的な脇役として活躍した。
- また、歌番組「レッツゴーヤング」の司会を担当したり、食をテーマにしたエッセー「食わずに死ねるか!」を出版するなど多方面で活躍した。
- 1971年に放映されたモービル石油のCM「のんびり行こうよ」編ではガス欠の自動車を押す男性の役を演じ、昭和を代表するCMの一つとなった。
- 1974年からTBSで放送された大映テレビ製作の刑事ドラマ「夜明けの刑事シリーズ」に頭の上がらない刑事役で出演、エンディング・テーマも担当した。
- 芸能界きっての美食家としても知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本「食わずに死ねるか!」を出版した。
- また、大の中日ドラゴンズのファンで(実の母親が名古屋市生まれだった)、東海テレビのドラゴンズ応援番組「スーパードラゴンズ」ではメイン司会を務め、多くの選手や首脳陣と親交があった。
- 2005年12月29日放映(18:30〜 TBS)の「超豪華!歌謡史決定版〜ザ・ヒット・メーカー〜作詞家・阿久悠40年記念特別企画」では、モップスのデビュー曲でもあり、阿久悠のA面でのデビュー作品でもある「朝まで待てない」を熱唱。バックのコーラスと演奏は元ザ・スパイダースの堺正章、井上順、井上堯之、ムッシュかまやつが参加した。
- 2007年3月14日午前10時02分、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。享年60。医師の診察を受けた際には既に病状が進行しており、入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。
- モップス:バンド名の由来は、モップから。「モップで掃除するように日本の音楽シーンを掃除(革命を起こす、的な意味合い)してやる」という意気込みから名付けられた(「長髪がモップを逆さまに置いたようだったから」とも(ヒロミツ談))。
- 名曲「たどりついたらいつも雨ふり」はボクの青春そのもの。昭和も遠くなりにけり。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
新聞各紙訃報欄
2007年3月14日13時59分スポーツ報知
「鈴木ヒロミツ-Wikipedia」
(2007.03.16掲載)
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▲GSムーブメントから出現したロックバンド、モップスのボーカリストも務めた鈴木ヒロミツ。
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60年9ヶ月と1日の生涯
パーレビ国王
Mohammad Reza Shah Pahlavl 【パフラヴィー2世】
(1919.10.26〜1980.07.27)
死因?---蠍座
- 亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。先帝レザー・シャーの退位により即位し、イランの近代化を進めたが、イラン革命により亡命した。
- 1919年、ガージャール朝の軍人レザー・ハーンの長子としてテヘランに生まれた。1925年に父がレザー・シャーとして皇帝に即位しパフラヴィー朝を開くと、皇太子となった。
その後、上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校ル・ロゼへ留学した。なお、同校においては同級生からの信頼も厚く、多くの友人を作った。
- 1939年9月に勃発した第二次世界大戦中には、レザー・シャーがイラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否するなど、イランは急速に枢軸国のドイツに傾斜した。 このために連合国のイギリスとソビエト連邦は、1941年8月25日に鉄道を含む補給路と、石油などの豊富な資源の確保のためにイランへの侵攻を行った。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の1国でイランとの関係も深かったアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求めたものの拒否され、9月17日にはイラン軍は制圧された。その後イランは両国による共同進駐を受け、両国の圧力を受けて退位した父に代わり、モハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝に即位した。
- 同年にムハンマド・アリー朝エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚したが、後に不和となり1948年に離婚した。次いで1951年にイラン南部のバフティヤーリー族の貴族の長女ソライヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリーと再婚したが、後に彼女が不妊症であることが発覚し、帝位継承の安定のため、1958年にやむなく離婚した。そして1959年にイラン軍軍人の一人娘ファラフ・ディーバーと再婚した。
- シャーは、1951年より石油国有化を進めるとともにソビエト連邦に接近したモハンマド・モサッデク首相と対立したが、1953年にCIAとMI6の支援を受けた皇帝派のザーヘディー将軍らによるクーデター(アジャックス作戦)が起きてモサッデク首相は失脚し、権力を回復した。
- 1960年代より、秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まるなど権威主義体制を敷く一方、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立した。日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年からは石油の輸出により獲得した外国資本を元手に白色革命に着手し、土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めた一方、親欧米路線のもと引き続き欧米諸国の外国資本の導入に努めた。
