玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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age 62


50音インデックス


■62歳の
 シンクロニシティ


■62歳-?←戻る
子路
アリストテレス
陶淵明
玄奘/三藏法師
伊勢姫
ボッカッチョ
本多 忠勝
坂田藤十郎 (初代)
小西来山
武田 耕雲斎
オーヴィル・ギブソン
村井吉兵衛
住友 春翠
ワシリー・エロシェンコ
S・フェラガモ
石原吉郎
フェリックス・ガタリ
宮脇 檀
高松次郎

■62歳-前半-1←戻る
ウィトゲンシュタイン
高坂 正堯
堺 利彦
マルグリット・ヴァロワ
千葉 周作
チェスタートン
与謝野鉄幹
ミハエル・バクーニン
根上 淳
カール・セーガン
ジャン・フーリエ
キンゼイ
アブラハム・マズロー
円山応挙
宮城道雄

■62歳-前半-2←戻る
松岡利勝
キスリング
マルティン・ルター
荻野 吟子
吉田 鉄郎
いずみたく
サンダー杉山
岡本 一平
藤森栄一
香月泰男
フーゴ・グロチウス
マホメット
j・ジャクソン
ファラ・フォーセット
和田 夏十
ハドリアヌス
大原孫三郎
エミール・ゾラ

■62歳-後半
ウィリアム・モリス
山田康雄
鶴田浩二
パー・ヘンリック・リン
L.E.ボルツマン
ノストラダムス
加藤 和彦
辻本 史邑
ジャン・パウル
ドヴォルザーク
アドルフ・ロース
野口雨情
キュビエ
大原 麗子
盧武鉉
井上準之助
モーリス・ラヴェル
藤子・F・不二雄/藤本弘
オッペンハイマー
乃木希典
ジャンフランコ・フェレ
ゴダード
宮崎康平
徳川綱吉
J.M.ケインズ
ヴァザーリ
ルーベンス
前田光世
岸たまき
江國 滋


■62歳のエポック


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62歳の語録

 

「おい癌め 酌みかはそうぜ 秋の酒」
(江國滋の辞世の句

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62年6ヶ月と9日の生涯

ウィリアム・モリス
William Morris    【モリス商会代表】

(1834.03.24〜1896.10.03)
死因?---魚座

  • ロンドン近郊のウォルサムストゥ生れ。
  • 聖職を志して中世史を学んだのち、工芸家となる。1857年新居〈レッド・ハウス〉の家具などをデザイン。
  • 1861年(27歳)バーン・ジョーンズ、ロセッティらとモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立。タイル、室内装飾品、壁紙等を製作、図案家として活動。
  • 壁紙やテキスタイル、ステンドグラス、家具、書籍など様々なデザインを手がけ、その後のアーツ・アンド・クラフツ運動をはじめ、20世紀の世界のデザイン界に幅広い影響を与えた。
  • 1890年ケルムスコット・プレスを設立して印刷、装丁に力を注いだ(ケルムスコット版)。
  • 中世を礼讃し、手仕事による装飾美術を日常生活の中に生かすことを提唱。また、晩年は社会主義運動にも参加した。著に、物語詩『地上楽園』など。
  • 詩人としては中世をたたえた『地上楽園』(1868年―1870年)で有名になり、のちラスキンを継承し社会主義者としても活躍。『ジョン・ボールの夢』(1886年―1887年)、『ユートピアだより』(1890年)を書いた。
  • 中世とゴシック芸術に対する情熱、職人的技術への畏敬の念は、特色のある織物、タピストリー、壁紙、刺繍などに結晶した。物質文明に背を向けてなされた日常生活の美化への尽力は、彼の主宰したアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントを通じて、一方では近代のインダストリアル・デザインの発展に大きく貢献。
  • 柳宗悦の民芸運動へも影響を与えている。
  • モリスは詩人であり、社会主義の闘志であり、古建築物保存協会の設立者のひとりであり、庭園デザイナーでもあった。
    最も保守的であることこそ最も斬新である。
    ボクは「モリス商会」という屋号をおおいに気に入っている。

¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.09.17掲載)




▲英国の詩人・物語作家、中世を礼讃の装飾芸術家・工芸家、社会主義運動家、社会改革家・ウィリアム・モリス。

62年6ヶ月と9日の生涯

山田康雄
Yasuo Yamada     【愛称は「ヤスベエ」】

(1932.09.10〜1995.03.19)
脳出血---乙女座

  • 俳優・声優・テレビ司会者。東京府東京市大森区(現・東京都大田区)雪谷出身。日本銀行勤務の役人の家庭に生まれ、3歳で父を亡くす。1945年、東京都立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)に入学。かつては野球少年で、日比谷高校では野球部で活躍。東大を受験したのも「東大野球部なら俺でもレギュラーになれると思ったから」(本人談)。
  • 1951年、東大受験には失敗するものの(「高校を卒業した時の成績は全校71位、その年に日比谷から東大に現役で受かったのは85人だったのに俺は落ちてしまった」と自ら語っている)。早稲田大学英文科に入学、劇団"自由舞台"に所属。大学2年のとき、難関とされる劇団民芸の試験に合格。
  • 大学は単位が12しか取れなかったので2年で中退し、研究生として入団するも、稽古をしばしば怠けて野球の試合だけ皆勤だったため、2年在籍ののち「なかばクビ」とは当人の弁。
  • 1958年に、テアトル・エコーの俳優である熊倉一雄に誘われて劇団テアトル・エコーに入団。その年の8月に初舞台を踏む。神谷明など、テアトル・エコーの後輩にとっては「怖い先輩」だったという。役者になった動機は、本人曰く「朝寝坊ができると思ったから」。
  • 洋画では「ローハイド」以来、生前ほとんど全作品でクリント・イーストウッドやジャン=ポール・ベルモンドの日本語吹き替えをしていた(本人は「イーストウッドの吹き替えに自分はベストではない」と事あるごとに言っている。とは言えイーストウッド独特のこもったような話し方を完全に捕らえた吹き替えは、日本でのイーストウッドに対する渋いイメージを植え付ける大きな材料になっている)。
  • 1971年、ルパン三世の声優に抜擢される。以後24年間、ルパン三世の声優として出演した。
  • 声優以外にも『お笑いスター誕生!!』の司会者などで、その独特なヘアスタイルの素顔もお茶の間でもおなじみだった。
  • 1993年に体調を崩し、1995年2月、『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』本編のアフレコに入る直前に倒れる。翌月3月19日、脳出血のため意識が戻らないまま大田区の都立荏原病院で急逝。享年62。
  • 次なる「ルパン三世」役は生前に山田と親交があり、自身の「ものまね」レパートリーでルパン三世をネタとしていたこともあった栗田貫一が、クリント・イーストウッドの吹き替えは野沢那智や、敬意を表して『ルパン三世』で共演していた小林清志、納谷悟朗に、ジャン=ポール・ベルモンドは羽佐間道夫等が引き継いだ。
  • 息子は演芸作家の山田浩康。彼の声は山田本人の声とそっくりだそうである。実は英語が堪能。英語圏に住む友人も多かった。「ルパン三世」の作中でも、次元の英語の発音に対し、ルパンが突っ込みを入れるというやり取りも見られる。
    「当初ルパン三世役には広川太一郎や野沢那智など、数人の候補がいたが、監督のおおすみ正秋?が舞台の上での山田康雄を見たときに、「(私のイメージしていた)ルパン三世がここにいる」と絶賛したことから、配役が決定した」(1)。
  • 「舞台で活躍する一方で、テレビ西部劇「ローハイド」のアテレコやクリスト・イーストウッド、ジャンポール、 ベルモンドの吹き替えも担当した。一番の代表作は「ルパン三世」の主人公役の吹き替えであり、 山田の声なしではヒットにはならなかったのではないかと言われる。山田の死後、山田の声真似が得意である栗田貫一が引き継いでいる」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    山田康雄 - Wikipedia
    (1)「はてな - 山田康雄とは
    (2)「山田康雄

(2006.05.27更新)




▲アニメ「ルパン三世」の声でおなじみだった声優・山田康雄。

◆主な出演作品
ルパン三世シリーズ(ルパン三世(初代))

◆吹き替え
クリント・イーストウッド
グレアム・チャップマン(モンティ・パイソン)、ジャン=ポール・ベルモンド、猿の惑星(ロディ・マクドウォール=コーネリアスの声)、ピーター・フォンダ

◆その他
お笑いスター誕生!! 日本テレビ系 (司会者)、飛び出せ!青春 日本テレビ系 (次回予告ナレーション)

62年6ヶ月と10日の生涯

鶴田浩二
Kouji Turuta   【筋金入りの男の仁義】

(1924.12.06〜1987.06.16)
肺ガン---射手座

  • 俳優、歌手。東京都大田区 出身。
  • 母方の祖母の手により私生児として育てられ、たまに母・君江が会いに来るのを楽 しみにしていた。母・君江は鶴田浩二の実の父の実家からその結婚を反対された ため入籍することができず、その後、小野忠次のもとへ嫁ぐ。祖母の死後、母の嫁ぎ先であった小野家へ引取られることになり、小野忠次の子供 となる。竜禅寺小学校卒業。 13歳、父の仕事で大阪市西成区へ移転。
  • 14歳、映画俳優にあこがれ、伯父のつてで当時松竹の時代劇スターだった高田浩吉の内弟子として、高田浩吉劇団に入る。
  • 15歳、「会津の娘達」で白虎隊の少年という役の映画撮影中、肺炎とジフテリアにかかり1ヶ月以上の入院。退院後大阪此花商業学校に入学する。
  • 19歳、関西大学専門部商科へ入学する。学徒動員令で徴兵検査を受け、甲種合格。1944年5月第1期海軍飛行科予備生徒として横須賀第2海兵団に入団し、終戦までの1年7ヶ月を約2800名の仲間と生死を共にする。その間、特攻隊として帰らぬ人になった大勢の戦友に対しての思いが、その後の人生に大きく影響を及ぼす。
  • 20歳、横須賀海軍航空隊にて少尉で敗戦を迎える。9月、浜松で食料品店を開いていた両親のもとへ復員する。21歳、生涯の師、高田浩吉と浜松で再会。
  • 22歳、高田浩吉劇団に研究生として入団。付き人として働く。大学を卒業。この年、肺浸潤に侵され、薬の副作用で左耳が難聴になる。左手を左耳に添えて歌う独特のポーズは、鶴田浩二が音を正確にとらえるためにと考えたものである。23歳、高田浩吉の口利きで大曽根辰夫監督のもと松竹京都撮影所に入社。京都で宴席の後、後に妻となる東宝のニューフェイス中尾照子(18歳)に出会う。結婚が人気に影響する時代であり、照子は7年に及ぶ日陰の生活を強いられる。24歳、長谷川一夫、高田浩吉共演の時代劇「遊侠の群れ」に清滝の佐吉役でデビュー。
  • 60歳、最後の映画となる「最後の博徒」で主演の松方弘樹の兄貴分として助演する。NHK人間模様「シャツの店」(全6回)に出演。10月中旬、新宿慶応病院での定期検診で肺にうみがたまっているのが発見され、その後入退院を繰り返す。1987年6月16日午前10時53分、肺ガンのため死去。
  • 戦中、多くの仲間を特攻隊で失い、その無念を晴らす思いで走りつづけた役者人生。筋金入りの男の仁義を演じて右にでる者なし。趣味:酒 ゴルフ 読書 野球。
  • 【日本遺族会】 祖国を愛し、戦死した友のために、昭和46年以降、生前の15年間にわたり、チャリティショーを開催し、「遺骨収集基金」にと、総額5千万円以上の寄付をしている。また、硫黄島やサイパン島、マリアナ島、テニアン島、フィリピンの島々へ自費ででかけ、友の御霊を祖国に帰還させている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「鶴田浩二」http://www.paoon.com/star/4525.html

(2009.08.21更新)




▲俳優『人生劇場・飛車角』の歌手・鶴田浩二。
(イラスト 大城さん)

 

