玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

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age 96



50音インデックス



■96歳の
 シンクロニシティ


■96歳-?
宝誌
天野清三郎/渡邊蒿蔵
三島海雲
小堀四郎
三木 忠直
湯川スミ

■96歳-前半
シャルロット・ペリアン
村上元三
ソナラ・ドッド
キャサリン・ヘップバーン
笹川良一
鈴木真砂女
原ひさ子
スタッズ・ターケル

■96歳後半→進む
森繁 久彌
岩本 義行
高良とみ
白川 静
山口青邨
A・V・ホーボーケン
御木本幸吉
カール・シュミット
相馬雪香
パブロ・カザルス
安藤 百福
メイ牛山
芹沢 光治良
マーサ・グレアム
円鍔勝三


■96歳のエポック


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96歳の語録



「私は自由の女神のようなもの」
(キャサリン・ヘップバーン)

96歳のシンクロニシティ!

  • 95歳では白川 静笹川良一が枕を並べた。
       
    ●中国文学者であり漢字研究の第一人者で現代最後の碩学と呼ばれた白川 静(1910.04.09〜2006.10.30)は内臓疾患で96年6ヶ月と21日の生涯 (牡羊座)。 
    ●ハンセン病対策などの社会奉仕と青少年育成事業に心血を注いだ日本船舶振興会(現日本財団)会長笹川良一(1899.05.04 〜1995.07.18)は急性心不全で96年2ヶ月と14日の生涯(牡牛座)だった。


  • 創業者では---。
       
    ●「初恋の味」カルピス の生みの親・三島海雲(1878.07.02〜1974.?)は死因?で96年?の生涯(蟹座)。

    ●養殖真珠を日本の重要輸出品にまで高め、「ミキモト・パール」を世界に知らしめた御木本幸吉(1858.01.25〜1954.09.21)は老衰にて天寿全うし96年7ヶ月と27日の生涯(山羊座)。
    ●即席めんの開発者・安藤 百福(1910.03.05〜2007.01.05)も急性心筋梗塞で96年10ヶ月ジャストの生涯 (魚座)だった。


    (2008.08.29更新)
      



96年?の生涯  

宝誌
Houshi
        【風狂の僧】

(418.?〜514.?=元興14年〜天監13年)
死因?---?座

  • 宋代の465年頃に、都の建康郊外の鍾山に出没し、また都にも現われるようになったが、当時5、60歳くらいの年配に見え、特に神異的な行跡は見られなかった。
  • 南斉の成立頃より神異の行いが見られ始めた。長髪・裸足の姿で徘徊し、手にした錫杖には鏡や鋏などをぶら下げるようになった。また酒肴を口にしたり、あるいは数日間何も食べないこともあるといったあり様であった。さらに予言を行い、人の心中を言い当てた。一時に数所に現われるという分身のさまも目撃された。
  • 梁の天監13年(514年)、都の華林園内の仏堂で没した。亡くなる前には、金剛像を屋外に出させて「菩薩は当に去るべし」と述べたという。武帝は宝誌のために鍾山に開善寺を建立し、その菩提所として手厚く供養した。また、陸スイに命じて「誌法師墓誌銘」(『芸文類聚』巻77)を撰させた。
  • 隋唐代:『高僧伝』巻10では、「梁京師釈保誌伝」として立伝されている。なお、「宝」と「保」とは音通のため、互用される事がある。その後も、各書に宝誌に関する伝承が記録されるが、『南史』巻76でも、既にかなりの変貌を遂げている。
  • 唐代には、宝誌は十一面観音の化身であるという信仰が成立していた。また、誌公帽子と呼ばれる宝誌に由来する帽子を被った像も描かれ、敦煌でも発見されている。さらに、大乗讃・十二時頌・十四科頌と呼ばれる偈頌が、宝誌の名に仮託されて作られた(『景徳伝灯録』巻29にあり)。
  • 北魏の宝公:これらの偈頌と関連して興味深い記録がある。それは、北魏仏教の同時代史料である『洛陽伽藍記』巻4の「白馬寺」の条に見える宝公という僧に関する記述である。この宝公に関しては、他に見えず、その詳細は不明であるが、その記述は、ボロを着た姿、三世を見通す神通力、各種の予言をなし、北魏の実権者であった胡太后の末路も予言したと記される点など、梁の宝誌に酷似した内容を持っている。さらに、その記事の最後は、宝公作の「十二辰歌」が、彼の遺作となったいう記述で終っている。或いは同時代の別人かも知れないし、当時、南北両朝間を比較的自由に往来できていた僧の身分を考えると、宝誌であった可能性も拭い切れない。何れにしても、そこには、宝誌作とされる偈頌との関連が想起される。
  • 宋代以降:北宋代には、太宗が「道林真覚大師」の師号を追贈している。その後も、宝誌は中国における施餓鬼会である水陸大会の際の儀軌の撰者として、広く尊崇を集めた。
  • 日本への影響:日本においては、『宇治拾遺物語』巻9に「宝誌和尚影の事」として、その十一面観音の化身としての説話が伝承され、また、「野馬台詩」と呼ばれる日本の未来記の撰者としても、古来知られる存在となった。京都市下京区高辻通り大宮西入ルの西往寺には、平安時代の作とされる宝誌和尚像(木像、鉈彫り)が伝来している(重要文化財、京都国立博物館に寄託)。この像は、宝誌の顔面が縦に裂けて、その内側から十一面観音の相を現わそうとする瞬間を具象化した、特異な彫像である。この像の写真が、ロラン・バルトの『表徴の帝国』(宗左近訳, ちくま学芸文庫, 1996年 ISBN 4480083073)のカバー写真に採用され、その存在が広く知られるようになった。また、大徳寺蔵の五百羅漢図像のうち、明治期にアメリカに流出し、現在はボストン美術館に像される画幅中にも、同様の図像が描かれ、宝誌を羅漢の一人として表わした遺例の一つであると考えられている。
  • 宝誌和尚立像は現代彫刻にも劣らぬ、実にコンセプチャアルな仏像である。スゴ〜イ!

