玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

70-71-72-73-74-75-76-77-78-79

age 76


50音インデックス


■76歳の
 シンクロニシティ


■76歳-?←戻る
クセノフォーン
聖女リタ
里見 義実
狩野 山楽
鳥山石燕
平井加尾
リートフェルト
唐木順三
宇治山哲平
水戸部アサイ

■76歳-前半-1←戻る
サラ・ヴォーン
井上 光晴
多田 富雄
フェリックス・クライン
アインシュタイン
網野善彦
玉置 宏
長谷川一夫
藤岡 琢也
三宅 邦子
坂田三吉
徳川慶喜
グレゴリー・ベイトソン
幸田 延
村山 知義
鳩山一郎
オディロン・ルドン
宮脇 俊三
エリツィン
河井寛次郎
イヴァン・イリイチ

■76歳-前半-2←戻る
T.S.エリオット
アルバート・シュペーア
竹下 登
長谷川良平
エレン・ケイ
ジョージ川口
ジャック・レモン
熊沢寛道
ショパン猪狩
遠藤 実
鈴木 正三
レオンハルト・オイラー
浜尾 新
カーメン・キャバレロ
フランク永井
オーヴィル・ライト
獅子 文六

■76歳-後半-1←戻る
出口王仁三郎
コラソン・アキノ
木村尚三郎
加山又造
大庭 みな子
沢田駿吾
子母澤 寛
お葉/佐々木カネヨ
カール・ヒルティ
須藤 貘
岸田 今日子
南田 洋子
ジョセフ・ターナー
小松方正
玄宗皇帝
クララ・シューマン
エルヴィン・ジョーンズ
ロッシーニ
北大路魯山人
オットー・ワーグナー

■76歳-後半-2
山内 一弘
中田喜直
ミュンヒハウゼン男爵
ラグランジュ
西村寿行
広津和郎
山川健次郎
マディー・ウォーターズ
稲垣足穂
シェーンベルグ
三遊亭 圓楽/円楽(五代目)
藤田 まこと
ジョン・H・アップダイク
岡 潔
嵐 寛寿郎
フレデリック・ダネイ
水野 晴郎
戸田茂睡
志村 喬
福田繁雄
ミッキー安川
中川宗淵
熊井 啓
モーリス・ルブラン
ルイ14世
麻生 路郎


■76歳のエポック


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76歳の語録

 

「教育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているところのものである」
(アインシュタイン)

「もう老人の知恵など聞きたくない。むしろ老人の愚考が聞きたい/不安と狂気に対する老人の恐怖心が」
(T.S.エリオット)

「人生においてもっとも耐え難いのは、悪天候がつづくことでなく、雲一つない日がつづくことにある。」
(カール・ヒルティ)

76年9ヶ月と1日の生涯

山内 一弘
Kazuhiro Yamauchi     【「オールスター男」】

(1932..05.01〜 2009.02.02)
肝不全---牡牛座

  • 愛知県一宮市出身のプロ野球選手・監督・コーチ、実業家。旧名「山内 和弘」(読みは同じ)。愛称は「シュート打ちの名人」「オールスター男」「山さん」「山」。
  • 起工業高校を経て、川島紡績より1952年毎日オリオンズに入団。
  • シュート打ちの名人とも言われ、内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主で、その技術に加えてパワーもあり、田宮謙次郎、榎本喜八などとともに「ミサイル打線」の中軸として活躍。1960年に32本塁打を放ち。本塁打王と打点王を獲得し、パ・リーグMVPを受賞する。首位打者1回、本塁打王2回、打点王は4回獲得。ベストナイン10回受賞。
  • ところが、1964年に「世紀の大トレード」といわれた小山正明との交換トレードが成立し、阪神タイガースに電撃移籍。阪神時代の4年間は、最高が2割6分1厘と振るわなかったが、その野球に取り組む姿勢は次世代の選手には多大なる影響を与えた。
  • 1965年7月4日にプロ野球史上初の300本塁打、1967年10月14日に昭和生まれでは史上初、プロ野球史上では川上哲治に次ぐ2人目の2000本安打を達成する。
  • 1968年、根本陸夫監督に請われ広島東洋カープに移籍。王貞治、長嶋茂雄に次ぐ打率3位の3割1分3厘を放ち、自らの存在感を示し、ここでも山本一義、衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄、三村敏之、井上弘昭、水沼四郎ら数多くの生きた教材として活躍し、1970年、400本塁打まであと4本とせまりながらも現役引退。背番号8は山本浩二に受け継がれる。
  • その後、1971年〜1973年読売ジャイアンツ、1975年〜1977年阪神一軍打撃コーチを経て、1979年〜1981年に古巣ロッテの監督に就任し、1980年前期、1981年前期の優勝を果たすが、惜しくも近鉄バファローズ、日本ハムファイターズにプレーオフで破れる。
  • 1982年〜1983年日本テレビ解説者、1984年〜1986年中日ドラゴンズ監督を務める。
  • 1987年〜1989年巨人一軍打撃コーチ、1991年〜1993年オリックス・ブルーウェーブ一軍ヘッド兼打撃コーチ、1995年阪神打撃コーチ、1996年ヤクルト打撃コーチ、1996年台湾和信鯨(現・中信ホエールズ)打撃コーチを歴任。
  • 2009年2月2日、肝不全のため死去。76歳没。
  • オールスターゲームでは毎年のように快打を放ち、「オールスター男」「お祭り男」「賞金泥棒」などと呼ばれた。
    外野手としての守備も秀逸であり、特にその強肩で、プロ野球最多通算補殺(175補殺)の記録を保持している。
    二塁打を得意とし、通算二塁打記録(448本)は福本豊に破られるまでプロ野球記録で、現在も歴代3位の記録である。
  • 同じく1956年に作ったシーズン47二塁打の記録は42年間破られなかった。また、通算本塁打数も、阪神に移籍した1964年には前年に3本差に迫っていた青田昇を抜いて当時プロ野球記録の293本塁打を記録した。翌1965年には野村克也に抜かれたが、阪神コーチを辞任した1977年まで通算本塁打数上位5人の中に記録されていた。さらに、日刊スポーツによる調査で、1970年に引退するまでに史上最多の39球場で本塁打を放った、日本記録保持者であることが判明した(2008年、現役選手での最多記録は阪神・金本知憲の32球場)。
  • 1960年7月19日に開かれた東映対大毎(駒澤野球場)の試合で、満塁の打席で振り逃げをおこなったところ、相手チームの勘違いからそれが事実上ホームランと同じ結果になった。詳しくは振り逃げ#珍記録を参照。
  • 教え出したら徹底的に指導することから「かっぱえびせん」(カルビーの同名商品のCMキャッチフレーズ「やめられない、止まらない」から)の異名をとった。気が付けば、唾を飛ばせて試合前の相手チームの選手にまで指導してしまう熱の入れようだった。阪神の助っ人選手として活躍したハル・ブリーデンやマイク・ラインバックなどには「阪神が弱くなったのは山内コーチを辞めさせたせいだ」とまで絶賛されている。巨人コーチ時代には報知新聞の付録のプロ野球名鑑のプロフィールの「趣味」欄に「コーチ」と書かれていた。実際に本塁打を打ってベンチに戻った直後の呂明賜にコーチする姿がテレビに映し出された。
  • ロッテ監督時代、ルーキーだった落合博満の打撃指導をしていたが、当時の落合本人の技量では山内の高度な打撃理論を理解できなかった為、「俺のことはほっといてください」と言われる。しかし、1982年三冠王を獲した祝賀パーティの席で「一目見た時からいい打者になれそうな予感があったから指導したんだ、けれどもまさか三冠王を取るバッターになるとは思っても見なかった。」と話す。落合本人も山内の人柄・打撃理論、また指導してくれたことなどに関して、自著で感謝の意を述べている。
  • このように自他ともに認めるコーチのプロであるが、その指導が結果につながらなかったとされるケースもある。広島の臨時コーチ時代、高橋慶彦は更なる高みを目指して山内のレベルスイングを受け入れ思い切った打撃改造に挑み本塁打を増加させた一方で、打率が下降した(ただし、高橋本人はスイング改造との関連を否定している)。またオリックスのヘッドコーチ時代に自分の指導方針に反発するイチロー(当時の登録名は鈴木一朗、現・マリナーズ)を2軍に落とした。
  • コーチ退任後にイチローが独自の振り子打法によって打撃成績を急上昇させたことで山内の判断には批判が寄せられた。
  • 中日監督時代、ランナー一塁の場面で代打のコールを「バッターヒットエンドラン」とコールし、作戦をばらした形となった。
  • 若い頃の上田利治の指導者としての能力を高く買い、根本監督との意見の対立から広島を退団した上田を毎日時代の先輩である阪急の西本幸雄監督に推薦したことでも知られる。
  • 釣りが趣味で、中日監督時代にはシマノの釣竿のラジオCMに出演していた。
  • 2007年3月24日、千葉マリンスタジアムでのロッテの開幕戦(対日本ハム)ではロッテOBを代表して始球式を行った。
  • プロ野球マスターズリーグのチーム、「札幌アンビシャス」の初代監督でもある。
  • 「今日、悲報を聞きました。76歳でした。最近、サイトも開いて元気な姿を見せていたのに…「人セム」では、名球会会員は山内で7人目ですね。大杉、村山、皆川、梶本、稲尾、江藤、そして今回の山内。次々に球界の大先輩が天に召され、ショックでなりません」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    山内一弘-Wikipedia
    (1)投稿者:コミバナさん..2009/ 2/ 5 19:41:51(木) [4248]

(2009.02.07掲載)



▲シュート打ちの名人とも言われ、内外角のボールを左右へ巧みに打ち分けるバットコントロールの持ち主で、その技術に加えてパワーもあり、田宮謙次郎、榎本喜八などとともに「ミサイル打線」の中軸として活躍した山内 一弘。


76年9ヶ月と2日の生涯

中田 喜直
Yoshinao Nakata  【「雪の降るまちを」の生みの親】

(1923.08.01〜2000.05.03)
死因?---獅子座

  • 「夏の思い出」「小さい秋見つけた」「雪の降るまちを」など時を越えて歌い継がれている数々の名曲を生み出した作曲家。東京都生まれ。
  • 1943年に東京音楽学校(現・東京芸大)ピアノ科を卒業。太平洋戦争中は爆撃機を操縦した。戦後作曲活動に入り、作曲家集団「新声会」に所属。
  • 覚えやすく印象的なメロディーで、生涯約2000の曲を世に出した。
  • 中田氏は4月上旬に肺炎を患い入院したが、病床にあっても最後まで作曲活動に取り組んでいた。
  • 「せっかく夏、秋、冬とあって、どうして春の歌を作らないのですか。四季がそろうでしょうに」。「ぼくは父に敬意を表し、春の名曲は書かないのだ」。春は名のみの風の寒さや----。父とは、「早春賦」を作曲した中田章である。季節を迎えるにつけ、父と子が残してくれた旋律を口ずさむ人は多いだろう」(1)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2003.12.31朝刊 「編集手帳」抜粋。

(2004.12.17更新)




▲「夏の思い出」「小さい秋見つけた」「雪の降るまちを」など時を越えて歌い継がれている数々の名曲を生み出した作曲家・中田 喜直。

76年9ヶ月と11日の生涯

ミュンヒハウゼン男爵
Karl Friedrich Hieronymus Freiherr von Muchhausen
   【ほら吹き男爵ことミュンヒハウゼン男爵】

(1720.05.11〜1797.02.22)
死因?---牡牛座

  • ミュンヒハウゼン男爵といえば、通例、『ほら吹き男爵の冒険』の主人公をさすが、架空の人物ではない。『ほら吹き男爵の冒険』の原型は、18世紀のドイツの貴族ミュンヒハウゼン男爵カール・フリードリッヒ・ヒエロニュムスが自身の冒険談として周囲に語ったほら話である。
  • 18世紀のドイツの貴族。ニーダーザクセン州の街ボーデンヴェルダーでミュンヒハウゼン家の第5子として生まれる。15歳のとき、ブラウンシュヴァイク公家に小姓として出仕した。
  • ロシアに移っていたブラウンシュヴァイク公アントン・ウルリッヒ2世は、死亡した小姓の補充をブラウンシュヴァイク公家に求めた。
  • 1737年、ミュンヒハウゼンはウルリッヒに仕えるためロシアに渡るが、1739年、ウルリッヒの元を去り、バイロン公爵夫人の求めに応じてロシア軍騎兵少尉に着任。ウルリッヒは1739年にアンナ・レオポルドヴナと婚姻し、大元帥に就任。1940年、アンナはイヴァン6世を擁して摂政に就任する。
  • この政変の余波で、ミュンヒハウゼンは中尉に昇進。リガに駐屯していたが、1740年および1741年の対オスマン帝国戦には参加している。
  • 1741年12月、政変によりイヴァン6世が廃され、ウルリッヒ2世はアンナとともに幽閉された。ミュンヒハウゼンはその2年前にウルリッヒの元を去っていたため、追求からまぬかれた。
  • 1744年、リヴォニア近郊の町ペルニエルで判事の娘ヤコビン・フォン・デュンテンと結婚。
  • 1750年には大尉に昇進。休暇をとり、妻を伴ってボーデンヴェンダーに帰省した。しかし、母が死に、2人の兄弟が戦死し、ミュンヒハウゼンが家を継ぐことになったため、ロシアにもどることはなかった。1754年、ロシア軍から除籍される。
  • ボーデンヴェルダーでのミュンヒハウゼンは機知に富んだ話術でひろく評判をあつめたが、同時に、実務的な面については誠実な人物とも評されていた。
  • 妻に先立たれた後、1794年に再婚したが不和から離婚に至っている。1797年に没した。子供はない。
  • ミュンヒハウゼンの物語がはじめてまとまった形で出版されたのは1781年のことだが、著者は不明。英語版が出版されたのは1785年のことで、著者はルドルフ・エリック・ラスペである。Baron Munchhausen's Narrative of his Marvellous Travels and Campaigns in Russia がその時の題名だが、The Surprising Adventures of Baron Munchhausen とも呼ばれた。しかし、そのユーモラスな物語の中にはミュンヒハウゼン以外の出典から拝借したものも少なくない。実際、周囲からミュンヒハウゼン自身に対して遠慮深いという評価があったとはいえなかったこともあり、ラスペの出版はむしろミュンヒハウゼンの評判を落とす結果となった。
  • ミュンヒハウゼン症候群:周囲の同情や関心を集めるために病気を装ったり自傷したりする精神疾患をミュンヒハウゼン症候群というが、これはミュンヒハウゼンがほら話で周囲の関心を集めたことにちなんでつけられた病名である。
  • ブートストラップ:ミュンヒハウゼンのトリレンマとはものごとの確実な根拠が得られることはないのではないかという問題提起である。ミュンヒハウゼン男爵が自分の髪を引っ張りあげることで底なし沼から脱出したエピソードから名づけられた。上記のエピソードは、版によっては、髪ではなくブーツの紐を引っ張りあげたことになっている。コンピュータ用語のブートストラップの由来はこのエピソードといわれるが、出典は定かでない。
  • 「バロン (映画):『バロン』(The Adventure of Baron Munchausen) は、1989年のテリー・ギリアム監督による映画。日本での公開は1989年6月。原作は『ほら吹き男爵の冒険』。カール・フリードリヒ・ヒエロニムス・フォン・ミュンヒハウゼン(1720-1797)男爵はミュンヒハウゼン症候群の語源にもなった実在の人物であるが、超人的な能力を持った豪傑たちを従えた奇想天外な冒険物語は本人、或いは民間の様々な脚色によって形成されたもの。代表的な物は同時代の作家ルドルフ・エーリヒ・ラスペ(1737-1794)とゴットフリート・ビュルガー(1747-1794)による。ドイツの民話として語り継がれ、サイレント時代から何度も映画化されている」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ミュンヒハウゼン男爵-Wikipedia
    (1)「出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(2007.01.26掲載)




