玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

age 63


50音インデックス

■63歳の
 シンクロニシティ


■63歳-?
光武帝
孟郊
ピエール・アベラール
平 清盛
鄭和
円空
浅野 和三郎
片岡 敏郎

■63歳-前半
オットー・ノイラート
池田満寿夫
山鹿素行
近衛 十四郎
ノーベル
曽我町子
日野 てる子
フェルナン・クノップフ
城 達也
ルーズヴェルト
レンブラント
ロバチェフスキー
グリエルモ・マルコーニ
歌川 国芳
伊藤栄樹
岸田 國士
ヴィヴァルディ
フェルマー
内田良平
与謝野晶子

■63歳-後半-1 →進む
村井弦斎
五社 英雄
ウィリアム・ギルバート
柳澤 健
ウィリアム・ホールデン
ハナ 肇
シャルル・フーリエ
豊田佐吉
三好達治
古今亭志ん朝
ダゲール
山本周五郎
猪熊 功
はらたいら
島野育夫
ヘップバーン
ポール牧
ロバート・E・リー

■63歳-後半-2 →進む
ピエール・ガッサンディ
宮本 征勝
エドウィン・ハッブル
成瀬巳喜男
尾上菊五郎(6代目)
トラヤヌス
ペリー
ブラームス
檀 一雄
恩地孝四郎
カルロ・コッローディ
キケロ
糸居五郎
東条英機
山本 鼎


■63歳のエポック


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63歳の語録


「私はもっとも多数の人たちと共に生活をし、共通のことで苦しみ悩み、その中に生きる希望を探求していきたい」
(周五郎)

「人生を二度生きることは出来ない。この一生を精一杯生きろ」
(周五郎)

「人生にも四季があり、好況と不況は付いてまわる」(周五郎)

「苦しいときほど人間が人間らしくなるときはない」
(周五郎)

「人間の一生を支配するのは運であって、知恵ではない」
(キケロ)

「人生から友情を取り去ってしまうなどとは太陽をこの世から取り去ってしまうようなものだ」
(キケロ)

 

 

 

 


63歳のシンクロニシティ!

  • 63歳の生涯には二人の数学者が享年をともにしている。ロバチェフスキーフェルマーである。
      
    ●非ユークリッド幾何学の創始者にしてロシアの数学者ニコライ・ロバチェフスキー(1792.11.20〜1856.02.12)は、晩年失明し63年2ヶ月と23日の生涯(射手座)。
    ●『フェルマーの最終定理』で有名なフランスの数学者フェルマー(1601.08.17〜1665.01.12)も、死因?ながら63年4ヶ月と26日の生涯(獅子座)。

  • また「無線信号の発明者」と「電磁気学の父」、エピクロスの再発見者」と「現代天文学の父」の学者達も逝っている。マルコーニギルバートガッサンディハッブルである。
      
    ●「電波を通信に利用できないだろうか」と考えた無線信号の発明者・グリエルモ・マルコーニ(1874.04.25〜1937.07.20)は、死因?で63年2ヶ月と25日の生涯(牡牛座)。
    ●「電磁気学の父」と呼ばれる英国の医師、物理学者・ウィリアム・ギルバート(1540.05.24〜1603.12.01)は、死因?ながら63年6ヶ月と7日の生涯(双子座)。
    フランスの物理学者・数学者・哲学者で「エピクロスの再発見者」ピエール・ガッサンディ(1592.01.22〜1655.10.24)は死因?で63 年9ヶ月と2日の生涯 (水瓶座)。
    ●宇宙が膨張していることを発見した「現代天文学の父」エドウィン・ハッブル(1889.11.20〜1953.09.28)も、死因?ながら63 年10ヶ月と8日の生涯だった(蠍座)。

  • さらに、竹久夢二繋がりで二人、岸たまき恩地孝四郎。そして版画家繋がりで池田満寿夫山本鼎
       
    ●眼の大きな女性で、夢二式美人画の原型となった女性・岸たまき(1882.07.28〜1945.07.09=明治15年〜昭和20年)は、死因?で62年11ヶ月と11日の生涯(獅子座)。
    ●竹久夢二がはじめて刊行した『夢二画集 春の巻』を見て多くの影響を受けて芸術の道を選んだ版画家・恩地孝四郎(1891.07.02〜1955.06.03)も63年11ヶ月と1日の生涯 で病死した(蟹座)。
    ●『エーゲ海に捧ぐ』で知られる版画家、作家、映画監督・池田満寿夫(1934.02.23〜1997.03.08)も、急性心不全で63年と13日の生涯 (牡牛座)。
    ●1904(明治37)年に日本最初の創作版画《漁夫》を制作した版画家・山本鼎(1882.10.14〜1946.10.08)も、腸捻転で63年11ヶ月と24日の生涯 を終えた(天秤座)。

  • コメディアン・芸人関連ではハナ肇古今亭志ん朝ポール牧
      
    ●クレージー・キャッツのリーダー・ハナ肇(1930.02.09〜1993.09.10)は、死因?で63年7ヶ月と1日の生涯(水瓶座)。
    ●古典落語の名手として活躍した落語家・古今亭志ん朝(1938.03.10〜2001.11.01 AM10:50)は、肝臓がんで63年7ヶ月と22日の生涯 (魚座)。
    ●コントそのままのバイタリティーあふれる生きざまで話題を集め、指パッチンで一世を風靡した芸人・ポール牧(1941.08.02〜2005.04.22)は、飛び降り自殺で63 年8ヶ月と20日の生涯 (獅子座)。


  • 山梨県北都留郡初狩村に生まれた山本周五郎、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)生まれた檀 一雄もシンクロする。
     
    ●直木賞を辞退した作家・山本周五郎(1903.06.22〜1967.02.14)は、肝炎と心臓衰弱のため死去し63年7ヶ月と23日の生涯(蟹座)。
    ●20年以上に渡り書き続けライフワークとなった『火宅の人』の生みの親・檀 一雄(1912.02.03〜1976.01.02=明治45年・大正元年〜昭和51年)は、死因?で63年10ヶ月と30日の生涯 (水瓶座)。


    (2006.12.05更新)     



63年?の生涯

光武帝
Koubutei      【後漢王朝の創始者】

(BC6.?〜57.?)
死因?---?座

  • 後漢王朝の創始者(在位25年 - 57年)。初代皇帝。前漢の景帝(第6代皇帝)の子孫として生まれ、名を劉秀といった。
    姓は劉。諱は秀(しゅう)。字は文叔(ぶんしゅく)。廟号は世祖。
  • 前漢を滅ぼして新という国をたてた王莽が政治に失敗し、各地に反乱が起こったとき、劉秀は兵を挙げて新を滅ぼした。そして西暦25年(31歳)洛陽に都を置き、後漢をたてた。
  • 日本の奴国王に金印(漢委奴国王印)を与えたことが、「後漢書」東夷伝に書かれている。
  • 「劉秀は漢の景帝の息子で長沙王に立てられた劉発の末裔である。若い頃の劉秀は非常に慎重でかなりおっとりとした性格と見られていた。「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言う劉秀の言葉が残っている。執金吾とは首都の警備司令官の事で、陰麗華とは後の皇后で劉秀の地元南陽の豪族の娘で評判の美人であった。若き日の劉秀は執金吾になって美人を妻に迎えられれば良いなと思うくらいのさして大きな野望を持たない人物であった。まさか自分が皇帝になるとは思っても見なかった事であろう」
  • 「光武帝は荒廃した長安から洛陽に首都を移した。前漢末以来の混乱で中国は大いに疲弊し、前漢最盛期で六千万人ほどいた人口が光武帝の時代には二千万あまりほどに激減していた。これに対する対策の一つとして光武帝は奴隷解放令を何度も出した。自由民を増やす事によって生産力の上昇と民衆の間の王朝に対する人気取りを狙った。また周辺諸国、特に匈奴に対しては懐柔策を取り、王の号を小国にも出した。戦争を避け、民力の回復を待ったのである。40年、交趾(ベトナム)で漢の支配に反抗した徴姉妹の反乱が起こるが、伏波将軍の馬援を派遣してこれを鎮圧した。56年、建武中元と改元し、封禅の儀式を執り行う。57年、倭奴の国王が使節を送って来たのでこれに王の金印を授けた。これが後に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。同年、死去」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    集英社版・学習漫画「世界の歴史・人物辞典」より抜粋。

(2007.06.21更新)




▲洛陽に都を置き、後漢をたてた初代皇帝・光武帝。

 

63年?の生涯

孟郊
Moukou   【中唐の詩人】

(751.?〜814.?)
死因?---?座

  • 中唐の詩人。湖州武康の人といわれている。なんと50歳近くなって科挙“進士”に及第。
  • 江蘇省の尉に任ぜられたが、職務怠慢、毎日川べりで酒を飲んでは詩作に耽っていたという、そのため減給、当然貧乏して退職。のち韓愈の推薦で職を得た。
  • その昔、中国での科挙の試験は、現在日本の大学受験とは比べ物にならない厳しさ。それだけに、合格すれば一門の誉れ、特に進士の二科及第者は立身出世がもっとも早く、“白衣の公卿”といわれ、一族の期待を集めた。ゆえに、孟郊のように50歳近くの合格者というのもさほど珍しいものではなかった。なかには75歳でようやく及第したという人もあった。
  • 「再度 長安のみち空しく涙をもつて花を見る」。唐の詩人孟郊は、官吏登用試験の科挙に二度も落ち、そう詠んだ。孟郊は三度目に合格し、「春風に意を得て 馬蹄疾し 一日にして見尽くす 長安の花」と歓喜の七言絶句を詠んだ。長安の花とは牡丹、当時、合格者は馬に乗ったままで、どんな富豪の家にでも入り込んで花を見ても良いという慣わしになっていたという。また、“花”とは芸妓のことで、合格した嬉しさの勢いにのって色町にくりだしたのだという説もある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.01.18朝刊「編集手帳」
    漢詩茶館

(2007.06.06更新)




▲中唐の詩人・孟郊。




▲清明上河図ー中華民国国立故宮博物院蔵。

 