また自らも英語やフランス語を駆使して親欧米外交を進めるなど、政策の先頭に立った。
- このような政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカは革命直前の1970年代に至っても深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭のボーイング747-SP旅客機をイラン航空に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱った。
- また、シャーは改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。
- たとえば1962年10月6日に、地方選挙において選挙権と被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハーイー教徒などにも市民権への道を開こうとした時には、異教徒、とりわけシーア派保守派からは「邪教徒」「カーフィル」とされるバハーイー教徒がムスリムと対等になることを嫌ったホメイニーたちのすさまじい抵抗にあい、法律の撤回を余儀なくされた。
- その後ホメイニーは反体制派に対する影響力を恐れられて国外追放され、イギリスのロンドンへ向かおうとしたがイギリス政府に拒否されたため、最終的にイラン人亡命者コミュニティのあったフランスのパリへ亡命したが、その後もイラン国内の反体制派に影響を与え続けた。
- 冷戦下において欧米や日本などの先進国との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると破綻した。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、シャーの求心力も急激に低下した。
- ホメイニーはこのような状況に乗じてこれを煽り立て、イスラム主義者のみならず左翼なども参加し、ソビエト連邦などが支援した反体制運動は激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。
- シャーはテヘラン市内に戒厳令を敷くなどしてこれに対応したものの事態は収拾がつかず、1979年1月16日に休暇のためにイランを一時的に去ると称して専用機のボーイング727を自ら操縦し皇后や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々とした。
- ホメイニーは2月1日に15年ぶりの帰国を果たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メヘディー・バーザルガーンを首相に任命した。その後、シャーが任命したシャープール・バフティヤール首相の指揮下でシャーへの忠誠を誓っていた親衛隊およびイラン陸軍の一部が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍およびイラン空軍と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧された。
- バフティヤール首相や親衛隊隊長らは逮捕され、バフティヤール首相は2月13日に正式に辞任した。その後イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎に置いたイスラム共和制をしいた。
- シャーはその後癌治療のためという名目で皇后らとアメリカに移ったが、アメリカがその入国を認めたことに反発した学生達が1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館を占拠してシャーの身柄引き渡しを求めるという、イランアメリカ大使館人質事件が起きた。この事件によりアメリカとイランの関係は決定的に悪化した。
- この事件の発生を受けて12月5日にアメリカを離れパナマへ向かった。1980年7月27日に亡命先のエジプトのカイロで、アンワル・アッ=サーダート大統領の保護のもと、失意の中死去した。
- ファラフ・パフラヴィー元皇后はNHKからの取材に応じ、2009年3月30日放送のドキュメンタリー「忘れられし王妃〜イラン革命30年ふたりの女性の人生の空白〜」に登場し、厳重な警備の中、パリで慈善活動を行いながら余生を送っている姿を見せた。
- 多趣味で知られ、ヨットや飛行機の操縦を行い、イラン空軍の次期主力戦闘機導入の際には自ら候補機の操縦桿を握り、最終的にアメリカのグラマンF-14戦闘機の導入を決定した。
- イタリアのランボルギーニ・ミウラや西ドイツのメルセデス・ベンツ・600といった高級車を愛用するなど、自動車のコレクションは世界的にも有名で、死去後の1990年代に自らのコレクションがオークションで売りに出された際は大きな反響を呼んだ。なお、その時の目玉の1台であったランボルギーニは、ハリウッドスターのニコラス・ケイジが競り落とした。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
「モハンマド・レザー・パフラヴィー-Wikipedia」
(2009.09.25掲載)
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▲イラン皇帝パフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝(シャーハンシャー、在位:1941年9月26日 - 1979年2月11日)であるモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー/パーレビ国王。

