玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

age 63


50音インデックス

■63歳の
 シンクロニシティ


■63歳-?
光武帝
孟郊
ピエール・アベラール
平 清盛
鄭和
円空
鳥居 清長
浅野 和三郎
片岡 敏郎

■63歳-前半
パトリック・ヘンリー
オットー・ノイラート
池田満寿夫
北 公次
山鹿素行
近衛 十四郎
ノーベル
曽我町子
日野 てる子
フェルナン・クノップフ
荒木しげる
城 達也
ルーズヴェルト
レンブラント
ロバチェフスキー
グリエルモ・マルコーニ
ユリシーズ・S・グラント
歌川 国芳
伊藤栄樹
岸田 國士
北条重時
ヴィヴァルディ
フェルマー
福原 鐐二郎
内田良平
与謝野晶子

■63歳-後半-1 →進む
村井弦斎
五社 英雄
マリア・テレジア
ウィリアム・ギルバート
柳澤 健
ウィリアム・ホールデン
ハナ 肇
シャルル・フーリエ
豊田佐吉
三好達治
古今亭志ん朝
ダゲール
山本周五郎
猪熊 功
はらたいら
柳 ジョージ
国吉 康雄
島野育夫
ヘップバーン
ポール牧
ロバート・E・リー

■63歳-後半-2 →進む
ピエール・ガッサンディ
ロバート・ピアリー
宮本 征勝
エドウィン・ハッブル
成瀬巳喜男
尾上菊五郎(6代目)
トラヤヌス
ペリー
ブラームス
檀 一雄
恩地孝四郎
カルロ・コッローディ
キケロ
糸居五郎
東条英機
デイヴ平尾
山本 鼎


■63歳のエポック


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63歳の語録


「私はもっとも多数の人たちと共に生活をし、共通のことで苦しみ悩み、その中に生きる希望を探求していきたい」
(周五郎)

「人生を二度生きることは出来ない。この一生を精一杯生きろ」
(周五郎)

「人生にも四季があり、好況と不況は付いてまわる」(周五郎)

「苦しいときほど人間が人間らしくなるときはない」
(周五郎)

「人間の一生を支配するのは運であって、知恵ではない」
(キケロ)

「人生から友情を取り去ってしまうなどとは太陽をこの世から取り去ってしまうようなものだ」
(キケロ)

 

 

 

 


63歳のシンクロニシティ!

  • 63歳の生涯には二人の数学者が享年をともにしている。ロバチェフスキーフェルマーである。
      
    ●非ユークリッド幾何学の創始者にしてロシアの数学者ニコライ・ロバチェフスキー(1792.11.20〜1856.02.12)は、晩年失明し63年2ヶ月と23日の生涯(射手座)。
    ●『フェルマーの最終定理』で有名なフランスの数学者フェルマー(1601.08.17〜1665.01.12)も、死因?ながら63年4ヶ月と26日の生涯(獅子座)。

  • また「無線信号の発明者」と「電磁気学の父」、エピクロスの再発見者」と「現代天文学の父」の学者達も逝っている。マルコーニギルバートガッサンディハッブルである。
      
    ●「電波を通信に利用できないだろうか」と考えた無線信号の発明者・グリエルモ・マルコーニ(1874.04.25〜1937.07.20)は、死因?で63年2ヶ月と25日の生涯(牡牛座)。
    ●「電磁気学の父」と呼ばれる英国の医師、物理学者・ウィリアム・ギルバート(1540.05.24〜1603.12.01)は、死因?ながら63年6ヶ月と7日の生涯(双子座)。
    フランスの物理学者・数学者・哲学者で「エピクロスの再発見者」ピエール・ガッサンディ(1592.01.22〜1655.10.24)は死因?で63 年9ヶ月と2日の生涯 (水瓶座)。
    ●宇宙が膨張していることを発見した「現代天文学の父」エドウィン・ハッブル(1889.11.20〜1953.09.28)も、死因?ながら63 年10ヶ月と8日の生涯だった(蠍座)。

