玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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60-61-62-63-64-65-66-67-68-69

age 67


50音インデックス


■67歳の
 シンクロニシティ


■67歳-?
皇極天皇=斉明天皇
大伴家持
河和田の唯円
吉田兼好
ジョン・ネイピア
ヌルハチ(太祖)
香林院 りく
与謝蕪村
平田篤胤
オクターブ・ミルボー
山際勝三郎
セリーヌ
トリスタン・ツェラ
柳家三亀松(初代)
竹内 好
三代目 玉川勝太郎
若林奮
アントニオ・ガデス
田原節子
松本弘子

■67歳-前半-1→進む
イングリッド・バーグマン
春日八郎
安倍 晋太郎
レオナルド・ダ・ビンチ
フンパーディンク
エヴァ・ガードナー
トーマス・ウィルソン
河野一郎
吉原治良
アダム・スミス
星野 勘太郎
クーデンホーフ光子
ジョージ・スチーブンソン
本田親徳
スペンサー・トレイシー
マーガレット・バーク=W
田中絹代
秋山邦晴

■67歳-前半-2→進む
徳川家斉
芦田 豊雄
池波正太郎
岡 八郎
石井四郎
ニーノ・ロータ
モンゴメリー
出崎 統
酒井 抱一
ウラジーミル・タトリン
ルドルフ・オットー

■67歳-後半-1→進む
ジョルジュ・ビゴー
竹脇 無我
レオポルト・モーツァルト
池田 彌三郎/弥三郎
老舎
安井曾太郎
相田みつを
フランキー堺
高峰 譲吉
ルイス・サリヴァン
三ツ矢歌子
武田百合子
岡 新
プリーモ・レーヴィ
新田 次郎
カール・フンボルト
ジョサイア・コンドル

■67歳-後半-2→進む
ポール・セザンヌ
浅田  肇
エドガー・ケイシー
太田 省吾
ジョージ・ワシントン
内藤 湖南
J. W. ウォーターハウス
ロニー・J・ディオ
A・カルロス・ジョビン
壺井 栄
青山 忠裕
エドワード・サイード
ブールデル
永島慎二
マリネッティ
浅川 マキ
西周
緒方竹虎
玉川良一


■67歳のエポック


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67歳の語録

 

「無常(死)の来ることは、水火の攻めむるよりも速やかに、のがれ難きものを」
(徒然草)

 67歳のシンクロニシティ!

  • 67年という生涯には、多くの偉大な画家達がその道程を共にしている。ダ・ビンチ吉原治良安井曾太郎、ポールセザンヌといった具合である。
      

    ●イタリア盛期ルネサンスの巨匠、万能の天才。画家、彫刻家、建築家、要塞設計、軍事技術者、水力学・力学技術者にして人類史上最大の天才レオナルド・ダ・ビンチ(1452.04.15〜1519.05.02)は死因不明で67年と17日の生涯(牡羊座)。
    ● シュールレアリスム、抽象表現主義などの時代を経て、晩年は悟りの境地を思わせる円を繰り返し描くようになった禅的「円」の画家・吉原治良(1905.01.01〜1972.02.10)は死因?で67年1ヶ月と9日の生涯(山羊座)。
    ● 日本の風土に立脚した独自の作風を求め、伸びやかな筆致、鮮やかな色彩、シンプルで落ち着きのある構図を確立させた安井曾太郎(1888.05.17〜1955.12.14)は肺炎で67年6ヶ月と27日の生涯(牡牛座)。
    ● ゴーギャン、ゴッホやキュビスムなどのほか20世紀絵画にも大きな影響を与え、「近代絵画の父」といわれるポール・セザンヌ(1839.01.19〜1906.10.22)も戸外で雨にうたれて肺炎を起こし、67年9ヶ月と3日の生涯(山羊座)だった。


  • 画家ではないが、20世紀初頭の芸術運動を推進した詩人トリスタン・ツェラマリネッティも奇しくも共振する。
     
    ● ダダ運動の中心にいたルーマニア生れのフランスの詩人・トリスタン・ツェラ(1896.?〜1963.?)は死因?で67年?の生涯(?座)。
    ● 未来派を推進した詩人マリネッティ(1876.12.22〜1944.12.02)も死因?で67年11ヶ月と10日の生涯(山羊座)だった。

  • また、三人の作曲家もシンクロする。ニーノ・ロータ、アントニオ・カルロス・ジョビンそして黛敏郎である。
      
    ● 『ゴッドファーザー』のテーマソングで有名なイタリアの作曲家ニーノ・ロータ(1911.12.03〜1979.04.10)は死因・凝血で67年4ヶ月と7日の生涯(射手座)。
    ● ボサノバを考案者アントニオ・カルロス・ジョビン(1927.01.25〜1994.12.08)も死因?で67年10ヶ月と13日の生涯(水瓶座)だった。
    ○ちなみに戦後の作曲界の先頭を颯爽と、猛然と、走り抜けた黛敏郎(1929.02.20〜1997.04.10)も死因?で68年1ヶ月と21日の生涯(魚座)と近い。


  • 都々逸と浪曲界の二人も枕を並べた。柳家三亀松玉川勝太郎だ。
     
    ●都々逸で一世を風靡し、宝塚の娘役スターと結婚して、世間的にも家庭的にも満ち足りた人生を送った都々逸中興の祖・ 初代・柳家三亀松(1901.?〜1968.01.20)は67年?の生涯(?座)。
    ● 子どもの頃、ボクは同姓のよしみで親近感を覚えていた浪曲師・三代目・玉川勝太郎(1933.?〜2000.10.04)も肝臓ガンで67年?の生涯 で終世(?座)。

    (2006.11.13更新)    
67年?の生涯

皇極天皇=斉明天皇
Kougyoku=Saimei Tennou   【飛鳥時代の女帝】

(594.?〜661.?)
死因?---?座

  • 父は敏達天皇の孫茅渟王(チヌオウ)。母は吉備姫女王(キビツヒメノオオキミ)。名は宝。異名: 宝皇女(たからひめ)。諡名(贈り名)は天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト)・皇極天皇(第35代として)・斉明天皇(第37代として)。
  • 初め、舒明天皇の皇后。夫天皇の死後、蘇我入鹿らによって即位。蘇我入鹿と愛人関係にあった為、大化改新の翌々日、皇位を軽皇子(孝徳天皇)に譲り隠棲。
  • 孝徳天皇の死後、再び皇位につき、子の中大兄皇子(後の天智天皇)を皇太子に立て、政務全般を委ねた。
  • 父:敏達天皇の孫・茅渟王(ちぬおう/ちぬのおおきみ)母:吉備姫女王(きびつひめ)。夫:舒明天皇。皇女子:葛城皇子(中大兄皇子・天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(天武天皇) 。
    宮居: 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや:奈良県高市郡明日香村)。御陵:越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ:奈良県高市郡高取町)。

  • 「斉明天皇は道教を好んでいた。後飛鳥板蓋宮に移ったころ,多武峰(とうのみね)の2本のケヤキの大木がある辺りに道教の「道観(どうかん)」(日本書紀では「観(たかどの)」と記述,仏教では寺院のこと)を建て,「両槻宮(ふたつきのみや)」とした。この宮を天帝の宮殿である「天宮(あまつみや)」ともよんだ。道教では「天宮」を仙人たちが住んでいる天上の宮を意味し,仙人の宮は不老不死の理想郷である。「槻(つき)」はケヤキの木で,特にその大木は神が宿ると考えられていた。多武峰に2本のケヤキの大木があり,その近くに宮を造ったと推測される。多武峰には仙人が住んでいる特別なところだったのだろう」(1)。
  • 「若さを維持しようとする「アンチエイジング」(抗加齢)が老若男女を問わずブームだ。日本史を遡って、その事始めを探してみると、斉名天皇が浮かんでくる。---激動の古代史の渦中に身を置いた女性として知られる一方、公共工事を乱発して民を苦しめた暴君との評価が古代から続いている。---2000年酒船石遺跡(奈良県明日香村)で、精巧な亀形石造物が出土した。この不思議な石は古代中国の道教の祭祀施設の一部だったとの解釈が主流だ。道教といえば、神仙思想に基づく、不老不死、つまり今風に言えばアンチエイジングだった」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    皇極・斉明天皇
    (1)「斉明天皇と道教
    (2)読売新聞2006.03.10夕刊「文化」(岡本公樹)より抜粋。

(2010.09.09更新)



▲アンチエイジングに励んだとされる第35代皇極天皇(在位642-645)=第37代斉明天皇(在位 655-661)。

 

 

