玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

age 67


50音インデックス


■67歳の
 シンクロニシティ


■67歳-?←戻る
皇極天皇=斉明天皇
大伴家持
河和田の唯円
吉田兼好
ジョン・ネイピア
ヌルハチ(太祖)
香林院 りく
与謝蕪村
平田篤胤
オクターブ・ミルボー
山際勝三郎
セリーヌ
トリスタン・ツェラ
柳家三亀松(初代)
伊東三郎
竹内 好
三代目 玉川勝太郎
若林奮
アントニオ・ガデス
田原節子
松本弘子

■67歳-前半
イングリッド・バーグマン
春日八郎
安倍晋太郎
レオナルド・ダ・ビンチ
エヴァ・ガードナー
トーマス・ウィルソン
河野一郎
吉原治良
アダム・スミス
星野 勘太郎
クーデンホーフ光子
ジョージ・スチーブンソン
本田親徳
スペンサー・トレイシー
マーガレット・バーク=W
田中絹代
秋山邦晴
徳川家斉
池波正太郎
岡 八郎
石井四郎
ニーノ・ロータ
モンゴメリー
出崎 統
酒井 抱一
ウラジーミル・タトリン
ルドルフ・オットー

■67歳-後半-1→進む
ジョルジュ・ビゴー
レオポルト・モーツァルト
池田 彌三郎/弥三郎
安井曾太郎
相田みつを
フランキー堺
高峰 譲吉
ルイス・サリヴァン
三ツ矢歌子
武田百合子
岡 新
プリーモ・レーヴィ
新田 次郎
カール・フンボルト
ジョサイア・コンドル

■67歳-後半-2→進む
ポール・セザンヌ
浅田  肇
エドガー・ケイシー
太田 省吾
ジョージ・ワシントン
内藤 湖南
J. W. ウォーターハウス
ロニー・J・ディオ
A・カルロス・ジョビン
壺井 栄
青山 忠裕
エドワード・サイード
ブールデル
永島慎二
マリネッティ
浅川 マキ
西周
緒方竹虎
玉川良一


■67歳のエポック


WWW を検索
art-random.main.jp
  を検索


powerd by Google

 

 

67歳の語録

 

「無常(死)の来ることは、水火の攻めむるよりも速やかに、のがれ難きものを」
(徒然草)



                         
67年ジャストの生涯

イングリッド・バーグマン
Ingrid Bergman   【『カサブランカ』の主演女優】

(1915.08.29〜1982.08.29)
乳ガン---乙女座

  • ストックホルムに生まれ。ロイヤル・ドラマチック・シアタースクールで演技を学び、スウェーデンとドイツの映画界で活躍後、23歳でグレタ・ガルボの後輩として、ハリウッドに招かれる。
  • ラナ・ターナーに決まっていた、「ジキル博士とハイド氏」の娼婦役を、自ら掛け合い見事に獲得。ラナを令嬢役にまわし、妖艶な娼婦を見事に演じた。
  • そして、H.ボガートと共演した『カサブランカ』(28歳)、アン・シェリダンからヘディー・ラマーへ役が廻り、スケジュール調整のためごたついていたところで、掛け合い、これまた役を手に入れる。もしこの役をバーグマン以外の女優が演じていたら?---『カサブランカ』は大ヒット。
  • 更に、G.クーパーと共演した『誰が為に鐘は鳴る』(28歳)では、髪を切り、原作者のヘミングウェイの所へ行き、交渉。
  • 美貌と実力と、それに勝るとも劣らない行動力で、次々と大役を手に入れていった。その後、シャルル・ボワイエと共演した『ガス灯』(29歳)でアカデミー賞主演女優賞を受賞。
  • ヒッチコックの「汚名」では、相手役のケーリー・グラントと長い長いキスシーンを演じ話題に、しかし、「ジャンヌ・ダーク」の興行的失敗のあと、自信を失いかける。そんなとき、イタリアの映画監督、ロベルト・ロッセリーニの作品に感動を覚えた彼女は、「バーグマンというハリウッドの女優です。あなたの映画にぜひ使って下さい」と、手紙を書く。なんと夫ある身でありながら、R.ロッセリーニのもとに走り(35歳結婚、43歳離婚)『ストロンボリ』(34歳)などを作るが、不評に終わる。
  • 彼との間には三人の子供をもうける。(この二人の娘が、現在女優として活躍しているイザベラ・ロッセリーニ。「ブルーベルベット」などに出演。)。この事件は「世紀のスキャンダル」と騒がれ、彼女はアメリカに戻ることができなくなる。
  • 二人は程なく破局。その後イギリスで撮った『追想』(41歳)で二度目のアカデミー賞を獲得。やっと世論もおさまり、ハリウッドにカムバック。
  • ハリウッドに復帰した彼女は、『オリエント急行殺人事件』(59歳)、I.ベルイマン監督『秋のソナタ』(63歳)に出演し、国際派女優としてますます活躍。
  • 晩年はスウェーデンに戻り、「女優」としての幕がいよいよ降りるときがくる。墓碑銘には、「死ぬまで演技をした女優」と刻んで欲しいといったという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2009.07.23掲載)



▲H.ボガートと共演した『カサブランカ』で知られるスウェーデン出身の映画女優 イングリッド・バーグマン
(イラスト 大城さん)


▲H.ボガートと共演した『カサブランカ』

67年と13日の生涯

春日八郎
Hachiro Kasuga    【日本歌謡界の大巨人】

(1924.10.09〜1991.10.22)
肝硬変---天秤座

  • 歌手。福島県河沼郡会津坂下町出身。本名:渡部実。
    歌手を目指し、上京。浅草でクラシックの正統派藤山一郎のステージを見て歌手に憧れる。東洋音楽学校卒業後、新宿のムーラン・ルージュで活動するも、なかなかヒットに恵まれず苦しい時代をすごす。
  • 1949年にキングレコードに入社。歌手としてさらに磨きをかける。1952年に「赤いランプの終列車」が大ヒットし、活動の場が広がる。
  • 1954年「お富さん」(発売半年で50万枚、最終的には100万枚を超える大ヒット)、1955年「別れの一本杉」(60万枚の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹を有名にさせた作品でもある)は、春日を演歌歌手の第一人者にまで押し上げたほどの大ヒットとなった。1991年に肝硬変で死去。67歳。
  • ちなみに代表作の一つ「お富さん」は、1978年にエボニー・ウェッブによって「ディスコお富さん」としてカバーされてリバイバルヒットした。発売2週間で20万枚の売り上げ。
  • また、漫画こちら葛飾区亀有公園前派出所の両津勘吉は春日の大ファンである。会津坂下駅前には春日の銅像が立っている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    春日八郎-Wikipedia

(2009.10.14更新)



▲三橋美智也・村田英雄らとともに、長年歌謡界をリードし、声質・声量共に一流でその声は、今なお多くの人を魅了している春日八郎。
(イラスト 大城さん)

 

67年と16日の生涯

安倍 晋太郎
Shintaro Abe     【プリンスメロン】

(1924.04.29〜1991.05.15=大正13年〜 平成3年)
心不全---牡牛座

  • 安倍寛、静子夫妻の長男として東京市四谷区(現・東京都新宿区)に生まれる。本籍は山口県大津郡油谷町(現・山口県長門市油谷)。
  • 「晋太郎」の名は、明治維新の志士であった高杉晋作の一字を取って命名された。父の安倍寛は村長、山口県議を経て、昭和12年(1937年)の第20回衆議院議員総選挙で衆議院議員となった。同期には三木武夫、赤城宗徳がいる。反骨精神旺盛な気性から軍部に対しても一歩も引かず、悪名高い翼賛選挙でも非推薦を貫いて選挙戦に臨んだ。
  • 安倍が幼い頃に両親は離婚していたが、安倍にはその事実は伏せられて母は死んだと教えられていた。しかし、山口県立山口中学校(現山口県立山口高等学校)に進学した際に母親が生きていて東京で再婚していると聞かされる。安倍は二度に渡り上京し、母親の居所を探すが再会は叶わなかった。
  • 山口中学から旧制第六高等学校に入学。東京帝国大学法学部に入学。学徒動員で海軍に入隊する前夜、父親から母について家の事情で離婚したことと、再婚して子供をもうけた(この異父弟が、後に興銀最後の頭取となる西村正雄である)が、その後亡くなったことを聞かせられる。敗戦直後、父と祖父を相次いで亡くす。
  • 戦後、東大に復学。東大卒業後毎日新聞社に入社。入社試験では、面接の時、父親のように将来は政治家になると正直に自分の希望を吐露した。毎日新聞では社会部記者を経て、政治部に移った。
  • 岸信介の長女、洋子と結婚し、昭和31年(1956年)岸が石橋湛山内閣の外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し外相秘書官となった。病気のため、石橋が退陣し岸内閣が成立すると、安倍は首相秘書官となった。
  • 外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟の佐藤栄作も時期尚早と反対するが、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、昭和33年(1957年)第28回衆議院議員総選挙に郷里の山口1区(当時)から自民党公認も得て、出馬。二位当選する。この時の総選挙で竹下登、金丸信が当選し、後の「安竹同盟」に繋がる。
  • 昭和35年(1960年)第29回衆議院議員総選挙では落選し一敗地にまみれるが、昭和38年(1963年)第30回衆議院議員総選挙で復活を果たし、以後連続当選。
  • 自民党では、岸派、岸派の後継である福田赳夫派(清和会)に所属し、派閥領袖であった福田を支え、田中角栄派と「角福戦争」を争った。
  • 一方で田中派では竹下登が、福田派では、安倍が世代交代の旗手と位置づけられていった。昭和49年(1974年)三木武夫内閣で農林大臣として、初入閣。
  • 昭和57年(1982年)鈴木首相の退陣によって行われた自民党総裁予備選挙に出馬し、3位。中曽根康弘内閣では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。
  • 「外交の安倍」と言われ、岳父の岸の対米人脈を生かした。中曽根総裁の任期満了により、後継総裁候補として安倍、竹下、宮沢が出馬するが、中曽根の巧妙な戦略とニューリーダー自身のひ弱さにより、中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍が有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名。
  • 昭和62年(1987年)竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長となり、消費税導入などで国会対策の先頭に立つ。ポスト竹下の最有力候補と自他共に認める存在であったが、そんな安倍をリクルート事件と病魔が襲う。平成元年(1989年)5月総胆管結石のため手術。
  • 平成3年(1991年)5月15日入院先の東京都文京区の順天堂大学付属病院で心不全により死去。
  • 岸信介の女婿にあたり、第21代自由民主党総裁、第90代内閣総理大臣の安倍晋三は次男に当たる。
    安倍寛信(長男) 妻はウシオ電機会長牛尾治朗の長女・幸子
    安倍晋三(次男) 妻は森永製菓社長松崎昭雄の長女・昭恵 
    岸信夫(三男) 岸家へ養子。
  • 安倍氏の出自:源頼義、源義家率いる軍勢に厨川柵(岩手県盛岡市)で破れ、九州に配流された安倍宗任の末裔という。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    安倍晋太郎 - Wikipedia

(2009.09.21更新)



▲竹下登、宮沢喜一と共に「ニューリーダー」と呼ばれ、「三角大福」後の自由民主党を担う有力政治家の一人で通称「アベシン」、また、人柄が良く、脇が甘いことから「プリンスメロン」とも言われた安倍 晋太郎。
(イラスト 玉野安実嬢)


