玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

age 60


50音インデックス


■60歳の
 シンクロニシティ


■60歳-?←戻る
ヘラクレイトス
トゥキュディデス
荀子
マニ
恵果和尚
橘逸勢
無学祖元
フランソワ・ラブレー
パオロ・ヴェロネーゼ
長宗我部 元親
山内一豊
山内千代
A・ジェンティレスキ
アドルフ・ランゲ
リチャード・G・スミス
丸山 圭三郎
キヨノサチコ

■60歳-前半-1←戻る
小津安二郎
石ノ森章太郎
ゲーリー・クーパー
ジョルジュ・ブラッサンス
阿佐田哲也
辻 静雄
ニジンスキー
仁科芳雄
ジョージ・パットン
森川 信
辻 潤
P・G・ハマトン
成毛 滋
セオドア・ルーズベルト
ベドジフ・スメタナ
レフ・ランダウ
林 則徐
シュテファン・ツヴァイク

■60歳-前半-2←戻る
マヘリア・ジャクソン
F・D・モンテフェルトロ
手塚治虫
久米正雄
山下 奉文
ミレー
山本常朝
小阪 修平
引田龍太郎
中村八大
森 鴎外
本田竹広
岸本辰雄
辻 征夫
高畠導宏
アルバート・マンセル
徳川 斉昭

■60年-後半
シド・バレット
マッキントッシュ
一条さゆり(初代)
パウル・クレー
江畑 謙介
シンケル
石原 莞爾
八木一夫
ヴィルヘルム・ライヒ
日蓮
グールド
皇妃エリザベート
鈴木ヒロミツ
パーレビ国王
空海=佐伯真魚/弘法大師
山口 薫
廣松 渉
宇都宮 太郎
ジョン・コンスタブル
狩野芳崖
トロッキー
藤山寛美
広沢安任
ホセ・G・ポサダ
竹中 労
中西 啓介
田村俊子


■60歳のエポック


WWW を検索
art-random.main.jp
  を検索


powerd by Google


 

 

60歳の語録

 

「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従う」
(小津安二郎)

「生まれ生まれ生まれ生まれて、生の初めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥し」
(空海)

「山川は長くして万世なり、人は短くして百年なり」
(性霊集)




60年6ヶ月と1日の生涯

シド・バレット
Syd Barrett   【ピンク・フロイドの設立メンバー】

(1946.01.06〜2006.07.07)
糖尿病に起因する合併症---山羊座

  • プログレッシブ・ロック・グループ、ピンク・フロイドの設立メンバーの一人。初期ピンク・フロイドの音楽性やアートワークの方向性を確実に先導した人物であり。
  • 大学街ケンブリッジの、比較的裕福で教育熱心な家庭に生まれ、幸福な幼少期を送る(ただし、少年時代に父親を失っている)。本名ロジャー・キース・バレット(Roger Keith Barrett)。もともと画家志望で美術学校に進学するが、音楽にも興味を持つ。
  • 1964年にロンドンのアート・カレッジに移った際一年先輩で同郷の友人であるロジャー・ウォーターズと出会い、ピンク・フロイド結成。作詞作曲・ギター・ヴォーカルを担当して、グループを牽引。
  • その端正な容姿と斬新な音楽性で、バンドのメジャー・デビュー(1967年)を成功に導いた。しかし間も無く、ストレスや麻薬(LSD)中毒が原因で精神のバランスを崩し、録音中・公演中にも奇行を繰り返すなど、音楽活動に支障をきたし始める。そして1968年、廃人同様となり、バンドを脱退。この間、次のリーダーとなるウォーターズとの間に確執が有ったとも言われる。
  • 1970年、ピンク・フロイドのメンバー達の協力も得て、印象的なソロアルバム『帽子は笑う…不気味に(原題:The Madcap Laughs)』、『その名はバレット(原題:Barrett)』の2枚を発表。これらの作品から、彼は最初のサイケデリック・フォーク・アーティストと見なされる。
  • その後、新作の製作も計画されたが、精神の荒廃はそれを許さない所まで進行していた(1988年には、未発表音源を集めた編集盤『オペル(Opel)』が発表されるが、録音は1970年以前のもの)。
  • 以後暫く、多少の顛末は有ったが(ピンク・フロイドが、ロック史上有数の成功を収めていくのと対照的に)、何をやっても長続きせず、70年代半ばからは、実家に引き篭もってしまう。
    晩年は精神病に苦しみながら、かつての作品からの印税収入と生活援助を糧に、隠者のような生活を送っていたという。近年になっても、パパラッチなどにその変わり果てた姿を捉えられたことがある。
  • 2006年7月、糖尿病に起因する合併症のため60歳で死去。
  • 早い時期に脱退・引退するが、ポール・ウェラーやロビン・ヒッチコックなど数多くのアーティストに大きな影響を与える。ピンク・フロイドの残されたメンバーにとっても、(天才的な才能で自分達を導いてくれたのに、業界や社会に馴染めず、精神を病んで去っていった)バレットの存在自体が、心に重く残り続け、全盛期の彼らの作品が、圧倒的に深いテーマ性を持つ一因となった。
  • 「---シドが参加していた初期のピンク・フロイドは2枚程度しか聴いてませんが、のちを引き継いだデイブ・ギルモア時代はよく聴いてます。ライブも何度か行ってますね〜。シドは早いうちから精神病に罹りバンド活動から足を引いてしまいますが、晩年は結婚もし子供にも恵まれ、夢であった芸術家をめざし絵は描いていたようです。ご冥福をお祈りいたします」(1)。
  • 高一の春、入学して間もなく倉田君が自慢げに、ピンク・フロイドのアルバムをクラスに持ち込んできた。倉田君は熱弁を振るっていた。たぶん兄貴の受け売りだろうと察しは付いていた。だけど新鮮だった。それがボクのピンク・フロイドとのファースト・コンタクトだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    シド・バレットとは - はてな
    シド・バレット-Wikipedia
    (1)投稿者:水のさん 2006.07.18(Tue) 22:26[2119]

(2003.08.19)



▲シド・バレット(Syd Barrett)の名でよく知られたイギリスの伝説的ロック・ミュージシャン。


◆1967年当時のピンクフロイド

 


◆アルバム・ディスコグラフィー

◆『帽子が笑う…不気味に』 The Madcap Laughs (1970)

『その名はバレット』 Barrett (1970)

◆『何人をも近づけぬ男』 The Madcap Laughs & Barrett (1974)

◆『ピール・セッションズ』 The Peel Sessions (1987)

『オペル〜ザ・ベスト・コレクション・オブ・シド・バレット』 Opel (1988)

『クレイジー・ダイアモンド』 Crazy Diamond (1994)

◆『ぼくがいなくて寂しくないの?』 The Best Of Syd Barrett - Wouldn't You Miss Me? (2001)

 

60年6ヶ月と3日の生涯

マッキントッシュ
C・R・Mackintosh 【英国の建築家、家具デザイナー】

(1868.06.07〜1928.12.10)
悪性の舌の病---双子座

  • 英国の建築家、家具デザイナー、画家。グラスゴー生れ。設計事務所勤務のかたわらグラスゴー美術学校で建築を学ぶ。1890年代初期に同校の仲間と〈四人組〉を結成。
  • スコットランドの伝統、古代ケルトのモティーフ、植物や人体にもとづく曲線などを用いたポスター、家具,工芸品を制作し、アール・ヌーボーと呼応する動きとして注目される。
  • なかでも「ウィロー・ティールーム」(35歳)に代表されるグラスゴーの喫茶店の装飾は名高い。建築の作表作にはグラスゴー美術学校(第1期、31歳)やヒル・ハウス(35歳)などがある。
  • またグラスゴー美術学校の第2期(41歳)では、それまでの曲線を捨てて水平・垂直の構成を用い、近代建築への道を開いた。同傾向のデザインの椅子「ハイバック・チェア」も知られる
  • 確か、パゾローニ監督の映画『ソドムの市』に出ていた楕円形のハイバックチェアーも彼の手による作品。
  • 晩年は珠玉の水彩画を描いた。実によい!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.08.19)



▲英国の建築家、家具デザイナー・マッキントッシュ。


▲ハイバック・チェア


▲ 映画『ソドムの市』に出ていた楕円形のハイバックチェアー

60年6ヶ月と5日の生涯

一条さゆり(初代)
Sayuri Ichijo       【ストリッパー、ポルノ女優】

(1937.01.29〜1997.08.03)
肝硬変 ---水瓶座

  • ストリッパー、ポルノ女優。本名・池田和子。1960〜70年代にかけて一世を風靡した。埼玉県川口市出身説が有力である(自称では新潟県柏崎市出身としている)。
  • 6歳で両親に死別、五反田の施設で育つ。中学卒業後、ホステスなど様々な職業を経て、ストリッパーの道に進む。
  • 国際劇場(横浜市)でデビュー後、東京、名古屋、大阪などで活動。芸名は赤羽マリ、リオ椿から一条さゆりに改名。その半生をつづった駒田信二の実録小説『一条さゆりの性』で人気に火がつき、多くの”さゆりスト”を生んだ。1967年〜1973年(引退翌年)まで11PM(よみうりテレビ制作・通称大阪イレブン)のレギュラーを務めたことにより人気が加速する。 また、新左翼やウーマンリブ等の活動家から”反権力の象徴”と祭り上げられ、1973年には本人出演で、その半生を描いた映画『一条さゆり 濡れた欲情』も作られた。
  • SM的な演出と「特出し」など観客を喜ばせることに徹した芸により1972年(昭和47年)に引退するまで9回公然猥褻罪で検挙されている。その引退興行にて大阪府警に猥褻物陳列罪で逮捕されるも、「ストリップは大衆娯楽、猥褻にはあたらない」として最高裁まで争った。その結果懲役1ヶ月が確定。和歌山刑務所へ収監される。
  • 出所後はスナックを経営していたが、交通事故にあって倒産。1988年(昭和63年)7月には放火により全身やけどを負った。 晩年は労働者の街、大阪・西成の釜ヶ崎(あいりん地区)で暮らした。その生活ぶりは近所の飲食店での数時間の労働で僅かな日銭で生計をたて、釜ヶ崎解放会館の三畳間で寝泊りをするという非常に寂しいものだったという。 1997年(平成9年)8月3日肝硬変の悪化で60歳で亡くなる。
  • 加藤詩子著「一条さゆりの真実-虚実のはざまを生きた女」によると、これまで公にされている経歴には誤りが多くあることが述べられている。
  • 新潟県柏崎市出身→埼玉県川口市出身 6歳で両親に死別、五反田の施設で育つ。→幼い頃に実母を亡くし、父親と後妻である継母に育てられるも、あまり家庭的に恵まれず育ち10代半ばで家出。
  • その他、この著書には、公では知られていない彼女の壮絶な一生が書かれている。
    出演映画:一条さゆり 濡れた欲情(1973年、日活、監督:神代辰巳)
  • 著作:食べさてあげたい人(つげ義春全集8、筑摩書房、ISBN 9784480701688 )
  • 「全共闘世代の悲しきアイドル。「特出し」ストリッパー。ワイセツか芸術か - 知識階級を巻き込んだ法廷論争の主役。小沢昭一が称賛、本物の芸人の消え方、死に様。スラムに散った美しき裸像。
  • 「ストリッパーとしての一条さゆりの人生よりも、釜ヶ崎で死んだ一条を描けないか」 - 私の付き合った一条さゆりは、釜ヶ崎の一条だった。釜ヶ崎という個性的な“レンズ”を通すことでこれまでの一条さゆり像とはまったく別の物語が書けるかもしれないと私は直感した - 本文より」初代一条さゆり伝説 釜ヶ崎に散ったバラ 小倉 孝保・著「彼女は仰臥したまま右手をのばしてその蝋燭の束を取り、胸の上にたかだかと掲げた。蝋燭の束からこぼれ落ちる蝋が、見る見る彼女のゆたかな両の乳房を、石膏でかためるようにとじこめていく。客席にはしわぶき一つおこらない。熱くないはずはない、あるいはマゾヒズム的な快感でも感じているのだろうか、と私もかたずを呑みながら見つめていた。やがて、彼女は蝋燭の火を吹き消した。と、明るい照明が、円形に彼女の全身を照らし出した。いつのまにか長襦袢はぬがれていて、彼女は全裸だった。証明の輪の中で、全裸の彼女は右手を下におしあて、中指をその中に没して(と私には見えた)、録音テープからきこえてくるもだえ声にあわせて…」(1)。
  • 2代目一条さゆりは萩尾なおみ