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    宝誌-Wikipedia
    (1)「傑作仏像写真館

(2006.10.18掲載)




▲中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧・宝誌。 ---西往寺 宝誌和尚立像(平安時代)


◆「西往寺 宝誌和尚立像(平安時代):人は誰でも体の内に仏が宿り、そして生きたまま仏と化すことも可能とアピール!なんと和尚さんの顔が真っ二つに割れ、中から十一面観音が出てきた!宝誌和尚(ほうしわじょう)は実在した中国南北朝時代の僧侶。梁(りょう)の武帝(ぶてい)が絵師に和尚の肖像を描くよう命じると、和尚の顔が割れて中の菩薩がどんどん変化するので、結局お顔を書く事が出来なかったという。予知を行なったり病を治した為、権力者に恐れ和尚られ何度も投獄された。//西往寺の所有だが、諸事情で京都国立博物館が保管し、時々公開している」(1)。


96年?の生涯  

天野清三郎/渡邊蒿蔵
Seizaburo Amano
     【松陰門下の鬼才】

(1843.?〜1939.?=天保14年〜昭和14年)
死因?---?座

  • 旧萩藩士渡辺小五郎の弟として川島に生まれる。幼くして天野家の養子となるが、維新後に渡辺家に戻り、渡邊蒿蔵と改めた。青年時代まで天野清三郎という名だった。
  • 松下村塾には安政4年(1857)、15歳の時に入塾。勉強嫌いだったが、松陰には可愛がられたという。松陰は清三郎に、吉田栄太郎(稔麿)と並ぶほどの大きな期待を寄せていた。のち久坂玄瑞らと行動を共にし、奇兵隊にも加わる。安政6年萩西洋学所に入り、蘭・英語を習得。
  • その後江戸に出て、桜田藩邸の有備館に学ぶ。文久3年奇兵隊に入隊したが、同年10月遊撃隊が編成されるとその用掛。
  • ペリーの黒船来航に刺激を受け、慶応3年(1867)には藩命で、23歳のときに密航してイギリスに留学。河北義次郎らと共に造船学を修める。さらにアメリカで苦学しながら造船技術を学んだ。
  • 維新後生家の渡辺家に戻り、蒿蔵と名を改めた。明治9年帰国して長崎造船所所長、工部省技師を勤め明治二十四年退職。松蔭門下で最も長い97歳で没した。
  • 晩年には楽焼作りに励み、萩焼伝統窯、人間国宝十代三輪休雪(休和)に楽焼の焼き方、作り方などの指導を受ける。渡邊蒿蔵は三輪窯とはとても交流があった。高杉晋作の奇兵隊創設時には、八代三輪雪山と渡邊蒿蔵は一緒に参加し倒幕に向けて活躍した。
  • 「松下村塾のいわば落第坊主、勉強嫌いの天野清三郎が、どうしてロンドンやボストンで、血を吐く思いをしてまで勉強することができたのか、その底力はどこから出たのか。それは、自分は何のために生きるかを真剣に考えた末、自分の持ち味の発揮と世のため人のために役立つことが結びついた、どうしても果たさなければならない夢を持っていたからです」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    「松下村塾門下生 長崎造船局局長として活躍 天野清三郎 」
    www.city.hagi.yamaguchi.jp/portal/ manabu/jinbutu/hito/01-05/00102amano.htm
    (1)「なんのために生きるか」
    www.akiminami-h.hiroshima-c.ed.jp/ hanasi/nannotameni.htm

(2005.10.09掲載)




