玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

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91歳の語録

 

「人は生まれてくるとき世界はみんな私のものだと言わんばかりに手を握りしめているが、死ぬときは、ほらごらんなにも持っていかないよ、と言わんばかりに掌をひろげている」
(北御門二郎)


「あの世のことを考える時間が増えました。トルストイもソクラテスもカントもイエスもシャカも老子もあの世にいる。そばに行けると思うと楽しみです」
(北御門二郎)

「私は子供のころラファエロのように描けた。しかし子供のように描けるようになるには一生を要した」
(ピカソ)

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91年6ヶ月ジャストの生涯

板谷 波山
Hazan Itaya    【近代陶芸界の巨匠】

(1872.04.10〜1963.10.10=明治5年3月3日〜 昭和38年)
死因?---牡羊座

  • 日本の近代陶芸の開拓者であり、陶芸家としては初の文化勲章受章者。理想の陶磁器づくりのためには一切の妥協を許さなかった波山の生涯は映画化もされている。
  • 日本の陶芸は縄文時代からの長い歴史をもつが、瀬戸、美濃、伊賀などの茶器、朝鮮半島の影響を受けて始まった伊万里、鍋島の磁器のように、芸術品として高い評価を得ている作品さえも、ほとんどが無名の陶工の手になるものである。近世には京焼の野々村仁清のように個人名の残る陶工もいるが、「職人」ではない「芸術家」としての「陶芸家」が登場するのは近代になってからであった。板谷波山は、正規の美術教育を受けた「アーティスト」としての陶芸家としては、日本におけるもっとも初期の存在である。陶芸家の社会的地位を高め、日本近代陶芸の発達を促した先覚者として高く評価されている。
  • 茨城県真壁郡下館町(現・筑西市)で醤油醸造業の傍ら雑貨を商う父 増太郎、母宇多の三男として生まれる。本名は板谷嘉七。号の「波山」は故郷の山・筑波山にちなむ。父は文人画を描き、三弦や茶の湯を嗜む風流人であった。上京後、波山は東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学、高村光雲らの指導を受けた。
  • 1894年(明治27年)東京美術学校を卒業後、1896年(明治29年)、金沢の石川県工業学校に彫刻科の主任教諭として採用された。同工業学校で陶芸の指導を担当するようになったことがきっかけで、ようやく本格的に作陶に打ち込みはじめた。
  • 1903年(明治36年)には工業学校の職を辞し、家族とともに上京、東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区田端)に工房を築き、苦しい生活の中で作陶の研究に打ち込んだ。
  • 1908年(明治41年)の日本美術協会展における受賞以来、数々の賞を受賞、1917年(大正6年)の第57回日本美術協会展では、出品した「珍果花文花瓶」が同展最高の賞である1等賞金牌(きんはい、金メダル)を受賞。その後、1929年(昭和4年)には帝国美術院会員、1934年(昭和9年)には帝室技芸員となっている。第二次大戦後の1953年(昭和28年)には陶芸家として初めて文化勲章を受章。
  • 1960年(昭和35年)には重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)の候補となるが、これは辞退している。自分は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家であるという自負が辞退の理由であったと言われている。彼は1963年(昭和38年)、工房のある田端にて没した。
  • 絶作(最後の作品)『椿文茶碗』は没年である1963年、波山91歳の時の作品であり、彼の技巧が死の直前まで衰えていなかったことを示している。
  • 波山の作品には青磁、白磁、彩磁(多色を用いた磁器)などがあるが、いずれも造形や色彩に完璧を期した格調の高いものである。波山の独自の創案によるものに葆光釉(ほこうゆう)という釉(うわぐすり)がある。これは、器の表面にさまざまな色の顔料で絵付けをした後、全体をマット(つや消し)の不透明釉でおおうものである。この技法により、従来の色絵磁器とは異なった、ソフトで微妙な色調や絵画的・幻想的な表現が可能になった。前述の第57回日本美術協会展出品作「珍果文花瓶」もこの技法によるもので、美術学校時代に習得した彫刻技術を生かして模様を薄肉彫で表わした後、繊細な筆で絵付けをし、葆光釉をかけたものである。波山は完璧な器形を追求するため、あえて轆轤(ろくろ)師を使っていた(1910年(大正9年)までは深海三次郎、それ以降は現田市松)。特に現田市松は、波山の晩年に至るまで、半世紀以上にわたるパートナーであった。
  • 前述の「珍果文花瓶」は2002年(平成14年)、重要文化財に指定された。これは、同年に指定された宮川香山の作品とともに、明治以降の陶磁器としては初の重要文化財指定となった。また、茨城県筑西市にある波山の生家は茨城県指定文化財として保存公開されている。
  • なお、2004年(平成16年)には、板谷波山の生涯を題材にした映画『HAZAN』(監督:五十嵐匠、主演(波山役):榎木孝明)が公開された。この映画は、ブルガリア・ヴァルナの国際映画祭でグランプリを受賞している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    石川県立工業高等学校 雪章ギャラリー 板谷波山紹介
    板谷波山-Wikipedia

(2006.12.09掲載)




▲明治末から昭和にかけて陶芸界に新風を吹き込んだ陶芸作家・板谷 波山 。

 

91年6ヶ月1日の生涯

徳田たつ
Tatsu Tokuda     【昭和期の社会運動家】

(1898.03.05〜1989.09.06=明治31年〜平成1年)
老衰にて天寿全う---魚座

  • 静岡県出身。旧姓金原。はじめ徳田耕作と結婚するが、没後に耕作の従弟にあたる徳田球一と再婚。
  • 1927年2月26日徳田球一が3・15事件で逮捕され、以後、1945年10月10日の出獄まで球一は非転向で闘う。 たつは、この獄中18年を獄外から支え、天皇制ファシズムと闘いぬいた。
  • 1946出獄した徳田球一(同墓)と結婚。 戦後、党の再組織、日本民主化と人民闘争の指導者として、全力を挙げて闘う徳田球一を家庭から支えぬく。
  • 1953年10月14日徳田球一は北京で死亡するが、その事実は'55まで明かされず、同年8月25日に徳田たつ、志賀義雄は共産党員としては初めて日本国政府が発行する合法旅券を手にし、遺骨受け取りに中国へ渡った。
  • 1962毛沢東と中国共産党の招きにより1972まで中国に滞在。 1980日本共産党(行動派)再建。
  • 1981年7月15日東京霊園内に革命英雄記念碑を建立、これは徳田球一、渡辺政之輔、市川正一の三賢人を祭っている碑。
  • 1982第2回革命英雄記念祭に参列。同年、丹野セツと共に、徳田・渡政会結成、相談役に就任。1984日本共産党(行動派)第6回全国協議会に参加し、汚れた宮本修正主義の「六全協」を否定し、 徳田球一と日本共産党の革命的伝統の継承・発展たる大武思想の旗のもとに生涯闘い抜くとの挨拶を行った。
  • 1986日本民主主義婦人同盟顧問につづいて(刷新)日本母親大会の相談役として活躍。
  • 晩年は行動派の生活協同化と肉親の手によって手厚く守られ、輝かしい生涯を送った。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    徳田たつ

(2005.08.27掲載)



・肖像を探しています。


▲戦後、日本共産党の再組織、日本民主化と人民闘争の指導者として闘う徳田球一を家庭から支えた徳田たつ。


◆徳田球一の墓には妻であり社会運動家であった徳田たつも眠る。

 