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    一条さゆり-Wikipedia
    (1)「電子書籍 『一条さゆりの性』駒田 信二|Timebook Town

(2009.01.25更新)


★釜ヶ崎に散ったバラ

▲1960〜70年代にかけて一世を風靡したストリッパー、ポルノ女優・一条さゆり(初代)。



60年6ヶ月と11日の生涯

パウル・クレー
Paul Klee          【色彩と線の交響楽】

(1879.12.18〜1940.06.29)
皮膚硬化症(おそらく象皮病)---射手座

  • スイスの画家。ベルン近郊の生れ。父は音楽の教師、母は声楽家。音楽は彼の生活にきわめて重要な地位を占めていた。
  • 音楽の才にも恵まれていたが、絵画を志しミュンヘンの美術学校に学ぶ。
  • 32歳、ブラウエ・ライターの運動に参加。また35歳でのチュニジア旅行で色彩に開眼し、透明感にあふれる水彩画を描く。
  • 音楽で身を立てようと思ったほどのクレーは、自分の芸術理論を系統づけるモデルを、18世紀の音楽理論家、J・J・フックスが著した古典対位法の教本「パルナッソス山への階梯」に見いだす。
  • 音楽と絵画の融合:モーツァルトハイドンベートーベンなども対位法による作曲技法をフックスの論文から学ぶ。
  • 複雑な技法:クレーは造形の可能性を広げようと生涯を通じ、絵画の材質、技法で果敢な実験に挑んだ。
  • 左利きだったクレーは描いたものを上下逆さにしたり、作品を切り取って組み替えたり、考えられることは何でも試みている。
  • 「くすんだ色の油絵の具を厚く塗り、よく乾かし、水をつけた軽石で擦る。ついでニカワ剤を塗る。その下地に水彩絵の具かテンペラ絵の具で描く。最後に色の付いた画面に麻油ニスをかける」。こうした記述はまだ簡単な方で、もっと複雑な技法に言及している。クレーは普通ではない技法を使っているので修復が大変だという。
  • 42歳、バウハウス教授に就任し、造形論を講義した。自ら〈ポリフォニー絵画〉と呼んだ色彩の繊細な組合せによる高度な造形性と、ペシミスムを秘めた詩的な幻想性・抒情性に富んだ作品を発表。
  • 晩年には児童画を思わせる単純な形象や記号による絵画に達した。著書に『クレーの日記』(1957年)、『造形思考』(1956年)などがある。
  • 35歳には彼の作品が大量に各地の美術館から没収され、その一部は「退廃美術展」に展示された。彼はナチスに嫌気がさしてスイスに拠点を移しスイスへの帰化の申請をおこなう。しかしその手続きが終わらない内に1940年6月29日死去。享年60歳。
  • この世では私は理解されない。いまだ生をうけてないものや、死者のもとに私がいるからだ。創造の魂に普通よりも近付いているからだ。だが、それほど近付いたわけでもあるまい。
  • 「クレーの作品は「どのように作られたのか」が大きな意味を持っています。クレーは4歳の時の作品を手始めに、実に9600点にのぼるリストを作成しました。そこにはタイトルだけでなく、詳細な制作方法も記載されています。「制作プロセス」も画家にとって、作品の一部ともいえるほど、重要だったことがうかがえます。---「写す」「切る」「貼る」「回す」「裏返す」などクレー独特の制作プロセス---」(1)。
  • 「クレーには日本美術から想を得た作品がある。多様な文化を貧欲に取り入れてきた彼が、ミュンヘンに送れてやってきたジャポニズムの波を泳いだのは自然なことだった。はめて「日本」と出会ったのは旅行中に訪れたフィレンツェのある劇場でのことだった」(2)。
  • 冗談好きだったクレーによると、現代絵画の巨匠は二人、それも一つの花の名に尽くされるという。答えはクレマチス(クレーとマティス)。
  • クレーの死因である皮膚硬化症はおそらく、空海と同じ象皮病癰と呼ばれる皮膚や皮下組織に生じる急性化膿性炎症ではなかったか。同じく60年の生涯で鬼籍に入った。二人とも希有のマンダリストだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)日経新聞2011.01.03朝刊「パウル・クレー展」より抜粋。
    (2)日経新聞2011.05.08朝刊「美の美」(小川敦生)より抜粋。


    ▲《ベルンのアトリエでのパウル・クレー》1939年
    撮影:フェリックス・クレー
    パウル・クレー・センター(ベルン)、遺族寄贈
    (C)Zentrum Paul Klee, Bern

(2011.05.08更新)


★たまには造形思考の夜のために

▲『造形思考』の生みの親で、現代絵画の巨匠・パウル・クレー。
(イラスト 玉野安実嬢)


▲ 自画像。


▲「喜劇的で幻想的なオペラ『船乗りシンドバット』からの戦いのシーン」1923
中央に斜めに走る舞台のハイライトに繋がる青のグラデーション、それに背景の闇に映えるエキゾティックな赤のモザイクが、美しくかつ穏やかに戦いの高揚感を訴える。戦いとは言えど、どこかユーモラスな物語絵である。


▲「考え込んで」1939年(918番)

60年6ヶ月と17日の生涯

江畑 謙介
Kensuke Ebata         【軍事評論家】

(1949.03.23〜2009.10.10)
呼吸不全---牡羊座

  • 拓殖大学海外事情研究所客員教授。
  • 千葉県銚子市生まれ。市立銚子高校を経て、上智大学大学院理工学研究科博士課程修了。
  • イギリスの防衛専門誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」日本特派員、通商産業省産業構造審議会「安全保障貿易管理部」臨時委員、スウェーデン・ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)客員研究員、防衛庁防衛調達適正化会議議員、内閣官房情報セキュリティ専門調査会委員、経済産業省産業構造審議会安全保障貿易管理小委員会委員、日本国際フォーラム付属「日本予防外交センター」運営委員、外務省「対外情報機能強化に関する懇談会」委員などを歴任。
  • 大学在学中に海上自衛隊の一般幹部候補生試験を受けるが、身体検査で不合格となり、大学卒業後は民間企業へ就職する。しかし、本人が望んだ潜水艦関係の部署に配属されなかった為に退社し大学院へ進学。大学院在学中は「丸」、「航空情報」、英「ジェーン年鑑」などの軍事雑誌へ記事を投稿し、その原稿料を学費に充てたという。
  • 一般には、湾岸戦争時のテレビ出演で認知度が広まり、その後もアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争、さらには北朝鮮のミサイル発射、核実験など有事になるたびに、テレビ番組に出演するようになる。なお、民放ではバラエティ番組などで江畑の独特のヘアースタイルを揶揄するなどの行為をされたことで、それに激怒した経緯があり、出演する放送メディアはほぼNHKのみに限られていた。
  • 兵器システムについての該博な知識に基づく冷静な戦況分析を得意とし、とりわけ戦術から戦略レベルでの分析に長けている。わずかな使用部品等からその兵器のトータル的な性能を推し量るほどの論評には定評がある。また、軍事面以外の解説を求められることがあっても、自分が知らないことに対しては発言を控え、他の出演者に意見を求めるという謙虚さを持ち合わせていることも評価されている。
  • 2009年10月10日、千葉県にて呼吸不全のために逝去。享年61(満60歳没)。
  • 「湾岸戦争時のテレビ解説などで知られた軍事評論家の江畑謙介氏が10日午後3時47分、呼吸不全のため千葉県木更津市の病院で死去した。60歳。千葉県出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。後日お別れの会を開く予定。喪主は妻裕美子さん。上智大大学院理工学研究課程を修了後、1983〜2001年、英国の防衛専門誌日本特派員を務めた。湾岸戦争(91年)や米国によるアフガニスタン攻撃(01年〜)、イラク戦争(03年〜)などをテレビで解説したほか、軍事や安全保障関連の著書、訳書多数」(1)。
  • 「独特な風貌(髪型)が話題になる方でしたが、非常に軍事の説明を分かりやすく説明してくれた方でした。完全な作戦、完全に対象物のみを破壊する兵器、−それらが存在しないことを教えてくれた方でもあります。本当に惜しい方です。ご冥福をお祈りします」(2)。
  • ---確かに軍事機密でも隠しているような、九一分けの独特な髪型でしたね。
  • 「うーみゅ、たまさん、ここだけの話、最初はベレー帽だと思っていました。実はそれをイメージした髪形だったかな・・・。とってもオシャレな方だと思います」(3)。
  • ---ここだけの話にならなくてコメンナサイ! 世界中に機密漏洩してしまいました。
  • 「今、思うとあの髪形も戦略だったのかな!?難しくて固い話なのにリラックスして聞かせてくれた凄い人。あの学者然とした風貌も計算していたかも〜と思えてきました」(4)。
  • 「個人的にはイマイチぴんとこない…方ではあるので脱線的かもしれませんが…ワタシが定期的に拝見させていただいている「Birth of Blues」さま↓こちらのエントリ「【友愛】民主党首藤信彦代議士 急逝した軍事評論家故江畑謙介氏は「自民党べったりで政治家志向、生活に困窮」と故人を嘲笑」↓こちらで紹介されていて…改めて今回の選挙は「悪い」か「より悪い」の選択だったのか…と感じてしまった次第です。これから先どうなるのか…個人的には恐ろしい…としか思えないのですが…」(5)。
  • ---ながみ@GF8Cさん イエローカードすれすれですね。個人的にはリスペクト無きコメントは好きではありません。
    ---好むと好まざるとに関わらず、時代は「サスティナビリティ」から「サバイバビリティ」に移行しつつあるようですね。
  • 「江畑さんの解説はアメリカや日本にも頭の痛い話をしていたのですが…。純粋に軍事のお話で政治色がなかった。本当の軍事評論家だったと思います」(6)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    江畑謙介-Wikipedia
    (1)「東京新聞---
    (2)投稿者:Miwa さん..2009/10/13 06:53:56(火) [6377]
    (3)投稿者:Miwa さん..2009/10/14 06:24:39(水) [6383]
    (4)投稿者:Miwa さん..2009/10/16 07:29:40(金) [6399]
    (5)投稿者:ながみ@GF8C さん..2009/10/16 23:50:55(金) [6401]
    (6)投稿者:Miwa さん..2009/10/17 07:29:08(土) [6404]

(2009.10.17更新)



▲兵器システムについての該博な知識に基づく冷静な戦況分析を得意とし、とりわけ戦術から戦略レベルでの分析に長けていた江畑 謙介。

60年6ヶ月と26日の生涯

シンケル
Karl Friedrich Schinke   【ドイツ建築界の巨匠】

(1781.03.13〜1841.10.09)
死因?---魚座

  • ドイツの建築家、画家。。1803年〜1805年イタリアとフランスに遊学後、ベルリンで活躍。
  • 初め画家としてロマン的で理想化した風景画を描き、また、舞台装飾も手がける。
  • 若くしてゲーテの称賛を得、のち最高建設官としてベルリンの歴史的都市部の多くの都市計画を指導。
  • 1815年(34歳)ベルリンの土木総監督になり、このころから建築活動を始め、ドイツ新古典主義建築の代表的作家として大きな業績を残す。
  • ベルリンの衛兵所、旧王立劇場、旧美術館など、ギリシア建築を規範とする純古典的建築を建造。またゴシック様式にギリシア的要素を結合しようとする試みもみられる。
  • カール・フリードリッヒ・シンケルは19世紀のベルリンのアーバンデザインを手掛け、古代ギリシャをモデルに都心全体の景観にバランスを与えようとし続けた最初の建築家である。シンケルが関与した改変・修復プロジェクトはベルリンの大半に及ぶほど多い。またプロイセンの勢力のおよぶ各所にシンケルの痕跡をみることもできる。当時内務省に当てた文書の中には遺跡や記念碑の保存に関する原則を記しているが、それらは「過去」と「現在」の関係を読み直す、歴史の修復作業でもある。20世紀のベルリンにおけるモダニズムやナチズム、ポストモダンの建築家にいたるまで、シンケルの影響圏は広い。(1)
  • ユンケルではない。だが、“皇帝液”という意味では近い。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「19世紀 シンケルのベルリン再開発

(2004.03.13更新)



