玉川和正+アートランダム 建築・都市研究所art random

ポートフォリオ建築のカレイドスコープコミュニティモデル「やりくり新首都」十箇条人生のセイムスケール

人生のセイムスケール

スケールバー

スケールバー

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120-121-122-......

age 101


50音インデックス


■101歳の
 シンクロニシティ


グランマ・モーゼス
アーヴィング・バーリン
曽宮 一念
リーフェンシュタール


石井桃子
ジョージ・ケナン
谷沢三之助
直原玉青
有馬秀子


奥村土牛
エリザベス皇太后
三浦敬三


■101歳のエポック


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「私の最大の功績はオリンピックの映像化。最大の失敗はヒトラーと知り合ったこと」
(リーフェンシュタール)

「店が彼女の人生のすべてでした」
(有馬秀子の孫の清さん)

奥村土牛が長者番付に名を連ねたのは、1986年のこと。都内の土地を不動産屋にせがまれて手放した。時に97歳の時の言葉「土地でお金が入るなんて恥ずかしい」。


 

 

101歳のシンクロニシティ!

  • 101歳では---
     
    ●「ヒトラーの愛人」「第三帝国のセックス・シンボル」などと呼ばれたドイツの映画監督、写真家レニ・リーフェンシュタール(1902.?〜2003.09.08.)はガンの手術を受けて療養していたが、101年?の生涯(?座)。
    ●東京・銀座のコリドー街でバー「ギルビーA」を半世紀以上にわたって営んだ名物ママ・有馬秀子(1902.05.15〜2003.09.25)も心不全で101年?の生涯(牡羊座)。ともに1902年の生まれだった。


  • 2003年末までに百歳以上となる高齢者は20.561人(前年比627人増)で過去最多を更新し、初めて2万人を越えるという。女性が84.6%。ほぼ5年おきに倍増。

    (2004.02.12更新)              



101年?の生涯

グランマ・モーゼス
Grandma Moses  【フォークアートの第一人者】

(1860.?〜1961.?)
死因?---?座

  • グランマ・モーゼス(モーゼスおばあさん)の愛称で親しまれた画家。本名はアンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス。米ニューヨーク州グリニッジの小さな農村に生まれる。
  • 12歳から近くの農家で女中として15年間奉公に出て、27歳で結婚して10人の子供を生み、そのうち5人を亡くし、67歳で夫と死別。
  • 夫トーマスの死後は病弱な娘アンナを助けるためにヴァーモント州ベニントンへ。そしてリューマチで手をおかしくした70歳を超えて、初めて油絵の具を手にする。
  • 地元のドラッグストアに飾っていた作品がアマチュアコレクターの目に留まり、80歳になって初めてニューヨークでの個展。画廊をはじめ「タイム」、「ライフ」などの雑誌やテレビ、新聞などにたびたび取り上げられ、いつしか画家「グランマ・モーゼス」の作品と評判は、アメリカ国内のみならず、世界各国に拡がっていった。やがて時のアメリカ大統領に謁見、表彰されるほどの名声を博す。
  • モーゼス自身は、生涯そうした華やかさからかけ離れた農村の素朴画家であり続けた。描いたのは、自分が暮らした田舎の風景・豊かな自然と、そこに住む人々の生活ばかりだ。そして、101歳で亡くなるまでに1600点もの作品を残す。
  • 「彼女の絵の素材は畑での労働風景や収穫、結婚式など、アメリカ東部の農村の生活や行事、自然の移り変わりなど、身近なものから取られていて季節感にあふれています。細かいテクニックを使っているわけでもないし、特別なものを描いているわけではないのですが、素朴で暖かい作品は確かに存在した古き良きアメリカの存在を物語っています」(1)。
  • 「素朴な田園風景で現代人の心を慰める米国の画家、グランマ・モーゼスは半生を農民の妻として過ごした。初めて絵筆を握ったのは75歳という。日だまりに妍(けん)を競う早咲きの花があれば、木陰にそっとほころぶ遅咲きの花もある」(2)。
  • アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼスの名前は、アメリカでは知らない人はいないといっても過言ではないという。潜在能力を最大限に引き出せば、何かをなさんとするに遅すぎるということはないってことを教えてくれる。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    日経新聞2004.10.31朝刊「遅咲きのひと」(足立則夫)。
    「NHKサービスセンターイベント情報:グランマ ...」
    (1)「グランマ=モーゼス」
    (2)読売新聞2005.04.01朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2005.04.01更新)