◆鶴田浩二の歌の文句
「右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」

62年6ヶ月と15日の生涯

パー・ヘンリック・リン
Pehr Henrik Ling    【スウェーデン体操の創始者】

(1776.11.15〜1839.05.30)
死因?---蠍座

  • 体操を身体の完成をめざす運動の系列と考え、生理学と解剖学に基づいた組織的な体操を創案。リン氏は、自身の専門分野であった保健体操、解剖学や、生理学の知識をもとに、スウェーデン国民の健康促進のためにこのマッサージ法を開発し、その功績はのちに世界各国のマッサージ専門家や、医師からも注目を集めた。後に、スウェディッシュマッサージはアロマテラピー(トリートメント)の手法に大きく影響を及ぼした。
  • 1814年王室中央体操学校校長。著書に《体操の規則》(1836年)がある。詩人としては古代北欧を題材にした叙事詩、戯曲などを残した。
  • 「スウェーデンマッサージ(スウェディッシュマッサージ):現在、欧米で広く普及しているアロマオイルマッサージの原点とされるスウェーデン式マッサージは、19世紀初頭、「スウェーデン体操の父」として知られるパー・ヘンリック・リンによって始められました。ツボ刺激の指圧とは対極に位置するマッサージ法で、オイルを用いながら、ひじや腕なども駆使し、滑らかなストロークを特徴とします。筋肉の深部までダイレクトに働きかける手技が多く、筋肉の凝りの緩和、健康維持、血液循環の促進の効果があるとされます。また直接肌に触れることにより、ホルモンの分泌が改善され、血液やリンパ液の循環が促進されるため、老廃物もスムーズに排泄されます」(1)。
  • 「スポーツ医学、エステティック界におけるボディケアの原点。“ スウェディッシュ ボディケア ”:約200年前、スウェーデン国王の命を受け、全国民の健康の為に「スウェーデン体操の父」と呼ばれたパー・ヘンリック・リン氏が考えた健康法。現代においてもそれは引き継がれ、子どもからお年寄りまで日常生活に深く定着し、「自然・家庭生活・健康」を最も大切にする福祉の国スウェ−デンを支えています。スウェディッシュ ボディケアは、「筋組織を痛めず、深部にまでしっかりとケア」するということによって、凝りの緩和だけでなく、健康の維持・促進の効果が生まれ、ホルモンの分泌までも促します。さらに筋肉と心の関連に重点を置き、筋肉を癒すことによって心の緊張をほぐす事も目的としております。このため、スウェーデンのアクセルソン本校では1996年に「ピースフル タッチ」という活動を開始しました。人と人とのふれあいを大切にし、特に子ども達の暴力やストレスを軽減していくというもので、健全な心の育成のため小学校にも協力を行い、いじめの減小にも効果を上げています」(2)。
  • 「スウェディッシュマッサージはその名のとおり、スウェーデン人により考案されたマッサージです。オイルを使い直接肌に触れ手技によりトリートメントする技法です。 スウェディッシュマッサージはこんな方にオススメ :凝りの緩和や血液やリンパの循環を促し、ホルモンの分泌を良くし、ストレス解消、健康の維持・促進に効果があるといわれています。※日本では、民間療法として位置づけられています。 スウェディッシュマッサージの技術 :少量のオイルを使い、表層の筋群はもちろん深部の筋組織まで刺激を与えてしっかり揉みほぐすスタイルが特徴です。下記のような手技が一般的です。軽擦法・・・長く大きな動きで背中や足を軽くこすっていく。通常上方へ軽擦していくときは圧力をかけ、さがってくるときに圧力はかけない。揉捏法・・・筋肉や筋膜を揉みほぐす。筋の収縮力を活発にし、筋の静脈血の流れを促進し、血管を拡張させて充血をおこさせる。強擦法・・・親指を使って圧力を加える。筋肉や筋膜を強く擦って温めることにより、深部組織への刺激を与える。叩打法・・・軽く握った状態か手のひらで身体表面をリズミカルに軽打する。振せん法・・・身体の一部、もしくは全体を振るわせる」(3)。
  • 「ウィキペディアの「体操」こちらにあったものを抜粋します。〈スウェーデンではリングの没後100年を記念し、リンギアードと呼ばれる体操を中心とする大会が1939年に開かれた〉〈1913年には永井道明を中心に研究されたスウェーデン体操が学校体操教授要目として発布され、1941年の国民学校発足までの約30年間に渡って、日本の体育会を支配した〉」(4)。
  • スウェディッシュマッサージ、受けてみたいものです。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    sweden
    (1)「ひーりんぐ&手技療法 大辞典|健康癒しリラクゼーションの情報を集め ...
    (2)「スウェディッシュ ボディケア アクセルソン 米子校HP/スクール ...
    (3)「VitalNavi:スウェディッシュの豆知識
    (4)投稿者:koromoさん..2007/ 7/16 22:34:33(月) [2007]

(2007.07.17更新)




▲「スウェーデン体操の父」と呼ばれる体育指導者で詩人パー・ヘンリック・リン。

 


62年6ヶ月と16日の生涯

L.E.ボルツマン
Ludwig Eduard Boltzmann 【気体分子運動論大成者】

(1844.02.20〜1906.09.05)
失意のまま静養先で自殺---魚座

  • オーストリアの物理学者。ウィーン大学を出て、グラーツ、ウィーン、ミュンヘン各大学教授を歴任。1894年(50歳)からウィーン大学教授。
  • 気体分子運動論、統計力学の大成者で、気体分子のエネルギー等配分法則を定立。マクスウェルの速度分布法則を確率論から導出。
  • 1872年(28歳)熱現象の不可逆性を分子運動論から基礎づけ(H 定理)、1877年(33歳)エントロピーを熱力学的確率の関数として定義。また熱放射に関するシュテファン=ボルツマンの法則を熱力学的に導出。オストワルトらのエネルギー論に対立し原子論の立場を主張。
  • ボルツマン定数:ボルツマンがエントロピーS を熱力学的確率W から定義した関係式S =klogeW に現れる普遍定数kをいう。気体定数をアボガドロ数(1モル中の分子数)で割ったものに等しく1.380658×10-23J/K。統計力学できわめて重要。
  • 古典力学の完成と、量子力学誕生に挟まれた一見地味な、凪のような19世紀後半こそ、実は科学史有数の激震時代だった。
  • 晩年神経症を患い、ライプツィヒ時代にも一度未遂に終わったが、結局1906年避暑地ドウィノで自ら生命を絶った。洞察が進みすぎたボルツマンの悲劇。自殺の原因は明らかではないが、原子論論争と無関係ではなかったようである。そして彼の死の直後に、ブラウン運動により、原子の存在の実験的確証が与えられたのも歴史の一つの皮肉。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ブローダ著、市井三郎訳『ボルツマン』(1957・みすず書房)。

(2003.09.17掲載)




▲ボルツマン定数で知られるオーストリアの物理学者・L.E.ボルツマン。

62年6ヶ月と18日の生涯

ノストラダムス
Michel Nostradamus  【四行詩(カトラン)による予言者】

(1503.12.14〜1566.07.02)
死因?---射手座(2003年生誕500年)

  • 「1999年人類破壊」の予言詩であまりに有名なフランスの占星術師、医師。フランス名ミシェル・ド・ノートル・ダム。
  • キリスト教の戒律主義にとらわれないユダヤ人のカソリック教徒であり、コペルニクスの100年前に地動説を唱ええ、モンペリア大学で解剖学の医師でもあった。シャルル9世の侍医も務めた。
  • リヨンのペスト流行の際治療に献身して人望を高めた。当時、ネズミからペストの発生し、死体を焼くことを唱えた奇跡の医師であった。彼はルネサンス期の常識人だった。
  • 52歳で占星術と見神体験に基づくと称する韻文の予言書『諸世紀』を刊行し、世界終末の幻視などを記述した。これが「予言書」とか「百詩篇集」「諸世紀」と呼ばれるものになった。
  • その不可解な表現は後世多くの解釈を生み出し、俗流オカルティズムの定本であり続けている。後世に残るノストラダムスの予言集:彼の残した四行詩(カトラン)
  • 当時の医者にとって占星術は基礎教養。怪しむには足りない。晩年は医師としての活動よりも占い師としての活動のほうが多くなっているようで、彼のもとには多数の著名人が訪れて、様々な占いの依頼をした。
  • ノストラダムスの占いの手法は2つで、ひとつは小さい頃から学んでいた占星術。もうひとつは水鏡占いと呼ばれるもの。これは水晶球占いなどと同様のもの。この占いを遣える人は現代でも的中率が非常に高いことがその筋では知られている。ただし、これはものすごいエネルギーを消耗し、天与の才能がないとまずできない占いという。
  • 彼には幻想的なイメージをしに結実させる才があった。含蓄に満ちた彼の予言詩は優れた「神秘文学」として味わうべきだ。
  • 小惑星の衝突:小惑星の衝突危機がテーマだった映画「アルマゲドン」(1998)や「ディープ・インパクト」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2009.10.03更新)



▲「1999年人類破壊」の予言詩であまりに有名なフランスの占星術師、医師・ノストラダムス。
(イラスト 大城さん)

