玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

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age 76


50音インデックス


■76歳の
 シンクロニシティ


■76歳-?←戻る
聖女リタ
鳥山石燕
リートフェルト
唐木順三
宇治山哲平
水戸部アサイ

■76歳-前半-1←戻る
サラ・ヴォーン
井上 光晴
フェリックス・クライン
アインシュタイン
網野善彦
玉置 宏
長谷川一夫
藤岡 琢也
三宅 邦子
坂田三吉
徳川慶喜
グレゴリー・ベイトソン
幸田 延
村山 知義
鳩山一郎
オディロン・ルドン
宮脇 俊三
エリツィン
河井寛次郎
イヴァン・イリイチ

■76歳-前半-2←戻る
T.S.エリオット
アルバート・シュペーア
竹下 登
長谷川良平
エレン・ケイ
ジョージ川口
ジャック・レモン
熊沢寛道
ショパン猪狩
遠藤 実
鈴木 正三
レオンハルト・オイラー
浜尾 新
フランク永井
オーヴィル・ライト
獅子 文六

■76歳-後半-1→進む
出口王仁三郎
コラソン・アキノ
木村尚三郎
加山又造
大庭 みな子
沢田駿吾
子母澤 寛
お葉/佐々木カネヨ
カール・ヒルティ
須藤 貘
岸田 今日子
南田 洋子
ジョセフ・ターナー
小松方正
玄宗皇帝
クララ・シューマン
エルヴィン・ジョーンズ
ロッシーニ
北大路魯山人
オットー・ワーグナー

■76歳-後半-2→進む
山内 一弘
中田喜直
ミュンヒハウゼン男爵
ラグランジュ
西村寿行
広津和郎
山川健次郎
マディー・ウォーターズ
稲垣足穂
シェーンベルグ
三遊亭 圓楽/円楽(五代目)
藤田 まこと
ジョン・H・アップダイク
岡 潔
嵐 寛寿郎
フレデリック・ダネイ
水野 晴郎
戸田茂睡
志村 喬
福田繁雄
ミッキー安川
中川宗淵
熊井 啓
モーリス・ルブラン
ルイ14世
麻生 路郎


■76歳のエポック


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76歳の語録

 

「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているところのものである」
(アインシュタイン)

「もう老人の知恵など聞きたくない。むしろ老人の愚考が聞きたい/不安と狂気に対する老人の恐怖心が」
(T.S.エリオット)

「人生においてもっとも耐え難いのは、悪天候がつづくことでなく、雲一つない日がつづくことにある。」
(カール・ヒルティ)

76年6ヶ月と7日の生涯

出口王仁三郎
Onisaburou Deguchi    【初代大本教主】

(1871.07.12〜1948.01.19)
脳溢血---蟹座

  • 宗教家、神秘思想家、初代大本教主。名前は「わにさぶろう」とも通称。
  • 京都府亀岡在に生まれ,諸種の職業を転々とした後、37歳で大本教の創始者出口なお〔1836-1918〕の娘澄子の婿となり、なおと協力して教義の整備と教線の発展に努めた。
  • 1921年、1935年の大本教弾圧事件で不敬罪に問われ投獄されたが,終戦により免訴。
  • 戦後は大本教を愛善苑として復活し、1952年名称を〈大本〉と改称。本部は綾部市の梅松苑(祭祀の場)と亀岡市の天恩郷(宣教の場)に分かれている。
  • 著書『霊界物語』など多数。 教会・布教所933、信徒数17万2460人(1990)。
  • 「≪幼少時代≫神童・八ツ耳と言われるほど特別な霊能力を持つ。〈幼名・上田喜三郎〉。小作農の家庭に生まれ小学校を中退。農業のかたわら書生やラムネ製造、牛飼いなど辛酸をなめる。≪高熊山での修行≫明治31年(1898)旧2月、郷里の霊山・高熊山にて1週間の霊的修行を行う。霊界の秘奥をきわめ、天眼通、天耳通、天言通、宿命通、自他心通などの高度な霊能力を体得。救世の大使命を自覚」(1)。
  • 「風呂好きのたまさん!こんな歌はどうでっしゃろ?〈ころころと背筋つたいて首の辺に爆発したり風呂の湯の屁は〉出口王仁三郎」(2)。---出口王仁三郎の歌、おおきにです。王仁三郎がこのような歌を捻り出していたとは尻ませんでした。
  • 「たまさんまだ、ありまっせ。後ろの次ぎは前です。昭和10年、大本教は官憲による厳しい弾圧を受けた。そして王仁三郎は検挙された。その時、自分の股間をさして、こうタンカをきった。〈大本教はいじればいじるほど、大きくなる〉このような性的エピソードは山ほどある教祖さまでありました。たまさんは、今度はどんな誤変換をするのかな?」(3)。---そんなん強要されて出るもんやおまへん(自分の股間をさして)。
  • 「王仁三郎が官憲に逮捕された時、自分の股間をさし、「大本教はいじればいじるほど、大きくなる」とタンカを切った。また、刑務所で遊び道具が何もないので退屈し、白昼堂々、一物をだして遊んでいたこともあった。驚いた看守が「何しとる?」と問い詰めると「へエー、つい手もとにああるもんでな」と答えた。この話を獄中で女看守から伝え聞いたすみ夫人は「ウチの先生はむかしから手にあわん人でな、それくらいは朝飯前じゃろ」とケロリとしていたそうです」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「聖師・出口王仁三郎」
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/12/12 09:37:39(火) [644]
    (3)投稿者:ユリウスさん 2006/12/14 00:20:49(木) [655]
    (4)「もの言う翔年

(2008.05.03更新)



