玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

age 62


50音インデックス


■62歳の
 シンクロニシティ


■62歳-?
黄帝
子路
アリストテレス
陶淵明
玄奘/三藏法師
伊勢姫
チマブーエ
オッカムのウィリアム
ボッカッチョ
エルナン・コルテス
本多 忠勝
坂田藤十郎 (初代)
小西来山
武田 耕雲斎
アルマン・クラヴォー
柳川一蝶斎 3代目
オーヴィル・ギブソン
村井吉兵衛
住友 春翠
丸岡九華
ワシリー・エロシェンコ
石原吉郎
フェリックス・ガタリ
木村 好夫
宮脇 檀
高松次郎

■62歳-前半-1→進む
ウィトゲンシュタイン
高坂 正堯
堺 利彦
ベント・スコウマン
マルグリット・ヴァロワ
千葉 周作
チェスタートン
遠藤 新
与謝野鉄幹
關 一
ミハエル・バクーニン
カール・セーガン
藤 圭子
立松 和平
ジャン・フーリエ
キンゼイ
S・フェラガモ
アブラハム・マズロー
円山応挙
つか こうへい
宮城道雄
荻野 吟子
高木 仁三郎
増村 保造

■62歳-前半-2→進む
三浦 環
松岡利勝
キスリング
マルティン・ルター
ルイジ・ボッケリーニ
吉田 鉄郎
いずみたく
サンダー杉山
岡本 一平
藤森栄一
リヒャルト・エビング男爵
香月泰男
フーゴ・グロチウス
マホメット
j・ジャクソン
ファラ・フォーセット
上條秀介
和田 夏十
ハドリアヌス
シュライヤー、マルティン
大原孫三郎
エミール・ゾラ

■62歳-後半-1 →進む
ウィリアム・モリス
山田康雄
鶴田浩二
パー・ヘンリック・リン
L.E.ボルツマン
ノストラダムス
加藤 和彦
アン・バクスター
澤柳 政太郎
辻本 史邑
ジャン・パウル
ドヴォルザーク
アドルフ・ロース
野口雨情
宋堯讃
キュビエ
大原 麗子
盧武鉉
森 雅之

■62歳-後半-2 →進む
井上準之助
モーリス・ラヴェル
藤子・F・不二雄/藤本弘
湯木 博恵
オッペンハイマー
乃木希典
ジャンフランコ・フェレ
ゴダード
宮崎康平
徳川綱吉
J.M.ケインズ
ヴァザーリ
ルーベンス
前田光世
岸たまき
江國 滋


■62歳のエポック


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62歳の語録

 

「おい癌め 酌みかはそうぜ 秋の酒」
(江國滋の辞世の句

62歳のシンクロニシティ!

  • 62年の生涯で3人の哲学者が逝っている。アリストテレスガタリウィトゲンシュタインである。
     
     
    ●ギリシャ哲学を体系化した「万学の祖」といわれるアリストテレス(BC384.?〜BC322.?) は海峡に投身し62年?の生涯(?座)。
    ●ドゥルーズと共に"ポスト構造主義" の先駆者の一人・ガタリ(1930.?〜1992.08.29)も死因?で62年?の生涯(?座)。
    ●哲学の根本問題、すなわち世界の可能性の限界は画定できるか、という問題に挑んだ20世紀の最も重要な哲学者の一人ウィトゲンシュタイン(1889.04.26〜1951.04.29) も前立腺癌で62年と3日の生涯(牡牛座)であった。

  • また、3人の宗教者も他界した。ルター、マホメット、ノストラダムスである。
      
    ●ドイツの宗教改革者、宗教改革の先駆者マルティン・ルター(1483.11.10〜1546.02.18) は死因?で62年3ヶ月と8日の生涯(蠍座)。
    ●アブラハム、モーセ、イエスに続く最後の預言者とされるマホメット(570.01.23〜632.06.08)も死因?で62年4ヶ月と16日の生涯(水瓶座)だった。
    ●さらに「1999年人類破壊」の予言詩であまりに有名なフランスの占星術師、医師・ノストラダムス(1503.12.14〜1566.07.02)も死因?で62年6ヶ月と18日の生涯(射手座)だった。

  • さらに、音楽界でもドボルザークラヴェルが共に人生の幕を下ろした。
     
    ●チェコの作曲家アントニン・ドボルザーク(1841.09.08〜1904.05.01)は、脳溢血のために死去し62年7ヶ月と23日の生涯(乙女座)。
    ●20世紀の夜明けを象徴する耽美的な世界を描いたフランスの作曲家・モーリス・ラヴェル(1875.03.07〜1937.12.28) も自動車事故-精神錯乱-脳が萎縮するピック病で62年9ヶ月と21日の生涯(魚座)を閉じた。

  • 画家では円山応挙キスリングルーベンスの三人が枕をを並べた。
      
    ●江戸中期の画家で円山派の始祖・円山応挙(1733.05.01〜1795.07.17)は 、健康を害し歩行困難になり、眼病にも罹り62年2ヶ月と16日の生涯 (牡牛座)。
    ●「モンパルナスの帝王」と呼ばれたフランスの エコール・ド・パリの画家・キスリング(1891.01.22〜1953.04.29)は、 死因?で62年3ヶ月と7日の生涯 (水瓶座)。
    ●ドイツはフランドルのバロックを代表する宮廷画家・ルーベンス(1577.06.28〜1640.05.30)も 死因?で62年11ヶ月と2日の生涯 (双子座)。

  • そして、心理学&生理学関連でもキンゼイマズローがシンクロしている。
     
    ●“キンゼイ・レポート”で、アメリカ人の性の実態を明らかにし、1960年代に起こる性革命のきっかを作ったアルフレッド・チャールズ・キンゼイ(1894.06.23〜1956.08.25)は、心不全で62年2ヶ月と2日の生涯(蟹座)。
    ●従来の心理学が避けてきた、より人間的なものの研究に道を開き発達心理学に貢献したアメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908.04.01〜1970.06.08)も、心臓発作で62年2ヶ月と7日の生涯(牡羊座)。

    (2006.10.28更新)   
             



62年?の生涯

黄帝
Koutei
 【漢民族の始祖とされる伝説の帝王】

(BC2510.?〜BC2448.?)
死因?---?座

  • 漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』によると、少典の子、姓は公孫、名は軒轅という。帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。
  • 彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。
  • だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村?次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。
  • その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。
  • 黄帝の書 :前一世紀の漢書『芸文志』には、下記のように分類されている。
    道家 -『黄帝四経』四篇、『黄帝銘』六篇、『黄帝君臣』十篇、『雑黄帝』五十八篇
    神僊 -『黄帝雑子歩引』十八巻、『黄帝岐伯按摩』十巻、『黄帝雑子芝菌』十八巻、『黄帝雑子十九家方』二十一巻
    天文-『黄帝雑子気』三十三篇
    五行 -『黄帝陰陽』二十五巻、『黄帝諸子論陰陽』二十五巻
    雑占-『黄帝長柳占夢』十一巻
    医経-『黄帝内経』十八巻、『黄帝外経』三十七巻
    経方-『神農黄帝食禁』七巻
    房中 -『黄帝三王陽方』二十巻
  • ユンケルなのである。陰陽五行説では、東は青。南は朱。西は白で、北は黒。そして、その中央が黄なのである。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    黄帝-Wikipedia

(2010.03.20掲載)



▲神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある黄帝。



62年?の生涯

子路
Shiro
 【孔子の一番弟子】

(BC543/542〜 BC481/580)
反乱で落命---?座

  • 姓は仲、名は由であるが、『論語』では字の子路をもってしばしば言及される。季路とも呼ばれる。子路は字(あざな)。
  • 魯国出身。孔子門下でも武勇を好み、そのためか性格はいささか軽率なところがある反面、質実剛健たる人物であったようである。
  • 『論語』には、性格の軽率さを孔子にとがめられるも、その人物の率直なるを持って愛された姿が記される(「我とともにするは、それ由なるか」)。弟子の中で『論語』に出てくる回数が最も多い。『史記』「孔子世家」によれば、衛の高官となったが、反乱で落命した。
  • 子路の遺体が塩漬けにされた(これは長く見せしめとするためである)と聞いた孔子は悲しみにより、家にあったすべての塩漬けを捨てさせたと伝えられる。
  • 子路を扱った小説:中島敦の小説『弟子』:孔子に弟子入りした子路がその直情径行な性格と儒学の大きな差の中で苦しみつつ学んでいく姿と、子路を叱りつつも彼を愛した孔子とを情感豊かに描いている。「ある人が孔子の弟子、子路にたずねた。孔子とはどういう人か?子路は答えられなかった。孔子は子路に言った。お前はなぜ、答えてくれなかったのだ。「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以(もっ)て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみ」(学問に発奮して食事を忘れ、面白くなると心配ごとを忘れ、老いが忍び寄るのも気づかない)そういう男だと、どうして言ってくれなかったかと」(1)。
  • 「たまさん 孔子が子路の人となりを述べた一節が論語の中にみえるのでお供えします。〈子曰く、片言を以って、獄を折(サダ)む可き者は、其れ由なるかと。子路は諾を宿(トドムル)こと無し〉-顔淵十二-(訳)先生がいわれた。ほんの一言を聞いただけで訴訟を判決できるのは、まぁ由だろうね。子路はひきうけたことにぐずぐずしたことはなかった」(2)。
  • 「子路は孔子に師事し、孔子を支持した」と憶えていたけど、(しじ)ではなく(しろ)だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    子路-Wikipedia
    (1)2008.05.27朝刊「編集手帳」より抜粋
    (2)投稿者:ユリウスさん..2008/ 5/29 23:19:17(木) [3103]

(2008.05.30更新)


★孔門十哲の一人

▲直情径行だが孔子に心服。ボディガード的役目を務め、勇を好み、孔子に献身的に師事した中国、春秋時代、魯(ろ)の学者・子路。



62年?の生涯

アリストテレス
Aristoteles
 【万学の祖】

(BC384.?〜BC322.?)
海峡に投身死---?座

  • プラトンと並ぶ古代ギリシアの二大思想家、哲学者、科学者。プラトンの弟子にしてアレキサンダー大王の師、「万学の祖」といわれる。
  • マケドニア王の侍医ニコマコスの子として北ギリシャのスタゲイラに生まれる。17歳の時、 アテナイに出てプラトンの学園アカデメィア に入学し、以後プラトンの死まで20年在籍した。
  • プラトンへの 尊敬と称賛の念は生涯持ち続けたが、次第に思想上の齟齬をきたし、最後には決別。
  • 父がマケドニア王の侍医をしていたこともあって、プラトン の死後、全ペルシャを手中に収めたアレクサンドロス大王の家庭教師を務めた(41歳)。
  • 各地を巡ったのちアテナイ郊外に「リュケイオン」と呼ばれる「アカデミア」に拮抗する学校を設立し(48歳)、12年間研究に専心。その学徒をペリパトス(逍遥)学派という。
  • アレクサンドロス大王が没し、アテナイに反マケドニア運動がもち上がると、市民から弾圧されアリストテレスはギリシャ、オイベア、カルキスに隠退し、翌年死す。
  • 「エウリポスよ、わたしをのみこめ。わたしはお前を理解することができないから」といって、海峡に投身して死んだといわれる。常人には理解不可能。
  • 学の全分野で今日まで用いられる術語・概念・方法の多くがアリストテレスに発する。学問全体としてみれば影響力は史上最大か。
  • 人間がよりよい行いをするよう「習慣づけ」ていくところに実践学たる政治学の重要な意味を見いだす。
  • 認識論・知識論の基礎となる4原因(形相因、質料因、始動因、目的因)の措定。「形相(エイドス)と質料(ヒュレー)」「可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイ ア)」などを基本概念に構成。
  • プラトンのイデア説と比べると経験主義的 な傾向を示すとともに、全般的に生物学を中心とした目的論的性格を帯びている。
  • 数学への貢献としては論理学の整備、無限に関する考察。円周率が無理数であることを指摘、三段論法の定式化など。
  • その他、動物の発生や分類の研究、プトレマイオス・クラウディオスの宇宙体系と結びつくことになる天体論が重要。
  • イスラム圏での受容を経てスコラ学に統合されるに至り、長くキリスト教的世界観を支える哲学となったことも特筆される。
  • 論理学、自然学、倫理学、美学、一般哲学など当時のあらゆる学問を一つの体系に 作り上げ、ヘレニズム時代、ローマ時代にとどまらず、中世の哲学や科学にも多大な 影響を及ぼした。
  • アリストテレスの哲学はタレスからデモクリトスに至る唯物論とピタゴラスやプラトンの観念論をつなぐ巨大な哲学。発展を中心思想としている。そしてその後の進化論の母胎となったといわれる。ここに当時なお成立途上に迷っていた諸科の学は一応一個の学として直ちに近代の諸科学を準備しただけでなく、ヘーゲルの弁証法的観念論を越えてマルクスの弁証法的唯物論を思わせる域に達した。
  • 彼の著作『オルガノン』は学問探究の「道具」という意味。
  • アリストテレスはアレクサンドロス大王に何を教えたんだろう?。
  • ボクは設計した障害者施設に「アリス」と「テレス」という名前を与えた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2005.04.05更新)