62年6ヶ月と26日の生涯

加藤 和彦
Kazuhiko Kato 【「あの素晴らしい愛をもう一度」】

(1947.03.21〜2009.10.17)
自殺---牡羊座

  • 京都市伏見区生まれ。生後すぐに神奈川県鎌倉市に移り、鎌倉と逗子市で小学校4年まで育つ。その後1年間京都で、その後は高校卒業まで東京都で育つ。
  • ボブ・ディランのDon't Think Twice, It's All Right を聞いた影響でギターを始める。
  • 東京都立竹台高等学校卒業後、仏師だった祖父の後を継ぐつもりで伏見区の実家に戻り、歩いて10分のところに位置していた仏教系大学龍谷大学に入学。アマチュアフォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」の解散記念に制作した自費製作アルバム(インディーズではない。)『ハレンチ(破廉恥)・ザ・フォーク・クルセダーズ』中のオリジナル曲『帰って来たヨッパライ』に対するリクエストがラジオ局に殺到し、プロデビューの話が持ち込まれる。加藤は難色を示したが、毎朝説得に来ていた北山修の説得により1年限りとの約束でプロの世界に入る。
  • シングル2作目に予定していた『イムジン河』が、南北朝鮮分断問題による政治的配慮から発売中止にされた。これに憤慨し、イムジン河のコード進行を反対にして作った曲が『悲しくてやりきれない』であるとする説もある。
  • 『水虫の唄』 (作詞・作曲:山田進一、補作詞:足柄金太、補作曲:河田藤作) ザ・フォーク・クルセダーズが1968年7月1日にアルバム『紀元弐阡年』の先行シングルとして発売した。彼らは曲に合わせていろいろな名前を使い分け、このシングルは「ザ・ズートルビー」という名前で発表した。 当時の甘ったるいラブソングへのアンチテーゼとして水虫と言う材料を混ぜ、さらにクラッシックの旋律(前奏の部分ではベートーヴェンの交響曲第6番『田園』の第1楽章冒頭部(第1主題)、曲のサビのところではメンデルスゾーンのピアノ曲『春の歌』)取り入れパロディ色を強めた高度な反骨メッセージをこめたユーモア・プロテストソングである。
  • フォーク・クルセダーズ解散後、愛称「トノバン」に現されるように、ドノヴァンの影響を色濃く漂わせたソロ楽曲も垣間見える(初期のソロ活動では、イベントで当時はおろか20年近く日本で未発売だったドノヴァンのアルバム"H.M.S. Donovan"中の曲をカヴァーしたりもしていた)など、あらゆるジャンルを吸収。
  • 当時流行のFifth Dimensionばりのソフトロック風アレンジなどもさりげなく導入するなど先鋭的な曲作りを行っていた。また、この時期、頻繁にロンドンと東京とを行き来し、当時の最先端のイギリス音楽・ファッション・文化を日本に紹介した。このようなミュージシャンは、当時の日本には加藤の他にはいなかった。自ら本格的な料理を作る事を好み、本当の意味での「グルメ」であった。ギターの蒐集でも有名で、エレクトリック、アコースティック・ギターでの「加藤コレクション」は、マニア垂涎の的だった。このことからも加藤はフォーク、ロック、J-POPといったひとつのカテゴライズされた見方には収まりきらないミュージシャンであるともいえよう。
  • 1971年には『あの素晴しい愛をもう一度』を、作詞・ボーカル(デュエット)を担当した北山修との連名で発売した。
  • 1990年代からは歌舞伎音楽を手がける。この縁から、後のフォーク・クルセダーズ再結成コンサートでは、市川猿之助 (3代目)と共に歌舞伎の口上で幕を開けた。
  • 1996年、フジテレビ系『ポンキッキーズ』挿入歌として西田ひかるとのデュエット曲『メロディー』を発表。
  • 『イムジン河』を日本で初めて歌った人物としても有名である。『イムジン河』が初めて日の目を見た2002年には、フォーク・クルセダーズを半年間限定で新結成(他のメンバーはきたやまおさむと坂崎幸之助(THE ALFEE)で、はしだのりひこは不参加)した。
  • 映画『パッチギ』にて、第60回毎日映画コンクール音楽賞受賞。
  • 2000年中丸三千絵と結婚、すれ違いで2005年に離婚。
  • 2005年発売のプレイステーション2用ゲームソフト「天外魔境III NAMIDA」の音楽を担当。
  • 2007年に坂崎幸之助とのユニット、和幸(かずこう)を結成。2007年・2009年にアルバムリリース、ライブを行った。
  • 「同じ事は二度とやらない」をモットーとしており、サディスティックミカバンドやフォークルを新結成することがあっても過去とは全く異なるアプローチで臨んでいる(フォークルは「再結成」ではなく、「新結成」であると加藤は語っている)。また、サディスティック・ユーミン・バンドなる企画もあった。
  • 2009年10月17日、長野県軽井沢町のホテルで死亡しているのが見つかった。享年62。
  • 「元フォークグループ「ザ・フォーク・クルセダーズ」で、「帰って来たヨッパライ」などのヒット曲で知られる音楽家の加藤和彦さん(62)が17日、長野県軽井沢町のホテルで首をつっているのが見つかった。遺書があり、軽井沢署は自殺とみている。遺書には音楽的な行き詰まりへの悩みなどがつづられていた。加藤さんはうつ病と診断されており、1カ月ほど前から症状が悪化していたという。 加藤さんは17日午前9時半ごろ、浴室内で死亡しているところを署員とホテル従業員に発見された。同署によると、普段着姿で、着衣の乱れや外傷はなし。部屋には手書きとパソコンで打った部分が交じった関係者あての遺書が2通あった。持ち物のボストンバッグの中には衣類と携帯用スピーカーのようなものが入っていた。同日午後2時すぎ、加藤さんと都内で同居する30代の知人女性と、マネジャーが本人であることを確認。遺体は同日夜、軽井沢署から車で運び出され、都内の自宅に戻った。加藤さんは16日、1人でホテルを訪れ、1泊2日の予定で宿泊。親しい知人によると、知人女性が同日、自宅で遺書を発見。警視庁麻布署に捜索願を出した。数日前には女性との電話で「死にたい」と自殺をほのめかす話もしていた。関係先をあたる中、加藤さんが軽井沢を気に入っていたことから、かつて宿泊したホテルに電話し滞在しているのを確認。しかし、客室と連絡が取れないため、ホテルが午前8時半ごろ「室内を確認してほしい」と軽井沢署に通報した。軽井沢には、舞台「スーパー歌舞伎」の音楽を担当した縁で親交が深い市川猿之助(69)の別荘がある。その敷地内には加藤さんのスタジオがあり、仕事で度々訪れていた。携帯電話の電波を警察が分析し所在が判明したとの情報もある。遺書には仕事への悩みがつづられており、30年以上、一緒に音楽制作に携わってきた友人は「自分の思うようなものができないと悩んでいた。若い時には当たり前のようにできたことができなくなり、そのジレンマが卓越した創造性を侵していき精神的に追いつめられていった」と説明。加藤さんは新曲作りを依頼した音楽関係者と13日に電話で話した際には「うつで仕事が進まない。作品を書こうと思うとダメなんだ」と話していたという。最近、加藤さんは親しい友人らに米フォーク歌手のジョーン・バエズ(68)モデルのギターなど貴重なコレクションを贈り、添えた手紙には「世話になったけど、何も返せてない。もらってくれ」などと書いていた。骨折で京都市内の病院に入院していた母親も今月12日に見舞っており、関係者は「覚悟の自殺だったようだ」と指摘。母親には17日午後、関係者が加藤さんの死を伝えたという。来月5日には、プロデューサーを務めるなど熱心に取り組んでいた大腸がん撲滅キャンペーンコンサートが都内で開かれ、参加するはずだった」(1)。
  • 「 「帰ってきたヨッパライ(オラはしんじまっただ)」と「あの素晴らしい愛をもう一度」の作曲者が同一人物だと知った時の驚きは…(汗)。私の好きな役者さんが「演じたキャラは消化して忘れてしまって残らない」とおっしゃっていましたが、加藤さんにとっても音楽はそうだったのでしょうか…?アニメファンにとってはリン・ミンメイ(飯島真理)ちゃんの「愛・おぼえていますか」作曲者として有名でした。作詞された奥様も亡くなられたとか…。ご冥福をお祈りするばかりです…」(2)。
  • 「加藤和彦を知らない、加藤和樹(2009年現在、御健在)のファンは、和樹がなくなったと勘違い、人違いと知って安堵していました。加藤和彦は、何だか、増大した借金を苦に、自らの首に輪をかけたといわれています。これが無ければ、既存の歌だけでもまだまだ生涯現役でいけたというのに…先に他界された安井かずみに、自殺したことについて天国でお叱りを受けたのではないでしょうか」(3)。
  • 「関連サイトを見ると、加藤さんは晩年は孤独だったようですね。欝を発症、買い物依存症に近かった感じがします。このような状態では創作も難しかったみたいです。作家さんは常に前進していかねばならず…芸術家らしい方だったような気がします。かずみさんが亡くなった後は「焼けたトタン屋根の上の猫」のような人生だったのでしょうか…」(4)。
  • 「 加藤和彦の結婚歴をお供えします。
    1970年 ボーカルの福井ミカと結婚。
    1975年 ミカと離婚。
    1977年 8歳年上の作詞家・安井かずみと結婚。
    1994年 かずみ(癌)で死別。
    1995年 オペラ歌手・中丸三千繪と結婚。
    2000年 三千繪と離婚」(5)。
  • 「鬱病が(病気の中で)世界二位になったという。---人間は本来「鬱」である」(北山修)..2010/ 1/22 05:36:15(金) [7029]
  • 「これは加藤和彦が御健在の時に発した台詞でしょうか…まさか、かつて音楽活動を共にした加藤氏があんな形で亡くなられるとは、北山氏も予測がつかなかったでしょうね(絶対にそうとも言い切れませんが)…」(6)。
  • ---日時はメモしてませんでしたが、この言葉は加藤和彦が御健在の時に発した台詞と記憶しておます。
  • 「10月17日(遺体発見直後に届く様に計算された)に北山氏に届いた手紙には、「ごめんね、約束破って」と書かれて居たのだそうです。精神科医で在る彼には、十二分に予測可能だった筈ですから、其の無念さは察するに余り有ると思います」(7)。
  • 自殺とみて調べているという。ボクが通った竜王中学では全校朝礼で『イムジン河』を合唱するような学校だった。 新任の女性音楽教師がノースリーブ姿で指揮をするのだけれど、思春期にとってはその脇の下が眩しかった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    加藤和彦-Wikipedia
    (1)「スポニチ---ニュース
    (2)投稿者:Miwaさん..2009/10/21 20:36:58(水) [6447]
    (3)投稿者:コミバナさん..2009/10/22 17:09:07(木) [6457]
    (4)投稿者:Miwaさん..2009/10/22 17:43:24(木) [6460]
    (5)投稿者:ユリウスさん..2009/12/11 00:10:50(金) [6815]
    (6)投稿者:コミバナ さん..2010/ 1/23 12:05:09(土) [7039]
    (7)投稿者:Thori_Tung さん..2010/ 1/23 12:39:58(土) [7040]

(2010.01.23更新)



▲「あの素晴らしい愛をもう一度」など多くのヒット曲で知られるミュージシャンで音楽プロデューサー、作曲家、ギタリスト、歌手・加藤 和彦。

 


62年7ヶ月と19日の生涯

辻本 史邑
Shiyu Tsujimoto     【奈良県生まれの書家】

(1895.05.03〜1957.12.22=明治28年〜昭和32年)
心臓喘息---牡牛座

  • 座名は勝巳、字は士礼という。史邑は号で、別号を寧楽庵主人、江村と称す。吉田熊吉の次男として生まれ、のち、辻本家を継いだ。
  • 幼い頃、書を桑山兼山に学び、奈良師範学校を卒業後、小学校教諭となる。近藤雪竹に漢学を学び、文検(文部省教員検定試験)習字科に合格、奈良師範学校、県立奈良中学校の教諭となるが、昭和3年(1928年、34歳)教職を辞め、書道研究に専念する。中村春堂、井原雲涯、丹羽海鶴、山本竟山、比田井天来、尾上柴舟に書を学び、日展参事、(社)日本書道連盟関西総支部長、日本書芸院会長などを歴任。昭和28年(1953年、58歳)日本芸術院賞を受賞。
  • 1895年、奈良県磯城郡に生まれる。
    1915年、奈良師範学校を卒業。
    1918年、文検習字科に合格。
    1928年、日本書道作振会幹事となる。
    1930年、山本竟山と共に中国各地を歴訪。
    1939年、尾上柴舟と共に関西方面各地で書道大講習会を開催。
    1946年、日本書道院結成、執行委員長となる。
    1947年、日本書道院会頭(初代)となる。
    1948年、日展に書が加わり、初代審査員となる。
    1949年、日本書道院が日本書芸院に改称、会頭となる。
    1950年、日展参事、奈良学芸大学講師となる。
    1953年、日本芸術院賞を受賞。
    1954年、(社)日本書道連盟関西総支部長となる。
    1955年、日本書芸院会長となる。
    1956年、朝日新聞社主催「現代書道二十人展」に作品を出品。
  • 1957年、12月22日、心臓喘息のため永眠。享年63歳(数え)。
  • 書は各体ともによく、優れた作品を数多く残した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    辻本史邑-Wikipedia

(2009.05.03更新)



▲日本書芸院の設立に力を注ぎ、戦前戦後にかけて後進の指導に活躍。辻本翔道、辻本九華、村上三島、谷辺橘南、広津雲仙、岡本松堂、今井凌雪、森田翠香などの人材を育成し、関西書壇の興隆に貢献した辻本 史邑。

 

 


62年7ヶ月と24日の生涯

ジャン・パウル
Jean Paul     【ドイツの小説家・諧謔家

(1763.03.21〜1825.11.14)
死因?---牡羊座

  • 本名、ヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter)。
  • 1763年、フランケン、ヴンジーデルに生を受け、裕福とは言えなかったが実のある少年時代を過ごした。
  • 14歳になると貪欲に知識を吸収していった。ライプツィヒ大学で神学を学んだが経済的理由で中退。大学に入ってから、文学で生計を立てることを決めるが、最初の時期はなかなか売れなかったらしい。
  • 青年のころから、ジャン・パウルの筆名で辛口の風刺文を書いていたが、やがて小説を書くようになった。
  • 彼が作家として名声を上げるのは「ヘスペルス」からである。この頃から、ドイツ文学を代表する作家となり、ゲーテなど、偉大な作家達とも出会うことになる。しかし、ゲーテなどとは思想上対立、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーなどを慕った。その後、晩年まで名声ある作家として生涯を送った。
  • 著作に「巨人(Titan)」や「生意気盛り(Flegeljahre)」などがある。
  • 「たまさん お忙しいところ、どうもありがとうございまする。彼の考える自我の構造について述べられたこちらの論文から少し抜粋させていただきます。
    ---「私はただある私だけを知っている、これは神である―残りの自我は犬である。われわれは神が授けた自我を最良の目的の為に捧げなければ、それを恥ずべきであろう。動物はそれを有しない」。私は記号としては<犬>であるが、内実としては<神>であると解せられる。あるいはその逆も可であろう。少年時代の体験同様に宗教的に捉えることができるが、<犬>にすぎないという視点も無視できず、ここから自分の体を異化するジャン・パウル特有の視点も理解できよう。神と犬の結合が人間なのである。---」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジャン・パウル-Wikipedia
    ジャン・パウル - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
    (1)投稿者: koromo姫..2008/ 6/13 03:57:38(金) [3168]

(2008.06.14更新)