91年6ヶ月と2日の生涯

片倉康雄
Yasuo Katakura     【一茶庵の創業者】

(1904.03.08〜1995.09.10 AM1:34=〜明治37年〜平成7年)
死因?---魚座

  • 大正15年新宿に一茶庵を開店したときの年齢は22歳。それまでどこかのそば屋で修業をしていたのかというとわずか1週間ばかりそば屋で働いただけという状態で開店。
  • それ以前の職業は当時としては高給だった会計士。なぜそば屋を目指そうと思ったかというと村一番のそば打ち名人として有名だった母親が作った蕎麦の味が忘れられず自分もそういう物を作りたかったというのがその理由という。かくして、大正15年2月3日新宿の現在のアルタ脇の食堂横丁の一郭で一茶庵は産声を上げる。
  • この一茶庵の屋号の由来についてはこの年ちょうど俳人小林一茶の没後100年目にあたりそばとも縁が深い一茶にあやかって名付けたとされている。
  • さて開店はしたが、わずか1週間程度の修業で会得したそばの評判は当然よくない。しかしお客を「ごひいきさん」「普通の客」「師客」と3種類に分けて、とくに味・技術に小言を言ってくる「師客」の批評を糧として精進し続ける。その後、麦飯からヒントを得て「そばとろ」をヒットさせて店の方も徐々に評判になっていく。
  • それと同時に北大路魯山人、俳人の小泉迂外、作家の小林蹴月、長谷川如是閑ら文化人と知り合う。なかでも後年師弟の間柄となったのが高岸拓川という文士。その後魯山人の影響を受け陶器、漆器等器作りにも興味を持ち始めまる。
  • 昭和8年新宿の店を譲り大森に移転。東京湾で採れる新鮮な魚介類、水質の良い井戸に目をつけたというのがその理由。その魚介類を使用した種物などを提供して店は更に繁盛していく。
  • 昭和11年には、師と仰いだ高岸拓川が死去。翌年拓川に執筆を依頼していた「蘇番経優曇経」(そばきょううどんきょう)を刊行。これは、そばの効能などを仏典用語でまとめた全文漢文で書かれたそば経典となっている。
  • 昭和17年、時代は徐々に暗くなっていき食糧が戦時配給体制となりそば粉が思うように手に入らなくなるとやむを得ず大森の店を閉店。浦和に転居。それでもそばへの情熱は冷めず、大宮でそば小屋を開き会員制でそばを打ち続ける。戦火の激しくなった昭和20年5月、自宅が空襲に遭い妻と二人の娘を失う。
  • 終戦後は映画館の支配人などを経験し、しばらくそばの世界から離れる。昭和23年頃になると日本工業倶楽部の例会でそばを打つようになり、25年頃から新宿「馬上杯」で支配人をつとめる。この時、陶芸家・加藤唐九郎、作家・深沢七郎らと知り合う。
  • そして昭和29年4月、足利で一茶庵を再開。これは以前日本工業倶楽部の例会でそばを打っていた関係で同倶楽部のメンバーだった足利市長・木村浅七の要請によるものだった。ここに後年「足利詣で」という言葉も生まれた足利・一茶庵が誕生した。
  • その後昭和36年に西神田、38年に浜松、39年に桐生、44年に宇都宮と支店をそれぞれ息子・娘に任せる形で開店。
  • さらに、後進の指導、手打そば技術の普及にも力を入れ48年には「日本そば大学」を開講。しかし、健康上の理由などからそば大学は惜しまれつつ終了。(その後、次男・片倉英晴が後を引き継ぐ形で昭和60年「一茶庵手打そば・うどん教室」を開講)。
  • 昭和58年にはこれまで自身が培った技術のすべてを記した「片倉康雄・手打そばの技術」を刊行。平成7年9月10日足利市日赤病院にて死去。享年91歳。
  • 翌年、愛弟子たちの手により、生前創作された陶器・漆器・そば道具・書などを集めた「友蕎子片倉康雄遺作展」が足利市市民会館で開催された。
  • 友蕎子(ゆうきょうし)というのは江戸時代に「蕎麦全書」を書いた日新舎友蕎子という人物のこと。
  • <まずい蕎麦を食わせる>くせに<へんに熱心な蕎麦屋>として有名になり、北大路魯山人、長谷川如是閑などの多くの文化人に愛された。生涯一人の師匠にもつかず、絶滅寸前の「手打ち」を復活させ、稀代の「そば打ち名人」と言われた友蕎子。戦後、引きも切らず訪れる同業者に惜しげもなく手打ちの秘術を教え、素人も受け入れる「そば教室」も開いた」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    一茶庵と友蕎子・片倉康雄
    (1)「自遊人 - 2005/09/26発売号 - 雑誌のFujisan.co.jp

(2007.01.09掲載)




▲一代のそば打ち名人一茶庵総帥・片倉康雄 。



◆「蕎麦と生きる―一茶庵 友蕎子 片倉康雄伝 」岩崎 信也 (著) :理想の蕎麦を追究し続けた一代のそば打ち名人一茶庵総帥・片倉康雄の生涯。生い立ちから晩年までを取材し、理想の蕎麦を追究し続けた名人の実像に迫る。「そば打ち」の名人とし広く世に知られただけでなく、戦後は足利市に本店を構え、一茶庵の総帥として活躍、そば道具づくりから創作そば料理に至るまで多彩な才能を発揮した片倉康雄の生い立ちから晩年までを描いた一代記。


◆イメージ写真

91年6ヶ月18日の生涯

丹下健三
Kenzo Tange  【昭和という時代に形を与えた建築家】

(1913.09.04〜2005.03.22 AM2:08)
心不全---乙女座

  • 「ミスター丹下」、「世界の丹下」。昭和という時代に形を与えた建築家。東京都庁舎や東京・代々木の国立屋内総合競技場など時代のシンボル次々を設計した建築家。
  • 大阪府に生まれ。中学までを愛媛県今治市ですごす。
    1938年、東京大学建築科を卒業。ル・コルビュジエに傾倒し、その教え子である前川國男の建築事務所に入る。
  • 1942年、東京大学大学院に入学。卒業後、1946年74年まで東大で教鞭をとり、「丹下研究室」をつくる。大谷幸夫、浅田孝、沖種郎、槇文彦、神谷宏治、磯崎新、黒川紀章、谷口吉生ら多くの優れた人材が、そこに集まっては巣立っていった。
  • この間、1961年に丹下健三・都市・建築設計研究所を開設し、設計活動を始める。1949年、広島市主催の平和記念館都市計画で1等に入選。日本の伝統建築法にル・コルビュジエの表現法を組み込んだ建築を含む計画案を1951年のCIAM(近代建築国際会議)で発表、海外の建築界にデビューする。その発想の基本は、建築の全体配置から建築物に至るまで、はっきりとした構造をもち、それを明快に表現するところにある。
  • 1950年代は日本の建築的伝統と現代社会の要求との総合をめざし、各県や市の庁舎など地方自治体の公共建築を手がけ、香川県庁舎(1958)においては、コンクリートで構造的な合理性を表現した。1960年代には、成長する都市、東京をコミュニケーションのシステムによって捉える構造改革の必要性を強調した「東京計画1960」を提案。
  • そのころから「空間と象徴」という問題に取り組み、構造主義を発展させ、人間性について深く考える中、東京カテドラル(1964)や当時最大規模の吊り構造による代々木国立屋内総合競技場(1964)を設計する。その後、1970年代に入ると大阪万国博覧会のマスタープランとお祭り広場の設計(1970)など、日本の国家的事業に携わると同時に世界各国を代表する建築及び都市計画に携わる。
  • 1986年に行われた新都庁舎の指名競技設計で1等当選し、旧都庁舎に続いて新都庁舎の設計も担当する。また、同年「東京計画1986」を発表する。その後長い経緯を経て東京湾の開発が部分的に実現に向けて動き出す中、臨海副都心全体のシンボルとなりうるものとして、台場地区に最先端のメディアセンターというべきフジテレビ本社ビル(1996)が完成。
  • 「戦後復興を力強い建築でリードし、国際的に活躍した巨星・丹下健三。---村のスケールの大きな構想は、これという設計競技で抜群の強さを発揮した」(1)。
  • 「近代国家・日本を、世界に向けて建築的に表象することを中心に据えた最初で最後の建築家だった。国家的イベントを通じて日本の近代建築を世界に認めさせた功績は大きい。職人肌というよりオーケストラの指揮者のような仕事ぶりだった。丹下さんのような建築家はもう現れないだろう」(2)。
  • ボクの記憶の中にあるあの風景、それは曇天の中の塊(ヴォリューム)、グレーの館、コンクリートのマス。それは一言で言えば「異様」。山梨唯一の「建築」、丹下の山梨文化会館である。当時、ボクの頭の中にはケンチク家という言語物質は存在しなかった。確か、小学生か中学生頃の初めての空間体験だった。すべては脳裏に焼き付いたこの原風景に始まる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    KENZO TANGE OFFICIAL SITE
    (1)読売新聞2005.03.23朝刊より。
    (2)磯崎新 読売新聞2005.03.23朝刊。

