玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

70-71-72-73-74-75-76-77-78-79

age 72


50音インデックス


■72歳の
 シンクロニシティ


■72歳-?←戻る
マハーヴィラ
ゼノン
阿倍仲麻呂
弓削道鏡
西行
イブン=ルシュド
ピエロ・フランチェスカ
長谷川等伯
ヨアヒム・ウテワール
熊沢蕃山
三井高利
英 一蝶
木村安兵衛
廣池千九郎
野口米次郎
グッチオ・グッチ
カルロ・スカルパ
鶴岡政男
J・ティプトリー・Jr
マコ・イワマツ

■72歳-前半-1←戻る
ルイ・アルチュセール
棟方志功
ギュスターブ・モロー
ジョン・ウェイン
F・マルコス
佐佐木茂索
灰谷健次郎
佐藤春夫
ブルックナー
柳 宗悦
小林かいち
アレイスター・クロウリー
レナード・バーンスタイン
ホイジンガ
メルヴィル
ジョン・ロック
岸田吟香
榎本武揚
山田 守
遠藤幸雄
斎藤 真一
河西三省
三原 脩
マストロヤンニ

■72歳-前半-2
アイザック・アシモフ
内田吐夢
中村 研一
天野 太郎
エドムント・ナウマン
松村任三
齋藤秀雄
長谷川町子
毛利 輝元
石田 晴久
木暮 実千代
瀬尾春
いかりや長介
ポール・ヘニングセン
橋本 雅邦
根本 陸夫
深作欣二
木村伊兵衛
波多野 精一
ジャン・ギャバン
林 雅子

■72歳-後半-1→進む
徳川光圀
田坂具隆
司馬遼太郎
山本 嘉次郎
李垠/懿愍太子
名古屋 章
チャールズ・リンドバーグ
五島 昇
ショーペンハウエル
賀茂真淵
ヘルムート・グリーム
室生犀星
狩野探幽
ダン池田

■72歳-後半-2→進む
ルイ・パストゥール
西村真琴
徳田秋声
ホイットマン
ゲオルグ・カントール
川端康成
前田 隣
マリー・トラバース
芦屋雁之助
ヘンリー・ジェイムズ
赤塚 不二夫
ポル・ポト
児玉誉士夫
ハンス・ベルメール
青田 昇
西太后
モーリス・ドニ
イザベラ・バード
メンデレーエフ


■72歳のエポック


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72歳の語録

 

「我は我、人は人にてよく候」
(熊沢蕃山)

「大勢には、良きものと悪しきものとあり、大勢に逆行するもの、また順応するものは滅ぶ。順応しつつ真理を衛ものは残る」
(後略)



                         
72年3ヶ月と4日の生涯

アイザック・アシモフ
Isaac Asimov  【「ロボット工学三原則」の生みの親】

(1920.01.02〜1992.04.06)
死因?---山羊座

  • ロシア生れの米国のSF・推理作家、化学者、生化学者、科学評論家。1923年に家族とともにアメリカに移住しブルックリンで育つ。
  • ボストン大学で教鞭をとるかたわら執筆。SFだけにとどまらず著作はミステリ、科学エッセイや科学解説、歴史書、ユーモア小話など他分野に及び、総著作数は500冊近い。
  • 有名な「ロボット工学三原則」を生んだ連作ものや『ファウンデーション』3部作(31〜32歳)などのほか、推理小説、科学啓蒙書も多い。
  • デビュー作は1939年、アメージング・ストーリーズ誌に掲載された「真空漂流」。
  • 「ロボット三原則」をキミは知ってるか? 第一に、ロボットは人に危害を加えては行けない。また、人間に危害が及ぶのをだまって見過ごしては行けない。第二に、ロボットは人間に服従しなければならない。しかし、命令が一つめの内容に反した場合はこの限りではない。第三に、先の二つの内容に反しないかぎりにおいて、自分のみを守らなくてはならない。
    (なお、この文章の人間を家族に、ロボットを亭主に置き換えても成立する。亭主はロボットである。)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2004.05.16更新)




▲ロシア生れの米国のSF・推理作家・アイザック・アシモフ。

72年3ヶ月と12日の生涯

内田吐夢
Tomu Uchida     【大正・昭和期の映画監督】

(1898.04.26〜1970.08.07)
死因?---牡牛座

  • 岡山市に菓子店の息子として生まれる。本名・常次郎。中学校を2年で中退し、横浜のピアノ製作所に奉公に出る。
  • 1920年横浜に創立されたばかりの大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手を務める。その後、俳優も兼ねるようになり、『喜劇・元旦の撮影』に主演したのをはじめ、何本かの映画に出演する。同期に岡田時彦がいる。
  • 1922年、牧野教育映画に移り、『噫小西巡査』を衣笠貞之助と共同監督し監督デビュー。しかし、その後、旅役者の一座に混じって放浪生活に入り、旅役者や肉体労働者として浅草などで生活する。この体験は彼の作風に大きな影響を与えた。
  • 1926年、日活京都大将軍撮影所に入る。1927年監督に昇進し、喜劇を中心に撮る。1929年、小杉勇を主役に『生ける人形』を撮る。これ以来、小杉の強烈なキャラクターを効果的に使い、当時流行していた、左翼思想を盛り込んだ「傾向映画」の傑作を次々と生み出していく。
  • 1932年、村田実、伊藤大輔、田坂具隆らが、日活から独立し、新映画社を設立したときに行動を共にするが、程なく解散する。
  • 1933年、新興キネマに移るが、やがて日活多摩川撮影所に移る。そこで、『限りなき前進』、『土』など、後世に最高傑作と評せられる作品群を生み出す。
  • 1941年、会社の方針と合わず日活を去り、新会社設立の失敗の後、満州にわたり、満州映画協会に在籍する。
  • 終戦後、共産主義革命が進行する中国に残るが、1954年に日本に戻る。1955年に『血槍富士』を撮り、監督業に復帰。以降、『大菩薩峠』、『宮本武蔵』のような大作を発表する一方、 アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』、部落問題を底流に描いた『飢餓海峡』など、現代社会の弱者を鋭く照射した作品も発表し続けた。
  • 1970年『宮本武蔵』の続編で伊藤大輔の脚本を得た『真剣勝負』のロケ中に倒れ、亡くなった。享年72。
  • 「昭和45年4月、彼は「宮本武蔵」の別編たる中村錦之助主演の『真剣勝負』の撮影に入ってから、急速に衰弱しはじめたが、とみには入院を承知せず、また入院しても病院を抜け出して、ロケ先の御殿場へ宙を歩くような足取りで引き返した。登場人物に赤ん坊を使っているので、撮影が遅れると、赤ん坊が成長して変化してしまう、あるいはバックの自然の草木の色が変わってしまうことを怖れてのことであった。吐夢はしかし、やがて動けなくなった。巨体が48キロにまでなった。健康のときは化け物のような胃袋を持っていた彼が、食べたい物をメモして渡しても、それを買ってくると受けつけなかった。しかし女優などが見舞いにくると、その直前に酸素テントを取り払わせ、ベッドにあぐらをかいて呵々大笑し、見舞客が帰ると気息えんえんと横たわるのを常とした。結局『真剣勝負』は彼の手では完成せず、昭和45年8月7日夜明け方、「あと10年は生きたい。こんなに頭の中に作りたいものがたくさんあるのに」と嘆きつつ、死んだ。彼はその数年前から、胃を病んだり、肺を病んだり、心臓を病んだりしていた。彼自身は最後まで心臓動脈瘤のために入院していると思いこんでいたが、死後解剖されてはじめて前立腺から発生したガンが全身に転移したものであったことが明らかになった。小田原の部屋に残されていた貯金通帳の残高は、3万円であった。墓石には彼自身の筆になる「命1コマ 吐夢」の文字が刻まれている」(1)。
  • 「映画は一秒間に二十四コマの画が回転して映像を作り出します。自分の命はその一コマのようなものであるといっているのですが、人によって受け止め方は違うでしょう。人生は映画の一コマのように短いものだともとれるし、鮮烈であるとも考えられます。また、数々の命(一コマ)によって映画(世の中)ができ上がっており、自分もその中の一つに過ぎないといっているようにも思えるし、一コマ欠けても映画は完成できないように、人生はかけがえのないものであるといっているようにもとれます」(2)。
  • 息子は同じく映画監督の内田有作。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    内田吐夢-Wikipedia
    (1)「内田吐夢
    (2)「和田掘廟所 廟所だより

(2007.12.09掲載)



▲日本映画の創生期から戦後にいたるまで骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」・内田吐夢。






◆「私説  内田吐夢伝 」鈴木 尚之
並み外れた創作欲,納まらぬ放浪癖,込み入った家庭関係。墓碑銘は,「命1コマ内田吐夢」−『飢餓海峡』『宮本武蔵』『土』『限りなき前進』等々,日本映画史上に輝く名作を残した巨匠の矛盾に満ちた孤独な生涯の悲喜劇を,彼に師事した名シナリオライターが15年の歳月をかけて描ききった鎮魂の800枚。深作欣二解説。

 

 




