玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

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age 73


50音インデックス


■73歳の
 シンクロニシティ

■73歳-?←戻る
山上憶良
紀貫之
イブン・バットゥータ
長次郎(樂家初代)
エル・グレコ
ロバート・フラッド
カザノヴァ
良寛
島地黙雷
トーマス・グラバー
羽根田幸之助
岡崎文吉
ルイス・カーン
G・ピアティゴルスキー
榎本滋民
小此木敬吾
張永哲
坂部 恵

■73歳-前半-1←戻る
南村 侑広
ヘルムホルツ
ハルバースタム
升田幸三
高村光太郎
山本 薩夫
ドン・ブレイザー
ダーウィン
ミノル・ヤマサキ
岩下俊作
飴山實全
水原 茂
スターリン

■73歳-前半-2←戻る
伊能忠敬
朝永振一郎
玉川勝太郎(2代目)
宇野重吉
徳川家康
ジョージ・ヘンデル
大友柳太朗
大泉滉/大泉晃
牧口 常三郎
岡田光玉
日野啓三
コール・ポーター
濱口庫之助
筑紫哲也
シュレディンガー
源氏 鶏太
村田英雄
清水次郎長
久保田万太郎
宮本常一

■73歳-後半-1
遠藤周作
黒川紀章
ナムジュン・パイク
ボボ・ブラジル
殿山泰司
深沢七郎
塩原太助
ジェームス・ブラウン
イツハク・ラビン
古賀政男
エドワード・ジェンナー
リオタール
石光真清
アンナ・モッフォ
レイ・チャールズ
ポール・ヴァレリー
市川昭介

■73歳-後半-2→進む
ダルトン・トランボ
ラ・フォンテーヌ
岩城宏之
トニー・ザイラー
エッシャー
フェリーニ
ヴィルヘルム・グリム
東海林太郎
辻 邦生
ジョージ・アダムスキー 
モランディ
トーマス・クーン
片山 潜
リキテンスタイン
シャルダン
アントニオ・ガウディ
スタインヴェーク
土佐光起
早坂茂三


■73歳のエポック


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73歳の語録

 

「人間がこんなに悲しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」
(遠藤周作)

 

「人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命に出会う」
(ラ・フォンテーヌ)



                         
73年6ヶ月と2日の生涯---2006年没後10年

遠藤周作
Syusaku Endou   【狐狸庵山人】

(1923.03.27〜1996.09.29)
肺炎による呼吸不全---牡羊座

  • 作家、小説家。東京生れ。幼少期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、11歳でカトリックの洗礼を受ける。神戸・六甲小学校、同・私立灘中学(旧制)卒、慶応義塾大学仏文科卒。
  • 在学中から『カトリック作家の問題』などの評論を『三田文学』に発表。フランス留学(リヨン大学)を経て1955年、同誌に発表した小説『白い人』で第33回芥川賞を受賞。以後、『海と毒薬』(1958年。新潮社文学賞、毎日出版文化賞)、『沈黙』(1966年。谷崎潤一郎賞)、『死海のほとり』『イエスの生涯』『侍』などを発表。
  • キリスト教信仰と日本の精神風土との異質性の問題を掘り下げ、代表的なカトリック作家となった。歴史小説においても、『反逆』など宗教を含ませたものが多い。
  • ネスカフェ・ゴールドブレンドCM「違いが分かる男」に1972年〜1975年出演(作家・小説家の出演第一号。参考『ネスレCM情報』)。ブームが起こるほどの人気作家でもあった。
  • 素人劇団「樹座」の座長をつとめたり、素人コーラス「コール・パパス」を結成するなど、各種の(趣味の域をこえた)趣味活動も有名。
  • またの名を狐狸庵(こりあん)。小説家の顔とは別の顔で、狐狸庵シリーズとしてユニークで軽妙かつぴりっとしたユーモアエッセイを多く発表した。
  • 遠藤周作には二つの顔がある。一つはキリスト教徒として日本の精神風土との葛藤を生きた純文学作家の顔。もう一つは、「狐狸庵山人」として知られるのユーモア作家の顔。
  • 「病気と長く付き合った作家、遠藤周作さんは温かい医療を求めて提言をした。「医師の資格試験に医師が患者になる実地体験を加えるといい」もその一つ。例えば気管支鏡検査、直腸鏡検査、手の甲からの採血、一時間以上の点滴。検査を受けるのは苦しい。手の甲で採血するのは腕からよりずっと痛い。点滴中にはトイレに行きたくなることも多い。氏は気管支の検査中に「せきをするなと言っているのに、なぜせきをするのですか」としかられた。不器用な医師が腕からの採血に失敗し、老人の手の甲から採血したのを見たこともある。医師に体験があれば点滴前にトイレをすすめることもできる。遠藤さんは米映画「ドクター」を見てこの提言をした。外科医ががんになり、初めて患者の悩みを知るという話」(1)。
  • 「---群からはぐれないための知恵と群からはぐれてしまっても生きていける技術。遠藤周作は生きていく上で何が大切で何が大切でないかを問いつづけた作家だった」(2)。
  • 「かつて遠藤周作氏は〈日本の医師の技術は一流だが、病院の体制は二流〉と言った---」(3)。
  • 深遠な神の愛とユーモア。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    はてなダイヤりー-遠藤周作
    (1)読売新聞2005.06.13夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (2)読売新聞2007.07.10夕刊「言葉を生きる」(荻原魚雷)より抜粋。
    (3)読売新聞2008.06.19夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2009.08.01更新)



▲ キリスト教信仰と日本の精神風土との異質性の問題を掘り下げ、代表的なカトリック作家となった遠藤周作。
(イラスト 大城さん)

 


▲南伸坊によるイラスト。

 

周作語録

◆「人間がこんなに悲しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

◆「信仰とは〈99%の疑いと1%希望〉である」

 