◆息子の安倍 晋三
生年月日 昭和29年9月21日

67年と17日の生涯

レオナルド・ダ・ビンチ
Leonardo da Vinci   【人類史上最大の天才】

(1452.04.15〜1519.05.02)
死因不明---牡羊座

  • イタリア盛期ルネサンスの巨匠、万能の天才。画家、彫刻家、建築家、要塞設計、軍事技術者、水力学・力学技術者。トスカナ地方のフィレンツェの西方ビンチ村生れ。
  • 絵画、彫刻、建築のほか、自然学、工学、音楽など多方面に才能を発揮し、ルネサンス的な「普遍人」の理想の体現者といわれる。ミラノ、フィレンツェ、ローマ、およびフランスで活躍。
  • 1466年フィレンツェに出て,ベロッキオの工房で絵画、彫刻を修業。 師の『コレオーニ将軍騎馬像』制作に助手として参画し、『受胎告知』(1473年ころ)、『ブノアの聖母』(1478年ころ)などを描く。
  • 1482年ミラノに赴きルドビコ・スフォルツァに仕え、1499年まで滞在。この間『フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像』の制作に着手。 ミラノのサン・フランチェスコ聖堂のための祭壇画『岩窟の聖母』(1483年―1486年)や,サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂に壁画『最後の晩餐』(43〜46歳)を描く。
  • 1500年〜1507年再びフィレンツェで活動し、チェーザレ・ボルジアに仕えて軍事や土木事業に携わる。
  • 『聖アンナと聖母子』(1512年ころ)、『モナ・リザ 』
    (1503年―1510年ころ)の制作に着手。その後、ミラノ、ローマで活動。1517年フランソア1世の招きでフランスのアンボアーズに行き、建築、運河工事に従事したが、2年後に同地で没す。
  • 自然学的研究は、数学、物理、天文、植物、解剖、地理、土木、機械(飛行機や戦車の考案)など多岐にわたる。ポンプ、武器、望遠鏡、月の光が太陽の光の反射であること、月が形を変えるのは地球の影のせいで月も地球と同様の土の表面を持っていることを指摘。これらに関する手稿(『ウィンザー手稿』『マドリード手稿』『アトランティコ手稿』など)の類が諸方に残る。その芸術・科学・自然観を全体として評価することが求められている。
  • 透視図法について述べた『絵画論』の冒頭には、「数学者でない者はこの本を読んではならない」と書いてある。
  • モナリザは高脂血症だったらしい(1)。
  • 「レオナルドがその偉容を誇る精神幾何学の拠点とした源泉は、プラトニズム(少年愛)、デ・レ・メタリカ(機械学)、アルベルティの絵画論だった」(2)。
  • 両性具有(アンドロギュヌス):モナリザの微笑みと男性モデル説。マルセル・デュシャンの「ヒゲのモナリザ」と「ヒゲを剃ったモナリザ」。
  • 「レオナルドは「万能の天才」だったのか。根拠は何か。同時代、同世代の画家と比べて作品は少なく、しかも未完成の状態が目立つ。フレスコ画も描いていない。水上歩行器や飛行機に象徴される膨大なスケッチとノートも、他人のアイデアが少なくない。レオナルドは何を求めていたのか。---神への信仰心を主題とする当時の社会で、ドラマ性にこだわる無神論者の画家レオナルドの姿」(3)。
  • ダビンチの「モナ・リザ」は右側が「はにかみ気味」で、左側は「じっと見つめた」表情をしている。レオナルドはなぜこの絵を書く必要があったのか。フロイトも指摘した、幼くして別れた母親へのあこがれが要因として浮かび上がる」(4)。
  • 「塩野七生さんの随筆の中で、レオナルド・ダ・ヴィンチの遺したこんな言葉に出会いました。〈充分に使った一日の後に快い眠りが訪れるのに似て、充分に使い切った人生の後には安らかな死が訪れる〉」(7)。
  • 「モナリザは約500年前の16世紀初頭に描かれたルネサンスの傑作で、フランスには、ダ・ビンチ自らが持ち込んだとされる。その名画の保存状態に「懸念すべき点が見つかった」という報道がなされた」(6)。
  • 「塩野七生さんの随筆の中で、レオナルド・ダ・ヴィンチの遺したこんな言葉に出会いました。〈充分に使った一日の後に快い眠りが訪れるのに似て、充分に使い切った人生の後には安らかな死が訪れる〉」(7)。
  • 「レオナルド・ダ・ヴィンチと秘密結社。「ダ・ヴィンチ・コード」で広く知られるようになった組合せだが、著者によると、実は〈西洋のオカルト思想史の中では、ダ・ヴィンチの名前は繰り返しでてくる一種の符丁〉で、〈ほとんど一つのブランド〉なのだという。---ルネサンス同時代を生きたミケランジェロのような使命感は薄く、ラファエロのように多作で華やかなキャリアもなかったダ・ヴィンチは、〈非政治的で寡黙で、地味〉な存在だった。しかし、だからこそ、他人の「語り」を誘発した。例えば生涯独身で、異国に客死したことも、「悲劇のヒーロー」のイメージに重ねられた。神秘主義や卑怯主義の影響を受け、一人の人間が「万能の天才」に祭り上げられていく過程を通し、静養思想史の一側面を浮き彫りにしていく」(8)。
  • 「〈モナリザ〉のモデルになった女性は当時、子どもを産んだばかりで頭の後ろで髪を束ねていることが27日、ルーブル美術館の委託調査で判明した。---ダ・ビンチはフィレンツェの富裕な商人の注文で、その妻の肖像を1503年から描いていたとされている」(9)。
  • 「イタリア中部キエーティ大の人類学研究所は2日までに、レオナルド・ダ・ビンチの左手人さし指の指紋を特定したと発表した。指紋には、唾液も付着していると見られ、前夜に食べた料理の内容が解明できるほか、ダ・ビンチの祖先について調べる手がかりともなるという。AP通信によると、同大の研究チームは、ダ・ビンチが残した52枚の書類などから約200点の指紋を写真撮影。それらを約3年にわたり分析・調査し、ダ・ビンチの指紋を割り出した。研究チームは、ダ・ビンチの指紋が「アラブ人の指紋の60%に見られる形状だ」と指摘し、ダ・ビンチの母親が中東系だった可能性があるとしている」(10)。
  • 「あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとでも聞かれる」
  • 「おまえが触れている川の水は、流れ去った最後の水と流れ来る最初の水で、そこに現在がある」
  • 「知識なくして実践に浮かれる者は、舵と羅針盤を持たずして船に乗りこむ操舵手の如く、行方は知れず」
  • 鏡文字の手記と異教徒説!!。ベルトラン・ジル著『ルネサンスの工学者たち』によるとダ・ヴィンチの本業は「工学者」だった。絵画は“おつとめ”だった?
  • 今日(2006.06.03)、「ダ・ヴィンチ・コード」を観てきました。原作は読んでないけど面白かったです。手前味噌ですが、「人生のセイムスケール」を読んでいると理解度が上がるみたいです。「人セム」にも隠されたコードがあるんじゃないかと勝手に妄想した2時間半でした。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)篠田達明『モナリザは高脂血症だっ』
    (2)松岡正剛『遊9』工作舎より抜粋。
    (3)読売新聞2004.03.14朝刊  片桐頼継著『レオナルド・ダ・ビンチという神話』の中野不二男の書評より抜粋。
    (4)読売新聞2004.03.17夕刊
    「テレビ情報BOX-ダビンチの人生」より  抜粋)
    (5)宮脇檀・井出建・松山巖共著『続・現代建築用語録』p325より(彰国社)
    (6)読売新聞2004.04.27夕刊 より抜粋。
    (7)投稿者:ユリウスさん 2006.02.06(Mon) 23:14[1035]
    (8)読売新聞2006.07.16朝刊 竹内節子著『レオナルド・ダ・ビンチ 伝説の虚実』の書評(泉)より抜粋。
    (9)読売新聞2006.09.28夕刊より抜粋。
    (10)読売新聞2006.12.02朝刊より抜粋。

(2009.10.13更新)



▲イタリア盛期ルネサンスの巨匠、万能の天才。画家、彫刻家、建築家、要塞設計、軍事技術者、水力学・力学技術者にして人類史上最大の天才レオナルド・ダ・ビンチ。
(イラスト 大城さん)


▲ダ・ビンチの自画像。
トリノ,王室図書館蔵。




▲『最後の晩餐』
最後の晩餐とはイエス・キリストが磔刑の前夜に12人の弟子とともにした晩餐を指し、「主の晩餐」とも呼ばれているもの。新約聖書の「マルコによる福音書」14:17-26 や「ルカによる福音書」22:14-23に記述されており、イエスは裏切者を指摘するとともに、パンとブドウ酒をとって自らの体であり血であると言う場面。つまり、「裏切りの予言」と「ミサの制定」。


▲ニコラ・プッサンによる最後の晩餐
キリストの時代、人々は寝ながら食事をした。レオナルドの絵はあやまりだったという。へー。---(5)。
◆この話を件の富澤牧師(032-キリスト参照)に自慢げに話したら「そんなの常識だ」と一喝された。



▲「モナリザ」
モナリザは約500年前の16世紀初頭に描かれたルネサンスの傑作で、フランスには、ダ・ビンチ自らが持ち込んだとされる。その名画の保存状態に「懸念すべき点が見つかった」という報道がなされた。---(6)。


映画館で買った「ダ・ヴィンチ・コード」関連グッズ。ボクはこうした子供じみたフェイクなオブジェが大好きだ

67年1ヶ月と1日の生涯

エヴァ・ガードナー
Ava Gardner     【ハリウッドの伝説的女優】

(1922.12.24〜1990.01.25)
肺ガン---山羊座

  • 女優。アメリカ、ノースキャロライナ州スミスフィールド生まれ。本名はAva Lavinia Gardner。7人兄弟の末っ子。
  • 17歳でNYに嫁いだ姉を頼って移住。姉の夫(写真家)が撮った写真がMGMの目に止まり、1941年に7年契約を交わし翌年映画デビュー。この年ミッキー・ルーニーと結婚し一躍話題になるが、映画のほうはサッパリで、1943年離婚。その後ハワード・ヒューズをその美貌でメロメロにした後、1945年アーティ・ショウと再婚。
  • 1946年には「殺人者」でようやく注目を受けたが実力が伴わず、その後も低迷し続け、1947年離婚。しかしここで転機が訪れる。それが1951年の「ショー・ボート」。後に“これ一作に賭けた”と本人がいう通り、ここでの彼女は他の出演者を圧倒する存在感を出して一気にスター・ダムにのし上がった。
    同年シナトラと結婚。以降、「モガンボ」でアカデミー主演賞にノミネートされ、1954年には「裸足の伯爵夫人」に主演。その年シナトラと離婚。
  • しかし、それ以後は年と共に人気も薄れ、スター・システムの衰退と同時にはじき出された恰好になってしまう。1990年、肺ガンのためこの世を去った。
  • 「「ハリウッド・スター神話」とはよく言うが、エヴァ・ガードナーほど伝説的な女優は珍しいだろう。「女優」とはエヴァのような人を言う。彼女はハリウッドのスターシステムの中に生き続けた。---エヴァは見た目からして「女優」らしい風格を備えている。背が高く、あごには割れ目もある。濃くのある顔ゆえに、すぐにスカウトされ、20歳でMGMと7年契約を結ぶ。7年というのが何だか微妙に商業臭いところである。デビュー作は何でもない端役。ところが当時売れっ子だったミッキー・ルーニーと結婚したことで、名前だけ有名になる。ところでエヴァの男性遍歴は実に興味深い。ルーニーの次は世界一の映画実業家ハワード・ヒューズと交際している。51年には世界一の歌手シナトラと結婚している。酒好きで、すぐにカッとなったという彼女の自伝が話題にならないはずがないだろう」(1)。
  • 彼女の写真を見るにつけ、第二次大戦中の米軍を想起する。兵舎や操縦席に貼ってあるピンナップ写真だ(米国の山本富士子といったところだろうか)。祖国の英霊にはすまないが、これでは勝てるはずがない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「エヴァ・ガードナー(今週のスター)

(2005.01.18掲載)



   
▲ハリウッドのスターシステムの中に生き続けた伝説的女優エヴァ・ガードナー。

67年1ヶ月と6日の生涯

トーマス・ウィルソン
Thomas Woodrow Wilson   【14カ条の平和原則】

(1856.12.28〜1924.02.03)
腎臓炎---山羊座

  • ヴァージニア州スタントンでジョゼフ・ウィルソンとジャネット・ウッドロウの長男として生まれる。祖父と父は敬虔なキリスト教牧師であり、特に父は合衆国長老教会の創設者の一人である。祖先は北アイルランドのストラベーンの出で、トーマス本人はジョージア州オーガスタで成長した。
  • 父はトーマスに牧師の後を継がせようとしたが、ウィリアム・グラッドストンに私淑して政治家を志した。
  • トーマスは自らを「神の子」と信じていたふしがあり、政治への道を召命と見なしたことで、後にジークムント・フロイトの精神分析対象となった 。
  • デイヴィッドソン大学に入学し、1年後にプリンストン大学へ編入し1879年に卒業した。ファイ・カッパ・サイのメンバーだった。後に、ヴァージニア大学で1年間法律を学んだ。1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号 (Ph.D.) を受ける。ウィルソンは研究実績に基づく博士号を得た唯一の大統領である。
  • 1885年にブリンマー大学で歴史学および政治学を教えた後、1888年にコネチカット州のウェスリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授になった。1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長だった。
  • 同時代の政治的問題に対する公的コメントにより全国的な評判を得、その立場の政治的重要性は増加した。1910年には民主党のニュージャージー州知事候補に指名されてこれを受諾、秋の選挙に勝利して学者出身知事となった。 1912年の大統領選で民主党は大統領候補にウィルソンを指名した。ウィルソンは大統領選で「ニュー・フリーダム」をスローガンに掲げた。共和党のウィリアム・タフトとセオドア・ルーズベルトはお互いに対立し、共和党は内部分裂した。結果ウィルソンは大統領選に勝利した。
  • ニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引きさげるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」や「ドル箱外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。
  • 第一次世界大戦に対してアメリカ合衆国を中立の立場に保ち、それは 1916年の再選に寄与した。しかしながらルシタニア号沈没事件による国民の反独感情や大戦間極東における日本の台頭を懸念する世論によって参戦への圧力は増大し、アメリカは1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告した。開戦にさいしウィルソンは国内統制を強化し愛国団体を通じて偏狭的なナショナリズムを煽り、労働運動や反戦運動などを弾圧した。
  • 第一次世界大戦末期の1918年1月8日に、ウィルソンは有名な「十四か条の平和原則」を発表した。その中で彼は国際平和機構の設立を提唱し、国際連盟として実現したが、アメリカ自身は議会の反対で加盟できなかった。第一次世界大戦後、和平会談に出席するため1918年12月4日ヴェルサイユへ出発した。彼は在職中にヨーロッパへ旅行した最初の大統領である。合衆国代表としてヴェルサイユ条約に調印した。4月11日に日本代表の牧野伸顕らが出した人種的差別撤廃提案に対し、イギリスとオーストラリアが反発。議長を務めたウィルソンも、移民政策が拘束されると言う反対論を無視できず、国内選挙の都合から反対に回り、「全会一致でない」と理由をつけて議長権限により否決に追い込んだ。
  • このことから、彼の唱える進歩的自由主義は白人のみを対象としていたという説もある。但し、ウィルソンがこの点について議会に妥協したのは、移民政策に絡み内政干渉を理由にアメリカの国際連盟不参加という事態を避けるためでもあった。しかし、後に議会の反対に遭い、結局不参加となってしまう。そのため、彼が人種差別撤廃の理念自体に反対していたかどうかには諸説ある。彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたともいえる。
  • 1919年10月2日、コロラド州で脳梗塞を発症、左半身不随、左側視野欠損、言語障害となった。しかし主治医と夫人のイーディスは大統領の執務不能という事態を秘匿し、以後長期にわたってイーディスがすべての国政を決裁した。一方副大統領のトーマス・マーシャルは、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加したほかは、大統領の職務権限の代行は一切しなかった。
  • こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。
  • ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期ごろになってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。
  • 1885年にジョージア州出身のエレン・ルイーズ・アクソンと結婚し、マーガレット、ジェシー、エレノアの三女をもうけた。エレンは徐々に健康を害し1914年腎臓炎で死去した。ウィルソンは、在任中に独身だったことのある3人の大統領のうちの一人となっている。
  • 1915年、58歳のウィルソンは、ボーリング家(ポカホンタスの子孫)出身であり未亡人となっていた43歳のイーディス・ボリング・ガルト(Edith Bolling Galt、1872年 - 1961年)を紹介され再婚した。イーディスは第一次世界大戦下でファーストレディの重責を務め、1919年にウィルソンが倒れると2年間にわたり非公式ながら夫に代わって国政をみた。
  • ジョンズ・ホプキンズ大学の学生寮ウィルソン・ハウスは彼にちなんで命名された。 プリンストン大学の公共政策大学院であるウッドロウ・ウィルソン・スクールも彼にちなんで命名されている。
  • ウィルソンの肖像は1928年から1946年まで10万ドル紙幣 ($100,000) に使用されていた。但しこの紙幣は、一般流通用ではなく連邦準備制度理事会や財務省の財務処理のためにのみ使用される金証券だった。また原子力潜水艦ウッドロウ・ウィルソン も彼にちなんで命名されたもの。
  • 現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァ市は、第一次世界大戦後短期間「ウィルソン市」(Wilsonovo mesto)と呼ばれた。これはウィルソン大統領がチェコスロバキアの建国を支援したことを記念したものであった。
  • ディスレクシアの為、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書くことができなかった。
  • 伝記にアーサー・リンク、草間秀三郎訳『ウッドロー・ウイルソン伝』(南窓社、1980年)がある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウッドロウ・ウィルソン-Wikipedia