72年3ヶ月と13日の生涯

中村 研一
Kenichi Nakamura  【洋画家】

(1895.05.15〜1967.08.28=明治28年〜昭和42年)
死因?---牡牛座

  • 福岡県宗像郡に生まれる。洋画家の中村琢二は実弟。1909年福岡県立中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。在学中に生涯の友となる三輪寿壮、日高信六郎らと出会い、児島善三郎らと「パレット会」を創立し西洋絵画を勉強する。
  • 1914年修猷館を卒業し、美校受験を志すが許されず京都に出て鹿子木孟郎の内弟子となる。
  • 1915年美校受験が許可され上京し本郷絵画研究所に入る。4月東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学ぶ。1919年第8回光風会展に『お茶の水風景』を出品し初入選する。
  • 1920年東京美術学校を卒業。『葡萄の葉陰』が第2回帝展で初入選し、翌1921年『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1923年パリに留学し、サロン・ドートンヌ会員となる。1928年帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞、翌1929年にも『若き日』が第10回帝展で特選を受賞する。そして、1930年『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞する。1931年には帝展の審査委員となり、その後も新文展、日展などと改名した官展の審査員を歴任する。
  • 戦時中は藤田嗣治らとともに軍の委嘱を受け作戦記録画を制作することとなり、1942年シンガポールからインドシナへの旅行中にコタ・バルに15日間滞在、『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、作戦記録画『コタ・バル』で朝日賞を受賞する。1945年5月東京大空襲により代々木の住居とアトリエを焼失し、終戦後は小金井市中町に転居し永住する。1950年日本芸術院会員に推挙される。
  • 1989年、中村の作品を彼の死後も守り続けてきた富子夫人が、それらを長く後世ヘ伝えたいと「中村研一記念美術館」を独力で開館しており、後に小金井市へ寄贈。改修などを経て、2006年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」となっている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    中村研一-Wikipedia
    中村研一記念小金井市立はけの森美術館−多摩のミュージアムガイド

(2008.09.23掲載)



▲画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げていた中村 研一。




72年3ヶ月と19日の生涯

天野 太郎
Taro Amano       【ライトの伝道者】

(1918.07.27〜1990.11.15)
心不全---獅子座

  • 1918年広島県呉市生れ
  • 第一早稲田高等学院を経て1942年、早稲田大学理工学部建築学科入学。在学中会津八一に師事し、大竹十一、小堀鐸二、円堂政嘉らと親交を持つ。
  • 卒業後に鹿島建設設計部に入社し(1945年〜1956年)、目白ヶ丘教会の設計のため遠藤新建築創作所に樋口清、吉原正らと出向する。1949年〜1951年 遠藤新建築創作所
  • 遠藤新の薫陶を受け、 F.L.ライトファウンデイションの奨学金を得て、1952年に遠藤の師であるF.L.ライト事務所タリアセンの下に遊学する(1952年〜1953年)。
  • 1953年 米国視察の後、帰国
  • 1955年には工学院大学建築学科助教授となり、教育の傍ら吉原正、武藤章 (建築家)とともに設計活動を始める。
  • 1959年 有限会社 天野太郎研究室開設
  • 1961年 トルコ・アンカラ中近東工科大学建築学科客員教授。1961年 文部省海外研究員として欧州建築事業視察の後、帰国
  • 1962年に、吉田五十八が退官した東京藝術大学に招聘され、教鞭をとりながらキャンパス計画を指揮する。(1962年〜1964年 東京芸術大学美術学部建築学科助教授、1964年 東京芸術大学美術学部建築学科教授)
  • 1965年 日本建築学生会議主催コンペ審査員
    1967年 天野太郎研究室から天野・吉原設計事務所に改称
    1983年 東京芸術大学美術学部建築学科名誉教授。
    1990年 従四位勲三等瑞宝章
  • 1966年(48歳)にパーキンソン病が発症し、1980年ごろには、入退院を繰り返すことになり、1990年 11月15日 心不全のため逝去(72歳)。
  • 「音羽の家」や「新花屋敷ゴルフクラブ」に代表されるような初期の作品には、ライトの影響がみられるが、「武蔵嵐山カントリークラブ」の頃には、アルヴァ・アールトの影響が読み取れるながらも、模倣には終わらない天野らしさを感じさせるヒューマンでのびやかな建築を創作している。後期の作品では、東京芸術大学のキャンパス計画にみられるような、周辺の環境に呼応した空間を持つモダニズムのデザインにまで発展している。日本の伝統的な建築空間を評価して、生活や社会に即した建築が建てられる環境とどうあるべきかを考察し、戦後のモダニズムを完成させようと努めた。
  • かつてボクがいた頃の芸大建築科には、東大から山本学治、早稲田から天野太郎といった別の血が流れていた。それが今や、近親相姦のように血が濃くになってしまった。嘆かわしい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    天野太郎-Wikipedia」

(2010.02.02掲載)



▲フランク・ロイド・ライトに学び、工学院大学、東京芸術大学で教鞭をとりながら、吉原正、武藤章らと設計活動を行った建築家・天野 太郎。


▲新花屋敷ゴルフクラブハウス




72年3ヶ月と21日の生涯---2004年生誕150年

エドムント・ナウマン
Edmund Naumann  【ナウマン像の命名由来者】

(1854.09.11〜1927.02.01)
死因?---乙女座

  • ドイツの地質学者。父ハインリッヒと母ヴィルヘルミーネの間に、姉1人、妹5人のきょうだいの長男としてザクセン王国マイセンに生まれる。
  • ドレスデンのチョッヘ学校で初等教育を受け、ドレスデン工業高等学校入学、1873年ミュンヘン大学へ入学。卒業後、バイエルン王国高等鉱山局助手となるが、1875年日本政府に東京開成学校鉱山学科の教授として招かれ、ドイツを出発。弱冠20才で来日。
  • 渡航中、東京開成学校鉱山学科が廃止され、文部省金石取引所(鉱物博物館)に勤務し、翌年、なんと22才の若さで東京大学地質学教室の初代教授となる。
  • 明治8年(1875年)〜明治18年(1885年)の10年間に行った主な仕事は、東京大学地質学教室の初代教授として地質家を養成したこと.また、現在、茨城県つくば市にある国の調査機関、地質調査所の設立に尽力し、設立後は、調査責任者として、日本列島の地質調査に従事し、日本初の本格的な地質図を完成させたこと。近代地質学を伝えたことと地質図をつくったことは、明治の殖産興業に大いに貢献。調査は北海道を除く地域で行われ、調査距離は1万kmにも及んだ。
  • 当時は、等高線のある地形図はなく、あったのは伊能図の海岸線の輪郭図のみで、地形図をつくりながら(測量しながら)、地質調査をするといった大変な仕事だった。
  • 特に日本の地質構造をまとめ、中央構造線とこれによる外帯と内帯の区分、フォッサ・マグナとこれによる西南日本と東北日本の区分など、現在も用いられている地質構造区分をしたことは有名。
  • また、野尻湖の湖底発掘で有名なナウマンゾウの名前は、日本でゾウの化石をはじめて研究した博士の名前にちなんでつけられた。
  • その後、1885年7月12日ドイツへ帰国(30才)。ミュンヘン大学の私講師やフランクフルトの鉱山会社に勤務。
  • 1886年ドレスデンの地学協会で『日本』と題して講演を行う。宴会の席で森鴎外が反論のスピーチを行う。フランクフルトで死去(72才)
  • 「国の調査機関である地質研究所の設立に尽力し、日本列島1万キロを調査して歩き初の地質図を完成させた。地震や火山活動、地すべりなど、自然の仕組みを解き明かす研究の先駆けとなった。列島を横断するフォッサマグナ(ラテン語で大きな溝)は、博士が発見して名称を提唱。ナウマン象も化石を研究した博士にちなんで命名された。日本に10年間滞在した博士は、ドイツに帰郷後、各地で日本について講演。その講演を聞いた留学中の若き森鴎外が反発して、新聞紙上で激しい論戦を展開したという」(1)。
  • ナウマン博士---、この懐かしき名前。中学か高校での地理の時間をかすかに思い出す。ドイツ語でケンカした若き日の森鴎外もたのもしい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ナウマン博士ってどんな人
    9月11日
    野尻湖ナウマン象博物館
    (1)「群馬県民リポーター 高橋俊之さんのページ6

(2006.04.13掲載)