▲大本教の創始者・出口なおの娘澄子の婿となり、なおと協力して教義の整備と発展に努めた出口王仁三郎。

76年6ヶ月と7日の生涯

コラソン・アキノ
Corazon Aquino   【マルコス追放の主役/殉教者の妻】

(1933.01.25〜2009.08.01)
結腸癌---水瓶座

  • 元上院議長の夫ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺後、フェルディナンド・マルコス大統領に対抗した。通称はコリー。学歴はマウント・セント・ビンセント大学文学部卒業。学位は文学士(マウント・セント・ビンセント大学)。称号は名誉法学博士(早稲田大学)。
  • 1933年、フィリピンタルラック州(Tarlac)の富裕な華人の家に生まれた。祖先は福建籍の客家である。結婚前の正式名は Mari´a Corazo´n Sumulong Cojuanco。1953年に、アメリカのニューヨーク州のマウント・セント・ビンセント大学を卒業。(フランス語専攻)
  • 1955年、22歳にしてタルラック州コンセプション市長であったベニグノ・アキノ・ジュニアと結婚。夫ベニグノ・アキノ・ジュニアはその後、州知事から上院議員となったが、マルコス大統領と対立し、1980年、アメリカ・ニューヨークに亡命。1983年、マルコス独裁打倒のため帰国したところマニラ国際空港で暗殺され、妻のコラソン・アキノが急速に反マルコス独裁の象徴となっていった。
  • 1986年2月に行われた繰上げ大統領選挙に出馬し、マルコスもアキノも勝利宣言をする。この時、エンリレ国防相やラモス副参謀長ら国軍改革派が決起し、100万の市民がこれを支持して通りを埋め尽くしたため、マルコスは権力を失い、コラソン・アキノが大統領就任を宣言、マルコス夫妻はハワイへの亡命に追い込まれた。これをエドゥサ革命、またはピープル・パワー (people power) と呼ぶ。
  • 大統領在職中はしばしば国軍のクーデター未遂事件が起こった。1991年にピナトゥボ火山が大爆発し、被害は中部ルソン一帯に広がった。同年アメリカ軍のフィリピンからの撤退も決まった。
  • 1992年任期切れで職を去り、1986年の革命で国軍改革派として活躍したフィデル・ラモスが後継となった。その後、日本の三洋電機の社外取締役をしたことがあり、その後は最高顧問を務めたが同社の経営不振のあおりを受けて2007年3月末日で辞任した。
  • 2008年3月に結腸癌であることを公表し、闘病中だったが
  • 2009年8月1日に卒去。76歳没。
  • 家族 :娘にはフィリピンの人気女優のクリス・アキノ(Kris Aquino)がいる。
  • フィリピン共和国大統領先代:フェルディナンド・マルコス(1986年 - 1992年)、次代:フィデル・ラモス

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    コラソン・アキノ-Wikipedia

(2009.08.02更新)



▲フィリピン共和国第11代大統領(在職1986年 - 1992年)コラソン・アキノ。





76年6ヶ月と9日の生涯

木村尚三郎
Syozaburo Kimura
          【「現代社会と中世の類似」の発見者】

(1930.04.01〜2006.10.17 AM9:25)
肝細胞がん ---牡羊座

  • 東京都出身。平城遷都1300年記念事業協会理事長。専門はヨーロッパ史、特に中世フランスの荘園の研究から出発した。中世史の堀米庸三の門下。
  • 1953年 - 東京大学文学部西洋史学科卒業。1958年 - 日本女子大学文学部助教授。1959年 - 東京都立大学法学部助教授。1975年 - 『ヨーロッパとの対話』日本経済新聞社 で、第50回の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。1976年 - 東京大学教養学部教授。
  • フランス中世史・法社会史の研究から出発し、歴史学者の目で見た現代文明論や、音楽・映画批評、料理や生活文化に関するエッセーなどを幅広く手がけた。
  • その後、日欧の比較文明論や文明史に係わるエッセイを新聞雑誌に多数執筆。NHK教育テレビN響アワーの司会を、なかにし礼、芥川也寸志と三人で務め、ヨーロッパ的な洒脱な教養人として知られた。思想的には美と秩序を愛する穏健保守の立場をとった。
  • 1990年 - 東京大学名誉教授。2000年 - 静岡文化芸術大学長。2005年 - 愛知万博で総合プロデューサを務めた他、国民生活審議会長、国土緑化推進機構理事長など多くの公職を歴任し、朝日新聞フォーラム「21世紀の日本」委員会委員も務めた。1998年からトヨタ財団理事長。
  • 集英社の学習漫画 世界の歴史シリーズで知られる。
  • 著書は「歴史の発見」「ヨーロッパとの対話」(日本エッセイスト・クラブ賞)、自らが撮影した写真集「中世の街角で」など多数。97年にNHK放送文化賞を受賞している。
  • 「現代社会を、まるで中世の再現のようだと見る考えがある。---名著『歴史の発見』を手始めとして、明晰な論法で「新しい中世」と呼びうる発想を看破した」(1)。
  • 「万博不要論に対し、木村さんはこう話した。〈ITは首から上を刺激するだけで、全身の喜び、驚き、幸せ感はない。歩く楽しさがあるから人間は旅人であり続けるんです。その面白さを伝えたい〉(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    木村尚三郎-Wikipedia
    (1)読売新聞2006.010.19朝刊「木村尚三郎さんを悼む」(樺山紘一)より抜粋・リライト。
    (2)読売新聞2006.010.30夕刊「MONO語り」(野)より抜粋。

(2009.11.19掲載)


▲西洋史学者、エッセイストで東京大学名誉教授、静岡文化芸術大学学長だった木村尚三郎。



76年6ヶ月と13日の生涯---2009年没後5年

加山又造
Matazou Kayama      【日本画革新の旗手】

(1927.09.24〜2004.04.06 PM10:25)
肺炎---天秤座

  • 日本画家、京都市出身。 
  • 京都市立美術工芸学校を修了し、1944(昭和19)年東京美術学校(現東京芸大)日本画科に入学した。ポスターのデザインなどで学費を補い49年に卒業、山本丘人に師事した。
  • ラスコーの洞窟壁画や、ピカソアンリ・ルソーらにひかれ、西洋美術もどん欲に吸収。横山操、平山郁夫氏とともに戦後の新しい日本画の担い手として注目された。
  • 生家が西陣織の衣装図案業を営んでいたことから一貫して日本の様式美、装飾美を追求。だが、旧来の伝統のままに停滞することを嫌い、現代に生きる様式美の探求に終生力を尽くした。
  • 代表作に「夜桜」「黄山煙雨」などがある。多摩美術大教授、東京芸大教授などを務め、現在東京芸大名誉教授。創画会会員で、80年に芸術選奨文部大臣賞、2003年には文化勲章を受章。
  • 高校時代、ボクが宿坊に泊まってデッサンをしていた身延山久遠寺本堂に、加山又造作の天井画『黒龍』がある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2004.04.09更新)



