玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

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age 75


50音インデックス


■75歳の
 シンクロニシティ


■75歳-? ←戻る
荘子
アルキメデス
蘇我馬子
慧能
鑑真
源信/恵心僧都
柳生宗矩
シャルル・ペロー
浦上玉堂
サリエーリ
新門辰五郎
井上頼圀
ソティリオ・ブルガリ
安井てつ
フレデリック・キースラー
ハーバート・リード
薩摩治郎八
ジェームス・J・ギブソン
ミケランジェリ
東野芳明

■75歳-前半-1←戻る
宮川 泰
沢庵和尚
上田秋成
美濃部達吉
長谷部鋭吉
アンドレ・マルロー
H.W.ロングフェロー
デューク・エリントン
立花 宗茂
ハンス・セリエ
西田幾多郎
堤康次郎
元藤あき子
小田 実
柿澤 弘治
エクトール・ギマール

■75歳-前半-2←戻る
ロイ・シャイダー
横山ノック
川上貞奴
ヤセル・アラファト
塙保己一
合津八一/曾津八一
ジャン・ジュネ
エルンスト・クレッチマー
ポルシェ
グラハム・ベル
藤島 武二
エーリッヒ・ケストナー
田村隆一
阿部泰蔵

■75歳-後半
野島康三
三木露風
ニコライ・カサートキン
ルイ・シュポーア
大佛次郎
瀧口修造
スタニスラフスキー
笠原和夫
北園克衛
田中角栄
武智鉄二
萩原延壽
ティントレット
坪内逍遙
クリストフォリ
泡坂 妻夫
山田 わか
エルジェ
藤村 富美男
聖アウグスティヌス
鈴木義司
勝 海舟
風見 章
野間 宏
渡辺 謙太郎
アウグストゥス
夢窓疎石
マイケル・ファラデー
サロメ
ウゴ・バンセル・スアレス

■75歳のエポック


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75歳の語録

 

「足場を与えよ。されば地球を動かさん」
(アルキメデス)

「我もしついに亡ぜんときは、願わくは座して死なん」
(鑑真)

「ストレスは人生のスパイス」
(ハンス・セリエ)


「雨が降っている時にできる最良のことは、雨を降らせておくことだ」
(ロングフェロー)

「雨はひとりだけに降り注ぐのではない」
(ロングフェロー)

「人生は―実にすべての生は―詩である。日々、一篇一篇、私たちは無意識のうちに詩を生きている。しかし、その侵しがたい全体においては、詩が生たちを生きているのだ」
(ルー・サロメ)




                         
75年6ヶ月と2日の生涯

野島康三
Yasuzo Nojima   【「新興写真」の確立者】

(1889.02.12〜1964.08.14)
死因?---水瓶座

  • 大正期に日本の本格的ヌード写真を創始し、のちには『光画』を刊行して「新興写真」の確立につとめた。初期のピクトリアリスムの重厚な絵画的な作品から、のちに、ストレートな表現に移行した。特に、ポートレイトやヌード写真に長ける。
  • 東京写真研究会で活躍。野々宮写真館開設、1932年に雑誌『光画』創刊(中山岩太、木村伊兵衛とともに)、1939年には国画会に写真部創設(福原信三とともに)などの活動を行う。
  • ディレッタントとしては、1919年に東京神田神保町に「兜屋画廊」を開廊し、各種展覧会(旧フュウザン会、日本創作版画協会の作家など)を開催(同画廊閉廊後は、自邸にて)するとともに、少なからぬ美術家に資金的な援助も行った。
  • ポートレイトにしろヌード写真にしろ、日本において、ストレートな画風で、系統的に女性の写真作品を残した最初の作家といえ、戦後の多くの写真家にも強い影響を与えている。
  • 代表作:「細川ちかこ氏」(1932年)-極めて大胆なトリミングにより、顔の右半分と頭を断ち切り、むしろ、顔に当てた左手を中心に据えたようなポートレイト。
  • 「旧来の絵画に斑を求めるところから出発した野島は、女性の肉体が発する生命感を画面に充たした」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    野島康三-Wikipedia
    (1)読売新聞2006.10.01朝刊 光田由里著「写真、「芸術」との界面に」の刈部直の書評より抜粋・リライト。

(2006.10.05掲載)



?肖像を探しています。

▲日本の戦前期を代表する写真家のうちのひとりで、美術に対する積極的なディレッタントとしても有名な野島康三。




◆「にごれる海」(1896)

 

75年と6ヶ月と6日の生涯

三木露風
Rofu Miki     【童謡「赤とんぼ」の作詞者】

(1889.06.23〜1964.12.29)
タクシーにはねられ、脳内出血のため死去---蟹座

  • 詩人。兵庫県揖西郡龍野町(現龍野市)に生まれる。本名は三木 操(みき みさお)。
  • 小学生から中学生の頃は作文に優れ、詩歌、俳句を雑誌や新聞に投稿。「赤とんぼ とまっているよ竿の先」は龍野高等小学校時代の作句。童謡「赤とんぼ」の4番目の歌詞にある。
  • 17歳で処女詩集を刊行。明治38(1905)年に上京し、相馬御風野口雨情と早稲田詩社を結成。早慶両校の文科をともに中退。
  • 20歳で代表作の「廃園」を出版するなど早熟の天才であった。1918年(29歳)ころから鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し童謡を手掛ける。1921年(32歳)には、有名な「赤とんぼ」の詩がある「眞珠島」を出版。
  • またその後、その清純な叙情が北原白秋の詩風と併称され、象徴詩の作家として一時代を画す。詩集『廃園』が北原白秋の『邪宗門』と並び称され、「白露時代」を現出。
  • 代表作『白き手の猟人』を上梓後、西条八十、服部嘉香らと未来社を結成、河井酔茗、白秋らとマンダラ詩社を興す。
  • のち北海道に渡ってトラピスト修道院講師に着任、信仰生活に入った。昭和3(1928)年に三鷹牟礼に転居。
  • 1964年12月21日にタクシーにはねられ、同月29日に脳内出血のため死去。享年75。
  • 明治・大正・昭和の三代を75年余にわたって「真の詩の道」を歩いてきた露風。「詩人は言葉を生み、詩人は言葉に対する愛を持たねばならぬ」といい、短歌、俳句、新体詩、口語詩、童謡のいずれの分野でも優れた作品を残すなど日本の詩歌史に不朽の足跡を留めた。詩集「廃園」「寂しき曙」「白き手の猟人」などがある。
  • 出身地の龍野市では1985年から、「三木露風賞・新しい童謡コンクール」を毎年開催している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    三木露風

(2005.09.19掲載)




▲明治・大正・昭和の三代を75年余にわたって「真の詩の道」を歩いた三木露風。




?三木露風作詞の童謡など?
赤とんぼ(作曲:山田耕筰)
秋の夜(作曲:山田耕筰)
かっこう(作曲:山田耕筰)
十五夜(作曲:山田耕筰)
春が来た(作曲:山田耕筰)

 

75年と6ヶ月と15日?の生涯

ニコライ・カサートキン
Ioan Dimitrovich Kasatkin  【東方正教会の聖人】

(1836.08.01(ロシア暦)〜1912.02.16(グレゴリオ暦))
死因?---獅子座?

  • 。聖ニコライ/ニコライ神父。俗名:イワン・ドミートリェヴィチ・カサートキン。ニコライは修道名で、ニコライ・カサートキンと呼ぶのが通例である。ミラ・リキヤのニコライは東方教会において重視される神学者であり、好んで聖名(洗礼名)・修道名に用いられる。
  • 日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。神学生であった頃、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本での伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本伝道に捧げた。
  • スモレンスク県ベリスク郡ベリスク村の教区補祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。
  • ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学セミナリー(中等部)を経て、サンクトペテルブルク神学アカデミーに1857年入学。在学中、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、日本での伝道に駆り立てられたニコライは、志願してその任についた。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。
  • 同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。
  • 1861年(文久元年)に函館のロシア領事館付司祭として来日し、1870年からはロシア正教会日本宣教団長となり、約半世紀の長きにわたって日本で宣教活動を続けた。
  • 1891年、ニコライは、日本宣教団本部のある神田駿河台に、東京復活大聖堂(通称「ニコライ堂」)を完成させた。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、中井木菟麻呂らの協力を得て典礼書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。
  • 来日以後、日露戦争中を含め、諸般の事情でロシアに一時帰国を命じられた時を除き、日本を離れることなく、神田で没した。死後都営谷中墓地に葬られる。
  • ニコライ永眠の1912年段階の日本人信徒数は、日本全国で3万人を越えていた。1970年、ニコライは、ロシア正教会によって聖人に列せられ、「亜使徒」の称号を贈られた。
  • 1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。
  • 日記(ロシア語)が北海道大学スラブ研究所に保存されており、将来の伝記的研究が待たれる。ロシア語原文の普及版は日本、ロシアで刊行されている。
  • 「ニコライ堂の名で知られる東京復活大聖堂教会は、ギリシャ正教とも 呼ばれる正教会の教会です。主イイスス=ハリストス(イエス=キリストのギリシャ語読み)の復活を記念した聖堂ですが、ロシアから正教伝道の ために来日し日本に骨を埋められた亜使徒聖ニコライがその建立にあたったことから「ニコライ堂」 の名で知られています。関東大震災(1923・大正12年)で甚大な被害を被ったものの、聖ニコライの後継者であるセルギイ府主教と信徒達の 努力により、1929年、一部外観と内装に変更を加えた上で再建されました。1983年には国の重要文化財に指定されています。 1992年から約9年間かけて修復工事が行われ、セルギイ府主教時代の再建当時の美しさを取り戻しました。東京復活大聖堂教会には、今も豊かに正教会の聖歌が息づいています。多くの信徒達にとって、洗礼、各種の日々の祈り、 結婚、埋葬式といった、生涯の生活に欠かせない祈りの家として大聖堂は活きています」(1)。
  • 「ニコライ堂(国・重要文化財(1962.06.21)) 竣工:1891年(明治24年)2月 所在地:東京都千代田区神田駿河台4-1-3 設計:ミハイル・アレフィエヴィッチ・シチュールポフ(Mikhail Arefievich Shchurupov)、ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)、岡田信一郎 施工:長郷泰輔 構造:煉瓦・石造平屋建て、塔屋付、銅板葺 建築面積:805.3m2 正式名称は、「日本ハリストス正教会教団復活大聖堂」。通称の「ニコライ堂」は、 1861年(文久元年)に函館のロシア領事館付司祭として来日し、 1872年(明治5年)東京に日本ハリストス正教会を樹立したニコライ神父(俗名:イオアン・デミトリヴィチ・カサートキン Ioan Dimitrovich Kasatkin 1836-1912)の名に由来します。ロシア人建築家シチュールポフの設計図面を基に、 コンドルが実施設計・監督を行いました。 工事は、1884年(明治17年)に着工され、1891年(明治24年)2月に完成。 建設場所の駿河台は東京市中を見下ろす高台で、大聖堂は東京の大部分の場所から眺められ、 東京のランドマークとなりました。1923年(大正12年)の関東大震災により、 大聖堂の鐘楼やドーム屋根が崩壊し、内部も焼失しました。 大聖堂の修復工事の設計は岡田信一郎が担当し、1927年(昭和2年)に工事が開始され、 1929年(昭和4年)に完成しました。 屋根と鐘楼の外観は、創建当初の姿とは異なっています」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ニコライ・カサートキン-Wikipedia
    The Nippon Foundation - 日本財団 | ニコライ神父の日記:日露の ...
    (1)「御茶ノ水の泉通信…正教会・ニコライ堂の紹介
    (2)「近代建築散策:ニコライ堂(日本ハリストス正教会教団復活大聖堂)

(2007.07.16掲載)




▲ニコライ堂を建てたロシア正教の修道司祭・宣教師で、日本ハリストス正教会の主教ニコライ・カサートキン。

 


◆ニコライ堂(国・重要文化財(1962.06.21))