  • さらに、竹久夢二繋がりで二人、岸たまき恩地孝四郎。そして版画家繋がりで池田満寿夫山本鼎
       
    ●眼の大きな女性で、夢二式美人画の原型となった女性・岸たまき(1882.07.28〜1945.07.09=明治15年〜昭和20年)は、死因?で62年11ヶ月と11日の生涯(獅子座)。
    ●竹久夢二がはじめて刊行した『夢二画集 春の巻』を見て多くの影響を受けて芸術の道を選んだ版画家・恩地孝四郎(1891.07.02〜1955.06.03)も63年11ヶ月と1日の生涯 で病死した(蟹座)。
    ●『エーゲ海に捧ぐ』で知られる版画家、作家、映画監督・池田満寿夫(1934.02.23〜1997.03.08)も、急性心不全で63年と13日の生涯 (牡牛座)。
    ●1904(明治37)年に日本最初の創作版画《漁夫》を制作した版画家・山本鼎(1882.10.14〜1946.10.08)も、腸捻転で63年11ヶ月と24日の生涯 を終えた(天秤座)。

  • コメディアン・芸人関連ではハナ肇古今亭志ん朝ポール牧
      
    ●クレージー・キャッツのリーダー・ハナ肇(1930.02.09〜1993.09.10)は、死因?で63年7ヶ月と1日の生涯(水瓶座)。
    ●古典落語の名手として活躍した落語家・古今亭志ん朝(1938.03.10〜2001.11.01 AM10:50)は、肝臓がんで63年7ヶ月と22日の生涯 (魚座)。
    ●コントそのままのバイタリティーあふれる生きざまで話題を集め、指パッチンで一世を風靡した芸人・ポール牧(1941.08.02〜2005.04.22)は、飛び降り自殺で63 年8ヶ月と20日の生涯 (獅子座)。


  • 山梨県北都留郡初狩村に生まれた本周五郎、山梨県南都留郡谷村町(現在の都留市)生まれた檀 一雄もシンクロする。
     
    ●直木賞を辞退した作家・山本周五郎(1903.06.22〜1967.02.14)は、肝炎と心臓衰弱のため死去し63年7ヶ月と23日の生涯(蟹座)。
    ●20年以上に渡り書き続けライフワークとなった『火宅の人』の生みの親・檀 一雄(1912.02.03〜1976.01.02=明治45年・大正元年〜昭和51年)は、死因?で63年10ヶ月と30日の生涯 (水瓶座)。


  • ゴールデンカップス繋がりで柳 ジョージ デイヴ平尾がシンクロする。
     
    ●『RAINY WOOD AVENUE』で一世風靡したミュージシャン・柳 ジョージ(1948.01.30〜2011.10.12)は、糖尿病の悪化で63年8ヶ月と12日の生涯(水瓶座)。
    ●ザ・ゴールデン・カップスのリーダーとして、東芝音楽工業から1967年にプロデビューしたデイヴ平尾(1944.11.17〜2008.11.10)も、心不全で63年11ヶ月と23日の生涯 (蠍座)。


    (2011.10.22更新)     



63年?の生涯

光武帝
Koubutei      【後漢王朝の創始者】

(BC6.?〜57.?)
死因?---?座

  • 後漢王朝の創始者(在位25年 - 57年)。初代皇帝。前漢の景帝(第6代皇帝)の子孫として生まれ、名を劉秀といった。
    姓は劉。諱は秀(しゅう)。字は文叔(ぶんしゅく)。廟号は世祖。
  • 前漢を滅ぼして新という国をたてた王莽が政治に失敗し、各地に反乱が起こったとき、劉秀は兵を挙げて新を滅ぼした。そして西暦25年(31歳)洛陽に都を置き、後漢をたてた。
  • 日本の奴国王に金印(漢委奴国王印)を与えたことが、「後漢書」東夷伝に書かれている。
  • 「劉秀は漢の景帝の息子で長沙王に立てられた劉発の末裔である。若い頃の劉秀は非常に慎重でかなりおっとりとした性格と見られていた。「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と言う劉秀の言葉が残っている。執金吾とは首都の警備司令官の事で、陰麗華とは後の皇后で劉秀の地元南陽の豪族の娘で評判の美人であった。若き日の劉秀は執金吾になって美人を妻に迎えられれば良いなと思うくらいのさして大きな野望を持たない人物であった。まさか自分が皇帝になるとは思っても見なかった事であろう」
  • 「光武帝は荒廃した長安から洛陽に首都を移した。前漢末以来の混乱で中国は大いに疲弊し、前漢最盛期で六千万人ほどいた人口が光武帝の時代には二千万あまりほどに激減していた。これに対する対策の一つとして光武帝は奴隷解放令を何度も出した。自由民を増やす事によって生産力の上昇と民衆の間の王朝に対する人気取りを狙った。また周辺諸国、特に匈奴に対しては懐柔策を取り、王の号を小国にも出した。戦争を避け、民力の回復を待ったのである。40年、交趾(ベトナム)で漢の支配に反抗した徴姉妹の反乱が起こるが、伏波将軍の馬援を派遣してこれを鎮圧した。56年、建武中元と改元し、封禅の儀式を執り行う。57年、倭奴の国王が使節を送って来たのでこれに王の金印を授けた。これが後に志賀島で発見された漢委奴国王印だと考えられている。同年、死去」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    集英社版・学習漫画「世界の歴史・人物辞典」より抜粋。

