玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

70-71-72-73-74-75-76-77-78-79

age 73


50音インデックス


■73歳の
 シンクロニシティ


■73歳-?
山上憶良
紀貫之
イブン・バットゥータ
長次郎(樂家初代)
エル・グレコ
ロバート・フラッド
カザノヴァ
良寛
島地黙雷
トーマス・グラバー
羽根田幸之助
岡崎文吉
ルイス・カーン
G・ピアティゴルスキー
榎本滋民
小此木敬吾
張永哲
坂部 恵

■73歳-前半-1→進む
南村 侑広
ヘルムホルツ
ハルバースタム
升田幸三
高村光太郎
山本 薩夫
ドン・ブレイザー
ダーウィン
ミノル・ヤマサキ
岩下俊作
飴山實全
水原 茂
スターリン

■73歳-前半-2→進む
伊能忠敬
朝永振一郎
玉川勝太郎(2代目)
宇野重吉
徳川家康
ジョージ・ヘンデル
大友柳太朗
大泉滉/大泉晃
牧口 常三郎
岡田光玉
日野啓三
コール・ポーター
濱口庫之助
筑紫哲也
シュレディンガー
源氏 鶏太
村田英雄
清水次郎長
久保田万太郎
宮本常一

■73歳-後半-1 →進む
遠藤周作
黒川紀章
ナムジュン・パイク
ボボ・ブラジル
殿山泰司
深沢七郎
塩原太助
ジェームス・ブラウン
イツハク・ラビン
古賀政男
エドワード・ジェンナー
リオタール
石光真清
アンナ・モッフォ
レイ・チャールズ
ポール・ヴァレリー
市川昭介

■73歳-後半-2 ?進む
ダルトン・トランボ
ラ・フォンテーヌ
岩城宏之
トニー・ザイラー
エッシャー
フェリーニ
ヴィルヘルム・グリム
東海林太郎
辻 邦生
ジョージ・アダムスキー
モランディ
トーマス・クーン
片山 潜
リキテンスタイン
シャルダン
アントニオ・ガウディ
スタインヴェーク
土佐光起
早坂茂三


■73歳のエポック



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73歳の語録

 

「わたしは狂おしいほど女を愛してきた。しかし--、つねに女たちより自由を愛してきた」
(カザノヴァ)

「裏を見せ 表も見せて 散る紅葉」
(良寛)

「建築の作品とは、捧げものなのです」
(カーン)

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」
(ダーウィン)

「一人の死は悲劇だが、100万人の死は統計でしかない」
(スターリン)

73歳のシンクロニシティ!

  • 作家では遠藤周作深沢七郎
     
    ●「 狐狸庵先生」で知られる遠藤周作(1923.03.27〜1996.09.29)は肺炎による呼吸不全で73年6ヶ月と2日の生涯(牡羊座)。
    ●「楢山節考」で有名な深沢七郎(1914.01.29〜1987.08.18)も心不全で73年6ヶ月と20日の生涯(水瓶座)の生
    涯だった。

  • 建築界では、ルイス・カーンミノル・ヤマサキアントニオ・ガウディ
      
    ●同時代の機能主義建築とは一線を画し、多大な影響を与えた米国の建築家・ルイス・カーン(1901.?〜1974.?)は死因?で73年?の生涯(?座)。
    ●「世界貿易センタービル」で知られる米国の 日系建築家ミノル・ヤマサキ(1912.12.01〜1986.02.07)で73年2ヶ月と8日の生涯(射手座)だった。
    ●さらに、永年の未完の「サグラダ・ファミリア」で有名なスペインの建築家アントニオ・ガウディ(1852.06.25〜1926.06.07)も市電にはねられ73年11ヶ月と13日の生涯(蟹座)でリンクしている。


  • 進化論に絡んで、ダーウィンティヤール・ド・シャルダン
     
    ●英国の博物学者で進化論の確立者・チャールズ・ダーウィン(1809.02.12〜1882.04.19) は心臓発作で73年2ヶ月と7日の生涯(水瓶座)。
    ●キリスト教と進化論を統合する壮大な思弁を展開したティヤール・ド・シャルダン(1881.05.01〜1955.04.10)も死因?で73年11ヶ月と9日の生涯 (牡牛座)。

  • 囲碁・将棋に関して升田幸三村田英雄徳川家康
      
    ●「新手一生」を掲げた天才棋士・升田幸三(1918.03.21〜1991.04.05)は死因?で73年と15日の生涯(牡羊座)。
    ●『王将』を歌った村田英雄(1929.01.17〜2002.06.13)肺炎で73年4ヶ月と26日の生涯(山羊座)。
    ●また、戦乱の世を平定し江戸に幕府を開いたのち、碁打ち衆を手厚く保護し、囲碁の隆盛に道を開いた徳川家康(1542.12.26〜1616.04.17)も食中毒(胃ガン?)で73年3ヶ月と22日の生涯を終えた(山羊座)。


  • 映画監督のフェデリコ・フェリーニとジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナは 1943年結婚して夫婦だった。ふたりは共に1920年生まれ、23歳で結婚。
     
    ●50回目の結婚記念日を祝った翌日にフェリーニ(1920.01.20〜1993.10.31)が死因?で逝き73年9ヶ月と11日の生涯(山羊座)。
    ○その5ヵ月後にマシーナ(1920.02.22〜1994.03.23)も死因?で74年1ヶ月と1日の生涯(魚座)でフェリーニのもとへ行った。理想のカップル、理想の生涯年月日。


  • 日本を代表する二人の作曲家も73歳で共に逝った。浜口庫之助古賀政男である。
     
    ●「黄色いさくらんぼ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜もありがとう」「人生いろいろ」などの作詞・作曲家・浜口庫之助(1917.07.22〜1990.12.02)は咽頭ガンで73年4ヶ月と10日の生涯(
    蟹座)。
    ●『影を慕いて』『酒は涙か溜息か』で知られる「流行歌の父」と呼ばれた作曲家・古賀政男(1904.11.18〜1978.07.25)は急性心不全で73年8ヶ月と7日の生涯(蠍座)だった。


  • ミュージシャンではスタンダードを書き続けた作詞・作曲家とファンクの父、ソウル音楽の大御所もシンクロする。コールブラウンレイだ。
       
    ●「レッツ・ドゥ・イット」のヒットで、アーヴィング・バーリンやジョージ・ガーシュイン、ジェローム・カーンらと並ぶ売れっ子作曲家の一員となったコール・ポーター(1891.06.09〜1964.10.15)は73年4ヶ月と6日の生涯 (双子座)。
    ●歌手、ダンサー、そしてバンドのリーダーとして有名であり、1960年代から常にポピュラーミュージックに影響を与えつづけ、20世紀の最も重要な音楽家の1人に数えられたジェームス・ジョセフ・ブラウン・ジュニア(1933.05.03〜2006.12.25)も
    心不全で73年7ヶ月と22日の生涯 (牡牛座)。
    ●サングラス姿で身をのけぞらせ、満面の笑みで歌う独特なスタイルで、最後まで一線で活躍したレイ・チャールズ(1930.09.23〜2004.06.10)も肝臓疾患による合併症で73年8ヶ月と18日の生涯 (乙女座)だった。

