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ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

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石原吉郎
フェリックス・ガタリ
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■62歳-前半
ウィトゲンシュタイン
高坂 正堯
堺 利彦
マルグリット・ヴァロワ
千葉 周作
チェスタートン
与謝野鉄幹
ミハエル・バクーニン
根上 淳
カール・セーガン
ジャン・フーリエ
キンゼイ
アブラハム・マズロー
円山応挙
宮城道雄
荻野 吟子
松岡利勝
キスリング
マルティン・ルター
吉田 鉄郎
いずみたく
サンダー杉山
岡本 一平
香月泰男
フーゴ・グロチウス
マホメット
j・ジャクソン
和田 夏十
ハドリアヌス
大原孫三郎
エミール・ゾラ

■62歳-後半→進む
ウィリアム・モリス
山田康雄
鶴田浩二
パー・ヘンリック・リン
L.E.ボルツマン
ノストラダムス
辻本 史邑
ジャン・パウル
ドヴォルザーク
アドルフ・ロース
野口雨情
キュビエ
井上準之助
モーリス・ラヴェル
藤子・F・不二雄/藤本弘
オッペンハイマー
乃木希典
ジャンフランコ・フェレ
ゴダード
宮崎康平
徳川綱吉
J.M.ケインズ
ヴァザーリ
ルーベンス
前田光世
江國 滋


■62歳のエポック


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62歳の語録

 

「おい癌め 酌みかはそうぜ 秋の酒」
(江國滋の辞世の句



                         
62年と3日の生涯

ウィトゲンシュタイン
Ludwig Wittgenstein  【20世紀の最も重要な哲学者】

(1889.04.26〜1951.04.29)
前立腺癌---牡牛座

  • 20世紀の最も重要な哲学者の一人で、分析哲学の形成と発展に大きな影響を与えた。オーストリア・ウィーンのユダヤ系の家庭に、8人兄弟姉妹の末っ子として生まれ、1908年以降主として英国に定住。
  • 一家は、その当時のヨーロッパでもトップクラスの富豪だった。父親のカールは鉄鋼王で、オーストリア・ハンガリー帝国の最先端の資産家だった。
  • 14歳まで彼は自宅で教育を受ける。一家は音楽と文化の拠点となり、ブラームスなどが頻繁に訪問した。兄弟姉妹はみな才能に恵まれていたが、天才を輩出する家によく見られるように、誰もが情緒不安定で、四人の兄のうち三人は自殺している。
  • 198年イギリスのマンチェスター大学に入学して航空学を学んだ。やがて数学に興味を持ち、次に哲学を研究するようになる。ケンブリッジのバートランド・ラッセルの愛弟子になる。二年もしないうちにラッセルは、弟子がやがて自分を追い抜くことを自覚する。1929年(40歳)以降ケンブリッジ大学の教壇に立つ。
  • 主著『論理哲学論考』(1922年)、『哲学探究』(死後刊行、1953年)などで、徹底して言語の有意味性の根拠を問いつつ、「自我」「言語ゲーム」「生活形式」ほかの主題に取り組んだ。
  • 生前に出版された唯一の書物『論理哲学論考』は、自ら志願した帝国陸軍の前線の塹壕で書き続けたメモによるもの。
  • 「論考」は、若きウィトゲンシュタインが、哲学の根本問題、すなわち世界の可能性の限界は画定できるか、という問題に挑んだ。「私はどれだけのことが考えられるのか」これが「論考」の基本問題である。
  • 「論考」には断片(思考の最終結果)しか書いてない。独我論は他者を切り捨てる。「世界は私の世界である」とウィトゲンシュタインは言う。
  • 「論理的な形式言語から日常言語へ」と通常要約される前期思想から後期思想への移り変わりの背景には、様々な夢の「自己解剖」や、婚約まで考えたマルガリートや恋人・フランシスとの関わりをめぐる愛情と罪の分析を通して、そうした日常性の意味、高貴さを彼は次第に回復していく人生における見方の変化があったことを本書は明らかにしている」(1)。
  • 「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」と言うウィトゲンシュタインに対し、野矢茂樹は「語り切れぬものは、語り続けねばならない」という。
  • 癌で入院・手術の道を拒み、投薬によって数年間生命を保つ方法を選ぶ。最後の言葉は「素晴らしい一生だったと、言ってやってくれ」だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2006.03.19朝刊「よみうり堂本」L・ヴィトゲンシュタイン著「ヴィトゲンシュタイン哲学宗教日記」の神崎繁による書評より抜粋・リライト。

(2006.03.21更新)




▲哲学の根本問題、すなわち世界の可能性の限界は画定できるか、という問題に挑んだウィトゲンシュタイン。哲学者にしておくのはもったいないほどの二枚目だ。

 


ウィトゲンシュタイン語録

◆所見(ベメルクング)-1
「透明な赤や緑はありうるが、透明な白はありえない」
(色彩につて)

◆所見(ベメルクング)-2
「感情によって思考が彩られることはあっても、感覚によって思考が彩られることはない」。 

◆「虚栄心を捨て去りたい、と私が言うとき、またもやそれを単なる虚栄心から言おうとしているのではないとは言い切れない」

62年と7日の生涯

高坂 正堯
Masataka Kousaka   【『現実主義者の平和論』】

(1934.05.08〜1996.05.15)
肝臓癌---牡牛座

  • 国際政治学者で、京都大学法学部教授を務めた。専門は、国際政治学、ヨーロッパ外交史。洛北高校、京都大学法学部卒業。
  • 鳥取県出身の哲学者で、近代の超克を唱えた高坂正顕の次男として京都市に生まれる(実業家・東京都教育委員の高坂節三は実弟)。大学では国際法学者の田岡良一に師事。
  • 1963年、『中央公論』に発表した『現実主義者の平和論』で論壇にデビューし、日本外交をめぐって坂本義和らの理想主義的平和論者と論争を繰り広げた。また吉田茂を論じた『宰相吉田茂』は、当時否定的な論調が一般的だった吉田の評価を一変させた。冷戦時代から共産主義国家には批判的であり、親共の進歩的文化人が主流だった当時の論壇では貴重なアメリカ重視の論客であった。
  • いたずらな形而上学的議論を避け、あくまでも人間の本性に即した権力構造を模索していたと言える。コメンテイターとしてテレビ朝日系の「サンデープロジェクト」にも出演。同じくテレビ朝日系の朝まで生テレビにもパネリストとして出演したことがある。軽妙な京都弁での語り口調が印象的だった。
  • 熱心な阪神タイガースのファンとしても有名だったが、肝臓癌のため62歳で死去。
  • 京都大学での学問的な弟子としては中西寛、坂元一哉、戸部良一、田所昌幸、佐古丞、岩間陽子、中西輝政、慶野義雄、島田洋一などがおり、多くの研究者を育成した面でも名高い。また、衆議院議員で元民主党代表の前原誠司も、高坂のゼミナリステンである。
  • 「一族のご先祖様と言うのは、何と武田四天王の一人だそうです………。こちら」(1)。
  • 「高坂先生は囲碁の相当の打ち手(アマ六段以上)でした。(小生は顔を存じ上げている程度)京都には日本棋院京都本部、実は藤田悟郎六段が主宰する吉田塾がありました。そこで週1回、錚々たるメンバーがあつまる京大OB会があり、高坂正尭先生はその常連だったと聞いています」(2)。
  • 「誠に残念乍ら真贋の程は不明ですが、永禄九年(1566)166手の信玄・弾正の棋譜を保有して居ると言う林海峰氏に依ると、現在のアマチュア最高クラスか其れ以上との評価だそうですから、或いは祖先の血こそが氏を囲碁の道へと歩ませたのかも知れません。こちら」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    高坂正堯とは - はてなダイアリー
    高坂正堯-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 4/ 3 07:57:31(金) [4543]
    (2)投稿者:ユリウス さん..2009/ 4/ 3 23:40:17(金) [4546]
    (3)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 4/ 4 08:45:44(土) [4551]

(2009.04.04更新)



▲良識派保守知識人として外交から文明まで幅広く論じた高坂 正堯。

 



62年と8日の生涯

堺 利彦
Toshihiko Sakai   【『共産党宣言』の初の翻訳者】

(1871.01.15〜1933.01.23=明治3年11月25日〜昭和8年)
死因?---山羊座

  • 社会主義者・思想家・作家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚渋六。士族の3男として豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現在の福岡県京都郡犀川町大字大坂字松坂)に生まれる。
  • 第一高等中学校を中退したのち、大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めるながら、文学の世界で身を立てるべく小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄に招かれて東京に設けられた毛利家編輯所で『防長回天史』の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
  • その後『万朝報』の記者として活躍し、社会改良を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香、同僚の内村鑑三、幸徳秋水らと理想団を結成。この時期に社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし『万朝報』は、日露戦争に際し主戦論に路線転換したため幸徳秋水とともに退社。
  • 平民社を開業して週刊『平民新聞』を発行、非戦論・社会主義の運動を開始する。
  • 週刊『平民新聞』第53号(1904年11月13日)に幸徳との共訳で『共産党宣言』を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーア訳の英語訳からの重訳であったが、日本における最初の『共産党宣言』の翻訳であった。
  • 1906年に日本社会党を結成して評議員となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍をはじめる。赤旗事件で2年の重刑で入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が起こるが、獄中にいたため連座を免れて出獄。
  • 社会主義のいわゆる「冬の時代」は、売文社を設立して『へちまの花』次いで『新社会』の編集・発行をはじめとする事業をおこなって生活の糧とするとともに、全国の社会主義者との連絡を維持した。
  • 1922年、日本共産党の結成に山川均、荒畑寒村らとともに参加するものの、のちに除名される(なお、共産党公式党史では長い間、堺が初代委員長を務めたとされていたが、旧ソ連邦共産党コミンテルン・アルヒーフ所蔵資料を用いた最近の加藤哲郎の研究によって、否定されている)。その後東京無産党を結成して活動を続け、1929年に東京市議会議員に当選した。
  • 数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義事情、社会主義思想やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。
  • 婦人運動家で 社会大衆婦人同盟書記長・婦人有権者同盟会長を歴任した近藤真柄は長女。
  • 「“社会主義の世は公園に弁当をひらきて桜をみる一家族のごとし”1905(明治38)年の街頭デモで配った「社会主義の檄の冒頭」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)「堺利彦(枯川=こせん)」
    www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sakaitosihiko.htm - 72k -

(2005.09.15掲載)




▲数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義事情、社会主義思想やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた堺利彦。

 


◆溶岩を積み重ねた台座に平板な墓碑が建つ「堺利彦之墓」(三宅雪嶺の筆)

62年と13日の生涯

マルグリット・ド・ヴァロワ
Marguerite de Valois    【王妃マルゴ】

(1553.05.14〜1615.05.27)
死因?---牡牛座 

  • カトリーヌ・ド・メディシスの娘、フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の妹であり、ナヴァル王アンリの妻。
  • パリ郊外のサン=ジェルマン=アン=レーの城でアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの三女として生まれた。ニックネームのマルゴは、後にそれぞれフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世となった3人の兄達よって名づけられた。
  • 幼い頃から際立つ美貌とギリシャ語、ラテン語などの語学や哲学などにも造詣が深い彼女は、宮廷の華として誰もが憧れる絶世の美女として成長していった。
  • そんな何不自由のなく成長した彼女には大勢の男性が求婚をした。彼女が結婚したいと願ったのはギーズ公アンリであった。しかし、彼女の望みは母カトリーヌ・ド・メディシスによって打ち砕かれる。母は、激化するカトリックとユグノーの宗教対立を解消するために彼女をユグノーの指導者ナヴァル王アンリ・ド・ブルボンに嫁がせようとアンリの母であるジャンヌ・ダルブレと交渉を行っていた。当初カトリック教徒と息子との結婚に反対していたジャンヌ・ダルブレもカトリーヌの宗教対立解消という考えに同調し、縁談はまとまった。
  • しかし、ジャンヌ・ダルブレは婚礼の直前であった1572年6月9日に急死してしまう。一説にはカトリーヌ・ド・メディシスによる毒殺ともささやかれる不審な死であったが、婚礼は予定通り同年8月17日にパリで行われた。その時マルゴは19歳、新郎アンリは18歳であった。
  • しかし、婚礼の6日後の8月24日、サン・バルテルミの虐殺が発生する。マルゴとアンリの婚礼のためにパリに集まっていた大勢のユグノー達は次々に惨殺され、アンリ自身も幽閉される事となった。
    1756年、幽閉の身であったナヴァル王アンリがパリの宮廷から脱走すると、一人、アンリ3世のもとに残された。
  • その後、ナヴァル王アンリのもとに送り届けられたが、それぞれ愛人がいて夫婦仲は冷え切っていた。マルグリットは病に伏した後、1582年、再びパリの宮廷に戻ったが兄アンリ3世と仲たがいをして宮廷を去った。
  • 1589年、アンリ3世の急死後、ナヴァル王アンリはアンリ4世としてフランス王に就いたが、マルグリットとの間に子供はなく仲も疎遠になっていて、1599年、二人は正式に離婚し、アンリ4世はマリー・ド・メディシスと再婚。
  • 離婚後、アンリ4世との関係は友人として良好だったという。1615年5月27日、マルグリットが死んでヴァロア朝直系の血統は完全に途絶えてしまった。
  • 「「王妃マルゴ(上)」アレクサンドル・デュマ作/鹿島茂編訳
    舞台はフランス・ルネサンスの一見はなやかな時代。だが新旧の宗教の対立はきわだち、聖バルテルミーの大虐殺で対立はクライマックスを迎える。シャルル9世は君主ではあったが、母親のカトリーヌ・ド・メディシスは隠然たる力をもち、シャルルの弟たちもそれぞれが次期の王位を狙っていた。こうしたなかでシャルルの妹マルゴ(マルグリット・ド・ヴァロワ)はプロテスタント勢力の旗頭ナヴァール王アンリと政略結婚をさせられる。だがマルゴは披露宴の席で元恋人のギーズ公からなにごとかささやかれると「今夜、いつものように」という言葉をラテン語であたえるのだった。……陰謀渦巻く宮廷を舞台にくり広げられるデュマならではの波瀾万丈の歴史絵巻」(1)。
  • 「王妃マルゴ、ありがとうございました。王妃マルゴの凄いところは、奔放な彼女にほとほと手を焼いた兄のアンリ三世によって追放されるまでの自身の生涯を、才能豊かに語っていることです。当時は、まだだれも自我の確立などできていませんから、彼女は書くという行為によって、社会の制約で(陰謀による大いなる試練を含みます)歪められた人格を立て直そうとしたのかもしれません。当時、偏見で「弱き器」とされていた女性でありながら、自分の行動の妥当性を記すことをやってのけた王妃マルゴに拍手したいと思います」(2)。
  • ウーン、人間関係が複雑でよく分からない