▲19世紀ヨーロッパの新古典主義を代表するドイツ建築界の巨匠・シンケル。


▲建築家シンケルとベルリン
 H・G・プント 著 杉本俊多 訳
定価 13,000円 B5判上製カバー装 本文280頁
ISBN4-8055-0012-3
カール・フリードリヒ・シンケルは19世紀ヨーロッパの新古典主義を代表するドイツ建築界の巨匠である。若くしてゲーテの称賛を得、のち最高建設官としてベルリンの歴史的都市部の多くの都市計画を指導した。本書は、建築史・美術史家である著者による厖大なシンケル資料の閲覧・照合の作業を通して初めて構想された労作であり、都市の造形家シンケルの全貌を明示。

60年6ヶ月と28日の生涯

石原 莞爾
Kanji Ishihara         【陸軍中将】

(1889.01.18〜1949.08.15)
死因?---山羊座

  • 山形県鶴岡市生まれ。南部氏に認められその援助を得て陸軍大学校を第二位の成績で卒業、ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。国柱会の熱心な信者として知られる。
  • 若い頃から、ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。陸大創設以来かつてない頭脳の持ち主と言われ関東軍作戦主任参謀となり、板垣征四郎らと満州事変を実行した。
  • 日中戦争では参謀本部作戦部長。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、軍部中枢と対立した。太平洋戦争前に東条英機との確執から予備役に回される。
  • 最終戦争論を唱え東亜連盟構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、「最終戦争論」では、戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。
  • 東条との対立が有利に働き、極東軍事裁判においては戦犯の指名から外れ、戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサー批判をし、最終戦争なしに世界が一つとなるべきであると主張した。
  • 「太平洋戦争へと到る激動の1930年代において重大な役割を果たした陸軍軍人である。満州事変、2・26事件、そして日中戦争に関わり、その個性的な才能は多くの追随者を生み出した」(1)。
  • 「日蓮宗の国柱会員としての信仰生活、同じ信徒の妻との同志愛、激職と常に隣り合っていた病気の苦痛、退役してから病をおして全国に東亜連盟論を説いてまわった講演活動、敗戦後は郷里山形県の開拓地への入植。信仰者、思想家、社会運動家としての石原がこれほど魅力ある人物であったことに、本書はあらためて気づかせてくれた」(2)。
  • 「1 戦時中に日米戦争の帰趨をキッチリと予言:昭和17年9月14日、鶴岡に帰郷中に県知事が石原宅を訪れ、対米戦争の見通しを尋ねた時の返事。
    「ご心配にはおよびません。日本は必ず負けます。でも負けても民族は亡びません。負けて目がさめてから、はじめて立ち上がリ、日本は本当の姿を著しますよ」(3)。
  • 「2 極東軍事裁判の法廷にて、検事を子ども扱い:昭和22年5月1日、2日イギリスのダニカン検事とのやりとり。
    検事「当時の日本は大陸軍国だったか?」
    石原「中陸軍国だった。」
    検事「事変直後の行動によって、関東軍は中国軍に大鉄槌を加えたか?」
    石原「中鉄槌だった。鉄ではあったが、槌が小さかった。」
    こう茶化されては検事も困ったと見えて、イエス、ノーだけを答えるように要求した。
    検事「満州事変の被害程度はどうであったか?」
    石原「ご指示にそえなくて申し訳ないが、日本では被害の程度を表現するのに、イエス、ノーの言葉は使わないのである。すみませんね」
    −ノンフィクションライターの小出文彦氏の文を参考にしました−」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)「石原莞爾のホーム・ページ
    (2)読売新聞2005.11.20朝刊 阿部博行著『石原 莞爾』の戸部良一による書評より抜粋。
    (3)(4)投稿者:ユリウスさん 2005.12.08(Thu) 21:31[799]

(2005.12.09更新)


★大日本帝国陸軍軍人
▲太平洋戦争へと到る激動の1930年代において重大な役割を果たした陸軍軍人・石原 莞爾。

60年7ヶ月と4日の生涯

八木一夫
Kazuo Yagi     【陶芸の冒険】

(1918.07.04〜1979.02.08=大正7年)
心不全のため急逝---蟹座

  • 伝統ある京都の地に、陶芸家八木一艸の長男として京都に生まれる。京都市立美術工芸学校、国立陶磁器試験場に学ぶ。
  • 19歳で陶磁器試験研究所で沼田一雅に学び、21歳で入隊、肺を患い除役後は中学教師を28歳まで続けて、それから陶芸に専心した。
  • 新しい陶芸を目指し、戦後間もない昭和23(1948)年、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫らと「走泥社(そうでいしゃ)」を結成し、前衛的な陶芸を発表。このグループはその後、50年にわたり前衛陶芸を育てる役割を果たす。34歳で染織家の高木敏子と結婚、翌年の東京画廊での個展で「ザムザ氏の散歩」を発表。
  • 昭和29(1954)年に発表した《ザムザ氏の散歩》は、ロクロで成形した円環に昆虫の触角や脚を思わせる突起が付け加えられたもので、「オブジェ焼」という言葉が生まれるきっかけとなった。それは従来の器としてのやきものとは一線を画した、用途を持たないやきものであり、現代陶芸史の記念碑的な作品となる。
  • 戦後、国際化する美術状況のなかで、八木はイサム・ノグチ、堀内正和などとの交流を通じて、国内外の同時代の美術に敏感に反応し、いち早く世界に認められる陶芸家となった。イサム・ノグチ、河井寛次郎、富本憲吉、堀内正和らと、幅の広い交流関係を持ち、お互いの制作にも影響を与え合う。
    八木は60歳で突然の死を迎えたが、彼の革新的な造形世界は日本陶芸の新しい可能性を示した。
  • 著者に『懐中の風景』(講談社)、『刻々の炎』(駸々堂)がある。
  • 八木は、白化粧、無釉焼締、信楽、黒陶と、次々にスタイルを変えながら、批判精神と機知あふれる造形を生み出した。それらのオブジェ作品はどれも意外性と遊び心に富み、いまなお新鮮な驚きを与えてくれる。一方で、八木は生涯「茶わんや」を自称していたように、古陶磁にも造詣が深く、器や茶碗にも優れた作品を遺した。
  • 「《ザムザ氏の散歩》(1954年)は、カフカの小説『変身』の主人公が、一夜にして昆虫に変身したことを題材に制作したもので、八木自身の変身と重ね合わせたものです。この作品は、日本陶芸界の記念碑的作品となりました。ロクロで成型した円環を横向きに立て、そこに昆虫の触角や脚を思わせる、これもロクロで成型した円筒をつけたものです」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    東京都庭園美術館:展覧会情報
    (1)「東京都庭園美術館:展覧会

(2006.09.11掲載)


★オブジェ焼き
▲陶芸の世界に、オブジェという考えを導入し、新たな造形分野を切り開いた陶芸家・八木一夫 。


◆《ニュートンの耳》 1969年 個人蔵


◆《距離》 1974年 京都国立近代美術館蔵


◆《二口壺》1950年 京都国立近代美術館蔵


◆《ザムザ氏の散歩》 1954年 個人蔵

60年7ヶ月と10日の生涯

ヴィルヘルム・ライヒ
Wilhelm Reich  【「オルゴン・エネルギー」の主張者】

(1897.03.24〜1957.11.03)
不遇のうちに獄死---牡羊座

  • 宇宙エネルギーの発見者。オーストリア生れの精神分析学者。若い時は精神分析を学び、フロイトの俊英の弟子となり、のちに袂を分かつ。社会科学と自然科学の研究に没頭する。
  • 著書『性格分析』(35歳)によって自我心理学的精神分析の端緒を開いた。とりわけ、社会的抑圧からの性の解放を唱えた「性革命」理論で知られる。
  • また精神分析とマルクス主義との統合を試みるが、36歳でドイツ共産党から、翌年には国際精神分析学会からも除名される。
    41歳の米国亡命のころより精神に変調をきたし、「オルゴン・エネルギー」なる宇宙エネルギーの存在を主張。
  • 晩年は狂人扱いされ、「オルゴン・エネルギー」を集める金属性の「オルゴン・ボックス」に入ると性障害が治るなどと称して販売したが、薬事法違反に問われ、不遇のうちにアメリカの刑務所で獄死。
  • 著作物はアメリカ食品・医薬品局により焚書にあう。そのためライヒ文庫は50年間閉鎖されている。時代に先がけすぎて多くの誤解を招いたが、現在、彼のセラピー技法は、様々な形で世界に根をおろしている。
  • 主な著書に、『性と文化の革命』(48歳)「オーガズムの機能」「性格分析」「衝動的性格」『ファシズムの大衆心理』(36歳)などがある。
  • 1960年代後半以降の対抗文化の高まりの中で再評価された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2005.01.26更新)



▲「オルゴン・エネルギー」なる宇宙エネルギーの存在を主張した精神分析学者・ヴィルヘルム・ライヒ。



◆『ウィルヘルム・ライヒ 上 生涯と業績』【著者】マイロン・シャラフ【訳者】国永史子+村本詔司
【内 容】時代を先駆けたプロメテウス人間ライヒ。愛と冷酷さと創造性をあわせもった巨人の全貌を、かつての弟子が葛藤をこめて描く。待望の、そして究極の伝記。
【上巻】ライヒの象徴的な人生を血肉化し、膨大な資料、丹念な調査とインタビューでライヒにまつわるさまざまな神話に、そして幼児期のトラウマ、フロイトとの葛藤に光をあてる。
【下巻】時代を先駆けた人物とその発明に対する官民こぞっての攻撃で、一人の才能ある医学・科学者が破滅していく過程がみごとに描かれる。

60年7ヶ月と27日の生涯

日蓮
Nichiren   【日蓮宗(法華宗)の開祖】

(1222.02.16〜1282.10.13)
病死---水瓶座

  • 鎌倉時代の僧。日蓮宗(法華宗)の開祖。安房国(千葉県)小湊に生まれる。12歳の時同郷の清燈寺にのぼって道善房について仏教を学びはじめ、16歳で出家して是聖房蓮長と名のった。
  • 17歳ころから鎌倉・比叡山などで11年間修行研鑽し、ついに『法華経』こそ至高の経典であるとの確信を得、31歳で故郷の清澄山頂で題目を高唱して開宗した。
  • 次いで、念仏・禅・真言・律を破す四箇格言をもって、鎌倉の辻で説法し、38歳で『立正安国論』を著して蒙古襲来を予言し北条時頼に献じたが,その忌諱に触れ伊豆伊東に流された(39歳)。
  • 41歳、許されて鎌倉に帰るが、再び国難を訴えて捕えられ佐渡へ流される。3年後鎌倉に帰るも、この年蒙古が襲来、幕府は日蓮に意見を求めたが応ぜず。後、身延に隠れ、草庵を結んで宗風の高揚に努め、久遠寺を開いた。著書に『観心本尊鈔』『開目鈔』『報恩鈔』など。
  • 四箇格言:日蓮が法華経至上主義の立場から、法華経以外の教典・宗派などを否定した「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」の四句のこと。四句の名言ともいわれ、日蓮の他宗批判の一貫した態度を示すものとしてよく知られている。
  • 『代表的日本人』の最後に登場する日蓮:内村鑑三は、日蓮が世界の偉人に伍する「独立人」であることを発見した。「日蓮が、その創造性と独立心によって、仏教を日本の宗教にしたのであります。他の宗派が、いずれも起源をインド、中国、朝鮮の人に持つのに対し、日蓮宗のみ、純粋に日本人にその起源を有する」。
  • 日蓮上人の遺文「開目抄」に、「烏は年中の吉凶を知れり」とある。「過去に陰陽師なりしゆえ」(1)。
  • 「東急池上線洗足池駅をでて中原街道を横切ると、住宅街にぽっかり空いたオアシスのように、緑濃い洗足池がある。---日蓮はここで足を洗ったとされ、池の名の由来になった」(2)。
  • 「近世日本美術の潮流を築いた狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、緒形観山といった京都の芸術家たちは皆、法華の信者だった」(3)。
  • ナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラ「安国によりて立正をむさぶることなく、立正によりて安国をも導かん」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.03.12朝刊「編集手帳」。
    (2)読売新聞2006.08.08夕刊「東京の散歩道」より抜粋。
    (3)日経新聞2009.10.17朝刊「日蓮と法華の名宝」展より抜粋。

(2010.12.13更新)



▲ 日蓮宗(法華宗)の開祖・日蓮 。
(イラスト 大城さん)