▲ミュンヒハウゼン男爵として知られる18世紀のドイツの貴族カール・フリードリッヒ・ヒエロニュムス。
◆『ヒエロニュムス・フォン・ミュンヒハウゼン』(作者未詳、ミュンヒハウゼン博物館)


◆ミュンヒハウゼン男爵、ドレによる挿絵

76年9ヶ月と16日の生涯

ラグランジュ
Lagrange   【ラグランジェポイントの発見者】

(1736.06.25〜1813.04.10)
死因?---蟹座

  • フランスの数学者。イタリアのトリノでフランスとイタリアの血をひく裕福な家庭にうまれる 。
  • 家族が期待していた騎兵隊の隊長にならず学者になった。(ロピタル もそうだけどこの時代は 騎兵隊が人気があった )
  • 1766年フリードリヒ大王に招かれベルリン科学アカデミー数学部長。1787年パリに移り、1790年メートル法制定委員会委員長。1795年エコール・ポリテクニク初代学長。
  • 等周問題の研究から変分学の基礎を築き、整数論、微分方程式、楕円関数、不変式論等多方面な業績があり、また一般化座標を導入してラグランジュの運動方程式を立て、《解析力学》(1788年)で力学の新発展の基礎を築いた。三体問題や音響学の研究もある。
  • 「ラグランジュの経歴で変わっているのフランス革命のとき 「度量衡制度改革委員会」の委員長となり、「メートル法」 制定を行なったことである。 皆さん知っていると思いますが、「赤道と北極との間の距離の千万分の一として1メートルを定義した」(1)。
  • 三体問題:万有引力の法則にしたがって運動する3個の質点の運動を研究する問題。一般には2物体の場合のような厳密な解は得られず,3物体が正三角形の頂点の位置にあるときや,一直線上にあるとき等特殊な場合についてだけ解かれている。また三体問題の研究は微分方程式,変分学,位相幾何学などの発展に影響を与えた」。
  • LAGRANGE POINT:フランスの数学者・天文学者のジョゼフ=ルイ・ラグランジュが、1772年に制限三体問題の解として求めたもの。主星と従星の公転面に、無視できるほど小さい質量の衛星を配置すると安定する場所を「ラグランジュポイント」と言い、L1からL5まで5つの解がある。L1からL3までは、主星と従星を結ぶ直線状にあり、直線解と呼ばれる。L4とL5は、主星・従星を1辺とする正三角形の頂点として、第3の天体の質量にほとんど関係なく位置が求められ、正三角形解と呼ばれる。1969年、当時アメリカプリンストン大学教授ジェラルド・オニール博士らは、スペースコロニーを提唱。主星・地球と、従星・月の重力バランスが取れた点、「ラグランジェポイント」に、円筒状の居住地区を円周方向に回転させ、遠心力で重力を得る事の出来る人口の居住地をつくり、地球上と変わらない生活をおくる事が出来るという構想。人類の増加とそれによる資源の枯渇から注目されていたが、冷戦時代の終結とそれによる宇宙開発競争の終結、宇宙開発費の削減、先進国の出生率の低下から、宇宙開発プロジェクトとして具体化されていない。多くのSF作品の舞台として採用されているが、1979年、富野由悠季(当時富野喜幸)監督作品「機動戦士ガンダム」で採用されたことで有名。「機動戦士ガンダム」において、ラグランジェポイントに設置されたスペースコロニー群を「サイド」と呼ぶ。ひとつのスペースコロニーを「バンチ」と呼び、複数のバンチでひとつのサイドが形成される」(2)。
  • ボクは「機動戦士ガンダム」世代でないので「バンチ」も「サイド」も知らなかった。その世代ならば必ずハマっていただろう。よかった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「授業に登場した数学者たち」
    (1)「Lagrange」
    (2)「Lagrange Point >LAGRANGE POINTとは?」

(2004.12.17掲載)




▲フランス革命のとき 「度量衡制度改革委員会」の委員長となり、「メートル法」 制定を行なったことで知られるラグランジュ。


◆ラグランジェポイント図解

76年9ヶ月と20日の生涯

西村 寿行
Juko Nishimura   【バイオレンス・ロマンの巨匠】

(1930.11.03〜 2007.08.23)
肝不全---蠍座

  • 香川県高松市男木島生れ。西村望(作家)は実兄にあたる。本名読みとしゆき(国会図書館では「にしむらとしゆき」となっている)。
  • 満州馬賊でもあった父を持つ。少年時代は、南洋一郎の小説やターザン映画を愛好したほか、漢詩も読んでいた。作品の題名が漢詩調なのはその影響だとされている。
  • 旧制中学を卒業後、新聞記者、タクシー運転手、小料理屋、業界紙記者など20近い職種を経験した。
  • 1969年に動物小説「犬鷲」で第35回オール読物新人賞佳作となりデビュー。1971年にノンフィクション『世界新動物記』、1973年に処女長編小説『瀬戸内殺人海流』を出版。動物小説、社会派ミステリー、ハードサスペンス、ポリティカルフィクション、パニック小説など幅広い作品でベストセラー作家となる。
  • 1979年には長者番付の作家部門1位となり、1980年代もベスト10上位に名を連ねた。また同時代の人気作家である半村良、森村誠一とともに「三村」などとも呼ばれた。冒険小説、ハードボイルドに分類されることもある。
  • 趣味として狩猟は、南アルプスで猟師同然の生活を行っていた時期もあるほどで、野生動物の生態についての知識や、「人間より犬が好きだ」と公言するほどの猟犬に対する格別の愛情を有する。これらが元となって多くの動物小説を書き、また他の作品においても大いに生かされている。
  • 狩猟は1967年に止め、狩猟禁止論者となったが、その思想は、現金39億5千万円強奪事件に端を発して国家規模の狩猟全面禁止運動に発展して行く『濫觴の宴』にも表されている。自然愛護の姿勢とともに、故郷のある瀬戸内海などの海に対する思いも強く、スキューバ・ダイビングを趣味としていたこともある。飼っていた猟犬についてのエッセイ「我が猟犬ちー子」は、短編集『妖魔』に収められている。
  • 菜食主義者である一方で極度の酒好きでもあり、バーボン・ウイスキーのアーリータイムスを毎晩ボトル半本分飲む生活を続けていた。そのため、毎日の執筆は二日酔いで始まっていたという。
  • 1993年春から下咽頭癌で加療、退院後の12月に転倒して右手首粉砕骨折し翌3月まで入院、この1年間は執筆が中断した。
  • 作品の題材についての徹底した調査には定評があり、1本の小説を書くにあたって、積み上げて最低1メートルにはなる資料を読み尽くして赤ペンでチェックし、京大式と呼ばれるカードに分類整理するなどの方法を取っている。ブラジルとボリビアを舞台にした『炎の大地』には、ブラジル在住20年の日本人が「どうしてこんなことまで知っているんだ」と唸ったという。
  • また医療業界の内情に詳しく、ミステリやサスペンス小説での業界の腐敗の描写に説得力を与えている。銃や兵器にも詳しく、ヘリコプターをヘリコと略すのも独特。
  • 文体は断定調の短いセンテンスの多用に特徴があり、人物の決断力を際立たせる効果とともに、ストーリー展開のスピード感をもたらしている。 その文体は初期の夢枕獏など、多くの作家に影響を与えている。
  • 2007年8月23日、肝不全のため東京都内の病院で死去。享年76歳。
  • 大胆な暴力描写を盛り込んだ復讐劇は「ハードロマン」と呼ばれて多くの読者を獲得。医療問題などを扱った社会派作品から時代小説まで幅広く執筆し、森村誠一さん、半村良さんらとともに70−80年代を代表する人気作家となった。
  • 「咆哮は消えた」などで直木賞候補。「君よ−」が高倉健さん主演で映画になるなど、映像化された作品も多い。
  • ジャンルは動物小説、社会派ミステリ、パニック小説、 ハードロマン、ポリティカルフィクション、伝奇・幻想など多岐にわたる。人気作品はシリーズ化しており、以下がある。死神シリーズ(鷲シリーズ、中郷・伊能コンビ)、鯱シリーズ(国際冒険アクション小説) 、渚シリーズ 、峠シリーズ、幻戯シリーズ(雷四郎シリーズ) 、無頼船シリーズなどがある
  • シリーズ作品:多くの作品に共通して登場する人物に、警察庁刑事局捜査第一課特別処理係長である徳田左近がいる。迷宮入りとなりそうな事件の捜査を請け負って、全国各地を飛び回る役どころで、ミステリ、サスペンスの中短編に登場することが多い。長編では『コロポックルの河』に登場。各作品のストーリーのつながりは無い。「ケイブンシャノベルス 刑事徳田左近シリーズ」と題した単行本として『濁流は逝く者の如し』『禁呪』『幻獣』、他に『幻の白い犬を見た』『妖魔』『憑神』『衄られた寒月』、短編で「幽鬼犬」(『幽鬼犬』)など。祖父に習った九鬼神流の杖術の使い手。
  • 大の愛犬家であり、犬が登場して活躍する小説も多い。動物の生態に詳しく、しばしば事件解決の思わぬヒントとなる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    西村寿行-Wikipedia
    西村寿行とは - はてなダイアリー

(2007.08.30掲載)




▲「君よ憤怒の河を渉れ」などのバイオレンス小説や動物小説で多くのベストセラーを生んだ作家・西村 寿行。

76年9ヶ月と16日の生涯

広津和郎
Kazuo Hirotsu   【「松川裁判」への批判的関与】

(1891.12.05〜1968.09.21=明治24年〜昭和43年
死因?---射手座

  • 東京牛込で生まれる。父親は明治の代表的小説家、広津柳浪。柳浪の次男。
  • 大正2年早稲田大学英文科を卒業。在学中「奇蹟」同人となる。総合誌「洪水以降」の批評欄を担当、評論で注目される。また、モーパッサンチェーホフなどの翻訳に携わる。
  • 小説家としては、大正6年(26歳)、性格破産者を扱った『神経病時代』で認められる。
  • 大正12年(32歳)、『武者小路実篤 全集』の出版を目的に芸術社を起こすが、極端に凝った造本で採算が合わなくなり失敗に終わる。その時に抱えた負債を返済するために大森書房を設立するが、またもや失敗。多額の負債を背負う。
  • しかし、その後の「円本ブーム」で波に乗り、負債は無事返済。文筆活動だけにとどまらず、商業活動も含め、社会に広く関わっていくのが広津の特徴。
  • 昭和26年(60歳)、カミュの『異邦人』を巡って中村光夫と論争。
  • 昭和30年(64歳)、『松川裁判』を刊行。松川裁判闘争において中心的な役割を果す。
  • 戦後の広津和郎を強く特徴づけるのは、「松川裁判」への批判的関与約10年以上にわたり、粘り強くこの問題にかかわり続けた彼の姿勢は、「自由と責任」という終生のテーマに帰着する。
  • 主な著作には,『風雨強かるべし』『松川裁判』『年月のあしおと』などがある。
  • 東京の谷中霊園に眠る。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む
    早稲田と文学(広津和郎)

(2006.04.02掲載)