75年と6ヶ月と17日の生涯

ルイ・シュポーア
Louis Spohr     【最初に指揮棒を使い始めた指揮者】

(1784.04.05〜1859.10.22)
死因?---牡羊座

  • ドイツの作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。本来の氏名はドイツ語でルートヴィヒ・シュポーア(Ludwig Spohr)というが、ヴィルトゥオーソとして活躍するようになるとフランス語に倣ってルイ(Louis)と名乗るようになった。
  • ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公爵領のブラウンシュヴァイクに生まれ、幼少期よりヴァイオリン演奏の才能を示す。
  • 15歳でブランシュヴァイク公爵の宮廷楽団に参入し、3年後には公爵の援助を得て、ヴァイオリンの巨匠フランツ・アントン・エックに師事すべく1年間サンクトペテルブルクに渡る。《ヴァイオリン協奏曲 第1番》を含む最初の著名な作品は、この時期にさかのぼる。帰国すると、公爵より演奏旅行に赴くべく北ドイツに遣わされた。
  • 1804年12月にライプツィヒにおける演奏会は、シュポーアの演奏能力だけでなく、作曲能力のために、有力な音楽評論家フリードリヒ・ロホリッツを感服せしめた。この演奏会の成功により、シュポーア青年は一夜にしてドイツ語圏の楽壇で有名になった。
  • 1805年より1812年までゴータの宮廷楽長に就任。同地で18歳のハープ奏者、ドレット・シャイトラーと出逢い、恋に落ち、翌年に結婚した(妻の両親は宮廷歌手であった)。シュポーア夫妻は、ヴァイオリンとハープの二重奏を組み、1816年から1817年までイタリア、1820年にイングランド、1821年にパリで演奏旅行を行なった。しかし、ドレット夫人は出産と育児期間に入ってからは音楽活動をあきらめ、家事に専念する。1834年に夫人が不慮の死をとげたため、シュポーアはひどく嘆き悲しんだ。
  • その後、1813年から1815年までウィーンのアン・デア・ヴィーン劇場の指揮者を務めて、ベートーヴェンと親しくなり、その《交響曲 第7番》と《戦争交響曲》の初演にも参加。1817年から1819年までフランクフルト歌劇場の監督となり、自作のオペラを上演することができた。その第1作が、ウィーンで受理されなかった《ファウスト》である。ウェーバーの申し出によって、1822年から没年までカッセルの宮廷楽長に就職することができた。
  • シュポーアは多作な作曲家であり、作品表は優に150曲を超える。そのうえ、作品番号のない楽曲も沢山ある。すべてのジャンルにわたって作曲し、9つの交響曲(第10番は未完に終わったが、オイゲン・ミノールにより補完され、ベルゲン・ユース管弦楽団により初演された)は、先輩作曲家に倣った古典的な様式から、第9番《四季Die Jahreszeiten 》における標題音楽的な様式へと移り変わる過程と進化を示している。しかし、むしろシュポーアは、当時のヴァイオリン音楽作曲の並ぶ者のない大家であり、全部で60曲を残した。そのうち、オペラのアリア様式で作曲された《ヴァイオリン協奏曲 第8番》のように、形式的に因襲にとらわれない作品もある。しかしながらこんにちでは、名クラリネット奏者ヨハン・ジーモン・ヘルムシュテットのために作曲され、今なおクラリネット奏者のレパートリーに定着している、全部で4曲のクラリネット協奏曲のほうがもっと有名かもしれない。
  • シュポーアの室内楽曲は、36曲もあり、そのうえ二つの弦楽四重奏のために作曲された、興味深い複弦楽四重奏曲がある。その他の編成の四重奏や、二重奏、三重奏、五重奏、六重奏、八重奏や九重奏のための楽曲のほか、ヴァイオリン独奏曲やハープ独奏曲、ヴァイオリンとハープのための二重奏曲もある。
  • 今日では忘れられているものの、《ファウスト》(1813年)や《ゼミーレとアゾールZemire und Azor 》(1819年)、《イェソンダJessonda 》(1823年)といった最も優れた歌劇は、19世紀から20世紀前半までは、人気のレパートリーだった。しかし《イェソンダ》は、ヨーロッパ人の主人公とインドの姫君との恋愛を描いているため、ナチス政権により上演禁止に指定されたのである。ドイツ・リートも数多く、さらにミサ曲や合唱曲もある。
  • シュポーアは著名なヴァイオリニストであり、顎あての発明者であった。名指揮者として、最初に指揮棒を使い始め、アルファベットの大文字による練習番号を使い始めた最初の作曲家でもある。音楽活動のかたわら、面白くてためになる(没後の1860年に刊行された)自叙伝を著している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ルイ・シュポーア-Wikipedia

(2008.01.034掲載)




▲著名なヴァイオリニストであり、顎あての発明者であった。名指揮者として、最初に指揮棒を使い始め、アルファベットの大文字による練習番号を使い始めた最初の作曲家でもあるルイ・シュポーア。

 

75年と6ヶ月と21日の生涯

大佛次郎
Ziro Osaragi     【鎌倉文士の中心】

(1897.10.09〜 1973.04.30)
死因?---天秤座

  • 作家・小説家。神奈川県横浜市英町10番地に生まれる。本名は野尻清彦で、長兄は、英文学研究者で天文に関する著述で知られる野尻抱影
  • 第一高等学校時代から、寮生活を記録した「一高ロマンス」を発表するなど、早くから文学に親しみ、演劇にも熱中。
    東京帝国大学卒業後、鎌倉高等女学校(現、鎌倉女学院高等学校)で教師をした後、外務省の嘱託となるが、文筆に専念するため退職。
  • 「鞍馬天狗」「照る日くもる日」「赤穂浪士」などの時代小説を新聞や雑誌に連載し、大衆文学に新境地をひらく。さらに現代小説も手がけ「白い姉」「霧笛」、戦後の軽薄な風潮に対する作者のいきどおりをこめた長編の作品「帰郷」を発表。
  • 一方、フランス文学の造詣が深く、文明批評にたけた大佛は「ドレフュス事件」「ブウランジェ将軍の悲劇」「パリ燃ゆ」などのノンフィクションを執筆し、日本人の精神史を描こうとした史伝「天皇の世紀」が絶筆となる。
  • 彼は、若い頃たくさんの筆名を用いたが、「隼の源次」を雑誌「ポケット」に掲載した時に、鎌倉の大仏裏に住んでいたので大佛次郎とし、この筆名が終生離れぬものとなった。
  • 大正10年から鎌倉の長谷、材木座と住み、昭和4年から48年(1973)に75歳で亡くなるまで雪ノ下に居を構えた。大佛は、鎌倉文士の中心の一人として多彩な活躍をし、またの風致保存にも力を注いだ。
  • 「大仏次郎の絶筆をお供えします。昭和48年4月16日、担当の記者に「天皇の世紀」(未完)の最後の原稿を手渡した日に、ノートに書き付けた言葉です。〈今となってみれば、余は幸福につつまれ来たり。落日の最後に到りその味一層深し〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん..2009/ 4/ 3 01:10:07(金) [4538]

(2009.04.03掲載)




▲フランス文学の造詣が深く、文明批評にたけ「ドレフュス事件」「ブウランジェ将軍の悲劇」「パリ燃ゆ」などのノンフィクションを執筆し、日本人の精神史を描こうとした史伝「天皇の世紀」が絶筆となった大佛次郎。

 

75年と6ヶ月と24日の生涯

瀧口修造
Syuuzou Takiguti   【シュルレアリスムの導入者】

(1903.12.07〜1979.07.01)
肺炎---射手座

  • 造形作家、シュルレアリスムの詩人、美術批評家。富山県生れ。慶大で西脇順三郎に学ぶ。27歳、ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳し、日本にシュルレアリスムを本格的に導入。
  • 37歳に刊行された『ミロ』はこの画家に関する世界初のモノグラフで、後に共著『ミロの星の下に』(75歳)などが生み出された。
  • 前衛芸術の理論家として活動するが、38歳で共産党シンパとみなされ検挙。47歳より『読売新聞』の美術時評を執筆、翌年からはタケミヤ画廊で企画を担当。また同年武満徹、山口勝弘らによる芸術集団〈実験工房〉の結成に参加するなど、戦後の前衛芸術の理論的支柱となる。
  • 55歳渡欧、ブルトンらと会う。57歳以降はデカルコマニーなどの美術作品を手がける一方、新聞・雑誌への寄稿をやめ、個人宛の文章のみ執筆した。
  • 著書に詩集『妖精の距離』(34歳)、『近代芸術』(35歳)、『幻想画家論』(56歳)、評論集『点』(60歳)、『滝口修造の詩的実験』(64歳)、『マルセル・デュシャン語録』(65歳)など。
  • 「日本にいち早くシュルレアリスム(超現実主義)を紹介し、戦前より若手の美術家たちに多大な影響を与えてきた詩人/美術評論家・瀧口修造。その存在を抜きにして、日本の現代美術の展開を語ることはできないといっても過言ではないでしょう。瀧口は1903年富山に生まれ、戦後の一時期、世田谷区成城に住まったのち、終の棲家となる西落合に居を構えました。この小さな家の書斎には、多くの美術家たちが瀧口を慕って次々と訪れ、いつしか「夢の漂流物」と呼ばれることになった物たち――デュシャン、ミロ、赤瀬川原平、加納光於といったさまざまな作家の作品や、貝殻や石ころ、オブジェの贈物など――が漂着していきました。人間の精神をいっさいの束縛から開放するような、「自由」への夢を託したこれらの作品・ものたちは、今日にあって、芸術なるものの本来の意味を、改めて私たちに語りかけてくれるのではないでしょうか。本展では、富山県立近代美術館ほかに寄贈されたこれら瀧口旧蔵の「夢の漂流物」を、没後初めて東京で、まとまったかたちで展覧いたします」(1)。
  • 「シュールレアリスムを中心とする前衛美術の擁護者として、デュシャンやミロと語らい、国内の若い美術家たちへの支援を惜しまなかった。そのネットワークの広がりにあらためて驚かされる。それは時評家・啓啓蒙家の役割をも引き受け、現実の美術界と接点を保ちながら書き残した文章の膨大さと見合っていよう」(2)。
  • 「滝口の初めての欧州体験は1958年のベネチア・ビエンナーレ日本代表、審査員として渡欧したときだった。ベネチアを起点とする4ヶ月半の旅は、スペインでダリやマルセル・デュシャンに会い、パリでアンリ・ミショーや浜口陽三、金子康喜らと交流し、最後にシュールリアリズムの詩人、アンドレ・ブルトンとの対面を果たす」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「開催中の企画展 - 世田谷美術館
    (2)読売新聞2005.03.31夕刊「美術」(前田恭二記者)より抜粋。
    (3)読売新聞2005.12.13夕刊「文化」(高野清見)より抜粋・リライト。

(2005.12.14更新)




▲造形作家、シュルレアリスムの詩人、美術批評家・滝口修造。

◆「瀧口修造 夢の漂流物 同時代・前衛美術家たちの贈物 1950s〜1970s 」
シュルレアリスムの紹介者として知られる瀧口修造(1903-1979)は、日本の前衛美術を語る上で、欠くことのできない詩人&美術評論家。その瀧口が、国内外の美術家との交流を通じて手にし、他界するまで私蔵してきた、さまざまな美術品や名も無きオブジェ、また関連の書籍や資料を展覧する。芸術なるものの本来の意味を思い出すことができるかも。
世田谷美術館2005.2.5(土)〜2005.4.10(日)

75年7ヶ月と2日の生涯

スタニスラフスキー
Konstantin Stanislavski  
         【スタニフラフスキー・システムの考案者】

(1863.01.05〜 1938.08.07)
死因?---山羊座

  • モスクワの有名な実業家アレクセーエフ家に生まれる。本姓はアレクセーイェフ(Alexeyev)。14歳以降から芸名スタニスラフスキーを名乗る。25歳のとき(1888年)、著明な演出家や歌手を教師に招いて芸文協会(Obshchestvoiskusstva i literatury)を設立。
  • 35歳のとき(1898年)、ネミロビチ・ダンチェンコと共にモスクワ芸術座を設立。70歳を過ぎてから(1932年以降)、“俳優の創造活動の解明と、その教育”の実践論理研究に没頭し、スタニスラフスキー・システムと呼ばれる俳優芸術の創造方法を生み出す。
  • 75歳(1938年)で、スタニスラフスキー・システムの集大成ともいえる『俳優修行』を刊行した後、没する。
  • スタニフラフスキー・システム(Stanislavski System)は、ロシアの演出家、スタニフラフスキーが提唱した演技理論。その背景には、フロイトの心理学があると言われる。よりリアルな演技のために提唱された理論であり、これに忠実だった代表的な俳優に、マーロン・ブランドがあげられる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    コンスタンチン・スタニスラフスキー-Wikipedia
    Stanislavskii LAVO

(2007.03.13掲載)




▲ロシア、ソビエトの俳優であり演出家コンスタンチン・スタニスラフスキー。

 