◆「再度 長安のみち空しく涙をもつて花を見る」

63年?の生涯

ピエール・アベラール
Pierre Abelard   【弟子のエロイーズとのロマンス】

(1079.?〜 1142.04.21)
死因?---?座

  • アベラールはナントに近いパレ(Pallet)で生まれ、ラテン語式のペトルス・アベラルドゥスという名前でも知られる。音声言語論者ロスケリヌス(Roscelinus 1050?-1123?)と実在論者のギヨーム・ド・シャンポー(Guillaume de Champeaux 1070?-1121)に師事、パリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となって非常な名声を博した。
  • 1117年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ(1101-64)を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため国内でも有名であった。
    アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。20歳以上年の離れていた2人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。
  • アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラブが生まれた。このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚。しかし叔父が和解の条件を守らないことやエロイーズを虐待することなどから、エロイーズをアルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、陰部を切除させた。アベラールは後にこれを「罪を犯したところに罰を受けた」といっている(後出の第一書簡)。実行犯2人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。
  • この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。
  • アベラールは学問においては自説を決して曲げない性格であり、間違っていると思えば己の師ですら罵倒し、論破した。この性格のため、碩学であったが多くの敵対者を生んだ。
  • サン・ドニでは当時修道院で信じられていた、修道院の創設者聖ドニ(デニス)が『使徒行伝』のアテナイのディニュシオスであるという通説を論破して修道士たちを激怒させた。
  • この頃アベラールは『三位性と一位性について』を著し独自の三位一体解釈を行ったが、これはソワッソン公会議(1121年)で問題とされ、その教説は異端宣告を受けた。
    そのため、パラクレトゥス聖堂に移ると修道院付属学校を自ら開いて教え、1125年には招かれてブルターニュのサン・ジルダ・ド・リュイ修道院の院長となった(のちにエロイーズはパラクレトゥス聖堂の敷地内に女子修道院を建てて院長となった。)1132年頃、エロイーズとの恋などを記した自伝的な書簡を友人あてに記した。
  • その後、アベラールは再びパリに戻るが、一連の普遍論争においてクレルヴォーのベルナルドゥスと対立し、サンス公会議(1140年)でも異端とされた。
  • 晩年はクリュニー修道院ですごし、サン・マルセル修道院でその生涯を閉じた。遺体はエロイーズの願いに応じてパラクレトゥスに埋葬され、1164年に彼女が亡くなると同じ墓に葬られた。(19世紀になって2人の遺体はペール・ラシェーズ墓地に改葬されたという。)
  • アベラールは普遍論争では唯名論者に位置づけられる。普遍論争はもともと普遍は実在するか(実在論)、名目だけのものか(唯名論)を巡って行われたもので、普遍は実在しないとする唯名論を突き詰めてゆけば、教会(カトリック=普遍)、ひいては神を否定する思想にもつながりかねない。アベラールの三位一体論の思想は異端視されたが、唯名論としては折衷的、穏健なものであり、神の意志の中に普遍は存在するとしていた。アベラールの思想はやがてスコラ学の基礎となり、トマス・アクィナス(実在論者とされる)により大成された。
  • 二人の往復書簡集の体裁を取る。第一書簡は1132年頃(サン・ジルダ修道院長時代)にアベラールから友人あてに書かれた。内容は自己の生涯を振り返るものでエロイーズとの恋の話も含む(これが『災厄の記』"Historia Calamitatum" か)。これをエロイーズが読み、長い間音信がないことを切々と訴える第二書簡が書かれた。第二書簡から第五書簡までは「愛の書簡」ともいわれ、以後はアベラールがエロイーズの信仰を励ます内容に移り、「教導の書簡」ともいわれる。
  • エロイーズはアベラールと燃えるような恋をした修道女だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ピエール・アベラール-Wikipedia

(2007.10.12掲載)




▲「唯名論」学派の創始者として知られ、後にトマス・アクィナスらによって集成されるスコラ学の基礎を築いたとされる中世フランスの論理学者、キリスト教神学者のピエール・アベラール。

63年?の生涯

平 清盛
Kiyomori Tairano   【平安末期の武将・太政大臣】

(1118.?〜1181.02.04)
失意のうちに熱病で死す---?座

  • 平安末期の武将・太政大臣。忠盛の子。
  • 保元の乱・平治の乱で対立勢力を一掃。49歳で太政大臣となり、平氏政権を樹立。50歳で出家。
  • 54歳で娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮として入内させ、一門こぞって公卿・殿上人になり全盛時代を築く。
  • 晩年は以仁王の挙兵、南都北嶺や諸国源氏の蜂起に会い、失意のうちに熱病で死す。
  • 「清盛の最期のことばを捧げます。〈やがて討手をつかわし、頼朝の首をはねて、わが墓の前に懸くべし〉。晩年、清盛は原因不明の熱病にかかる。看取った妻の時子が、言い残すことはないかと問うと「この世でなそうとしたことはすべてやることができた。しかし、頼朝の首を見なかったことだけが残念だ。だから、すぐさま討手をさしむけて頼朝の首をはね、わが墓前に供えよ。それが何よりの供養だ。」と言ったという。(参考:秋庭道博著「サムライたちの遺した言葉」)」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん2006.03.20(Mon) 00:01[1213]

(2006.03.20更新)




▲平安末期の武将・平 清盛。

63年?の生涯

鄭和
Teiwa   【中国、明朝時代の宦官・武将】

(1371.?〜1434.?)
死因?---?座

  • 中国、明朝永楽・洪煕・宣徳時代の宦官・武将。雲南省出身のイスラム教徒。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監であったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
  • 父は馬只(マ=ハッジ)といい、この名前は、アラビア語の haji(聖地メッカに巡礼した人)に由来。すなわち、鄭和一族は、代々イスラム教徒であり、元代には色目人に属し、特権的地位にあった。
  • ところが、明が成立し、鄭和の故郷雲南地方を征服すると一家の暮らしは一変する。12歳の鄭和は、明軍に捕えられて、宦官にされてしまった。それからまもなく彼は燕王(のちの世祖永楽帝)の藩邸に送られ、しだいに生来の才能を発揮して人々の注目するところとなるのである。とくに、靖難の変での功績は目ざましいものがあった。永楽帝は、即位後に宦官の最高職をかれに与えているが、これは、洪武帝以来の伝統を破る大抜擢であった。
  • 1405年、鄭和は永楽帝の命により、200隻の大艦隊を率いて、第1回の南海遠征に出発。1405年―1433年の間に7回にわたり大艦隊を率いて南海諸国を巡航。足跡は遠くアフリカ東岸に及んだ。諸国の朝貢促進,南海事情判明。南洋華僑発展などの契機となる。
  • 鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。
  • 彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だった。
  • 第七回航海:永楽帝の死後に彼の孫の宣徳帝の命令による。出発は1431年12月で、既に鄭和はかなり年を取っていたが、彼に代わる人材はいなかった。 この時に別働隊はメッカに至ったと言う。帰国は1433年7月。 帰国後にほどなくして鄭和は死去した。
  • 鄭和の南海遠征に使われた船は、通称「宝船」といい、約500トンほどであった。多いときには200隻、1隻に100人から200人乗り組むので、一番多いときで5万人の部隊を率いる勘定になる。宝船は3段に分かれていて、一番上に約50cmの盛土がしてあった。これは、野菜を植えるためだったという。長い航海で一番欠乏するのがビタミンCであり、その不足による壊血病の予防策であった。
  • 鄭和の父は幼い彼に言ったという。「人生は旅なんだよ」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    鄭和
    中国史─24 鄭和の南海遠征
    (1)「松本剛史 作品一覧:紀伊國屋書店

(2006.05.04更新)




▲コロンブスやバスコ・ダ・ガマなどによる大航海時代よりも1世紀早く大航海を行った明の鄭和。


◆『1421―中国が新大陸を発見した年 』ソニー・マガジンズ。メンジーズ,ギャヴィン【著】〈Menzies,Gavin〉・松本 剛史【訳】
「1421…世界の海でなにがあったのか。15世紀、中国の明の時代。紫禁城をつくった永楽帝は家臣の鄭和に命じた。水平線の彼方の国、地の果ての国、世界のすみずみまで調査せよ!勅命を受けた鄭和は、1421年宝船といわれる巨大なジャンク船団を率い、世界をめざして航海に出た。大航海時代以前のヨーロッパの古地図に描かれていた、新大陸の一部としか思えない島々…なぜ1492年以前の地図にアメリカが描かれていたのか?世界各地に残された膨大な手がかりや「証拠」をもとに、600年の時を遡り、鄭和がコロンブスよりも70年前に新大陸を発見し、マゼランよりも百年も早く世界一周をしていた真実が明かされる。
従来の通説をくつがえし、歴史をもぬりかえる衝撃のノンフィクション。ただの大風呂敷か?」(1)

63年?の生涯

円空
Enkuu         【放浪の聖】

(1632.?〜1695.07.15)
死因?---?座

  • 美濃国(岐阜県)に生まれる。生地については羽島市上中町中との説が有力で、現・郡上郡美並村とする説もある。一説には加藤与左衛門の孫ともいう。俗名不明。
  • 尾張の高田寺で密法を受けたと伝え、のち東国から北海道まで遍歴して、各地で民衆を教化しながら仏像を造った。
    丸木の原材を割り、その割れ目を生かした荒削りの彫法は、当時の職業仏師の作品には見られない独特の精神性と芸術性をもっている。
  • 1666年(34歳)1月26日、津軽藩弘前城下を追われる。次いで青森を経て松前に渡る(『津軽藩日記』)。この年北海道を巡り、多数の仏像を彫り、次の在銘仏三体をのこす。
  • 1695年(63歳)7月13日、弟子の円長に「授決集最秘師資相承血脈」を与える(同血脈書写文書)。7月15日、盂蘭盆入定の素懐を遂げる(墓碑銘)。
  • 「円空さんが仏像を刻んで祀ったために病気が治った、雷が落ちない、雨乞いに効き目がある、火事から守られた。飛騨・美濃地方にかずかずの伝説を残した円空は、寛永9年(1632)に美濃国(岐阜県)で生まれた。生誕地は羽島市内とも、郡上郡美並村ともいわれている。若くして出家し、23歳のときに諸国遊行の旅にでる。造仏聖として活躍をはじめるのは32歳の頃。北は北海道から南は奈良県まで、各地を行脚して修業を重ね、困窮にあえぐ人々の救済を念じて多くの仏像を刻む。生涯に12万体の造像を発願したといわれ、5千体あまりの円空仏が全国各地に現存する。円空は、元禄8年(1695)7月15日、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげた。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられている」(1)。
  • 「円空が生きていた時代は、いよいよ徳川体制が厳然たる構えをみせはじめる、という頃で。幕府はキリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳した。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限した。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったため。「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者。泉鏡花の『高野聖』に描かれているように下賤のものとされ、ときには蔑まれ嫌われる存在でもあった。けれども民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡った」(2)。
  • 「寛文5年(1665)、32歳の円空は東北を目指して旅立つ。同年、弘前から北海道に渡り、およそ1年半のあいだ松前・蝦夷地を巡って布教。円空が修業をしたといわれる太田権現、礼文華(れぶんげ)の洞窟は、わざわざ厳しい立地条件を求めたとしか思えないほど苛酷な場所、いずれも眼下に荒波が迫る切り立った岩場にある。北海道を出た円空は青森、秋田で造像した後、寛文8年(1668)尾張に到着。以後、岐阜・愛知・三重・奈良・滋賀など中部・近畿の各県をはじめ、茨城・群馬・栃木・埼玉など関東地方にも足をのばし、行く先々でさまざまな仏像を残す。元禄3年(1690)には美濃・飛騨地方にもどり、晩年の円熟した技で彫像を刻みつづけた。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きた。ところで円空と同時代を生きた人物に松尾芭蕉(1644-94)がいる。もしかすると、旅の途上で2人は出会っていたかもしれない」(3)。
  • 「円空の造型思想は、縄文時代以来この列島に培われてきた、神と自然の感覚に根を下ろしている。そこでは石や木が、そのまま超越的なものの表現になっていた。そこに仏教の造形的な思想が結びつき、そこから日本人の独創的な「神仏習合」の考えが育ってきた。円空こそがその思想の芸術面における最高の表現者の一人である」(4)。
  • 江戸後期の遊行僧、造物聖・木喰上人と双璧をなす。円空は即興的で鋭い彫技、木喰はまろやかでユーモラスな造型で知られる。ともに近代になって再評価された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)(3)「円空 Web
    (4)週刊文春2006年12月12日号 梅原猛著『歓喜する円空』の中沢新一による書評より抜粋。