▲青年時代のナウマン博士。


▲晩年のナウマン博士。



◆「ナウマン博士 データ ブック」博士の生涯・業績を豊富な資料をもとに解説。2005年特別展「生誕150周年記念 エドムント・ナウマン展」にあわせて刊行。




72年3ヶ月と25日の生涯

松村任三
Jinzo Matsumura  【東大理学部植物教室の基礎を築く】

(1856.01.09〜1928.05.04)
死因?---牡羊座

  • 我が国の植物学が、本草学から科学としての植物学に移る過渡期にあたって、その発展に尽くし、東京大学理学部植物教室の基礎を築く。
  • 水戸藩中山氏の家老松岡藩家老の松村儀夫の長男として、常陸国多賀郡下手綱村(現在の高萩市)に生まれる。幼少のころから、漢学を学び武芸に励む。明治3年(1870)14歳の時、松岡藩の貢進生として上京、大学南校(今の東京大学)に入学、ついで開成学校に在学して、英語で政治、法律、科学を学ぶ。
  • 1877年(明治10年)、東京帝国大学付属小石川植物園に勤務し、矢田部良吉教授の助手となり、植物学研究の道に入り、植物採集の旅を繰り返す。
  • 1884年、助教授となった任三は『日本植物名彙』など植物分類学研究上貴重な本を著す。さらに、1886年から2年間ドイツに留学し、植物解剖学の研究を深め、1893年には、東京帝国大学の第2植物学教授、並びに初代附属小石川植物園長などを勤め、現在の東京大学理学部植物学教室の基礎を築いた。東京大学には任三が採集したものを含め約170万点の植物標本がある。
  • 1912年には、生涯の大著である『帝国植物名鑑』を著し、名実ともに植物学の権威者となった。学名にマツムラの名を冠した植物は数多く見られる。
  • 大正11年(1922) 、任三は東京帝国大学教授を辞任、全生涯を捧げてきた理学部せき葉室を去った。晩年の任三は、言語学と仏教の研究に心を傾け、和歌の道にもいそしむ。「ひとはたた たへつたれつつねておきて すえはいやでもつちとなりぬる」といった歌が残されている。昭和3年(1928)5月4日、東京本郷の自宅で73歳の生涯を閉じた。
  • 牧野富太郎は、任三の教えと庇護を受けた。長男瞭は、人類学者として名高い。
  • 松村任三は、生涯にわたり150種以上の新植物を発見し、これらに学名を与えた。その一部は後の研究者によって、さらに分析が加えられ、今では、松村任三が提唱した学名全てが用いられていないが、ソメイヨシノやオオバヤシャブシ、ミネザクラ、カニコウモリ、オオカニコウモリ、モリアザミ、フジアザミ、ノハラアザミ、ヒトツボクロなどには、松村任三がつけた学名が今も用いられている。
  • 「松村任三は、入手がむずかしい学術雑誌や著作物を徹底的に集めました。こうした、書籍類が、現在東京大学の植物学図書室に多数所蔵されていますが、その植物学図書室の基礎を築いたのも松村任三の大きな業績の一つです」(1)。
  • 「任三は、植物学で名声を高めた牧野富太郎の恩人、恩師でもあり、牧野の名声は、任三の存在があって築き上げられたといっても過言ではない。晩年、任三は、専門以外の学問を学ぼうとして、エスペラント語や仏教の研究を始めた。「自分は学者としても、人間としても、恥ずかしくない人生を送りたい」という口ぐせが、任三の人柄をよくあらわしている」(2)。
  • 「任三は、俗事に頓着せず、敢えて新聞類を見なかったとも伝えられている。自らも「仙人学は世の風潮に構はずネーチャーを友として研究する 事肝要と存じます」とドイツからの手紙に述べている」(3)。
  • 「宮崎・鹿児島の両県では、2月から「さくら」なるタバコが限定発売されている様ですが、間もなく日本列島を駆け上る桜前線の代表選手、『ソメイヨシノ』やワサビ等の学名の名付け親でも有る、松村任三をリクエストしたいと思います」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)「松村 任三
    (3)「いばらき・もの知り博士
    (4)投稿者:Thori-Tungさん 2005.03.10(Thu) 21:59

(2005.03.13掲載)



▲『帝国植物名鑑』を著して名実ともに植物学の権威者となり、学名にマツムラの名を冠した植物は数多く見られる松村任三。


72年3ヶ月と26日の生涯

齋藤 秀雄
Hideo Saito   【斉藤メソッド(指揮法)】

(1902.05.23〜1974.09.18)
死因?---双子座

  • 1902年、英語学者として有名な斎藤秀三郎の次男として東京都に生まれた。音楽に興味を示したのは12歳の頃からで、最初に演奏したのはマンドリンだった。
  • 後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している。
  • 16歳からは宮内省にいたチェロ通の職員からチェロの勉強をはじめる。その後、暁星中学校を経て上智大学に入学したが、音楽に専念するため退学。
  • 22年には当時作曲家、指揮者として有名だった近衛秀麿(内閣総理大臣を務めた近衛文麿の実弟)に随伴して、ドイツに留学。ライプチヒ音楽学校に入学してチェロの名教師ユリウス・クレンゲルに学ぶ。
  • 1927年に帰国しNHK交響楽団の前身である新交響楽団に首席チェロ奏者として入団。翌1928年の第30回定期では指揮者としてデビューする。同年にはチェリストとしてもデビューを果たし、1929年に初のリサイタルを開催して成功を収める。
  • 1930年、ベルリンに留学し、ベルリン・ホッホシューレでエマーヌエル・フォイアーマンに師事する。ホッホシューレを修了後帰国し、再び新響の首席チェリストとして活動を続けるが、チェリストとして出演した演奏会で失敗したのがきっかけとなり、ソリストとしてはあまり活動しなくなる(太平洋戦争中には後述の指揮活動と並んで、チェリストとしてしばしば放送に出演している)。
  • 1936年、新響の招きで来日したヨーゼフ・ローゼンシュトックとの出会いは齋藤の将来を大きく変えた。齋藤はローゼンシュトックのありとあらゆるものを吸収しようと努力。ローゼンシュトックの音楽に対する情熱や指導方法は、戦後「齋藤メソッド」を確立する際大いに参考になった。
  • 1939年には新響初の海外公演(京城)に帯同するが、1941年、新響が翌年の日本交響楽団への改組に向けた準備に際し、齋藤がすでに日本ビクターと個人契約していることがネックとなり、同年秋のシーズン開幕を前に新響を退団。指揮者として独立することとなる。齋藤は松竹交響楽団や東京交響楽団などの首席指揮者を務め、1943年には戦時中の困難な状況の中、井口基成とベートーヴェンの「皇帝」を、1944年には巌本真理とベートーヴェンのロマンス第1番、第2番を録音する。
  • 終戦後、巌本や森正らの室内楽活動に手を貸す傍ら、1948年には井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を開設。これが後の桐朋学園の一連の音楽系学科開設につながっていく。齋藤は同学園にて弦楽部門を担当する。
  • 1952年には桐朋女子高校音楽科主任、1961年から1972年まで桐朋学園大学教授を歴任。
  • 1955年には海外に長期滞在することとなった井口の留守を預かる形で桐朋学園短期大学学長に就任。1964年には桐朋学園弦楽合奏団を結成し、アメリカ公演を行い、成功を収める。
  • 1967年には日本指揮者協会会長に就任。その後は新日本フィルハーモニー交響楽団顧問を務めた後、1974年9月18日に亡くなった。
  • 没後、齋藤の教え子が主体となってサイトウ・キネン・オーケストラやサイトウ・キネン・フェスティバル松本が創設され、2000年に亡くなった齋藤の夫人・齋藤秀子の遺言により財団法人ソニー音楽芸術振興会によって2002年に「齋藤秀雄メモリアル基金賞」が創設されるなど、齋藤に因む賞やイベントが多く行われている。
  • 指揮法教程:この本は1956年に音楽之友社から出版後瞬く間に売れ、レナード・バーンスタインから賞賛されるなど、斎藤の遺した最も大きな仕事の一つである。弟子の伊吹新一は、「指揮の運動をメソッド化して教える方法は、斎藤秀三郎の「斎藤英和中辞典」と多くの近似点を持っていること。またこの本に書かれたことは斎藤の教えそのものではなく、一般向けに内容を平易化しているために誤った理解がなされていること」を力説している。また、斎藤の没後、小澤征爾など斎藤のもとで指導を受けた門下生が編集委員となり、英訳版である“ THE SAITO CONDUCTING METHOD ”が音楽之友社より出版された。
  • 「たまさん 早速に、斉藤秀雄ありがとうございました。小生はチェリストや指揮者としての活躍よりも、音楽教育者としての斉藤先生に大きな興味をもっています。この間の事情は、周辺の人や音楽関係者130人への取材から成ったという中丸美繪著「喜遊曲、鳴りやまず」に詳しいです。本の宣伝文句を書いておきます。
    1 チェリストから指揮者へ転身し、やがて小沢征爾、藤原真理ら世界的音楽家を育てあげた斎藤は、その頑固な性格と鬼気迫る指導で誰もが恐れをなした天才的教育者だった。家庭内の問題や周囲との対立をよそに、子供の音楽教育にも情熱を注いだ執念の源とは。戦前戦後の音楽界の動向を描きつつ彼の内面に迫った感動の評伝!日本エッセイスト・クラブ賞、ミュージック・ペンクラブ賞受賞。
    2 賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」の楽長のモデルは、斎藤だった?  小沢征爾、秋山和慶、堤剛、岩崎洸、藤原真理、前橋汀子…。多くの逸材たちはいかに鍛えられたか。鬼教師の情熱一途の生涯。
    蛇足:宮沢賢治はチェロを独学で学んで弾いたと言われていますが、実は斉藤先生にちょこっと習ったのではないかとも・・・。今、その情報源が見つからないのが残念です」(1)。
  • 「下記のサイトには、03'/11/07の研究セミナー録が此方に載って居りますが、此れに依りますと'26/12/03〜29のチェロを携えての上京の際に、賢治に僅か3日間だけのレッスンを行なったのは、新交響楽団員の大津三郎と言う人だった模様です。こちら」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    齋藤秀雄-Wikipedia
    (1)投稿者:ユリウスさん..2007/ 8/31 10:04:21(金) [2273]
    (2)投稿者:Thori-Tung さん..2007/ 8/31 11:28:09(金) [2274]

(2007.09.10更新)