▲松下村塾のいわば落第坊主、勉強嫌いで、松蔭門下で最も長い96歳で没した天野清三郎。


96年5ヶ月と26日の生涯  

三島海雲
Kaiun Mishima
 【「初恋の味」カルピス の生みの親】

(1878.07.02〜1974.12.28=明治11〜昭和49)
死因?---蟹座

  • 大阪府郊外の西本願寺を本山とする一寒村の貧乏寺に生を受ける。三島海雲(本名)は、青雲の志強く、中国大陸に渡り、一獲千金を夢見ていた。
  • 1902年、当時日本の青少年の憧れの地であった中国大陸に、無限の可能性と夢を求めて渡る。
  • カルピスの発売は1919年(大正8年)の7月7日であるが、誕生の起源は1902年(明治35年)までさかのぼる。 当時仏教大学の学生で、カルピスの創始者である三島海雲がアジア大陸に渡り、モンゴルを訪れたことがきっかけである。
  • 三島はモンゴルの遊牧民から「酸乳(乳酸菌で発酵した酸っぱい牛乳)」を教えてもらい、大陸生活中ずっと愛飲していた。この酸乳を飲みつづけていると体の調子が良くなることを自ら体験していた。
  • 中国の辛亥革命を機に1915年(大正15年)に帰国し、事業を始めるが、この時頭に浮かんだのがあの「酸乳」であった。さっそく、酸乳の製品化のための研究を開始するが、三島自身ノウハウを持っていたわけではないため、乳酸菌入りキャラメルの失敗を経て、試行錯誤の末誕生した。
  • そしてこの飲料は、カルシウムの「カル」と梵語で最上の物という意味を持つサルピスの「ピス」を合わせ、「カルピス」と名付けられた。
  • 明治天皇、崩御。その訃報を知った国民は悲しみに包まれ、大君の御霊を追って自害する者も少なくなかった。国中に末世的風潮が蔓延していたこの頃、ときの元老・大隈重信は、「国力の源は臣民の健康にある」との信念のもとに、大正元年、イリア・メチニコフの大著『不老長寿論』を大日本文明協会から出版した。メチニコフは大隈と同時代に生きたロシアの生物学者で、その主著『不老長寿論』は、文字通り不老長寿の実践的なテクノロジーを述べた快箸だ。いわく、人間の老化は、腸の中の廃残食物の発酵や腐敗によって有害な菌が発生することか要因で、それを抑えるためには乳酸菌飲料を摂ることが重要である……。その主張は、腸内の善玉菌と悪玉菌のバランスを保つことによって免疫カを高め、老化を抑制する、という現代医学の見解と一致し、今日の乳酸菌ブームの最初の医学的根拠となる。そして『不老長寿論』の出版から7年後、世界に先駆けて乳酸菌飲料の量産化に成功した男がいた。その男の名は三島海雲(かいうん)。商品名を"カルピス"という」(1)。
  • 「初恋の味:カルピスの有名なキャッチフレーズといえば、「初恋の味」である。これはカルピス発売から1年くらいたった時に、三島が後輩の教師驪城卓爾(こまきたくじ)にカルピスを飲ませてみたところ、「この一杯に初恋の味がある」と感想を述べ、「初恋の味」を宣伝文句に使ってみてはと勧めたところから来ている。 始め三島はこのキャッチフレーズを使うことに躊躇していたが、翌年驪城に再び会った時に熱心に「初恋の味」を勧められた。三島は「カルピスは子供にも好かれているのに、初恋とは何かと問われたらどう答えればよいのだ」と話したところ、驪城は「初恋の味とはカルピスの味と答えればよい」と言い、これに同意した三島は「初恋の味」を使うことにした。 ちょうどその頃日本は第一次世界大戦による好景気が訪れ、人心は明るく陽気になっていたが、そのような世情に「初恋の味」というキャッチフレーズがぴたりとあてはまり、カルピスは全国に広まっていった」(2)。
  • 「水玉模様と黒人マーク:カルピスのパッケージは水玉模様と黒人がカルピスを飲んでいるマークがお馴染みであるが、水玉模様はカルピスの起源となったモンゴルで三島海雲が見た美しい天の川である。また、黒人マークは1923年(大正12年)に制定されたが、これは第一次世界大戦後のインフレで特に困窮している美術家を救うため、ドイツ、フランス、イタリアでカルピスのポスターの懸賞募集が行われた。その中から選ばれたのが黒人マークで、作者はドイツのオットー・デュンケルスビューラーという図案家であった。黒人マークは1980年代になると国際化時代の背景から人種差別的な問題を提起されたり、黒人差別をかかえる国々から反対意見を展開されるようになり、企業イメージの面で不利ということで1990年に使用を中止することとなった」(3)。
  • 「カルピス美味しいです!今でもお世話になっています」(4)。
  • 今(2006年)から45年ほど前の夏、庶民の子どもたちにとっての清涼飲料水といえば、ワタナベのジュースの素かカルピスだった。コカ・コーラは上陸していたかも知れないが、田舎の山猿には無縁だった。ワタナベのジュースの素はサッカリンか何かの人工甘味料の味がした。カルピスは一寸高級だったように思う。原液を入れての一杯目を飲み干すと、氷の廻りにそこはかとなく原液のなごりが残っていて、また水で薄めて飲んだ。もったいないので原液は極限まで薄めて飲んだ。薄めすぎると一寸酸っぱい味がするだけだったが、それでも満足した。お腹にいいはずのカルピスだったが、薄めてたくさん飲んだので、よくお腹を壊した記憶が残っている。でも幸せだった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「COBS ONLINE:20世紀の発明品カタログ 第12回 「不老長寿の夢を求めて ...
    (2)(3)「Calpis Water
    (4)投稿者:Miwa さん..2009/10/12 09:39:46(月) [6362]

(2009.10.12掲載)




▲カルピス株式会社創業者、三島海雲。


◆ジンギスカンの末裔の鮑(ホウ)一族と三島海雲(前列左端)(写真提供/カルピス)

 


◆大正8年に発売された最初の「カルピス」(写真提供/カルピス)
国に力を! 国民に健康を!