 

75年7ヶ月と4日の生涯

笠原 和夫
Kazuo Kasahara        【フリーの脚本家】

(1927.05.08〜 2002.12.12)
肺炎---牡牛座

  • 東京都出身の脚本家。男性。日本大学中退。
  • 海軍特別幹部練習生から様々な職を経て東映宣伝部に入る。1958年(昭和33年)からシナリオ執筆を始め、マキノ雅弘監督『日本侠客伝』シリーズ、深作欣二監督『仁義なき戦い』シリーズ(第四部まで)の脚本ほかで知られる。主に東映で、時代劇、やくざ映画の脚本を多数執筆。代表作に『博奕打ち 総長賭博』、『県警対組織暴力』、『二百三高地』、『大日本帝国』、『226』、『浪人街』など多数。
  • 1927年(昭和2年) 東京・日本橋生まれ。
  • 1945年(昭和20年) 海軍特別幹部練習生に志願、広島県大竹海兵団に入団。
  • 1946年(昭和21年) 日本大学三島予科に入学。
  • 1949年(昭和24年) 日本大学法学部新聞学科入学。
  • 1954年(昭和29年) 東映に入社、宣伝部に配属される。
  • 1956年(昭和31年) 東映の社内シナリオコンクールで一位入選。以後プロの脚本家として執筆を始める。
  • 1969年(昭和44年) 『日本暗殺秘録』で第16回京都市民映画祭脚本賞受賞。
  • 1976年(昭和51年) 東映を退社、フリーの脚本家となる。
  • 1981年(昭和56年) 『二百三高地』で日本アカデミー賞優秀脚本賞受賞。
  • 1983年(昭和58年) 『大日本帝国』で日本アカデミー賞優秀脚本賞受賞。
  • 2002年(平成14年) 12月12日西窪病院にて肺炎の為死去。享年76(数え年)。
  • 木場を舞台にした仁侠映画では職人達が使った隠語集を、『二百三高地』では当時の天気なども記した巻物のように長い資料集を作るなど取材にまつわるエピソードは事欠かない。
    新作映画の企画のため、飯干晃一を訪ねた笠原はあるヤクザの手記を見せられ、飯干から映画化を進められた。笠原は早速その筆者である元組長・美能幸三を訪ねたが、美能は「映画化を望んで手記を書いたわけではない」と映画化を拒否。
  • 笠原はこの企画を諦めたが、たまたま美能と笠原が海軍の大竹海兵団の一期違いである事が分かり、親しみをもった美能は「絶対に映画化しない」という条件で広島抗争の裏話を次々と披露した。笠原は早速帰京して脚本を執筆、翌年に早々と公開された。これが『仁義なき戦い』である。
  • 『仁義なき戦い』の0号試写を見た笠原は、深作演出によるテンポの早い物語展開に対し、自分の書いた台詞がないがしろにされているという印象を持って大いに不満を語ったが、周囲は「このテンポがいいじゃないですか」と絶賛し、「気づいたら文句言ってるのは脚本書いた俺だけだった」と話している。その後何度か作品を見ているうちに「不思議といい映画だなと思うようになった」とも語っている。
  • その深作は完成度の高い笠原作品を敬愛し、『県警対組織暴力』においては「脚本が完璧すぎて映画化できない」と弱音を吐いたという。晩年は笠原の作品集を繰り返し読んでいたという深作は、笠原の死から一ヶ月後に後を追うようにして死去した。
  • 著書に『映画はやくざなり』『破滅の美学』など。
  • 研究書 :『笠原和夫 人とシナリオ』シナリオ作家協会「笠原和夫 人とシナリオ」出版委員会編(シナリオ作家協会:2003年出版)
  • 「未映画化シナリオに、若き革命家たちの愛と死を描いた『実録・共産党』がある。あと、画像すごく小さいのですが…」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    笠原和夫 (脚本家)-Wikipedia
    (1)投稿者:園田さん..2009/ 5/19 11:52:42(火) [4887]

(2009.05.20更新)



▲緻密で且つ徹底的な取材に基づき執筆された数々の作品は日本の映画史を語る上でどれも重要な地位を占めている笠原 和夫。

75年7ヶ月と8日の生涯

北園克衛
Katsue Kitazono  【戦前のモダニズム詩人】

(1902.10.29〜1978.06.06=明治35年〜昭和53年)
肺ガン---蠍座

  • 三重県伊勢市に生まれる。本名は橋本健吉。大正から昭和にかけて木彫作品を発表していた彫刻家の橋本平八を兄に持つ。1920年代の終わり頃よりペンネームを北園克衛とする。
  • 大正8年 (1919)上京。新聞記者を志し、中央大学経済学部に入学。大正12年(1923)「文章倶楽部」に詩を発表。関東大震災で奈良に帰り兄、橋本平八(彫刻家)と仏像の研究。
  • 大正13年(1924)この年ごろから未来派、表現派、ダダの影響を受ける。築地小劇場の背景や表紙の絵などを描き始める。23歳1929年、第一詩集『白のアルバム』を刊行。
  • 昭和7年(1932)8月詩集「若いコロニイ」(ボン書店)刊行。31歳昭和8年(1933)小林栄と結婚。日本橋の楓川アパートに移る。32歳
  • 昭和9年(1934)長男明夫誕生。大田区南馬込に住む。33歳昭和20年(1945)新潟県三条市に疎開。終戦の翌日上京。44歳
  • 1950年代からは写真作品を発表する。ハヤカワミステリ文庫のエラリィ・クイーンの著作の装幀者として、また、同人誌『VOU』を長く主宰。
  • 昭和26年(1951)四月詩集「砂の鶯」(協立書店)刊行。50歳昭和29年(1954)4月詩集「真昼のレモン」(昭森社)刊行。53歳
  • 昭和30年(1955)1月詩集「ヴィナスの貝殻」(国文社)刊行。54歳昭和53年(1978)6月6日東京都港区白金の北里研究所付属病院で肺癌のため永眠。
  • 同人誌「GE・GJMGJGAM・PRRR・GJMGEM(ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム)」編集後、1935年、同人誌『VOU』を創刊、北園が没した1978年の160号まで続いた。
  • 詩作以外の小説、俳句、評論をはじめ油絵、雑誌の編集、書籍の装幀と活動は幅広い。詩集に、『若いコロニイ』『黒い火』『空気の箱』など。現在は多摩美術大学に北園克衛文庫がある。
  • 「ダダとシュルレアリスムが日本に紹介され、大正から昭和にかけての新興芸術運動が隆盛する1920年代が、北園克衛の出発点。『MAVO』に詩を発表し、自らも同人誌を編集していた北園は、ヨーロッパの同時代芸術が次々と日本に紹介され、受容されていったなかに位置していた。そして、日本に入ってきたばかりのシュルレアリスムにもっとも早い時期に触れ、反応した一人となる。西脇順三郎、瀧口修造と出会い、「衣裳の太陽」を創刊する。さらに1930年瀧口修造が主唱、編集する「LE SURREARISME INTERNATIONAL」に参加。しかし北園はこの雑誌が出るころにはシュルレアリスムから離れていた。北園と瀧口のシュルレアリルムに関するとらえ方の違いは、北園の当時の文章や瀧口の自筆年譜のなかに現れている。後年、北園は自らの物体感覚を、同時期に接したバウハウスに培われたと語る」(1)。
  • 「北園克衛は詩を意味という枠から追放し、抽象と非形象の図学を詩にもち込んだ最初の詩人である。同時に彼はデザインや写真に携わる人々に多大な影響を与えた」(2)。
  • 「昭和53年「VOU」160号編集後記には北園の病の回復を願う思いが書かれていたが、急遽、「今号の発行を待たずに1978年6月6日午前6時55分,肺癌のため逝去されました。慎んでご冥福を祈ります。1978年6月8日」の小片が挟まれた。モダニズム詩人北園克衛の「言葉を色や線や点のシンボルとして使用する」を主題とし、「意味によって詩を作らない」で「詩によって意味を形成する」という実験は従来の詩の概念を破壊してしまったが、昭和10年に創刊した主宰誌「VOU」はその活動を美術や音楽、映画にまでひろげ、中でも写真を詩に位置づけた「プラスティック・ポエム」は北園の詩理論の解明に重要な役割を果たすものであろう」(3)。
  • 「G・G・P・G」(ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム)はモダニズムの時代に一閃の輝きを放った伝説の詩雑誌。
    北園の詩はマレービッチの絵画とシンクロする。
    東京・渋谷区広尾 祥雲寺に克行院健翁蘭堂居士として眠る。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    北園克衛
    (1)「多摩美術大学附属図書館「北園克衛文庫
    (2)『評伝 北園克衛 』藤富 保男【著】(紀伊国屋書店)
    (3)「北園克衛

(2007.06.26更新)



?肖像を探しています。



▲日本に入ってきたばかりのダダとシュルレアリスムにもっとも早い時期に触れ、反応した一人・北園克衛。

 

▲ 口笛      北園克衛

夏は美しい季節でした

物質は重く生活は軽いのです
街の従妹たちよ
そこでは星と林檎がいり混り
そしてあなた達は失はれた花束にすぎません

僕は? あなたは? 好きなのですね?

しかし だが
カメラの中に月が出たら
あ!
動いちやいけません 。

75年7ヶ月と12日の生涯

田中角栄
Kakuei Tanaka  【異形の将軍】

(1918.05.04〜1993.12.16)
脳梗塞で倒れ入院。甲状腺亢進症に肺炎を併発---牡牛座

  • 政治家、64.65代首相、衆議院議員(自民党)。新潟県西山町に生まれる。
  • 高等小学校卒業後上京し、苦学のすえ中央工学校を卒業。25歳(昭和18)田中土建を設立。
  • 29歳(昭和22)衆議院議員に初当選(民主党)。30歳、民主自由党に移る。同年炭鉱国管疑獄で逮捕されるが無罪。
  • 31歳、岸内閣の郵政相を皮切りに、党政調会長、蔵相、党幹事長、通産相などを歴任。とくに44から47歳まで蔵相を務め高度成長政策を推進する。
  • 54歳「日本列島改造論」を発表、7月首相に就任。9月日中復交を果たすが、55歳で経済政策の破綻から狂乱物価を招き、56歳で田中金脈問題により内閣総辞職。
  • 76年7月ロッキード事件で逮捕され、83年10月、懲役4年・追徴金5億円の一審判決を受け、控訴。逮捕後自民党を離党したが、政界に強い影響力を行使した 。
  • ご存知田中真紀子は長女。遺伝子は裏切らない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2009.09.28掲載)



▲「日本列島改造論」の政治家・田中角栄。
(イラスト 玉野安実嬢)