▲文筆活動だけにとどまらず、商業活動も含め、社会に広く関わった小説家・評論家、広津和郎。

76年9ヶ月と24日の生涯

山川健次郎
Kenjirou Yamakawa   【白虎隊士で東京帝国大学総長】

(1854.09.09〜1931.07.03)
死因?---乙女座

  • 白虎隊士から東京帝国大学総長になった山川健次郎。会津藩家老職の家に生まれる。日新館に学び仏語を修得。戊辰戦争の時は年少のため編入された白虎隊を除隊。
  • 戦後猪苗代で謹慎中に脱走し新潟で漢学、佐渡・東京で英語・数学を学んだ。
  • 明治4年に渡米、エール大学で物理学の学位を得て、明治34年東京帝大総長、のち九大、京都帝大総長、貴族院議員などを経て男爵となる。
  • 戊辰戦争での会津藩の奮闘ぶりは、白虎隊などでよく知られている。しかし、維新後、賊軍の運命は悲惨であった。健次郎は「長州藩は勤王倒幕、会津藩は勤王佐幕」として、「京都守護職始末」や「会津戊辰戦史」を編集、維新史上で四面楚歌だった会津藩の立場を明らかにした。
  • 田中舘愛橘や長岡反太郎らを育て、日本の物理学会を領導し東京だけでなく京都・九州の帝大総長を歴任、多くの学校の創設や改革に携わった。
  • 会津の誇りと反骨精神に充ちた気骨ある明治人。留学先のエール大学での猛烈な勉学、研究者・教育者としての清廉潔白さ。命は自分だけのものではないことを、あの鶴ヶ城の戦闘から学んだのだろう。維新をくぐり抜けた人間のスケールの大きさ
  • 「山川健次郎(のちの東京帝国大学総長)という米国帰りの若い物理学者がいて,開成学校(この年の4月に東京大学と改称)の教授補をつとめていた。山川は旧会津藩士で,白虎隊に年齢が足りなかったこともあって入隊せず,のちに北海道開拓使からえらばれて米国エール大学に留学した。この明治10年で,かぞえて24歳である。「山川という若い学者は,会津人に人望がある」ということを岩倉(具視)がきき,開成学校に使者を出して会うことを求めた。山川は会津藩をいじめぬいたこの時代の政治家を好まず,理由を構え,参上しなかった。しかし相手が再度使いをよこして要請が執拗だったためやむなく岩倉の屋敷を訪ねたところ,岩倉がいったことは、「山川君にとくに要請するのだが,陸軍少佐になって会津で兵を募り,薩摩征伐に行ってもらいたい」ということだった。山川はあきれてしまい,言下に断わって門を出た。東京が孤立しつつあるという恐怖と戦慄がなければ,岩倉もこういうことをいわなかったであろう」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)司馬遼太郎著「翔ぶが如く」文春文庫版第九巻「警視隊」。

(2005.03.08掲載)



▲白虎隊士から東京帝国大学総長になった山川健次郎。

76年9ヶ月25の生涯

マディー・ウォーターズ
Muddy Waters    【シカゴ・ブルースの立役者】

(1915.04.04〜1992.01.29)
死因?---牡羊座

  • ミシシッピー州のローリングフォークで生まれる。ミシシッピーからシカゴに出てきたマディーは、工場で働きながらプロになるチャンスを待っていた。マディーは、初めからプロのミュージシャンを目指してシカゴに出た。
  • 彼には自信があった。そして、マディーは思い通りプロにる。しかも「キング・オブ・シカゴ・ブルーズ」となった。
  • 1947年、マディーの2作目の作品「アイ・キャント・ビー・サティスファィド」は最初の彼のヒット曲。1作目のブルーバード調の「ジプシー・ウーマン」とは違い、エレキ化された完全無欠の「ミシシッピー・デルタ・ブルーズ」だった。
  • 太平洋戦争による北部の軍需産業の人手不足から多くの南部の黒人がシカゴにやってきており、マディーのブルーズは彼らによって大歓迎された。彼らにとっては、以前の洗練されたシティ・ブルーズは物足りなかったはずだ。よりビートの利いた、ロック(縦揺れ)してロール(横揺れ)するマディーのブルーズ。
  • 多くのミュージシャンに多大な影響を与え続けた。エレクトリック・ブルースを確立し、現在のバンド体型を確実なものにのし上げた。
  • 「オレはお前に服を洗って欲しいわけじゃない/オレはお前に家にいてほしいわけじゃない/金が目当てってわけでもないんだ/オレはお前とやりたいだけなんだ/ただお前とやりたいだけなんだ(I just want to make love to you.)このストレートなブルーズを初めて聴いたとき、本当にスゲエと思った。ブルーズ特有の比喩的な表現もない。ハープ(ウォルター・ホートン)、ギター(ジミー・ロジャース)、ドラム(エルガー・エドモンズ)の演奏をバックに、ただストレートに「お前とやりたいだけ」と力強く歌うブルーズマン。それがマディ・ウォーターズだった。それまでずっと聴いていたカントリー・ブルーズマンとはまったく違う、ブルーズマン(黒人)としての誇りや自信みたいなものをマディーのブルーズに感じた。マディーは、ベースやドラムの重厚なバックに電気を通したハープや攻撃的なボトルネック・ギターをからめて、エモーショナルなリズム&ブルーズを作りだす。それは誰も真似のできない、マディ独特の世界だ」(1)。
  • 「ところでチェスとマディーについては、有名な後日談があります。1960年代に入り、英国ではブルースマンたちの曲をカバーするロック・バンドが次々に登場し、その中から現れたローリング・ストーンズは、アメリカを訪れチェス・レーベルと契約を結びました。契約のためにシカゴのチェス本社を訪れたストーンズのメンバーは、そこで驚くべき光景を目にしました。それはあのマディー・ウォーターズがチェス本社の内壁にペンキを塗っている姿でした。その当時、ブルースの本場アメリカでは、ブルースはすでに過去の音楽になっており、マディーのような大物がアルバイトをしていたのでした。かつて、マディーは、ブルースの研究家アラン・ローマックスによって発見され、その20年後、再び英国のブルースバンド、ローリング・ストーンズによって再発見されたのです」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「マディーウォーターズ
    (2)「- エレクトリック・ダンス・ミュージックの時代へ -

(2006.04.07掲載)




▲1950年〜1960年代、ロック前世紀から現在でも元祖といわれるマディー・ウォーターズ。


◆ゴット・マイ・モジョ・ワーキング 〜マディー・ウォーターズ (DVD)
20世紀後半のポップス・カルチャーを大胆に変えた革命児。ソロ演奏が主体であったブルースに、エレクトリック楽器を持ち込み、グループ演奏によるアンサンブルによって表現領域を発展させ、聴衆を大いに魅了した。ピアノ、ブルースハープ(ハモニカ)、ドラムスほか、グループの各メンバーの演奏技術も高く評価されている。

76年9ヶ月と29日の生涯

稲垣足穂
Taruho Inagaki   【わが概念の師】

(1900.12.26〜1977.10.25)
結腸癌---山羊座

  • 『一千一秒物語』で知られる小説家。大阪船場の生れ。
  • 父は歯科医師を開業。10歳以上年上の姉と、赤ん坊の時に亡くなった兄がいた。関西学院中等部卒。明石に住んだ少年時代が異国趣味の原風景になる。
  • 23歳で『一千一秒物語』を処女出版、26歳で新感覚派の『文芸時代』、また『虚無思想』の同人となり、反リアリズムの「タルホ世界」を確立。また美少年的なるものへの関心を深化させた。
  • 機械、飛行機、星と月を愛し、宇宙論、A感覚を語る「エッセイ的小説、小説的エッセイ」は三島由紀夫をして「昭和のもっとも微妙な花のひとつ」と言わしめた。
  • 『文芸時代』廃刊後は次第に文壇から遠ざかった。戦後、『弥勒』(46歳)、『A感覚とV感覚』(54歳)などを発表。
  • 1950年、篠原志代と結婚、京都に移る。それまでの著作の改稿を始め、『作家』に160編など精力的に作品を発表。佐藤没後の1968年、三島由紀夫の後押しで『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞。1969年から『稲垣足穂大全』(全6巻)が刊行され、一種の「タルホ」ブームが起きる。
  • 1977年10月25日、結腸癌で入院していた病院で急性肺炎を併発し、死去。享年76。
  • 「---むしろ官能の歓びは断念にあると悟ったほうが足穂の真意に沿っていよう」(渋澤龍彦)。
  • 渋澤龍彦は『夢の宇宙誌』のあとがきで、永遠を呼吸して生きているタルホを「わが魔道の先達」と呼んだ。
  • 稲垣タルホの最大の愛読者は稲垣タルホだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2008.05.05更新)


◎やらざるエロス

▲『一千一秒物語』『少年愛の美学』で知られる小説家 ・稲垣足穂。

 

タルホ語録

◆「自殺は二十歳前に済ませておけ」

◆「ボクの作品が理解されるのは2、3世紀後だろう」

◆「男が本当にやりたいことをやるときは、無償のことをやるもんや」。

76年10ヶ月ジャストの生涯

アルノルト・シェーンベルグ
Arnold Schoenberg   【革新的な伝統主義者】

(1874.09.13〜1951.07.13)
喘息発作---乙女座

  • オーストリアの作曲家。 アメリカに帰化した際、ドイツの政策に嫌気が指して綴りをドイツ語式のSch嗜bergから英語式のSchoenbergに改めた。ドイツ語や英名の読み方を知らない者からは「スコエンバーグ」、「スコエンベルグ」などと呼ばれることもあった。
  • 父シャームエル・シェーンベルク は代々ハンガリーのノーグラード県セーチェーニに住むユダヤ人で、靴屋を営んでいた。母パウリーネ・ナーホト もプラハ出身のユダヤ人。
    ユダヤ人の長男としてウィーンに生まれる。初めはカトリックのキリスト教徒として育てられる。8歳よりヴァイオリンを習い始める。その後チェロを独学で学ぶ。
  • 15歳の時、父が亡くなり、経済的に立ち行かなくなった彼は、地元の私立銀行に勤め始め、夜間に音楽の勉強を続けていた。
    余りにも前衛的な態度の為ウィーンを追い出されベルリン芸大の教授に任命される時プロテスタントのキリスト教徒に改宗、その後ナチのユダヤ政策に反対して1933年、ユダヤ教に再改宗。
  • 初期は「ペレアスとメリザンド」や「浄められた夜」など、後期ロマン主義の作品を書いていたが、その著しい半音階主義からやがて調性を放棄し、新しい方法論を模索するようになる。
    室内交響曲第1番はロマン派の大規模な管弦楽編成からあえて室内オーケストラを選び、4度を基本とした和声を主軸とした高度なポリフォニーによる作品となっている。これ以降、彼の実験は更に深められ、次第に調性の放棄=無調による作品を志向するようになっていく。
  • 「グレの歌」はそうした彼の変革の時代を象徴する作品で、1900年から書き始め、1910年に完成した力作である。
    1909年に書かれた「3つのピアノ曲」Op.11や「5つの管弦楽のための小品」Op.16、モノドラマ「期待」Op.17では、多少調性の香りを残していたが、無調へと大きく踏み出して、様々な実験を試みていった。そして「6つの小さなピアノ曲」Op.19で、調性をほぼ完全に放棄するに至った。この実験から傑作歌曲集「ピエロ・リュネール」が生まれる。
  • 1910年代後半、シェーンベルクは未完に終わった「ヤコブの梯子」という大作に挑む。同じ頃、弟子のベルクは歌劇「ヴォツェック」Op.7を完成する。シェーンベルクらと始めた無調主義による傑作オペラの登場である。無調主義が次第に市民権を持ちはじめると共に、無調という方法に、調性に代わる方法論の確立の必要性を考えるようになっていった。それが12音音楽であった。
  • 重複しない12音を平等に使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。
  • ただし、12音の音列による作曲法はシェーンベルクの独創とは言えない。ウィーンの同僚であったヨーゼフ・マティアス・ハウアーが、シェーンベルクより十年ほど前にトローペと言われる12音の音列による作曲法を考案している。
  • 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツから逃れてアメリカに移住する。移住後も南カリフォルニア大学(USC)とカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて教育活動を精力的に行い、弟子にはジョン・ケージ、ルー・ハリソンなど、アメリカ現代音楽を代表する作曲家も含まれる。
  • USCにはリサイタルホールを擁するアーノルド・シェーンバーグ研究所(Arnold Schoenberg Institute)があり、UCLAには彼の生前の功績をたたえ、記念講堂が建造されている。
  • 移住後は、自分の無調性や十二音技法に不安感を覚え「室内交響曲第2番」などの調性音楽も作曲した。また、他界する直前まで合唱曲「現代詩篇」を作曲していたが、未完に終った。戦後始まった第一回ダルムシュタット夏季現代音楽講習会からも講師として招待されたが、重い病気の為キャンセルした。
  • 1951年7月13日、喘息発作の為、ロサンゼルスにて他界。
  • 第2次世界大戦の際、ナチス・ドイツに追われ、フランス経由で、アメリカに移住したが、そこにいたもう一人の天才、ストラビンスキー とは仲が非常に悪かったらしい。
  • 1921年に「12音技法」を確立し、現代音楽に多大な影響をもたらした。その時彼は「これでドイツ音楽の100年間の世界的優位を保てるぞ!」と豪語したという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    アルノルト・シェーンベルク-Wikipedia

(2007.09.06更新)