▲ギリシャ哲学を体系化した「万学の哲人」・アリストテレス。



62年?の生涯

陶淵明
Enmei To
 【超俗の詩人、田園詩人、自然詩人】

(365.?〜427.?)
死因?---?座


  • 中国、南北朝時代、六朝時代の東晋の詩人。潯陽・柴桑(江西省九江市南出身)名字・生年には異説も多く、よく知られた淵明は字で、名は潜というとされる。字を元亮ともいう。諡(おくりな)は靖節。江西の人。東晋の名将陶侃の曽孫である。下級貴族の家に生まれ。
  • 孫思の乱(399〜402)のときに鎮軍参軍として従軍。一時郷里に帰えが、のち彭沢の令となっている。このときにわずか80日ばかりで有名な「帰去来辞」を賦して不遇な官途に見切りを付け、41歳のとき郷里に帰り田園に隠棲。田園の生活を好み、著作佐郎に徴されても赴かず、かつての国僚の劉裕が420年に東晋を滅ぼして宋を開いて8年のちに没している。
  • 平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、唐に至って王維・孟浩然など多くの追従者が輩出。
  • 田園詩人、自然詩人といわれ、また隠逸詩人ともいわれ、中国文学史上に特異な立場を占めるとともに高い評価を受けている。彼はその田園での生活を愛したことからもうかがわれるように、田園での生活をうたい、人に見せるためのものでない、真情を吐露した気品の高い詩をつくっており、今日もなお親しまれている。このほか名高い「桃花源記」も彼の作。
  • 「超俗の詩人と呼ばれる陶淵明。しかし彼はまた身分の差のない「桃花源記」のユートピア、酒と友を愛する清貧の五柳先生、「自祭文」に描かれた自らの死と葬儀など、中国では他に例をみない虚構の世界を詠んだ詩人でもあった.1600年前に現代に通じる鋭さと深さで人生をうたった大詩人に、親しく作品を読み込みながら肉迫する」(1)。 「陶淵明 ―― 虚構の詩人」 一海知義著
  • 「酒が好きで、特に飲みながら話をするのが好きだったように思う。官吏としてはあまり仕事はせず、しかもプライドは人一番高かったのだろう。自分より年下の上司が来るというので役所勤めを辞職している。作品は、格調が高く、現在に通じたものを持っている。
    人間、気ままに生きなければだめなのだろうか?」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    陶淵明
    (1)「陶淵明」
    (2)「陶淵明

(2005.02.17掲載)



▲平易な語で田園の生活や隠者の心境を歌って一派を開き、唐に至って王維・孟浩然など多くの追従者が輩出した陶淵明。

 


◆「かえりなん いざ 田園はまさに荒れんとするに なんぞ帰らざる」

◆「歳月人を待たず」

62年?の生涯

玄奘/三藏法師
Genjou
 【唐代の高僧/法相宗の始祖】

(602.?〜664.03.07=仁寿2年〜 麟徳元年2月5日)
死因?---?座

  • 唐代の中国の訳経僧、三蔵法師として知られる中国、唐代の高僧。
  • 洛陽近郊の?氏県の陳氏に生まれる。諱は?である。10歳のときに兄の長捷のもと、洛陽の浄土寺で出家し、玄奘と名づけられた。隋末の動乱によって各地を転々としながらも、『涅槃経』と『摂大乗論』を学ぶ。武徳元年(618年)には、長捷と共に長安入りを果たす。しかし、戦乱が未だ収まらず、戦さを避けて成都に至る。その後も各地を巡り、20歳で具足戒を受ける。
  • 唯識の『瑜伽師地論』等の仏典の研究には原典による他ないとし、また、同時に仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を犯して出国した。
  • 河西回廊を経て高昌に至り、天山北路を通って中央アジアから天竺(現在のインド)に至る。ナーランダ寺で戒賢より唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した後、天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年(645年)1月、657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。旅の記録は『大唐西域記』として残されている。帰国した彼は、持ち帰った膨大な梵経の翻訳に専念した。
  • 貞観19年(642年)2月6日に弘福寺(のちに大慈恩寺、玉華宮)の翻経院で太宗の勅命によって始まった玄奘の翻訳は、『大般若経』600巻等、76部1,347巻に及んだ。
    麟徳元年(664年)、長安近郊の玉華宮において寂した。
  • 玄奘の翻訳は、その当時の中国語に相応しい訳語を新たに選び直しており、それ以前のクマーラジーバ(鳩摩羅什)らの漢訳仏典を旧訳(くやく)、それ以後の漢訳仏典を新訳(しんやく)と呼ぶ。一例として『般若心経』も彼が翻訳したものとされているが、この中で使われている観自在菩薩は クマーラジーバによる旧訳では観音経の趣意を意訳した観世音菩薩となっている。訳文の簡潔さ、流麗さでは旧訳が勝るといわれているが、サンスクリット語の原語「アヴァローキテーシュヴァラ」は「自由に見ることができる」という意味なので、観自在菩薩の方が訳語として正確であり、また玄奘自身も旧訳を非難している。
  • 一説では唐の太宗皇帝の姓名が「李世民」であったため、「世」の字を使うのが避諱によりはばかられたからともされる。一方、玄奘にはこの『般若心経』をはじめとして維摩経など、あたかもクマーラジーバ訳に上書きして済ましたかのごとき翻訳もあり、彼の学究としての興味の程度により仕事ぶりが変わるようである。
  • 29歳で長安を出発、西域を経由してインド、マガダ国のナーランダー寺へ至りシーラバドラ(戒賢)に学ぶ。広くインド国内の学者を訪ね、多数の経典を得て、45歳で帰国。
    以後訳経に従事。20年間に訳出した経論は『大般若波羅密多経』など75部1235巻に達す。
  • これを基礎として唯識宗(法相宗)を開いた。著書『大唐西域記』は小説『西遊記』の素材ともなった。
    玄奘のもとからは、窺基らの門弟によって創められた法相宗や倶舎宗といった新しい宗派が興った。

  • 『西遊記』は、『大唐西域記』や 玄奘の伝記『慈恩伝』を踏まえたうえで書かれており、玄奘は三蔵法師という名前で登場している。三蔵法師とは経、律、論に精通している僧侶に付ける敬称であり、本来は玄奘に限ったものではない。例えば不空金剛、真諦、鳩摩羅什、霊仙なども「三蔵法師」と呼ばれている。しかし、特筆すべき功績を残した僧侶として、「三蔵法師」といえば玄奘のことを指すことが多くなった。
  • 「〈西遊記〉――三蔵法師と孫悟空ら一行はお経を求め天竺へ長い旅をした。物語のもとになった史実の旅は中国・唐代の629―645年の16年にわたる。さて、その物語を翻訳する道もこれに負けず長かった。20年を超える歳月をかけて、北大名誉教授・中野美代子さんが「西遊記」(全10巻、岩波文庫)の完訳を果たした。おめでとうを申し上げる。岩波文庫版全10巻は、まず最初の訳者、小野忍氏が3巻までを手がけ、氏の死後に4巻以降を中野さんが引き継ぎ、98年にいったん訳了、刊行された。今回の完訳は中野さん一人の手で1―3巻を新訳し、4―10巻を改訂、文章のスタイルを統一して先月刊行を終えた。長い旅を果たした訳者は感慨深いことだろう。西遊記が日本に初めて紹介されたのは江戸時代で、明治以降もダイジェストが盛んに翻訳された。多くは児童読み物で、孫悟空は後の鉄腕アトムやウルトラマンにも負けない人気者だった。西遊記は今の子供たちにもっと読ませたい。同時に孫悟空のオールドファンには原典をたどる新発見をお勧めする」(1)。
  • 「およそ1400年前、17年もの歳月を費やし、3000キロの過酷な旅を成し遂げた三蔵法師。命がけで得ようとしたもの、目指そうとしたものは何か。----」(2)。
  • 玄奘といえば夏目雅子を想い出す。
  • ボクが人生のセイムスケールを始めたのが44歳。出来うれば玄奘のごとく20年は続けたい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    玄奘三蔵-Wikipedia
    (1)読売新聞2005.07.28夕刊夕刊「よみうり寸評」より。
    (2)テレビ東京開局45周年記念番組「封印された三蔵法師の謎」の新聞広告より抜粋。

(2010.09.23更新)



▲三蔵法師として知られる中国、唐代の高僧・玄奘。


◆玄奘三蔵訳経像(薬師寺)
(写真:読売新聞2005.10.14より)


◆夏目雅子が演じた西遊記(1978)。


◆深津絵里が演じる西遊記(2006).