67年?の生涯

大伴家持
Yakamochi Ootomo   【「万葉集」の編集者】

(718.?〜785.10.05)
病没---?座

  • 奈良時代の政治家、歌人。大伴旅人の長男で、生まれ年は養老2年(718)といわれる。坂上郎女は叔母。母が旅人の正妻でなかったが、大伴氏の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられる。
  • その郎女とは11歳の年に、また父の旅人とは14歳の年に死別、さらにたった一人の弟書持(ふみもち)とも越中守(えっちゅうのかみ)在任中に29歳で死別。
  • 大伴氏の跡取りとして、貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけてさせられた。さらに彼を取り巻く人々の中にもすぐれた人物が多くいたので、後に万葉集編纂の重要な役割を果たす力量・識見・教養を体得。
  • 没落の途にある大伴家の家長として苦しんだが、その歌をたどっていくと、のびのびとした青春時代をすごしていたようだ。
  • 天平10年(738)にはじめて内舎人(うどねり)として朝廷に出仕。その後、従五位下に叙せられ、天平18年3月には宮内少輔となる。746年越中守として赴任、751年少納言として帰京。
  • 家持の生涯で最大の業績は「万葉集」の編纂に加わり、全20巻のうち巻17〜巻19に自身の歌日記を残したこと。「万葉集」の編集者と目され、収録作品も最も多く、繊細な抒情歌に特色がある。家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位。
  • しかも家持の万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌325首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    大伴家持と万葉集
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.01.04(Tue) 14:06

(2005.01.05更新)



▲「万葉集」の編集者と目され、収録作品も最も多く、繊細な抒情歌に特色がある大伴家持。

 

◆「春の苑紅にほふ桃の花下照(シタデル)る道に出で立つ少女(オトメ)」

大伴家持にはこの歌をお供えしましょう。大岡信さんの解説では、桃は実景かもしれませんが、少女は家持が呼びだした夢の乙女ではないか、とあります。---(1)。

67年?の生涯

河和田の唯円
Yuien       【鎌倉時代の浄土真宗の僧】

(1222.?〜1289.02.27=貞応元年〜 正応2年2月6日)
死因?---?座

  • 親鸞の孫にあたる唯善の師で、『慕帰絵詞』によれば、1288年(正応元年)唯円が常陸国から上洛した際、本願寺の覚如から広く法門の教義に関する問題を協議したとされる。
  • 「歎異抄」の著者とする説もある。常陸国河和田(現在茨城県水戸市)に住していたことから河和田の唯円と称される。晩年は大和国吉野で布教し、秋野川の近辺で没したといわれる。
  • 大正時代の劇作家、倉田百三は親鸞と唯円の物語を戯曲『出家とその弟子』で瑞々しく描いた。
  • 「歎異抄は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書。親鸞の弟子である唯円によって書かれた、とされる。その内容が、親鸞滅後の浄土真宗派内に湧き上がった異議異端を嘆いたものであり、序文冒頭に「歎異先師口傳之眞信」(先師の口伝の真信に異なることを歎き)とあるため、「歎異抄」と呼ばれる。歎異鈔とも」(1)。
  • 「作者については、如信説、覚如説、唯円説が行われた。如信説については、香月院深励が提唱し、唯円説については、主に妙音院了祥によって提唱された。如信説は覚如がまとめたとされる「口伝抄」などの書物に、親鸞より如信に口伝が行われ、更に覚如がそれを授けられたとあることによる。唯円説は、唯円の名が作中に出ていることや、本文の流れからして関東の者であることを論拠としている。現在では、概ね唯円説が定説となっている。編集された時期については、親鸞が死してより30年の後(鎌倉時代後期、西暦1300年前後)と考えられている」(2)。
  • 「本書の内容は、善鸞事件の後、作者唯円が親鸞より直接聞いた話による。善鸞事件とは、1256年(建長8年)5月、親鸞が、実子であり弟子でもある善鸞を勘当・破門した事件である。事件から遡ること約20年の1236年(嘉禎2年)頃、親鸞が東国から急に京に帰った後、東国では信者が動揺し、様々な異議異端が行われた。これに対し、親鸞は息子の善鸞を送ることで対処した。しかし、善鸞は、自分は親鸞より真に往生する道を教わったと嘯き、念仏は地獄行きの種であると説いた。それを知った親鸞は、善鸞に対し親子の縁を切り、破門した。その後、関東から上洛して親鸞に事を質したのが、唯円を含めた一行であった。また、親鸞の死後、親鸞の「自力の心を捨てて阿弥陀仏にすがる」という教えとは異なる教義を教団内で唱える者が現れた。唯円は、それらの教義が親鸞の教えを無視したものであると嘆き、文をしたためたのである。これに、唯円が覚如(親鸞の曾孫。本願寺を開き、口伝抄の作者でもある。)に親鸞の教えを教授したこと、口伝抄に歎異抄と類似した文が含まれることなどから、本書は覚如の要請によって書かれたのではないか、とされている」(3)。
  • 「真名序は、この文が書かれることになった目的・由来が書かれている。すなわち、「先師の口伝の真信に異なることを歎」くのである。そもそも関東の教団は、善鸞の事件もあり、異義が発生しやすい土壌であった。親鸞の入滅により、ますますその動きが加速した。主な異義としては、悪を止め、善に到ることが往生の路であるとする教義と、経典を学ぶことが往生の路であるとする教義である。そこで、親鸞が唯円に語った言葉を副え、なぜそれが異義であるかを説明するのが、本書であるとする。また、この「先師ノ口傳」の「先師」を法然と捉える説もある。そこでは嘆きの主体は唯円ではなく、親鸞となる」(4)。
  • 「本書は、成立から数世紀の間、殆ど知られて来なかった。江戸時代中期、荻生徂徠や本居宣長などの影響により、再発見された。香月院深励や妙音院了祥などの学僧によって研究が進められ、深励の「歎異鈔講林記」、了祥の「歎異鈔聞記」などの注釈書が書かれた。その後、明治時代になり、清沢満之らによって再評価され、世間に周知されるようになった。親鸞の言葉とされるものの多くが法然などの先人の言葉に由来するのと同じく、歎異抄中でも最も著名な3条が法然の言葉であることが、明らかにされている」(5)。
  • 「この書はなぜ封印されたのか?かつて宗教・思想上もっとも危険な書とされた『歎異抄』---かつて戦場に向かった若者の多くが携えていったのは『古寺巡礼』と『歎異抄』だった。---「念仏と往生」「阿弥陀仏への帰依と絶対救済」「他力思想」「悪人正機」などその投げかけるものは大きい」(6)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    唯円-Wikipedia
    (1)〜(5)「歎異抄-Wikipedia
    (6)五木寛之著『私訳 歎異抄』(東京書籍)の新聞広告より抜粋。
    (7)「唯円の道場池

     

(2007.09.06掲載)


・肖像を探しています。

▲親鸞の晩年になってからの弟子で直弟子の一人・河和田の唯円。




◆唯円の道場池(ゆいえんのどうじょういけ):報佛寺から約700メートル離れた場所に、唯円房が最初に開いた道場があったといわれるところがあり、「唯円の道場池」の石碑が建っている。当初この地にあった道場が、唯円房から十代の後、道場池より北方の竹ノ内に移って泉渓寺と称し、さらに1690(元禄3)年、報佛寺と改称して、現在の地に移ったとされる。所在地/茨城県水戸市河和田町---(7)。 


◆「梅原猛の『歎異抄』入門 」(PHP研究所 )梅原 猛【著】
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」。強烈なパラドックスを含むこの成句で有名な『歎異抄』。その一言一句から発せられる「毒」と「薬」は、時代や階層をを超え、人々の魂を揺り動かしてきた。親鸞の純粋なる信仰を、直弟子唯円が大胆率直に記述した『歎異抄』の魅力はと何か。