▲リューマチで手をおかしくした70歳を超えて、初めて油絵の具を手にし、80歳になって初めてニューヨークで個展を開いたグランマ・モーゼス(モーゼスおばあさん)。


◆彼女の絵の素材は畑での労働風景や収穫、結婚式など、アメリカ東部の農村の生活や行事、自然の移り変わりなど、身近なものから取られていて季節感にあふれている

101年?の生涯

アーヴィング・バーリン
Irving Berlin   【彼自身がアメリカの音楽】

(1888.05.11〜1989.?)
長寿を全う---牡牛座

  • ロシア(現ベラルーシ)のテムンで生まれる。幼いときにアメリカへ移住、ニューヨークで育つ。幼いころから家計を助けるために旅芸人となって街頭で歌ったり、カフェの給仕兼歌手として働いていた。
  • 見よう見まねで作曲を試み、1907年に初めて作品が出版され、1911年に「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」を発表。これが大ヒットしソングライターとしての名声を確立。
  • その後、「オールウェーズ」「ブルー・スカイズ」等の名曲を作り、1914年の「ウォッチ・ユア・ステップ」をはじめブロードウェイのレビューを次々に手がけ、1935年の「トップ・ハット」など映画音楽も数多く書く。
  • 最大のヒット曲にクロスビーが歌って有名にした「ホワイト・クリスマス」、又、ミュージカルの名作に「アニーよ銃をとれ」があり、庶民的な親しみやすさが最大の特徴。
  • 彼は、ジェローム・カーンから「バーリンはアメリカの作曲家ではなく、彼自身がアメリカの音楽なのだ」と言われ、又、アメリカのシューベルトとまで謳われた。
  • ジョージ・ガーシュウイン、リチャード・ロジャース、コール・ポーターとならんで、ブロードウエイミュージカルの作曲家の四天王のひとりと称された彼は、生涯で1500曲以上の作詞、作曲を行なっています。
  • 1989年に101歳の長寿を全うした。
  • 「彼は、遊んで暮らせるほどの富を築いていたのですが、1929年の大恐慌でなんと破産してしまったのです。しかし、アービング・バーリンは、「おかげで好きな仕事に戻れた」と言いつつ作曲を続け、日本でもおなじみの「ホワイト・クリスマス」などのヒット曲を立て続けに世へ送り出して、アメリカ一のポピュラーソングの作曲家となったのです。彼は音楽教育を受けておらず、音符も読めなかったそうです。そのせいか、「キーを変えるための特製のペダルの付いた独特なピアノを使用していた」とか「楽譜が読めなかった」とか「バーリン自身はとんでもない音痴で(だみ声だったかも)、その曲の作者であるという免罪符がなければ他人が聞けたモノではなかった」などという噂があったそうです。上記のうわさ(とんでもないだみ声)について1943年の"This is Army"という映画に彼が出演して"OH HOW I HATE TO GET UP IN THE MORNING"という曲を歌っているそうです、機会があれば確認してみてください」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「5月11日」

(2005.12.11掲載)




▲アメリカのポピュラーソングの作詞・作曲家アーヴィング・バーリン。

 

 