▲20世紀を代表する作曲家の一人 で調性を脱し無調音楽に入り12音技法を創始したことで知られるアルノルト・シェーンベルグ。

76年10ヶ月ジャストの生涯

三遊亭 圓楽/円楽(五代目)
Enraku Sanyuutei -V     
         【古典落語の名手/「笑点」の司会者】

(1932.12.29〜2009.10.29)
肺癌---山羊座---AB型

  • 本名 吉河 寛海。出生地:東京府東京市浅草区(現:東京都台東区)生家である易行院はかつて浅草の清川町にあったが後に足立区伊興(現在の住所上は東伊興、最寄駅は東武伊勢崎線竹の塚駅)に移転しており、圓楽自身も長くこの地に住んでいる。埼玉県立杉戸農業高等学校卒業。身長177cmと長身。
  • 若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、端整な顔立ちと博識振りで1960年代の演芸ブームの際脚光を浴びた。
  • 7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「四天王」と呼ばれた。出囃子は『元禄花見踊り』。
  • 幼い頃は病弱で腎炎、結核との闘病を経験する。腎臓の病はその後も水面下で進行し66歳の時に腎不全を発症。以後は週3回の人工透析を受けるようになる。
  • 生まれ育った寺には***行僧や使用人など年上の男性と一緒に住んでいた為、自分の父親がどの人か分かったのは5歳ぐらいだった。食事時の無作法をたしなめられて初めてわかったという。
  • 東京大空襲にあったが家族は一命をとりとめ、終戦後は「これからは食糧難だから農業だ」ということで父親の薦めで埼玉県立杉戸農業高等学校に入学し、後に卒業している。
  • 上野鈴本演芸場で落語を見た時に「戦時中は暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせる事が出来る落語は凄い」と落語家になる事を決意する。
  • 6代目三遊亭圓生に入門する際に「一人前になるまで50年は食えませんよ」と言われたが、圓楽は「30歳までに真打になれなかったら辞めます」と言って入門した。実際に圓楽は30歳を迎える約3ヶ月前に真打昇進した。
  • 落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩み、ストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ、自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるとなんとかスランプを脱出。
  • のちにそれをネタにして若き自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが、師匠などから「二つ目の分際で名人とは生意気でげす」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更。
  • 「星の王子さま」時代のキャラについては「テレビに出たら、今まで寄席で自分がタブーとしていたことを全部やってやろうと思って」自らが意図的に演じたキャラだったと『いつみても波瀾万丈』出演時に語っていた。ちなみに圓楽がタブーとしていた事の一つは「キザになってはいけない」ことだそうである。なお、圓楽を除く圓楽一門の落語家が所属する芸能事務所『星企画』の名はこの「星の王子さま」に由来している。
  • 師匠の厳命により1977年に「タレント廃業宣言」をするまで落語に全力を注ぐことはなかった。タレント廃業宣言は徹底したもので、『笑点』含む全レギュラー出演から降板し(1983年に司会者として『笑点』に復帰した後もテレビのレギュラー番組は原則『笑点』以外に持たなかった)。6代目圓生・圓楽らはその翌年落語協会分裂騒動を起こす。
  • 麻雀の腕前はプロ級である。行きつけの雀荘は旧日本テレビ本社ビル近く・二番町にある「サラブレッド」。これが故で、馬面も相成って弟子の楽太郎や『笑点』で共演していた歌丸に馬扱いされる事があった(「馬刺し」→「圓楽スライス」、馬頭観音、「黒圓楽の師匠は馬圓楽」など)。
  • 鳥取城攻防戦で有名な吉川経家の末裔を自称している。
  • 本人が後に語ったところによると、1978年の落語協会分裂騒動で師匠圓生と行動を共にしたのは「師匠をおいて残れない」という理由から。圓楽は6代目圓生に「あたしが引退した後、お前が三遊派の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)
  • 立川談志は「嫌い」と公言しているが、本当の意味での仲違いはしていない模様(と言うよりも、笑点開始以前から続く「悪友」関係とされる)。圓楽が本当に嫌っていたのは談志の師匠・5代目柳家小さんであったとされる(上述の分裂騒動時の落語協会会長であったため)。ただし分裂騒動時の小さんの行動について圓楽は一定の理解も示している上、小さんが会長に就任した直後に圓楽が「10年以上二つ目にとどまっている噺家達を真打に昇進させるべきだ」と小さんに進言もしている。
  • 東京都江東区東陽町に自費で寄席「若竹」を設置。「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動場として用意したつもりであったが弟子達はその意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して肝心の「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これを憤った圓楽は遂に「若竹」の閉鎖を決意。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。
  • 二つ目の全生時代、火事場に余興に行って「『全焼』じゃシャレにならない」として断られたことがある。だが逆に、大相撲の春日山部屋を訪問した時は「全勝」で縁起がいいと歓迎された。
  • 自身の証言によれば、3代目圓楽でありその名跡を持つ8代目林家正蔵は師匠圓生と最後までそりが合わなかったとされるが一方で圓楽は気に入られていたため、5代目圓楽を襲名させたとされる。なお8代目正蔵の自伝では「圓生が名前をくれというので襲名させた。『くれ』と言われりゃやらない訳にもいかない」といった表現になっている。
  • かなり以前より実家の寺院へ自身の墓を生前建立していた(いわゆる「寿陵」)。自他共に認めるせっかちな性格もあり、他人の作った墓に入るよりは自身で早く作ってしまおうと考えたため自分の墓を建立したとのこと。楽太郎に6代目圓楽を継がせることについても、死んでから誰か解らないものに襲名させるよりは自分が健在であるうちに決めてしまおうというと言う意向から林家木久扇が子息に2代目木久蔵を襲名させたのに続く生前贈与になったとのこと。
  • 2009年(平成21年)10月29日(午前8時15分) - 肺癌により東京都中野区の自宅にて死去。
  • 笑点は『歌丸やこん平ともに第1回放送からのメンバーである。1977年3月27日に落語に専念するため番組を卒業したが、1982年12月8日に当時の司会であった三波伸介の急死に伴い1983年1月9日から司会者として番組に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたという(このためか司会就任後しばらくは様々な紋付を着ており、徐々に紺の色紋付に定着する)。
  • 大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんどやらなかった。23年間司会を務めながらその間に新加入した大喜利メンバーは三遊亭小遊三と林家たい平の2人だけ。1988年に弟子の三遊亭好楽が復帰してからはたい平が加入するまで16年間メンバーチェンジなしで通した。
  • 後任司会者の歌丸曰く「圓楽さんに逆らえる人間は落語界にはいない」とまで言われ、好楽・楽太郎ら弟子はもちろん他の落語家からも尊敬されているが「司会がうまい」などと揶揄されることもある。蛇足だが落語家に向かって「司会がうまい」と言うのは純粋な褒め言葉ではなく、裏に「落語は司会ほどうまくない」という含みがある。
  • 5代目圓楽は2010年に予定されている楽太郎の6代目圓楽襲名を楽しみにしており、襲名に際し2代の圓楽揃い踏みが行われるはずであったが、叶わない夢となってしまった。
  • 「円楽さんが76歳で亡くなった。売れることの喜びと怖さと、ともに肌身で知り抜いた人である。刻みの深い人生観を底に沈め、晴朗な口跡で聴かせてくれた「藪(やぶ)入り」や「厩(うまや)火事」が懐かしい」(1)。
  • 「教わったことがある。「○○とかけて××ととく」の謎かけは、本来2つの言葉がかかってなければならない。「ウグイスとかけて弔い行列ととく。そのこころは、ナクナクウメニイク」という具合に。こんな蘊蓄話も懐かしい。落語界は大切な噺家の弔いを出さねばならなくなった」(2)。
  • 「子供の頃、父親と毎週日曜の夕方、笑点をみていた事を思い出しました。たしか私はその後の番組が楽しみだったような・・・笑い声とやさしい笑顔が印象的でした」(3)。
  • 「笑点では、三遊亭楽太郎とのやりとりが印象的でした。楽さんの「お〜いそこの野次馬!」「馬は黙ってろ」「HORSE(牡馬)」という解答、円楽師匠の「(ポスト円楽の座を狙う)何て腹黒い奴だ」と、表で罵り合っていましたが、そこからある種の「師弟愛」というものを感じ取りました。来年にはその楽さんが「六代目・三遊亭円楽」を襲名しますが、その記念式典を待たずして円楽師匠が他界されるなんて…病気のせいといえ、やりきれない気持ちになります」(4)。
  • 「昨年亡くなった五代目三遊亭円楽さんが小学生の頃という。道で近所のおじさんに頭をポカリとやられた。おじさんは黙って通り過ぎ、わけが分からない。『圓楽芸談しゃれ噺』(白夜書房)に書いている。あとで父親が言った。「お前、ぶたれたろ?」。知っている人には“こんにちは”と挨拶するものだ。鏑木さんはお前に憎まれてでも、それを教えようとしてくれた。お礼を言いなさい」(5)。
  • 山羊座 である。馬ではない!(そんな星座はないか)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    三遊亭圓楽 (5代目)-Wikipedia
    (1) 読売新聞2009.10.31朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (2)日経新聞2009.10.31日刊「春秋」より抜粋。
    (3)投稿者:Jさん..2009/11/ 3 23:57:35(火) [6602]
    (4)投稿者:コミバナさん..2009/11/11 04:44:46(水) [6635]
    (5)読売新聞2010.08.07朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2010.08.11更新)



▲かつて演芸番組『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を務めていた事で知られる三遊亭 圓楽/円楽(五代目)。


▲三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である(ちなみに『笑点』では「丸に桔梗」を使用していた)。


▲立川談志・三遊亭円楽対談=1978(昭和53)年10月6日、新宿厚生年金小ホール

圓楽語録語録

「〈あなたは泥棒だ(男)〉
〈何もとってないけど(女)〉
〈ボクの心を奪い取った(男)〉」
( 星の王子様・圓楽 )

 

76年10ヶ月と4日生涯

藤田 まこと
Makoto Fujita     【芸に生きた遊び人】

(1933.04.13〜2010.02.17AM:7.25)
大動脈瘤破裂---牡羊座

  • 東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区)生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校卒業。
  • オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、個人事務所の新演技座に所属した。本名は原田 眞(はらだ まこと)。血液型はB型。身長174cm。 自宅は大阪府箕面市。
  • 無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎を父に持つ。藤間は現在の大阪府東大阪市にあった帝国キネマの撮影所を拠点に活動していたが、同撮影所が火災で閉鎖されたことから東京府東京市池袋(現・東京都豊島区池袋)に移り、藤田はそこで生を受けた。兄は太平洋戦争に出征、海軍で戦没している。
  • 東京で幼少期を過ごした後京都へ移り、京都市立堀川高校卒業後、ディック・ミネを師匠格とし歌手として芸能界へ入る。その後、中田ダイマルのかばん持ちをしながら声帯模写、歌謡物真似、漫談や司会の仕事を行っていた。1957年、大阪テレビ放送(現・ABC)で放送された、中田ダイマル・ラケット、森光子主演のテレビドラマ『ダイラケのびっくり捕物帖』にレギュラー出演したことをきっかけに、コメディアンとして活動を始める。
  • 1961年には、ABC制作の全国ネットのコメディ『スチャラカ社員』にレギュラー出演し、長谷百合演じる事務員を「長谷くーん」と呼びながら追いかけるギャグで人気を得た。
  • 1962年、ABC制作のコメディ『てなもんや三度笠』に、主人公・あんかけの時次郎役で出演。白木みのるや財津一郎との掛け合いや、「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」などのギャグで全国区の人気を得て、上方のお笑いを全国に波及させるきっかけを作った藤山寛美・大村崑と共に、関西喜劇の王様と呼ばれた。
  • 『てなもんやシリーズ』の終了後は、キャバレーでの公演やコメディ番組へのゲスト出演が中心となり、しばらく不遇の時代が続いたが、1973年、『必殺仕置人』(ABC)の中村主水役に抜擢され、それまでのコミカルなイメージと、それを180度反転させるシリアスな演技の混合で好評を博した。
  • これ以降の必殺シリーズにも中村主水役で出演し続け、「家や職場ではただの風采の上がらない"昼行灯"とけなされる中年男だが、裏の顔は悪を闇に葬る剣の達人」という、世のサラリーマンの理想像とも言えるキャラクターを演じ抜いた。藤田も「中村主水がなければ今の自分はなかった」と語っており、このシリーズは自他共に認める藤田の代表作となった。
  • また『てなもんやシリーズ』終了後に苦労した経験から、必殺シリーズでの成功以後もイメージが固定しないよう、『夫婦旅日記 さらば浪人』など様々な役に挑戦を続けた。
  • 1979年に始まった土曜ワイド劇場『京都殺人案内』(ABC)シリーズは、同劇場中で主人公の演者が交代することなく続く最長のシリーズとなった。
  • 1988年、テレビ朝日『はぐれ刑事純情派』に安浦刑事役で主演。温和で人情に厚いベテラン刑事という、今まで演じたことのなかった役柄が人気を呼び、ドラマもシリーズ化、あんかけの時次郎・中村主水に次ぐ当たり役となった。これ以降も『剣客商売』(フジテレビ)などに出演して人気を博し、晩年は演技派俳優としての評価も高かった。一方で、『愛のエプロン』など、バラエティ番組にも積極的に出演した。
  • 2006年11月4月にはフジテレビの『仕掛人・藤枝梅安』で音羽の半右衛門を演じ、翌2007年7月7日にはテレビ朝日系列の『必殺仕事人2007』で再び中村主水を演じた。
  • 2008年4月に食道癌が判明し、6月の明治座『剣客商売』の舞台公演を降板し入院加療を行ったが、10月下旬より復帰、ABC・テレビ朝日系時代劇『必殺仕事人2009』に中村主水役でレギュラー出演した。2009年10月期の『JIN-仁-』(TBS系)にも新門辰五郎役で出演予定であったが、慢性閉塞性肺疾患により降板となった。
  • 2010年2月16日、箕面市の自宅で夕食後の午後9時頃に突然、吐血し、吹田市の大阪大学医学部付属病院に搬送。翌17日午前7時25分、大動脈瘤破裂のため死去。享年78(満76歳没)。1月には体調の回復もあってナレーションの仕事で復帰しており、3月の完全復帰を予定して、再始動した矢先の急死だったという。
  • 藤田は生まれこそ東京であったが、幼少時からの育ちが関西であった為、国民的俳優になって東京での仕事が増えてからも、「東京は忙しすぎる。じっくりできる大阪が性にあっている」と亡くなるまで大阪を離れることはなかった。
  • 『ダイラケのびっくり捕物帖』で俳優活動を始めた頃の藤田は、「立ち回りどころか刀の差し方も知らない有様で、袴の片方に両足を入れていた」という(当時のフロアディレクター談)。また、当時は芝居の実力も伴っておらず、演じている与力の自宅の縁側で、少しせりふをしゃべるだけという出番に終始したという。但し、親譲りの二枚目でテレビ映りが良く、鬘を付けた姿も様になっていた事が、その後の成功につながった。
  • 『てなもんや三度笠』への出演に当たっては、スタッフ側から「他のレギュラー番組を全て降板すること」を条件にされたという。これは同番組の演出を担当した澤田隆治曰く「『てなもんや』で主役を張っている人物が他の番組で端役を務めていたら(この頃の藤田はテレビレギュラーでもまだ端役が多かった)、タレントの格としておかしなことになるし、視聴者も違和感を抱く」との理由から出された条件であったが、まだ全国区の人気を得ていなかった藤田にとって大きな賭けでもあった。
  • この結果、藤田は当時週8本あったレギュラー番組を全て降板して、『てなもんや』一本に賭けることとなった。しかし、さすがに全ての番組を円満に降板するというわけにはいかず、テレビ局によっては怒りを買い、かなり後になるまで藤田を一切起用しなかったところもあったという。
  • 1980年代、妻が事業に失敗したことで、40億円とも言われる借金を背負い込んでいたが、『主水御殿』と呼ばれた豊中市の自宅を売却したり、無休で精力的に俳優業を行うといった地道な活動が功を奏し、現在は借金を完済している。
  • しかし、この借金について、藤田の妻に対して融資していた大阪市内の金融業者(経営破綻済)の破産管財人が、藤田夫妻に対して、貸付金3億円の支払いを求め訴訟を起こした。藤田は「妻が勝手に印章を捺した」、「この業者は違法な高金利で貸し付けていた」などと主張したが受け入れられず、大阪地裁は2009年9月7日に、藤田夫妻全面敗訴の判決を言い渡した。
  • 莫大な借金を抱えていた時期、娘の縁談がまとまり、結婚式が開かれることになった。その席に、招待していないはずの債権者が祝儀を手に駆けつけ、藤田はその様子を見て涙が止まらなかったという。また、債権者は、自ら色々なテレビ局などに藤田のことを売り込んでいたとされている。
  • 「てなもんやの時次郎、恐妻家の中村主水、純情派の安浦刑事、池波作品の秋山小兵衛…。当たり役が示す通りの庶民派、人情派で、幅広い層に愛され、年を重ねた後も大舞台での座長公演ができる人だった。
  • 人気役者だった父の関係で、東京生まれながらも大阪や京都で暮らすことが多かった。役者の血は争えず、酒や女を求めて夜の街へ繰り出すことが多く、大阪の盛り場では「北の(南都)雄二か、ミナミのまこと、東西南北藤山寛美」と呼ばれた遊び人だった。そうした時代のエピソードを、本紙「わたしの失敗」のインタビューでおもしろおかしく話してもらった。落語家の笑福亭松鶴さんと茶番劇のような趣向でクラブのママを驚かせた話は、格別に楽しかった。古き良き時代の上方芸人ならではの実体験。それが喜劇でのしぐさや映画、テレビでの役の造形に直接、生きていると確信した。その一方で、劇作家の菊田一夫さんとの苦い思い出も口にした。〈森光子さんの相手役を探そうと、ぼくに目をつけて大阪に来られた。それを知らないで、梅田コマ劇場の楽屋でポーカーをしていたんですよ。『藤田くん、いるか』といわれたのに『おーい、ちょっと待って。いまダメだ』と応えてしまった。あのとき、正面を向いていたら、ぼくの人生も変わっていたかもしれません〉」(1)。
  • 「十三の夜/藤田まこと:梅田離れて なかつを過ぎりゃ 想い出捨てた 十三よ ………此の歌を、最早生では聴けないのかと思うと残念至極ですが、何故か大阪がお似合いだった彼を、リクエストしたいと思いますので、宜しくお願いします」(2)。
  • 「さっきネットのニュースで知りました。必殺仕事人の中村主水やはぐれ刑事等かっこいい役されてましたね。こんなに早く逝くとは思いませんでした。ご冥福お祈りします」(3)。
  • 「各界からも其の急逝を惜しむ声の中、早速取り上げて頂きまして、誠に有り難うございました。さて、各TV局に於いても追悼番組が目白押しですが、どうしても役者としての彼にスポットを当てて仕舞い勝ちな中で、異彩を放つ関西ローカル制作の番組が明日再放送される予定ですが、矢張りハイライトを成すと思われるのは、此の曲でしょうか。
     呼んでおくれよ 幸せを 銀杏は手品師 老いたピエロ 
    「公園の手品師・昭和33(1958)年2月」(作詞:宮川哲夫、作曲:吉田 正) (こちら)」(4)。
  • 「---人の世の浮き沈みと、泣き笑いと、人情喜劇を見ているような役者人生である」(5)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    藤田まこと-Wikipedia
    (1)「【藤田まことさん死去】 芸に生きた遊び人体験 (1/2ページ)
    (2)投稿者:Thori_Tungさん..2010/ 2/18 12:33:42(木) [7153]
    (3)投稿者:かものはしかも さん..2010/ 2/18 13:52:13(木) [7155]
    (4)投稿者:Thori_Tungさん..2010/ 2/20 09:09:03(土) [7164]
    (5)読売新聞2010.02.19朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2010.02.20更新)