 


62年?の生涯

伊勢姫
Isehime
 【三十六歌仙の一人】

(877年?〜939年?)
死因?---?座

  • 本名は不明。父親は文章生の出身で参河守・伊勢守・大和守などを歴任した藤原継ぐ蔭。平安時代中期の女流歌人として、また恋人には天皇や皇子や権力者の息子といった豪華メンバーを連ね、ドラマチックな人生を生きた才媛として有名。『古今和歌集』にも抜群の地位を占めた
  • 伊勢という女房は、父親が伊勢守になった仁和元年(885)から大和守に任ぜられた寛平三年(891)までの間に出仕したためにつけられたものであろう。
  • おそらくは仁和四年(888)に関白太政大臣藤原基経の娘温子(のちの七条の后)が宇多天皇の女御になった前後に出仕、温子の作家のお相手をすることになった。 出仕した伊勢を待ち受けていたのは、貴公子たちの懸想である。中でも、女御の弟の藤原仲平と兄の時平のそれは、はなはだしく熱烈であった。
  • しかし、温子の夫である宇多天皇の寵を得て皇子まで産んだことが伊勢の生涯において最大の名誉であったようである。 
    だが、その皇子も幼くして世を去り、続いて伊勢がもっとも敬愛していた温子皇后が崩じ、その娘の均子内親王も世を去ってしまう悲しい日々の連続。その中で、伊勢は、当時プレイボーイといわれた中務卿敦慶親王の寵を受け、一女中務をもうけていた。
  • また能因法師(988年〜1058年頃?)は中古三十六歌仙の一人で、平安時代有数の歌人。伊勢姫を尊敬し、生涯心の恋人にしたとか。晩年はその旧跡を慕って古曽部に隠棲。能因法師の歌風は秀逸しており、高槻の文化に彼が残した影響は大きいと言われている。
  • 「伊勢寺(伊勢姫の終焉の地)
    〈難波潟みじかき蘆のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや〉
    百人一首で有名なこの歌の作者、伊勢姫のお寺だ。美しい容貌と文学的才能に恵まれていた伊勢姫、父は藤原継蔭、華やかな宮廷生活では多くの人々に慕われ愛された。ついに、まだ皇太子だった宇田天皇の寵を受け、行明親王を産んだが8歳で亡くしている。宇田天皇崩御の後その霊を祀り、この高槻の地の草庵に隠棲して、その多彩な生涯を閉じたとお寺の銘版に記されていた」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    伊勢姫 参照:百人一首 伊勢(いせ) 生没年未詳。十世紀初頭に成立 ...
    高槻市観光サイト:伊勢姫と能因法師
    (1)「もの言う翔年:伊勢寺(伊勢姫の終焉の地)
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/10/ 9 21:28:59(月) [358]

(2006.10.10掲載)



▲十世紀初頭に成立した『古今集』の時代に活躍した女流歌人・伊勢姫 。





▲伊勢寺(伊勢姫の終焉の地)

 

「たまさん、ありがとうございました。小町の歌が3首採用されているので、伊勢の歌も右側のスペースに是非お願いします」(2)。

◆「見る人もなき山里のさくら花ほかの散りなん後に咲かまし 」

◆「涙さえしぐれにそいてふるさとは紅葉の色も濃さまさりけり 」

◆「冬枯れののべとわが身をおもひせばもえても春をまたましものを 」

62年?の生涯

チマブーエ
Cimabue
 【イタリア、ゴシック期の画家】

(1240.?〜 1302.?)
死因?---?座

  • ジョットは彼の弟子と考えられている。西洋絵画が中世から近代へと歩み始める最初期に位置する画家として、美術史上に重要である。近代以前のイタリアの画家には、本名でなくもっぱら通称で呼ばれる者が多いが、チマブーエもその一人であり、本名はチェンニ・ディ・ペーポ(Cenni di Pepo)といった(「チマブーエ」は雄牛の頭の意)。
  • 西洋文化史のうえで中世の次に位置するゴシックの時代は、12世紀に始まった。ゴシック様式を代表する分野の一つは、今もフランス各地に残る、壮大華麗な大聖堂建築である。一方、絵画におけるゴシック様式の発達は建築より遅れ、13世紀後半のイタリアにその萌芽がみられる。チマブーエは、13世紀末のイタリアで活躍したゴシック絵画を代表する画家の一人である。フィレンツェで生まれ、ローマ、アッシジなどでも制作をしている。
  • チマブーエの絵画には、金地の背景、正面性・左右相称性の強い構成、人物の図式的・平面的な配置のしかたなど、古代ギリシア様式を基礎にもつビザンティン美術の様式が、まだ色濃く残っている。しかし、中世絵画に比べると、人物の自然な表情、聖母の台座や衣服の表現にみられる空間表現への意識など、ルネサンス絵画への道を確実に歩み出していることが見て取れる。ジョットの師とされるチマブーエは、シエナで活躍したドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャとともに、ゴシックとルネサンスの橋渡しの位置にある、西洋絵画史の最初のページを飾る画家の一人と位置づけることができよう。
  • 主要作品 :サンタ・トリニタの聖母子(ウフィツィ美術館)/聖母と天使たち 1270頃 (ルーヴル美術館)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    チマブーエ- Wikipedia

(2012.01.29掲載)



◆ゴシック期のフィレンツェで活躍した画家チマブーエ。
▲聖母と天使たち 1270頃 ルーヴル美術館







62年?の生涯

オッカムのウィリアム
William of Ockham
 【オッカムの剃刀】

(1285.?〜1347.?)
ペスト---?座

  • 通例オッカムとのみ言及されるが、これは下記のように姓ではなく出身地で呼んだものである。哲学や科学における節約の原理「オッカムの剃刀」の提唱者として知られている。
  • 1285年、イングランドのオッカム村に生まれる。オックスフォード大学で学ぶ。ボナヴェントゥーラ系フランシスコ会士として、トミストの学長であるLutterellと対立。フランシスコ会の会則の解釈をめぐり、いわゆる清貧派の立場をとる。普遍論争では唯名論の立場に立つ。Lutterellから異端だとしてアヴィニョンにある教皇庁に訴えられる。ローマ教皇・ヨハネス22世と対立、異端審問のため当時アヴィニョン(フランス)にあった教皇庁へ召還される。このときマイスター・エックハルトも異端の容疑で告発され、オッカムはエックハルトと会ったことを書き残している。
  • オッカムはアヴィニョンからミュンヘンへ逃亡し、聖職叙任権などをめぐり教皇と対立していた神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世の保護を受けた。その後ミュンヘンに居住したオッカムは、同地でペストで没し、市城壁外のペスト死亡者用墓地に葬られた。
  • かつては1349年に死亡したとされていたが、現在は1347年没説が有力である。生没年については他に、1288年生まれ説、1300年ごろ生まれ説、1348年没説、1350年没説がある。
  • Ockham, Occam や Hockham などとも綴る。
  • オッカムの剃刀(オッカムのかみそり、英: Occam's razor; Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」(Entities should not be multiplied beyond necessity)という指針。思考節約(思考経済)の法則やケチの原理と呼ばれることもある。
  • もともとスコラ哲学にあり、14世紀の哲学者・神学者のオッカム(William of Ockham)が多用したことで有名になった。
  • オッカムの剃刀は、「既にある理論や仮説等に対して、新たな仮説等を追加すべきかどうかを選ぶひとつの立場」に過ぎないのであって、オッカムの剃刀によって追加することを選択しても、「その仮説が正しい」ということにはならない。同様に、オッカムの剃刀によって切り捨てられたからといって、「その仮説が間違っていた」ということにはならない。何故なら、オッカムの剃刀は真偽の判定則ではないからである。
  • それにもかかわらず、一部の人はオッカムの剃刀を「並立する幾つかの仮説の中から、ある一つの仮説を選択する」方法として拡大解釈し、真偽の判定に関してきっと有効なのだろう、すなわち「如何なる場合にも、より単純な仮説のほうがより優れている」という認識を有しているが、この認識には混同がまぎれこんでいる。すなわち、真偽がまだ判明していない状態における思考の指針と、真偽を判明させるための科学的証明とが、混同されがちなのである。
  • とはいえ歴史的に見て、真偽の判定則としての用法が妥当だった、と後に判明した事例もある。つまり、真偽の判定則としてオッカムの剃刀を使えばあらかじめ切り捨てることが出来たであろう仮説は、のちに無駄に複雑であるとして放棄された仮説であることが判明したという例がいくつかある。たとえば、地球中心説(天動説)における周転円は、初期の太陽中心説(地動説)よりも正しく惑星の軌道を予測できたが、理論があまりに複雑になり、より単純に予測を提示する地動説に取って代わられた。
  • この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
  • 何が説明に必要であるかは必ずしも明確ではない。
  • L.ボルツマン:オッカムの剃刀を適用するにあたっては、慎重な検討が必要である。一見不要に見える仮説でも、実は見落とした事柄によって必要とされていることもあり、適用すべきでないことにまで適用してしまう危険性があるので、必要性は慎重に判断しなければならない。さもなくば過剰に適用して必要な仮説まで切り落としてしまう危険性がある。例えば、ウォルター・オブ・チャットンは次のような言葉を考案した。
  • ある事柄が、3つの要素で説明できないのならば、4つ目の要素を加えよ
  • これはオッカムの剃刀が、その前提条件「必要が無いなら」においてのみ成り立ち、その前提条件から外れる場合、すなわち、「必要がある」場合には成り立たないことに注意せよという指摘である。同様の指摘はチャットン以外の人々によってもいくつかなされたが、オリジナルのオッカムの剃刀ほどには注目されることはなかった。
  • 例えば、19世紀末から20世紀初頭ごろには、分子を仮定する「分子論」が化学反応や熱力学を見事に説明するようになっていたにもかかわらず、エルンスト・マッハおよびマッハの後継者たちは、「分子なるものはそれを直接検出した例もなく、原子や分子は思弁的なモデルに過ぎない」と分子論の必要性を否定した上でオッカムの剃刀を適用し、分子論の立場に立つルートヴィッヒ・ボルツマン たちを執拗に攻撃し、ボルツマンが後に自殺する遠因を作った、とされている。
  • このようなマッハらに対し、アルベルト・アインシュタインは1905年にブラウン運動に関する論文を提出することで分子の実在を確定してみせ、「理論はできるだけ単純にせよ、だが限度というものはある」と警告している。
  • 類似の概念:同様の指針として、心理学の分野において「ある行動がより低次の心的能力によるものと解釈できる場合は、その行動をより高次の心的能力によるものと解釈するべきではない」というモーガンの公準が知られている。
  • ポール・ディラック:理論の妥当性を判断する要件としては、簡潔さのほかに美しさもある。これらをまとめれば「単純で美しい理論こそ真実であろう」という発想だ。たとえば、ポール・ディラックはこう述べている。
  • 研究者は自然の基本法則を数式に表現しようとするとき、数学的な美しさを追究するべきだ。単純さを求めると、美しさを求めるのと同じ結果になることが多い。ただ、どちらかを取るとすれば、美しさの方を優先するべきだ。
  • 統計学や機械学習の分野では、モデルの複雑さとデータへの適合度とのバランスを取るために、オッカムの剃刀的な発想を利用する。
  • ある測定データが与えられたとき、一般に、統計モデルを複雑にすればするほど、その測定データをうまく説明できる。 しかし、そのようなモデルは、不必要に複雑なモデルであり、計算することが困難であるばかりでなく、 過去のデータに過剰に適合してしまい、未来のデータを説明できなくなってしまう(過適合)。
  • 以上のような問題を避けるために、統計モデルの良さの指標として、 測定データをうまく説明しつつなるべく単純なモデルが是となるような規準が提案されている。 代表的なものは、赤池情報量規準やベイズ情報量規準である。 同様に、機械学習の問題では、過適合を防ぐために正則化と呼ばれるテクニックが使われている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    オッカムのウィリアム- Wikipedia
    オッカムの剃刀- Wikipedia

(2011.02.26掲載)



◆フランシスコ会会士、後期スコラ学を代表する神学者、哲学者オッカムのウィリアム。
▲サリーにある教会のステンドグラスに描かれたオッカム


▲1341年に描かれたと思われるオッカムの似顔絵






62年?の生涯

ボッカッチョ
Giovanni Boccaccio
 【『デカメロン』の生みの親】

(1313.?〜1375.12.21)
死因?---?座

  • 父はフィレンツェ近郊出身の商人。
  • ナポリへ商業の見習に行き文学に熱中、ナポリ王の庶子マリア(?)との恋をうかがわせる寓意的な恋物語を韻文、散文で書く。これは帰郷後にも『アメート』『フィアンメッタの悲歌』などと続くが、やがてペストで荒廃したフィレンツェを背景とした『デカメロン』を著し、イタリア散文文学の代表的作家となる。
  • ほかに人文主義的研究の著作『名士列伝』や『ダンテ伝』、フィレンツェ市の招きで『神曲』講義などの仕事を残した。
  • 『デカメロン』は『十日物語』の意。40歳の作。10人が10日間、毎日それぞれ1話ずつ語って聞かせる形式で、あらゆる身分の人物の逸話をもりこむ。
  • 内容も滑稽、好色、皮肉から、まじめ、悲劇的なものと多様だが、当時の社会の姿を洗練された文体で自由闊達に描き出し、ダンテの『神曲』〈神聖喜劇〉に対して一大「人間喜劇」といった観あり。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)