(2010.03.17掲載)




▲第28代アメリカ合衆国大統領で、政治学者であり、アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を勤めた2人目の民主党大統領トーマス・ウッドロウ・ウィルソン。


▲イーディス・ウィルソン


▲ホワイトハウスのポートレイト

67年1ヶ月と8日の生涯

河野一郎
Ichirou Kouno   【政治家、河野洋平の父】

(1898.06.02〜1965.07.08)
腹部大動脈瘤の破裂---双子座

  • 参議院議長をつとめた河野謙三は弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は孫にあたる。
  • 神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家に生まれる。父治平(じへい)は、豊川村長、神奈川県会議長を歴任した。母はタミ。大正12年(1923年)早稲田大学を卒業。
  • 朝日新聞社に入社。昭和6年(1931年)犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となる。昭和7年(1932年)2月、衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選。
  • 当選後は、立憲政友会に所属した。鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。
  • 河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。昭和17年(1942年)の翼賛選挙では、非推薦で選挙戦を戦い当選。
  • 終戦後、昭和20年(1945年)11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、昭和21年(1946年)5月4日鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ組閣に取り掛かる。組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。更に6月20日には、河野自身も公職追放となった。
  • 昭和26年(1951年)8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党した。以後、反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走する。
  • 昭和27年(1952年)9月29日解散総選挙の目前に鳩山派に打撃をあたえるべく、石橋湛山と共に党を除名された。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消し。
  • 昭和28年(1953年)3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。吉田内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙を実現させた。
  • 11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も三木、河野ら8名の代議士(「8人の侍」と称された)は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。
  • 第1次鳩山内閣で農林大臣に就任。第2次、第3次鳩山内閣でも留任する。昭和31年(1956年)日ソ漁業交渉、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合う。
  • 10月に日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。鳩山引退後の自由民主党総裁公選では、岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸信介内閣成立後は主流派となる。
  • 昭和32年(1957年)の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第二次岸内閣では党総務会長に就任。しかし、昭和34年(1959年)6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決では、三木派とともに河野派は欠席した。
  • 岸退陣後の自由民主党総裁公選では、党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派の池田勇人に敗れる。
  • 一時、河野新党(いわゆる第二保守党)の結成を目論むが、大野らに翻意を促され断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、昭和36年(1961年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。
  • 昭和37年(1962年)7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックの担当相として辣腕を振るった。
  • 池田が病のため、退陣するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は佐藤栄作に落ち着いた。
  • 昭和40年(1965年)6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否。この直後、7月8日大動脈瘤破裂のため急死した。67歳。死の床で「死んでたまるか。」と言ったと伝えられるが、息子河野洋平が語った所では、家族を安心させるために「大丈夫だ。死にはしない。」という穏やかなものであったということで真実では無いが、党人政治家の最期の言葉として人口に膾炙している。
  • 法名禅岳院殿大光政道一義大居士。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    河野一郎 - Wikipedia

(2009.10.12更新)




国会議員であるが選挙区である神奈川県の県政を「河野王国」と呼ぶ向きもあった昭和時代の政治家、自由民主党の実力者・河野一郎。
(イラスト 大城さん)


▲昭和30年 平塚の海岸にて
左より 河野洋平、河野照子、河野多賀子、河野一郎。

67年1ヶ月と9日の生涯

吉原治良
Jiro Yoshihara   【禅的「円」の画家】

(1905.01.01〜1972.02.10)
死因?---山羊座

  • 画家。大阪府大阪市東区大川町生まれ。高校在学中に独学で油絵を始めた吉原は、1925年、関西学院高等商業学部入学の頃に芦屋へ転居。
  • 中学在学中から絵を描きはじめ、1928年に初個展を開くが、それらを見た藤田嗣治から、他人の影響がありすぎる点を指摘され、オリジナリティの重要性にめざめる。
  • 1934年、藤田嗣治らの指導をうけて第21回二科展に初入選。初出品した作品5点がすべて入選して注目される。
    初めは具象的な作品を制作していたが、モンドリアンなどの構成的抽象絵画に触発され純粋抽象に進む。
  • 1938年には二科会内の先鋭な画家たち(山口長男、斎藤義重ら)による九室会の結成に参加、1941年に二科会員となる。
  • 戦後は1948年に芦屋市美術協会の設立に尽力し代表に就任。
    新しい美術をめざした関西一円の若い世代の画家たちが、吉原の助言を求めて多数訪れるようになり、それを基として1954年に具体美術協会を結成、その代表者となる。
    このグループは1955年の第1回展を皮切りに数々のハプニングやイベント、さらにニューヨークやパリなどで「具体」展を開催し、海外でも幅広い注目を集める。リーダーとして同会の活動の展開に力を注ぐと同時に、画家としても自身の過去にとらわれない表現を積極的に探り、戦後日本の前衛美術を世界的水準に高めた運動の指導者として評価をうけている。
  • 1960年代後半の晩年は円のフォルムによる作品にとり組み、形態と色彩の単純化を押し進めて、微妙な変化と緊張が一体となった強靱なマチエールを創り出す。
  • 1967年日本国際美術展で最優秀賞、1971年にはインド・トリエンナーレ展でゴールド・メダルを受賞。
  • 「吉原治良は、戦後日本を代表し、国際的にも高い評価を受けている前衛美術集団「具体美術協会」のリーダーとして知られる画家です。シュールレアリスム、抽象表現主義などの時代を経て、晩年の吉原は悟りの境地を思わせる円を繰り返し描くようになりました。黒を塗り込み、白地を塗り残す手法で白い円を浮かび上がらせた本作品は、そうした連作の一つです。吉原は自身の「円」について、その形態への追求の深さを示すかのように、「一つの円も満足に描けない」と語りましたが、実際、それらの「円」には、一つとして同じものはないのです」(1)。
  • 「論理から徹底的に離れようとした吉原の考えは禅的なものに近いかもしれない」(2)。
  • オリジナリティの重要性にめざめて「人のやらんことをやれ」もいいのだけれど、円ばかり描いてたら飽きるだろうな。ボクはやだな。---でもバイボばっかりを作っているボクも同じか!。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    吉原治良・学芸員の作品解説
    (1)「白い円
    (2)芦屋市立美術館の山本敦夫学芸委員

(2004.12.20掲載)



▲シュールレアリスム、抽象表現主義などの時代を経て、晩年は悟りの境地を思わせる円を繰り返し描くようになった吉原治良。


◆白い円 1970年 吉原治良(1905/大阪-1972/兵庫)アクリル・画布 194.3×258.6cm

 

◆「人のやらんことをやれ」

67年1ヶ月と12日の生涯

アダム・スミス
Adam Smith   【古典派経済学の創始者】

(1723.06.05〜1790.07.17)
死因?---双子座

  • 英国の社会科学者。デビッド・リカードとともに古典派経済学を築いたことで知られる。道徳哲学と経済学の統一を図った思想家としても名高い。
  • 1751年―1763年グラスゴー大学教授、1787年同大学総長。
  • 主著《国富論》(1776年)は経済学最大の古典。その中で用いたキーワード「神の見えざる手」とは、利己的に行動する個人個人が市場で自由競争を行えば、需要と供給は自然と収束に向かい、経済的な均衡がもたらされるという働きを示したもの。その経済的自由主義は、19世紀の世界をリードする思想ともなった。
  • 経済行為は利己心を動機とするが、利己心は同感(利他心)という社会的原理を通しておのずから自然の秩序、公共の福祉をもたらすとして、資本主義経済の法則性を追究し、富の源泉を労働に求める労働価値説、労賃・利潤・地代の決定理論などを展開して経済学の基礎を築いた。
  • 利己心の自由な発動を唱える自由主義思想は、国家の経済干渉を排し、国防・司法・公共事業だけを国家の任務とする夜警国家論に導く。
  • 別著《道徳情操論》(1759年)は、同感の得られぬ行為は道徳的でないとする道徳の基準を論じ,経済学で論じた利己心の根底を貫く思想を示す。法律,芸術,天文学などの領域も研究した。
  • “見えざる手”“社会的分業”などで知られるアダム・スミスは、グラスゴー大学で論理学や修辞学、それに倫理学などの今日の一般教養を教えていた。専門課程でも法律学で、そもそも経済学という分野は成立してなかった」(1)。
  • 「経済学は「いかに生きるべきか」を問う学問である。経済学を大成したアダム・スミスは経済学を道徳哲学(moral philosophy)と考えていた。この答えを求め、学問の森を逍遥してきたけれども、「青い鳥」は見つかりそうにない」(2)。
  • 「冷徹な”資本主義の祖”なのだろうか?---スミスは「同感」と呼ぶものの作用が社会全体を導く基本的な原理だと考え、生涯苦闘を続けた」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.03.06朝刊アダム・スミスの会監修『アダム・スミス修辞学・文学講義』の神崎繁による書評より抜粋・リライト。
    (2)読売新聞2005.11.16夕刊「仕事/私事」(神野直彦)より抜粋。
    (3)日経新聞2009.06.27朝刊『真説アダム・スミス』(ジェイムズ・バカン)の新聞広告より抜粋。

(2009.06.28更新)



▲“見えざる手”“社会的分業”などで知られる英国の社会科学者アダム・スミス。

 

◆「慈善は婦人の徳であり、寛大は男子の徳である」
(アダム・スミス)