(2007.06.21更新)




▲洛陽に都を置き、後漢をたてた初代皇帝・光武帝。

 

63年?の生涯

孟郊
Moukou   【中唐の詩人】

(751.?〜814.?)
死因?---?座

  • 中唐の詩人。湖州武康の人といわれている。なんと50歳近くなって科挙“進士”に及第。
  • 江蘇省の尉に任ぜられたが、職務怠慢、毎日川べりで酒を飲んでは詩作に耽っていたという、そのため減給、当然貧乏して退職。のち韓愈の推薦で職を得た。
  • その昔、中国での科挙の試験は、現在日本の大学受験とは比べ物にならない厳しさ。それだけに、合格すれば一門の誉れ、特に進士の二科及第者は立身出世がもっとも早く、“白衣の公卿”といわれ、一族の期待を集めた。ゆえに、孟郊のように50歳近くの合格者というのもさほど珍しいものではなかった。なかには75歳でようやく及第したという人もあった。
  • 「再度 長安のみち空しく涙をもつて花を見る」。唐の詩人孟郊は、官吏登用試験の科挙に二度も落ち、そう詠んだ。孟郊は三度目に合格し、「春風に意を得て 馬蹄疾し 一日にして見尽くす 長安の花」と歓喜の七言絶句を詠んだ。長安の花とは牡丹、当時、合格者は馬に乗ったままで、どんな富豪の家にでも入り込んで花を見ても良いという慣わしになっていたという。また、“花”とは芸妓のことで、合格した嬉しさの勢いにのって色町にくりだしたのだという説もある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.01.18朝刊「編集手帳」
    漢詩茶館

(2007.06.06更新)




▲中唐の詩人・孟郊。




▲清明上河図ー中華民国国立故宮博物院蔵。

 