(2009.10.21更新)



▲東京都庁舎や東京・代々木の国立屋内総合競技場など時代のシンボルを次々と設計し、近代国家・日本を、世界に向けて建築的に表象することを中心に据えた最初で最後の建築家だった丹下健三。
(イラスト 玉野安実嬢)

丹下語録

◆「美しきもののみ機能的である」


東京カテドラル聖マリア大聖堂



◆代々木国立屋内総合競技場


◆東京都庁舎


◆山日YBS本社(山梨文化会館)

 

91年6ヶ月と26日の生涯

谷口 雅春
Masaharu Taniguchi    【生長の家創始者】

(1893.11.22〜1985.06.17=明治26年〜昭和60年)
死因?---蠍座

  • 兵庫県八部郡烏原村(現在の神戸市兵庫区)に生まれる。旧名=正治。
  • 大正3年、早稲田大学英文科を中退、紡績会社に就職。紡績工場で現場監督の地位についたとき、工場長と仕事上の意見の相違で対立し退職。
  • その後、大正6年に大本に入信、文学の才能が認められ教団機関紙の編集主幹となった。しかし、大本は政府当局より国家転覆を企てる危険集団とみられており、後々弾圧を受けることになる。
  • 大本を去ったのち、独自の道を模索していた谷口は「人間・神の子」善一元の世界、万教帰一の啓示を受けられ、 この真理を万人に伝えたいとの悲願の下に個人雑誌「生長の家」誌を1930年3月に創刊。以後、同誌の普及に連れ、後に宗教法人「生長の家」に発展。
  • その生涯の著作は400冊以上に及び、主著『生命の實相』(頭注版全40巻、愛蔵版全20巻、初版)は通算1,900万部を超え今も多くの人々に読み継がれている。他に『新版真理』全11巻、『新選谷口雅春選集』全20巻、『新選谷口雅春法話集』全12巻等、多数の著書(「聖典」と称される)がある。またその他にも、彼が受けたとした33の神示(総称して『七つの燈臺の點燈者の神示』)や自由詩の形態を取る「聖経」として『甘露の法雨』『天使の言葉』『続々甘露の法雨』などがある。
  • 解脱名(戒名)は「實相無相光明宮大真理説授正思惟大聖師」。専ら略して「大聖師」と冠され信徒には称されている。
  • 「生長の家の教義は、「神性人間観」「日本国実相顕現」がそのベースとなる。「神性人間観」とはすなわち、人間はすべて神の子であり、キリスト教でいう人間の「原罪」は一切認めない。悪はもともと存在しないとする「善一元」の人間観である。これは「縦の真理」と呼ばれ、人間の實相(本来の姿)は無限の生命、無限の愛、無限の知恵を持つ永久不滅の存在であるとする。なお、この「神性人間観」の考えは谷口雅春がオリジナルではなく、当時大本教の最高指導者であった出口王仁三郎が既に発言しており(庚申日記・第7巻)、大本の思想が色濃く反映されている。また、この世(現象界)は人の心を移す鏡であり、人間の心がけ次第によって貧富も健康も不健康も幸も不幸もなんでも実現できるとし、これが「横の真理」である。日本の中心は万世一系3000年の歴史を有する皇室であり、天皇であるとする「日本国実相顕現」といったかなり右翼的な思想も併せ持つ。ということで「縦の真理」「横の真理」により、皆が神の存在を信じ正しい行いをするならば、その心が現象界(この世)に映って至福の世界が実現し、また人間も本来の姿になるのであるから、これすなわち現世に地上天国が実現されるということになる。終戦直後は一時沈黙を守ったが、1949年に『生長の家教団』として宗教法人格を得る。その後は、妊娠中絶に反対するなど宗教の分野以外でも積極的に活動する様になり、特に憲法改正や靖国神社国家護持などを主張したことから、自民党の中でもタカ派の政治家との繋がりを密接に持ち、各種選挙で精力的に応援したり国会議員を送り出したりもした。また学生運動高揚時には『生長の家学生連合』なる学生組織を立ち上げ、其処から鈴木邦男など、新右翼や民族派の有力な活動家が巣立っていった」(1)。
  • ボクが住んでる千駄ヶ谷のとなり、神宮前に生長の家の本部がある。かなり立派な建物だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    谷口雅春-Wikipedia
    (1)「生長の家とは - はてな

(2006.09.12掲載)




▲新宗教系教団・生長の家創始者(初代総裁、生長の家では「教祖」「開祖」という名称は用いられない) 谷口 雅春。

 


◆谷口 雅春の墓

 

91年7ヶ月8日の生涯

林 健太郎
Kentaro Hayashi
         【歴史学者(近代ドイツ史専攻)、評論家】

(1913.01.02〜 2004.08.10)
心不全--山羊座

  • 父親は海軍兵学校出身のエリート軍人で、戦時中は済州島の航空司令を務めた。
  • 東京府立第六中学校(現東京都立新宿高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1935年東京帝国大学文学部西洋史学科卒。旧制一高教授、東京大学文学部助教授を経て、1954年年東京大学文学部教授。旧制一高時代からマルクス主義の立場に立ち、戦時中は反ファシズム論を展開。1943年に『独逸近世史研究』を出版し、近代ドイツの政治・社会の特質を解明。
  • 1944年、31歳の時に徴兵され、大日本帝国海軍の一等水兵として配属された。戦後、マルクス主義から転向し、竹山道雄、高坂正顕らと「日本文化フォーラム」を結成した。その後の評論活動は現実主義の立場から時流を批判する立場を貫き、マルクス主義や進歩的文化人を批判し、左派からはタカ派と称された。
  • 高校教科書のベストセラーとなった『高校の世界史』を共著した一人でもある。
  • 1968年の東大紛争では、文学部長として全共闘の学生に8日間にわたってカンヅメ状態にされ、学生側と団交を行ったが、学生の要求を全部拒否し、剛直な姿勢を貫き通した(林健太郎監禁事件)。当時の加藤一郎学長代行(のち学長)を支え、加藤氏の後、1973年から1977年まで第20代東大学長。4年間にわたり学園紛争収拾と東京大学の立て直しに尽力。
  • 1983年から自由民主党から比例区名簿第2位で参議院議員に当選し、1期6年務めた(ただし、厳密には党籍はなく、党友の扱いを受ける自由国民会議の所属であったため、当選後の参議院の院内会派名は「自由民主党・自由国民会議」とされた)。その後、日本育英会会長、国際交流基金理事長などを歴任。
  • 近代ドイツ史の専門家としてドイツの外交史やドイツ革命史の研究で業績をあげたが、その他に論壇での幅広い言論活動でも知られる。1988年、「戦後の歴史教育の独立を成した」(直後、高等学校地理歴史科が成立)として菊池寛賞を受賞。
  • 2004年8月10日午後1時50分、心不全のため、東京都の自宅で死去。91歳。
  • 三井不動産副社長林洋太郎は息子、作家、日本文学者の林望は甥。
  • 思想 :彼はいわゆるタカ派の論客であると評価される一方で、以下の様な意見を表明していた。30年代以降の日本の行為は、国際聯盟規約やパリ不戦条約,民族自決主義など当時既に確立していた国際法、国際倫理に反し、侵略と呼ぶほかはない。大東亜戦争は日本の他国支配の維持・拡大のための戦争であり、侵略行為の過程で他国との武力衝突を引き起こしたのであり、これを自衛とは言わない。先に自ら殴っておいて、殴り返されたことを以って「自衛行為」とは言えないのと同様である。アジア解放を掲げながら、日本は中国・韓国を解放しなかった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    林健太郎-Wikipedia