▲諧謔(かいぎゃく)家としても知られるドイツの小説家ジャン・パウル。

ジャン・パウル語録
◆「われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である」「眼に見えない会話」より 過去/思い出/妄想
◆「人は子供をおとなしくなるようにと、小学校へやる。そして、うるさくなるようにと、大学へやる」「断片」より 格言:金言/教育:しつけ/子:子供/若者/学校
◆「人生は一冊の書物に似ている、愚者たちはそれをペラペラとめくっていくが、賢者は丹念にそれを読む」「角笛と横笛」より 人生/愚者/賢者/本
◆「友人を信用しないのは、友人に欺かれるよりもはるかに恥ずべきことである」「青の明星」より 格言:金言/友:友人:友達/友情:友愛/信用:信頼:信じる
◆「友達は誰しも、他の人の太陽であるとともに、ヒマワリである。引っぱりもすれば従いもする」「記念帳のための即興苦」より 友:友人:友達
◆「大文字ばかりで印刷された書物は読みずらい、日曜日ばかりの人生も、それと同じである」「角笛と横笛」より 人生/労働/休息/勤労
◆「女の高齢は男のそれよりも陰気かつ孤独である」「アフォリズム」より 女:女性/老い:老年
◆「称讃された時ではなく、叱責された時に謙虚さを失わない者こそ真に謙譲な人間である」「人間についての気象観測」より 賢者/人格/忠告/謙虚/品位:品格/賞賛
◆「自分の青春を、老年になって始めて経験するような人々がいる」「角笛と横笛」より 老人/青春
◆「貧乏と希望は母と娘である。娘と楽しく語らっていれば、母のほうを忘れる」「断片」より 希望/貧乏


62年7ヶ月と23日の生涯

アントニン・ドヴォルザーク
Antonin Dvorak   【チェコの作曲家】

(1841.09.08〜1904.05.01)
脳溢血のために死去---乙女座

  • ドボルザークともいう。プラハ近郊の町ネラホゼヴェスでの宿屋兼肉屋の長男として生まれる。
  • 16歳の時に父の反対を押し切ってプラハに上京、オルガン学校を苦学して卒業。学校卒業後、小楽団のビオラ奏者として生計を立て、25歳でプラハ国民劇場の仮劇場指揮者に就任。この楽団に後にスメタナが参加し、ドヴォルザークはこの偉大な音楽家から強い影響を受ける。
  • 30歳の時に楽団を辞めて教会のオルガン弾きになる。優秀な音楽家への奨学金制度に応募していて、彼の才能がブラームスの目に止まり、お陰でドヴォルザークの音楽はヨーロッパ中で聴かれるようになる。
  • 37歳、ブラームスの紹介で管弦楽曲『スラブ舞曲』第1集をベルリンで出版、一躍名声を高めた。40代半ばから創作力は最盛期を迎え、また英国、ロシアなど諸外国を訪れて熱列な歓迎を受けた。
  • 50歳、プラハ音楽院教授となり、のちの院長(50〜53歳)時代をふくめ、スーク、ノバークら多くの音楽家を育成。
  • 51〜54歳、新設のニューヨーク国民音楽院の院長に招かれて滞米。『交響曲第9番・新世界から』『弦楽四重奏曲第12番・アメリカ』(ともに52歳)、『チェロ協奏曲』(54歳)などの名作を発表。
  • スメタナを継ぐチェコ国民楽派の作曲家で、その音楽にはドイツ・ロマン派の諸様式とチェコの民俗音楽の語法の高度な融合がみられる。代表作にはほかに、『弦楽セレナード』(34歳)、オラトリオ『スタバト・マーテル』(35〜36歳)、『ピアノ五重奏曲』(46歳)、『交響曲第8番』(48歳)、オペラ『ルサルカ』(59歳)などがある。
  • 『真昼の魔女』など4つの交響詩(いずれも55歳)の精妙な書法はヤナーチェクにも影響を与えた。
  • 晩年、ドヴォルザークは望郷の念にかられ、故郷のボヘミアに戻った。
  • 『ユモレスク』は泣けますぜ。
  • ドボルザークはどえりゃー早起きだったという。ボクも同じく超朝型である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2005.12.04更新)




▲チェコの作曲家・アントニン・ドヴォルザーク。

62年7ヶ月と29日の生涯

アドルフ・ロース
Adolf Loos   【20世紀オーストリアの建築家】

(1870.12.10〜 1933.08.08)
死因?---射手座

  • ドレスデンで学んだ後、アメリカに渡りシカゴの高層ビルや実用的なデザインを見て大きな影響を受けた。
  • 1896年に帰国。オットー・ワーグナー「芸術は必要にのみ従う」という機能主義の主張を更に徹底させ、「装飾は罪悪(犯罪)である」と宣言した。
  • ロースによれば、装飾は原始人の刺青と同じようなもので、装飾の多さは文化水準が低いことを示すものである。こうした過激な言論で「ウィーン分離派」や「ウィーン工房」の装飾性を攻撃した。
  • 代表作ロースハウス(1910年)は、装飾をそぎ落とした建物で、モダニズム建築の先駆的な作品である。現在見ると、低層部に列柱が並び古典主義的な印象を受けるが、ウィーンの王宮前で歴史的建造物が並ぶ一角に建設されたため、当時は激しい非難を浴びた。
  • 晩年は絵を描いて過ごしたが、死の直前に全て焼き捨てたという。
  • 哲学者ヴィトゲンシュタイン(1889-1951年)と交友があったという。
  • 文学者ペーター・アルテンベルクとは親友で、アルテンベルク死の際には送辞を書き、さらに彼の墓をつくった。
  • 装飾罪悪論を宣言したのは "Ornament und Verbrechen"(1908年)。邦訳書に『装飾と犯罪』(伊藤哲夫訳、中央公論美術出版、2005)がある。
  • 作品:ミヒャエル広場のロースハウス。カフェ・ムゼウム(ウィーン、1899年) - 内部は白い壁ばかりで室内装飾がない。アメリカン・バー(ウィーン、1907年) - 小さなバーの内装に鏡や大理石などの素材を巧みに用い、豊かな空間を生み出している。シュタイナー邸 Steiner House(ウィーン、1910年)。ロースハウス Looshaus(ウィーン、1911年)
    ルーファー邸 Rufer House(ウィーン、1922年)。トリスタン・ツァラのスタジオと家 (モンマルトル、1926年) - ダダイストの住宅。Khuner Villa(クロイツベルク 、1930年)
    ヴィラ・ミュラー Villa Mu¨ller(プラハ、1930年)。
  • 「装飾は罪である」ロースのこの一言からモダニズム建築はスタートした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アドルフ・ロース-Wikipedia

(2008.04.29更新)


★装飾罪悪論を宣言

▲装飾をそぎ落とした建物で、モダニズム建築の先駆的な作品を残した建築家アドルフ・ロース。


ミヒャエル広場のロースハウス

ロース語録

「装飾は罪である」

62年7ヶ月と29日の生涯

野口雨情
Ujou Noguchi   【童謡『赤い靴』の生みの親】

(1882.05.29〜1945.01.27)
死因?---双子座

  • 茨城県多賀郡磯原村(現茨城市磯原)に生まれる。本名英吉。
  • 東京専門学校(現在の早稲田大学)中退。在学中坪内逍遥の薫陶を受ける。
  • 大正中期の民謡・童謡興隆の機運の中で、職を転々と変えながら、素朴な田園的情趣を主体とした作品を多く発表。生涯で約2000編もの死や同様を生み出し、全国各地の民謡創作にも力を注いだ。
  • 北原白秋西条八十の都会的風趣と対照された。民謡《船頭小唄》《波浮(はぶ)の港》や童謡《十五夜お月さん》《青い目の人形》などは広く愛唱された。
  • 「赤い靴」(大正10年)のほかに「十五夜お月さん」「七つの子」「青い目のお人形」「シャボン玉」「雨降りお月さん」「証城寺の狸ばやし」「あの町この町」「ウサギのダンス」「磯原節」「波浮の港」「船頭小唄」などたくさんの歌を書いている。
  • 「神様に罰当たりな振る舞いをしたとがめを受けて、少女は赤い靴に呪いをかけられた。履いているあいだは永遠に踊りつづけなさい、と。脱ぐことは許されない。童話「赤い靴」のなかで神様の使いが少女に告げる。「その赤いくつをはいておどるのだ、おまえがあおざめて、冷たくなるまで」(岩波文庫「アンデルセン童話集」)---
    〈赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった〉(野口雨情作詞、童謡「赤い靴」)」(1)。
  • 「2006年5月、野口雨情ゆかりの武蔵野市に住む声楽家らが「武蔵野雨情会」を発足させた。---雨情は武蔵野市に43歳の時移り住み、現在の宇都宮市に転居するまでの20年間余りを過ごした。井の頭池のほとりを朝夕、散策するなどして創作活動に励んだという」(2)。
  • 〈シャボン玉飛んだ/屋根まで飛んだ/屋根まで飛んで/こはれて消えた〉。野口雨情作詞、中山晋平作曲の童謡「シャボン玉」は1922年(大正11年)の作である。成り金の実業家が暗闇で高額紙幣を燃やし、明かりにする。当時描かれた漫画に象徴された、ばか騒ぎにも似た戦争景気「大正バブル」がシャボン玉のようにはじけて、人心の疲れ果てたころである」(3)。
  • 童謡で知られた雨情だが、日本全国を旅して各地に民謡も書いてる。現在、北海道から鹿児島まで実に107基の雨情の詩碑があるそうな。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2006.01.27朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)読売新聞2006.05.29朝刊「都民版」より抜粋。
    (3)読売新聞2006.09.06朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2006.09.06更新)




▲『赤い靴』『波浮の港』で知られる詩人、作詞家・野口雨情。

 

雨情語録

◆「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩である」

◆「民謡は、民族生活の情緒をつたふ唯一の郷土詩であり、土の自然詩である」

◆「詩とは、言葉の音楽である」

62年8ヶ月と20日の生涯

ジョルジュ・キュビエ
Georges Cuvier   【古生物学の創始者】

(1769.08.23〜1832.05.13)
コレラにより急死---乙女座

  • フランスの動物学者、解剖学者、古生物学者。古生物学の創始者といわれる。パリ大学教授、パリ大学総長、内務大臣を歴任。ナポレオンにも重用される。
  • シュトゥットガルトのカールス校に学ぶ。のちジョフロア・サン・ティレールに見いだされパリ自然史博物館の比較解剖学教授となる。
  • 化石骨の研究から古生物学・比較解剖学を開き、動物の自然分類体系を確立。またコレージュ・ド・フランスの教授を兼任。動物界を4群に分けるとともに、古生物学を独立の科学とした。
  • ラマルクの進化論を否定して天変地異説を唱えた。主著に『比較解剖学講義』『化石骨の研究』など。
  • 1830年に、サンチレールと激しい論争を繰り広げた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.08.17掲載)