▲チェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家・齋藤 秀雄。


72年3ヶ月と27日の生涯

長谷川町子
Machiko Hasegawa   【『サザエさん』の作者】

(1920.01.30〜1992.05.27)
冠動脈硬化症による心不全---水瓶座

  • 佐賀県生れ。山脇高等女学校卒。1934年田河水泡に師事。
  • 26〜54歳で新聞連載した『サザエさん』などでほのぼのとした笑いを提供し、家庭漫画の代表として広く愛された。ほかに『エプロンおばさん』『いじわるばあさん』など。1992年国民栄誉賞(第10号死後追贈)。
  • ある時人に勧められてこの「サザエさん」を自費出版に近い形で出版。当時彼女らは本の取引のシステムを知らず、1巻目を大手の取次店が受け取ってくれたため気をよくして2巻目も作る。
  • ところがそこに1巻目の返本の山が押し寄せてきて、2巻目は扱わないと取次店から通告されてしまう。本のサイズが横長の変形版であったため本棚に並べにくかったこともあって全く売れなかったということで、家が1巻の返本と2巻の未出荷本の山で埋まる。
  • どうしよう?と青くなる町子さんと姉の毬子さんに対して姉妹の母はひとこと「サイズが悪かったというのだから普通のサイズに直して次の巻を出せばいい」と。「でもお金がもうないよ」「借金すればいい」その3巻も返本されてきたらお金も返せないし家が本で埋れて住めなくなる!と姉妹は心配。
  • それでもこの無謀な母の言葉に従ってサイズを直して3巻を作り、取次店が扱ってくれないので荷物を抱えて直接本屋さんを巡って売り込む毎日が続く。
  • すると幸いなことにこれがポツポツと売れ始め、その内1巻や2巻もないか?という問い合わせが少しずつやって来る。
    おそるおそる「ちょっとサイズが違うんですが」と言うと、本屋さんも構わないと言ってくれ、おかげでやっと在庫の山は解消して長谷川家は人が住める状態にもどったとさ。
  • 教訓:2度失敗したら3度目に挑戦せよ。
  • 「70歳を過ぎてから、同居の姉と3つの約束をしていた。
    1-どんな病気にかかっても入院はしない。
    2-手術を受けない。
    3-葬儀、告別式はしない。
    この遺志のとおり、納骨式の翌日に世間に伝えられ、新聞報道はその翌日でした。小生は感銘を受けました。−荒俣宏監修、「知識人99人の死に方」を参考にしました。−」(1)。
  • 2006年、「サザエさん」が生誕60年を迎えるという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.12.14(Wed) 18:23[815]

(2006.08.09更新)


◎従容としての死


▲『サザエさん』で知られる漫画家・長谷川町子。


72年3ヶ月と29日の生涯

毛利 輝元
Terumoto Mouri 
     【安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名】

(1553.02.04〜1625.06.02=天文22年1月22日〜寛永2年4月27日)
死因?---水瓶座

  • 天文22年(1553年)1月22日、毛利元就の嫡男・毛利隆元の嫡男として安芸(現在の広島県)に生まれる。幼名は幸鶴丸。永禄6年(1563年)に父・隆元が急死したため、11歳で家督を継ぐ。しかし若年のため、祖父・元就が実権を掌握し、政治・軍事を執行した。
  • 永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝より「輝」の一字を受けて元服し、輝元と名乗り、同年の月山富田城で初陣を飾る。
  • 元亀2年(1571年)、祖父・元就が死去すると、毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受け、親政を開始する。天正2年(1574年)には右馬頭に任官した。
  • その後、輝元は中国地方の覇者となるべく各地に勢力を拡大していく。元就の時代からの敵対勢力である尼子勝久や大友宗麟らとも戦い、これらに勝利し、九州や中国地方に勢力を拡大し続けていた。
  • ところが天正4年(1576年)2月、織田信長によって追われた将軍・足利義昭(義輝の弟)が転がり込み、保護せざるを得ない状況となる。さらに石山本願寺が挙兵すると、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行うなどしたことから、信長と対立する。当時、織田軍は越後の強敵・上杉謙信に対して軍を集中していたことも優位に働き、緒戦の毛利軍は連戦連勝し、7月には第一次木津川口の戦いで織田水軍を破り、大勝利を収めた。
  • また、天正6年(1578年)7月には上月城の戦いで、羽柴秀吉・尼子連合軍との決戦に及び、羽柴秀吉は三木城の別所長治の反乱により退路を塞がれることを恐れて転進。上月城に残された尼子勝久・山中幸盛ら尼子残党軍を滅ぼし、織田氏に対して優位に立つ。
  • しかし3月に上杉謙信が死去、更に11月の第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に敗北を喫し、毛利水軍が壊滅するなど、次第に戦況は毛利側の不利となっていく。天正7年(1579年)には毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が織田信長に通じて、毛利氏から離反した。
  • 天正8年(1580年)1月には、織田軍中国攻略の指揮官である羽柴秀吉が、播磨三木城を長期に渡って包囲した結果、三木城は開城、別所長治は自害する(三木合戦)。翌天正9年(1581年)には因幡鳥取城も兵糧攻めにより開城。毛利氏の名将・吉川経家が自害する。これに対して輝元も叔父たちと共に出陣するが、信長と通じた豊後の大友宗麟が西から、山陰からも信長と通じた南条元続らが侵攻してくるなど、次第に追い込まれてゆく。
  • 天正10年(1582年)4月、羽柴秀吉は毛利氏の忠臣で、勇名を馳せている清水宗治が籠もる備中高松城を攻撃する。攻防戦の最中の同年6月2日、京都本能寺にて本能寺の変が発生。明智光秀の謀反により織田信長は自害した。秀吉は信長の死を秘密にしたまま毛利氏との和睦を模索し、毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に働きかけた。戦況の不利を悟り、和睦を願っていた輝元や小早川隆景らはこの和睦を受諾する。結果、備中高松城は開城し、城主・清水宗治は切腹。こうして毛利氏は危機を脱した。
  • 信長の死後、中央で羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を巡り火花を散らし始めると、輝元は勝家・秀吉の双方から味方になるよう誘いを受けたが、時局を見る必要性もあり、最終的には中立を保った。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには協力しなかったものの、秀吉側には戦勝祝いを贈っている(資料が残っていないだけで、柴田側にも同様に戦勝祝いを贈っていた可能性がある)。
  • 賤ヶ岳の合戦後、天下人を羽柴秀吉と見定めて接近する。人質として輝元自身よりは年少であるが、叔父の毛利元総(のち秀包)や従兄弟の吉川経言を差し出し、秀吉に臣従した。その後は秀吉の命令で、天正13年(1585年)の四国征伐、天正14年(1586年)の九州征伐にも先鋒として参加し、武功を挙げ、秀吉の天下統一に大きく寄与した。その結果、秀吉より周防・長門国・安芸・石見・出雲・備後など120万5,000石の所領を安堵された。
  • 天正17年(1589年)、当時の交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城の築城を開始。天正19年(1591年)には、長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城を廃して、まだ工事中であった広島城に入った。
  • 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の2度の朝鮮出兵にも、主力軍として兵3万を派遣した。これらの功績から慶長2年(1597年)、秀吉より叔父の隆景とともに五大老に任じられた。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉死去の際、臨終間近の秀吉に、遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。
  • 慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に石田三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、徳川家康に次ぐ実力を持つ毛利輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾。
  • 輝元は7月17日、三成らに擁されて大坂城西の丸に入った。その後は西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させるに止まった。そして三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去したのである。
  • 家康率いる東軍と三成率いる西軍の争いで、西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、その約束を反故にして、毛利輝元を改易、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居、秀就への周防・長門2ヶ国の安堵となり、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封されたのである。
  • 関ヶ原の戦い後の10月、輝元は剃髪して幻庵宗瑞と称し、嫡男の毛利秀就に家督を譲ったとされている。これは徳川家康が輝元に西軍総大将としての責任を問い隠居とし、周防・長門2カ国は秀就を宛名として与えたためである。実際にはこれ以後も法体のまま実質的な藩主の座にあった。慶長8年(1603年)には、輝元は江戸に出向き謝罪し、翌慶長9年(1604年)、長門萩城を築城し、居城とした。
  • 慶長19年(1614年)からの大坂の役においては、冬の陣で密かに重臣の内藤元盛を佐野道可と称させて大坂城に送り込む一方で(軍資金を提供したとも)、家康の命を受けると病を押して東軍として出陣するが、さしたる戦闘を毛利はほとんど行わないまま和議が豊臣・徳川の間で結ばれる。しかし、夏の陣ではなかなか出陣命令が出ず、痺れをきらした秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦った(この行為は結果として家康から賞賛された)。
  • この大阪の役の軍役や江戸城などの手伝普請、江戸藩邸の建設でかさむ借財や、関ヶ原以後に生じた家中の分裂を解消すべく腐心した。
  • 元和9年(1623年)、正式に隠居した。
  • 寛永2年(1625年)4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73(満72歳没)。このとき、長井治朗左衛門元房という武将が殉死している(元房の墓所は輝元夫婦と同じ)。
    山口県萩市天樹院跡地にある毛利輝元の墓所
    毛利輝元夫妻の墓
    墓所内にある輝元の火葬場跡


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    毛利輝元-Wikipedia

(2009.04.09掲載)



▲豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立された長州藩初代藩主毛利 輝元。

72年4ヶ月と11日の生涯

石田 晴久
Haruhisa Ishida      【情報工学者】

(1936.10.30〜 2009.03.09 AM7:00)
心筋梗塞---蠍座

  • 東京大学理学部物理学科修士課程卒業。東京大学名誉教授、サイバー大学IT総合学部長。茨城県つくば市出身。
  • マサチューセッツ工科大学研究員、電気通信大学助教授を経て、1970年に東京大学大型計算機センター助教授に就任。1982年に同教授となり、1997年に退官。その後多摩美術大学に移り情報デザイン学科教授・メディアセンター所長を務めたが、2007年3月に同大学を退職。このほか日本ネットワークセキュリティ協会会長も務めていたが、同年6月に特別顧問へと退いた。
  • 日本インターネット協会(IAjapan)名誉会長、ISOC Board of Trustees (1993-1998)。
  • パソコン番組「コンピュートないと」(1983年、テレビ東京)の初代司会者を務めたことがある。また2005年には会津大学の学長選挙に立候補したが落選している。
  • 2009年3月9日(月曜日)午前7時00分、心筋梗塞のため東京都内の病院にて逝去。72歳没。
  • 東京大学時代には大型計算機センター長として、慶應義塾大学の村井純らと共に日本におけるUNIX、インターネットの基礎を築いた。またかつてのC言語のリファレンス本であった「The C Programming Language」(通称「K&R」)の日本語版「プログラミング言語C」の訳者としても有名。「プログラミング言語C」をはじめ、UNIX関連の著書、訳書を多数執筆した。
  • UNIX、C言語のほかUCSD Pascalの紹介も行っているほか、フリーソフトウェア大賞創設メンバーの一人でもある。
  • 「さて、氏は一週間程前にSkype(世界中と話せる無料電話)でヴァーチャル会議をして居たそうですが、其の後に突然心筋梗塞を起こして倒れ、入院してバイパス手術を施した後は着実に回復に向かって居た様でして、前日も病院内を歩いて居たのだそうですが、当日朝には容態が急変し慌ただしく旅立たれたとの事です。 何れにしましても、村井純氏が始めた我が国初のネットワークJUNETは、「村井君。3つ以上つながってはじめてネットワークと言うのだよ」と言う氏の提言に依って形を成し、以降は単に計算機同士を繋ぐだけのモノのでは無く、其の後ろにいる人々を繋ぎ合わせる存在として、驚異的な発展を遂げて来た事は既に皆様良くご承知の通りです。こちら」(1)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    石田晴久-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 3/13 08:19:09(金) [4435]