▲横山操、平山郁夫氏とともに戦後の新しい日本画の担い手として注目された。


▲春秋波涛。


▲凍林。



76年6ヶ月と13日の生涯

大庭 みな子
Minako Ooba     【初めての女性芥川賞選考委員】

(1930.11.11〜 2007.05.24 AM9:14)
腎不全---蠍座

  • 東京都出身。本名・美奈子。海軍軍医の父の転勤で愛知県豊川市、広島県賀茂郡西条町(現東広島市)などで育つ。終戦の年には、被爆後の広島市に救援隊として動員された。
  • 賀茂高等女学校(現広島県立賀茂高校)、岩国高等女学校(現山口県立岩国高校)、津田塾大学学芸学部英文学科卒業。結婚後、夫の勤務の関係で59年から米国に住み、ウィスコンシン大などで学ぶ。
  • 米国に暮らす日本人夫婦を中心に現代人の孤独を描いた「三匹の蟹」で68年、群像新人文学賞と芥川賞を受賞。以来、スキャンダラスな人間関係に文明批評を絡めた作品を発表してきた。
  • 1970年に帰国。とらえどころのない官能や心のうつろい、人間の関係性を、しなやかな感性の文章で表現しようとした小説、エッセーが多い。
  • 1975年、国や社会から一歩距離を置いた人間たちを描いた連作「がらくた博物館」で女流文学賞。
    人間存在の不確かさを追求した「寂兮寥兮(かたちもなく)」で1982年に谷崎潤一郎賞。他の作品に「啼(な)く鳥の」など。
  • 小説からエッセイ・評論など作品多数あり、講談社より『大庭みな子全集』(全10巻)が刊行されている。1987年から1997年まで河野多恵子さんとともに女性では初めての芥川賞選考委員を務めた。
  • 1990年の「津田梅子」では伝記文学に新境地を開き、1996年「赤い満月」で川端康成文学賞を受賞。
  • 1996年に脳梗塞で倒れ、左半身不随で車いす生活になった。リハビリのかたわら、「浦安うた日記」などを口述でまとめた。 闘病中の2003年に刊行した「浦安うた日記」で紫式部文学賞を受賞した。
  • 2007年5月24日午前9時14分、腎不全のため入院先で没した。76歳。
    夫の利雄氏が大庭さんを介護した日々をつづった手記「終わりの蜜月」も話題になった。
  • 「〈浦安うた日記〉――大庭みな子さんの訃報を聞いて、真っ先にこの作品を思い浮かべた。短歌をまじえて、夫との晩年の日々をつづった作品である。〈トシよトシ今ここにトシあればこそナコここにありその余は識(し)らず〉――自分はナコ、夫の利雄さんはトシ。脳梗塞で車いすの身となったナコは、トシに介護された。終の棲家、浦安の日々は〈終わりの蜜月〉だった。車いすを押すトシは毎日、何度か昔々の日記を読んでくれる。ナコはもう前世のような昔の時間を取り戻し、前の世をもう一度ゆっくり生きた。若き日、恋人のトシの家を初めて訪ねた時、ナコはサクラマスの味噌漬(みそづ)けをお土産に持って行った。新潟の家の近くの川に上がったマス。以後トシはその味にとりつかれた。トシの一生の思い出の味はそのマスと、ナコの下宿を初めて訪ねたとき、ナコが作ってくれた餃子。トシはアラスカでサケ、マス釣りに明け暮れた。ナコにはアラスカのサケが生涯忘れられない味。〈行く春や雨にけぶりてサクラマス年月を追い濃き味となる〉。味の濃い76年だった」(1)。
  • 〈この世に生を長らえることで死を深めたくありません。命を断ち新しい芽の中にかたちなく生き続けることにします〉
    〈骨はシトカの海に機会があったら撒いてください〉
    タンスの引き出しから、和紙に毛筆でしたためた「遺書」出てきた。遺品を整理していた夫の利雄さんが見つけた。---「シトカ」は利雄さんの海外赴任に伴い、20代の終わりから10年、みな子さんが住んだアラスカの町。デビュー作「三匹の蟹」も、そこで生まれた。---14歳の時、原爆が投下された直後の広島で被爆者の救護活動に加わり、幾多の死を目の当たりにしたみな子さんは、〈人は一度生まれたら/決して死ぬことはない/誰かが あなたを憶えている〉と書く詩人でもあった」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    大庭みな子-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.05.27夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (2)読売新聞2007.10.02朝刊「文芸」(山内則史)より抜粋。

(2007.10.03更新)



◎死生観映す「不可解な」遺言


▲三匹の蟹」「寂兮寥兮(かたちもなく)」などで知られる作家・大庭 みな子。




76年6ヶ月と18日の生涯

沢田駿吾
Syungo Sawada  【モダン・ジャズ・ギター界の重鎮】

(1930.02.10〜2006.08.28)
肝細胞がん---水瓶座

  • 戦後日本のジャズ・ギタリストの第一人者。愛媛件生まれ。本名・駿五。
  • バンド「ダブルビーツ」を率い、後進を多く育てた。
    日本のモダン・ジャズ・ギター界最大の功労者であり、重鎮でもある。ブルージーなバップ・スタイルが持ち味。
  • 「ジャズを愛した八幡浜市出身のギタリスト沢田駿吾さんが亡くなった。七十六歳。戦後日本のジャズ界を、ずっとリードしてきた方。名誉ある「南里文雄賞」を八年前に受賞したことが、その何よりの証しである。名トランペッターの故南里さんをたたえる賞は秋吉敏子さん、渡辺貞夫さんらが受賞している。沢田さんは受賞後の本紙取材に「ギターは控えめで、『もっと聴きたいのに』と思わせるくらいがちょうどいい」と語っていた。穏やかな人柄がしのばれる。子どものころから、そばにギターがあった。ある日、八幡浜の映画館でミュージカル「姉妹と水兵」を見た。ギター演奏のシーンに魅せられ、奏者の指遣いが見たくて何度も通った。これがミュージシャンを志すきっかけになったそうだ。沢田さんはバンドのリーダーとして、ジャズスクール「ルーツ音楽院」の院長として、後進の育成に情熱を注いだ。ジャズの都の早い復興も願っていただろう。秀でた愛媛出身のジャズギタリストを、しっかり記憶に刻んでおきたい」(1)。
  • 「戦後の日本に於ける、モダン・ジャズ・ギターのスタイルを確立した、ジャズ・ギ ター界の第一人者。 かつて、ベニーグットマンが来日したとき、日本のチャーリー・クリスチャンと呼 ばしめた、そのテクニックとフィーリングは、本格派ギターリストとして注目を集 め、コンサート、ライブハウス等に於いて人気を博した。 1957年には、チコ・ハミルトン楽団の名ギターリスト、デンプシー・ライトに 師事、徹底的にジャズのセオリー、テクニックを叩き込まれる。 1968年以降、ジャズの専門誌、スイングジャーナルの人気投票では、7年間ギ ター部門のポールウイナーに輝き、トッププレーヤーとしての地位を確固たるもの にした。又、演奏だけでなく、音楽教材、理論書の執筆を始め、作編曲も手掛け映 画音楽、TV番組の音楽等も数多く担当、リーダーアルバムも数多くリリース、い ずれも好評を博した。 その他、ナショナル・テクニトーン、ヤマハ・ライト・ミュージック、コンテスト、 浅草音楽祭、吉祥寺音楽祭等於ける音楽審査員、ヤマハ合歓音学院講師等、演奏外 の分野でも活躍、1961年には、太平洋大学特別講師として渡米、国際的にも活躍、 その功績は大きい。 又、最近では、音楽プロデューサーとして、蔵王ジャズフェスティバル、福井ジャ ズフェスティバルなど、多くのフェスティバルに、海外ジャズマン、テレンス・ブ ランチャード、スティーブ・ネルソン、ジョー.ヘンダーソン等のバンドを招請、 いずれも成功をおさめた。 現在では、前田憲男とウインド・ブレーカーズの主要なメンバーとして、又、自ら 率いる沢田駿吾、ニュー・クインテットのリーダーとして、コンサート、レコーデ ィング、ライブハウス等に出演する傍ら、各企業の主催するイベントを始め、ディ ナーコンサート、パーティー等、また、自ら経営するジャズ・スクール、ルーツ音 学院の院長として後輩の指導に当たる等、幅広い分野で活躍している」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)「愛媛新聞社ONLINE
    (2)「ニュース

(2007.06.15掲載)