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    マルグリット・ド・ヴァロワ-Wikipedia
    (1)「王妃マルゴ(上)
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/ 8/28 16:51:55(月) [165]

(2006.08.28更新)




▲王妃マルゴ(La Reine Margot)と呼ばれ、アレクサンドル・デュマ・ペールの同名の歴史小説のヒロインであるマルグリット・ド・ヴァロワ。

 

62年と16日の生涯

千葉 周作
Syuusaku Chiba     【幕末三大剣客の一人】

(1794.01.01 〜1856.01.17=寛政6年〜 安政2年12月10日)
死因?---山羊座

  • 幕末三大剣客の一人で、北辰一刀流剣術の門下から多数の幕末の著名人を輩出し、志士の間での閥を作った。
  • 生地は定かでなく、現在の宮城県栗原市、宮城県古川市、岩手県陸前高田市の3諸説がある。周作は通称で、諱は成政。父は千葉忠左衛門成胤(浦山寿定とも)。曽祖父の道胤は相馬中村藩の剣術指南役であったが、御前試合で敗れたために辞職して栗原郡へ移り、その子の吉之丞は北辰夢想流剣術を創始した。父・成胤も一旦は指南役に推挙されたが、辞して馬医者になったと言う。
  • その後、松戸(現千葉県松戸市)に移り、獣医師を開業する。同時に周作は親元を離れて(暫く松戸に滞在したと言う説もある)小野派一刀流剣術の流れを組む浅利義信に入門。他にも浅利義信の師匠の中西忠兵衛などの指南を受けて腕を磨き、一旦は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待された。中西道場では旧来の木刀での打ち合いから竹刀と防具を使った練習法を取り入れていた。しかし浅利道場では再び木刀修業が主に為るようになり、これに反対した周作は浅利と別れて独立し、北辰一刀流剣術を創始。
  • その後、武蔵・上野などを周って他流試合を行い、当地で隆盛していた馬庭念流に勝利したことで名を挙げた。そして江戸に帰り、文政5年(1822年)秋、日本橋品川町に玄武館と言う道場を建て、後に神田お玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、江戸に剣術の流行を起こした。
  • 教え方の特徴としてそれまでの剣術が習得が8段階と謝礼費用も時間も多くにかかるのに対して、竹刀を主に使用し3段階と簡素化した教え方で人気を得たと言う。
  • 北辰一刀流剣術の人気は絶大なものとなり、「力の斎藤弥九郎」・「格の桃井春蔵」とならんで、「技の千葉」と称された。この三道場は江戸の剣客を三分し、幕末に於いても大きな影響力を誇った。
  • 天保三年(1835年)に周作の盛名を聞きつけた水戸藩隠居の徳川斉昭の招きを受けて、剣術師範とされ、馬廻役として100石の扶持を受けた。
  • 周作の家族として、弟の定吉は京橋桶町に道場を持って桶町千葉と称された。次男の栄次郎と道三郎はそれぞれ水戸藩の馬廻役となっている。
  • その門下からは幕末の重要人物を多数輩出しており、主な人物として浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などが挙げられる。なお坂本龍馬は定吉に師事しており、直接の師匠ではない。
  • 処世術に長じた剣士だったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    千葉周作 - Wikipedia

(2006.02.15掲載)




▲江戸時代の剣術の流派北辰一刀流剣術の創始者で、千葉道場の総師範・千葉 周作。

62年と16日の生涯

チェスタートン
Chesterton, Gilbert Keith  【名探偵ブラウン神父の生みの親】

(1874.05.29〜1936.06.14)
死因?---双子座

  • 英国の作家。イギリス、ロンドン郊外のケンジントン・キャムデンヒルで生まれる。幼い頃、父エドワードは彼に厚紙細工のおもちゃや、絵本を作って与えたという。その影響からか、絵画や写真、模型など、美術的な趣味を持って育った。
  • セント・ポール学院では、『トレント最後の事件』などで知られるE・C・ベントリーに出会い生涯の友となり、また学業よりも詩作に耽ってすごしたという。 文筆活動は、在学中に知り合ったウィリアムズの手引きにより、《ブックマン》誌に美術評論を書くことからスタートした。以降、絵画・文学・詩の評論や、評伝・時事評論・エッセイ等のなどに手を染め、やがてミステリにも広がった。
  • ミステリの第一作は、1905年の『奇商クラブ』で、以降は主に短編に腕を揮い、長編は『木曜の男』一編を残すのみである。
  • 死の直前まで書き続けられた51篇から成る著者の代表作『ブラウン神父』シリーズには、逆転の発想や風刺、ユーモア、カトリック的なヒューマニズムなど、ミステリの美点に溢れている。大げさではなくトリックの事典といってもいい程だ。
  • ほぼ同時代のドイルの小説が、読み物としての魅力を失っていない代わりにトリックは古典として過去のものになったのに比べ、チェスタートンの奇想と逆説は現在にもつよい影響を与え、なお新しいトリックを生み出す発想の起点とすらなっている。
  • ミステリ作家としてはもちろん、論客としても一目置かれ、巨匠として多くの賛美者を集めた。晩年の1930年には英国のミステリ作家が集う《ディテクションクラブ》の初代会長を務めた。
  • 名探偵ブラウン神父は友人に語る。「賢い人は葉をどこに隠す? 森のなかに隠す」。森がなくても手はある。「1枚の枯れ葉を隠したいと思う者は枯れ木の森をこしらえるだろう」。英国の作家チェスタートンの小説「折れた剣」の一節である」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.10.01朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2005.10.19掲載)




▲死の直前まで書き続けられた51篇から成る著者の代表作『ブラウン神父』シリーズで知られるギルバート・キース・チェスタートン 。

62年1ヶ月ジャストの生涯

与謝野鉄幹
Tekkan Yosano    【鬼に喰われた男】

(1873.02.26〜1935.03.26)
死因?---魚座

  • 歌人、詩人、与謝野晶子の夫。本名は寛。鉄幹は号。京都府岡崎の生まれ。父・礼厳の姓はもと「細見」といい京都府与謝郡与謝村というところから出てきたことから、明治の初め与謝野と名乗るようになったという。なお正しい姓は與謝野。漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記となる。
  • 当初、山口県徳山市(現:周南市)の徳山女学校で国語の教師を4年間勤めるも女子生徒との間に問題を起こし、退職。20歳で上京。落合直文の門下に入る。
  • また、右翼壮士でもあったことで有名で、明治28年(1895年)10月8日に三浦梧楼ら日本官権と他の右翼壮士とともに当時の朝鮮王朝の王妃、閔妃を暗殺。これは朝鮮王朝が親露政策により清と日本の圧力を排除しようとし、それに危機感を感じた日本が起こしたとされている。当時、朝鮮王朝とは不平等条約が結ばれていたため、鉄幹は日本に送られ広島の地方検察庁で裁かれたが、起訴猶予となった。
  • 落合直文に師事、浅香社に加わり和歌革新運動に参加。歌論『亡国の音』、慷慨調の詩歌集『東西南北』を出した。
  • 1899年(26歳)新詩社を創立。翌年機関誌『明星』を出して浪漫主義文学運動を展開。後に、慶応大学教授。北原白秋などを見出した。
  • 1901年鳳晶子(与謝野晶子)と結婚して、ともに後進を指導。
  • 大正4年(1915年)の第11回総選挙に故郷の京都市選挙区から無所属で出馬したが、落選した。 詩歌集『鉄幹子』『紫』や訳詩集『リラの花』などがある。
  • 「われ男意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あヽもだえの子」(与謝野鉄幹)---(1)
  • 「与謝野晶子の名は、夫・鉄幹に比べるのもおかしいくらい、人々に知られている。本書の副題「鬼に喰われた男」には、妻の名声と時代の趨勢の陰に隠れて顧みられることのなかった鉄幹再評価の意図が込められている。---若き日、朝鮮での「みん妃暗殺事件」の首謀者の周辺にいて国外退去になった経験から、大逆事件に連座して死刑になった友人への追悼詩まで、鉄幹の振幅は大きい」(2)。
  • 「与謝野鉄幹の辞世をお供えします。これは多磨霊園の歌碑に刻まれているそうです。
    〈知りぬべきことは大かたしりつくし今何を見る大空を見る〉」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.09.15(Thu) 11:21[603]
    (2)読売新聞2006.01.16朝刊 青井史著『与謝野鉄幹-鬼に喰われた男』の神崎繁による書評より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006.05.04(Thu) 00:02[1448]

(2006.05.04更新)




▲歌人、詩人で與謝野晶子の夫・与謝野鉄幹。


 