73年6ヶ月と4日の生涯

黒川 紀章
Kisyo Kurokawa 【建築家/共生新党党首】

(1934.04.08〜2007.10.12AM8:42=昭和9年〜平成19年)
多臓器不全---双子座

  • 愛知県海部郡蟹江町に生まれる。夫人は女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之。弟の妻はコーディネーターの加藤タキ。
  • 1953年東海高校卒業。1957年京都大学工学部建築学科卒業。1964年東京大学大学院建築学科専攻博士課程修了。槇文彦、磯崎新、谷口吉生らと共に、丹下健三の門下生(丹下研究室出身)の建築家である。1960年代に建築理論メタボリズムを構築し、これに基づいた増築・取替えの可能な建築として中銀カプセルタワービルなどを設計した。
  • 1983年にテレビ番組での共演をきっかけに若尾文子と結婚。その時の口説き文句は「君の美しさはバロックだ」。
  • 日本会議代表委員。他にアメリカ建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、日本景観学会会長、ブルガリア建築家協会名誉会員、フランス建築家協会正会員、カザフスタン建築家協会名誉会員、ロシア建築アカデミー外国人会員など。
  • 2007年4月の東京都知事選挙に出馬。政治団体共生新党を設立して代表に就任。共生新党公認候補として立候補したが落選する(確定得票数159,126票)。同年7月29日の第21回参議院議員通常選挙において、東京都選挙区から出馬したが、20人の候補者が5議席を争う大混戦のなか、10位のドクター・中松に2万票差をつけられる11位で大敗。共生新党は議席を得られなかった。
  • 2007年10月12日午前8時42分、多臓器不全(本人の公式ページでは心不全)により東京・女子医大病院で死去。享年74(73歳没)。
  • 他の丹下研究室出身の建築家と同様、「都市」について意識的な建築家である。実際、カザフスタン新首都計画なども手がけている。ポンピドゥ・センターコンペではドミノ1971を提案し、大阪府立国際会議場ではスーパードミノ2000を提案した。(GA JAPAN44)
  • 都知事選のパフォーマンスは一部の人たちを喜ばせる形となり、選挙後はバラエティー番組『太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。』にも出演、冗談交じりのトークで場内を沸かした(「私の年収は200億円だ」など)。この事から「バラエティの宝」と言われる事も。
  • 日本文化デザイン会議に日本刀を持ち込み「僕はいつも、明け方三時にこれ(日本刀)を抜いて、自宅近辺を走ってますよ。刀を抜いて着物で走るという“実戦”の訓練を昔からやっているんです」(週刊文春2007年3月8日号)と発言するも、真相のほどは不明。
  • TV討論や単独インタビューでは、椅子に座って斜めに構える、一定のポーズで頬に手を当て発言やメモをするなど、独特の雰囲気を醸し出している。
  • TVトーク番組おしゃれイズム出演時に、ビジネスジェット機『HondaJet』の購買予約(受渡日は未定)を入れていることを語った。また、「NYヤンキース」も買えちゃうんじゃないですか?」という問いに「ヤンキースは無理だけど、他の球団なら…」とも。
  • 2007年7月30日に放送されたTVバラエティ番組SMAP×SMAP出演、「SMAPが家を建てる時は無料で設計する」と数度繰り返し発約束。またその際には必ず奥さんと一緒に頼みに来ないと受けないとも語った。理由は「家は奥さんの希望通りに作った方がいい。うまくいくことが多いんで」。また、一般家屋に必要なものは何でしょうかと聞かれ「『個人の部屋』。自分の部屋を持つと個性が出せる。お父さんには書斎を作ってあげること。そしてお母さんにも自分の部屋を。それが一般家屋の理想。日本では難しいけれど…」と、黒川には珍しい一般家屋設計についての発言となった。
    住まいは、自身設計の東京赤坂のマンション、サンディエゴ、シンガポール、ロンドン、サンクトペテルブルグにある。
    黒川は黒を好む人物として知られており、1960年代に黒を流行らせたと自負している。また、黒の服しか着ない、と述べており、初めて買ったポルシェの色も黒、自身の事務所のワークステーション(事務機器)も黒である。その他、IBMのロゴに対して、3色使っていることと斜めを向いていることに対して、「いわれにこだわりすぎ」と述べるほどである。
  • 2007年東京都知事選挙に立候補し、石原慎太郎らと並んで主要4候補のひとりとしてTV討論に出演するなどメディアに取り上げられるも落選(票数159,126、得票率2.9%)。結果は、上位3候補には大きく引き離され、TV露出のほとんどなかったドクター・中松の得票率1.6%に近い。
  • 早々と主要候補のうちに名を連ねたにも関わらず、結果的に得票数は少なく泡沫候補とも変わらないような状態だった。多くの評論家、ジャーナリストから「なぜ出たのか分からない」「本気だったのか分からない」「金持ちの道楽」と言われるなど、立ち位置が分かりにくかったことが敗因ではないかと思われる。
  • 選挙翌日のフジテレビのインタビューでは、浅野史郎が敗因や感想を述べ総括をしていたのとは対照的に、都政の具体的な話題に熱弁をふるい、次の都知事選に触れるなど、政治への熱意がさめやらぬ様子であった。
  • 東京都知事選挙の二日後には共生新党として参院選に挑戦する意志があることを明らかにする。
  • 都知事選立候補時の記者会見では自らの政治思想について反金儲け主義・共生主義と表現し、社会主義に近いとも発言している。
  • 「妥協を許さない、建築家としての姿勢と明快な言説は、建築界ではむしろ煙たがられていたと言ってもよい。---」(1)。
  • 1979年に開業した日本初のカプセルホテルを設計したのも、黒川である。
  • 最近は晩年の岡本太郎のようなタレントとしてキャラが立ちはじめていたところだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    黒川紀章-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.10.16朝刊「文化」(馬場璋造)より抜粋。

(2007.10.17更新)



▲日本芸術院会員、日本会議代表委員、黒川紀章建築都市設計事務所所長黒川 紀章。

 

73年6ヶ月と9日の生涯

ナムジュン・パイク
Namjune Paik  【国際的ビデオアーティスト】

(1932.07.20〜2006.01.29)
詳しい死因は不明---蟹座

  • 日本の植民地統治下のソウルで生まれる。京畿(キョンギ)高、東京大学文学部美学・美術史学科を卒業し、独ミュンヘンのルードヴィヒ・マクシミリアン大、フライブルグ大へ進んだ。
  • 東京大文学部を卒業後、西ドイツ(当時)に渡り、前衛芸術運動に参加。1963年の初個展でテレビ受像機を使った実験的な作品を出品し注目を集めた。1964年にアメリカ・ニューヨークに移住。
  • 1965年、当時発売されたばかりのソニー製ポータブル・ビデオレコーダーを使った映像作品を発表し、これがビデオアートの史上初の作品となる。
  • 現代美術とビデオを結合したビデオ芸術の創始者として世界美術界の注目を受け始め、1969年には米国でシャーロット・モーマンと公演し、ビデオアートを芸術ジャンルに育てた先駆者と評された。
  • 以後、テレビ・モニターを自在に組み合わせたヴィデオ彫刻などを制作する。またビデオ作品における短いカット割りの連続や早いカメラの動きなどは彼の特徴であった。
  • 1984年に同地とパリを衛星回線で結んだ「グッドモーニング、ミスター・オーウェル」を発表するなど、電子技術を駆使した表現を開拓し続けた。
  • 1988年にはソウルオリンピックに合わせテレビ受信機を尖塔のように積み上げた作品『多いほどよい』を制作し、代表作と言われている。
  • 1993年にベネチア・ビエンナーレのドイツ館に出品し、金獅子賞。1995年に福岡アジア文化賞などを受賞。妻は、日本人美術家の久保田成子(しげこ)さん。米フロリダ州マイアミのアパートで死去。
  • 「白氏はこの日午後8時ごろ、フロリダ州マイアミのマンションで夫人の久保田成子氏と看護師が見守る中、静かに息をひきとったと、家族が伝えた。 家族は「白氏は自然死した」とし、「葬儀は数日後、ニューヨーク・マンハッタンのフランクキャンベル葬儀場で行われる予定」と明らかにした。 白氏は1996年(64歳)に脳卒中で倒れ、左半身の神経がまひしたが、積極的に活動を続けてきた。 ある知人は「最近も最後のビデオアート作品を残すための作業に没頭していた」と伝えた」(1)。
  • 「ビデオアート、メディアアートの先駆者として世界的に高く評価されているが、韓国内では世界的な芸術家でありながらも米国に帰化しているため、パイクに対して複雑な感情を抱く人が少なくないと言われる。しかしながら、2005年には京畿道に白南準美術館が開設され、再評価への動きが高まっていたところだった」(2)。
  • 「パイクは働いて働いて、働き抜いた。エネルギーを付けるために毎日チキンを半羽食べるのだと言っていた。無理が祟ったのか糖尿病に苦しみ、車椅子の生活になったが、芸術活動を止めなかった」(3)。
  • ナムジュン・パイクの全仕事は、蟹座の特性を実によく具現化していると思う。ひとことで言えば“やりくり上手”ということだ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)中央日報 日本語版
    (2)「ナムジュン・パイク - Wikipedia
    (3)読売新聞2006.02.06夕刊「文化」より抜粋。