日蓮入滅の図

日蓮語録

◆「矢のはしる事は弓のちから、くものゆくことは竜のちから、をとこのしわざは女(め)のちからなり」
(物事の裏にはかならず、その力を生み出す何者かが潜んでいる)

「われ日本の柱とならむ。われ日本の眼目とならむ。われ日本の大船(たいせん)とならむ」

60年8ヶ月と10日の生涯

グールド
Stephen Jay Gould  【修正ダーウィニズムの最大の論客】

(1941.09.10〜2002.05.20)
死因?---乙女座

  • アメリカ合衆国の古生物学者、進化生物学者、科学史家。1973年にハーバード大学の比較動物学教授となり、1982年からハーバード大学アリグザンダー・アガシ記念教授職を務めていた。
  • 1941年、ニューヨーク市に生まれる。アンティオック・カレッジを卒業後、コロンビア大学大学院へ進む。1967年、博士号取得。26歳でハーバード大学助教授に就任。
  • 1973年、同大学教授(専門は比較動物学)。1982年、ハーバード大学アリグザンダー・アガシ記念教授職、博物館古無脊椎動物学キュレーター。
  • リチャード・ドーキンスなどの正統ダーウィニズムに対する、修正ダーウィニズムを唱える学派の最大の論客.。1972年にナイルズ・エルドリッジとともに提唱した「断続平衡説」(区切り平衡説)は、古生物学からの進化学への提議として有名である。
  • アメリカの科学雑誌『ナチュラル・ヒストリー』誌にエッセイを毎月かかさず書いていて、そのエッセイをまとめたものもベストセラーとなっている。
  • 日本では、NHKの番組「生命」で取り上げられていた”アノマロカリス”などのカンブリア紀の生物を紹介したベストセラー『ワンダフル・ライフ - バージェス頁岩と生物進化の物語』(早川書房)の作者として知られている。
  • グールドは、複雑なものを複雑なまま説明する天才だった。単純なものに置き換えて説明する還元主義を嫌い、進化の単位は遺伝子だけ、あるいは動物の形態や行動にはすべて適応的な意味があるといった主張とは激しく対立していった。(『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスとは論敵関係であった。
  • また、進化論を否定するアメリカの宗教的原理主義である「創造論」に対して一貫して反論しており、さらには、欧米一般にある優生思想と人種主義を批判し、いかに科学的に差別が行われたかを『人間の測りまちがい』(河出書房新社)で著している。
  • 1982年にがんの一種である胸膜中皮腫(mesothelioma)と診断されたが、彼らしいアプローチで「余命八ヶ月」のがんを解釈して、向き合ったエッセイは、多くのがん患者に読んでもらいたい珠玉の一編として知られている。
  • ベースボールの熱狂的なファンであり、しばしば野球をテーマにしたエッセイを書いている。
  • 著作物:
    『ワンダフル・ライフ』(ハヤカワ文庫NF236) :代表作。20世紀初頭にロッキー山脈中で発見された5億年前の化石動物群についての古生物学研究を、一般向けに分かりやすく、魅力的に書いており、日米でベストセラーとなった。
    『 人間の測りまちがい』(河出書房新社) :脳の容量も知能指数も、人間の知能を測る尺度とはなり得ないことを示した名著。
    『個体発生と系統発生』(工作舎) :大進化の問題を扱った科学書の大作。もうひとつの代表作。
    『ダーウィン以来』(ハヤカワ文庫NF196):「ナチュラル・ヒストリー」誌に投稿されたエッセイシリーズ第1弾。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    スティーヴン・ジェイ・グールド-Wikipedia」 

(2006.10.29掲載)




▲ダーウィン主義をベースにした進化論の論客であり、膨大な読書量からくる博学の科学エッセイストとして活躍したスティーヴン・ジェイ・グールド。

 

60年8ヶ月と17日の生涯

皇妃エリザベート
Elisabeth      【ハプスブルクの美神】

(1837.12.24〜1898.09.10)
テロリストによる暗殺 ---山羊座

  • 1837年のクリスマスにバイエルン王国に生まれた公女エリザベート。自由主義者であった父の許での自由奔放な少女時代を経て、シシィと呼ばれた彼女は15歳の時、姉ヘレーネとオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの見合いの場に同席したことから、若きオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに見初められ、僅か16歳にして13世紀から続く名門ハプスプルク家に嫁ぐ。オーストリア帝国・ハプスブルグ家の皇妃となった。
  • しかし、人も羨むはずの宮廷生活は、エリザベートにとってまったく憂鬱なもの。ハプスブルク家の厳格な宮廷儀礼は自由に育ったシシィには馴染めないもので皇帝の母ゾフィとの確執に傷つき、生まれた長女と皇太子ルドルフはシシィから引き離され、愛し合いながらも擦れ違う夫フランツ・ヨーゼフとの仲。さらには、愛する息子ルドルフの非業の死。
  • 彼女は皇帝を愛しながらも心身の傷を癒しに漂泊の旅に逃れる。世紀末のヨーロッパ王室は自由主義と革命の動乱の時代を迎え、ルートヴィヒ2世やメキシコ皇帝マクシミリアン、皇太子ルドルフなどシシィと皇帝の親族には次々と不幸と死が見舞った。
  • そんなウィーンの宮廷に背を向けたエリザベートは、自らの美しさへの執着を強め、独自の美容術に傾倒して行く。そして、孤独な放浪の旅に身を委ね、その旅路の果てがテロリストによる暗殺という悲劇の終章。
  • 「シシィを刺したのは25歳のイタリア人ルイジ・ルケーニ。無政府主義者のルケーニは「高位にある人なら誰でもよかった」と供述した。最初ジュネーブ滞在予定のフランス皇位継承者オルレアン公を狙った、しかしオルレアン公は予定を変更したため、次に高位の獲物としてオーストリア皇后を狙った。当日朝の新聞にはシシィが宿泊している事が報道されていた。シシィの胸を突き刺した凶器はヤスリの先端を削って鋭く尖らせた物で、外傷は小さかったが傷は肺と左心室を貫通していた。ルケーニは判事からシシィが死んだことを知らされると「アナキスト万歳」と叫んだ。無政府主義者の会合で皇后の暗殺を命じられたとの容疑もかけられたが、ルケーニは単独の犯行だと主張し謀議の証拠も得られなかった。10月から始まった裁判で「ルケーニは皇族や金持ちは殺しても洗濯女は殺さない」と主張したルケーニは反省や後悔の態度を見せず自ら死刑を求めた。精神鑑定が行われたが結局正常であると判断され終身禁固の判決が下された。ルケーニが殺したのは皇族・貴族の階級にありながらそれを望まず、むしろそこから逃れたいと願っていた女性だった」(1)。
  • 洗練されたファッション、美への情熱、そして自由と愛を求め続けた波欄の生涯。彼女の類稀なる美貌と、数奇な運命は、今なお幾度も映画化やミュージカル上演がなされ、多くの人々の心を捉えている。ちなみにクリスマスに生まれている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    皇妃エリザベート展
    (1)「シシィ・彷徨の皇妃エリザベート
    (2)?
      

(2008.04.05更新)



▲19世紀激動のヨーロッパ、オーストリア・ハンガリー二重帝国の皇妃で、「シシイー」の愛称で親しまれていた皇妃エリザベート。
(イラスト 凛香さん)



 

◆『麗しの皇妃エリザベト』ジャン・デ・カール (著), 三保 元 (翻訳) :まず一読を。口絵で最初にノックアウト。この本によると皇妃は「シシ(鳩)」ではなく「シシィ」と呼ばれるのを嫌ったとか。今は「シシィ」の呼び名が一般的。とても気になる。---(2)。

 

60年8ヶ月と21日の生涯

鈴木ヒロミツ
Hiromitsu Suzuki    【「モップス」のボーカル】

(1946.06.21〜2007.03.14 AM10:02)
肝細胞がん ---双子座

  • 東京都文京区旧・小日向台町出身。東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業。武蔵大学経済学部中退。モップス時代は「鈴木ひろみつ」「鈴木博三」「すずきひろみつ」とも表記。
  • 1967年、グループサウンズ「モップス」のボーカルとしてデビュー。「たどりついたらいつも雨ふり」「気らくにいこう」などをヒットさせた。
  • モップス解散後は俳優・タレントとして活躍。俳優に転身してからは、「夜明けの刑事」などのテレビドラマや映画などに多数出演。個性的な脇役として活躍した。
  • また、歌番組「レッツゴーヤング」の司会を担当したり、食をテーマにしたエッセー「食わずに死ねるか!」を出版するなど多方面で活躍した。
  • 1971年に放映されたモービル石油のCM「のんびり行こうよ」編ではガス欠の自動車を押す男性の役を演じ、昭和を代表するCMの一つとなった。
  • 1974年からTBSで放送された大映テレビ製作の刑事ドラマ「夜明けの刑事シリーズ」に頭の上がらない刑事役で出演、エンディング・テーマも担当した。
  • 芸能界きっての美食家としても知られ、紀行番組のグルメリポーターとしても活躍、2002年に自らが堪能した絶品料理を紹介した単行本「食わずに死ねるか!」を出版した。
  • また、大の中日ドラゴンズのファンで(実の母親が名古屋市生まれだった)、東海テレビのドラゴンズ応援番組「スーパードラゴンズ」ではメイン司会を務め、多くの選手や首脳陣と親交があった。
  • 2005年12月29日放映(18:30〜 TBS)の「超豪華!歌謡史決定版〜ザ・ヒット・メーカー〜作詞家・阿久悠40年記念特別企画」では、モップスのデビュー曲でもあり、阿久悠のA面でのデビュー作品でもある「朝まで待てない」を熱唱。バックのコーラスと演奏は元ザ・スパイダースの堺正章、井上順、井上堯之、ムッシュかまやつが参加した。
  • 2007年3月14日午前10時02分、肝細胞癌のため東京都千代田区の病院で死去。享年60。医師の診察を受けた際には既に病状が進行しており、入院治療より家族とともに過ごすことを選んだ。
  • モップス:バンド名の由来は、モップから。「モップで掃除するように日本の音楽シーンを掃除(革命を起こす、的な意味合い)してやる」という意気込みから名付けられた(「長髪がモップを逆さまに置いたようだったから」とも(ヒロミツ談))。
  • 名曲「たどりついたらいつも雨ふり」はボクの青春そのもの。昭和も遠くなりにけり。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    2007年3月14日13時59分スポーツ報知
    鈴木ヒロミツ-Wikipedia

(2007.03.16掲載)



▲GSムーブメントから出現したロックバンド、モップスのボーカリストも務めた鈴木ヒロミツ。

 