▲古生物学の創始者といわれるフランスの動物学者、解剖学者、古生物学者ジョルジュ・キュビエ。

62年8ヶ月と21日の生涯

大原 麗子
Reiko Oohara  【すこし愛して、なが〜く愛して】

(1946.011.13〜 2009.08.03)
病死---蠍座---AB型

  • 東京都文京区出身。北豊島高等学校卒業。
  • 1964年、ドラマ『幸福試験』(NHK)でデビュー。翌年、東映に入社。佐久間良子主演の『孤独の賭け』が本格的な映画デビュー作。
  • 以後、高倉健の『網走番外地』シリーズや梅宮辰夫の『夜の青春』シリーズをはじめ数々の映画に出演。映画『男はつらいよ』シリーズでは、マドンナ役を2度務めた。テレビでも幾多のドラマで主演をこなし、「好感度No.1女優」の地位を得るに至る。
  • 「すこし愛して、なが〜く愛して」がキャッチコピーの「サントリー レッド」のCMが一世を風靡。レコードも数枚リリースしている。2度結婚(離婚)し、俳優の渡瀬恒彦、歌手の森進一は元夫。
  • 1999年から2000年にかけてギラン・バレー症候群の治療のため芸能活動を一時休止。所属事務所は長年に渡り「オフィス・アール」であったが、晩年は「ワンポイント」に属していた。
  • 2008年11月、自宅で足元がふらついて転倒。右手首を骨折し、ひざを打撲するなどの重傷を負った。ギラン・バレー症候群の影響でバランスを崩したものとみられている。
  • 2009年8月6日、連絡が取れず不審に思い、警察に通報していた実弟らによって、自宅で孤独死しているのが発見された。行政解剖の結果、同年8月3日に死亡したことが確認された。事件性はなく、病死であった(死因となった病名はわかっていない)。
  • 大原さんは1964年に芸能界デビューし、高倉健主演の「網走番外地」シリーズや梅宮辰夫主演の「夜の青春シリーズ」などに出演。71年に東映から芸能プロダクション、渡辺企画移籍後はテレビドラマを中心に活躍。石井ふく子プロデューサー(82)の作品に多く出演したほか、89年にNHK大河ドラマ「春日局」に主演し、大女優の仲間入りを果たした。タレントの明石家さんま(54)にものまねされ、バラエティー番組にも登場した。
  • 「〈美人薄命〉---中国・宋代の人、蘇軾の詩「いにしえより佳人はまさに命薄く……」による言葉で、もとは佳人薄命だった。〈命〉は運命または、いのち。薄命は薄幸・不運または短命だ。女優・大原麗子さんの突然の訃報にこの言葉を思う。〈好感度NO1〉といわれ、映画にテレビに舞台に、あれほど活躍した人を〈薄命〉というのは必ずしも当たらないかも知れない。しかし、死後2週間以上で発見された62歳の〈孤独死〉を思うと、やはり〈美人薄命〉だろう。手足の神経がマヒする難病「ギラン・バレー症候群」に悩まされ、老母の介護も抱えていた。2度の結婚と離婚もあった。華やかな芸能生活を振り返ると余計に〈諸行無常〉を思う。1964年、NHKの新人オーディションに合格したのは東京五輪の年だった。「男はつらいよ」で2度のマドンナ役、テレビの大河ドラマ「春日局」や「すこし愛して、なが〜く愛して」のCM……が懐かしくも悲しい。それにしても、近ごろ〈孤独死〉が多すぎないか」(1)。
  • 「元祖癒し系女優と言われていただけに最期は一人寂しくお亡くなりになって残念です」(2)。
  • 「麗子さんが演じたTBS制作の『源氏物語』の紫の上は素敵だったなあ。母親のように優しくて、でも少女のような可憐さがありました。紫の上の晩年は辛いものがありましたが、まさか麗子さんの人生がそれよりも遥かに切なく思えるものになるとは…。ご冥福をお祈りします」(3)。
  • 「仕事の方は順調でしたが私生活はほんとに波瀾万丈でしたね。私生活では幸せになって欲しかったです。あのウィスキーのCMはお父さん方には結構癒されたとかいってましたね。うちの父もあのCMは結構癒されたな〜っていっておりました。ご冥福をお祈りします」(4)。
  • 「人セム」も「すこし愛して、なが〜く愛して」!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    大原 麗子-Wikipedia
    (1)読売新聞2009.08.07夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (2)投稿者:かものはしかもさん..2009/ 8/ 8 13:55:24(土) [5694]
    (3)投稿者:Miwa さん..2009/ 8/ 9 09:04:53(日) [5699]
    (4)投稿者:かものはしかもさん..2009/ 8/10 00:41:00(月) [5704]

(2009.08.10更新)



▲〈好感度NO1〉といわれ、元祖癒し系女優ともいわれていた大原 麗子。



62年8ヶ月と22日の生涯

盧武鉉
No Muhyon    【大韓民国の政治家】

(1946.09.01〜2009.05.23)
自殺 乙女座

  • 本貫は光州盧氏。カトリック教徒で、洗礼名はユストゥス。権良淑(クォン・ヤンスク)夫人との間に1男1女。歴代で初めての日本統治時代を経験していない世代の大統領。
  • 慶尚南道金海市進永邑(チニョンウプ)烽下(ポンハ)の貧しい農家に生まれた。苦しい家計を思い一度は高校進学を諦めるが、兄の強い説得と助力で釜山商高に進学した。在学中に農協の就職試験を受けるも叶わず、卒業後に「三海工業」という小さな魚網会社に就職するが、その待遇に失望して一カ月半で退職。司法試験への挑戦を決意する。当時、高卒では司法試験を受ける資格が与えられなかったが、村外れのぼろ家に手を加えて「磨玉堂」と名づけて勉強の場とし、日雇い労働をしながら1966年11月に資格試験(司法及び行政要員予備試験)に、1971年に三級公務員の一次試験に合格。兵役をはさんで勉強を続け、1975年司法試験に合格した。司法研修院で研修を終えた後、
  • 1977年大田地方法院(裁判所)判事に就任。1978年判事を辞めて弁護士事務所を開業。租税関連の訴訟を専門としていたが、1981年に別の弁護士の代理として釜林事件の弁護を引き受けた事が転機となり、人権派弁護士として活動を始めた。
  • 1982年の釜山アメリカ文化院放火事件では被告側弁護人を担当した。1987年には大統領直接選挙制を求める6月抗争を主導し、大宇造船事件では逮捕と拘留も経験している。盧武鉉は後年、人権派弁護士への変身は覚悟や決意を要求されたものではないと語った。平凡な常識と良心、そして「拷問されて真っ黒になった学生の足の爪」を見ての憤りと怒りであったという。
  • 1988年に統一民主党(当時)の金泳三に抜擢され、その年の4月に行なわれた13代国会議員選挙で当選し、国会議員として政界入りした。国会の労働委員会では、李海?や李相洙とともに「労働委員会三銃士」と呼ばれ、活発な活動を行った。同年、第五共和国の不正調査特別委員会の委員となり、第五共和国聴聞会における全斗煥時代の不正追及の場面がテレビ中継されたことがきっかけで、国民的スターになった。
  • 1990年に民主党の金泳三派が盧泰愚の民主正義党、金鍾泌の新民主共和党と合党し(三党合同)、大与党・民主自由党を結成した。盧武鉉はこれを野合とし合同への参加を拒み、他の議員とともに1990年6月に改めて結成された民主党に加わり野党に残った。盧武鉉は金大中率いる新民主連合党との野党統合運動を推進し、1991年9月に統合野党としての新・民主党を発足させた。
  • その結果、恩師でもあった金泳三に睨まれることになり、1992年には14代国会議員選挙で落選。1995年に釜山市長選挙で落選。翌1996年の15代国会議員選挙も落選。1998年の補選にてようやく国会議員(ソウル市鐘路区[5]で当選。新政治国民会議)に復帰したが、2000年の16代国会議員選挙でソウル・鐘路区ではなく釜山市の北・江西乙選挙区から出馬(新千年民主党)し、再度落選する。しかし、勝てなくても立候補し続ける姿が一部の国民の共感を得て、2000年にインターネット上で盧武鉉のサポーター組織「ノサモ」(ノムヒョヌル・サランハヌン・モイム=盧武鉉を愛する集まりの意)が結成された。
  • 2000年8月、盧武鉉は金大中政権の海洋水産部の長官に任命された。これは湖南(全羅道)を地盤とする民主党が、民主党の支持が薄い嶺南(慶尚道)出身者を次期大統領候補(のひとり)として遇しようとしたためと言われている。
    2008年12月4日、実兄の盧建平が盧武鉉の高校の同窓生達と共謀し、盧武鉉が大統領在任中の2006年2月に世宗証券(現NH投資証券)が農協に売却されるよう農協会長に頼み、売却が実現すると世宗キャピタル(世宗証券大株主)の社長から30億ウォン(約1億8800万円)を受け取ったとして逮捕された。
  • 2009年5月23日、登山中に滑落し、頭部に重傷を負って病院に運ばれたが、死亡した。同日、記者会見した前大統領の側近、文在寅弁護士は、前大統領が家族に短い遺書を残していた事を明かした上で、登山中に自ら飛び降りたようだと語った。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    盧武鉉-Wikipedia

(2009.05.26掲載)



▲第16代の韓国大統領(2003年 〜2008年)盧武鉉。


▲2003年10月、ブッシュ大統領と会談中の盧武鉉

62年9ヶ月と3日の生涯

井上準之助
Junnosuke Inoue    【政治家及び財政家】

(1869.05.06〜1932.02.09=明治2年3月25日〜昭和7年2月9日)
暗殺---牡牛座

  • 大分県日田市大鶴町の造り酒屋に生まれる。号は清渓。
  • 1893年 東京帝国大学英法科入学。1896年 同大卒業後、日本銀行入行。
  • 1913年 横浜正金銀行頭取就任。東京ゴルフクラブ創設。
  • 1919年 日本銀行総裁就任(初の日本銀行生え抜き総裁)。
  • 1923年 第2次山本権兵衛内閣の蔵相。1927年 再度日銀総裁となって金融恐慌を鎮めた。
  • 1929年には浜口内閣の蔵相として金解禁断行。1932年2月9日 選挙運動中に血盟団員小沼正に暗殺される。
  • 第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。
  • 金輸出解禁政策は失敗であったが、全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度を評価する向きもある。
  • 夫人は、華族毛利子爵家の出。子息、井上四郎は日銀理事を務めた。
  • 緊縮財政と金解禁を断行して凶弾に倒れた井上準之助は城山三郎の「男子の本懐」で描かれた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    井上準之助
    井上準之助 - Wikipedia

(2004.04.15掲載)




▲日本銀行第9、11代総裁、東洋文庫初代理事長・井上準之助。

62年9ヶ月と21日の生涯

モーリス・ラヴェル
Joseph-Maurice Ravel   【フランスの作曲家】

(1875.03.07〜1937.12.28)
自動車事故-精神錯乱-脳が萎縮するピック病---魚座

  • 20世紀の夜明けを象徴する耽美的な世界を描いたフランスの作曲家。スイス人の父とバスク系フランス人の母の間にバスク地方のシブールで生まれ、生後3ヵ月でパリに移る。
  • 14歳でパリ音楽院に入学し、22歳のときからフォーレの作曲クラスに学ぶ。24歳のパリ万国博覧会ではドビュッシー同様ガムラン音楽に衝撃を受け、リムスキー・コルサコフの指揮するロシア音楽に心躍らせた。
  • 解放された時代に多面的な才能を発揮した。シャブリエやサティドビュッシーなどの影響を独自に消化し、『弦楽四重奏曲』(27〜28歳)、ピアノ曲『鏡』(29〜30歳)などを完成、20代後半で早くも成熟した音楽語法を掌中にした。以後、演奏旅行のほかはパリで過ごし、教職にはつかず独身で通した。
  • 初期は印象主義的な書法を示したが、その後古典主義的な造形感覚に根ざし、新鮮な和声とリズム、乾いたユーモア、巧みな管弦楽法などが渾然と溶け合った完成度の高い特有の音楽世界をつくりだした。
  • 後年はジャズの語法も採用した。代表作に才気ばかりではない狂気のようなものを感じる『ボレロ』(53歳)などのバレエ音楽、『バイオリンとチェロのためのソナタ』(45〜47歳)などの室内楽曲。
  • 謎めいたその私生活、そして「性の倒錯」という視点。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.09.17掲載)




▲20世紀の夜明けを象徴する耽美的な世界を描いたフランスの作曲家・モーリス・ラヴェル。

62年9ヶ月と22日の生涯

藤子・F・不二雄/藤本弘
Fujiko・F・Fjio   【『ドラえもん』の生みの親】

(1933.12.01〜1996.09.23)
肝不全---射手座

  • 藤本弘(富山県高岡市生れ、高岡工芸高卒)と安孫子素雄(富山県永見市生れ、高岡中部高卒)のコンビからなる漫画家。
  • 小学校時代に知り合い、中学時代に漫画の合作を始める。手塚治虫の『新宝島』を読んで漫画家を志し投稿を繰り返した後、18歳『天使の玉ちゃん』でデビュー。
  • 21歳、手塚のすすめで上京、トキワ荘に住み寺田ヒロオ、赤塚不二夫、石ノ森章太郎らと親交を持つ。『海の王子』(26歳)で評価を確立。31歳、連載開始の『オバケのQ太郎』の頃より個別に制作。
  • 藤本は『ドラえもん』『パーマン』など、安孫子は『怪物くん』『魔太郎がくる!!』などを手がける(発表は共同名義)。
  • 55歳、コンビを解消し、藤本は藤子・F・不二雄、安孫子は藤子不二雄@の名義で発表。半自伝的作品に『まんが道』(藤子不二雄@)がある。
  • 「まとめ買いしたフランスパンを朝昼晩にかじり、二人で机を並べて漫画を描く。寒い夜は布団を頭からかぶり、睡魔に襲われると、ペン先で互いの太ももを刺し合った。東京・椎名町の木造アパート、トキワ荘の日々を「藤子不二雄」のおふたり、安孫子素雄(あびこもとお)(74)、藤本弘(96年逝去)の両氏は自叙伝のなかで回想している。手塚治虫さんがここから天空高く羽ばたき、まだ少年の面影を残す石ノ森章太郎さんや赤塚不二夫さんがひな鳥の時期を過ごした。若手漫画家の梁山泊と呼ばれた伝説のアパートである。藤本さんとの合作「オバケのQ太郎」や一人で描いた「忍者ハットリくん」などで知られる藤子不二雄(A)――安孫子さんが秋の叙勲で旭日小綬章に選ばれた。藤子不二雄を名乗る以前、「足塚不二雄」というペンネームを付けていた時期がある。「手塚先生の“手”に遠く及ばぬ“足”である」と。神のごとく仰ぎ見た手塚さんの生誕80年にあたるきのう、受章が報じられた。赤塚不二夫さん(享年72)が亡くなって間がない。悲しみにつけ、喜びにつけ、トキワ荘から流れた歳月のしのばれる秋である」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2008.11.04朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2009.09.29更新)