(2009.03.14更新)



▲「K&R」の愛称で知られる教科書『プログラミング言語C』の翻訳などを通して、日本におけるUNIXオペレーティングシステムおよびC言語の普及に大きく寄与し、インターネットの礎に多大な貢献のあった東京大学名誉教授の石田晴久。

72年4ヶ月と13日の生涯

木暮 実千代
Michiyo Kogure  【妖艶な「ヴァンプ女優」】

(1918.01.31〜1990.06.13)
心不全---水瓶座

  • 山口県下関市彦島福浦町出身。和田 つま。梅光女学院を経て日本大学芸術学部に入学。在学中の1938年、松竹に入社。入社当時は高峰三枝子、桑野通子、水戸光子らが幹部であったが1年余りで準幹部から幹部に昇進。
  • 日本人離れしたルックスとスタイルに加え、悩殺的でコケティッシュな色気もあり、純情可憐型が主流の松竹では恋敵役が多かった。そのため、女性ファンからは敬遠されたが、学生や若いサラリーマンなど男性ファンには根強い人気があった。
  • 1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚。マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満州に渡り、辛酸な生活を味わった。帰国した翌年の1947年松竹に復帰し、女優業を再開した。
  • 戦前と同じく妖艶な悪女役が多かったが、終戦後の開放された世相の中でそれは生き生きとした精彩を放ち、1949年の映画『青い山脈』では芸者に扮し、妖艶かつ軽妙な演技で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞した。その後も『自由学校』、『お茶漬の味』、『祇園囃子』、『宮本武蔵』など生涯にわたって350本以上の映画に出演した他、後年はテレビドラマや舞台でも活躍した。
  • また、テレビのCMに出た女優第一号であり、ジュジュ化粧品のマダム・ジュジュ、三洋電機のサンヨー夫人として長年親しまれた。
  • 一方ボランティア活動にも熱心であり、1957年に群馬県にある「鐘の鳴る丘少年の家」の後援会長に就任。
  • 1973年からは法務大臣認定の保護司となった。
  • 1980年には日本中国留学生研修生援護協会常任理事になり、中国留学生を自宅に寄宿させた。
  • 1990年6月13日、心不全のため死去。享年73(72歳没)。役柄のイメージとは異なり、実生活では良妻賢母としても知られた。
  • 元宝塚歌劇団娘役の女優・檀れいは「溝口健二作品の木暮さんが憧れ」と語っている。
  • しばしば「小暮実千代」と誤記される。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    木暮実千代-Wikipedia

(2009.02.17更新)



▲女優としての成功だけでなく、実業家、ボランティア活動家としても活躍した木暮 実千代。

72年4ヶ月と19日の生涯

瀬尾春
Haru Seo      【バー「らどんな」経営者】

(1919.03.01~1991.07.20=大正8〜平成3)
肝硬変で死去---魚座

  • 東京麻布生まれ。関東大震災で罹災ののち、瀬尾家の養女になる。
  • 17歳から銀座のカフェで女給として働き始める。1938年、恋人を追って上海に渡る。
  • 1946年に帰国後、ふたたび銀座に戻り、1949年、「らどんな」を開店する。
  • 同店の馴染み客には、高見順(作家)、三船敏郎(俳優)、宇野重吉(俳優)、永野重雄(元新日鉄会長)、五島昇(元東京急行電鉄社長・会長)、今里廣記(元日本精工社長)をはじめとする多くの文化人、政財界人が名を連ねた。
  • 慈恵医科大付属病院で死去。享年72歳。葬儀・告別式は、五島昇の長男・哲の提案で「らどんな」で行われた。
  • 死後、「らどんな」は同店で働いていた川崎千鶴子によって引き継がれるが、2007年に閉店した。
  • 瀬尾は“上海お春”の異名ををとった上海時代、児玉機関の一員だった石丸と知り合い、戦後再会して男女の仲となった。(中略)「らどんな」でトラブルがあったとき、里見が出て行って揉め事を収めたこともあり、里見は酒も飲めないのに、「らどんな」にはよく行っていたという。(『阿片王』(佐野眞一/新潮文庫))
  • 以前suiminsha さんから「瀬尾春」のりクエストいただいたのですが、ボクの浅学により「承りました」と言える状況にありませんでした。そこで律儀にもsuiminsha さんがバイボを作ってメールを送っていただきました。感謝です。彼女の肖像も探しています!
  • 「瀬尾春」の一代記、『銀座らどんな物語』(大下英治/講談社)の著者あとがきに記された次の一節が、瀬尾春の人柄と彼女が人生を託した「らどんな」の魅力をよく伝えているように思えましたので、紹介します。〈『らどんな』の灯りは、他のクラブとちがい、いつまでも古めかしいランプであった。お春さんが、ぬくもりのあるランプにこだわりつづけたからである。おそらく、『らどんな』の常連たちにとっては、お春さんのこころの奥にある無垢さが、ランプの灯りのようにぬくもりを感じさせたにちがいない。客たちも、お春さんの無垢さにふれ、いつもは戦いの中で心の底にしまいこんでいる無垢を安心して取り出し、テーブルの上に置き、無邪気なひとときをすごしたのであろう〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    『朝日新聞』1991.7.21訃報欄
    『銀座らどんな物語』大下英治(講談社)
    (1)投稿者:suiminsha さん..2009/ 6/22 19:21:54(月) [5209]

(2009.06.23更新)


★肖像を探しています。

▲沢山の文人・経済人に愛された「らどんな」の名物ママ・瀬尾春。

72年4ヶ月と19日の生涯

いかりや長介
Tyousuke Ikariya  【「ザ・ドリフターズ」のリーダー】

(1931.11.01〜2004.03.20PM03:30)
原発不明頸部リンパ節がん---山羊座

  • 本名・碇矢長一。東京・墨田区生まれ。
  • 戦時中に静岡県に疎開し、少年時代を過ごした。高校を中退後、職を転々とした。その後、東京で親せきの洋品店を手伝ううち、アマチュアのハワイアンバンドのベース奏者になったことがきっかけで芸能界へ。 音楽好きが高じて61年にジミー時田さんのバンドに加入。
  • 1962年、加藤茶、小野ヤスシらと共にウエスタンとロックをこなすバンド「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加わった。
  • 1964年に故・荒井注さん、加藤茶、高木ブー、仲本工事と「ザ・ドリフターズ」を結成、リーダーを務める。日本テレビの「ホイホイ・ミュージック・スクール」でデビューし、楽器を使ったギャグでパンチのある笑いを送り出した。
  • 1966年ザ・ビートルズの来日公演では前座を務めた。1967年春、TBSの「ザ・ドリフターズ・ドン」に出演。
  • 1969年、生中継番組「8時だヨ! 全員集合」がスタートし、国民的人気者に。「オイッス!」「いってみよー」「ダメだこりゃ」などのギャグも流行させた。大がかりな舞台装置と体当たりのギャグが子どもたちの圧倒的な支持を受け、「お化け番組」の異名を残した。同時に、「食べ物を粗末にする」といった批判や、ストリップまがいの踊りなどで「俗悪番組」とも呼ばれた。
  • 1985年に「8時だヨ! 全員集合」が終了した後は、映画やテレビドラマで渋い脇役として精力的に新境地をひらいて行った。俳優としても活躍し、「踊る大捜査線」(フジ)、「火曜サスペンス劇場 取調室」シリーズ(日テレ)など多くのドラマ、映画、舞台に出演。
  • 黒澤明監督の「夢」(1990年)、山田洋次監督の「息子」(1991年)などに出演、1998年の大ヒット映画「踊る大捜査線」(2003年に続編)では、日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞に選ばれた。
  • 2003年5月、原発不明頸部(けいぶ)リンパ節がんと診断され、治療を受けた。同年7月に芸能活動を再開、ドラマなどに出演していた。
  • 「スラップスティックコメディーが大好きで、日本の舞台上でそれを実現した人だった。私がTBSにいた頃、長さんの横で演出を学ばせてもらい、「全員集合」も3本演出したことがある。とにかく笑いに命を懸けていた人で、才能というより粘り強さで笑いを追う姿勢をたたき込まれた。元々音楽から入った人だけに、その時代時代のリズムをつかむのがうまかったのだろう。〈作家・演出家の久世光彦さんの話〉
  • 「 すごい勢いで、バンバン描いてますね。投稿の度、拍手しています。でも・・・これ、いかりや長介に見えないんですけど? 本当にいかりやさんでしょうか?」(1)。
  • 「此のイラストの元ネタと成った某ビールのTV-CFは、放映当時には可成りの評判を呼んだ筈なのですけれど………。こちら」(2)。
  • 「 私の友達曰く「禿てからカッコイイ役者はショーン・コネリーといかりや長介さんだけだ」同感です。単独で俳優活動に入ってからスゴイ存在感でした。あと十年生きて活動して欲しかったです」(3)。
  • 「 昔の上司が、いかりやの没後、「いかりや長介見たいなブッサイクな顔して…」と言ったので、ムッとして、「いやぁ〜、俺の中では、いかりやは英雄なんですが…」と、上司に軽く楯突いた事があります(苦笑)175cmと、今はともかくドリフ・昭和一桁の中では長身ということも相まって、コメディアンとして、俳優として、いかりや長介は後世に語るべきカッコイイ存在だと思います」(4)。
  • 「Thori-Tungさん、リンクありがとうございました。小生、ベルギーに17年以上住んでおり、いかりや長介のイメージも『ドリフ』で止まっており、大城さん、大変失礼しました。いかりや長介がこんなに渋く、かっこよくなっていたとは知りませんでした。ホント、かっこいいですね」(5)。
  • 「自分、小さい頃ドリフを見て育ったのでドリフのいかりや長介にしようかなとも思ったのですが、なんだか役者になってからの渋さと存在感が非常に好きになったので、そちらのほうを描かせてもらいました。皆さん、フォロー有難うございます。みさん、気にしてませんので!頑張って描きまーす」(6)。
  • かつて、瀬田のスポーツジムで、黙々と筋トレをしていた姿が印象的だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「いかりや長介さん死去」
    (1)投稿者:みさん..2009/ 7/29 02:16:39(水) [5557]
    (2)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 7/29 06:14:40(水) [5562]
    (3)投稿者:Miwa さん..2009/ 7/29 07:14:54(水) [5567]
    (4)投稿者:コミバナ さん..2009/ 7/29 17:20:49(水) [5571]
    (5)投稿者:みさん..2009/ 7/29 18:32:33(水) [5572]
    (6)投稿者:大城 さん..2009/ 7/30 00:54:10(木) [5579]