(2006.02.08更新)




▲韓国が生んだ世界的なビデオアーティストで、「ビデオアートの父」と呼ばれたナムジュン・パイク=白南準(ベク・ナムジュン)。

 


◆リクルート出版(メディアファクトリー)


◆『ARC A DEUX FACES』1985年

 

73年6ヶ月と10日の生涯

ボボ・ブラジル
Bobo Brazil   【必殺技-ココバットの生みの親】

(1924.07.10〜1998.01.20)
脳梗塞---蟹座

  • アメリカのプロレスラー。ミシガン州ベントンハーバー出身。本名ヒューストン・ハリス(Houston Harris) 身長195cm、体重127kg。「黒い魔神」と呼ばれた。
  • ちなみにリングネームの「ブラジル」は「人種差別の無いブラジルに行きたい」という子供の頃の夢から。プロ野球(黒人リーグ)選手を経て(事実ではないという説もある)、1951年プロレスデビュー。
  • 1957年8月に日本プロレスに参戦するため初来日。「ココバット」と呼ばれる必殺技で力道山を苦しめた。1966年にバディ・キラー・オースチンを破りWWA世界王座を獲得。
  • 1968年6月に、防衛記録を積み重ねていたジャイアント馬場を破りインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。直後に行われた再戦で、馬場の必殺技「32文ロケット砲」三連発に沈みタイトルを奪回された。
  • 1972年12月に空位となっていたインター王座を「頭突き世界一決定戦」と呼ばれた大木金太郎戦で勝利し、再び獲得。しかし、また直後に行われた再戦で大木に破れている。
  • 1973年2月に全日本プロレスに参戦し常連となるが、すでにロートルの感は否めずジャイアント馬場やジャンボ鶴田の引き立て役に廻った。
  • アメリカではNWA、WWWF(後のWWE)を中心に活躍。デトロイト地区でのザ・シークとの抗争は約30年に及んだ。後にWWWFでの功績が認められ1994年にWWF殿堂(現WWE殿堂)入り。1998年1月に脳梗塞により死去。
  • 黎明期のプロレス界においてボボ・ブラジルは代表的な黒人レスラーであり、その地位の向上に貢献した。アメリカでは「プロレス界のジャッキー・ロビンソン」と評される事もある。人種差別が色濃い時代に、好奇な目線の中で日米のリングで圧倒的な強さを見せ付けた。全盛期のボボ・ブラジルは大柄な体型にもかかわらず動きにキレがあり、長身から繰り出される必殺技「ココバット」は単純な技ながら破壊力は抜群で、大木金太郎との「頭突き世界一決定戦」では石頭で知られる大木でさえ何度もよろめいた。
  • 当初は、「Boo-Boo Brazil:ブーブー・ブラジル」というリングネームだったが、プロモーターのミスで「BoBo Brazil:ボボ・ブラジル」と印刷してしまい、それ以来ボボ・ブラジルをリングネームにしてしまった。
  • 全日本プロレスに参戦していたレスラー晩年期は、リング上で手渡された花束にムシャムシャかぶり付くパフォーマンスで異様な雰囲気を演出しようとしていた(本人によると、正統派としてデビューした弟を表に出すためわざと奇行をとったとのこと)が、実力のあるレスラーだけに、落ちぶれた感じをファンに与え評判を落とした。
  • ココバット:ジャンプして上から叩きつけるような形のヘッドバット。彼の必殺技であり、代名詞的な技。長身の彼がジャンプして放つ躍動感のあるヘッドバットは、単なる頭突きと言うより彼しか出来ないオリジナル技といえる。
  • 九州では、地方により性交のことを「ボボ」というため、テレビ中継で彼が出場する時は、実況音声が消され、アラビア風の音楽が流れていた。また、テロップも単に「ブラジル」と紹介されていた。
  • 漫画およびテレビアニメ『タイガーマスク』には「ポポ・アフリカ」という彼をモデルにしたレスラーが登場する。当然黒人で、ココバット(風の頭突き)が得意技である。
  • 経歴欄にあるように、ブラジルの最大のライバルはザ・シークといえる。シークは「プロレスの本質を理解しているのは、私とボボ・ブラジルぐらいだろう」と発言し、ライバルを讃えた。
  • 嗚呼!ポポ・ブラジル!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ボボ・ブラジル-Wikipedia

(2006.11.11掲載)




▲黎明期のプロレス界において代表的な黒人レスラーとして、その地位の向上に貢献したボボ・ブラジル。

 

73年6ヶ月と13日の生涯

殿山泰司
Taiji Tonoyama 
      【ジャズとミステリを愛する、自称三文役者】

(1915.10.17〜1989.04.30=大正4年〜平成元年)
死因?---天秤座

  • 兵庫県神戸市出身。神戸の生糸商の長男として生まれるが、6歳の頃に父親の事業が破綻して両親は別居。父とその愛人(泰司の義母となる)について上京し、東京都中央区銀座で少年時代を過ごす。このとき父と義母が出したおでん屋が、今も銀座8丁目で営業をつづける「お多幸」である。屋号は義母の名前からとられている。幼名は殿山泰爾(たいじ)である。
  • 俳優を志して1936年(昭和11年)新築地劇団に入団、夏目銅一の芸名で初舞台を踏む。
  • 1942年(昭和17年)に京都の興亜映画に入所し、同年、内田吐夢監督作品『鳥居強右衛門』に殿山泰二の芸名で出演するが、撮影終了と同時に応召されて出征。中国戦線を転戦する。
  • 復員後、殿山泰司と名を改めて映画界に復帰。新藤兼人監督作品や吉村公三郎監督作品への出演を通じて彼らと交流を深め、1950年(昭和25年)に新藤、吉村が近代映画協会を設立した際には創立メンバーとして参加する。以後、新藤・吉村作品の常連をつとめる一方、「お呼びがかかればどこへでも」をモットーに「三文役者」を自称して、様々な映画に脇役として出演。
  • 巨匠の作品から娯楽映画、ポルノに至るまで名バイプレーヤーとして活躍。新藤の『裸の島』では一言も喋らない島の男の役で、同じく新藤作品の『人間』では漂流する漁船の船長役で、それぞれ主役をつとめている。大島渚監督の問題作『愛のコリーダ』で局部丸出しの熱演をしたことでも有名。
  • 73年の生涯で出演した映画は約300本に上り、テレビにも頻繁に出演したため、その作品は膨大な数に上る。
  • 映画デビュー前から始まった妻と愛人の三角関係は彼が死ぬまで続き、墓所も妻と愛人の二箇所に建てられている。
  • 映画では禿頭にギョロ目という老人的風貌が特徴的だったが、実生活は流行に敏感でお洒落であり、ジーンズにサングラスがトレードマークだったという。日本映画が衰退して仕事が減った時には、妻と愛人を心配させまいと仕事に行くフリをして都内をジーンズ姿で徘徊している彼の姿が至るところで目撃されている。また、こうした徘徊が彼のエッセイストとしての素地となり、1970年代には「オレが」の一人称で方言を織り交ぜながら独特の口調で語るエッセイや自伝的文章を多数執筆した。それらの文章には、丸い禿げ上がった顔に黒いサングラスをかけた殿山の自画像が添えられていた。
  • 殿山の死の直後に評伝『三文役者の死』(岩波書店)を書いた新藤兼人は、それを原作にして2000年(平成12年)に映画『三文役者』を完成させた。殿山の役を竹中直人が演じている。
  • 映画『三文役者』と同じ年に、声優の麦人が独談(一人芝居)『タイチャン』というタイトルで舞台上演した。こちらも近代映画協会が協力している。
  • 主な著書に『三文役者あなあきい伝1、2』『JAMJAM日記』『日本女地図』『三文役者のミステリ&JAZZ日記』がある。
  • ジャズとミステリーをこよなく愛し、趣味を綴った著書も多数残している。また、破天荒なその人生は、映画化もされている。
  • 「お多幸」は今でもお世話になっとります。いい映画なんぞ観た後、ちょっと一杯やって、朱色の缶に入れてくれる「お持ち帰り用おでん」を愛用しています。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    殿山泰司-Wikipedia
    殿山泰司とは - はてなダイアリー