(2009.07.23掲載)



▲ 東京大学教授・文学部長・総長を務めたのち、参議院議員など昭和期に活動した林 健太郎。

 

 

 

91年7ヶ月28日の生涯

小島 信夫
Nobuo Kojima     【第三の新人と呼ばれた作家】

(1915.02.28〜 2006.10.26 AM3:58)
肺炎---魚座

  • 岐阜県稲葉郡加納町(現・岐阜市加納安良町)出身。
    旧制岐阜中学校(現・岐阜県立岐阜高等学校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部英文科卒業。1942年に入隊し中国北部へ出征。46年に復員した。その後、数年間、岐阜県庁と岐阜師範に勤務。その後、都立小石川高校や明治大学で英語教師として教鞭をとる傍ら創作活動に励んだ。
  • 戦後社会に生きる人間の心の屈折をユーモラスに描いた「アメリカン・スクール」で1955年(40歳)、芥川賞。
  • 初期には、実存的なテーマの小説を書いて、吉行淳之介遠藤周作、安岡章太郎らと共に第三の新人と呼ばれたが、むしろゴーゴリやカフカなどの影響を受けながら実存的で寓話性のある独自の創作方法を推し進めた。
  • 1965年の「抱擁家族」は妻とアメリカ人青年の情事を契機に家庭が崩壊していく様を象徴的に描き、第1回谷崎潤一郎賞。
    81年には、男の性を描きながら物語の時間や空間を重層化させた大長編「別れる理由」(野間文芸賞)を完結させた。
  • 『別れる理由』以降、作者自身やその友人と同名の人物が登場する前衛的な作品を発表。旺盛な創作活動を続けていた。入れ子細工のような寓話的物語「菅野満子の手紙」などを生む一方で、「私の作家評伝」「私の作家遍歴」など作家論・文学論も手がけた。
  • 1981年に日本芸術院賞を受賞。1994年、文化功労者。晩年も創作意欲は衰えず、「抱擁家族」の続編「うるわしき日々」で98年に読売文学賞を受賞。
  • 2006年5月には、記憶を失って介護施設に暮らす妻への思いなどをつづった新作「残光」を刊行していた。2006年10月26日午前3時58分、肺炎のため東京都国分寺市の病院で死去。享年91。6月14日に岐阜市内で行った第4回小島信夫文学賞の授賞式にも元気な姿を見せたが、数日後に脳梗塞(こうそく)で倒れ、療養していた。
  • '05年7月・'06年3月の二度にわたり、小説家保坂和志氏との対談イベントが企画され、会場に集まった多くの聴衆を時おり爆笑に誘う独特の語りをみせた。91歳を越えてもなほ新作を発表し創作意欲を失わないその姿勢から、会場には、英米文学者の山崎勉や歌人の枡野浩一、脳科学者の茂木健一郎、小説家の柴崎友香や長嶋有、映画監督の長崎俊一など、一般の読者や出版関係者以外にも大勢が来場した。 1回目の対談の模様は、新潮社の「考える人」(2005年秋号)に掲載。また2回目の模様は、草思社より2006年10月にDVDブックとして発刊される予定となっている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    小島信夫-Wikipedia

(2006.10.28掲載)




▲ 「抱擁家族」「別れる理由」など、戦後の日本文学を代表する長編小説で知られる作家・小島 信夫。

 

 

 

91年7ヶ月29日の生涯

トマス・ホッブズ
Thonas Hobbes  【「リヴァイアサン」の著者】

(1588.04.05〜1679.12.04)
死因?---牡羊座

  • イギリス南西部グロスターシャー近郊で生まれる。お父さんは地区の牧師だったが家族を捨てて夜逃げし、彼は叔父に育てられる。小さい頃から特に古典に関心を持ち14歳頃にはギリシャの古典悲劇などを翻訳。オクスフォードのマグダレン校に学び、20歳の時にキャベンディッシュ家の家庭教師になる。彼はこの仕事を通して、あちこちに旅行したり色々な人に紹介される機会を得、彼の思想は醸造されていく。哲学者としてのスタートは非常に遅い。
  • 40歳を過ぎた頃たまたま図書館でユークリッドの「幾何原論」を読み、機械論的自然観・人間観に達し、それにもとづいて国家成立のメカニズムを解明、自然状態の克服を社会のモデルとした。彼は完全に数学にのめりこみ、やがては国王に数学を教授するほどになる。彼はその後しばしば自主的にあちこちに旅をし、大陸にも何度も渡り、フランスでデカルトなどにも会っている。
  • 63歳で「リヴァイアサン」を刊行。その名前は旧約聖書に出てくる巨大な水棲の怪獣の名前(レビアタンとも)だが、国家の絶対性を強力な怪物に例えたものとされている。彼の考えでは人間は社会というものを作らない状態では、個々は弱く孤独で本能的であり貧しい存在である。そしてそういう人間同士が出会えば自らが生き延びるために永遠に終わらない闘争をすることになるとして、それを解決するために発明した人工生物が「国家」なのだとした。
  • 「万人の万人に対する戦い」にある自然状態から社会契約(社会契約説)によって国家状態に移るとされる理論は、同時代にあっては無神論者と非難され、不遇だった。
  • 国家が最低限の幸福を人々に与えてくれている限り、それにはむかうことは許されないとした彼の理論は、絶対王政の擁護といわれるが、裏返せば、きちんとした政治ができない執政者は退けられるべきとも読める。
  • リバイアサンは旧約聖書『ヨブ記』41ではワニ、『イザヤ書』27ではヘビとされている。
  • ホッブスは、モンテーニュガリレイ、グロチウヌス、デカルトなどの思想家群との内在的な関係において、古代懐疑論と格闘しつつ、アリストテレス哲学の権威を白紙還元(タブララサ)し、新たな思想的パラダイムを樹立しようとした。
  • 「いったいどうして、人の世に国家というものがあるのか。自分が支持してもいない権力者に従わなくてはいけないのはなぜか。それを、近代の個人主義のもとづき、理路整然と説明した古典として、トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』は名だかい。しかし、実際に書物をひもといてみると、よく知られた、自然状態や社会契約についての議論は、本の前半部で終わり、後半は聖書に見える「神の国」をめぐる宗教論なのである」(1)。
  • 「西欧は人間の〈外面〉と〈内面〉を峻別した上で、政治がかかわれるのは〈外面〉だけだとすることで、近代へ進んだ」(2)。
  • 「ホッブスが生きた17世紀は、まさにピューリタンの時代。宗教勢力が政治化し、国王を処刑するような事態になる中でホッブスは宗教をいかに政治の中に取り込むかという課題に挑んだ。そこで見いだされたのが、〈人間の意志は神によって必然的に与えられる。それこそが神と人間とがつながる究極の場面〉という確信だった。そこからホッブスは逆に、人間の意志=内面に国家は介入できない、という結論を導いた」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 読売新聞2005.12.11朝刊「よみうり堂本」梅田百合香著『ホッブス 政治と宗教』の苅部直による書評より抜粋。
    (2)(3)読売新聞2006.03.28夕刊「宗教と国家」(梅田百合香著『ホッブス 政治と宗教』について植田滋が書いた記事)の抜粋・リライト。
    (4)投稿者:ユリウスさん..2007/ 9/ 8 21:44:33(土) [2300]