▲ 『異形の将軍』 津本陽著
「角栄」を知ることは 、この国の仕組みを知ることだ」(幻冬舎文庫)。

75年7ヶ月と16日の生涯

武智鉄二
Tetsuji Takechi   【芸能界の風雲児】

(1912.12.10〜1988.07.26)
膵臓ガン--射手座

  • 歌舞伎演出家・映画監督。大阪・梅田に生まれる。本名川口鐵二。父は京大出身の基礎工事の権威だった。
  • 芦屋の邸宅に育ち、甲南高校から京大経済学部卒業。京大経済学部卒業後、本格的な評論活動を開始。1939年に雑誌「劇評」を創刊。
  • 1944年、父の出資で伝統芸能鑑賞会「断絃会」を組織し、一流の古典芸術家を後援した。オペラ歌舞伎、現代語義太夫などを製作。
  • ことに二代中村扇雀、五代中村富十郎らを中心に、歌舞伎の実験的演出を試み、“武智歌舞伎”と呼ばれる旋風を巻き起こした。
  • 戦後、1949年からは歌舞伎の再検討を目指した、いわゆる「武智歌舞伎」の公演活動によって、当時の関西歌舞伎の若手俳優の育成につとめた。 以後も歌舞伎をはじめ能、狂言、文楽、舞踊、オペラ等様々な分野の演出活動にあたる。
  • 1960年代になってからは映画界にも進出。谷崎潤一郎原作の『白日夢』をはじめ、わいせつ論議で裁判沙汰にもなった『黒い雪』等、次々と問題作を発表し、話題を呼んだ。
  • 主著に『かりの翅』、『伝統と断絶』、『定本武智歌舞伎全6巻』などがある。
  • 「これほど毀誉褒貶の分かれる芸術家は少ない。褒める人は、芸能界の風雲児と呼び、けなす人は、金持ちのぼんぼんが反権力を気取っていただけ、芯はなんにもないと言う。しかし、評価の分かれるところが、むしろ本人の望むところで、騒がれるたび内心にやりと笑っていたかもしれない」(1)。
  • 「映画製作に関しては首をかしげる向きも多い。谷崎潤一郎の原作を製作・監督した「白日夢」(1964年)は女性患者(路加奈子)が歯科医に犯される話で、芸術性よりポルノ的興味で大ヒットした。さらに、武智脚本による「黒い雪」(1965年)は猥褻罪で起訴され、初の映画裁判になった。米軍基地の日本人売春婦の生態を通して、反米思想を強調した作品で、結果的には無罪。もっとも内容的には高い評価を受けず、露骨なセックスシーンに眉をひそめる観客も少なくなかった---私生活では地唄家元・川口秀子と3度目の結婚をしてからは、すっかり落ち着き、よき夫、よき父だったという。「芸術は革命である。伝統を破壊し、再構築する意欲がなくては、新しいものは誕生しない。「私の一生は闘いの連続だった。多くの指弾も受けたが、いささかの悔いもない」これが武智鉄二の持論だった。(島野功)」(2)。
  • 「代表作は、谷崎潤一郎原作の「白日夢」(1964)。この作品は厳密にはハードコアではなかったのですが、1981年と1986年にハードコア版として自らリメイクされました。奇人としても知られ、自由民主党から立候補した時には、選挙資金を遊びに使い、自由民主党から訴えられたこともありました。人柄も作品もきわめてスキャンダラスな人ですね」(3)。
  • 「武智の名前は、歌舞伎では太閤記の適役武智明秀=明智光秀のことであり、ただ武智鉄二の名を冠しただけでなく、明確な敵愾心、反発を込めたものであった」(4)。
  • 「安部穣二氏は、競馬を論じたその著書『極道の恩返し』のなかで、分からないことの多い競馬界の裏事情に、もっとも通じ、かつそれを予想に反映できていたのが、武智鉄二だと語っている」(5)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    はてなダイアリー - 武智鉄二とは
    (1)(2)「芸能この日何の日
    (3)「武智鉄二
    (4)(5)月刊ランティエ2005.3月号「怪物列伝」(福地和也)より抜粋。

(2005.12.06掲載)




▲いわゆる「武智歌舞伎」の公演活動によって、当時の関西歌舞伎の若手俳優の育成につとめた武智鉄二。

75年7ヶ月と17日の生涯

萩原 延壽
Nobutoshi Hagiwara  【『自由の精神』の歴史家】

(1926.03.07〜2001.10.24)
死因?---?座

  • 東京都出身。旧制三高卒業後、東京大学法学部政治学科へ進学。卒業後、同大学院で岡義武に師事。修了後、米国ペンシルベニア大学・英国オックスフォード大学に留学。英国留学中、丸山眞男の知遇を得る。
  • 帰国後、著述活動に専念。各大学からの教鞭職を断り、在野の歴史家として知られていて、作家の石川淳や安部公房を兄として敬愛していた。また、森毅とは三高時代の同級生で親交が深かった。
  • 明治の近代国家形成過程の研究を通じ、権力と理想、伝統と近代の相克を豊かな感性でとらえ、伝記スタイルの評論に結実させた。
  • 1967年に『馬場辰猪』で吉野作造賞、1985年に『東郷茂徳』で吉田茂賞をそれぞれ受賞。その他の著書に『書書周遊』、『陸奥宗光 上・下』などがある。
  • また朝日新聞に長期にわたって連載し、アーネスト・サトウの生涯を書き記した大作『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』全14巻の完成を見届けた後、2001年10月24日に逝去。享年75。
  • また『遠い崖』で2001年の大佛次郎賞を受賞し、没後2003年に『自由の精神』がみすず書房より刊行された。
  • 2007年10月より朝日新聞社より『萩原延壽集』(全7巻)を刊行されている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    萩原延寿-Wikipedia

(2008.07.12更新)




▲明治の近代国家形成過程の研究を通じ、権力と理想、伝統と近代の相克を豊かな感性でとらえ、伝記スタイルの評論に結実させた萩原 延壽。


75年8ヶ月と2日の生涯

ティントレット
Tintoretto    【ヴェネツィア派の代表画家】

(1518.09.29 〜 1594.05.31)
死因?---天秤座

  • 本名ヤコポ・ロブスティ(Jacopo Robusti)。師ティツィアーノの画風を継ぎ、遠近法とダイナミックな光の効果を生かした大画面の歴史画に傑作が多い。
  • ヴェネツィアで生まれ育ち、長い生涯のほとんどをヴェネツィアで過ごし、そこで死んだ、生粋のヴェネツィア人であった。本名はヤコポ・ロブスティ。
  • 家業が染物屋だったことから「ティントレット(染物屋の息子)」と呼ばれるようになった。
  • ヴェネツィアの聖堂、パラッツォ・ドゥカーレ(統領宮殿)、当時ヴェネツィアにいくつかあったスクオーラ(同心会)の会館などのために多くの作品を残している。
  • ティントレットの絵画は、斬新で大胆な構図と、ドラマティックな表現に特色があり、『聖パウロの改心』、『ガリラヤ湖のキリスト』のような、聖書のエピソードを壮大なドラマのシーンのように描いた作品は、次世紀のバロック絵画を先取りするものといえよう。 ヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マジョーレ聖堂の壁面を今も飾っている『最後の晩餐』は、晩年の代表作である。「最後の晩餐」という伝統的な画題を扱いながら、晩餐のテーブルを画面手前から奥へ向かって斜めに配した斬新な構図、舞台照明のような劇的な光の扱い方、現実と幻想の入り混じった描写にティントレットの特色が現われている。
  • 聖書や神話を題材としたドラマティックで大胆な表現が特徴。
  • 代表作は「スザンナの入浴」「最後の晩餐」「聖マルコの遺体の運搬」など。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    人名辞典

(2008.10.01更新)




▲師匠のティツィアーノとともにルネサンス期のヴェネツィア派を代表する画家ティントレット。



◆スザンナの水浴 1550年代 ウィーン、美術史美術館


◆奴隷を救う聖マルコ(1548年)

 


75年8ヶ月と06日の生涯

坪内逍遙
Syouyou Tubouchi   【シェークスピアの日本受容者】

(1859.06.22〜1935.02.28=安政6年5月22日〜昭和10年2月28日)
肺侵潤/睡眠薬自殺説---蟹座

  • 小説家、劇作家、演劇評論家、英文学者。本名勇蔵のちに雄蔵。美濃国生れ。東大政治学科卒。
  • 1885年(26歳)『小説神髄』を書き『当世書生気質』を発表して写実による近代文学の方向を示した。二葉亭四迷をはじめ、逍遥の近代文学論は広く大きな影響を与えたが、自身は1889年(30歳)の『細君』を最後に小説の筆を折った。
  • 1890年(31歳)、東京専門学校(早稲田大学の前身)に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊し。後進の育成に努めた。同誌を発表の場として森鴎外との間に没理想論争を展開。また演劇革新を志して戯曲『桐一葉』『牧の方』『沓手鳥孤城落月』等を発表、『新曲浦島』などの舞踊劇をも創作。
  • 演劇研究所を作って俳優の養成に努め、早稲田大学演劇博物館を建設。『シェークスピア全集』の翻訳を完成するなど、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残す。
  • 「日本のシェークスピア受容史で大書すべき演劇人といえば、坪内逍遙と福田〇存だろう。逍遙が日本の伝統演劇との類似性を強調したのに対し、福田はそこに断絶を見た」(1)。
  • 「近世と近代の境目の時代に生きて、近代文学・近代演劇の先駆者となった坪内逍遥は若年の頃より日記を書き始め、昭和10年、数え77歳で死去する直前まで続く。その40歳代以後の日記にしばしば記されるのが、前日の睡眠時間で、ほとんど眠れなかったとこぼすことが多い。不眠症だったのだ。---逍遥が晩年精力的に研究したものに、浮世絵の一種である歌舞伎の役者絵がある。逍遥以来、演博(実は逍遥の造語)の集めた役者絵は、4万7000点を超え、世界最大のコレクションとなった」(2)。
  • 演博(早稲田大学演劇博物館)はアジア最初の演劇展示施設である。ここ、試験に出ますぜ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2004.02.15朝刊安西徹雄著『彼方からの声』の書評より。
    (2)読売新聞2006.01.25朝刊 竹本幹夫「古典力」より抜粋。

(2006.03.05更新)




▲小説家、劇作家、演劇評論家、英文学者・坪内逍遙。

75年8ヶ月と23日の生涯

クリストフォリ
Bartolomeo Cristofori     【ピアノの発明者】

(1655.05.04〜1731.01.27)
死因?---牡牛座

  • ピアノの発明は以前、「1698年説」が強く主張されたこともあったが、現在のところ、この主張の裏付けは確認することが出来ない。現在の研究では、「1700年頃」ということになっている。しかし、これは「今日的意味」におけるピアノに限っての話である。
  • 「弦を叩いて音を出す鍵盤楽器」というより広い意味においては、既に1440年頃、チェンバロのページでも紹介したズウォレのアンリ・アルノーがブルゴーニュ公に提出した「ドゥルチェ・メロス」の図面というのがある。ドゥルチェ・メロスとはダルシマー---即ち、プサルテリウムと同じような形状の弦楽器だが、弦をはじくプサルテリウムとは異なり、弦をばちで叩いて音を出す---のことだが、この場合には「鍵盤付きダルシマー」を意味している。
  • クリストフォリにしても、ピアノを発明した際には、「鍵盤付きダルシマーの開発」を意識していたことは間違いないと思われる。従って、ピアノという楽器の発想の始まりは、少なくともクリストフォリの発明以前3世紀半余りも時代を遡るのである。クリストフォリ自身が、彼の発明したこの新しい楽器を何と呼んだのかは記録されていない。
  • 1700年のメディチ家の楽器目録には、この楽器は単に「アルピチェンバロ」と記されている。
  • 1709年にクリストフォリにインタヴューしたヴェローナの貴族シピオーネ・マッフェイ侯爵は、その2年後に彼のクリストフォリ訪問を公にし、その中でこの楽器を「グラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテgravecembalo col piano e forte」(強弱を伴う大型のチェンバロ)と呼んだ。「フォルテピアノ」や「ピアノフォルテ」は、このマッフェイの呼称の短縮形である。
  • 18世紀のイタリアの文献資料には、「クラヴィチェンバロ・ア・マルテレッティclavicembalo a marteletti」(小さなハンマーの付いたチェンバロ)という呼称も珍しくない。これに対して、弦をはじいて音を出す通常のチェンバロは「クラヴィチェンバロ・ア・ペンネclavicembalo a penne」ということになる。
  • このように、クリストフォリのピアノは「新種のチェンバロ」として受け止められた。これ以後、1800年頃までは、ピアノは「チェンバロの一種」と考えられていた。モーツァルトは、明らかにフォルテピアノを意図している時でさえ、自筆譜には「クラヴィチェンバロ」と書いている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    Cembalo, Clavicordo & Fortepiano

(2007.01.22掲載)