▲デカメロン 下 /
ボッカッチョ〔著〕河島英昭訳(講談社)


(2007.06.24掲載)



◆『デカメロン』 の著者として知られるイタリアの作家、詩人、人文学者・ボッカッチョ。


▲ペトラルカ=ボッカッチョ往復書簡  近藤恒一
同じ天才同士のレオナルドとミケランジェロには「とげとげしい応対が目立つ」が、ペトラルカとボッカッチョの関係は「稀にみる美しい友情に染めあげられている」と著者はいう。その稀有な友情が、いま静謐な日本語で明らかになっていく。






62年?の生涯

エルナン・コルテス
Hernan Cortes
 【アステカ帝国の征服者】

(1485.?〜1547.12.02)
死因?---?座

  • スペインのコンキスタドール。初代バジェ・デ・オアハカ侯爵。
  • 1485年、現在のエストレマドゥーラ州メデジンにて生まれる。イスパニョーラ島の統治者であったニコラス・デ・オバンドの遠戚にあたる。
  • はじめ法律家を目指しサラマンカ大学に通ったが叶えられなかった。
  • 当初、遠戚であったニコラス・デ・オバンドと共に、新大陸に渡る計画があったが、コルテスが大怪我をしたため叶えられなかった。その後、スペイン南部のカディス、セビリア、パロスなどで、新大陸から帰還した者の当地での発見、征服、金、原住民などの話を聞くなどして、見聞を広めた。
  • 1504年にアロンソ・キンテロ(Alonso Quintero)が率いる船で、イスパニョーラ島に渡り植民者となった。キンテロが、第一発見者になるために取ったライバルを騙したり欺いたりする手法は、コルテスが新大陸でその後取った手法に少なからず影響を与えた。18歳のコルテスは、イスパニョーラ島の首都サント・ドミンゴで市民登録をして、建物を建てたり土地を耕したりする権利を得た。程なくして、統治者のニコラス・デ・オバンドがコルテスにエンコミエンダ制の権益を与え、彼をアズア・デ・コンポステーラ(Azua de Compostela)の町の公証人にした。その後5年間、コルテスは植民地での地位の確立のために働いた。1506年、コルテスはイスパニョーラ島とキューバの遠征に参加し、多くの不動産とインディアンの奴隷を獲得した。
  • 1511年、コルテスはディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルのキューバ征服に参加した。その結果ベラスケスは、キューバの統治者となった。ベラスケスはキューバ支配におけるコルテスの働きに感心していた。コルテスの勇猛果敢なリーダーとして名声は、その後も続いた。そしてコルテスはベラスケスの秘書官となった。キューバにおいてコルテスはエンコミンダ制による収益や鉱山、牧畜などで生計を建てていた。秘書官としての地位により、彼は指導力も得た。1514年、コルテスは、労働力としてさらなる原住民の割当を要求していたグループのリーダーとなっていた。
  • 時が経ち、コルテスと統治者ベラスケスとの関係は、緊張状態となっていた。 1519年、コルテスはキューバ総督ディエゴ・ベラスケスの命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてメキシコ湾岸沿いに進み、ユカタン半島で8年前にこの地に漂着していたコンキスタドーレス、ヘロニモ・デ・アギラールと、パイナラの族長の娘マリンチェと出会い、彼ら二人を通訳兼案内人として先へ進んだ。メキシコ湾岸にベラクルス市を建設すると、内陸へと進んでいった。メキシコ高原に到達すると、アステカの宿敵であるトラスカラ人と戦い和睦して同盟を結び、さらにテスココなど各地の勢力と同盟を結んだ上でアステカへと向かった。
  • インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と勘違いされたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「国をお返しします」と言って丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだ動いている心臓が銀の皿にのせられていたという。
  • 弱腰を貴族達に責められたモクテスマ2世が、前言を翻してスペイン人に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。
  • コルテスはベラクルスでパンフィロ・デ・ナルバエスに率いられたキューバ総督追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れインディオを引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。翌日、スペイン人による人身御供の禁止に怒ったアステカ人が反乱を起こしモクテスマ2世を殺すと、コルテスは命からがらテノチティトランを後にしてトラスカラに引き返した。
  • アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、25歳の勇敢な戦士クアウテモックを王に推戴した。
  • 1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3ヶ月以上の攻防の末、8月13日にクアウテモックは捕らえられた。
  • 1523年、コルテスはカルロス1世(カール5世)から総督に任命されカリフォルニア南部を探検した。
  • 1524年、ホンジュラスのスペイン併合を宣言。
  • 1525年2月26日、反乱を企てたとの疑いにより、クアウテモックを絞首刑に処した。この瞬間アステカは滅亡し、メキシコはスペインに併合された。
  • 1529年、バジェ・デ・オアハカ侯爵に封ぜられる。
  • 1532年から1536年まで、バハ・カリフォルニア半島の調査を命じられる。1539年に、カリフォルニア半島の存在を確認した。
  • 1540年、スペインに帰国。総督への再任を請願するも、却下される。1541年にはカール5世のアルジェ遠征に参加した。
  • 1547年、セビーリャ近郊にて、62歳で死去。遺体は遺言により、メキシコシティと改称したテノチティトランに自身が建てたへスース病院内の礼拝堂に埋葬された。
  • コルテスはアステカ文明を完膚なくまでに粉砕し、その偉大さに全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なるカトリック信徒であったがために、インディオの社会が持っていた人身供犠などの「野蛮」な側面のみをあげつらい、インディオの野蛮な習慣を廃止させることに成功したが、コルテスの略奪行為に依る物であったことが明らかにされるのは後世のことであった。
  • もっとも、コルテス以外のメキシコのコンキスタドーレスたちも同様であり、自らの傲慢さや残忍さに気付く者はほぼ皆無であった(中南米での虐殺・虐待を告発したコンキスタドーレスも存在したが、激しい批判を受けたため、少数に止まっている)。事実、彼等は征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。そして多くのインディオ女性を強姦し、さらには征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。コルテス自身も、インディオ女性のマリンチェを妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供にマルティンと名付けており、現在も末裔がメキシコにいる。
  • かつてはコルテスの行為に関しては、インディオたちを人身供犠などを掲げる残酷な旧来の宗教の因習や鞏固な身分制から解放した、宣教師によって福音に接することが出来た、などと肯定的に捉える見解が大半を占めた。だが、スペイン人による隷属と搾取は、先住民の文化・伝統・宗教を徹底的に粉砕し、先住民は白人入植者たちに奴隷の様に使役されるという状況に置かれた。このため現在では、コルテスの行為は文化破壊行為として批判的に受け取られている。
  • そして、新たな隷属と搾取の先にあったのは、インディオ自身によるスペインからの独立運動に他ならなかった。16世紀後半にはスペイン政府が直接統治に乗り出したため、コンキスタドール(とその後継者たち)が度々反乱を起こしたが、小規模な物に過ぎず、独立にまでは至らなかった。18世紀から19世紀にかけて多発したインディオの反乱は後にメキシコ独立の原動力とはなった。だが、メキシコ合衆国の実権を手にしたのは、かつて略奪と虐殺を繰り返したコンキスタドールの子孫に過ぎなかった。インディオの社会的立場の向上は20世紀にならなければ実現し得なかったのである。
  • コルテス一行を評してナワトル語で書かれた『コディセ・フロレンティーノ』には「餓えた豚のように黄金を欲した」と記されている。また、コルテスの封じられたバジェ・デ・オアハカ侯の侯爵位は、正妻の子マルティンが継いだ。その後、男系は絶えたが、女子相続人を通じ現在までバジェ・デ・オアハカ侯爵は存続している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エルナン・コルテス - Wikipedia

(2012.03.19掲載)



▲メキシコ高原にあったアステカ帝国を征服したエルナン・コルテス 。


62年?の生涯

本多 忠勝
Tadakatsu Honda
 【無双の勇士】

(1548.?〜1610.12.03?=天文17年〜慶長15年10月18日)
死因?---?座

  • 上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。
  • 松平氏の三河譜代家臣・本多氏の一族で、本多忠高の長男として天文17年(1548年)、三河国蔵前(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣する。このとき、同時に元服した。
  • 永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの本多一族が敵となる中で、家康に忠義を尽くして武功を挙げた。永禄9年(1566年)には19歳にして同年齢の榊原康政や本多正重、都築秀綱らとともに旗本先手役に抜擢されて、与力50騎を付属される。以後、忠勝は常に家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍した。
  • 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加し、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名である(「唐のかしら」は家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指す)。12月の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参加する。
  • 天正10年(1582年)、本能寺の変が起きたとき、家康は忠勝ら少数の随行とともに堺に滞在していたが、家康が京都に行って信長の後を追おうと取り乱したのを忠勝が諌めて、「伊賀越え」を行わせたという。
  • 鹿角脇立兜(現存しており重要文化財)がシンボルで、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでの活躍などにより、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛され、徳川氏が豊臣氏の傘下に入ると従五位下・中務大輔に叙位・任官された。天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に榊原康政と共に、家臣団中第2位の10万石(1位は井伊直政の11万石)を与えられる。江戸から遠くなっているのは、「譜代の将は敵が攻めてくる国境に配置する」との、家康の配置方針による。康政は北の真田や上杉に対する備え、忠勝は安房の里見に対する備えである。
  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に従軍し、諸大名に書状を送って東軍方につける工作にも活躍した。この功績により、慶長6年(1601年)、伊勢国桑名10万石(一説に15万石。現在の三重県桑名市)に移されると、それまでの大多喜領は次男・本多忠朝に別家5万石で与えられた。
  • 晩年は、戦乱の収束により本多正純などの若く文治に優れた者(吏僚派)が家康・秀忠の側近として台頭してきたため、忠勝のような武功派は次第に江戸幕府の中枢から遠ざけられ、不遇であったと言われる。
  • 慶長14年(1609年)6月、嫡男・本多忠政に家督を譲って隠居する。慶長15年(1610年)10月18日に桑名で死去した。享年63(数え)。。
  • 徳川四天王・十六神将に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。
  • 生涯において参加した合戦は五十数回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている。動きやすい軽装を好んだ忠勝は、自分とは対照的に重武装であり、全身に傷だらけの井伊直政を批判している。
  • 小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正・福島正則らが忠勝を討ち取るべしと進言した。しかし、忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際にはかれを生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じた。
  • 秀吉・家康が和睦した後に秀吉に召しだされたとき、「秀吉の恩と家康の恩、どちらが貴殿にとっては重いか」と質問されると、「君のご恩は海より深いといえども、家康は譜代相伝の主君であって月日の論には及びがたし」と答えた。
  • 忠勝は勇猛なだけではなく知略も備えた名将で、関ヶ原の戦いでは井伊直政と共に誓紙を何枚も発行して西軍武将の切り崩しにも務めている。また、政治家としても力量を発揮し、特に人心掌握に努めて領民の敬愛を集めたという。
  • 出陣するとき、忠勝は愛槍である蜻蛉切と鹿角脇立兜、そして肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。大数珠を身につけたのは、自らが葬った敵を弔うためであったといわれる。
  • 「本田忠勝の辞世をお供えします。〈死にともなあら死にともな死にともな君に御恩の深きを思へば〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    本多忠勝-Wikipedia
    (1)投稿者:ユリウスさん..2008/ 2/15 17:24:17(金) [2801]

(2008.02.15更新)