  • 新興宗教の創立者もシンクロした。
     
    ●地理学者・教育者にして創価学会の創立者の牧口 常三郎(1871.07.23〜 1944.11.18)は獄死し、73年3ヶ月と26日の生涯 (獅子座)。
    ●新宗教系教団世界真光文明教団の教祖 (初代教え主)岡田光玉(1901.02.27〜1974.06.23)も死因?で、73年3ヶ月と27日の生涯 (魚座)だった。

    (2007.04.17更新)     



73年?の生涯

山上憶良
Okura Yamanoue   【『万葉集』第3期の歌人】

(660.?〜733.?)
死因?---?座

  • 『万葉集』第3期の歌人。下級貴族出身。出自については不明で、百済系渡来人説など諸説がある。奈良時代にまとめられた『万葉集』の代表的な歌人の一人で、 和歌七八首を残してい る。
  • 702年(42歳)遣唐使の随員として渡唐。唐で最新の学問(儒教・仏教等)を学ぶ。帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
  • 726年(神亀3)、67歳で筑前守(福岡県知事)として九州に赴き、太宰府長官として赴任していた大伴旅人(たびと)と親しく交わる。いわゆる“筑紫歌壇”を形成。また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。
  • 733年(天平5)、73歳のころには都に帰り、辞世と思われる歌を詠んでいる。〈山上臣憶良の、病に沈みし時の歌一首 をのこやも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして〉が、それである。
  • 憶良は、渡唐のことも含め、漢文学の素養が豊かで、社会・人生を主題とした和歌、漢詩文が多い。恋愛の歌ではなく、子に対する父の心、家庭を思う心などを、歌っている。
  • 当時は、長歌も短歌においても、初期のみずみずしいエネルギーは、しだいに失われていた時代といえる。そのなかで憶良は、さまざまの新しい表現上の試みをし、独自の文学の世界を構築してゆく歌人でもあった。
  • 《万葉集》に長歌11首、短歌68首、旋頭歌(せどうか)1首(作者に異説のあるものを含む)のほか漢詩、漢文の作品もある。
  • 〈貧窮問答歌〉にみられるような思想性・社会性を特色とする。社会派歌人として、貧しい者に同情し、苦しい生活体験や、家族愛を詠んだ。また和歌の編纂物《類聚歌林》があったというが現存しない。
  • 「山上憶良といえば、代表的な万葉の詩人の一人です。万葉の詩人といえば柿本人麻呂や山部赤人などがいますが宮廷詩人として名を馳せた人麻呂や自然を美しく歌った赤人と違って
    山上憶良は「貧窮問答歌」で有名なように人情を歌ったことで有名です。貧窮問答歌にもとネタがあることも有名ですが多く民衆の心を歌った歌人として日本の歴史に留めておいても良いと思います」(1)。
  • 「万葉歌人山上憶良は詠んでいる。「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも」子供にまさる金銀財宝など、この世にありはしないと」(2)。
  • 日蓮宗ではさらに、「子にすぎたる財(たから)なし」という。宝ではなく財であるところが凄い。

    ¶: 出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「山上憶良 辞世の句
    (2)読売新聞2004.09.05朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006/ 8/ 7 10:26:36(月) [86]

(2006.08.07更新)




▲奈良時代にまとめられた『万葉集』の代表的な歌人の一人で、 和歌七八首を残した山上憶良。


◆「山上憶良の辞世をお供えします。
〈士(オノコ)やも空(ムナ)しかるべき万代(ヨロズヨ)に語り継ぐべき名は立てずして〉
おそらく重いリューマチにかかって寝たままであった憶良のもとに、今をときめく藤原家の八束が見舞いに来た。見舞いの言葉を受け、礼をのべた憶良は、しばらくして涙を拭き、悲嘆してこの歌を詠んだという。(参考資料:佐々木幸綱著「男うた女うた」)」(3)。

73年?の生涯

紀貫之
Turayuki Kino      【土佐日記の作者】

(872.?/868.?〜945.03.28=貞観8年/貞観14年〜天慶9年)
死因?---?座

  • 平安時代前期の歌人、随筆家。三十六歌仙の1人。歌集古今の代表選者にして歌の名人。土佐日記の作者としても知られる。紀友則は従兄弟にあたる。男性。
  • 866年(貞観8)?(872年(貞観14)?、 このころ生まれる?。望行(もちゆき)の子。母は内教房の伎女か(目崎徳衛説)。童名は阿古久曽(あこくそ)と伝わる。子に後撰集の撰者時文がいる。友則は従兄。
  • 幼くして父を失う。若くして歌才をあらわし、寛平四年(892)以前の「寛平后宮歌合」、「是貞親王家歌合」に歌を採られる(いずれも机上の撰歌合であろうとするのが有力説)。
  • 昌泰元年(898)、「亭子院女郎花合」に出詠。ほかにも「宇多院歌合」など、宮廷歌壇で活躍し、また請われて多くの屏風歌を詠んだ。
  • 延喜五年(905)、醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒と共に編纂した。
  • 906年(延喜6)2月、越前権少掾に任官。907年(延喜7)2月27日、内膳典膳に遷任。 9月、宇多天皇が大井川に外出された際に、歌や序を供奉。
  • 910年(延喜10)2月、少内記に遷任。913年(延喜13)4月、大内記に転任。醍醐天皇の勅命により『新選和歌集』を編纂。同年、加賀介。大監物・右京亮を経て、延長八年(930)土佐守に任ぜられる。この年、醍醐天皇の勅命により『新撰和歌』を編むが、同年九月、醍醐天皇は譲位直後に崩御。
  • 935年(承平5)2月、土佐守の任を終え、帰洛。後にこの紀行を参考に、『土佐日記』を書く。945年(天慶8)3月28日、木工権頭に遷任。 同年没?
  • 古今和歌集の序文には漢文による「真名序」と平仮名による「仮名序」の二つがあるが、仮名序を書いたのも紀貫之である。
    また、『小倉百人一首』にも和歌が収録されている(人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける)。
    随筆家としては『土佐日記』の著者として有名である。男は漢文を書くのが常識とされていた時代に、女の作者を装って土佐から京都までの紀行を平仮名で綴った。そのため本文中の語り手も女性である。
  • 日本文学史上、おそらく初めての平仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。
  • 原本は自撰と推測される家集『貫之集』がある。三代集(古今・後撰・拾遺)すべて最多入集歌人。
  • 勅撰入集計475首。古今仮名序の作者。またその著『土左日記』は、わが国最初の仮名文日記作品とされる。
  • 「古今和歌集の巻第一に「春立ける日、よめる」と詞書きのついた紀貫之の歌がある。「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立けふの風やとくらむ」(春歌上)。夏には袖をぬらしてすくったあの水が、冬のあいだは凍っている。立春のきょうの風がそれを解かしているだろうか、と詠んだ一首からは、春をまちわびた人の心のはなやぎがにおうようでもある」(1)。
  • 「〈男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり〉。日本初の日記文学とされる「土佐日記」が書かれたのは935年ころ。当時、男性は日記を漢文で書いていた。紀貫之は女性の作者を装い、仮名散文でこれをつづった。今年は、貫之が選者として知られる「古今和歌集」の成立から1100年」(2)。
  • 「〈をとこ(男)もすなる日記というものを をむな(女)もしてみむとてするなり〉わが国初の仮名書きの日記文学『土佐日記』。その冒頭部分の記載から、紀貫之が女性を装って書いたというのが定説になっているが、小松英雄・筑波大名誉教授は近著『古典再入門』(笠間書院)の中で「をむなもしてみむ」とは、「女もしてみよう」ではなく、「女文字(ひらがな)で書いてみよう」という意味だったとする新説を発表した。---紀貫之は女性のふりをしたのか、それとも男のまま堂々と女文字を使ったのか。当人の思いに対する解釈が正反対となるだけに、今後の研究が注目される」(3)。
  • 「---日常を描きながら異界がかいま見える。言葉の宇宙に浸っている中で出会う忘れがたい感触。古今和歌集の序に〈やまとうたは人の心を種として、よろずの言の葉とぞなれり〉と書いた紀貫之のことを思い出す」(4)。
  • 「紀貫之の辞世をお供えします。〈手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかの世にこそありけり〉」(5)。
  • 「〈今年より春知りそむる桜花散るといふことはならはざらなむ  紀貫之〉(朝刊・四季欄より)。美しい花を咲かせても、散ることは、習わないでほしい」(6)。
  • ”きのう 辛い 雪”だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    紀貫之 千人万首
    (1)読売新聞2004.02.04朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)読売新聞2005.06.04夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (3)読売新聞2007.03.02朝刊 岡本公樹より抜粋。
    (4)読売新聞2007.06.17朝刊 種村弘著『もしもし、運命の人ですか』の茂木健一郎の書評より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん..2009/ 3/30 13:49:17(月) [4524]
    (6)読売新聞2009.04.01夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2009.04.04更新)