▲メディチ家の楽器工房主任バルトロメオ・クリストフォリ。


75年8ヶ月と25日の生涯

泡坂 妻夫
Tumao Awasaka      【「日本のチェスタトン」】

(1933.05.09〜 2009.02.03)
急性大動脈解離---牡牛座

  • 東京都出身。東京都立九段高等学校卒。筆名の"泡"の旁は正しくは"己"ではなく"巳"。本名は厚川 昌男(あつかわ まさお)。筆名は本名のアナグラムである。
  • 東京・神田で「松葉屋」の屋号を持つ紋章上絵師の家に生まれ、約5年の会社勤めを経て家業を継ぐかたわら、1975年に短篇「DL2号機事件」で作家デビューした。
  • その逆説の作風から「日本のチェスタトン」と呼ばれた。また、『しあわせの書』や『生者と死者』など、技巧を凝らした作品がある。
  • 作中で活躍する探偵役としては、亜愛一郎、曾我佳城、ヨギガンジー等。
  • 1975年 - 「DL2号機事件」で第1回幻影城新人賞に佳作入選。
  • 1978年 - 「乱れからくり」で第31回日本推理作家協会賞を受賞。
  • 1988年 - 「折鶴」で第16回泉鏡花文学賞を受賞。
  • 1990年 - 「陰桔梗」で第103回直木賞を受賞。
  • 奇術愛好家としても有名であり、1968年に第2回石田天海賞を受賞している。また、自身の名を冠した奇術の賞に厚川昌男賞がある。
  • 家業の紋章上絵師としての経験・知識から、家紋についての本も著している。
  • 2009年2月3日、急性大動脈解離のため東京都内の病院で他界した。享年75歳。
  • 1978年に「乱れからくり」で日本推理作家協会賞、88年に「折鶴」で泉鏡花文学賞、90年に「蔭桔梗(かげききょう)」で直木賞を受賞した。奇術愛好家としても知られる。
  • 「本名を厚川昌男という。あつかわまさお---文字を並べ替えて「あわさかつまお」、推理作家の泡坂妻夫さんである。遊びの愉(たの)しさを至芸の域にまで高め、変幻自在なトリックで読者を魅了したその人らしい命名である。生半可な遊び心ではない。例えば「しあわせの書」(新潮文庫)ではひらくページすべてに、ある仕掛けが隠されている。真似しろと言われたら脳みそが卒倒しそうな仕掛けが何かは、実際にお読みいただくしかない。東京・神田の紋章上絵師(うわえし)、和服の家紋を描く職人の家に生まれた。幼いころ、縁日の夜店で見た手品で人を驚かせる喜びを知ったことが創作の原点になったという。「乱れからくり」など数々の本格物には、職人肌の凝り性と奇術師の妙技が溶け合っている。貴公子風の名探偵・亜愛一郎(ああいいちろう)や、謎の外国人ヨギ・ガンジーの明察に、夜の更けるのを忘れてページを繰った方も多かろう。遊び、みずから愉しみ、その愉楽を一作ごとに読者と分け合って泡坂さんが75歳で逝った。幾何の難問を解き終えたような心地よい読後感は、色あせることのない紋章として読者の心に残るだろう」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    泡坂妻夫-Wikipedia
    (1)読売新聞2009.02.05朝刊「編集手帳」より抜粋

(2009.02.15掲載)



▲奇術的なトリックを取り入れた本格推理小説の名手・泡坂 妻夫。


75年9ヶ月と5日の生涯

山田 わか
Waka Yamada       【世界無宿の女】

(1879.12.01〜1957.09.06=明治12年〜昭和32年)
死因?---射手座

  • 神奈川県三浦郡久里浜村(現在の横須賀市)の貧農、浅葉弥平治とミヱの4女として生まれる。
  • 18歳の時に上京先の横浜で女衒にかどわかされ、1897年(明治30年)渡米、シアトルの娼館に売られる。娼婦となる。
  • 1900年(明治33年)に新聞記者・立井信三郎に助けられ、キリスト教に入信し通訳として働く。1903年(明治36年)に、サンフランシスコで山田嘉吉の英語塾へ入り翌年結婚。1906年(明治39年)に帰国する。
  • 嘉吉の下でスウェーデンの社会思想家エレン・ケイ(1849-1926)の母性主義の思想にふれ、以後、妊娠・出産・育児にあたる母親を国家により保護する、すなわち国による母性の保護を思想信条とした。平塚らいてうの『青鞜』誌上にエレン・ケイなどの翻訳をいくつか寄稿、新婦人協会の設立時には評議員の一人として参加。1920(T9)個人雑誌「婦人と新社会」を創刊。
  • また1934年(昭和9年)5月、母性保護法制定促進婦人連盟(翌年4月、母性保護連盟と改称)が結成されると初代委員長に就任。運動の成果は、1937年(昭和12年)3月に「母子保護法」の成立として結実する。
  • なお、国家による母性保護を「奴隷道徳」「依頼主義」と難じ「女子の徹底した独立」を唱える与謝野晶子、社会主義者の山川菊栄らの批判に対し、平塚らいてうと共に激しく反駁、母性保護論争と呼ばれる論戦を展開した。
  • 1931年(昭和6年)5月から東京朝日新聞家庭面の女性相談欄を担当。評論活動を開始。1932年(昭和7年)3月30日付紙面に掲載された「家に押し入ってきた強盗によって妊娠させられてしまった女性」からの相談に対して、「子供を生んで育てるように」と回答し、大きな反響を呼び起こした。
    主婦の友社社長石川武美の要請を受け、同社顧問となる。
  • 1937年(昭和12年)に遣米婦人使節として渡米。1941年(昭和16年)3月には親善使節としてドイツ及びイタリアを訪問した。
  • 主な著書に「私の恋愛」1936、「昭和婦人読本−処女篇・家族篇」1927。 山崎朋子著作の「あめゆきさんの歌」1978などでも紹介される。
  • 「明治30年、アメリカへ行けば大金が入ると騙され、シアトルの娼館に売られた。アラビアお八重の源氏名で7年間白人男性の相手をさせられた。だが、渡米して刻苦勤勉の末に英学塾を開設した山田嘉吉と知り合い、運命は好転する。帰国して母性保護論争で論陣を張るほどの評論家に成長した」(1)。
  • 参考文献
    『婦人と新社會』全7巻、山田わか編、五味百合子監修・解説、クレス出版、1993。
  • 山田わか主筆、夫の山田嘉吉が編集発行人となり、 1920年(大正9)3月より1933(昭和8)7月の160号まで刊行された山田わかの個人的評論誌の復刻版。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    山田わか-Wikipedia
    (1)読売新聞200808.31朝刊 大場昇著『世界無宿の女たち』(文藝春秋企画出版部)の木村俊二より抜粋。

       
             

(2008.09.03掲載)




▲明治・大正・昭和期の婦人問題評論家、社会思想家・山田 わか。


75年9ヶ月と9日の生涯

エルジェ
Herg  【タイタンの生みの親/ヨーロッパ・コミックの父】

(1907.05.22〜1983.03.03)
死因?---双子座

  • ベルギー(ブリュッセル)にて生まれる。本名はジョルジュ・レミ(Georges Remi)で、「エルジェ」というペンネームは本名のイニシャルGRを逆さにしたRGをフランス語読みしたもの。
  • ブリュッセルにあるセント・ボニファス校に学ぶが、彼にとっては退屈な日々であった。少年時代はボーイ・スカウトに傾倒し、その頃よりドローイングを開始するが1923年より本格的に「ベルギー・ボーイスカウト」誌に作品を発表しはじめる。この時点から、ジョルジュ・レミは、自分の頭文字<RG(仏語読み)>からとったエルジェという名前で自分の絵にサインをするようになる。
  • 1925年に『20世紀新聞』(Le Vingtieme Siecle)の定期購読部に就職し、子供向けの『20世紀子ども新聞』(Le Petit Vingtieme)でタンタンとスノーウィの物語が生まれた。
  • 1927年兵役にでる。1928年に新聞の若者向けウィークリー増刊号「小20世紀」のチーフ・エディターとなり1929年には自作の「タンタン、ソビエトへ」が同紙に掲載。またたく間に人々の人気を博した。
  • それ以後、タンタンとスノーウィをコンゴ、アメリカ、中国、はたまた月まで送り続け、世界中を駆け巡る23話のタンタン冒険シリーズを我々に残している。
  • ヨーロッパ・コミックの父と称される彼の作品は、今日においても様々なアーティストに影響を与え続けている。
    1983年3月3日、エルジェことジョルジュ・レミ逝去。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エルジェ

       
             

(2005.10.01掲載)




▲代表作『タンタンの冒険旅行』の作者として知られる。ベルギーの漫画家エルジェ。


●「エルジェはディズニーと同じくらい私の仕事に影響を与えた」「エルジェは政治かつ風刺の広がりをもっていた」アンディ・ウォーホール(アーチスト/アメリカン・ポップアートの先駆者のひとり。エルジェのポートレイトを制作した)

●「これで私のライバルはタンタンだけだ」〜大統領選挙を勝ち抜いた際の演説中に〜シャルル・ド・ゴール(元フランス大統領)

●実写による「タンタンの冒険」映画化決定!2006年公開予定。スティーブン・スピルバーグ(映画監督)

●「インディ・ジョーンズはタンタンの冒険物語をコンセプトにしている」〜映画製作発表記者会見で〜ジョージ・ルーカス(映画監督)

75年9ヶ月と14日の生涯

藤村 富美男
Fumio Fujimura  【初代「ミスタータイガース」】

(1916.08.14〜1992.05.28)
腎不全 獅子座

  • 広島県出身のプロ野球選手・監督。
  • 鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学、野球を始める。大正中学2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業や濃人渉、門前眞佐人、白石勝巳らのいた広陵中学を退け、春夏の甲子園に6度出場。
  • 明石中学の楠本保、京都商業の沢村栄治、中京商業の吉田正男、県立岐阜商業の加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれた。藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。
  • 中学3年(5年制)、3度目の甲子園出場だった1933年夏選手権では準々決勝で三連覇を狙う中京商業と対戦し、完封負けを喫した(中京商業は続く準決勝で中京商対明石中延長25回を勝ち抜き、三連覇を達成)。
  • 1936年、藤村が呉港中学を卒業した年は、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年末に投手として入団させた。背番号10
  • 六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかったプロ野球の立場は低く、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである。
  • 1936年、プロ野球リーグが開幕。1939年から1942年までは兵役のため出場できなかった。1943年に除隊し夏のシーズンから復帰。その年は長い軍隊生活で思うように体が動かず、34試合で2割2分、本塁打0とプロ入り以来最悪の成績に終わる。しかし翌1944年は戦力の落ちた阪神で主軸となり、4番打者に定着して打点王を獲得、優勝に貢献した。この年夏のシーズンから若林忠志監督の指示で本格的に三塁手へコンバートされた。
  • 1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続で同賞を受賞している。
  • 1948年からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人いわく笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37〜38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘とともに本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、藤村のトレードマークになると共に3年連続打点王の原動力となった。この年の10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録。
  • 1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残したが、惜しくも首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかった。藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い。チームが6位だったにも関わらず、MVPを獲得。この頃から「ミスタータイガース」と呼ばれ、ファンから絶大な支持を得ている。
  • 1950年の毎日への主力選手移籍の折に「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」と語り、日本シリーズに出場することが悲願であったが、その夢は果たされることなくユニホームを脱いだ。
  • その後、1963年に国鉄スワローズのコーチ、1964年から1965年には東映フライヤーズのコーチをつとめ、1966年に評論家に転じた。その後、1967年から1968年にも東映のコーチをつとめた。
  • 大阪タイガース結成時から藤村が付け続けた背番号10は、球団初の永久欠番となっている。1974年野球殿堂入り。1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で死去した。死去時、甲子園球場には半旗が掲げられてミスタータイガースを追悼した。
  • プレースタイル :闘志をむき出しにするタイプで、「阿修羅の藤村」とも表現され、赤鬼のような顔で審判の判定にもクレームをつけた。1948年10月3日の対巨人戦で逆転サヨナラのランナーとして本塁に突入し、捕手・武宮敏明を体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。
  • 打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。藤村はメジャーリーグの三塁守備によく見られる、三塁線の打球の素手取りを、スタンドまで掴む音が聞こえるような猛ゴロであっても平然とやってのけ、「猛人藤村」ともいわれた。三塁手以外のポジションを守っても平均以上の守備をみせ、捕手以外の全ポジションを経験した。特に、投手、二塁手、右翼手、三塁手、一塁手では、1シーズン以上にわたりレギュラーを務めた。
  • 当初は2番を打つなど、打撃面では脇役だった藤村が、ホームランバッターになった理由は、戦中・戦後に地方遠征などで試合前に余興で行われたホームラン競争がきっかけと言われる。戦力の落ちたチームで、別当薫のあと声がかかりホームラン競争をやってるうちにコツを覚えたという。並のバッターならチャンスで萎縮するものだが、藤村はチャンスだと嬉しそうに打席に入った。
  • 1948年、鳴り物入りで入団してきた慶應義塾大学出身の別当に異様な闘争心を燃やし、真偽は不明ながら風呂に入っていた別当の頭の上をまたいで浴槽に入ったという話がある。また、藤村が「物干し竿」を使うようになった理由は、長打力を持つ別当への対抗心からだという説も存在する。別当が前(3番)で先に快打を連発すると思い切り機嫌が悪かったという。もっとも、土井垣武や本堂保次などの証言では「別に機嫌が悪くなったとか無かったですよ。よく別当を連れて飯食いに行ってました」ともいわれている。
  • 記録面での話題:タイガースの記念すべき公式戦、第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平桝敏男のエラーによりサヨナラ負け。阪神の勝利・敗戦とも第1号となった。
  • 大阪タイガース創設と同時に入団したため阪神の背番号10は藤村しか着用したことがない。「1選手しかつけなかった背番号」は、全永久欠番のなかでも唯一の事例となっている。
  • 試合でのトラブル:上記のように闘志をあらわにする性格のため、審判などとのトラブルがしばしばあったが、その中で球界や球団まで巻き込む騒動となった以下の事件がある。
  • 物干し竿 :赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して「物干し竿」を使ったが、藤村曰く「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考えた」という。ゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせた。
  • 影響:長嶋茂雄は「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している(1998年12月6日放送『知ってるつもり?! 藤村富美男』(日本テレビ)での長嶋のインタビューや2006年、讀賣新聞に連載された「時代の証言者 長嶋茂雄」での記述による)。
  • 最高殊勲選手:1回(1949年)/首位打者:1回(1950年)/本塁打王:3回(1936年秋、1949年、1953年)/打点王:5回(1944年、1947年 - 1949年、1953年)/最多安打:2回(1949年、1950年) ※当時はタイトルではない/ベストナイン三塁手 6回(1947年 - 1952年)/サイクルヒット:2回(1948年10.2、1950年5.25)/連続試合満塁本塁打:2(1953年4月28日 - 1953年4月29日)日本記録/三塁手シーズン刺殺:209(1950年)日本記録/三塁手シーズン補殺:484(1950年)セ・リーグ記録/三塁手シーズン併殺:60(1950年)セ・リーグ記録/三塁手シーズン守備機会:728(1950年)日本記録/通算1000試合出場 1951年9月30日(8人目)/監督通算成績 :462試合 266勝190敗6分 勝率.583
  • 「実は自分は選手時代の藤村さんをまったく知りません。自分が知っているのは「新必殺仕置人」(1977年放送)で仕置人の元締の虎さんを演じていた藤村さんです。一癖も二癖もある仕置人を統括する虎さん。素で演じられていたと思いますが堂々たる巌のような姿。その風貌は岩の様にごつく眼光は鋭く、けれど時折みせる優しいまなざしと人情味の深い表情が本当に魅力的でした。人生の甘さも渋さも味わいつくしたような虎=藤村さん。悪党を仕置するバットスイング(なんと得物が物干し竿バット!!)は本当にカッコよかったです!!」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    藤村富美男-Wikipedia
    (1)投稿者: Miwaさん..2009/ 6/26 08:45:17(金) [5238]