鉄幹の歌

◆「妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるはしくなさけある」

◆「〈忠義には猶(なお)かへがたし あっぱれ手柄したぞ〉とは あ々あ々人を殺せよと えせ聖人のをしえかな」

◆「大名牟遅少那彦名(おおなむちすくなひこな)のいにしへもすぐれて好きは人妬みけり」---折口信夫が激賞した。

62年1ヶ月と1日の生涯

ミハエル・バクーニン
Mikhail Bakunin   【ロシアのアナーキズム革命家 】

(1814.05.30〜1876.07.01)
不遇のうちにベルンで客死---双子座

  • ロシアのアナーキズム革命家。無政府主義者。トヴェリ県の名門貴族の長男として生まれる。ペテルブク砲兵学校を出て将校となり、1835年中尉で退役。父と対立してモスクワに移り、スタンケーヴィチ グループに入りベリーンスキィ・ゲールツェンらと親交。ヘーゲル哲学に心酔。
  • 1840年外遊、ドイツ、スイス、イタリアを遍歴、1848年革命にあい、プラハで(スラブ連邦)樹立をはかり、1849年春、ドレスデン暴動を指揮、逮捕される。
  • 1851年ロシアへ送還、禁錮、1857年シベリア流刑となる。
  • 1861年逃亡、日本、アメリカを経て、ロンドンに渡り、1863年ポーランド反乱を支援、(第1インターナショナル)に入りマルクスと論争、分派(アリヤンス)を作り1872年除名される。
  • 1873年主書「国家とアナーキー」を発表、ロシアのナロードニキ運動のイデオローグなり、神と国家の徹底的な闘争、すなわち最も戦闘的な(無神論)(無政府主義)を説き、農民と下層市民の暴動を期待した。このバクーニン主義は、特に資本主義の後進国、イタリア、スペインの革命運動にも強い影響を与えたが、彼自身は、晩年に革命にも幻滅し、不遇のうちにスイスのベルンで客死。
  • 主著《神と国家》。「著作撰集」(5巻)1919年〜22。「書簡集」(4巻)1834年〜35年。
  • 「ミハイル・バクーニンは近代アナキズム運動・思想の中心人物である。彼は自由で階級のない社会に到達するするために、集産主義、大衆暴動、自発的な反乱の役割を強調した。彼はまた、自由主義の抽象的な個人主義を「自由を否定するもの」として退け、人間性と個人性の社会的性格を強調した。彼の思想は、20世紀の急進的労働運動の中で大きく有力な思想になる。その多くは、後にサンジカリズムと呼ばれる思想と同じものである。バクーニンは多くの組合運動に影響を与えたが、特にスぺインのアナキズム運動には、アナキストが主導する社会革命が起こるほどの影響を与えた。バクーニンの著作には「神と国家」「パリ・コミューンと国家の概念」他多数がある。サム・ドルゴフ編の「Bakunin on Anarchism」は、バクーニンの主要な論文を集めた、優れた論文集である」(1)。
  • 「バクーニンは、アナーキストの指導者の中でも、クロポトキンの、倫理観に基づいた相互扶助主義とは異なり、暴力革命の遂行を唱えた上で、極めてその思想は過激だった。バクーニン主義と呼ばれた。バクーニンの思想は、暴力革命を唱えることではマルクスと同じだが(後にエンゲルスは、議会に活動家を送り込むことで、合法的な緩やかな革命を志向した)、マルクスはプロレタリアートの組織化によって革命を遂行する考え方であったのに対し、バクーニンは最下層民の蜂起・暴動を唱え、結局マルクスとは袂を分かっている。マルクスの同時代人として、アナーキズムの衰退とともにバクーニンは忘れられた観はあるが、実は、当時の革命勢力の指導者として、その存在は非常に大きかった。当時の貴族の長男の常として、ペテルスブルグ砲兵学校に入学、将校になるが、その砲兵学校時代から哲学にかぶれ、貴族になる道からドロップアウト。あちこちの革命騒動に参加、各地の蜂起の指揮をとった。ロシア官憲から追われていたが、1849年のドレスデン革命で逮捕され、ロシアに送還されてしまう。ペトロパブロフスク要塞での、過酷な囚人生活のため、壊血病にかかり、歯が1本もなくなってしまったのだそうだ。さらに、シベリアに流刑になった。ところが、不屈のバクーニンは、シベリアを逃亡、日本、アメリカ経由でロンドンに渡る。1861年ポーランドの反乱を支援、第一インターナショナルに加わるものの、その根本的な思想でマルクスと激しく対立し、分派を作るなどの敵対行動を取った(最初のころは、マルクスとバクーニンは仲が良かったそうだ)。インターナショナル本部をニューヨークに移すというマルクスの主導による議決で、第一インターナショナルから脱退することを余儀なくされる。バクーニンは、スイスで独自のインターナショナルを展開する。プロレタリア独裁による国家社会主義に反対し、少数エリートによる人民の搾取に対して、終生反対し続けた。プロレタリア独裁と議会制民主主義の負の部分に対する洞察は、現代における社会主義国の崩壊、資本主義社会の選挙が、必ずしも民意を実際には反映していないことが、大きくそのレトリックを証明していると言える。そのあたりの省察は、バクーニンやプルードンの著作に触れると、詳細に書いてある。ただし、アナーキズムでは、「では、実際にどうすればいいのか?」という部分で、いきなり空想的になってしまうことは否めない。バクーニンは、革命の遂行に対し、テロや暴力主義を唱えたことでは、現在、評判が悪い。しかし、プロレタリア独裁や、議会制民主主義のレトリックを早くから見抜いていたことでは、その思総体ではなく、部分的には、現代でも非常に有効な社会思想であるといえる。前述の通り、組織化されたプロレタリア革命ではなく、最下層民の暴動による革命を理想とした。根っからの行動主義者で理想主義者であるバクーニンは、騒動が起きそうだと聞くと、国を問わず、あちこちの革命騒動に参加した。1875年に健康状態が悪化、引退宣言を機に、過去の人になってしまい、1876年7月1日、寂しい晩年を終えた」(2)。
  • バクーニンの顔相は、まさにバクーニンしている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「アナキズムFAQ」
    (2)「Hans Knappertsbusch Conducts Wagner "Der Ring Des Nibelungen" ...

(2005.01.27更新)




▲近代アナキズム運動・思想の中心人物・ミハイル・バクーニン。


62年1ヶ月と4日の生涯

根上 淳
Jun Negami  【ペギー葉山の夫】

(1923.09.20〜2005.10.24 PM:03.54)
脳梗塞---乙女座

  • 1950年代の大映映画で二枚目として活躍した俳優。歌手ペギー葉山さんとのおしどり夫婦でも知られた。
  • 東京都生まれ。バイオリニストの森乙(もり・おっと)の長男。本名森不二雄。
  • 法政大学在学中に学徒出陣で飛行隊に入隊。見習い士官として飛行訓練を受けていたが、胸を悪くして入院し、そのまま終戦を迎えた。
  • 戦後、大学に復学、卒業後は進駐軍の通訳などをしていたが、1947年(昭和22年)大映に入社、1949年映画「母三人」(大映、中代富士男監督)で俳優デビュー。翌50年の「二十歳前後」(同、須田鐘太監督)で主演を果たす。
  • その後成瀬巳喜男監督の「稲妻」「川のある下町の話」「細雪」などの作品に多数出演、青春スターとして人気を集めた。以後、1967年に大映を退社するまで100本以上の作品に主演した。
  • 1965年ペギー葉山さんと結婚。大映退社後、テレビを中心に活躍。
  • 「白い巨塔」ドラマ「あしたこそ」(68年、NHK)、「おさな妻」(70年、東京12チャンネル)などのほか、「帰ってきたウルトラマン」(71年、TBS)の伊吹竜隊長役でもファンに親しまれた。
  • 根上さんは糖尿病の合併症で脳梗塞となり、1997年から自宅で療養していた。
  • 「長い闘病生活でした。苦しみもなく、安らかな眠りの中で天国に旅立っていきました。『よく頑張ったね、あっぱれ』という言葉をかけてやりたい。介護をしていたことで、彼からたくさんのエネルギーをもらっていた私は、これから悲しみとの闘いの日々になると思います。彼は歌手としての私と結婚し、私の歌を愛してくれたので、思い出を胸に歌い続けなければならないと自分を叱咤(しった)激励しています」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)妻ペギー葉山さん

(2005.12.02掲載)




▲映画、テレビで活躍した二枚目俳優で、歌手ペギー葉山さんとのおしどり夫婦でも知られた根上 淳。


◆妻のペギーさん(左)とは、芸能界でも指折りのおしどり夫婦として知られた根上さん

62年1ヶ月と11日の生涯

カール・セーガン
Carl Edward Sagan   【米国の天文学者・SF作家】

(1934.11.09〜1996.12.20)
死因?---蠍座

  • 米国の天文学者、SF作家。米国の宇宙探査計画、市民への啓蒙活動で多大な貢献。
  • ニューヨーク州イサカにあるコーネル大学の放射線物理学・宇宙探査研究所、天文学准教授。文学士および理学士号、物理学修士号、天文学および天体物理学博士号をすべてシカゴ大学で取得。その後カリフォルニア州立大学バークレイ校、スタンフォード大学医学部(遺伝学助教授)、ハーバード大学やスミソニアン天体物理観測所などで教授。
  • 研究は、惑星の大気、地表の物理的、化学的反応、地球の生物の起源、エクソバイオロジーなど。金星表面が非常に高熱なことや、火星の地表の標高差が大きいことなどを発見に導いた研究で主要な役割を果たした。木星での有機物質の発見を期待している。
  • 連邦航空宇宙局や全米科学アカデミーをはじめ様々な国内の顧問機関や、宇宙研究会議や国際天文学連合などの海外の機関でも活躍。米空軍科学諮問委員会でプロジェクトブルーブックを再審するメンバーにも選ばれている。
  • 1964年にハーバード大学からスミス賞、1968年にはオレゴン州にて“Condon Lecturer”を受賞。百を超える論文に加えブリタニカ百科事典に論説を寄稿。“The Atmospheres of Mars and Venus, 1961”(火星と金星の大気)、“Planets, 1966”(惑星) 、“Intelligent Life in the Universe, 1966”(宇宙における生命)を共著。
  • 他の多くの天文学者と同じくUFO地球外仮説には批判的だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.12.01掲載)




▲米国の天文学者、SF作家・カール・セーガン。

62年1ヶ月と25日の生涯

ジャン・フーリエ
Jean・B・J・Fourier   【フーリエ級数の提案者】

(1768.03.21〜1830.05.16)
死因?---牡羊座

  • フランスの数学者・物理学者。仕立屋の息子として生まれ8歳で孤児となり、修道院に入れられた。
  • 1789年にフランス革命が起こりフーリエは自由になる。この年、21歳のフーリエは科学アカデミーに方程式の解法に関する 論文を提出。1790年エコール・ポリテクニク教授。
  • ナポレオンの要請で1798年エジプト遠征に文化関係の 仕事の一員として従軍。帰ってから 『エジプト記』を書くがこれは 考古学 上の傑作と言われている。
  • 帰国後イゼール県知事、男爵となる。その後県知事になり、1808年にはナポレオンは彼を男爵にした。しかしナポレオンの流罪とともに彼も捕まる。
  • ナポレオン没落後失脚したが1817年アカデミー・デ・シアンス会員、1826年アカデミー・フランセーズ会員。
  • 熱伝導の微分方程式を導き、これを種々の境界条件の下で解く際、任意の関数は三角級数(フーリエ級数)で表されることを述べ、解析学に新分野を開いた。主著《熱の解析的理論》。
  • 「有名な フーリエ級数 の論文はかれが知事をしている1807年に書かれたものである。 現在使っている 定積分の記号 (積分記号の上と下に数字を書くもの) はフーリエが考えだしたものである」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    授業に登場した数学者たち

(2004.12.14更新)




▲フランスの数学者・物理学者・ジャン・フーリエ。

62年2ヶ月と2日の生涯

アルフレッド・C・キンゼイ
Alfred C Kinsey    【性革命の研究者】

(1894.06.23〜1956.08.25)
心不全---蟹座

  • アメリカの性科学者・動物学者。生物学者で、専門はタマバチの採集分類だった。
  • ニュージャージー州ホーボーケン に生まれた。1914〜1916年、メイン州ブランズウィック のボードン大学 に通い、生物学と心理学の理学士の資格を得て、優等 で卒業。1919 年 9 月にハーバード大学 から生物学の科学博士 Sc.D. の資格を受け、1920 年 8 月に動物学の助教授としてインディアナ大学 にやって来た。
  • 彼は生物学的テストと動物分類と進化についての調査において学究的に手堅い評価を確立。1937 年までに“アメリカン・メン・オブ・サイエンス”は、花形科学者の一人として彼を一員に加えた。それから 1938 年、キンゼイはインディアナ大学で新しい結婚の過程における対等関係についての研究を引き継ぎ、すぐに性的行動についての過去の事例を収集し始めた。
  • 1940 年、ウェルズ学長はキンゼイに選択肢を与えた。結婚の過程もしくは性別調査プロジェクトのどちらの研究を続けるのか。キンゼイと彼のスタッフは 18000 を越えるインタヴューを集め、1948年に「 Sexual Behavior in the Human Male 」、1953年に「 Sexual Behavior in the Human Female 」を出版。性科学の分野の地平を開いた。
  • このベストセラーとなった二冊の著作は、“キンゼイ・レポート”と称され、性がタブーだった時代にアメリカ人の性の実態を明らかにし、1960年代に起こる性革命のきっかけとなった。そして今日でも熱い論議の的となっている。成人男性の三割・成人女性の二割は同性愛的傾向を持つこと、女性もマスターベーションをすることなどを発表し一大センセーションを巻き起こす。
  • 一方で、キンゼイの報告には対象者にバイアス(先入見)がかかっている、キンゼイレポートによって60年代のセックス革命が導かれた等の理由で、後世の科学者や宗教的保守層を中心に批判的な見方もある。
  • キンゼイは 1956 年に 62 歳で亡くなった。
  • 『愛についてのキンゼイ・レポート』について:「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラ製作総指揮作品。第62回ゴールデン・グローブ賞3部門(作品賞、主演男優賞、主演女優賞)ノミネート。第77回アカデミー賞助演女優賞ノミネート。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    愛についてのキンゼイ・レポート@映画の森てんこ森

(2006.10.28更新)




▲ベストセラーとなった“キンゼイ・レポート”で、性がタブーだった時代にアメリカ人の性の実態を明らかにし、1960年代に起こる性革命のきっかを作ったアルフレッド・チャールズ・キンゼイ。

 