60年9ヶ月と1日の生涯

パーレビ国王
Mohammad Reza Shah Pahlavl   【パフラヴィー2世】

(1919.10.26〜1980.07.27)
死因?---蠍座

  • 亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。先帝レザー・シャーの退位により即位し、イランの近代化を進めたが、イラン革命により亡命した。
  • 1919年、ガージャール朝の軍人レザー・ハーンの長子としてテヘランに生まれた。1925年に父がレザー・シャーとして皇帝に即位しパフラヴィー朝を開くと、皇太子となった。
    その後、上流階級の子弟が通うスイスの私立寄宿学校ル・ロゼへ留学した。なお、同校においては同級生からの信頼も厚く、多くの友人を作った。
  • 1939年9月に勃発した第二次世界大戦中には、レザー・シャーがイラン国内に居住するドイツ人の追放を拒否し、連合国に鉄道の使用を拒否するなど、イランは急速に枢軸国のドイツに傾斜した。 このために連合国のイギリスとソビエト連邦は、1941年8月25日に鉄道を含む補給路と、石油などの豊富な資源の確保のためにイランへの侵攻を行った。この侵攻を受けてレザー・シャーは、連合国の1国でイランとの関係も深かったアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領に仲介を求めたものの拒否され、9月17日にはイラン軍は制圧された。その後イランは両国による共同進駐を受け、両国の圧力を受けて退位した父に代わり、モハンマド・レザーはモハンマド・レザー・シャーとして皇帝に即位した。
  • 同年にムハンマド・アリー朝エジプトの国王フアード1世の長女ファウズィーイェ・ビント・フォアードと結婚したが、後に不和となり1948年に離婚した。次いで1951年にイラン南部のバフティヤーリー族の貴族の長女ソライヤー・エスファンディヤーリー・バフティヤーリーと再婚したが、後に彼女が不妊症であることが発覚し、帝位継承の安定のため、1958年にやむなく離婚した。そして1959年にイラン軍軍人の一人娘ファラフ・ディーバーと再婚した。
  • シャーは、1951年より石油国有化を進めるとともにソビエト連邦に接近したモハンマド・モサッデク首相と対立したが、1953年にCIAとMI6の支援を受けた皇帝派のザーヘディー将軍らによるクーデター(アジャックス作戦)が起きてモサッデク首相は失脚し、権力を回復した。
  • 1960年代より、秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まるなど権威主義体制を敷く一方、上からの改革を図って経済成長を目指すという、いわゆる開発独裁体制を確立した。日本の飛躍的な経済成長に注目して1963年からは石油の輸出により獲得した外国資本を元手に白色革命に着手し、土地の改革、国営企業の民営化、労使間の利益分配、婦人参政権の確立、教育の振興、農村の開発などの改革を実行してイランの近代化を進めた一方、親欧米路線のもと引き続き欧米諸国の外国資本の導入に努めた。
    また自らも英語やフランス語を駆使して親欧米外交を進めるなど、政策の先頭に立った。
  • このような政策を支持した欧米諸国、とりわけアメリカは革命直前の1970年代に至っても深い関係を続け、1970年代中盤には、まだ他の同盟国にも販売したことのない最新鋭のグラマンF-14戦闘機をイラン空軍に納入したほか、同じく最新鋭のボーイング747-SP旅客機をイラン航空に販売するなど、イランを事実上の最恵国として扱った。
  • また、シャーは改革の一環として、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めたが、これらの政策はルーホッラー・ホメイニーらイスラム法学者の反発を招いた。
  • たとえば1962年10月6日に、地方選挙において選挙権と被選挙権をムスリムのみに限った条項を撤廃し、バハーイー教徒などにも市民権への道を開こうとした時には、異教徒、とりわけシーア派保守派からは「邪教徒」「カーフィル」とされるバハーイー教徒がムスリムと対等になることを嫌ったホメイニーたちのすさまじい抵抗にあい、法律の撤回を余儀なくされた。
  • その後ホメイニーは反体制派に対する影響力を恐れられて国外追放され、イギリスのロンドンへ向かおうとしたがイギリス政府に拒否されたため、最終的にイラン人亡命者コミュニティのあったフランスのパリへ亡命したが、その後もイラン国内の反体制派に影響を与え続けた。
  • 冷戦下において欧米や日本などの先進国との石油外交を基礎にした深い経済関係を元に進めてきた近代化政策は、1970年代中盤に起きたオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると破綻した。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、シャーの求心力も急激に低下した。
  • ホメイニーはこのような状況に乗じてこれを煽り立て、イスラム主義者のみならず左翼なども参加し、ソビエト連邦などが支援した反体制運動は激化し、国内ではデモやストライキが頻発した。
  • シャーはテヘラン市内に戒厳令を敷くなどしてこれに対応したものの事態は収拾がつかず、1979年1月16日に休暇のためにイランを一時的に去ると称して専用機のボーイング727を自ら操縦し皇后や側近とともにエジプトに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々とした。
  • ホメイニーは2月1日に15年ぶりの帰国を果たすと、直ちにイスラム革命評議会を組織し、メヘディー・バーザルガーンを首相に任命した。その後、シャーが任命したシャープール・バフティヤール首相の指揮下でシャーへの忠誠を誓っていた親衛隊およびイラン陸軍の一部が、ホメイニーへの支持を表明したイラン陸軍およびイラン空軍と戦闘状態になるものの、2月11日に制圧された。
  • バフティヤール首相や親衛隊隊長らは逮捕され、バフティヤール首相は2月13日に正式に辞任した。その後イスラム革命評議会が、イスラム主義を基礎に置いたイスラム共和制をしいた。
  • シャーはその後癌治療のためという名目で皇后らとアメリカに移ったが、アメリカがその入国を認めたことに反発した学生達が1979年11月4日にテヘランのアメリカ大使館を占拠してシャーの身柄引き渡しを求めるという、イランアメリカ大使館人質事件が起きた。この事件によりアメリカとイランの関係は決定的に悪化した。
  • この事件の発生を受けて12月5日にアメリカを離れパナマへ向かった。1980年7月27日に亡命先のエジプトのカイロで、アンワル・アッ=サーダート大統領の保護のもと、失意の中死去した。
  • ファラフ・パフラヴィー元皇后はNHKからの取材に応じ、2009年3月30日放送のドキュメンタリー「忘れられし王妃〜イラン革命30年ふたりの女性の人生の空白〜」に登場し、厳重な警備の中、パリで慈善活動を行いながら余生を送っている姿を見せた。
  • 多趣味で知られ、ヨットや飛行機の操縦を行い、イラン空軍の次期主力戦闘機導入の際には自ら候補機の操縦桿を握り、最終的にアメリカのグラマンF-14戦闘機の導入を決定した。
  • イタリアのランボルギーニ・ミウラや西ドイツのメルセデス・ベンツ・600といった高級車を愛用するなど、自動車のコレクションは世界的にも有名で、死去後の1990年代に自らのコレクションがオークションで売りに出された際は大きな反響を呼んだ。なお、その時の目玉の1台であったランボルギーニは、ハリウッドスターのニコラス・ケイジが競り落とした。
  • ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    モハンマド・レザー・パフラヴィー-Wikipedia

(2009.09.25掲載)



▲イラン皇帝パフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝(シャーハンシャー、在位:1941年9月26日 - 1979年2月11日)であるモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー/パーレビ国王。


▲1941年、議会の開会式へ向かうモハンマド・レザー・シャー


▲国内視察を行うモハンマド・レザー・シャー



60年9ヶ月と6日の生涯

空海=佐伯真魚/弘法大師
Kuukai   【日本史上最大の精神】

(774.06.15〜835.03.21)
癰と呼ばれる皮膚や皮下組織に生じる急性化膿性炎症---双子座

  • 最澄と並ぶ平安仏教の確立者にして真言宗の開祖にして三筆の一人。諡号(しごう)弘法大師。灌頂名遍照金剛。讃岐国多度群(現在の香川県善通寺市)の郡司の家に生まれた。俗姓佐伯氏。
  • 15歳で母方の伯父阿刀大足について京都へ遊学。儒学などを修め、18歳の時、将来の上級官吏を目指し、大学に入ったが、儒教中心の授業に失望、仏教への志を抱いて退学。
  • 四国の室戸岬など山野での厳しい修行生活を送り、24歳で儒教・道教・仏教の優劣を論じた比較宗教論『三教指帰』の原本を著す。
  • 勤操について南都仏教を学び、次いで国内の難所で修行したと伝える。30歳で入唐。長安に入った空海は、わずか半年足らずでサンスクリット語をマスター。
  • 当時、密教の第一人者だった青竜寺恵果について密教を学び、その3000人を超す弟子の中から選ばれて胎蔵会・金剛界の両部の密教を授けられる。そして3年後帰国。
  • 青竜寺の恵果は、唐の仏教衰退を予見し、異国の俊才空海に、すべてを授けたのであろう。その恵果はセイロン出身の不空(アモーガヴァジャラ)の正嫡の弟子だった。
  • 42歳で高野山金剛峰寺を賜り根本道場とし、その後、東寺を与えられ、これを国家鎮護の祈祷道場とした。
  • 各地を巡歴。東大寺別当を兼ね、わが国初の大学「綜芸種智院」を創設、密教を宗派として確立。その教義は真言密教を最高位においた仏教概論『十住心論』と肉身のまま仏になるための実践論『即身成仏義』を著し、密教思想を体系化した。
  • その文学は『性霊集』『文鏡秘府論』などに著された。書にすぐれ、三筆の一人といわれる。その書は天馬空を行く趣があったとされ『風信帖』『灌頂歴名』などは至宝とされる。
  • マクロコスモス(宇宙)とミクロコスモス(人間)を有機的に統合する「曼陀羅の思想」は、日本人の人間観はもとより、自然観や美意識の形成に新鮮な刺激を与えた。
  • マンダラに燃える空海の大きなスケールの世界。
    高野山に世界模型築いた日本史上最大の精神。
  • 空海は「生命の海」を背負った密教者であり、「宇宙の呼吸」を感得できた言語の達人である。潅漑技術や鉱山技術に長けた環境工学者でもあった」(1)。
  • 「〈室戸の山々は人の踏みいるべきところにあらず、棲むは鬼ばかりなるべし〉『空海の風景』で司馬遼太郎は、若き日の弘法大師修行の地・室戸を、北隣の阿波(徳島)人の言葉に託してこう表現している。鬼国。室戸は空海が洞穴にこもり、「虚空蔵求聞持法」という秘報を修めて〈明星が口の中に飛び込んできた〉という神秘体験をした地でもある」(2)。
  • 「19歳の空海は室戸で 虚空蔵求聞持法、すなわち決まった真言を一定の時間に百万回唱えると八万四千もの今日分を意のままに暗唱できる“スーパー記憶術”を身につける」(3)。
  • 「空海はその生来の巫人的体質によって諸霊の存在を積極的に肯定していたただ彼が---論理的完成度が高い密教を創り上げる頃にはそうした卑小の諸霊たちはすべて形而上的になり、ほとんど記号化され、ついにはその体系の中に消えこんでしまった」(4)。
  • 「空海が死の6日前の3月15日に、弟子・信徒へ後世の為への戒めを、25箇条にわたって示した遺告(遺言)の一節です。〈我入滅せんと擬するは、今年3月21日寅の刻なり。もろもろの弟子ら悲泣することなかれ〉予言どおり、21日に高野山で入寂しました」(6)。
  • 「空海は〈五大にみな響き有り〉という言葉を残している。これは〈宇宙を構成する地、水、火、風、空の5大要素はみな声を持ち、響き合っている〉ことを意味する」(7)。
  • 「十住心論は、空海の代表的著述のひとつで、正確には『秘密曼陀羅十住心論』という。10巻。830年ころに、淳和天皇の勅にこたえて真言密教の体系を述べたもの。 人間の心を十段階に分け、それぞれに当時の代表的な思想を配置することによって体系を築いている。真言密教こそが人間の心の到達できる最高の境地であるとしている。
    1.異生羝羊心(煩悩にまみれた心)
    2.愚童持斎心(道徳の目覚め・儒教的境地) 
    3.嬰童無畏心(超俗志向・インド哲学、老荘思想の境) 
    4.唯蘊無我心(小乗仏教のうち声聞の境地)
    5.抜業因種心(小乗仏教のうち縁覚の境地) 
    6.他縁大乗心(大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地) 
    7.覚心不生心(大乗仏教のうち中観・三論宗の境地) 
    8.一道無為心(大乗仏教のうち天台宗の境地) 
    9.極無自性心(大乗仏教のうち華厳宗の境地) 
    10.秘密荘厳心(真言密教の境地)
    『十住心論』の内容を簡略に示したものが、『秘蔵宝鑰』である」(8)。
  • 空海も凄いが、ボクは恵果もさらに凄いと思う。唐の仏教衰退を予見し、異国の俊才空海に、すべてを授けたのだから。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)松岡正剛。
    (2)(3)読売新聞2004.11.16朝刊「ホントの旅」より抜粋。
    (4)司馬遼太郎。
    (5)投稿者:ユリウスさん 2006/ 7/27 11:34:21(木) [24]
    (6)投稿者:ユリウスさん 2006/ 7/29 14:53:47(土) [46]
    (7)読売新聞2006.08.21夕刊「エンターテイメント」より抜粋。
    (8)「十住心論-Wikipedia

(2007.02.17更新)




▲最澄と並ぶ平安仏教の確立者にして真言宗の開祖にして三筆の一人・空海。

 

?空海語録?