(2007.09.28掲載)




▲終戦後の日本映画界において独特の風貌で名脇役として活躍した俳優、エッセイスト・殿山泰司。

 

 

 

73年6ヶ月と20日の生涯

深沢七郎
Shitirou Fukazawa   【名作『楢山節考』の生みの親】

(1914.01.29〜1987.08.18)
心不全---水瓶座

  • 『楢山節考』で有名な小説家、ギター奏者。山梨県生れ。
  • 日劇ミュージック・ホールでギター奏者をしていたが、42歳にして『楢山節考』で中央公論新人賞受賞、作家生活に入る。これは、近代的人間中心主義とは別個の人間観を姨捨伝説に取材して描いた作品で、正宗白鳥らに絶讃された。その他、『笛吹川』『甲州子守唄』『みちのくの人形たち』(谷崎潤一郎賞)など土俗の世界を描いた作品が多い。
  • 56歳で『中央公論』に発表した『風流夢譚』をめぐって、皇室への不敬を理由とした右翼テロ事件が起こった「風流夢譚事件」。
  • 「楢山節考」:信州の山間にあるなもなき村。この村では70歳になると「楢山に行く」。年寄りは捨てられるのである。今年69歳になる働き者のおりんは、ずっと以前から楢山に行く準備を始めていた。楢山に行くときの振舞酒、持っていくむしろ、息子の後妻のこと。しかし優しい息子の晋平は---。おりんばあさんは晴れて勇んで姥捨てを希望する。死を前にして、おりんはなぜ生き生きとした明るさがあるのだろう。繰り返される盆踊り歌に込められた意味。そして結末で訪れる救いとは。
  • 「いきなり名作で登場してしまった作家は、その後が結構辛いんだろうなと想像する---『楢山節考』は子を持ち親を自覚して読むと味わい深い」(1)。
  • 〈老齢化社会の進行する今、この小説(『楢山節考』)が抱える家族という主題は、発表当時とは比べられないほどに深刻なのではないか。---ここに引いたのは、小説の末尾、息子の辰平が母おりんを山に置いて家に戻った夕刻、前夜までおりんが着ていた綿入れをはおった孫のけさ吉(辰兵の息子)が口にした言葉である。昔話の「うば棄て山」なら、おいた親を棄てようとした父を子が諫め、老人を山から連れて帰るというお話になるのだが、この小説にはそうした甘さは微塵もない。おりんは雪降る山に棄てられ、家族や村人は、それを当然のこととして受け入れてゆく。「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」---家族とは何か、何が残酷か〉(2)。
  • 「深沢七郎さんの小説「楢山節考(ならやまぶしこう)」のなかに、「白萩様(しらはぎさま)」という言葉が出てくる。白米をそう呼んでいる。作者の造語らしい」(3)。
  • 「『楢山節考』:山梨県人のいやらしさと人間のすごさと美しさ。『盆栽老人とその周辺』も忘れられない。私のルーツは山梨、父の田舎は子供でさえ深沢七郎的だった」(4)。
  • 「深沢七郎は狭心症と診断され、大宮市の日赤病院に入院した時、駆けつけていた甥の三人(ミツヒト)にしみじみと言った。〈この世には恐ろしい病気があるねぇ。それは”死ねない”という病気だよ〉約2週間後、日赤を退院。死ぬリハーサルを何度も体験して、またいつか死の本番を迎えならなければならないという、ひどい心筋症の病状だったそうです。 -荒俣宏監修 「知識人99人の死に方」を参考にしました−」(5)。
  • 映画「楢山節考」では、石で前歯を欠かなければならないほど丈夫でたくましい老婆おりんを坂本スミ子が好演していた。坂本はこの役のために、前歯を抜いたという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)畑中純。
    (2)読売新聞2004.02.28夕刊「言葉を生きる」三浦祐之。
    (3)読売新聞2005.11.24朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (4)読売新聞2005.12.04朝刊「空想書店」(佐野洋子)より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん 2005.12.13(Tue) 00:51[811]

(2005.12.12更新)




▲『楢山節考』で有名な小説家、ギター奏者・深沢七郎。

 


◆映画『楢山節考』1983年製作
監督:今村昌平
出演者:
緒形拳、坂本スミ子 、あき竹城 他。
食糧不足のために70歳を過ぎたら、息子に背負われ楢山に捨てられる――、そんな掟のある信州の山深い寒村を舞台に描くヒューマンドラマの傑作。
カンヌ映画祭グランプリ

 

73年7ヶ月と9日の生涯

塩原太助
Tasuke Shiobara         【立志伝型人物】

(1743.02.26〜1816.10.05=寛保3年2月3日〜文化13年閨8月14日)
死因?---魚座

  • 幼名は彦七。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた。こうしたサクセスストーリーが、多くの人々の心をつかんだ。戦前には立志伝型人物として教科書にも登場した。
  • 1743年 群馬県利根郡新治村(現在のみなかみ町)に生まれる。
  • 1761年 江戸に出る。
  • 1785年 炭屋山口屋で奉公。勤勉な働きぶりで蓄財に励む。後に独立し、大商人に成長。
  • 富豪になってからも謙虚な気持ちで清潔な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行った。
  • 1816年 死去。墓は万年山東陽寺。
  • 二代目は放蕩息子で、残念ながら塩原家は没落したと伝えられる。
  • 1878年 三遊亭圓朝が太助をモデルにして「塩原多助一代記」を創作し、高座にかけて人気が出る。
  • 1885年 「塩原多助一代記」を出版。12万部という驚異的なベストセラーになる。
  • 1928年 関東大震災の復興事業として墨田区竪川に「塩原橋」が架けられた。
  • 「フレームカラーは、矢張り『青』しか考えられませんね。さて、サイズが極小なのとキャプションがあっさりし過ぎかとは思いますが、此処には彼の肖像(画)が掲載されて居ります。こちら」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    塩原太助-Wikipedia
    第114話「塩原多助一代記」
    (1)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 4/17 17:12:37(金) [4615]

(2009.04.18更新)



