玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

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デ・クーニング
バルテュス
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■92歳のエポック


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92歳の語録

 

口癖は「歌と一緒に死んでいきたい」。
(淡谷のり子)

「積極的な言葉のみをつかって生きている人が多くなれば、この世は期せずしてもっと美しいりっぱな世界になる。だから、どんな場合があっても、消極的な言語表現をしないように気をつけなさいよ」
(中村天風)

 


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92年6ヶ月ジャストの生涯

クワイン
Willard van Orman Quine  【ホーリズムの提唱者】

(1908.06.25〜 2000.12.25)
死因?---蟹座

  • クワインは,母校であるハーバード大学で哲学と数学を教えることにその生涯を費やした。彼は1956年から1978年までの間,ハーバード大学のエドガー・パース哲学教授職をつとめた。
  • 彼の主要な業績には次のものがある。「経験主義の2つのドグマ」は,分析命題と総合命題とを区別できるとする論理実証主義を批判し、個別の命題が経験によって確証されるのではない(確証されるのは命題体系全体である)とする確証の全体論(ホーリズム)を提唱した(参考:デュエム-クワイン・テーゼ)。『ことばと対象』ではさらにこの立場を発展させ,有名な翻訳の不確定性テーゼを導入した。
  • クワインは「わが人生の時(The Time of My Life)」(1986年)という自伝を書いており、その生涯について詳しく知ることができる。オハイオ州アクロンで育った。
  • クワインの父は工場経営者で、母は学校の教師だった。クワインは1930年、オバーリン大学で数学と哲学で学士号を取得し、1932年にはハーバード大学で哲学の博士号を授けた。
  • クワインの理論上の指導者は、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドだった。クワインはハーバードのジュニア・フェローに選ばれた。これは4年間、彼が教育を行う義務を免除するものだった。
  • この学問的な期間であった1932年から1933年の間に、フェローシップのおかげで、クワインはヨーロッパを旅しアルフレッド・タルスキーをはじめとするすぐれた論理学者やルドルフ・カルナップのようなウィーン学派のメンバーたちと交流する機会を得た。
  • タルスキーが、1939年秋にケンブリッジで開かれた科学の統一会議に招かれたのは、クワインの紹介を通じてだった。会議に出席するために、タルスキーはナチス軍がポーランドを侵攻する前にグダニスク(ポーランド北方の都市)を離れ、アメリカに渡った。タルスキーは第二次大戦を生き延び、その後44年間アメリカで仕事を続けたのである。
  • 第二次大戦中、クワインはブラジルやポルトガルで論理学の講義を受け持った。1942年から1946年にかけてはアメリカ海軍の諜報部で働き、少佐まで昇進。
    ハーバードの彼の研究室は、ドナルド・デイヴィッドソン、デイヴィッド・ルイス、ダニエル・デネット、ギルバート・ハーマン、ダグフィン・フォレスダール、王浩、ユーグ・ルブラン、ヘンリー・ヒズ など、多くの著名な哲学者を輩出した。また最初の教え子の一人に、鶴見俊輔がいる。
  • クワインの博士論文と初期の著作は形式論理学と集合論についてのものである。第二次大戦後になってようやく、存在論や認識論、言語についての独創的な論文を発表し、メジャーな哲学者として頭角を現した。1960年代までに、彼は「自然化された認識論」という論文を発表した。この論文は、自然科学の方法とツールを用いて、知識と意味についての主要な質問のすべてに答えようというものだった。
  • クワインは、自然科学に先立ってその理論的立脚点となり科学を正当化する「第一の学としての哲学」なるものがあるべきだという考えを拒絶する。こうした観点は、クワインの哲学的自然主義にとって本質的なものである。
  • クワインは荘厳でウィットに富む英語の詩をよく書いた。彼には言語の才能があり、フランス語やスペイン語、ポルトガル語やドイツ語でも講義することができた。しかし、論理実証主義者たちと同様、過去の大哲学者たちにはほとんど何の興味を示さなかった。哲学史の授業でヒュームについて教授したのが、唯一の例外だった。
  • 特記すべき概念:翻訳の不確定性、 指示の不可測性、 存在論的相対性、 根源的翻訳、 確証の全体論、 自然化された認識論
  • 影響を受けた人物:ルドルフ・カルナップ、アルフレッド・タルスキー、ウィーン学派、クラレンス・ルイス、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
  • 影響を与えた人物:ドナルド・デイヴィッドソン、デイヴィッド・ルイス、ダニエル・デネット、ダグフィン・フォレスダール、デイヴィット・カプラン、リチャード・ローティ、ヒーラ・シャア
  • 甥のロバート・クワインはギタリスト。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン-Wikipedia

(2007.07.26掲載)




▲20世紀アメリカを代表する哲学者・論理学者のひとりで、哲学は概念分析ではないという考えの主たる提唱者でもあったウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン。


◆分析命題と総合命題を区別することはできない。

92年6ヶ月と22日の生涯

市川右太衛門
Utaemon Ichikawa         【旗本退屈男】

(1907.02.25〜1999.09.16=明治40年〜平成11年)
☆老衰のため天寿全う---魚座

  • 大阪府大阪市西区出身の俳優。
  • 本名は浅井善之助。鉄工所経営者の息子として生まれる。両親が芸事好きなこともあって、5歳で日本舞踊を習い始める。踊りの師匠のつてで6歳の時『菅原伝授手習鑑』に菅秀才の役で出演し、初舞台。小学校卒業後、歌舞伎俳優・2代目市川右團次に入門、歌舞伎の世界で役者修行を開始。市川右一の芸名をもらう。
  • やがて『勧進帳』の武蔵坊弁慶など大役も任せられるようになったが、門閥出身ではないため出世には限界があった。当時の歌舞伎界での友人のひとりに、彼を「右一ちゃん」と呼んでいた林長丸(後の映画スター・長谷川一夫)がいた。
  • やがて歌舞伎界の若手俳優を自社に迎えようと考えていた映画監督・牧野省三が右一の評判を聞き、自ら右一の弁慶を観劇。省三は右一に白羽の矢を立て、右一は映画界への転身を決意してマキノ・プロダクションに入社する。市川右太衛門の芸名は、それまでの芸名市川右一では弱いということから、「師匠の市川の名字と『右』の字を生かして欲しい」という市川の要望を取り入れ、牧野省三が命名した。
  • 18歳の1925年(大正14年)、右太衛門として『黒髪地獄』で銀幕デビュー。翌1926年には『快傑夜叉王』、『鳴門秘帖』3部作などにも出演したが、1927年(昭和2年)、デビュー以来の作品のほとんど、13本にのぼるコンビを組んできた沼田紅緑監督の早逝(享年36)や、スターたちの独立プロ設立が連続したことなどもあって、マキノプロを退社し、市川右太衛門プロダクション(通称「右太プロ」)を設立して独立。独立と同時に奈良あやめ池(奈良県生駒郡伏見村、現在の奈良市あやめ池北1丁目)に撮影所を建設し、自由な気風の中伊藤大輔監督『一殺多生剣』、古海卓二監督『日光の円蔵』(いずれも1929年)など、多数の主演作を送り出した。
  • また右太プロ時代の主演作の1本が、佐々木味津三原作『旗本退屈男』(1930年)で、好評を得て以後30数年に及ぶ人気シリーズとなる。
  • その後発声映画(トーキー)の時代が到来。右太衛門も1932年『忠臣蔵』前後篇から発声映画出演。無声映画のスターたちが苦戦する中、『天一坊と伊賀亮』(1933年、山内伊賀亮を演じた)などで成功し、転換期を乗り切った。製作規模の拡大する本格的なトーキー時代に入って、独立プロでは製作困難となり、右太プロは松竹に吸収され、右太衛門は京都双ヶ丘の松竹第二撮影所に入社、「市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所」は1936年に閉鎖された。同年5月、同撮影所の跡地で右太衛門の実兄・山口天龍が全勝キネマを設立、撮影所を復活、映画の量産を始めた。右太衛門は全勝の作品には出演していない。
  • その後右太衛門は新興キネマに移籍、看板俳優として『国性爺合戦』(1940年)、『大村益次郎』(1941年)など大作に主演した。さらに1942年、戦時体制下の新興キネマの合併・改組に伴って新会社・大日本映画製作株式会社(後の大映)に移ったが、新興時代にも『旗本退屈男』(第8作からはトーキー)を演じているが「非常時にふさわしくない」と横槍が入り、昭和13年の『宝の山に入る退屈男』を最後に一旦打ち止めになった。
  • 終戦を迎え、占領軍による時代劇規制の時代が訪れるも『お夏清十郎』(1946年)など、規制をうまく潜り抜けながら時代劇作品に出演する一方、苦肉の策として時代劇風味の現代劇諸作にも出演(“髷をつけない時代劇”といわれた)。 大映には1949年まで所属、同年片岡千恵蔵らと共に東横映画に移籍。
  • 1951年、本格的な時代劇製作解禁の時代となり、東横が改組して設立された東映に、千恵蔵ともども取締役兼任のスター(千恵蔵=植木取締役、右太衛門=浅井取締役)として迎えられた。京都北大路在住の右太衛門は邸宅(後に売却)所在地から「北大路の御大」と呼ばれた。次男の芸名(北大路欣也)もここに由来する。
  • 千恵蔵と共に東映のスターとして活躍。東映の2本立て興行体制もあって、東映入社以来1963年までの12年間、右太衛門の作品は年平均9作のペースで主演時代劇を公開した。「旗本退屈男」シリーズは上記の12年間で19作を製作、シリーズの通算本数は30作に到達。また1956年には『赤穂浪士』で大石内蔵助を演じている。
  • 退屈男の他に複数回演じた時代劇の“著名人”は、大岡忠相(5本)、荒木又右衛門(4本)、清水次郎長、国定忠治、河内山宗俊(いずれも3本)、前述の伊賀亮、脇坂淡路守(「忠臣蔵」)、後藤又兵衛、近藤勇、吉良の仁吉(いずれも2本)がある。
  • やがて時代劇映画が斜陽化し東映も任侠映画路線に路線変更を図る中、右太衛門の映画出演も1964年を最後に途絶え、東映歌舞伎等の舞台に活路を見出すようになる。1966年、「取締役から相談役に退いて欲しい」という打診を受け、「時代も変わった。これ以上ここにいれば(北大路)欣也を縛り付ける事にもなりかねない」と考え、東映を退社。
  • その後は、四半世紀にわたり、舞台を中心に活躍。齢80を過ぎてもなお主役を張り続けた。
  • 1986年には『俳優祭』にて、中村歌右衛門 (6代目)が、かねてからの願望で女・退屈男に扮し、右太衛門演ずる退屈男と競演。また北大路欣也とも『旗本退屈男』で競演。欣也は若かりし退屈男、右太衛門は壮年の退屈男に扮した。 (共に東京・歌舞伎座。後者はその後、他の劇場でも公演を行っている)
  • 主演のこだわりについて『雪之丞変化』のテレビドラマ企画(1970年版か?)が上がった際に、右太衛門に脇役を想定したオファーをかけたところ、本人は主役依頼と心得て「ああ、もう雪之丞は(年齢的に)無理です!」と答え、スタッフもそれ以上は無理押しできなかったというエピソードを、右太衛門の熱烈ファンである上岡龍太郎が語っている。
  • テレビは「せわしない」とあまり好まず、『徳川家康』(1964年)、テレビドラマ版『旗本退屈男』(1973年)に主演したほかは、次男・北大路欣也主演の時代劇への特別出演程度に終っている。
  • 「百歳になっても退屈男を演りたい」と公言、80歳を超えても一日1〜2時間の散歩は欠かさず、1か月に一度は皇居1周のジョギングを行うなど鍛錬を怠らず、歯も入れ歯では無く、すべて自前であった。
  • 1999年9月16日に老衰のため永眠。享年92。
  • 亡くなる1年前に老人保健施設に夫妻で入所しており、入所までの経緯及び施設での生活が明るみに出るに従い、子息の北大路は自身の兄弟からもマスメディア、俳優仲間からバッシングを受けることとなった。なお、北大路は現在に至るまでこの件に関するコメントは行っていない。
  • 次男は俳優北大路欣也である。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    市川右太衛門-Wikipedia