(2007.09.09更新)




▲ 「リヴァイアサン」の著作で知られる英国の哲学者、近代政治学の祖の一人・トマス・ホッブズ。

 

 


◆『ホッブス 政治と宗教』を著した政治学者の梅田百合香さん(38=2006年)

 

◆「トマス・ホッブズの最後の言葉をお供えします。
〈わたしは最後の旅行を企てようとしているーそれは暗黒の世界にとびこむことだ〉
−クロード・アヴェリーヌ著「人間最後の言葉」より−」(4)。

 

91年8ヶ月と29日の生涯

渋沢栄一
Eiichi Sibusawa    【日本の資本主義の父】

(1840.02.13〜1931.11.11)
直腸ガン---水瓶座

  • 「日本の資本主義の父」といわれる大実業家、企業家。銀行というシステムの導入に力を尽くした。設立に関与した企業は第一銀行ほか500とも600余りともいわれる。
  • 武蔵国血洗島(埼玉県深谷市)の豪農の生れ。倒幕運動に参加したが、のち一橋家に仕え幕臣となる。
  • 明治2年大蔵省に入り大蔵大丞となり種々の法制度の制定・改正に尽力。
  • 27歳で渡欧し新知識を吸収。維新後帰国し大蔵省に出仕、国立銀行条例制定などに活躍。株式会社の前身である合本組織の商法会所を設立。
  • 33歳で退官後、第一国立銀行(第一勧業銀行)、日本鉄道会社、大阪紡績、サッポロビール、王子製紙、日本郵船、日本鉄道など500余の会社設立の創立に参画。
  • 76歳で実業界を引退、以後は東京商科大学など実業教育機関の創設や各種の社会事業に尽力。
  • 朝鮮や中国への投資も企て、わが国の近代資本主義を築き上げた人物であり実業界の育ての親。明治期の日本資本主義の発展に貢献。「道徳経済合一主義」を提唱。渋沢敬三は孫。
  • 「多く聞き、多く見て、その中より最も善きものを選び、これに従うて行作せねばならぬのは中人の常なり。されどあまり見聞のみを博くしても、その人に取捨の見識がなければ、選択の見当がつかなくなって迷うようになるものだ」。
  • 「澁澤栄一が喜寿のお祝いの席で述べた挨拶の一節です。〈将来の実業界もいや増し繁栄することは、信じて疑いありませぬけれども、今日引退する私の心から申しまするとどうぞ堅実なる繁栄をと、深く希望するのでございます。蓋し精神と物質とは全然分離すべきものではなく、又引き離す事も出来ませぬ。つらつら観察しまするに、今日の実業界は物質は大いに進んだが、精神が同じく随伴したかと申すと、或は疑点なきを得ざるの感があります〉」(1)。
  • 「大蔵省官僚として度量衝や国立銀行条例の制定に携わり、野に下っては製紙、紡績、保険、運輸、鉄道など多数の分野で続々と企業を設立。“近代日本資本主義の父”と呼ばれる男は、なぜこれだけの成果を上げられたのか。---いち早く民間活力と倫理を重んじ、P・ドラッカーも絶賛した渋沢栄一の日本的企業論がここにある」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.08.29(Mon) 23:10[558]
    (2)津本陽著『小説 渋沢栄一』(幻冬舎文庫)の新聞広告より抜粋。

(2007.02.25更新)




▲「日本の資本主義の父」といわれる大実業家、企業家・渋沢栄一。

91年9ヶ月と12日の生涯---2007年没後50年

ジャン・シベリウス
Jean Sibelius   【20世紀最大のシンフォニスト】

(1865.12.08〜1957.09.20)
脳内出血---射手座

  • ヨハン・ユリウス・クリスチャン・シベリウス(ジャン・シベリウス)は北欧を代表する作曲家。20世紀最大のシンフォニストの一人。
  • 市の医官であった父クリスチャン、母マリアの第2子としてフィンランドの小都市ハメーンリンナで生まれた。ジャンが3歳のころ、フィンランドでチフスが大流行し、父クリスチャンがそのために病死。父の死後、借金がかさみ一家はとうとう破産してしまう。その後、母方の祖母の家に引っ越す。ジャンがハメーンリンナの生家に住んだのは、わずか3年あまり。その後、何度か引越しを繰り返し、19歳まで学生時代をハメーンリンナ市内で過ごす。
  • ジャンや弟が学んだ尋常学校(現在の高校に当たる)は音楽が盛んな学校だった。1895年尋常学校卒業とともに、音楽の勉強のためヘルシンキへ移る。一家はその後、弟クリスチャンの卒業とともに全員でヘルシンキへ移ることとなる。ヘルシンキでバイオリンと作曲を学んだ後、ベルリンとウィーンに留学。
  • 7曲の交響曲をはじめ、バイオリン協奏曲、交響詩、組曲、歌曲など多数の作品を生む。楽風は当初、チャイコフスキー、グリーグなどに代表されるロマン主義とシンポリズムにフィンランドの民族音楽を取り入れた。特に、当時、盛んに唱えられていた民族の自立とカレリアニズムの影響を受け、民族主義的楽風を創り出し、フィンランドの音楽界に多大な功績を残した。
  • 1899年に作曲された代表作「フィンランディア」はロシアの圧政や検閲に対する抵抗、抗議運動のシンボルともなり、国民の独立心を鼓舞した。その後、ヨーロッパ印象主義的楽風に移行(交響曲第4番)。晩年は、古典主義的で普遍的楽風となり、その楽風は「テンペスト」や「タピオラ」に代表される。
    ハメーンリンナの生家と、ヤルヴェンパーで1904年から亡くなるまで暮らした家「アイノラ」が、博物館として一般公開されている。
  • 「彼の作品はまずメジャーにはならない、いやなれない。作品のもつ世界があまりに独特で、また聴衆に近づいてくるものではないからだ。初期の民族主義的な作品はともかく、後期の作品はどれもが職人芸的ともいえる緻密さで構成され、また描く世界はそこだけで完結した、閉じたものが多い。彼が『孤高の天才』といわれ、またその作品に『人がいない』といわれる所以だ。ただその世界に入ることができれば、とても魅力的な世界が広がる。抜け出せなくなってしまう。後期の作品に(その性格とは裏腹に)熱狂的ファンが多いのは事実」(1)。
  • 「その人生の最後の1/3の期間はほとんど(あるいは全く)作曲していない。七つの交響曲に続く「第八番のプランを練っていたとも聞く。だがそれまで一曲ごとにつづけてきた新しい試みについて、創案が浮かばず、書けなかった。31歳の時から受けた国民年金が次第に増額され、生活のために作曲する必要がなくなった、と言う説もある」(2)。
  • 「北欧の自然に根ざした独自の音楽法を開拓し、91歳で死を迎えるまでの30年間沈黙を守ったシベリウス。〈第7番で作曲家は世界の果てに行き着いてしまった。これ以上、何が書けただろう。だからシベリウスは沈黙したのではないか〉」(3)。
  • 「フィンランドにはSを頭文字にする三つの大切な言葉があるという。サウナ、忍耐とか精神力の意味があるシス、そして作曲家シベリウスだ。北欧の音楽に詳しい指揮者の新田ユリさんからうかがった。今年はシベリウスの没後50年にあたる。ノルウェーの作曲家グリーグの没後100年とも重なり、日本でも各地でシベリウス特集や北欧特集の演奏会が開かれている。新田さんは文化庁の芸術家在外研修員として1年間、フィンランドに派遣された経験がある。滞在中、シベリウス作品はフィンランド人にとって精神的な支えであり、ロシアからの独立心を鼓舞する象徴であることを知った。日本でも人気のフィンランディアは、帝政ロシアが支配を強めてきた1899年に作曲された。独立したのは1917年。12月6日の独立記念日に開かれる演奏会は、必ずフィンランディアの演奏で幕を閉じる。観客は目を輝かせ、背筋を正して聴くのだという。同時代の大陸の作曲家の楽譜は音符が多くて黒く見える。シベリウスの楽譜は音符が少なくて白い。油絵と比べて水墨画のようであり、音としての情報が少ない分、聴く人が想像力を働かせることができる。「シベリウス好きには孤独を好む人が多く、没後50年でもお祭り的にならない」と新田さん。それもシベリウスらしさだろう」(4)。
  • 交響曲第七番で「世界の果て」に到達したといわれる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    シベリウスについて
    (1)「シベリウスの部屋
    (2)読売新聞2004.07.13夕刊 池辺晋一郎「耳の渚」より抜粋。
    (3)読売新聞2007.04.19夕刊 森本良一、館野泉。
    (4)読売新聞2007.11.18朝刊 「編集手帳」より抜粋。