(2007.06.06更新)




▲造物聖・木喰上人と双璧をなす江戸時代の遊行僧・円空。


◆十一面観音菩薩立像

63年?の生涯

浅野 和三郎
Wasaburo Asano   【日本心霊学の泰斗】

(1874.?〜 1937.?)
死因?---?座

  • 海軍機関学校(現防衛大学校)教授だったが、心霊体験をきっかけに大本に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍するも、大正10年(1922年)の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年(1923年)、「心霊科学研究会」を創設。さらに、より実践的な機関として1930年1月「東京心霊科学協会」を設立した。伴に大本を離れた人物として生長の家創始者谷口雅春が居る。
  • 「心霊科学研究会」顧問及び「東京心霊科学協会」の理事であった浅野和三郎の次兄浅野正恭(1867年 - 1954年)は元海軍中将であり、『日本精神の淵源―古事記生命の原理』の著作もある。
  • 浅野和三郎の死後も「心霊科学研究会」及び「東京心霊科学協会」は活動を続けたが第二次世界大戦で活動を休止。現在は財団法人「日本心霊科学協会」、「日本スピリチュアリスト協会」として活動を行っている。
  • 霊的な気づきを求める研究では、日本に於いて先駆者であった 彼の著作の多くは絶版になったまま、それらはまるで忘れ去られた古典であるかの如くであった。ところが、平成17年6月20日に彼の心霊学研究の精髄である著作のひとつが、再刊の日の目を見た。『永遠の大道』(原題“The Road to Immortality”)である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    浅野和三郎-Wikipedia

(2009.01.08更新)




▲日本心霊主義運動の父・浅野 和三郎 。


63年?の生涯

片岡 敏郎
Toshiro Kataoka  【日本初のヌードポスターの制作者】

(1882.?〜1945.?=明治15年〜昭和20年)
死因?---?座

  • 静岡圏志田郡小川村(現 焼津市)に出生。
  • 明治29年(1896)上京して東京開成中学校に入学。将来、海軍軍人を志望。
  • 明治32年(1899)海軍兵学校への入学ならず、海軍軍人や文筆家を目指すが挫折。故郷に戻り静岡中学卒業。
  • 明治35年(1902)上京して、泉鏡花の門をたたき門下生となる。 明治36年(1903)小説修業に勉めたが意に違い筆を折って鏡花門を去る。
  • 明治39年(1906)東京のシャム公使館に勤務。明治42年(1909)シャム公使館ピアナリソン氏に伴われシャム国に渡航。 大正元年(1912)シャム国より帰国。結婚。
  • 帰国後の1913年、日本電報通信社(現 株式会社電通)に入社。広告業界に足を踏み入れるきっかけは本人曰く「たまたま見た森永の広告がまるでダメで、これなら俺の方がよいものができる」と思ったからだという。翌年、その森永製菓に広告部長として招かれヒット広告を次々と打ち出す。 特に当時の横綱・太刀山の手形に「天下無双 森永ミルクキャラメル」と文字をあしらった広告は大評判となった。
  • 大正8年(1919)に鳥井信治郎に乞われて株式会社寿屋(現サントリー株式会社)に広告部長として移籍。ここでも「オラガビール」や日本初のヌードポスターと騒がれた「赤玉ポートワイン」、「スモカ歯磨」など多数の傑作広告を残している。
  • 大正14年(1925)缶入り潤製「歯磨スモカ」を寿屋で新発売。昭和7年(1932)寿屋を退職し、株式会社寿毛加社に取締役として入社。
  • 戦時下の昭和15年(1940)寿毛加社を退職し、三重県尾鷲の山中に小屋を結び一人自適の生活に入る。
    新聞上で自由に広告文案を創作できないとして当時としては珍しい廃業広告を出したことでも知られている。昭和20年(1945)北陸金沢市にて逝去。
  • なお、その仕事の一端は『片岡敏郎スモカ広告全集』(マドラ出版)で伺い知る事ができる。
  • “日本初のヌードポスター”と騒がれた赤玉ポートワインのポスターは彼の手によるもの。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    片岡敏郎広告集
    片岡敏郎-Wikipedia

(2007.07.09掲載)




▲戦前に活躍したコピーライター(当時の呼び名で「アドライター」) 片岡 敏郎。


◆片岡敏郎「赤玉ポートワイン」1922(モデル:松島恵美子、構成:井上木だ(?)、撮影:川口写真館)サントリー蔵。

63年と12 日の生涯

オットー・ノイラート
Neurath, Otto    【アイソタイプの考案者】

(1882.12.10〜1945.12.22)
ロンドンで客死---射手座

  • オーストリア、ウィーンにおける著名な社会学者、経済学者、哲学者、教育者であり、またゲゼルシャフト・ウント・ヴィルトシャフト博物館の館長でもあった。開設に関わったノイラートは、そこで数多くの展示パネルをデザインした。
  • M・シュリックやR・カールナプとともに<ウィーン学団>の有力な代表者で、論理実証主義の発展を進めた。
  • ドイツで哲学・論理学・経済学を研究し、1917年にハイデルベルグ大学の教授資格を得た後、1925年に「アイソタイプ」(ISOTYPE:International System of Typographic Picture Education)を「国際絵ことば」として考案した。また、彼は精力的な組織者であり、国際平和のためのカーネギー基金(1911)や、科学活動の国際団結(1934〜40)のような多様な組織に関わった。
  • 1934年から41年にオランダにおいて、41年にはイギリスへ赴いて論理実証主義の立場から研究活動を続けたが、1945年ロンドンで客死。
  • 「アイソタイプISOTYPE(絵言葉):言語を絵で表示するものの総称。数表データを絵で表したモノもアイソタイプの一種である。アイソタイプ自体はドイツ人のドイツのオットー・ノイラーと(Otto Neurath)によって考案されたシステムであったが、ナチスの台頭と第2次世界大戦の混乱によって、国際的に充分活躍することなく、その後ロンドンのISOTYPE研究所(ISOTYPE Research Instiute)と、ニューヨークのGLYPHS協会(Glyphis Association)によって、Otto Neurathの最新が継承され、戦後の華々しいデザイン運動によって再評価されるようになった。アイソタイプの代表例としては、1964年に考案され、世界的にも評価されている太田幸夫(Yukio Ota)のLoCosがある。エジプトの古代文字である象形文字も一種のアイソタイプであるが、一般的にはヒエログリフ(hieroglyphe/ドイツ語)という。アイソタイプの歴史とその流れについては、オットー・ノイラーと(Otto Neurath)の夫人マリー・ノイラート(Marie Neurath)が特別寄稿した季刊誌グラフィックデザイン42号(1971年夏号)11〜30頁に42点の図版とともに詳しく掲載されている。とくにグラフィックデザインが絵文字を特集した1971年夏号号は、正確に日本で読者に絵文字の定着と流れを紹介したターニング・ポイントになる号といえる。またインターネット上には、IPA(International Phonetic Association/国際音声記号協会)が提供しているThe International Phonetic Alphabet(国際発音記号)情報がある事典や古代文字の形態や発音、関連書籍情報などがあるAncient Scripts(古代文字)、世界の象形文字言語リンク集「International Sign Language Links」もある」(1)。
  • 右欄(2)の比喩は「ノイラートの船」と呼ばれれている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    作家略歴
    (1)「アイソタイプ - マルチメディア ...
    (2)オットー・ノイラート『ことばと対象』

(2007.06.19更新)




▲ M・シュリックやR・カールナプとともに<ウィーン学団>の有力な代表者で、論理実証主義の発展を進めた社会学者、経済学者、哲学者、教育者のオットー・ノイラート。

 

 

◆「われわれは、自分たちの船をいったんドッグに入れて解体し、最上の部品を用いて新たに建造することができずに、大海上でそれを改造しなければならない船乗りのようなものである」(2)。

63年と13日の生涯

池田満寿夫
Masuo Ikeda   【『エーゲ海に捧ぐ』の作家】

(1934.02.23〜1997.03.08)
急性心不全。前年に脳梗塞で入院し、いったん快復していた---牡牛座

  • 国際的版画家、画家、彫刻家、陶芸家、芥川賞作家、エッセイスト、映画監督など多彩な顔を持つアーティスト。
  • 1934年旧満洲奉天生まれ。1945年、終戦によって母と郷里の長野市に引き揚げる。
  • 高校卒業後の1952年に上京。1953年自由美術家協会展に入選。その後、画家・瑛九(えいきゅう)のすすめで色彩銅版画をはじめる。辛苦のすえ、版画家としてデビュー。
  • 1960年、1962年、1964年の東京国際版画ビエンナーレ展連続受賞につづき、1966年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展では版画部門の国際大賞を受賞。一躍、世界のスターへ。 26歳で東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞、31歳でニューヨーク近代美術館で個展と内外で活躍。
  • 日本を代表する版画家として,東京とニューヨークを拠点に制作をつづける。帰国後は、熱海市に居を構え、作陶から立体造形への関心を深めるなど表現の幅を広げる。
  • 1977年(43歳)『エーゲ海に捧ぐ』で第77回上期芥川賞を受賞。 45歳自作小説を映画監督。51歳からは陶芸制作も行った。
  • その旺盛な制作活動のさなか、1997年3月8日に63歳で逝去。
  • 「絵はみたことないでけど、なんだかとても描きやすくて粋な感じがしました」(2)。
  • ある意味で、憧れの人でした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「池田満寿夫美術館トップ
    (2)投稿者:大城さん..2009/ 7/19 22:40:59(日) [5453]

(2007.07.20更新)