▲戦後日本のジャズ・ギタリストの第一人者・沢田駿吾。




76年6ヶ月と18日の生涯

子母澤 寛
Kan Shimozawa   【『父子鷹』の生みの親】

(1892.02.01〜1968.07.19=明治25年-昭和43年)
心筋梗塞---水瓶座

  • 北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)出身。本名 梅谷 松太郎。祖父十次郎は江戸の御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れてそのまま北海道に定住した。創価学会第2代会長戸田城聖と同郷で少年期よりの知己である。後に子母澤の出版を戸田の会社が受け持っており、相当数の著作を発表している。
  • 小学校を厚田で学び、中学校は函館、小樽、札幌と転ずる。旧制北海中学校(現北海高等学校)、明治大学法学部卒業。
  • 釧路新聞社、読売新聞、東京日日新聞で新聞記者をするかたわらで、尾佐竹猛らの指導で旧幕臣の聞き書きをまとめ、1928年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版。
  • 1937年(昭和12年)「新撰組始末記」を処女出版し、「国定忠治」により文壇的地歩を確立。また戦後にかけて幕末、江戸の郷愁をこめた「勝海舟」「父子鷹」も注目された。
  • 「勝海舟」はNHKドラマにもなった。 代表作に『勝海舟』など。随筆に『座頭市』のもととなった『ふところ手帖』がある。1962年第10回菊池寛賞。
  • 筆名は居住地の東京市大森区新井宿(現在の東京都大田区中央四丁目)子母沢より。「寛」は語呂がよかったからだという。
  • 「上野の彰義戦にやぶれ、箱館五稜郭にやぶれ、しかも浪の荒れる小漁村に埋れて名も無く朽ち果てた祖父に溺愛され、幼子に寝物語として聞かせてくれた幕末江戸の鮮やかな印象はいつしか作家の心となり、昭和43年7月19日、藤沢鵠沼の自宅、心筋梗塞で死去するまでの作家生活の糧ともなった」(1)。
  • 「この山の上には高く熱い陽があった。時折の風にあおられ、あちこちの線香のけむりが緩やかな渦を巻いて靡びき、遠くに見える山々の稜線に溶け込んでいく。 大森新井宿の子母沢に住んでいたことから筆名にしたとされている子母沢寛は、大正末年から昭和にかけて、新聞記者を勤める傍ら「新撰組」取材のために夜行で行って翌日夜行で帰るという京都通いを精力的につづけたこともあったというが、今はこの霊園の高台にある「梅谷家之墓」で静かに休息している」(2)。
  • 慧光院文宗寛居士として鎌倉霊園に眠る。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    石狩市−厚田ゆかりの著名人 子母沢 寛
    子母澤寛-Wikipedia
    (1)(2)「子母沢寛

(2007.09.13掲載)




▲「新撰組始末記」を処女出版し、「国定忠治」により文壇的地歩を確立。また戦後にかけて幕末、江戸の郷愁をこめた「勝海舟」「父子鷹」も注目された小説家・子母澤 寛。




76年7ヶ月と13日の生涯

お葉/佐々木カネヨ
Oyou    【夢二の愛人】

(1904.3.11〜1980.10.24=明治37年〜昭和55年)
病没---魚座

  • お葉(本名は永井カ子ヨ)は秋田県出身。上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった。
  • 12歳の頃より、画家のモデルを始める。後に近代洋画の巨匠、藤島武二や責め絵画家、伊藤晴雨のモデルもつとめるようになる。
  • 藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に所帯をもつ。大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ。一児をもうけるが夭折。
  • 翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。
  • 秀逸な絵画作品である『黒船屋』はお葉をモデルとした。代表作「黒船屋」を始め、夢二式美人画の源泉となる。
  • 「---13歳で東京美術学校西洋画科教授の藤島武二のモデルのつとめたが、当時の藤島は風景、静物を題材としたものが多かったため、お兼をモデルとして使うことは少なかったが、50歳の藤島は「モデルを育てる」という意識で自分の娘のようなお兼を見守った。14歳の頃には「宮崎モデル紹介所」に登録、3年間伊藤晴雨のモデルをつとめた。15歳の年、「宮崎」を介して夢二のモデルをつとめるようになり、自己の創作に一致したモデルのお兼を見初めた夢二は同棲生活を始める。(夢二は最初の恋人たまきと別れ、第2の恋人彦乃とも別離していた。)夢二はお兼を「お葉」と呼び、「妖精のような可憐さと早くも成熟した女性的な魔性をあわせもった」性格として描き、1925年お葉が夢二のもとを去るまでこの関係が続いた。22歳、夢二の元を去ったお兼は、藤島武二のモデルとして「芳恵(ほうけい)」「半裸婦人像」のモデルをつとめた。傑作として賞賛された絵に自分のすべてを描かれたお兼は画家を触発する感情の高ぶりを失ったのか、以後モデルとして雇われることはなくなった。1927年、大輪善治と結婚するが翌年離婚、1931年、3歳年上の医師 有福精一と再婚、1980年10月、76歳で病没した」(1)。
  • お葉は夢二がつけた愛称。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    竹久夢二-Wikipedia
    (1)「竹久夢二とお葉

(2008.10.24更新)




▲夢二と出会い共に暮らすようになるお葉。

76年7ヶ月と14日の生涯

カール・ヒルティ
Carl Hilty   【『眠られぬ夜のために』の生みの親】

(1833.02.28〜1909.10.12)
死因?---魚座

  • スイス生まれの法学者。ベルン大法学教授、国会議員、軍事裁判所長など歴任。
  • 聖者的人格と博学から生まれた著作は、唯物的な文明進歩の波に酔っている人に警告を与え、弱い人々には慰めを与え、大きな影響を及ぼした。篤学で叡知に富んだ人。
  • 1891-99年『幸福論』、1901年『眠られぬ夜のために』等多くの著書があり、邦訳も多数出ている。
  • 「多すぎる休息は、少なすぎる休息と同じように疲労させる。」
    「人は他人の嘘にたやすく気づくものである。そしてその嘘が自分に都合のよいときだけ信じるのである」      
    「苦しみは人間を強くするか、それとも打ち砕くかである。その人が内に持っている素質に応じてどちらかになる」
    (以上『幸福論』)     
  • 「人生においてもっとも耐え難いのは、悪天候がつづくことでなく、雲一つない日がつづくことにある。」
    「寝床につくとき、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である」  
    「健康で気持ちよい睡眠をとるように心がけよ!よい眠りのあとでは、ものごとは全く違って見え、前の晩には巨人のように重くのしかかっていた困難も、笑って済ますことができるのだ」(以上『眠られぬ夜のために』)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2006.12.15更新)




▲『眠られぬ夜のために』で知られるカール・ヒルティ。


▲幸福論
白水社 (1995-10-10出版)
・ヒルティ,カール【著】
斎藤 栄治【編】
近代スイスの父と仰がれるヒルティの名著『幸福論』全三部のなかから「仕事をするこつ」「時間をつくる方法」「幸福」「人間とは何だろう」「人間知について」「教養とは何か」「高貴なる魂」「二つの幸福」「信仰の勇者」の9篇を収録。平明な注を加えて親しみやすいよう配慮した。