▲1941年、議会の開会式へ向かうモハンマド・レザー・シャー

▲国内視察を行うモハンマド・レザー・シャー
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60年9ヶ月と6日の生涯
空海=佐伯真魚/弘法大師
Kuukai 【日本史上最大の精神】
(774.06.15〜835.03.21)
癰と呼ばれる皮膚や皮下組織に生じる急性化膿性炎症---双子座
- 最澄と並ぶ平安仏教の確立者にして真言宗の開祖にして三筆の一人。諡号(しごう)弘法大師。灌頂名遍照金剛。讃岐国多度群(現在の香川県善通寺市)の郡司の家に生まれた。俗姓佐伯氏。
- 15歳で母方の伯父阿刀大足について京都へ遊学。儒学などを修め、18歳の時、将来の上級官吏を目指し、大学に入ったが、儒教中心の授業に失望、仏教への志を抱いて退学。
- 四国の室戸岬など山野での厳しい修行生活を送り、24歳で儒教・道教・仏教の優劣を論じた比較宗教論『三教指帰』の原本を著す。
- 勤操について南都仏教を学び、次いで国内の難所で修行したと伝える。30歳で入唐。長安に入った空海は、わずか半年足らずでサンスクリット語をマスター。
- 当時、密教の第一人者だった青竜寺恵果について密教を学び、その3000人を超す弟子の中から選ばれて胎蔵会・金剛界の両部の密教を授けられる。そして3年後帰国。
- 青竜寺の恵果は、唐の仏教衰退を予見し、異国の俊才空海に、すべてを授けたのであろう。その恵果はセイロン出身の不空(アモーガヴァジャラ)の正嫡の弟子だった。
- 42歳で高野山金剛峰寺を賜り根本道場とし、その後、東寺を与えられ、これを国家鎮護の祈祷道場とした。
- 各地を巡歴。東大寺別当を兼ね、わが国初の大学「綜芸種智院」を創設、密教を宗派として確立。その教義は真言密教を最高位においた仏教概論『十住心論』と肉身のまま仏になるための実践論『即身成仏義』を著し、密教思想を体系化した。
- その文学は『性霊集』『文鏡秘府論』などに著された。書にすぐれ、三筆の一人といわれる。その書は天馬空を行く趣があったとされ『風信帖』『灌頂歴名』などは至宝とされる。
- マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)を有機的に統合する「曼陀羅の思想」は、日本人の人間観はもとより、自然観や美意識の形成に新鮮な刺激を与えた。
- マンダラに燃える空海の大きなスケールの世界。
高野山に世界模型築いた日本史上最大の精神。
- 「空海は「生命の海」を背負った密教者であり、「宇宙の呼吸」を感得できた言語の達人である。潅漑技術や鉱山技術に長けた環境工学者でもあった」(1)。
- 「〈室戸の山々は人の踏みいるべきところにあらず、棲むは鬼ばかりなるべし〉『空海の風景』で司馬遼太郎は、若き日の弘法大師修行の地・室戸を、北隣の阿波(徳島)人の言葉に託してこう表現している。鬼国。室戸は空海が洞穴にこもり、「虚空蔵求聞持法」という秘報を修めて〈明星が口の中に飛び込んできた〉という神秘体験をした地でもある」(2)。
- 「19歳の空海は室戸で 虚空蔵求聞持法、すなわち決まった真言を一定の時間に百万回唱えると八万四千もの今日分を意のままに暗唱できる“スーパー記憶術”を身につける」(3)。
- 「空海はその生来の巫人的体質によって諸霊の存在を積極的に肯定していたただ彼が---論理的完成度が高い密教を創り上げる頃にはそうした卑小の諸霊たちはすべて形而上的になり、ほとんど記号化され、ついにはその体系の中に消えこんでしまった」(4)。
- 「空海が死の6日前の3月15日に、弟子・信徒へ後世の為への戒めを、25箇条にわたって示した遺告(遺言)の一節です。〈我入滅せんと擬するは、今年3月21日寅の刻なり。もろもろの弟子ら悲泣することなかれ〉予言どおり、21日に高野山で入寂しました」(6)。
- 「空海は〈五大にみな響き有り〉という言葉を残している。これは〈宇宙を構成する地、水、火、風、空の5大要素はみな声を持ち、響き合っている〉ことを意味する」(7)。
- 「十住心論は、空海の代表的著述のひとつで、正確には『秘密曼陀羅十住心論』という。10巻。830年ころに、淳和天皇の勅にこたえて真言密教の体系を述べたもの。