67年1ヶ月と16日の生涯

星野 勘太郎
Kantaro Hoshino    【元プロレスラー、プロモーター】

(1943.10.09〜2010.11.25)
肺炎---天秤座

  • 本名は星野 建夫(ほしの たつお・韓国名:呂建夫(ヨ・コンブ)。
  • リングネームの勘太郎は、長谷川一夫主演の映画「伊那の勘太郎」から豊登に付けられたもの。「突貫小僧」の異名をもつ。大木金太郎(金一)に招かれて韓国で試合をしたことがある。
  • 高校時代はボクシングに打ち込み、卒業後にジムに入ろうとするが、リーチの長さが足りず断念。1961年10月に日本プロレス入門。同年12月22日、東京・リキ・スポーツ・パレスにおける駒厚秀戦でデビュー。
  • 1967年4月にアメリカで山本小鉄とタッグチーム「ヤマハ・ブラザーズ」を結成。小型でもパワフルであると評判だったヤマハのオートバイにあやかって名付けられたチーム名で力強いファイトを展開した。帰国後の1970年にはアントニオ猪木とのコンビで第1回NWAタッグ・リーグ戦に出場、決勝戦でニック・ボックウィンクル&ジョニー・クイン組を破って優勝している。なお、星野はニック&クイン組とのこの試合を生涯のベストバウトに挙げている。
  • 日本プロレス崩壊後は1974年1月より新日本プロレスに参戦し、山本とのタッグを復活させて活躍。1979年1月には国際プロレスのグレート草津、アニマル浜口組からIWA世界タッグ王座を奪取した。当時の新日本の看板タッグ王座は坂口征二・ストロング小林の北米タッグ王座で、新日本では中堅のヤマハが国際の看板タッグ王座を奪取したことで国際の評価は大きく傷付いたという。1980年4月4日には、ヤマハ・ブラザーズで山本の引退試合を行っている(対戦相手は国際プロレスの鶴見五郎・大位山勝三組)。
  • 山本が引退後も新日本プロレスで一番の喧嘩屋として「突貫小僧」の異名をとり、UWF軍団との抗争等など外敵退治に活躍する。特にUWFの総大将・前田日明に対しては若手時代から目をかけていたこともあり(前田も在日コリアンである)、敵対心は相当なものであり、試合終了後に単身前田の控え室に殴りこみに行ったこともあった。アントニオ猪木を心から敬愛し、神とあがめるほど。その精神は、乱闘などで猪木を止める際に、前からではなく後ろから抱き着いて止める姿に如実に表れている。
  • 韓国でも1960年代〜1970年代(確実ではないが1980年代にも試合したことがあるという)に大木金太郎(キム・イル)の誘いで試合をしたことがあり、韓国では在日コリアンということを売りにしていた。
  • その当時、韓国の試合スタイルは常にキャッチ・スタイル的な地味なスタイルだったので(セメントにこだわりを持ったキム・イルのポリシーからであったという)ダイナミックで瞬発力の強い勘太郎のスタイルは大変人気があって、韓国ではプロレスを代表するアイコンとして記憶されている。「バッチギのキム・イル(大木)」、「ヨ・コンブ(星野)のヘッド・ロック・パンチ」で知られている。
  • 1995年2月19日に、両国国技館で木戸修戦を最後に現役を引退。その際、挨拶をしたアントニオ猪木が星野への慰労の言葉もそこそこに、延々と北朝鮮への熱い思いを語ってしまったが、神妙に拝聴する星野の姿はファンの心を打った。
    その後は本職では地元の神戸でプロモーターを務める傍ら、2002年8月から「魔界倶楽部」の総裁として現場復帰。リング外での乱闘でボクシング仕込みの自慢のパンチを繰り出していた。決めゼリフの「ビッシビシ行くからな!」は大流行し、プロレス流行語大賞を受賞した。また、この時期の東京ドーム大会における新日本OBバトルロイヤルでは他団体に転出した現役選手も出場した中で見事ヤマハ・ブラザーズで最後の二人に残り、「ヤマハは二人で一つ、二人で優勝」という名台詞で締める場面もあった。
  • 魔界倶楽部活動停止以後は、一線から離れていたが、2005年にビッグマウス・ラウドが旗揚げされてからは、再び総裁としてリング外乱闘に復帰した。また新日本プロレスが、過去のギミック・キャラクターを再利用している興行「WRESTLE LAND」を開始し、それに伴い魔界倶楽部も復活した。なお星野に対し造反するプロレスラー達を「ごきぶりホイホイ」ならぬ「星野ホイホイ」という物を使って、追放したことがある。
  • 魔界倶楽部総裁としては常に黒い上下のスーツを身に纏い、悪の総帥を装うが、リングに登場し現役時代から得意であったコーナーポストからのダイビング・ボディ・プレスを見舞おうとする時に(その際スーツを脱ぐのも恒例)よく足を滑らせコケたり、登ったのはいいが、やはり足をすべらせて転倒することが多く場内の失笑を誘った(シューズでなく革靴を履いているため、足元が滑りやすい)。また、横浜ベイスターズの三浦大輔を魔界18号に任命したり、愛媛県宇和島市で祖父の代から漁師および真珠養殖業の他、愛媛県・高知県で開催されるプロレスの大半のプロモーターを親子3代やっている女性漁師を魔界19号と公認している。一般人で公認を受けた魔界倶楽部のメンバーは、彼女が唯一人。18号の意味は三浦の背番号から。19号の意味は彼女が大学卒業後、愛媛県庁職員の水産技師として水産課に入庁したものの(宇和島から松山まで通うのが面倒と言う理由で)わずか19日で辞めたから付いた名称である。またズワイガニ養殖の研究をしている魔界19号を、大韓民国海洋水産庁や、地元の兵庫県農林水産技術総合センター 水産技術センターに紹介したのも星野である。星野は魔界19号の実家とは、星野が新人の頃からの付き合いがあったため。
  • また、魔界倶楽部総裁としては、場外乱闘や試合への乱入も辞さない悪の総裁としてのイメージがあるが、元来は反則攻撃の類を嫌っており、2008年9月21日の武藤敬司対真壁刀義のIWGP選手権では当初は新日本所属の真壁の肩を持つ発言をしていたが、試合ではG・B・Hのあまりのラフファイトぶりに怒り、G・B・Hを鉄拳パンチで制裁した。この事件からG・B・Hの外道との抗争に火が付き、内藤哲也・裕次郎対邪道・外道のIWGPジュニアタッグ王座戦では内藤、裕次郎に味方し、反則攻撃を繰り返す外道を制裁した。一連の外道との抗争に決着をつけるべく、2008年12月22日には「ストリート・ファイト エニウェアフォールマッチ」での外道とのシングルマッチが行われ、ピンフォール勝ちを収めた。
    2009年2月4日、都内で倒れ病院に搬送され、脳梗塞と診断された。病後は言語障害が残り、病院でリハビリテーションに励んでいたが[1]、2010年11月25日に入院先の病院にて肺炎のために死去したことが11月27日に新日本プロレス関連会社の新日企画のホームページにて公表され、その後に新日本プロレス公式サイトにて正式な死去告知が行われた。67歳没。
  • 名言「ビッシビシ行く(ぞ、からな等バリエーションは複数あり)!」は、新日本プロレスでコーチをやっていた時の言葉。もともと「ビッシビシ、バッシバシ行く…!」と言っていたのが、魔界倶楽部の活動を始めた際に「ビッシビシ、ビッシビシ行く…!」と言い間違えてそのまま定着。プロレス流行語大賞を受賞している。後にゆずがライブでこの言葉を連呼していたことから、「魔界倶楽部名誉21号&22号」に認定されている。
  • 得意技 :各種パンチ-ボクシングの経験を生かしたパンチ。正面から打つのはもちろんのこと、ヘッドロックの体勢からレフェリーの死角をついてマシンガンのようにパンチを繰り出すなどバリエーションも豊富だった。なお、パンチはプロレスのルールでは反則である(ただし反則は5カウント以内まで許されているので即座に反則負けを取られることは殆ど無い)。/フライング・ヘッドバット-フライング・クロスチョップのようなフォームの相手の胴目がけてのヘッドバット。
  • 入場テーマ曲 :「フライング・ボディ・プレス」「URBAN SUNRISE」(上田力&パワーステーション) - 剛竜馬もレギュラー出演したテレビドラマ「警視庁殺人課」のオープニング曲
  • 「新日本プロレスで活躍した元プロレスラーの星野勘太郎さん(本名・星野建夫)が25日、肺炎のため都内の病院で死去していた。67歳だった。09年2月に脳梗塞(こうそく)で倒れて入院生活を送っていたが、肺炎を併発して息を引き取った。星野さんは61年12月にデビュー。小柄ながら荒々しいファイトで「突貫小僧」の異名を取った。引退後の02年にはヒール軍団「魔界倶楽部」総裁として現場復帰した。葬儀・告別式は27日に本人の意向で親族のみで営まれた。新日本はファン、関係者のためお別れの場を準備するという」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    星野勘太郎 - Wikipedia
    (1)「元プロレスラー星野勘太郎さん逝く

(2010.12.06更新)



▲兵庫県神戸市出身の在日コリアン・プロレスラーの星野 勘太郎。

 

 

67年1ヶ月と25日の生涯

クーデンホーフ光子=青山ミツ
Mitsuko Coudenhove     【黒髪の貴婦人】

(1874.07.2〜1941.08.27)
脳卒中を14年間患った結果の病死---蟹座

  • クーデンホーフ光子こと青山ミツは東京府牛込で骨董品屋を営む青山喜八と妻ツネの三女として生まれた。
  • 1892年(18歳)当時のオーストリア・ハンガリー帝国の駐日代理大使として東京に赴任してきたハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーに見初められ、結婚することになった。ハインリヒが騎馬で移動中、落馬したのをミツが手当てしたのがなれ初めだといわれる。
  • 1893年には、周囲が反対する中、光子はハインリヒと結婚すると、ハンス光太郎、リヒャルト栄次郎の二人の子を東京でもうける。
  • 1896年には日本には光子は、夫の祖国であるオーストリア・ハンガリー帝国へとわたる。その際には、明治天皇の皇后である美子から「異国にいても日本人の誇りを忘れないでください」と激励された。
  • クーデンホーフ家はボヘミアとハンガリーに跨る広大な領地をもつ伯爵家であり、クーデンホーフ一族は東洋の島国からきた光子を奇異の目で見た。ハインリヒは「光子をヨーロッパ人と同等の扱いをしない者とは決闘をする」と言い、光子の庇護に努めた。その後、三男ゲオルフほか4人、合わせて7人の子に恵まれる。
  • 1905年には日露戦争が起こり日本への国際的地位が高まり、光子への偏見も和らぐが翌1906年5月14日(32歳)にはハインリヒが急死してしまう。光子はクーデンホーフ家の当主に。
    ハインリヒの遺産は全て光子が相続するように遺言がなされていたが、一族が日本人に先祖伝来の財産を奪われてなるものかと訴訟を起こす。しかし、光子はひるむことなく受けて立ち勝訴。
  • 1908年(34歳)、ウィーンへ移住し、「黒い瞳の伯爵夫人」として社交界へも復帰。夫の遺産を相続し伯爵夫人として、家政を取り仕切る。
  • 1914年に始まる第1次世界大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国と日本は敵国として戦うことになり、光子への差別は強まった。 またハンスとゲオルフの二人の息子が兵士として従軍したり(リヒャルトは肺の病気で徴兵を免れた)、光子自身も赤十字社を通しての食糧供出に奔走するなど多難な時期を送る。
  • 1918年、第一時大戦終了。オーストリア帝国崩壊。戦争が終わると、次男リヒャルトが女優イダ・ローランと結婚すると言い出し、光子と対立。リヒャルトは家を飛び出してしまう。そして「汎ヨーロッパ主義」を著し、一躍ヨーロッパ論壇の寵児となる。長男ハンスも平民の女性リリと結婚。ピクシーという女児をもうける。
  • 光子はこの頃から、身体をこわし、ウィーン郊外で静養の日々をすごすようになる。
  • 1941年8月27日、第2次世界大戦の火の手がヨーロッパを覆う中、光子は娘に見守られながらウィーン郊外の自宅で死亡。脳卒中を14年間患った結果の病死だった。ついに日本に帰ることはなかった。
  • クーデンホーフ・カレルギー伯爵の依頼で、公使館で働き始め、書類上では、その2週間後に結婚したといわれる。
  • 「日本人女性ではじめての国際結婚をしたクーデンホフ光子こと青山ミツさんをお願いします」(1)。
  • 「リヒャルトの手記に以下のような一節があるそうです。尋常小学校しか出ていなかった彼女がヨーロッパの貴族社会に入り日本人女性として恥ずかしくないようにと頑張った努力に頭が下がります。その努力があったこそ夫に死別したのちも当主としてやっていけたのでしょうし、社交界の花といわれ、香水ミツコのモデルとまでいわれたのではないでしょうか。
    〈母は一家の主婦としてよりも、むしろ女学生の生活を送っていて、算術、読み方、書き方、ドイツ語、英語、フランス語、歴史、および地理を学んでいた。その外に、母はヨーロッパ風に座し、食事をとり、洋服を着て、ヨーロッパ風に立ち居振る舞いすることを学ばなければならなかった〉」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    クーデンホーフ光子
    (1)投稿者:けいさん:..2007/ 5/17 08:54:30(木) [1632]
    (2)投稿者:けいさん:..2007/ 5/21 08:50:59(月) [1657]

(2007.05.21更新)



▲オーストリア・ハンガリー帝国の貴族、ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーの妻でリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの母クーデンホーフ光子=青山ミツ。

 

67年2ヶ月と3日の生涯

ジョージ・スチーブンソン
George Stephenson   【交通革命の立役者】

(1781.06.09〜1848.08.12)
死因?---双子座

  • ニューキャッスルの近郊に、炭坑の機関夫の子として生まれた。父の助手をしながら技術を学んだ。ジェームズ・ワットの蒸気機関を改良し、1814年に初めて手がけた蒸気機関車「ブリュヘル号」の運転に成功した。その後、鉄道会社の技師長として、1825年、ストックトン〜ダーリントン間に開通した世界最初の公共鉄道用に「ロコモーション号」を製作する。
  • 1829年にはリバプール・アンド・マンチェスター鉄道に使用する機関車を選ぶコンテスト(レインヒル・トライアル)に、息子のロバート・スチーブンソンと共同で設計・製作した「ロケット号」で参加し、優勝した。同機はその後150年にわたって製造された蒸気機関車の基本設計をほぼ確立しており、その功績から今でも「蒸気機関車の父」として尊敬されている。1990年から2003年にかけて用いられた5UKポンド紙幣に肖像が登場した。
  • なお、日本においてはしばしば彼が蒸気機関車の「発明者」と記述されるが、同じイギリスのリチャード・トレビシックが1804年に製作・運行した蒸気機関車が世界で最初である。また、トレビシックからスチーブンソンの「ブリュヘル号」までの間にも複数の技術者の手によって蒸気機関車が製作されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョージ・スチーブンソン-Wikipedia

(2006.10.14掲載)



▲蒸気機関車の実用化に成功したイギリスの技術者ジョージ・スチーブンソン。

 

 