▲歌集古 今の代表選者にして歌の名人・紀貫之。
代)
◆紀貫之(菊池容斎・画、明治時代)



73年?の生涯

イブン・バットゥータ
Ibn Battuta    【アラブの大旅行家】

(1304.不詳〜1377.不詳)
死因?---?座

  • アラブの大旅行家。北部モロッコのベルベル系の生れ。
  • 22歳から30年間、エジプト、シリア、アフリカ東岸、小アジア、南ロシア、中央アジア、スマトラ、中国などを歴訪。デリーの法官、モルジブ島の法官などを歴任。
  • その思い出を口述した旅行記は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』と並んで旅行文学中の白眉とされる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.09.01更新)




▲アラブの大旅行家・イブン・バットゥータ。

73年?の生涯

長次郎(樂家初代)
Tyojiro   【黒樂茶碗/赤樂茶碗】

(1516.?〜1589.?=〜天正17年)
死因?---?座

  • 樂家初代の長次郎は、楽焼の創設者である中国出身の父・あめや/阿米也(飴屋または飴也)と母・比丘尼の間に生まれ、樂家の代名詞ともなる黒釉をかけた茶碗の作製において非常に優れた技量を見せた。
  • 没後、長次郎の妻の祖父・田中宗慶が豊臣秀吉から聚楽第の一字を取った「樂」の黄金の印を与えられた。これが樂家の始まりである。宗慶は千利休と同じ田中性を持ち、利休にかなり近い存在であったと考えられている。
  • その独創的なな造形は根底に千利休の侘の思想が濃厚に反映されており、同時に禅、あるいは老荘の思想の流れを汲む、極めて理念的なものといえる。その特色は装飾性、造形的な動きや変化、あるいは個性的な自己表現を可能な限り捨象、重厚な存在感を表わしている。 以後、歴代の当主が様々な作品を作り、今日の15代に至っている。
  • 樂 吉左衛門(らく きちざえもん)は、千家十職の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名称である。2007年現在、15代(1949年- 、1980年に襲名)が当主である。系譜については特にその初期について諸説があったが、今日では1955年に14代(覚入)が発表した統一見解が公式的に受け入れられている。以下もそれに従う。3代・道入以降の各当主には隠居した時に「入」の字を含む入道号という名前が贈られており、後世にはその名前で呼ばれる事が多い。なお、道入・得入・惺入・覚入は没後に贈られている。
  • 歴代
  • 初代  長次郎(?-天正17(1589年)
  • 二代 常慶(永禄4(1561年)-寛永12(1635年)):田中宗慶(長次郎の補佐役と目される)の次男。大降りでゆがみのある茶碗、「香炉釉」と呼ばれる白釉の使用を始める。本阿弥光悦と交流があった。
  • 三代 道入(慶長4(1599年)-明暦2(1656年)) :二代長男。名「吉兵衛」後「吉左衛門」。別名「ノンコウ」。初代や二代とは全く異なる、朱色、黄色など多数の釉薬を使用する明るい作風が特徴。本阿弥光悦の影響と考えられる。
  • 四代 一入(寛永17(1640年)-元禄9(1696年)) :三代の息子。名「佐兵衛」後「吉左衛門」。初代を模範としつつ、父の技法を取り入れ、地味な色調の中に光沢を持つ作風を特徴とする。
  • 五代 宗入(寛文4(1664年)-享保元(1716年)) :雁金屋三右衛門の子、四代の婿養子。名「平四郎」後「惣吉」。28歳の時「吉左衛門」襲名。いっそう長次郎回帰を進める。
  • 六代 左入(貞享2(1685年)-元文4(1739年)) :大和屋嘉兵衛次男、五代の婿養子。「光悦写し」の茶碗に定評がある。代表作「左入二百」(享保18(1733年)作成)。
  • 七代 長入(正徳4(1714年)-明和7(1770年)) :六代長男。茶道人口が町人にまで増大する中、茶碗以外に香合や花入れなど多数の作品を制作。代表作「日蓮像」(樂家所蔵)。
  • 八代 得入(延享2(1745年)-安永3(1774年)) :七代長男。父の隠居に伴い1852年に襲名するが、病弱のため、父の死後に弟に家督を譲り隠居、「佐兵衛」と改名。その後も制作を続けるが30歳で早世。25回忌の時に「得入」と賜号され、正式に歴代の中にはいる。
  • 九代 了入(宝暦6(1756年)-天保5(1834年)) :七代次男。「三代以来の名工」とされ、へら削りの巧みな造形に特徴がある。文政8年に近江国石山に隠棲し、悠々自適の生涯を送った。
  • 十代 旦入(寛政7(1795年)-嘉永7(1854年)) :九代次男。文化8(1811年)家督相続。表千家9代・了々斎と共に紀州徳川家に伺候、「偕楽園窯」開設に貢献。その後「西の丸お庭焼き」「湊御殿清寧軒窯」などの開設にも貢献した功績により文政9(1826年)、徳川治宝より「樂」字を拝領。作風は織部焼、伊賀焼、瀬戸焼などの作風や意匠を取り入れ、技巧的で華やかとされる。
  • 十一代 慶入(文化14(1817年)-明治35年) :丹波国南桑田郡千歳村(現京都府亀岡市千歳町)の酒造業・小川直八三男。十代婿養子。弘化2(1845年)に家督相続。明治維新後、茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなど家業維持に貢献。
  • 十二代 弘入(安政4(1857年)-昭和7年) :十一代長男。明治4年に家督相続するが、茶道衰退期のため若いときの作品は少なく、晩年になって多数の作品を制作する。大胆なへら使いに特徴があるとされる。大正8年に隠居、以後は京都本邸と九代の別荘であった滋賀県の石山を往復し、優雅な晩年を送る。
  • 十三代 惺入(明治20年-昭和19年) :十二代長男。釉薬、技法の研究を歴代中最も熱心に行い、また、樂家家伝の研究を行う。昭和10年-昭和17年にそれらの研究結果を『茶道せゝらぎ』という雑誌を刊行し発表。しかし晩年に太平洋戦争が勃発、跡継ぎである長男も応召、研究も作陶も物資不足の中困難となり、閉塞する中没した。
  • 十四代 覚入(大正7年-昭和55年) :十三代長男。昭和15年、東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒。卒業後、応召され従軍。昭和20年に生還するも、前年に父が死去、茶道も低迷期を迎えていた。好景気となる昭和35年以降、作品が充実するようになる。彫刻の理論を生かした立体的造形は他代には見られない特徴とされる。昭和53年、樂家歴代史料を基に「樂美術館」開設。同年文化庁より無形文化財指定される。今後のさらなる活躍が期待されたが、2年後急逝。
  • 十五代 樂吉左衛門(昭和24年-)※当代 :本名「光博」。京都府立朱雀高等学校、東京芸術大学彫刻科卒。イタリアローマ・アカデミア留学。昭和56年11月襲名。日本国内外で数々の賞を受賞し、単なる職人としてではなく「陶芸作家」としての評価も高い。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    樂吉左衛門-Wikipedia
    初代長次郎