(2010.02.04掲載)



▲戦前・戦後を通して、時代劇映画スターとして活躍し、映画出演総数は320本にのぼった市川右太衛門。



92年7ヶ月と13日の生涯

ジョン・デューイ
John Dewey   【プラグマティズムを代表する思想家】

(1859.10.20〜1952.06.02)
死因?---天秤座

  • バーモント州バーリントン町の食料品店に、父アーチボルトと母ルシナの三男として生まれる。
  • シカゴ大学の教授時代、1896年に妻とシカゴ大学付属小学校である実験学校をつくり、そこでの指導経験をまとめた『学校と社会』(1899年)でまず世に知られることになった。
  • コロンビア大学に移ってからは、より広く世論にも影響を与える執筆活動を展開し、哲学、社会論、心理学、芸術論、宗教論にまでその筆は及んだ。
  • 日本、中国、ソ連にも招聘講義に出かけ、1919年の2ヶ月に及ぶ東京帝国大学での講義は、『哲学の改造』(日本語版がオリジナルで、英語版は翻訳)に結実。
  • 哲学的には、ヘーゲルから由来する弁証法を、より人間的な経験と反省の世界に引き戻し、プラグマティズムの運動の最終段階として、市民的な思考の道具として「考える」ことを再構築した。
  • 1952年ニューヨークで死去する。
  • 鶴見俊輔は、それを市民的な思考の道具として翻案紹介した。
    また、デューイの学習論から出てくる問題解決学習は、コロンビア大学でかれの引退と入れ替わりに、世界で初の大学の看護学部が誕生するとき、その教育方法の根底をなすものとして影響を与えた。
  • 彼の教育論は、人間の自発性を重視するものである。彼は人間の自発的な成長を促すための環境を整えるのが教育の役割だとした。
  • 主要な著作:民主主義と教育(1916年)、人間性と行為(1921年)、確実性の探求(1929年)、思考の方法(1933年)、経験と教育(1938年)。以上の代表的な著作は、春秋社からかつて翻訳が出ていたが、現在は絶版。『民主主義と教育』『学校と社会』『哲学の改造』は岩波文庫に収録されている。『民主主義と教育』は、玉川大学出版部からも刊行されている。その他、デューイの著作の翻訳は、人間の科学新社からジョージ・ハーバート・ミード(『経験としての芸術』)と併せて出版されている。 また国内に日本デューイ学会がある。
  • デューイは、後年かれがつよい影響をうけるダーウィンの 『種の起源』が刊行された1859年に生まれた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジョン・デューイ-Wikipedia

(2007.03.20掲載)




▲パース、ジェームズとならんでアメリカの20世紀前半を代表する哲学者ジョン・デューイ。

◆若い頃のデューイ


◆晩年のデューイ


92年8ヶ月と9日の生涯

ポール・ティベッツ・ジュニア
Paul Warfield Tibbets, Jr. 【「エノラ・ゲイ」機の機長】

(915.02.23〜2007.11.01)
脳卒中---魚座

  • 1915年イリノイ州クィンシーでポール・ウォーフィールド・ティベッツとエノラ・ゲイ夫妻の息子として生まれる。アイオワ州で暮らした後、フロリダ州マイアミに転居する。1928年にイリノイ州アルトンの陸軍士官学校に入学。1933年にフロリダ大学に入学。その後シンシナティ医科大学に入学し、1937年に同大学を卒業。オハイオ州デイトンのライト・フィールドで陸軍航空隊に入隊した。
  • 1937年2月25日にケンタッキー州フォート・トマスで陸軍士官候補生となる。太平洋戦争が始まると、第29爆撃隊でB-17爆撃機を操縦した。その後フロリダ州タンパのマクディール基地で第40航空団97爆撃隊の指揮官となる。
  • 1942年にはドイツへの爆撃任務を行った。
  • 1944年12月、原爆投下実行部隊の第509混成部隊の部隊長を拝命し、部隊を編成する。以降、ネバダ砂漠の秘密基地にて原爆投下の演習を繰り返し、翌年、部隊を太平洋のテニアン島に移す。
  • 1945年8月6日午前2時45分、ポール・ティベッツ大佐はB-29爆撃機エノラ・ゲイをテニアン島から離陸させた。そのB-29は北に向かって7時間飛行し日本列島に到着した。そして午前8時15分、ティベッツは命令に従い広島市上空で原子爆弾を投下した。(詳細は広島市への原子爆弾投下に記述あり)
  • なお、このB-29につけられた名前の「エノラ・ゲイ」とは、ティベッツの母親の名前である。
  • 戦後1940年代後半から50年代にかけて、彼は多くの原爆実験にアドバイスし、B-47爆撃機の開発に貢献した。
  • 1954年にはNATOのスタッフとしてパリに着任、1959年には准将に昇進し、マクディール空軍基地の司令に着任。
  • ポール・ティベッツは1966年8月31日に空軍を退役し、1976年にはオハイオ州コロンバスのジェット・アヴィエーション社の社長に就任。
  • 自分が関与した核攻撃ミッションを軍人として当然の任務と自負するが、好戦的思想には否定的な見解を持っていた。
  • 2007年11月1日、心臓病を患っており、脳卒中により92歳で死去。
  • 抗議運動の懸念から、友人に死後は葬式を行ったり墓石を造ったりしないよう頼んでいたという。 遺言に従い、彼の遺灰は海に散骨された。
  • 彼の死に対して、被爆者たちは彼が生前に「原爆投下」を肯定し続け、良心の呵責をみせることも、また謝罪することも無かったことに遺憾の意を表した 。 彼は、戦後の広島を訪れることもなかった。
  • 孫のポール・ティベッツ4世中佐は、2005年現在、アメリカ空軍第509爆撃航空団(509BW)に所属しステルス爆撃機B-2のパイロットとなっている。
  • 「ひとつだけはっきりさせておきたい。私の機の搭乗員は誰ひとり、心の病を抱えていないし、眠れない夜を過ごしてはいない(1985年、米・雑誌のインタビューで)」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ポール・ティベッツ-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.11.14夕刊「夕景・時評」(竹村登茂子)より抜粋。

(2007.12.01更新)




▲広島市に原子爆弾を投下したB-29の機長であり、祖国では英雄として扱われている第二次世界大戦期のアメリカ空軍で最も有名なパイロットの一人ポール・ウォーフィールド・ティベッツ・ジュニア。

◆エノラゲイから手を振るティベッツ.