76年7ヶ月と15日の生涯

須藤 貘
Baque Sudo   【夢喰い人】

(1915.01.02〜1992.08.17)
不慮の交通事故死---山羊座

  • 大正4年、山梨県千塚村の富豪の長男に生まれる。祖父良太郎は漢学者として近隣に聞こえが高かった。本名、良清。
  • 1939年(24歳)東京美術学校卒業。卒業制作「浴後」が川端玉章賞。在学中の学内コンクールにおいても「トランプ」が最優秀賞を受けている。この年金沢大一中学に奉職。第二次世界大戦始まる。
  • 1942年(27歳)戦車第十七連隊の伍長として中国大陸、オルドス高原に進駐。「早く日本に帰って絵を描きたい」ともらし「それは夢だ」といわれたのを機に雅号を「貘」とする。
  • 1948年(33歳)甲府第一高校勤務。文化不毛の山梨にひとりでも多くの芸術家を輩出すべく寄与。以降美術部門に幾多の英才を世に出す。
  • 1975年(60歳)教え子120名によって「貘の会」が結成される。
  • 1982年、モンテカルロ現代美術コンクールグランプリ「天平の佳人」が入選。
  • 誕生日の1月2日には、弟子が貘の家に集まって芸術談義やかつての伝説を語り継いだものだった。
  • ある日、我が師・須藤貘は言った。「わかりやすい顔になるな!」。どんな状況で言われたのか詳しい前後の脈略は鮮明に憶えてないが、この貘言葉は、はっきりボクの脳裏に染みこんでいる。たぶん、浪人して芸大に入った学生時代か、卒業して設計事務所に勤め始めた頃、帰省した際のことだったと思う。普段、人生訓めいたことなど言わない貘だから、ボクがよほど、浮ついた“わかりやすい顔”になっていたのだと思う。その甘さみたいなものを貘は喝破した。ボクが貘から受けた唯一最大の叱咤にて、今でもときどき反芻している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2007.02.17更新)



▲文化不毛の地・山梨から、ひとりでも多くの芸術家を輩出すべく寄与した日本画家にして愛すべき教育者・須藤貘。


▲美術部員と「最後の晩餐」のポーズをとる貘。

76年7ヶ月と18日の生涯

岸田 今日子
Kyouko Kishida  【個性派女優】

(1930.04.29〜2006.12.17=昭和5年〜 平成18年)
脳腫瘍による呼吸不全---牡牛座---A型

  • 東京都杉並区出身。立教高等女学校時に長野県に疎開し、46年に東京へ帰って自由学園に入学。自由学園高校卒業。
  • 父は劇作家で文学座創設者の岸田國士(くにお)、母は岸田秋子。姉は詩人で童話作家の岸田衿子、従兄弟は俳優の岸田森。元夫は俳優の仲谷昇。吉行和子、冨士眞奈美は親友。
  • 自由学園在学中に舞台美術に興味を抱き、卒業と同時に裏方として文学座の研修生となるが、その後女優に転じ、1950年に『キティ颱風』で初舞台。1954年、同じ文学座の俳優仲谷昇と結婚。
  • 1960年、三島由紀夫演出の『サロメ』で主役に抜擢されて以降、テアトロン賞を受賞した『陽気な幽霊』をはじめ、数多くの舞台で多くの大役、難役をこなす。
  • 映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、1964年には『砂の女』でブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派舞台女優としての地位を確立した。
  • 1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。
    「劇団雲」を経て、1975年には「演劇集団 円」の設立に参加し、『壊れた風景』、『うしろの正面だあれ』、『トラップ・ストリート』など、別役実作の大半の作品に出演。
  • 1963年、テレビドラマ「男嫌い」で越路吹雪、淡路恵子、横山道代、坂本九などと豪華メンバーでブレイク。当時、同番組は「カワイ子ちゃん」「かもね」「そのようよ」などと、さながら流行語の台風の眼であった。
  • 1978年に離婚。その後もテレビ・映画出演と並行して舞台女優としても第一線で活躍していた。近寄りがたい妖艶さを見せる一方、ユーモラスな役もこなす硬軟自在の演技は若い頃から評価が高い。
  • 人気アニメ『ムーミン』ではムーミンの声を担当。『ムーミン』の仕事を請けたのは、娘に自分の仕事を理解してもらうためだった、と後にトーク番組で語ってもいる。
  • ナレーションでも、他に得がたい存在として、ドキュメンタリーからバラエティまで幅広く起用される。著作も多く、エッセイから翻訳など幅広い分野で健筆を振るった。
  • 特に児童文学、童話については造詣が深く、所属する「演劇集団 円」では、毎年年末にシアターΧで上演される、幼児にも楽しめる舞台「円・こどもステージ」の企画を担当していた。
  • 2002年、ポップシンガーUAのシングル「DOROBON」で詩の朗読に参加。幅広い活動を続けた。多才で「子供にしてあげたお話 してあげなかったお話」など著書は多い。
  • 2006年12月17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去。享年76。
  • 「幼い頃から、とにかくよく眠る人だったようだ。「学校の授業も、半分以上眠っていただろう」。長じて俳句を詠むときには、俳号を「眠女(みんじょ)」にした(岸田今日子『あの季(とき)この季(とき)』知恵の森文庫)。岸田さんが、76歳で亡くなった。睡眠過多症の他に高所恐怖症、方向音痴などを自認していた。ぼんやりとたたずめば、そのとらえどころのないようなところに確かな存在感が宿るという不思議な俳優だった。長い眠りからさめた大きな目には独特の輝きがあり、まなざしは人を現実から別世界へと誘うかのようだった。映画の「砂の女」や「秋刀魚の味」、アニメのムーミン、そして童話の朗読。妖艶さや霊妙さに穏やかさと純真さを備えた独特の声を、ゆったりと転がすようにして演じ分けた。---父は劇作家の岸田国士で、中学2年の時に岸田家で開かれた家族ら4人の句会が初めての句会だったという。〈黒猫の影は動かず紅葉散る〉はその時の一句で、大人びた感性がうかがえる。後年にはこんな句を詠む。〈春雨を髪に含みて人と逢う〉。少女と女とが早くから、そしていつまでも同居していたのかも知れない」(1)。
  • 元夫で俳優の仲谷昇さんも先月の16日に亡くなられていたばかりだった。お慕い申しておりました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    岸田今日子-Wikipedia
    (1)朝日新聞2006.12.22朝刊「天声人語」より抜粋。
    (2)かつて円に所属していた渡辺謙のお別れ会での言葉。

(2007.02.22更新)




▲個性派女優せ声優、童話作家だった岸田 今日子。

 


◆「今日子さんは空気のような存在だった。いなくなった今、酸欠のような状態で、とても苦しい」(2)。

 