(2007.11.19更新)


◎第七番で「世界の果て」に到達!

▲北欧を代表する作曲家・ジャン・シベリウス。


◆雪に閉ざされたヘルシンキ郊外の丘の上に建つ記念館。館名「アイノラ」は妻の名にちなむ。

91年9ヶ月と18日の生涯

J.H.ファーブル
Jean-Henri Fabre   【『昆虫記』の生みの親】

(1823.12.23〜1915.10.11)
死因?---山羊座

  • フランスの昆虫学者、生物学者、詩人。昆虫の研究に一生をささげ、『昆虫記』10巻(59〜87歳刊)を刊行したほか、数多くの自然科学啓蒙書を残した。
  • ファーブルの主著『昆虫記』は「昆虫の本能と習性についての研究」という副題が示すように、著者の自伝的回想をまじえながら、昆虫の生活を記録したもの。
  • タマオシコガネ、ツチスガリなどの記録はよく知られ、昆虫の観察のみでなく、自然研究の方法と精神を示して動物学に大きな貢献をする一方で、すぐれた動物文学の古典として広範な影響を与え続けている。
  • ランボオジャン=ジャック・ルソーと同じく、ファーブルは偉大な歩行者でした。そうして彼は、透視能力を持つという伝説の山猫のように、鋭い目を持っていて、イサールの森やヴァントゥー山などに同行する者たちを驚かせました。彼の目は他の人々には何もいないように見えるところで珍しい虫を見つけだしたのです」(1)。
  • 「虫の生態を知り、その本能をこころ得ているファーブルは、ほとんどの虫の“考えていること”までが解っている……」(2)
  • 「91歳まで生きたファーブルが、『昆虫記』第一巻を出したのは55歳。最終巻を書き終えたのは83歳だった」(3)。
  • 「集英社創業80周年記念企画『完訳 ファーブル昆虫記』奥本大三郎訳 全10巻 各巻〈上〉〈下〉(全20冊)が発売開始した。〈いくつになっても昆虫少年〉〈大人から子供まで楽しめる、自然科学の古典〉」(4)。
  • 「〈目で見て、耳で聞き、手で触れて観察した事実こそ本物〉という信念を持っていたファーブルは、生涯を通じて昆虫の世界を観察し、多くの発見をした。その膨大な記録をもとにした「昆虫記」は、ファーブル55歳だった1879年に第一巻が刊行され、8年後の1907年に全巻が完結。今も自然科学の古典として、世界中で子どもから大人まで幅広い層に読まれている」(5)。
  • 「セミの鳴き声がにぎやかだ。うるさいと迷惑がる人もいる。単なる騒音か。何かを伝えたい、というのか。「昆虫記」でファーブルが奇抜な実験を紹介している。セミがとまった木の根元に、村役場から借りてきた大砲2門を据えつけて空砲をドカ〜ンと撃つ。鳥だったら驚いて飛び去るだろう。だが、セミは何事もなかったかのように鳴き続けた。「セミは耳が遠い」とファーブルは推理している。だから鳴くことで何かを伝えている訳ではなく、生きている歓(よろこ)びを表現していると考えた(「完訳ファーブル昆虫記」奥本大三郎訳、集英社)」(6)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「エースJTB ファーブル
    (2)奥本大三郎「ファーブル先生はまだ散歩からもどらない」より 。
    (3)日経新聞2005.11.06朝刊 足立則夫著「遅咲きのひと」より抜粋。
    (4)読売新聞2005.11.24朝刊 新聞広告より抜粋。
    (5)読売新聞2006.08.09朝刊 (藤田勝)より抜粋。
    (6)読売新聞2007.08.13夕刊 「よみうり寸評」より抜粋。

 
◆ファーブルの昆虫標本      ◆ファーブルの観察記録ノート

(2009.08.25更新)



▲昆虫の研究に一生をささげ、『昆虫記』10巻(59〜87歳刊)を刊行したほか、数多くの自然科学啓蒙書を残したフランスの昆虫学者、生物学者・J.H.ファーブル。
(イラスト 大城さん)




▲世界初の『ファーブル昆虫記』個人完訳に挑む仏文学者の奥本大三郎氏。

91年10ヶ月と1日の生涯

フランク・ロイド・ライト
Frank Lloyd Wright  【建築界の指導的存在】

(1867.06.08〜1959.04.09)
死因?---双子座

  • 米国の建築家。生地のウィスコンシン大学で工学を学んだ後、シカゴでL.H.サリバンの下で住宅建築を担当。
  • 1893年(26歳)のシカゴ博で日本館「鳳凰殿」を目の当たりにし、強い関心を持つ。ライトにとって最初に接した日本建築だった。この年、シカゴで独立。
  • 独立後、「有機的建築」の理論を提唱。プレーリー様式と呼ばれる水平線を強調した安定した構成を用いてウィンスロー邸、ロビー邸など初期の傑作を残す。
  • 1916〜1922年(49〜55歳)来日。帝国ホテルのほか自由学園などを設計。日本の現代建築に大きな影響を与えた。
  • その後もカウフマン邸「落水荘」、グッゲンハイム美術館などを発表。米国建築界の指導的存在となった。日本美術、とくに浮世絵の膨大なコレクションを行った。
  • アリゾナ州スコッツデールで逝去。享年91歳。
  • 「---借金あり、不貞あり、逃避行あり、留守中の不可解な火事や殺戮事件ありと、よくもまあこれだけ「波瀾万丈」「唯我独尊」を絵に描いたような人生を送ったものだ。ライトの建築は、一見きれいに落ち着いていても、どこか不穏な熱気を纏っている感じがするが、その秘密の一端に近づけたような気がした」(1)。
  • ボクも建築家の例に漏れず、タリアセン詣でに行ってしまった。 建築家の多くは、自分の家には無頓着であったりすることが多い。「そんな時間とお金がない」というのが本音かもしれないが---。一方、ライトは稼いだお金を、すべてタリアセンの建物と備品につぎ込んだと思われる。タリアセンで実験し、他の実作へと結実させたようによく言われているが、実はその逆ではなかったか? ライトのようなタイプの建築家は、タリアセンを造り続けるために、他の仕事をしたのではないか、と思えてしまうのである。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2007.06.24朝刊 エイダ・ルイーズ・ハクスタブル著「未完の建築家 フランク・ロイド・ライト」の林道郎による書評より抜粋。


◆ライトのデザインルーツはロマネスクにあり、デザインツールはアール・デコにある。

(2008.12.28更新)



▲ 「有機的建築」の理論を提唱し、日本の現代建築に大きな影響を与えたフランク・ロイド・ライト。



◆タリアセン・ウエスト。


◆グッゲンハイム美術館.