◆「生まれ生まれ生まれ生まれて、生の初めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥(くら)し」。

山川は長くして万世なり、人は短くして百年なり」
(性霊集)

◆「人の相知ること必ずしも対面して久しく話(かた)るのみにしも在らず」(心さえ通ずれば、多く語らなくとも話は通じるものである)。

◆「のうぼう
 あきゃしゃきゃらばや
 おんありきやまり
 ぼりそわか」
(百万回唱えるべき真言)

◆十住心論
「1、異生羝羊住心(いしょうていようじゅうしん・一向行悪行) 
2、愚童持斎住心(ぐどうじさい・儒教など) 
3、嬰童無畏住心(ようどうむい・道教・バラモン) 
4、唯蘊無我住心(ゆいうんむが・声聞乗・小乗佛教) 
5、抜業因種住心(ばごういんじゅ・縁覚乗・小乗佛教) 
6、他縁大乗住心(たえんだいじょう・法相宗・大乗佛教)  
7、覚心不生住心(かくしんふしょう・三論宗・大乗佛教) 
8、一道無為住心(いちどうむい・天台宗・大乗佛教) 
9、極無自性住心(ごくむじしょう・華厳宗・大乗佛教) 
10、秘密荘厳住心(ひみつしょうごん・真言宗・大乗佛教)  
空海は「儒教」は世俗の作法にすぎない」として、ばかばかしいものとしている。それで第二段階にしか位置づけられていない」(5)。

60年と9ヶ月と6日の生涯

山口 薫
Kaoru Yamaguchi    【国際画家】

(1907.08.13〜1968.05.19)
胃癌---獅子座

  • 洋画家。群馬県の榛名山麓の村、箕輪(現箕郷町)の旧家に11人兄弟の末っ子として生まれる。父彦太郎、母佐登。8男3女の末子。
  • 高崎中学校4年修了時に水戸高校を受験して失敗。画家となる決意をし、東京美術学校受験のため、中学校の冬休みを利用して1924 年上京、川端画学校でデッサンを学ぶ。同校で矢橋六郎と知り合う。
  • 翌1925年には東京美術学校(現:東京芸術大学)西洋画科へ入学。在学中からすでに実力を発揮しており、帝展や国画会への入選を果たす。1930年に東京美術学校を卒業してから3年間フランスに留学。
  • 帰国してから「新時代展」を発足させ、滞仏時代の友人である村井正誠、矢橋六郎らと新時代洋画展、自由美術家協会展、モダンアート協会展を次々と結成し、そこを拠点に日本におけるモダンアート運動の中心的な存在として作品を発表し続けた。
  • 1936年(29歳)1月に最初の妻と結婚するが7月に離婚。この前後から極度の精神衰弱におちいり郷里で静養する。7月、新時代洋画展が山口を含む「新浪漫派」と、「実験室」に分ける声明を発表する。
  • 抽象と具象の微妙に溶け合ったモダンな造形の中に叙情と幻想を湛えた心象風景を描いた作品は、サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネツィア・ビエンナーレ展などにも出品され、国内ばかりではなく、海外でも高い評価を受ける。
  • 赤城、榛名、妙義及び浅間と上州の名山総てが臨める田園に育ち、牛、馬、沼、川、田など何の変哲もない自然の営みを、美しく厳しい深淵なものとして捉えた。
  • 1958年、第2回グッゲンハイム賞国内賞、59年毎日美術賞、60年芸術選奨文部大臣賞などを次々と受賞。1952年からは東京芸術大学で教鞭をとり、多くの作家を育てた。
  • 1968年、東京で死去。胃癌のため東京で亡くなる。享年60歳 。
  • 「国内外の展覧会に出品するなど幅広い活動を展開。抽象画と具像画の間に独特な叙情的な色彩を持つ画家として、画壇に高い地位を築きました。---「しののめの男」は、ロックフェラー近代美術館に収蔵され、今も世界の美術界で高く評価されています」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    No34-山口薫
    (1)「箕郷町の紹介

(2008.05.11更新)


★絵を描いた詩人

▲『絵描きより詩人型』を自認していた山口薫。


▲ 葬送


▲桃 22.0×27.4


▲ノートルダァム
bNotre-Dame 1954(昭29)
油彩・カンヴァス 99.5X91.7cm


▲月の踊り
Dancing under a Young Moon
1968(昭43)
油彩・カンヴァス 100.0×80.2?

60年と9ヶ月と11日の生涯

廣松 渉
Wataru Hiromatsu      【近代の超克論者】

(1933.08.11〜1994.05.22)
肺癌---獅子座

  • 福岡県柳川市蒲池出身。出生地は山口県厚狭郡山陽町(現在の山陽小野田市)。東京大学文学部哲学科卒。同大学院博士課程修了。筆名は門松暁鐘など。
  • 1946年、日本青年共産同盟に加盟。 1949年4月、高校進学と同時に日本共産党に入党し、1950年の50年分裂では国際派に所属。
  • 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、党に戻らず全日本学生自治会総連合(全学連)などで活動。高校中退、大検で東大に入学。 1955年7月の日共第六回全国協議会(六全協)を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書『日本の学生運動』が問題とされ離党した。
  • 1958年12月に共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。
    ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊しつつあった1990年にはフォーラム90sの発足にも関わった。
  • 1965年から1970年まで名古屋大学でドイツ語、哲学などを教える。1970年に学生運動を支持して辞職。しかし1973年に大森荘蔵の要請で東京大学の非常勤講師となり、1976年に助教授、1982年に教授に就任した。1994年3月に東大を定年退職。
  • 河合文化教育研究所の専任研究員となったが、既に病床にあったため一度も出勤しなかった。1994年5月22日肺癌にて死去。
  • マルクス/エンゲルスの思想における物象化論を中心に、マッハ、フッサールハイデッガー等と対質しながら、特異な擬古文調・擬漢文調の文体を用いて、主観-客観の二項対立図式を止揚すべく独自の哲学を展開した。
  • マルクス、エンゲルスが草稿として残し、後の時代に編集されて出版された『ドイツ・イデオロギー』について、編集の問題点を指摘。独自に編集したものを発表し、高く評価された。また、『ドイツ・イデオロギー』において以前の『経済学・哲学草稿』の疎外論から後の物象化論への思想的転換が起こっていることを指摘する論文を次々に発表した。当時はマルクス、エンゲルスの思想を疎外論を中心軸として解釈する立場を取る者が多かったため、廣松の見解は大きな反響を呼んだ。1960年代から1970年代にかけて出版された『マルクス主義の成立過程』『マルクス主義の地平』『マルクス主義の理路』はマルクス主義三部作と呼ばれる。
  • マルクス、エンゲルスの研究の一方で、主観・客観図式による伝統的な認識論を批判。主観・客観とされているいずれの側も二重になっており、全体として世界の存在構造は「四肢的」だと指摘した。また、実体があって関係があると考える物的世界観に対し、関係があってこそ実体があると考える事的世界観を提起した。1970年代以降は独自の哲学体系を構築することに力を注ぎ、1982年に主著となる『存在と意味』第一巻を発表。これは全三巻の予定だったが、1993年に第二巻を出したところで病に倒れることになった。
  • ボクは廣松のいう「四肢的存在構造」に賛同するものである。ボクは“Mono”“Poly”“Hetero”“Homo”という四つのレイヤー、四つのフォニーと呼びたい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    廣松渉-Wikipedia

(2007.03.23掲載)



▲主観・客観とされているいずれの側も二重になっており、全体として世界の存在構造は「四肢的」だと指摘した哲学者・廣松 渉。


◆「哲学者廣松渉の告白的回想録」 廣松 渉 (著), 小林 敏明 (編集)


◆「もの・こと・ことば」廣松 渉 著 筑摩書房 版
壮大なる哲学的思考。廣松哲学への最初の一歩。


◆「廣松渉哲学小品集 」小林 昌人 編 
壮大な哲学体系の構築,「近代」を克服する新しい世界観の提示を志して苦闘した廣松渉.本書は,その哲学的思索のエッセンスを含む文明論や作家論・作品論に,青年時代の思い出や身辺雑感を軽妙な筆致で綴るエッセイを加えた。

60年と9ヶ月と19日の生涯

宇都宮 太郎
Taro Utsunomiya   【陸軍軍人】

(1861.04.27〜1922.02.15=文久元年3月18日 〜大正11年)
死因?---牡牛座

  • イギリス公使館付武官・参謀本部第二部長・第7師団長・第4師団長・朝鮮軍司令官・軍事参議官を歴任。階級は陸軍大将勲一等功三級に至る。林太郎・仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。
  • 佐賀鍋島藩藩士、亀川家に生まれる。筑後国柳川城主の蒲池氏の家老蒲池鎮久の子の蒲池貞久を祖とする諫早宇都宮氏の流れを汲む。その後、宇都宮家に養子に入る。
  • 攻玉社を経て明治12年4月に陸軍幼年生徒となり、明治15年陸軍士官学校に進学、明治18年6月士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉、歩兵第5連隊附を命ぜられる。
  • 士官生徒第7期で、島川文八郎大将と同期である。明治19年4月近衛歩兵第4連隊附となり、同21年11月中尉に進級、陸軍大学校に入校する。
  • 明治23年12月卒業し、同25年4月参謀本部附を命ぜられる。明治26年11月大尉に進み、同12月からインドに出張。翌年11月帰国して参謀本部第二局員となる。
  • 明治29年5月から参謀本部第三部員に移り、明治31年10月少佐に進級する。明治34年1月イギリス大使館附武官に就任、ロンドンに在って明治36年1月中佐、明治38年3月大佐に進級。
    明治39年3月に帰国して4月から陸軍大学校幹事となる。明治39年4月1日功三級金鵄勲章を受章、明治40年5月から歩兵第1連隊長となり、明治41年12月には参謀本部第2部長に就任。
    翌年1月の少将に進級。大正3年5月中将進級を以って第7師団長に親補され、大正5年8月には第4師団長に移り、大正7年7月朝鮮軍司令官に進む。
  • 大正8年11月大将へ進み、同9年8月から軍事参議官となる。
  • 大正11年2月15日死去。
  • 五・一五事件の三上卓の妻・宇都宮わかは、宇都宮太郎の義兄弟の娘にあたる。妻は堤董真の娘、後妻は貴族院議員鍋島幹の娘。長男の徳馬は衆議院議員・参議院議員。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    宇都宮太郎-Wikipedia

(2007.06.06掲載)



▲林太郎・仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれた宇都宮 太郎。

 

60年と9ヶ月と20日の生涯

ジョン・コンスタブル
John Constable   【19世紀のイギリスの画家】

(1776.06.11〜 1837.03.31)
死因?---双子座

  • 西洋絵画の歴史においては神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした「歴史画」が常に上位におかれ「風景」は歴史画や物語の背景としての意味しか持っていなかった。17世紀オランダでは風景画が発達したが、ヨーロッパ全土で風景画が市民権を得るにはフランスのバルビゾン派、イギリスのターナーやジョンが登場する19世紀を待たねばならなかった。
  • ジョンは1776年、ロンドンの北東にあるサフォーク州イースト・バーゴルトに裕福な製粉業者の子として生まれた。画家を志したのは比較的遅く20歳の時、商売を覚えるためロンドンへ出たときにジョージ・スミスという風景画家に出会ったのがきっかけという。
  • 1799年、23歳の時にロイヤル・アカデミー附属美術学校の見習生となり翌年には正規の学生となっている。アカデミーの展覧会に初めて出品したのは1802年、26歳の時であった。ターナーが27歳にしてロイヤル・アカデミー正会員となっているのに対しジョンは1819年、43歳の時にようやくロイヤル・アカデミー準会員となった。正会員になるのはさらに10年後の1829年、53歳の時である。
  • ロマン派色が濃く劇的な画面を創造したターナーに対し、ジョンは終生故郷サフォーク周辺の身近な風景を描き続けた。野外での制作を始めたこと、刻々と変化する光の効果を捉えようとしたこと、パレットで色を混ぜ合わせるのでなく画面上に異なる色価の筆触を並べる(たとえば微妙に色調の異なる緑のタッチを併置する)などその制作態度や技法は印象派に先駆するものといえる。
  • 代表作『乾草の車』は画家の地元サフォークの平凡な風景を詩情豊かに描き出したもので、1821年に母国のロイヤル・アカデミーに出品した時は全く話題にならなかったのに対し1824年、パリのサロン(フランスの官展)に出品された時は絶賛を浴びロマン派の画家ドラクロワにも大きな影響を与えている。
  • 代表作 :乾草の車(1821)(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)/主教の庭から見たソールズベリー大聖堂(1823)(ロンドン、ヴィクトリア&アルバート美術館)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョン・コンスタブル - Wikipedia

(2004.03.01掲載)


▲同時代のウィリアム・ターナーとともに、19世紀イギリスを代表する風景画家であるジョン・コンスタブル。
▲自画像


▲乾草車 1821 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵


▲主教の庭から見たソールズベリ大聖堂 1823 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(ロンドン)蔵