▲てなもんやの時次郎、恐妻家の中村主水、純情派の安浦刑事、池波作品の秋山小兵衛…などを演じた俳優、歌手、コメディアンの藤田 まこと。






 

76年10ヶ月と9日生涯

ジョン・H・アップダイク
John Hoyer Updike     【アメリカの作家・詩人】

(1932.03.18〜2009.01.27)
肺ガン---魚座

  • ペンシルバニア州シリングトン出身。ハーヴァード大学英文科を最優等で卒業。オクスフォード、ラスキン・カレジで絵画を学ぶ。
  • 帰国後、大学在学中から小説を掲載したニューヨーカー誌のスタッフとなり、「街の噂」欄を担当。作家生活に入った後も、同誌に多くの短編、詩、エッセイを発表した。
  • 「ウサギ」ことハリー・アングストロームを主人公とした『走れウサギ』『帰ってきたウサギ』『金持になったウサギ』『さようならウサギ』の四部作に代表される都会的で知的な作風が魅力で、内外の読者に人気がある。
  • 『ケンタウロス』で全米図書賞、『金持になったウサギ』でピューリッツァー賞、『さようならウサギ』でピューリッツァー賞と全米批評家協会賞、初期の短編を集めた『The Early Stories』でペン/フォークナー賞を受賞。アメリカ社会で生きる人間をリアリスティックに、しかし時にはその枠を超えた鮮やかな手法で描く。
  • 2009年1月27日、マサチューセッツ州にて肺ガンにより76歳で死去。
  • 「彼は幼いころ乾癬に悩まされたが、これが結果として内面的な力を育てたといわれている。〈平凡な子供が多くの作品を書き、人を突き放してみることのできる作家となったのは乾癬のおかげだった〉(小生はかならずしもそうとばかりは言い切れないのではないかと思っています)
    ※乾癬=英語 [Psoriasis]ソライアシス、皮膚科学では「炎症性角化症」といわれ、サイトカインという免疫に関与するたんぱく質などが、皮膚の深部の毛細血管に多く集まり、そこで炎症を起こさせ、皮膚に分厚い角化層を形成させる難治性皮膚疾患」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョン・アップダイク-Wikipedia
    Updike
    (1)投稿者:ユリウスさん..2009/ 4/14 09:38:56(火) [4597]

(2009.04.14更新)



▲都会的で知的な作風が魅力で、内外の読者に人気があるジョン・ホイヤー・アップダイク。

 

76年10ヶ月と10日生涯

岡 潔
Kiyoshi Oka   【日本を代表する大数学者】

(1901.04.19〜1978.03.01)
死因?---牡牛座

  • 日本を代表する大数学者。大阪府生れ。京大卒。フランス留学後、広島文理大、奈良女子大等の教授を歴任。
  • 戦争を挟んで、田舎にこもり研究と農耕の日々を送りながら独力で多変数関数の先駆的理論を完成。多変数複素解析関数論に取り組み、正則域の条件などの諸問題の解決に成功。だが日本では理解されず、世界の評価をまって初めて広く知られるようになる。1960年文化勲章。
  • 晩年は数学情緒論や日本人の心について多くのエッセイを刊行。日本文化論などの対談も多い。
  • 岡は奇行の多い人だった。三高時代の3年間に一度も歯ブラシを使わなかったといったエピソードのほか、常人には考えられない事件を起こしている。「発狂して強盗を働き、山中に潜伏中に逮捕」(当時の新聞の見出し)。
  • 「〈理〉の学問との印象が強い数学を〈情〉の学問ととらえた世界的な日本人数学者。数学の本領は「ないもの」から「あるもの」を作ることにあり、「心の力」こそ大切であるというのが彼の考えだった」(1)。
  • 「岡潔の最晩年の様子です。なくなる前日に「まだ、したいことはいっぱいあるから死にたくない。しかし、しょせんだめだろうなぁ。明日の朝には命はないなぁ。計算ちごうた。」ともらした。そして、死ぬ2時間前から意識がなくなったという。前坂俊之著「ニッポン奇人伝」を参考にしました」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 日経新聞2004.02.20朝刊「活字の海で」(文化部中野稔)。
    (2)投稿者:ユリウスさん 2006/ 9/25 00:08:26(月) [299]

(2006.09.25掲載)




▲戦争を挟んで、田舎にこもり研究と農耕の日々を送りながら独力で多変数関数の先駆的理論を完成した岡 潔。

 

76年10ヶ月と13日の生涯

嵐 寛寿郎
Kanjuro Arashi  【通称アラカン、天狗のおじさん】

(1903.12.08〜1980.10.21)
死因? ---射手座

  • 映画俳優。剣劇王阪東妻三郎には三歩下がって道を空けたが時代劇の大剣客スター。不世出の天才山中貞雄に活躍の場所を与えた点でも記憶される。
  • 本名は、高橋照一。屋号は葉村屋。18才で演劇の世界に入る。牧野省三の門をくぐり嵐長三郎の名で映画界入り。マキノ御室製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。
  • 『鞍馬天狗』と『むっつり右門』は生涯の当たり役となった。独立プロ、東亜、独立プロ、新興キネマ、日活、大映、フリー、新東宝、フリーと流転の人生を送った。
  • 新東宝では数少ないスター俳優で、『明治天皇と日露大戦争』を製作決定した新東宝社長・大蔵貢に「日本映画界初の天皇俳優にならんか」と言われ、戸惑いつつも御真影や説話のイメージ通りの威厳ある明治天皇を演じて話題となり、同社の『皇室と戦争とわが民族』では神武天皇も演じている。
  • 反面、同時代のスターで生涯主演俳優であることにこだわった市川右太衛門と違い、呼ばれれば脇役・端役でも演じ、中川信夫監督作品『地獄』ではクレジットこそされていないものの、閻魔大王役を演じている。悪役では、江戸川乱歩のスリラー小説を映画化した『白髪鬼』(1949年)で気味悪い主役の里見重之を演じきっている。
  • 1956年までに40本(一説には42本)もの『鞍馬天狗』に主演する。
  • 戦後、原作者の大佛次郎が自ら製作に乗り出しアラカンに封印させたが、大佛の手掛けた小堀明男を主演に据えた『鞍馬天狗』は結局日本映画史に残るとまで言われる(それどころか、作家としての大佛自身の評価にまで傷がつく程の)大失敗作に終わり、代理で数本出る羽目になった。
  • この奇骨の人物を愛した竹中労による「聞書き アラカン一代」がある。
  • 「俳優、嵐寛寿郎さんの言葉がある。「カツドウヤほんまにヤクザでんな。この世界には、ひとつきり思想あらしまへん、ウン、おもろいやないか、よっしゃそれゆこうと」。あきれると見せて、作品社「日本の名随筆 芸談」所収の一文は、観客を楽しませることに貪欲(どんよく)なカツドウヤ(映画人)にささげた賛嘆の辞にほかならない。日本映画の黄金期には「よっしゃそれゆこう」の勢いがあったのだろう」(1)。
  • 落語家の林家木久蔵の憧れの人であり、笑点でも時々アラカンの物まねをする。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    嵐寛寿郎-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.03.22朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2008.04.21更新)




▲300本以上の映画に出演した戦前映画界の大衆のヒーロー・嵐寛寿郎。

 


76年10ヶ月と14日の生涯

フレデリック・ダネイ
Frederic Dannay   【アメリカの推理作家】

(1905.10.20〜1982.09.03)
死因?---天秤座

  • エラリー・クイーン(Ellery Queen)は、アメリカの推理作家。実は、フレデリック・ダネイ、マンフレッド・ベニントン・リーが探偵小説を書くために用いた筆名の一つ。
  • ダネイとリーは従兄弟同士である。小説シリーズでは、エラリー・クイーンは著者の名前だけでなく物語の名探偵の名前でもある。
  • クイーンの処女作となった『ローマ帽子の謎』から『スペイン岬の謎』までの国名シリーズは、ヴァン・ダインの影響が随所に見られるものの、すべての手がかりが与えられたところで読者への挑戦状が挟まれるなど、本格探偵小説として評価が高い(第1期)。
  • 『中途の家』から『ドラゴンの歯』までの5作品は、クイーンがハリウッドで脚本の仕事を始めたり、女性誌に作品を発表したりし始めたことから、恋愛小説的要素が増えた(第2期)。
  • ライツヴィルという架空の地方都市を舞台にした『災厄の町』から、人間の心理面に重きが置かれるようになり、『九尾の猫』では悲劇的な真相に気づいた探偵エラリーが涙を見せるなど、超人的な名探偵であったエラリーが、間違いを犯し苦悩することもある人間として描かれる。そして、中年となったエラリーが三十年前(『ローマ帽子の謎』と同時期)の事件の真相に気づく、集大成的な作品『最後の一撃』でこの時期は終わる(第3期)。
  • また、バーナビー・ロス名義で、聾者の探偵ドルリー・レーンが活躍するシリーズ『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』『レーン最後の事件』などの4作品も発表している。
  • クイーンの晩年にエラリー・クイーン名義で発表された作品のいくつかは、ダネイやリーの監修は受けていたと考えられるものの、実質的な執筆は二人以外の作家により行われたことが知られている。代表的なものには、シオドア・スタージョンによる『盤面の敵』、エイヴラム・デイヴィッドスンの手になる『第八の日』・『三角形の第四辺』などがある(第4期)。
  • また、エラリー・クイーンは、推理小説専門誌 エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン(Ellery Queen's Mystery Magazine、EQMM) を創刊して新人作家の育成を行ったり、アンソロジーの編纂により過去の作家の佳作を発掘するなどの活動も広く行った。 クイーンの小説は「アメリカミステリそのもの」と言われ、論理的な展開が特徴。現在でも世界中にファンが多い。
  • 1941年にMWA賞短編賞、1961年にMWA賞巨匠賞を受賞している。 更に、1950年にEQMMにもMWA賞短編賞が贈られている。
  • また、『災厄の町』は、『配達されない三通の手紙』として、野村芳太郎監督により1979年に映画化された。
  • 1933年に創刊された雑誌「ミステリー・リーグ」の編集に参加。ただし雑誌は4号で廃刊となった(関連文献『ミステリ・リーグ傑作選(上・下)』論創社)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エラリー・クイーン-Wikipedia

(2009.02.13掲載)