101年?の生涯

曽宮 一念
Ichinen Somiya   【日本的フォーヴのひとつの典型】

(1893.?〜1994.?=明治26-平成6)
死因?---?座

  • 東京日本橋に生まれる。本名下田喜七。まもなく曽宮六佑の養子となる。1911(明治44)年早稲田中学を卒業し、東京美術学校西洋画科に入学。大下藤次郎に水彩画を学ぶ。
  • 後期印象派の作風に親しみ、1914(大正3)年第8回文展で≪酒倉≫が褒状を得た。1921(大正10)年下落合にアトリエを建て、近くに住む中村彝佐伯祐三、鶴田吾郎と交友。次第にフォーヴ的な色面構成に移行し、1925(大正14)年第12回二科展で樗午賞を受賞した。同年旧制静岡高校講師となる。
  • 1927(昭和2)年より結核のため病臥、富士見高原療養所に入院するなど主に信州で静養を続けるが、やがて緑内障の徴候にも悩む。1931(昭和6)年二科会会員。
  • この頃より線の表出力に対する関心が芽生え始め、翌年の≪かれはなばたけ≫が示すように、黒の描線を交錯させて感覚的な色面を分解し画面構成の骨格を剥き出そうという精神的欲求がきわだってくる。こうした志向は、1933年の≪きりの花≫では装飾的な和風表現に帰結し、翌年の≪種子静物≫では色面と線描のうねりを融合させた明快な造形処理によって、日本的フォーヴのひとつの典型をもたらした。
  • 1935(昭和10)年独立美術協会会員。1944(昭和19)年静岡県吉原に疎開、翌年より富士宮市に住む。1946(昭和21)年国画会会員。
  • 1958(昭和33)年には随筆集『海辺の溶岩』で日本エッセイスト・クラブ賞を得るなど、文筆もよくした。1967(昭和42)年初めて渡欧。1971(昭和46)年失明し、画家を廃業。
  • 1987(昭和62)年、静岡県立美術館で大規模な回顧展が開催された。101歳で富士宮にて没する。
  • 「明治の昔に詠まれた新趣向の狂歌を「へなぶり」という。洋画家の曽宮一念に自称「へなぶり」の一首がある。〈卑しきは めだちたがりやと 胡麻(ごま)すりと 金づるさがす いやなまなざし〉」(1)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    静岡県立美術館【主な収蔵品の作家名:曽宮 一念】
    曽宮 一念
    (1)読売新聞2006.01.13朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2007.01.13更新)


・肖像を探しています・

▲日本エッセイスト・クラブ賞を得るなど、文筆もよくした画家・曽宮 一念。



◆曽宮 一念 「裾野と愛鷹」 1964年,37*28.5?,パステル・紙,ローマ字サイン,保存-優  sold


◆曽宮 一念「マルセイユのノートルダム」,1968年,保存-良4.5*16?,パステル・紙,ローマ字サイン,保存-優


◆種子静物 1934年 (昭和9)油彩,キャンヴァス 60.6×72.7cm


101年?の生涯

リーフェンシュタール
Leni Riefenstahl   【ヒトラーの愛人】

(1902.?〜2003.09.08.PM10:50)
ガンの手術を受けて療養していた---?座

  • ドイツの映画監督、写真家。ベルリン生れ。
  • バレリーナとしてM.ラインハルトに学んだ後、山岳映画に主演し監督も手がける。次いでヒトラーのもとでナチス党大会の記録『信念の勝利』(31歳)、『意志の勝利』(32歳)、1936年のベルリン・オリンピックの記録『オリンピア』(36歳)を監督。
  • これらの作品にみられる民族的英雄主義を賛える映像的技法は、ドキュメンタリー映画の金字塔であると同時に、ナチス宣伝映画の基本的なスタイルとなった。
  • 「ヒトラーの愛人」「第三帝国のセックス・シンボル」などと呼ばれ、第2次大戦後は4年間収容所生活を送る。
  • 70年代に写真家としてカムバック。『低地』(52歳)を製作した後は写真家として活動し、スーダンのヌバ族の写真集『ヌバ』(62歳)が話題を呼んだ。
  • 2002年、自ら海中撮影した映画『ワンダー・アンダー・ウォーター原色の海』を100歳で発表するなど積極的に活動していた。
  • ナチス党大会を様式美へと高めた「意志の勝利」など、映画に新たな美の表現を持ち込んだ評価は不動だが、「ナチス協力者」の烙印はついに消えなかった。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2003.12.30朝刊「表舞台から去った人」