92年8ヶ月と20日の生涯

ローザ・パークス
Rosa "Lee" Louise McCauley Parks   【公民権運動の母】

(1913.02.04〜 2005.10.24)
老衰---水瓶座

  • 1955年にアラバマ州都で公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離法違反のかどで逮捕されて著名となる。これを契機にモンゴメリー・バス・ボイコット事件(Montgomery Bus Boycott)が勃発。アフリカ系アメリカ人(黒人)による公民権運動の導火線となったことで彼女は米国史上の文化的象徴と見なされ、米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれた。人権擁護運動の共有財産(共有遺産)として、その行動は米国内のみならず国際的にも高く評価されている。
  • ローザ・ルイーズ・マコーリーは、アラバマ州タスキーギでアフリカ系アメリカ人で大工の父ジェイムズ・マコーリーと、教師の母・レオーナの間に生まれた。両親は間もなく離婚し農業を営む母と母方の祖父母のもとで弟・シルベスターとともに育ち、終生所属することになるアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会員となる。
  • 母・レオーナは11歳になるまでローザに教育を施したが、1924年に州都モンゴメリーの女子職業学校に入学させた。1年後に閉鎖されたため他の中学やアラバマ州立黒人師範大学(現・アラバマ州立大学)付属の実験学校で教育を受け、16歳で縫製工場に就職した。
  • その後、1932年黒人理容師のレイモンド・パークス(1903年〜1977年)と結婚。結婚後、夫の奨めで高校生課程を修了している。レイモンドは全国有色人向上協会(NAACP)のメンバーでありローザも第二次世界大戦後、NAACPモンゴメリー支部の書記を勤めた。しかしそれは専業ではなく、収入を得るため何度も転職しさまざまな職業に就いている。1955年にはモンゴメリー・フェアー百貨店で裁縫の仕事をしていた。
  • 当時、アメリカ南部諸州にはジム・クロウ法(Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され公共交通機関を除く日常生活のあらゆるところで黒人と白人は隔離されていた。制度上、バス・レストランなど公共の場所で人種隔離が実施され、また黒人の投票権も事実上制限されていた。深南部と呼ばれるアラバマ州も、その事情は同じだった。
  • 1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。バス内は白人席と黒人席に分けられ、中間の席には白人がいない時は黒人も座ってよいことになっていた。黒人席が一杯だったのでローザが中間席に座っていると白人が乗って来始め、立つ者も出てきた。このため運転手ジェイムズ・ブレイクが中間席に座っている黒人に立つよう命じる。坐っていた黒人4名中3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「何故立たない?」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否。
  • 1987年のテレビ番組でローザは、「着席したままだった私に気付いたブレイクが何故立たないかと訊ね、「立ちません」と答えました。するとブレイクは「よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ」と言ったので私は「どうぞ、そうなさい」と答えたんです」と述懐している。
  • 1992年に出版されたMy Story(『ローザ・パークス自伝』 - 邦訳著書参照)においてもローザは疲れていたから立たなかったといつも言われるがそれは事実ではなく、普段と比べて疲れていなかったとしまた年寄りだったから立たなかったとする指摘にもまだ42歳で若かったと反論。「屈服させられることに我慢できなかった」(*)からだと述懐している。(*)原文:"The only tired I was, was tired of giving in." - 直訳:唯一の疲れは、屈服することに疲れていたことだった
    乗り合わせた乗客の証言によればローザは終始、静かで威厳に満ちた毅然たる態度を貫いたとされる。
  • ブレイクは警察に通報しローザは市条例違反で逮捕された。ローザはのちに「どうして私が連行されるの?」と質問した時、警官が「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答したやりとりを明らかにしている。警察署での逮捕手続きが終わるといったんは市の拘置所に入れられたが即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。
  • ローザ逮捕の知らせが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで26歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやラルフ・アバナシー(Ralph Abernathy)牧師らが抗議運動に立ち上がり、モンゴメリーのすべての黒人にバス・ボイコット運動を呼びかけた。以前にも黒人がこのようなことで逮捕されていたが素行の悪い者が多く、運動としては盛り上がらなかった。ローザの場合はまともな職業婦人であり、NAACP書記でもあったから関係者が迅速に動いた。当時貧しい黒人にとってバスは必須の交通機関で利用者の75パーセント以上を占めていた黒人たちがバスを利用せず、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いたりしたためバス路線を運営するモンゴメリー市は経済的に大きな打撃を被った。ローザ側は市条例違反の判決に対しバス車内の人種分離の条例が違憲であるとして控訴、1956年11月に連邦最高裁判所は違憲判決を出し公共交通機関における人種差別を禁止することになる。ボイコット運動は381日間続き最高裁の違憲判決の翌日に収束。
  • キング牧師はこの運動の勝利を契機として全米各地での公民権運動を指導、非暴力直接行動と市民的不服従をかかげ1963年8月28日、ワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年の公民権法成立につながった。
  • この一連の運動に対応して、当時のジョン・F・ケネディ政権は次々と南部諸州における差別制度を禁止する立法を行った。またケネディ政権を継承したリンドン・ジョンソン政権は「偉大な社会」の実現を唱え、積極的に黒人の社会的・経済的地位を向上させるためのアファーマティブ・アクション立法にまで進んでいる。
  • ローザもキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるが、地元には居辛くなり1957年にデトロイト市に引っ越した。ローザはその後もさまざまな職業を転々としているが、やがて自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気付く。有名人として職業的な地位も向上し、1965年から1988年にかけてミシガン州選出民主党下院議員ジョン・コンヤーズ(John Conyers)のスタッフを勤めた。なおこの間、1977年に夫・レイモンドがデトロイトで亡くなっている。
  • 1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センターを創設して青少年の人権教育に尽力。1999年にアメリカ連邦議会は、ローザに議会金メダルを贈った。これは最も偉大なアメリカ市民に贈られるメダルである。またアラバマ州モンゴメリーにはローザ博物館も設立された。2005年10月24日にデトロイトの自宅にて老衰で死去。92歳没。
  • ローザの地元・デトロイトでは哀悼の意を表現、追悼するミュージシャンらのコンサートが相次いだ。
  • U2はローザの死の翌日、ザ・パレス・オブ・オーバンヒルズ公演で追悼。1984年のヒット曲『Pride』(In The Name Of Love。アルバム「焔」)と『約束の地』(Where the Streets Have No Name。アルバム「ヨシュア・トゥリー」)を捧げ、ボノが「パークスのおかげで米国はよい国になったが、平等を目指すこの国の旅は今も続く、これからも旅を続けよう」、「アメリカのローザ・パークスから、アフリカのネルソン・マンデラへ」("From Rosa Parks in America to Nelson Mandela in Africa")と聴衆に向かって語りかけた。
  • グウェン・ステファニーも10月29日、U2と同じ会場で行なった公演でアルバム「ラヴ、エンジェル、ミュージック、ベイビー」(Love. Angel. Music. Baby.)から、『ロング・ウェイ・トゥ・ゴー』(Long Way To Go)を捧げた。
    ブッシュ大統領はバス起立拒否50周年記念日にあたる
  • 2005年12月1日、公民権運動記念としてローザの彫像を連邦議会議事堂内のen:National Statuary Hall(国民彫像ホール)に設置する法律に署名[1]した。
  • 全国有色人向上協会(NAACP)の最高賞スピンガン・メダルをかけるローザ・パークス(1979年)

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ローザ・パークス-Wikipedia

(2008.12.03更新)