76年7ヶ月と20日の生涯

南田 洋子
Youko Minamida       【「太陽の季節」】

(1933.03.01〜 2009.10.21)
くも膜下出血---魚座

  • 茨城県土浦第一高等女学校(現・つくば国際大学高等学校)卒業。夫は長門裕之。義弟は津川雅彦、義妹は朝丘雪路。夫の姪は真由子、従兄弟の娘は山田よう子。血液型A型、身長155cm。
  • 東京市芝区三田に米穀商の娘として生まれる。本名:加藤 洋子、旧姓:北田。母親は日本舞踊の師匠をしていた。終戦後、茨城県土浦市に移り1951年、茨城県土浦第一高等女学校(現・つくば国際大学高等学校)を卒業後、単身上京する。伯父の家に下宿して知人の紹介で水谷八重子に弟子入りする。その後大映にニューフェイスとして入社。同期に若尾文子がいた。翌年1952年の『美女と盗賊』で映画デビュー。
  • 1953年、若尾と共演した『十代の性典』が大ヒットし、注目される。その後シリーズ化され、「性典スター」として人気を博する。1955年、大映から日活に移籍。若尾の進言により、芥川賞を受賞した話題作『太陽の季節』が映画化され長門裕之とともに主演。この映画は大ヒットし2人は日活の看板スターとなり、多くの作品に出演する。1961年に長門と結婚。1963年、『サムライの子』でブルーリボン助演女優賞を受賞。
  • 1964年、長門とともに「人間プロダクション」を設立。太田博之、島かおりなどを育てると同時にドラマ制作にも乗り出す。この時期よりテレビドラマへの出演も多くなり、NHKの『紀ノ川』(1965年)で「日本放送作家協会賞女性演技賞」を受賞。
  • また、俳優としての活動以外にも長門と2人で『ミュージックフェア』の司会を1965年から約16年間担当した。他にも京都放送の交通遺児募金キャンペーン『かたつむり大作戦』のメインパーソナリティーを、20年以上担当するなど多彩な活動をしていた。
  • さらに1978年10月から1979年9月までの約1年間、病気で降板したうつみ宮土理の後を継いで『クイズダービー』の4代目2枠レギュラー解答者としても出演する。しかし洋子の正答率は2割1分7厘(平均2勝7敗ペース)とあまり高くなく、過去の2枠レギュラーの中ではワースト2位だった(ワースト1位は井森美幸の2割0分8厘)。当時の2枠レギュラーはベテラン女優が入っていたが、彼女のみ1枠の篠沢秀夫より1つ年上と当時のレギュラーメンバーの中では最年長であった(篠沢は同年6月生まれと1学年下。大抵は篠沢が最年長)。洋子のレギュラー降板後は、同じくベテラン女優の長山藍子が務める事となる。
  • 建築家の一面も持ち、十数年毎の自宅建て替えの際は洋子が自ら図面を引いていた。建て替えの度に、建設費用の高額さと建て替えまでの期間の短さがワイドショーで取り上げられている。長門は「まだ住めるのに」とインタビューで不満を漏らすことがあったが、「洋子の趣味だから仕方ない」と許容する度量を見せている。
  • 1998年には、舅・沢村國太郎の介護の経験を中心に綴った『介護のあのとき』を出版し評判となる。2004年頃から認知症の症状が表れ始め、ドラマや映画のセリフが覚えられなくなるほど悪化。2006年に芸能活動を引退。専門医によりアルツハイマー病との診断が下された。その後、長門が『徹子の部屋』にゲストで出演した際に、洋子の病状を初めて公表。『報道発 ドキュメンタリ宣言』の第1回放送(2008年11月3日)で長門との闘病の模様が放送されるなど、大きな反響を呼んだ。
  • 2009年4月1日、意識混濁状態となり救急車で都内の病院に緊急入院(同月18日に退院)。長門は記者会見で「混濁した中でも、僕を一瞬認めて笑った気がします」と涙を浮かべながらも気丈に、洋子の状況についてコメントした。同年10月9日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で長門夫妻を取り上げた際には、取材VTRの中で、車椅子姿の洋子が顔なじみのスタッフにねぎらいの言葉を掛ける一幕もあった。
  • 2009年10月17日、クモ膜下出血との診断を受けて都内の病院に再入院。危篤状況が続いていたが、10月21日に意識が戻らず亡くなった。76歳没。
  • 夫の長門は出演中の明治座での舞台演劇の仕事があった為に、妻の最期を看取ることは出来ず、10月21日の夜に「さよならも言わずに…… この世を去りました……」と悲しみの記者会見を執り行った。
  • 「野際陽子さんと並んでかっこいい女性(奥様)だったなあ…。亡くなる直前の映像(私は見ていない)を母が見て「正気に戻っている」と言っていました…。普通だったら元に戻る病状ではないのに…。神様の恩寵だとしてもこんなに急のお別れは辛いです。ご冥福をお祈りします」(1)。
  • 「ほんとにかっこいい女優さんでした。私生活ではいろいろあって苦労されたこともあったけど、それでもそれを感じさせない人でしたね。ご冥福お祈りします」(2)。
  • 冗談みたいな話ですが、ホントの話です。ボクがアラサーの頃、長崎・雲仙へ向かうANAの機中で、スッチーに桑田佳祐に間違われてサインを求められた。(革ジャンにジーンズにサングラスで最後尾の座席だけどエコノミークラスでっせ)ということは、美術解剖学的にいうと、ボクと若い頃の長門裕之は相似律がはたらいていることを意味します。道理で南田洋子がタイプなワケです。
    「ミナミダヨーコ 横浜、横須賀〜♪」(あっ 港のヨーコか!)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    南田洋子-Wikipedia
    (1)投稿者:Miwaさん..2009/10/25 20:11:11(日) [6520]
    (2)投稿者:かものはしかもさん..2009/10/26 09:00:14(月) [6530]

(2009.10.27更新)



▲「おしどり夫婦」で知られた元女優・南田 洋子。

 

76年7ヶ月と26日の生涯

ジョセフ・ターナー
Joseph Mallord William Turner  【空気を描いた画家】

(1775.04.23〜1851.12.19)
死因?---牡牛座

  • 英国の代表的風景画家。ロンドン生れ。幼少時から油絵、水彩画に親しみ、初めプッサン、ロランらの影響のもとに古典的風景画を描いた。
  • 44歳のイタリア旅行後、自由奔放に光と大気の相を追求し、ダイナミックな光の効果を駆使して同時代のコンスタブルと対照的な幻想的・象徴的な画境をひらいた。
  • 代表作『戦艦テメレール』(63歳)、『雨・蒸気・速度:グレート・ウェスタン鉄道』(69歳)など。
  • 1851年12月19日、チェルシーの自宅で亡くなる。遺体は12月30日にセント・ポール寺院に埋葬された。
  • 死後約2万点の作品が国家に遺贈され、ロンドンのテート・ギャラリーに所蔵されている。
  • そういえば、山下達郎の歌にもターナーの絵を歌った曲があったな。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2008.02.16更新)