★徳川四天王・十六神将

▲安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名で、徳川氏の家臣本多 忠勝。

62年?の生涯

初代 坂田藤十郎
Toujuro sakata
 【京の都の最高位の役者】

(1647.?〜1709.?)
死因?---?座

  • 越後に生まれ、京都で花車方の名人杉九兵衛に芸事を学んだ。
  • 1676(延宝4)年に刊行された『可杯(べくさかずき)』に名前が登場して以来、上方の人気役者として評判を博す。
  • 1678年(延宝6年)に演じた『夕霧名残の正月』の伊左衛門役は大評判をとり、藤十郎は生涯にわたって伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となる。藤十郎が完成させた和事は、上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。
  • 40代半ばから、近松門左衛門と提携して、数々のヒット作を連発。当時、京の都で最高位に位置される役者とな る。
  • 「二代目は1669〜1724年、三代目は1701〜1774年の間存命。その後、藤十郎の芸は、大和山甚左衛門に受け継がれ、坂田籐十郎の名は途絶えた。2005年、中村鴈治郎が、四代目坂田藤十郎を襲名する」(1)。
  • 「2005年 四代目坂田藤十郎を襲名:名実ともに上方歌舞伎を牽引してきた鴈治郎。その功績、目指すところなどを自他共に任じ、2005(平成17)年に、四代目坂田藤十郎を襲名することになりました。これによって、231年ぶりに坂田藤十郎が復活します」(2)。
  • 「---3代目雁治郎の妹が中村玉緒。夫人はあの、扇千景です。屋号は「成駒屋」。更に、歌右衛門一家の門弟から生まれたのが、中村歌六一家。3代目中村歌六の次男が中村時蔵。その三男が初代中村獅童。その息子が、2代目中村獅童。屋号は「萬屋」です」(3)。
  • 「元禄時代、江戸に市川団十郎あれば、上方に坂田藤十郎。二人の名優が江戸の荒事(あらごと)、上方の和事(わごと)と呼ぶ演技様式をそれぞれ確立、歌舞伎は大きく開花した。以来、団十郎は十二代を重ねて今に至るが、藤十郎の方は長く襲名がなく、実に231年ぶりにきのう、その大名跡の舞台が京都・南座でよみがえった。中村鴈治郎改め坂田藤十郎の襲名披露を兼ねた顔見世興行である。初代藤十郎は写実重視の芸風で知られた。長く襲名こそなかったが、数々の芸談、芸に精進したエピソードが今に伝えられている。舞台ではいつも自分の足に合わない小さな寸法の草履をはいた。「脱ぎ捨てた草履を見物衆にさらし、さても藤十郎は大きな不細工な足じゃと言われては色男の役はつとまらぬから」という。密夫(まおとこ)の狂言の役作りに困って、茶屋の女将(おかみ)である人妻に恋をしかけた逸話もある。「その時の情感を知りたかったから」という。菊池寛の「藤十郎の恋」はその戯曲化。「歌舞伎隆盛のため、ますます芸道に精進いたす覚悟」と平成の藤十郎。初代に劣らぬ芸を期待する」(4)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「上方歌舞伎がおもしろい! - かんでんe-Patio
    (3)「Sma STATION-3
    (4)読売新聞2005.12.01夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2006.08.11掲載)




▲元禄時代の上方で活躍した立役で、和事を完成させた俳優として歴史に名を残す初代 坂田藤十郎。

 



62年?の生涯

小西来山
Raizan Konishi
 【大阪で活躍した林派の俳人】

(1654.?〜1716.?)
死因?---?座

  • 鬼貫の親友で、元禄期の代表俳人。 大阪淡路生まれ。通称は伊右衛門、号を十万堂・湛々翁・風老人等。幼時西山宗因(1605〜1682)門下の前川由平に俳諧を学び、18才で宗匠となる。
  • 上方の商家(薬種商)に生を受け、まずは平穏な生涯を過ごした来山の句は、それにふさわしくおっとりとなごやかな風雅の趣を特徴としている。自然との親密な交感を、ナイーブな児童画風なかたちで表現した作が多い。
  • 俳風では、蕉風に近いものがある。「今宮草」等がある。 酒豪として知られる。酒を愛し、人形を愛し、そして何よりも俳句を愛した。作風は談林的な遊戯に堕さず、まことを通すものであった。
  • 「来山の世界を、大阪において「来山を読む会」を結んだ坪内稔典とその友人たちが読み解く。来山の百句を鑑賞した「来山の百句」、主要な俳文に注をつけた「来山の俳文」、来山にかかわる「来山を読む会」会員のエッセーなどを通し、十七世紀後半のマイナーポエットの魅力が今に蘇る。本書の「はじめに」で、「来山を読む会」の活動に触れて坪内稔典は言う。〈私たちは来山との親交を次第に深めた。月に一回の「来山を読む会」は、「来山と飲む会」にもなったのである。(略)この本を手にして、さて、来山はなんて言うだろうか〉。では、「来山の百句」から一句を引こう。〈酔うて酔うて氷くだいて星を呑む〉」(1)。
  • 「小西来山の辞世をバイボにささげます。〈来山は生まれた咎で死ぬるなりそれで恨みも何もかもなし〉」(2)。
  • 「江戸期の俳人に小西来山(らいざん)がいる。生家は大阪の薬種商という。代表句は、〈お奉行の名さへ覚えずとし暮れぬ〉。お奉行さんの名前でっか? 知りまへんがな---という句意に、官から自立した民の気骨がうかがえる」(3)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2005.09.25朝刊 来山を読む会編『来山百句』の川村二郎による書評より抜粋。
    (1)「新刊案内のページ(2005年7月)
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006.03.06(Mon) 23:13[1143]
    (3)読売新聞2009.05.29朝刊「編集手帳」より抜粋。


    ◆『来山百句』

(2009.05.31更新)


★肖像を探しています。

▲江戸時代前期、西鶴や芭蕉などと同時代の大阪の俳人・小西来山。(芭蕉は十歳年上、来山の没年に生まれたのが蕪村)。


◆小西来山十萬堂跡  浪速区恵美須西二丁目 地下鉄堺筋線「恵美須町」下車 南西約100m
元禄時代の代表的俳人来山は、平野町の薬種問屋に生まれた。西山宗因に師事したが、芭蕉に近い境地をひらき、十萬堂に住み多くの名句を残した。この建物は昭和20年、戦災で焼失した。

来山の句

◆「酔うて酔うて氷くだいて星を呑む」

◆「夕顔や我が葉を敷いてころびねを」

◆「ひや汁にうつるや背戸の竹林」

◆「昼出るはその殺された幽霊蚊」

◆「むしつてはむしつては捨て春の草」

◆「青し青し若菜は青し雪の原」

◆「白魚やさながら動く水の色」

◆「これほどの三味線暑し膝の上」

◆「春の夢気の違はぬがうらめしい」(妻子を失った後再婚した来山が、またしても幼い子を死なせたときに作った句)

62年?の生涯

武田 耕雲斎
Kohunsai Takeda
 【水戸藩の天狗党の首領】

(1803.?〜1865.03.01=享和3年〜 慶応元年2月4日)
斬首---?座

  • 幕末の人。位階は贈正四位。名は正生。通称は彦九郎。号は如雲。水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部正房(跡部家の宗家)の養嗣子となった。1817年、300石の家督を継ぐ。
  • このとき、武田信玄の末裔を称して武田姓に改めた。祖先が武田家滅亡時に主家を裏切った為、この家名を嫌ったことから藩主斉昭の許しを得て武田姓への復姓をしたという。
  • 戸田忠太夫、藤田東湖と並び水戸の三田と称される。徳川斉昭の藩主擁立に尽力した功績などから、1840年には参政に任じられ、水戸藩の藩政に参与した。
  • しかし1844年、斉昭が幕府から隠居謹慎処分を命じられると、これに猛反対したため、耕雲斎も連座で謹慎となった。
  • 1849年、斉昭の復帰に伴って再び藩政に参与し、1856年には執政に任じられた。そして、斉昭の尊皇攘夷運動を支持し、斉昭の藩政を支えた。
  • しかし1860年、斉昭が病死すると水戸藩内は混乱を極め、耕雲斎も藩政から遠ざけられた。耕雲斎は斉昭死後の混乱を収拾しようと各派閥の調整に当たったが、混乱は収まらなかったばかりか1864年には藤田小四郎(藤田東湖の四男)が天狗党を率いて挙兵してしまう。
  • 耕雲斎は小四郎に早まった行動であると諫言したが、小四郎は斉昭時代の功臣である耕雲斎に天狗党の首領になってくれるように要請する。耕雲斎ははじめ拒絶していたが、小四郎の熱望に負けて止む無く首領となった。天狗党の目的は、斉昭の子で当時は京都にいた徳川慶喜を新たな水戸藩主に据えることが目的であった。
  • そして800名の将兵を率いて中山道を進軍したが、越前国新保で幕府軍の追討を受けて降伏した。2月2日加賀藩から助命を求める動きが出る。天狗党に世間の同情が集まるのを恐れる幕府(田沼意尊)は取り調べも簡素に浪士の斬首刑を決定。
  • 来迎寺を処刑地と決め、福井、彦根、小浜の3藩に首切りの太刀とりを命じるが福井藩は拒否。同年2月4日、まず武田耕雲斎、山国兵部、藤田小四郎ら幹部25人が斬首となった。
  • 来迎寺野の処刑場に引き出された耕雲斎は「咲く梅の 花ははかなく 散るとても 香りは君が 袖にうつらん」と辞世を残し松原の露と消えた。
  • 享年63(数え)であった。その後、妻・2人の子・3人の孫も死罪に処された。
  • 耕雲斎は斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であったが、過激な攘夷には消極的だった。天狗党の首領とされたとき彼は既に死を覚悟していたらしい。
  • 「慶応元年二月十一日、敦賀の惨刑を聞いた大久保利通は、その日記にこう記したそうです。〈常野浪士は、越前敦賀え土蔵に押込、去る四日に武田始廿七人尽刎首、七日迄に七百余人几て死刑に処し、殺尽いたし候由、其取扱苛刻を究、衣服を割取、赤身になし、束飯にて獣類の会釈に候由、是は田沼取計にて、橋公辺えは全く談合に不及候由、実に聞に不堪次第也。是を以幕滅亡の表と被察候〉特に最後の一句に関しては、その後の歴史に依って図らずも証明された形ですが、三州街道小野宿が生みし銘酒『夜明け前』を味わう時、彼らへの思いの丈は一層強くなります」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ふくいドットコム
    「武田耕雲斎-Wikipedia」
    (1)投稿者:Thori-Tung さん 2007/ 1/28 17:08:59(日) [926]

(2007.01.28更新)



▲徳川斉昭の影響を強く受けた尊皇攘夷派であった水戸藩の天狗党の首領・武田 耕雲斎。


◆武田耕雲斎像(敦賀市)