▲米国公民権運動の活動家、縫製に従事した裁縫労働者ローザ・パークス。


▲逮捕時に乗っていたバス。ヘンリー・フォード・ミュージアムに展示されている。



▲ローザに授与されたメダル


92年8ヶ月と21日の生涯

平岩外四
Gaishi Hiraiwa     【財界随一の読書家】

(1914.08.31〜2007.05.22AM10:56)
心不全---乙女座

  • 愛知県常滑市生まれ。6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知七中入学祝に母親から夏目漱石全集を贈られる。
  • 一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、八高を経て、東京帝国大学法学部へと進ませてくれた。昭和14年(1939年)に大学を卒業。東京電灯(現在の東京電力)に入社。
  • しかし、昭和16年(1941年)太平洋戦争で陸軍に召集される。配属されたニューギニア戦線でジャングルを敗走し、飢えと熱病のため、平岩のいた隊は107名中、最後には生存者7名という地獄の体験をする。この体験は、平岩に人生を達観させる契機となった。
  • 終戦後、会社に戻り、そこで木川田一隆の目にとまり、平岩は木川田を「経営についても人生についても終生の師」と尊敬するようになる。主に総務、企画畑を歩み、後の東電会長・木川田一隆氏に早くから見込まれ1971年常務、1974年副社長を経て、昭和51年(1976年)10月東京電力社長に就任。
  • 昭和59年(1984年)6月社長を退き、会長に就任。その後、1993年相談役に就く。
  • 1977年以降、電気事業連合会会長、国家公安委員、経済審議会会長、産業構造審議会会長、2006年には宮内庁参与に起用、2006年5月まで、天皇、皇后両陛下の助言役を務めた。
  • 財界活動では、昭和53年(1978年)に経団連副会長に就任。早くから、将来の経団連会長と嘱望されていたが、昭和61年(1986年)の経団連会長人事の際、新日本製鉄社長の斎藤英四郎に会長の座を譲った形となり、無欲さを賞賛された反面、財界には平岩人気から一部に不満が残った。
  • 経済同友会代表幹事を務めた木川田氏の影響もあって、早くから財界活動を始め、1990年(平成2年)に第7代の経団連会長に就き、94年5月まで3年半務めた。公益事業出身の会長は初めてだった。就任早々、証券金融スキャンダルを受けて経団連企業行動憲章を制定し、企業モラルの確立を図った。
  • また、バブル経済崩壊後の景気低迷を受けて、対日直接投資拡大、輸入促進ならびに輸入関連規制緩和のための緊急提言を行ったり、「アジア隣人会議」を開催してアジア経済の一体化、投資促進などを各国の経済界代表とともに話し合った。平成6年(1994年)5月27日に会長職を退任し、名誉会長に。平成14年(2002年)9月にはいったん退いたが、平成18年(2006年)4月に復帰。
  • 平成19年(2007年)5月22日午前10時56分、心不全のため都内の病院で死去。享年92。
  • 細川内閣当時の93年9月、正副会長会議で経団連が続けてきた政党への政治献金のあっせんを廃止することを決めた。非自民の細川連立政権が発足し、自民党の一党支配体制が崩れるなか、企業献金を批判する世論に配慮した。平岩氏自身は企業献金は廃止すべきだとの考えだったが、副会長には慎重論が強く、経団連のあっせんを廃止したうえで一定期間ののちに廃止を含めて見直しを求めていくことになった。
  • 91年に経団連の地球環境憲章を作成。証券・金融不祥事を受けて企業行動憲章もつくり、企業が守るべき指針を示した。米欧との経済摩擦を解消するための考え方として「共生」を前面に打ち出し、社会や環境にも広げようとした。また、副会長が重厚長大産業に偏していたのを改め、流通や食品など消費者に近い業種からも選んだ。
  • 一方、湾岸戦争後の機雷処理のために日本政府として掃海艇を派遣すべきだと主張するなど政府・自民党と連携した「政治的発言」も目立った。
  • 首相の諮問機関である経済審議会の会長も務め、92年には「生活大国」を掲げた経済5カ年計画を答申した。
  • 円満な人格者、財界切っての教養人といわれた。自宅の蔵書は2万数千冊。太平洋戦争中はニューギニア戦線で「九死に一生」の経験もした。妻と母を亡くした後、東電の秘書と再婚して話題になったこともあった。
  • 名前の外四は想定外の四男ということで親が付けたらしい。うちもそうだけど、親の思い入れを過剰に入れ込んだ近年の名前に比べ、なんと爽やかで良い名前なんだろう。また、「外資」を連想させ経団連会長には打って付けの名前だった。
  • 「自ら語ったとも言われる名前の由来ですが、矢張り其れは謙遜で有って、此方が正解なのかも知れません………。こちら」(2)。
  • 些か旧聞に属するかとは思いますが、「本の重みで自宅が傾いた」との逸話で知られた氏の蔵書が、昨年11月から一般の方にも公開されて居ります。こちら 此の施設の近くには、たまさん所有(?)の動物園とか、既に八重寒紅もほころび始めた百草園、土方歳三の菩提寺としても知られる高幡不動などが在りますので、もし興味を持たれた方が居られましたら、散歩がてらに訪れられて見ては如何でしょうか」(3)。
  • ---お言葉ではありますが、我が家にはこわ〜い雌の猛獣が1頭おりますが、動物園など所有しておりません。
  • 「平岩さんの好きなことばをお供えします。〈タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない〉-レイモンド・チャンドラーの作品の出てくる台詞- たまさん 猛獣を飼っているとは凄い。小生などは、元猛獣でしたが、今は牙を抜かれて、檻にいれられて飼われている身でございます」(4)。
  • ---お言葉ではありますが、猛獣は横たわってはおりますが飼っているわけではありませぬ。ユリウスさんのように檻に入れられてはおりませんが、ボクが飼育されている状態です。ハイ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    平岩外四-Wikipedia
    (2)投稿者:Thori-Tungさん..2007/ 5/25 19:33:22(金) [1687]
    (3)投稿者:Thori-Tungさん..2009/ 1/13 09:59:54(火) [4157]
    (4)投稿者:ユリウスさん..2009/ 1/14 09:30:11(水) [4160]

(2009.01.15更新)




▲東京電力会長、第7代経団連会長(在任、平成2年(1990年)12月21日-平成6年(1994年)5月27日)だった財界人、経営者平岩外四。

 


92年8ヶ月と22日の生涯

西郷 信綱
Nobutsuna Saigo      【「古事記注釈」】

(1916.01.03〜2008.09.25 PM10:35)
急性心不全 山羊座

  • 大分県生まれ。東京帝国大学卒業。丸山静とともに「アララギ」派の短歌に傾倒する。戦後、鎌倉アカデミア教授、その後横浜市立大学、法政大学、ロンドン大学の教授を務めた。
  • 最初の著作『貴族文学としての万葉集』では、防人歌、東歌など庶民の歌とされていたものが、貴族歌人の仮託でしかないと論じた。その後国文学の世界では常識となるが、国語教育の世界では今なお浸透していない。
  • 日本文学協会に所属し、歴史社会学派の立場で研究を多数発表した。
  • 1975年から古事記の注釈に取り組み、89年「古事記注釈」(全4巻)に完成させ、角川源義賞を受賞した。1995年文化功労者。他の主な著書に「万葉私記」「源氏物語を読むために」「古代人と夢」「斎藤茂吉」など。
  • 2008年9月25日午後10時35分、急性心不全にて川崎市内の病院で逝去。享年93(満92歳没) 。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    西郷信綱-Wikipedia

(2008.10.16掲載)



▲古事記などの古代文学研究で知られる国文学者、古代文学専攻の西郷 信綱。


92年9ヶ月ジャストの生涯

前田 青邨
Seison Maeda      【院展を代表する画家】

(1885.01.27〜1977.10.27)
死因?---水瓶座

  • 岐阜県恵那郡中津川村(現中津川市)に,父常吉・母たかの次男として出生。本名廉造(れんぞう)。
  • 1898年(明治31年)母死去。上京し,叔父の営む東京本郷根津の「東濃館」に身を寄せる。1901年(明治34年)尾崎紅葉のすすめで,梶田半古の塾に入る。
  • 1902年(明治35年)師半古から「青邨」の雅号をもらう。
  • 1911年(明治44年)11月,荻江節初代家元の妹,佐橋すゑと結婚。
  • 1918年(大正7年)日本美術院評議員に推挙される。
  • 1922年(大正11年)日本美術院留学生として,小林古径と渡欧,ローマ・フィレンツェ・パリに滞在。
  • 1945年(昭和20年)郷里中津川に疎開 終戦後北鎌倉の自宅に戻る。
  • 1950年(昭和25年)東京芸術大学教授となる。
  • 1967年(昭和42年)法隆寺金堂壁画再現のため、総監修に安田靫彦(ゆきひこ)と就任。
  • 1970年(昭和45年)皇居新宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」に「石橋」を制作。
  • 1972年(昭和47年)高松塚古墳壁画模写の総監督に委嘱される。
  • 1977年(昭和52年)10月27日,鎌倉で逝去(92歳) 戒名「画禅院青邨大居士」
  • 「日本画家の前田青邨が東京芸大教授のころである。試験官になって巡回していると、受験生の一人がすばらしい絵を描いている。青邨は狂喜し、「よし、そこだ」と幾度も気合をかけた。一緒に回っていた平山郁夫氏が「試験会場ですから」と注意したという。青邨と親交のあった宮内庁の元侍従、入江相政(すけまさ)氏が随筆に書いている---青邨は昭和の皇室で香淳皇后に絵画を指導した。皇后さまの差し出す7〜8枚の絵を「だめ」「いけない」と1枚ずつ講評し、すべてを不可としたこともある。師とはそういうものだろう」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    青邨記念館:前田青邨略歴
    前田青邨-Wikipedia
    (1)読売新聞2007.09.12朝刊「編集手帳」より抜粋。


◆二代目常吉(後列右から二人目)の家族と青邨(後列右から三人目)
大正中期 ヤマツ前田商店の中庭にて

(2007.09.16掲載)