▲三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名な江戸時代の豪商塩原太助。


▲【 カラーの浮世絵は明治25年1月から東京歌舞伎座で公演された時のポスター(部分)。多助は五代目尾上菊五郎。


▲塩原太助碑(足立区伊興町狭間877万年山東陽寺山門脇) 「塩原太助古蹟」と彫られた石碑。


▲塩原太助墓(足立区伊興町狭間877万年山東陽寺墓所)

 





 

73年7ヶ月と22日の生涯

ジェームス・ブラウン
James Joseph Brown, Jr.   【ファンクの父】

(1933.05.03〜2006.12.25)
心不全---牡牛座

  • アメリカ合衆国のソウルミュージックシンガー・音楽プロデューサー・エンターティナー。通称JB。ファンクの帝王と呼ばれ、 The Hardest Working Man in Showbiz(ショウビジネス界いちばんの働き者) The Godfather of Soul などとも称される。
  • ジェームズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして世界恐慌時のサウスカロライナ州バーンウェルに生まれる。他にも1928年、テネシー州プラスキ生まれという説がある。成人後にジェームス・ジョセフ・ブラウンへと改名。一家は貧しく、ジョージア州オーガスタに移り住んだがブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。
  • 子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。成長するにつれ彼は犯罪に手を染め、16歳の時に武装強盗の罪で有罪判決を下され、1948年からトコアの教護院に収容される。教護院での服役中にブラウンはボビー・バードと知り合う。バードの家族はブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンはオーガスタまたはリッチモンド郡に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念することとなる。ブラウンは音楽へその情熱を傾けることとなった。
  • ブラウンとバードの妹サラは1955年からゴスペル・グループ「ザ・ゴスペル・スターライターズ」として活動を始める。その後結局ブラウンはバードのグループ「エイヴォンズ」に参加し、バードはグループをリズム・アンド・ブルースバンドとして活動していくことになる。バンドはその名を「フェイマス・フレームズ」と変え、オハイオ州シンシナティでシド・ネーサンのキング・レコードと契約を結ぶ。
  • バンドのファースト・シングル「プリーズ・プリーズ・プリーズ Please, Please, Please」は1956年にリリースされた。レコードには「ジェームス・ブラウンとフェイマス・フレームズ James Brown with the Famous Flames」とのようにクレジットされ、同シングルはチャート5位を記録しミリオンセラーとなった。しかしながらその後はヒット曲に恵まれず、続く9枚のシングルが商業的に失敗した後、キング・レコードはバンドと契約解除を行おうとした。
  • 1958年の「トライ・ミー Try Me」がビルボード48位の小ヒットとなり、バンドは活動を継続させることができた。バンドの曲のほとんどはブラウンが作曲し、バードのバンドであったフレームズはブラウンが実質的なリーダーへと変化し、結局は後のソロ活動においてフレームズがバックバンドとなっていった。
  • これらの初期の録音には「I'll Go Crazy」(1959)「Bewildered」(1960)といったゴスペルの影響を強く受けた曲や、リトル・リチャードやレイ・チャールズといった同時代のアーティストの影響を受けた作品が含まれていた。しかしその歌唱スタイルは変化していき、後には「ファンク」と呼ばれるスタイルに発展していった。
  • アルバムが成功すると、引き続いてアラン・トゥーサンとの作品を発表しこれらもヒットとなった。1964年の「Out of Sight」「 Night Train」は生で飾らないサウンドを特徴とし、ホーンセクションとドラムスが中心となった。1970年代中頃までにブラウンの人気は陰りが生じ、ブーツィー・コリンズのような重要なサポート・ミュージシャンは自らのグループを結成して活動し始めた。ディスコ・ブームの起こりとともに、ブラウンはその起源と見なされるようになり、その業績が振り返られるようになる。1976年のアルバム『Get Up Offa That Thing』『Bodyheat』は初の「ディスコ風」アルバムであった。
  • 人気注目度の回復にもかかわらず、1980年代末までブラウンは法的トラブル、金銭トラブルに悩まされた。1988年にはオーガスタの州間高速道路20号で警察とのカーチェイスを行った末逮捕されている。
  • 2004年12月に前立腺癌と診断され手術を受ける。
  • 2006年8月22日、オーガスタ・リッチモンド郡競技施設局は、市民ホールをジェームス・ブラウン・アリーナと改名することを票決した。2006年11月14日にはイギリス音楽の殿堂入りする。ブラウンは授賞式で演奏を行った幾人かの受賞者の内の一人であった。
  • 2006年12月24日、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院する。翌12月25日の午前1時45分ツアー予定を残したまま死去、享年73。
  • ジャズ音楽家のマイルス・デイヴィスは彼の影響を受けたと告白しており、ヒップホップが広まるにつれ、彼のリズムの使い方が数多くの歌のインスピレーションになっており、その他ハウス音楽などダンス音楽全般において彼とそのバンドのリズムパターンが使用、引用されている。代表曲「Get Up (Sex Machine)」はあまりにも有名。
  • ブラウンはその奇抜なファッションから日本ではコミカル性が特に取り上げられることも多かったが、音楽の芸術性は極めて高く評価されている。
  • ブラウンは4度の結婚を経験した。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは2004年に再婚し子供を一人もうけた。ブラウンはまた最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に二人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に三人の子供がいる。
  • 驚異的な記憶力で知られており、無名時代からの世話になったDJや関係者の名前などを覚えており、相手はどうせ忘れているだろうと思っていたら、JBがフルネームで覚えており「あの時はありがとう」と言ったなどという逸話が残っている。
  • 1991年に眉毛を入れ墨にしている。1992年に死亡したとの誤報が報じられた。
  • 「ブラック・ミュージックの世界で、自作自演を実践した先駆者の一人。アース・ウインド&ファイヤーやプリンスなど影響を受けた音楽家は枚挙にいとまなく、彼の曲の一部は、最近のヒップホップでも盛んに引用されている。まさにその音楽は、1970年代以降のブラック・ミュージックの流れの礎を築いたと言えるだろう」(1)。
  • ソウルのゴッドファーザー! ゲロッパ!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    ジェームス・ブラウン-Wikipedia
    (1)音楽評論家・大伴博

(2009.09.31更新)



▲歌手、ダンサー、そしてバンドのリーダーとして有名であり、1960年代から常にポピュラーミュージックに影響を与えつづけ、20世紀の最も重要な音楽家の1人に数えられたジェームス・ジョセフ・ブラウン・ジュニア。
(イラスト 大城さん)






◆「ファンクとは、動く一体感のことなのだ」ハワード・C・ノリス 「ファンク FUNK」(リッキー・ヴィンセント著)より。

 