◆天狗党墳墓


◆武田耕書斎の墓

62年?の生涯

アルマン・クラヴォー
Armand Clavaud
 【植物学者】

(1828・?〜1890・?)
死因?---?座

  • 19世紀後期フランス画家オディロン・ルドン(1840−1916)の描く作品の多くには、奇妙な風貌の生命体がみられる。花、樹木、虫、動物、他にも、漂う空気や水の中にそれらは存在する。ルドンは、画家としての視点の他にも植物学的な視点を持っていたようだ。
  • ルドンの植物学的視野を養ったとも言うべき人物は、シャラント県ブランザック出身の植物学者アルマン・クラヴォー(1828‐1890)である。生物を表現する際の何らかの着想が、少なからずクラヴォーと交流の中で生まれたことは事実であろう。
  • 彼らは1857年に出会い、その後長く親交を結んだ。年上のクラヴォーは、ルドンと出会った当時、車軸藻という生物の新種の発見でドイツの学会を賑わせていた。ルドンは、思春期の繊細な感受性を持ってクラヴォーが開示する最新の自然科学のみならず、傑作文学や新しい思潮に触れた。その経験は、後に類まれな空想力を発芽させることになり、顔面を持つ微生物らしき生き物や、人面花など不思議な生き物を次々と表現した。
  • 私はまたアルマン・クラヴォーとも親交がありました。植物学者で、後になって植物生理学の仕事をした人です。彼はごく繊細なものたちのなかで仕事をしていました。あまり多くをお話できないのですが、彼は、知覚しえない世界の境界に、動物と植物を仲介するような生命、花というか生き物というか、一日のうち数時間、光の働きをうけているときにのみ動物であるような、あの神秘的な要素を探していたのです。」
  • 彼が研究していた海草属は、雌雄異株の遠隔受精形態である。受精時は、水中で雄から大量の花粉が放出され、その動く花粉雲を雌が枝の先端で捕まえる。花粉のひとつひとつの粒は、雌に受け止められやすいように細かな毛が付いている。微小なる世界の受精形態は、生命の根源を想わせる。ルドンの作品の中には、浮遊する胞子のような点が表現されていることがある。これは、クラヴォー研究から着想を得ているのではないかと考えられる。
  • ≪夢想(我が友アルマン・クラヴォーの想い出のために)≫は、突然の自殺で最期を遂げたクラヴォーにルドンが捧げた版画集である。≪夢想 第6葉日の光≫の暗闇には、神秘的な粒子が浮遊している。薄暗い室内から窓を見上げる若きルドンの視点は、クラヴォーが指し示した一筋の光へ向けられている。ルドンにとってのクラヴォーの存在がいかに尊いものであったか、彼の晩年の覚書からも確認できる。
  • 「彼が亡くなったとき、私は突然、支えがなくなってしまったと感じました。彼の死は私を不安にしたのです。(省略)彼は私よりも年上で、その教示するところは、そのイデアリズムにもかかわらず力強く学識によって補強され、私にとっては岩のような存在でした。私はよく彼のいうことを拝聴したものです。」
  • 外のやわらかな光の中に樹木が佇んでいる。樹木は、再生の象徴であろうか、クラヴォーが植物学者であったことの隠喩も含まれているように思う。窓は、眼に見えるものと見えないものとの境界線、すなわち生死の境を表すようである。
    ルドンは、その後もクラヴォーと共有する世界観、あらゆる生物を組織する根源的な要素をみつめる視野をもって、作品に取り組んだ。
  • 「外面的な自然のものの中で、最も細やかな、最も特殊な、偶然のものを注意深くあらわすことが大切です。(省略)秤で量り、煎じ出した自然は私の泉となり、酵母となり酵素となるのです。
  • 生命の素を探求する二人の作業は哲学的であったに違いない。だからこそ、ルドン作品の歴史の中で、クラヴォーと共有する世界観は不規則に表出し、際限のない繋がりをみせている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    オディロン・ルドンの作品にみる植物学者アルマン・クラヴォー

(2013.08.03掲載)



▲ルドンの植物学的視野を養ったとも言うべき人物・アルマン・クラヴォー。



62年?の生涯

柳川一蝶斎 3代目
Ittosai Yanagawa-III
 【西洋手品元祖】

(1847.?〜1909.?=弘化4年11月〜明治42年2月17日)
心臓病---?座

  • 本名、青木治三郎。父、江戸城御用金物商青木常次郎(二男)。初代の弟で、弟子になり蝶之助と称する。襲名前は柳川蝶十郎。落語家春風亭柳枝に師事。
  • 慶応2年(1866)アメリカのベンコツに年千両、2年の拘束で雇われた独楽廻し・軽業師・手品師などの男女14名の中に、柳川蝶十郎がいた。
  • 奇遇なことには、この旅芸人の一行は、慶応2年(1866)幕府がはじめてイギリスに送った留学生14名(中村敬輔・外山正一・菊地大麓・中村正直・林薫たち)と、おなじ船で下等上等船室に分かれて出航している。明治2年(1869)印刷局職工となり、錦集会会長となる。のち、蝶柳斎と名乗る。
  • 明治25年(1892)鍋島邸で天覧芸を披露する。明治29年(1896)3代目一蝶斎を襲名。初代快楽亭 ブラック(1858-1923:本名、ヘンリー・ジェイムズ・ブラック。日本名、石井 貎刺屈(いしい ぶらっく))というイギリス人を雇い、西洋奇術をさせていた(時期不詳)。2年間も西欧を旅すれば英語の少しは話せただろうから納得できる。日本橋の自宅で心臓病のため没する。63歳(数え)。
  • ※ 初代は文政時代(1818-1829)に活躍し、江戸手妻を完成した。江戸末期の手妻師の流派には、柳川派、吉田派、養老派などがあり、人気手妻師の錦絵も出版された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー 柳川一蝶斎

(2010.11.10掲載)



▲江戸時代に柳手妻を完成させた柳川一蝶斎 3代目。
★肖像を探しています。


▲墓は、瑞松院墓地 (谷中1-4-10)。境内墓地。山門より入り右側、塀沿い。正面「三代目/柳川一蝶斎之墓」。


62年?の生涯

オーヴィル・H・ギブソン
Orville Henry Gibson
 【ギブソン社の創業者】

(1856.?〜1918.08.21)
ニューヨーク州オグデンスバークで心内膜炎のため死去 ---?座

  • ニューヨーク州生まれ。その創業は、職人であったオービルが1894年ミシガン州カラマズーでマンドリン、バンジョー製作を始めたことに遡る。創始者の オーヴィル・ギブソンと、彼の仲間たちの5人だけで 古いパン屋の建物に店を開きギターとマンドリンを1本 1本 手作りで作っていた。
  • 1902年には、販売会社として、『ザ・ギブソン・マンドリン・ギター・マニュファクチュアリング・カンパニー』(ギブソン社)を創立。出資者はオーヴィル・ギブソン氏と地元出資者だった。
  • オービルは、自らの意思で経営を筆頭株主だったジョンW.アダムスらに任せ、1908年以降、ブランド名と彼が取得した特許の使用料として年俸$500をうけとるのみで、あたかもコンサルタントとして工場に出向いて製作上のアドバイスをすることはあったが、会社経営にはまったく関わることはなかった。
  • 1907年から1911年にかけ、入退院を繰り返し、1916年カラマズーを離れ再び入院し、1918年逝去した。
  • 1920年代から1930年代にかけ、ギブソン社は、数々のギターのデザイン革新に貢献し、特にモデルL5により、アーチトップ・ギターのトップ企業となった。
  • 1936年には、一般的には世界初コマーシャル・ベースのエレクトリックギターであるモデルES-150を発売。1944年CMI(シカゴ・ミュージック・インストゥルメンツ)の傘下となる。
  • 1952年、ギブソン社はギタリストのレス・ポールとの共同でソリッドギターを設計、レスポールモデルとしてフェンダー社のストラトキャスターとともに、エレクトリックギターのスタンダードとなる。
  • その後、1950年代末においてエクスプローラ、フライングVといった突飛なデザインのもの、セミアコースティックES-335、 ハムバッキングの導入といった数多くの革新的なギターを世に送ることとなる。
  • レスポールは1961年にモデルSGに押され製造中止となったが、エリック・クラプトンやピーター・グリーンなどの強い支持の下、1960年代後半に再発売となった。
  • レスポールとSGはともに、ヘビーメタルギタリストに非常に人気がある。 1974年から1984年にかけ、ギブソンギターの製造の中心はカラマズーからテネシー州ナッシュビルへと移行した。
  • 1986年ヘンリー・ジャスコヴィッツ氏(2002年現在ギブソン・ギター・コーポレーション CEO兼会長)とデイヴ・ベリーマン氏によりギブソン社は買収される。以来、最大のライバル「フェンダー社」と共に世界の2大エレキギターメーカーに君臨し続けている。
  • ギブソン社のギターは、最高の品質を誇るが、同時に非常に高価であることで有名である。そこで、子会社であるEpiphoneにおいて、品質は劣るが手ごろな価格の普及品を製造している。その他子会社にKramer、Steinberger及びベースギター専門のTobias, ピアノのBaldwin、エフェクター及びMIDI 機器製造のOberheim、ドラム製造 Slingerland がある。また、ギブソン社はギブソンブランドのギターアンプも製造している。その他関係する会社として、ナッシュビルへ移動する前の従業員により設立されたthe Heritage Guitars companyがある。 その他、メンフィス(テネシー州)においてカスタム・ギターの製造・販売を行っている。ギブソン社(Gibson Guitar Corporation)はアコースティック・ギター及びエレクトリックギターの製造会社であり、業界において世界で最も著名な一社である。
  • 「ブルーグラス音楽で使われている五弦バンジョーとフラットマンドリンは「アメリカの民俗楽器」といえます。フラットマンドリンはその名の通り胴体が平らです。私はアメリカ人は不器用だからイタリアのような膨らんだマンドリンを作れなったんじゃないかと漠然と思っていました。ところがこれはとんでもない間違いです。フラットマンドリンは20世紀初頭に姿を現すのですが、発明したのはオーヴィル・H・ギブソンという人です。彼は音が大きく美しいマンドリンを作ろうと研究したのですが、ヴァイオリンの構造を手本にしたようです。f 字孔にそれが顕著に現れています。ブルーグラスの創始者であるビル・モンローが使い始めたことによってフラットマンドリンはアメリカンルーツ音楽シーンに浸透するようになりました」(1)。
  • 「1856年、イギリス人ジョン・ギブソンの息子としてニューヨーク・シャトーゲイで生まれる。兄弟にオスロズ、更に2人の姉妹がいたらしい。趣味は木工で、様々な職業に従事しながら好きな楽器演奏を行っていた。カラマズーで最初に開いた楽器ショップは自宅も兼ねていた。当時の彼の肩書きは"O.H.GIBSIN 楽器製造者"。マンドリンに限らず、ライト・マンドリン、ハープギターなど、オリジナルの楽器を創作している。
    以前からヴァイオリンの製造行程を研究していたギブソンは、同じ工法をマンドリンの製造方法に取り入れた。これは、薄い板をプレス加工(ベンディング)するのではなく、厚い板の塊から内側外側と削り取る方法で、トップ(前面)やバック(後面)を削り出す。この工法は現在でもギブソン・ギターに生かされている。余談だが、アメリカのなかでは他にマーチン社が上げられる。最近また人気が高くなったフォークギターは、前面をスプルースと呼ばれる薄い板から加工される。特にサイドと呼ばれる横木はマホガニーなど水に浸した薄い板を熱処理(ベンディングアイロン)しながら型にはめ込む方法が考案され現在に至っている。これらの工法は100年以上の試行錯誤から完全に完成された工法で、創業から現在まで生き残っているメーカーでは、このマーチンを含めて唯一2社だけだ。ギブソンはあるひとつの信念を持っていた。「圧力が掛からず曲げられていない木は、より優れた振動特製を有する」としていた。事実このギブソンの揺るぎない自信と誇りは、その後急成長を遂げるギブソン社のポリシーとなり、一時期(1980年代)のフェンダー社との攻防戦もあるが、多くのアイディアと特許、さらに後の子会社や優秀な技術者を残しながら、世界随一の楽器メーカーへと進展していく。<参考文献:THE GIBSON=ギターマガジン別冊 株式会社リットーミュージック>」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    エレキギター情報サイト [ギブソン(GIBSON)の歴史]
    www2.tokai.or.jp/nex/history/gibson/gibson.htm - 12k -
    (1)「フィドル少年漂流記♪」fiddle.exblog.jp/703804/ - 29k -
    (2)投稿者:みずのさん 2005.07.31(Sun) 12:08[514]

(2005.07.31掲載)