▲歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した日本画家・前田 青邨。


92年9ヶ月と11日の生涯

小篠綾子
Ayako Koshino   【コシノ3姉妹の生みの親】

(1913.06.15 〜2006.03.26 AM3:15)
脳こうそく---双子座

  • 大阪府出身。岸和田市の呉服商の家に生まれたが「これからは洋服の時代」と女学校を中退、洋裁の道に進んだ。
  • 1934(昭和9)年、同市でコシノ洋装店を開業。紳士服のテーラーだった夫が戦死、戦後は女手一つで娘3人を育てた。
  • 3姉妹がデザイナーとして活躍するようになった後も、自らは洋装店を続けた。ヒロコさんの二女、小篠ゆまさんも同じ道に進み「親子3代デザイナー」として話題になった。
  • 近年は高齢者を中心にした服作りに携わる一方、全国各地から講演に招かれることも多く「コシノのおばあちゃん」として広く親しまれた。
  • 1986年、勲6等宝冠章受章。著書に「糸とはさみと大阪と」など。自伝はテレビドラマにもなった。
  • ボクの住んでる町内にコシノ3姉妹の何方かの事務所がある。設計はボクと同じく日建設計を退社し、同じく町内に住んでいる山下和正氏だ。名前も同じ和正なのである。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2006.03.29掲載)




▲世界的なファッションデザイナー、コシノヒロコ、ジュンコ、ミチコ3姉妹の母親小篠綾子。

 


92年9ヶ月と16日の生涯

丘 灯至夫
Toshio Oka        【『高校三年生』の作詞家】

(1917.02.08〜2009.11.24)
腎不全---水瓶座

  • 本名は西山安吉。河野一郎、丘十四夫、丘灯至夫などの数々のペンネームを持つ。
  • 好々爺として知られ、その明るい人柄から作品も明るい青春歌やホームソング的なものが多い。
  • 福島県田村郡小野新町(現・小野町)の西田屋旅館(現存)の六男として生まれる。
  • 1929年、福島県郡山市立金透小学校尋常科を卒業。
  • 1932年、福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業。
  • 少年時代は体が弱く、よく家族に連れられて福島県猪苗代町の旧・沼尻鉄道に揺られて中ノ沢温泉へ湯治へ出かけていた。その記憶が、のちにヒット曲『高原列車は行く』の誕生に繋がる。
  • 体が弱かったため仕事が長続きせず、職を転々とする。ひたすら読書にふけり、詩人・西條八十主宰の雑誌に作品を載せてもらったり手紙を出したりしているうちに交流を持つ。
  • 1935年、18歳の頃に西條に弟子入り。詩、歌謡、童謡などの作詞の道に進む。
  • 1941年、日本放送協会(NHK)郡山放送局に入局。1942年、NHKから毎日新聞社(東京)に転職し地元の福島支局記者となる。
  • 1943年、小柄で脊椎が悪くいつもギプスを着用していた灯至夫にも召集令状が下る。海軍に配属されたものの病気になり、海軍病院に入院し召集解除。
  • 1948年、毎日新聞東京本社出版局に転勤し、毎日グラフ記者として活躍。
  • 1949年、たまたま手がけることとなった『母燈台』(三益愛子主演映画の主題歌。歌手:霧島昇)の作詞をきっかけに、日本コロムビア株式会社の専属作詞家となる。尚、作詞家となった後も毎日新聞社には籍を置き続けており1972年に毎日新聞社を定年退職している。その際、毎日新聞社会長より終身名誉職員の名を与えられ出版局特別嘱託となる。
  • 1963年、『高校三年生』他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞。
  • 1964年、童謡『ワン・ツー・スリー・ゴー』により日本レコード大賞童謡賞を受賞。
  • 1982年、地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける。
  • 1993年、福島県田村郡小野町に「丘灯至夫記念館」(ふるさと文化の館内)がオープンし2001年に小野町名誉町民第1号となる。
  • 2009年11月24日、腎不全のために東京都内の病院にて永眠。92歳没。
  • 丘灯至夫記念館(小野町ふるさと文化の館)がある。
  • 「新聞記者はときに、押しが強くないとやっていけない。取材で気後れしないよう、無理してデカイ顔をする時もある。惜しと顔(オシトカオ)を逆さまにして丘灯至夫 (オカトシオ)、筆名の由来という」(1)。
  • 代表曲は「高校三年生」「高原列車は行く」「東京のバスガール」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    丘灯至夫-Wikipedia
    (1)読売新聞2009.11.25朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2009.11.30掲載)



▲代表作は『高原列車は行く』、『高校三年生』、『憧れの郵便馬車』など。アニメの主題歌なども手がけており、『ハクション大魔王』、『みなしごハッチ』、『ガッチャマンファイター』などが知られている丘 灯至夫。

92年9ヶ月と21日の生涯

ターシャ・テューダー
Tasha Tudor   【コーギー・コテージ】

(1915.08.28〜2008.06.18)
死因?--乙女座

  • 1915年8月28日、マサチューÍセッツ州ボストンの名家に生まれる。父ウィリアムスはヨットや飛行機の設計技師、母親のロザモンドは肖像画家。
  • 電話を発明したグラハム・ベルを始め、マーク・トゥエインオルコットアインシュタイン等そうそうたる文化人が集まる環境で育つ。しかしターシャはそんな華やかな世界が好きになれず、社交界デビューを断ってパーティから逃げ出してばかりいた。ターシャには農場のほうが魅力的でいつも牛を欲しがっていたという。読書家で話好きだった父からは想像力が養われ、肖像画家だった母からは絵の手ほどきを受け、小さい頃から絵本を作って遊んでいた。
  • 9歳のときに両親が離婚し、コネチカット州レディングに住む両親の友人の家に預けられる。
  • 13歳の誕生日に念願の牛を飼ってもらったターシャは両親が離婚したこともあって、15歳で学校を辞めて迷わず農業の道を選ぶ。農業で培った経験は自給自足の精神を育て、子供たちに絵本を作ったり花を育てたり、その後のライフスタイルに大いに影響することになる。
  • 1938年23歳で結婚し4人の子供に恵まれるが、1961年46歳で離婚。1938年23歳のときに絵本作家としてデビュー以来、80冊以上の本を出版。デビュー作「Pumpkin Moonshine」(パンプキン・ムーンシャイン)をはじめ、次々と出版された作品はそれまで古典が中心だった児童文学に新風を吹き込んだ。身近な世界が舞台となった話にアメリカ中の子供たちが夢中になった。
  • 1945年に77の詩に挿絵の入った「Mother Goose」という絵本で、絵本画家に贈られる最も権威あるコールデコット賞の次点作(オナー賞)に選ばれた。その後、1957年に数字やアルファベットの絵本「1 is One」という作品で再びコールデコット・オナー賞を受賞する。コーギー犬が大活躍する絵本「コーギービル」シリーズはターシャの代表作。
  • 1968年にルイザ・メイ・オルコット著の若草物語の挿絵を描いている。若草物語に登場する末娘のエイミーにプロポーズする青年のモデルは、ターシャの曽祖父、フレデリック・テューダーである。1971年に児童文学に対する貢献を評価されて、Regina Medalを受賞する。
  • 1972年57歳の時に、思う存分庭造りをするためにバーモント州南部の小さな町はずれマールボロに移り住み、19世紀頃の開拓時代スタイルのスローライフな生活を営んだ。およそ30万坪の広大な土地に、家具職人の息子セスはターシャの希望する年季の入った古びた家になるように18世紀の工法を研究し、たった1人で家を造り上げた。家と庭の一帯を「コーギー・コテージ」と呼んでいる。電気や水道等、近代設備は最小限に留め、暖炉とベッドとロッキングチェアー、薪オーブンがあるような質素な室内と古い道具を使う昔ながらの生活を実践した。
  • 一日の大半を草花の手入れに費やし、小花模様のドレスやエプロンを手作りし、山羊の乳を搾り、庭でとれた果実で、ジャムやジェリー(透明ジャム)を作り、パイを焼いたりした。16歳の時、パン作りのコンクールで優勝したこともあるほど料理は得意で、料理の秘訣は「近道を探さないこと」がモットー。コーギー犬の「メギー」が良きパートナーで、他にもハトやニワトリなどの小動物と共に暮らしていた。午後4時半、庭先のポーチでお茶を飲むのが日課。
  • 日記代わりに周りの草花や動物達をスケッチした。毎日のように歩いて10分ほどのところに住んでいる長男のセスが訪ねてきて水遣りや買い物や力仕事など甲斐甲斐しく母を助け、高齢の母親の暮らしを見守っていた。2008年6月18日に自宅で家族、友人に囲まれて逝去、92歳。
  • 影響を受けた人物・エピソード・ガーデニングへの目覚め:3歳の時にグラハム・ベルの家に咲いていた中国原産のバラの花「ロサ・ユーゴニス」を見て花の魅力に目覚め、将来自分もこんな花を咲かせる人になろうと心に決める。グラハム・ベルがポケットにルピナスの種を入れて、行く先々でまいてアメリカ中にルピナスの花を咲かせたという話をベルの娘の親友だった母から聞いて、とても感動し強く影響を受ける。
  • スローライフなライフスタイルの影響:思想家ヘンリー・デイヴィッド・ソローが、自給自足の暮らしを実践した著書「ウォールデン森の生活」があるが、このソローの思想に大きく影響を受ける。ちなみにこの「ウォールデン森の生活」の著書の中にも曽祖父フレデリック・テューダー氏が登場している。
  • 「---1971年56歳の時に、昔から住みたいと願っていたバーモント州に土地を見つけ、自らデザインし、長男セスの手を借りて18世紀風の家を建てました。昔風の家具や道具を揃え、日常生活のほとんどの品を自分の手で作り、創作することを心から楽しむ暮らしでした。「四季を愛し、山羊、鶏、猫、犬、ガチョウなどに囲まれ、朝日と共に起き、自然と歩む。」その生活スタイルは、アメリカ産業革命が起こりつつあった古き良きアメリカ、1830年代がお手本となっています。1938年の処女作「パンプキン・ムーンシャイン」以来、70年の間に出版された本は、100冊以上に及び、美しい自然と日常生活を描いた絵本は、生きる喜びに満ちた作品群として知られています。日本ではNHKの特別番組で紹介され、大反響を呼んでいます」(1)。
  • 「■楽しみは創り出せるものよ ■幸せとは、心の持ち方の事よ ■思うとおりに歩めばいいのよ ■今が一番いい時よ ■絵本を描くのは、球根や、お花を買うためよ ■何かを始めなければ、何も起こらない ■時間をかけてするということは、それだけ愛情を注ぐこと ■庭仕事は体が疲れても心が満たされる ■楽しいことはそれを待つ喜びも嬉しいのよ、春は必ずやってくるのだから ■人生は短いのよ、好きな事をしなくちゃ ■今が人生で一番幸せよ」(2)。
  • 「ターシャ・テューダー、ありがとうございました。彼女のメッセージはみんな素晴らしいです。哲学があるから、このような強いメッセージを発することができるのだと思います。〈みんなが本当に欲しいのは、物ではなく心の充足です。幸福になりたいというのは、心が満たされたいということでしょう〉〈楽しいことは、それを楽しみに待つ喜びも大きいものです。楽しい行事は、その日が来るのを楽しみに考え、その日が来たら思う存分楽しみましょう〉」(3)。
  • 「ユリウスさん 私も彼女のメッセージはみんな素晴らしいと思っています。そして彼女の庭、素敵ですよね・・・」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ターシャ・テューダー-Wikipedia
    (1)「 NHKサービスセンター【イベント情報】 ターシャ・テューダー展
    (2)「 ターシャ・テューダー
    (3)投稿者:ユリウスさん..2008/11/28 21:57:02(金) [3974]
    (4)投稿者;J さん..2008/11/29 00:00:50(土) [3975]
    (5)「もの言う翔年(ユリウス)」(右欄)