(2007.06.19掲載)



?肖像を探しています?

▲茶の湯の大成者、千利休に従い赤樂茶碗、黒樂茶碗を造り樂焼を創設した長次郎(初代)。



◆黒樂茶碗


◆赤樂茶碗 銘 道成寺


73年?の生涯

エル・グレコ
El Greco   【スペインの画家】

(1541.不詳〜1614.04.07)
死因?---?座

  • スペインの画家。ギリシアのクレタ島に生まれ。エル・グレコ(ギリシア人の意)と通称された。本名ドメニコス・テオトコプロスDomnnikos Theotokopoulos。
  • 1565年(24歳)でベネチアに出て、ティツィアーノやティントレットから大きな影響を受けた。1577年(36歳)以後スペインのトレドに定住し、その間エル・エスコリアルの装飾も手がける。
  • 時代的にはマニエリスムに属するが、色彩、構図、着想などの点できわめて神秘的な特色に富んでいる。
  • 代表作に『オルガス伯の埋葬』(1586〜1588年)、『ラオコーン』(1610〜1614年)、『トレド風景』(1600年ころ)などがある。
  • 「エル=グレコはギリシャ(クレタ島)生まれのスペインの画家。本名をドメニコ=テオトコプーロスといい、エル=グレコはギリシャ人という意味の通称である。彼の作品には写実的な肖像画もあるようだが、細長く様式化された人物像が特に有名」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2006.03.15更新)



▲スペインの画家・エル・グレコ。


▲「悔悛する聖ペテロ」
 The Repentant Pete
r


▲「十字架を抱くキリスト」
(1579〜1607頃)

73年?の生涯

ロバート・フラッド
Robert Fludd 【薔薇十字運動の擁護者にして錬金術師】

(1574.?〜1637.?)
死因?---?座

  • イギリスの化学哲学者で薔薇十字運動の擁護者、錬金術師。
    そのテオゾフィ(神智学)的ケミカル自然哲学がまさに機械論哲学を基盤とする New Philosophy を建設しようとしていたマラン・メルセンヌ神父の反発を買い泥沼の論争となる。 その著作の図版が様々な書物に転載されているので有名。
  • 1574年、ケントにて出生。17歳でオクスフォードに入学し、5年で卒業。以後、医学を志してヨーロッパに渡り、スペイン、イタリーと流れながら各地で貴族相手に学問を教えて食いつなぐ。
  • 1605年に帰国してオクスフォードから医学博士号を貰い、後に医学部のフェローとなっている。
  • フラッドの隠秘学に対する興味は音楽から始まり、これがピタゴラスの音楽理論から占星術に発展したものらしく、ヨーロッパ遍歴時代にはパラケルススの著作に接して錬金術にも関心を寄せるようになった。正統医学と隠秘学の結合というのはこの時代には珍しくなく、むしろ薔薇十字の王道だったといえよう。
  • やがてロンドンに出て来て開業、有能な医師として評判を博す。そうこうする内に大陸のほうで薔薇十字運動が流行し始め、フラッドも夢中になっている。彼は薔薇十字思想に大いに共鳴して、各種の論文を発表しては薔薇十字団を擁護するようになり、世間からは本物の薔薇十字団員と見なされるようになってしまった。
  • ともあれ、フラッドは英国に於ける薔薇十字派の最初の学者として活躍し、1637年に畳の上で死去している。
  • 現代の魔術界に於いては、フラッドは「昔の偉い人」程度にしか思われていないが、思想史のほうでは大変な大立者である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    テーマ 『ロバート・フラッド』

(2004.02.04更新)



?肖像を探しています。



▲イギリスの化学哲学者で薔薇十字運動の擁護者 ・ロバート・フラッド。

73年?の生涯

カザノヴァ
Giovanni Giacomo Casanova  【恋愛至上主義】

(1725.?〜1798.?)
死因?---?座

  • 機知と法学を武器に、ヨーロッパ各地の宮廷貴族の間で波瀾万丈の数奇な生涯を送ったイタリアの文人・冒険家・文学者・色事師。そして有名なディレッタント。ドン・ファンと並ぶ艶福家。ヨーロッパのプレイボーイ NO.1。
  • 1725年にヴェネツイアの役者の子として生まれる。僧侶の教育を途中で放棄し、機知と詐術をもって、司祭、錬金術師賭博師、バイオリニストとしてヨーロッパ各地を20年も放浪し、放蕩の生活を送った。
  • 恋と冒険の記録「回想録」で知られる。回想録はフランス語で書かれた。そこに記された彼の冒険と猟色の生涯は、18世紀風俗、啓蒙主義時代の裏面史としても貴重な資料。
  • おどろくべき生命力に恵まれ、王侯貴族の保護を受けると同時に、警察の追求を受け続けた。ヴォルテールら時の知名人の知遇を得て知識のあらゆる分野を探求、多種多様な職業経験を経ながら、漁色と遊びに生きた。冒険と情事の生涯は、パリ、ドレスデン、プラハ、ウイーン、ロンドン、ベルリン、ペテルスブルグ、マドリードに足跡を残した。
  • 「カザノヴァ学」とも称すべき稀有なカザノヴァ論の集大成の出版。粋を極めダンディズムを体現するカザノヴァが、同時代最高の知識人ヴォルテールと対峙する瞠目の史実を鮮やかによみがえらせ、ヨーロッパ文化の源流になった精神のあり方を完全解説する。[編集担当者より]前著『《色事師》カザノヴァの青春』で大好評を博し、多くの読者の方々からのご要望にお応えしてものされたのが本書です。逆境にあってもけして怯まず、自分の欲望のために自らも傷を負うカザノヴァの生き方は、同時代からダンディズムの極北と目されていました。痛快なる色事の博物誌です。(登)」(1)。
  • 「社会思想社・現代教養文庫から『カサノヴァ回想録』として出ている。編者のペロー・ジルによれば、カサノヴァは、全ヨーロッパをハーレムとし、1735年から74年までに122人以上の愛人を持ったという。行動範囲といい、愛人の数といい、我らが光源氏など、残念ながら彼の足下にも近寄れない。世之介、丹次郎しかり。やはり、肉食人種には敵わないのか!それはさておき、本書は、かの『輪舞』の著者アルトウール・シュニッツラーが、「その後の武藏」ならぬ、「その後のカサノヴァ」を、『回想記』を何年もかけて熟読し、フィクションとして世に問うたものである」(2)。
  • 「カザノヴァの名言をバイボに捧げます。〈わたしは狂おしいほど女を愛してきた。しかし--、つねに女たちより自由を愛してきた〉。ドン・ファンはしょっちゅう「結婚」を口説きの道具に使うのに反して、カザノヴァは使わない。この一事でカザノヴァの方が一枚上とするのは評価しすぎでしょうか?」(3)。
  • 「カザノヴァの最後の言葉です。〈大いなる神よ、わたしの死に立ち会われる神よ、わたしは哲学者として生きてきました。そして、キリスト教徒として死にます〉」(4)。
  • ボクは「愛することに徹したカサノバと、愛されることに徹底したドンファン」に尽きると思います。ドンファンの方が二枚目ではないのに、二枚は上ですね(座布団二枚!)。
    カサノバは放蕩の代名詞である。放蕩とは、ほしいままに振る舞う、酒や女におぼれて、身持ちが納まらないこと。残念ながら、ボクはカザノヴァのように放蕩しつくすものがない無放蕩息子、あるいは単に山梨の“ほうとう”息子でございます。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「《聖者》カザノヴァの肖像」<叢書 近世異端のコスモロジー>
    《聖者》カザノヴァの肖像 清水正晴 著
    (2)「乱読ハンぐるまん」
    (3)投稿者:ユリウスさん 2005.05.05(Thu) 08:11
    (4)投稿者:ユリウスさん ..2007/10/28 21:43:40(日) [2520]