▲最大のライバル「フェンダー社」と共に世界の2大エレキギターメーカーに君臨し続けているギブソン社の創業者、オーヴィル・ヘンリー・ギブソン。


◆ギタリストのレス・ポール。1990年代でも現役でニューヨークにあるクラブで演奏を続けている。しかし、いまでも健在なのだろうか、噂を聞かなくなっ
たのが寂しい。



◆ギブソンが考案して商品化したハープギター。


◆最初に作られたレスポール・モデル


◆ギブソン初の「エレクトリック・スパニッシュ・ギター」ES−150。

62年?の生涯

村井吉兵衛
Kichibei Murai
 【日本たばこ産業の革命児】

(1864.?〜1926.?=元治元年〜)
死因?---?座

  • 京都のたばこ商であった村井弥兵衛の次男として生まれた村井は、後に分家の養子となる。若い頃からたばこ販売業に従事し、当時アメリカでブームとなっていた両切シガレットの製造を成功させたのは、明治24年(1891年)。
  • 村井兄弟商会を設立して、明治23年にわが国ではじめての洋風両切煙草「サンライズ」を製造発売した。続いて「ヒーロー」、「バアジン」などを発売し、明治32年には米国タバコ会社の資本を導入、東京の天狗煙草岩谷商会と商戦を繰り広げるなどその名声は世界のタバコ商として知られた。
  • 国産葉を使用した日本初の両切シガレット『サンライス』は、海外から輸入した美人画や風景画をおまけ(たばこカード)としてつけたこともあり、たちまち大人気となる。
  • その後、すでにたばこ王として君臨していた岩谷松平がいる東京に進出。村井は自らアメリカへ渡り、たばこの栽培から製造、販売のノウハウを身につけ、米国葉と国産葉をブレンドした『ヒーロー』を誕生させる。
  • ドメスティック色が強い岩谷とは対照的に、アメリカたばこを模倣したパッケージデザインを導入するなど、西洋のハイカラさを徹底的に追及し、日本のたばこ産業に新風を巻き起こした。
  • 明治37年のタバコ専売法の施行後は実業家として活躍。村井兄弟商会の建物は専売局専売公社の京都工場として使用され、村井の技術が大いに役立った。
  • 円山公園には村井吉兵衛が別荘として建てた「長楽館」がある。
  • 家内工業的な岩谷と大資本を瀬にした村井との新旧対決。明治37年、煙草は国の専売制になって勝負は預かりとなった。美味しいところは明治政府にもって行かれた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2006.02.15夕刊「芥川記者の展覧会へ行こう」より抜粋。
    明治時代のたばこ王岩谷松平と村井吉兵衛

(2006.02.19掲載)


?肖像を探しています。

▲日本初の洋風両切煙草「サンライズ」を発売した明治の民営煙草業者・村井吉兵衛。

 




◆長楽館(旧村井吉兵衛邸)建築年代:明治42年(竣工)
構造形式:煉瓦造3階建(一部地下1階) 設計:J.M.ガ-ディナ- 施工:清水満之助


◆関西テーラー(旧村井兄弟商会たばこ工場)


◆J.M.ガーディナー

 


62年?の生涯

住友 春翠
Syunsui Sumitomo
 【 稀代の数寄者】

(1864.?〜1926.?)
死因?---?座

  • 住友家第15代当主・住友吉左衛門。青銅器コレクターとして有名。広く洋画壇のパトロンだった。
  • 「住友家の美術品で最も有名なものは、第15代当主住友春翠が明治中頃から大正期にかけて蒐集した中国古銅器と鏡鑑です。これは中国以外では質量ともに最も充実したコレクションとして世界的にも高く評価されていますが、当館はこの貴重な青銅器と鏡鑑500点余りを保存公開するための財団法人として昭和35年に発足し、昭和45年には京都鹿ヶ谷の地に4室からなる青銅器と鏡鑑の展示室が完成しました。ちなみに、泉屋博古館の名称は、江戸時代の住友の屋号「泉屋」と九〇〇年前に中国で皇帝の命によって編纂された青銅器図録『博古図録』からとっています。その後も当館は、住友家から数々の美術品の寄贈を受け、現在収蔵品は3000点以上を数えます。また、収蔵品の増加に伴い、昭和61年に青銅器展示館の傍らに新展示室を増築し、さらに平成14年には東京六本木に分館を開設いたしました。---春翠の蒐集した茶道具の特色としては、まず唐物つまり中国の青磁や染付等の陶磁器や古銅の作品に優品が多いことが挙げられます。また「中興名物」が多いのも特色で、これは春翠の好みが小堀遠州のそれと同調していたことを示しています。さらに日本の作品では、仁清の優雅な作品や備前・信楽の侘びた作品もあって極めて多種多様です。稀代の数寄者といわれた春翠の美意識を反映したこれら茶道具が織りなす美の世界を充分にご堪能ください」(1)。
  • 21世紀のパトロネージュってどんなかたちをしてるんだろう?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「企画展紹介 | 泉屋博古館(京都)|泉屋博古館 住友コレクション

(2005.12.10掲載)




▲青銅器コレクターとして有名で広く洋画壇のパトロンだった住友 春翠 。

 


62年?の生涯

丸岡九華
Kyuuka Maruoka
 【明治時代の詩人,小説家】

(1865.?〜1927.07.09)
死因?---?座

  • 慶応元年生まれ。尾崎紅葉らの硯友(けんゆう)社の創立にくわわり,小説「散浮花(ちりうくはな)」や新体詩を発表。
  • 東京高商(現一橋大)卒業後は文学から遠ざかり実業界で活躍した。昭和2年7月9日死去。63歳(数え?)。
  • 江戸出身。本名は久之助。別号に春亭,山茶花,桂堂など。
  • 「詩人・小説家。本名は久之助、別号は春亭・九春亭・延春亭・山茶花(サザンカ)・礫川(レキセン)魔王・桂堂・梅の舎薫(ウメヤノカオル)。江戸生れ。一橋高等商業学校に学ぶ。1885年、大学予備門の学生であった尾崎紅葉の硯友社創立に参加。/「全国名前辞典」より」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    丸岡九華 とは - コトバンク
    (1)「丸岡九華

(2011.11.23掲載)


★肖像を探しています。

▲尾崎紅葉らの硯友(けんゆう)社の創立にくわわり,小説「散浮花(ちりうくはな)」や新体詩を発表した丸岡九華。


 


62年?の生涯

ワシリー・エロシェンコ
B・Eroshenko
 【ロシア出身の盲目の詩人】

(1890.?〜1952.12.23)
死因?---?座

  • 1890年、ロシアのオブホーフカ(ウクライナ?)に生まれる。健康で陽気な少年だったが、4歳の時ひどい病にかかりる。
  • しかし、宗教心の強かった両親は、神のみが病を治せると信じ、医者には診せずエロシェンコを教会へ。外は零下40℃。病気は当然のごとく悪化し、終には失明。それからというもの、エロシェンコは扱いづらい少年へと変貌。少年にとって光の届かない暗黒の世界は、全てを自分の敵に変えてしまった。
  • 心配した父親は息子をモスクワの盲人学校に入学させた。しかしそこにあったのはまるで子供収容所の世界。世の中から隔離された場所で、独りでは塀の外に出ることさえ禁じられ、昼も夜も先生達によって厳重に監視されていた。
  • この少年時代の経験から、迷信へのいかりと科学への憧憬、権威への反発、人を"肌の色"ではなく人間性でみる心が芽生えた。
  • 1909年、やっと自宅に戻ったエロシェンコは盲人オーケストラで働き、1911年カスカズ、1912年イギリスを旅行。カスカズでは当時流行した人造の国際共通語であるエスペラント語を覚え、イギリスでは日本が盲人に対して寛容であるとの噂を聞く。そして日本行きを決意。
  • 日本語を覚え、日本人とエスペラント語で文通をして準備を進め、1914年、憧れの日本の地を踏む。
  • 日本では、劇作家の秋田雨雀、早稲田大学の教師片上伸、ジャーナリストの神近市子らと交流を持ち、片上のつくったサークルで相馬黒光に出会う。 中村屋の創業者 相馬黒光はエロシェンコを気に入り、衣食住の面倒をみ、エロシェンコもまた黒光をおかあさんとまで呼ぶようになる。
  • そして1916年、一度は東南アジアに渡るが、1919年再び日本に戻り中村屋を訪ねる。
  • 1920年には鶴田吾郎と中村彝の絵のモデルを務めたり、中村屋での「地の会」という脚本朗読会でエロシェンコの脚本が読まれたり、黒光との関わりは以前のそれと変わらないものだった。
  • しかし、また、同時期に日本での社会主義の高揚に影響を受け、エロシェンコは社会主義の方に偏っていき、終にはボルシェビキの嫌疑をかけられてしまう。淀橋署の警官が中村屋を取り巻き、土足のまま乱入。黒光の部屋でエロシェンコを見つけ、強制連行。そこで、相馬夫妻は淀橋署長を告訴。結局署長の引責辞任で決着がついた。このような相馬夫妻の擁護も実らず、エロシェンコは1921年、三回目の逮捕で日本を追放される。
  • 相馬夫妻はエロシェンコへの想いを込めて、店員の制服を彼が愛用していたルパシカにし、1927年ロシア料理のボルシチを発売。
  • その後、魯迅に招かれて北京に渡り、北京大学で教鞭をとったり演劇活動を行う。また北京のメーデーやエスペランチスト大会に参加するなど、日本での活動を延長して続けた。そして1923年ロシアに帰り、盲人のための仕事に従事。1952年故郷のオブホーフカに住み、12月23日に永眠。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新宿中村屋 - 中村屋サロン - 第3回 エロシェンコ

(2006.12.14更新)



▲北京のメーデーやエスペランチスト大会に参加するなど、日本での活動を延長して続けたロシア出身の盲目の詩人ワシリー・エロシェンコ。


◆バイオリンを弾くエロシェンコと黒光


◆「エロシェンコ氏の像」作:中村 彝(1920年=大正9年)

 


62年?の生涯

石原吉郎
Yoshiro Ishihara
 【現代キリスト教詩人の代表】

(1915.?〜1977.11.14=大正4年〜昭和52年)
急性心不全---?座

  • 大正四年、静岡に生まれる。1938年、東京外国語学校ドイツ部貿易科卒業。大阪ガスに入社、研究部に勤務。姫松教会にて1938年(23歳の)洗礼を受ける。
  • 神学校入学を志すが1939年、応召。静岡市歩兵第34連隊に入隊、歩兵中隊に所属。情報要員としてハ ルピンに配属。1940年、北方情報要員第一期生として、大阪歩兵第37連隊内大阪露語教育隊へ分遣。1941年
  • 、関東軍司令部、関東軍情報部に配属。
  • 1942年、応集解除。ひきつづき関東軍特殊通信情報隊(秘匿名称、満州電々調査局)に徴用。1945年、ソ連対日宣戦布告、終戦。密告によりエム・ペ・デ(ソ連内務省)によって拘留され、ソ連領へ。1946年、アルマ・アタ第三分所に収容(以後1953年まで中央アジア、シベリアの強制収容所を転々とする)。1948年、カラガンダ市郊外の日本軍捕虜収容所に収容。
  • 1949年2月、中央アジア軍管区軍法会議カラガンダ臨時法廷へ引き渡され、ロシア共和国刑法58条(反ソ行為)六項(諜報)により起訴される。判決は重労働25年(死刑廃止後の最高刑)。9月、ストルイピンカ(拘禁車)でタイシェットのペレスールカへ。10月、バム(バイカル‐アムール)鉄道(第二シベリア鉄道)を北上、沿線密林地帯の収容所(コロンナ33)に収容。森林伐採に従事。
  • 1950年4月、コロンナ30へ移動。流木、土工、鉄道工事、採石などに従事。9月、ハバロフスク市第6分所に収容。
  • 1953年3月、スターリン死去。特赦により日本へ帰還。
  • 1955年、粕谷栄市らと詩誌『ロシナンテ』を創刊。1963年、第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』を刊行(H氏賞)。1973年、『望郷と海』を刊行(歴程賞)。
  • その後、次々と詩集、エッセイ集を刊行。1977 年11月14日自宅にて入浴中に死去。
  • 大量殺戮のことをジェノサイドという。詩人の石原吉郎さんは「望郷と海」(ちくま学芸文庫)のなかで、「ジェノサイドのおそろしさは…」と書いている。ひとりひとりの死がないことだ、と石原さんは言う。「死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである」と」(2)。
  • 『内なるシベリヤ抑留体験』石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』:シベリヤ抑留の歴史的事実をふまえ、石原吉郎・鹿野武一・菅季治を主軸に戦争に翻弄されたよき人達の魂の軌跡、精神史をたどる。
  • 「 取り敢えず、在処だけ………。こちら」(3)。
  • ---Thori_Tungさん  いつもながら、石原吉郎の肖像の在処、だんだん。ボクの自己責任において掲載いたします。
  • 戦後八年間におよぶシベリアでの強制収容所体験を基底に、暗喩と断定の語法を用いた、極限まできりつめた文体による詩を作ったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「はてなダイアリー - 石原吉郎とは」
    石原吉郎
    (1)「石原吉郎
    (2)読売新聞2005.10.12朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (3)投稿者: Thori_Tung さん..2010/11/17 07:25:37(水) [8385]

