玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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90-91-92-93-94-95-96-97-98-99

age 93


50音インデックス


■93歳の
 シンクロニシティ


■93歳-?
ストラディヴァリ
ハリエット・タブマン
池田遙邨
トウ小平/トンシアオピン
稲川 聖城

■93歳-前半
ジーン・ディクソン
竹腰 健造
近藤芳美
神近市子
伊藤 清
金栗 四三
村上三島
斎藤 史
ロナルド・レーガン
シャハト
ジェラルド・フォード
朝比奈 隆
ポーリング

■93歳後半→進む
鏑木清方
鈴木善幸
村野藤吾
荒畑寒村
石津謙介
シモーヌ・シモン
宇都宮徳馬
徳川幹子
山口 彊
湯浅芳子
富安 風生
長谷川如是閑
オスカー・ココシュカ
アンドレア・ドーリア


■93歳のエポック


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93歳の語録



「ディテールの美がすなわち建築そのものの美」
(村野籐吾)

「生命は刹那の事実なり、死は永劫の事実なり
(長谷川如是閑

93歳のシンクロニシティ!

  • 93歳の生涯には多くのの政治家がシンクロしている。トウ小平、レーガン、フォード、鈴木善そして荒畑寒村、宇都宮徳馬である。
      
       
    ●中国の最高実力者として「近代化」「改革・開放」政策を推進したトウ小平(1904.?〜1997.?)は93年の生涯(?座)。
    ●「レーガノミックス」、「プロ・パテント(知財重視)政策」を推進した第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン(1911.02.06〜2004.06.05)は肺炎で93年3ヶ月と30日の生涯(水瓶座)。
    ●米第38代大統領ジェラルド・フォード(1913.07.14〜2006.12.26)も
    肺炎で93年5ヶ月と12日の生涯 (蟹座)。
    ●1981年5月、レーガン大統領との日米首脳会談で日米関係を初めて「同盟関係」と規定した鈴木善幸元首相(1911.01.11〜2004.07.19)も肺炎で93年6ヶ月と8日の生涯(山羊座)を終えた。
    ●サンディカリズムからマルクス主義に至り、1922年日本共産党結成に参加した社会主義運動家・荒畑寒村(1887.08.14〜1981.03.06)は死因?で93年6ヶ月と20日の生涯(獅子座)。
    ●戦後政界にあって、一貫して、朝鮮民主主義人民共和国との関係改善に取り組んだ宇都宮徳馬(1906.9.24〜2000.07.01)も肺炎で93年9ヶ月と7日の生涯(天秤座)であった。

  • 「ロン-ヤス」関係の中曽根さん(1918.05.27〜)も93歳には肺炎にくれぐれもご注意を!。

    (2007.01.06更新)   
             



93年?の生涯

ストラディヴァリ
Antonio Stradivari   【ヴァイオリン製作の神】

(1644.?〜1937.?)
死因?---?座

  • ストラディヴァリはアントニオ・ストラディヴァリに始まる一族、その工房、及びヴァイオリンを指す。
  • 12歳でアマーティに徒弟として拾われる迄のいきさつは生年月日と共に一切不明。
  • アントニオは師アマーティの仕事を手伝いながら常に研究に熱心で、次第にアマーティ形を脱するようになり、1700年頃から壮麗な独自のストラディヴァリ形を完成。
  • 主に名器と言われるのは1700〜1720年の作品で、材質は勿論、ニスの合成法の秘密は今日でも解明されていない。
  • 彼の元からも、傑出した門下生を出している。ガリアーノやビアチェンッツァなどである。
  • 名器ストラディバリウスは約300年前、イタリアの名匠アントニオ・ストラディバリによって作られ、今日まで“弦楽器の王様”として君臨、一丁数億円といわれる。
  • 「イタリアの名匠アントニオ・ストラディヴァリが制作した「ハンマー」と呼ばれるバイオリンがニューヨークで競売にかけられ約3億9000万円で落札された。競売商クリスティーズによると、楽器では過去最高額だという。このバイオリンは1707年製作の名器で、米国を拠点に活動するバイオリニスト竹沢恭子さんが貸与を受け、約1年前まで使用していた。落札者は明らかにされていない」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2006.05.17 夕刊より抜粋。

(2006.06.12更新)



▲ヴァイオリン製作の神とまで崇められているアントニオ・ストラディヴァリ。


▲イタリアの名匠アントニオ・ストラディヴァリが制作した「ハンマー」

93年?の生涯

ハリエット・タブマン
Harriet Tubman   【「女モーセ」/「黒人のモーセ」】

(1821.03.10〜1914.?/1913?)
肺炎---魚座

  • メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれる。生まれたときの名はアラミンタ・ロス。ハリエットは母親の死後、母の名から取って名乗ったもの。5歳からメイド兼子守りとして働きはじめた。
  • 1844年ごろ、同じく奴隷であるジョン・タブマンと結婚。長年の奴隷生活に堪え、奴隷監督からの殴打などを含む虐待に耐えた。奴隷監督から頭部に受けた殴打は後遺症を残し、生涯ナルコレプシーに悩まされることになる。
  • 1847年、奴隷主が死に、奴隷が売られると聞いたことをきっかけに、脱出を渋る夫を残して北部のフィラデルフィアへ逃亡。逃亡の途上、奴隷解放運動主義者でアンダーグラウンド・レールロードを支援していたクェーカー教徒に助けられる。
  • フィラデルフィアではレビ・コフィンやトーマス・ガレット、フレデリック・ダグラス、ジョン・ブラウンらの奴隷解放運動家と交流を持ち、アンダーグラウンド・レールロードの「車掌」としてその運行をはじめた。
  • 1850年から1860年の間に約19回の南部との往復を繰り返し、300人余りの奴隷達の逃亡を助け、自由に導いた。ハリエット・タブマンは一度も捕えられず、「車掌」として成功をおさめた。
  • そのためタブマンに掛けられた賞金額は合計4万ドルを超えた。南北戦争中はコックおよび看護婦として働くとともに、北軍のためのスパイをも務めた。この任務においても、タブマンは一度も捕えられることはなかった。
  • 南北戦争が終わり、南部での奴隷解放の後も、黒人と女性の権利のために活動家として活躍。
  • 伝記筆者セーラ・ブラッドフォードの協力を得て、1869年に半生記『ハリエット・タブマンの生涯の情景』を出版。これはタブマンの財政的困難を著しく改善した。南北戦争後30年を経過するまで、戦争中のスパイとしての軍務活動にも関わらず、タブマンには政府からの恩給が支給されなかったからである。同年、黒人の退役軍人・ネルソン・デービスと再婚。
  • その功績から尊敬をこめて、「女モーセ」「黒人のモーセ」(Black Moses) とも呼ばれた。古代エジプトで奴隷となっていたイスラエル人をカナンの地へ導いた、古代の預言者モーセになぞらえてのことである。
  • ジョン・ブラウンはタブマンを「タブマン将軍」と呼び、「この大陸でもっとも勇敢な人物」と評した。
  • フレデリック・ダグラスもまた、「ジョン・ブラウンを除けば、奴隷の逃亡を助けるため、タブマン以上に危険で困難な仕事をした人物を挙げることは出来ない」と述べている。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ハリエット・タブマン - Wikipedia
    信仰のうたとして-from their faith in Christ

(2006.04.04掲載)




▲アメリカ合衆国メリーランド州ドーチェスター郡出身の、アンダーグラウンド・レールロード(地下鉄道、アメリカ北部やカナダへ黒人奴隷が逃亡するのを援助する秘密組織)の女性指導者のひとりハリエット・タブマン。

 