(2009.06.7更新)



▲世紀を代表する強打者であり、またタイガースの黎明期を支え、戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手・藤村 富美男。


75年9ヶ月と15日の生涯

聖アウグスティヌス
St. Augustinus  【西方キリスト教会最大の教父】

(354.11.13〜430.08.28)
死因?---蠍座

  • 西方キリスト教会最大の教父、神学者、哲学者、聖人。ヌミディア(北アフリカ)の小村タガステ(現アルジェリアのスーク・アラス)に生まれる。
  • 北アフリカ、ヒッポの司教(42歳)。ローマ官吏で異教徒の父パトリキウス、キリスト教徒の母モニカはベルベリ人で中産階級(小地主)に属していた。
  • カルタゴで修辞学を修めたが、放縦の生活を送り、マニ教を信じた。プロティノス研究ののち、ミラノ司教アンブロシウスの感化によって改宗、37歳で司祭となる。
  • その著『告白』は古代自伝文学の最高傑作にして、第11巻には重要な時間論を含む。『三位一体論』『自由意志論』はともに正統教義の確立に大きく寄与したほか、長い論争の端緒ともなった。
  • 『神の国』はキリスト教史上最初の歴史哲学の試みで、政治思想上の重要作でもある。ほかに多数のマニ教、ドナトゥス派、ペラギウス派に対する反駁書がある。
  • 思想のプラトン主義的性格のゆえに、中世における影響は主としてフランシスコ会学派にとどまったが、ルター主義、ジャンセニスムなど近代以降には再興が見られる。
  • 神の実在大論争に折衷案を出し、スコラ哲学を大成した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.01.07更新)




▲西方キリスト教会最大の教父、神学者、哲学者、聖人・聖アウグスティヌス。(カルパッチョ「書斎の聖アウグスティヌス」)

75年9ヶ月と21日の生涯

鈴木義司
Yoshiji Suzuki   【「サンワリ君」の生みの親】

(1928.09.26〜2004.07.17)
悪性リンパ腫---天秤座

  • 「サンワリ君」でユーモアたっぷりに世相を風刺し続けた漫画家。東京都生まれ。
  • 県立川崎高校卒業。都立理工専門学校(現 都立大学)工学部卒業。日本鋼管の就職が決まっていたが、結核の闘病のため取り消しに。ニューヨーカー(特にスタインバーグ)のシニカルなマンガ路線から、漫画家を目指す。
  • 1964年12月15日。日本漫画家協会発足、参加。
  • 1966年6月22日「サンワリ君」連載開始。連載38年、11.240回は、新聞漫画では毎日新聞夕刊に連載された加藤芳郎氏の「まっぴら君」に継ぐ長期記録。
  • 1977年7月2日、お笑いマンガ道場開始。冨永先生との大バトルが開始される。1994年3月24日、お笑いマンガ道場、終了。
  • 2002年、日本漫画家協会漫画賞大賞を受賞。同時受賞は「ゴルゴ13」のさいとうたかを。同年から悪性リンパ腫を患う。2004年5月、悪性リンパ腫悪化のため入院。病院内からサンワリ君を書き下ろすようになる。
  • 2004年7月5日、サンワリ君休載(これが事実上の絶筆となる)。「都合により一時休載」と紙面に説明される。2004年7月17日、午後2時45分、 悪性リンパ腫のため、東京都港区の慈恵医大附属病院で逝去、75歳。
  • 「サンワリ君」の名前の由来は「人生の三割打者を目指すが、結果はいつも三割引き」ということから」(1)。
  • 思えば巨人の堀内恒夫投手がルーキーの年から、監督になった今年まで続いた「サンワリ君」。---「継続は力なり」を思う」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「鈴木義司大先生」
    (2)読売新聞2004.07.22夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2004.07.27更新)




▲「サンワリ君」でユーモアたっぷりに世相を風刺し続けた漫画家。・鈴木義司。

75年10ヶ月と9日の生涯

勝 海舟
Kaisyu Katu   【江戸無血開城の実現者】

(1823.03.12〜1899.01.21=文政6年1月30日〜明治32年1月21日)
風呂上がりにブランデーを飲んで脳溢血---魚座

  • 江戸末期の幕臣、若年寄。のち明治政府の高官。江戸本所亀沢町に生まれ。名は義邦,のち安芳と改名。通称を麟太郎。海舟は号。旗本小普請組勝小吉の長男。
  • 刻苦修行し、のち家塾を開き、蘭学と西洋兵学を教授した。安政2年蕃書翻訳御用出役を命じられ、ついで幕府の長崎海軍伝習生となる。
  • 37歳で咸臨丸を指揮し日本軍艦初の太平洋横断に成功。アメリカ社会を見聞。40歳で神戸海軍操練所設立の許可を得、諸藩士、坂本竜馬ら脱藩浪士の教育にあたる。
  • 彼は先見の明の高い人物で今の時代にはすみやかに諸外国と交流してその文化を吸収し、日本の国を強い国に育てる、ということを持論としていた。
  • 41歳で軍艦奉行となるが同年免職、43歳で復職し征長戦を停戦に導く。鳥羽・伏見の戦ののち海舟は徳川方軍事取扱として東征軍参謀西郷隆盛と会見、江戸無血開城(江戸開城)を実現。
  • 攘夷派から命を狙われることにもなり、暗殺しに来た坂本龍馬を、逆に説き伏せて自分の弟子にしてしまう。
  • 明治維新以後は維新後は参議兼海軍卿、元老院議員、枢密顧問官などを歴任した後、権力闘争からは離れた立場にいて、むしろ悠々自適の日々をおくる。
  • 著書に『海軍歴史』『陸軍歴史』『開国起源』『幕府始末』など多数がある。明治32年、76歳で逝去。
  • 明治32年1月19日、風呂あがりにブランデーを飲み、脳溢血で意識を失い1月21日午後死亡。永眠の際、「コレデオシマイ」と言ったという。
  • 幼いころ、犬に睾丸を噛まれ危篤状態になってから犬嫌いだという。時の海軍大臣の山本権兵衛は海軍省に銅像建立を考えたが、勝がばかにしていたというのでやめたといった逸話もある。
  • 「勝海舟の辞世です。〈結ぶうへにいやはりつめし厚氷春のめぐみに解けてあとなき〉」(5)。
  • 「〈行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉(きよ)は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せず〉――勝海舟の言葉だ。行蔵は出処進退の意。行は世に出て事を行うこと、蔵は世から隠れること。出典は「論語」。江戸の幕臣だった海舟は維新後、明治政府の高官になった。そのことを福沢諭吉が批判したのに対し、海舟は「出処進退は自分が決めること。それについての悪口、称賛は他人の見方で自分には関係ない」と言い切った。論語では、孔子が「時を誤たず、出処進退を決められるのは私とお前(弟子の顔淵)だけだ」と言っている。出処進退の判断はまことに難しい」(6)。
  • 江戸っ子でおしゃべり、「席を譲る物質」をもった愛すべき人物。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「毫も」は少しもの意)『氷川清話』。
    {2)『海舟座談』。
    (3) 読売新聞2004.04.29朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (4) 読売新聞2005.06.19朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (5)投稿者:ユリウスさん 2006.02.22(Wed) 13:16[1094]
    (6)読売新聞2007.09.14夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2007.09.15更新)




▲晩年の勝海舟 。

 

?勝海舟語録?

◆「人はみな、さまざまにその長ずるところ、信ずるところを行えばよいのサ。社会は大きいから、あらゆるものを包容して毫も不都合はない」(1)。

◆「ナニ、誰を見方にしようなどというから間違うのだ」「みんな敵でいい。敵がいないと、事出来ぬ」(2)。

◆「維新後、伯爵に叙せられて自適の余生を送る勝海舟に、ある人が十年後の日本の姿を問うた。勝は答えたという。〈それが分かれば人はおれを、勝伯ではなく勝大明神と呼ぶだろう〉。分からない、と」(3)。

◆「勝海舟は1855年(安政2年)にしたためた書簡の中で、自分の仕事がどれも中途半端であることを嘆いている。「帯には短し、手拭(てぬぐい)には長し、糞(ふん)どしにするは惜し」
---
ことわざの「帯に短し襷(たすき)に長し」を借りた海舟流の言い回しだろう。ふんどしは漢字で「褌」だが、諸説ある語源のなかに「糞通し」説もあるところをみれば、まんざらでたらめな当て字でもないらしい 」(4)。

 