(2003.09.10更新)




▲ドイツの映画監督、写真家・レニ・リーフェンシュタール。


▲1930年頃のリーフェンシュタール。

 

◆「私の最大の功績はオリンピックの映像化。最大の失敗はヒトラーと知り合ったこと」
(リーフェンシュタール)

101年23日の生涯

石井桃子
Momoko Ishii 【「ノンちゃん雲に乗る」の作者】

(1907.03.10〜2008.04.02)
☆老衰にて天寿全う☆ ---魚座

  • さいたま市出身。日本女子大卒。出版社の編集者時代、英国の作家A・A・ミルンの「プーさん」に出合い、児童文学の道に。プーさんの翻訳書を手掛ける一方で、1947年に発表した初の創作「ノンちゃん雲に乗る」がベストセラーに。55年、子役の鰐淵晴子さん主演で映画化もされ、空想の世界に遊ぶノンちゃんは子どもたちの人気者になった。
  • その後もビアトリクス・ポターの「ピーターラビット」やディック・ブルーナさんの「うさこちゃん」のシリーズなど多くの海外作品を翻訳、日本の児童文学の発展に貢献した。
  • 自伝的小説「幻の朱い実」で、95年に読売文学賞。97年に日本芸術院会員。晩年もミルン自伝の翻訳や執筆活動などを繰り広げ、100歳を過ぎても児童文学への熱い思いを持ち続けていた。
  • 「10歳のよし子にとって、毎年3月3日は特別の日だ。女の子の節句であり、おとうさんの命日でもあるからだ。2月のある日、デパートのショーウインドーで、すてきなおひなさまを見つけた。家でその話をするとなぜかおかあさんは、不機嫌になる。きのう訃報(ふほう)が伝えられた児童文学者の石井桃子さんが、『三月ひなのつき』のなかで、心を通い合わせる母と子の姿を描いている。青森県八戸市の祖父母のもとで暮らしていた、西山拓海君(9)と母親の未紀容疑者(30)の姿も、周囲の目には、仲の良い家族として映っていた。何より拓海君の「おかあさん」の詩の行間からは、「お母さん、大好き」の声が、聞こえてくる。「おかあさんは/とってもやわらかい/ぼくがさわったら/あたたかい 気もちいい/ベッドになってくれる」。昭和8年のクリスマスイブ、作家の犬養健宅で、当時小学生だった道子さん(現評論家)に「読んで」とねだられたのが、石井さんと『クマのプーさん』の原文との出合いだった。『ノンちゃん雲に乗る』は、戦争中疎開先で、農作業のかたわら、兵隊に行った友達のために書いた作品だ。以来、作家、翻訳家、編集者として、手がけた本は、200冊を超える。東京都杉並区の自宅を開放して、子供図書館をつくったことでも知られる。独身だったけれど、頭のなかは常に子供のことばかりだったに違いない。その101年の生涯を思えば、母親がわが子を手にかける事件の異様さが、余計に際だってくる。よし子は、ひな人形のことなんかどうでもよくなる。夜おそくまで仕事をするおかあさんを見ているだけでうれしかった。拓海君だって。おかあさんがいてくれるだけでよかったはずなのに」(1)。
  • 「児童文学者の石井桃子さん旅立つ。ノンちゃん、クマのプーさん、ピーターラビットら多くの友達と一緒に、雲に乗って」。
  • 「映画「ノンちゃん雲に乗る」は中学生の時(昭和28,9年)、学校の講堂(兼体育館だから板張り)の板の上に体育座りで見ました。鰐淵晴子のノンちゃんのふくらみかけている胸がメリヤスの下着から十分想像できる着替えのワンシーンをよく覚えています。全体の内容は全く忘れてしまっているのに凄いでしょう」(2)。
  • 「我が少年期に於ける愛読書の一つに『ドリトル先生』シリーズが有るのですが、井伏版の下訳を手懸けられて居られた事を、寡聞にて初めて知りました。それにしても、此方に有る一言は何故か重いですね。---「あのころの太宰は、あなたに相当あこがれていましたね。実際、そうでした」(井伏鱒二)「クマのプーさん」「ちいさいおうち」などの翻訳、「ノンちゃん雲に乗る」などの著作で有名な石井桃子さんが4月2日午後お亡くなりになりました。自著のみならず、井伏鱒二訳「ドリトル先生」の下訳と編集においても影の功労者とし多大な功績を上げました。「ドリトル先生」もまた、知る人ぞ知る石井さんが生み出した児童文学なのです。そして、石井さんが生み出した作品たち、彼らはこれからも「子供たち」や「かつて子供だった人たち」の心に生き続けていくことでしょう。余談ですが、太宰治の死後、彼の気持ちを井伏鱒二に告白された時、「でも、あたしだったら、太宰さんを死なせなかったでしょうよ・・・」そう言って石井さんは顔を赤らめたそうです」(3)。
  • 「8歳の女の子が雲の上で白いひげのおじいさんに会う。どうやら神様らしい。お兄ちゃんが悪さをしても、お父さんはぶたない。女の子の話におじいさんは微笑した。それはな、子供は人間の掟だけで決めつけられないと、お父さんが知っているからじゃよ。「子どもには生まれてくる前の国、神様のお国の規則をあてはめてみなくちゃならんところが、たくさんあるのでな…」。「クマのプーさん」などの名訳でも知られる石井桃子さんはこの創作童話「ノンちゃん雲に乗る」を戦争の末期、心沈む友人を慰めるために書いた。読者は数人、暗い電灯の下でわら半紙に綴られた物語である。石井さんは幼いころ、祖父のあぐらの中で昔話を聴きながら物語の愉しさを覚えたという。三つ子の魂、101歳まで---“神様のお国の規則”を胸にかざし、子供たちを優しく見守りつづけた人である。きのう、訃報に接した。亡くなった4月2日はアンデルセンの誕生日であり、「国際子どもの本の日」でもあった。その日に、あなたと会えたのだね…。春の雲が浮かぶ天の高みに、白いひげをしたおじいさんの声がする」(4)。
  • ユリウスさん 「忘却とは 忘れ去る事なり。忘れ得ずして 忘却を誓う 心の悲しさよ!!(「君の名は」より)。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    (1)「【産経抄】4月4日
    (2)投稿者:ユリウスさん..2008/ 4/ 5 11:22:44(土) [2939]
    (3)投稿者:Thori-Tungさん+「オンライン書店ビーケーワン 追悼 石井桃子さん
    (4)読売新聞2008.04.04朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2008.04.06更新)