◆ハリエット・タブマン(一番左)と彼女が逃亡を援助した元奴隷達の写真。

93年?の生涯

池田遙邨
Youson Ikeda   【途方もない自由人】

(1895〜1988=明治28年〜昭和62年)
死因?---?座

  • 日本画家。倉敷市玉島乙島に生まれ。 本名池田 昇一。幼いころから絵の才能を発揮し、明治43年(1910)大阪に出て松原三五郎の画塾に入り、洋画を学ぶ。
  • 17歳の時、福山で初の個展を開く。18歳で水彩画「みなとの曇り日」が文展に初入選。天才画家として大評判となる。
  • 大正8年、京都の竹内栖鳳に入門、日本画を学ぶ。大正3年(1914)第8回文展に水彩画が入選。大正8年(1919)竹杖会に入り竹内栖鳳に師事。同年第1回帝展に「南郷の八月」が入選。同15年(1926)年京都市立絵画専門学校研究科を修了。
  • 昭和3年(1928)第9回帝展で「雪の大阪」が、同5年(1930)第11回帝展で「烏城」が特選となる。同11−24年(1936-49)京都市立絵画専門学校助教授をつとめる。
  • 人間の内面を見つめるムンクゴヤに傾倒した遙邨は、関東大震災(大正12年)の惨状を作品「災禍の跡」に仕上げて帝展に出品し、落選。失意のうちに倉敷に帰郷。その後、本栄寺にこもって習作に励み、ついに大和絵風の画風を確立して、意欲作を発表して帝展で特選を獲得。 1953(昭和28)年画塾・青塔社を主宰。
  • 旅を愛した遙邨は浮世絵師の歌川広重にならって徒歩で東海道を旅をして「昭和東海道五十三次」を描いたのをはじめ、全国各地の風景を描く。 晩年には、漂泊の俳人種田山頭火の句をモチーフに連作をしている。
  • 作風は、年とともに自由で闊達となり、自然を描いてユーモアに満ちた豊かさが感じられる。作品には、キツネ、タヌキといった小動物が登場し、見る人の心を和ませる。
  • 故郷倉敷の風景もこよなく愛し、描いた。故郷への思いは、生前700点もの作品・スケッチを倉敷市に寄贈した。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    名誉市民
    池田遙邨

(2006.05.01掲載)




▲晩年には、漂泊の俳人種田山頭火の句をモチーフに連作をした池田遙邨。

 


◆山頭火の扮装をする遥邨


◆初期の代表作「災禍の跡」
(倉敷市立美術館所蔵)

93年?の生涯-----2004年生誕100年

トウ小平/トンシアオピン
Shouhei Tou   【元中国の最高実力者】

(1904.?〜1997.?)
死因?---?座

  • 中国の政治家。四川省出身。21歳、フランス留学中に中国共産党に入党。23歳、帰国。62歳で文化大革命で失脚するまでの約10年間、劉少奇とともに政務、党務を指導。
  • 69歳、国務院副総理として復活するが、72歳、天安門事件で再度失脚。74歳再度復活し、副主席兼政治局常務委員に就任。
  • 77歳、中央軍事委員会主席も兼任、78歳で党中央顧問委員会主任、79歳で国家中央軍事委員会主席。
  • 83歳、党政治局常務委員を引退後、順次要職を離れたが、中国の最高実力者として「近代化」「改革・開放」政策を推進 。
  • 「父は怖かった。めったに口出ししなかったが、いったん口を開けば、ズバリ急所を突き、相手は何も話せなくなった。完全無欠なものを好み、不潔さを嫌った」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)長女・トウ林さん=画家。

(2004.08.26更新)




▲中国の最高実力者として「近代化」「改革・開放」政策を推進したトウ小平。

93年?の生涯

稲川 聖城
Seijo Inagawa    【稲川会総裁】

(1914.?〜2007.12.22)
肺炎---?座

  • 1914年11月、横浜市西区浅間町に生まれる。本名: 稲川 角二(いながわ かくじ)。 1933年、神奈川県の片瀬(後の藤沢市)を本拠とする堀井一家の3代目・加藤伝太郎の下で修行に入る。ここで生涯の兄貴分となる横山新次郎と出会った。
  • 1935年、会津若松歩兵第29連隊に現役兵として入隊(父親が福島県出身であった為)。 1936年、二・二六事件に鎮圧軍側の一人として出動。
    1941年、鶴岡政治郎の代貸になる。
  • 1949年頃に静岡 熱海で「稲川組」を結成。 横浜の愚連隊だった出口辰夫(通称モロッコの辰)、井上喜人、吉水金吾、林喜一郎(後の稲川会会長代行)を若衆とし(彼らは四天王と呼ばれた)、一気に勢力を拡大した。 その後、鶴岡に因んだ「鶴政会」、次いで「錦政会」に改称。第一次頂上作戦の影響による一時的解散を経て1972年には「稲川会」に改めながら、日本有数の大組織に育て上げた。
  • 1985年、稲川会会長を五代目横須賀一家総長・石井隆匡(進)に譲り、自身は稲川会総裁に就任。
  • 2007年12月22日、東京都内の病院で肺炎のため死去。享年94(93歳没)。
  • 稲川会は92年山口組や住吉会とともに指定暴力団の指定を受けた。現在は東京都港区六本木に本拠を置き、勢力範囲は1都1道22県に及ぶ。構成員約5300人、準構成員約4100人で、山口組、住吉会に次ぎ全国3番目の規模。
  • 稲川会3代目会長・稲川裕紘は実子(長男)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    稲川聖城-Wikipedia

(2007.04.08掲載)




▲その世界で「日本一の博徒」を意味する天心の号を持つとされる指定暴力団稲川会初代会長・ 稲川聖城。


93年と22日の生涯

ジーン・ディクソン
Jeane Dixon    【ジーン・ディクソン効果】

(1904.01.03[公称]/ 1917.?/1918.?〜 1997.01.25)
死因?---山羊座

  • ウィスコンシン州、メドフォードの生まれ。彼女の家系で彼女のみが特異な能力を持つ。8歳のときに、ジプシー女から、水晶球を与えられ、その中に未来を見るようになる。
  • 結婚後、予知能力はさらに発展し、水晶球以外の方法でも未来を垣間見えるようになった。ケネディ大統領暗殺の予言や、Chyrenを専制世界帝国の支配者・反キリストの独裁者とする予言は有名。
  • ケネディ暗殺を予言したとして有名になったが、外れた予言も多いことで知られ、当たった予言は覚えているが外れたものは忘れられがちなため、実際より的中率が高いように思い込まれることが"ジーン・ディクソン効果"と呼ばれたりしている。
  • 「彼女は毎年、新年を占う娯楽出版物で 取り上げられた。ディクソン女史は、どんな問題についても、まったく何一 つ正しく言い当てたりしなかった。たとえば、彼女は月面着陸競争でソ連が アメリカに勝つと予言した。もっとも、彼女の予言のほとんどは、あいまい で漠然としたものか、ただ可能性について述べただけのものだった。だがし かし、彼女がケネディ暗殺を予言していたという伝説をマスメディアが永続 化したため、彼女は非常に優れた霊能力者として名声を集めた。1956年、彼女はパレード誌上で、1960年の大統領選で共和党が勝ち、その大統領 は``必ずしも第1期ではないけれども''執務室で暗殺されるか死亡するだろ う、と予言したのだ。しかし1960年には、明らかに忘れ去るか黙殺するかし て、彼女ははっきりと``ジョン・F・ケネディは大統領選に敗れるだろう''と 予言したのだ。今年の最終版に載っていた彼女の死亡記事で、 サクラメント・ビー紙 The Sacramento Bee はJFKの暗殺を予言した と宣言して、ジーン・ディクソンの霊能力を不朽のものとした。ジーン・ディクソン効果とは、マスメディアが霊能者が当てて みせたほんのわずかの予言を誇大宣伝して大衆に記憶させる一方で、ずっ とたくさんある外れた予言については忘れたり無視したりする傾向をさす」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ジーン・ディクソン-20世紀の予言
    「ジーン・ディクソン-Wikipedia」
    (1)「Skeptic's Dictionary:

(2007.04.08掲載)




▲ケネディ暗殺を予言したとして有名になった米国の超能力予言者、占星術師ジーン・ディクソン。


93年1ヶ月と3日の生涯

竹腰 健造
K-Takekoshi   【ボクの祖国の建築家】

(1888.06.25〜1981.07.28=明治21年〜昭和56年)
死因?---蟹座

  • 1888年6月25日 金沢生まれ。父は岩村高俊男爵。10歳のとき竹腰家の養子となる。
  • 1912年 東京帝国大学工科大学卒業。
  • 1913 ロンドン留学
  • 1917 帰国し住友総本店に入社。
  • 1933年 住友合資から5万円の出資と29名の移籍を得て(株)長谷部竹腰建築事務所を設立し、長谷部鋭吉と共に常務取締役に就任。
  • 1944年 大阪北港(株)と(株)住友ビルディングが合併し、住友土地工務(株)と改称。住友土地工務(株)に営業譲渡し,同社専務取締役に、長谷部鋭吉が取締役に就任。
  • 1945年 住友土地工務を日本建設産業(株)と改称し、新たに商事部門を増置(現在の住友商事の前身)し社長に、長谷部鋭吉が取締役に就任。
  • 1947年 公職追放。
  • 1950年 双星社竹腰事務所創設。建築業界に復帰。日本建設産業の建築部門が独立し,日建設計工務(株)発足。
  • 1970年 社名が株式会社日建設計と改称される。
  • 1981年7月28日 93歳で逝去。
  • 健造は明治21年(1888年)6月25日、石川県金沢市で生まれた。当時、父親の岩村高俊は石川県知事であった。岩村高俊は土佐藩士の岩村英俊の三男で、明治維新に際しては、軍監として戊辰の役を平定した人物であった。また、佐賀県権令時代には江藤新平が率いる佐賀の乱を鎮めた。その後、愛知、石川、福岡、広島の知事を歴任し、その間には貴族院議員にも選ばれ男爵となった。父・高俊の長兄と次兄は北海道開拓の父と言われる岩村通俊と自由党の領袖として伊藤内閣で農商務大臣を務めた林有造。そして岩村通俊の五男は法曹界で活躍し、検事総長から近衛内閣と東条内閣で司法大臣を務めた岩村通世。林有造の次男は、戦前戦後を通して中央政界で活躍し、吉田内閣で副総理を務めた林譲治。
  • 健造が竹腰姓を名乗るようになったのは、福岡にいた10歳のとき、旧小倉藩出身の名家である竹腰家の養子になったからである。そこには、後の妻となる1人娘の静がいた。養父は炭鉱を経営していた。
  • 学業においては優秀で、豊津中学校から一高、東京帝国大学工科大学へと順調に進む。建築を専攻したが、希望というわけではなく、選択肢が土木、機械、採鉱、建築しかなかった。そのなかで建築を除くと、養父や伯父のもとに戻ることになるので、建築を志望した。大学卒業を間近に控え、健造は進路を、西洋美術評論の草分けで、当時、美術学校の教授を務めていた実兄の岩村透に相談し、健造はその勧めに応じて、英国に留学することになる。留学前に静と結婚し、大正2年(1913年)10月、ロンドンに向かった。ロンドンでは、アーキテクチャル・アソシエーション・スクールで勉強し、ローヤル・インスティテュート・オブ・ブリティッシュ・アーキテクツ(RIBA)のアソシエートの資格を取得した。資格取得後はオースチン建築事務所に勤務し、その一方でエッチングを習いはじめた。その上達ぶりはめざましく、支援する画商もいて、画家としてロンドンに永住することを勧められたほどであった。実際、帰国する年およびその翌年のローヤル・アカデミー展に二年連続で入選し、画家年鑑にも名を連ねていた。しかし、エッチングで身を立てる気はなかった健造は、大正6年(1917年)のはじめに帰国する。
  • 帰国して間もなくの大正6年(1917年)5月17日、実兄が住友の理事と親しい関係にあったので、住友総本店建築部に入社した。総本店建築に備えて採用されたが、関係のない仕事を2年ほどさせられ、健造は京都大学に建築科が新設されるのを機に、転出を決意したが、住友本社の支配人が武田五一京大教授に断ってしまう。大正11年(1922年)7月、住友総本店の設計が完成し、工事が始まることになった。そこで、健造に重要な役割が与えられた。健造は構造担当の池田宮彦と共に米国に派遣された。その目的は、鋼材およびその加工の入札と請負の決定ならびに日本への発送とその代金の支払い、金庫やエレベーターなどの調査と見積もり、そしてコンサルティング・エンジニアの選定と設計の完成の3つだった。
  • 1年あまりの滞在で、苦労を重ねながらも、持ち前の英語力と交渉力でこの重責を果たした。健造が帰国したのは、関東大震災の直後だった。
  • 住友ビルディングが完成する頃、日本経済は大恐慌に見舞われ、住友でも各部門で大規模な人員削減が行われていた。工作部も例外ではなく、解雇されたなかには小川安一郎、平尾善治というような優秀な人材もいた。一時は140人ほどいた工作部員が80人を切ったころ、工作部長の日高の定年を迎えて退職した。日高の後任として、工作部長に長谷部鋭吉が就任する。健造は建築課長と工作課長を兼任していた。工作部はさらなる人員削減を求められ、とうとう工作部解散を求める声が強くなってきた。健造は、鋭吉ともども建築技術者全員が退職して、設計事務所を設立し、自立することを考える。健造は会社の幹部に話を持ちかけ5万円の資本金を得て、昭和8年(1933年)5月18日、株式会組織の長谷部・竹腰建築事務所を設立した。住友銀行船場支店の4階を借りた事務所に29名の所員が集まった。
  • 主な作品:住友ビルディング(昭和元年/1926年)/大阪証券取引所(昭和10年/1935年)/宇治電ビルディング(昭和12年/1937年)/東京手形交換所(昭和12年/1937年)/神戸海星女子学院(昭和27年/1952年)/大阪市長公館(昭和33年/1958年)/大阪能楽会館(昭和34年/1959年)/法隆寺聖徳会館(昭和35年/1960年)/大阪市立中央図書館(昭和36年/1961年)/小林聖心女子学院(昭和40年/1965年)
  • 日建設計はボクの祖国である。
  • 「日建のはじまりを今頃になって知ることができました。 ありがとうございます」(1)。
  • 「私も25年くらい前にお世話になりました」(2)。
  • ---Jさん
    ボクは1981年から1988年まで、飯田橋の日建設計・東京にいました。YES89-横浜博覧会「住友館」が、祖国での遺作です。同時期ですね。Jさんは東京ですか、名古屋ですか、大阪ですか?