60年と9ヶ月と23日の生涯

狩野芳崖
Hougai Kanou   【『悲母観音』の生みの親】

(1828.01.13〜1888.11.05)
自宅で肺炎のため、美術学校開校を目前にし没す---山羊座

  • 明治初期の日本画家。長府藩の御用絵師狩野晴皐(かのせいこう)の子として長府町の印内に生まれる。幼名を幸太郎、号を貫甫(かんぽ)、皐隣(こうりん)、翠庵(すいあん)などといった。
  • 幼少から絵の天分を発揮し、19歳のときに江戸にのぼり、木挽町狩野家勝川院雅信について十年間絵の修行。多くの門弟たちの中でも彼の技術は群をぬき、橋本雅邦とならんで雅信門下の双璧とされた。
  • 幕末の動乱期には、故郷の長府に帰って画業についたが、一時は描くことを中止し、武具の制作に従事したこともあった。
  • 明治になり、藩からの扶持が断たれた芳崖は、画業のかたわら養蚕や測量図の仕上げなどをして生活を支えたが、明治初期の伝統芸術が顧みられなかった時期には貧苦はつのるばかりだった。
  • 明治10年、50歳のとき藤島常興を頼って上京したが、健康を害し苦しい闘病生活となった。 明治12年、橋本雅邦の紹介で、「犬追物図」制作のため島津家に雇われやっと生活の安定を見る。
  • さらに明治17年(1884)57歳の時、アメリカ人のフェノロサに見いだされ、ようやくその労苦が報われる。
  • その後、芳崖は美術界の新人養成機関が必要であることを時の首相伊藤博文に説き、日本画革新の運動に参加、東京美術学校(現在の芸大)の創設に努力。
  • 明治21年(1888)11月美術学校開校を目前にし没す。墓は東京谷中の長安寺。
  • 代表作に「悲母観音図」「仁王捉鬼図」「八臂弁財天図」等。
  • 画風は初期狩野派にさかのぼる北画風の厳格な筆法と、西洋の油絵的な構成と色彩を総合しようとした。代表作『悲母観音』にみられるような折衷的様式。
  • 名作「悲母観音」の誕生と生活を支えるための測量図の仕上げをしていたことの関係性、そこが知りたい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.02.29更新)



▲美術学校開校を目前にし没した狩野芳崖。


▲代表作「悲母観音」。

60年9ヶ月と26日の生涯

トロッキー  
Trotskii   【“永久革命論”の革命家】

(1879.10.26〜1940.08.21)
スターリンが放った暗殺者によって暗殺---蠍座

  • ロシアの革命家、ソ連共産党の指導者。学生時代から革命運動に参加し、19歳(1898年)で逮捕。21歳(1900年)でシベリア流刑。
  • 23歳(1902年)みはロンドンに亡命してレーニンと会う。26歳(1905年)第1次ロシア革命でペテルブルグのソビエト議長。永久革命論を唱え、27歳(1906年)『総括と展望』を著す。
  • 38歳(1917年)帰国し共産党に入党し十月革命を指導。政権樹立後は、外務人民委員、軍事人民委員等を歴任し、赤軍創設を指導。
  • レーニンの死後は一国社会主義を唱えたスターリンら党主流と対立、批判して“永久革命論”を唱える。48歳(1927年)党を除名され、1929年国外追放。
  • その後第四インターナショナルを創立してソ連批判を展開したが、1940年亡命先のメキシコで暗殺さる。主著『文学と革命』『わが生涯』『ロシア革命史』。
  • マルクス主義を帝国主義の条件にあてはめて創造的に発展させた革命家と評されている。ペレストロイカ、ソ連邦崩壊をへてその評価の見直しも始まっている。
  • 炎の画家フリーダ・カーロの夫リベラはロシア革命後トロッキーが亡命してきて、自宅にかくまった。トロッキーの妻がフリーダとトロッキーの関係に気がつき、居を変える。---やるなトロッキー。---しかしその後、暗殺されてしまう。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2007.01.08更新)



▲ “永久革命論”を唱えたロシアの革命家、ソ連共産党の指導者 ・トロッキー。
(イラスト 玉野安実嬢)

60年11ヶ月と6日の生涯---2010年没後20年

藤山寛美
Kanbi Fujiyama   【比類なき阿呆役】

(1929.06.15〜1990.05.21)
肝硬変---双子座

  • 喜劇俳優。本名・稲垣完治。大阪西区四ッ橋で、関西新派俳優藤山秋美と稲垣きみの次男として生まれる。1932年(3歳)東京浅草、名古屋で、兄とともに初舞台を踏む。
  • 1933(4歳)花柳章太郎に、藤山寛美と命名され、関西新派の都築文男に弟子入りし、正式に翌年、角座で初舞台「人斬供養」の新派狂言の子役を演じる。
  • 1941(12歳)大阪歌舞伎座で、曽我廼家十吾・澁谷天外らの松竹家庭劇「防犯当番」に出演し、同劇団に移る。
  • 1948(19歳)曽我廼家十吾、澁谷天外が、中座で松竹新喜劇を旗揚げし、結成に参加。1951(22歳)「あてにならぬ人々」で、初の阿呆役を演じ、大好評を博す。
  • 1959(30歳)12月から「天外の親バカ子バカ」がテレビで放映され、澁谷天外とのコンビで高視聴率を得る。「あのー、もしぃもしぃ、おとうさんですかぁ」鼻にかかった声で電話するアホ息子訳を好演し、寛美は一躍全国区の人気者になった。
  • 1970年(41歳)名古屋演劇ペンクラブ賞受賞。
  • 1971年(42歳)中座で、初のリクエスト公演を企画し、大成功を収める。1972年(43歳)大阪府民劇場賞受賞。
  • 昭和49年(1974)芸術選奨文部大臣賞受賞。昭和50年(1975)大阪芸術賞受賞。昭和51年(1976)新聞CMに丁稚姿で登場し、出演料を全額大阪市に寄附する。
  • 昭和56年(1981)大阪日々奨特別芸能牌受賞、10月に松竹新喜劇が、中座で180ヵ月連続無休公演を達成し、市長表彰を受ける。
  • 昭和60年(1985)第6回松尾芸能大賞受賞。(賞金は松竹大谷図書館に寄附)平成元年(1989)紫綬褒章受章。
  • 平成 2年(1990)5月21日 死去。享年60歳。墓所 大阪市東住吉区長居公園1-32 臨南寺 。
  • 時に比類なき阿呆役に徹して見事、時に世に人の在り方を説いて至芸、爆笑の中に感動の涙を絶妙なテクニックで配分するなど緩急自在の芸風は全国大衆に絶大な感動を与えた。殊に人情の機微をベースにした曽我廼家のお家芸を適確に伝承しつつ、時代々々の世相を痛烈にパロディ風刺し、伝統劇を現代風に改演、新純粋喜劇を目指した。興業演出面に於ても特異な才能を発揮、180ヵ月無休公演やリクエスト公演の心憎いアイデアを駆使して常に劇団カラーを新しい方向に導くことに専念した。
  • 出演者が吹き出す場面もたびたびだった。千葉蝶三郎(1975年没)との40分にわたるアドリブは伝説化している。
  • 生前はけた外れの金離れの良さで知られ、人にだまされもし、20億円近い借財を背負ったこともあった。色紙を求められると、朱の筆で「藤山寛美ただいま赤字中」と書いたという。
  • 寛美の芸は、三女の藤山直美にしっかり受け継がれている。
    「お客さんは私の後ろにお父さんを見ている」(直美)
  • 「いまは亡き喜劇役者の藤山寛美さんが桂米朝さんとの対談で、大阪・花月劇場の愉快な思い出を語っている。夏の盛りに冷房が故障した。客はうだる暑さに閉口したが、「売店のアイスクリームが全部売れてしまうまで故障が直らなんだ…」と。対談集「一芸一談」(桂米朝、淡交社)の一節にある」(1)。
  • 「亡くなって20年になる喜劇役者の藤山寛美さんは、遊びっぷりも見事だったという。乗ってきたクルマを店のボーイに譲ってしまった、舞台がハネたあとにはるばる温泉旅館へと繰り込みドンチャン騒ぎ、などと伝説にはこと欠かない。松竹新喜劇のプリンスと呼ばれ、「遊ばん芸人は花が無(の)うなる」を信条にしていたというから、それもこれも芸の肥やしだったのだろうか。あげく借金の山をつくった寛美さんだが、どんなに羽目をはずしても翌日にはきっちりと「アホ」を演じて観客を笑わせた。連続公演248カ月の金字塔を打ち立てた人だ」(2)。
  • うり二つの親娘、遺伝子は恐ろしい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2009.07.31朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)日経新聞2010.12.03朝刊「春秋」より抜粋。

(2010.12.04更新)



▲ その絶妙な間と人なつっこい表情で人気を博した喜劇俳優・藤山寛美。
(イラスト 大城さん)

60年11ヶ月と9日の生涯

広沢安任
Yasutou Hirosawa    【「野にあって国家に尽くす」】

(1830.02.24〜1891.02.05=文政13年2月2日〜明治24年)
死因?---魚座

  • 広沢庄助の子。通称が富次郎のため、広沢 富次郎の名で知られる。
  • 文久2年(1862年)、会津藩主松平容保は京都守護職に任ぜられ、広沢は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。
  • その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった広沢は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事太田広城と両名で、弘前県・黒石県・斗南県・七戸県・八戸県の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。
  • また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年(1872年)谷地頭(現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。なお、明治9年(1876年)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿大久保利通が当牧場まで訪れ中央政府の要職を準備して仕官を薦めたと言われており、その後も幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげた。
  • 明治11年(1878年)に広沢が記した「開牧五年紀事」には、福澤諭吉による唯一と言われる序文が寄稿されている。
  • 「開牧社」は「広沢牧場」と名を替えて子孫により経営が続けられてきたが、昭和60年(1985年)暮れに閉鎖されている。その後、土地の一部や史料・建築物が地元三沢市に寄付され、市により公園整備されて、平成7年(1995年)より「斗南藩記念観光村」として一般開放されている(平成12年(2000年)には“道の駅”に登録されている)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    広沢安任- Wikipedia

(212.03.29掲載)



▲江戸時代後期、幕末期の会津藩士・ 広沢安任。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

60年11ヶ月と18日の生涯

ホセ・グアダルーペ・ポサダ
Jose Guadalupe Posada
            【メキシコの画家でイラストレーター】

(1852.02.02〜1913.01.20)
死因?---水瓶座

  • 1852年2月2日に、メキシコのアグアスカリエンテス(Aguascalientes)に生まれる。10代の若いときにトリニダッド・ポドロッソ(Trnidad Podroso)のアトリエで働き、リトグラフや彫刻の技術を学ぶ。
  • 1871年に、エル・ヒシテ(El Jicite)というアグアカリエンテスの新聞に政治漫画を書き始める。ポサダの政治漫画がその地域の有力政治家を怒らせたという理由で、エル・ヒシテが11紙で廃刊となる。その後すぐ、近くの都市のグアナフアト州のレオンに移る。1875年に政治漫画や広告ちらし等のイラストレーションの店を始める。「グアダルーペの聖母」など、歴史上の人物や伝説上の人物の絵も手がける。
  • 1883年、近くの中学校のリトグラフの非常勤講師となる。
  • 1888年のレオン付近を襲った大水害で、繁盛していたポサダの店は閉店となる。首都のメキシコシティーに移り、そこでの最初の常勤としての仕事は、「パトリア・イルストラーダ」(Patria Ilustrada)のでの作画であった。アントニオ・ベネガス・アロヨ(Antonio Venegas Arroyo)経営の出版会社で、かなりの作品を発表した。
  • 生涯3万点の版画作品を残し、現在でも、インターネット上で、発売されている。
  • あまり裕福な生活を送っていたとはいいがたく、晩年は貧困の後、1913年1月20日に死去する。61歳(60歳)であった。
  • 作風およびその後の影響 :ポサダの特に多くの作品に骸骨が登場する。「金持ちも貧乏人も死ねばみな骸骨」とのメッセージとされる。メキシコでの「死者の日」などの死者を祭る伝統と関連づけて考える人も多い。
  • また、風刺がこめられている。独裁者ポルフィリオ・ディアス時代の富裕層を皮肉ったとされる。貧困層の鬱憤を、版画製作で解消させたものといえる。
  • ポサダの死後、数年間忘れ去られていたが、1920年代、フランス人のジャン・シャルロ(Jean Charlot)がポサダの絵を紹介して有名となった。ホセ・クレメンテ・オロスコ(Jose´ Clemente Orozco)が、少年時代に近所のポサダのアトリエをたびたび訪ねたということで、強く影響されたことを認めている。ディエゴ・リベラ(Diego Rivera)にも影響を与えたとされている。
  • 主な作品:着飾った婦人 La Catrina/骸骨の自転車乗り (名古屋市美術館所蔵)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ホセ・グアダルーペ・ポサダ- Wikipedia