(2009.07.30更新)



▲人気番組「8時だヨ! 全員集合」でテレビのお笑いを席巻した「ザ・ドリフターズ」のリーダー、コメディアンで俳優・いかりや長介。
(イラスト 大城さん)

72年4ヶ月と22日の生涯

ポール・ヘニングセン
Poul Henningsen  【ライティング・セオリーの基礎

(1894.09.09〜1967.01.31)
死因?---乙女座

  • デンマークの女優アグネス・へニングセンを母として、デンマークのコペンハーゲンに生まれた。1911年から14年にフレデリクスベアのテクニカル・スクールで、1914年から1917年にコペンハーゲンのテクニカル・カレッジで学ぶ。
  • 1916年インテリアデザインの習作として初めてカットガラスのシャンデリアをデザイン。1919年にカールスバーグ社のためにシャンデリアをデザイン。また最初の建築設計契約となるデンマーク学生ボートクラブを設計した。
  • 1924年マルチシェードを鏡面仕上げした器具をデザインし、なだらかな配光とグレアの減少を試みる。25年のパリ工芸博覧会へのデンマーク参加に先立ち開かれた照明デザインコンペで入選、ルイスポールセン社との協力を開始。 1925年から 26年にかけ、ルイスポールセン社と共同でコペンハーゲンのフォーラム展示会場の照明デザイン契約を取得。今日<PHランプ>として知られる、三枚シェードで光を拡散・反射させるランプの原型がこのプロジェクトで生まれた。
  • 照明器具以外にもクロームとセルロイド製のグランドピアノやスチールパイプ製家具、バスルーム用の金物、書き物机など実にさまざまなものをデザインする。
  • 1941年から1949年にかけ(途中大戦のためスウェーデンに移住)、デンマーク チボリ公園用の照明器具をデザイン。
  • 1958年フロスト電球のグレアを完全にカットする「PH5」、コペンハーゲンのランジェリンパビリオンに「ARTICHOKE」や「SNOWBALL」、「PH4-3」など数々の名作を世に生み出した。
  • その生涯において200種類以上のランプをデザインしたが、彼が意図したのは単なる照明器具のバリエーションではなく,照らし出される人や物、あるいは空間を理想的に見せるための「良質な光」の追求にほかならない。
  • 光の色、グレア、陰影といったような照明の基本事項をキーワードとしたヘニングセンの光に関する考察は、今日の照明文化においてもなお、重要な意義を持ち続けている。
  • 「伝統的な機能主義建築をキャリアのスタートとした後、彼の興味は照明分野に移っていきました。また、活動領域は文筆活動にも広がり、ジャーナリスト、作家としても活躍しています。第二次大戦初期、コペンハーゲンのティヴォリ公園の主任アーキテクトも勤めましたが、ドイツ軍占領時には他の多くの芸術家たちと同様、スウェーデンに亡命し、亡命先のスウェーデンではすぐさまデンマーク人アーティスト・コミュニティーの中心的人物となりました。ルイスポールセン社とのコラボレーションは1925年に始まり、1967年に亡くなるまで続きました。ルイスポールセン社は今日までも、へニングセンの天才の恩恵を受けています。ポール・へニングセンは、ルイスポールセン社の広報誌 「NYT」 の最初の編集者となりました。この 「NYT」 誌は、当時のルイスポールセン社CEO、ソーフス・カストラップ・オルセンが、デンマークの新聞紙からライターとしての活動の場を追われたへニングセンに、プレゼントとして提供したものです。(彼の政治的、文化的意見は当時、かなり急進的なものでした。)ポール・へニングセンがパイオニアとして切り開いてきた照明分野の業績 -影と光、グレア、光による色の再現、そしてそれら光の特性を人間の福利に結びつくように利用すること -は、いまもルイスポールセン社が実践するライティング・セオリーの基礎となっています」(1)。
  • 「今からかれこれ15年も前になるが、デンマークで2年ほど学生として暮らしていたことがある。その時にポール・ヘニングセン(1894〜1967・略してPH)と会ったことがある。ロングセラーの照明器具「PHランプ」のデザインで有名なデンマークの文化人だ。場所は、コペンハーゲン大学医学部のPanum Institute。解剖学の標本室。当時、同じ学生寮に住んでいた医学部の学生が、私がデザインの勉強をしているからといって、関係者以外立ち入り禁止の部屋に連れて行ってくれた。---」(2)。
  • 「バイボのアルネ・ヤコブセンにもあったスウェーデン亡命は、1943年にヘニングセン夫妻とアルネ・ヤコブセン夫妻4人の手漕ぎボートでだったそうです。こちら」(3)。
  • 「彼の言葉の中から少し、ご参考までに。
    "Faith has never moved anything at all. It is doubt that moves".
    (信念があれば何事にも動じない。動揺するのは疑念があるからだ。)
    "Future comes by itself, progress does not."
    (未来は勝手にやって来るが、進歩がひとりでに遂げられることはない。)」(4)。

  • 我々建築家にとってポール・ヘニングセンのペンダントライトはハンス・ウェグナーのチェアと共に、設計した住宅のダイニングを彩る必須アイテムである(予算上、それモドキを含む)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヤマギワオンラインストア
    (1)「ポール・ヘニングセン Louis Poulsen
    (2)「ポール・ヘニングセンに会った話
    (3)投稿者:ci さん..2009/ 5/24 22:44:24(日) [4939]
    (4)投稿者:マイマイさん..2009/ 5/25 02:42:06(月) [4941]

(2009.05.23掲載)



▲光の色、グレア、陰影といったような照明の基本事項・キーワードとしたポール・ヘニングセン。




72年4ヶ月と23日の生涯---2008年没後100年

橋本 雅邦
Gaho Hashimoto  【勝川院の二神足】

(1835.08.21〜1908.01.13=天保6年7月27日〜 明治41年)
死因?--獅子座

  • 父の橋本養邦(はしもとおさくに)は松平周防守の御用絵師であり、木挽町狩野家の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。幼名は千太郎。号は勝園。雪舟に画風を積極的に学ぶ。
  • 慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時に正式に木挽町絵所の当主である狩野栄信(伊川院)に入門する。ただし栄信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である狩野雅信(勝川院)を師としたと見てよい。またこの時同日に狩野芳崖も入門しており、生涯の親友となる。両者は早くに頭角をあらわし、「勝川院の二神足」と称されたとされている。
  • 安政7年(1860年)に婦人とめ子と結婚し、雅邦の号をもらって絵師として独立する。しかし当時既に絵画の需用は少なく、また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。翌年には出仕していた川越藩も廃止され、兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。
  • 転機となったのはフェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。明治15年(1882年)の第一回内国絵画共進会では、《琴棋書画図》が銀印主席を取り、同じく出品した《竹に鳩》が宮内省の御用となっている。明治17年(1884年)にフェノロサが鑑画会を発足すると早い時期から参加し、盛んに制作を行うようになる。
  • 明治19年(1886年)には海軍兵学校を辞し、文部省の絵画取調所に出仕するようになる。こうしてフェノロサ・岡倉天心の指揮下で芳崖と共に東京美術学校の発足に向けて準備を進めるが、開校を目前にした明治22年に芳崖は死去、その絶筆である《悲母観音》の仕上げを任された。このため明治23年の東京美術学校開校に際しては、芳崖の代わりに絵画科の主任となった。さらに同年に帝室技芸員制度が発足すると第一次のメンバーに選ばれ、これにより名実ともに当時の絵画界の最高位に登り詰めた。
  • 東京美術学校では、下村観山や横山大観菱田春草、川合玉堂、寺崎広業らを指導しており、その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。しかし明治31年(1898年)には岡倉が罷免され(美術学校騒動)、雅邦も職を辞し日本美術院の創立に参加した。
  • 以後は在野でありながらも画壇の重鎮として重んじられ、美術院の活動の傍ら後続の指導などを行っている。
  • 明治41年(1908年)に死去。
  • 同門の狩野芳崖ともに、日本画の「近世」と「近代」を橋渡しする位置にいる画家。芳崖とともに、洋画の技法を取り入れ、明治期の日本画の革新に貢献した。代表作の一つである《白雲紅樹》では、従来の山水画を基にしながら、月の光と空気の透明性を微妙な色彩で表現している。
  • 代表作品:《白雲紅樹》1890年/東京藝術大学大学美術館(重要文化財)《竜虎図》1895年/静嘉堂文庫(重要文化財)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    橋本雅邦-Wikipedia