    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    竹腰健造-Wikipedia
    (1)投稿者;Jさん..2009/ 1/21 01:07:42(水) [4181]
    (1)投稿者;Jさん..2009/ 2/20 21:14:29(金) [4320]

(2010.01.17更新)



▲住友総本店出身で、日建設計の母体の長谷部竹腰建築事務所の長谷部鋭吉と共に創業者の1人である竹腰 健造。

93年1ヶ月と16日の生涯

近藤 芳美
Yoshimi Kondo    【戦後短歌の牽引者】

(1913.05.05〜 2006.06.21 AM10 :01)
心不全/前立腺癌---牡牛座

  • 歌人。本名は近藤 芽美(読みは同じ)。長年「朝日歌壇」(朝日新聞)の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ。
  • 1913年、父の赴任先であった旧朝鮮(現・大韓民国)・慶尚南道の馬山で出生。12歳で帰国し、父の郷里・広島市鉄砲町(現・広島市中区鉄砲町)で育つ。
  • 広島二中(現・広島観音高)時代の教師に影響を受け、短歌に関心を抱いた。旧制広島高校(現広島大学)在学中に、広島市近郊で療養中の歌人中村憲吉を訪ね、「アララギ」に入会、本格的に作歌を始めた。以後、中村及び土屋文明に師事。
  • 東京工業大学卒業後、清水建設に入社。設計技師として勤務する傍ら、アララギ同人としての活動を継続。戦時中は中国戦線に召集された。
  • 終戦後の1947年、加藤克巳、宮柊二ら当時の若手歌人と「新歌人集団」を結成。同年、評論『新しき短歌の規定』を発表。
    またこの頃、鹿児島寿蔵や山口茂吉、佐藤佐太郎らと共に「関東アララギ会」を結成。
  • 1948年、妻で歌人のとし子(本名=年子)への愛情などを綴った処女歌集『早春歌』を上梓。同年刊行の歌集『埃吹く街』と共に注目を集め、戦後派歌人の旗手としてのデビューを飾った。
  • 1951年、岡井隆、吉田漱、細川謙三らと共にアララギ系短歌結社「未来短歌会」を結成、同時に歌誌『未来』を創刊し、これを主宰。石田比呂志、大田美和、道浦母都子など多くの歌人を育成。
  • また、現代歌人協会の設立に尽力し、1977年以来約15年に亘って同協会の理事長の任にあり続けた。神奈川大学の教授も務めた。
  • このほか、朝日新聞をはじめ、中国新聞、信濃毎日新聞などの短歌欄の選者として、市井の人々による短歌に対し積極的な評価を行った。
  • 殊に朝日新聞の「朝日歌壇」では、1955年から2005年1月まで約半世紀に亘って選者を務めた。
  • 2000年から2001年にかけて、これまでの歌集や評論をまとめた『近藤芳美集』(全10巻、岩波書店)が刊行された。
  • 2006年6月21日午前10時1分、心不全(毎日新聞によれば、前立腺癌)のため、東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去。93歳。
  • 芯からの反戦主義者として知られる。自らの戦争体験から、平和を強く希求するようになった近藤は、終戦記念日に日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が開催した反戦集会に参加するなど、戦争に反対する主張を一貫して展開した。その姿勢は自らの評論や短歌のみならず、新聞の短歌欄における選歌にも反映されており、「朝日歌壇」で彼が選ぶ歌の中には、反戦に関する作品が必ずといって良いほど含まれていた。教育現場での日の丸・君が代強制問題が浮上した時期には、強制に反対する立場から詠まれた歌を複数回採用している。 そのためか、朝日歌壇は一部の愛国者から「時事詠が多すぎる」と批判されている事もある。
  • 「私はやはりあの歌がそして人が怖かった」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    近藤芳美-Wikipedia
    (1)清水房雄

(2005.11.27掲載)




▲戦後の歌壇を牽引する歌人として活躍し、文化功労者に選ばれた近藤 芳美。

 

近藤 芳美の歌

◆「かぎろいの人間と人間文明と無辺の宇宙の一砂塵 地球」

◆「眼帯を濡れるひかりの安らぎに伝う病棟の午後に移る冷え」

◆「マタイ受難曲そのゆたけさに豊穣に深夜はありぬ純粋のとき」

 


93年1ヶ月と26日の生涯

神近 市子
Ichiko Kamichika   【婦人運動家、衆議院議員】

(1888.06.06〜 1981.08.01)
死因?---双子座

  • 長崎県生まれ。本名イチ。女子英学塾卒。在学中に青鞜社に参加する。青森県立女学校の教師ののち、東京日日新聞の記者となる。
  • 1916年、愛人だった大杉栄が、新しい愛人・伊藤野枝に心を移したことから、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷し(日蔭茶屋事件)2年間服役。
  • 出獄後、『女人藝術』『婦人文藝』などで文筆活動、戦後、1947年に民主婦人協会、自由人権協会設立に参加する。
  • 1953年、第26回衆議院議員総選挙に旧東京5区(中選挙区時代)で左派社会党より出馬して当選、6回の当選を重ね、1957年の売春防止法成立に尽力した。
  • 1969年政界を引退。1970年、日蔭茶屋事件を扱った吉田喜重の映画『エロス+虐殺』の上映差し止めを求めて提訴したが、「周知の事実」として棄却された。
  • 1956年には谷崎潤一郎の「鍵」を猥褻文書ではないかとして国会で問題にするなど、大杉の「自由恋愛」に賛同した時代と、出獄後の、中産階級的道徳へ回帰した時代との断層が大きく、売春防止法成立に際して、主婦の貞操を守るため娼婦の犠牲はやむをえないと述べるなど、後半生については批判も多い(関根弘『小説吉原志』など)
  • ボクは売春防止法成立がした1957年に生まれた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    神近市子-Wikipedia

(2008.08.13掲載)


★大杉栄を刺したひと。

▲大杉栄を刺した日陰茶屋事件で知られ、戦後は社会党の議員も務めた婦人運動家、政治家・神近 市子。


93年2ヶ月と23日の生涯

伊藤 清
Kiyoshi Ito   【ウォール街で最も有名な日本人】

(1915.09.07~ 2008.11.10)
死因?---乙女座

  • 数学者。京都大学数理解析研究所名誉教授。日本学士院会員。三重県北勢町(現・いなべ市)出身。東京帝国大学理学部数学科卒業。内閣統計局統計官、名古屋帝国大学助教授、京都大学教授を経てプリンストン高等研究所研究員。オーフス大学、コーネル大学教授を歴任し1976年より京都大学数理解析研究所所長。
  • 1979年より1985年まで学習院大学理学部教授。数学者の伊藤清三とは兄弟。弟子には渡辺信三・京都大学名誉教授らがいる。
  • 確率微分方程式を生み出した。伊藤の補題(伊藤の定理)でその名を知られる。さらに、確率積分を計算する上で重要な伊藤の公式(伊藤ルール)は確率解析学において革命的な公式といえよう。特に伊藤の公式は確率解析学における基本定理で確率積分の計算手段を示したもので、この公式無しでは確率解析における計算はほぼ不可能といえる。
  • 伊藤の定理は株式等の金融商品の価格変動の軌跡などまったくランダムな曲線を方程式で表現することをはじめて可能にし、数学に留まらず経済学、特に1990年代に入って発達した金融工学理論全般の進歩に多大な貢献があった。デリバティブの一種であるオプションの価格評価式であるブラック-ショールズ方程式の導出は伊藤の補題(伊藤のレンマ)が基礎となっており、同方程式の考案者としてノーベル経済学賞を受賞したマイロン・ショールズは清に会った際にわざわざ握手を求め伊藤の定理に敬意を表したという。
  • 受賞歴:1977年に朝日賞/1987年にウルフ賞数学部門、勲二等瑞宝章/1998年に京都賞基礎科学部門/2006年に第1回ガウス賞
  • 関連項目:ブラック-ショールズ方程式
  • 「伊藤清博士が 第1回ガウス賞を受賞:2006年8月22日マドリード国際数学者会議において、 数学の応用に対して新設されたガウス賞(IMU Carl Friedrich Gauss Prize)を京都大学名誉教授・数理解析研究所元所長 伊藤清博士が受賞されました。 確率微分方程式の創始をはじめとする確率解析の業績とその社会へ与えたインパクトの大きさが評価されたものです」(1)。
  • 「確率微分方程式創案の高名な数学者、伊藤清をリクエストします。伊藤先生の確率微分方程式を土台に、デリバティブの理論を確立した米国の経済学者2人が97年、ノーベル経済学賞を受賞。伊藤さんは金融工学の分野で世界的な尊敬を集め「ウォール街で最も有名な日本人」と評されるようになりました」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    伊藤清-Wikipedia
    (1)「伊藤清名誉教授 ガウス賞を受賞
    (2)投稿者:ユリウスさん..2008/11/23 21:59:52(日) [3950]