◆映画『愛についてのキンゼイ・レポート』より

62年2ヶ月と7日の生涯

アブラハム・マズロー
Maslow, Abraham    【人間性心理学の創始者】

(1908.04.01〜1970.06.08)
心臓発作---牡羊座

  • アメリカの心理学者。ニューヨークのブルックリン生まれ。ユダヤ人であったため、孤独な少年時代をすごしたマズローは、リンカーンベルグソンスピノザなどを読みあさったが、その中の幾人かは、彼が後に行う自己実現した人々の調査の対象にもなった。
  • 1934年、ウィスコンシン大学に進み、文学博士をとる。カーネギー特別研究員としてコロンビア大学で研究を重ねた。また、ブルックリン大学(1937〜51年)・ブランディス大学(1951〜69年)で大学教授、ブランディス大学心理学部長を務めた。マズローの関心は、もっぱら行動主義で、ハリー・ハーロウ Harlow, H.F.教授のもとでサルの研究で学位論文を書いている。フロイトにも触れたが、ニューヨークでの、アドラー をはじめ、エーリッヒ・フロム 、カーレン・ホーナイ 、ルース・ベネディクトらとの出会いが彼の学問的立場(マズローはみずからそれを第三勢力と名づけた)を決定した。彼は、アメリカ心理学会の中に人間性心理学の部会を作るために努力するとともに、『人間性心理学雑誌』の創刊につとめた。
  • 1967−1968年、米国心理学会会長。ヒューマニスティック心理学、というものの旗頭として活躍し、1962年、「ヒューマニスティック心理学会」を設立。
  • 自己実現、創造性、価値、美、至高経験、倫理など、従来の心理学が避けてきた、より人間的なものの研究に道を開き発達心理学に貢献。
  • 「マズローの功績は、フロイトに代表される無意識のダイナミズムを重視する精神分析学である心理学第1の勢力、ワトソンをその祖とする、自然科学的で客観性を重視した行動主義心理学である心理学第2の勢力に対し、それらは人間が主体的に決断する能力を持っていることをないがしろにしているのだと批判し(精神分析、行動主義、ともに初期の理論に対してではあるが)、「自己実現」を研究のテ-マに、人間性を尊重し、主観的経験を重視し、また生きることの意味や価値の発見に寄与しようとする人間性心理学(Humanistic Psychology)を創始し、心理学第3 の勢力と位置づけ、自己実現の他に、創造性、価値、美、至高経験、倫理などのような従来の心理学が避けてきたより人間的なものを研究し、精神分析学、行動主義とは異なる新たな解釈の道を開いた点にある」(1)。
  • 有名な欲求階層説とは、1-自己実現の欲求 02-他者からの承認と自尊心の欲求 03-所属と愛の欲求 04-安全の欲求 05-生理的欲求である。これらはすべて「サスティナブル・フリーダム(維持可能な自由)の要素である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「マズロー Maslow, Abraham H

(2005.12.09更新)




▲自己実現、創造性、価値、美、至高経験、倫理など、従来の心理学が避けてきた、より人間的なものの研究に道を開き発達心理学に貢献したアメリカの心理学者アブラハム・マズロー。


◆「自己実現:マズローは、創造性は彼が研究した自己実現する人間の全員に見られる普遍的な特徴であることを見出した。

01-現実をより有効に知覚し、それとより快適な関係を保つ。

02-「自己、他者、自然に対して受容的態度」をとる。つまり、すべてのものをあるがままとしてそのまま受け止める。

03-「自発性、単純さ、自然さ」を持つ。

04-自己中心的ではなく「課題中心的」である。

05-「孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然」。

06-「文化や環境からの独立」し、意志をもった能動的人間である。

07-認識が絶えず新鮮である。

08-神秘的経験-至高体験を持つ。

09-「共同社会感情」を持つ。

10-「心の広い、深い対人関係」を持つ。

11-「民主的性格構造」を持つ。

12-「手段と目的の区別、善悪の区別」が判断できる。

13-「哲学的で悪意のないユーモアのセンス」を持つ。

14-「創造性」を持つ。

15-「文化に組み込まれることに抵抗し、文化を超越」する。

以上(2)より抜粋

62年2ヶ月と16日の生涯

円山応挙
Oukyo Maruyama   【写生の冒険者・自然美の伝達者】

(1733.05.01〜1795.07.17)
健康を害し歩行困難になり、眼病にも罹る---牡牛座

  • 江戸中期の画家で円山派の始祖。丹波国穴太(あのう)村の農家に生まれる。
  • 幼名岩次郎、名は?(てい)。字に仲均、仲選、号に一嘯、夏雲、仙嶺などがあるが、1766年に名を応挙とあらためてからは、一貫して応挙の落款をもちいている。
  • 15、6歳のころ京都に出て、高級玩具商に務める一方、初め狩野派の石田幽汀に学び、渡辺始興の影響を受け、30歳代初め写実主義の新進画家として登場。のち眼鏡絵の制作などを通して西洋画の透視図法を学ぶ一方で中国の写生画を研究、写実性と日本の伝統的な装飾画様式を融合した新様式を確立した、天下の名人といわれた。
  • 覗機械用の眼鏡絵制作を通じて、西洋画の空間表現にふれ、また庇護をうけた円満院祐常法親王の影響などから、経験主義的な写実の重要さを認識。このころの作品に『淀川両岸図巻』『難福図巻」がある。多くの写生をのこすとともに、中国の古画や清時代の写実的な花鳥画なども研究した。
  • 40歳代には写生画法と装飾画法を総合、合理的な対象把握を骨格とした優雅な品格をもつ装飾画風を確立し、『雨竹風竹図屏風』『藤花図屏風』などを制作。
  • 晩年には『雪松図屏風』や大乗寺・金剛寺・金刀比羅宮等の障壁画、および絶筆『保津川図屏風』などの大作を残した。
  • 応挙画の洗練された様式美と合理性は京都の町民層を中心に、公家や僧、商人など幅広い層に好まれ、圧倒的な支持を集め、京都の画壇を一新した。狩野派の画法を基礎に、三井家など新興の町人層の感覚にあった平明で情趣的な新様式を確立し、その後の京都画壇に大きな影響をあたえた。
  • その絵は京の門人も多く、門下に多数の画家が集まり、円山派が形成され、円山派の祖とされる。
  • 滝を原寸大で描いた『大瀑布図』1772年(3628×1445)は寸法も画法も本物らしさを追求。夏の暑さをしのぐための騙し絵か。
  • 応挙の幽霊:日本で馴染み深い足のない幽霊は、円山応挙がはじめて描いたとされている。障子越しに病弱であった妻の影姿を見て、足のない幽霊を思い立ったという。
  • 「かわいい子どもから怒濤のドラゴン、幽玄な山水、凄惨な流血図まで、応挙の世界は広い広い、日本の絵画を変えた静かなる革命児の冒険の軌跡をたどる」「写生の冒険・この画家に描けぬものなし」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)芸術新潮2月号の新聞広告より。

(2004.01.24更新)




▲江戸中期の画家で円山派の始祖・円山応挙。

▲重要文化財「牡丹孔雀図」(部分)
明和8年(1771) 萬野美術館蔵


▲「幽霊図(お雪の幻)」(部分) 安永期 個人蔵(カリフォルニア大学バークレー美術館寄託)

62年2ヶ月と18日の生涯 ---2006年没後50年

宮城道雄
Michio Miyagi    【十七弦・八十弦などの楽器の考案者】

(1894.04.07〜1956.06.25)
列車から転落死---牡羊座

  • 『春の海』で知られる地歌・箏曲家、作曲家、随筆家。神戸生れ。
  • 8歳で失明し、2世および3世中島検校に師事。13歳、朝鮮(現,韓国)の仁川に移住。
  • 23歳で上京。以後?原しげるらとともに新しい箏曲の作曲を始め、尺八の吉田晴風らとともに「新日本音楽」の運動を興し、洋楽をとり入れた新傾向の邦楽を発表。
  • 主要作品は『水の変態』『春の海』『越天楽変奏曲』など。随筆家としても知られた。
  • 38歳、東京音楽学校教授。54歳、芸術院会員。列車から転落して不慮の事故死を遂げた。
  • 後継者の宮城喜代子〔1905-1991〕はその夫人の姪で、のちに養女。
  • 「近代邦楽の基礎を築いた箏曲家で、アジアの伝統音楽や欧米のクラシック(バッハの「シャコンヌ」など)の要素を邦楽に取り込み、邦楽の新しい在り方を提示した」(1)。
  • 「初めて『春の海』を弾いたとき、繊細で緻密な音作りとダイナミックな曲想が、むしろ西欧的と感じた」(2)。
  • ボクと十七弦・八十弦などの楽器の考案した宮城道雄とは、小さな縁で結ばれている。それは此処では書けないがボクの胸にしまっておこう。
(2006.06.06更新)




▲『春の海』で知られる地歌・箏曲家、作曲家、随筆家・宮城道雄。

 


62年3ヶ月と19日の生涯

荻野 吟子
Ginko Ogino   【近代日本初の公許女医】

(1851.04.04〜1913.06.23=嘉永4年3月3日〜大正2年)
肋膜炎にかかり、ついで脳動脈硬化により逝去---牡羊座 

  • 1851年(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬、2005年9月30日までは大里郡妻沼町大字俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生を享ける。本名:荻野ぎん。
  • 1867年(慶応3年) - 望まれて武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男稲村貫一郎(のちの足利銀行初代頭取)と結婚。
  • 1870年(明治3年) - 夫からうつされた淋病がもとで離婚。上京し順天堂医院に入院し婦人科治療をうけるが、そのとき治療にあたった医師がすべて男性で、男性医師に下半身を晒して診察される屈辱的な体験から、女医となって同じ羞恥に苦しむ女性たちを救いたいという決意により、女医を志す。
  • 1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。頼圀より後妻に望まれる。
  • 1874年(明治7年) - 甲府の内藤満寿子の私塾の教師となる。
  • 1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
  • 1879年(明治12年) - 首席で卒業。同学校の永井久一郎教授紹介により軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)に女医の必要性を解き、石黒を介して、典薬寮出身で侍医の高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。男子学生に混じり様々ないじめや苦労の艱難辛苦を舐めつつ 3 年間で優秀な成績で修了する。しかし、女性であることより、東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
  • 1884年(明治17年)9月 - 前期試験を他の女性 3 人と受験、吟子 1 人のみ合格。
  • 1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。同年 5 月、湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初の公許女医となる。女医を志して 15 年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。吟子のことは新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。診療所は、繁盛し場所が手狭なため、翌年下谷に移転する。
  • 1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。
  • 1888年(明治21年) - 大日本婦人衛生会幹事。
  • 1890年(明治23年)11月25日 - 39 歳の時 13 歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚する。
  • キリスト教や理想社会を求める互いの熱意に共感し合って幸せな新婚生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。
  • 1891年(明治24年) 5 月 - 之善は利別原野開拓のために単身で渡道する。
  • 1892年(明治25年) - 翌年いったん戻ったが再び渡道。吟子も診療所をたたみ、数年おくれて之善のいるイマヌエル(今金町)へ渡った。北海道の密林と原野を開拓して理想郷を創造するというこの仕事は、実際には困難を極めた。さまざまな経緯はあるが、結果的には之善の試みは挫折に終る。吟子は海辺の瀬棚に移転して合津町で診療所を開業する。国縫のマンガン鉱の開発にも失敗した之善は、京都の同志社へ再入学、卒業して牧師として北海道浦河教会に赴任した。
    1905年(明治38年) - 之善は無理がたたって敗残の思いの中、病死。吟子はその後も 3 年間瀬棚で過ごす。
  • 1908年(明治41年) - 帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
  • 1913年(大正2年) - 肋膜炎にかかり、ついで脳動脈硬化により逝去した。62歳。
  • 女医になる前の3年間の通学は、はかま姿でたかげたをはいていた。その頃は女医は認められていないため、ヘアスタイルはショートカットで、  男性と同じ髪型であった。
  • 吟子は『女学雑誌』 354 号にこのように書いている。 「…願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 …親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」 この文面より吟子の万策尽きた様子が伺われるが、開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。 開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した実業家の高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して内務省衛生局局長、長与専斎を紹介。吟子は好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という本に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調し請願をした。併せて高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に持たせた。吟子に依頼を受けた石黒忠悳も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と喰いさがったそうである。こうして吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになり、明治17年に「女医公許」が決定しようやく受験が認められる。
  • 開業当初は第1号女医と新聞や雑誌にもてはやされ、一時は患者にあふれたものの、当時は中産階級以下の者は医者にかかることなく祈祷師や民間療法に頼る時代で、また保険医療もなく、たとえ患者として受診した者に対しても、高額になる医療費を全ての者に全部支払ってもらうことなど出来ない時代であった。その上、女性医師は信頼できないという者が多く、医業では成功しなかったとされる。しかし、女性に対して医術開業試験への門戸を開いたという意味で、荻野は重要な人物である。
  • 「荻野吟子ってどんな人物?:明治時代に生きた人です。生まれは江戸時代末期の1851年(ペリー来航 の時期)で五女として誕生。出身地は北海道ではなく埼玉県でした。子供 時代は庄屋という家柄ゆえ、恵まれた環境で学問に励みました。十代で結婚するも、約2年で離婚。発端となったのは夫に性病をうつさ れたことでした。大学病院に入院し治療にあたりますが、ここで、後に 偉大な女医が誕生するきっかけが生じます。担当医が男性であり、恥ず かしい思いをしたのですが、このつらい経験から「女医が必要である」 と考え、自ら女医を志すことにしたのです」(1)。
  • 「旧瀬棚町の診療所では、診察券に彼女の肖像が描かれて居るそうですし、開業の地に建つ銅像の裏には、彼女が座右の銘にしたと思われ、遺品の手帳にも綴られて居たと言う、聖書から採られた言葉が刻まれて居るそうです。〈人その友の為に己れの命すつるハ是より大なる愛ハなし〉こちら」(2)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    荻野吟子-Wikipedia
    (1)「荻野吟子は日本初の女性医師---
    (2)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 2/23 07:23:22(月) [4333]