67年?の生涯

吉田兼好
Kenkou Yoshida   【『徒然草』の作者】

(1283.?〜1350.04.08/1352年没説あり)
死因?---?座

  • 鎌倉・南北朝期の歌人、随筆家。和歌四天王の一人。俗名卜部(うらべ)兼好。卜部兼顕の3男として生まれたらしい。卜部氏は神官の家。京都吉田に住み、吉田とも称した。
  • 卜部家はその名前の通り、占いにより朝廷に仕えた名家で、兼好の家系は代々京都吉田神社の神官をしていた。なお、卜部家が吉田を称するようになったのは後の時代であるから、「吉田兼好」は近世以降の俗称と考えられる。
  • 吉田神社は平安時代初期の貞観元年(859)に藤原山陰がこの地に藤原家の守護神である春日四神を勧請して創建。奈良の春日大社、京都西山の大原野神社とともに、藤原氏の氏神三社のひとつ。
  • 下級公家の出で、後宇多天皇に武士として仕え、天皇が正中元年崩御すると30歳頃出家。幾つかの地を経て、京都雙丘に居す。
  • 二条為世に和歌を学び、『続千載集』以下の勅撰集に入集。歌人としても名高く、頓阿・浄弁・慶雲と合わせ和歌四天王と称される。
  • 儒教・老荘の思想にも通じ随筆『徒然草』に、その哲学的・宗教的人生観を展開。『徒然草』(1330前後成立)は『枕草子』とともに随筆文学の代表とされ、現代まで彼の名を残す。徒然草が成立した時期はそのまさに鎌倉幕府が滅亡への道をたどっていた、乱世の中だった。
  • 歌集に『兼好法師自撰歌集』がある。晩年は、高師直に近侍するなど足利幕府を中心とする武家方に接近していたらしい。
  • 「700年ほども前に兼好法師は、「今日は吉日だと言って行ったらうまくいかなかった例を数えると、凶日とされている赤舌日の失敗例とたいして変わらないだろう。吉凶は日によって決まるのではなく、その人の行いによって決まる」と極めて合理的な考え方を示している」(『徒然草』第91段)(1)。
  • 「種生字国見に、地元の人が誇りとする兼好塚があります。 遺跡地は東西20m、南北30mの平坦な雑木林で、高さ1.2mの遺跡碑(写真下)が中央に建てられていて、碑の前に土石がすこし高く積み上げられていて、これが兼好の塚と言われてます。 「徒然草」の作者として有名な兼好法師は晩年をここで過ごし、そしてここで生涯をとじたという伝承が土地の人に深く信じられています」(2)。
  • 「高名な木登りの名人が人を高い木に登らせて梢を切らせた。危険なところでは何も言わず、下りる時、もう大丈夫というあたりで「用心せよ」と声をかけた。〈徒然草〉にある有名な話だ。〈あやまちは、やすきところになりて、かならずつかまつることに候ふ〉――もう安全という所でミスは起きやすい。それをよく知る名人は最後まで気を抜かない」(3)。
  • 「〈友とするに悪きもの七つあり〉――吉田兼好は友人とするのに具合の悪い人を〈徒然草〉で列挙したが、その中に〈病なく、身強き人〉を入れている。丈夫で強い人なら友として頼もしいと思えるが、兼好の見方には一ひねりがある。病知らずは弱いものへの思いやりがない。だから友としては悪きものということになる」(4)。
  • 「吉田兼好の辞世をお供えします。〈かへり来ぬ別れをさてもなげくかな西にとかつは祈るものから〉」(5)。
  • 「孔子はためになる友人の条件として正直・誠実・博学の三つをあげた。これにならった兼好法師は、望ましい友人として、物をくれる人、医者、知恵のある人、の三つをかかげている」(6)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.03.21朝刊 北連一「新々定年前後」より抜粋。
    (2)「吉田兼好ゆかりの地
    (3)読売新聞2006.01.31夕刊 「よみうり寸評」より抜粋。
    (4)読売新聞2006.03.11夕刊 「よみうり寸評」より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん 2006.04.12(Wed) 21:01[1340]
    (6)日経新聞 室井光広「交遊抄」より抜粋。

     

(2008.07.21更新)


◎クール・ビズ

▲儒教・老荘の思想にも通じ随筆『徒然草』に、その哲学的・宗教的人生観を展開。


▲兼好法師肖像
徒然草絵抄上巻 扉絵/部分


▲新版徒然草絵抄
(元禄4年刊 草田斎寸木子画)


兼好語録(徒然草)

「何方(いずかた)をも捨てじと心にとり持ちては、一事も成るべからず」(やりたい事のどれをも放り出すまいと執着していたら、何一つ完成するはずがない。他のすべてをうち捨てても、一つの大事に集中すべきである)

◆「徒然なるままに、日暮らし硯に向かいて、心に映りゆく由無し事をそこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ」

◆「おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざ」(思うことを胸のうちにしまいこんでおくのは難しい)

◆「無常(死)の来ることは、水火の攻めむるよりも速やかに、のがれ難きものを」


◆「よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ。妙観が刀は、いたく立たず」(すぐれた細工には切れ味の鈍い刀を使う。高名な仏師の刀もそうは切れない)

◆「月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑(のどか)に物語して、盃出したる、万の興を添ふるわざなり」

◆「家の作様は、夏を主(むね)とすべし。冬はいかなるところも住まる。暑きころ悪き住居堪えがたきことなり」(徒然草第五十五段)。

◆「人、死を憎まば、生を愛すべし。存在の喜び、日々に楽しまざらんや」(徒然草第九十三段・部分)。

67年?の生涯

ジョン・ネイピア
John Napier   【「対数」の考案者】

(1550.?〜1617.04.04)
死因?---?座

  • ジョン・ネイピアは、スコットランドのバロンであり、熱心なプロテスタントである。幅広い事に興味を持って研究した人物で、特に、対数の発見者として知られる。
  • 個性的な発想に恵まれた発明家であり、数学者、物理学者、天文学者、占星術師としても知られる。
  • スコットランドの首都エディンバラの南西に位置するマーキストン城で貴族マーキストン男爵の子としてアーチボールド・ネイピア(Archibald Napier) と ジャネット・ボスウェル(Janet Bothwell) の間に生まれた。ここは、現在のネイピア大学の敷地内である。
  • 13歳でセント・アンドリュースにあるセント・サルベイター・カレッジに入学。直後、母親のジャネットが亡くなった。あるとき、ネイピアの叔父はネイピアの父に手紙を送った。その内容は、ジョンを家におけば、ろくなことは覚えなにいので、外国に留学させるようにとのもの。そこで、外国に留学することになり、1608年に父が亡くなると、再び生まれ故郷のマーチストンの家に帰ってきた。
  • 翌年、父から土地を譲り受け、ガートネス城に居を構え、エリザベス・スターリング(Elizabeth Stirling) と結婚した。エリザベスとの間には 2 人の子供ができる。
  • 1579年にエリザベスは亡くなり、アグネス・チザム(Agnes Chisolm) と再婚する。アグネスとの間には 10 人の子供を得る。この年、ネイピアは炭坑から水を外に出すための装置の発明をしている。
  • 1593年に『A Plaine Discovery of the Whole Revelation of St. John』(ヨハネの黙示録の真相)を出版し、カトリック教会を激しく批判した。また、この中で、最後の審判の日を1688年ないし1700年と予言している。この本は好評で、ネイピアの死後も版を重ね 21 版まで出版された。また、多言語に渡り翻訳もされて広く読まれた。
  • 1594年に対数の概念を発見し、以後 20 年に渡り、対数表の作成に従事する。1608年、父のアーチボルドが亡くなったため、マーキストン城の八代目の城主となる。
  • 1614年、対数表を完成させ、ラテン語の論文『 Mirifici Logarithmorum Canonis Descriptio 』(素晴らしい対数表の使い方)で発表する。この論文は、1616年にエドワード・ライト(Edward Wright) による英語訳が出版されている。
  • 「ネイピアは、神学と占星術の熱心な研究者だった。数学者ではなかったネイピアがどのようなきっかけで「世界の数学者」に名を残すようになったかはわからない。しかし、当時は天文学の研究が進み、非常に大きな数値を取り扱わなければならなかった。なんとか、数学者の間では簡単な方法で計算処理できないかと考えられていた。ネイピアは、けた数の大きい膨大な計算を、かけ算と割り算について、簡単に近似値を求める方法を創造した。この方法は、今日の「対数」の出発で、科学史上の一大驚異でした。この対数の発明は、当時「労力の短縮によって天文学者の生命を2倍に伸ばした」と言われるほど、天文学的計算に威力を発揮した。(日本評論社「100人の数学者」より)
  • ネイピアは、自分の領地の収穫を増やすために肥料や揚水機の研究をしたり、スペインの侵攻を恐れ、軍事兵器を発案したりもしている。
  • ネイピアの数ある発明の中で、後世に特に大きな影響を与えたものは、対数とネイピアの骨である。いずれも科学で必要な計算を少しでも簡単にしようとして生み出された計算のための技術であり、他の人々の手によって形が変えられているものの、現代の科学技術の礎ともなっている。また、小数点の発案者でもある。宗教的活動も活発に行っており、ヨハネの黙示録を独自に解釈し、カトリック教会やローマ教皇を非難した著書も広く読まれた。
  • ネイピアの考え出したもののうち、最も科学に影響を与え、受け入れられたのが対数である。対数は、かけ算を足し算に、割り算を引き算に変える。対数の概念の発見自体はビュルギより後だったが、ビュルギが長い間、発表しなかったために対数はネイピアの業績として知られている。天文学の膨大な計算を簡単に行えるようにした対数について、ラプラスは、対数は天文学者の寿命を 2 倍にしたと賞賛している。
  • ネイピアの骨はネイピアが発明した、かけ算を足し算だけの計算にする道具である(今日の「計算尺」の前身)。対数と同様にネイピアは、科学で扱われる計算をいかに簡単に行うか?といったことに尽力し、その成果の一つとして得られた道具である。ネイピアの死後、ネイピアの骨は様々に改良されるが、特に1623年のウィルヘルム・シッカード(Wilhelm Schickard,1592年 - 1635年)による改良が重要である。
  • 「大航海時代の船乗りらは、正確に船の位置を確認するのに必要な膨大な計算に苦しんでいた。この労力を大幅に軽減したのが対数だった。---対数は大きな桁のかけ算を、足し算でできるかたちにし、計算の労力を大幅に短縮するのに貢献した。---ネイピアが対数の研究を始めたのは44歳の時。それから20年の歳月かけて確立した」(1)。
  • 昨日(2006.02.13)映画「博士の愛した数式」を観てきた。オイラーの贈物---eiπ+1=0 これが博士の愛した数式。「無限の宇宙からπが舞い降ります。そして、恥ずかしがり屋のiと握手する。彼らは身を寄せ合ってじっと息を潜めています。e(ネピア数)はiもπもけっしてつながらない。でもね、1人の人間がたった1つだけ足し算すると、世界は変わります。矛盾するものが統一され、0、つまり、無に抱き留められます」。数学定数のひとつであるネピア数は自然対数の底として用いられ、e という記号で表す。
  • 対数? ボクはすでにもう その概念を忘れかけている!