73年8ヶ月と3日の生涯

イツハク・ラビン
Itzhak Rabin   【中東和平の戦士】

(1922.03.01〜1995.11.04)
自国の青年によって暗殺---魚座

  • イスラエル首相。軍人 政治家。妻、レア・ラビン。イスラエル成立前のパレスチナで生まれる。
  • 両親ともにシオニスト活動家。農業学校卒。イギリスで軍事訓練を受ける。ユダヤ自衛軍に参加。第1次中東戦争で功績をあげ、1964年1月イスラエル軍の参謀総長に任命される。
  • 参謀総長として1967年の第3時中東戦争(六日間戦争)を指揮し、歴史的な勝利を収める。その後、駐ワシントンのイスラエル大使を経て、イスラエル首相に就任。
  • 婦人の些細な過失が原因でまもなく辞任するが、しばらくして国防大臣に就任し、1992年に首相のポストに復帰。
  • パレスチナ問題には軍事的解決は存在しないと考え、政治的解決が不可欠だと判断。そして和平の道を選ぶ。1974(昭和49)年 首相就任。1977(昭和52)年 首相辞任。
  • 1993年にワシントンのホワイトハウスでのオスロ合意の調印式でアラファトPLO議長と握手した際には、ラビンの表情が震えていたと伝えられている。この握手は、ラビンのパレスチナ人認識の長い長い旅の終着点であった。こうしたラビンの苦悩と変革をイスラエル国民も共有していた。前線で実際に敵の銃弾に身をさらした元兵士であり、元将軍であり、1967年の六日間戦争の英雄であり、政治家としては潔い引き際を見せたという経歴がラビンを重い存在感の指導者にした。交渉を指導しているのがこのラビンであればこそ、イスラエル国民は和平プロセスに将来を託すことができた。
  • 1994(平成6)年 ヨルダンと平和条約を調印。10月14日 ノーベル平和賞受賞決定。12月10日 オスロ市庁舎でのノーベル賞授賞式に出席。1995(平成7)年9月 パレスチナ暫定自治合意成立。ところが1995年11月4日 テル・アビブ市役所前広場で銃撃を受け死亡。
  • これが中東和平プロセスを揺さぶった。なぜなら、敬愛する指導者を失ったから。そして犯人がユダヤ人だったからである。このことが、中東和平への道の険しさを顕著に表している。
    その急逝に対し、全国民・世界85ヶ国代表が哀悼した。墓所、ヘルツル(エルサレム) 。
  • 「〈生まるるに時あり死ぬるに時がある。---泣くに時があり笑うに時がある。愛するに時があり憎むに時がある。戦うに時があり和睦するのにと気がある〉これは1993年9月13日パレスチナ暫定自治基本合意に調印した日の演説である。〈天の下のすべての事には季節がありすべての業には時がある〉という聖書の一節を引き「和睦の時が来た」と信じた演説だった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「中東戦争後の情勢」www3.ocn.ne.jp/~d063yxbe/israel.txt - 10k -
    (1)読売新聞2005.02.09夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2005.06.22更新)




▲仇敵PLOとの歴史的和解、ヨルダンとの和平など、 中東和平を推進したイスラエル首相イツハク・ラビン。

 


◆「ラビン回想録」イツハク・ラビン〔著〕 竹田純子〔訳〕 早良哲夫〔監修〕
若き日に戦った独立戦争、参謀総長としてイスラエルを勝利に導いた六日戦争、 軍服を脱いでからは駐米大使や首相として厳しい交渉のやり取り、 エジプトとの平和条約締結に向けての裏舞台などが語られる。

 

73年8ヶ月と7日の生涯---2004年生誕100年

古賀政男
Masao koga    【流行歌の父】

(1904.11.18〜1978.07.25)
急性心不全---蠍座

  • 「流行歌の父」と呼ばれた作曲家。福岡県生れ。明治大卒。
  • 『影を慕いて』(24歳。作詞も)でデビュー。《酒は涙か溜息か》《丘を越えて》《二人は若い》《東京ラプソディ》《人生の並木路》《人生劇場》《誰か故郷を想わざる》《湯の町エレジー》《柔》《悲しい酒》など約4000曲を作曲。
  • 「古賀メロディ」で昭和の歌謡曲作曲家の第一人者の位置を占め、日本作曲家協会会長などを務めた。
  • 1978年国民栄誉賞(死後追贈)。
  • 「日本人ならではの郷愁を旋律で表現できる人だった」(大川栄策)。
  • 「歌い継ぐことが使命」(五木ひろし)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2009.09.26更新)



▲「古賀メロディ」で昭和の歌謡曲作曲家の第一人者・古賀政男。
(イラスト 玉野安実嬢)

 

 

73年8ヶ月と9日の生涯

エドワード・ジェンナー
Edward Jenner    【天然痘を世界から根絶させた男】

(1749.05.17〜 1823.01.26)
死因?---牡牛座

  • 元々は田舎の町医者だった。ジェンナーの時代、イギリスでは天然痘はしばしば流行していた。これに対する予防法は、症状の軽い天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人間に注射するというものだったが、この予防法は失敗することがあり、予防注射によって天然痘にかかった人間がしばしば死亡した。
  • ジョン・ハンターのもとで教えを受けた。ジェンナーは農家に古くから伝わる伝承を聞いた。これは、牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないというものだった。天然痘に比べると、牛痘ははるかに安全な病気であった。
  • 1796年5月14日、ジェームズ・フィップス(James Phipps)という8歳の少年に牛痘を注射した。少年は牛痘にかかり、6週間後、回復した。その後、ジェンナーは少年に天然痘を接種した。しかし、少年は天然痘にはかからなかった。
    (一部の伝記や偉人伝等では「自分の息子に試した」「フィップスはジェンナーの実の息子」と記述されている場合があるが、これは完全な誤りである。)
  • ジェンナーは1798年にこれを発表。その後、種痘法はヨーロッパ中にひろまり1802年、イギリス議会より賞金が贈られたが医学界はこの名誉をなかなか認めなかった。また、牛痘を注射すると言うと一部の町村では牛になると言われて苦労したが注射を「神の乗った牛の聖なる液」と言う説明をしたと言われる。
  • ジェンナーのワクチンは改良されて世界で使われ、1980年には天然痘が世界から根絶された。
  • 「イギリスのバークレーで1749年に生まれ、ロンドンで医学を学んだ。1796年牛痘に感染した牛の乳絞りサラ・メルネスの膿を少年ジェームズ・フィップスへ植えつけ感染を確認後治療したが(右欄の油彩画)この後少年は天然痘を接種しても感染しなかった。これが最初の牛痘種痘例であった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エドワード・ジェンナー-Wikipedia
    (1)「エドワード・ジェンナー

(2007.01.27掲載)




▲天然痘ワクチンを開発したことで知られるイギリスの医学者エドワード・ジェンナー。



▲ジェームズ・フィップスに種痘するジェンナー(カンバス油彩)
1912年 E.Board画 ウェルカム財団(ロンドン)


▲ジェンナー(大理石像) 1878年 モンテベルデ作 パラゾ.ビアンコ博物館(ジェノバ)

73年8ヶ月と11日の生涯

リオタール
Jean・F・Lyotard  【ポスト・モダニズムの代表的論客】

(1924.08.10〜1998.04.21)
死因?---獅子座

  • フランスの哲学者。パリ大学名誉教授。デリダドゥルーズらとともにポスト構造主義、ポスト・モダニズムの代表的論客。
  • 人間を支配・圧殺する「大きな物語」(プラトン主義からマルクス主義に至る形而上学的言説と制度の総体)を批判し、そこからの「漂流」を説く。
  • 主著『フロイトマルクスからの漂流』(1973年)、『リビドー経済学』(1974年)、『ポスト・モダンの条件』(1979年)、『ハイデガーと〈ユダヤ人〉』(1988年)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2006.11.11更新)