75年10ヶ月と8日の生涯

風見 章
Akira Kazami   【昭和期の政治家】

(1886.02.12〜 1961.12.20)
死因?--水瓶座

  • 立憲民政党、国民同盟、日本社会党に所属の衆議院議員。当選9回。第1次近衛内閣書記官長、第2次近衛内閣司法大臣。
  • 茨城県水海道町高野(現・常総市)の農家に、二男三女の末子として生まれる。1898年、旧制土浦中学校(現 茨城県立土浦第一高等学校)に入学(風見は入学者の中で最も弱年であり、周囲は年上ばかりだったという)。その後、家からの距離が遠かったため下妻中学(現 下妻一高)に転入する。
  • しかし、禁令を無視して野球試合の応援に行き、それをとがめ首謀者の取調べを行なおうとした校長への排斥運動に加わって放校となった。風見は生涯を通してスポーツにはあまり関心はなかったようである。職員たちの官僚的な態度に反発してのことだろう。
  • その後水海道中学(現 水海道一高)に編入。水海道中学では、他校を放校されての編入ということで白眼視されたが、やがてその人柄や学力が認められ友人もできていき、同校の第1回卒業生となった。卒業後早稲田大学高等予科政治経済学部に入学。早稲田大学雄弁会に所属し、そこで中野正剛、緒方竹虎らと親交を持った。
  • 1909年早大を卒業した風見は国際通信などの職を転々とした後、1923年から5年間、信濃毎日新聞主筆として労働者や農民の側に立ったリベラルな意見を発表した。ちなみに、風見が衆議院議員総選挙に出馬したとき主筆の職を受け継いだのは桐生悠々であった。
  • 1928年、茨城3区から総選挙に出馬するも落選。30年に立憲民政党からトップ当選、32年には脱党し国民同盟に参加。 1937年、首相となった近衛文麿は当時全く面識の無かった風見を書記官長に抜擢。風見は日中戦争の終結を目指すが、内閣発足一ヵ月後に盧溝橋事件が勃発した。近衛内閣の不拡大路線は挫折し、和平は実現しないまま内閣総辞職となる。
  • 1940年5月、軍部の力を抑制し中国との戦争を早期に終結させようと、近衛を党首とする新党の結成を目指す新体制運動を、有馬頼寧らと共に開始。近衛がこれに賛同し、7月発足した第2次近衛内閣で風見を司法大臣にした。特に立憲政友会・立憲民政党を2大政党に内紛を惹き起こさせて自主的な解散に追い込む風見の政治工作の手腕ぶり(風見や有馬達はこれを「政党爆破工作」と称した)は、没後に遺族の好意によって歴史学者に公開された『風見章日記』によって知られるようになった。しかし、運動は10月大政翼賛会の結成に至り、風見は12月に大臣を辞任する。書記官長時代に風見が内閣の嘱託に抜擢した、書記官長就任以前からの盟友の尾崎秀実が41年10月にゾルゲ事件で逮捕されるなど政治的に苦境に立たされたこともあり、42年4月の翼賛選挙に出馬せず、その後帰農。
  • 1946年、GHQによって公職追放の処分を受けるが51年に解除。翌年の総選挙に無所属で当選し政界復帰。以後5回連続で当選する。54年1月には憲法擁護国民連合の代表委員となり、翌年1月左派社会党入党、10月の左右社会党統一時に党顧問となる。日ソ、日中国交回復国民会議理事長、アジア・アフリカ連帯委員会代表委員として活躍。
  • 1957年には訪中して周恩来首相(当時)と会談した。また、岸信介内閣の台湾政権支持、長崎市の中国国旗侮辱事件に際し、1958年7月14日、中島健蔵、細川嘉六、伊藤武雄と連名で中国侵略への「反省声明」を発表した。 憲法擁護、日ソ・日中の国交回復などに力を尽くした風見だったが、1959年より体調を崩し、翌年9度目の当選を果たすも、
  • 1961年12月20日に身罷った。享年76(75歳没)
  • 12月22日の衆議院本会議では、冒頭に全議員が1分間の黙祷を行い、弔詞を贈ることを決議し、同郷の赤城宗徳議員が追悼演説を行った。また、風見の危篤の知らせを受けた水海道市議会は12月18日に臨時市議会を開き、名誉市民条例案を満場一致で可決し、その第一号に風見を推戴した
  • 風見章の死後から47年後の2008年2月、生前の彼が認めた日記がみすず書房から刊行されることになり、その史料価値に注目が集まっている。
  • 気品ある書を書く人物でもあり、白洲次郎別邸武相荘の一室には今も風見の「武相荘」の額が飾られている。また、母校水海道一高の校長室には校訓額が飾られている。
  • 著書に『近衛内閣』、『鬼怒川雑記』などがある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    風見章-Wikipedia

(2008.03.18掲載)




▲信濃毎日新聞で主筆を務めたジャーナリストで、近衛文麿首相の側近・風見 章。



◆近衛内閣総辞職の声明を読み上げる風見書記官長(昭和14年1月4日)

75年10ヶ月と10日の生涯

野間 宏
Hiroshi Noma   【『真空地帯』の生みの親】

(1915.02.23〜1991.01.02)
食道癌---魚座

  • 『暗い絵』『真空地帯』で知られる小説家。神戸市生れ。京大仏文科卒。
  • 学生時代の左翼運動と戦争体験から『暗い絵』を書き、第1次戦後派の先頭をきった。
  • 31歳で日本共産党に入党(49歳で除名)、また新日本文学会に入り『人民文学』を編集。
  • 長編『青年の環』『真空地帯』『わが塔はそこに立つ』などのほか、親鸞にかかわる評論、狭山事件の真相追及など被差別部落にかかわる仕事など、その言論活動は多岐にわたる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.12.15掲載)




▲『暗い絵』『真空地帯』で知られる小説家・野間 宏。

75年10ヶ月と23日の生涯

渡辺 謙太郎
Kentaro Watanabe    【名調子のプロ野球実況】

(1930.12.22〜 2006.11.14)
心不全---山羊座

  • 東京都出身のアナウンサー。ラジオ東京→TBSのアナウンサーとしてスポーツ中継、特にプロ野球を担当し、王貞治、長嶋茂雄ら読売ジャイアンツの黄金時代の数多くの名勝負を実況中継を担当してきた。
  • 王のホームラン世界記録・756号を達成した試合(1977年9月3日・ヤクルトスワローズ戦)も実況し、「皆さん、心からおめでとうを言いましょう」とコメントした。
  • 1972年にオリンピックミュンヘン大会開会式の実況を担当。1980年には、早朝ワイド番組「テレビ列島7時」のメインキャスターも担当した。メディア・スタッフ代表取締役会長を経験。
  • フリーに転向後も、TBSとの専属契約の形でプロ野球中継を担当した他、テレビ東京のゴルフ番組「日立・お楽しみゴルフ大学」→「日蔭温子の日立サンデーゴルフ」の司会進行や、プロ野球マスターズリーグの場内解説者なども担当した。
  • 2005年11月には、東京都千代田区体育協会の講演を神奈川県湯河原町千代田荘で行った(当時の副会長・現会長が学友という関係から)。
  • 2006年11月14日午前2時44分、心不全のため、東京都新宿区内の病院にて死去。75歳だった。
  • プロ野球実況中継の名調子は、「謙太郎節」として親しまれた。プロ野球中継のほか、メルボルン、東京、メキシコ、ミュンヘンの4五輪の放送を担当するなど、スポーツ中継で活躍した。
  • 東京都立小石川高等学校を卒業しており主な卒業生には、上田哲、村岡兼造の元職の国会議員をはじめ、小沢一郎、鳩山由紀夫現職の議員、岡野俊一郎日本サッカー協会名誉会長、美田長彦埼玉県三郷市長(元職)、小田嶋隆(コラムニスト)、西尾幹二(評論家)、小林清志(声優)、 加藤剛(俳優)らがいる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄。
    渡辺謙太郎-Wikipedia

(2006.12.18掲載)




▲プロ野球実況中継の名調子は、「謙太郎節」として親しまれた渡辺 謙太郎。

 

75年10ヶ月と27日の生涯

アウグストゥス
Imperator Caesar Divi Filius Augustus   
            【ローマ帝国の初代皇帝】

(BC62.09.23〜AD14.08.19)
死因?---乙女座

  • 騎士身分に属するガイウス・オクタウィウスとガイウス・ユリウス・カエサルの姪アティアの息子として生まれ、ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス (Gaius Octavius Thurinus) と称した。
  • 紀元前44年3月15日にカエサルがブルートゥス、カッシウスらに暗殺され、カエサルにより遺言で彼の養子に指名されていたので、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス (Gaius Julius Caesar Octavianus) を名乗った。
  • 養父のカエサルと比べ、司令官としての才能はさほどないが、比べて政治・内政手腕は養父と同等以上であり、既に機能不全の元老院の動静を注視しながら、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を着実に築き上げた。
  • カエサルの死後、アントニウス、レピドゥスとともに第2回三頭政治を行なった。内乱においては、腹心アグリッパと共に転戦、ブルートゥス、カッシウスらをフィリッピの戦いで、アントニウスとエジプトのクレオパトラ7世の連合軍をアクティウムの海戦でそれぞれ破って、ローマの混乱を平定。
  • 紀元前27年1月16日に元老院よりアウグストゥス(尊厳者)の称号を受ける。 帝政の開始時点に関しては諸説あるが、この称号を送られた日より前、1月13日にアウグストゥスが戦時の非常大権を元老院に返還し、属州の支配を元老院と分け合った時点を開始とする説などがある。以降の帝政ローマの前期は元首政と呼ばれる。
  • 彼はローマの伝統であった対外拡張政策を止め、防衛体制の整備に努めた。 ローマの歴史上初めてとなる常備軍を作り、国境に沿って軍団を配置した。辺境で長い兵役を勤める彼らに報いるために、軍隊の退職金制度を始めた。 北部国境は当初エルベ川とドナウ川にするつもりだったが、紀元9年のトイトブルクの戦いでゲルマン人によって手痛い打撃を受けたためこれを諦め、結局ライン川を国境と定めた。 また、皇帝を護衛する親衛隊を創設し、ローマ市内に3大隊、ローマ市周辺に6大隊を分散配置した。
  • 文化面では、友人であるガイウス・マエケナスを通じてウェルギリウス、ホラティウス、プロペルティウスなどを庇護し、彼の時代にラテン文学は全盛期を迎えた。庇護を受けていなかった詩人としてはオウィディウスがいる。
  • 「塩野七生著「ローマ人の物語」によりますと、アウグストゥスは常設軍を作ったけれど、その実以下のような「軍備削減」を成し遂げて、国家財政の健全化をはかっているのです。
    1 50万人を16万8千人まで縮減。
    2 リストラの名にふさわしい軍事力の再編成」(1)。
  • 「たまさん アウグストゥスの最後の言葉をお供えします。古代ローマの歴史家、スエトニウスによれば、アウグストゥスは、周囲にいた友人達に、〈わたしが人生という風刺喜劇をうまく演じた、ときみたちは思うかい〉とたずね、昔から言い伝えられている次のような二行の詩句をつけ加えたという。『うまくいっているなら 脚本をおほめなさい心からの拍手喝采を願います』」(2)。
  • ---アウグストゥスの最後の言葉、ありがとうございました。最後の言葉にしては、出来すぎた感はありますが、彼のバイボに献花しました。
  • 「たまさん なんせ、古いことなのでよく分かりませんが、アウグストゥスとはそういう男だったらしいのです。塩野七生さんは彼の最晩年を「ローマ人の物語」の中にこう記しています。『アウグストゥス自身は、一年も前からすでに死を予期していた。(中略)後継者へのバトンタッチの準備も、ティベリウスにも自分の持つ特権全てを与えたことで完了していた。自分の葬儀をどう行うかへの指示も書き上げてある。後継者の指名をふくめた遺言状も完成していた。死への準備は、すべて終えていたのだ。』」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アウグストゥス-Wikipedia
    (1)投稿者:ユリウスさん 2006/10/28 19:15:52(土) [423]
    (2)投稿者:ユリウスさん..2007/ 9/19 15:05:55(水) [2368]
    (3)投稿者:ユリウスさん..2007/ 9/21 09:30:17(金) [2371]

(2007.09.21更新)




▲養父のカエサルと比べ、司令官としての才能はさほどないが、比べて政治・内政手腕は養父と同等以上であり、既に機能不全の元老院の動静を注視しながら、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を着実に築き上げたアウグストゥス。

 