(2007.11.05更新)






▲逆境にあってもけして怯まず、自分の欲望のために自らも傷を負う生き方は、同時代からダンディズムの極北と目されていたカザノヴァ。





◆映画「カサノバ」2006年6月17日公開。

73年?の生涯

良寛和尚
Ryokan   【江戸後期の禅僧】

(1758.不詳〜1831.01.06=宝暦8年〜天保2年)
大腸ガン---?座

  • 越後出雲崎の名主兼神職の子(長男)に生まれた。俗名山本栄蔵。号は大愚。
  • 18歳で出家、22歳ころから国仙和尚に従い備中玉島円通寺で10余年修業。その後各地に草庵を結び、47歳のとき越後国上山の五合庵に入った。
  • 生涯、寺をもたず托鉢によって生活し、法を説かずに感化を与え、郷党の深い尊信を受けた。全国を行脚し、家庭や物質的財産を持たない脱俗の生活を送ったとされている。
  • 『万葉集』を愛し、格調高く、しかも自在純真な歌を読み、書は懐素を慕って風韻に富む。全集、歌集のほか評伝も多い。
  • 良寛さんには好きなものが三つあった。童子と手毬とおはじきだ。袖の中の手毬を「値千金」とも言ったという。
  • 「(68歳頃から)彼は、彼を慕う若い美貌の尼僧貞心とプラトニック・ラブともいうべき交わりをかわしている。みずからのことは語らず、名を後世に残そうという気のなかった良寛の伝記や詩や歌をのちに伝えた最大の功労者はこの貞心尼であった」(1)。
  • 「〈良寛町〉---良寛さんの名が合併後の新町名になる。新潟県三島郡の出雲崎町、与板町、和島村の三町村が3月26日、法定合併協議会で決めた。五合庵は三町村の外らしい」(2)。
  • 「良寛の辞世です。
    〈形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はみみじ葉〉

    What shall be my legacy ?
    The blossoms of spring,
    The cuckoo in the hills,
    the leaves of autumn.
    - translated by E.G.Seidensticker -
    自分の死後も自然はなお美しい、これが自分のこの世に残す形見になってくれるであろうと歌う心情は、日本人の共感を呼ばずにはおかないのではないでしょうか?」(3)。
  • 「生涯独身を貫いたとされる江戸時代の禅僧・良寛に妻がいたことを、良寛研究家の冨沢信明・元新潟大経済学部教授が、良寛の生家に伝わる系図をもとに立証した。---この女性は良寛の出家前に離婚したと見られる」(4)。
  • 「「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛?)---たまさん、この句の作者は良寛に間違いないので、?マークはいりませんよ。良寛の末期はこのようであったようです。文政13年夏、良寛は激しい下痢にみまわれた。大腸ガンであったらしい。病状は急激に悪化。言に出でていえばやすけし下り腹 まことその身はいや堪えがたしと良寛は病床から訴えています。枕辺にいた貞心尼がいよいよ最期が近づいた頃、〈生き死にの境はなれて住む身にもさらぬ別れのあるぞ悲しき〉と読みました。明けて天保二年(1831)1月6日、雪の降りしきる夕方、静かにこの世を去りました。赤瀬川原平著「辞世のことば」を参考にしました」(5)。
  • わが編集工学の師・松岡正剛は「千夜千冊」の最後を良寛で終えた。---はずであった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)山田風太郎著『人間臨終図鑑III』より抜粋。
    (2)読売新聞2004.04.02夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん 2005.12.25(Sun) 16:40[842]
    (4)読売新聞2006.09.17朝刊より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん ..2009/11/28 11:25:16(土) [6724]

(2009.11.28更新)



▲江戸後期の禅僧、歌人、書家・良寛。


◆良寛像(岡山県倉敷市の円通寺)




▲富岡鉄斎「寛師遊戯」


良寛の歌

◆「焚くほどは風がもて来る落ち葉かな」

◆「騰々として天真に任す」

「霞立つ長き春日を子供らと手毬つきつつ今日もくらしつ」

◆「裏を見せ表も見せて散る紅葉」

◆「淡雪の中にたちたる 三千大千世界(みちあふち)またその中に 沫雪(あわゆき)ぞ降る」

◆「散る桜 残る桜も 散る桜」

73年?の生涯

島地黙雷
Mokurai shimaji  【インド仏跡を訪ねた最初の日本人】

(1838.?〜1911.02.04)
死因?---?座

  • 宗教家。真宗本願寺派僧侶。インドの仏跡を訪ねた最初の日本人。山口県出身。
  • 明治元(1868)年京都で赤松連城とともに本願寺の改革を建白、これは本山機構改革の始まりで、黙雷31歳のときである。明治3(1870)年本山参政。
  • 明治5(1872)年エルサレムにキリスト誕生の地を訪れ、帰途インドに釈尊の聖地を礼拝。インドの仏跡を訪ねた最初の日本人となった。
  • 日本の仏教史上明治4年から明治19年(1871-86)ごろまでを「黙雷時代」という。明治25(1892)年盛岡市北山願教寺第二十五世住職。
  • 「浄土真宗の島地黙雷は、廃仏毀釈をすすめる明治新政府と対決する中で、西欧の政教分離・信仰の自由を導入し、個人宗教としての仏教を確立した」(1)。
  • 「大内青巒、1889(明治22)島地黙雷・井上円了らと天皇崇拝・キリスト教排斥の仏教政治団体である尊皇奉仏大同団を組織」(2)。
  • (1)と(2)は矛盾しないか?。黙雷は相当のやり手とみた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    【宗教】 島地黙雷
    (1)読売新聞2004.07.10夕刊「宗教はいま」より抜粋。
    (2)「文化財人名事典(あ行)