    ¶:参考文献・参考サイト:
    ジョン・ネイピア
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)読売新聞2005.11.16朝刊「数学の海へ6」(桜井進)より抜粋。

(2006.02.14更新)



▲大航海時代に「対数」を発見した英国の修道士ジョン・ネイピア。

 


◆ネイピアの計算棒。
「ネイピアの計算棒」www.wizforest.com/gear/nepia/


◆1617年、スコットランドの数学者ジョン・ネーピアが考案したもので、掛算を簡単な足算に置き換えて計算する乗算用計算具。なお、面倒な方法ではあるが割算も計算できる。

 


◆ネイピア 数が出てくる映画「博士の愛した数式」。

67年?の生涯

ヌルハチ(太祖)
Nurhachi     【清朝初代の皇帝】

(1559.?〜1626.08.09.30)
戦闘中の傷が元で陣没---?座

  • 清朝初代の皇帝(在位1616〜26)後金(清朝の前身)の初代大汗。姓はアイシン=ギョロ(愛新覚羅)、名はヌルハチ(清では弩爾哈斉と記し、明や朝鮮では奴児哈赤と記す)。廟号は太祖、諡号(贈り名)は武皇帝・高皇帝、尊号はゲンギエン汗(Gengiyen Khan)・クンドゥレン汗(Kondulen Khan)。「覚羅」姓(Gioro Hara)からも分かる通り、父祖以来の満州の名族の出身。ヌルハチの家系は、代々建州左衛下の一集落の首長だったという。
  • 1583年遼東総兵官季成梁が建州右衛都指揮の王杲(おうこう)の子アタイ(阿台)を攻撃する際、ヌルハチの祖父ギオチャンカと父タクシは明軍により誤って殺され、25歳でヌルハチは祖父・父の後を継いで自立した。その勢力は弱小であったが、明と和好を保ちながら、まず全建州の地を統一。つづいて1593年、海西女直のエホ・ハダ・ウラ・ホイファのフルン4部を中心に、これにモンゴルの諸部を加えた9国からなる連合軍の来攻を撃破。
  • ついで1601年にハダ部、1607年にホイファ部、1613年にウラ部を併合。ついに1616年ハン位についた。このときをもって、国号を後金とし、年号を天命と定める。明は初めヌルハチの巧妙な和好策に欺かれて、警戒を怠っていたが、後金の建国を知ってその強大化に脅威を感じ、これを抑えようとした。
  • 1618年(天命3)、明に対して七大恨を宣言し、まず撫順をおとしいれ、さらに清河を占領。翌年、明は10万の大軍をもって討伐軍を派遣したが、ヌルハチはこれを撫順近くのサルフ山下において撃破。これが名高いサルフの戦いである。それ以後、ヌルハチは開原・鉄嶺をおとしいれ、エホを滅ぼし、1621年には,瀋陽・遼陽をも占領。遼河以東の地をことごとくその手中に収めた。そこで、この地に満州族を移住させ旗地を設定するとともに、都を遼陽に(1621)、ついで瀋陽に移した。
  • 1622年の春には、さらに遼河を渡って遼西の地に進攻し、広寧・義州をおとしいれる。
  • 1626年に再び遼西に侵入し、寧遠城を包囲したが、明将袁崇煥のポルトガル砲による防備にはばまれて失敗。その同じ年の4月、蒙古のバリン部に親征したが、その途上、8月に戦闘中の傷が元で陣没。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト
    ヌルハチ(太祖)
    太祖ヌルハチ(清朝)

(2005.02.07掲載)



▲清朝初代の皇帝、後金(清朝の前身)の初代大汗ヌルハチ。

67年?の生涯

香林院 りく
Riku kourinin  【『忠臣蔵』で有名な大石良雄の妻】

(1669.?〜1736.12.10=寛文9年〜元文元年11月19日)
死因?---?座

  • 香林院 は出家後の法名、 理玖とも書く。
  • 当時としては大柄であり、身長は6尺(180センチ)あったというが、これは誇張であろう。当時用いられた名乗りではないが、現代では夫の苗字を用いて大石りくとも呼ばれることもある。
  • 但馬国豊岡藩京極家の家老石束毎公の長女として誕生。母は佐々信濃守休西の娘。石束家は代々京極家の筆頭家老を勤め、1200石を食む京極家中一番の名門家であった。
  • 貞享4年(1687年)、播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老の大石良雄と結婚し、赤穂城内にあった大石邸へ移住。時に良雄29歳、りく19歳。以降、二人はその夫婦生活の中で、元禄元年(1688年)に長男松之丞(のちの大石良金)、元禄3年(1690年)に長女くう、元禄4年(1691年)に次男吉千代、元禄12年(1699年)に次女るりを生んだ。また良雄にはりくとは別に妾がいたようで、元禄14年(1701年)2月17日に妾の産んだ女子が四歳で夭折したことが花岳寺の資料に見える。しかし大石夫妻の赤穂での平和な毎日も長くは続かなかった。
  • 同年3月14日、江戸城で勅使饗応役をつとめていた主君浅野長矩が高家旗本の吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹の上、赤穂藩は取り潰しとなった。
  • 5月の赤穂城開城後、良雄が開城残務処理にあたっている間、四人の子らとともにりくは、一時但馬豊岡の実家へ帰ったが、その後、良雄が山科に住居を定めたので、7月初めにりくも山科に移り、再び一緒に暮らした。この夫婦生活でりくは、また一人子を身ごもった。しかし良雄の盟約に加わった同志たちの間で密談が進む中、盟約の「妻子にもしゃべらない」の原則を守るため、元禄15年(1702年)4月15日、良雄は、盟約に加わることを望んだ長男良金を除いて、りくと他の子らを再び豊岡に戻した。さらに良雄は、りくと絶縁。連座が及ばぬようにとの配慮であった。7月5日に石束家で三男にあたる大石大三郎を出産した。
  • 12月15日、夫良雄と長男良金を中心にした赤穂浪士たちが仇の吉良義央の首をあげて本懐をとげたあと、2月4日に切腹となる。残されたりくは、良雄の遺児たちの養育にあたった。長女くうと次男吉千代はそれぞれ若くして死去したが、次女るりと三男大三郎が無事成長した。また世間では亡き夫大石良雄の人気が過熱したこともあって、安芸国広島藩の浅野本家が良雄の子を家臣に欲しがり、正徳3年(1713年)9月に大三郎は、父良雄と同じ1500石にて浅野本家に仕官した。また次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚している。りくは、落飾してから香林院と称し(青林院とする文書も)、広島藩から隠居料として100石を支給されていたが、元文元年(1736年)に死去。享年68(数え)。広島の国泰寺に葬られる。
  • 出身地の豊岡市で「大石りくまつり」が開催される。
  • 「元禄15年の4月頃、理玖は身重の体で長女のくうと共に豊岡に帰ります。そして、良雄は討ち入りで罪が妻子に及ばぬよう、その年の10月初旬に離縁の形をとりました。吉良邸討ち入りは成功。夫と長男の主税が切腹した後、理玖は正福寺で冥福を祈る生活を続け、香林院と名乗りました。赤穂の浪士たちの行為は人々に感銘を与え、理玖や大三郎が有名になると赤穂浅野家の本家にあたる広島から仕官の話が舞い込みます。大三郎は父・良雄と同じ1500石という破格の条件で召抱えられ、理玖と一緒に広島へ移りました」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    香林院- Wikipedia
    (1)「とよおかステッチ - 大石内蔵助の妻-理玖(りく)ゆかりの地

(2011.01.01掲載)



▲夫の本懐後、残された遺児たちを養育した香林院 りく。


▲大石りく遺髪塚(正福寺)

 

 