▲『エーゲ海に捧ぐ』で知られる版画家、作家、映画監督・池田満寿夫。
(イラスト 大城さん)


◆「Springer and Spring」1968
ドライポイント ed.42 11.5×12.6cm

63年1ヶ月と10日の生涯

山鹿素行
Sokou Yamaga   【江戸前期の儒学(古学)者】

(1622.08.16〜1685.09.26)
死因? ---獅子座

  • 江戸前期の儒学(古学)者、兵学者。名は高興、字は子敬、通称は甚五左衛門。陸奥会津に生まれる。
  • 年少にして江戸に出、林羅山に学ぶ。また小幡景憲らについて甲州流軍学を修めた。
  • 初め朱子学を奉じたが、のち『聖教要録』を著し朱子学を批判。このことが幕府に咎められ、44歳で播磨赤穂藩主浅野家に預けられたが、同家の厚遇を受けた。
  • 大石良雄らはそのときの門下。晩年は日本が聖人の道が行われた最も優れた国であるとの立場をとり、『中朝事実』を著した。著書『山鹿語類』『武家事紀』『配所残筆』など。
  • 「儒学者にして、山鹿流兵学の祖でもある、山鹿素行の辞世をお供えします。
    〈子よ孫よまどゐて花をながむれば老いがひがめの恥もけぬべし〉
    」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん:2006.05.22(Mon) 16:56[1611]

(2006.10.20更新)




▲ 江戸前期の儒学(古学)者、兵学者・山鹿素行。

 

素行語録

◆「凡そ物必ず十年に変ずる物なり」

63年1ヶ月と14日の生涯

近衛 十四郎
Juusiro Konoe      【素浪人・月影兵庫】

(1914.04.10〜1977.05.24)
死因?---牡羊座

  • 新潟県長岡市生まれ。 本名、目黒寅彦(めぐろ・とらひこ)。松方弘樹(長男)、目黒祐樹(次男)と二人の息子がともに俳優となったことでも知られる。なお、芸名の十四郎は1914年に生まれたことから。
  • 市川右太衛門プロダクションに研究生として入団し、日活を経て亜細亜映画『叫ぶ荒神山』で主役デビューを飾る。 その後、第一映画社から大都映画社に移って主演。剣劇スターとしての名声を打ち立てる。1942年7月23日、長男・弘樹誕生。
  • しかし、同年戦時映画社統合によって大都映画社は日活、新興とともに合併され大映となったことにより、多くの俳優が仕事を失うなか近衛は一座を結成して国内各地を興行して回った。徴兵を受けたあげくにシベリア抑留の憂き目にあったが1946年に復員し、実演を再開する。翌1947年8月15日、次男・祐樹誕生。
  • 1953年、新東宝で映画界に復帰後、翌年松竹入り、時代劇で主演。
  • 1960年東映入り。白黒作品ばかりとはいえ東映でも主演スターとなる。同年、長男・弘樹も東映で主演デビュー。『柳生武芸帳』シリーズ(1961年〜1963年)で主役の柳生十兵衛を演じる。1965年より映画では脇に回り1971年まで活躍。剣戟スターとしては器用ではないが異様な迫力が人気を呼んだ。ある意味でハード・ボイルドな世界を時代劇に持ち込んだ人物といえる。
  • 1965年にテレビ時代劇『素浪人 月影兵庫』に主演し、近衛の鬼気迫る立ち回りに加えて品川隆二演ずる焼津の半次とのコミカルな掛け合いが茶の間の大ヒットを呼ぶ。素浪人シリーズは高視聴率のとれる人気番組として、以降1969年『花山大吉』、1973年『天下太平』とつづいたが、近衛の糖尿病が悪化し、1973年に次男・祐樹と共演した『いただき勘兵衛旅を行く』を最後に事実上引退状態となり晩年は各種の会社経営者として”余生”を送った。
  • 1977年5月24日、63歳で死去。
  • 近衛の孫たちは芸能界入りした者が多く、長男の弘樹は歌舞伎俳優・岩井半四郎の娘(次女)で女優の仁科亜季子を妻に迎え、孫の仁科克基と仁科仁美をもうけた(その後1998年に離婚。なお、長男・弘樹の前々妻との間に目黒大樹や愛人の千葉マリアとの間に十枝真沙志がいる)。次男の祐樹は仁科とおなじ女優の江夏夕子を妻とし、長女の近衛はなをもうけた。なお、岩井半四郎の長女・岩井友見や三女・仁科幸子は縁戚にあたる。
  • ボクのつたない記憶では、素浪人 月影兵庫の役回りは「ネコ嫌い」だったか「甘味もの嫌い」だったか---?。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    近衛十四郎-Wikipedia

(2007.02.18掲載)




▲戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優で。通常より長い刀を使用し、かつ随一といわれる速い剣捌きで迫力ある殺陣を演じ、時代劇ファンを魅了した近衛 十四郎。




▲松方弘樹(長男)

63年1ヶ月と19日の生涯

アルフレッド・ノーベル
Alfred Bernhard Nobel   【ダイナマイトの発明者】

(1833.10.21〜1996.12.10)
死因?---蠍座

  • ダイナマイト発明したスウェーデンの化学技術者。ストックホルムに生まれ、ペテルブルグで教育を受け、爆薬、魚雷を製造していた父の家業を助ける。
  • のち米国で機械工学を学び、33歳でダイナマイトを、次いで無煙火薬を発明。世界各地に爆薬工場を経営し。53歳でノーベル・ダイナマイト・トラストを創立した。
  • この間二人の兄とともにバクー油田の開発にも成功し、ノーベル家はヨーロッパ最大級の富豪となった。
  • 遺志によりスウェーデン王立科学アカデミーに寄付された遺産を基金としてノーベル賞が設定された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.08.17掲載)




▲ ダイナマイト発明したスウェーデンの化学技術者・アルフレッド・ノーベル。

63年1ヶ月と19日/68年?の生涯

曽我町子
Machiko Soga   【初代「オバケのQ太郎」の声優】

(1943.03.18〜2006.05.07)
膵臓癌---魚座

  • 東京都出身の女優・声優。(生年月日は正確でない可能性がある。後述)
  • 都立南多摩高校卒業。1960年に「度胸試しで受けた」と本人が述懐しているオーディションで合格した事をきっかけに、NHKの児童番組「みんな一緒」でデビュー。
  • 『チロリン村とクルミの木』や『オバケのQ太郎』の初代オバQなど、声優として活躍する。その後は顔出しの俳優としても舞台、テレビなどで活躍。特に特撮で数々の女王・魔女を演じ、この役柄で右に出る俳優はいないと評される、特撮俳優界の女王。
  • ステラ曽我、曽我町猫の芸名を名乗った時期もあった。俳優業の傍ら、趣味の古美術品収集を生かして国立市でアンティークショップ「ステラ」を経営していたが、2006年5月7日、膵臓癌のため国立市の自宅で死去。
  • 享年63歳(報道では68歳となっているが、ここでは公式プロフィールの生年月日に従う)。
  • 遺作はコンピュータゲーム『宇宙刑事魂』(暗黒銀河女王役)で、ゲーム中に流れる曲「暗黒銀河女王のブルース」も歌っている。
  • 声優としてデビューし、その後顔出しの俳優業に転じたという珍しい例でもあるが、曽我本人はあまりにもオバQのイメージが強くなり、同じような声を求められるオファーばかりに嫌気が差した事も転ずるきっかけになった事を示唆している(ただし、キャラクターへの愛着は終生持っていた)。
  • この時期には芸能界を離れ、イタリアに留学していたこともある。その際に中近東に興味を持ち、その後は仕事の合間を見ては頻繁に中近東を旅し、遂には古美術品の収集や販売を手がけることになった。
  • 「仕事の姿勢はかなり厳しい事(台本や衣装などが手を抜いたと思ったら、すぐに口を出していた。衣装も納得できなければ自前で用意してしまうくらいであった)で有名で、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』では、台本に納得せずに降板を申し付けた事があったという。しかし他の共演者達には、よく話かけたりしてコミュニケーションを取っていたそうであり、ジュウレンジャーで共演した千葉麗子も曽我が亡くなった翌日、自身のホームページ上の日記で「何も分からない新人の私にも話をして下さった。」と追悼のコメントを書いている」
  • (*)なお、逝去時に享年68と報道されており、前述の生年月日(公式に発表されていたもの)は事実ではない可能性がある。
  • 「本日のネットのニュースで曽我町子さんが亡くなった(1943年3月18日〜2006年5月7日、死因不明)というショッキングなニュース(というのも、今年の2月までに放送されていた「魔法戦隊マジレンジャー」の天空大聖者マジエル役を演じられてました)が出ていたのでリクエストをお願いいたします」(1)。
  • 「恐ろしく、でも愛嬌があって憎めない、そんな「悪」を演じさせたら右に出る者のいない女優さんだった」(2)。
  • 誇りを持ち「悪役」を楽しむ、人生でこれができたなら“上の上”だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    曽我町子 - Wikipedia
    (1)投稿者:伝川さん 2006.05.07(Sun) 23:53[1470]
    (2)読売新聞2006.05.09夕刊「鈴木美潮のdonnaどんな」より抜粋。

(2006.05.11更新)




▲『チロリン村とクルミの木』や『オバケのQ太郎』の初代オバQなど、声優として活躍した曽我町子。

 


◆出演作品
テレビ(レギュラー):愛の戦士レインボーマン(ゴッドイグアナ)など。

声優として:オバケのQ太郎(オバQ、1965年版)サイボーグ009(007 グレート・ブリテン、1966年 映画版、1967年 映画版&1968年 TV版)など。