(2004.07.18更新)




▲インドの仏跡を訪ねた最初の日本人となった島地黙雷。

73年?の生涯

トーマス・グラバー
Thomas Blake Glover   【グラバー邸の主人】

(1838.?〜1911.?)
死因?---?座

  • スコットランド生まれ。スコットランド系フリーメイソンの会員。1859年、上海から開港後まもない長崎に移り、2年後に貿易業のグラバー商会を設立。
  • 薩摩、長州、土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。伊藤博文らの海外留学の手引きもしている。1865年、大浦海岸で日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせた。
  • 1868年(明治元)、肥前藩と契約して高島炭鉱の開発に着手した。また、長崎の小菅に船工場(ソロバン・ドック、史跡)を作っている。
  • 維新後、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)グラバー商会は破産。ただし高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まる。
  • 明治14年、官営事業払い下げ後、三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当る。
  • 日本人のツルと結婚、長男は倉場富三郎(グラバー→倉場)。晩年は東京で過ごし、1908年(明治41年)、外国人としては初めて勲二等旭日重光章を授与された。
  • 1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内にある。邸宅跡がグラバー園として公開され、長崎の観光名所になっている。
    幕末に活躍した商人で、明治以降は高島炭鉱の経営に当たる。もともと武器商人であるが、蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。
  • 「当時、長崎には150人の外国人が在住し、その半数をイギリス人が占めていた。なかでもグラバーは、もっとも名を知られた西洋人のひとりだった。幕末の日本、とりわけ薩摩や長州にとっては最大の重要人物といってもいい。グラバーは、船舶や武器の調達経路を握っていたのである」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    トーマス・グラバー出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)「トーマス・グラバー

(2005.11.12掲載)




▲船舶や武器の調達経路を握っていたことから、幕末の日本、とりわけ薩摩や長州にとっては最大の重要人物といってもいいトーマス・グラバー。




73年?の生涯

羽根田幸之助
Kounosuke Haneda   【菊富士ホテルの主人】

(1859.?〜1932.?)
死因?---?座

  • 東京都文京区本郷菊坂に、かつて「菊富士ホテル」というホテルがあった。大正から昭和10年代後半にかけて、数多くの著名な文学者、芸術家、学者、思想家たちが、数ヵ月、あるいは数年にわたって滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残した。
  • 有名出版社の入社試験にこのホテルのことが出題されたこともあったという。宿泊者の顔ぶれは、竹久夢二大杉栄菊池寛谷崎潤一郎、尾崎士郎、宇野千代、宇野浩二、直木三十五三木清、広津和郎、正宗白鳥、宮本百合子石川淳坂口安吾、…といった、当時を代表する、そうそうたる人々。
  • このホテルの主人、羽根田幸之助が安八郡川並村平(現在は大垣市)から上京したのは、明治28年のこと。当時の東京は、日清戦争後の景気で活気にあふれていた。
  • 幸之助は人の勧めで本郷に学生相手の下宿屋を開業。東京大学を初めとして、周辺には多くの学校が続々と誕生していたにもかかわらず下宿が不足しており、とりあえず始めるにはうってつけの商売だった。
  • 幸之助のアイデア、妻、菊江の人柄、奮闘によって、小さな下宿屋は客室50を超す洋風ホテルに発展。東京大正博覧会のあった大正3年、本郷菊坂の高台に「菊富士ホテル」は誕生。その間、幸之助の成功を知った故郷の人々が続々と上京し、本郷一帯には西濃出身者が経営する下宿屋が相次いで誕生した。これが、修学旅行生の宿としても親しまれる“本郷旅館街”のもととなった。
  • 現在、40軒近くある旅館の内、約半数が岐阜県にゆかりの経営者のもの。その先駆となったのが羽根田幸之助夫妻。
  • 残念ながら「菊富士ホテル」は昭和20年3月の東京大空襲で焼失し、同地にはその跡を示す碑とゆかりの著名人らの名を刻した碑が建てられている。幸之助の「菊富士ホテル」は文壇史上にも名を残す抜きん出た存在といえる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岐阜県図書館:岐阜県ゆかりの先駆者たち

(2005.07.17掲載)




▲文壇史上にも名を残す「菊富士ホテル」の主人・羽根田幸之助と菊江夫妻。


▲菊富士ホテル 開業当時のホテル全景図(大正3年頃)



73年?の生涯

岡崎文吉
Bunkichi Okazaki       【石狩川治水の祖】

(1872.?〜1945.?=明治5年〜昭和20年)
死因?---?座

  • 明治5(1872)年、旧岡山藩士族の長男として生まれる。
  • 明治20年16歳の時札幌農学校工学科(現北大工学部)第一期生として入学している。彼は在学中授業料免除はもとより、生活費を支給される給費生で、明治24年20歳で卒業すると同時に研究生となり、明治26年22歳のとき助教授に任命されるという大変な俊才であった。明治29(1896)年には、道庁の技師に任ぜられる。 彼は助教授在任のまま「北海道庁技手」となり、25歳の時「北海道庁技師」として「灌漑、水理工学」の技術を実地に指導、実践していくことになった。
  • 札幌-茨戸、茨戸-銭函間の排水運河、初代豊平橋、豊平川水力発電所の設計などを行っているが、彼の生涯を決定づけたのは明治31年におきた石狩川の大洪水である。彼はこの後、北海道庁石狩川治水事務所長として、約12年の実地調査、海外の治水事情の研究の後に「石狩川治水計画調査報文」を明治42年、北海道庁長官に提出している。この「石狩川治水計画調査報文」にある治水計画の特色は、蛇行した石狩川の現状をできる限り維持し、洪水時にはあらかじめ開削した放水路に溢れた水を流し、洪水を防止するというものであった。
  • この中で、岡崎は「自然主義」を唱えた。蛇行した川の流れはそのまま残して、決壊しやすい護岸を補強し、放水路(バイパス)で洪水時の増水を流す方法。森林の大切さにも言及した。この時に算出された、洪水時の最大流量、毎秒8,350立方メーターは、その後70年間にわたり石狩川治水事業の指標となった。また、岡崎が開発した「コンクリート単床ブロック(ヨーカンブロック)」による護岸工法は、大正・昭和期を通じて日本国内で普及したばかりではなく、アメリカのミシシッピー河では今でも使われている。大正4(1915)年には自身の理論と実践を著書「治水」にまとめている。
  • 明治43(1910)年、石狩川治水事務所長に就任した岡崎は、石狩川の治水工事を、当初は持論の放水路方式で行う予定でいた。ところが大正6(1917)年、「石狩川治水事業施工報文」において、蛇行部をショートカットする捷水路(しょうすいろ)方式に変更した。この間の詳しい事情は不明だが、当時主力だった、捷水路派との論争があったとも云われる。
  • 生振(おやふる)・対雁(おやふる・ついしかり)間捷水路工事が始まった大正7(1918)年、岡崎は内務省に転勤となり、同9年には中国へ赴任して、その後、二度と石狩川の治水に関わることはなかった。昭和20(1945)年、茅ヶ崎で逝去、73歳。
  • この間、日本の治水工事は、全て捷水路方式で行われ、川の流下能力を高めて水害をへらし、水位の低下により湿地の開発を進めた功績は大きかったが、今、環境問題が問われる中、岡崎文吉の「自然主義」が、また、クローズアップされている。
  • 「川の蛇行現象を自然であるという認識はあっと驚かされました。でもひどい蛇行をしている川もあるので、それが評価すべきことであるのかどうか、小生にはわかりません 」(1)。
  • ボクの蛇行する人生も自然であると思いたいです。
    ---「今、日本列島で梅の古木が花をつけています。花は同じ形ですが、古木はどこかが曲がっていたり、幹に空洞が出来ていたり、まっすぐなものはありません。自然がつくるそういう造形に僕たちは趣を感じます」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岡崎文吉に学べ! 環境保全型河川改修
    石狩市−石狩ファイル/岡崎文吉
    (1)投稿者:ユリウスさん..2008/ 3/11 23:13:21(火) [2875]
    (2)投稿者:ユリウスさん..2008/ 3/12 08:08:01(水) [2877]