人間の心を十段階に分け、それぞれに当時の代表的な思想を配置することによって体系を築いている。真言密教こそが人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。
1.異生羝羊心(煩悩にまみれた心)
2.愚童持斎心(道徳の目覚め・儒教的境地)
3.嬰童無畏心(超俗志向・インド哲学、老荘思想の境)
4.唯蘊無我心(小乗仏教のうち声聞の境地)
5.抜業因種心(小乗仏教のうち縁覚の境地)
6.他縁大乗心(大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地)
7.覚心不生心(大乗仏教のうち中観・三論宗の境地)
8.一道無為心(大乗仏教のうち天台宗の境地)
9.極無自性心(大乗仏教のうち華厳宗の境地)
10.秘密荘厳心(真言密教の境地)
『十住心論』の内容を簡略に示したものが、『秘蔵宝鑰』である」(8)。
- 空海も凄いが、ボクは恵果もさらに凄いと思う。唐の仏教衰退を予見し、異国の俊才空海に、すべてを授けたのだから。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)松岡正剛。
(2)(3)読売新聞2004.11.16朝刊「ホントの旅」より抜粋。
(4)司馬遼太郎。
(5)投稿者:ユリウスさん 2006/ 7/27 11:34:21(木) [24]
(6)投稿者:ユリウスさん 2006/ 7/29 14:53:47(土) [46]
(7)読売新聞2006.08.21夕刊「エンターテイメント」より抜粋。
(8)「十住心論-Wikipedia」
(2007.02.17更新)
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▲最澄と並ぶ平安仏教の確立者にして真言宗の開祖にして三筆の一人・空海。
?空海語録?
◆「生まれ生まれ生まれ生まれて、生の初めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥(くら)し」。
◆ 山川は長くして万世なり、人は短くして百年なり」
(性霊集)
◆「人の相知ること必ずしも対面して久しく話(かた)るのみにしも在らず」(心さえ通ずれば、多く語らなくとも話は通じるものである)。
◆「のうぼう
あきゃしゃきゃらばや
おんありきやまり
ぼりそわか」
(百万回唱えるべき真言)
◆十住心論
「1、異生羝羊住心(いしょうていようじゅうしん・一向行悪行)
2、愚童持斎住心(ぐどうじさい・儒教など)
3、嬰童無畏住心(ようどうむい・道教・バラモン)
4、唯蘊無我住心(ゆいうんむが・声聞乗・小乗佛教)
5、抜業因種住心(ばごういんじゅ・縁覚乗・小乗佛教)
6、他縁大乗住心(たえんだいじょう・法相宗・大乗佛教)
7、覚心不生住心(かくしんふしょう・三論宗・大乗佛教)
8、一道無為住心(いちどうむい・天台宗・大乗佛教)
9、極無自性住心(ごくむじしょう・華厳宗・大乗佛教)
10、秘密荘厳住心(ひみつしょうごん・真言宗・大乗佛教)
空海は「儒教」は世俗の作法にすぎない」として、ばかばかしいものとしている。それで第二段階にしか位置づけられていない」(5)。
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60年と9ヶ月と6日の生涯
山口 薫
Kaoru Yamaguchi 【国際画家】
(1907.08.13〜1968.05.19)
胃癌---獅子座
(2008.05.11更新)
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60年と9ヶ月と11日の生涯
廣松 渉
Wataru Hiromatsu 【近代の超克論者】
(1933.08.11〜1994.05.22)
肺癌---獅子座
(2007.03.23掲載)
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▲主観・客観とされているいずれの側も二重になっており、全体として世界の存在構造は「四肢的」だと指摘した哲学者・廣松 渉。