▲『ドラえもん』の作者・藤子・F・不二雄。
(イラスト 大城さん)

62年9ヶ月と27日の生涯

オッペンハイマー
J. Robert Oppenheimer  【「原爆の父」】

(1904.04.22〜1967.02.18)
死因?---牡牛座

  • ユダヤ系アメリカ人の物理学者。はじめて核兵器を産み出した当人でありながら、戦後には核兵器に反対の立場を取るようになる。
  • ロバート・オッペンハイマーは、1904年、ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は画家エラ・フリードマンである。
  • 非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。一方で運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった。彼はハーバード大学に入学し、化学を専攻した。
  • 1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。ここでニールス・ボーアと出会い、化学から物理学の世界へと入っていくことになる。彼はケンブリッジからゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得。ここでの業績には、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」がある。
  • 1929年には若くしてカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。
  • 第二次世界大戦のさなか、1942年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。
  • 彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』と呼ばれている)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語った所だと、世界に使う事のできない兵器を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていたそうであるが、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしてもそれを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたそうだ。
  • 戦後は核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」エドワード・テラーと対立し、いわゆる赤狩りが吹き荒れていた中、ジョセフ・マッカーシーに妻のキティ・オッペンハイマーと弟のフランク・オッペンハイマーが公然たるアメリカ共産党員だったことや自身も共産党系の集会に参加したことが暴露され、1953年、機密安全保持疑惑で、公職を解かれただけではなく私生活においても常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた。
  • オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神が自らの任務を完遂すべく、王子を説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死なり、多くの世界の破壊者なり」と語った部分を引用してヴィシュヌを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命された。
  • オッペンハイマーは、中性子星の研究にからんで、星の質量がある限度を超えれば、中性子にまで縮退した星がさらに圧潰する可能性を示し、ブラックホール生成の研究の端緒を開いた。しかし、彼のブラックホール研究は、マンハッタン計画への参画によって中断した。
  • J・ロバート・オッペンハイマーの頭文字「J」の意味は多くの混乱の源だった。歴史家アリス・キンボール・スミスおよびチャールズ・ウィンナーが彼らの著書『ロバート・オッペンハイマー:文字と記憶』(ハーバード大学出版社: ケンブリッジ、1980年)の1ページ目で的確に要約している。「ロバートの名前中の「J」はユリウスを表わしたか、あるいはロバートが彼自身以前言った「無意味」であるかどうか、どちらの説でも完全には解決されないかもしれない。彼の兄弟フランクは、「J」が父親の長男を意味する記号だったと推測している。だが同時に彼の親がロバートを「ジュニア」とすることを望まなかったという意味を表しているかもしれない。」ピーター・グッドチャイルドの『J・ロバート・オッペンハイマー:世界の破砕者』(ホートン・ミフリン: ボストン、1981年)の中では、ロバートの父親ユリウスが区別するために意味のない頭文字を付け加えたとしている。しかし、グッドチャイルドの本には脚注がなく、この主張の源が不明瞭である。
  • 終末時計が最も進んだのはあと2分。米ソで水爆実験に成功した1953年だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ロバート・オッペンハイマー-Wikipedia

(2007.01.20掲載)




▲ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導し、原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られるJ・ロバート・オッペンハイマー。


◆アインシュタインとオッペンハイマー


62年10ヶ月と2日の生涯

乃木希典
Maresuke Nogi    【日露戦争での代表的軍人】

(1849.11.11〜1912.09.13)
明治天皇の大葬当日、自邸で妻静子とともに殉死---蠍座

  • 嘉永二年(一八四九)十一月、長府藩士乃木希次(まれつぐ)の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に生まれ る。希次の第3子。
  • 乃木家は代々医をもって江戸長府藩邸に仕えていたようだが希次の時禄高八十石の馬廻格として士分に取り立てられた。幼名を無人(なきと)、のちに源三、文蔵と改めた。
  • 安政五年(一八五八)十歳のとき、父と共に長府へ帰り、文久三年(一八六三)幕末の争乱の最中、十五歳で集童場へ入る。ここで桂弥一、滝川辯三らと共に学んだ。のち松陰の叔父にあたる萩藩の玉木文之進の指導を受け、つづいて萩藩校の明倫館に入学。
  • 慶応二年(一八六六)六月に小倉戦争がはじまると、彼は萩から長府へ帰り、報国隊に加わって活躍。このとき十八歳、彼が経験したはじめての戦いだった。明治二年には彼は伏見親兵兵営に入り、ここでフランス式の軍事訓練を受け、職業軍人として歩みはじめた。明治四年、二十三歳で陸軍少佐に任官。
  • 明治十年二十九歳のときには第十四連隊長心得として西南の役に出陣したが、熊本城攻撃の最中に連隊旗を失うという事件が発生し、生涯彼の心に大きな負担を与えつづけ後の殉死に至る大きな要因となった。
  • 明治十九年ドイツ留学、同二十一年帰国。このドイツ留学後、彼はその生活態度を一変させ、以後「乃木式」と呼ばれる質実簡素な生活が始まった。
  • 明治二十五年、彼が四十四歳のとき、一時軍を退いて栃木県那須で農耕生活に入ったが、二十七年に日清戦争がはじまると第一旅団長として参戦。また三十七年に日露戦争がはじまると第三軍司令官として旅順要塞の攻略戦を指揮した。このとき彼は二人の息子を戦いで失い、名高い「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」の詩を残す。
  • 明治四十年、五十九歳のとき明治天皇の要請で学習院院長に就任、彼の人間性が教育の面に強く浮き彫りされた。
  • 彼は詩人としても非凡な才能を持ち、書にも巧みであった。長府には、長府博物館・乃木神社宝物館・豊浦小学校教育資料館・長府図書館等に数多くのゆかりの品が保存されてる。
  • 1912年(大正元年)9月13日、明治天皇の大葬当日、自邸で妻静子とともに殉死。
  • 司馬遼太郎の小説で「乃木無能論」が広く知られるようになり、一般に流布するイメージは芳しくない。
  • 「日露戦争で旅順を攻略した司令官、乃木希典に「凱旋」という詩がある。題名とは異なり、一字一字が重く、苦い。「愧(は)ず、我何の顔(かんばせ)あってか父老に看(まみ)えん。凱歌、今日幾人か還る」。私はどの面さげて戦死者の親御たちに会えよう。凱旋の日、何人の兵士が生きて還ったか、と。旅順を攻撃した兵力10万人のうち、死者は1万5000人を超えた。司馬遼太郎氏は、策らしい策もなく、兵士の勇敢さだけを頼みにした無理な攻撃が多大な犠牲を生んだと述べ、乃木司令部を「戦史にまれな無能司令部」と酷評している。司馬氏の「無能説」には一部で異論もあるが、深い精神世界をもつ求道的な人柄が広く慕われただけに、合理的な思考にやや乏しい戦術家としての頼りなさが際立つのだろう」(1)。
  • 「日露戦争の旅順攻略戦を制した乃木希典大将は中国・水師営(すいしえい)で敵将ステッセル将軍と会談した。唱歌にも残る「水師営の会見」である。〈昨日の敵は今日の友/語ることばもうちとけて…〉。ラグビーでは敵・味方どちらの側(=サイド)もないという意味で試合終了のことを「ノーサイド」と呼ぶが、「戦」と名のつくものは何によらず、その笛を聞いてからの身の処し方が難しい」(2)。
  • 「たまさん 野木希典の辞世と死の翌日に乃木大将夫婦の死状を報じた朝日新聞の記事をお供えします。
    〈うつし世を神さりませし大君のみあとしたいて我は行くなり〉〈自殺せる室には先帝陛下の御写真並に日露役に戦死せし両息の写真を懸け其下に於て大将は短刀を逆手に持ち右より左に掛け咽頭を切り夫人は左の乳下を心臓に達するまで突き刺したり〉」(3)。
  • 乃木大将率いる日本軍が、日露戦争で激戦地だった203高地(現在の中国大連市旅順口区)を占領したのは1904年12月5日。2004年、百年目を迎えた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「乃木希典」http://member.nifty.ne.jp/chohu/nogi.htm
    (1)読売新聞2005.05.27「編集手帳」より抜粋。
    (2)読売新聞2008.06.05「編集手帳」より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん..2008/ 7/10 11:03:44(木) [3262]

(2009.10.05更新)



▲明治天皇の大葬当日、自邸で妻静子とともに殉死した乃木希典。
(イラスト 大城さん)







▲乃木夫妻殉死の朝

62年10ヶ月と2日の生涯

ジャンフランコ・フェレ
Gianfranco Ferre        【ミラノの3G】

(1944.08.15〜 2007.06.17)
脳内出血---獅子座

  • 第二次世界大戦中の1944年にイタリアとスイスの国境近くのルガーノで生まれる。
  • その後ミラノ工科大学建築学科を卒業し、アクセサリーデザインを経て1978年に自らの名を冠した「ジャンフランコ・フェレ」コレクションを発表。
  • ミラノを基盤にコレクションを持つジョルジオ・アルマーニとジャンニ・ヴェルサーチとともに「ミラノの3G」として世界中にその名をとどろかせた。1980年代から90年代に描けて業界を先導。
  • その後、自分のコレクションを持ったまま1989年にフランスの名門メゾンであるクリスチャン・ディオールのチーフデザイナーに就任。1996年に退任後は自らのコレクションに専念。
  • 2005年には、大韓民国の航空会社である大韓航空の女性客室乗務員のユニフォームのデザインを手がけた。
  • 2007年6月に脳内出血を起こし、ミラノ市内の病院に入院し治療を続けていたが、同年6月17に死去した。62歳だった。
  • 「---葬儀には、デザイナー仲間や多くの市民が参列。先月(2007年6月)のミラノコレクションでは、アルマーニが自身のショー会場にフェレの写真を大きく写して追悼の意を表した」(1)。
  • 建築的視点による立体的なファッションデザイン。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジャンフランコ・フェレ-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.07.13夕刊「モード」(矢島みゆき)より抜粋。

(2007.07.04更新)




▲イタリアを代表するファッションデザイナーだったジャンフランコ・フェレ。



62年10ヶ月と5日の生涯

ゴダード
Robert Hutchins Goddard   【近代ロケットの父】

(1882.10.5〜 1945.08.10)
死因?---天秤座

  • マサチューセッツ州ウースターのクラーク大学の物理学教師だったゴダードは、世界で初めて本格的なロケットを作った科学者で、「近代ロケットの父」と呼ばれる。
  • 革命的な業績を残すが、その理論は時代から先走っていたため、同時代にはしばしば嘲りの対象になった。
  • マサチューセッツ州ウースターで生まれ、16歳でH・G・ウェルズのSF古典『宇宙戦争』やジュール・ベルヌの本を読むことで宇宙に対する興味を持ち始めた。雑誌に科学論文を投稿している。
  • クラーク大学とプリンストン大学に入学し、1914年までに彼はスミソニアン協会からの財政援助を受けロケット・モーターの設計に取り組んだ。1919年には月飛行の可能性について執筆。
  • 1926年3月16日にマサチューセッツ州オーバーンオーバーンの農場で、最初の液体燃料ロケットを打ち上げた。飛行時間2.5秒、最高高度12メートル、到達水平距離56メートル、平均時速100キロメートル。その後、クラーク大学の物理学教師として研究を続け、後にスミソニアン協会の援助でニューメキシコ州ロズウェルの実験場で実験を続けた。
  • 液体燃料ロケットや推進ノズルの特許を取得し、ロケットの自動誘導装置(ジャイロスコープ)なども研究している。
  • その歴史的な出来事を彼は日記に簡潔に記入した。「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた。」「ネル」と名付けられたロケットは人間の腕くらいのサイズで、2.5秒間に41フィート上昇した。それは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験だった。
  • ゴダードはその業績から214の特許を得たが、ほとんどは1945年の彼の死後与えられた。1959年に設立されたゴダード宇宙センターは彼にちなんで命名された。
  • 「ゴダードは他人を信用せず独りで研究を進め、その業績の波及は限られたものだった。彼の非社交性は、他の科学者およびメディアから受けた酷評によるものだった。1929年に行われた実験の後にウスターの地方紙は「月ロケットは238,799.5マイルの目標を失った」との見出しで記事を掲載した。ゴダードの画期的な論文「高々度に達する方法」に対してニューヨーク・タイムズ紙は、真空中ではロケットを推し進める物質が存在しないので移動できないことを「誰でも知っている」として痛烈に批判した。記事はゴダードが「高校で学ぶべき知識を持っていないようだ」と非難した。結局ゴダードは後にUFO騒ぎで有名になるニューメキシコ州のロズウェルで働くことになった。彼はアメリカ陸軍のためにロケット工学の研究を行ったが、陸軍はその研究の価値を理解できなかった。唯一の例外は第一次世界大戦の終了直前1918年11月にプロトタイプの実験を行ったバズーカだった。皮肉にも、彼の研究に一番の興味を抱いたのはドイツだった。ドイツの科学者、ヴェルナー・フォン・ブラウンは、ゴダードの理論からV2ロケットを完成させた。1969年、アポロ11号の月着陸のちょうど前日にニューヨーク・タイムズ紙は49年前に発表したゴダードについての社説を撤回した。同紙はゴダードの実験を「より進んだ実験と調査」と呼び「17世紀のアイザック・ニュートンの実験結果を確認し、大気中と同様に真空中でもロケットが機能できることは明確にいま実証された。タイムズは過ちを後悔する。」 との社説を発表した」(1)。
  • 「彼のアイデアと理論と技術はすべてドイツのV2ロケットに生かされました。V2は彼のネルに酷似していましたから、それは明らかでした。戦後、捕虜になったドイツ科学者はV2の着想をどこから得たのかとか、その他何やらかやらを、連合国側からたずねられた時、「自分達のところのゴダード博士にきいたらどうだ? 彼はわれわれの中のだれよりも良く知っているよ」と答えたと伝えられている」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「先駆者たち・ロバート・ハッチングス・ゴダード」
    (1)「ロバート・ゴダード-Wikipedia
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/ 8/ 3 10:39:39(木) [71]