▲エラリー・クイーン(Ellery Queen)のひとりフレデリック・ダネイ。


▲フレデリック・ダネイ(左)とジェイムズ・ヤッフェ(ミステリー作家)(1943年)

 

 

76年10ヶ月と22日の生涯

水野 晴郎
Haruo Mizuno   【歴史に残る洋画の邦題・考案者】

(1931.07.19〜 2008.06.10 PM3:05)
肝不全---蟹座

  • 倉敷芸術科学大学教授、大阪芸術大学客員教授。本名は水野和夫(みずのかずお)。マイク・ミズノ (Mike Mizno) の通称でも知られている。独身。
  • 1931年、岡山県高梁市に生まれ、2歳からは満州で育ち、第二次世界大戦の終結後は岡山県に引き揚げる。青年期には岡山から大阪・神戸・姫路の映画館に通っていた。慶應義塾大学文学部(通信教育課程)を卒業。元郵便局職員で、紙幣さばきの名人と称されていた。両親が早くに亡くなり、年の離れた妹を男手一つで育てた。
  • 映画との出会いは戦後であった。 戦時中は軍人として死ぬ事を教育されていた水野は敗戦後の価値観の変化に戸惑う。アメリカに押しつけられた民主主義というものの意味が理解できなかった。そのときに出会ったのがアメリカ映画であった。「民主主義というのはこういう面白い映画をみんなが自由に撮れて、みんなが自由に観ることのできる社会なんだ!」そしてこの出会いは水野の人生そのものを決めることになったのであった。
  • 1956年、20世紀フォックス映画に入社し映画界へ。5年後に日本ユナイト映画にヘッドハンティングされ、宣伝総支配人となる。1972年独立して海外映画の輸入配給などを手掛けた。ユナイト映画在籍時、ビートルズの主演映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」や「史上最大の作戦」「真夜中のカーボーイ」「夕陽のガンマン」、意図的に誤字を使った「007/危機一発」などの歴史に残る邦題を考案したのも水野であるとされる。
  • 独立後は1972年10月4日から、日本テレビ系の映画番組『金曜ロードショー』(当初は『水曜ロードショー』)の解説を担当。解説を97年まで務めた。
    1983年参議院議員選挙で新自由クラブ民主連合(新自由クラブと社会民主連合とが結成していた統一会派)から出馬し、落選。
  • 1983年6月から降板していたが、1985年4月に復帰。1997年3月まで24年半に渡って解説を続け、水野の知名度を飛躍的に上げることになった。名文句「いやぁ、映画って本当に(「ほんっとうに」と発音)いいもんですね!(他に、「おもしろいもんですね」や「素晴らしいもんですね」もあった。)」は、お茶の間の人気を集めることとなった。番組プロデューサーによると「クルーカットに口髭という一目で覚えられる風貌だったことが採用の決め手になった」とのこと。そのため収録時は口髭をメークで強調。当初はカメラの前で極度に緊張するのでNG連発だったという。本番前にココアや豆乳を飲むことで気持ちを落ち着かせる等、慣れるまでは苦労の連続だった。また、番組開始時はフィルム撮影だったためNGを出すとフィルムを廃棄して頭から撮り直しになるので「いつか上手くなって一発で決めよう」と意気込んでいたが、そうなる前の1976年10月に撮り直しの利くビデオ撮影に切り替わったと当時を振り返っている。 またフジテレビ系の映画番組『ゴールデン洋画劇場』も、「シベリア超特急」が放映される場合のみ解説を担当したことがある。
  • 1992年には日活の創立80周年記念作品『洛陽』に山下奉文役で映画俳優に挑戦。これが4年後の『シベリア超特急』に繋がっていく。2004年の映画「下妻物語」では、「主人公の白百合イチゴがコンビニで「水野晴郎」を見かける」という設定で本人役で友情出演していた。登場時にはテレビ出演時に水野がよく着るシベリア超特急のロゴが大きくプリントされた白のスウェットシャツを着ていた。
  • ウィズダムを設立し、映画評論の仕事以外にも海外名作映画の輸入配給、テレビ番組の製作を手がける。2004年には秋田県のシネマコンプレックス・パンテオンシネマズAKiTAをプロデュース。神戸のサンテレビの映画番組『ドリームシアター』で解説も担当した。
  • また、2008年現在α-Stationで放送されている番組『CHUMMY TRAIN』では、水野による「いやぁ〜、チャミトレって本当にいい番組ですね」というジングルが使用されている(現在は番組オープニングにて使用)。これは以前この番組のゲストに呼ばれたときに収録したものである。
  • この他、一部の発売業者の激安DVDに於いて、解説を担当した。
  • 2008年6月10日、未明に死去。
  • 警察マニアとしても有名で、国際警察官協会の日本支部会長を務める。アメリカで保安官補(実際に活動する執行官)の体験勤務をしたり、パトカーのサイレン音を集めたレコード『世界のパトカー』をプロデュースし発売したこともあった。警官の制服を着ているときの満面の笑みは有名。内外の警察事情にも詳しく「世界の警察」などの著書がある。
  • 映画評論の仕事で多忙を極め、時間がなかったことから2台のモニターで2本の映画を同時に見たことも。「そんなんで話の内容、分かりますか?」と尋ねられた水野は「2本とも分かりませんでした」と答えている。
  • 伊集院光のラジオ「深夜の馬鹿力」に出演した際、水野本人が語ったところによると初体験は18歳の時、森の中で年上の女性とだったと語っていた。
  • ラジオでおすぎに、弟子の西田和昭(西田和晃)を「まるで恋人みたい」と言わせるほど弟子思いの一面を持つ。
  • 2007年6月29日、映画の試写室で階段踏み外しによる転倒で背骨を圧迫骨折して全治3ヶ月の重傷を負った(2004年にも映画の撮影中に同じ個所を骨折している)。骨粗しょう症の治療中でもあり、周囲が心配していた矢先に同年12月13日、自宅で転倒、肋骨を骨折し動けずにいたところを所属事務所関係者に発見され、12月17日までに入院した。
  • 他人の映画へのカメオ出演する場合、映画の内容にかかわらず「本人自身の役で、胸に『シベリア超特急』のロゴが入ったトレーナを着ている」か、「警官役で、制服姿である」のいずれかであると言ってよい。
  • 上述のように、水野自身が宣伝担当していた007シリーズのパロディである映画『0093 女王陛下の草刈正雄』(2007年公開)にもカメオ出演した。この他テレビゲームソフトであるゴールデンアイ 007のCMにも浜村淳と共演で出演していた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    水野 晴郎-Wikipedia

(2008.06.15更新)




▲「いやあ、映画って本当にいいもんですね」の決めぜりふで親しまれたテレビの映画解説で活躍した映画評論家、映画監督、タレント水野 晴郎。

 

76年10ヶ月と28日の生涯

戸田茂睡
Mosui Toda   【和歌革新の先駆者の一人】

(1629.05.19〜1706.04.14)
死因? ---牡牛座

  • 江戸前期の国学の先覚者、歌人、歌学者。初姓渡辺氏。名は恭光、通称茂右衛間、別号は梨本。隠家(カクレガ)、僧名は最忍。駿府国府中(静岡市)に生まれる。
  • 父は駿河大納言徳永忠長の付人渡辺忠の子だが、伯父の戸田家を継ぎ、岡崎藩本多氏に仕え三百石を与えられた。のち江戸浅草に上り、浪人して、古典や歌学の研究にうちこむ。江戸で本多侯に仕え、後に浅草金竜山に隠棲。制詞(歌に使用されてはならないとされた言葉)、古今伝授など秘伝の多い中世歌学を批判、歌語の自由を主張。和歌革新の先駆者の一人。
  • 主著は《梨本集》《僻言調(ひがごとしらべ)》、江戸名所記《紫の一本(ひともと)》、治政の記録《御当代記》など。
  • 42歳の頃から歌学の著述を発表、それまでの古今伝授(古今和歌集の丸飲み)を排し、新風を唱えた。
  • 「ダイタラボッチ(ダイダラボッチとも呼ばれる)は、武蔵野をわずか二、三歩でまたぐほどの大男で、富士山を背負おうとしたなどの話が伝えられている。伝説は都内にとどまらず、関東から九州にかけて各地で語り継がれている」(1)。
    「塵の世と思う心の積もりては身の隠れかの山となりける」とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。
  • ダイタラボッチは、確か宮崎俊監督の映画『もののけ姫』にも出ていた大男のはずだ。巨人伝説。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 読売新聞2004.06.15朝刊「代田 大男の足跡たどる」

(2004.06.16更新)



?肖像を探しています。



▲古今伝授など秘伝の多い中世歌学を批判、歌語の自由を主張した戸田茂睡。

 

◆「だいた橋 だいたぼっちの掛けたる橋のよし云伝ふる」
(戸田茂睡)

76年10ヶ月と30日の生涯

志村 喬
Takashi Shimura   【黒澤明作品の常連出演者】

(1905.03.12〜1982.02.11)
肺気腫---魚座

  • 『生きる』『七人の侍』などの黒沢映画で重厚な演技を見せた日本映画史上の名優。兵庫県出身。本名は島崎捷爾(しまざき しょうじ)。
  • 旧制神戸一中(現兵庫県立神戸高等学校)に入学し、その後病気のため宮崎県立延岡中学校(現宮崎県立延岡高等学校)へ転校し、同中学校卒業。関西大学専門部中退。
  • 戦前は嵐寛寿郎主演の『右門捕物帳 拾万両秘聞』(1939年)でのアバタの敬四郎など、味のある脇役として存在感を示す。
    マキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では初めて主役を演じ、共演したディック・ミネに、歌手デビューを勧められたこともあるという。
  • 黒澤明監督に重用され、『野良犬』『酔いどれ天使』では主役級に抜擢。『生きる』ではワンマン扱いで主演、癌に侵された市役所員を好演し、NYタイムズに「世界一の名優」と絶賛された。続いて『七人の侍』では侍達のリーダー勘兵衛役で、お荷物的存在・菊千代を演じる三船敏郎と対照を成すダブル主演。
    それまでの性格俳優的なイメージを一新する沈着豪胆なヒーロー像をうちたて生涯の代表作とした。『ゴジラ』以来怪獣映画・特撮映画の出演も多く、世界でもっとも知られた日本人映画俳優の一人でもある。
  • 昭和56年、前立腺肥大の手術を受けて以来経過がよくなく、その後肺気腫に冒された。翌年2月11日、新宿区の慶応病院で死亡。
  • 「アラカンの「右門捕物帖」で、戦前はひきたて役のアバタの敬四郎をしばしば務め、たんなる笑わせ役ではなく独特の持ち味を見せたものの、あくまで脇役であった志村喬は、戦後黒澤明の「酔いどれ天使」で準主役に抜擢されて以来、「生きる」「七人の侍」などの黒澤映画で、いぶし銀のような重厚な演技を見せ、日本映画史上の名優の1人という印象を残した。彼は昭和56年、前立腺肥大の手術を受けて以来、経過思わしからず、それでも黒澤映画「影武者」には老武将として出演したが、その後肺気腫(病院発表)に冒された。彼の扮した「生きる」の主人公は、雪のふる公園のブランコで哀切な死を待つが、「近代医学」はそんな静かな死を許さず、例によって例のごとき医学的拷問を与えた。「もう無惨とも思える治療で、さぞつらかったろうと思います」と、親交のあった本多猪四郎監督のきみ夫人は語る。近代は、死に対するさまざまの恐怖に病院の「治療」の恐怖を加えた。志村ははでな交際を好まず、晩年は夫人と2人でひっそりとマンションに暮らしていたが、本多夫人はいう。「仲のいいご夫婦ですが、お子さんがいらっしゃらない。それで奥さんを残してゆかれるのが、さぞつらかったのでしょう。もう最後の最後まで、ウツロになりながら、眼は奥さんの姿を追っていました。最後は手をとり合い、うなずき合っていました。昭和57年2月11日午後10時40分に死亡した。かつてのアバ敬は、死ぬ年齢までむっつり右門につき合ったのである」(1)。
  • 「三船敏郎さん演じるやくざ者は胸を患っているのに、仁義大事で養生に身を入れない。志村喬さんの医師が叱(りつけた。「仁義なんていうものは悪党仲間の安全保障条約さ」。映画「酔いどれ天使」(黒沢明監督)のひとこまである。---やくざ者は死ぬ。彼とは好対照に、養生につとめた久我美子さん演じる女学生が医師を訪ね、「はい、卒業証書」と完治のレントゲン写真を受け渡す場面で映画は終わる」(2)。
  • 『七人の侍』では勘兵衛を演じる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    志村喬-Wikipedia
    (1)「人間臨終図鑑」(山田風太郎・徳間書店)
    (2)読売新聞2007.03.01朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.03.01更新)



▲黒沢映画で重厚な演技を見せ、日本映画史上の名優・志村喬。


▲生きる (1952年/日)


▲七人の侍 (1954年/日)