(2008.12.07更新)



▲アメリカの絵本画家・挿絵画家・園芸家(ガーデナー)・人形作家ターシャ・テューダー。

彼女の描く絵は、「アメリカ人の心を表現する」絵と言われ、クリスマスカードや、感謝祭、ホワイトハウスのポスターによく使われている。50歳代半ばよりバーモント州の小さな町のはずれで自給自足の一人暮らしを始め、1800年代の農村の生活に学び、彼女の住む広大な庭で季節の花々を育て続けるライフ・スタイルに日本でも近年、注目が集まっている。

「(お金を稼ぐのは悪い事?):わたしの絵を気に入ってくださる方は、想像力が発揮できて楽しいでしょう?」というけれど、それは見当ちがいよ。わたしは、売るために絵を描いているの。生活のため、食べていくため、そしてもっと球根を買うためにね。  
(自慢はいけないか? 謙遜は美徳?):庭はわたしの自慢なの!謙遜なんかしないわ。うちの庭は、地上の楽園よ!
(ターシャ・テューダー)
--- 翔年は偽善の匂いが全くしないこういう人柄に強く惹かれます」(5)。


92年9ヶ月と24日の生涯

ハンス・J・ウェグナー
Hans J. Wegner   【デンマークの家具デザイナー】

(1914.04.02〜2007.01.26)
死因?---牡羊座

  • 1914年、靴職人で町議会議員でもあったピーター・ウェグナーの息子として、デンマーク南ユトランドのトゥナーに生まれた。やがて彼は、家具製造家の道を歩み始める。
  • Smedegadeでの工房で、木の感覚や感触、木への愛着を発見していた。1931年、17歳で指物師としてのプロライセンスを習得、兵役に付くまでの3年間、家具製造家H F Stahlberg(その工房は大工の仕事から指物仕事まですべて行っていた)で働く。ここで、技術を徹底的に学習し、自分のために、彼の最初の試みや設計を行なう。
  • 20歳でコペンハーゲンで徴集兵として働いた後、国立産業研究所で学び、コペンハーゲン家具製造家組合展に出会う。この家具展示会によって、クラフトマンシップや設計手法について多くを学ぶ。
  • その後、美術工芸学校家具科に転籍し1936年に卒業、O Mソgaard Nielsenの元で美術工芸学校に残ってで研究を続け、1938年に、建築家エリック・メイラー と フレミング・ラッセンのところで働く。
  • 1938年−コペンハーゲン美術工芸学校卒。(家具設計専攻)
    1940年エリック・メイラーとアンネ(アルネ)・ヤコブセンによって設立された設計事務所で働く。Rodhus(Rφdhus)Town Hallの設計の仕事では、オルフス市庁舎の設計に携わる。椅子のデザインを始める。
  • 1940年より椅子のデザインを始める。1943年〜1946年事務所を持ちながらウェグナーの卒業した美術工芸学校教鞭をとる。彼は1943年まで、アンネ(アルネ)・ヤコブセンとエリック・メイラーのために働き、独立。
  • 、946-48までコペンハーゲンの建築家Palle Suensonの元で働く。その後、再び自分の設計事務所を設立。
  • 1953年ローニング奨学金を受け1年間アメリカ、メキシコに滞在。その頃仕事を通じて優れた家具マイスター、ヨハネス・ハンセンと知り合い、彼らの長い付き合いが始まる。ウェグナーはヨハネス・ハンセン社から多くの椅子を発表しており、1992年にヨハネス・ハンセンが廃業した後は、その下請け企業のPPモブラー社が引き継ぐ。
  • 1984年デンマークのクイーンよりナイトの称号を受ける。
  • 1995年−ウェグナー美術館(トゥナー・ミュージアム)が生まれ故郷、トゥナーに開館。彼は自分の行った努力について「それらの外部のスタイルの古い椅子を裸にし、それらの純粋な構築に現われさせることに専念した」と語ってる。
  • 「Yチェア」「ピーコックチェア」「ザ・チェア」「ベアー・チェア」「ビーチ・ムード・チェア」「アーム・チェア」「オックス・チェア」「チャイナ・チェア」等、500種類をこす椅子をデザインしていて、世界の多くの美術館の永久コレクションとして収められるなど、世界的に高い評価を得てる。
  • 2007年−1月26日92歳で逝去。
    宮脇檀はハンス・ウェグナーのイスのコレクターである。
  • 世界的な名声得ていて、彼のデザインした椅子は、単に美しいだけでなく、とても座りやすく、現代の椅子の一つの基準を作り上げた。彼のデザインの背景には、伝統的な職人としての裏づけがあり、手がけた家具はとても繊細な職人としてのこだわりが感じられる。ミッド・センチュリー・モダンを語るときに、ハンス・ウェグナーの名前は避けて通ることはできない。
  • Yチェア(1949)は世界で最も売れたイスのひとつといわれる。
  • 「うまい!早い!分りやすい!有名すぎて案外まとまったバイオグラフィーを読むことがないので、大変ためになりました。92年間で500脚の椅子をデザインとは、なんとも驚異的ですね〜。hus Town Hall→Rodhus(Rφdhus)Town Hallです。それからヤコブセンは「アルネ」との表記が一般的のようです」(1)。
  • ハンス J ウェグナー の仕事は我々建築家の精神のルーツの一端を形成する鉱脈である。Yテェアにはお世話になりました。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ハンス・ウェグナー デザイン! What's design?
    ハンス・J・ウェグナー-Wikipedia
    (1)投稿者:ciさん..2007/ 8/23 14:02:04(木) [2217]

(2007.08.23更新)




▲家具デザイナーとして、デンマーク・モダン・デザインの代表的人物ハンス・J・ウェグナー。


◆Y-チェア


◆チャイナチェア


◆ピーコックチェア


◆1949年にデザインされたラウンドチェアのディテール


◆ウェグナーペンダント(C-P2414W) ウェグナーデザインのペンダント。ランプの位置を変え光の配光を変えたり、自在機によって簡単に灯具の位置を変えられる多機能ペンダント。