テレビ(ゲスト出演):魔法戦隊マジレンジャー(天空大聖者マジエル 48、49話)など。

ゲーム:天外魔境 第四の黙示録(マダム・アペティ)など。

63年1ヶ月と27日の生涯

日野 てる子
Teruko Hino   【「ハワイアンの女王」】

(1945.07.13〜2008.09.09=昭和20年〜平成20年)
肺がん--蟹座

  • 1945年7月13日、4人姉妹の末っ子として愛媛県松山市で生まれた。
  • 1962年、全日本ハワイアンコンテスト優勝をきっかけに1963年に上京。バッキー白片らに師事する。
  • 1964年、ハワイアン歌手として日本グラモフォンよりデビュー。
  • 代表曲は1965年に発表した「夏の日の想い出」。ハワイアンとは全く違う、スローテンポで哀愁のこもった曲であったが、ミリオンセラーとなった。ちなみにこの曲はもともとは「ワン・レイニーナイト・イン・トーキョー」のB面だった。サザンオールスターズの原由子がアルバム『東京タムレ』でカバーしている。
  • 歌うときは長いストレートの黒髪にハイビスカスの花を1輪飾っており、その姿が彼女のトレードマークのようになった。
  • 1965年から1967年の間、NHK紅白歌合戦に連続出場。
  • 作曲家・編曲家の一ノ瀬義孝と結婚したのを機に一時期引退し、家庭に専念していたが、子育てが一段落したのを見計らって歌手として現役に復帰し、活動を続けていた。
  • 2003年12月に肺癌と診断され、以後入退院を繰り返すようになる。
  • 2008年(平成20年)9月9日、逝去。享年64(満63歳没) 。
  • 「日野さんは平成15年12月に受けた精密検査で肺がんが発覚。がんは脳に5カ所も転移しており、入退院を繰り返していた。一時は容体が快方に向かい、歌手活動を続けていたが、昨年に再びがんが見つかり、同年12月23日に出演したクリスマスディナーショーが最後の公の場となった。---癒し系の笑顔と歌声が注目を集め、40年発売の「夏の日の想い出」が100万枚を超える大ヒットに。同年から3年連続でNHK「紅白歌合戦」に出場した。---ほかにも「さいはての湖」「南十字の星に泣く」「浜辺は夜だった」などのヒット曲を飛ばし、“ハワイアンの女王”と呼ばれた。人気絶頂だった44年に作曲家の一ノ瀬義孝氏と結婚。子育てで10年ほど芸能界から離れた後、音楽活動を再開し、「潮騒」などを発表していた。
    歌を愛しながら、5年近くに及んだ闘病生活。最期は入院先で家族に看取られ、静かに息を引き取ったという」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    日野てる子-Wikipedia
    (1)「ハワイアン歌手・日野てる子さんが死去

(2008.09.20更新)




▲「夏の日の想い出」のヒット曲で知られるハワイアン歌手・日野 てる子。

63年2ヶ月ジャストの生涯

フェルナン・クノップフ
Fernand Khnopff   【象徴主義の巨匠】

(1858.09.12〜1921.11.12)
死因?---乙女座

  • ベルギー象徴主義の巨匠。1858年ベルギー東フランデレン州グレムベルヘンでコスモポリタンな一家の御曹司として誕生。のちに父親が行政官を勤めるブルージュに移る。
  • 幼少時に目にしたブルージュの退廃的な雰囲気に生涯影響を受け続ける。1864年妹マルグリット誕生。のちに好んで絵のモデルとした。同年、一家はブルージュを離れ、父親が判事になったブリュッセルに移り、夏は毎年アルデンヌ地方のフォセ村で過ごす。
  • 成長したクノップフは両親を喜ばせるためブリュッセル自由大学で法律を学ぶが、一方でボードレール、フローベール、ルコント・ドリールといった仏文の世界に傾倒。
    詩人で音楽家だった弟のジョルジュとともにベルギーの若手作家、マックス・ヴァラー、イワン・ヒルキン、ジョルジュ・ロデンバック、エミール・ヴェラーレンらのグループと頻繁に交流。
  • 大学を退学、グザヴィエ・メルリのアトリエで絵の基礎を学ぶ。1876年から1879年にかけてブリュッセル芸術アカデミーでデッサンを学び、何度かパリに長期滞在し、J.ルフェーヴルのアトリエやR.ジュリアンのアカデミーで働く一方、機会を見つけてはアングル、ドラクロワモロー、アルフレッド・ステヴェンなどの作品、英国の画家ミレやバーン=ジョーンズなどの作品を研究。
  • 1881年ブリュッセルで開かれた「飛躍」展に初出品。2年後、美術史上きわめて重要で革新的な2つのグループ「20人会(レ・ヴァン)」と「自由美学」に創設メンバーとして参加。
     1885年、ジョゼファン・ペラダン(パリの秘密クラブ薔薇十字会の中心的存在だった隠秘学作家)と親交をもち、その著作の口絵を多数描く。
  • 1892年から1897年パリでペラダンが開催した美術展でクノップフの作品は最高位を受賞。1889年以降、定期的に英国に招待されるようになり、数々の展覧会に出品。ラファエル前派のハント、ワッツ、ロセッティ、フォード・マドックス・ブラウン、バーン=ジョーンズらと交流。
  • 1895年から1914年にかけて英国の一流芸術誌「ザ・スタジオ」にベルギーの芸術家や展覧会についての美術評論を寄稿。
  • 1898年、第1回ウィーン分離派展に21点以上の作品を出展、世界的名声を得、分離派のグスタフ・クリムトに強烈な印象を与える。その翌年以降は自邸の設計に情熱を傾ける。家を「自我の殿堂」と見なし、自ら図面を描き、内部をデザインし、配色した。クノップフの記念館ともいえるこの独特な建物は、画家の死後に取り壊された。
  • 多才なクノップフは油絵のほかにも様々な技術やパステルを使い、さらには彫刻や版画、写真まで手がけた。撮影した写真にパステルやクレヨンで加筆してオリジナルの写真作品同様に署名をすることもあった。
  • 晩年のクノップフはあらゆる方面から引っ張りだこで、様々な慈善事業や愛国的行事に積極的にかかわった。実用化こそしなかったが紙幣の図案も描き、ベルギーの伝統工芸品レースのデザインにまで手を染めた。
  • 今日、ベルギー象徴主義を代表するもっとも重要な芸術家の一人であるフェルナン・クノップフの作品は世界の主な美術館に収蔵されている。
  • 「モデルは妹のマルグリット。クノップフは、短い期間を除き、生涯の殆どを独身ですごしたが、この妹への想いからともいわれている」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    Art Exhibition 2004:「フェルナン・クノップフ」展
    (1)「クノップフ KHNOPFF

(2008.09.21更新)




▲ウイーン分離派のクリムトに影響を与えたフェルナン・クノップフ。


▲「愛撫」

63年2ヶ月と12日の生涯

城 達也
Takuya Jou   【『ジェットストリーム』のナレーター】

(1931.12.13〜1995.02.25)
死因?---射手座

  • その低音と穏やかなムードミュージックの選曲で聴集を癒した『ジェットストリーム』の声優。大分県出身
  • ウイークデイの深夜24時から25時までFM東京で放送されていた長寿番組「ジェットストリーム」のナレーター。
  • 1967年7月3日(35歳)、日本航空の一社提供で番組がスタート。番組開始から27年がたった1994年秋自ら降板を切り出したという。その年の12月30日「では皆様さようなら。良いお年をお迎えください」と語ったのがオンエア最後の言葉。2ヶ月後、食道がんで城は、空に旅立った。
  • その後、番組の案内人は城の弟子だった声優の小野田映一(〜00年)、フリーアナウンサー森田真奈美(〜02年)を経て、現在は4代目の伊部雅人が担当している。
  • (オープニング)−BGM:ミスター・ロンリー。
    「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。満天の星をいただく果てしない光の海を、豊かに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜のしじまの何と饒舌なことでしょうか。光と影の境に消えていった、はるかな地平線もまぶたに浮かんでまいります。これからのひととき、あなたにお送りする音楽の定期便、ジェットストリーム。皆様のお供をいたしますパイロットは、わたくし城達也です」。
  • (エンディング)−BGM:夢幻飛行。
    「夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、遠ざかるにつれしだいに星の瞬きと区別がつかなくなります。お送りしておりますこの音楽が、美しくあなたの夢に溶け込んでいきますように」。

  • このナレーションは城達也氏作と聞き及んでおります。ボクが田舎の山梨から青雲の志を抱いて東京に上京してきた頃、駒込のアパート・いなばや莊でこのナレーションが流れる中、眠りについたものでございます。お世話になりました。
  • ジェットストリームの系譜は、日曜の朝TBSの「バックグランドミュージック」で、若山弦蔵のすてきな声で語られる肩の凝らないおしゃべりと心地よい選曲に継承されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2007.07.02更新)




▲その低音と穏やかなムードミュージックの選曲で聴集を癒した『ジェットストリーム』のナレーター・城達也。


◆若山弦蔵(1932〜)声優。樺太生まれ。

63年2ヶ月と13日の生涯

フランクリン・ルーズべルト
Franklin Delano Roosevelt   【第32代米大統領】

(1882.01.30〜1945.04.12)
死因?---水瓶座

  • 米国の政治家。第32代大統領(1933年―1945年)。民主党。T.ローズベルトの遠縁。
  • 23歳、従妹エリノア〔1884-1962〕と結婚。28歳で政界に入り、上院議員、海軍次官を歴任。一時ポリオ(小児麻痺)で引退。
  • 47歳でニューヨーク州知事。51歳以後米国史上初めて連続4期大統領。大恐慌の危機克服のためニューディール政策を実施
  • 中南米諸国に対し善隣外交を進め、ソ連を承認するなど対外的にも孤立主義を脱して積極的に行動。第2次大戦中はチャーチルスターリンとともに連合国を指導。
  • 対ソ協調を含む国際連合組織による戦後構想を具体化したが、戦争終結直前、大統領在任中に死去。
  • この間妻のエリノアは社会事業家、婦人団体指導者、評論家として夫に協力。女性の解放に活躍し、人権擁護運動推進者としても著名。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2005.09.07更新)