(2008.11.25掲載)



▲株式等の金融商品の価格変動の軌跡などまったくランダムな曲線を方程式で表現することをはじめて可能にし、数学に留まらず経済学、特に1990年代に入って発達した金融工学理論全般の進歩に多大な貢献があった伊藤 清。


93年2ヶ月と24日の生涯

金栗 四三
Sisou Kanaguri   【「日本マラソンの父」】

(1891.08.20〜1984.11.13=明治24年〜昭和59年)
心不全---獅子座

  • 日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長。熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。玉名市名誉市民。
  • 旧制玉名中学を卒業後、1910年(明治43年)、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学。
  • 1911年(明治44年)、翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となる。
  • 翌1912年(明治45年)のオリンピックでは、レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。
  • マラソンを途中で止めた理由として、スウェーデンでは、金栗が単にソーレンツナ(Sollentuna)のある家庭で、お庭でのお茶とお菓子に誘われ、それをご馳走になって、そのままマラソンを中断したと理解されている。当時、日本からスウェーデンへ20日もかけての船と列車の旅で、さらに、スウェーデンの夜は明るいため、睡眠にも支障があった。食事面では、当時はスウェーデンでは米はなかった。その上、マラソンの当日は、金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけなかった。また、40℃という記録的な暑さで、参加者68名中、およそ半分が途中棄権し、1名は倒れた上、翌日亡くなったと言われている。
  • ランナーとして最も脂ののった時期であり、メダルが期待された4年後のベルリンオリンピック1916年(大正5年)は、第一次世界大戦のため出場を果たすことが出来なかった。その後、1920年(大正9年)のアントワープオリンピック、1924年(大正13年)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場するが、アントワープでは16位、パリでは途中棄権に終わっている。
  • 1920年(大正9年)、第1回箱根駅伝が開催されるが、金栗はこの大会開催のために尽力している。この功績を讃え、箱根駅伝では2004年(平成16年)より、最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。
  • 1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。ストックホルムオリンピックでは棄権の意志がオリンピック委員会に伝わっておらず「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場内に用意されたゴールテープを切った。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3で、これは世界一遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントしている。そして、オリンピック委員会は「これをもってストックホルムオリンピックの全競技日程を終了する」との宣言もなされた。
  • 金栗が残したその他の有名な言葉として、「体力、気力、努力」がよく知られている。
  • 晩年は玉名市で過ごし、1984年11月13日、93歳で死去した。熊本県民総合運動公園陸上競技場の愛称「KK ウィング」は金栗にその名を由来している。
  • 「四三は、スウェーデンオリンピック委員会からオリンピック記念行事へ招待され、55年振りにスウェーデンを訪れた。ストックホルム大会で途中で棄権してゴールをはたせなかった四三が、54年8ヶ月6日5時間32分20秒3でゴールを果たした瞬間、「日本の金栗がただ今ゴール。タイムは55年…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされた。これに答えて四三は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とユーモアあふれるスピーチをした。」(1)。
  • 「有難う御座いました。余り聞き慣れないかと思われる名前は、彼の父信彦が43才の時に生まれたからだそうですが、第5回オリンピック・ストックホルム大会へは、東京高等師範学校(現筑波大学)に休学届を出しての参加だったそうです。当時は、文部省でさえ「学業を休んでまで参加するほどのものではない」という返答を出していたそうで隔世の感が有りますが、生涯に走った距離は25万キロ、地球6周と4分の1と言われて居ります。なお、冬の風物詩として皆様お馴染みの福岡国際マラソンも、当初は『金栗賞朝日マラソン』と呼ばれて居りましたし、大阪戎橋のネオンでもお馴染みのゴールインマークのモデルと言う説も在る様です」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    金栗四三-Wikipedia
    (1)「金栗四三展図録
    (2)投稿者:Thori_Tungさん..2009/ 1/12 12:10:59(月) [4154]

(2009.01.12更新)



▲箱根駅伝では2004年(平成16年)より、最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている金栗 四三。


※1967年3月21日撮影 ※このとき75歳


93年2ヶ月と26日の生涯

村上三島
Santo Murakami    【書壇の第一人者】

(1912.08.25.〜2005.11.20)
心不全---?座

  • 1912年愛媛県生まれ。本名・正一。少年時代、体を壊した時に教師のすすめで書を始めた。辻本史邑らに師事。1948年、日展に「杜甫九日詩(とほきゅうじつし)」で初入選。
  • 1949年、52年には特選となり、一躍書壇の注目を集めた。その後も日展、毎日書道展、日本書芸院展などで活躍。
    中国・明代末期の王鐸(おうたく)の草書連綿体に傾倒しながら、独特の解釈を加え、円熟した枯淡の書の世界を開いた。
  • 躍動感ある装飾性豊かな書風で、伝統の分野に現代感覚をもたらした。明末から清初の書家・王鐸(おうたく)を研究し、中国でも個展を開いた。
  • 奔放でのびやかな装飾性にあふれる独自の書風を確立。新境地を開いた。
  • 瀬戸内海の郷里、大三島の上浦町(現今治市)へ作品を寄贈し、町立の村上三島記念館が創立された。85年、日本芸術院会員、98年、文化勲章。この間、日展理事や書道団体・日本書芸院(会員約1万9000人)の理事長などを務め、特に関西書壇の育成に尽力した。
  • 著書に「書とともに」「王鐸の書法」などがある。 パソコン・ワープロ化に対して、手書き文字のよさを見直そうと、晩年まで書の普及に意欲的だった。 来年50回を迎える「現代書道二十人展」(朝日新聞社主催)に第1回から出品している。
  • 「今治市上浦町出身の文化勲章受章された書道家 村上三島氏の作品を中心に収蔵した村上三島記念館は、書の殿堂としては、日本一の規模を誇る」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)「SHIMAP【上浦】村上三島記念館

(2005.11.27掲載)




▲流麗で躍動感のある独自の書風を確立した文化勲章受章者の書家・村上三島。


93年3ヶ月と12日の生涯

斎藤 史
Fumi Saito       【女流歌人】

(1909.02.14〜2002.05.26=明治42〜平成14年)
死因?---水瓶座

  • 女流歌人独特の歌風を確立し、長野市を拠点に長年後進を指導した歌人。
  • 東京都四谷生まれ。福岡県立小倉高等女学校(現・福岡県立小倉西高等学校)卒業。
  • 父は、陸軍少将で佐佐木信綱主宰の歌誌「心の花」所属の歌人でもあった斎藤瀏。17歳のとき若山牧水に勧められて作歌をはじめ、18歳から「心の花」に作品を発表するようになる。1931年、前川佐美雄らと「短歌作品」創刊。
  • 女流歌人独特の歌風を確立し、長野市を拠点に長年後進を指導した。
  • 『魚歌』、『歴年』、『うたのゆくへ』、『密閉部落』、『ひたくれなゐ』、『秋天瑠璃」など。
  • 「斎藤 史をはずして現代短歌は毫も語れない。16歳で太田水穂に出会い、17歳で父親のところに滞在していた若山牧水から作歌を勧められ、18歳には佐佐木信綱の『心の花』に歌を発表した。それが昭和2年である。与謝野晶子や九条武子の次の世代として、この時期の女流歌人はめずらしい。しかし、無視された。「短歌は詩ではない」という批判も多かった。第一歌集『魚歌』の若き才能に注目したのは萩原朔太郎だった」(1)。
  • 「斎藤史の父・斎藤瀏(りゅう)は二・二六事件に連座した軍人で、将軍たちの中でただ一人有罪となった。史の歌にはこの事件による傷心が色濃く反映されている」(2)
  • 「歌人の斎藤史(ふみ)さんにも一読忘れがたい一首があった。〈乳のますしぐさの何ぞけものめきかなしかりけり子といふものは〉。肉親、とりわけ子供をいとおしむとき、人はふと自分のなかに動物としての本能を感じ取るものらしい」(3)。
  • 「たまさん 斎藤史の抗議のひびきがハッキリ聞こえてくる、この歌をぜひお供えしたいです。〈ある日より現神(アキツカミ)は人間(ヒト)となりたまひ年号長く長く続ける昭和 〉」(4)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    斎藤史Wikipedia
    Kyojin Onishi」
    (1)「松岡正剛の千夜千冊 『記憶の茂み』斎藤史
    (2)「朝日歌壇鑑賞会 読者投稿1
    (3)読売新聞2007.05.12朝刊「編集手帳」より抜粋。
    (4)投稿者:ユリウスさん..2008/ 7/27 22:45:15(日) [3339]