92年10ヶ月と11日の生涯

米川敏子
Toshiko Yonekawa   【生田流箏曲の人間国宝】

(1913.02.02〜2005.12.13  AM05:44)
死因?---水瓶座

  • 大正2年兵庫県姫路市生まれ。本名:江藤敏子。生田検校(1656〜1715)から始まる生田流箏曲を父米川琴翁に師事。
  • 昭和17年日本文化連盟コンクール第1位を始め、若くして高い境地を示し、名声を博す。演奏と作曲に才能を発揮。
  • 古典伝承と同時に新作発表にも意欲的で「御羽車」「梅道成寺」など優れた作品を残した。
  • 芸術祭奨励賞、芸術祭優秀賞等を受賞。平成8年、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。
  • 御存知のように、箏曲には生田流と山田流という大きな2つの流派がある。生田流は手につける爪が四角で、爪の角を使うため、楽器に対して斜に構える(山田流の爪は丸く、奏者は楽器に正対する)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄。

(2006.02.15掲載)




▲古典伝承と同時に新作発表にも意欲的で「御羽車」「梅道成寺」など優れた作品を残した米川敏子。

92年10ヶ月と15日の生涯

フリードリヒ・ハイエク
Friedrich August von Hayek  【ノーベル経済学賞受賞者】

(1899.05.08〜 1992.03.23)
死因?---牡牛座

  • オーストリア生まれの経済学者、哲学者。ウィーン大学で当初は法学を学び、法学と社会科学の博士号を取得した。同時に経済学や心理学などへの関心を深め、オーストリア学派のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの私的ゼミへ参加した。
  • 1923年に渡米し、ニューヨーク大学で研究助手として働く。その後、ロンドン大学(LSE)やシカゴ大学、フライブルグ大学などの教授を歴任した。1938年には英国の市民権を取得している。
  • 1944年に発表した「隷属への道」("The road to serfdom")では社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムが同根の集産主義であると批判し当時のベストセラーとなる。
  • 1947年にはリバタリアニズムに立脚する学者が集結した組織「モンペルラン・ソサイエティー」を組織し、その初代会長を務めた。1974年ノーベル経済学賞受賞。田中清玄と親交を結び、ノーベル賞授賞式には唯一の日本人としてメーンテーブルに招待した。
  • 1991年には、ブッシュ大統領により、アメリカの民間人へ与えられる最高の栄誉賞である大統領自由勲章を受章。1992年の逝去の報に際して、ブッシュ大統領は直ちに追悼声明を発表し、「現代の最も偉大な思想家の一人」と称している。
  • ハイエクは現在はリバタリアニズムの思想家の一人とみなされているが、本人は古典的自由主義者(classical liberal)を自称し、エドマンド・バークに倣いOld whigと呼ばれることを好んでいた。 またハイエクの「自由」に対する考えは、単に経済学にとどまらないものがあった。ハイエクは集産主義と計画主義には市場のどの参加者よりも一部のエリートの方が賢明であるという前提があると考えた。だが実際においては市場の情報や知識をすべて知ることは不可能であり、部分的な情報を熟知する参加者達が参加する市場こそがもっとも効率のよい経済運営の担い手であると説いた。
  • さらにハイエクは特にフランスに見られるような「理性」に至上の地位を与えるような合理主義には常に反対していた。人間は現存の秩序をすべて破壊し、そこにまったく新しい秩序を建設できるほど賢明ではないとし、既存の秩序、つまり「自然発生的秩序」の重要性を説いた。彼の自由主義は、あくまでイギリス・アメリカ的経験論に基づくものである。コモン・ローなどがその代表例としてあげられる。彼は理性の傲慢さのもたらす危険性を常に問題視していた。
  • デカルト以来の「理性主義」を「設計主義的合理主義(constructivist rationalism)」と呼び、自由主義的な「進化論的合理主義(evolutionary rationalism)」と峻別、自由主義を体系的に論じ「理性主義」を批判した。
  • そもそも、人間の理性は、文明社会そのものを創造する能力はもっていない。人間の行為は、一つは先天的で本能の欲求によるものであり、もう一つは人間社会が歴史的に経験を通して試行錯誤と取捨選択を積み重ねることにより発展してきた法(ルール)、伝統、規範に従ってのものである。文明社会は人間の営みの結果であっても、それは人知を超えたものによって発展しているものであり、そこに人間の理性(知力)が入る余地はわずかである。人間はその本質において、誤りに陥りやすい存在であり、人間社会は「漸進的な発展(改良、進歩)」が期待されるのであって、もし理性を乱用し「革命的な進歩」を目指した場合、文明そのものを破壊する。
  • 道徳規則の形成も、人間の社会における実践的な営みの経験の中で成長したものであり、人間の理性による意識的な発明ではない(この考えはヒュームの『人間本性論』に通じる)。同様に、社会秩序も「自生的秩序(a spontaneous order)」であり、自由社会と不可分の関係にある、「法の支配(rule of law)」と市場経済の二大原則の確立もこれにほかならない。
  • こうした考えから、計画経済と集産主義(collectivism)、それに基づく社会主義、共産主義、ファシズムに対して反対し、同時にファシズムも左翼に分類した。
  • その思想は、後の英国のマーガレット・サッチャーや米国のロナルド・レーガンによる新保守主義・新自由主義の精神的支柱となった。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは母方の従兄弟にあたる。
  • 「合理的な経済秩序の問題に特有の性格は、われわれが利用しなければならないさまざまな状況についての知識が、集中され統合された形では決して存在しないという点にある。[・・・]したがって社会の経済的な問題は、単に「与えられた」資源をいかに配分するかという問題ではない。それはだれにも全体としては与えられていない知識を[社会全体として]どう利用するかという問題なのである」(1)。
  • 「『ハイエク 知的社会の自由主義』---ウェブ資本主義の正体 半世紀前にインターネットを予見した男がいた---市場経済を全面的に信頼したハイエクの思想の今日的意義を明らかにする。現実がハイエクに追いつくには20世紀末までかかったが、彼の思想は、現在の脳科学、法体系、知的財産権、インターネットを理解する鍵を与えてくれる」(2)。
  • 「ハイエクは、人間は無知だという洞察がありました。完全情報はありえず、財の最適配分という発想そのものを疑った。むしろ、無知であるが故に、人類が知恵を蓄積させてきた伝統や慣習としての市場に価値があると考えました」(3)。
  • ハイオクではない、ハイエクである。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    フリードリヒ・ハイエク-Wikipedia
    (1)「ハイエクと知的財産権 - 池田信夫 blog
    (2)PHP新書の新聞広告より抜粋。
    (3)読売新聞2009.04.20朝刊「危機に問う経済思想」(橋本努)より抜粋。

(2009.05.04更新)


★20世紀を代表するリバタリアニズム思想家

▲オーストリア学派の代表的学者の一人であり、経済学、政治哲学、法哲学、さらに心理学にまで渡る多岐な業績を残したフリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク 。


92年10ヶ月と23日の生涯

ウィレム・デ・クーニング
Willem De Kooning   【抽象表現主義を代表する一人】

(1904.04.24〜1997.03.19)
死因?---牡牛座

  • 20世紀のオランダ出身の画家。主にアメリカで活動した。抽象表現主義を代表する一人。具象とも抽象ともつかない表現と激しい筆触が特色である。
  • デ・クーニングは、ジャクソン・ポロックと並ぶ「アクション・ペインティング」の代表的作家であり、抽象表現主義の創始者の一人として、20世紀美術史の上に重要な位置を占める。
  • 1904年、オランダのロッテルダムに生まれた。青年期は商業美術の会社で働くかたわら、ロッテルダム美術工業学校の夜学で学んだ。オランダ時代にはモンドリアンらの「デ・ステイル」運動に接している。
  • 1926年渡米。以後、アメリカで活動する。1927年頃、アルメニアから来た画家、アーシル・ゴーキーと知り合い、ともにピカソの刺激を受ける。
  • 1930年代半ばまでは、商業美術の仕事で生計を立てていた。また、マーク・ロスコら他の抽象画家たちとともに、WPA(公共事業促進局)の連邦美術計画の仕事にも携わった。連邦美術計画とは、ニュー・ディール政策の一環として、画家たちに公共建築の壁画の制作等を委嘱したものである。1948年、ニューヨークのイーガン画廊で初の個展を開催する。
  • 1940年代頃からは人物表現に関心を寄せ始める。1950年代初期から始まった「女」のシリーズがよく知られている。極度にデフォルメされた肉体を激しい筆致で描いて話題を呼ぶ。
  • ポロックの「ドリッピング」(絵具をしたたらせる)絵画とは異なり、デ・クーニングの描く「女」はキャンバスに筆で描いたものであるが、感情のおもむくままに筆を走らせたように見える画面は、ほとんど抽象に近付いている。
  • その後抽象的傾向を強めるが、具象が失われることはなく、具象と抽象のはざまにとどまって作品を描きつづけた。1960年代後半から再び「女」のテーマに取り組んでいる。1980年代には流れるような筆致と鮮やかな色彩を獲得。
  • 「クリスティーズが2006年11月15日に行った競売では、デ・クーニングの「無題XXV」(77年)が2710万ドル(約32億円)で落札。第二次世界大戦後の絵画としては最高額を記録した」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ウィレム・デ・クーニング-Wikipedia
    (1)読売新聞2006.11.20夕刊より抜粋。