67年?の生涯

与謝蕪村
Buson Yosa-no   【日本文人画の大成者】

(1716.不詳〜1783.12.25)
死因?---?座

  • 江戸中期の俳人、俳諧師、文人、画家。摂津国の生れ。本姓は谷口、のち与謝と改める。俳号、宰鳥、落日庵、夜半亭など、画号、子漢、春星、謝寅など。
  • 江戸で早野巴人(夜半亭宋阿)に俳諧を学ぶ一方、文人画に精進し、巴人死後、北関東、奥州方面に10余年の流寓の生活を送った。
  • 39歳で上洛したころには、俳諧より画業に心を寄せており、以後晩年にいたるまで絵画修行に努めた。その後一時丹後与謝に住み、画業に専念。季節感の把握にすぐれた南画や俳画、気迫に富んだ水墨画を描き、池大雅とともに日本文人画の大成者とされる。大雅との合作『十便十宜』ほか多数の作品がある。
  • 俳諧には50歳ころから再び情熱を傾け、召波らと句会を続け、64歳、2世夜半亭として巴人を継承して宗匠の列に加わる。
  • 芭蕉を崇敬し、蕉風の復興に努め、天明俳諧を確立。門弟几董の編になる『あけ烏』は蕉風復興の宣言であったが、以後蕪村とその門は活躍を続け、「蕪村七部集」に結実した。
  • 「生活費の為に絵筆を握り、画業を優先していた蕪村が、50歳を過ぎて俳諧の活動を本格化した時、友人たちは「遅桜人に待たれて咲きにけり」とこれを喜んだ。蕪村の句はズバ抜けて自然描写に長けている。これは画家が持つ鋭い観察力の賜物。わずかな文字で情景をスケッチするだけで、読み手に彼方まで風景を見せるんだ」(1)。
  • 蕪村にはまた『春風馬堤曲』『澱河歌』などのすぐれた自由詩的作品もあり。『夜半楽』に収める。他に句日記『新花摘』など。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「ビバ・俳句!蕪村・放哉・山頭火

(2007.03.03更新)



▲蕪村の肖像画。

 

蕪村の句

◆〈箱を出る顔わすれめや雛二対〉

◆「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」(辞世の句)

67年?の生涯

平田篤胤
Atsutane Hirata    【復古神道を確立者】

(1776.10.06〜1843.?)
死因?---天秤座

  • 復古神道を確立して、幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた江戸後期の国学者・神道家。
  • 出羽の人。秋田藩士大和田家に生まれ。父は佐竹藩士大和田清兵衛祚胤。禄高100石の秋田藩士の4男。父より下僕のごとくあつかわれる
  • 20歳のとき脱藩して江戸へ出、1800年(寛政12)、25歳のとき、備中国松山藩士平田篤穂の養子となる。号は気吹之舎(いぶきのや)。江戸で学び、本居宣長の死後、その門に入り〈没後の門人〉を自称する。享和3年まで本居宣長の存在さえ知らなかった。
  • 28歳のとき『呵妄書』(1803)を書いて太宰春台批判を企て、1804年(文化1)、真菅乃舎開業。そして本居宣長の学業を学び、その後平田は勤勉に学につとめ『新鬼神論』『古道大意』『俗神道大意』『西籍概論』『出定笑語』『伊布伎於呂志』『志都乃石屋』『霊の真柱』を書きあげ、その上で『王襷』『古史徴』『古史伝』の構想をねり上げている。
  • 『霊の真柱』の刊行、広く宣長門の注目をあびた。この著述は服部中庸の影響もある。その後、門下は江戸の下町を中心にしだいに関東へと波及。その後も著述はつづくが、しだいに江戸の民俗の基層社会へ接近。
  • それにもかかわらず幕府の嫌疑にふれ、秋田へ追放され隠居。平田学派の影響は地方の豪農層・神官らに広まり、幕末、篤胤学は尊皇攘夷運動の一支柱となる。
  • 天地開闢論、〈産霊(むすび)〉観念、幽冥信仰など、実証主義を重んずる師とは異質な説により、しだいに国学を宗教化し、〈平田神道〉ともいわれる神学体系を作りあげた。
  • 「古代日本の純粋な神道を追求した国学者:国学は、儒教や仏教など外国からもたらされた価値観を一切排除し、純粋な日本文化の復活を主張する、江戸期から興った新しい学問分野。国学には二つの大きな流れがある。一つは、「古事記」「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」など古文献を研究対象として、純粋な日本思想の発掘と復古を目指したもので、契沖、加茂真淵、本居宣長などがその代表。もう一つは、このような日本の古典を研究しつつ、古代からの神道思想の体現に、より深いエネルギーを傾注した人たちで、山崎闇斎(やまざきあんさい)そして平田篤胤などがこの学派にあたる」(1)。
  • 「平田篤胤の辞世をお供えします。〈思ふこと一つも神に務めへず今やまかるかあたらこの世を〉」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    平田篤胤
    (1)「思い立ったら北東北/北東北こだわり百科
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006.05.09(Tue) 14:05[1489]

(2006.05.09更新)



▲復古神道を確立して、幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた江戸後期の国学者、神道家・平田篤胤。



67年?の生涯

オクターブ・ミルボー
Octave Mirbeau   【フランスの劇作家、小説家】

(1850.?〜1917.?)
死因?---?座

  • 自然主義派の最後の作家。『小間使いの日記』、『わらぶき家物語』(1886)など。
  • 「『責め苦の庭』はとにかく中国の刑罰の話。囚人を鐘のしたに置いて振動でじょじょに殺していく話がこわくてこわくて。おフランスのへーーんな小説」(1)。
  • 「その生涯の中で、ロダンは20点ほどの版画を制作した。数ある版画技法のうち、ロダンが関わったものは、銅版画の一種のドライポイントとリトグラフ(石版画)である。1881年の夏に初めてイギリスへ旅行した際、ロダンはロンドンでアルフォンス・ルグロに銅版画の手ほどきをうけた。《世界を導くキューピッドたち》はドライポイントによる最初の作例で、おそらくルグロのアトリエで制作された。この技法は、先の硬い針で銅版に直接描くため、感情の赴くままに即興性を強みとして制作することができる。1899年には、オクターブ・ミルボーの『拷問の庭』の初版に扉絵のための素描を描き、それをオ−ギュスト・クロがリトグラフにした。この本が評判を呼んだことから、同じ年に別の出版社から第2版を出す契約が交わされた。3年後、ロダンの素描20点に基づくクロのリトグラフをつけた挿絵本『拷問の庭』の第2版が出版された」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    静岡県立美術館【展示のご案内:ガイドブック 】
    (1)「kisho
    (2)「静岡県立美術館【展示のご案内:ガイドブック 】


▲オクターヴ・ミルボー『拷問の庭』1902年 個人蔵
(2006.10.15更新)



▲自然主義派の最後の作家とされるオクターブ・ミルボー。



▲小間使の日記


▲『責め苦の庭』

67年?の生涯

山極勝三郎
Katsusaburo Yamagiwa   【人工癌の発見者】

(1863.?〜1930.?)
肺炎---?座

  • 日本の病理学者。人工癌研究のパイオニアとして知られる。
    幕末の上田藩(現在の長野県)に生まれる。同郷の医師である山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指した。
  • 1880年に東京帝国大学予備門、1885年には医学部に入学し、卒業時は主席という成績を残す。1891年からドイツに留学、帰国後の1895年に東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学。特に癌研究では日本の第一人者であった。
  • 1889年には肺結核を患うものの療養を続けながら研究を行う。1915年には世界ではじめて化学物質による人工癌の発生に成功。
  • 当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していた。山極は煙突掃除夫に皮膚癌の罹患が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始する。その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗布し続けるという地道なもので、すでに多くの学者が失敗していたものであった。
  • しかし、東京大学医学部病理の山極勝三郎と市川厚一は実に3年以上に渡って反復実験を行い、1915年(大正4年)にはついに世界ではじめて人工癌の発生に成功する。
  • ドイツの学者ウイルヒョウの癌刺激説を証明するために、ウサギの耳にコールタールを塗って発癌に成功。この年は奇しくもウサギ年。
  • 山極博士はこのときの気持ちを" 癌出来つ意気昂然と2歩3歩"とよんでいる。誠に残念なことは、せっかく癌を作りながらこの先へ研究を進めようとしなかったこと。
  • この後の研究を大きく発展させることになったコールタールの中から、発癌性をもった物質(ジベンゾアントラセンやベンゾピレン)の分離は、英国の化学者ケナウェイのグループによって行われた。
  • これらの物質は、煙草の煙りや公害の排気ガスに含まれており、現在、環境汚染の原因として注目されている。
  • 1923年には帝大を定年退官。1930年、肺炎で逝去する。
  • その一方で山極による人工癌の発生に先駆けて、デンマークのヨハネス・フィビゲルが寄生虫による人工癌発生に成功していた。当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、山極の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないかという意見が存在していたにもかかわらず、1926年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が与えられた。
  • 後年、フィビゲルの研究はごく一部のネズミにのみ再現可能であることが実証されており、現在の人工癌の発生、それによる癌の研究は山極の業績に拠るといえる。
  • 当時の選考委員のひとり、スウェーデンのフォルケ・ヘンシェンは来日した際に「山極にノーベル賞を与えるべきだった」と当時の選考委員のミスを悔やんだという。また、選考委員会が開かれた際に「日本人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明かしている。原則としてノーベル賞の選考は非公開とされているが、フィビゲルの受賞はノーベル賞最大の汚点ともいわれていることから贖罪の意味もこめて明かしたのではないかとされている。
  • 「北里柴三郎をはじめとして近代日本の医学界は続々と世界的業績を生み出していた。そこには見事なまで日本医学界を支配してきた東大医学部の名前がでてこない。ただ一人の例外・山極勝三郎を除いては。1913年東大医学部に東北大学農学部を卒業した市川厚一がやってくる。何も知らない市川は山際の助手を押し付けられる。山際はウサギを使っての人工ガンの研究に取り組んでいた。当時、ガンの発生源は三つの理論が考えられていた。刺激説、迷芽説、素因説の三つであった。山極は刺激説に基づき人工ガンをウサギの耳に作ろうとしていた。「市川君。キミの仕事はウサギを四つのグループに分ける事。第一群は皮膚の再生を促すシャーラッハロットという薬の注射、そして一日おきコールタールをすりこむ。第二群には耳に切り傷を作り、シャーラッハロートとコールタールを一日交代で塗りこむ。そして残りの二群は対照用だ。第三群はピンセットで耳の一部を毎日一回こすり、第四群はさらにエーテルでよくふく」山極と市川の単純な実験は何ヶ月も続けられる。医学部の連中は市川に同情する。「山極先生も頑固だねえ。コールタールなんかでガンができるわけないのにねえ」「でも、ヨーロッパの煙突掃除夫は皮膚ガンが多い。それは煙突のススが原因と」「でもこの手の実験は何人もの科学者が試して成功したものはいないんだ」そこへ山極が。「そりゃ違う。実験に失敗した者は一人もまだいない、んだ」山極は市川に説明する。「コールタールの実験に失敗したものはいない、というのはみんな二ヶ月程度で投げ出してしまったからだよ。人工ガンは必ずできる。煙突掃除夫の場合でも潜伏期間は10年ほどあるのだから」しかし1913年デンマークのフィビガーが寄生虫を使いネズミに人工ガンを作り出すことに成功。これで長年のガン論争は寄生虫説に大きく傾くことになる。しかし山極と市川は同じ実験をその日も繰り返す。そして1915年5月山際はとうとう人工ガンを作る。しかし1926年のノーベル化学賞はフィビガーのものになる。しかしフィビガー、山極の死後、フィビガーの寄生虫説は誤りであることがわかるのであった」(1)。
  • 「現代につづく世界のガン研究のその手始めの実験的研究が日本で行われたのである。東京大学の病理学教室の前には山極先生が亡くなったとき先生の病理解剖が行われた解剖台と「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」のはめ板があり、標本室には記念すべき「人工ガンの兎耳」がかざられている」(2)。
  • 山極勝三郎はノーベル書を授与されていてもまったく不思議のない人物であった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    山極勝三郎-Wikipedia
    (1)「栄光なき天才たち
    (2)「癌出来つ