(2009.02.14更新)




▲女流歌人独特の歌風を確立し、彼女をはずして現代短歌は毫も語れないといわれる斎藤 史。

 


斎藤史の歌

◆「携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか」

◆「幾世の後歴史の墓をあばくものありやあらずやただにねむりぬ」

◆「曼珠沙華葉を纏ふなく朽ちはてぬ 咲くとはいのち曝しきること」

93年3ヶ月と30日の生涯

レーガン,ロナルド・W
Ronald Wilson Reagan 【保守のアイコン】

(1911.02.06〜2004.06.05)
肺炎---水瓶座

  • イリノイ州タンピコ(Tampico出身)。アメリカの俳優→政治家。共和党。ニックネーム、「The Great Communicator」「The Gipper」「テフロン大統領」。
  • 身長、6フィート1インチ(185cm)。コンタクト・レンズを使用。父、ジョン・エドワード・レーガン。母、ネル・ウィルソン・レーガン。妻、ナンシー・レーガン。前妻、ジェーン・ワイマン。
  • 1932(昭和7)年 ユーリカ大学卒。1937(昭和12)年 「Love is on the Air」(邦題:恋愛放送中)で映画デビュー。ディスニーランドのオープニング実況を担当
  • 1940(昭和15)年6月25日 ジェーン・ワイマンと結婚。フォレスト・ローン・メモリアル・パークで結婚式。1948(昭和23)年 離婚。1952(昭和27)年 ナンシー・デイヴィスと再婚。
  • 1955(昭和30)年7月17日 ディズニーランド開園式の実況レポーターを務める。1966(昭和41)年 カリフォルニア州知事。1980(昭和55)年 大統領選挙に当選。
  • 1981年1月20日〜1989年1月20日 第40代アメリカ合衆国大統領。「レーガノミックス」(歳出抑制、大幅減税、規制緩和、安定的な金融政策)、「プロ・パテント(知財重視)政策」を推進。
  • 1981(昭和56)年3月30日 ジョン・ヒンクリーに狙撃される。1994(平成6)年11月5日 アルツハイマー病であることを公表。
  • 2001(平成13)年1月12日 ロサンゼルスの自宅で転倒し右足を骨折。
  • 2004(平成16)年6月5日1309(1609 ET) カリフォルニア州の自宅で肺炎のため死去。享年93。アメリカ大統領経験者としては最高齢。
  • 「手術台では取り巻く外科医たちに「きみたちはみんな共和党員だろうね」とジョーク。医師の一人が「今日は全員が共和党員ですよ」と受けた。危うく暗殺されかけた直後の話である。米国民はタフで明るいこの人柄を愛した」(1)。
  • 「「米国に再び朝を」と69歳で大統領に。史上最高齢の就任だった。俳優出身の初の大統領。決して一流の俳優ではなかったが傑出した大統領を演じきった。米国のTVは「米国の朝が亡くなった」と報じた」(2)。
  • 「「強いアメリカ」を標榜、「悪の帝国」とソ連を呼び、冷戦を終結させた。その勇気は自身の病気に対しても発揮された。「私は人生の落日に向けて旅立つ」とアルツハイマーであることを公表した。偉大なる楽観者、元大統領死す」(3)。
  • 「レーガン元米大統領は生前、300ページに及ぶ自らの葬儀の“脚本”を作成しており、11日の国葬もほぼ個人の指定どうりに行われた。ケネディ大統領の暗殺後、米国の大統領は葬儀の混乱を避けるため、自ら葬儀の段取りを決めておくのが慣例。元ハリウッド俳優のレーガンにとっては、最後の“監督・主演作品”となった」(4)。
  • 「レーガン元大統領のの娘パティ・デイビスさんが若い頃の思い出を『わがが娘を愛せなかった大統領へ』で綴っている。母のナンシー夫人は薬物依存で、娘を「虐待」していた。父は「虐待」などあるはずがないと言いはり、子どもたちには無関心だった。とはいえ、俳優・政治家の家庭である。客が来ると「突然わが家は幸せな家庭に早変わりし、来客は観客になってそのショーを見物するのだ」。パティさんは両親に反抗を続けた。大統領になったレーガン氏がソ連を非難し、軍備増強を唱えるのに反発、反核運動をした。麻薬にも溺れた」(5)。
  • ナンシー夫人が「永遠の楽観主義者」(タイム誌)だったと語るレーガン氏」(6)。
  • 「たまさん 同じ日の手術室でのこと。取り囲んでいる看護婦さんが何故か美人ぞろいだった。手術ベッドに横になったレーガンは、彼女達を見回しながら言った。「このこと、ナンシーは知っているのかね?」ウソかマコトか知りませんが、ぼくはこの逸話が大好きです。(※ナンシーは奥さんの名前)」(7)。
  • ------ボクもアラサーの頃、海綿状血管種のため、KO病院に入院してました。神経内科は美人が多かったので、勝手にボク好みのベストテンを作っていました。ヒマだったのです。ある日アンギョウ(足の付け根の太い動脈から血管造影剤を注入する)ため、アンダーヘアーを剃ることに。どの看護婦さんがやってくるのかと妄想を膨らませていると、やって来たのは古参の婦長様でした。おかげで、事なきを得た思い出があります。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    レーガン,ロナルド・W
    (1)(2)(3)読売新聞2004.06.07夕刊「よみうり寸評」より抜粋。
    (4)読売新聞2004.06.12夕刊より抜粋。
    (5)(6)朝日新聞2004.06.13朝刊「天声人語」より抜粋。
    (7)投稿者:ユリウスさん..2009/ 8/27 07:30:33(木) [5891]

(2009.08.28更新)



▲第40代アメリカ合衆国大統領ロナウド・レーガン。
(イラスト 大城さん)


93年4ヶ月と12日の生涯

シャハト
Horace Greely Hjalmar Schacht 【ドイツ国立銀行総裁】

(1877.01.22〜1970.06.03)
転倒事故が原因の塞栓症---水瓶座

  • 現在はデンマーク領となっているティングレフで生まれる。医学・政治学・心理学を勉強し1899年に経済学の博士号を取得。ドレスナー銀行に入社し、1905年に渡米、ジョン・ピアモント・モルガンやセオドア・ルーズベルトと会談している。
  • 1916年にドイツ国立銀行理事に就任、1923年に首相グスタフ・シュトレーゼマンや財務大臣ハンス・ルターの下で通貨全権委員に就任。破滅的なほどに亢進していたインフレーションをデノミネーションの実施とレンテンマルクの発行で対処、沈静化に成功した。
  • この時の経験を買われドイツ国立銀行総裁となり、ヤング案やドーズ案の取りまとめに奔走した。
  • 1930年3月7日にドイツ国立銀行総裁を辞任、この頃アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」に感銘を受け、ナチスに協力の姿勢をとり始める。
  • ヒトラーが政権を握った後の1933年3月17日にドイツ国立銀行総裁に復帰。更に1934年8月に経済大臣に指名されフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策に類似した経済政策を実行に移した(もっとも、これらの政策はヒトラーの前任者クルト・フォン・シュライヒャーが計画したものであった)。
  • その後、1935年5月に戦争経済準備のための全権委員に指名されるが、軍備拡張がインフレを招くとしてヘルマン・ゲーリングと対立、1937年11月に経済相と全権委員を解任される。ところが1939年1月にドイツ国立銀行総裁に三度復帰、1943年1月まで務めた。
  • しかし1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が発生するとダッハウ強制収容所に収容、1945年4月に連合国によって解放されるまで"特殊囚人"として軟禁されていた。
  • 解放後は、一転ナチス独裁政権の強化に貢献した疑いで戦争犯罪人として起訴。ニュルンベルグ裁判で裁かれたが、無罪判決を受けて釈放。
  • だが、その後の非ナチ化裁判で労働奉仕8年の刑を受け、1948年9月まで服役した。釈放後はデュッセルドルフ銀行でインドネシア・エジプトなど発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動。
  • 1970年、自宅での転倒事故が原因の塞栓症で死去。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ヒャルマル・シャハト-Wikipedia