96年?の生涯-----------------2002年生誕100年   

小堀四郎
Shirou Kobori 
【真撃に制作に打込んだ孤高の大家】

(1902.?〜1998.08.09)
死因?---?座

  • 画家。名古屋市中区南呉服町(現名古屋市中区栄3丁目付近)に生まれた。愛知一中(現愛知県立旭丘高校)を卒業後、画家を志して上京。
  • 1922年、東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科に入学。同期には猪熊弦一郎、牛島憲之、荻須高徳、小磯良平、山口長男など、のちの日本洋画壇を牽引する面々が名を連ね、切磋琢磨。
  • 卒業後は1928年から5年間フランスに留学して研鑚を積み、帰国後森鴎外の次女杏奴(あんぬ)と結婚して、周囲からもその後の活躍が大いに期待される。
  • しかし、1935年の松田改組による美術界の混乱に大きく失望した小堀は、恩師藤島武二の助言もあって、画壇のしがらみに一切束縛されずに画道を貫くことを決心し、表舞台から退く。巨匠藤島武は才能ある弟子に「真に絵を追求するなら、画壇を離れよ。芸術は人なり、人間を作れ」と言った。以後、東京美術学校同期生による年一回の上杜会(じょうとかい)展を主な発表の場とし、妻の献身的な支えもあって、ひたすら制作する日々を送る。作品のほとんどは求められても売ることも譲ることもなく、生涯作家の手元に置く。しかし芸術への探究心は年を追う毎に旺盛になり、晩年は80号や100号の大作を手がけるなど、制作意欲が衰えることなかった。
  • ボクはこれまであまり知られることのなかった画家・小堀四郎のことを読売新聞の芥川喜好「芥川記者の展覧会へ行こう」で初めて知った。そこには「芸術家夫婦 心にしみる愛」と書いてある。確かに小堀四郎は、人生の目的を名誉でも富でもなく、絵画の本質を徹底的に究めることに定め、美術学校時代からの恩師藤島武二の教えを守りながら、杏奴夫人の深い理解のもと真撃に制作に打込んだ孤高の大家らしい。しかし、文豪森鴎外の次女が奥さんで、古くても世田谷の洋館に暮らしておられ、作品のほとんどは求められても売ることも譲ることもなく、生涯作家の手元に置かれ、またこのことを芥川龍之介のご子息が取り上げたとなると、モディリアーニやキキやキスリングを想うとき、ひがみっぽく「なんだかな〜」と思ってしまうのである。「人間に一番大切なのは、精神的自由です」というお言葉も、「精神的自由は物質的自由に支えられている」と言ってるのではと深読みしてしまいました。失礼。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.01.24夕刊芥川喜好「芥川記者の展覧会へ行こう」
    「豊田市美術館:小堀四郎展
    EJRCF:アーカイブ / 東京ステーションギャラリー

(2004.01.25更新)




▲心にしみる夫婦愛で真撃に制作に打込んだ孤高の大家小堀四郎。


▲「妻の像」 小堀四郎。

96年?の生涯

三木 忠直
Tadanao Miki
    【鉄道技術研究所の技術者】

(1909.12.15〜 2005.?)
胃がん----山羊座  

  • 高松中、第六高等学校(現岡山大学)を経て東京大学工学部卒業後、海軍に奉職(終戦時は技術少佐)。太平洋戦争時は銀河、桜花の設計を担当。
  • 戦後、多くの青年を散らした桜花に携わった事を悔い、純然たる平和産業と考えた鉄道車両技術者に転身。戦後の公職追放中に国鉄でバイトをしていたのが縁であったと言われている。
  • 新幹線0系電車の先端のデザインを設計したことで知られる他、小田急電鉄ロマンスカー3000形、懸垂型モノレールなどに携わる。新幹線の空気バネを作った松平精と新幹線の自動列車制御装置(ATC)を作った河邊一とは鉄道技術研究所で知り合った。
  • このような言葉を残している。 「とにかくもう、戦争はこりごりだった。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんですよ」(コミック版プロジェクトX第2巻/宙出版より)
  • 三木忠直の名言・格言:新幹線開発「美しいものを作れ そうすれば解決する」(NHK・プロジェクトXより)(1)。
  • NHKのドキュメンタリーシリーズ「プロジェクトx」の「執念が生んだ新幹線」については「新幹線開発物語 技術者魂のすごさ」に詳しい。
  • 「さて、いよいよ明日に迫った今年のJリーグ開幕ですが、未踏の3連覇を目指す我らがアントラーズの母胎と成ったのは、当時はJFL2部の弱小チームに過ぎなかった住友金属でした。其の工場正門前には、知らないと通り過ぎて仕舞いそうな極めて小さな公園が在りまして、横に廻ると桜花11型のレプリカが格納されて居ります。米国側からBAKABOMBと呼ばれた其の姿を眺める度に、生前の氏が恐らくは背負って居たで在ろう十字架の重さに胸が痛むのを禁じ得ません。こちら」(2)。
  • 「2005年5月22日と言う氏の逝去を伝えるニュースは、キリスト教関係の各サイトにも掲載されて居りますが、クリスチャンであった母と妻の勧めも在って訪れた協会で聞かされた、マタイ伝の一節(下記)に感銘した彼は、終戦の年の誕生日に中渋谷教会で洗礼を受ける事に成ります。〈凡て重荷を負ひて労苦せる者我に来たれ。我汝等を休ません〉」(3)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    三木忠直-Wikipedia
    (1)「世界の名言・癒しの言葉・ジョーク
    (2)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 3/ 6 08:03:03(金) [4401]
    (3)投稿者:Thori_Tung さん..2009/ 3/ 6 20:37:47(金) [4402]

(2009.03.07更新)