(2008.03.17更新)



★ 環境保全型河川改修

▲石狩川治水の草創期に活躍し、治水計画の基礎を築いた岡崎文吉(写真は37歳頃の肖像)。


73年?の生涯

ルイス・カーン
Louis Isadore Kahn   【キンベル美術館の設計者】

(1901.?〜1974.?)
死因?---?座

  • 米国の建築家。エストニア生れ。1905年移民として米国に渡り、1915年帰化。ペンシルベニア大学卒、のちに同校教授。
  • イェール・アート・ギャラリー(ニュー・ヘイブン、1953年)、ペンシルベニア大学リチャーズ研究所(フィラデルフィア、1961年)によって米建築界の重要な存在となる。
  • 同時代の機能主義建築とは一線を画した、素材の限定と純粋幾何学形の反復による精神性の高いデザインによって、多大な影響を与えた。
  • 他の代表作にキンベル美術館(フォート・ワース、1972年)、バングラデシュ国会議場(1974年)などがある。
  • 「建築の作品とは、捧げものなのです」(カーン)。
    A work of architecture is an offering.
  • 光と陰、そしてマンダリストだったカーン。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.09.01更新)




▲同時代の機能主義建築とは一線を画し、多大な影響を与えた米国の建築家・ルイス・カーン。


▲「ルイス・カーンとはだれか」
作者:香山 寿夫 王国社


▲キンベル美術館

73年?の生涯

G・ピアティゴルスキー
G- Piatigorsky  【チェロ奏者の巨匠/ロシアのカザルス】

(1903.?〜1976.?)
死因?---?座

  • ロシア出身の米国チェロ奏者の巨匠。ウクライナのドニエプロペトロフスク(当時ロシア領エカチェリノスラフ)で貧しい家庭に生まれる。
  • 幼い頃にチェロに魅了され7歳でようやくチェロを買ったもらった後はたちまち上達し、モスクワ音楽院への奨学金を与えられる。音楽院に籍をおき、ダヴィドフ門下の名手アルフレート・フォン・グレーンらに師事しつつ、夜は生活費を稼ぐためにナイトクラブや劇場で音楽演奏をしていたという。
  • 15歳という史上最年少の若さでボリショイ劇場のチェリストに就任、レーニン弦楽四重奏団の一員にも加えられたが、1921年にポーランドを経てドイツにわたり、ユリウス・クレンゲルに師事。
  • 1924年(21歳)フルトウェングラーに見出されベルリン・フィルの首席チェロ奏者となり、20代始めにして名チェリストとしての地位を確立。
  • 1928年以降はソリストとして活躍し、1929年米国にデビュー。
    フォイアマンの後を受け、ホロヴィッツ、ミルシティンとトリオを結成したり、ハイフェッツ、ルービンシュタイン「百万ドル・トリオ」と讃えられたトリオを結成し、幅広い演奏活動を繰り広げた。
  • また、レスリー・パルナス、ナサニエル・ローゼン、クリスティーネ・ワレフスカ、ラルフ・カーシュバウムなど数多くの門下生を育成、没後四半世紀を経た現在でもチェロ界に多大な影響を与え続けている偉大な名演奏家。ウォルトンの『チェロ協奏曲』(1956年、初演1957年)など、多くの作品の初演も手がけた。1936年初来日。
  • 「その甘美で詩情あふれる表現により「ロマンティック・チェリスト」と讃えられ、カザルス以降のに現れた20世紀最大のチェリストとの敬意を込めて「ロシアのカザルス」と例えられたチェロの名手である」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「KRIPTON・ピアティゴルスキー

(2004.04.10更新)




▲ロシア出身の米国チェロ奏者の巨匠・ピアティゴルスキー。

73年?生涯

榎本滋民
Shigetami Enomoto   【劇作家、演出家、落語研究家】

(1930.?〜2003.01.16)
火事により死去---?座

  • 東京生まれ。 国学院大学文学部中退。川口松太郎の誘いで劇界入りする。
  • 1961年、「花の吉原百人斬り」が雑誌『オール読物』の一幕物戯曲懸賞募集に入選。同作を新派が初演し、劇作家としての地位を確立。
  • 戯曲に「あゝ同期の桜」(1967年)、「たぬき―浮世節立花家橘之助」(1974年)、「愛染め高尾」(1977年度芸術祭大賞受賞)等がある。新派、新国劇、松竹、東宝の商業演劇で数々のヒット作を生む。
  • 「絵師金蔵」は劇団四季が初演。代表作としては戯曲に「花の吉原 百人斬り」「寺田屋お 登勢(八重子十種)」「たぬき(五十鈴十種)」小説に「お前極楽」「夢二恋歌」等がある。
    新国劇の脚本を改作した新作歌舞伎「上意討ち」を、更に義太夫入りの古典歌舞伎「鶴賀松千歳泰平」(1998年)に改作・演出し、第27回大谷竹次郎賞を受賞。
  • 江戸文芸に造詣が深く、落語の解説には定評があり、「落語小劇場」「古典落語の世界」など著書多数。小説に「明日のことはしらず候」、「血みどろ絵金」等。
  • 1999年より、日本演劇興行協会の「実践戯曲講座」で脚本家養成の指導にあたっていた。TBS落語特選会解説者、NHK東京落語会企画委員、芸術祭、芸術選奨委員、江戸東京歴史財団評議員などを歴任。2003年、死去。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「はてなダイアリー - 榎本滋民」

(2006.04.04掲載)



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▲江戸文芸に造詣が深く、落語の解説には定評があった榎本滋民。

 


◆「志ん朝落語 榎本版」榎本滋民/著(ぴあ):古今亭志ん朝が全盛の日々を送っていた当時の一九八二年、季刊『落語界』に連載された「志ん朝落語」十九編をひとつにまとめた、著者がもっとも劇作・演出に、落語研究・解説に脂ののっていた時期の所産。