◆「再度 長安のみち空しく涙をもつて花を見る」

63年?の生涯

ピエール・アベラール
Pierre Abelard   【弟子のエロイーズとのロマンス】

(1079.?〜 1142.04.21)
死因?---?座

  • アベラールはナントに近いパレ(Pallet)で生まれ、ラテン語式のペトルス・アベラルドゥスという名前でも知られる。音声言語論者ロスケリヌス(Roscelinus 1050?-1123?)と実在論者のギヨーム・ド・シャンポー(Guillaume de Champeaux 1070?-1121)に師事、パリのノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師となって非常な名声を博した。
  • 1117年頃、アベラールはノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ(1101-64)を知った。エロイーズは容貌もよく、学問に優れていたため国内でも有名であった。
    アベラールはエロイーズに魅力を感じ、フュルベールに住み込みの家庭教師となることを申し出た。20歳以上年の離れていた2人は熱烈な恋に陥り、やがてエロイーズは妊娠した。
  • アベラールはエロイーズをひそかにブルターニュの妹のところに送り、そこで男の子アストロラブが生まれた。このスキャンダルに叔父フュルベールは激怒したが、アベラールは和解を申し出て、エロイーズと秘密の結婚。しかし叔父が和解の条件を守らないことやエロイーズを虐待することなどから、エロイーズをアルジャントゥイユ修道院に移した。これにフュルベールは激怒し、縁者らにアベラールを襲撃させ、陰部を切除させた。アベラールは後にこれを「罪を犯したところに罰を受けた」といっている(後出の第一書簡)。実行犯2人は捕らえられ、眼をえぐられ、陰部を切除された。
  • この事件の後、アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院に移り、修道士となり、エロイーズはアルジャントゥイユ修道院の修道女になった。
  • アベラールは学問においては自説を決して曲げない性格であり、間違っていると思えば己の師ですら罵倒し、論破した。この性格のため、碩学であったが多くの敵対者を生んだ。
  • サン・ドニでは当時修道院で信じられていた、修道院の創設者聖ドニ(デニス)が『使徒行伝』のアテナイのディニュシオスであるという通説を論破して修道士たちを激怒させた。
  • この頃アベラールは『三位性と一位性について』を著し独自の三位一体解釈を行ったが、これはソワッソン公会議(1121年)で問題とされ、その教説は異端宣告を受けた。
    そのため、パラクレトゥス聖堂に移ると修道院付属学校を自ら開いて教え、1125年には招かれてブルターニュのサン・ジルダ・ド・リュイ修道院の院長となった(のちにエロイーズはパラクレトゥス聖堂の敷地内に女子修道院を建てて院長となった。)1132年頃、エロイーズとの恋などを記した自伝的な書簡を友人あてに記した。
  • その後、アベラールは再びパリに戻るが、一連の普遍論争においてクレルヴォーのベルナルドゥスと対立し、サンス公会議(1140年)でも異端とされた。
  • 晩年はクリュニー修道院ですごし、サン・マルセル修道院でその生涯を閉じた。遺体はエロイーズの願いに応じてパラクレトゥスに埋葬され、1164年に彼女が亡くなると同じ墓に葬られた。(19世紀になって2人の遺体はペール・ラシェーズ墓地に改葬されたという。)
  • アベラールは普遍論争では唯名論者に位置づけられる。普遍論争はもともと普遍は実在するか(実在論)、名目だけのものか(唯名論)を巡って行われたもので、普遍は実在しないとする唯名論を突き詰めてゆけば、教会(カトリック=普遍)、ひいては神を否定する思想にもつながりかねない。アベラールの三位一体論の思想は異端視されたが、唯名論としては折衷的、穏健なものであり、神の意志の中に普遍は存在するとしていた。アベラールの思想はやがてスコラ学の基礎となり、トマス・アクィナス(実在論者とされる)により大成された。
  • 二人の往復書簡集の体裁を取る。第一書簡は1132年頃(サン・ジルダ修道院長時代)にアベラールから友人あてに書かれた。内容は自己の生涯を振り返るものでエロイーズとの恋の話も含む(これが『災厄の記』"Historia Calamitatum" か)。これをエロイーズが読み、長い間音信がないことを切々と訴える第二書簡が書かれた。第二書簡から第五書簡までは「愛の書簡」ともいわれ、以後はアベラールがエロイーズの信仰を励ます内容に移り、「教導の書簡」ともいわれる。
  • エロイーズはアベラールと燃えるような恋をした修道女だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ピエール・アベラール-Wikipedia

(2007.10.12掲載)




▲「唯名論」学派の創始者として知られ、後にトマス・アクィナスらによって集成されるスコラ学の基礎を築いたとされる中世フランスの論理学者、キリスト教神学者のピエール・アベラール。

63年?の生涯

平 清盛
Kiyomori Tairano   【平安末期の武将・太政大臣】

(1118.?〜1181.02.04)
失意のうちに熱病で死す---?座

  • 平安末期の武将・太政大臣。忠盛の子。
  • 保元の乱・平治の乱で対立勢力を一掃。49歳で太政大臣となり、平氏政権を樹立。50歳で出家。
  • 54歳で娘徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮として入内させ、一門こぞって公卿・殿上人になり全盛時代を築く。
  • 晩年は以仁王の挙兵、南都北嶺や諸国源氏の蜂起に会い、失意のうちに熱病で死す。
  • 「清盛の最期のことばを捧げます。〈やがて討手をつかわし、頼朝の首をはねて、わが墓の前に懸くべし〉。晩年、清盛は原因不明の熱病にかかる。看取った妻の時子が、言い残すことはないかと問うと「この世でなそうとしたことはすべてやることができた。しかし、頼朝の首を見なかったことだけが残念だ。だから、すぐさま討手をさしむけて頼朝の首をはね、わが墓前に供えよ。それが何よりの供養だ。」と言ったという。(参考:秋庭道博著「サムライたちの遺した言葉」)」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん2006.03.20(Mon) 00:01[1213]

(2006.03.20更新)