(2007.01.20掲載)




▲ドイツ・ヴァイマル共和政期の財政家でドイツ国立銀行総裁、ドイツ経済大臣(1935年 - 1937年)だったホレイス・グリーリ・ヒャルマー(ヤルマル)・シャハト。

 


◆ニュルンベルグ裁判で弁護人と(左がシャハト)

93年5ヶ月と12日の生涯

ジェラルド・フォード
Gerald Rudolph "Jerry" Ford, Jr 【米第38代大統領】

(1913.07.14〜2006.12.26---日本時間27日午前)
肺炎---蟹座---O型

  • アメリカ合衆国の第40代副大統領および第38代大統領(1974年 - 1977年)。共和党員。通称はジェリー。血液型はO型。レズリー・リンチ・キング・ジュニア/Leslie Lynch King, Jr. から養子に出たことにより改名。
  • フォードは、1973年にスピロ・アグニューが副大統領を辞任した後、大統領指名と上下両院の承認を得て副大統領に就任(初のケース)しており、また翌1974年にはリチャード・ニクソンの大統領の辞任をうけて大統領に昇格したため、大統領選挙を経ずに大統領になった(ハリー・S・トルーマンに次いで二例目)。また現職で戦った1976年の大統領選では破れているので、大統領選に一度も勝った事がない大統領(唯一のケース)となった。
  • フォードは、レズリー・リンチ・キングとドロシー・エア・ガードナーの夫妻の子どもとしてネブラスカ州オマハで生まれた。フォードの当初の名前はレズリー・リンチ・キング・ジュニアであった。だが彼が生まれたころから父レズリー・キングはフォードの母に暴力を振るうようになり、耐えられなくなった彼女は実家へ逃げるように去った。これだけでも当時の女性としては異例の行動であったが、彼女はさらに夫を訴えた。オマハの裁判所はキングに有罪判決を言い渡した。
  • 彼が生まれて2年後両親の離婚が成立し、その後母親はジェラルド・フォードと再婚した。彼はその後にジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニアと改名された。
  • フォードはミシガン州で成長し、ミシガン大学に入学。大学ではフットボール部に所属し、全米代表に選出されるほどの名選手であった。一方で苦学生であった彼は、学費を稼ぐために複数のアルバイトをしていた。フォードは大学卒業後、NFLのグリーンベイ・パッカーズやデトロイト・ライオンズから誘いを受けたが、イェール大学のロー・スクールに入学し、弁護士資格を取得。
  • エール大ロースクール修了後、42年に海軍に入隊して太平洋戦争に参加。退役後の48年に下院議員に初当選し、65年に院内総務。
  • 州知事時代の汚職事件で引責辞任したニクソン政権のアグニュー副大統領の後任として73年12月、副大統領に就任。
    1974年8月、民主党全国委員会本部の盗聴未遂事件を端緒とするウォーターゲート事件の責任を取って辞任したニクソン大統領の後任として第38代大統領に就任。正副大統領選の洗礼を受けずに就任した初の大統領だった。76年の大統領選で民主党のカーター氏に敗れ、約2年半の短命政権で終わった。
  • 日米関係を重視し、74年11月に現職米大統領として初めて来日。当時の田中角栄首相と会談したほか、昭和天皇とも会見した。
  • 共和党穏健派に属したが、ブッシュ政権で国防長官だったラムズフェルド氏が首席補佐官と国防長官、チェイニー副大統領が首席補佐官を務めるなど、強硬派を配した陣を敷いた。
  • 75年9月には連続暗殺未遂事件に遭遇したが無事だった。
  • 2006年1月に肺炎を患ったほか、8月に心臓の手術を受けるなど入退院を繰り返していた。
  • ブッシュ大統領は声明で「国家的な混乱と分裂のさなかに就任し、国民の信頼回復に努めた」と哀悼の意を示した。
  • 政治家としての彼は清廉潔白で、個人的にも素朴で誠実な人柄であった。自分を評して「私はフォード(フォード・モデルT)であって、リンカーン(フォード・モーターの高級車ブランド)ではない」とも語っている。そうした彼の姿は、大統領としての能力はともかく、ウォーターゲート事件で失墜したホワイトハウスへの信頼の回復には大きく役立った。
  • フォードはウォーターゲート事件後の国家再建努力で、1999年にビル・クリントン大統領によって自由勲章を与えられた。ミシガン州グランドラピッズのジェラルド・R・フォード国際空港は彼にちなんで命名された。
  • 2007年(平成19年)1月2日(現地時間)にワシントン大聖堂で国葬が行われた。クリントン前大統領、ブッシュ元大統領、カーター元大統領、ブッシュ大統領などが参列した。日本からは政府特使として町村信孝前外相が参列した。
  • フォードは2006年11月12日にロナルド・レーガンの93歳120日の記録を抜き、アメリカ合衆国大統領経験者としては歴代最長寿となった。2006年12月26日に死去したため、記録は93歳165日となった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    ジェラルド・R・フォード-Wikipedia

(2006.01.06掲載)