(2008.02.09更新)




▲フェノロサの指導の下、明治時代の日本画草創期を支えた橋本 雅邦。


▲神仙愛獅図 1885〜89頃


▲竜虎図


▲三井寺


▲竹林七賢図 1902〜06年頃

72年5ヶ月と10日の生涯

根本 陸夫
Rikuo Nemoto  【球界の寝業師】

(1926.11.20〜 1999.04.30)
急性心筋梗塞---蠍座

  • プロ野球選手・プロ野球監督。大洋、ヤクルトの監督を歴任した関根潤三とは日大三中時代からの親友で、選手・コーチを通じて近鉄に在籍した。ニックネームは「球界の寝業師」(ドラフト会議やトレードで辣腕を振るったことから)。
  • 監督としてはあまり奮わなかったが、広島、西武、ダイエーの初優勝の土台を築き上げた。右投右打、ポジションは捕手。背番号は8→81番。
  • 茨城県那珂郡東海村出身。旧制日本大学第三中学校(現:日本大学第三高等学校)→日本大学専門部→法政大学から日本コロムビア(現:コロムビアミュージックエンタテインメント・デノン、実業団チーム「川崎コロムビア」)を経て、1952年、恩師の藤田省一?に招聘され、近鉄パールスに入団。関根潤三とバッテリーを組む。選手としては出場機会に恵まれなかった。
  • 法大時代は安藤昇と同級生でこの時の人脈から終生裏社会にも顔が利き西武時代には総会屋対策も手がけたという。選手としては活躍できず1957年現役引退。その後はスカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄コーチ。別当薫監督とともに「18歳の4番打者」・土井正博を育て上げた。その後、低迷が続く広島の長谷川良平監督に誘われ、1967年同球団のコーチに就任。1968年には長谷川監督の後任として就任。深見安博、関根、広岡達朗、小森光生、岡田悦哉ら優秀なコーチの招聘により衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄、三村敏之などを育成し、後の赤ヘル黄金期の礎を築いた。選手からは若親分と慕われた。1972年限りで退任。
  • 1978年にクラウンの監督。翌年の1979年には国土計画の堤義明社長が買収したため球団名が西武ライオンズに変更され、同球団の初代監督となる。
    敏腕スカウトである浦田直治と共に、野村克也・田淵幸一・古沢憲司・山崎裕之・行沢久隆など他球団で活躍した選手を入団させる一方、森繁和・松沼博久・松沼雅之・西岡良洋・岡村隆則・大石友好・石毛宏典・杉本正・広橋公寿・西本和人・秋山幸二・安部理・小野和幸などをドラフトなどで獲得し黄金期の礎を築いた。
  • 1981年限りで退任。この間、毒島章一・八木沢荘六など他球団出身のコーチを招いた。1982年から1992年は西武の管理部長。この間、ドラフトで伊東勤・金森栄治・小田真也・工藤公康・渡辺久信・辻発彦・田辺徳雄・清原和博・森博幸・森山良二・鈴木健・石井丈裕・渡辺智男・潮崎哲也・大塚光二・奈良原浩・新谷博などを獲得し黄金期を陰で支えた。1986年には広岡の後任監督として森祇晶を据える。
  • 監督退任後も片平晋作・黒田正宏・高橋直樹・江夏豊・田尾安志・鈴木康友・吉竹春樹・山根和夫・平野謙・北村照文・鹿取義隆・大宮龍男・中尾孝義など他球団で活躍した選手をトレードなどで獲得し、常勝軍団へと成長させた。また、実質上球団経営にも携わり坂井保之球団代表とともに1980年代のライオンズを支える原動力ともなった。西武の監督時代はジャック・マルーフやトニー・ミューサー、テーラー・ダンカン、ジム・タイロン、スティーブ・オンティベロス、テリー・ウィットフィールドを獲得してリーグ優勝の土台を築いた。広岡・森監督時代はジェリー・ホワイト、ジョージ・ブコビッチ、タイラー・バン・バークレオ、オレステス・デストラーデなどの現役大リーガーの獲得に尽力した。また、台湾の有名投手郭泰源を獲得し西武と台湾球界の太いパイプも築いた。
  • 1993年福岡ドーム完成を機にダイエーの代表取締役専務兼監督に就任。監督として現場の指揮を執る一方、球団経営にも尽力した。1994年には秋山・渡辺・内山智之と佐々木誠・村田勝喜・橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。
  • 1994年限りで退任し、王貞治を後任監督に据える。この間、吉武真太郎・小久保裕紀・城島健司・藤井将雄・本間満・斉藤和巳・井口資仁・松中信彦・柴原洋・倉野信次などをドラフトで獲得し、ダイエー初優勝の土台を築いた。また、松永浩美・武田一浩・田村藤夫・長冨浩志・西村龍次など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。
  • 1999年1月に球団社長に就任するが3ヶ月後の4月30日に急性心筋梗塞のため死去。享年72。その年のダイエーの球団創設11年目にしての初優勝を目にすることはかなわなかった。遺骨は東京・神田ニコライ堂に安置されている。
  • 同年のシーズン中には根本の遺影がダイエーのベンチに掲げられ、優勝時の胴上げでは選手が代わる代わる遺影を掲げた。
  • 2001年野球殿堂入りした。チームの基礎を作り上げる手腕への評価が高く広島、西武、ダイエーとも根本が監督を退いたあと数年以内に黄金時代を築いている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    根本陸夫-Wikipedia

(2006.07.11更新)




▲監督としてただチームの采配を振るうだけでなく、自ら球団経営・チーム編成にも関わり、現在で言うGM(ゼネラルマネージャー)に近い存在で球史にその名を刻んだ根本 陸夫。

72年5ヶ月と10日の生涯

深作欣二
Kinji Fukasaku   【アクションの深作】

(1930.07.03〜2003.01.13)
前立腺ガン---蟹座

  • 茨城県水戸市生まれ。15歳、敗戦直後の焼き跡で落ちこぼれていた中学時代に外国映画の数々に刺激され、映画監督を志す。
  • 23歳で東映入社。8年間の助監督時代を経て、31歳、監督に昇進。同年6月に千葉真一主演の『風来坊探偵・赤い谷の惨劇』で監督デビュー。
  • 34歳、『ジャコ万と鉄』で注目を集め、以降も『軍旗はためく下で』などの秀作を放つ。そして43歳で監督した『仁義なき戦い』は、任侠路線が主軸だった東映ヤクザ映画の歴史を塗りかえ、実録路線を主軸にさせる程の大ヒットをとばした。この映画はシリーズ化され、 “アクションの深作”の名を不動のものにする。
  • 48歳には大作時代劇『柳生一族の陰謀』を、50歳には角川映画『復活の日』を次々と大ヒットさせ、ヒットメーカーの仲間入りを果たす。
  • 52歳、つかこうへい原作・脚本の『蒲田行進曲』を監督し、同年の各映画賞を独占。円熟した秀作を次々と生み出す。
  • 他に、『里見八犬伝』(53歳)『火宅の人』(56歳)『忠臣蔵外伝/四谷怪談』(64歳)『バトル・ロワイアル』(70歳)。
  • 男たちの集団抗争劇から男女の奔放な愛の賛歌まで作品のテーマは多岐にわたるが、その攻撃的で刺激的なパワーは衰えを知らない。
  • 彼を崇拝するクエンティン・タランティーノやジョン・ウーなど海外の監督にも多大な影響を与えている。
  • 浅間山荘事件を目のあたりにし、「一番悪い奴が主人公でもいいじゃないか」と開き直って『仁義なき戦い』は生まれたという。
  • 「映画作りはお祭り。皆でワッショイやらなきゃ面白くない」旺盛なサービス精神で撮影現場を盛り上げ、役者やスタッフに愛された。---ガンに侵されてもなお、新作映画『バトル・ロワイアルII』の撮影に意欲を燃やし続けた」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2003.12.31朝刊「墓碑銘」抜粋。

(2004.01.06更新)