▲平安末期の武将・平 清盛。

63年?の生涯

鄭和
Teiwa   【中国、明朝時代の宦官・武将】

(1371.?〜1434.?)
死因?---?座

  • 中国、明朝永楽・洪煕・宣徳時代の宦官・武将。雲南省出身のイスラム教徒。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監であったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。
  • 父は馬只(マ=ハッジ)といい、この名前は、アラビア語の haji(聖地メッカに巡礼した人)に由来。すなわち、鄭和一族は、代々イスラム教徒であり、元代には色目人に属し、特権的地位にあった。
  • ところが、明が成立し、鄭和の故郷雲南地方を征服すると一家の暮らしは一変する。12歳の鄭和は、明軍に捕えられて、宦官にされてしまった。それからまもなく彼は燕王(のちの世祖永楽帝)の藩邸に送られ、しだいに生来の才能を発揮して人々の注目するところとなるのである。とくに、靖難の変での功績は目ざましいものがあった。永楽帝は、即位後に宦官の最高職をかれに与えているが、これは、洪武帝以来の伝統を破る大抜擢であった。
  • 1405年、鄭和は永楽帝の命により、200隻の大艦隊を率いて、第1回の南海遠征に出発。1405年―1433年の間に7回にわたり大艦隊を率いて南海諸国を巡航。足跡は遠くアフリカ東岸に及んだ。諸国の朝貢促進,南海事情判明。南洋華僑発展などの契機となる。
  • 鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。
  • 彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だった。
  • 第七回航海:永楽帝の死後に彼の孫の宣徳帝の命令による。出発は1431年12月で、既に鄭和はかなり年を取っていたが、彼に代わる人材はいなかった。 この時に別働隊はメッカに至ったと言う。帰国は1433年7月。 帰国後にほどなくして鄭和は死去した。
  • 鄭和の南海遠征に使われた船は、通称「宝船」といい、約500トンほどであった。多いときには200隻、1隻に100人から200人乗り組むので、一番多いときで5万人の部隊を率いる勘定になる。宝船は3段に分かれていて、一番上に約50cmの盛土がしてあった。これは、野菜を植えるためだったという。長い航海で一番欠乏するのがビタミンCであり、その不足による壊血病の予防策であった。
  • 鄭和の父は幼い彼に言ったという。「人生は旅なんだよ」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    鄭和
    中国史─24 鄭和の南海遠征
    (1)「松本剛史 作品一覧:紀伊國屋書店

(2006.05.04更新)




▲コロンブスやバスコ・ダ・ガマなどによる大航海時代よりも1世紀早く大航海を行った明の鄭和。


◆『1421―中国が新大陸を発見した年 』ソニー・マガジンズ。メンジーズ,ギャヴィン【著】〈Menzies,Gavin〉・松本 剛史【訳】
「1421…世界の海でなにがあったのか。15世紀、中国の明の時代。紫禁城をつくった永楽帝は家臣の鄭和に命じた。水平線の彼方の国、地の果ての国、世界のすみずみまで調査せよ!勅命を受けた鄭和は、1421年宝船といわれる巨大なジャンク船団を率い、世界をめざして航海に出た。大航海時代以前のヨーロッパの古地図に描かれていた、新大陸の一部としか思えない島々…なぜ1492年以前の地図にアメリカが描かれていたのか?世界各地に残された膨大な手がかりや「証拠」をもとに、600年の時を遡り、鄭和がコロンブスよりも70年前に新大陸を発見し、マゼランよりも百年も早く世界一周をしていた真実が明かされる。
従来の通説をくつがえし、歴史をもぬりかえる衝撃のノンフィクション。ただの大風呂敷か?」(1)