(2012.04.02掲載)



▲ 多くの作品に骸骨が登場し、「金持ちも貧乏人も死ねばみな骸骨」とのメッセージとされるホセ・グアダルーペ・ポサダ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

60年11ヶ月と19日の生涯

竹中 労
Tutomu Takenaka【トップ屋第1号/ルポライター第1号】

(1930.05.30〜1991.05.19.PM9:58)
肝臓癌---双子座

  • 別名「夢野京太郎」。「ケンカ竹中」「反骨のルポライター」の異名を持ち、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作を世に送り出した。東京・牛込区肴町で出生。父・英太郎(画家)、母・八重子の長男。
  • 戦災後復活した戸籍では「30年5月30日出生」だが、旧制中学校在籍簿には「28年3月30日」とある。名ははじめ「乱」後「労」。「父親がアナキズムからボルシェヴィズムに転向したゆえ」という。
  • 家庭の事情で転居転校4度、小学校5年次に品川区立会川へ移り鮫浜小学校卒業。高輪中学校に入学。
  • 1942年(12歳)立会川の鉄工場が戦時企業整備により閉鎖され英太郎とともに甲府へ疎開。山梨県立甲府中学校に転入学。
  • 1944年(14歳)学徒勤労動員で神奈川県大船の海軍燃料廠に。
  • 1945年(15歳)8月・大腸カタルという診断で担架にくくりつけられ大船・海軍病院から甲府へ帰る。真相は全身打撲で死線を彷徨うほどの教師の制裁。10月・甲府中学校全学ストライキを指揮、戦犯教師を追放するがみずからも退学処分になる。
  • 1946年(16歳)東京外事専門学校(現・東京外語大)露語学科に入学。
  • 1947年(17歳)在外同胞救出学生同盟に参加、2・1ゼネスト中止直後日本共産党に入党。4月・上野駅地下道で活動。進駐軍の夜勤労務、横浜港のプータロー、米軍婦人部隊通訳、暴力団親分娘の家庭教師などアルバイトにもはげむ。
  • 7月・引き揚学生同盟の左翼的再編のために結成した東京学生同盟の事務局長となり、東京都引揚者連合会文化部長を兼任。細胞キャップS"三文オペラ"と綽名をつける。「犯罪者とも連帯せよとの奇矯な(?)理論と襤衣をひっかけた皮肉」。右翼学生の反撃や援助物資横流しのデマを粉砕するが誇りが許さず「さらば学生運動」。「党を離れ(党籍はそのまま)一個のルンペン・プロレタリアート」となる。
  • 1948年(18歳)東京外語大除籍。山谷・横浜のドヤ街に住み肉体労働に従事。山谷で知りあった泥棒二人と血盟、「持てる奴等からの掠取、泥棒は正義である」と"革命的窃盗団"を結成。標的はサッカリン・石鹸などの隠匿物資。なお、敗戦直後から同人雑誌に詩を発表していたが散逸している。
  • 1949年(19歳)蔵物故買容疑で逮捕されるが完全黙秘して釈放される。その間に血盟したはずの二人は現金や戦利品とともに蒙塵。甲府に帰り図書館で読書三昧。共産党に復帰。印刷工、地方紙記者、書店員、学習塾経営のかたわら映画サークルや自立劇団を主宰。
  • 1950年(20歳)甲府自由労働組合情宣・文化部長として中小企業・日雇労働者の運動に専従。新日本文学会員となり同人誌に未完の小説を発表しているが掲載紙は現存しない。
  • 1952年(22歳)上京、再び山谷へ。朝鮮民戦の同士とともに火炎瓶闘争。5・30淀橋警察署焼き打ち事件に連累検挙されるが釈放後山梨県下に潜行、12月再び逮捕され甲府刑務所に収監される。
  • 1953年(23歳)釈放された日盛りの街で美空ひばりの唄に出会う。甲府に帰り孔版印刷「五月工房」設立。イタリア・ネオリアリズム映画の文体を駆使したルポルタージュを同人誌に発表。党員資格剥奪のまま、中小零細企業・日雇労働者の労働組合運動と平和運動、文化運動に専念。
  • 1958年(28歳)上京、東京毎夕新聞に入社。文化部に籍をおき、浅草・新宿・池袋などのストリップ劇場をまわり猥雑な雰囲気のなかに沈潜韜晦の日々をおくる。
  • 1959年(29歳)無署名風俗ルポを「週間スリラー」に書く。7月・東京毎夕新聞退社独立、ルポ・ライターを名乗る。11月・「女性自身」デスク井上清にスカウトされスタッフ・ライターとなる。
  • 1960年(30歳)安保闘争では「若い日本の会」に参加するが作家文化人の夜郎自大さを批判して脱退。芸能人・皇族、はては本物の死者まで150余編の手記を創作、代作。
  • 1961年(31歳)安保闘争の私的総括のはて「党」を内部から変革すべきだと復党。「なんという愚かな妄想だったことか」(本人)。
  • また、1968年には『タレント帝国』で渡辺プロダクションのテレビ界の支配を告発。
  • 1969年、はじめて沖縄へ。琉球独立党を支援する。また、多くの島唄のミュージシャンたちと交流し、イベントの構成を行う。
  • 1974年には『キネマ旬報』誌に、日本映画の黎明期を探る『日本映画縦断』を連載開始(未完)。
  • 1983年から、創価学会の初代会長であった牧口常三郎の人生をさぐる『聞書・庶民列伝』を『潮』誌に連載開始するが、創価学会と対立して連載中断。
  • 1989年「竹中英太郎回顧展」を企画構成。
  • 1990年(60歳)「平成名物イカ天」(TBSTV)にゲスト審査員。「たま」を見出す。『「たま」の本』(小学館)上梓。
  • 1991年(61歳)三井記念病院に緊急入院。5月・19日午後9時58分、肝臓癌のため死去。
  • 美空ひばり、アナキズム、大杉栄、北一輝、映画、ビートルズ、日本赤軍、沖縄、対馬を語り続けた。
  • 父親は、戦前に探偵小説の挿絵などを描いた異色の画家の竹中英太郎であり、忘れられていた画家としての父親を再評価させたのも、竹中である。
  • 晩年「たま」を愛した竹中労。この一点においてすら本物であることを証明している。思春期を過ごした甲府中学は質実剛健で知られる現甲府一高、我が母校だ。文句あるか。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    竹中労-Wikipedia
    (1)

(2008.05.12更新)


★さすらいのアナキスト

▲ 風のアナキスト、さすらいのアナキストと呼ばれたルポライター・竹中労。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


▲たまのファンクラブ「虚言倶楽部」の会員証。

60年11ヶ月と21日の生涯

中西 啓介
Keisuke Nakanishi   【防衛庁長官(55代)】

(1941.02.06〜 2002.01.27=昭和16年〜平成14年)
心不全/糖尿病が悪化---水瓶座

  • 衆議院議員(7期)。和歌山県和歌山市出身。1965年(昭和40年)3月 早稲田大学政経学部経済学科卒業。
  • 衆院議員山口喜久一郎秘書、和歌山県肢障者連顧問を経て、1976年(昭和51年)、第34回衆議院議員総選挙に旧和歌山1区から自由民主党公認で立候補し初当選。
  • 中曽根派から田中派へと移り、田中派分裂後は竹下派に所属。小沢一郎の側近として台頭し、自民党副幹事長、大蔵政務次官を歴任した。
  • 1992年(平成4年)の竹下派分裂では、小沢と行動を共にし羽田・小沢派に参加。1993年(平成5年)の自民党分裂でも羽田、小沢と行動を共にして自民党を離党し、新生党を結成。
  • 第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を割り、日本新党の細川護熙を首相とする細川内閣が成立すると、中西は防衛庁長官として入閣した。しかし同年12月に憲法についての発言が問題となり防衛庁長官を辞任。このころから紀陽銀行に関する不正融資への関与や関西空港建設に関連し業者から献金を受けたなどという噂が取りざたされる。中西は小沢の側近と言うこともあり、政敵の標的となった嫌いも無いわけではない。
  • 1994年(平成6年)12月、新進党結成に参加。しかし、1995年(平成7年)、息子が大麻使用で逮捕されたことを理由に衆議院議員を辞職し、同年6月には東京共和信用組合、安全信用組合の乱脈融資・経営問題に関与し、衆議院予算委員会に証人として喚問された。
  • 1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では、新進党公認で小選挙区和歌山1区から当選。政界に復帰するが、和歌山市長であった旅田卓宗や、元職の東力も出馬したため、地盤が弱体化した。
  • 1998年(平成10年)、小沢一郎を党首とする自由党の結成にに参加するが、2000年(平成12年)の自由党の連立離脱問題では連立維持を主張。
  • 永年付き添った小沢と袂を分かち、保守党に参加する。しかし、与党側に残留したものの、地元の自民党和歌山県連が中西への選挙協力を拒否し、谷本龍哉を擁立。同年の第42回衆議院議員総選挙では谷本に敗れ落選し、政界を引退した。
  • 2002年(平成14年)心不全で1月27日死去。糖尿病が悪化していたとも伝えられた。享年60。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    中西啓介-Wikipedia

(2007.08.01掲載)



▲小沢一郎の側近として台頭し、自民党副幹事長、大蔵政務次官を歴任した中西 啓介。


 

60年11ヶ月と22日の生涯

田村 俊子
Toshiko Tamura   【『木乃伊の口紅』の生みの親】

(1884.04.25〜1945.04.16)
脳溢血により客死---牡牛座

  • 別名、佐藤露英、佐藤俊子、本名、佐藤とし。東京浅草(現在の台東区)蔵前に、代々続く札差だったという米穀商の家に生まれる。府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校)卒業、日本女子大学校国文科中退。
  • 代表作は『木乃伊(みいら)の口紅』、『炮烙(ほうらく)の刑』など。官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た。没後、田村俊子賞が創設された。
  • 1902年に幸田露伴の門下に入り、露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するも、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる。
  • 女優としての芸名は花房露子。しかし文学への意欲は失われず、1909年に結婚した田村松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説一等になり文壇デビュー。
  • その後「青鞜」、「中央公論」、「新潮」に次々と小説を発表し、人気作家となる。しかしそれも長くは続かず、1918年、朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住。1936年、悦の死去により18年ぶりに帰国。
  • 日本で小説家としての活動を再開したが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫である窪川鶴次郎との情事が発覚、その経験を基に書いた小説『山道』を発表後、日本を離れ、上海で脳溢血により客死した。墓所は鎌倉の東慶寺にある。
  • 主な作品:『あきらめ』『女作者』『木乃伊の口紅』『炮烙の刑』『彼女の生活『山道』
  • 作家田村俊子に恋い焦がれた湯浅芳子

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    田村俊子-Wikipedia
    画像:「田村俊子「木乃伊の口紅」

(2008.04.22掲載)



▲官能的な退廃美の世界を描き、人気を得た小説家・田村 俊子。
(イラスト 凛香さん)


◆画像-1:明治44年「あきらめ」出版当時


◆画像-2:写真 日本近代文学館


◆画像-3:「木乃伊の口紅」大正3年6月 牧民社


 




 60歳のエポックエポック!

  • アインシュタインは、ちょうど60歳を迎えた1939年8月初め、つまり第二次世界大戦勃発のひと月前に、重大な手紙をルーズベルト大統領宛てに出した。後年、彼自身が大失策と言った手紙には「原子爆弾製造の可能性を調査するために大規模な実験を行う必要がある」と書いてありました。(彼はナチスドイツで原爆開発がおこなわれていると思って危機感を抱いていた。実際は行われていなかった) (1)
(1)投稿者:ユリウスさん..2009/ 2/12 15:51:33(木) [4277]

60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

スケールバー

スケールバー

 


人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
トップページprofilelink


Copyright(c) 2003 Kazumasa Tamagawa, All rights reserved.

当サイトは Internet Expolorer4.0 以上、Netscape Navigator6.0以上、Javascript ON でご覧ください。