(2007.06.19更新)



▲世界ではじめて癌を実験的に作ることに成功した山極勝三郎。


67年?の生涯----2004年生誕110年

L・F・セリーヌ
Louis=Ferdinand Celine 【時代の最も思いやりのある作家】

(1894.?〜1961.?)
死因?---?座

  • フランスの小説家。パリ郊外に生まれたセリーヌこと本名ルイ・フェルディナン・デトゥーシュは両親によって幼少時からイギリスやドイツに単身で留学。
  • 1914年、第一次世界大戦にフランス軍の騎兵軍曹として参加。この時に英雄的な任務を果たし、『イリュストレ・ナシオナル』誌の一面を写真入りで飾っている。
  • 兵役免除後の1915年には、ロンドンのフランス領事館旅券局に勤務、 1916年、当時のフランス植民地カメルーンに渡り、交易所に勤務。
  • 1918年からは、ロックフェラー財団の結核予防キャンペーンの隊員としてブルターニュ地方を巡回。
  • 1924年、『ゼンメルヴァイス博士の生涯と業績』で医学博士の学位を取得した彼は、国際連盟衛生局の技術者として勤務、その業務としてアメリカやカナダの衛生状況の視察を行なう。
  • 1927年からは、パリ郊外クリシーにて診療所を開き、医師としての活動と平行して書き進められた半自伝的作品『夜の果てへの旅』(Voyage au bout de la nuit,1932)でフランスの文壇にデビュー。
  • その年のゴンクール賞の第一候補に挙げられるが、審査員の寝返りスキャンダルで受賞を逃す。セリーヌを推薦した審査員がこれを激しく非難したため起訴される。この作品は各国語に翻訳され、ベストセラーとなる。
  • 1936年、半自伝的作品『なしくずしの死 』(1936)を出版、その後印税を現地消費するため(当時のソ連邦は多額の外貨を持ち出しが禁じられていた)ソビエト連邦に旅行、共産主義に激しく失望、憤激する。 1937年から1941年にかけては、『虫けらどもをひねりつぶせ』(Bagatelles pour un massacre)を皮切りに、反ユダヤ主義文書三部作を出版する。
  • 1945年、連合軍によるパリ解放後、ナチスドイツに協力した嫌疑をかけられたセリーヌは大空襲下のドイツを縦断、デンマークに脱出するも、フランス公使館の要求で拘束され、拘禁される。しかし、対ナチス抵抗運動の指導者でありながら、自らの信念に基づきセリーヌを擁護した弁護士ミケルセンの努力によって、フランスへの身柄引渡しは行なわれなかった。
    なお、この時の顛末は、後のドイツ三部作『城から城』『北』『リゴドン』に描かれている。
  • 1951年、パリ軍事法廷によって恩赦を受け、セリーヌは妻リュセットと共に帰国、パリ郊外ムードンに診療所を開く。
  • 1961年7月、最期の作品である『リゴドン』の校正を終えた翌日に死去。
  • 地元ムードンの司祭は葬儀の執行を拒否したと言われる。彼の墓石には、三本のマストの船が刻まれている。 反ユダヤ主義言説という大罪を犯しながら、その独特の文体、そして人間を直視するその眼差しにより、プルーストと並び20世紀フランス文壇最大の作家と評されている。また、彼のイデオロギー的な混乱は、反ユダヤ主義と同時に反ナチスを表明するという言説に強く現れており、今なお議論の対象である。 セリーヌは『この世の真実は嘘か死だ』と『夜の果てへの旅』に記している。だが、彼の作品から横溢するヒューマニズムはまた、ヘンリー・ミラーケルアック、また、サルトル、ボリス・ヴィアンや大江健三郎など、東西の多くの作家に影響を与えた。ケルアックはセリーヌを評し、「時代の最も思いやりのある作家」であったと述べている。
  • 「『セリーヌ伝』フレデリック・ヴィトゥー/著 権寧/訳(水声社):『夜の果ての旅』、『なしくずしの死』、『北』など衝撃的な作品によって高い評価を受けるとともに、「反ユダヤ主義」的言動でも知られる作家、ルイ‐フェルディナン・セリーヌの全貌。「自伝的」著作や多くの書簡・証言等をもとに、これまでの定説・伝説をくつがえす画期的大著!死ぬか、…それとも…嘘をつくかだ。謎多き作家の全体像を明かす決定版伝記」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「セリーヌ | FreeCMS:maput」
    (1)「e-hon 本/セリーヌ伝/フレデリック・ヴィトゥー/著 権寧/訳」

(2006.05.08更新)



▲ 反ユダヤ主義言説という大罪を犯しながら、その独特の文体、そして人間を直視するその眼差しにより、プルーストと並び20世紀フランス文壇最大の作家と評されているセリーヌ。



67年?の生涯

トリスタン・ツェラ
Tristan Tzara    【ダダの推進者】

(1896.?〜1963.?)
死因?---?座

  • ルーマニア生れのフランスの詩人。1916年チューリヒでダダ運動を始め『ダダ宣言1918』を発表。
  • 次いで1920年パリに移ってブルトン、アラゴンらとパリ・ダダ運動の中心にいたが、やがて孤立し、シュルレアリスム運動とはしばらく距離を置いた。
  • ダダ時代の徹底した否定精神と、『近似的人間』『反頭脳』などの詩集によって、20世紀フランス詩を代表する詩人の一人となる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.08.17掲載)



▲ルーマニア生れのフランスの詩人・トリスタン・ツェラ。


▲晩年のツェラ。

67年?の生涯

初代・柳家三亀松
Mikimatsu Yanagiya   【都々逸中興の祖】

(1901.?〜1968.01.20)
死因?---?座

  • 本名 伊藤亀太郎。 三味線漫談で一時代を築く。深川で生まれ.。都々逸で一世を風靡し、宝塚の娘役スターと結婚して、世間的にも家庭的にも満ち足りた人生を送った。
  • 都々逸は、江戸後期の扇歌、そして都々逸中興の祖、初代・柳家三亀松がともに東京を主な活動場所としたことや、東京では60年以上も前から「都々逸ペンクラブしぐれ吟社」の活動が続いていることなどから、都々逸=江戸・東京のイメージが定着したようだ。
  • 胃潰瘍の手術を受けたとき麻酔を打たれた頭の中で唄いだす。
    ♪なんだ なんだなんだねえ
     こんな命のひとつやふたつ
     欲けくば上げましょ 熨斗つけて♪