73年?生涯

小此木敬吾
Keigo Okonogi   【精神分析の第一人者】

(1930.?〜2003.09.21)
咽頭ガン---?座

  • 精神分析の第一人者で、ベストセラー『モラトリアム人間の時代』(1978年)で知られる。
  • 『モラトリアム人間の時代』では、現代の日本が、当事者意識が希薄で、無党派の「モラトリアム(猶予期間にある)人間」の社会だと指摘。
  • 慶応大医学部卒。現代人の心理について幅広く発言。子育てに悩む母親への精神的支援にも力を注いだ。
  • 著書に『家庭のない家族の時代』『自己愛人間』『なぜ困った人なのか』などがある。
  • 2年前から咽頭ガンに侵されてからも仕事は辞めなかった。のどに激痛が走るようになっても、尊敬するフロイトがそうしたように、常に意識を鮮明にするため鎮痛剤の投与を拒み続けた。
  • ジャズをこよなく愛したという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.09.01掲載)



?肖像を探しています。

▲ 精神分析の第一人者で、ベストセラー『モラトリアム人間の時代』で知られる・小此木敬吾。

73年?生涯

張永哲/チャン・ヨンチョル
Jang Yeong cheol   【韓国の雄】

(1933.?〜2006.08.08 AM7:30)
死因?---?座

  • 「頭突き王」金一(キム・イル=大木金太郎)氏とともに1960年代の国内プロレス界を風靡した「バックドロップの名手」。177センチ、101キロ。
  • キム・イル不在の韓国マット界を牛耳っていた男で韓国ヘビー級選手権者に君臨し連勝記録を作っていたが、日本から帰国したキム・イルと張り合い、引っ付いたり離れたりを繰り返した。
  • 数々の謀略を張り巡らせた事で悪名が高い。日本にも何度か来日しているが、とてもメインエベンターには通用せず、実力的にはキム・イルの足元にも及ばなかった。
  • 慶尚南道金海(キョンサンナムド・キムヘ)で死去した。
  • 「慶尚南道金海にあるチャンユ病院の関係者は9日、「今年3月に入院し、パーキンソン病など持病と闘ってきた張永哲氏が、8日午後7時30分に死去した」と述べた。1980年代後半に引退し、後輩レスラーの養成と個人事業に取り組んできた張氏は、昨年2月に脳卒中で倒れた後、最近までパーキンソン病と中風、老人性認知症の治療を続けていた。 ジャンプ力を生かしたドロップキックを武器とする‘国内派英雄’だった張氏は、‘日本派’の頭突き王・金一氏とよく比較された。 2人が決別したきっかけは65年11月、ソウル奨忠(チャンチュン)体育館で行われた5カ国親善プロレス大会だった。 日本の大熊元司選手に‘キャメルクラッチ’を掛けられた張氏は苦痛に耐えられず、手のひらでマットをたたいたが、大熊選手は攻撃を続けた。 これに激怒した張氏の後輩らが一斉にマットに乱入し、大熊選手の頭を瓶や椅子で殴る騒ぎを起こした。 警察の調査で張氏が「プロレスはショー」と発言したことがメディアに報道され、国内プロレスは衰落の道をたどることになった。 それ以降「国内プロレス衰退の主犯」という烙印を押された張氏は、金一氏と対立しながら生きてきた。 しかし張氏は「『プロレスはショー』と話したことはなく、警察の調査でプロレスの規則を説明する過程で誤って伝えられたものだ」と釈明した。 張氏は今年2月、金海の病院を訪ねた金一氏と41年ぶりに和解した。 高血圧などで15年間にわたり闘病生活を送っている金氏が、車椅子に乗って張氏に会いに行ったのだ。 2人はその間のわだかまりを乗り越えて手を握り合った。 そして次の再会を約束したが、張氏の死で約束は守られなかった」(1)。
  • キム・イル=大木金太郎と41年ぶりに和解したあと、二人して逝ったわけです。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    韓国・台湾人レスラー名鑑
    (1)「Japanese JoongAngIlbo

(2006.10.30掲載)




▲「頭突き王」金一(キム・イル=大木金太郎)氏とともに1960年代の国内プロレス界を風靡した「バックドロップの名手」張永哲(チャン・ヨンチョル)。





73年?生涯

坂部 恵
Megumi Sakabe  【『仮面の解釈学』の哲学者】

(1936. ? 〜2009.06.03)
神経膠芽腫---?座

  • 神奈川県生まれ。東京大学哲学科、および大学院修了。1965年より國學院大學専任講師、ついで東京都立大学助教授、東大文学部哲学科助教授、教授。1997年の定年退官後は桜美林大学教授を務めた。東大名誉教授。
  • イマヌエル・カント、和辻哲郎、九鬼周造を研究対象とし、1976年、和辻の「面とペルソナ」を出発点とした『仮面の解釈学』で山崎賞受賞、ついで1986年、『和辻哲郎』でサントリー学芸賞受賞。2002年、紫綬褒章受章。岩波書店版『カント全集』の監修を行った。『坂部恵集』全五巻が出ている。
  • 名前のため、女性と間違われることが多く、雑誌『ダ・カーポ』で「活躍している女性学者」に名をあげられたこともある。
  • 2009年6月3日、神経膠芽腫により死去。
  • カントなどの西洋哲学から出発し、幅広い視点で精神の基底を探る試みを続けた。著書に「仮面の解釈学」「理性の不安――カント哲学の生成と構造」など。「和辻哲郎」などでサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受けた。
  • 著書 :仮面の解釈学 東京大学出版会 1976/理性の不安 カント哲学の生成と構造 勁草書房 1976/人類の知的遺産 カント 講談社 1979 (のち講談社学術文庫)/「ふれる」ことの哲学 人称的世界とその根底 岩波書店 1983/和辻哲郎 岩波書店(20世紀思想家文庫) 1986 (のち岩波現代文庫)/鏡のなかの日本語 筑摩書房(ちくまライブラリー) 1989/ペルソナの詩学 かたり ふるまい こころ 岩波書店 1989/不在の歌 九鬼周造の世界 ティビーエス・ブリタニカ 1990/かたり 弘文堂 1990/<ふるまいの>詩学 岩波書店 1997/ヨーロッパ精神史入門 カロリング・ルネサンスの残光 岩波書店 1997/モデルニテ・バロック 現代精神史序説 哲学書房 2005/坂部恵集 全五巻 岩波書店、2006-2007
  • 「ありがとうございます。私も実は読んでないのですが、「かたり」「ふるまい」「かげ」など和語の持つ根源的意味作用についての斬新な解釈で注目を集めた’とのことです」(1)。
  • 「坂部恵氏の口癖は〈ボクはモーツァルトよりハイドンのほうが断然好きだよ〉というものだ。著書の繊細な筆致や該博な知識の裏には、いつも氏のユニークで反骨的な思想図があった」(2)。
  • 読んだことはないけど、タイトルの付け方が粋ですね。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    坂部恵-Wikipedia
    (1)投稿者:園田さん..2009/ 6/ 8 03:09:31(月) [5063]
    (2)日経新聞2009.06.10「喪友記」(黒崎政男)より抜粋。

(2009.06.14更新)


★肖像を探しています。

▲カントなどの西洋哲学から出発し、幅広い視点で精神の基底を探る試みを続けた坂部 恵。


▲ 命題コレクション哲学 ちくま学芸文庫 坂部恵/加藤尚武 / 筑摩書房


▲カント哲学のアクチュアリティ---哲学の原点を求めて 坂部恵/佐藤康邦 / ナカニシヤ出版


▲かたり - 物語の文法 ちくま学芸文庫 坂部恵 / 筑摩書房






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