67年2ヶ月と5日の生涯

本田親徳
Chikaatsu Honda         【神道霊学中興の祖】

(1822.02.04〜1889.04.09=文政5年1月13日〜 明治22年4月9日)
死因?---水瓶座

  • その理論は出口王仁三郎が開いた大本などの神道系新宗教に影響を与えたとされる。
  • 薩摩国加世田(現鹿児島県加世田市)の武士・本田主蔵の長男として生まれる。 会沢正志斎に入門し、平田篤胤などの影響を受けながら国学を学ぶかたわら、20代前半の時期に「狐憑き」の少女と出合ったとことをきっかけとして神霊の研究を始める。その教義は30代半ばに体系化されたとされている。
  • その内容を大別すると、神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」帰神を実現するための精神統一の修行法である「鎮魂法」鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」からなっていた。
    また、神懸かりによるお告げであっても、それを鵜呑みにするのではなく、懸かった神霊の階級や種類やを判別する「審神」(さにわ)を重視した。
  • 1889年4月9日に67歳で没する。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    本田親徳-Wikipedia

(2010.12.18掲載)



▲古代に存在したとされる帰神(人に神を降ろす法)の復元を図り、鎮魂帰神を中核とする本田霊学を確立した明治時代の神道家・本田親徳。



 

 

67年2ヶ月と5日の生涯

スペンサー・トレイシー
Spencer Tracy         【愛称はスペンス】

(1900.04.05〜 1967.06.10)
心臓発作---牡羊座

  • 父は自動車工場の重役。俳優のパット・オブライエンとは幼馴染で、1917年にアメリカ海軍に入ったときも年齢を偽って一緒だった。その後は実際に戦場に行くことはなく、除隊後は医者をめざしてウィスコンシン州のリポン大学で学ぶも、大学の弁論部で熱弁をふるううちに演劇に興味を持ち、学生演劇に参加。
  • さらに卒業後はオブライエンと共同生活をしながらニューヨークのアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで学ぶ。セールスマンや掃除人で生活費を稼ぎながら、1923年にブロードウェイの舞台『R.U.R.』のロボット役で舞台デビュー、その後は舞台『A Royal Fandango』でエセル・バリモアと共演して一躍注目を集めたのを初め、主にブロードウェイで活躍した。
  • また、1923年には女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚し、息子(ディズニーでアニメ制作にかかわる)と娘を一人ずつもうけるが、親しい友人としてつきあいもしつつ晩年は別居していた。
  • 1929年、死刑囚に扮したブロードウェイのヒット作『The Last Mile』で評判をとる。この年にはニューヨークで製作された3本の短編映画に出演、映画俳優になるため各スタジオのスクリーンテストを受けるが、当時のハリウッドとしてはお世辞にも美男子とは言えなかったスペンサーはお呼びではなかった。しかし、『The Last Mile』に出演していたところを監督のジョン・フォードに見出され、同年に映画『河上の別荘』に主役として抜擢。同時にフォックス社と契約するが、やはりその顔立ちから悪役ばかりやらされ、順調な滑り出しとは言えなかった。
  • しかし、1933年の『春なき二万年』あたりから演技が認められるようになり、『力と栄光』ではたたき上げの鉄道王役も好評を得る。特にロレッタ・ヤングと共演した『青空天国』では彼女との仲が話題にもなった。その後の5年間で25本もの映画に出演し、1935年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約、 1936年のフリッツ・ラング監督による『激怒』や、1937年のアカデミー主演男優賞に初ノミネートされたパニック映画『桑港(サンフランシスコ)』などに出演。
  • そして1937年のポルトガル人漁師を演じた『我は海の子』と1938年の実在するフラナガン神父を演じた『少年の町』で2年続けてアカデミー主演男優賞を受賞。この2年連続受賞の快挙はこの57年後に『フィラデルフィア』と『フォレスト・ガンプ/一期一会』でトム・ハンクスが受賞するまで唯一の事だった。これを機に一躍人気スターとなり、マネー・メイキング・スターに仲間入りも果たす。
  • 1941年にはキャサリン・ヘプバーンとの絶妙なコンビネーションで話題を呼び『女性No.1』がヒット。キャサリンとはこの共演がきっかけで交際するようになり、二人はスペンサーの遺作となった『招かれざる客』まで9本の映画で共演するが、トレイシーはカトリックであり、最初の妻と離婚しなかったため(ルイーズが障害のある息子を育て上げたことに、トレーシーは生涯申し訳なさを感じていた)二人は結婚しなかった。
  • 1940年代は映画会社の上層部と何度かトラブルを起こし、あまり作品に恵まれなかったが、1950年の『花嫁の父』がヒット、アカデミー主演男優賞にもノミネートされ、また翌1951年に続編『可愛い配当』が製作された。
  • その後の主な作品に、1954年の異色ウェスタン『折れた槍』、翌1955年のカンヌ国際映画祭最優秀演技賞を受賞した『日本人の勲章』、1958年にはほとんど一人芝居で演じたアーネスト・ヘミングウェイ原作の『老人と海』と、全米批評家協会賞を受賞した『最後の歓呼』、1961年のナチ戦犯を裁く裁判長を演じた大作『ニュールンベルグ裁判』などが挙げられる。
  • 1963年の『おかしなおかしなおかしな世界』への出演以降、晩年は心臓を悪くし、ルイーズとキャサリンで交代に看病していたが、1967年に『招かれざる客』の撮影が終了した17日後に心臓発作で死去。スペンサーの死を看取ったのは晩年をパートナーとして過ごしたキャサリンだったが、「ルイーズに申し訳ない」との理由から葬儀へは出席しなかった。受賞を含めてノミネート回数は9回という輝かしい記録はいまだ誰にも破られてはいない。
  • 大変な自信家で、気も強かったことから映画会社の首脳部と衝突することもたびたびで、事実、フォックス社を退社した時もその気性の荒い性格から助演格に落とされたのにスペンサーが怒り、結局は出演拒否したのが原因で解雇されたからであった。またその一面を象徴するエピソードとして、キャサリンが『女性No.1』に撮影中にキャサリンが初めて会った際、「私ちょっと背が高すぎるわね、って言いましたら、心配するな、じきに僕に合うように小さくしてやるよ、と言うんですよ」とキャサリンはのちに語っている。またクラーク・ゲイブルもスペンサーに対し「あいつはいいやつだ。この世界で彼にかなう奴はいないよ。彼と競争しようという奴はバカだ。あいつはそのことを自分でも知っているんだ。だから彼の謙遜した口ぶりにだまされちゃいけないよ」と語っている。
  • 自信家の一方、演技者としての実力も誰もが認めるところで、その自然体の演技は内外を問わず多くの俳優に影響を与えた。親友のハンフリー・ボガートも「スペンスの演技は最高だった。彼がどう演じているのか、その仕掛けはまるで見えなかったからね」とコメントを残している。
  • スペンサーの死後、キャサリンは彼との思い出を次のように語っている。「スペンサーはいつでも、男が生活費を稼ぐための仕事としては、俳優というのはちょっと馬鹿げた仕事だって考えてたと思うわ。彼は古い樫の木のような人、あるいは夏の風のような人。いずれにしろ男が男だった時代の人だった」。また、お互いの関係について、「アメリカで理想の男性といえばスペンサーよ。私は意地悪いことを言ったり、彼をじらしたり、一杯食わせてみたり、女そのものを演じていたわ。でも、彼がホンキで怒ればすぐ降参。男と女のロマンチックで理想的な関係というのはこういうものなのよ」と語っていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    スペンサー・トレイシー- Wikipedia

(2010.09.28掲載)



▲アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の俳優スペンサー・トレイシー。




▲『アダム氏とマダム]』にてキャサリン・ヘプバーンと共に

 

 

67年2ヶ月と13日の生涯

マーガレット・ホワイト
Margaret Bourke=White   【女性報道写真家の草分け】

(1904.06.14〜1971.08.27)
パーキンソン病---双子座

  • マーガレットは独立記念日に印刷技師の娘としてニューヨークに生まれた。金持ちではなかったものの、コロンビア大学、コーネル大学など5つの大学を卒業する。
  • もともと機械いじりが好きだった彼女の人生を決定した写真との出会いはコロンビア大学。当時の写真のパイオニアであるクラレンス・H・ホワイトに写真を学ぶ。
  • 学生結婚に失敗したマーガレットはまだ女性の職業ではなかったプロの写真家になることを選ぶ。成功するための第一歩として彼女が被写体にしたものは工場。新しいアメリカの象徴は工場にあると考えてのこと。
  • 後に彼女は出版王のヘンリー・ルースに見いだされ、『タイム』や『フォーチュン』の表紙を飾るカメラマンになる。機械的な美に魅せられ、工場やダムを撮影し、建設中からクライスラービルに通い詰め、完成後はその61階に自分のスタジオまで持った。
  • 2度目の夫となったアースキン・コールドウェル(『タバコ・ロード』、『髪の小さな土地』で有名な南部出身の作家。2人は1939年に結婚し、5年後の離婚している)と共に南部の貧しい農民の取材に行ったことが、カメラマンからジャーナリストへの転機となった。そして、女性では初の第二次世界大戦の従軍カメラマンに異例の抜擢。
  • それまでの彼女の行動範囲は、工場だけにとどまらず、大恐慌の最中の南部の貧しい農民や、北極探検、馬でのコーカサス旅行など、当時の女性の常識を越える活動が繰り広げられていた。戦地に赴いた彼女はそこで傷ついた若い兵士や爆撃を受けた住民の悲惨な姿を撮影し続けたが、「ファインダー越しだったから正視できた。カメラがなければ一分たりともその場にいることは出来なかったろう」と後に自分の弱さも語っている。
    大戦後のマーガレットは、インド、パキスタン、朝鮮を回り、朝鮮戦争の際には日本にも立ち寄って「血のメーデー」を撮影。
  • 戦後で一番有名な写真はガンジーを撮影したもので、彼はその直後に暗殺された。
  • アメリカの発展を、世界の歴史を、カメラを通して20世紀の最前線を「見た」彼女は、48歳の若さでパーキンソン病に。そして1971年に67歳でこの世を去った。 
  • 作品としては、例えば、アメリカモンタナ州のフォート・ペック・ダム(Fort Peck Dam。このダムは、アメリカ・ニューディール政策の1つの事業として、ミズーリ川に建設されたダム。雑誌ライフ(LIFE)創刊号(1936年11月23日号)の表紙を飾った作品)ロック・フェラー・センターRCAビル内の写真壁画(1933年制作で、1953年まで存在した。電気・発電関係を中心とした機械や鉄塔などの写真を大きく引き伸ばして、ビル内の1室の壁を飾った)などが挙げられる。
  • 戦間期のプロの女性写真家として、最も活躍し、最も高い評価も得た1人である。とともに、いい意味でも悪い意味でも、ライフ誌(の編集方針)に合致したタイプ(演出家タイプ)の報道写真家だったといえる。
  • 「女流写真家として有名な彼女も映画の中で登場している。リチャード・アッテンボロー監督が撮った『ガンジー』で、ベン・キンングスレー扮するガンジーに会うシーンである。マーガレットの役はキャンディス・バーゲンが演じているが、名前くらいは聞いて知っていたマーガレットが、この映画の中では非常に印象に残ったことを覚えている。もちろん、出番は少ないし、見る前にそれを期待していたわけでもない。けれど、マーガレットと演じたキャンディス2人の持つ知性的な感じがうまくマッチしていたのだと思う。きっと、マーガレット自身もとても存在感のある女性だったのではないかと私は想像してしまう。会ってみたかった女性の一人だ」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    本文・(1)「マーガレット・バーク=ホワイト
    マーガレット・バーク=ホワイト-Wikipedia

(2006.10.14掲載)