▲ウォーターゲート事件やベトナム戦争後の米国の再建にあたり、現職の大統領として初めて来日したジェラルド・ルドルフ・フォード・ジュニア。

93年5ヶ月と20日の生涯---2008年生誕100年

朝比奈 隆
Takashi Asahina     【最後の巨匠】

(1908.07.09〜 2001.12.29)
死因?---蟹座

  • 日本音楽界の重鎮、そして、ブルックナー演奏の代名詞とも言われる指揮者、朝比奈隆。堂々たる風格、滋味あふれる演奏は、世界中から熱狂的に受け入れられている。
  • 東京牛込に生まれ、幼少の頃に朝比奈家の養子となり朝比奈姓となる。祖母に、当時は(現在も)高級品であったヴァイオリンを買ってもらったことがきっかけで音楽に興味を示す。
  • (旧制)東京高等学校卒業を経て京都帝国大学(現:京都大学)法学部に学びながら、同大学オーケストラに所属、ヴァイオリンと指揮のレッスンも受けていた。卒業後は阪急電鉄に入社する(何と、世界のマエストロは電車の運転手だった!)が、2年後に退社し、音楽家への道を歩み始める。大阪室内楽協会を設立し、37年、京大オーケストラを指揮してデビューを果たした。そして、大阪中央放送局の専属指揮者、上海響常任指揮者を経て、47年に大阪NHKの放送交響楽団を設立し常任指揮者となる。 間もなく関西交響楽団と改名し、60年には改組され、現在の大阪フィルに。彼は音楽総監督の任を終生務めることとなった。
  • 海外のオーケストラへの客演も多く、ドイツ/東欧/イタリア/北欧などの約70団体と共演を行なっている。また96年には、87歳という高齢にもかかわらずアメリカへ渡り、シカゴ交響楽団と共演。地元のマスコミ、聴衆から熱烈な歓迎を受けた。
  • 朝比奈は90代以降、「ストコフスキーの最高齢記録(朝比奈は当然、ストコフスキーが亡くなった年齢・95歳を意識していたが、ストコフスキーが公開の演奏会に出演したのは93歳までである)を抜く」と公言し、一見では特に大きな身体の故障もなかったので、記録達成は容易だと見られていた。しかし、2001年10月24日の名古屋公演におけるチャイコフスキー交響曲第5番が結果的には最後の舞台となり、演奏会後体の不調を訴えて入院。そのまま復帰することなく12月29日に死去した。
  • 「立つことが私の仕事」「立って指揮が出来なくなったら引退」として練習中でも椅子の類を使わず、最後まで立ったまま指揮をした。生涯現役であり、
  • 訃報は各紙の1面を大きく飾ることになった。
    没後、大阪フィルハーモニー交響楽団創立名誉指揮者となった。2002年2月7日にザ・シンフォニーホールで行われた「お別れの会」では朝比奈千足の指揮で、遺志に従ってベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章が演奏された。
  • 若い頃は非常にレパートリーが広く、ロシア音楽に堪能な指揮者という評価もあった。次第に、限られたレパートリーを繰り返し演奏するようになった。特にベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーおよびチャイコフスキーの交響曲は、繰り返し演奏してきた。
  • ベートーヴェンの交響曲第9番は251回、ブルックナーの交響曲は197回指揮した。ベートーヴェンの全交響曲を短期間に演奏するチクルス(連続演奏会)も、何度も行った。
  • マーラーの交響曲は第2番以降の作品を、シューマンの交響曲は第3番以降の作品を指揮した。マーラーの交響曲第1番「巨人」については「単なる歌曲のアレンジ」と、シューマンの第1番、第2番に対しては「箸にも棒にもかからない」と、低い評価を下しており、特に1980年代以降は演奏しようともしなかった。このあたりの朝比奈の「交響曲観」とでも言うべき感情は、非常に興味深い。一方で、記念的な演奏会では、リヒャルト・シュトラウス「アルプス交響曲」をしばしば演奏した。
  • オペラ公演も数多くこなし、歌詞の翻訳も朝比奈自ら行った。またワーグナーの「ニーベルングの指環」をオール日本人キャストで4年がかりで演奏するなど(新日本フィルハーモニー交響楽団。1984〜1987年。「神々の黄昏」は日本初演)。
  • 日本の作曲家の作品として、大阪フィルハーモニー交響楽団のホルン奏者であった大栗裕の作品の多くを初演した。服部良一「おおさかカンタータ」、松下真一「交響幻想曲《淀川》」などの、祝典的な作品の演奏も行った。
  • 朝比奈が日本初演した作品としては、レスピーギ「ローマの祭」・シェーンベルク「管弦楽のための変奏曲」・ブルックナー「交響曲0番」・ブルックナー「ヘルゴラント」・大栗裕「管弦楽のための神話(管弦楽編曲版)」などがある。
  • 朝比奈千足によると、最後の言葉は「引退するには早すぎる」であったという。
  • 戦前、戦後を通して、日本の音楽界を築き上げた功績はあまりに大きい。2001年12月、惜しまれつつその生涯を閉じたが、彼の名が忘れ去られることはありえない。(リッスンジャパン)
  • 「朝比奈隆は、かつて日本のクラシックで根強かったドイツ音楽至上主義の最後の生き証人というべき人だった」(1)。
  • 最晩年まで指揮活動を行った朝比奈隆。指揮者の朝比奈千足は長男。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    朝比奈隆-Wikipedia
    Yahoo!ミュージック - 朝比奈隆 - アーティスト情報
    (1)読売新聞2008.01.01(東条碩夫)より抜粋。

(2008.01.08更新)


◎重厚、壮大 守り通す

▲大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めた指揮者・朝比奈 隆。
(イラスト 玉野安実)

93年5ヶ月と22日の生涯

ライナス・カール・ポーリング
Linus Carl Pauling        【分子生物学の父】

(1901.02.28〜1994.08.19)
前立腺癌---魚座

  • アメリカ合衆国の量子化学者、生化学者。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。
  • 量子力学を化学に応用した先駆者であり(原理上、量子力学は化学と分子生物学の全情報を記述出来る)、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞した。
  • また、結晶構造決定やタンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の祖の一人とされる。ワトソンとクリックが1953年にDNAの超微細構造である「二重らせん」を発見した時に、ポーリングはほぼそれに近い形を発見していた。多方面に渡る研究者としても有名で、量子力学と分子生物学に加え、無機化学、有機化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊、原水爆戦争の影響などを究めた。
  • 1962年、地上核実験に対する反対運動の業績によりノーベル平和賞を受賞。ポーリングは他の人物と共有せずにノーベル賞を2度受賞した唯一の人物である。他にノーベル賞を2度受賞した人物は、マリ・キュリー(物理学賞と化学賞)、ジョン・バーディーン(物理学賞を2回)、フレデリック・サンガー(化学賞を2回)である。
  • 後年、大量のビタミンCや他の栄養素を摂取する健康法を提唱し、更にこの着想を一般化させて分子矯正医学を提唱した。分子矯正医学は現代でも伝統的な医学から非正統的と看做されている。ビタミンCと分子矯正医学を中心とした何冊かの本を著し、作中でこれらの概念、分析、研究、及び洞察を一般社会に紹介した。
  • オレゴン州のオスウィーゴ(現:レイク・オスウィーゴ)に生まれる。
  • 1994年8月19日に前立腺癌で他界した。遺体はアメリカ合衆国オレゴン州レイク・オスウィーゴのオスウィーゴ・パイオニア墓地に埋葬された。
  • 今日、ポーリングが残した科学への貢献は多くの人によって称えられている。イギリスのニューサイエンティスト誌による「史上偉大な20人の科学者」で、アルベルト・アインシュタインと共に選ばれた唯一の20世紀の科学者である。
  • ネイチャー誌のミレニアム・エッセイの著者であるGautam R. Desirajuは、ポーリングをガリレオ、ニュートン、アインシュタインに続くこの1000年で最も偉大な思想家、思弁家の一人であると主張した。ポーリングは多様な分野に興味を持っていたことでも有名であり、量子力学、無機化学、有機化学、タンパク質構造、分子生物学、医学などを研究した。
  • 彼が大きな業績を残したのは、特にこれらの分野の境界にあたる部分である。彼の化学結合の研究は現代量子化学の端緒を開き、混成や電気陰性度などは、今日の一般化学の教科書にも登場する重要な概念となっている。彼の原子価結合法は酸素の常磁性や有機金属錯体の色など分子の一部の性質を説明出来ず、後にロバート・マリケンの分子軌道理論に座を奪われたが、ポーリングの原子価結合法の長所はその単純性にあり、現代でも根強く使用されている。今日存在する原子価結合法は現代的に改良されたもので、分子軌道理論や密度汎関数理論らと共に化学現象を記述する道具として存続している。結晶構造に関するポーリングの研究は、複雑な鉱物や化合物の構造予測と構造決定に多大な貢献を残した。αヘリックスとβシートの発見はタンパク質の構造研究の基礎を築いた。
  • 生前、フランシス・クリックに業績を認められたポーリングはしばしば「分子生物学の父」の渾名で称えられた。鎌状赤血球病を「分子病」とした彼の発見は、遺伝子的突然変異を分子レベルで検査する手法を開拓した。
  • 学界はポーリングのビタミンに関する医療研究の結論や著作に賛同しなかったが、彼の論議への突入は、ビタミンやミネラルなど疾病予防に効く栄養素の重要性を一般社会に知らしめた。ポーリングの姿勢は他の研究者にこれらの分野への活発な調査を促し、それらの研究は今日でも存続している。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    ライナス・ポーリング-Wikipedia

(2009.11.09掲載)



▲20世紀における最も重要な化学者として広く認められているライナス・カール・ポーリング。




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