76年11ヶ月と7日の生涯

福田 繁雄
Sigeo-Fukuda       【日本のエッシャー】

(1932.02.04〜2009.01.11)
くも膜下出血---水瓶座

  • 東京都出身。母の郷里二戸市に疎開し、岩手県立福岡高等学校を経て東京芸術大学図案科卒業(1956年)。
  • 1981年、東京芸術大学助教授。1997年、紫綬褒章受章。東京国立近代美術館運営委員、日本グラフィックデザイナー協会会長、東京芸術大学美術館評議委員、金沢美術工芸大学客員教授、中国清華大学美術デザイン学術顧問、中国西北工業大学・四川大学客員教授など。
    画家の福田美蘭は娘。
  • 「日本を代表するグラフィックデザイナーで、二戸市で青春時代を過ごした日本グラフィックデザイナー協会会長の福田繁雄さん(76)が11日、くも膜下出血のため死去していたことがわかった。「だまし絵」を使ったポスターなど不思議なトリックアートで知られる福田さんの突然の悲報に、ゆかりの人々からは惜しむ声が相次いだ。二戸市石切所の福田繁雄デザイン館によると、福田さんは11日、くも膜下出血で倒れた。家族で密葬を行い、14日に二戸市福岡の善導寺に埋葬されたという。東京・浅草生まれの福田さんは、戦時中の1944年に母の故郷の二戸市に疎開し、中学から高校までの7年間を過ごした。大の漫画好きで、県立福岡高校では美術部を創部した。グラフィックデザイナーになってからは、大阪万博のポスターを手がけるなど国内外で活躍。98年には、代表作を集めたデザイン館が二戸市に開館し、昨年12月にも「FUKUDAポスター大賞」の表彰式で同市を訪れたばかりだった。デザイン館が設けられている二戸市シビックセンターの畑本義江所長は「ポスター大賞の表彰式の翌日(12月7日)、『元気でまた来るよ。1月中には自宅に遊びにおいで』と言ってくれ、いつ遊びに行こうかと考えていた」と突然の死を惜しむ。「デザイン館は、全国から多くの人が集まる施設として、先生の力を借りてやってきた。本当に残念です」と肩を落とした。福岡高校の同級生で、美術部に所属していた盛岡市紅葉が丘の小野寺倫夫さん(76)は「昨年9月に同級会で八幡平に泊まった時は、あきれるほど元気だった。サービス精神旺盛な人気者で、自分がデザインした手ぬぐいをみんなに配ってくれたのに」と突然の悲報に驚いていた。二戸市の小原豊明市長は「まちづくりになくてはならない人で、ふるさとの巨星といえる人。ますますの活躍を期待していた」とのコメントを発表した。
    「明日、二戸に行くから夕方は時間とれるよ」。昨年12月5日、新年企画「輝才」の取材を電話で申し込んだ際に、すぐに返ってきた福田さんの言葉だ。コンクールの審査や個展で国内外を飛び回るのに、事務所も助手も持たずに自らスケジュール管理をしている、という話は本当だった。会って、納得した。「組織を持つと好きなことができない。デザインはパズルを解くように面白いのに、誰かに任せるなんて考えられないよ」。はつらつと語るその笑顔は、創作意欲に満ちあふれていた。この日の取材は約2時間。デザイン界の巨匠の生涯をたどるには余りにも短かった。焦る記者に、福田さんは秋に銀座で開いた個展の名を挙げ、「あの展覧会の冊子を読めば、最近の僕が考えていることはだいたい分かるよ」と助け舟を出し、「いつか僕のアトリエにも遊びにおいで」と優しかった。果たせぬ願いとなった」(1)。


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    福田繁雄-Wikipedia
    (1)「福田繁雄さん死去

(2009.01.23更新)



▲日本を代表するグラフィックデザイナーの1人で、単純化された形態とトリックアートを融合させたシニカルなデザインが特徴とされる福田 繁雄。

▲「FUKUDAポスター大賞」表彰式後、自作のポスターを前に語る福田繁雄さん。シンプルで力強いデザインが持ち味だった(昨年12月6日、福田繁雄デザイン館で)



▲「遊びこそがデザインの本質」
(福田繁雄)

 

76年11ヶ月と8日の生涯

ミッキー安川
Miikky Yasukawa       【「取材のミッキー」】

(1933.02.10〜2010.01.18)
肺炎---水瓶座

  • 本名は安川 実(やすかわ みのる)。横浜市中区本牧出身。父親は漁師で、房総半島で代々漁師を営んでいた家だったという(本人談)。第二次世界大戦中は横浜市の富岡海岸沿いに疎開した。
  • 横浜高等学校を経て、1952年6月に単身渡米。シンシナティ大学に入学したが英語力の問題から直ちに自主退学を余儀なくされ、テネシー州マウンテン市の知人の家に身を寄せ、小学校4年生のクラスに編入して英語を2ヶ月間学ぶ。
  • のち同市のハイスクールの3年次編入を経てジョンソン市のイーストテネシー州立大学に聴講生として入学、まもなく長距離選手として優勝し、この功績により本科生として受け容れられた上、学費や寮費の免除を認められる。
  • 人種差別が色濃く残る南部地方の習俗に揉まれ、研鑽を積む。180cmの大柄な体躯で、アメリカ人相手に喧嘩に明け暮れた。1954年に、カリフォルニア州のサンディエゴ市立大学(2年制のコミュニティカレッジ)に転校。同大学の卒業所要単位を4単位ほど残したままアリゾナ州フェニックスの貿易大学院に入学。しかし授業料の3分の1しか払えなかったため中退を余儀なくされ、従って学位は取得していない。
  • 1956年に帰国。日本では貿易商社勤務を経て、日劇ミュージックホールでコメディアンとして活動を始める。1959年、映画『花嫁さんは世界一』(新藤兼人監督)で俳優デビュー。以後、日本国外での豊富な経験を生かして、俳優や司会などを始めとするタレント活動を行う他、東急東横線綱島駅前に「ミッキーラーメン」を開業(現在は閉店、その後同じ敷地に「Matty's」というバーを開店)するなど、実業家の一面も見せる。
  • 東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『TVフォーカス』では、事件の現場へすぐさま直行し取材する名物リポーターとしても活躍。同局では他に、ロスアンゼルス サンダーバードチームの「ローラーゲーム」実況やゴルフ番組の解説を担当。また、日本テレビの『ルックルックこんにちは』や放送開始当初の『朝まで生テレビ』のゲストコメンテーターとしても活躍した。アール・エフ・ラジオ日本の番組『マネースポーツ』『勝ち組ビジネス』のパーソナリティを務めるマット安川は子息。
  • 2010年1月18日、肺炎のため逝去。76歳没。
  • 「取材のミッキー」として有名な逸話が2つある。1つは、ヤミ金融の杉山グループ会長・杉山治夫が、ワイドショーのインタビューで詰め寄った安川に対し、「金が欲しいのか、金が欲しいんだろう!」と札束を投げつけたシーン。もう1つは、ロス疑惑でお茶の間を沸かせた三浦和義に執拗にインタビューをして、激怒した三浦からバケツで水を掛けられたという珍事。ロス疑惑時に誹謗とも取れる批判を繰り返したため、後に「馬鹿の最たる者」と評された(三浦が自身の掲示板で同趣旨の発言)。
  • アール・エフ・ラジオ日本のミッキー安川の「勝負」シリーズ(『ミッキー安川のずばり勝負』など)で、毎回政治家や評論家相手に歯に衣着せぬ物言いで、政治から思想・経済観まで、彼の独自の経験から縦横無尽に語る事で知られた。
  • 親友の石原慎太郎が以前語ったところでは、人の話を聞かず口は悪いが、人情家で性格は悪くないという。ラジオ番組の中では、いつも怒ってばかりの印象であるが、涙もろい傾向がある。夜の番組では、「今の日本、情けないよなー」と言って、思わず涙を流すことが何回かあった。そういう時は、アシスタントの女性を中心に番組が進められる。
  • 2007年3月17日の『朝まで勝負』(ゲストは宮崎正弘)で、「どうせ死ぬならピンコロがいいよな。ピンピンしていて、突然コロって死んじまうのがさ。この言葉、埼玉県知事の上田清司から教えてもらったんだ」と言っていた。
  • 以前、南丘喜八郎(「月刊日本」主幹、元アール・エフ・ラジオ日本報道部長)がゲストの時に鈴木宗男の話題となり、安川は「俺、宗男さんに脅されたことあるよ。番組、降ろしちゃうぞって。南丘さん、あんたも一緒にいたじゃん」と言い、南丘は「あー、うん。なんか僕の名前まで出してね」と言っていた。2007年3月23日の『ずばり勝負』の番組冒頭で安川は、この話題をゲストとして来ていた鈴木にぶつけた。翌24日の『朝まで勝負』の冒頭で安川は「俺さ、あの人とは色んなことがあったけど、基本的には正直で、いい人なんだよね。今日さ、そう思ったのよ」と言っていた。
  • 2007年6月23日の『朝まで勝負』でも、リスナーから「昔、ミッキーさんと鈴木宗男議員が大げんかしたと聞いたが」という質問があったが、安川は「俺が生意気な頃の話でさ。今思えば、俺も悪かったのよ」と答え、鈴木と完全に仲直りしていた。
  • 「出演依頼するとさ、快く承諾する人でも、2種類に分かれるのよ。ただyesと言ってる奴と、ほんとに出てくれる人とさ。ラジオを馬鹿にする奴は、たいていは出ないね。アメリカの大統領でも、実はラジオをしっかり大事にしている。日本の政治家はラジオを知らないね」(2007年6月15日『ずばり勝負』で)
  • 「ゲストの人格は、『番組に出て下さい』と言った時の反応で分かるね。あーはいはい、って見下した反応とか、ひどいのになると無視するやつもいるからね。そういうやつは、こっちから二度と呼ばないよ。政治家って恐いね。こちらのインスピレーションで一瞬で判断されてしまうし、もう一つはさっきとコロッて態度が変わるからさ」(2007年6月23日『朝まで勝負』)
  • 「『朝まで勝負』の最初に、いつも『君が代』を歌うんだけどさ、政治家の中には、胸に手を当てて歌う人がいるんだよな。俺、あれ大嫌いでさ。なんかアメリカン・スタイルのような気がするからさ。直立不動で歌う方が、俺は好きだけどね」(2007年6月23日『朝まで勝負』ゲストの鈴木宗男が、胸に手を当てて君が代を歌ったことに触れて)
  • 「俺、アメリカ好きだよ。英語もできるし、調子いいからアメリカ人にも友達できるし、物価も安いからさ。だけど、俺、アメリカに永住したくないんだ。それは、アメリカって、とにかくマネーなんだよな。マネー・イズ・ベストなんだよ。日本もモラルが無くなってきているけどさ、まだ日本人の方がさ、なんか良い人に思えるんだ」(2007年6月23日『朝まで勝負』)
  • 2009年6月19日(金)の昼のゲストは、作家の佐藤優だった。「ミッキーさん、3週間ぶりにゲストで呼んでくださいましたけど、ほおがこけてらっしゃって心配だなー」「3週間で15キロもやせた」「リスナーの皆さん、どうかミッキーさんに励ましのファックスを」と呼びかけると、番組終了までに多くのファンからの励ましのメール、電話、ファックスが届いた。
  • 2010年の元旦(金曜日)、いつも通り「ミッキー安川のズバリ勝負」が放送されたが、ミッキーは肺炎を患っていたため出演できず、息子のマット安川が代わって司会を担当した。前回に続き、2週連続でミッキーはラジオに出演しなかった。1月18日、肺炎のため死去。
  • 好きな食べ物は、焼肉とオージー・ビーフの缶詰である。狂牛病で世間が騒いでいた時、あえて自身の番組内で、横浜中華街の焼肉店の店主と電話会談して、「全く大丈夫だよなー、俺なんか牛肉食わないと、生きている気がしねーもん。じゃんじゃん食って元気出さねーとな」と徹底弁護した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ミッキー安川-Wikipedia

(210.01.23掲載)



▲神奈川県横浜市出身のタレント・ミッキー安川。

 

 

76年11ヶ月と20日の生涯

中川宗淵
Souen Nakagawa  【龍沢寺住職、老師】

(1907.03.19〜1984.03.11=明治40〜昭和59)
死因?--魚座

  • 龍沢寺住職、老師。山口県生。中川宗淵老師。
  • 山口県岩国生まれ。本名基(さとし)。東京帝国大学国文科卒。臨済宗の僧、1931年、山梨県塩山の向嶽寺で得度。静岡県三島市の龍澤寺山本玄峰の元で禅を究め同寺の住職となる。
  • 「龍沢寺:三島市の北郊、沢地にある臨済宗妙心寺派の専門道場である。本尊は子安観世音菩薩である。開山は原(沼津市)の松蔭寺を開いた臨済宗中興の祖である白隠禅師にて、宝暦11年(1761年)に建てられました。緑樹生い茂る丘陵を背に負い、禅の修業道場にふさわしい境内に、本堂、庫裡、禅堂、経蔵、鐘楼、不動堂等が整然と配置されている。山門と経蔵は江戸時代の豪商「白木屋」の寄進と伝えられている。開山堂には白隠・東嶺・星定・玄峰四和尚の像が安置されて、その内の一つ星定老師の像は伊豆の名工「入江長八」の作であり、当山にはこの他に長八の名作が多数残っている。龍沢寺住職は代々老師として称され、多くの雲水の修行場となっている。特に初期の白隠や東嶺老師、明治初期の星定老師、大正・昭和時代の玄峰老師は名僧として全国に知られていた。戦後、外国の禅の修行者が増え、山本玄峰・中川宗淵・鈴木宗忠・中川球道各老師方の指導のもと、イスラエル、ロンドン、ニュ−ヨ−クに禅堂が造られていった。特に球道老師は龍沢寺に住職になる前まで、数十年にわたって上記の禅堂の指導者であった。龍沢寺は山の中にある緑樹多き修行道場であるので、作務禅林として知られている。毎月7のつく日は三島、2のつく日は沼津へ托鉢に行っている。また毎月17日〜24日まで接心(昼夜にわたって座禅すること)があり、境内の立ち入りは禁止になります。毎年11月23日は「観楓祭」という行事があり、寺所蔵の掛け軸などが虫干しを兼ねて一般公開されている。また、裏山では野点の席が設けられ、紅葉の見物をを兼ねて多くの参加者が見られます」(1)。
  • 高見順(食道がん)夫人の観察:8月17日午後2時半ごろ、龍沢寺の中川宗淵師が病室に入ってきた。彼は高見の一高時代の同級生であった。彼は巻紙に書いた決別の辞を病人の枕頭におき、しばらく高見の顔をみつめていたが、やがて「こんなものは取りましょう」と酸素吸入のパイプをはずしてしまった。あっけにとられた医師に会釈して、宗淵師は読経をはじめた。それは2時間も続いた。秋子夫人は記す。〈朗々とした身にしみわたるお声だった。最後に「渇!」と大きな声で叫ばれた時、高見は私のほうをみて、息を引き取ったのです。閉じられた双のまぶたからは、はらはらと涙があふれ両方の痩せた頬に流れ落ちました。5時32分のことでした〉」(2)。
  • 「中川老師が師事したのは山本玄峰老師であるが、玄峰老師は中川老師が俳句に係わることに反対した、となにかの本で読んでいた。また上田閑照編の『禅の世界』の中川老師の座談に不快感?を覚えていた私は、中川老師の俳句を悪く言った。どうしても道歌の臭いがするのだ。そのとき梧樓大兄はニヤッと笑いながら「なかなか色気のある坊さんでのう」と言った。大学で教わったそうである。その大兄の返答に、私はやられたなと思った。実践者としての大兄の懐の深さに、歯がたたなかったのである」(3)。
  • 投稿者のイアさんより中川宗淵の略歴と肖像を送っていただきました。感謝です。..2010/ 3/10 18:06:15(水) [7231]

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「龍沢寺
    (2)「−脳死と移植−
    (3)「檜垣梧樓大兄へ 敬天愛人のお方が犬つれ梅雨入りかな 梧樓 掲載 『遊牧 ...