(2006.08.03掲載)




▲世界で初めて液体燃料ロケット打上げに成功し、 自動誘導装置(ジャイロ)の研究もした現代のロケット工学の開拓者のうちの一人、ロバート・ハッチンス・ゴダード。

62年10ヶ月と9日の生涯

宮崎 康平
Kouhei Miyazaki  【『まぼろしの邪馬台国』の著者】

(1917.05.07〜 1980.03.16)
死因?---牡牛座

  • 長崎県島原市生まれの古代史研究家、作家、元会社役員。本名は宮崎一章。
  • 1917年、島原市で宮崎組という土建業を営む家に生まれる。旧制早稲田大学文学部を卒業後の1940年に東宝映画(現在の東宝)へ脚本家として入社する。1945年に兄が死去したのため東宝を退社して実家へ戻り宮崎組の取締役となる。同時に島原鉄道の取締役にも就任。長崎市への原子爆弾投下によって、宮崎組の経営は行き詰まり、1946年に宮崎組は倒産した。
  • 1949年、地方巡幸に伴い昭和天皇の島原来訪、島原鉄道は路盤を強化する必要に迫られ、昼夜を徹した突貫工事が行われる。このときの過労がたたり、1950年に眼底網膜炎で失明、同時に当時結婚していた妻より離縁の申し出を受けて離婚。離婚後に一人で子どもを育てた際に歌って聞かせた子守唄が後に「島原の子守唄」として知られるようになる。また同年、失明を理由に島原鉄道常務取締役を辞任した。このとき、会社は宮崎を慰留しているが失明したものには仕事はできないとこれを固辞している。1952年に「島原鉄道観光の歌」を作ることとなり、島原鉄道は宮崎へ作詞を依頼、この歌の作曲をした古関裕而と知り合う。
  • 1957年には和子と再婚、同年7月には島原大水害が発生、島原鉄道の強い要請で再び常務取締役となっていた宮崎は鉄道復旧のため、1949年と同様に陣頭指揮に立つ。このとき、多数の土器が出土したことから宮崎は古代史の研究に強い興味を示すこととなる。
  • 1960年には島原鉄道常務取締役を辞任、九州全域から朝鮮半島にまでいたる調査を経て、1965年から文学雑誌・九州文学へ調査結果を連載し始める。これをまとめ、一冊の本としたのが講談社から1967年に発売された『まぼろしの邪馬台国』である。この書籍はベストセラーとなり学者のレヴェルにとどまっていた邪馬台国論争を一般にまで広めたとされる。この功績により、同年創設された第1回吉川英治文化賞(一部の文献やマスメディアでは「吉川英治文学賞」となっている場合があるが、これは誤りである。)を受賞した。なおこの書籍が妻・和子の口述筆記によるものであったことから同賞は夫妻に対して贈られている。
  • 1980年には『まぼろしの邪馬台国』の改訂版『新版 まぼろしの邪馬台国』を著し、併せて今後の邪馬台国研究の予定を公にするものの急逝。1980年3月16日(満62歳没)。
  • 作家、城山三郎の小説『盲人重役』は宮崎の半生をもとにして書かれた作品である。
  • 宮崎とシンガーソングライターのさだまさしの父親とは古くからの友人同士であり、その関係からデビュー以前からさだまさしとも親交を結んでいた。1981年に宮崎の死を悼んだ楽曲「邪馬臺」(アルバム「うつろひ」に収録。)を発表している。
  • 第11回全日本国民的美少女コンテストで演技部門賞を受賞した、宮崎香蓮の祖父である。
  • 離婚後に一人で子どもを育てた際に歌って聞かせた子守唄は古関の強い薦めもあって「島原の子守唄」として改めて作詞、島倉千代子の歌唱でコロムビアレコードより発売する。「島原の子守唄」は当初島原地方で歌い継がれていた子守唄がベースとなっているとされたため、レコードでは「採譜・補作 宮崎耿平、編曲 古関裕而」と記載されていた。しかしその後、歌詞も曲も宮崎の創作であることが判明したため、現在JASRACには「作詞・作曲 宮崎一章」として登録されている。「島原の子守唄」が世に知れ渡ったのは1959年にペギー葉山がレコーディングした音盤がヒットしたためである。
  • 「邪馬台国の発見に見せられた夫婦の歩みを実話の元に描く「まぼろしの邪馬台国」(堤幸彦監督)が11月1日から公開される。吉永小百合演じる妻に支えられながら、破天荒な夫を竹中直人が演じる」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    宮崎康平-Wikipedia
    (1)読売新聞2008.10.17夕刊「映画」よりリライト。

(2008.10.20掲載)



▲『まぼろしの邪馬台国』によって日本中に邪馬台国論争を巻き起こした宮崎 康平。



62年10ヶ月と16日?の生涯

徳川綱吉
Tsunayoshi Tokugawa    【江戸幕府5代将軍】

(1646.02.23〜1709.01.08?)
死因?---?座

  • 江戸幕府5代将軍。3代将軍家光の四男。幼名徳松。法号常憲院。母は本庄氏、桂昌院。
  • 1661年上野国館林城主、1680年(34歳)4代将軍兄家綱の死後、将軍を継承。老中堀田正俊を大老にすえ、勘定吟味役を創置して勤務不良の代官を大量処分,また親藩筆頭越後高田藩松平家の御家騒動(越後騒動)を親裁、同家を取りつぶして譜代層を従わせた。
  • 綱吉は儒学に傾倒、1682年(36歳)に孝子表彰制度を設けるなど儒学精神を施政に反映させることに意欲を燃やす。「生類憐みの令」も聖徳の君主の世には仁慈は鳥獣にまでおよぶという理想の実現を目指したもの。しかしこの法は迎合する幕臣によってゆがめられ、庶民たちにはかえって虐政となった。
  • 1684年(38歳)堀田正俊が殺されて後は、牧野成貞、柳沢吉保ら寵臣の権勢が増大。貸幣悪鋳など新たな経済動向への根本的な対応を欠いた経済政策は、経済界を混乱させた。これらはのち綱吉治世の悪評の要因をなした。
  • 1702年(56歳)12月14日、大石内蔵助ら四十七士は吉良上野介の邸に討ち入った。法を重視するか、それとも忠義を認めるか?。綱吉はその裁定に苦慮する。最終的には公弁法親王の「武士の道を立てて死を与えることこそ、その志を立てることになる」という言葉に、切腹言い渡しを決断する。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.12.11更新)




▲「生類 憐みの令」で知られる江戸幕府5代将軍・徳川綱吉。

62年10ヶ月と16日の生涯

J.M.ケインズ
John Maynar Keynes   【ケインズ革命の生みの親】

(1883.06.05〜1946.04.21)
死因? ---双子座

  • 『雇用・利子および貨幣の一般理論』で知られる英国の経済学者。
  • A.マーシャルの影響下にあって25歳以後、母校ケンブリッジ大学で貨幣・金融論を講じた。
  • 46歳、パリ平和会議首席代表。第2次大戦中は蔵相顧問会議員およびイングランド銀行理事。61歳でブレトン・ウッズ会議首席代表。63歳でIMFと国際復興開発銀行理事。
  • 第1次大戦後の英国の金本位制復帰に反対して管理通貨制を提唱した『貨幣改革論』(40歳)。通貨管理の基準となる貨幣価値の基本方程式を示した『貨幣論』(47歳)で注目されたが、特に『雇用・利子および貨幣の一般理論』(53歳)で完全雇用のための画期的理論を展開。
  • 有効需要、乗数理論、流動性選好説を用いて新投資による非自発的失業の克服を示したその独創的な理論を展開。
  • 米国のニューディール政策、現在の各国の公共投資政策とも結びついて、「ケインズ革命」といわれる大きな影響を及ぼしている。
  • 「ケインズといえば、第二次大戦後の通貨体制を構築した学者として有名だ。それに対し著者はその功績を認めつつも、「栄光が凋落と背中合わせだった」として、彼の負の側面をあぶり出す」(1)。
  • 「小生は長い目で見ることが人生で大事と思っていますが、ケインズは長い目で見れば何事もうまくいくのだと決めてかかる経済理論家に我慢がならなかったらしい。こんなことを言っています。〈この『長い目』という考え方は、目の前の出来事を見誤らせる。〉〈『長い目で見れば』わたしたちはみんな死ぬ。〉と」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)日経新聞2006.03.26朝刊 米倉茂著「落日の肖像-ケインズ」より抜粋。
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/10/27 14:15:17(金) [414]

(2006.10.27更新)




▲『雇用・利子および貨幣の一般理論』で知られる英国の経済学者・J.M.ケインズ。

62年10ヶ月と28日の生涯

ジョルジョ・ヴァザーリ
Giorgio Vasari   【イタリアの画家・建築家】

(1511.07.30〜1574.06.27)
死因?---獅子座

  • ミケランジェロを崇拝し美術史の古典を書いたイタリアの画家・建築家。
  • ヴァザーリは、ルネサンスの最後尾に登場。ルネサンスからマニエリズムへと移りゆく激動の時代。様式上は、次のマニエリズムに所属する。
  • 画家にして建築家、祝祭の演出家にして舞台装置家、そしてなによりも『画家・彫刻家・建築家列伝』の著者。画家や建築家としては二流であったという一般的評価からあまり知られていない。
  • 著書である『芸術家列伝-ルネサンスの画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年-39歳)と称される伝記集によって、同時代の芸術家たちの業績を著述、最初の美術史家として後世に名を残す。
  • 「ミネルバの梟は、夕暮れをまって飛ぶ」という。16世紀の半ば近く彼によってルネサンスの本性が、あらわに表現された。
  • フィレンツェの政治空間を支配するメディチ家と、文化空間を作為するヴァザーリ。その密接な協働によって、フィレンツェは今の表情を獲得する。
  • 「伝記という言説は、修辞学的に練り上げられてきた鋳型やコードにはめ込んで物語るという側面があることも、忘れてはならない」(岡田温司---意味が分からない)。
  • ボクも三流の建築家ゆえ妙に親近感が湧く。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ロラン・ル・モレ著『ジョルジュ・ヴァザーリ-メディチ家の演出者』白水社の書評、樺山紘一 読売新聞2003.12.14朝刊のリライト
    及び岡田温司の書評 日経新聞2003.12.21朝刊他をリミックス)。

(2006.10.20更新)




▲ミケランジェロを崇拝し美術史の古典を書いたイタリアの画家・建築家・ヴァザーリ。

 