63年?の生涯

円空
Enkuu         【放浪の聖】

(1632.?〜1695.07.15)
死因?---?座

  • 美濃国(岐阜県)に生まれる。生地については羽島市上中町中との説が有力で、現・郡上郡美並村とする説もある。一説には加藤与左衛門の孫ともいう。俗名不明。
  • 尾張の高田寺で密法を受けたと伝え、のち東国から北海道まで遍歴して、各地で民衆を教化しながら仏像を造った。
    丸木の原材を割り、その割れ目を生かした荒削りの彫法は、当時の職業仏師の作品には見られない独特の精神性と芸術性をもっている。
  • 1666年(34歳)1月26日、津軽藩弘前城下を追われる。次いで青森を経て松前に渡る(『津軽藩日記』)。この年北海道を巡り、多数の仏像を彫り、次の在銘仏三体をのこす。
  • 1695年(63歳)7月13日、弟子の円長に「授決集最秘師資相承血脈」を与える(同血脈書写文書)。7月15日、盂蘭盆入定の素懐を遂げる(墓碑銘)。
  • 「円空さんが仏像を刻んで祀ったために病気が治った、雷が落ちない、雨乞いに効き目がある、火事から守られた。飛騨・美濃地方にかずかずの伝説を残した円空は、寛永9年(1632)に美濃国(岐阜県)で生まれた。生誕地は羽島市内とも、郡上郡美並村ともいわれている。若くして出家し、23歳のときに諸国遊行の旅にでる。造仏聖として活躍をはじめるのは32歳の頃。北は北海道から南は奈良県まで、各地を行脚して修業を重ね、困窮にあえぐ人々の救済を念じて多くの仏像を刻む。生涯に12万体の造像を発願したといわれ、5千体あまりの円空仏が全国各地に現存する。円空は、元禄8年(1695)7月15日、関市弥勒寺近くの長良川河畔で入寂。言い伝えでは、円空は長良川の岸辺に穴を掘らせ、節を抜いた竹を通風筒として立てると穴の中に入り、鉦をたたきながら念仏を唱え、断食して即身成仏をとげた。円空入定の地には山藤の蔓がからみついた巨木が鬱蒼と立ち、この蔓を切ると血が出ると伝えられている」(1)。
  • 「円空が生きていた時代は、いよいよ徳川体制が厳然たる構えをみせはじめる、という頃で。幕府はキリシタン禁圧を目的に宗門人別帳という戸口調査をして、各人がどの宗門に属しているかを厳密に記帳した。さらに僧侶の市井での法談を禁じる命令を出して、行動を大きく制限した。こうした状況下で諸国を遊行できたのは、円空が「聖」と呼ばれる下級宗教者だったため。「聖」は、寺ももたず学識もなく、一所不在の放浪をしながら庶民の要求にこたえる宗教者。泉鏡花の『高野聖』に描かれているように下賤のものとされ、ときには蔑まれ嫌われる存在でもあった。けれども民衆にとっては、わかりやすい因縁話で生きる道を教えてくれる「聖」こそが高僧。円空は仏像を彫ることで、一宿一飯の恵みを受けながら諸国を巡った」(2)。
  • 「寛文5年(1665)、32歳の円空は東北を目指して旅立つ。同年、弘前から北海道に渡り、およそ1年半のあいだ松前・蝦夷地を巡って布教。円空が修業をしたといわれる太田権現、礼文華(れぶんげ)の洞窟は、わざわざ厳しい立地条件を求めたとしか思えないほど苛酷な場所、いずれも眼下に荒波が迫る切り立った岩場にある。北海道を出た円空は青森、秋田で造像した後、寛文8年(1668)尾張に到着。以後、岐阜・愛知・三重・奈良・滋賀など中部・近畿の各県をはじめ、茨城・群馬・栃木・埼玉など関東地方にも足をのばし、行く先々でさまざまな仏像を残す。元禄3年(1690)には美濃・飛騨地方にもどり、晩年の円熟した技で彫像を刻みつづけた。円空は生涯を通じて旅をし、民衆とともに生きた。ところで円空と同時代を生きた人物に松尾芭蕉(1644-94)がいる。もしかすると、旅の途上で2人は出会っていたかもしれない」(3)。
  • 「円空の造型思想は、縄文時代以来この列島に培われてきた、神と自然の感覚に根を下ろしている。そこでは石や木が、そのまま超越的なものの表現になっていた。そこに仏教の造形的な思想が結びつき、そこから日本人の独創的な「神仏習合」の考えが育ってきた。円空こそがその思想の芸術面における最高の表現者の一人である」(4)。
  • 江戸後期の遊行僧、造物聖・木喰上人と双璧をなす。円空は即興的で鋭い彫技、木喰はまろやかでユーモラスな造型で知られる。ともに近代になって再評価された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)(3)「円空 Web
    (4)週刊文春2006年12月12日号 梅原猛著『歓喜する円空』の中沢新一による書評より抜粋。

(2007.06.06更新)