◆プリマポルタのアウグストゥス

75年10ヶ月と29日の生涯

夢窓疎石/夢窓國師
Soseki Musou    【相国寺の開山国師】

(1275.11.01〜1351.09.30)
死因?---蠍座

  • 詩や書道にすぐれ、京都五山文学の主流を確立し、最盛期をつくった臨済宗の僧。道号は夢窓。法諱は疎石。 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。
  • 伊勢国で生まれ9歳で出家。奈良の東大寺で仏教経典はもちろん中国の老荘思想などまで修めた。
  • 20歳の時、夢の中で異人に導かれ、疎山と石頭という2つの禅寺に連れて行かれる。この夢をきっかけに禅を修める必要を感じた彼は夢の中に出てきた寺の名前から1字ずつ取って疎石と名乗る。
  • ある時一人で坐禅していた時に眠気に襲われ、そこでしばらく後ろの壁にもたれて寝ようとし、後ろには何もなくそのまま倒れてしまう。思わず大笑いした時、悟りを得たという。
  • 1325年(50歳)後醍醐天皇の勅によって、南禅寺に住し、更に鎌倉の浄智寺、円覚寺に歴住し、甲斐の恵林寺、京都の臨川寺を開く。
  • 1339年(64歳)足利尊氏が後醍醐天皇を弔うために天龍寺を建立すると、開山として招かれ第一祖となり、また、国師は争乱の戦死者のために、尊氏に勧めて全国に安国寺と利生塔を創設。
  • 夢窓は門弟の養成に才能がありその数一万人を超えたといわれる。無極志玄、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津、龍湫周沢、などの禅傑が輩出。
  • 後の五山文学の興隆を生み出し、西芳寺庭園・天龍寺庭園なども彼の作庭であり、造園芸術にも才があり巧みであった。
  • また天龍寺造営資金の捻出のため天龍寺船による中国(元)との貿易も促進した。
  • 後醍醐天皇をはじめ七人の天皇から、夢窓、正覚、心宗、普済、玄猷、仏統、大円国師とし諡号され、「七朝帝師」と称され尊崇された。
  • 夢窓国師は庭園を手がけ、また詩や書道にもすぐれていたが、それも彼にとってその全てが禅の実践だった。
  • 「禅の庭は室町時代初め、無窓国師が完成した。心を磨く修行の場とし、禅の悟りの境地を表現した。西芳寺など国師作の名庭は後世の庭造りの模範となる。---自然を表す庭は心の清らかさを磨く修行の場であり、自分と庭の差別なく一体となって悟りへいたる道であることを示している。平安時代は庭に西方浄土の世界を求めた。無窓国師の庭は鎮魂であり、生死を越えるものであった。庭は他界とめぐり合う聖なる場所なのである」(1)。
  • 「古来より、人は山の静かなることを愛し、智者は水の清らかなることを楽しむと云われているではないか。私が庭を作ったりすることをそんなにとがめたてしないでほしい。私は庭によって、自分の心の清らかさをみがこうとしているのだから」(2)。
  • 「夢窓疎石の最期の言葉をお供えします。夢窓は臨川寺の死の床にあった時、弟子にこう語った。〈それ道に去来生死の相なく また安危治乱の変なし〉(ユリウス訳)〈道と言うものは、人間の去来や生死、世の安全や危険、平和や戦乱などとは関係のない所にある〉平凡ではありますが、そのように思えますなぁ」(3)。
  • ---そのような場所に早いとこ、行ってみたいものでんなぁ
  • 夢窓国師は天竜寺・西芳寺などの庭園を手がけ、また詩や書道にもすぐれていたが、それも彼にとってその全てが禅の実践だった。 わが故郷、山梨県塩山市の恵林寺の庭も夢窓国師の手によるとされる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) (2)日経新聞2004.12.12朝刊「美の美」(河野孝)より抜粋。
    (3)投稿者:ユリウスさん..2009/ 4/12 17:56:36(日) [4587]

(2009.04.13更新)




▲ 臨済宗天龍寺・相国寺の開山国師。


▲無窓国師の像(天龍寺蔵)


▲天龍寺池泉回遊式庭園。池の上の中央の石組みが竜門瀑。鯉が滝をのぼり龍になる姿を現している。

75年11ヶ月と3日の生涯

マイケル・ファラデー
Michel Faraday   【英国の物理学者】

(1791.09.22〜1867.08.25)
死因?---蠍座

  • 英国の物理学者、化学者。鍛冶屋の子に生まれ。電磁誘導を発見、静電容量の単位F(ファラド)の名の由来。
  • 製本見習をしながら独学。H.デービーに見いだされ、1813年彼の助手になり、1833年王立研究所教授。
  • 初め化学を研究し、炭酸ガス・硫化水素・塩素などを液化(1823年)、ベンゼンを発見(1825年)。次いで電磁気の研究に移り、電磁誘導(1831年)、自己誘導、電気分解に関するファラデーの法則、ファラデー効果等を発見、場や力線の概念を導入してマクスウェルの電磁理論の基礎を作った。
  • 研究の記録は『電気学実験研究』にまとめられ、また王立研究所のクリスマス講演『ろうそくの科学』『力と物質』も有名。
  • 「英国の化学者、ファラデーは「ロウソクの科学」に書いている。〈ダイヤモンドの夜の光輝は、それをてらす炎のおかげでしかありません〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 角川文庫

(2005.07.04掲載)




▲ファラデーの法則で知られる英国の物理学者、化学者・マイケル・ファラデー。

75年11ヶ月と24日の生涯

ルー・アンドレアス=サロメ
Lou Andreas-Salome     【 宿命の女】

(1861.02.12〜1937.02.05)
死因?---水瓶座

  • 露、独:作家。帝政ロシアの首都ペテルスブルグに生まれる。ナチスドイツに死んだルーは、生涯ヨーロッパを活動的に動き回った。
  • 父のクズタフ・フォン・サロメは、皇帝に仕える将軍で、国家機密顧問の地位にあった。彼が57歳の時できた女の子で、上には、5人の兄たちがいて、溺愛される。兄たちにかこまれたせいか、女の子の遊びより、男の子の遊びを好み、豪華なドレスにも宝石にもまったく関心をしめさなかった。学校の勉強も彼女には単調で、ものたりなく、彼女の関心のあることは、当時巻き上がっていた、民衆の革命運動や、女性解放運動だった。また、当時、ロシアのインテリの間では仮装結婚なるのが流行していた。これは、肉体関係をぬきして、互いの知的向上を目的とした結婚で、これは、多感なルーに大きな影響を与えた。
  • ルー・アンドレアス・サロメの作品は、日本ではおろか、本国ドイツでもあまり知られていない。それよりルーはむしろ、ニーチェリルケフロイトの友人として、彼らに関連づけて紹介されてきた。
  • 「彼女の特異な人生と並はずれた性質については、誰もが良かれ悪しかれ感嘆の思いを抱く」(1)。
  • 一方、新約聖書中の女性にもサロメがいる。ユダヤ王ヘロデ・アンティパスの後妻ヘロデヤと先夫ヘロデ・ピリポとの間の娘。王とヘロデ・ピリポは兄弟。王の宴席で踊り、その褒美として王とヘロデヤの結婚に反対したバプテスマのヨハネの首を所望してこれを得たという。古来、美術・文学の主題として好まれ、特に世紀末芸術では〈宿命の女(ファム・ファタル)〉の典型として、ワイルドビアズリーG.モロー、ユイスマンス、ヤプルーストらに採り上げられたほか、R.シュトラウスらの音楽作品も多い。
  • 「なお、「ルー・サロメ 善悪の彼岸」という映画が、ドミニク・サンダ主演で1977年に作られている」(2)。
  • 「19世紀後半、当時の精神、文化史に多大な影響を与えた女傑ルー・サロメ。 彼女と大哲学者ニーチェ、そして彼の弟子格であったパウル・レーとの愛と思想の妄執を描いた文芸エロス大作。 三位一体の共同生活が織り成す衝撃の愛の結末とは―。待望のイタリア語完全版がノーカットで遂に日本解禁!。---幻想と退廃渦巻く19世紀末ヨーロッパ、海楽に身をゆだねる日々を送っていたニーチェと、友人パウル・レーは、稀にみる知性と美貌を兼ね備えたルー・サロメに出会う。たちまち虜になった男たちはルーにプロポーズするが、「結婚なんて感情の牢獄よ」といって彼女は結婚を受け入れない。そのかわり、2人の男性と“三位一体”の性活を臨むルーの提案で共に暮らし始める3人。しかし、男たちの嫉妬が沸き起こり彼らは破滅へと導かれていく---」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)H.F.ペータース著「ルー・サロメ 愛と生涯」(筑摩書房)。
    (2)「ルー・サロメゆかりの地。ローマ、チューリヒ ...」
    (3)映画「ルー・サロメ」のパンフより抜粋。

(2006.03.13更新)




▲帝政ロシアの首都ペテルスブルグに生まれ、ナチスドイツに死んだルー・サロメ。


◆映画「ルー・サロメ」
完全ノーカット版
主演:ドミニク・サンダ

 

◆「人生は―実にすべての生は―詩である。日々、一篇一篇、私たちは無意識のうちに詩を生きている。しかし、その侵しがたい全体においては、詩が生たちを生きているのだ」
(サロメ)

75年11ヶ月と25日の生涯

ウゴ・バンセル・スアレス
Hugo Banzer Suarez    【 ボリビアの軍人、独裁者】

(1926.05.10〜2002.05.05)
肺癌---牡牛座

  • 2度ボリビア大統領を務めている。1度目は1971年8月22日から1978年7月21日までの間クーデターにより着任、2度目は1997年8月6日から2001年8月7日までの間公式に選出されて着任。
  • バンセルはドイツ移民の子孫として生まれ、ボリビア・アルゼンチン・ブラジル・アメリカ合衆国の軍学校に通った。合衆国ではテキサス州のフォートウッドにある装甲騎兵隊学校や、パナマ運河(当時、現在は米ジョージア州に所在)のスクール・オブ・ジ・アメリカス(米軍が南米の軍人に、「反乱の鎮圧」として、拷問や殺害の技術を教え訓練する悪名高い施設)に通っていた。
  • 1961年陸軍大佐に昇進。3年後、バンセルの友人であるレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍の元で教育文化大臣に任命される。次第に政治的影響力を強め、ボリビア軍内では右派の勢力となる。また、陸軍士官学校とグアルベルト・ビジャロエル陸軍学校の学長を務め、反ゲリラ闘争に携わった。
  • 1970年10月、右翼クーデターを起こして当時の軍人大統領アルフレッド・オバンド・カンディア将軍を更迭させたが、すぐに左翼のフアン・ホセ・トレス・ゴンサレス将軍による反動クーデターによりひっくり返された。バンセルは国外に逃亡したが、権力への野望は捨てなかった。
  • この失敗の後、1971年8月18日にバンセルはサンタクルス市において革命的な暴動を起こす事に成功し、たくさんの支持者を得てラパス市の首都機能を統制するに至る。3名の連合による軍部暫定政府の一員となり、8月22日には全権を掌握した。その後7年間、軍の最高司令官も兼務する彼は、選挙によらないまま大統領としてボリビアを独裁した。
  • 政治的な対立により、バンセルは1974年に左派政党を解散させ、ボリビア中央労働者連合 (Central Obrera Boliviana: COB)の活動を禁止、さらに大学を閉鎖した。
  • 元大統領のビクトル・パス・エステンソロの政党、民族革命運動党(Movimiento Nacionalista Revolucionario: MNR)(中道右派)と、極右のボリビア社会主義政治結社(Falange Socialista Boliviana)がすぐに支持を表明。
  • 人権団体は、バンセルが任期であった1971年から1978年の間に権力強化を図った結果、数千のボリビア国民が他国に避難を余儀なくされ、3,000人が政治犯として逮捕され、200人が殺害されたと報告した。 (この権力強化は「バンセル化(banzerato)」と呼ばれている。)パス・エステンソロも結局亡命し、エルナン・シレス・スアソ元大統領は逮捕、フアン・ホセ・トレス元大統領は亡命先で暗殺されるという事件が発生する中、1978年に9年ぶりの大統領選挙が実施されるが不正投票疑惑などで選挙は不成立。フアン・ペレダ・アスブン空軍大将によるクーデターによりバンセルは職を失った。
  • 1997年、バンセルは民主的な手続きに則って5年任期の大統領職に復帰。この時は1979年に彼が創設した民族民主行動党(Acci溶 Democrtica Nacionalista: ADN)の党首であった。この前に、1979年、1980年、1985年、1989年、1993年の5回、彼は大統領に立候補したが落選している。
  • バンセルは、前任者であるゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダが進めた民営化路線を修正し、国営企業を取り戻す事を公約。
    また、アメリカ合衆国の後押しによってコカ絶滅作戦と呼ばれるボリビア国内の麻薬一掃計画を進めたが、これは物議をかもした。そもそも、コカ栽培は彼の1期目の任期中に綿花からの転作が進んで大きく増産されたものであった。
  • 1999年末から2000年にかけて、アメリカ合衆国企業に買収されていたコチャバンバの水道会社に対する抗議行動が激化。これは「コチャバンバ水紛争」と呼ばれ、コカ絶滅作戦に反対するチャパレ地域のコカ生産農家のストライキや暴動と合わさって国内は混乱した。結局コカ絶滅作戦は一部撤回され、伝統的な使用のためのコカ葉の栽培や流通が認められる事となる。
  • 2001年に彼は肺癌を患い、8月7日に大統領職を退いて副大統領であるホルヘ・キロガ・ラミレスに道を譲った。2002年5月5日に死亡するまで、彼はADNの党首を務めていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウゴ・バンセル・スアレス-Wikipedia

(2007.06.21更新)




▲2度ボリビア大統領を務めてた軍人、独裁者ウゴ・バンセル・スアレス。





 75歳のエポック!

  • 白井晟一 、1980年(75歳)渋谷区立松涛美術館(75歳)を発表。
(2003.08.17)

70-71-72-73-74-75-76-77-78-79

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人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
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