▲ ポスト構造主義、ポスト・モダニズムの代表的論客・リオタール。

73年8ヶ月と14日の生涯

石光真清
Makiyo Ishimitsu  【動乱に育った誠実なスパイ】

(1868.08.31〜1942.05.15)
死因?---?座

  • 一生の大半をシベリア、満州での諜報活動に従事、波乱に富む生涯を送った軍人、諜報活動家。現熊本市本山町生まれ。
  • 少年時代を神風連や西南の役の動乱の中に過し、「時代を見る目」を養う。陸軍幼年学校に入る。明治22年(1889)、陸軍士官学校卒業。陸軍中尉で日清戦争に参加し台湾遠征。ロシア研究の必要性を痛感して帰国。
  • 日清戦争従軍後、三国干渉をきっかけにロシア研究を志し、1899年にウラジオストックに特別任務を帯びて私費留学生として渡る。以後、馬賊らと交流し、洗濯店や写真館を経営しながら満州やシベリアの情勢を調査していく。
  • 日露戦争後は東京世田谷の三等郵便局長を勤めたりしたが、大正6年ロシア革命の後再びシベリアに渡り諜報活動に従事。
    大正8年帰国後は、夫人の死や負債等、失意の日々を送り、昭和17年76歳で没した。
  • のち長子真人の手により完成したのが手記(遺稿)四部作『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』である。(曠野の花、著者紹介より)近代日本の裏面史ともいえる手記を残した。のち、「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」4部作として刊行。
  • 日清、日露戦争に出征。また、一生の大半をシベリア、満州での諜報活動に従事、波乱に富む生涯を送った。近代日本の“戦地”に立ち続けた希有な人物。
  • 「古いものを嘲っていれば先覚者になったつもりで得々する者もあり、新しいものといえば頭から軽佻浮薄として軽蔑する者も出てくる。こうしてお互いに対立したり軽蔑したりしているうちに、ほんとうに時代遅れの頑固者と新しがりやの軽薄ものが生まれてくる」(1)
  • 「真清はスパイから連想されるスマートさ、冷酷さからはほど遠い。家族を愛し、人情に厚かった。他方で数々の失意を味わい、晩年には息子に〈お父さんは失敗したんだよ。何もかもね〉と語り、読書三昧を送る一生だった」(2)。
  • 「〈国のため わけ入る君がシベリアの 旅安かれと我が祈るなる〉晩年、真清は先に逝った妻がこのような歌を残していたことを見つけて悲嘆にくれ、読経三昧の日々を送ったという」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)(2)読売新聞2004.05.13朝刊 ホントの旅-石光真清「城下の人」より。
    (3)読売新聞2004.11.26朝刊「肖像」より抜粋。

(2004.12.01更新)




▲一生の大半をシベリア、満州での諜報活動に従事、波乱に富む生涯を送った軍人、諜報活動家・石光真清。

 

73年8ヶ月と14日の生涯

アンナ・モッフォ
Anna Moffo    【ソプラノ歌手・タレント】

(1932.06.27/1930〜2006.03.10)
乳がんを患い、脳卒中を併発---蟹座

  • 米東部ペンシルヴァニア州ウェイン出身。生年については、1930年誕生説と1932年誕生説があり、確定していない。
  • ラドナー高等学校を卒業後、映画撮影のためにハリウッドから声がかかるほどだったが、修道女になることを目指していたためその申し出を断わった。しかしながら奨学金を得て、フィラデルフィアのカーティス音楽学校に進学する。1955年にフルブライト奨学金を獲得してローマのサンタ・チェチリア音楽院に留学。
  • 同年スポレトにおいて、ドニゼッティの《ドン・パスクヮーレ》のノリーナ役でデビューを果たす。
  • 翌年には、未来の夫マリオ・ランフランキ(RCAビクターおよびRAIのプロデューサー)の演出により、プッチーニの《蝶々夫人》にてテレビ出演を果たす。
  • 1957年に母国で凱旋デビュー(シカゴ・リリック・オペラ座にてプッチーニの《ラ・ボエーム》のミミ役)。この年、スカラ座にもデビューし、ザルツブルク音楽祭においてカラヤンの指揮により、ヴェルディの《ファルスタッフ》にも出演。これがウィーン国立歌劇場との初共演となった。
  • また同年は、12月8日にランフランキと結婚。1970年代までウィーンで歌手活動を続け、《リゴレット》のジルダ役、マスネの《マノン》のタイトルロール、グノーの《ファウスト》のマルゲリート役、ビゼーの《カルメン》のミカエラ役、《椿姫》のヴィオレッタ役を十八番とした。
  • この間アメリカでは、1960年から1961年にかけてニューヨークのメトロポリタン歌劇場に出演し、《リゴレット》のジルダ役、《愛の妙薬》のアディーナ役、プッチーニの《トゥーランドット》のリュー役をつとめ、ビルギット・ニルソンやフランコ・コレッリとも共演した。
  • 1972年にランフランキと離婚し、1974年11月14日にRCAの取締役会長ロバート・サーノフと再婚。
  • 1970年代には、ヴェルディの《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラ役や、《スティッフェーリオ》のリーナ役など、より激しい役柄をこなした。
  • モッフォはとりわけイタリアで人気があった。1960年から1973年まで同地のテレビ番組でメイン司会者を務め、またイタリアで最も美しい女性の10人に選ばれたこともある。
  • 米国や欧州の歌劇場などを舞台に「ラ・ボエーム」や「椿姫」など数々の作品でヒロインを演じ、優雅なソプラノの歌声や美貌で人気を呼んだが、40代で惜しまれつつ引退した。
  • 米メトロポリタン・オペラで「椿姫」などを演じ、美しいソプラノとして活躍、映画にも出演したが1970年代半ば以降、舞台から遠ざかった。
  • 母国ではオペラファンに礼賛され、作家のウェイン・コステンボーム(Wayne Koestenbaum)は、一冊の本になるほどの長大な頌詩『アンナ・モッフォへのオード』を物している。
  • 1997年2月22日に夫サーノフと死別。この10年間に乳がんを患い、その悪化にともない脳卒中を併発して、ニューヨーク市にて逝去した。
  • 実子はいないため、実弟と、夫の連れ子(義理の娘3人)が遺族となった

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    アンナ・モッフォ-Wikipedia

(2006.09.01掲載)




▲ 専ら1960年代に欧米で活躍し、全盛期には、美声と美貌ゆえに評価を集めたアンナ・モッフォ。

 

 