▲造物聖・木喰上人と双璧をなす江戸時代の遊行僧・円空。


◆十一面観音菩薩立像

63年?の生涯

鳥居 清長
Kiyonaga Torii   【「江戸のヴィーナス」】

( 1752.?〜1815.06.28=宝暦2年 .?~文化12年5月21日)
死因?---?座

  • 鳥居派4代目当主。鳥居派の代表的な絵師。
  • 鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍、彼らや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人として、今日世界的に高く評価されている。
  • 鳥居清満の門人。江戸本材木町(現在の日本橋)の書肆・白子屋関口市兵衛の子。関氏。俗称は市兵衛(一説に新助)。屋号は白子屋。住んでいた場所から「新場の清長」とも呼ばれた。
  • 明和4年(1767年)に細判紅摺絵でデビュー、19才より清長を名乗り(初めの号は長兵衛とされる)、安永(1772年‐1781年)年間に110点程の細判役者絵を残している。安永7‐8年(1778年‐1779年)頃から次第に鳥居派風を脱し、当時流行していた勝川春章らの似顔絵的な役者絵の影響を受けて紅摺絵から細判の錦絵に変わるが、役者絵の制作は少なく、代わって中判の美人画と黄表紙挿絵の制作が増えてくる。黄表紙は安永4年(1775年)から描き始め、天明2年(1782年)まで120点余りの作に挿絵しており。この時期の作画の中心であった。
  • 鳥居派は役者絵を専門とする画派だが、むしろ清長の本領は一世を風靡した「美南見十二候」「風俗東之錦」「当世遊里美人合」などの美人画にある。美人画は初め細身で繊細な鈴木春信や北尾重政・礒田湖龍斎の作風を学んでいるが、天明(1781年‐1789年)期になると次第に諸家の影響を離れて、写生に基づく堅実な素描を元に八頭身でどっしりとした体つきの健康的な美人画様式を創り上げた。また美人画の背景に、現実の江戸風景を写実的に写したのは清長が最初であるとされる。大判二枚続・三枚続の大画面を使いこなし、現実的な背景に美人を群像的に配する清長の作風は美人風俗画と称され、後の大判続物発展の基礎を築いた。続物でありながら単体でも、全体を繋げて鑑賞しても破綻なくまとめられており、清長の高い手腕が窺える。
  • その他天明期の画業に、所作事の場面の背景に必ず語り手や三味線弾きを書き込む舞台図である出語り図を30点以上残し、舞台面をそのまま取入れた大判役者絵も描くなど、一段とリアルな作品を残した。また、肉筆浮世絵も数は多くないが悉く優品で、彼の資質、力量を伝えている。特に「真崎の月見図」は代表作として知られている。隅田川の上流の真崎の渡し辺りの茶店で床机に腰を掛け、満月の清光を浴びる女性たちを描いており、月の光は水に良くたとえられるが、その光が水量豊かな川面に広がっている背景の爽やかさが印象的な作品である。
  • 天明5年(1785年)師である清満が没すると、孫の庄之助が成長するまでの中継ぎとして、二年後の天明7年(1787年)鳥居家4代目を襲名する。その後は美人画からは遠ざり、鳥居派の家業である看板絵や番付などの仕事に専念し、晩年になると黄表紙、芝居本、絵本などに力を注いだ。享年64才。墓所は墨田区両国の回向院。墓石は無く、過去帳のみ残る。法名は長林英樹居士。
  • 春画:「袖の巻」 十二枚組 天明5年(1785年)。清長の春画作品の中で最も知られた作。序文末尾に「自惚」という珍しい印が押されていることから、清長自身も本作に自信を持っていたことが窺える。縦12cm、横約67cm(最大73cm)という非常に横長の珍しい形式で描かれているが、トリミングの妙で窮屈さや違和感を感じさせない画面に仕上げている。大首絵を思わせる豊かな表情と抑えた色使いで、性の悦びと充足感を描ききった春画史上に残る名品。「色道十二番」(しきどうじゅうにつがい) 大判錦絵折本十二枚組 天明5年(1785年)。「時?十二鑑(いまようじゅうにかがみ)」 中判十二枚組。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    鳥居清長 - Wikipedia



(2011.07.23掲載)



★肖像を探しています★

▲江戸時代の浮世絵師・鳥居 清長 。


▲『美南見十二候 六月 座敷の遊興』 天明4年(1784年頃)