▲団子っ鼻と親しまれた0系新幹線設計の中心人物、三木 忠直。


 


96年と3日の生涯

シャルロット・ペリアン
Charlotte Perriand
  
         【すべてを受け入れる楽観的な感覚と思考】

(1903.10.24〜1999.10.27)
死因?---蠍座 

  • 1903年(明治36)パリで生まれる。父親は紳士服の裁断、母親は婦人服の仕立てを生業としていた家庭に育ち幼い頃から様々な素材に囲まれて育った。
  • 1926年 パリの装飾美術連学校を卒業。自らアトリエを構え、展覧会に家具の出品を始める。
  • 1927年(昭和2)サロン・ドートヌンヌに出品した『屋根裏のバー』が認められたことによりル・コルビュジエのアトリエに入る。
  • ル・コルビュジエとその甥であるピエール・ジャンヌレとの三人での共同でデザインをする。アトリエでは前川國男坂倉準三と机を並べる。
  • 1937年(昭和12)ル・コルビュジエのアトリエを辞し独立。独立後もル・コルビュジエ、ピエール・ジャンヌレらと良好な関係を維持している。
  • 1940年(昭和15) 日本の商工省が輸出工芸指導の装飾美術顧問として招聘され来日。これは坂倉準三の尽力によるものであった。河井寛次郎、柳宗理らと交流。
  • 1941年(昭和16)日本で『選択・伝統・創造』展開催。商工省との契約解除。
  • 1942年(昭和17)日本各地を回り、伝統工芸に触れる。第二次世界大戦の戦渦を避け仏領インドシナ(現・ベトナム)へ行く。
  • 1946年(昭和21)パリ帰還。コルビュジェの集合住宅実施計画に参画。
  • 1949年(昭和24)ル・コルビュジェ設計のマルセイユのユニテ・ダビシオンのためのオープンキッチンの試作品を製作。
  • 1952年(昭和27)ジャン・プルーヴェとの協働を始める。
  • 1955年(昭和30)日本で『ル・コルビュジェ、レジェ、ペリアン三人展』開催。
  • 1959年(昭和34)坂倉準三、進来廉とエールフランス東京支社オフィスをデザイン。
  • 1966年(昭和41)坂倉準三らとパリ日本大使公邸の内装をデザイン。
  • 1967年(昭和42)フランス・サヴォア県「ベルヴィル」のスキーリゾート計画に参画。
  • 1985年(昭和60)パリ装飾美術館にて『シャルロット・ペリアン大回顧展』開催。
  • 1993年(平成5)パリ・ユネスコ本部大茶会のため「茶室」をデザイン。
  • 1996年(平成8)ロンドンデザインミュージアムで『シャルロット・ペリアン モダニストパイオニア展』開催。
  • 1998年(平成10)自伝『UNE VIE DE CREATION』刊行(邦訳は『シャルロット・ペリアン自伝』北代美和子訳、みすず書房、2009年刊)。日本で『シャルロット・ペリアン展』開催。
  • 1999年(平成11)没
  • 「デザイナーとしての才能はもちろんだが、強靱な精神と身体、すべてを受け入れる楽観的な感覚と思考。何よりも官能的と言っていいような思考と感受性。---」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    シャルロット・ペリアン-Wikipedia
    (1)『シャルロット・ペリアン自伝』のデザイン評論家・柏木博による書評より抜粋。

(2010.01.01掲載)



▲当初家具デザインを担当するために建築家ル・コルビジェのアトリエに入り、その後、建築から大規模なリゾート計画まで手がけたフランスの建築家、デザイナー、シャルロット・ペリアン。

 


96年と20日の生涯

村上元三
Genzo Murakami
   【歴史の敵役に斬新な解釈】

(1910.03.14〜2006.04.03=明治43年〜平成17年)
心不全----魚座   

  • 旧朝鮮元山生まれ。青山学院中等部卒。1941年(30歳11ヵ月)、「上総風土記」で直木賞を受賞。
  • 1949年から連載した「佐々木小次郎」で大衆文壇の第一人者の地位を確立。その後も、「源義経」など、歴史の流れにほんろうされた人物を、徹底した時代考証をもとに描いた。
  • 1995年の自伝「思い出の時代作家たち」では、戦中戦後の大衆小説作家たちとの交友を描きつつ、60年の文人生活を振り返った。
  • 処女作は「サンデー毎日」の懸賞小説の選外佳作になった「利根の川霧」(昭和9年)。
  • 「村上元三の代表作「佐々木小次郎」は、つい先頃も尾上菊之助主演の東宝映画として稲垣浩監督の手で映画化されたが、この長編は戦後夕刊が復活された昭和二十五年から朝日の夕刊小説として登場し大いに好評を博し、村上元三の第一線時代小説作家としての位置を不動のものとした記念すべき作品であった。昭和十五年に「上総風土記」によって第十二回直木賞を受けて以来、その作品活動には華々しいものがあると同時に、師長谷川伸のあとをうけて、その門下生を集めた新鷹会の指導にもあたっている。これも代表作の一つである「次郎長三国志」の面白さにはまことにユニークなものがあり、新解釈の次郎長として忘れ難い佳作であった。村上元三にはその幅広い作品活動のほかに、芝居やテレビの脚本、演出という仕事にも目覚しいものがある。NHKテレビの一年連続番組でもすでに「赤穂浪士」の脚本、「源義経」の原作・脚本などで大活躍したのは、まだ記憶に新しいところである」(1)。
  • 「---主人公は、戦時下の求道小説であった「宮本武蔵」(吉川英治)のライバル。作品は、戦後の解放的な雰囲気の中で書かれた青春小説の趣があり、小次郎は武蔵野ストイシズムとは正反対のエピキュリアン(享楽主義者)として登場する。これに続いて村上氏は、戦前は鞍馬天狗の敵役であった新撰組の興亡を大作「新選組」で活写。この作品は、司馬遼太郎の「燃えよ剣」以前に土方歳三を初めてクローズアップした長編だった。さらに、これまた戦前では大悪人とされた「足利尊氏」を主人公にするなど、このあたりに村上作品の戦後的な意味を見出すことが出来よう」(2)。
  • ボクはエピキュリアンではないけれど、武蔵よりも断然小次郎派だ。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「春陽堂の作家たち / 村上 元三
    (2)読売新聞2006.04.08夕刊「ウィークエンド文化」(縄田一男)より抜粋。