▲『仁義なき戦い』シリーズなど「実録路線」といわれる娯楽映画の新ジャンルを確立した映画監督・深作欣二。


▲『仁義なき戦い』シリーズ。

72年5ヶ月と19日の生涯

木村伊兵衛
Ihei Kimura  【近代日本写真界のパイオニア】

(1901.12.12=明治34年〜1974.05.31)
死因?---射手座

  • 日本を代表する写真家。東京市下谷(現在の東京都台東区)に生まれる。子供のころからおもちゃカメラを手にして写真に興味を持つ。
  • 1920年、砂糖問屋の台湾台南市支店に勤務する傍ら、同市にあった遠藤写真館で営業写真の技術を習い、アマチュア写真クラブにおいて頭角を現す。
  • 帰国後1924年に日暮里で写真館を開業、1930年には花王石鹸(現花王)広告部に嘱託として入社、ライカでリアルな広告写真を撮ることで注目される。
  • 1932年には月刊写真雑誌「光画」を発刊、翌1933年には名取洋之助、伊奈信男らと日本工房を設立、生活に根付いた新鮮なリアリズムの表現を、小型カメラの特性を生かして切り開いた。
  • 戦後、1950年、日本写真家協会が設立され初代会長に就任。写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じて、アマチュア写真の指導者として土門拳とともにリアリズム写真運動を推進した。
  • また、1956年には日中文化交流協会発足と同時に常任理事に就任、日中国交回復前後の中国を度々訪れ、日中友好に尽力した。
  • ことさらにテーマを強調するのではない、けれんみのない自然な写真を撮ることに定評があり、こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を、自然な形で見事に切り取っている。ポートレートにおいても、人物そのものを映し出し、自然なしぐさをも的確に撮っている。首相在任当時の池田勇人を撮る際、弟子に撮らせて自分がなかなか撮らず、池田夫人が池田の衣紋を直そうとした際に居合い抜きのようにさっと手持ちのライカで撮った、という逸話が残っているほどである。高峰秀子も著書にて、「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と評している。
  • カメラにも精通しており、写真雑誌の対談にて江戸っ子らしくベランメェ口調でカメラや写真を語り、レンズに関しては「あらゆるレンズには必ず出っぱっているところと引っ込んでいるところがあり、平坦性が悪くピント位置が定まらない。ピント位置が少しでも移動すると中心が良くなったり、外側が良くなったりする。レンズは立体物を撮るのだから平面チャートで数値を問うだけではわかり得るものではない」という「デッコマ・ヒッコマ論」を説いたことでも知られる。晩年は「アサヒカメラ」誌(朝日新聞社)の「ニューフェース診断室」の実写担当ドクターも勤めた。
  • 1974年、日暮里の自宅でその生涯を終えた。翌1975年、故人の功績をたたえ、新人写真家を対象とした「木村伊兵衛写真賞」(朝日新聞社主催)が創設、新人写真家の登竜門として数多くの著名写真家を輩出している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    ミュゼふくおかカメラ館 -木村伊兵衛の世界-

(2006.08.06更新)




▲報道・宣伝写真やストリートスナップ、ポートレート、舞台写真などさまざまなジャンルにおいて 数多くの傑作を残し、日本近代写真史においてはもっとも重要な人物であり、特に同時代を生きた写真家、土門拳とはリアリズム写真において双璧をなした木村伊兵衛。




◆木村伊兵衛《板塀、秋田にて》1953年 東京国立近代美術館蔵


◆「秋田おばこ」 秋田・大曲 1953年

72年5ヶ月と27日の生涯

波多野 精一
Seiichi Hatano  【エロースとアガペー】

(1877.07.21〜1950.01.17=明治10〜昭和25)
死因?---蟹座

  • 長野県筑摩郡松本町に生まれる。第一高等中学校、高等学校大学予科を経て、東京帝国大学文科大学に入学、哲学科を卒業。大学院では近世哲学史を専攻し、ケーベルに師事する。
  • 1902(明治35)年、植村正久から洗礼を受け、キリスト教徒となる。1904(明治37)年から2年間、ドイツに留学。
  • 東京専門学校(現早稲田大学)、東京帝大で哲学・哲学史を講じた後、1917(大正6)年より京都帝国大学文科学科の招聘を受け、宗教学講座教授となる。
  • 著作の発表を控えた時期を経て、昭和10年頃から三部作と呼ばれる代表作『宗教哲学』、『宗教哲学序論』、『時と永遠』を順次、発表する。
  • 1950年1月17日没、享年72歳。巨体のため棺は特製だったらしい。
  • 波多野の著作:『波多野精一全集』岩波書店、1968‐1969年。湯浅泰雄『近代日本の哲学と実存思想』、創文社、1970年。 石田慶和『日本の宗教哲学』、創文社、1993年。 竹田篤司『物語「京都学派」』、中央公論新社(中公叢書)、2001年。
  • 「京都学派における宗教哲学が、主に禅を中心とした仏教からの影響を強く受けている中で、キリスト教を信仰し、自身の宗教体験を掘り下げて思索した波多野の思想は、京都学派の中でも極めて独自のものである。(「西田君のような学問は一夜漬けが出来るが、僕のはそれが出来ないよ」との言が月報にある。)波多野自身は、体験や実践を重視する発言を続けているが、彼の仕事は厳密な宗教史や哲学史であった。波多野自身の思想は、時間の世界から永遠の世界に至る上昇運動に力点がおかれている。波多野によれば、人間は自然的生、文化的生、宗教的生と上昇する過程で、時間を克服する。宗教的生を生きることは「無からの創造」であると言われている。とりわけ大きな影響を波多野に与え続けたのはカント哲学であろう。また、神秘主義との近さが指摘される場合もあるが、彼自身は神秘主義の思想家を研究していたものの、扱いには慎重であった」(1)。
  • 「波多野はパスカルに倣って、この世界を、自然、文化、愛の三層構造として捉え、〈愛は主体の他者との生の共同である〉という簡明な愛の哲学を主張した。特に文化的生の段階でのエロースとは異なるアガペーとしての愛の重要性を説いた。エロースが自己実現としての愛であるのに対して、アガペーは他者実現としての愛、神への愛であることを説いた」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「波多野精一
    (2)読売新聞2006.10.17朝刊「言葉を生きる」(粕谷一希)より抜粋。

(2006.10.20掲載)




▲明治から昭和期にかけ西田幾太郎と共に、近代日本の西欧哲学受容の第一世代である宗教哲学者・波多野 精一。



72年5ヶ月と29日の生涯

ジャン・ギャバン
Jean Gabin   【フランス映画一筋の役者】

(1904.05.17〜1976.11.15)
心臓発作---牡牛座

  • フランスのメリエル出身。本名はJean Alexis moncourge。父はミュージック・ホールの俳優、母は歌手という芸能一家出身。
  • 1918年に小学校を卒業すると人夫や倉庫係などさまざまな職に就く。1923年に父から劇場の支配人を紹介されて舞台に立つようになり1930年ごろまでオペレッタなどに出演。その後、端役で映画デビュー。
  • 始めはパッとしなかったが1933年あたりから注目され始め、1935年の「地の果てを行く」で人気を得る。以降は「どん底」、「望郷」、「大いなる幻影」という名作で人生の悲哀を巧みな演技で披露。
  • やがて第二次大戦の戦火の逃れてハリウッドに移住。戦後フランスに戻って「フレンチ・カンカン」や「現金に手を出すな」、「ヘッドライト」で円熟味を増した個性を光らせた。
  • 1960年以降は脇に廻ったがその重厚かつ渋い演技力で「地下室のメロディー」、「暗黒街のふたり」でアラン・ドロンをサポートするなど、最後まで存在感あるその個性には定評があった。
  • 1925年、33年、49年と三度の結婚を経験したが全て破局。マレーネ・ディートリッヒなど、共演女優との噂も多かったという。
  • 1976年、自らの集大成のような秀作「脱獄の報酬」を最後に同年心臓発作でこの世を去った。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジャン・ギャバン Jean Gabin

(2009.07.29更新)



▲存在感あるその個性には定評があった ジャン・ギャバン。
(イラスト 大城さん)




◆犯罪を重ねたパリを逃げ出し、アルジェリアに潜伏している男(ジャン・ギャバン)が、パリから観光に来た女(ミレーユ・バラン)と出会う。戦前の映画「望郷」である。

72年5ヶ月と29日の生涯

林 雅子
Masako Hayashi   【日本の女性建築家のパイオニア】

(1928.07.11〜2001.01.09)
癌、呼吸不全---蟹座

  • 北海道旭川に生まれる。幼い頃に骨髄炎という大病を経験。
  • 日本女子大学家政学部生活芸術科卒業。東京工業大学清家研究室研究生となる。
  • 1956年(28歳)フリーの設計活動に入る。1958年(30歳)、山田初江、中原暢子と共に「林・山田・中原設計同人主宰。
  • 林雅子氏は1928年生まれなのであるが、実はこの年は建築家豊作の年であり、槙文彦氏や菊竹清訓氏、林昌二氏など日本を代表する建築家が生まれた年でもある。
  • 雅子氏の建築の考え方の根底には「自分で理解できて説明できるものしか信じない」また「過去も未来もそして他人も信じない、現在こそがすべてである」っといった現在至上主義があったらしいのである。それは、昌二氏、雅子氏が生きた時代とも関連しているらしい。両氏の世代は戦争を経験させられたという経緯もあり、それが現在至上主義につながるのだと昌二氏は言う。
  • 雅子氏は建築を設計するのではなく、生活を設計していたと言うことである。つまり施主に対して建物を計画するのでなく、より精神的に豊かな生活を送ることができるための空間を提案していた。また雅子氏は建築材料にお金をかけるより、空間にお金をかけたいと考えていた。生活の楽しみの作りかたに力を入れ、どこよりも「自分の家にいたくなる家」となることを目標に設計していた。
  • 「美しく、そして賢い人でした。私にとっては、建築の道での敬愛する先輩であり、何でも覚えておいてくれる貴重な記憶装置でもありました。特徴というべきは、欲というものがない人だったことです。---雅子の趣味といえば、食べること、旅をすること、そして眠ることでしたから-----」(1)。
  • 住宅の設計でも、設計料を10%以下にはしなかったと言われる偉大なる建築家だった。
  • 建築家・林昌二の妻ではなく、林昌二が林雅子の夫なのである。それが証拠に、今年(2006年)の年賀状で、林さんは自らを「林雅子未亡人」と綴った。お二人は顔相学的にもよく似ている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「故 林雅子お別れの会 ご挨拶」林昌二

(2006.03.08更新)




▲日本の女性建築家のパイオニア、女性建築家の草分け林雅子。





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