  • ♪緋緬 肩から滑って 覗いた乳房 にっこり笑って 消す灯かり♪
    ♪吾妻橋とは 吾が妻橋よ そばに 渡しがついている♪
    ♪東路の あの弥次さんは 何故遅い わらじが切れたか 門止めかと 旅は道連れ 世は情け♪
    ♪もう一度 逢わせて下さい 逢うての上で 嫌なものなら 切れもする♪
    ♪逢いたさを じっとこらえて また明日の夜と 心だまして 寝るつらさ♪
    ♪ほととぎす 粋な声して ひとあしょ止めて 手をだしゃ お前は逃げるだろ♪
    ♪ねぇあなた もうこんなになっちゃったと 鬢(びん)かきあげて 忘れちゃいやよと 今のこと♪
    ♪鳴くが情かよ 鳴かぬが情か 蝉とほたるの根比べ 草と寝て 露に濡れてる 果報をもって 何が不足で 虫は鳴く♪
  • 粋と艶との三亀松ぶし。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    柳家三亀松
    日経新聞2004.11.28朝刊 半歩遅れの読書術「柳家三亀松の伝記」より抜粋。

(2004.12.21掲載)



▲都々逸で一世を風靡し、宝塚の娘役スターと結婚して、世間的にも家庭的にも満ち足りた人生を送った柳家三亀松。


◆「浮かれ三亀松」吉川潮(著)
しかしまあ、気風のいい芸人がいたもんだ――。三味線片手に大正末から戦後まで、芸の世界のトップに君臨し続けた柳家三亀松の一代記。

67年?の生涯

竹内 好
Yoshimi Takeuchi  【昭和期の中国文学者】

(1910.?〜1977.?=明治43年〜昭和52年)
死因?---?座

  • 長野県南佐久郡臼田町に生まれる。1933年(S8)武田泰淳らと中国文学研究会をつくり機関誌「中国文学月報」を発刊。 応召、復員後は、近代文学とくに魯迅の研究・翻訳にあたる。
  • また1954年「国民文学論」を発表し論争を展開するなど、日本と中国、日本文化などの問題をめぐり論壇で活躍した。
  • 1961年安保反対闘争後、都立大教授を辞し、その後、雑誌「中国」を主宰、独自の発言を行った。 著書に「魯迅」「不服従の遺産」61、評論集などがある。
  • 「毛沢東は、中共支配下の大陸に政治的統制によって思想的追従者を、つまり実践的矛盾をうみだしつつあることを恥ずべきであるが、日本に竹内好というひとりの思想家をもっていることを誇るべきだ。(「実践的矛盾について」1966.8「文藝」に掲載 「自立の思想的拠点−竹内好」1966.10徳間書店に収録された)初めて竹内好「魯迅」を読んだとき、どういったらいいのか分からないほどの衝撃を受けたものである。よくこれだけ中国を、魯迅を読み込める思想家がこの日本にいたものだ。しかし毛沢東の大いなる誤謬を目の前にして竹内好はさびしく死んでいってしまった」(1)。
  • 「竹内好という問い 」孫 歌著:「政治的正しさ」を引き換えにすることを恐れず,同時代史にかかわり続けることを自らに課した思想家・竹内好――1934年の卒業論文から60年代の論説にいたるまで,そのつど大きな反響を呼び起こした代表的論著を時代と串刺しにして読み解く著者の力技は,竹内が死して30年,ついに真の理解者を得たとの感を抱かせる」(2)。
  • 「旧臼田町に戦後まで残っていた木造三階建ての旅館料亭風の建物が母堂の生家。父君の東京転勤で幼少の思い出は刻まれなかったはずだが、夏の墓参は欠かさなかったというところに、竹内さんの郷土意識をかいま見ることができる。竹内家に婿養子として迎えられた父君の実家は松本近在の郷土で、縁戚にアララギ派の歌人・鋳金工芸作家の香取秀真(ほつま)や柳田国男の高弟楜沢勘内のいることなども年譜で初めて知った。柳条湖事件に端を発する「満州事変」の起こった1931年、東大文学部支那文学科に入学した竹内好は、郁達夫や魯迅の作品にめぐりあうことで、漢籍偏重の支那学とは全く異なる新しい潮流が大陸に生まれつつあることを知り、武田泰淳、岡崎俊夫、増田渉、松枝茂夫らと語らって「中国文学研究会」を組織していくことになる。滔々たる大陸侵略の潮流に叛く若い仲間の前途には、多くの障害が次々にまちかまえていたであろう。わけても日中戦争が泥沼化する中で、中国文学研究会のメンバーには狙い撃ちされるように「赤紙」がやってきて、大陸の戦場に駆りだされていくことになる。武田泰淳の『司馬遷』、竹内好の『魯迅』は召集令状にそなえて遺書のようにして書きあげられた記念碑的な作品であった。出生の直前『魯迅』を脱稿した竹内好は一兵卒として中国戦線に送られ、1945年8月、湖南省岳州で敗戦を迎え、1946年7月に復員した。戦後、竹内さんの評論活動はきわめて多面的であったが、戦時中の体験を踏まえて日本の思想、日本人の精神の根源的改造への希求にあった。その竹内好の著作が、いま中国で熱心に読まれ始めているという」(3)。
  • 「中国のことは竹内好に聞け」といわれたそうな。  

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    竹内 好
    (1)「吉本隆明鈔集6
    (2)「竹内好という問い
    (3)「たけうち よしみ 竹内好 研究よ興れ 井出孫六 (T) 竹内好(よしみ ...

(2007.06.07更新)




▲日本と中国、日本文化などの問題をめぐり論壇で活躍した竹内 好。

 

◆「竹内好論 」松本 健一著
竹内好(1910〜1977)は単なる中国文学者ではない、魯迅を精神の糧とし、戦争体験を反芻しつつ、近代日本への根源的批判者として問題提起を続けた自立の思想家であった。その生涯の課題=近代とは何か、中国論,ナショナリズム、アジア主義、日本イデオロギー等々を、戦後世代の第一人者が読み解く渾身の評伝。

67年?の生涯

三代目 玉川勝太郎
Katutarou Tamagawa   【浪曲師】

(1933.?〜2000.10.04.AM5:37)
肝臓ガンで死去---?座

  • 浪曲師、元日本浪曲協会会長。本名石渡栄太郎。東京都出身。自宅は文京区根岸2の16の3。
  • 14歳で浪曲師わかの浦弧舟に入門、同年2代目玉川勝太郎の門下に移り、福太郎と名乗る。
  • 23歳で東京・浅草国際劇場に初出演、2代目玉川勝太郎の娘婿になる。31歳で3代目勝太郎を襲名。テレビ番組にも出演し、人気を得た。主な演目に「天保水滸伝」「忠治山形屋」など。
  • 61〜63歳まで日本浪曲協会会長を務めたほか、同協会相談役、日本演芸家連合監事などを歴任。56歳で芸術祭賞を受賞。
  • 子どもの頃、ボクは同姓のよしみで親近感を覚えていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.02.11更新)




▲テレビ番組にも出演し、人気を得た三代目 玉川勝太郎。

67年?の生涯

若林奮
Isamu Wakabayashi   【犬になった彫刻家 】

(1936.?〜2003.?)
-死因?---?座

  • 東京都町田市に生まれ、1959年(昭和34)東京芸術大学彫刻科を卒業。鉄をおもな素材とするスクラップ彫刻風の作品で出発した。73年から1年間、文化庁海外派遣研修員としてヨーロッパに滞在、フランス、スペインの旧石器時代の洞窟壁画(どうくつへきが:→ 旧石器時代美術)やエジプトの古代遺跡に触発されて、スケールの大きい時空間と自然への省察を深めていく。
  • 1970年代後半の連作「振動尺」(鉄、木)は、自己の意識と外界との距離を計測する原器であり、その後の表現の基盤をなす代表作となった。同時期の、金属板を重ねあげた「100粒の雨滴」(銅、真鍮、鉄)連作は、表面を鉛でおおって見えない存在をしめす「大気中の緑色に属するもの」I・II(1982・1986)へとつながっていく。
  • 彫刻表現とは何かを問う真摯(しんし)な姿勢は内外で高く評価され、80年と86年のベネツィア・ビエンナーレに出品したのをはじめ、87年には東京国立近代美術館と京都国立近代美術館で、翌88年には北九州市立美術館で、あいついで大規模な個展が開催された。また90年(平成2)には町田市立国際版画美術館で版画、素描、彫刻展が、95年には東京国立近代美術館で「素描という出来事」展が開催されている。
  • 1980年代以降は、素材を自然そのものへと広げて、軽井沢の高輪美術館(現、セゾン現代美術館)庭園(1985)や、鹿児島県霧島アートの森の「4個の鉄に囲まれた優雅な樹々」(2000)、オランダのクレラー・ミュラー美術館の「オッテルロ・ミスト」(2001)などの屋外空間を生みだした。これらの作品に共通するのは、彫刻も作者自身も自然の大きな循環の中にあるという認識である。95年から、東京都下日の出町の二ツ塚ゴミ処分場の建設反対運動に参加し、敷地内のトラスト地(住民共有地)に「庭」を制作した。その静謐(せいひつ)な空間は、詩人吉増剛造により「緑の森の一角獣座」と名づけられ、処分場建設反対運動のシンボルとなっていたが、2000年、行政代執行により強制収用され、今はない。
  • 2002年、愛知県の豊田市美術館で50年近い創作の歴史を展示する大々的な個展が開催され、これにより03年に芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。
  • 「この彫刻家は、作品の素材である鉄という物質を「液体」ととらえる認識をはじめとして、植物の生長、地形の微妙な変化、自分の影を追う犬の行動などを凝視しつづけた、自然学者のような人だった」(1)。
  • 「若林奮 犬になった彫刻家 (単行本) 酒井 忠康 (著)みすず書房 5200円: 「鉄によって彫刻をつくるのではなく、彫刻によって鉄をつくる」若林奮(1936-2003)は、1950年代から鉄や銅、鉛などの金属素材を使って深い自然観にもとづく思索的な作品を創作し、内外の美術ファンを魅了しつづけた。この彫刻家を若き学芸員時代に「発見」した著者は、文学、哲学、自然科学など多岐にわたる「ことば=思索」をつうじて、無口で気難しいアーティストと心を通わせる。そして《残り元素》《振動尺》など難解な作品名をもつ彫刻に封じ込められた「鍵」を解き明かそうと、その手業のひとつひとつに懸命に心をくだいた。美術館学芸員として最初期の展覧会を企画、若林奮の存在を日本の美術界に知らしめる一方、著者は新進の評論家として独自の若林論・彫刻論を展開、飯島耕一、加藤郁乎、吉増剛造ら詩人たちとの仲立ちを行う。1980年代にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表作家として海外に紹介するなど、若林奮が病にたおれるまで、終生の理解者として、その激越な制作現場に立ち会ってきた。本書は、異才の彫刻家と同時代を伴走した著者の、30年余に及ぶ作家論・エッセイの集成である。「《ヴァリーズ》についての感想」「《緑の森の一角獣座》をめぐる断章」など書き下ろし評論数篇のほか、対談、備忘録、若林奮略年譜、作品写真を加えた」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    若林奮 - MSN エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
    (1)読売新聞2008.04.06 坂井忠康著『若林奮 犬になった彫刻家』の田中純による書評より抜粋。
    (2)「Amazon.co.jp: 若林奮 犬になった彫刻家: 酒井 忠康: 本