(2006.04.09更新)




▲「佐々木小次郎」「水戸黄門」などの時代小説で知られる直木賞作家・村上元三。

 


96年1ヶ月?の生涯

湯川スミ
Sumi Yukawa
      【故湯川博士の妻】

(1910.04.?〜2006.05.14=明治43年〜平成18年)
胃がん----牡羊座か牡牛座  

  • 大阪市生まれ。本名・澄子。実家は病院経営。1932年(昭和7年)に京都大無給副手だった湯川博士と見合い結婚。湯川博士が湯川家に婿養子に入る。
  • 「夫に研究のことだけを考えさせるのが妻の務め」と夫の研究生活を支え続けた。秘書として国際会議などに同行。
  • 物理学者の妻として、1949年にノーベル物理学賞授賞式には、湯川博士と一緒に参加。祝賀会では、和服姿で博士とダンスを披露し、戦後日本の復興に希望の光をともした。
  • 1981年(昭和56年)に博士が死去後、博士の悲願だった核兵器廃絶の意志を受け継いで平和運動を推進。1987年に世界連邦世界協会の名誉会長に就任。「世界中から核を廃絶するには国連に世界連邦政府を置き、地球規模で考えないと実現できない」と訴え、各国の憲法に「戦争放棄」を採り入れるよう働きかけた。
  • 最近まで精力的に活動し、今月10日には京都市で開かれた世界連邦全国婦人協議会総会に車いすで出席、元気な姿を見せていた。
  • 平成14年に京都市特別功労賞受賞。日舞、南宋画と多方面で活躍。著書に自叙伝「苦楽の園」などがある。
  • 「戦後、スミさんは夫と米国に渡った。同じ研究所に居たアインシュタインが、原爆開発の一端となったことを深く後悔し、秀樹氏に言ったという。「戦争が起こらない仕組みをつくらないといけない。そのためには世界を連邦にするしか道はない」に共感し、自らも核廃絶を希求した秀樹氏は、がんを患ってからも言い続けた。「君が運動の先頭に立て」。この言葉を胸に抱き続け、96歳で夫の元に旅立った」(1)。
  • 「尾池和夫・京都大学長は「今年9月の京都での湯川・朝永生誕100年記念展のオープニングにも出席していただく予定だった。ご本人も楽しみにされており、残念だ」と語った。九後太一(くご・たいち)・京都大基礎物理学研究所長は「湯川先生の遺志を継ぎ、学問的な業績や平和への純真な思いを世界に広める伝道役を務めようと、最後まで精力的に活動していた」と話した」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄。
    (1)朝日新聞2006.05.16朝刊「天声人語」より抜粋。
    (2)「asahi.com:物理学者の故湯川秀樹の妻スミさんが死去 - 社会

(2007.01.07更新)



▲日本人初のノーベル賞受賞者の故・湯川秀樹博士の妻で、国際平和団体「世界連邦世界協会」名誉会長・湯川スミ。


◆亡くなった故湯川秀樹博士の妻スミさん=05年5月、京都市左京区で


◆1977年1月、退院した湯川秀樹博士と京都市の自宅の庭を散歩するスミさん

 