(2009.02.24更新)



▲女性運動家としても知られ、近代日本における最初の女性の医師である荻野 吟子。


62年3ヶ月と3日の生涯

松岡利勝
Toshikatsu Matsuoka    【西の松岡、東のムネオ】

(1945.02.25〜2007.05.28=昭和20年〜平成19年)
自殺---魚座

  • 熊本県阿蘇町(現阿蘇市)出身。農家に生まれる。熊本県立済々黌高等学校、鳥取大学農学部林学科を卒業し、1969年に農林水産省に入省。大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁山村豪雪地帯振興課課長補佐などをつとめる。
  • 1988年、林野庁広報官を最後に退官し、1990年の第39回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で立候補。最下位ながらも北口博、松野頼三らを下し初当選。以降連続6回当選。三塚派、亀井グループを経て、1998年に江藤・亀井派結成に参加。
  • 近年は衆議院予算委員会理事、衆議院郵政民営化に関する特別委員会理事を務め、小泉首相を積極支持する姿勢を見せて、郵政国会を機に長年仕えてきた亀井静香ら旧亀井グループと事実上訣別した。
  • 平成18年(2006年)9月26日、安倍内閣にて農林水産大臣に就任。2007年5月28日、議員会館で自殺を図り、意識不明の重体と報道された。そののち死亡。
  • 典型的な建設族・農林族として知られる。
  • 2006年、日本国外の日本食レストランに対する認証制度の導入を発案した。
  • 2006年11月には、「海外日本食レストランへの信頼度を高め、農林水産物の輸出促進を図るとともに、日本の正しい食文化の普及や我が国食品産業の海外進出を後押しすること等を目的」に、農林水産省「海外における日本食レストランの認証制度を創設するための有識者会議」を立ち上げた。農林水産大臣就任後、外遊時に現地の日本食レストランで出された料理が日本食とは名ばかりの料理だったため、衝撃を受けた松岡が認証制度を発案し、松岡の肝いりで上記会議が設置された。
  • 松岡自身は、日本食の認証制度を通じ、日本食用の食材として国内農産物の輸出増加を狙う戦略を描いているとされる。他方、海外のメディアを中心に日本食認証制度を「スシポリス」と揶揄する報道や、日本食への認証は政府の専管事項なのか、国外独自の日本食を否定することに繋がらないか、といった報道もなされ、議論百出の様相を呈している。以前TV番組に出演した際は、高速道路建設の必要性を強調し、道路公団民営化には反対していた。
  • 信条:真実一路
    人柄:「西の松岡、東のムネオ」と言われている。
    流行語にもなった「ナントカ還元水」とか、あるいは自らのオフィシャルサイトにて信条を「真実一路」などと述べていることに見られるように、ある意味大変にユーモアのセンスにとんだ一面がある。
  • 最近のネットあだ名は「還元水商法の松岡」と書かれている。
  • 安倍晋三首相は松岡利勝農相が搬入された病院を訪れた後会見し、「大変残念、慙愧(ざんき)に耐えない。心よりご冥福をお祈りする」と述べた。
  • 「鎌倉時代の軍記物語「承久記」に、「官打(かんうち)」という言葉が出てくる。右大臣に昇進した源実朝に触れたくだりで、「官位が高くなり、不幸な目にあうこと」をいう。松岡利勝農相(62)が議員宿舎で自殺したという知らせに、その言葉が頭をよぎった。昨年9月の初入閣以来、政治資金をめぐる疑惑の渦中で釈明に明け暮れ、「官打」を身をもって味わった人である。みずからの資金管理団体に計上していた高額の「光熱水費」「事務所費」で批判の矢面に立ち、最近は捜査の進む緑資源機構の談合事件に関連した疑惑も取りざたされていた。自殺の動機が明らかでない今、「ナントカ還元水」で国民を煙に巻くなどいささか誠実味に欠けたこれまでの弁明と、死を選ぶほどに思いつめた苦悩とが、どうにも脳裏で一つに結びついてくれない・政治生命と生命のあいだには無限の距離がある。たとえいかなる疑惑を苦にしていたにせよ、「官打」に耐えきれないのなら、閣僚や議員の職を辞し、政治生命の範囲内で身を処する道もあっただろうに。命を絶つ以上に重く厳粛な自責の行為がないことは知っている。だが、それは人の世の禁じ手でもあろう。身の潔白であれ、贖罪であれ、生き抜く中で示してほしかった。「残念でなりません」という言葉を添えて、亡き人の霊前に目をつむる」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄。
    松岡利勝-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.05.29朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.06.03掲載)




▲安倍内閣で農林水産大臣を務めた自由民主党所属の衆議院議員・松岡利勝。


◆自殺を図り、慶応大学病院に運び込まれる松岡農相(中央、救急隊員の下)=28日午後1時15分、東京都新宿区で(高橋謙太撮影)

62年3ヶ月と7日の生涯

キスリング
Morse Kisling      【モンパルナスの帝王】

(1891.01.22〜1953.04.29)
死因?---水瓶座

  • フランスの エコール・ド・パリの画家。ユダヤ系ポーランド人。 19歳でパリに出て、モンマルトルの「バトー・ラボアール(洗濯船)」に住む。
  • セザンヌ、ドランらの影響を受けた、孤独とメランコリーと官能性の入り混じった甘美な作風で知られる。代表作『モンパルナスのキキ』(34歳)。
  • 「両大戦の谷間の時代、人々は前の戦争の後遺症と新たな戦いへの漠とした予感に挟み打ちにされていた。その狂騒の時代だからこそ、不遇な生い立ちを背負ったアリスを、永遠に輝き続ける当代随一のヴィーナスとしてそのキャンバスに定着しうることができたのか」(1)。
  • 「キスリングは、みんなから一目置かれる存在でした。社交的で寛大なリーダー。飾り気のない性格は多くの人を受け入れ、誰からも愛された。エコール・ド・パリ。熱い情熱が渦巻いた時代、そこで出会った画家とモデルが生んだ一枚。一流のモデル、モンパルナスのキキ。売れっ子の画家、キスリング。二人の人生が交わった時、キャンバスの上に一つの伝説が生まれたのです。20世紀初頭のパリは、新しい芸術の波が押し寄せていました。かつて印象派の画家達が住んだモンマルトルは実験と革命の場になっていました。1910年、ポーランドからやって来た19歳のキスリングもモンマルトルで絵を描き始めます。当時、洗濯船と呼ばれるアトリエではピカソを中心とするキュビスムの画家たちが腕を競っていました。キスリングもこのアトリエで絵画を模索しました。しかし若きキスリングは、キュビスムの運動に参加することはありませんでした。画家は誰にも影響されず、独自の絵画を探していました。そしてキスリングの目指したものはモンパルナスにありました。特定の流派に属さない一匹狼の群れ。殆どが祖国を離れた芸術家たち・・・それがエコール・ド・パリです。イタリア人のモディリアーニ。日本人のフジタ。ロシア人のパスキン。同郷のスーチイン。そしてキスリング。キスリングはエコール・ド・パリの画家の中でもいち早く認められた画家でした。優れたデッサン力、そして輝くような色彩が多くの人に受け入れられたからです。「エナメルのような」と評された色彩は、今もその輝きを失っていません。艶やかな唇。光輝く肌。キスリングの色彩で描かれたモンパルナスの女王。この絵に込めた画家の想い・・・。画家は昼間はカフェに座り通りに目を向けていました。行き交う人々にじっと目をこらしながらモデルを探していたのです。モンパルナスの町で出会った子供です。貧しさの中で肩寄せ合って生きる子供達の姿。キスリングはこう語っています。『私はいかなる巨匠からも影響を受けない。貧しい不幸な子供達は私を悲しませる。私はそういう子供を。私に啓示を与える人物のように描くのだ」独自の道を歩んだ画家。キスリングの絵のモデル。それは画家自身の生活に密着した人々でした。同じ時、同じ町に生きる人々。キスリングは、彼らを愛し、見つめました。祖国を離れた画家にとってモンパルナスは故郷以上の場所でした。しかし・・・無情でもありました。親友モディリアーニの死。生涯、名声も富も得ることのなかった画家でした。モンパルナスの裏通りにジョセフ・バラ街という一角があります。この地にアトリエを借りていたキスリングは、住む場所もないモディリアーニに自分のアトリエを貸し与えています。その頃モディリアーニが描いたキスリングの肖像。モディリアーニ独特の構図の中、キスリングはまっすぐ前を向いています。果たせなかった夢をキスリングに託すかのような眼差しで・・・。キスリングは、運命の一枚を描くためモデルを探し続けました。来る日も来る日も。キスリングはその日もモンパルナスのカフェを訪れました。そして、運命の出会い。二人の視線が互いに絡み合った瞬間・・・キキとキスリング、女王と帝王の出会いでした。そして1921年、画家はキキをモデルとして雇います。しかし汚い言葉は相変わらずでした。それに対しキキは笑いながら応戦。アトリエにはいつも二人の声と笑いが溢れていました。モンパルナスの帝王が女王を描く。興味津々の仲間たちもアトリエへ。しばしば絵の制作は中断されました。そして飲めや歌えの大騒ぎ。モンパルナスの帝王キスリングは、人々の注目を浴びる中、独自の美を描いていきます」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「今月の巨匠紹介
    (2)「美の巨人たち

(2004.01.25更新)




▲フランスの エコール・ド・パリの画家・キスリング。


▲「モンパルナスのキキ」 キスリング  1925年 油彩・キャンパス

62年3ヶ月と8日の生涯

マルティン・ルター/ルーテル
Martin Luther   【宗教改革の先駆者】

(1483.11.10〜1546.02.18)
死因?---蠍座

  • ルターは1483年に鉱山業に従事していた父ハンス・ルダーと母マルガレータの次男としてドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。
  • 洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったため、彼にちなんでマルティンと名づけられた。もともと農夫から身を起こした父は上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた。
  • 教育において時に厳格をきわめた父の姿は、後のルターが冷酷で厳格な神というイメージを持つ上に当たって強い影響を及ぼすことになる。父の願いに沿う形でルターは勉学に取り組んだ。初めはマンスフェルトで、次いでマグデブルクに学び、法律家になるべく1501年にエルフルト大学に入った。
  • エルフルト大学で法学を学んだのちアウグスティヌス会士となる。24歳司祭、29歳ウィッテンベルク大学神学教授。
  • 苦闘の末、己が意志をこえたキリストの愛の現存に目を開かれ、善行によらず「信仰のみ」で救われるとの確信に到達、34歳贖宥状(免罪符)を批判。これが宗教改革の口火となる。
  • 38歳、ウォルムス国会で追放刑を宣告され,選帝侯フリードリヒの庇護のもとワルトブルク城にのがれて新約聖書のドイツ語訳(39歳)に従事した。
  • ローマ教会との論争の間に、万人祭司主義、聖書主義(聖書を至上とする)、信仰のみによって義とされるなどの基本思想を整え、新たな教会組織「ルター派教会」の形成に努力した。
  • ドイツ農民戦争には急進派のミュンツァーらとは対立、また聖餐論ではツウィングリとの一致をみなかった。
  • 著作には『キリスト者の自由』(37歳)、『奴隷的意志について』(42歳)、『ルター大小教理問答』(46歳)などのほか多くの聖書講解がある。
  • 「たまさん マルティン・ルターの最後の言葉をお供えします。博士ヨーナスが〈神父よ、イエス・キリストにすがり、つねづね教えてこられた教義を口にしながら死んで行きたいか〉とたずねられた時、〈しかり〉と。---クロード・アヴリーヌ著「人間最後の言葉」より」(1)。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  (1)投稿者:ユリウスさん..2007/ 9/23 18:30:13(日) [2384]

(2007.09.24更新)