▲英国の代表的風景画家・ジョセフ・ターナー。


◆ウィリアム・ターナー『ヴェニスの大運河』

76年7ヶ月と28日の生涯

小松方正
Housei Komatsu   【日本最高の悪役】

(1926.11.13〜2003.07.11)
糖尿病による敗血症のため死去---蠍座

  • 名脇役。本名・小松豊茂。大正15年11月13日、長野・松本市生まれ。
  • 終戦直前に海軍に入り、戦後は大蔵省勤務などを経て、中大で法学を学び、卒業した昭和27年に新演劇研究所に入り、演劇活動を開始。
  • 34年に「二十六人の逃亡者」で映画デビュー。翌35年に大島監督の「太陽の墓場」に出演して以来、大島渚監督と独立プロ「創造社」を旗揚げし、「絞死刑」など数多くの大島作品に出演。他にも今村昌平監督「神々の深き欲望」、新藤兼人監督「竹山ひとり旅」、唐十郎監督「仁侠外伝・玄界灘」などで渋い脇役を演じた。
  • 篠田正浩監督「心中天網島」、伊丹十三監督「ミンボーの女」などで、強面としわがれた低音の渋いセリフで悪役として強烈な存在感を示した。一方で日活ロマンポルノにも出演。テレビでは教頭を演じた「熱中時代」などドラマを中心に、バラエティーの「巨泉・前武のゲバゲバ90分!」でも活躍。「モーニングショー」ではリポーターを務め、米ドラマ「事件記者ルー・グラント」では主役の吹き替えなど、声優でも名をはせた。
  • 晩年は病魔との闘いに明け暮れた。昭和57年に映画のロケ中に転んで頭蓋骨にひびが入り、内出血を抑えるための副賢皮質ホルモン注射が原因で糖尿病に。その合併症で腎不全も患い、平成7年には脳梗塞、9年に直腸がん、11年に大腸がん再発と大病の連続だった。人工透析の合間に映画撮影に参加するなど、俳優としての執念も見せた。
  • 趣味の俳句は、週刊誌の選者をするほどの腕前だった。正月には知人にあてた年賀状に、趣味の俳句で「八十路(80歳代)まで朝日を拝む希望かな」と詠むなど、生きる希望を持ち続けていた。
  • 平成13年7月公開の映画「けものがれ、俺らの猿と」が最後の作品となった。
  • 「昔の、ある典型的な日本人の顔を持つ得難い役者だった。元禄時代の人間のえげつなさを、あの声と風ぼうで圧倒的に表現してくれた。せりふで人間をつくり上げていく造形力にも優れ、独特の風格があった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)篠田正浩監督。

(2003.08.17掲載)



▲日本を代表する名脇役・小松方正。



▲「ミンボーの女」

76年8ヶ月ジャストの生涯

玄宗皇帝
Xuan-zong   【唐の第6代皇帝】

(685.08.05〜762.04.05)
死因?---獅子座

  • 中国、唐の第6代皇帝(在位712年―756年)。名は隆基。
  • 韋后を殺して、父の睿宗(えいそう)を位につけ、その譲りを受け即位。
  • 治世の前半は開元の治と呼ばれ、後半の天宝年間に至るまで唐朝の黄金時代を現出(盛唐)。
  • 晩年は楊貴妃を愛し、755年安禄山の乱をまねく。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2003.08.17掲載)




▲中国、唐の第6代皇帝・玄宗。

76年8ヶ月と7日の生涯

クララ・シューマン
Clara Josephine Wieck 【19世紀最高の天才ピアニスト】

(1819.09.13〜1896.05.20)
死因?---乙女座

  • 彼女は、美しくも苦難のロマンスを経て1840年9月12日にローベルト・シューマンの妻となり、終生ローベルト・シューマン、そしてヨハネス・ブラームスの音楽を支えた人物。彼女が実は極めて優れた作曲家であり、多くのピアノ曲、ピアノ協奏曲、室内楽、歌曲を残している。
  • ロマン派を代表する二人の天才、ローベルト・シューマンとヨハネス・ブラームスのふたりの事を理解しようとすれば、クララは欠かすことの出来ない存在。
    ローベルトとクララは夫婦なので当然だが、音楽的にも極めて親密だった。
  • ローベルトの曲の多くは主題や楽想をクララと分かち合っていたし、それ以前にローベルトのインスピレーションの多くがクララへの愛する想いから発せられている。
  • ヨハネス・ブラームスもまたクララとは音楽的に他人ではなかった。ローベルトの没後40年間にわたりブラームスとクララは音楽の上で並の夫婦以上の友。(40年という期間はローベルトとクララがともに過ごせた期間26年よりも長いのです)。
    ブラームスはクララの存命中殆ど全ての作品をクララに見せて意見を求め、クララが納得するまで改訂した物だけを出版した。またブラームスは幾つかの曲でシューマン夫妻の主題を用いてるが、かの名曲、交響曲第一番第一楽章の冒頭はクララのものであるという。
  • シューマン、ブラームスを愛する人にこそ知って欲しい、クララ・ヨゼフィーネ・シューマンです。
  • クララは100ドイツマルク紙幣に印刷された肖像の人物でもある。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「クララ シューマン」より抜粋

(2004.02.03更新)



▲19世紀の天才作曲家ローベルト・シューマン(1810-1856)の妻であり、19世紀最高の天才女性ピアニスト。

76年8ヶ月と9日の生涯

エルヴィン・ジョーンズ
Elvin Jones      【アメリカのドラム奏者】

(1927.09.09〜 2004.05.18)
心臓病---乙女座

  • アメリカ合衆国ミシガン州ポンティアック生まれ。
  • ピアニストのハンク・ジョーンズ、トランペッターのサド・ジョーンズとの3兄弟の末弟として育つ。1940年代後半に軍役に服した後、1950年代前半をデトロイトで活動。
  • 1955年にニューヨークへ移るとマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズらと共演した。
  • 1960年から1966年初頭にかけてジョン・コルトレーンのグループで活躍。複雑なリズムを難なく叩くテクニックで、コルトレーンから「君の代わりはいない」と絶賛された。また、1960年代にはブルーノート・レーベルを中心にウェイン・ショーターやグラント・グリーンらのレコーディングに参加、歴史的名盤を数多く残している。以降、自身のグループ「ジャズ・マシーン」を率いての活動が中心となる。
  • 1966年に来日した際、トラブルによってしばらく帰国できなくなるが、その時に日本人ミュージシャン達から支援を受け、それを機に親日家となる。
  • 妻は日本人のケイコ・ジョーンズで来日の機会も多く、辛島文雄など多くの日本人プレイヤーを、ジャズ・マシーンのメンバーとして迎え入れた。晩年は毎年年始に新宿ピットインで公演を行うのが定番になっていた。
  • 2004年5月18日、心臓病により死去。
  • 「 卒寿を越えて今も現役、今年も東京国際フォーラム等で矍鑠たる演奏を聴かせた、ジョーンズ兄弟の長兄が語る末弟への想いを、とくとご高覧下さい………。こちら」(1)。
  • 「ところで、当サイトに挟み込まれた私の栞には、敬愛する人として菅原正二と言う名を挙げて居ります。と言ってもご存じ無い方は多いでしょうが、タモリに対し「マイルスのペットは泣いてるが、お前のペットは笑ってる」と宣い、彼のミュージシャン人生に引導を渡したと伝えられる、元ハイソのバンマスにしてドラマーです。現在は、岩手県の南の玄関口で有る一関市に於いて、開店以来三十有余年を迎える伝説の喫茶店を経営して居り、彼に必要な人間は自ずと向こうから遣って来ると言う、『イスワル(居座る)教』の教祖でも有りますが、其の一端を某紙地方版に連載中の下記コラムにてどうぞ。こちら」(2)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エルヴィン・ジョーンズ-Wikipedia
    (1)投稿者:Thori_Tung さん..2008/11/ 4 23:19:09(火) [3858]
    (2)投稿者:Thori_Tung さん..2008/11/ 5 09:44:07(水) [3861]