91年10ヶ月と18日の生涯

田中 澄江
Sumie Tanaka    【『花の百名山』の生みの親】

(1908.04.11〜2000.03.01=明治41年〜平成12年)
☆老衰にて天寿全う☆---牡羊座

  • 東京府北豊島郡生まれ。東京女子高等師範学校国文科を卒業する。聖心女子学院の教師を務める。
  • 1939年、戯曲『はる・あき』で注目される。1952年『我が家は樂し』、『少年期』、『めし』の映画の脚本が評価され、ブルーリボン賞脚本賞を受賞。
  • 1960年代からはテレビドラマの脚本も手がけるようになった。1981年随筆集『花の百名山』で読売文学賞受賞。
  • 2000年3月1日歿 91歳 東京都府中市・府中カトリック墓地。
  • 中野区教育委員も努めた。また、東京都名誉都民。夫は劇作家の田中千禾夫。
  • 「〈いつ死ぬかは神さまがきめること、その日まで新しい発見がある〉、〈老いは迎え討て〉と、晩年まで溢れる生命力を示した田中澄江は、89歳になってなおも書く。〈私は、今でももう十分に生きたという気が全然しないのです。一番書きたいことも、まだ書けていない。もう一度学校に入って植物や地質の勉強もしてみたい。でも今は何といっても山にゆきたい。〉と。翌年、脳梗塞で倒れ、平成12年3月1日午後5時10分、老衰のため東京・清瀬の病院で亡くなるまでの闘病生活で夢見つづけた山々は、黒部五郎岳か栗駒山か、はたまた自ら主宰した女性登山グループ「高水会」に名を委ねた奥多摩の高水山であったのか」(1)。
  • 「遠藤周作の墓がある府中カトリック墓地に田中澄江の墓もあった。この眼で21世紀を確かめたいと願いながら、一足踏み入れてまもなくその意思を断念せざるを得なかった田中澄江の墓。石臼の香立てが左右に、「TANAKA」の碑銘、力強くクロスが刻まれている。傍らの墓誌に「マリア・マグダレナ」、昭和26年京都の西陣教会で受洗した田中澄江の洗礼名が90歳で逝った劇作家、演出家でもあった夫・田中千禾夫のそれと並記されてある。有吉佐和子と同じ洗礼名。同じ筋の手前には「ゴジラ」の特撮監督で有名な円谷英二の墓もあった。ウルトラマンの人形が飾られてある墓前を見やりながら、作家活動にもまして千に近い山々を踏破した田中澄江の旺盛な生命力を思って見たりもした」(2)。
  • 「森羅万象に愛情注ぐ:亡くなる日の朝、容体急変の知らせで集まった私たちに「もう帰っていいよ」と言わんばかりに手を振って、目でも合図して、最後までケタ外れの生命力でした。人間だけでなく山や野の草花、森羅万象に注がれたあふれんばかりの愛情から学び取ったことは数知れません 」(3)。
  • ある出版社の友人に同姓同名の編集者がいる。観音様のような誠実な人だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    田中澄江-Wikipedia
    (1)(2)「田中澄江
    (3)2000.03.02朝日新聞朝刊---演出家の大山勝美氏の話

(2007.08.26更新)




▲山を愛していて「花の百名山」を選んだことでも知られる脚本家、作家・田中 澄江。

91年10ヶ月と20日の生涯

土光敏夫
Toshio Dokou  【ミスター合理化、財界の荒法師】

(1896.09.15〜1988.08.04)
悪性リンパ腫---乙女座

  • 岡山県生まれ。1920年に東京高等工業学校(現、東京工業大学)機械科を卒業し、技術志向が強い民間造船所のパイオニア、東京石川島造船所に入社。
  • 1950年に、大赤字、給料遅配、スト続きでくるしむ石川島重工業の社長として復帰、役員の降格から手をつけ「ミスター合理化」とよばれるほどの経営合理化で再建をはたした。
  • 1960年に、石川島重工業は播磨造船所と合併して石川島播磨重工業(IHI)が誕生、土光が社長に就任。64年からは会長となる。
  • 1965年、業績低迷の東京芝浦電気(現、東芝)の社長をひきうける。72年からは会長となった。1968年に経団連副会長、74〜80年に第4代経団連会長をつとめ財界のトップに立つ。
  • 第2次臨時行政調査会会長、行政改革推進審議会会長となり、行政改革を推進。
  • 「死の数日前、家族にこのように語っていたそうです。〈もし、死後の世界が極楽と地獄に分かれているのであれば、わしはためらわず地獄へ行く、エンマさんや鬼どもをからかって遊ぶのも一興というものだ〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1) 投稿者:ユリウスさん 2006.05.15(Mon) 17:07[1563]

(2006.05.16更新)



★行革の鬼


▲ 行政改革を推進した土光敏夫。

91年10ヶ月と21日の生涯

サマセット・モーム
W・Somerset Maugham  【『月と六ペンス』の生みの親】

(1874.01.25〜1965.12.16)
ニースで死去---水瓶座

  • パリで生まれ孤児になり英国へ帰る。医師の資格を得、第1次大戦では軍医、諜報部員。
  • 処女作『ランベスのライザ』(23歳)のあと、自伝的長編『人間の絆』(41歳)、『月と6ペンス』(45歳)、『お菓子とビール』(56歳)などの代表作を発表。また『おえら方』『ひとめぐり』『シェピー』などの戯曲、「雨」「赤毛」などの傑作を収める短編集『葉のそよぎ』(47歳)も大成功し、最良の意味での通俗作家としての名声を確立。
  • 人生は事実のみで無意味という人生観が、平明な文体と巧妙な筋の運びの物語の中に貫かれている。
  • 皮肉屋のモームは、幼いときから説教臭い「アリとキリギリス」の寓話が嫌いで、わざわざ同名の短編を書いている。老後に備えこつこつと蓄える実直な弁護士の兄と、兄に世話ばかりをかけている放蕩の弟の話。最後に笑ったのは、母親ほどの年の女性と結婚して、すぐに巨万の遺産を得た弟の方だったというオチ。寓話を安易に真理と思いこむ人たちをも皮肉りたかったのだろう。
  • 「サマセット・モームの最期の言葉。
    〈死なんて単調でつまらないものだ。こんなものと一切関わり合わないほうがいい〉
    −桐生操著「世界情死大全」より−」(1)。
  • 「モームといえば『人間の絆』が有名だが、無名時代の長編小説のひとつに三組のわけありの恋愛を描いた『回転木馬』がある。30歳の時の作品。本邦初訳である」(2)。
  • 「『月と六ペンス』は芸術という悪魔に魂を売った男の話です。実在していた画家・ゴーギャンがモデルで、主人公は絵を描くためだけに仕事を捨て、家庭を捨て、生まれた国まで捨ててしまう。彼を心配して訪ねてきた友人には冷笑を浴びせ、付き合った女も飽きればすぐ捨ててしまうような男です。関心があるのは絵のことだけで、あとはどうでもいい。周囲の人間から蛇蝎(だかつ)のように嫌われても平気です。---「その歳で、いまから絵を描いたところで、成功も名声も望めない。なのに、なんで絵を描くんだ」彼は答えます。「でも描きたいんだ。描かなくちゃ成らないんだ。描かずにいられないんだ」---」(3)。
  • 「英国の文豪サマセット・モームが晩年、一番うれしかったことは何かと聞かれ、こう答えたそうだ。「戦場の兵士から、あなたの小説は一度も辞書を引かずに読めたと手紙をもらったとき」だと。平明な筆致の作家ならではの感慨だろう。昔から辞書は、枕にはいいが持ち運ぶのは大変、と相場が決まっていた」(4)。
  • 「モームは最晩年、長寿の注射のためにスイスまで通い、生命にしがみついて、老人地獄を生きた」(5)。
  • 「たまさん サマセット・モームをリクエストと思いましたがすでに登場しているのですね。ホテル オリエンタルバンコクのスイートに縁のある作家の名前がついているそうです。その一つがサマセットモームスイート。今日読んだ本の舞台でした」(6)。
  • ---Jさん モームのこと、だんだん。何度か更新してますが、登場したのはかなり初期です。ホテル オリエンタルバンコクのスイートってどんなホテルなんでしょうね?
  • 「此の様な部屋らしいです…(右欄)。こちら」(7)。
  • 「恋人として男と女とがちがう点は、女は一日中恋愛をしていられるが、男はときどきしかできないということである。(モーム「月と六ペンス」)」(8)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)投稿者:ユリウスさん 2005.09.26(Mon) 01:01[633]
    (2)読売新聞2006.02.05朝刊 サマセット・モーム著「回転木馬」の竹内洋による書評より抜粋・リライト。
    (3)読売新聞2006.03.13夕刊 「名作ここが読みたい」(垣根涼介)より抜粋・リライト。
    (4)朝日新聞2007.04.03朝刊 「天声人語」より抜粋・リライト。
    (5)読売新聞2007.05.07夕刊 「遠景近景26」(北 連一)より抜粋。
    (6)投稿者:J さん..2010/ 1/31 00:42:30(日) [7074]
    (7)投稿者:Thori_Tungさん..2010/ 1/31 09:10:35(日) [7078]
    (8)投稿者:ユリウス さん..2010/ 1/31 23:31:44(日) [7080]