▲ドイツの宗教改革者、宗教改革の先駆者マルティン・ルター。



62年3ヶ月と21日の生涯

吉田 鉄郎
Tetsurou Yoshida      【モダニズムの傑作】

(1894.05.18〜1956.09.08=明治27〜昭和31)
脳腫瘍--牡牛座

  • 富山県出身。旧姓は五島。旧制四高を経て、1919年東京帝国大学建築学科を卒業。逓信省営繕課に入った。逓信建築設計にたずさわり、日本近代建築に大きな足跡を残した。
  • 逓信省には同時期に山田守らの俊英が在籍していた。初期はドイツ表現主義やエストベリなど北欧建築の影響を受け、後にモダニズム建築の傑作を生み出した。ブルーノ・タウトが来日した際は桂離宮など各地を案内した。タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を、モダニズムの傑作と讃えた。
  • 第二次世界大戦中は故郷に戻り、終戦後、日本大学で教壇に立った。病気のため、辞任。脳腫瘍に侵され寝たきり状態の中、『Der japanische Garten』『スウェーデンの建築家』などを口述で著した。
  • 著作にドイツ語で日本建築を海外に紹介した「日本建築」「日本の住宅」「日本の庭園」の独文三部作がある。 '53日本建築学会賞。享年62歳。
  • ドアノブに触れないほど神経質であり、常に消毒液を持ち歩いていたという。
  • 墓所の設計者は、吉田と同じく逓信省で活動し、郵政省大臣官房建築部長、丸ノ内建築事務所初代所長などを務めた建築家の小坂秀雄(1912〜2000)がデザインしたものである。
  • 代表作
    京都中央電話局上京分局(1924年) 現・カーニバル・タイムズ
    京都中央電話局(1926年) 現・新風館
    東京中央郵便局(1931年)
    大阪中央郵便局(1939年)
  • 東京中央郵便局と大阪中央郵便局の保存問題をめぐる動きがあわただしくなっているらしい。両建物ともオフィスビルの先駆け的存在で、近代主義建築をリードした吉田鉄郎の代表作だが〈機能主義ならば機能が終われば、その存在も終わるべきだ〉というつれない指摘さえあるという。
  • 21世紀のキーワードは「保存」ではなく「レガシー」である。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  「吉田鉄郎-Wikipedia

(2009.03.01掲載)



▲逓信省で多くのモダニズム建築を設計した昭和期の建築家・吉田鉄郎。


◆京都中央電話局(現 新風館、1926年竣工)


◆大阪中央郵便局(写真右、1939年竣工)


62年3ヶ月と21日の生涯

いずみたく
Taku Izumi   【「見上げてごらん夜の星を」の作曲者】

(1930.01.20〜1992.05.11)
大腸がん/肝不全--山羊座

  • 作曲家。本名今泉隆雄。東京に生まれる。昭和21年、鎌倉アカデミア演劇科入学。昭和25年、舞台芸術学院演劇科卒業。
  • 昭和27年、うたごえ運動に参加。若い頃、演劇を学び仲間と劇団を結成、戦後荒涼とした日本全国へ巡回活動をする。以後、音楽の世界に入り作曲家としてデビュー。
  • 昭和30年、朝日放送ホームソングコンクール・グランプリ受賞。CM音楽及び映画・ラジオ・テレビの劇音楽を多数作曲、かたわらミュージカル創作に意欲をもやす。CM音楽、現在までに2000曲以上作曲。受賞多数。昭和38年、レコード大賞各賞受賞。
  • 数多くの名曲を生み出し、日本レコード大賞をはじめ数々の賞を総ナメにする。又、日本の創作ミュージカルの先駆者として活躍。
  • 永六輔氏と組んで作り上げた「見上げてごらん夜の星を」はその初期の作品であり、主題曲は日本のみならず、世界においてもスタンダードとして歌いつがれている。
  • 代表曲として「見上げてごらん夜の星を」「夜明けのうた」「世界は二人のために」「いいじゃないの幸せならば」「にほんのうたシリーズ」「希望」「恋の季節」その他「夜明けのスキャット」「太陽がくれた季節」「帰らざる日のために」「ふれあい」「手のひらを太陽に」等ミリオンセラー多数。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2006.05.01更新)




▲「見上げてごらん夜の星を」をはじめ数多くの名曲を生み出し、日本レコード大賞をはじめ数々の賞を総ナメにした、いずみたく。

62年3ヶ月と30日の生涯

サンダー杉山
Tsuneharu Sugiyama 【必殺技:雷電ドロップ】

(1940.07.23〜 2002.11.22)
心不全---獅子座

  • サンダー杉山のリングネームでの活躍で知られるプロレスラー。新潟県糸魚川市出身。身長178cm、体重125kg(現役当時)。本名杉山恒治。現役引退後はタレント活動の他、実業家としても成功していた。
  • 東海高校から同志社大学に入学し柔道部に所属していたが、アマレスの普及に尽力していた日本アマチュアレスリング協会の八田一朗会長に見込まれ明治大学アマチュアレスリング部に移籍。
  • 明治大レスリング部時代にヘビー級の選手として全日本学生、全日本選手権を制覇して東京オリンピックに出場。
  • 1965年にアマレスのエリートとして日本プロレスに入団し斎藤昌典(現・マサ斉藤)、グレート草津と共に「三羽烏」と称された。
  • 1966年3月4日に本間和夫戦でプロレスデビューを果たしたが、新団体の国際プロレス旗揚げに参加する為、同年の夏にグレート草津と共に移籍した。
  • 国際プロレスで必殺技の雷電ドロップを武器に日本人として初めてビル・ロビンソンを破ってIWA世界ヘビー級王座を獲得するなど看板選手として活躍し、1972年には全日本プロレスに移籍。
  • 1973年に一度現役を退くが、1976年古巣の国際に復帰して、1978年から新日本プロレスにも参戦した。
  • 現役引退後は『おはよう!こどもショー』に出演するなどタレント活動の後、名古屋で「サンダー杉山コーポレーション」を創立し、飲食業や自動販売機設置などの経営者として実業界でも成功した。また全日本プロレスは名古屋興行の際に選手の宿舎として杉山経営のホテルを利用していた時期もあった。
  • しかし、現役時代から患っていた持病の糖尿病が悪化し、肝臓病や胃がんも併発。入退院を繰り返すようになり、両足切断にも追い込まれた。しかし病室からメールで業務指示を出し、ビジネスへの情熱は最後まで衰えることはなかった。2002年11月22日に入院中の病院で心不全により死去。享年62。
  • 丸っこい体格から繰り出す雷電ドロップの印象が強く、パワフルでユーモラスなファイトスタイルと捉えられることが多いが、アマレスで鍛えた素地は非常に高いレベルにあったといわれ、ビル・ロビンソンも好敵手の一人として杉山の名を挙げている
  • 得意技:雷電ドロップ(ヒップドロップ)!

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  「サンダー杉山-Wikipedia

(2007.01.19掲載)




▲丸っこい体格から繰り出す雷電ドロップの印象が強く、パワフルでユーモラスなファイトスタイルと捉えられることが多いが、アマレスで鍛えた素地は非常に高いレベルにあったといわれ、ビル・ロビンソンも好敵手の一人として杉山の名を挙げているサンダー杉山。



62年4ヶ月ジャストの生涯

岡本 一平
Ippei Okamoto     【漫画家、作詞家】

(1886.06.11〜 1948.10.11=明治19年〜昭和23)
脳内出血 双子座

  • 書家の岡本可亭の息子として北海道函館市元町に生まれる。
  • 東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。この時美術学校の同級生の仲介で大貫カノと知り合い、後に和田英作の媒酌で2人は結婚するが岡本家に受け入れられず2人だけで新居を構えた。
  • 1910年に美術学校を卒業し帝国劇場で舞台芸術の仕事に関わった後、夏目漱石から漫画の腕を買われて1912年に朝日新聞社に紹介されて入社し、漫画記者となる。
  • 朝日新聞を中心に新聞や雑誌で漫画に解説文を添えた漫画漫文という独自のスタイルを築き、大正から昭和戦前にかけて一時代を画し、美術学校時代の同級である読売新聞社の近藤浩一路とともに「一平・浩一路時代」と評された。
  • 1929年〜1932年にかけてヨーロッパを旅して漫画漫文集「世界漫遊」をものした。また「一平塾」という漫画家養成の私塾を主宰、近藤日出造杉浦幸雄清水崑を育てた。
  • 後年は小説にも進出。中でも「刀を抜いて」は映画化・舞台化が実現、岡本小説の中でもっとも知名度・評価が高い。
  • 映画は1929年から戦前3度、戦後も1963年マキノ雅弘監督・坂本九主演で東映が配給。
  • 舞台については宝塚歌劇団が舞台化したものが著名。
  • 私生活では前述・大貫(岡本かの子)と初婚、画家岡本太郎(長男)ら3人(次男・長女は夭折)の子をもうけたが、かの子が不倫を繰り返し、果ては不倫相手の医師を一平・太郎らと同居させる”奇妙な夫婦生活”を送るも、仏教研究・小説執筆などに進出したかの子をよくサポートし、画家志望を本格化させていた太郎を応援、1939年2月のかの子急病死まで変わらぬ夫婦生活をまっとうした。
  • かの子の死後2年経った1941年1月、一般人女性の山本八重子と再婚。太郎とは異母兄弟にあたる4人の子(いづみ(二女)・和光(三男)・おとは(三女)・みやこ(四女)を授かるが、戦中は言論・表現の統制、戦後は漫画・小説の流行の変化の波にのれず不遇だった。1948年、脳内出血で逝去。
  • 俳優の池部良は甥である。
  • 作詞家としても活動し、1940年(昭和15年)発売の「隣組」は戦時下にも関わらず、ユーモアのある歌詞で親しまれた。
  • 1929年に全国高等学校野球選手権大会の取材で阪神甲子園球場に来ていた岡本は、観客の着衣でスタンドが白く映え上がって見えたことを「ソノスタンドハマタ素敵ニ高ク見エル、アルプススタンドダ、上ノ方ニハ万年雪ガアリサウダ」とイラストつきで朝日新聞に掲載。このことから「アルプススタンド」の名前がついた。
  • 弟子:近藤日出造、杉浦幸雄、清水崑、宮尾しげを、矢崎茂四、小山内宏、旭正秀
  • 「大正から昭和にかけて、主に新聞や雑誌で漫画に解説文を添えた「漫画漫文」という独自のスタイルを築いて大活躍した漫画家です。当時は、総理大臣の名前は知らなくとも、岡本一平の名を知らぬ者はいないといわれたほどの人気でした。 また岡本家は、父親が書家・岡本竹次郎、妻が小説家・岡本かの子、長男が画家・岡本太郎という芸術一家としても知られています。しかし、一平が函館出身ということはあまり知られていません。汐見町(現・元町)で生まれ、3歳までを函館で過ごしました。父親の竹次郎は、先立つこと明治17年、函館にやってきてました。函館師範学校で書記などを勤めていたところ、良縁に恵まれ、長男一平が誕生したのです」(1)。
  • 「かの子の才能を認めて世に出し、太郎をパリに留学させ、川端康成が「聖家族」と呼んだ芸術一家の要として生きた」(2)。
  • 「1946年3月、一平は俳句でも川柳でもない「漫排」という新しい短詩形の文芸を提唱する。---俳句における季語などの約束事を廃し、川柳の風刺や嫌みを避けて生活を自由に表現する排を思いついたのだった。---「お粥腹減らさぬように笑わそう」が一平による漫排の第一句という」(3)。
  • 一平は入浴中に突然倒れ、そのまま息を引き取ったという。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  「岡本一平-Wikipedia
  (1)「岡本一平
  (2)(3)日経新聞2008.08.08朝刊「文化」(黒野こうき)より抜粋、リライト。

(2008.09.09掲載)