96年1ヶ4日の生涯

ソナラ・ドッド
Sonora Dodd
   【「父の日」の提唱者】

(1882.02.18〜1978.03.22)
死因?----水瓶座  

  • アーカンソー州セバスチャン郡出身。アメリカ北西部開拓者、ウィリアム・ジャクソン・スマート(William Jackson Smart,1842-1919)とエレン・ヴィクトリア・チーク・スマート(Ellen Victoria Cheek Smart,1851-1898)との間に生まれる。父親は南北戦争でアーカンソー軽砲兵連隊に所属、1862年のピーリッジの戦い(Battle of Pea Ridge)に召集される。スマート家はワシントン州スポーケン近郊に移住する。
  • ソナラが16歳の時、6人目の子供の出産で母親が亡くなる。ソナラ以外みんな男の兄弟だったため、ソナラは父親と共に、生まれたばかりのマーシャル(Marshall)ら小さな弟たちを育てる。
  • 1909年ごろ、ワシントン州スポーケンの聖職者同盟(牧師協会)に、父親の誕生日である6月5日を「父を讃える日」にしてほしいと嘆願するが、教会側は6月の第3日曜日を選んだ。
  • 1910年6月19日に初めて「父の日」が祝われる。
  • 1916年アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンの時に父の日が認知されるようになる。
  • 日本では1950年代ごろから知られるようになった。
  • 1966年、ジョンソン大統領が6月第3日曜日を父の日として告示。
  • 1972年(昭和47年)、ニクソン大統領の時に国民の祝日に制定される。
  • 1974年、スポーケン国際博覧会にて彼女の栄誉が讃えられる。
  • 「1909年、ワシントン州のソナラ・ドッド(ジョン・ブルース・ドッド夫人)という女性は、「母の日」の説教を聞いていて、「父の日」もあるべきだと考えました。母親の亡き後、ソナラと5人の兄を男手一つで育ててくれた父親を敬愛していたからです。父親が6月生まれだったため、ソナラは自分が通う教会の牧師に頼み、6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。それは、1909年6月19日で、第3日曜日でした。これがもとで、ワシントン州では6月の第3日曜日が「父の日」となったのです。それから、幾人かの大統領によって「父の日」に関する声明などが出されましたが、実際に国民の祝日として定められたのは、1972年のことです。こうして、「母の日」も「父の日」も、クリスチャン女性によって、親への深い愛と感謝をこめて始められたわけです。この日は、プレゼントやカードもいいですが、何よりも心からの感謝を贈りましょう」(1)。
  • 「ドット夫人のお母さんは、夫のウイリアム氏が北軍に召されている間、女手一つで働きながら一家を支えてきました。その為、お母さんはすっかり体をこわしてしまい、お父さんの復員後、間もなく死んでしまいました。そこからお父さんの苦闘が始まったのです。残された子供達は、男の子5人と女の子が1人でした。6人の子供達を男手一つで育てるのですから、さぞ大変だったことでしょう。お父さんは再婚もせず、生涯独身で働き通したそうです。ドット婦人が「父の日」に父親の墓前に白いバラを供えたことから「父の日にはバラ」となったようです(こちらより)。「母の日」も「父の日」も南北戦争のさなかに生まれたのですね・・・合掌。」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「母の日 父の日
    (2)投稿者:マイマイさん..2009/ 5/16 20:35:28(土) [4853]

(2009.05.17掲載)



▲6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらったソナラ・ドッド/ジョン・ブルース・ドッド夫人。

 

96年1ヶ17日の生涯

キャサリン・ヘップバーン
Katharine Hepburn
   【黄昏の大女優】

(1907.05.12〜2003.06.29)
☆老衰にて天寿全う☆----牡牛座  

  • アカデミー主演女優賞に4度も輝いたアメリカの大女優。医師の父親と女性人権活動家の母親のもと、6人兄弟の2人目の子どもとして生まれた。
  • 大学卒業後に立ったブロードウェイで舞台女優として認められ、映画界に進出。「勝利の朝」(34)「招かれざる客」(67)「冬のライオン」(68)「黄昏」(81)で、アカデミー主演女優賞を受賞。
  • オスカー4度受賞の記録はいまだ破られていない。受賞も含めるとアカデミー賞へは合計12回ノミネートされており、メリル・ストリープが今年13回目のノミネートを受けるまでは過去最多だった。
  • 「女性ナンバー1」(42)で初共演して以来、9本の映画で共演したスペンサー・トレイシーとのロマンスは有名。トレイシーが67年に死去するまでの27年間、公私ともに親密な関係を続けていたが、トレイシーに妻子があったため結婚はしなかった。
  • キャサリン・ヘップバーンが29日午後、米コネティカット州の自宅で死去した。96歳だった。ヘップバーンは近年、パーキンソン病などを患っていた。
  • 自立した現代的女性を演じ、批評家からも大衆からも指示された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2003.12.30朝刊「表舞台から去った人」、 http://www.eiga.com/buzz/030701/04.shtml

(2003.12.30更新)




▲アカデミー主演女優賞に4度も輝いたアメリカの大女優・キャサリン・ヘップバーン。

 

 

◆「私は自由の女神のようなもの」
(キャサリン・ヘップバーン)

96年2ヶ月と14日の生涯

笹川良一
Ryouichi Sasagawa
   【船舶振興と社会奉仕】

(1899.05.04 AM9:00〜1995.07.18)
急性心不全---牡牛座

  • 国粋大衆党総裁[元]、日本船舶振興会会長。大阪・豊川村(現・箕面市)で生まれ。
  • 26歳の若さで村会議員に当選。国政に進出し、時の翼賛政治に抵抗。世界を舞台に、その名の知られた行動家だった。
  • 戦後には自らA級戦犯として名乗り出たが、それには日本の正当性を世界に訴える目的があったという。
  • 後に全国モーターボート競走会連合会、日本船舶振興会(現、日本財団)会長に就任し、ハンセン病対策などの社会奉仕と青少年育成事業に心血を注いだ。
  • ちなみに、川端康成(ノーベル文学賞受賞)とは、小学校時代に同級生だったらしい。 「人類皆兄弟」。
  • 日本財団が設立されて以来、33年間にわたり会長を務めてきた笹川良一は、1995年7月18日午後9時、急性心不全のため、東京都中央区の聖路加国際病院で逝去した。享年96歳。

¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2004.04.29更新)




▲国粋大衆党総裁[元]、日本船舶振興会会長・笹川良一。

 