◆「哲学者廣松渉の告白的回想録」 廣松 渉 (著), 小林 敏明 (編集)

◆「もの・こと・ことば」廣松 渉 著 筑摩書房 版
壮大なる哲学的思考。廣松哲学への最初の一歩。

◆「廣松渉哲学小品集 」小林 昌人 編
壮大な哲学体系の構築,「近代」を克服する新しい世界観の提示を志して苦闘した廣松渉.本書は,その哲学的思索のエッセンスを含む文明論や作家論・作品論に,青年時代の思い出や身辺雑感を軽妙な筆致で綴るエッセイを加えた。
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60年と9ヶ月と19日の生涯
宇都宮 太郎
Taro Utsunomiya 【陸軍軍人】
(1861.04.27〜1922.02.15=文久元年3月18日 〜大正11年)
死因?---牡牛座
(2007.06.06掲載)
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▲林太郎・仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれた宇都宮 太郎。
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60年と9ヶ月と20日の生涯
ジョン・コンスタブル
John Constable 【19世紀のイギリスの画家】
(1776.06.11〜 1837.03.31)
死因?---双子座
(2004.03.01掲載)
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▲同時代のウィリアム・ターナーとともに、19世紀イギリスを代表する風景画家であるジョン・コンスタブル。
▲自画像