▲濱屋 川岸の涼み 平木コレクション


▲女湯の図


63年?の生涯

浅野 和三郎
Wasaburo Asano   【日本心霊学の泰斗】

(1874.?〜 1937.?)
死因?---?座

  • 海軍機関学校(現防衛大学校)教授だったが、心霊体験をきっかけに大本に入信。教団内では有力な信者であり、論客として活躍するも、大正10年(1922年)の第一次大本事件による大弾圧の後、教団を離れ、大正12年(1923年)、「心霊科学研究会」を創設。さらに、より実践的な機関として1930年1月「東京心霊科学協会」を設立した。伴に大本を離れた人物として生長の家創始者谷口雅春が居る。
  • 「心霊科学研究会」顧問及び「東京心霊科学協会」の理事であった浅野和三郎の次兄浅野正恭(1867年 - 1954年)は元海軍中将であり、『日本精神の淵源―古事記生命の原理』の著作もある。
  • 浅野和三郎の死後も「心霊科学研究会」及び「東京心霊科学協会」は活動を続けたが第二次世界大戦で活動を休止。現在は財団法人「日本心霊科学協会」、「日本スピリチュアリスト協会」として活動を行っている。
  • 霊的な気づきを求める研究では、日本に於いて先駆者であった 彼の著作の多くは絶版になったまま、それらはまるで忘れ去られた古典であるかの如くであった。ところが、平成17年6月20日に彼の心霊学研究の精髄である著作のひとつが、再刊の日の目を見た。『永遠の大道』(原題“The Road to Immortality”)である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    浅野和三郎-Wikipedia

(2009.01.08更新)




▲日本心霊主義運動の父・浅野 和三郎 。


63年?の生涯

片岡 敏郎
Toshiro Kataoka 【日本初のヌードポスターの制作者】

(1882.?〜1945.?=明治15年〜昭和20年)
死因?---?座

  • 静岡圏志田郡小川村(現 焼津市)に出生。
  • 明治29年(1896)上京して東京開成中学校に入学。将来、海軍軍人を志望。
  • 明治32年(1899)海軍兵学校への入学ならず、海軍軍人や文筆家を目指すが挫折。故郷に戻り静岡中学卒業。
  • 明治35年(1902)上京して、泉鏡花の門をたたき門下生となる。 明治36年(1903)小説修業に勉めたが意に違い筆を折って鏡花門を去る。
  • 明治39年(1906)東京のシャム公使館に勤務。明治42年(1909)シャム公使館ピアナリソン氏に伴われシャム国に渡航。 大正元年(1912)シャム国より帰国。結婚。
  • 帰国後の1913年、日本電報通信社(現 株式会社電通)に入社。広告業界に足を踏み入れるきっかけは本人曰く「たまたま見た森永の広告がまるでダメで、これなら俺の方がよいものができる」と思ったからだという。翌年、その森永製菓に広告部長として招かれヒット広告を次々と打ち出す。 特に当時の横綱・太刀山の手形に「天下無双 森永ミルクキャラメル」と文字をあしらった広告は大評判となった。
  • 大正8年(1919)に鳥井信治郎に乞われて株式会社寿屋(現サントリー株式会社)に広告部長として移籍。ここでも「オラガビール」や日本初のヌードポスターと騒がれた「赤玉ポートワイン」、「スモカ歯磨」など多数の傑作広告を残している。
  • 大正14年(1925)缶入り潤製「歯磨スモカ」を寿屋で新発売。昭和7年(1932)寿屋を退職し、株式会社寿毛加社に取締役として入社。
  • 戦時下の昭和15年(1940)寿毛加社を退職し、三重県尾鷲の山中に小屋を結び一人自適の生活に入る。
    新聞上で自由に広告文案を創作できないとして当時としては珍しい廃業広告を出したことでも知られている。昭和20年(1945)北陸金沢市にて逝去。
  • なお、その仕事の一端は『片岡敏郎スモカ広告全集』(マドラ出版)で伺い知る事ができる。
  • “日本初のヌードポスター”と騒がれた赤玉ポートワインのポスターは彼の手によるもの。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    片岡敏郎広告集
    片岡敏郎-Wikipedia

(2007.07.09掲載)




▲戦前に活躍したコピーライター(当時の呼び名で「アドライター」) 片岡 敏郎。


◆片岡敏郎「赤玉ポートワイン」1922(モデル:松島恵美子、構成:井上木だ(?)、撮影:川口写真館)サントリー蔵。




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