▲『ジョルジョ・ヴァザーリ メディチ家の演出者』
著者:ロラン・ル・モレ著
平川 祐弘訳 平川 恵子訳
出版:白水社
■内容説明
「美術家列伝」の著者としてつとに有名なヴァザーリ。万能人の系列に末尾に連なる一人であり、ルネサンスの最後を飾った多力者の生涯をあますところなく描くと同時に、メディチ家支配下のフィレンツェの政治、文化を俯瞰する。
■著者紹介
〈ル・モレ〉グルノーブル大学教授。

62年11ヶ月と2日の生涯

ルーベンス
Peter Paul Rubens   【バロックを代表する宮廷画家】

(1577.06.28〜1640.05.30)
死因?---双子座

  • ドイツはフランドルのバロックを代表する宮廷画家。フラマン語ではリュベンス。
  • ドイツのウェストファーレン地方ジーゲンに外交官 で法律家のヤン・ルーベンスの息子として、「いうことなすこと、すべてだれにもよろこばれるように」生まれついていた。
  • 少年時代伯爵の小姓として仕えていたが、のちアントワープで絵を学ぶ。学校を卒業した後、23歳でイタリアとスペインで絵画留学。
  • ベネチアではティツィアーノの作品を研究。ミケランジェロらの作品からも影響うけ、31歳で父の死とともに実家のあるアントワープに戻る。同年アントワープの名家の娘イサベラ・ブラントと結婚、このころから豊麗な色彩、力強い動感、劇的な画面構成など独自の様式が開花。
  • その後、スペイン領ネーデルランド総督アルブレヒト大公とイザベル大公妃の宮廷画家に任命される。アントワープ画壇の中心的存在として多くの弟子を抱え、多数の肖像画、宗教画、風景画、動物画、神話画、歴史画、風俗画とあらゆる題材を描いた。
  • 彼の絵は強い感覚、明るい色彩、広い構図を特徴とし、生の喜びに満ち溢れているといわれ、貴族や教会から無数の注文を受ける。大規模な工房を経営し、ヤン・ブリューゲル、ファン・デイクらを含む多くの共同制作者や助手を得る。作品の中には弟子や助手の手の入っているものも多い。弟子は100人といわれ、工房はハリウッドさながらのようだったらしい。
  • 代表作品にアントウェルペン大聖堂の祭壇画『キリスト昇架』(33〜34歳)および『キリスト降架』(34〜37歳)のなど。
  • 47歳で娘クララ・セレナを、49歳には妻イザベラを亡くし、傷心を癒すべく外交官としてフランス、イタリ ア、イギリスで活躍。
  • 53歳の時、近くに住む絹織物商人の末娘で16歳のエレーヌ・フールマンと再婚。晩年、5人の子供に恵まれ、フランドルの豪著な館で幸福な晩年を過ごした。
  • 10年後の1640年に62歳の生涯に幕をおろす。
  • ルーベンスほど恵まれた人生を送った画家はいない。絵の技量ばかりでなく、知性に富み、人の力を借りて思う存分に描いた。画家以外の仕事でも偉業を残した。
  • アニメ化されたフランダースの犬のネロ少年が、最後に見たとされるルーベンスの絵は、ベルギーのアントウェルペン大聖堂にある。「ほら見てごらん、パトラッシュ、あんなに見たかったルーベンスの絵だよ」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.09.17掲載)




▲ドイツはフランドルのバロックを代表する宮廷画家・ルーベンス。



62年11ヶ月と10日の生涯

前田 光世
Mitsuyo Maeda      【史上最強の柔道家

(1878.12.18~1941.11.28)
内臓病 射手座

  • 青森県中津軽郡船沢村(現・弘前市)出身。1895年、青森県第一中学校(現・青森県立弘前高校)を中退して上京し、翌年早稲田中学(現・早稲田高校)に入学。
  • 入学後は相撲や野球で名を馳せたが、東京専門学校(現・早稲田大学)に柔道場が新設されたことをきっかけに柔道を始め、1897年6月には講道館に入門し、柔道に打ち込む。入門してからは講道館四天王の一人である横山作次郎などに鍛えられ、めきめきと頭角をあらわし、昇段審査(初段)の時には嘉納治五郎講道館初代館長の命により前田のみ十五人抜きを命ぜられる(見事これを達成)。またこの頃、東京専門学校に入学するも1904年に中退。
  • 四段位にあった1904年11月、柔道使節の一員として渡米。滞在費稼ぎや柔道普及のために異種格闘技戦を断行、対戦相手を求めてアメリカ中を周りボクサーやプロレスラー、拳法家などと戦う。なおその頃に、自分の名前を栄世(ひでよ)から光世に改名している。ある日、親日家であったルーズベルト大統領の計らいでホワイトハウスにて試合を行うも、団長を務めていた講道館四天王の一人富田常次郎が、体重約160kgの巨漢選手に敗れてしまう(これに関しては、「前田がルールの違いによって敗れた」「富田は苦戦の末引き分けた」など、資料によって記述の詳細が異なるため正確なところは判然としないが、いずれにせよ結果が芳しくないものであったことは確かなようである)。
  • 日本柔道の威厳を示すべく雪辱を誓った前田はアメリカに残り、1000ドルという賞金を餌に再びアメリカ全土を周り、挑戦してくるボクサーなどを片っ端から退ける。アトランタでは世界一の力持ちと恐れられたブッチャー・ボーイさえも破っている。その後はメキシコやヨーロッパなど世界各地で異種格闘技線を行い、ブラジルに辿り着く。この間柔道衣着用の試合では1000勝以上し、終に無敗であった。なお興行試合に出たことで講道館を破門されたとの説が流布しているが、その記録は確認されていない。
  • 最期の地はブラジルである。当時、治安の悪いブラジルにガスタオン・グレイシーが移民としてやって来た。ガスタオンの子供の一人、カーロス・グレイシーはやんちゃだったため、ガスタオンは前田に「柔術で鍛えてくれ」と依頼した。前田は、柔道改め柔術と護身術を教えた。カーロスは末っ子のエリオと共に稽古に励んだ。エリオは直接前田に柔術を習ったわけではないが、前田の柔術をさらに改良し、誰にでも使いこなせる術(すべ)として技術体系を完成させた。これが後の世に言われるグレイシー柔術である。エリオ・グレイシーもまた、前田と同じように自分の流派(グレイシー柔術)を広めるため後に異種格闘技戦を行い、柔道家の木村政彦とも闘う事となった。
  • また、グレイシー家以外にもブラジルにおいて柔道を教えており、その勢力前田派はブラジル柔道創世期、四大派閥の一つであった。
  • 1930年、コンデ・コマを本名にしてブラジルに帰化。
  • 1941年11月28日、入植先のアマゾンで死亡。最後に残した言葉は「柔道衣を持って来てくれ」であったという。死後、講道館より七段を贈呈され、また弘前公園には前田の功績をたたえた石碑が建てられている。墓はブラジル・パラ州の州都であるベレンにあり、UFCにて活躍中のLYOTOの父親マチダ氏(空手家)によって管理されている。
  • 死後60年以上経った今でも、史上最強の柔道家として前田光世を推す評論家は少なくない。
  • 小説家の夢枕獏が自著である「餓狼伝」のあとがきにおいて、とあるグレイシー柔術家(名前は伏せられていた)に「コンデ・コマは武術の奥義を海外に持ち出してしまったため、日本から来た武術家に暗殺されたと言われているが本当か?」と尋ねられた、というエピソードを紹介している。夢枕獏は前田光世の遺族にも取材をし、内臓病であることは分かっており、日本からブラジルに至る経緯からも、まずあり得ないと返答したとしている。
  • 渡米後の主な異種格闘技戦:アメリカアトランタにて、巨漢選手ブッチャー・ボーイと闘う(跳び十字固めで破る)。/ベアナックル方式のロンドン・プライズリング・ルールズ ボクシングでメキシコ人と闘う(下からの十字固めで倒す)。/開拓地にて、中国拳法家と闘う(蹴り足を掴んで膝十字固めを仕掛ける。相手が戦意喪失したため勝利)。
  • 漫画:『コンデ・コマ』では主人公として描かれるが、漫画的に脚色されている。/『修羅の門』の第4部では、コマに習った業をもとにあみだした『グラシエーロ柔術』が登場する。また、物語の核心にも係っている。/『修羅の刻』の第14巻・第七部西郷四郎編では、改名する前の名前で少しだけ登場している。
  • 脚註:横田順彌は著書『明治バンカラ快人伝』(光風社出版 1989年)の中で、「どうしても、それを裏付ける資料を見つけることができないが、一時、前田は講道館から破門されたという噂もある。もっとも、当時の講道館には破門制度はなかったともいうから、事実ではないのかもしれない」と書いており、拓務省に勤めておりブラジル移民に関わっていた長尾武雄の「しかし、講道館では、前田は柔道をもって興行している、日本武道をけがすものとして除名してしまった(中略)昭和の初めごろ、講道館もやっと氏の功績を認めなおしたか、除名をとき」という発言も紹介している。
  • なぜ柔道ではなく柔術を名乗ったかについては「講道館を破門の身であったため」「当時は柔術という名称の方が一般的だった」等、諸説ある。
  • その他夢枕獏は前田光世が講道館を破門されたのは、明治天皇を本気で投げてしまったため。などの噂を作中で披露している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    前田光世-Wikipedia

(2008.12.12更新)



▲講道館黎明期の男子柔道家(七段)で「コンデ・コマ」と言うもう一つの名前も持つ前田 光世。



62年11ヶ月と11日の生涯

岸たまき
Tamaki Kishi      【夢二式美人画の原型】

(1882.07.28〜1945.07.09=明治15年〜昭和20年)
死因?---獅子座

  • 石川県金沢市出身、本名は他万喜)は、戸籍上唯一妻となった女性である。兄を頼って上京後、結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。
  • 日本画家堀内喜一と結婚するが、夫が33歳で急死したため、東京で絵はがき屋「つるや」を開く。開店後まもなく夢二と出会い結婚。
  • 自立の為に早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヵ月後には結婚にいたった。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして別居を繰り返す。
  • 夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁にいたるが、たまきは夢二亡き後も終生彼を慕い続けたという。
  • 2年たらずで離婚することになるが、離婚後も生活を共にして3人の子供をもうける。眼の大きな女性で、夢二式美人画の原型となった女性である。
  • 女性との関係も華やかな夢二ではあるが、正式に結婚したのは彼女だけであった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    竹下夢二 -wikipedia

(2009.07.17 更新)




▲ 眼の大きな女性で、夢二式美人画の原型となった女性・岸たまき。

62年11ヶ月と27日の生涯

江國 滋
Shigeru Ekuni   【俳句ブームの火付け役】

(1934.08.14〜1997.08.10)
食道ガン---獅子座

  • 東京都生まれ。カードマジック の腕前はプロ級、画家でもあった。
  • 1997年8月10日、食道癌のため死去。享年62歳。自ら書き 残しておいた追悼句は「墓洗ふ代わりに 酒をそそげかし」。そし て友人の医者に「らくにしての らくのイミがちがう」と辞世の句 を残した。
  • 1997年2月、食道癌の告知を受け、以来「癌め!」と向き合い 克明な日記を付け、療養句を詠み続けるが、度重なる手術、骨への 転移など、壮絶で過酷な闘病日記を綴る。
  • 「おい癌め 酌みかはそうぜ 秋の酒」---辞世の句
    「今生で最後の一服冬日向」
    「三寒の月々火水木検査」
    「カーディガン、ナースはみんな優しくて」
    「三枚におろされてゐるさむさかな」
    「春眠を妨ぐ痛みの定期便」
    「いまからは自前の尿(しと)や水温む」
    「はるかぜに乗って下から娑婆の音」
    「毎日が「以下同文」よ三月尽」
    「癌憎しビールの味まで奪いしか」
  • 直木賞作家、江國香織は娘。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2007.06.19更新)




▲俳句ブームの火付け役(俳号・滋酔郎)であり、 挨拶句の名手であり、辛口ながらユーモアあふれる随筆家・江國滋。


◆娘の江國香織さん。




 62歳のエポック!

  • フェルディナント・ツェッペリン 、1900年(62歳)最初の硬式飛行船LZ1の飛行に成功。以後大型飛行船の完成に努めた。
  • 「 時は1944年晩夏、ピカソ62歳の時、共産党に入党した。その数週間前、ドイツ軍はパリから駆逐されていた。常にファシズムの敵だったピカソには、戦時中ドイツ占領軍相手に戦ったフランス・レジスタンス闘士の中に大勢の友人がいた。インタビューに「わたしの共産党入党は、人生全体の論理的帰結だ」と語っている」(1)。
(1)投稿者:ユリウスさん..2009/ 3/20 15:37:59(金) [4463]

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