▲20世紀の真実をファインダーを通して直視する人生に賭けた写真家 マーガレット・バーク=ホワイト。

67年2ヶ月と22日の生涯---2009年生誕100年

田中 絹代
Kinuyo Tanaka    【大正・昭和期の日本の女優】

(1909.12.29〜1977.03.21)
脳腫瘍---山羊座

  • 山口県下関市丸山町に生まれる。幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地の琵琶少女歌劇の舞台に立つ。
  • 兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビュー。まもなく、当時新進監督だった清水宏に『村の牧場』の主役に抜擢される。
  • 松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』が好評を博する。その後、当時の人気スター鈴木傳明とのコンビで売り出し、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進。
  • また、五所監督による日本初のトーキー映画、『マダムと女房』に主演し、トーキー時代になっても、スターとして迎えられる。特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。1940年には、溝口健二監督の『浪花女』に出演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自信を深める。
  • 終戦後も、溝口監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得、1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞。
  • 順調に見えた女優生活だったが、1950年、日米親善使節として滞在していたアメリカから帰国した際、派手な服装で投げキッスを行い、激しい世論の反発を受けてしまう。それ以降、スランプに陥り、松竹も退社。この時期、メディアからは「老醜」とまで酷評されて打撃を受けている。
  • 1952年に溝口監督が彼女のために暖めてきた企画である『西鶴一代女』に主演。この作品はヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞し、彼女も完全復活を果たす。
  • 翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。また、同年日本初の女性映画監督として『恋文』を撮る。しかし、このことが溝口監督との仲を疎遠なものにしたといわれる。
  • その後も、木下恵介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の王妃』の演出など、常に映画界をリードする活躍を続ける。
  • 1969年の『樅の木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の母親役など温和な老婆役で親しまれる。
  • 1974年に主演した熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は高く評価され、芸術選奨文部大臣賞、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞。
    1977年3月21日、脳腫瘍のため死去。
  • 市川崑監督、吉永小百合主演で『映画女優』というタイトルで映画化された。
  • 「女優の田中絹代さんが67歳で亡くなるとき、脳腫瘍のために両眼はほとんど失明していた。「目が見えなくても、やれる役がありますか」。遠縁にあたる映画監督の小林正樹氏に尋ねたと伝えられる。その名を聞き、年配のファンは映画「伊豆の踊子」や「愛染かつら」のヒロインを、少し若い人はテレビドラマ「前略おふくろ様」の母親役や朝のテレビ小説「雲のじゅうたん」のナレーションを思い浮かべただろう。日本映画の黄金期を生き、息をひきとるまで「女優」でありつづけた人の、今年は生誕100年にあたる。記念の上映会が10月6日から東京国立近代美術館フィルムセンター(東京・京橋)で始まる。無声映画から晩年にベルリン映画祭で女優賞を受けた「サンダカン八番娼館 望郷」まで約90本、その数にも映画史に刻まれた偉大な足跡がしのばれよう。鎌倉市の円覚寺にお墓がある。すぐそばにオウム事件の被害者、坂本弁護士一家が眠っている。一家の墓参をした折に手を合わせたことがある。石に故人の肖像が彫られてあった。わたしは永遠に女優――と、声の聞こえてきそうな像である」(1)。
  • あんな人はもう出ない! 田中絹代さんにこの言葉をお供えします。絹代さんがなくなられた時、木戸四郎(松竹会長)はこう言った。〈映画の鬼といった女優で、『楢山節考』では老人役を演じるために歯まで抜いた。あんな人はもう出ないでしょう〉」(2)。
  • ---以前、こんな話を耳にしました。〈映画「楢山節考」では、石で前歯を欠かなければならないほど丈夫でたくましい老婆おりんを坂本スミ子が好演していた。坂本はこの役のために、前歯を抜いたという〉大女優にリスペクトし先例を踏襲したのですね。
  • 「たまさん 世間にこの手の話は他にもあります。下世話なものでは、フェラの感触がよくなるように、あえて前歯を抜いた花魁とか芸者が昔はいたそうです。林檎をかじる快感をあきらめるなんて、芸道のためとはいえ、涙が出ますね。(これはすれすれイエローカードかな?)」(3)。
    ---芸の道は深いでしゃねぇ。他国でも例はあるのでしょうか? イエローカードどころか次世代に伝えるべきレガシーだと思いますですねん。
  • 「たまさん サジェッションをいただいたので、ギリシャ文化やインド文化(カーマスートラ)を遡って調べました。
    「歯を使ってはならない」という記述はありますが、いまのところ歯を抜いた事例は見つかていません。
    ひょとして、日本人の発案じゃないでしょうか?」(4)。

  • ---興味深い”お歯なし”ですね。ここは関西流に言うならば”突っ込みを入れる”ところでしょう。
    ユリアヌス(ユリウスさんの元々のハンドルネーム)民俗学の扉を開けてしまったようです。
    ボクの概念の師匠・稲垣タルホによれば、人間はAO(アナル-オーラル)円筒ですゆえ、オーラルを巡ってもっと語って管さいな。追調査をお願いします。忘れぬうちに”口術筆記”しときました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    田中絹代 - Wikipedia
    (1)読売新聞2009.09.30朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)投稿者:ユリウスさん..2009/10/ 6 23:40:01(火) [6309]
    (3)投稿者:ユリウスさん..2009/10/ 7 23:48:18(水) [6323]
    (4)投稿者:ユリウスさん..2009/10/ 8 12:33:52(木) [6332]

(2009.10.08更新)



▲黎明期の日本映画界を支えた大スター・田中 絹代。
(イラスト 大城さん)

◆田中絹代を演じた女優:
乙羽信子・秋吉久美子・高橋かおり(1984年・テレビドラマ『花も嵐も踏み越えて 女優田中絹代の生涯』)吉永小百合(1987年・映画『映画女優』)

67年2ヶ月と26日の生涯

秋山 邦晴
Kuniharu Akiyama   【エリック・サティの研究家】

(1929.05.22〜 1996.08.17)
死因?---双子座

  • 東京都生まれ。
    父の転任により、1935年から1937年までの幼年期を天津で過ごす。早稲田大学文学部フランス文学科に入学。
  • 1950年代、日比谷にあったGHQのCIE(民間情報教育局)でレコード・コンサートをシリーズで開き、アメリカやヨーロッパの現代音楽を紹介。また、音楽雑誌「レコード音楽」編集長などを務めた。
  • 1951年、作曲家の武満徹、鈴木博義、ピアニストの園田高弘、美術作家の山口勝弘、北代省三、福島秀子、駒井哲郎、写真家の大辻清司らと、芸術家グループ「実験工房」(詩人の瀧口修造氏の命名)を結成。実験工房の発表会では詩作品を発表。
  • 大学を中退後、音楽批評活動、コンサートの企画・構成にたずさわる。 1961年、久里洋二、真鍋博、横尾忠則らのアニメーション・フィルムや、松本俊夫監督の記録映画『石の詩』(1963)、『つぶれかかった右眼のために』(1968)の音楽を作曲。
  • 小林正樹監督の『怪談』(1964)では、音楽を担当した武満徹の音響補佐、羽田澄子監督『早春賦の賦』(1982)の音楽監督を担当した。
  • 1964年、ネオダダのグループ「フルクサス」のカーネギー・ホールにおけるコンサートでオーケストラの指揮を担当した。
  • 音楽研究家としては、エリック・サティの研究で知られ、『エリック・サティ・ピアノ全集』の監修・解説・訳詩を行なっている。また、日本の映画音楽の研究では先駆的な調査・資料収集を行なっている。
  • 多摩美術大学では、現代音楽、映画論を講じた。
  • 夫人はピアニストの高橋アキ。舞台俳優の山田宏平(山の手事情社)は甥。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    秋山邦晴-Wikipedia

(2007.05.24掲載)




▲音楽評論家、音楽プロデューサー、詩人、作曲家で多摩美術大学教授だった秋山 邦晴。


◆「エリック・サティ覚え書」吉田秀和賞受賞
サティの全貌 現代音楽の冒険  青土社


◆「昭和の作曲家たち」太平洋戦争と音楽 秋山邦晴著 林淑姫編 みすず書房。
最新の西欧技法をみにつけつつ自分たち日本の歌を書くこと。近代日本の作曲家たちに求められた命題は重い。そして大政翼賛の時代、彼らはどう生きたのか。現代史を音楽から見つめる意欲作。

67年3ヶ月と2日の生涯

徳川家斉
Ienari Tokugawa     【江戸幕府11代将軍】

(1773.11.18〜1841.02.20)
死因?---蠍座

  • 江戸幕府11代将軍(在職1787〜1837)。幼名、豊千代。諡号、文恭院諡号文恭院。三卿の一橋治済の子。
  • 1781年10代将軍家治の養子となり、1786年将軍職を継承。就任直後は後見の松平定信らに寛政改革を行わせたが、定信隠退、ゆるやかな文治政策のもとで、役人の賄賂の横行、治安の悪化など、社会問題が続出した。
  • 将軍引退後も、家斉は大御所として権勢をふるったが、彼自身、側室40人に子供を55人生ませるなど、政治の弛みは続いた。俗に大御所時代と称された(大御所政治)。
  • その治世の文化文政時代は側近による幕政の私物化により幕府財政の行詰りがいっそう深刻化した一方で、寛政以後停滞していた江戸文化は一気に爛熟化し、享楽的で退廃的な化政文化を生んだ。
  • 「徳川幕府の家譜によれば家斉がもうけた55人(記録上は最多か?)の子どものうち、10歳まで成長したのは半分以下の25人であったという。
  • 江戸の庶民は幸福な暮らしを、「負わず、借らずに子三人」と言い表した。借財がなく子どもが三人もいれば、ほかに望むものはない、と。(1)。
  • 嵯峨天皇は56歳の生涯で50人の子がいた。効率は家斉よりよい。そのうち32人が源氏に天下りしたという。精力絶倫は子供の数ではなく、養育環境に比例するのだろうが-----。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.06.11朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2004.06.12更新)




▲大御所政治と称された江戸幕府11代将軍・徳川家斉。

67年3ヶ月と8日の生涯

池波正太郎
Syoutarou Ikenami  【『鬼平犯科帳』で知られる小説家】

(1923.01.25〜1990.05.03)
急性白血病---水瓶座

  • 東京浅草生まれ。 戦前は株式仲買の会社に勤め、戦後は東京都職員となる。
  • 長谷川伸(作家・戯曲家)に弟子入りし、演劇の脚本・演出を担当。その後作家として活躍。真田家の歴史を題材に多くの小説を書いており、その中の『錯乱』は1960年上期直木賞を受賞。『真田太平記』はそれらの作品の集大成とも言える大長編小説。
  • その後昭和52年『鬼平犯科帳』などの作家活動により吉川英治文学賞を受賞。昭和63年時代小説により広く、読者の支持を得たことにより菊池寛賞を受賞。
  • 数々の人気シリーズを描くも1990年急性白血病により永眠。
  • 「池上正太郎の世界は病みつきになる。ふと手にして、その何ともいい語り口のとりこになってしまったファンも多いことだろう。苦労人だった。両親の離婚。東京下町の小学校を卒業してからの職の遍歴。小説を書き始めてからは直木賞を五回落選した。しかし、「鬼平」のように、人生の酸いも甘いもかみ分ける作家は、いいこともするし、悪いこともする人間をやさしく見つめた。食を愛し、絵筆をとり、映画に熱中し、人生を楽しんだ」(1)。
  • 「〈急ぎばたらき〉---念入りな準備もなく目星をつけると、盗めるだけ盗み、すばやく他国へ消え、行方をくらます卑劣な手口。当然、荒っぽい仕事になる。池波正太郎の「鬼平犯科帳」の世界の話だ」(2)。
  • 「悪人から鬼平と怖れられる主役の火付け盗賊改方長官・長谷川平蔵は、中村吉右衛門の実父八代目・松本幸四郎に当てて書かれたといわれ、当たり役にしていた。鬼平はその後、丹波哲郎、萬屋錦之助と続き、吉右衛門は四代目だ」(3)。
  • 「かつて編集者に〈調べたことの9割5分は捨てろ〉と言われたことがあった。池波さんは見事にそれを実践しておられる」(4)。
  • 池上正太郎の『仕掛け人藤枝梅安』は、少し休んでは再会を繰り返していた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.06.13朝刊「ポケットに一冊」(飼)より抜粋。
    (2)読売新聞2006.04.07夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (3)読売新聞2006.06.05朝刊「時台の証言者」より抜粋・リライト。
    (4)山本一力。


▲『鬼平犯科帳』といえば中村吉右衛門。

(2008.01.29更新)


★懐深い人間観/粋な登場人物

▲『鬼平犯科帳』で知られる小説家、劇作家・池波正太郎。

◆鬼平を愛してやまない10の理由。

01-人間味あふれるその内容。

02-現代にこびることなく、その時代を見事に描いている。

03-「忘れてはいけない大切なこと」を思い出させてくれる。

04-名優、中村歌衛門の代表作として。

05-セリフまわしが粋。

06-「人生の生き方教典」として。

07-池波正太郎のグルメ世界が楽しめる。

08-江戸の下町に、より興味を持てる。

09-一人一人深みを持った登場人物。

10-世代を越え読み次がれる原作の魅力。

---読売新聞2004.08.14の新聞広告より抜粋。

67年3ヶ月と10日生涯

岡 八郎
Hachiro Oka  【リアル・カリスマ芸人/奥目の八ちゃん】

(1938.04.16〜2005.07.26 AM5:20)
肺炎による呼吸器不全---牡羊座

  • 俳優。兵庫県尼崎市生まれ。本名市岡輝夫(いちおか・てるお)。高校卒業後、宝塚映画の研究生を経て吉本新喜劇(当時は吉本ヴァラエティ)の1期生となる。俳優修業をしていた21歳の時、花菱アチャコの推薦で吉本新喜劇に入団。
  • 一時期、浅草四郎と漫才コンビを組み人気を得るがコンビを解消、新喜劇に戻り1968年、30歳で座長に起用された。
    独特の風ぼうと「えげつなー」「くっさー」「スキがあったらかかってこんかい!」などのギャグなどと大阪の下町らしい人情味あふれるキャラクターで人気を出した。
  • 花紀京との最強コンビで一世を風靡した、奥目の八ちゃんことリアル・カリスマ芸人。(奥目でビールの栓を抜くという素晴らしいギャグもあり)花紀京さん、原哲男さんらと吉本新喜劇の黄金時代を支えた。
  • 退団後、テレビや映画、舞台で活躍したが、アルコール依存症や胃がんなどで闘病生活を送っていた。オール巨人、岡けんたゆうたは弟子。
  • 岡八郎のギャグは懐かしいがもう聞けないのは残念!。
  • 岡八郎さんの突然の訃報を受けたタレントの声。
    「仲間が徐々に欠けていくのがつらくて苦しい。まだまだ頑張ってほしかった。これ以上のコメントはできない」(桑原和男さん)
    「『えげつなー』『くっさー』のギャグがもう見られなくなるかと思うと、とても寂しい」(池乃めだかさん)
    「体調がまさかこんなに悪いとは」(間寛平さん)
    「岡さんの舞台を見たのが吉本に入るきっかけ。まだ若いし、本人も残念だと思う」(末成由美さん)
  • 「私生活では妻や長男の死、アルコール依存症、胃ガン、脳挫傷と苦難が続いた」(1)。
  • ボクは岡 八郎と聞くと、岡目八目を思い出してしまう。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    「霊長類ニューウェーブ科 | 元吉本新喜劇の奥目の八っちゃんこと岡八郎死去」
    (1)読売新聞2005.08.23夕刊「追悼妙」より抜粋。