▲かの子の才能を認めて世に出し、太郎をパリに留学させ、川端康成が「聖家族」と呼んだ芸術一家の要として生きた岡本 一平。



62年4ヶ月と11日の生涯

香月泰男
Yasuo Kazuki     【シベリアの鎮魂歌】

(1911.10.25〜1974.03.08)
心筋梗塞---蠍座

  • 山口県大津郡三隅町(現・長門市)出身の画家。山口県に開業医の息子として生まれるも、幼い頃両親が離婚。厳格な祖父に育てられる。
  • 山口県立大津中学校(現・山口県立大津高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。
  • 1936年、美術学校卒業後、北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)の美術科教師として着任。その後、山口県立下関高等女学校(現・山口県立下関南高等学校)に転任する。
  • 1942年、太平洋戦争勃発により召集を受け、兵として満州へ。
  • 1945年、ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となる。
  • 1947年、シベリア抑留から引き揚げ、下関高等女学校へ復職。
  • 1948年、郷里の三隅へ戻り、山口県立深川高等女学校(後に大津中学校と統合、現大津高等学校)に転任。
  • 1960年、大津高等学校を依願退職。その後しばらくは創作活動に専念していたが、1966年に九州産業大学に新設された芸術学部油絵科の主任教授を委嘱される。
  • 1969年、「シベリア・シリーズ」で第1回日本芸術大賞を受賞。
  • 1974年、心筋梗塞にて死去。
  • 没後、遺族によりシベリア・シリーズ57点のうち45点を山口県へ寄贈、残り8点が山口県に寄託され、1979年開館の山口県立美術館に展示されている。
  • 香月は、創作活動のほとんどを「<私の>地球」と語った三隅町の自宅で行っていた。その香月の功績をたたえる目的で、1993年(平成5年)10月26日に、生家に近い三隅町湯免に三隅町立香月美術館として開館。2005年に三隅町の合併により香月泰男美術館に改名の上、長門市に運営が移管された。最晩年まで香月の手元にあった作品や、香月のアトリエ(復元)などが展示されている。
  • なお、香月泰男美術館ではシベリア・シリーズの一部について常設展示を県に希望しているが、専属の学芸員が館にいないことを理由とし山口県が難色を示しており、完成作の展示が出来ない(原画のみが展示されている)。
  • また画作の一方で、油絵の作品の他、晩年は海外での風景作品や身の回りの針金、空き缶などを再利用して製作した子どものためのおもちゃが複数あり、これらも同様に展示されている。
  • 定期的に「<私の>○○展」という企画展を開催しているほか、小中学生を対象とした絵画コンクール「香月泰男ジュニア大賞絵画展」を主催している。
  • 住所:山口県長門市三隅中湯免226番地
    アクセス:防長交通バス「湯免温泉」バス停より徒歩2分、JR山陰本線・長門三隅駅からタクシーで5分。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
   「香月泰男-Wikipedia

(2007.09.18更新)




▲1945年、ソ連に抑留され、シベリア、クラスノヤルスク地区のセーヤ収容所で強制労働に従事。これが原体験となり、その後の作品全体の主題・背景となった画家・香月泰男。



62年4ヶ月と14日の生涯

フーゴ・グロチウス
Hugo Grotius    【近代自然法の父/国際法の祖】

(1583.04.10〜1645.08.28)
病没---牡羊座

  • オランダの法学者で戯曲家、詩人。自然法哲学者として、「自然道徳」と国の「社会契約」理論の創始者とされる。
    フランシスコ・ダ・ヴィトーリア(en)、アルベリコ・ジェントリ(en)とともに、自然法に基づく国際法の基礎を作ったことから、「国際法の父」と称される。
    グローティウス自身は、哲学者、劇作家、詩人でもあった。
  • オランダのデルフト市に生まれる。父はデルフト市長・ライデン大学理事などを歴任した学者でもあった。8歳でラテン詩をつくり、11歳でライデン大学入学、14歳で卒業、15歳で法学博士となり、16歳で弁護士を開業している。いわゆる神童。
  • 1598年15歳でオランダ使節団の随員としてフランスの宮廷に赴き、その才能は“オランダの奇跡”としてアンリ4世を驚かせた。16歳で弁護土を開業、1607年以降政治・外交の実際に参画したが、アルミニウス派の神学論争に端を発する政治紛争にまきこまれる。
  • 1609 年の著書『海洋自由論』では、海洋は無害な利用については自由であるべきで、それが万人の利益となる、という発想を展開していた――この発想は、一部の重商主義者に大いに批判される。
  • 1621年妻と友人の協力で劇的な脱出に成功、パリに亡命、フランス王の保護をうける。ここで1625年有名な『戦争と平和の法』を完成、出版。論考『戦争と平和の法』は、初の国際法に関する論考とされる。1618年終身禁固の刑で投獄される。その後数年のオランダ・ドイツの流浪生活をへて、1634年パリ駐在のスウェーデン大使に任命され、1645年までその地位にあった。
  • この間、文学・神学など学問研究と教会統一に熱中したが、外交官としての実績はあがらず、1645年解任。ストックホルムに召還された。同年8月スウェーデンを去り、リューベックにむかう途中、客死。
  • 研究・著作は文学・神学・法学など多方面にわたるが、とくに『海上捕獲法論』(1604〜05)・『海洋自由論』(1605)。前記の『戦争と平和の法』など法学の分野で“近代自然法の父”“国際法の祖”として後世の高い評価を得る。
  • 「もっと有名な点として、グロチウスは「財産」というのは社会的合意の結果でしかなく、だからそこに「不可侵」なものなんか何もない、と論じた。この結論はプフェンドルフに反論された」(1)。
  • 「還暦を幾つか過ぎて死去したグロチウスに臨終の言葉が残っている。〈私は多くのことを企てたが、何ひとつやり遂げなかった〉と(筑摩書房「人間最後の言葉」)。早熟の天才にして、しかり。人の一生はむずかしい」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    グロチウス
    フーゴー・グローティウス-Wikipedia
    (1)「Hugo Grotius
    (2)読売新聞2005.04.01朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2005.04.07掲載)



▲自然法哲学者として、「自然道徳」と国の「社会契約」理論の創始者とされるフーゴ・グロチウス。

62年4ヶ月と16日の生涯

ムハンマド/マホメット
Muhammad / Mahomet / Mohammed 【イスラムの開祖】

(570.01.23〜632.06.08)
死因?---水瓶座

  • 預言者、イスラムの開祖。日本ではマホメットとも。アブラハム、モーセ、イエスに続く最後の預言者とされる。
  • カーバ神殿のあるアラビア半島の町メッカのクライシュ族の名門ハーシム家に生まれるが、誕生前に父を、幼時に母を失う。
  • 25歳ころ、富裕な未亡人ハディージャと結婚。40歳ころ、初めて神アッラーの啓示を聞き、これを説いて信徒集団を形成し始める。しかしカーバの偶像崇拝を否定し大商人を批判したため迫害され、52歳、70余名の信徒とその家族とともにメディナに移住(ヒジュラ)し、イスラムの教団国家を建設。
  • 初めその地のユダヤ教の儀礼を取り入れるが、のちユダヤ教徒と対立、独立のイスラム儀礼を確立していく。一方、対立を続けていたメッカと再三戦い、60歳でメッカを征服。周辺諸部族やキリスト教徒、ユダヤ教徒に勢力を広げてアラビア半島全土に影響力を及ぼす。
  • 632年メッカに巡礼し、メディナに戻って死去。ハディージャとの末娘はファーティマ。
  • ムハンマドに下された神の啓示の集成がコーランであり、彼の言行「スンナ」およびその伝承「ハディース」も重視される。
  • 「早くから孤児となり、まず祖父、ついで祖母に育てられ、商人になって、のちに出資者のハディージャと結婚する。こうした商人的環境に育ったので、彼の受けた天啓を記述した教典『クルアーン』(コーラン)には商業用語を使った比喩が目立つ」(1)。
  • 「デンマークの新聞が掲載した「ムハンマド風刺画」問題をめぐって新聞やテレビが一斉に「マホメット」ではなく「ムハンマド」と記すようになった---」(2)。
  • 「たまさん マホメットの最後の言葉をお供えします。
    〈神よ、死と戦うときにはわたくしと共にいてくださいますように〉〈おおアラーの神よ! 天国の輝かしい住人たちのあいだで−そのようでありますように!」(3)。
  • メディナ時代には10人を超える妻がいたという。羨ましいというべきか、ごくろうさまというべきか。

  ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
  (1)湯浅赳男著『世界の哲学・思想のすべて』より抜粋。
  (2)読売新聞2006.03.15夕刊 池内恵「水曜時計」より抜粋・リライト。

(2007.09.18更新)




▲アブラハム、モーセ、イエスに続く最後の預言者とされるマホメット。

62年4ヶ月と19日の生涯

ジョセフ・ジャクソン
Joseph Jefferson Jackson   【シューレス・ジョー】

(1889.07.16〜1951.12.05)
心臓発作---蟹座

  • 1886年サウスカロライナ生まれ。マイナーリーグ時代に、スパイクが合わず足によくまめが出来たため、素足でプレーしたという逸話から、“シューレス・ジョー”の異名がある。
  • 1920年に現役引退。引退後はジョージアやサウスカロライナのセミプロリーグでプレイした。後に飲み屋(liquor store)を経営。
  • 1951年に心臓発作で死去。
  • 所属球団:フィラデルフィア・アスレチックス(1908-1909)、クリーブランド・ナップス(インディアンズ)(1910-1915)、シカゴ・ホワイトソックス(1915-1920)
  • ブラックソックス事件:1919年の八百長事件で球界を追放された「悲運の8人」の一人である。復権の嘆願は多いが、2007年現在も彼はピート・ローズとともにアメリカ野球殿堂の審査対象となっていない。彼が本当に八百長に関わっていたかどうかについての議論は尽きない。問題のシリーズで、彼は打率3割7分5厘、無失策、チーム唯一の本塁打を打っているが、第1戦でバックホームを大暴投したり「本気の彼なら5割を打っていた」という主張もあったりする。
  • 埋もれていた記録〜ルーキー最多安打:現在のルーキー資格に照らした場合、ジョー・ジャクソンが1911年に放った233安打が、それまでの「ルーキー最多安打」であったことが発見されたのは、2001年のことである。この年、イチローが1年目から200本を超える安打を記録した時からルーキー最多安打記録が話題となり、ルーキー表彰制度が始まった1947年以前の記録が改めて調べなおされた結果判明した。(2006年現在のメジャーリーグ記録は242安打である)
  • 他のエピソード:高打率の打者であるが、一度も首位打者を獲った事がない。同時期にライバルであり親友であったタイ・カッブがいたためである。
  • 守備能力が高く、彼の守備範囲は「三塁打が死ぬところ」といわれた。
  • ジャクソンやタイ・カッブ等を含めた1914年度のベースボールカードセットが、オークションで80万ドル(約8200万円)で、また直筆サイン入りバットが13万7500ドル(約1450万円)で落札されたことがある。
  • 〈うそだと言ってよ ジョー〉---少年ファンがそう叫んだと伝えられている。昔、昔の米大リーグ、プロ野球史上最も大がかりな八百長事件での話だ。ジョーはシカゴ・ホワイトソックス強打の外野手、シューレス・ジョー・ジャクソンのこと。1919年のワールドシリーズでシカゴはシンシナティ・レッズに敗れた。予想は圧倒的にシカゴ優位だったが、この結末。ジョーらホワイトソックスの8選手が八百長で球界から永久追放された。ホワイトソックスならぬ〈ブラックソックス・スキャンダル〉の汚名を残した」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョー・ジャクソン (野球選手)-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.03.12夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2007.09.29掲載)