(2010.11.18更新)




▲日本における現代キリスト教詩人として、代表的な存在の一人・石原吉郎。

 

 


◆多磨霊園

◆「サンチョ・パンサが死んだ。私の指標は消えた。「死はそれほどにも出発である/死はすべての主題の始まりであり/生は私には逆向きにしか始まらない/死を<背後>にするとき/生ははじめて私にはじまる/死を背後にすることによって/私は永遠に生きる/私は生をさかのぼることによって/死ははじめて/生き生きと死になるのだ」。昭和52年11月13日は私の青春の墓標となり、新天地への出発点ともなった」(1)。

62年?の生涯

フェリックス・ガタリ
Felix Guattari
 【ポスト構造主義 の先駆者 】

(1930.?〜1992.08.29)
心臓発作---?座

  • フランスの精神分析家、哲学者。パリ大学卒。ラ・ボルド診療所共同所長。
  • 1960年代よりパリ郊外のラ・ボルドで精神科医たちとともに開放型の精神病院の経営に携わるともに左翼政治運動に加わる
  • ジャック・ラカンの影響下にあるパリ・フロイト派に属す。診療のかたわら、哲学的な著述を数多く発表。
  • 1968年の五月革命で活動後、ドゥルーズと出会い、分裂症分析の概念などを提示しつつ『アンチ・オイディプス』(1972年共著)で注目を集め、 "ポスト構造主義" の先駆けとなる。
  • その後も精神医療と政治を結ぶ活動を展開。『精神分析と横断性』(1972年)やプルースト論『機械状無意識』(1979年)、再びドゥルーズと『千のプラトー』(1980年)を著す。
  • 1980年代には『分裂症分析の地図製作法』を著すとともに医療闘争、エコロジー運動と旺盛に活動、三たびドゥルーズと『哲学とは何か』(1991年)を公刊。
  • 社会主義と資本主義、二つの体制を精神分析的な方法によって分析し、 "スキゾ(分裂型)" や "リゾーム (地下茎)" など独特な概念言語を提起。
  • 著書に「精神分析と横断性」(74年) 、「分子革命」(77年)、「機械状無意識―スキゾ分析」「精神と記号」「三つのエコロジー」、ドゥルーズとの共著で「カフカ」(75年)、「政治と精神分析」(77年) 、「哲学とは何か」(91年)などがある。
  • 晩年は環境保護運動に傾斜していた。 '92年講演のため来日。
  • ポスト構造主義:構造主義の継承と克服を図る思想の総称。厳密な用語ではなく、J.デリダ、G.ドゥルーズおよびF.ガタリ、F.リオタール、J.クリステバら主としてフランスの思想家の活動を概括するもの。デリダの影響下に形成された米国の批評思潮をも含める。デリダの〈脱構築〉、ロゴス中心主義批判、ドゥルーズ=ガタリの〈逃走=闘争〉ないしノマディスム、リオタールの〈物語の終焉〉などが指標として語られる。構造主義がなお抱えていた実体主義・形而上学的傾向からの脱却を目指すと言われる。スピノザニーチェハイデッガーへの参照、フェミニズム、マイノリティ、他者性、差異化などへの訴求が特徴であり、後期フーコーの影響が明らかに大きい。時流とは全く無関係に思索したE.レビナスを含め、ポスト構造主義の核心に実践と倫理があることは確実である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2005.12.09更新)



▲ドゥルーズと共に"ポスト構造主義" の先駆者の一人・フェリックス・ガタリ。


62年?の生涯

木村 好夫
Yoshio Kimura
 【作曲家、ギタリスト】

(1934・?~1996・07・05)
肝不全---?座

  • 東京都出身。ジャズギター界から後に演歌・歌謡曲に転向する。
  • 1996年7月5日、肝不全のため62歳で死去。
  • 「泣いているのか、唄っているのか、それともただ遠い昔を懐かしんでいるのか…。ギターの音色はあっという間に私たちの心に沁み入り、「大切な何か」を思い起こさせてくれます。CD全集『木村好夫の世界』では、昭和を生きた世代の思い出に残る演歌・流行歌全180曲を、 “演歌ギターの神様”と呼ばれた木村好夫による力強く味わい深い“唄うギター”を主役に収録!アコーディオンやピアノといった郷愁誘う名脇役の音色も交えての、昭和の雰囲気あふれる絶品の演奏でお届けします。心に沁みて、泣けて、思い出が甦り…、いつの間にか神様のギターと一緒に、懐かしのメロディを唄ってしまっていそうな“感涙の音楽時間”を、どうぞゆったりとお過ごしください」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    木村好夫- Wikipedia
    (1) 「木村好夫の世界 CD全10巻 -ユーキャン 通販ショップ | DVD ...

(2014.06.27掲載)



▲ジャズギター界で「黄金の指を持つ男」の異名を持つ木村 好夫。



62年?の生涯

宮脇 檀
Mayumi Miyawaki
 【賃貸マンションに住み続けた建築家】

(1936.?〜1998.10.21)
下いん頭癌---?座

  • 建築家 。1936年 愛知県名古屋市に生まれる。1959年 東京芸術大学美術部建築学科卒業。1961年 東京大学大学院修士課程高山研究室終了。
  • 1964年 (有)宮脇檀建築研究室を設立。その後、法政大学、東京大学、共立女子大学等の非常勤講師、日本建築家協会理事、東京建築士会評議委員、日本建築学会委員を歴任。
  • 1980年 「松川ボックス」日本建築学会賞作品賞。1989 高輪アパート建替設計競技最優秀賞。
  • 東京大学、法政大学などで講師。日本建築家協会、日本建築学会、文化庁、建設省などの各種委員を歴任。1991年から日本大学生産工学建築科研究所教授。
  • 著書として「日本の住宅設計」、「建築家の眼」、「宮脇檀の住宅」など多数。
  • 1998年10月21日、下いん頭癌のため、東京・新宿の病院で死去。
  • 宮脇檀は建築家にも拘らず(だからこそというべきか?)代官山の賃貸マンションに住み続けた。「家というものは二十年もたてば、資産価値はゼロになってしまう。日本人は異常なほどに家を壊す民族で、平均すると十七年から二十年の間で家を壊して建て替えている。すると、三千万かけて家を建てても二十年でゼロだから、一年当たりで百五十万円、一ヶ月に十二万五千円支払っている計算になる。それを借金してローンで支払っているとすると、利息がついてほぼ倍の支払いだから、月に二十五万円も家のために支払っていることになる。それならば、毎月二十五万円の家賃で家を借りていることと同じことになるのではないか」(『都市の快適住居学』宮脇檀・PHP文庫)。
  • 数年前、近所の喜八チャイナでチャーミングなご婦人と口述筆記しながら食事をとられていたのが最後に見た姿だった。咽頭癌だったのだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.12.10掲載)


▲代官山の賃貸マンションに住み続けた建築家・宮脇 檀。

62年?の生涯

高松次郎
Jiro Takamatsu
 【思考する美術家】

(1936.?〜1998.06.25)
死因?---?座

  • 東京都に生まれる。本名は新八郎。1958年東京芸術大学油画科を卒業。
  • 1962年、山手線事件(中西夏之・川仁宏らと共にハプニングを行う:山手線内車輌およびホーム)犯罪者同盟早大大隈講堂劇ショー(早稲田大学大隈講堂)に参加。
  • 1963年、年赤瀬川原平、中西夏之と3人で芸術団体ハイレッド・センターを結成。1965年、「第9回シェル美術賞展」 一等賞受賞。
  • 1967年、「第5回パリ・ビエンナーレ」 特別賞(テオドラン財団賞)受賞。サパー・クラブ・カサドール(東京)のための壁画〈影〉を制作。(倉俣史朗とのコラボレーション)
  • 1968年、「第34回ヴェネツィア・ビエンナーレ」 カルロ・カルダッツォ賞受賞。第18回芸術選奨新人賞受賞。
  • 1969年、第6回パリ・ビエンナーレのために東野芳明企画によるグループ〈4ボソット〉。(関根伸夫・田中新太郎・成田克彦と)に参加,グループ賞受賞。
  • 1970年、万国博覧会の日曜広場(千里丘陵・大阪)に〈遠近法の日曜広場〉を設置、 自動車工業館のための映画「1日240時間」(監督:勅使河原宏 脚本:安部公房)美術担当。
  • 1971年、カリオカビル(東京)の建設現場のための囲い〈影〉を制作(倉俣史朗とのコラボレーション)。
  • 1974年、福岡相互銀行(現・福岡シティ銀行)本店応接室に〈影〉のコーナーを制作(磯崎新設計)。
  • 1998年、6月25日逝去。
  • 「高松次郎は40年に及ぶ活動の中で、反芸術的なオブジェやパフォーマンスをはじめ、人物や物の影のみを描いた絵画、遠近法を逆転させた立体、木や石に少しだけ手を加えた作品、そして、油彩や水彩による絵画など、実にさまざまなスタイルの作品を作り出した。---思考することを美術家として実践した高松の活動は、1960年代以降のコンセプチュアル・アート、広くは世界との関係を築こうとする現在の美術の原点として位置づけられる」(1)。
  • 「---次元、不在といった抽象的な観念に没頭し、それをひとひねり、ふたひねりし続けている。そうした思考に導かれて、表現形式は平面、立体、言葉を扱う作品などへ多様化していったわけだが、思考と作品はしばしばトリッキーな性格を帯び、たとえば「だまし絵」を見るような新鮮な驚きをもたらすところがある」(2)。
  • 「盟友だった美術家の中西夏之は〈生まれたばかりの人の、初々しい好奇心と生真面目さ〉を高松に見てとっている」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「高松次郎
    (2)(3)読売新聞2004.08.05朝刊「美術」(前田恭二記者)より抜粋。

(2004.08.19掲載)



▲反芸術的なオブジェやパフォーマンスをはじめ、人物や物の影のみを描いた絵画、遠近法を逆転させた立体、木や石に少しだけ手を加えた作品、そして、油彩や水彩による絵画など、実にさまざまなスタイルの作品を作り出した高松次郎。






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