(2005.08.25更新)




▲「奥目の八ちゃん」の愛称で親しまれたコメディアン、元吉本新喜劇座長・岡八郎。

67年3ヶ月と14日の生涯

石井四郎
Shiro Ishii      【731部隊のトップ】

(1892.06.25〜1959.10.09=明治25〜昭和34)
喉頭癌---蟹座

  • 千葉県出身。陸軍軍医 医学博士。妻は荒木寅三郎の娘。
  • 1921(大正10)年 京都帝國大學医學部首席卒。学生時代はボート部に所属。陸軍軍医となる。
  • 1924(大正13)年〜1926(大正15)年 京大で細菌学・衛生学・病理学を研究。この間に博士号を取得。
  • 1928(昭和3)年〜1930(昭和5)年 ヨーロッパに派遣される。軍医学校教官。
  • 1931(昭和6)年 細菌戦部隊創設を提唱。1932(昭和7)年 兵器本廠付。1933(昭和8)年 軍医学校部員。陸軍軍医学校に防疫研究室を創設・主宰。
  • 1933(昭和8)年 ハルピン近郊に加茂部隊を設置。1936(昭和11)年 関東軍防疫部長。1940(昭和15)年 関東軍防疫給水部長。第731部隊長
  • 「石井式濾水器」を発明し、これを用いて給水活動を行う。自ら隊員たちの前で自分の小便をこの濾過器で濾してきれいな水に変え、それを飲んでみせたと伝えられる。
  • 1942(昭和17)年 軍医学校付。1945(昭和20)年3月 軍医中将に昇進。 5月 第731部隊長に再度就任。 8月 ソ連軍の侵攻でハルピンを脱出 帰国。
  • 新宿区若松町で陸軍が使用していた建物を利用して旅館を経営。極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷に当たって戦犯容疑を受けるが訴追を免れる。
  • 1959(昭和34)年10月9日 喉頭癌のため死去。
  • 「石井四郎を長とする731部隊は、生物化学兵器を研究する機関で、中国市民、戦争捕虜を使った人体実験で、3000人の中国人と数百人のロシア人を殺した。また細菌をばらまく実地試験を行い、数千人の中国人を殺した。終戦時、証拠隠滅のため日本軍に爆破された施設からペストに感染した鼠が逃げ出し、2万人が死んだ。731部隊により遺棄された化学兵器は、今日も被害者を出し続けている。石井四郎を始めとする731部隊の高官は、情報提供と引き替えに米軍に特赦された。日本の愛国的歴史家たちは今日まで731部隊の行為を否定しており、多くの日本の教科書はそのことに触れていない。篠塚良雄を始めとする731部隊の元兵士の証言などにより、2002年に東京地裁は初めて731部隊の戦争犯罪を認める判決を下した」(1)。
  • 「『731 』青木 冨貴子 著 (新潮社) :細菌戦部隊731が遺した黒い系譜は、今も生きている。直筆のノートを発見、解読した著者が、これまで誰も書き得なかった石井四郎の戦後を甦らせる」(2)。
  • 「愛機のバターン号の扉から現れたマッカーサーは二歩タラップを降り、コーンパイプを二度ふかして、歴史に残る写真のためのポーズをとった。その後、一一気に段を降り厚木の大地を踏んでの第一声に次の言葉があったという。「ルーテナント・ジェネラル・イシイ(石井中将)はどこにいるか」(3)。
  • 「731部隊に関連した書籍をひとつ。「モモちゃんシリーズ」や「竜の子太郎」で有名な松谷みよ子さんの「屋根裏部屋の秘密」は、731部隊についての書物の中でも秀逸な作品です。『じじちゃまの屋根裏部屋』という一見ほのぼのとした世界から始まる謎解きは、思いも寄らない方向へ展開していきます。童話的な要素は残しつつも、関わった人々の苦悩を見つめ、そのうえで戦争責任を描いた作品です。一読の価値ありです」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜: 亜細亜
    (2)「本/Bestsellers/Bestsellers/歴史・地理」
    (3)読売新聞2005.09.18朝刊 青木冨貴子著『731』の吉田直哉の書評より抜粋。
    (4)投稿者:映さん 2005.10.24(Mon) 22:10[702]

(2006.11.13更新)




▲生物化学兵器を研究する機関で、中国市民、戦争捕虜を使った人体実験で、3000人の中国人と数百人のロシア人を殺した731部隊のトップ・石井四郎。

67年4ヶ月と7日の生涯

ニーノ・ロータ
Nino Rota   【イタリア最大の映画音楽作曲家】

(1911.12.03〜1979.04.10)
死因は凝血---射手座

  • 『ゴッドファーザー』のテーマソングで有名なイタリアの作曲家。北イタリアのミラノで生まれ。
  • 母エルネスティーナ は優れたピアニストであり、母方の祖父ジョヴァンニ・リナルディ はピアノ奏者かつ作曲家、おまけに祖母ジョコンダ・アンフォッシ もピアノ弾きだった相当な音楽一家に育つ。こういう環境に生まれ育ったニーノは、当然早くから母にピアノを習い、幼い頃から音楽的才能を発揮。最初に曲を書いたのは1919年、7歳の時と、かなり早熟。
  • 1923年、11歳の年には最初のオラトリオ「洗礼者ヨハネの幼年時代 」を書き、ミラノとパリで演奏され、彼の名は「天才児」としてイタリアとフランス中に響き渡る。同じ1923年、ロータはミラノ音楽院に入学し、間もなくローマに出たロータは、今度はサンタ・チェチーリア音楽院に入り、1929年、ロータは17歳で音楽院を修了。
  • 1930〜1932年、ロータは音楽院卒業後、奨学金を得てアメリカに留学。1937〜1940年代、新進作曲家としての多才な活動。映画音楽に本格的に取り組むようになったのは、1942年以降のこと。
  • 1950〜60年代、はオペラと映画音楽での成功し、1960年代後半以降は名声は高まるばかり。1974年、『ゴッドファーザー PART II』 の音楽を書き、文句なしのアカデミー作曲賞。
  • モリコーネと並ぶ、イタリア最大の映画音楽作曲家。フェリーニ作品と『ゴッドファーザー』シリーズで有名だが、150本以上の映画に音楽を付けている。
  • 音楽的基礎がしっかりしているだけでなく、泣かせるメロディも書けるので、大衆的人気も集めた。その流麗な旋律美とペーソスは比類がない。
  • 彼が自らサウンドトラックを振ることはなく、もっぱら友人のカルロ・サヴィーナ、フランコ・フェッラーラなど、映画音楽専門の音楽家に任せていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.08.17掲載)




▲モリコーネと並ぶ、イタリア最大の映画音楽作曲家。

 

◆「私の本職はクラシックの作曲家だ。映画音楽は楽しみで書いている。お金儲けにもなり、一石二鳥だ」
(ロータ)

67年4ヶ月と25日の生涯

モンゴメリー
Lucy Maud Montgomery  【『赤毛のアン』の生みの親】

(1874.11.30〜 1942.04.24)
死因?---射手座

  • カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトンで生まれ、2歳の時に母が死亡、父は再婚し、母方の祖父母に育てられる。
  • 1893年から1894年にプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジで一級教員の資格を取得、小学校教員や新聞記者などをし、1895年から1896年にかけてノヴァスコシアの州都ハリファックスのダルハウジー大学で文学を学んだ。1906年、長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと婚約、1908年処女作『赤毛のアン』(原題:グリーンゲイブルスのアン)を出版し、成功を収める。
  • その後、1909年の第2作『アンの青春』(原題:アヴォンリーのアン)など赤毛のアン・シリーズは10冊が刊行され、生涯に20冊の小説と短編集を書いた。特に『赤毛のアン』は何度も映画化され、40ヶ国語に翻訳されるほどの成功を収めた。モンゴメリは1935年にフランス芸術院会員となり、トロントに引越し、ま、大英帝国勲位も受けた。
  • ユーアン・マクドナルドとは1911年7月11日に結婚し、その後モンゴメリ36歳の時、オンタリオ州の田舎町リースクデールに移り住んだ。ユーアンは結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発、生涯快癒する事はなかった。
  • モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたが、晩年は家庭内外の問題で心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病んだという。この辺りの事情は、最近刊行を終えたモンゴメリ日記全五巻(The Selected Journals of LM Montgomery: Oxford Univ Press)に詳しい。
  • 『赤毛のアン』は日本でも中学の国語の教科書に収録され、1979年に世界名作劇場シリーズでテレビアニメ「赤毛のアン」として放映された。現在でも若い女性に人気があり、プリンス・エドワード島で結婚式を挙げるカップルまでいる。カナダからはまだノーベル文学賞作家が出ておらず、モンゴメリは児童文学とはいえ、世界的に最も著名なカナダ作家である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「ルーシー・モンゴメリー-Wikipedia」

(2006.11.13掲載)




▲『赤毛のアン』で有名なカナダの児童文学者ルーシー・モード・モンゴメリー。


◆ルーシー・M・モンゴメリーの墓(プリンスエドワード島)

67年4ヶ月と30日の生涯

出崎 統
Osamu Dezuka   【アニメ監督、演出家、脚本家】

(1943.11.18〜2011.04.17)
死因?--蠍座

  • 東京都品川区生まれ。別名義として「崎枕」「さきまくら」「斉九洋」「松戸完」「矢吹徹」「多井雲」「松戸館」など。『あんなぷる』所属。
  • アニメ監督、演出家の出崎哲は実兄。
  • テレビアニメの草創期より制作現場に入り、26歳で『あしたのジョー』(テレビ版)の監督格に抜擢。『エースをねらえ!』『はじめ人間ギャートルズ』『宝島』『ベルサイユのばら』など、1970年代の名作テレビアニメの数々が代表作にあげられるが、60歳を過ぎてからも現役監督として精力的に新作を世に送り出した。 監督/演出家としての全キャリアを通じ、新作発表のインターバルが1年以上開いたことは稀で、2本以上のテレビシリーズ監督(チーフディレクター)を掛け持ちした時期も存在する。
  • 手がけた作品は原作付きのものが多いが、独自の解釈による物語の咀嚼を行い、場合によっては原作と異なる展開になることもあった。基本的に脚本家が書き上げたシナリオを叩き台として、絵コンテ段階でストーリーを再構築する手法を行った。
  • 手がけた作品のほとんどで、大半の話数の絵コンテを自ら担当した。これについて本人は、作品における絵コンテの重要性を他の監督以上に考えているため、また作品は一人の人間の思想で貫かれるべきと考えているためと語っていた。正式にクレジットされた、ないしは担当したことが明らかな絵コンテの合計本数は500本超、うち9割強が、自身の監督作品における絵コンテである。ここには、シリーズを統一する総監督が不在のまま、言わば「各話監督制」で制作された『はじめ人間ギャートルズ』『元祖天才バカボン』での各話演出分も含む。なお、かつて「さすらいのコンテマン」「コンテ千本切りの富野」と異名を取った富野由悠季はこれを100本以上上回る本数をこなしているが、総本数の半分程度が他の監督の元での各話演出、あるいは純粋な絵コンテマンとしての制作であり、出崎とは傾向が大きく異なる。ちなみに富野は自著「∀の癒し」で「コンテは作品の表現の70%を支配する」「この数字についてはさきまくらと確認したことがある」と書いている。
  • 自身の監督作品の特に初期には他者の絵コンテ担当割合が比較的多いが、大部分は自身により徹底的な手直しを行った。対して、出崎が絵コンテマンとして制作した絵コンテが他者によって改変された事例もいくつか存在する。『ルパン三世』(テレビ第1作)第13話「タイムマシンに気をつけろ!」では、宮崎駿と高畑勲による改変を受けた。もっとも、同作の作画監督を務めた大塚康生によると、宮崎と高畑は基本的に「出崎の絵コンテのままでも面白いから放っておこう」とのスタンスだったらしく、絵コンテ自体はあまり変えずに作画段階でニュアンスを変更した部分が大きかったという。
  • 出崎が絵コンテを重視したもうひとつの理由として、漫画家志望だったことも挙げられる。本人は初めて絵コンテを担当した頃、自分の漫画に動き、声、音楽をつけられるという感覚を得られたことが楽しかったと語っている。つまり出崎にとってアニメーションフィルムとは漫画や映画の延長線上に存在するものであり、「全ての場合において絵が動く事がアニメーションの基礎である」という考え方とは一線を画す演出スタイルを取っている。
  • 出崎の絵コンテにおけるカット割りは、必ずしも動きの繋がりを重視しない。また、視覚的効果を上げるだけでなく、ときにキャラクターの心理までも表現する大胆な画面レイアウトも大きな特徴。多くの場合、「何が描いてあるかわからない」と言う者もいるほど筆致が粗い。安定したレイアウトを用いて、完成画面の構成や動きが容易に想像できる絵コンテを制作する宮崎駿とは、この点で対極にある。しかし小林七郎は絵コンテにおける出浮フイメージ伝達能力を絶賛しており、丸山正雄も、「若いスタッフが出浮ノ憧れて真似をして描くが、これは絵が巧くないと描けないんだ」とその画力を誉め讃えていた。『エースをねらえ!』(劇場版)では、絵コンテに描いたイメージを徹底するため、全カットにおいて、原画家によるレイアウトを元に作画・美術・撮影の主要スタッフを集めて打ち合わせを行うという、前代未聞の作業を敢行した。
  • 代表作には杉野昭夫がキャラクターデザインを務める作品が多いが、本人も1970年代なかばまでは演出とアニメーターを兼務していた。『悟空の大冒険』では作画監督を務めた回もある。その他、『どろろ』第11話、『千夜一夜物語』、『あしたのジョー』第14話などでも原画を描いた。杉野はアニメーターとしての出崎の実力を「相当描ける」と語っており、また虫プロが初めて手がけた、大阪万博へ出品された劇場用長編アニメ『千夜一夜物語』監督の山本暎一は、暗いイメージのシーンが巧かった旨の評価をしている。作画スタッフとしての参加が確認できる最後の作品は、1976年10月放送の『まんが世界昔ばなし』第2話「美女と野獣」(キャラクターデザイン)。 なお、『哀しみのベラドンナ』に原画でクレジットされているが、これは配給会社への納入期日に間に合わせるために急遽仕上げたダミー版のための作業であり、その後リテイクの名目で完成した本編には出崎が描いた絵は使用されていない。
  • 1959年、東京都立北園高等学校に入学。同学年には俳優の江守徹がいた。少年期よりの漫画好き、映画好きが高じ、在学中より貸本漫画家としてデビュー。しかし本人曰く「貸本業界がダメになって、原稿依頼が来なく」なり、一旦漫画から足を洗って1962年に同校を卒業すると東芝に就職した。
    翌1963年、新聞の募集広告がきっかけで、東芝を退社して、正月から放送開始した初の本格的テレビアニメ『鉄腕アトム』を制作していた旧虫プロダクションに入社。虫プロのアニメーター採用試験では、応募約500人中、採用3人という難関を突破している[11]。本人の談によると、当然試験には動画テストもあったが、以前描いた貸本漫画を虫プロスタッフの杉井ギサブローが読んでおり、「こいつなら採用しても大丈夫」と強く推したことが決め手だったという。以後、『鉄腕アトム』第30話前後から作画スタッフに参入。入社3ヵ月ほどで、すでに4人の新人スタッフを束ねるポジションを与えられるなどの大抜擢を受けた。
  • 1964年には杉井の設立した株式会社アート・フレッシュに、兄の出蕪Nらとともに参加。『鉄腕アトム』や『悟空の大冒険』の各話演出/作画監督をまかされるようになったほか、漫画の才を生かして『悟空の大冒険』の漫画版の連載を漫画雑誌「COM」にて務めたりもした。1968年にはフリーとなる。1969年には先述のように『千夜一夜物語』で原画を担当。同作の制作終盤には、逼迫する制作進行状況を助けるため構成助手としても関わった。その際にチームワークによる映画作りの面白さに目覚めたと本人は語っていた。
  • 1970年、『あしたのジョー』で初めて監督(チーフ・ディレクター)を務める。1972年、マッドハウスの設立に参加し、以後は東京ムービー系の仕事を中心に活躍。昭和40年代は自身の演出作だけでなく、『ルパン三世』(第1作)や『侍ジャイアンツ』等、絵コンテマンとして関わった作品も存在する。1980年10月、長年コンビを組む杉野昭夫とスタジオあんなぷるを設立。1980年代半ばには日米合作アニメの制作にも携わった。1997年には、杉野との共著「アニメーション制作技法 ―『4701白鯨』を創る―」(1994年、創芸社)を原作とする完全オリジナル作『白鯨伝説』をアニメ化した。2000年代には『AIR』や『CLANNAD』などの美少女ゲーム作品の映画版監督なども務めていた。
  • 2011年4月17日、肺癌のため東京都三鷹市の病院で死去。67歳没。喪主は出崎哲が務めた。
  • 「こんばんわ、たまさん、出崎さんをバイボにお迎えいただきまして、ありがとうございました。感謝感謝であります(涙。ではフォローをば、出崎さんは原作付のアニメに関わる事が多かった記憶がありますが、出てくる登場人物の男前度、女前度が原作よりも数段上になっていましたね。あしたのジョーではジョーと力石さんはもちろん、ライバルやマンモス西君もカッコいい。男の中の男を描かれるのは天下一品でありました。出崎作品によく野沢那智さんが出演されていまして…今は天国で煙草を燻らせながらお二人で積るお話をされておられるでしょうか…ご冥福をお祈りします」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出崎統-Wikipedia
    (1)投稿者:MIWAそーめん さん..2011/ 4/27 18:32:28(水) [9065]