▲米国の第32代大統領・フランクリン・ルーズヴェルト。

63年2ヶ月と19日の生涯

レンブラント
Rembrandt Harmensz.Van Rijn  【魂の画家】

(1606.07.15〜1669.10.04) ---2006年生誕400年
不遇のうちに死去---蟹座

  • オランダの画家、版画家。ルーベンスベラスケスと並ぶ、17世紀最大の画家の一人。製粉業者の子としてオランダのレイデンに生まれる。
  • 成長して、ライデンのラテン語学校を経てライデン大学に学ぶ。15歳頃から親類のスワーネンブルフに絵を学び、18歳にはアムステルダムのロマニスト、ラストマンに学び、翌年故郷で画家として独立。その後アムステルダムに出て、外科医組合のために「トゥルプ博士の解剖学講義」を描くなど、上流市民層の肖像画家として活躍。
  • 初期にはおもに宗教画を描いたが,24歳ごろから写実的手法により肖像画を描いて名声を博し、このころが社会的にも経済的にも最も成功した時期となった。 そして、25歳のときに知り合った画家兼画商でヘンドリック・アイレンブルフの又従姉妹のサスキア(レーウワルデン市長の娘)と出会い28歳のとき結婚。この時期、彼は絵画の収入と妻の財産により最高の贅沢を満喫したが、妻は病弱で36歳のときに他界。その幸せも長く続かなかった。
  • その後、平板な写実にあき足らず、人間精神の表出に向かった。50歳で破産宣告を受け、さらに第2の妻と息子にも先立たれ、その悲しみを乗り越えて、かの有名な作『夜警』を完成。しかしこの絵は、債務不履行と詐欺罪で裁判沙汰になり、これを境に彼の名声は失墜。急速に注文も減り、愛人関係の破綻で家や財産、デッサンやエッチングの原版までが競売に付される。
  • この後世に名作と呼ばれ世界中で愛されて続けてきた作品のために、彼の人生における転落が始まるとは皮肉な話。 その後の、彼の人生は悲惨。晩年は世に受け入れられず、不遇と失意のうちにその生涯を終え、身元不明の老人として、教会の共同墓地に埋葬された。
  • 強い明暗対比、まろやかな色彩を特徴とするその芸術はますます円熟味を加え、後世「魂の画家」といわれるように、自己の内面を吐露した宗教画、肖像画、風景画、神話画等に多数の傑作を残す。とりわけ青年期から晩年にいたるまで描かれた自画像は深い精神性を秘める。彼が残した絵画は生前は評価されなっかたが、時を超えて世界中で愛されつづけた。
  • 『夜警』は、「フランク・バニング・コック隊長の市民隊」という原題があり、修復でニスを塗り重ねられ黒い部分が余計に暗くなって、夜の雰囲気となってしまったため「夜警」というタイトルが付いたという。
  • 17世紀のオランダは、商業国家として栄え、プロテスタント国であったこと、また共和制で宮廷もなかったことなどから富裕な市民に支えられ、風景、静物、人物など現実世界が絵画のモティーフになった。
  • レンブラント「バテシバ」のモデルを務めた画家の愛人は乳ガンだったらしい(1)。
  • 「63歳まで生きたレンブラントの後半生は、肖像画家としての名声をいち早く得た前半生に比べると、まるでその絵のように光と闇、妻の死、愛人との破局、借金地獄、破産と続く惨憺たるものだった。50歳を迎えたとき、借金の返済はいよいよ不能となり、処分のための財産目録が作成された。これが滅法面白い」(2)。
  • 「ところで、レンブラントはその生涯に75点の自画像を描いたという。こんな画家はちょっといない。しかもその中で、しばしば「ブルジョアに」、「宮廷人に」、「乞食に」に扮している。著者は、これら自画像への執着もまた彼が募集に示した執着に通じると考え、一種のコレクションととらえる(3)。
  • 臨終の際、彼が残したものは、着ている衣服1枚、ハンカチ8枚、頭巾10個、聖書1冊、そして若干の絵道具のみだったという。
  • 「レンブラントには、古今の巨匠たちへの強力なライヴァル意識があった。彼らとの創造的な競争こそが、技術的、芸術的に質の高い作品をもたらし、作者の名声を確立する。---こうして他との差別化を図り己の卓越性を示す欲望の強い画家だからこそ、レンブラントには必然的に自画像が多くなる」(4)。
  • 「己の興味と欲望にあわせてものを蒐集するのは、畢竟自己を形作ることと同義ではないのか。コレクションは、自画像と別種の自らを蒐集する行為にほかならない。自己言及性という点において、コレクションと自画像制作は通底する」(5)。
  • 「レンブラントの生涯を英の監督ピター・グリーナウェイが映画化:レンブラントは粗野な田舎者。小便の染みついた下着をはいているような男だった。---大富豪に成り上がったレンブラントが赤貧で死ぬような事態に陥ったのは何故か。この絵画史上の謎について創造力を大胆に働かせ、「鍵は1642年制作の『夜警』(ナイトウオッチ)にある」という」(6)。
  • 「西洋絵画界の横綱である画家レンブラントの作品は「レンブラント・リサーチ・プロジェクト」という調査研究の進展によってその真筆の数が減少しているのだそうだ。1935年には620点だった真筆は1968年に420点になった」(7)。
  • レンブラントに関してつねに議論になる話題は、いわゆる真筆問題。630点に及ぶ作品のうち「真筆」は半分以下と言われる。しかし、当時の工房システムからすればそれもしかりと思う。レンブラント作ではなく、「レンブラント工房作」と考えればよい。アートランダムと同じだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)篠田達明著『モナリザは高脂血症だった』より。
    (2)(3)尾崎彰宏著『レンブラントのコレクション-自己生成の挑戦』の木下直之(東大教授)の書評(朝日新聞2004.06.20朝刊)より抜粋。
    (4)(5)尾崎彰宏著『レンブラントのコレクション-自己生成の挑戦』の三浦篤(東大助教授)の書評(読売新聞2004.07.11朝刊)より抜粋。
    (6)読売新聞2005.11.16朝刊(鶴原徹也)より抜粋。
    (7)読売新聞2006.09.22朝刊「ウィーン美術アカデミー名品展」より抜粋。

(2008.01.12更新)


◎光と陰の画家

▲ 後世「魂の画家」といわれたオランダの画家・レンブラント・ファン・レイン。


▲自画像。


◆レンブラントの「夜警」とその部分。

63年2ヶ月と23日の生涯

ニコライ・ロバチェフスキー
Nikolai Lobachevski  【非ユークリッド幾何学の創始者】

(1792.11.20〜1856.02.12)
晩年失明---射手座

  • 非ユークリッド幾何学の創始者であるロシアの数学者。ロシア、ニーズニイ・ノヴゴロド(1932-1990の間はゴーリキー市と呼ばれる)に生まれ、カザンに死す。
  • カザンでギムナジウムから、大学を卒業し(16歳)、カザン大学に務め、22歳でカザン大学教授、35歳で年同学長。
  • 37歳で非ユークリッド幾何学の一体系を発表その展開につとめた。
  • 初めて論文が発表されたのは、34歳でカザン大学の集会においてであるが、原稿は公表されなかった。断片的な記述が、37〜38歳の『カザン通報』でなされている。
  • 体系的な記述は、44歳の『仮想幾何学』(カザン大学学術紀要)と、43〜46歳の論文『平行線の完全な理論による新しい幾何学の原理』でなされいる。
  • ガウスは、後者のドイツ語訳を読み、高く評価した。この考えが完全に認められたのは、1868年にE.ベルトラミが、3次元空間の中にモデルとなる曲面を構成した時からである。
  • 晩年失明する。宇宙の構造を見てしまったからだろうか?

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.08.17掲載)




▲非ユークリッド幾何学の創始者であるロシアの数学者・ニコライ・ロバチェフスキー。

63年2ヶ月と25日の生涯

グリエルモ・マルコーニ
Guglielmo Marconi     【稲妻を操る男】

(1874.04.25〜1937.07.20)
死因?---牡牛座

  • イタリアの電気技師・発明家。1894年、20才のマルコーニは裕福な家庭で科学好きの青年に育っていた。その年の夏、父親のもつ別荘に避暑に行く。退屈しのぎに1冊の科学雑誌をとり、何気なくページを開いた。 開いたページは、その年37歳の若さでなくなったヘルツの実験に関する記事。読み進むうち、頭の中に稲妻が走った。ひとつの着想が浮かび、とめどなくふくらんでいく。 「ヘルツの電波を利用したら、無線通信が可能なのではないだろうか?」
  • そして、電波でモールス符号を送る実験を繰り返し、1895年約2km(2.4km?)離れた場所の送受信に成功。電波を使って無線で信号を送れる装置を発明。
  • さらに装置を改良しながら研究を続け、1901年には、イングランドの西端からカナダのニューファゥンドランド島セィントジョンズ間の3600km(約3200km?)の実験に成功し、無線通信の実用化に道を開く。ついに電波は大西洋を横断。
  • 無線電信は、電線がなくても電気信号を送ることができるため、電線を引きにくい場所や航海中の船の通信などに利用されるようになる。現在ではさらに新技術が開発され、音声やデータなどの情報をいったん電気信号に変え、再び電波に戻して相手に送ることができるようになり、ラジオやテレビ放送、携帯電話などに広く利用されている。
  • 1909年(35歳)には「無線通信の研究」によりブラウンと共にノーベル物理学賞を受賞している。スゲー奴だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    *RADIO WAVE MUSEUM* 電波博物館(電波学習館)」
    通信を知ろう
    稲妻を操る男、グリエルモ=マルコーニ--大人の科学

 

    

◆セント・ジョンズに組み立てられた凧の受信機。
◆22歳時のマルコーニ。自作の機械を前に。

(2005.09.22掲載)



▲「電波を通信に利用できないだろうか」と考えたスゲー奴・グリエルモ・マルコーニ。



◆渡英直後のマルコーニ(Marconi Plc提供)



◆[ 送信機の図 ]コヒーラ、リレー、印字きから成る受信機


◆[ 受信機と印字機の図 ](マルコーニ財団提供)


◆マルコーニのコヒーラ検波器


◆マルコーニが大西洋を越えてモールス電信実験を行なったアンテナ扇形送信アンテナ(Marconi Plc提供)



63年3ヶ月と13日の生涯

歌川 国芳
Kuniyoshi Utagawa   【江戸のトロンプルイユ】

(1798.01.01〜1861.04.14=寛政9年11月15日〜文久元年3月5日)
死因?---山羊座

  • 江戸時代末期の浮世絵師。画号は一勇斎。 しかし国芳は、同時代に活動した葛飾北斎歌川広重らの人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとは言えなかった。 「幕末の奇想の絵師」として注目され、再評価されるようになるのは20世紀後半になってからである。
  • 国芳は、1797年(寛政9年)、江戸日本橋に染物屋の息子として生まれた。 本名は井草芳三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。
  • 1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国(1769年 - 1825年)に入門。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、弟子に歌川国貞(1786年 - 1864年)がいる。 国芳は入門の数年後、1814年(文化11年)頃から作品発表を開始している。 すでに歌川派を代表していた兄弟子、国直の支えもあって腕を磨く。 師・豊国没後の1827年(文政10年)頃に発表した『水滸伝』のシリーズが評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りをした。
  • 国芳には多くの門弟がおり、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の画家・河鍋暁斎も国芳に弟子入りしたことがあった。 国芳は明治維新を目前にした1861年(文久元年)、数え年65歳で没している。
  • 作品は役者絵、武者絵、美人画、名所絵(風景画)から戯画、春画までさまざまなジャンルにわたっているが、中でも歴史・伝説・物語などに題材を採り、大判3枚つづりの大画面に巨大な鯨や骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。
  • また、無類の猫好きとしても知られ、常に数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられるほどで、猫を擬人化した作品も多い。 猫に限らず、狸・雀・蛸などの身近な動物を擬人化して世相を風刺したり、動物に託して江戸の庶民の生活を描写した作品も多く、これらからは現代日本にてますます盛んな漫画・劇画の源流の一つを見る事ができよう。
  • 「寄せ絵」や、自宅で絵を描く自身の顔の前を、絵の中の動物や人物が横切り、自身の顔を隠している「自画像」のような遊び心のある作品も国芳の得意としたものである。
  • 華美をいましめる天保の改革(1841年 - )以後、幕府の禁令によって役者や遊女の1枚刷り錦絵は出版できなくなってしまうが、国芳は、そんななかでも、いやそんななかであるからこそ持ち前の江戸っ子気質を大いに発揮している。 魚の顔を役者の似顔にするなど、さまざまな便法で禁令を潜り抜け、絵師は役者の似顔を世に送り出し続けた。
  • 影響 :国芳はまた、柴田是真(蒔絵師、画家)、渡辺崋山(田原藩家老、学者、画家)ら当時の文化人とも交流があり、画風にも当時の新知識を彼なりに研究・吸収した跡が見られる。 『相馬の古内裏』という作品に登場する巨大な骸骨(「国芳画廊」の項を参照)は西洋の解剖学の書物を研究した成果だと言われている。 また、『忠臣蔵十一段目夜討之図』は未熟ながらも西洋画の透視画法(遠近法の一種)を学んだ跡が見え、画面に奥行きと緊張感を与えている。
  • 一見1人の人物の顔に見えたものが、見方を変えると複数の人物像に見えるといったトロンプ・ルイユの「人がかたまって人になる」がある。江戸のエッシャーだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    歌川国芳-Wikipedia