▲乾草車 1821 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵

▲主教の庭から見たソールズベリ大聖堂 1823 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(ロンドン)蔵
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60年と9ヶ月と23日の生涯
狩野芳崖
Hougai Kanou 【『悲母観音』の生みの親】
(1828.01.13〜1888.11.05)
自宅で肺炎のため、美術学校開校を目前にし没す---山羊座
- 明治初期の日本画家。長府藩の御用絵師狩野晴皐(かのせいこう)の子として長府町の印内に生まれる。幼名を幸太郎、号を貫甫(かんぽ)、皐隣(こうりん)、翠庵(すいあん)などといった。
- 幼少から絵の天分を発揮し、19歳のときに江戸にのぼり、木挽町狩野家勝川院雅信について十年間絵の修行。多くの門弟たちの中でも彼の技術は群をぬき、橋本雅邦とならんで雅信門下の双璧とされた。
- 幕末の動乱期には、故郷の長府に帰って画業についたが、一時は描くことを中止し、武具の制作に従事したこともあった。
- 明治になり、藩からの扶持が断たれた芳崖は、画業のかたわら養蚕や測量図の仕上げなどをして生活を支えたが、明治初期の伝統芸術が顧みられなかった時期には貧苦はつのるばかりだった。
- 明治10年、50歳のとき藤島常興を頼って上京したが、健康を害し苦しい闘病生活となった。 明治12年、橋本雅邦の紹介で、「犬追物図」制作のため島津家に雇われやっと生活の安定を見る。
- さらに明治17年(1884)57歳の時、アメリカ人のフェノロサに見いだされ、ようやくその労苦が報われる。
- その後、芳崖は美術界の新人養成機関が必要であることを時の首相伊藤博文に説き、日本画革新の運動に参加、東京美術学校(現在の芸大)の創設に努力。
- 明治21年(1888)11月美術学校開校を目前にし没す。墓は東京谷中の長安寺。
- 代表作に「悲母観音図」「仁王捉鬼図」「八臂弁財天図」等。
- 画風は初期狩野派にさかのぼる北画風の厳格な筆法と、西洋の油絵的な構成と色彩を総合しようとした。代表作『悲母観音』にみられるような折衷的様式。
- 名作「悲母観音」の誕生と生活を支えるための測量図の仕上げをしていたことの関係性、そこが知りたい。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)
(2004.02.29更新)
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▲美術学校開校を目前にし没した狩野芳崖。
▲代表作「悲母観音」。
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60年9ヶ月と26日の生涯
トロッキー
Trotskii 【“永久革命論”の革命家】
(1879.10.26〜1940.08.21)
スターリンが放った暗殺者によって暗殺---蠍座
- ロシアの革命家、ソ連共産党の指導者。学生時代から革命運動に参加し、19歳(1898年)で逮捕。21歳(1900年)でシベリア流刑。
- 23歳(1902年)みはロンドンに亡命してレーニンと会う。26歳(1905年)第1次ロシア革命でペテルブルグのソビエト議長。永久革命論を唱え、27歳(1906年)『総括と展望』を著す。
- 38歳(1917年)帰国し共産党に入党し十月革命を指導。政権樹立後は、外務人民委員、軍事人民委員等を歴任し、赤軍創設を指導。
- レーニンの死後は一国社会主義を唱えたスターリンら党主流と対立、批判して“永久革命論”を唱える。48歳(1927年)党を除名され、1929年国外追放。
- その後第四インターナショナルを創立してソ連批判を展開したが、1940年亡命先のメキシコで暗殺さる。主著『文学と革命』『わが生涯』『ロシア革命史』。
- マルクス主義を帝国主義の条件にあてはめて創造的に発展させた革命家と評されている。ペレストロイカ、ソ連邦崩壊をへてその評価の見直しも始まっている。
- 炎の画家フリーダ・カーロの夫リベラはロシア革命後トロッキーが亡命してきて、自宅にかくまった。トロッキーの妻がフリーダとトロッキーの関係に気がつき、居を変える。---やるなトロッキー。---しかしその後、暗殺されてしまう。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
(1)
(2007.01.08更新)
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▲ “永久革命論”を唱えたロシアの革命家、ソ連共産党の指導者 ・トロッキー。 (イラスト 玉野安実嬢)
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60年11ヶ月と6日の生涯---2010年没後20年
藤山寛美
Kanbi Fujiyama 【比類なき阿呆役】
(1929.06.15〜1990.05.21)
肝硬変---双子座
(2010.12.04更新)
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▲ その絶妙な間と人なつっこい表情で人気を博した喜劇俳優・藤山寛美。
(イラスト 大城さん)
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60年11ヶ月と9日の生涯
広沢安任
Yasutou Hirosawa 【「野にあって国家に尽くす」】
(1830.02.24〜1891.02.05=文政13年2月2日〜明治24年)
死因?---魚座
(212.03.29掲載)
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▲江戸時代後期、幕末期の会津藩士・ 広沢安任。
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60年11ヶ月と18日の生涯
ホセ・グアダルーペ・ポサダ
Jose Guadalupe Posada
【メキシコの画家でイラストレーター】
(1852.02.02〜1913.01.20)
死因?---水瓶座
(2012.04.02掲載)
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▲ 多くの作品に骸骨が登場し、「金持ちも貧乏人も死ねばみな骸骨」とのメッセージとされるホセ・グアダルーペ・ポサダ。
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60年11ヶ月と19日の生涯
竹中 労
Tutomu Takenaka【トップ屋第1号/ルポライター第1号】
(1930.05.30〜1991.05.19.PM9:58)
肝臓癌---双子座
(2008.05.12更新)
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★さすらいのアナキスト

▲ 風のアナキスト、さすらいのアナキストと呼ばれたルポライター・竹中労。

▲たまのファンクラブ「虚言倶楽部」の会員証。
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60年11ヶ月と21日の生涯
中西 啓介
Keisuke Nakanishi 【防衛庁長官(55代)】
(1941.02.06〜 2002.01.27=昭和16年〜平成14年)
心不全/糖尿病が悪化---水瓶座
(2007.08.01掲載)
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▲小沢一郎の側近として台頭し、自民党副幹事長、大蔵政務次官を歴任した中西 啓介。
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60年11ヶ月と22日の生涯
田村 俊子
Toshiko Tamura 【『木乃伊の口紅』の生みの親】
(1884.04.25〜1945.04.16)
脳溢血により客死---牡牛座
(2008.04.22掲載)
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▲官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た小説家・田村 俊子。
(イラスト 凛香さん)

◆画像-1:明治44年「あきらめ」出版当時

◆画像-2:写真 日本近代文学館

◆画像-3:「木乃伊の口紅」大正3年6月 牧民社
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