▲1910年代のアメリカメジャーリーグの外野手ジョセフ・ジェファーソン・ジャクソン。


◆タイ・カッブ(左)とジョー・ジャクソン。

     
62年5ヶ月と5日の生涯

和田 夏十
Natto Wada      【市川崑の天才パートナー】

(1920.09.13〜 1983.02.18)
死因?--乙女座

  • 兵庫県姫路市出身。本名:茂木由美子(もぎ ゆみこ)。
  • 茂木由美子は、戦後間もなく東宝撮影所で製作助手をしていた頃、脚本の校正をしたのがきっかけで市川崑と知り合った。市川は文才とアイディアに満ちあふれる茂木を愛し、二人は1948年に結婚。茂木は以後40年近くにわたって市川の生活を支えるかたわら、脚本家・和田夏十としてその生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。
  • そもそも「和田夏十」という名は、東宝撮影所時代に市川と茂木が共同執筆するために考案したペンネームだった。「和田」は茂木がNHKの和田信賢アナウンサーのファン、「ナット」は市川がイギリスの二枚目俳優ロバート・ドーナットのファンだったことからそれぞれ選ばれたという。その後1951年の『恋人』で市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」とこれを茂木に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。
  • その後市川がどうしても和田と共同執筆をしたい場合には、「久里子亭」(くりすてい)というペンネームを用いた。これは市川がアガサ・クリスティを崇拝していたからで、和田の文才を敬うことに変わりはない、という市川の謙虚さがそこには言い含められている。
  • 和田夏十の名は、映画&テレビを問わず、全ての市川作品にクレジットされている。乳癌発症後は闘病で脚本執筆が思うようにできない時期もあったが、それでも市川にさまざまなアドバイスをして和田風の脚本を書かせており、クレジットの有無にかかわらず和田夏十は市川映画と不可分の存在だった。
    市川は自己の監督作品が称賛されると、「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。実際二人の関係には「夫婦」や「同僚」のそれを越えた、「同士」のようなものがあった。
  • 18年間の闘病の末、1983年死去。享年64(62歳没)。
  • 和田の脚本に共通する特徴は、個性的なキャラクターが織りなす分りやすい人間模様と、テンポのいい絶妙なセリフで繰り広げられるホンネの会話に見い出すことができる。「誰にでも優しいってことは、誰にも優しくないってことよ」(『黒い十人の女』1961年)をはじめ、今日のトレンディードラマでよく耳にするセリフの中には、元々は和田の手によって書かれたものが少なくない。
  • 三島由紀夫の『金閣寺』を映画化するにあたっては、主人公の内面に迫ってあまりにも完成度が高い原作を脚色するのは無理と判断、三島から創作ノートを借りてこれをもとにオリジナル脚本『炎上』(1958年) 書き上げた。その一方で、脚本のないドラマであるオリンピックのためには緻密な脚本を書き、これをもとに “記録映画”『東京オリンピック』(1965年)を撮ったが、その手法は「芸術か記録か」という論争を引き起こすまでになった。
  • 和田が長年首を縦に振らなかった文学作品のひとつに谷崎潤一郎の『細雪』がある。大阪の旧家・蒔岡家の四姉妹を中心に昭和初期の関西富裕階級を描いた上中下巻929ページからなる大作だが、五年間の歳月が流れる間に数々の事件が起るものの、それらを繋ぐ筋書きらしいものがほとんどないという、脚本家泣かせの作品だからである。市川は20年以上にわたってこの『細雪』の映画化を望んでいたが、和田は「やりたい気持ちはわかるけど、膨大な長編を撮るのは無謀。だいいちこれまで二度も映画化されたけど、どれも成功しなかったわよ」と反対していた。しかし闘病生活が続いて死期を悟ったのか、ある日和田は市川に「五年間の出来事を一年の四季の移り変わりの中に凝縮する形で脚本を書いたらいいわ」とアドバイス。それをもとに市川の脚本・監督できあがった『細雪』(1983年)は、市川の代表的な作品のひとつとなった。和田はその完成を見ることなくこの世を去っている。
  • 和田の死後、市川の願いもあって、『和田夏十の本』が刊行された。 和田が残した数多くの脚本の中から代表作の『黒い十人の女』と『炎上』を収録し、これに未発表のエッセイ、創作、詩、評論などを加えた作品集で、友人だった詩人の谷川俊太郎が作品の選択と序文の執筆を行っている。
  • 主な作品:木枯し紋次郎(フジテレビ:市川崑劇場) 主題歌の『誰かが風の中で』も和田の作詩である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    和田夏十-Wikipedia

    (2008.02.27更新)




▲映画監督・市川崑の妻にして、映画&テレビを問わず、全ての市川作品にクレジットされている脚本家・和田 夏十。



62年5ヶ月と16日の生涯

ハドリアヌス
Pablius Aelius Traianus Hadrianus
              【ローマ帝国五賢帝の三人目】

(76.01.24〜138.07.10)
死因?---?座

  • 五賢帝の三人目(在位117〜138)。ローマ帝国最盛期の皇帝で五賢帝の一人。スペインの出身でトラヤヌス帝の甥。
  • ダキア戦争(101〜106)にローマ軍の指揮官として従軍するなど文武の要職を歴任。
  • 117年トラヤヌス帝の養子となり帝位を継承。トラヤヌス帝の対外拡張政策を改め防御政策に転じ、パルティアと和を結びアルメニアを保護国とする。
  • 治世の大半を各地の属州の巡察に費やし、ゲルマニア・ダキア・マウレタニアのリメス(防壁)を強化、ブリタニアに“ハドリアヌスの城壁”を建設し国境防備を固めた。また属州統治組織・行政組織・軍制などを再編し、ローマ法の発展にもつくし『永久告示録』を完成。
  • 晩年、イエルサレムにユピテル神殿を建設しユダヤ人の割礼を禁止するなどしてユダヤ戦争(132〜135)が起こる。
  • アントニヌス=ピウスを養子とし後継者にする。138年没し自ら建設したハドリアヌス帝廟に埋葬される。
  • 「先帝トラヤヌスが領土を広げすぎたせいか、 防衛のため忙しく各地を巡った。詩人フロルス曰く、「皇帝なんぞになりたかない、ブリトン人の間をうろついて。 ......の間に潜んで。 スキュティア人たちの地の冬を辛抱せねばならぬから。」ハドリアヌスも負けてはいない。「フロルスのようになりたくない。 安料理屋の間をうろついて。 居酒屋に潜んで。まるまる太った蚊の餌食になることを辛抱しなければならぬから。」 見事な反撃である。彼はギリシャ好きで、アテネ復興の恩人となり、初の髭をはやした皇帝となる。また、同性愛でも有名で、特にアンティノスという美少年との関係は良く知られている。元老院との関係はあまり良好ではなく、死後あやうく断罪されるところであった。イギリスには今でもハドリアヌスの 長城が残っている。 ローマ市内に残る「パンテオン」は彼が作った神殿である。 ローマ近郊チボリの「ヴィラ・アドリアーナ」は、彼が作らせた庭園で 非常に美しいのでお勧めの観光スポットである。また、「サンタンジェロ城」は彼の廟所である」(1)。
  • 「ハドリアヌスは非常に美的感覚の優れた人物で、彼が建てたパンテオンや別荘、庭園などがそれを証明しています。ハドリアヌスは文学と詩作にも打ち込みましたが、こちらの才能は無かった、と『皇帝列伝』(ヒストリア・アウグスタ)は書き残しています」(2)。
  • ボクはローマのパンテオンの裏にある聖職者御用達専門店でハイネックシャツを買った。色といい、素材といい、デザインといいすばらしい。---それがどうした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ハドリアヌス
    (1)「ハドリアヌス@古代ローマ
    (2)「ハドリアヌス

(2005.04.21更新)




▲治世の大半を各地の属州の巡察に費やし、同性愛でも有名で、パンテオンを建造したことでも知られるローマ帝国最盛期の皇帝で五賢帝の一人・ハドリアヌス。



62年5ヶ月と21日の生涯

大原孫三郎
Magosaburo Oohara     【大原美術館創始者】

(1880.07.28〜1943.01.18=明治13年〜 昭和18年)
死因?---獅子座

  • 岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を営む大原孝四郎の3男として生まれる。大原家は文久年間村の庄屋をつとめ明治の中頃には所有田畑約800町歩の大地主となった豪家。
  • 2人の兄が相次いで夭折したため、孫三郎が大原家の嗣子となった。明治30年(1897年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。若年は富豪の跡継ぎとして放蕩生活を送り、専門学校時代も殆ど講義には顔を出さなかった。放蕩の果てに現在の金額で1億円もの借金を抱え、明治34年(1901年)父親より東京専門学校を中退のうえ倉敷に連れ戻され、謹慎処分を受けた。
  • 謹慎中に石井十次を知り、その活動に感銘を受けた。孫三郎は社会福祉事業にも興味を示すようになり、後に工員の環境改善や農業改善に取り組んでいる。明治34年、十次の紹介で石井スエ(のち、寿恵子)と結婚。倉敷紡績に入社。工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。
  • 明治35年(1902年)には工場内に尋常小学校を設立した。また、倉敷商業補修学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援した。学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設。
  • 後に大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎もこの奨学生となっている。
  • 明治39年(1906年)、父が社員寮内で社員数名を感染病を出し死亡させた責任を取る形で辞任し、倉敷紡績の社長となる。就任と同時に工員の労働環境改善を図った。従来の飯場制度を廃止し、従業員の確保・食事の手当・日用品の販売等を会社が運営するよう改めた。工員の住居も集団寄宿舎から今日のような社宅に近い状態に改め、駐在医師や託児所までの設備も備えており、更には社員勧誘用の映画までも作った。
  • また、幹部社員に大学・専門学校の卒業生を採用した。また、会社の利益のほとんどを日露戦争などで増えた孤児を救うために孤児院を支援。支援金額は現在の金額では数百億円に上ったと言われるほど。旧来の重役や株主は守旧的や利益主義であり当然これらの改革には反対した。これに対し後に口癖となった「わしの眼は十年先が見える」という言葉で押し切った。
  • 大正3年(1914年)に大原奨農会農業研究所(現在の岡山大学資源生物科学研究所の前身)を設立し、農業の改善も図った。また、社会問題の研究機関として大正8年(1919年)2月に大原社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)を開設。のちにマルクス経済学の研究が中心となり、大原社会問題研究所や孫三郎もまた特別高等警察から警戒された。だが戦後になり復興し、多くの貴重な書籍が発見されたり大原社会問題研究所は多くの政治家などを輩出した。
  • 大正10年(1921年)には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所(現在の労働科学研究所)を開設。大正12年(1923年)倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、工員のみならず市民の診療も行った。
  • 工場を蒸気による動力から電気動力への転換を図り中国水力電気会社(現在の中国電力)を設立。中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取となり、地元経済界の重鎮となった。
  • 更に大正15年(1926年)倉敷絹織(現在のクラレ)を設立。
  • 昭和5年(1930年)児島虎次郎に収集を依頼した各国の美術品を収蔵する大原美術館開館。昭和10年(1935年)倉敷毛織を設立(後、倉紡に吸収合併)。
  • 昭和14年(1939年)長男の大原総一郎に企業体を引き継ぎ引退。昭和18年(1943年)倉敷市の自宅で死去。
  • 彼の目には100年先が見えていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    大原孫三郎-Wikipedia
    先駆者たちの大地−大原孫三郎

(2007.01.20更新)




▲明治から昭和にかけての実業家で、クラレ創業者、大原美術館創始者の大原孫三郎。

 

 


◆大原美術館
日本初の本格的美術館として1930年開館。2002年に総入場者3000万人を超えた。同年から高橋秀爾・東大名誉教授が館長を務める。

◆大原美術館
西洋美術館のほか、工芸館には柳宗悦が指導した民芸運動の浜田庄司、バーナードリーチ、富本憲吉、河合寛治郎の作品が展示され、版画室には棟方志功の作品が並ぶ。
東洋館は児島が蒐集した中国、インドの作品を収める。分館は日本の浮画家の作品を中心に展示している。


◆「わしの眼は十年先が見える―大原孫三郎の生涯」新潮文庫 城山 三郎 (著)
下駄と靴と片足ずつ覆いて―その男は二筋の道を同時に歩んだ。地方の一紡績会社を有数の大企業に伸長させた経営者の道と、社会から得た財はすべて社会に返す、という信念の道。あの治安維持法の時世に社会思想の研究機関を設立、倉敷に東洋一を目指す総合病院、世界に誇る美の殿堂を建て…。ひるむことを知らず夢を見続けた男の、人間形成の跡を辿り反抗の生涯を描き出す雄編。

62年5ヶ月と27日の生涯

エミール・ゾラ
Emile Zola   【小説の黄金時代の最後の巨人】

(1840.04.02〜1902.09.29)
ガス中毒で事故死---牡羊座

  • フランスの作家。エクス・アン・プロバンスで成長。土木技師の父を6歳で失い、苦学した。中学同級に画家セザンヌがいた。
  • 1862年出版社アシェット書店に勤務。フローベール、ゴンクール兄弟らの写実主義に影響を受け、《テレーズ・ラカン》(1867年)を発表。
  • テーヌ、ベルナール、ダーウィンらの思想にふれて、人間を遺伝・環境・時代の3要素でとらえる《実験小説論》(1880年)を提唱。この理論を「ルーゴン・マッカール」で実践、自然主義作家としての地位を確立。
  • ドレフュス事件では人権擁護の論陣を張り、イギリスへ亡命せざるをえなくなった。『豊穣』等の晩年の作には社会主義的思想がみられる。
  • 「ゾラは小説の黄金時代の最後の巨人で、彼のあとには、プルーストとジョイスカフカがやって来て、小説は人間の偉大と悲惨を描きあげることをやめ、精神と言語と世界の不可思議さの探求へとのめり込んでいく。20世紀の始まりである。一方、ゾラの小説は19世紀ヨーロッパの百科全書だ。最も高度にして卑賤な文明の実態をつぶさに描き、その巨大なエネルギーの渦巻きを追いかける」(1)。
  • バルザックの「人間喜劇」に対抗して、エミール・ゾラが書き上げた「ルーゴン・マッカール叢書」(全20巻)の第3巻が「パリの胃袋」だ。藤叢書は9世紀後半の第二帝政かを舞台にルーゴン、マッカール一族に属する人物を登場させ、当時の社会問題を描いた。1971年から約1年間に1冊のペースで仕上げた。「居酒屋」や「ナナ」などもその一冊」(2)。
  • 「死の際にナナの腐乱する身体を克明に描写するゾラ」(3)。
  • この「人生のセイムスケール」は、人間を遺伝・環境・時代・そして享年の4要素で捉え直す試みである。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)朝日新聞2004.01.25朝刊 エミール・ゾラ著「金(ゾラ・セレクション)第7巻」の中条省兵の書評より抜粋。
    (2)「読売新聞2005.03.07夕刊「名作」より抜粋・リライト。
    (3)「読売新聞2006.06.11朝刊 小倉孝誠著「身体の文化史」の林道郎の書評より抜粋。

(2006.06.11更新)




▲フランスの作家・エミール・ゾラ。




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