96年3ヶ月と18日の生涯

鈴木真砂女
Masajo Suzuki
   【女流俳人と銀座の女将】

(1906.11.24〜2003.03.14)
☆老衰にて天寿全う☆----射手座

  • 女流俳人の最長老にして銀座の女将。千葉県鴨川市の老舗旅館に生まれる。
  • 日本橋の問屋に嫁ぎ、一女を産んだが、夫が借金で失踪。実家に戻ると、旅館を継いでいた姉が急死。請われて義兄と再婚し、四人の遺児を育てながら旅館の女将として働き、まもなく宿泊客だった年下の海軍士官と恋に落ちた。
  • 1947年(41歳)、久保田万太郎主催の「春燈」に参加。1955年(49歳)に第一句集『生簀籠』を出す。
    1957年(51歳)から「卯波」の女将となる傍ら句作を続け、1976年『夕蛍』で俳人協会賞、1995年『都鳥』で読売文学賞。
  • 1999年には、第七句集『紫木蓮』が史上最高齢(92歳)で蛇笏賞を受けた。
  • 全身衰弱のため東京都内の老人保健施設で死去した。
  • 「〈だって女ですもの。しゃれっ気なくなったらおしまい〉二度の離婚に妻子ある人との恋など、波乱の人生から恋の名句をつづった。その半生は瀬戸内寂聴さんの新聞小説「いよいよ華やぐ」のモデルとなるなど、俳壇以外でも注目を集めた。銀座の小料理屋の女将としても知られ、チャーミングな人柄は広く慕われた」(1)。
  • 東京・銀座に営んだ小料理屋は、店の名前を「卯波」という。波乱の恋に生き、「羅や人悲します恋をして」などの句で知られるその人の人生に似て、艶やかな名前だ。
  • 「鈴木真砂女さんに、「火を放ち野をふり向かぬ男かな」という恋の句がある。人の胸に火をつけ、あとを顧みずに去っていく男の後ろ姿だろう」(2)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)読売新聞2003.12.31朝刊「墓碑銘」抜粋。
    (2)読売新聞2005.06.16朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2008.11.23更新)



▲女流俳人の最長老にして銀座の女将・鈴木真砂女。

真砂女の句

◆「朝顔やすでにきのふとなりしこと」

◆「羅(うすもの)や人悲します恋をして 」

◆「背きし夫の墓丹念に洗ひけり」(真砂女)

96年3ヶ月と29日の生涯

原ひさ子
Hisako Hara
   【日本のおばあちゃん】

(1909.08.06〜2005.12.04=明治42年〜平成17年)
心不全---獅子座


  • 女優。本名・石島久。静岡県静岡市出身。不二高女卒業。
  • 1933年(昭和八年)前進座に入座。以後十一年間前進座の舞台に立ち、「石川啄木」の啄木の妻を当たり役とした。この間十年に「街の入墨者」で映画初出演。
  • 1935年東宝の専属となり、戦後は「青い山脈」など数々の映画に出演。俳協に移ったあと、近年、テレビのバラエティー番組やコマーシャルで人気者になる。
  • 最近の出演映画に「ワンダフル・ライフ」「三文役者」「老親」などがある。先頃上梓した「ばばさまの俳句は日記つれづれに」(アートダイジェスト)も評判となる。
  • 日本最高齢の現役女優としてニューヨーク・タイムスにも写真入りで紹介された。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    「第10回 女優 原ひさ子さん PROFILE はら・ひさこ 本名・石島久。明治 ...」www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/10/no10.html

(2005.12.09掲載)




▲日本最高齢の現役女優としてニューヨーク・タイムスにも写真入りで紹介された原ひさ子。

96年5ヶ月と15日の生涯

スタッズ・ターケル
Studs Terkel
【口述の歴史(オーラル・ヒストリー)】

(1912.05.16〜2008.10.31)
死因は不明----牡牛座

  • 1912年、ニューヨークに生まれ、幼少期に家族でシカゴに移り住んだ。父は仕立屋、母は下宿屋を営んでいた。
  • シカゴ大学で法律を学ぶ。さまざまな職業を経て、ラジオ・パーソナリティやテレビ番組のホストとして活躍する中で、後に「口述の歴史(オーラル・ヒストリー)」と呼ぶことになる独自のインタビューのスタイルを確立していった。
  • 1985年、第2次世界大戦を取り上げた著書「よい戦争」でピュリツァー賞を受賞。100人を超える普通の米国人にインタビューした「仕事!」など関係者への聞き取りを基にしたスタイルで知られた。ラジオのパーソナリティーなどとしても活躍した。
  • 著書は『仕事!』『よい戦争』(ピューリッツァー賞受賞)『インタビューという仕事』『人種問題』『アメリカの分裂』(以上の邦訳は、中山容他訳、晶文社)、『アメリカン・ドリーム』(中山容他訳、白水社)など多数。
  • AP通信によると、31日、米シカゴの自宅で死去、96歳。
  • 著書は『仕事!』『よい戦争』(ピューリッツァー賞受賞)『インタビューという仕事』『人種問題』『アメリカの分裂』(以上の邦訳は、中山容他訳、晶文社)、『アメリカン・ドリーム』(中山容他訳、白水社)など多数。
  • フォークソング、ブルース、ジャズ、オペラなどの音楽にも造詣が深い。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄

(2009.05.16更新)



▲アメリカ芸術文学アカデミー会員、ピュリツァー賞受賞の米作家スタッズ・ターケル。





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