(2007.01.04掲載)




▲米国の画家で抽象表現主義を代表する一人・ウィレム・デ・クーニング 。


92年11ヶ月と20日の生涯

バルテュス
Balthus     【今世紀最後の巨匠】

(1908.02.29〜2001.02.18)
死因?---魚座

  • 画家。ポーランド系フランス人としてパリで生まれ。本名はバルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ。
  • リルケが序文を書いた猫の画集「ミツ」を出版したのはまだ13歳の頃。その後、フランスに移住し、ジャコメッティと知り合う。
  • ベルナーオーバーラント地方をモデルに「山」の制作にとりかかり、再びスイスへ戻る。その頃はかつてバイロンが暮らしたジュネーヴの邸宅に滞在。
  • 晩年には、ヴォー州の山村ロシニエールの古い農家グランシャレー(当時はホテル)を買い取りアトリエ兼住まいとし、2001年に亡くなるまで創作を続けた。
  • 「バルテュスはポーランドの貴族の流れを組む家柄の伯爵として、1908年パリに生を受けた。彼の父のエリック(Erich)は美術史家、画家、また舞台芸術家として活躍。母のバラディーヌ(Baladine)もまた芸術家であり、一時期、かの有名な詩人ライナー・マリア・リルケの恋人でもあったという。幼い頃から、画家ボナールマティスらが夕食をしに来たり、ニジンスキーやストラヴィンスキーといった20世紀初頭の芸術家たちに囲まれて育つ。芸術家としての素質は、こうして自然と身についていった。1922年、バルテュスが12歳までに描いていた40枚の素描画集『ミツ』(Mitsou)が出版。少年時代から東洋に憧れを持って付けた日本名「ミツ」(光)という名の猫と少年の交流をモチーフとした筋書きがあるが、言葉による説明は一切なく、子供らしい素朴な絵だけで構成されている。かつて母の恋人でもあり、いつまでも家族の大切な友人であったリルケが、これを大絶賛。リルケの書いた序文では、猫について哲学的考察がなされている。友人にはアントナン・アルトーパブロ・ピカソジャコメッティアルベール・カミュ、ピエール=ジャン・ジューヴ、ルネ・シャール、フェデリコ・フェリーニなどなど…。そういえばパリのピカソ美術館には、バルテュスの作品がいくつか展示されている。そして1962年に、熱烈な日本賛美者であったマルローからパリのプティ・パレ美術館での日本美術展開催のための選定を任され、訪れた東京で20歳だった出田節子と出会い、67年に結婚。その時バルテュスは59歳」(1)。
  • 「私は婦人の裸体画を描くことは決してないでしょう。婦人のそれよりも、少女の美しさに、より一層の興味や完璧さを覚えてしまったのです。少女たちは、生成や 【前‐存在】(l’avant-腎re)を体現し、最も完成された美を象徴しています。婦人は、世界の中に既に位置づけられた存在ですが、思春期(adolescent)の娘−ラテン語adolescereは「大きくなる」の意−はいまだその場を見出していないのです。婦人の肉体は全体的にあまりにも定義され過ぎていますが、少女の肉体はもっと美しい(笑)。私の絵に関する誤解は、まさに少女たちへのこうした話しにあるのでしょう。私の作品を「官能的」と形容するのは馬鹿げています。少女たちは聖なる、神々しい、天使的な存在なのです 」(2)。
  • 今世紀最後の巨匠、20世紀で最も優れた写実主義の画家といわれ日本にもファンの多いバルテュス。人物や動物の繊細な描写で知られた。存命中にパリのルーブル美術館に絵が展示された数少ない画家だった。
  • フランスのラジオ放送によると、18日、スイスの自宅で死去。92歳。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「第5回 バルテュス夫妻
    (2)BALTHUS, Propos recueillis par Cristina Carrillo de Albornoz, ヅitions Assouline, 2000.より。

(2004.06.02更新)



▲20世紀で最も優れた写実主義の画家といわれ日本にもファンの多いバルテュス。




92年11ヶ月と22日の生涯

高松宮妃喜久子
Kikuko Takamatunomiya 【最後の将軍・徳川慶喜の孫】

(1911.12.26〜2004.12.18)
敗血症---山羊座

  • 旧名:徳川 喜久子。高松宮宣仁親王の妃。 東京生まれ。
    公爵 徳川慶久(1884年-1922年)の次女で、母は有栖川宮威仁親王の第二王女・実枝子(1891年-1933年)。
  • 貴族院議員・公爵 徳川慶光(1913年-1993年)の同母姉(文筆家・榊原喜佐子(1921年-)は異母妹)。父方の祖父は徳川慶喜。 印は撫子。
  • 彼女達の母・実枝子は、威仁親王の3人の子女の間でただ一人、夭逝を免れた存在であった。 そのため、有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王の妃に、威仁親王の外孫・喜久子が早くから擬されていた。 1939年(昭和14年)、女子学習院本科を卒業し、翌年2月4日、19歳の時に結婚。 その後、昭和天皇の名代として14ヶ月にわたり欧米を周遊訪問。
  • 高松宮とは半世紀余りにわたって連れ添ったが、ついに子に恵まれず、1987年(昭和62年)2月3日に高松宮が薨去。
  • 母(徳川実恵子)を直腸癌で亡くしたのを機に癌撲滅運動に関わった。 「高松宮妃癌研究基金」の設立に関与して名誉総裁となったことや、日仏会館の総裁として日仏交流に尽くしたことが、業績として挙げられる。高松宮家は後継となる子孫がいないので、これで系統が途絶えることとなった。
  • 著書には『菊と葵のものがたり』(中央公論社、1998年)などがある。
  • 「夫君が残した「高松宮日記」全八巻(中央公論社)の公刊は妃殿下の英断なしには実現しなかった。反対する宮内庁を押し切った。「差し止める権限が宮内庁にあるのですか」「ありません」---その返事に「それなら私は出すわよ」と妃殿下。おかげで、戦前、戦中、戦後を通じ皇室、軍の内部で記された第一級の資料を読むことが出来る」(1)。
  • 紀宮様を孫のようにかわいがり、結婚を心待ちにされていたという。昨日(2004.12.29)紀宮様の婚約が発表された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)読売新聞2004.12.20夕刊 「よみうり寸評」より抜粋。

(2004.12.31掲載)




▲紀宮様を孫のようにかわいがり、結婚を心待ちにされていたという高松宮妃喜久子様。

 

?喜久子様の歌?

◆「温かくやさしき母をうばひたる癌とたたかはむ命のかぎり」

◆「戦いのはてて五十年(いそとせ)のこされし君が日記を世に伝えなむ」

92年11ヶ月と24日の生涯

杉浦幸雄
Sachio Sugiura   【風俗漫画の重鎮/現代の浮世絵師】

(1911.06.25.〜2004.06.18 PM10:54)
肺炎---牡牛座

  • 東京都出身。旧制中学卒業後、本郷絵画研究所を経て当時の人気漫画家岡本一平に師事。31年、「アサヒグラフ」への投稿漫画でデビュー。
  • 1932年、近藤日出造、横山隆一らと漫画制作グループ「新漫画派集団」の結成に参加。1938年「銃後のハナ子さん」で人気を得、作品は映画化された。
  • 戦後は「東京チャキチャキ娘」「淑女の見本」など健康なエロチシズムを発散する女性風俗を描き続け、そのジャンルで独自の地位を築く。主婦、有閑マダム、ホステスなど女性の描き分けの卓抜さで知られた。
  • 90歳を過ぎても雑誌連載を執筆、旺盛な創作意欲は最期まで衰えを知らなかった。
  • 1983年から週刊「漫画サンデー」誌で連載したお色気コメディー「面影の女(ひと)」は長期連載で知られた。
  • 「大きな人物。全く威張ったところがなく、春風駘蕩とした本物の大人でした」(小島功)。
  • 「1966年から「週刊漫画サンデー」に連載された「淑女の見本」は〈全日本女性のテキとして、昭和史になをとどめるに値する〉と曽野綾子氏に言わしめるほど評判になった」(1)。
  • 死去の時点で、レギュラー連載が3本。その生涯現役ぶりは、間違いなくギネス級だった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    Yahoo!ムービー - ニュース <杉浦幸雄さんが死去 ...
    (1)読売新聞2004.08.08朝刊「追悼妙」(石田汗太)より抜粋。

(2004.08.24更新)




▲色気のある女性を描いた作品で知られる漫画界の最長老・杉浦幸雄。

 

◆「漫画がなければわが人生はなく、女性なくば杉浦漫画はない。女性は観音様」(杉浦幸雄)。




 92歳のエポック!

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(2003.07.09)

90-91-92-93-94-95-96-97-98-99

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人生のセイムスケール建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条ポートフォリオ
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