(2008.11.06更新)



▲アメリカのジャズミュージシャンで、ドラム奏者のエルヴィン・ジョーンズ。

▲ピアニストで兄のハンク・ジョーンズ

76年8ヶ月と15日の生涯

ジョアッキーノ・ロッシーニ
Giacchino Antonio Rossini   【イタリアの作曲家】

(1792.02.29〜1868.11.13)
成人病---魚座

  • イタリアの作曲家。イタリア中部のペーザロに生まれ、ボローニャで少年時代を送る。
  • ハイドン、モーツァルトの楽譜で古典派の作曲技法を早々とマスターし、12歳で『弦楽のためのソナタ集』を作曲。ボローニャの音楽学校卒業の年の18歳、ベネチアで最初のオペラが成功をおさめる。以後『セミラーミデ』(31歳)を最後にイタリアを離れるまでに、ミラノ、ベネチア、次いでナポリ、ローマなどで33のオペラを発表。
  • 自在な作曲技巧と色彩的な管弦楽法を駆使し、転換期を迎えていたイタリア・オペラを大胆に刷新し、ドニゼッティとベリーニの登場を促した。『セビリアの理髪師』(24歳)、『シンデレラ』(25歳)などを残したほか、『オテロ』(24歳)、『湖上の美人』(27歳)などオペラ・セーリアの系列にも名作が多い。
  • 32歳でのパリ移住後は『ウィリアム・テル』(37歳)などのフランス語によるオペラを残したが、この作品でオペラの筆を折り、その後は宗教曲、歌曲、ピアノ曲などに円熟の筆致を示した。
  • 没後,ドイツ偏重の音楽史観によっておとしめられたその偉業にあらためて光が当てられたのは、20世紀中葉以降である。
  • 作曲家ロッシーニの生地、イタリアのペーザロでは毎年8月ロッシーニ・オペラ・フェッスティバルが開催されている。
  • 美食家で快楽に溺れたロッシーニは成人病に悩まされた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2005.09.28更新)



▲美食家で知られるイタリアの作曲家・ジョアッキーノ・ロッシーニ。

76年8ヶ月と28日の生涯

北大路魯山人
Rosanjin Kitaouji   【美食家】

(1883.03.23〜1959.12.21)
肝臓ジストマによる肝硬変---牡羊座

  • 京都府京都市上賀茂生まれの芸術家。画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、篆刻家。本名は房次郎。
  • 上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。6歳の時に木版師・福田武造の養子となる。32歳の時に、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰する。
  • 初め日本画を志したが、版下書きとして独立、さらに篆刻、古美術、料理、陶芸に興味をもつ。
  • 美食家としても有名で、38歳で「美食倶楽部」、42歳で東京に会員制の高級料亭「星岡茶寮」を開き、美食家として名をはせた。そこで使用する食器や料理を自ら創作。
  • 44歳北鎌倉に星岡窯を設けて作陶をに専念。
  • 1955年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるが辞退。志野焼、織部陶、信楽焼、唐津焼その他多種にわたる作品は豪快で格調高い。
  • 1959年12月21日、ジストマによる肝硬変のため死去。
  • 「鮎は容姿が美しく、光り輝いているものほど、味も上等。塩焼きの熱い奴をガブッとやるのが香ばしくて最上である」(1)。
  • 「北鎌倉の旧宅を当地に移築された「春風萬里荘」も、茅葺き屋根の葺き替え直後は少々違和感を感じましたが、最近は漸く落ち着いた外観へと変貌した様ですね。こちら」(2)。
  • 時に不遜にして傲慢!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 読売新聞2004.06.01夕刊「よみうり寸評」
    (2)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 9/30 09:36:06(水) [6249]

(2009.10.01更新)



◎稀代の美味探求者!


▲陶芸家、書家、料理研究家・北大路魯山人。
(イラスト 玉野安実)


? 中央公論新社

魯山人語録

◆「和食にまさる美味はなし!」

◆「この世の中を少しずつでも美しくして行きたい。私の仕事は、そのささやかな表れである」

◆「器は料理の着物である」


76年8ヶ月と29日の生涯

オットー・ワーグナー
Otto Wagner     【ウィーン近代精神の草分け】

(1841.07.13〜1918.04.11)
死因?---蟹座

  • ウィーンに生まれる。1863年ウィーン美術学校卒業後、新古典主義建築の中心地であったベルリンの建築アカデミーで学ぶ。
  • 1894年以降、ウィーン美術学校の教授になり、後進を指導。
  • 1899年、ウィーン分離派に参加(1905年脱退)。また、ウィーン環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁(1894-1899年)のほか、ウィーン市の都市計画、公共建築に関る。
  • 1897年、画家クリムトを中心にウィーン分離派が結成されると、ワーグナーの教え子オルブリッヒやヨーゼフ・ホフマンが参加。ワーグナー自身も2年後に参加した。(1905年脱退)
  • 郵便貯金局のガラスで囲まれた中央ホールは近代建築の抽象的な空間を生み出している。しかし、アール・ヌーヴォーの影響を受けた装飾的な作品もあり、過渡期のデザインであることを窺わせる。
  • 「オットー・ワーグナーはウィーン近代精神の草分けで、ウィーンの最も重要な建築家の一人。シュタインホーフ教会や郵便貯金会館など最も有名なワグナー設計の建物、革命的な都市鉄道プロジェクト、モダンな住宅建築。その他に、伝統主義や「田園風景」に対抗する過激な理論家・論客としても知られる。
    「ユーゲントシュティルの建築家、建築芸術家、そして都市理論家であるオットー・ワーグナーは、敵対者が多かったにもかかわらずウィーンで最も人気の高い建築家の一人でした。好戦的な著者として、彼は未来の巨大都市のために急進的なアイディアを、高齢になるまで草案し続けました。
    1898年に一連の都市鉄道施設の駅舎として出来上がったパヴィリオンは、ウィーンのユーゲント様式の模範例とされています。この造型には高級白大理石や、たくさんの金と青リンゴ色の色彩が使われています」(1)。
  • ボクはミラノ以北に足を踏み入れたことがない。パリにもロンドンにも興味がない。だけど、ウィーンには生きてる間に行ってみたい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    建築辞典: 建築[オットー・ワーグナー]
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)「オットー・ワーグナー

(2006.11.02更新)




▲ウィーン近代精神の草分けで、ウィーンの最も重要な建築家の一人・オットー・ワーグナー。


◆シュタインホーフ教会堂(1907年)


◆オットー・ワーグナー・ヴィラ


◆ウィーン郵便貯金局




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(2007.06.03)

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