(2009.05.05掲載)



★「幕末の奇想の絵師」

▲江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人である歌川 国芳。


▲『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』 華佗の医術で肘の切開手術を受ける関羽。


▲作品:『そめいろづくし』 染め物を題材にした戯画で、「ねこしぼり」「狐こん」「熊くろ」など遊び心に富む。団扇絵(団扇の地紙用に描かれた絵)。


▲『忠臣蔵十一段目夜討之図』




63年3ヶ月と22日の生涯

伊藤栄樹
Shigeki Ito    【巨悪を眠らせない“ミスター検察”】

(1925.02.03〜1988.05.25)
死因?---水瓶座

  • 検察官。愛知県名古屋市の生まれ。東京帝國大學卒。
    学徒出陣で海軍に入隊。海軍主計科短期現役第12期。
  • 1944(昭和19)年9月30日 海軍経理学校入校。1945(昭和20)年 同校卒。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。
  • 1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官。
  • 著作「秋霜烈日 検事総長の回想」(1988年 朝日新聞社)、「人は死ねばゴミになる」(1988年 新潮社)。
  • 「検事総長であった著者がこの世の仕事の意味、不治の病名の告知および告知される者の人格について、死への準備、患者としての思いを手記とした。考えさせられることの多い貴重な闘病の記録である。死を覚悟してからの、著者の人生設計のやり直しが一つ一つ描かれている。---検事総長という立場にあった著者が、回盲部のガンの告知を受け、直ちに人生設計のやり直しをする。死期を悟り、まず、検事総長という立場でやるべき事を考え、そして、妻、子供たちのこと、残される者たちの経済生活のことなどの準備を初める。「死んでしまったら、当人は、全くのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ。」と言って、妻を悲しませてしまう。再手術後、職場復帰。退官まで務めた。この世の仕事の意味、告知、患者の人格、死の準備などを考えさせられる貴重な闘病の記録である」(1)。
  • 「伊藤栄樹検事総長は、回想録の中でこう書いている。〈かりに警察や自衛隊のような大きな実力部隊を持つ組織が組織的な犯罪を犯した場合、検察は、これと対決して、犯罪処罰の目的を果たすことができるかどうか、怪しいとしなければならない。検察の力の限界が見えるであろう〉〈検察は警察に勝てるか。どうも必ず勝てるとはいえなさそうだ。勝てたとしても、双方に大きなしこりが残り、治安維持上困った事態になるおそれがある〉」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「人は死ねばゴミになる
    『人は死ねばゴミになる 私のガンとの闘い』著者:伊藤栄樹(新潮社)
    (2)「ザ・スクープ
    『人は死ねばゴミになる 私のガンとの闘い』著者:伊藤栄樹(新潮社)

(2005.05.28掲載)


?肖像を探しています。

▲戦後の政財界の重大事件のすべてを見てきた硬骨漢にして、巨悪と闘い、がんと闘った「ミスター検察」伊藤栄樹。



63年4ヶ月と3日の生涯

岸田 國士
Kunio Kishida    【女優の岸田今日子の父】

(1890.11.02〜1954.03.05=明治23〜昭和29)
舞台稽古中に脳溢血で亡くなる---蠍座

  • 東京市四谷区(現・新宿区)に和歌山県出身の陸軍軍人 岸田庄蔵の長男として生まれる。陸軍士官学校を経て少尉に任官、久留米の第48歩兵連隊に配属される。
  • 文学への思いやみがたく、父の勘当を受けながらも軍籍を離脱し、1917年(28歳)に東京帝国大学仏文科選科に選科生として入学し、フランス文学や近代演劇を学ぶ。
  • 鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと親交をむすぶ。演劇に興味を持ち、 旅費をためて仏領インドシナを経由してパリに遊学。ソルボンヌ大に学び演劇研究に励んだ。
  • ジャック・コポーが主宰する小劇場ビュウ・コロンビエ座などに出入りし、当時フランスで盛んになっていた演劇純粋化運動に接する。1922年、父の死去で帰国。 翌年戯曲「古い玩具」「チロルの秋」を発表。次いで「ぶらんこ」「紙風船」で新進劇作家として知られた。評論や翻訳も書き〈演劇研究所〉を設立して新人の育成にも努めた。1929(S4)「牛山ホテル」、長篇小説「由利旗江」を執筆。
  • 1937年に、顧問を務めていた築地座を発展的に解消し、岩田豊雄・久保田万太郎らと文学座を創設。戦後も新劇発展のために尽力。
  • 1940年から1942年まで大政翼賛会文化部長を務める。第二次大戦敗戦後の1947年に公職追放となる。1950年(昭和25年)雲の会を結成、文学立体化運動を始めた。
  • 1954年、文學座の上演「どん底」(作・ゴーリキー)の演出に携わっていたが、3月5日舞台稽古中に亡くなる。
  • 小説「落葉日記」「暖流」(昭和13年)「双面神」などがある。代表戯曲に「古い玩具」「チロルの秋」(共に大正13年)、「牛山ホテル」(昭和4年)がある。
  • 「岸田国士の辞世をお供えします。舞台初日を翌日に控えての猛稽古中、神田一ツ橋講堂で脳溢血を起こして倒れた。「医者が頭が痛みますか?」とたずねても返事がないので、娘の今日子が同じ問いを繰り返すと〈ルカのせりふにもあるじゃないか、死ぬ前にはこうなるものさ〉と軽い調子で答えた。これは劇中の巡礼ルカの台詞だった。赤瀬川原平監修「辞世のことば」を参考にしました」(1)。
  • 長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子、甥に俳優の岸田森がいる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岸田國士 - Wikipedia
    岸田国士
    (1)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/21 17:17:33(日) [886]

(2007.01.22掲載)




▲大正・昭和期の劇作家・小説家・評論家・翻訳家、岸田 國士。

 





63年4ヶ月と24日の生涯

アントニオ・ヴィヴァルディ
Antonio Vivaldy    【バロックの巨匠】

(1678.03.04〜1741.07.28)
死因?---魚座

  • イタリアの後期バロックを代表する作曲家、「四季」で有名なバイオリン奏者。
  • 生地ベネチアでバイオリン奏者をしていた父に音楽の手ほどきをうけ、弱冠15歳で聖職につき、25歳で早くも司祭となり、作曲家としての活動に専念。また25歳で同地の女子音楽学校「ピエタ慈善院」の音楽教師に就任。以後亡くなるまでの間、主にこの職にあってバイオリンや作曲、合奏の指導に当たる一方、ここでモテット、カンタータ、コンチェルト、ミサ曲など750曲という膨大な数の作品が生み出す。
  • 約50曲のオペラ(そのほとんどは今日に伝わっていない)、オラトリオなどの宗教音楽、世俗カンタータ、シンフォニア、ソナタなど多くの作品がある。中心となるのは500曲以上のコンチェルトで、急・緩・急の3楽章から成る独奏協奏曲(ソロ・コンチェルト)形式の完成者として知られる。12曲の協奏曲集『調和の幻想』、12曲のバイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』はことに親しまれ、後者の最初の4曲は『四季』として有名。バイオリンのための協奏曲だけでもじつに300曲近くが残されている。その間ベネチア、フィレンツェなどでオペラを上演。60歳でアムステルダムの王立劇場100年祭のために大規模な音楽を手がけるなど、その名声は広くヨーロッパ各地に届いた。
  • 62歳でピエタの職を辞してベネチアを後にするが、その動機はいまだに判明していない。翌1741年の他界から2世紀を経た1938年、ウィーンで貧民墓地に埋葬されたその最期が明らかになった。
  • ビバルディの影響はイタリア内外に及び、特にJ.S.バッハは協奏曲の編曲を通して多くを学んでいる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2006.05.24更新)



▲イタリアの後期バロックを代表する作曲家、「四季」で有名なバイオリン奏者・アントニオ・ヴィヴァルディ。



▲バロックの巨匠 ヴィヴァルディ
■制 作 1987年 カナダ、イタリア、旧西ドイツ共同製作
■演 出 リチャード・ブッキング
■日本語版制作 韮沢 正
●音楽総監督 ヴィットリオ・ネーグリ 出演及び演奏
●特別出演
イダ・ヘンデル


63年4ヶ月と26日の生涯

フェルマー
Pierre de Fermat   【フランスの数学者】

(1601.08.17〜1665.01.12)
死因?---獅子座

  • フェルマーの最終定理で有名なフランスの数学者(整数論、確率論)。トゥールーズ近くのボーモン・ド・ロマーニュに生まれ、カッストルに死す。
  • 30歳、トゥールーズ地方議会の議員となり、余暇に数学を研究。成果はデカルトやメルセンヌへの手紙などに記しただけで公表せず、他の手記は1679年子が公刊。
  • ディオファントスの数論の訳書に刺激されて数論を研究、余白にフェルマーの定理の書込みがあり、近代整数論の端緒を開いた。
  • 円錐曲線の研究から解析幾何学を考案、微積分の先駆的研究もある。光線の通路に関するフェルマーの原理も有名。 『解析教程』で言及された積分に関する業績のほかに、整数論・確率論などがある。
  • 「フェルマーは法律の勉強をした後,役人として一生を 送った.彼の一生は大きな波も立たず,これといった逸話もなく, 平穏な生活を送った. 仕事の暇をみては 趣味 で数学の研究をした. しかも当時の数学で最も重要な問題に挑戦し, 数論 の創始者として数学史に名を残した. フェルマは数学における アマチュアの王様 であった. そして当時の専門の数学者で誰一人として 彼以上の発見や貢献をした者はいなかったのである. しかしフェルマは非常に謙虚な人物であったから事実上 何一つ出版しなかった. 自分の結果は手紙で友人に伝えたり,自分の読んだ本の 中に書き込んだりした. フェルマの書いた手紙は今日の学術雑誌のかわりになっており、当時の人はフェルマの成果をよく知っていた. この本の片隅に書かれていたのが フェルマの予想 または フェルマの大定理 と呼ばれているものであった. そしてその本には 「素晴らしい証明をみつけたが余白が狭すぎて書ききれない」 と書いてあった. これが後の人々を大いに悩ます問題で 本当につい最近やっと解決されました.(300年以上かかった) 」(1)。
    「フェルマの大定理 :問題の意味は小学生でもわかります.三平方の定理というのがありますね. 3^2 + 4^2 = 5^2、 5^2 + 12^2 = 13^2 ,... (3^2 などは 3 の 2乗の意味)。こういう数はいっぱい見つかりますね.それでは3乗だったらどうでしょう. フェルマは 「2乗以外ではこのような三つの数はない」 と言っています. コンピュータを使ってしらみつぶしに見つけようとした人も いましたが失敗しました. この証明は100ページ以上になります」(2)。