(2010.02.01更新)




▲『月と六ペンス』で知られる英国の作家、劇作家ウィリアム・サマセット・モーム。


◆サマセット・モーム著『回転木馬』


◆『月と六ペンス』イラスト:南伸坊


▲TODAY’S SUPERBLY APPOINTED SOMERSET MAUGHAM SUITE IS LOCATED WHERE THE WRITER’S COMFORTABLE SUITE OF ROOMS USED TO BE.

 

91年10ヶ月と27日の生涯

E・H・エリクソン
Erik Homburger Erikson  【モラトリアムという視点】

(1902.06.15〜 1994.05.12)
死因?---双子座

  • ドイツのフランクフルト生まれ。母カーラ・アブラハムセンはユダヤ系デンマーク人、父親は定かではないが、デンマーク人の芸術家だったのではないかと言われている。母親は、最後まで息子にその父親の名を明かさなかった。Homburgerは母の再婚相手の苗字である。
  • 彼は大学は中退し、放浪生活の挙句、友人の紹介で、アンナ・フロイトがウィーンの外国人の師弟を対象に始めた実験学校で、教師を努める。その経過の中でアンナ・フロイトの弟子となり、大学の学歴を持たないままに、発達心理学者として知られるに至った。
  • その後、アメリカに移住し、エール大学教授、カルフォルニア大学教授を勤める。発達心理学者としては、幼児の心理の研究から始め、自分の年齢が上がっていくにつれて、青年期、成人期、老年期へとその関心を移していった。アイデンティティという概念を提唱したことで知られる。
  • モラトリアム(moratorium):学生など、社会に出て一人前の人間となる事を猶予されている状態を指す。心理学者エリク・H・エリクソンによって心理学に導入された概念で、本来は、大人になるために必要で、社会的にも認められた猶予期間を指すが、日本では、小此木啓吾の『モラトリアム人間の時代』(1978年)等の影響で、例えばニートのように社会的に認められた期間を徒過したにもかかわらず猶予を求める状態を指して用いられることが多い」(1)。
  • エリクソンは青年期の社会心理学的特徴を「モラトリアム(執行猶予期間)」という視点で捉えようとした。人生とは文字通り「死へのモラトリアム」に他ならない。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    エリク・H・エリクソン-Wikipedia
    (1)「モラトリアム-Wikipedia

(2006.12.15掲載)




▲発達心理学者で、精神分析家のエリク・ホーンブルガー・エリクソン。

91年11ヶ月と15日の生涯

野尻抱影
Houei Nojiri   【星の研究者】

(1885.11.15〜 1977.10.30)
死因?---蠍座

  • 英文学者、随筆家、天文研究家、文学者、民俗学者。横浜の生れ。本名正英。作家大佛次郎は実弟。
  • 明治39年、早稲田英文科卒。同級生の相馬御風の主宰する「白百合」に翻訳を載せたのが文学者としての出発であった。
  • 研究者編纂部長、早大講師などを経て、著述に専念。中学2年の頃から星に興味をもちだし、以後、星と人間との関係についての研究を続ける。天文学史と星に関する随筆で知られる。
  • 世界各地の星の神話や伝説などの考証を行う。『日本の星』をはじめ、日本古来の数百種にのぼる星の和名を集めた『日本星名辞典』などの星に関する夥しい著作がある。
  • 主著『星座巡礼』(1925)『星の神話伝説集成』(1958)『星と東方美術』(1971)等。
  • 星といえば野尻抱影。早くから星に興味をもち、新発見第九番惑星を〈冥王星〉と命名した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)

(2007.01.18更新)




▲世界各地の星の神話や伝説などの考証をした野尻抱影。

91年11ヶ月と30日の生涯

江間章子
Syoko Ema   【「夏の思い出」の作詞者】

(1913.03.13〜2005.03.12 AM5:49)
脳内出血---魚座

  • 新潟県で生まれ、小学生時代を岩手県で過ごした。静岡高女時代から新詩運動に参加。
  • 卒業後上京し、本格的に詩作に取り組む。詩誌「椎の木」などの同人になった。1936年、詩集「春への招待」を刊行。戦後は三好達治、草野心平らと活動した。
  • 尾瀬への思いをつづった「夏の思い出」(中田喜直作曲)は49年にNHKラジオで放送され、敗戦後の暗い世相の中、人々に明るさをもたらし、長く愛されてきた。ほかの作詞に「花の街」(團伊玖磨作曲)など。
  • 「夏がくれば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空……。この歌〈夏の思い出〉がラジオから流れたのは、戦後間もない昭和24年5月。「夢と希望を与える歌を」とNHKが江間章子さんに作詞を依頼した。江間さんは尾瀬に咲く白い花・水芭蕉(みずばしょう)を思い浮かべた。少女時代を過ごした岩手県・岩手山のふもとにも咲いていた白い花。岩手では数本の花がひっそりだったが、戦中に訪れた尾瀬では無数の花が地面が見えないほど群生していた。―夢みて咲いている水のほとり……。作曲は中田喜直。尾瀬の知名度はこの〈ラジオ歌謡〉で全国区になった。もう一つ、江間さんの歌といえば、〈花の街〉。―輪になって 輪になって……のリフレインが懐かしい。これも昭和22年にラジオから流れたのが最初。團伊玖磨作曲。二つの歌は昭和の20年代を思い出させる。テレビのなかった時代、筆者には少年の日々のことだ。その青い空は遠い空になったが、そんな時代に江間さんは美しい言葉の数々を残してくれた。江間さんは逝ったが、きっと、いつまでも夏がくれば思い出す」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2005.03.15夕刊「よみうり寸評」より抜粋。

(2005.05.06掲載)




▲「夏がくれば思い出す」の歌詞で愛唱されてきた「夏の思い出」の作詞で知られる、詩人・江間章子。

 




 91歳のエポック!

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(2003.07.09)

90-91-92-93-94-95-96-97-98-99

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