(2008.04.26掲載)




▲重い存在感をもつ金属彫刻のほか、繊細でみずみずしい版画、素描でも知られる彫刻家・若林奮。



◆《ポートレート》1989年 個人蔵


67年?の生涯

アントニオ・ガデス
Antonio Gades   【フラメンコ舞踊の巨匠】

(1936.11.?〜2004.07.20)
癌---?座

  • スペインのフラメンコダンサー、俳優、世界的な舞踊家で振付師。1936年11月、東部スペイン・アリカンテにて誕生。
  • 彼の生まれる一ヶ月前に、同年勃発したスペイン内戦に志願兵として出兵した共産主義者の父を追ってマドリードに移るが、内戦で父は重傷を負い、一家の生活は大変苦しいものだった。そのため、ガデスも11歳で学校を辞めて働くようになり、使い走りのボーイやカメラマンの助手、新聞社の植字工、闘牛士、ボクサー、サッカー選手などの職を転々。
  • 15歳の時、名舞踊家ピラール・ロペスの舞踊団に入る。
  • 1960年代初頭に自らの舞踊団を結成し、内外で活発な活動を展開。74年にガルシア・ロルカの戯曲に基づいて創作した「血の婚礼」で名声を確立。
  • 1980年代以降「カルメン」「炎」などの代表作を仕上げ、巨匠カルロス・サウラ監督と組んだ「血の婚礼」「カルメン」「恋は魔術師」などの映画でも人気を博した。
  • 無駄をそぎ落とした長身を駆使して、暗い情念をたたえた歯切れのよい踊りを披露した。スペインの土俗的な舞踊と思われていたフラメンコを現代的なセンスで読み直し、洗練された舞台芸術に昇華。
  • 熱烈な共和主義者で、1975年、フランコ政権に抗した5人の活動家が死刑宣告を受けた際、抗議の意味を込めて4年間踊りをやめた。
  • 日本にも1959年以降、度々来日。1991年の日本公演を最後に引退を表明したが、1994年に復活宣言し、日本でも公演を行った。
  • ほとばしる熱情と孤高の姿勢で生み出す作品と踊りは、スペインの伝統芸能フラメンコを芸術の域まで高め、人々に衝撃を与えた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「who is Antonio Gades?

(2004.07.23更新)




▲スペインのフラメンコダンサー、俳優、世界的な舞踊家で振付師・アントニオ・ガデス。

67年?の生涯

田原節子
Setsuko Tahara   【田原総一郎夫人】

(1936.?(08.13以降)〜2004.08.13)
乳ガン 多臓器不全---?座

  • エッセイスト。ジャーナリスト・田原総一郎の妻。
  • 早稲田大学文学部卒業後、日本テレビに入社。アナウンサーとして17年、CMプロデューサーとして10年勤務した後退社。
  • 1889年田原総一朗と結婚。現在、田原事務所代表を務める。
    乳がんを中心に医療、そして女性問題をテーマに各方面で執筆講演活動を行っていた。
  • 1998年10月に炎症性乳がんを発症、再発転移で抗がん剤治療等に取り組み、満5年生存を超えた。
  • 著書に総一朗との共著『私たちの愛』(講談社)、『がんだから上手に生きる』(海竜社)など。総一朗さんとの出会いや、がんとの闘病を2人で書いた「私たちの愛」は話題を呼んだ。
  • 「ウーマンリブに出会い、マスコミで働く女性たちと共に、「ウルフの会」を結成。田中美津さんらの「若者リブ」とは一線を画した、結婚・出産を経た30代の女たち「中年リブ」の急先鋒として活躍する」(1)。
  • 「田原節子(旧姓村上節子)さんは30年以上前の20代にニュースキャスターをしていた頃に田原総一郎と恋に落ちる。いわゆるW不倫。想いを貫き…30年以上の付き合いを経て田原総一郎氏と結婚する。田原敦子さんは田原総一郎と前妻との間のコドモ。(前妻とは死別)田原敦子さんが節子さんに初めてあったのは大学生の頃だと言う。娘は中学の頃から父親の不倫を冷静に見ていたという。今は父親の恋人だった節子さんと意気投合して仲良くしていると言う」(2)。
  • 「田原総一郎さんの妻、田原節子さんが乳癌で亡くなった。 「わたしたちの愛」という本は読んではいない。けれど、家庭を壊して結ばれた二人。その影で傷ついた人がいる限り、それを美談として、売りに出すのはいかがなものか。 純愛ならば、ひっそりと墓場まで持って行って欲しかった。 生前、妻が死んだら、僕も後を追って死ぬと公言していた、田原総一郎氏の今後は? 私の夫は、子供達を一人前に育てるまでは俺は死ねない。と私に宣言をした。 たのもしい限り!あの世からも、私は夫のケツを蹴飛ばし続けるであろう。 生きることは、死ぬよりも大変なこと」(3)。
  • (3)が載ってる山口真理子さんのブログ「まりこ節」がいい。必見!ご本人も乳癌告知を受けている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「Love Piece Club [INTERVIEW]
    (2)「内的宇宙 : BLOG
    (3) 「まりこ節

(2004.08.18更新)




▲乳がんを中心に医療、そして女性問題をテーマに各方面で執筆講演活動を行っていた田原節子。


67年?の生涯

松本弘子
Hiroko Matsumoto  【東洋人初のパリコレモデル】

(1936.?〜2003.06.20)
癌のためパリの病院で死去---?座

  • 東京生まれ。高校卒業後、アサヒグラフの表紙モデルを経て、フリーのファッション モデルとして活動。
  • 1957年(21歳)に来日したパリのデザイナー、ピエール・カルダン氏に認められ、 60年に渡仏。同年夏のパリ・コレクションにデビューし、東洋人初のパリコレモデルとなった。
  • 身長164センチ、日本人形のようなおかっぱの髪形と顔立ちが人気を集めパリの 花形モデルに。パリと日本を行き来して、ショーや雑誌などで活躍した。
  • フランス人と結婚し、 67年の長女出産を機にモデルを引退。その後もパリを拠点に、仏「ヴォーグ」誌の日本担当 編集者などを務め、日仏のファッションの交流に力を尽くした。
  • 1970年には「ヌーベルバーグの旗手」といわれた映画監督、故フランソワ・トリュフォー氏の作品「家庭」にも出演した。
  • 1996年にはセレクトショップを神戸にオープンさせた。長女のオリビアさんらによると、数年前に消化器系疾患を患い入院。以来、闘病生活を送っていたという。体調を崩し1999年で店舗を休止したが、晩年までファッション界のトップランナーとして走り続けた。
  • 「四十数年前、パリのイブ サンローランのモデルとして日本の松本弘子がデビューした時、黒髪のボブへャ−で本家欧米茶髪人の絶賛をあびた」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「茶髪(女性) (近ごろ想うこと

(2006.02.17掲載)



▲パリ、日本を舞台にトップモデルとして活躍した松本弘子。


◆『 NHK女性教室〜暮しの手芸:家庭着〜 』表紙モデル:松本弘子。





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人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
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