  • 最近まで予想であった『フェルマーの最終定理』(ワイルズにより解決)は余りにも有名。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「授業に登場した数学者たち

(2005.11.16更新)








▲フェルマーの最終定理で有名なフランスの数学者・フェルマー。

63年5ヶ月と14日の生涯

内田良平
Ryouhei Uchida    【「脱亜」か「興亜」か!】

(1874.2.11〜1937.7.26=明治7年〜昭和12年)
死因?---天秤

  • 旧福岡藩士内田良五郎の三男として生まれる。幼名良助、のち甲。俳号は硬石。 1902年に良平と改名。内田忠光の弟、平岡浩太郎の甥。
  • 幼少より文武両道に秀でた父の薫陶を受け、弓道、剣道、柔術、相撲、射撃を学ぶなど豪胆にみえる内田だが、 少年時代はひ弱で生死の境を彷徨ったこともある。
  • 1892年、18歳のとき、玄洋社三傑のひとり叔父の平岡浩太郎に従い上京、講道館に入門し、福岡に初めて講道館柔道を広めた。
  • 翌年東洋語学校に入学しロシア語を学び、1897年シベリア横断旅行を試みる。
  • 内田が初めて朝鮮に渡ったのは、朝鮮南部を中心とする農民反乱、すなわち甲午農民戦争 (かつて東学党の乱と呼ばれたこともある)が起こった1894年(明治27)、数えの21歳のとき。
    東学党応援ため天佑侠に参加し朝鮮に渡る。日露戦争後の三国干渉に憤慨し、ウラジオストクに渡りシベリアを横断。
  • 1898(明治31) 宮崎滔天(トウテン)の紹介で孫文に会う。
  • 1901年大アジア主義と天皇主義を標榜して〈黒龍会〉を結成し主幹。 1903年、対露開戦を主張。1905年日韓合邦運動を推進。朝鮮併合後、有隣会を組織し、中国問題にとりくむ。
  • 1918年米騒動を鎮圧するため「大阪朝日新聞」膺懲運動を起こし、吉野作造と公開論争をして敗北。 その後、宮内某重大事件・ロシア飢餓救済運動・排日移民法反対などで活躍。
  • 1925加藤高明首相暗殺未遂事件で入獄。1931年大日本生産党を結成し総裁、満蒙独立運動を推進。
  • 内田は平岡らの影響を受け、 青年時代から日本の朝鮮、中国への勢力拡大に強い関心をもつなど、明治から昭和にわたる国家主義運動の指導者であった。
  • 当時の朝鮮は五百年も続いた李朝時代の末期にあり、日清両国の係争の地となっていた。 下関から密航し、釜山で東学党を支援する組織、「天佑侠」のメンバーとなる。
  • 玄洋社に学び、黒流会を創立。日韓合併に尽力し、支那革命に際しては孫文を助け、国事と東アジアの新興のため生涯を捧げた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    内田良平
    思文閣 美術人名辞典---内田良平
    『心-こころ- 橋本健午のページ』内田良平日韓合邦運動の支援と挫折


    ◆玄洋社を支えた群像(1907年、東京。前列右から2人目が杉山茂丸、5人目が頭山満、後列中央が内田良平)=写真は玄洋社記念館所蔵

(2008.11.02更新)




▲明治・大正・昭和期の右翼運動指導者、国家主義者で、大日本生産党総裁・黒龍会主幹の内田良平。

 


▲「国士内田良平―その思想と行動― 」内田良平研究会 編著 中村武彦 監修者代表 君は内田良平を知ってるか?内に国家改造、外に大アジア主義。明治大正昭和の動乱を疾走した国家戦略家の全貌がいま蘇る。
第1章 筑前勤皇党から玄洋社へ −征韓論・第二維新運動と内田良平
第2章 シベリア横断と黒龍会の結成 −日露戦争と内田良平
第3章 日韓合邦悲史 −「韓国併合」と内田良平
第4章 支那革命支援工作 −支那ナショナリズムと内田良平
第5章 国体擁護と内治外交の作振 −日本社会の近代化と内田良平
第6章 満蒙経論 −満洲事変と内田良平
第7章 大日本生産党 −昭和維新運動と内田良平
第8章 昭和神聖会運動と闘病生活 −晩年の内田良平
第9章 50年国を憂ひて草莽の −内田良平の生涯

63年5ヶ月と22日の生涯

与謝野晶子
Akiko Yosano   【情熱の歌人】

(1878.12.07〜1942.05.29)
脳梗塞で半身不随、狭心症に尿毒症併発---射手座

  • 『みだれ髪』で知られる歌人、詩人。大阪堺市の老舗の羊かん屋の3女として生まれた。旧姓鳳。本名しょう。
  • 堺女学校を卒業、女学校時代から文学、特に日本文学に親しみ家事を手伝い、帳場に坐りながら寸暇をさいて『源氏物語』などをひもといた。
  • 明治34年、来阪した与謝野鉄幹と出合って、新詩社に加わり、『明星』に短歌を発表。翌年処女歌集『みだれ髪』を出して世の注目を集めた。同年鉄幹と結婚、『明星』の中心的存在となる。才能豊かであった彼女は明星派の中心的歌人として浪漫的夢幻的作品を数多く発表し近代短歌に影響を与えた。鉄幹との結婚のため家を捨てる等、私生活に於ける彼女の生き方も作品と同じく情熱的であった。
  • 日露戦争の熱狂のなかで女性の立場から否戦の感情を表わした詩「君死にたもうことなかれ」を発表、反響を呼んだ。初期の情熱的な歌風は次第に唯美的・幻想的となり、『小扇』、『毒草』(鉄幹と共著)、『恋ごろも』(山川登美子らと共著)、『舞姫」などの歌集を出した。
  • 晩年には現代語訳「新々訳源氏物語」を残す等、教育事業にも携わった。大正期には広く女性問題、社会問題等の評論にも活躍、『青鞜』運動を助けたり、母性保護論争に参加するなどした。遺歌集『白桜集』がある。
  • 一方、家庭では11人の子の母、鉄幹の妻として大正、昭和の動乱期を生き抜いた。昭和17年(1942年)鉄幹におくれること7年、64歳で華やかにも美しい浪漫詩人の生涯を終えた。
  • 「情熱の歌人」と呼ばれた与謝野晶子の詩碑がロシアのウラジオストックにあるという。晶子は33歳だった1912年5月に、7人の子供を置いて、ウラジオスクに渡り、前年に渡欧した夫・鉄幹の後をシベリア鉄道で追った。この際「旅に発つ」と題した詩が生まれた。
  • 「与謝野晶子にひまわりの異称、こがねひぐるま(黄金日車)の歌がある。「髪に挿せば かくやくと射る 夏の日や 王者の花の こがねひくるま」。森鴎外は妹に宛てた手紙でこの歌に触れている。ひまわりを挿すには、「女の顔は直径五尺六寸なくてはかなうまい」(1)
  • 「とにかく情熱の歌人というイメージを持つ与謝野晶子をめぐり、新たな視点を見せる力作。著者は「心重き塞ぎの晶子、嘆きの晶子」を描出しながら、限りなく生身の晶子の実像に迫ろうとする。---晶子は〈桁外れの忍耐と努力の人であった〉」(2)。
  • 「与謝野晶子の兄弟:電気工学に「鳳-テブナンの定理」というのがあります。この定理の鳳(ホウ)は元東大教授、鳳秀太郎にちなんでこのように呼ばれていますが、博士が与謝野晶子の実兄であることはあまり知られていない。(二人は反りが合わなかったようです)逆に「君死にたまふことなかれ」と歌われた実弟、籌三郎(チュウザブロウ)の方が良く知られています」(4)。
  • 「与謝野晶子の辞世をお供えします。〈今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝(イ)ねん西の武蔵野〉」(5)。
  • 最近の若者達の言葉に「よさのる」があるらしい。与謝野晶子の『乱れ髪』に因んで乱れた髪形をさという。天然パーマのボクの髪は毎朝よさのっている。
  • ボクは11人も子供を生んだことのほうに畏怖してしまう。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.03.06朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)日経新聞2004.10.31朝刊 竹西寛子著『陸は海より悲しきものを』の歌人・篠弘による書評より抜粋。
    (3)「与謝野晶子
    (4)投稿者:ユリウスさん 投稿日:2004.11.08(月)16時25分。
    (5)投稿者:ユリウスさん 2006.05.02(Tue) 23:57[1440]

(2007.03.12更新)






▲『みだれ髪』で知られる歌人、詩人・与謝野晶子。

 

?与謝野晶子の歌?

◆「秋きよし球磨の大河のいもうとの、人吉の湯のあふるる聞けば」
(この歌は人吉の温泉宿で夫鉄幹とふたり、球磨川に抱かれる妹のようにきれいな出湯に浸ったときに詠んだ歌)

◆「やは肌の 熱き血汐に ふれも見で さびしからずや道を説く君」
(与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』に収められた、あまりにも有名な一首である。現代においてこそ、女性の自立、女性の主張も市民権を得、当然のことであるが、明治34年の世に、女性の立場で艶麗な官能、奔放な情感をうたいあげたこの浪漫的な歌集は非常にセンセーショナルなものであった。)---(3)。

◆「いさり火は身も世も無げに瞬きぬ陸は海より悲しきものを」

◆「在りし日に覚えたる無と今日の無とさらに似ぬこれ哀れなりけり」

◆「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」
と与謝野晶子は詠んだ。作者の幸福感に包まれた胸中の表れでもあるのか。行き交う人がみんな美しいとは、なかなか思えるものではない


◆「親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや」

◆「身は一等兵、しかれども、破壊砲をば抱く時は、鉄条網に踊り入り、実にその身を粉とせり」

 



 

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