(2011.04.28更新)



▲あの「あしたのジョー」と「スペースコブラ」のアニメ監督・出崎 統。

 

 

 

67年5ヶ月と3日の生涯

酒井 抱一
Houitsu Sakai      【江戸琳派の創始者】

(1761.08.01〜1829.01.04=宝暦11年7月1日〜 文政11年11月29日)
死因?---獅子座

  • 江戸時代後期の絵師。権大僧都。本名は忠因(ただなお)、字は暉真。鶯村、雨華庵とも号する。狂歌での名前は、尻焼猿人。姫路藩主・酒井忠以(ただざね)の弟。
  • 神田小川町の姫路藩別邸にて藩主世子酒井忠仰の次男に生まれた抱一は、17歳で元服して1,000石を与えられる。若い頃から俳諧や狂歌、浮世絵等に才能を発揮し、30歳の時句集「軽挙館句藻」を刊行する。
  • 37歳で西本願寺の法主文如に随って出家した後は尾形光琳に私淑する。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山四条派や土佐派などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
  • その一方で、光琳の事績の研究や顕彰に努め、彼の没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に百回忌記念の光琳展覧会を催した。その時の縮小版展覧図録である『光琳百図』上下は、当時の琳派を考える上での基本資料である。また、この図録は後にヨーロッパに渡り、ジャポニズムに影響を与えた。
  • 代表作の銀屏風「風雨草花図」(「夏秋草図屏風」の題名で広く知られる)は、一橋徳川家がかつて所持していたもので、俵屋宗達の名作に影響を受けた光琳の金屏風「風神雷神図」(重要文化財)の裏面に描かれたものである(現在は保存上の観点から「風神雷神図」とは別々に表装されている)。
  • 風神図の裏には風に翻弄される秋草を、雷神図の裏には驟雨に濡れる夏草を描き、「風神雷神図」と見事な照応を示している。
  • 門人に鈴木其一、池田孤邨らがいる。また、太田南畝・谷文晁・亀田鵬斎・市川団十郎とも親しく、向島百花園や八百善にも出入りしていた。
  • 墓所は築地本願寺(東京都指定旧跡)。
  • 「まことに残念では御座いますが、此方のサイトの場合も取り敢えずご紹介のみ、と言う事でお茶を濁したいと思います。こちら(1)。
  • ---ボクには確認できませんでしたが、「無断掲載を禁ず」の画像という意味ですか? とりあえずリンクを張りました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    酒井抱一-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 3/20 17:38:48(金) [4465]



(2009.03.21更新)



▲『光琳百図』上下は後にヨーロッパに渡り、ジャポニズムに影響を与えた酒井 抱一。

 

67年5ヶ月と3日の生涯

ウラジーミル・J・タトリン  
Wladimir Jewgrafowitsch Tatlin
           【ロシア・アヴァンギャルドの推進者】

(1885.12.28〜 1953.05.31)
死因?--山羊座

  • 1885年、ロシア帝国領下にあったウクライナのハリコフで、技師の家庭に生まれる。若い頃は水兵としてエジプト・シリアなど各地を航海した経歴も持つ。1909年、モスクワの絵画・彫刻・建築学校で学ぶ。1917年のロシア革命後は芸術学校で教鞭を執り、人民教育委員会モスクワ支部長に就任。
  • カジミール・マレーヴィチらとともに、1920年代ソビエト連邦のロシア・アヴァンギャルドおよびロシア構成主義の代表的な作家の一人にあげられるが、彼自身はその活動に加わりながらもマレーヴィチらと袂を分かち、最も構成主義を批判した作家でもある。
  • 代表的な作品に「第三インターナショナル記念塔」(1919年)、航空器械「レタトリン」(1932年)などがある。特に、パリのエッフェル塔に匹敵する高さの螺旋形の鉄塔を構想した「コミンテルン記念塔」(実現せず)や、壁の隅に張り渡した「カウンター・レリーフ」(コーナー・レリーフ)と呼ばれる彫刻(本人はこれを、伝統的な絵画に対して疑問を呈するために作った立体状の絵画と考えていた)は後世の建築家・芸術家に大きな影響を与えた。
  • 晩年は鳥の飛び方の研究を行い、飛行技術の発展に役立てようとしていた。彼はモスクワの墓地に葬られている。
  • 日本語の参考文献 :美術手帖 1974年9月号 特集 マレーヴィッチ 絵画の無化をめざして/美術出版社/美術手帖 1982年2月号 ロシア・アヴァンギャルドのデザイン感覚/美術出版社/夢見る権利 ロシア・アヴァンギャルド再考:桑野隆/東京大学出版局 1996/季刊ウインド 1992年18号 連続特集 ロシア・アバンギャルド・デザインU/商店建築社/ロシア・アヴァンギャルド建築:八束はじめ/INAX/ロシア・アヴァンギャルド 亀山郁夫 1996年/岩波新書
  • 「第三インターナショナル記念塔(Monyument to the Third International ) 1920, project設計者:Vladmir Tatlin : 第三インターナショナルのために計画された記念塔。エッフェル塔をしのぐ大きさであるが、もちろん実 現しなかった。会議場、行政執行部、情報通 信局などが、塔内部の空間に納められており、時間の経過とともに回転するという、動的な建築である。その後のロシア・アヴァンギャルド建築の流れを決定づ けた、文字通 り記念碑的な作品」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウラジーミル・タトリン- Wikipedia
    (1)「第三インターナショナル記念塔


    ▲「第三インターナショナル記念塔」模型
(2010.07.16掲載)



▲ロシア帝国出身の画家、彫刻家、建築家、デザイナー、舞台美術家であるウラジーミル・エヴグラフォーヴィチ・タトリン 。

 

 

 

 

67年5ヶ月と9日の生涯

ルドルフ・オットー 
Rudolf Otto       【「ヌミノーゼ」】

(1869.09.25〜1937.03.06)
死因?---天秤座

  • ドイツの哲学者、宗教哲学者。マールブルク大学の教授で退官。 イマヌエル・カントとド・フリースの研究から、崇高で聖なるものとは、という問題意識を持つようになり、宗教哲学の研究に移行した。代表作は、『聖なるもの』(1917年)、岩波文庫から邦訳がある。
  • 神聖で、それでいて道徳や習俗、認識とは別途のものを彼は、「ヌミノーゼ」という概念で呼ぶ。その他、彼には神秘学、罪、宗教哲学概説、といった分野の業績がある。インドの神話学にも通じていた。
  • 関連人物 :ミルチャ・エリアーデ(オットーの影響を受けた)
  • 著作 :『聖なるもの』山谷省吾訳 岩波文庫 (1968.12)/『聖なるもの-神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について』華園聰麿訳 創元社(2005.3) ISBN 4-422-13005-6/『西と東の神秘主義 エックハルトとシャンカラ』華園聡磨、日野紹運、J・ハイジック共訳 人文書院 (1993.3) ISBN 4-409-03037-X/『インドの神と人』立川武蔵、立川希代子訳 人文書院 (1988.12) ISBN 4-409-41039-3
  • 「1869〜1937 ドイツのプロテスタントの宗教哲学者。19世紀に始まる宗教学は、今日説明した「内面」を重視した宗教観によって形成されてきたと言っても過言ではない。そしてオットーが分析したのは、人間の内面が理性でははかりきれぬ「聖なるもの」に触れた時の体験である。聖なるものとは、「合理的な概念把握」が不可能であり、「畏れ」と同時に「魅惑」を抱かせるものである。「理性=言語」「非合理=言いえぬもの」という図式の中に近代合理主義への批判を見出すことはたやすい。しかしそれ以上に、こうした思潮が、このすぐ後に現れる大衆社会の熱狂的な状態(それはナチスム信仰によって最高度に達する)を予見しているのではないだろうか」(1)。
  • 「オットーによれば,宗教的感情とはヌミノーゼあるいはヌーメン的なるものの実在の体験を基礎としている。ヌミノーゼとは「聖なるもの」の本来の非合理的側面をさす言葉であり,それ自体は「全き他者」であり,「かくれたもの」であるが,それが人間の心に引き起こす感情の状態によって,その特徴がわかるものである。ヌミノーゼは一方で人間を畏怖せしめ,他方で人を魅惑してやまない神秘でもある。神仏意識と交渉したり,交信するシャーマン型霊能者のようなケースはもちろんだが,いわゆる<ふつうの人>でもヌミノーゼは起こることがある。これは、とても原始的な感覚だと私は思う。畏きものを目の当たりにしたときに,身震いしたり,ジーンと感情がこみ上げてきたり,とても深い安らぎを覚えたり,他方で圧倒されたりといった感情体験がそれである。私の場合は伏見稲荷大社や稲荷山に参拝するときに,このヌミノーゼ経験をしている」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ルドルフ・オットー-Wikipedia
    (1)『聖なるもの』(岩波文庫)」
    (2)「超越的体験の心理(聖と俗) このページでは,超越的体験の心理 ...

(2009.03.21更新)



▲キリスト教の教義に依拠せず、哲学の立場から宗教にどうアプローチするかということになると、オットーにたどり着くといわれるルドルフ・オットー。

 




60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

スケールバー

スケールバー

 


人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
トップページbbsprofilelink


Copyright(c) 2003 Kazumasa Tamagawa, All rights reserved.

当サイトは Internet Expolorer4.0 以上、Netscape Navigator6.0以上、Javascript ON でご覧ください。