(2010.06.19掲載)



▲龍沢寺住職は代々老師として称され、多くの雲水の修行場となっている龍沢寺住職、老師・中川宗淵。


▲龍沢寺

 

中川宗淵師の句

◆「只今の只に只乗れ只の人」

◆「山山の性根あらはす寒の入り」

◆「花の世の 花のようなる 人ばかり」

◆「木犀の しきりにこぼす 夜の花」

 

 

76年11ヶ月と22日の生涯

熊井 啓
Kei Kumai    【『黒部の太陽』の生みの親】

(1930.06.01〜2007.05.23 AM9:51)
クモ膜下出血---双子座

  • 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる。
  • 旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校を経て新制の信州大学文理学部を卒業後、独立プロの助監督を経て、1954年日活撮影所監督部に入社。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。
  • 1964年、帝銀事件を描いた『帝銀事件・死刑囚』で監督デビューする。翌年には下山、三鷹事件など戦後の怪事件をテーマにした「日本列島」を発表、映画監督協会の新人賞を受けた。
    骨太な社会派ドラマを作る監督として評判をとる。
  • その一方、1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションが共同制作した超大作『黒部の太陽』を製作し、興行的にも成功させる。後、日活を離れフリーに転身。 「地の群れ」(1970年)では、原爆や差別の問題などを長崎を舞台に描き、1972年は青春文学「忍ぶ川」の映画化で話題に。
  • 1975年には、日本から東南アジアへ送り込まれた娼婦の悲しみを描く「サンダカン八番娼館・望郷」でベルリン映画祭に参加し、主演の田中絹代が銀熊賞(女優賞)を得た。重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させた。
  • 1987年にも遠藤周作原作の「海と毒薬」で銀熊賞(審査員特別賞)を受賞するなど、国際的にも高く評価された。その後も社会性の強いテーマを内包した作品を立て続けに発表し、独自な地位を築いた。
  • 大先輩で日本の巨匠である小津安二郎に対し、会社の言うままに体を任せる「女郎のようだ」と小津本人の眼の前で批判したのは有名だが、後年に至り「NHK」のドキュメンタリーで小津について発言した際にこの放言に対しても反省の弁は無かった。
  • 2001年、「松本サリン事件」を題材にした『日本の黒い夏 冤罪』でベルリン国際映画祭国際功労賞を受賞した。翌02年、故黒澤明監督の脚本を元に監督した「海は見ていた」が最後の作品になった。
  • 2007年5月18日早朝に自宅敷地内で倒れているところを発見され、搬送された病院で意識を回復したものの、同月23日午前9時51分、クモ膜下出血の為死去。享年76。
  • 終戦直後の大量殺人事件の真相を追う作品で世に出た熊井さんは、以後も犯罪から宗教、戦時下の極限状況、歴史の闇から現代の大事件まで、様々な角度で人間と社会の深奥を見つめる試みを重ねた。
  • 酒をこよなく愛した。妻はエッセイストの明子さん。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    熊井啓-Wikipedia

(2007.05.26掲載)




▲映画「サンダカン八番娼館・望郷」「海と毒薬」など、で知られる現代を代表する社会派リアリズムの映画監督・熊井 啓。




◆画像-1:「式部物語」で岸恵子さん(右)と打ち合わせる熊井監督(読売新聞2007.05.24朝刊「文化」より。

76年11ヶ月と25日の生涯

モーリス・ルブラン
Maurice Leblanc  【アルセーヌ・リュパンの生みの親】

(1864.11.11〜1941.11.06)
死因?---蠍座

  • ルブランはフランス・ノルマンディー地方の都市ルーアンで生まれた。父親はフランスに帰化したイタリア人で、音楽の才能も絵の才能もあったが、芸術の道を捨て船主となり、英仏間に幾つかの航路をうちたて、財産を築いた。
  • 母親はノルマンディの古い家柄の生まれで、逞しく陽気で良識家でも感情的でもあったというが、 45歳で急死している。モーリスは、妹ジョルジュエットと供にほとんど姉のジュアンヌに拠って育てられる。
  • パトリ寄宿舎・コルネーユ高校では古典や歴史で優秀な成績を収めたが、彼自身はあまり 学校が好きではなかったようで、「私にとって高等中学は、むしろただの黒ずんだ壁に過ぎなかった」と書いている。
  • 卒業後は、一年間という期限つきで志願兵として服役。その後、一年半のヨーロッパ漫遊旅行に出かける。 それは、当時のフランスのブルジョワの子息の間ではよく行われていたことであったようだ。旅行から帰ると、父親が決めた梳毛機製造会社に就職する。 ミルード=ピシャール商会というその会社は、業界ではトップクラスだったが、命じられるままに就職したものの、全く熱心さに欠けていたようで、 工場の片隅や、営業だといって外出したさきの川のほとりなどで、書き物ばかりをしていたという。就職後わずか数ヶ月で、モーリスは「商売には向いていない」ということで、 ミルード=ピシャール商会を辞めることになる。
  • とはいえまだ文学で身を立てる自身がなかったモーリスは、 パリで法学の勉強をするということで父親の了承を得る。しかし、実際には彼は新聞社の編集室にばかり通っていたようだ。
    数ヵ国で学び、ロースクールを落第後、パリに居を構え純文学系の心理小説を書きはじめた。
  • やがて彼は<ジル・ブラース><フィガロ><エコール・ド・パリ><オト>といった新聞に記事・コント・短編を掲載するようになる。彼の作品は一般大衆からの反響は少なく、原稿料もわずかではあったが文壇では高い評価を得ていたが、商業的には不成功に終わる。
  • 転機はルブラン40代のときに訪れる。友人の編集者ピエール・ラフィットに依頼されて嫌々書いた「リュパン逮捕される」が大評判を博したのだ。以来、ルブランは次々とリュパンものを書き続けることになる。
  • 明らかにコナン・ドイルの一連のホームズ作品の影響を受け、またそれに対する反動として描かれたいたずら好きで魅惑的なリュパンは驚くべき成功を収め、ルブランは名声と富を得た。
    1907年までにリュパン小説は短編としての形式を脱し、評判と売り上げが上々であったため、結果的にルブランはその後、作家としての経歴と情熱のほとんどをリュパンシリーズへ注ぎ込む事になった。
  • コナン・ドイルはホームズシリーズの成功に対してむしろ困惑し、生活を妨害されているようでさえあったという。
    またドイル自身も、自分が犯罪小説で成功することを、より「尊敬に値する」文学的情熱から遠ざけるものと見ていた、ともいわれている。それと同様、ルブランももともと純文学・心理小説作家を志していた事もあり、犯罪小説、探偵小説であるリュパンシリーズで名声を博する事に心を痛めていたといわれる。
  • ドイルがホームズをライヘンバッハの滝に落としたのと同様ルブランもリュパンを一度自殺させている(「813」)。また、「リュパンが私の影なのではなく私がリュパンの影なのだ」という言葉などにもその苦悩の跡が見られる。が、晩年になってその自分の経歴も受け入れられるようになったと思われ、「リュパンとの出会いは事故のようなものだった。しかしそれは幸運な事故だったのかもしれない」との言葉も残している。
  • 彼は文学への貢献(直接の理由は“国民的英雄・リュパン”の創造)によってレジオンドヌール勲章を授与され、 1941年11月、パルピニャンでルブランは77歳の生涯を閉じた。
  • 余談だが、彼の妹ジョルジェット・ルブランは、女優・歌手として活躍し、一時期モーリス・メーテルリンクの愛人にもなった。メーテルリンク原作・ドビュッシー作曲のオペラ「ペレアスとメリザンド」初演時、原作者・作曲家の両名が、彼女の起用を巡って不和になったことは有名。
  • 「一度きりのつもりで、彼はこの主人公を登場させるなり逮捕させてしまう。しかし、一度書いてしまったものは取り消せない。ルブランはルパンを生んでしまったために、自分の人生を一変させることとなる。彼は文壇での栄光を諦めなければならなかったが、代わりに原稿料も出版部数もそれまでとは比べ物にならないほど上がった。また、物語作家としての功績を称えられて、レジオン・ドヌール勲章に叙せられた。しかし、これほどまでに偉大な英雄を生んだことは、作家としては幸福であると供に、 時として大きな悲劇でもある。丁度コナン・ドイルがホームズを疎んでモリアーティ教授に殺させようとしたように、 ルブランもしばしばルパンを厄介ものだと思わないではいられなかった。ルパンは余りにも強大で、ルブランは彼の父親としてしか認められなかった。晩年のルブランはルパンの影を恐れ、ノイローゼ気味であったというような話さえ聞く」(1)。
  • フランスの小説家ルブランの「リュパン=ルパン」は、しばしばイギリスの作家コナン・ドイルの生んだ「シャーロック・ホームズ」と対比されてる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    モーリス・ルブラン-Wikipedia
    (1)「ルブラン,モーリス - L'Aiguille D'Or

(2006.10.19掲載)




▲紳士的な振る舞いの泥棒にして探偵「アルセーヌ・リュパン」の生みの親として良く知られる(日本では「アルセーヌ・ルパン」との表記が一般的)モーリス・ルブラン。

 

76年11ヶ月と27日の生涯

ルイ14世
Louis XIV   【太陽王と呼ばれたフランス国王】

(1638.09.05〜1715.09.01)
死因?---?座

  • 太陽王と呼ばれたフランス国王(在位1643年―1715年)。ルイ13世の子。
  • 幼少で王位につき、母后アンヌ・ドートリシュが摂政をつとめ、マザランが政権を担当。フロンドの乱の混乱を経て、1661年マザランが没して以後親政。
  • コルベールを重用して重商主義政策を推進し、ルテリエやルーボアの指導下に強力な常備軍をつくり、フランスをヨーロッパ一の陸軍国とした。また官僚制を強化して中央集権的絶対主義国家の形成に成功。
  • 「朕は国家なり」という名高い句は有名。その威光は全ヨーロッパに輝いて〈太陽王〉と呼ばれ、絶対君主の典型とされた。
  • 英国、オランダと国際政治・国際経済の主導権を争い、4次にわたり大規模な絶対主義戦争を繰り返したが、国民は重税と経済的不況にあえぎ、治世末年は重苦しい空気に包まれ、批判勢力も台頭。
  • 1685年のナントの王令廃止により、ユグノーの信教の自由を奪い、王権を批判するものを激しく弾圧。
  • 侵略戦争(ネーデルラント戦争、オランダ侵略戦争、プファルツ戦争)を展開し、東方に領土を拡大したが、国民は重税と経済的不況に苦しみ、晩年は批判勢力の台頭を許した。
  • 王の親政期は古典主義文化の最盛期に当たり、モリエールラシーヌをはじめ多くの芸術家が輩出。ヴェルサイユ宮殿を建設した。
  • 「〈朕は国家なり〉と言ったのは、フランスの絶対王制の頂点をなすルイ14世である。彼は虫歯でもないのに侍医に歯をすべて抜かれるすべて抜かれると言う目に遭っている。侍医は虫歯が死病をもたらすと信じこんでおり、健康な歯もすべて抜くよう国王に求めたからだという。しかも抜歯の際には誤って上あごに穴をあけられ、消毒のために熱した鉄棒で繰り返しその部分を焼かれたそうだ(端穂れい子著「残酷の世界史」河出書房新書)。---歯にこだわる侍医のせいでルイ14世は硬い食事がとれなくなり、胃腸の調子も崩したという」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 毎日新聞2009.11.18朝刊「余禄」より抜粋。

(2009.11.19更新)




▲太陽王と呼ばれたフランス国王・ルイ14世。

76年11ヶ月と27日の生涯

麻生 路郎
Jiro Aso         【川柳六大家の一人】

(1888.07.10〜 1965.07.07)
肝臓障害---蟹座

  • 本名・幸二郎。広島県尾道市十四日元町生まれ。10歳の時大坂船場へ移り住み大坂高商(現大阪市立大学)在学中に川柳を始める。
  • 卒業後、大阪電信局、毎日新聞記者、病院事務長など色々な職に就いた。1924年、大阪で「川柳雑誌」を創刊。
  • 1936年“職業川柳人”を宣言した。川柳誌経営が職業として成り立つ時代だった。川柳を「人の肺腑を衝く十七音字中心の人間陶冶の詩である」と定義付け、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎、村田周魚、椙本紋太とともに「川柳六大家」と呼ばれ、その先覚的な役割を果たした。
  • 「俺に似よ俺に似るなと子をおもい」の句が特に有名だが、「大杉(大杉栄)を殺し思想を取り逃がし」や「あの博士今度は民主主義を売り」など、社会的な句も多く残している。酒豪で知られ、同じ川柳家の妻・葭乃の読んだ「飲んで欲しやめても欲しい酒を注ぎ」の句も有名。
  • 多くの後進を育て1965年、肝臓障害で没。享年77(数え)。
  • なお麻生が創刊した「川柳雑誌」は現在大阪の川柳誌「川柳塔」に引き継がれている。
  • 「川柳作家の麻生路郎(じろう)に、「湯ざめするまでお前と話そ夢に来(こ)よ」という一句がある。亡くなった小学生の長男に語りかけた1周忌の作という。病床で静かに命を終えた子にも、残された親が「お前と話そ」と言えるようになるには1年という時間がかかる」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    麻生路郎-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.10.19朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2009.12.16掲載)


★肖像を探しています。

▲大正・昭和初期の川柳家・麻生 路郎。




 76歳のエポック!

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(2003.07.09)

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