73年8ヶ月と18日の生涯

レイ・チャールズ
Ray Charles    【ソウル音楽の大御所】

(1930.09.23〜2004.06.10)
肝臓疾患による合併症--乙女座

  • ソウル音楽の大御所として知られる天才歌手。ジャズ、ブルース界の偉人・伝説的歌手。
  • アメリカ・南部ジョージア州の貧しい家庭に生まれた。幼少の頃、弟が溺死するのをなすすべもなく見てしまった時から、暗黒の世界へ向かった。緑内障が悪化して7歳になるころまでに視力を失った。光の代償として“音”を授かった。ピアノは3歳から始め、フロリダの盲学校に入学後、独学で点字による作曲・編曲を学び、ピアノやサックスの腕を磨いた。
  • 15歳までに両親をなくし、苦難の少年時代を送った。 15歳で盲学校を出、ダンスホールなどでプロとしての音楽活動を始める。
  • 1955年(25歳)教会音楽のゴスペルと、黒人のルーツ音楽のブルースを土台にした独自な歌唱法を発展させ、「アイ・ガット・ア・ウーマン」のヒットでブレイク。深く響く歌声とゴスペルやブルースなど幅広い要素を取り入れ、ソウル・ミュージックの草分け的な存在となった。黒人音楽エンターテイナーの先駆的存在だったが、それだけにとどまらず、ロックンロールの草創期にエルビス・プレスリーやビートルズら白人音楽家にも大きな影響を与えた。
  • 1960年の「我が心のジョージア」から1993年の「ア・ソング・フォー・ユー」までグラミー賞を12回受賞、20世紀を代表する歌手の1人に挙げられる。 20世紀ポピュラー音楽界を代表する巨人。1986年には米の「ロックの殿堂」入り。
  • 映画「ブルース・ブラザース」(80年)に楽器店主役で出演して劇中歌を歌い、また、1989年(59歳)サザンオールスターズの代表曲「いとしのエリー」を英語でカバーし日本のファンにも特に親しまれた。
  • 女性問題や薬物中毒もあったが、サングラス姿で身をのけぞらせ、満面の笑みで歌う独特なスタイルで、最後まで一線で活躍した。ロサンゼルス・ビバリーヒルズの自宅で家族や友人に見守られて息を引き取ったという。
  • 「心だけは盲目にならないで」母との約束を果たして2004年6月10日、レイは逝った。
  • 「最も偉大なソウル・ミュージックの巨匠で、今日の黒人音楽の全盛を築いた存在ともいえる。歌唱力も素晴らしかったが、何よりも歌に心、ソウルがあった。だから多くの人の胸に響いてくる。また、ソウルだけではなく、ジャズやカントリーの曲を取り上げるなど、音楽性の幅の広さも特徴だった」(1)。
  • 「レイ・チャールズ以前の黒人アーティストと言えば、ルイ・アームストロングナット・キング・コールが代表的だが、黒人の大衆音楽の魅力を最初に分かりやすく伝えてくれたのはレイだった。例えば「我が心のジョージア」。この曲は他の人も歌っているが、レイが体を揺すりながら歌うと、骨太で暖かく、まさにリズム&ブルースのコクがある。---白人の音楽だったカントリーを歌っても、ちゃんと南部のにおいのするブルースになっている。その意味では、それまで顕著だった白人音楽と黒人音楽の隔たりを楽々と飛び越えた人だった。どんなジャンルの曲を歌っても、自分の色に染め上げた。---ビートルズをも含めて、世界的影響を与えた。黒人音楽の流れを語る上で、ジェームス・ブラウンと並んで、必ず取り上げられる巨大な岩焼きのような存在だろう。訃報に接して、まさに巨木が倒れたようなショックを受けた」(2)。
  • 「私にとってレイ・チャールズは夢と希望をくれた神様。美空ひばりさんが歌謡界の母とすれば、レイ・チャールズはお父さん」(3)。
  • 今日(2005.02.28)渋谷のシネマライズで『レイ』を観てきた。「人生の幸福の量・保存の法則」をあらためて思った。
    「いとしのエリー」ならボクだって負けないぞ!!!。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.06.11夕刊 音楽評論家・鈴木道子
    (2)読売新聞2004.06.11夕刊 音楽評論家・湯川れい子
    (3)読売新聞2004.06.11夕刊 歌手・和田アキ子

(2009.08.01更新)



▲ サングラス姿で身をのけぞらせ、満面の笑みで歌う独特なスタイルで、最後まで一線で活躍したレイ・チャールズ。
(イラスト 大城さん)

 


◆映画「レイ」
ジェイミー・フォックスの完璧な演技はアカデミー賞確実!といわれている。

“わが心のジョージア”“愛さずに入られない”“アンチェイン・マイ・ハート”など、数々の伝説のナンバーがレイの魂と共にスクリーンに響きわたる。

73年8ヶ月と20日の生涯

ポール・ヴァレリー
A・P・T・J・Valery  【象徴主義の最後を飾る大詩人】

(1871.10.30〜1945.07.20)
死因?---蠍座

  • フランスの詩人にして評論家、思想家。地中海の港町セート生れ。マラルメの門下に入る。
  • 創作の意識的方法論を述べた評論『レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説』と小説『テスト氏との一夜』(25歳)を発表後、突然筆を捨て深い思索生活に沈潜する。
  • 46歳で女性の夢から目ざめへの意識を歌った長詩『若きパルク』を発表、詩集『魅惑』に収められた詩がこれに続き、象徴主義の最後を飾る大詩人とうたわれる。
  • 54歳でアカデミー会員となり、ヨーロッパ各地で講演、フランスの知性を代表する存在となる。文学、哲学、政治などにわたる分析的精神に貫かれた文芸批評を書き、これが『バリエテ』5巻となる。
  • その他未完の遺作の戯曲『わがファウスト』、生涯書き続けられた覚書『カイエ』など。ド・ゴール政府により国葬。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.09.01更新)




▲ フランスの詩人にして評論家、思想家・ポール・ヴァレリー。

73年8ヶ月と22日の生涯

市川昭介
Syousyke Ichikawa 【「アンコ椿は恋の花」の生みの親】

(1933.01.04〜2006.09.26AM5: 00)
肝不全---山羊座

  • 福島県郡山市出身。地元の工業高校卒業後(昭和26年)歌手・高倉敏(びん)氏を慕い上京、氏の他 歌手・鶴田六郎氏、作詞家・藤間哲郎氏等の「カバン持ち」を10年間続けながら、独学で作曲法・ピアノを勉強する。
  • デビュー作品は昭和1936年の「恋しているんだもん」(島倉千代子)。昭和36年〜昭和46年 日本コロムビア専属。昭和47年〜昭和49年 クラウンレコード専属。以後フリーとなる。3,000曲以上の作品を世に送り出している一方、新人の発掘・育成にも情熱を注いだ。
  • 数々のヒット曲で日本歌謡界を支えた。中でも都とは名コンビだった。「アンコ椿は恋の花」「好きになった人」などを手がけた。
  • 覚えやすいメロディーが特徴で多くの歌手に慕われる一方、愛くるしい“昭介スマイル”で、TBS系「家族そろって歌合戦」の審査員やカラオケ番組の講師役などテレビ出演でも人気を呼んだ。
  • 体調を崩したのは2002年秋。神奈川県立がんセンターに入院。検査で胃がんが発見され、手術を受けた。だが、腹膜、肝臓にがんが転移し、病院から余命は3カ月の宣告。
  • 抗がん剤を投与したが、本人の考えで東洋医学による治療に変えた。漢方、指圧、気孔のほか、中国で治療も受けたこともあった。そのかいあって徐々に回復し、年末に退院。仕事を順調にこなすまでになった。
  • だが、今年8月に再び体調を崩し、今月4日に再入院した。ベッド上でも「曲が作りたい。詞を持ってきてくれ」と創作意欲は十分で、14日には中村氏が書いた詞にメロディーを付け、都に「はるみ、歌ってみてくれ」と話したという。16日には別のメロディーも作曲。病室でキーボードを弾き、都が歌って“遺作”を作った。だが、24日に衰弱が進み、他の関係者も面会。最期は家族にみとられ、息を引き取った。
  • 師匠の悲報に歌手・都はるみ(58)はぼうぜん自失。無言の師匠と4時間向き合い、最後の別れを告げた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2006.09.28掲載)




▲「アンコ椿は恋の花」などのヒット曲で知られる作曲家・市川昭介。

 

 




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