▲「ノンちゃん雲に乗る」などの小説や「クマのプーさん」「ピーターラビット」シリーズの翻訳で知られる児童文学者・石井桃子。







101年1ヶ月と1日の生涯

ジョージ・ケナン
George. F. Kennan   【封じ込め政策の考案者】

(1904.02.16〜2005.03.17)
死因などは不明---水瓶座

     
  • 1904年米ウィスコンシン州ミルウォーキー生まれ。1925年にプリンストン大学を卒業後、1926年に国務省に入省。外交問題専門誌「フォーリン・アフェアーズ」の1947年7月号に、「X」の匿名で論文「ソビエト対外行動の源泉」を発表。
  • 「ソ連指導部が平和で安定した世界の利益を脅かす兆しのあるすべての地域で、しっかりと対抗することを目的とする封じ込め政策」を提唱。共産主義の拡大を防ぐ手段として主張し、その後の冷戦外交の基礎となった。また、論文では、ソ連共産主義の崩壊を予測していた。
  • 国務省政策企画部長として、封じ込め政策の具体策作りに当たり、1948年には占領下の日本を訪問。日本の共産化を防ぐことがアジアでのソ連の影響力阻止に欠かせないと判断し、帰国後の報告書で対日経済援助や賠償見直しを提言。
  • 1951年から53年までソ連駐在大使を務めた1961〜63年にユーゴスラビア大使を務め、その後はプリンストン高等研究所で研究生活に入り、学究生活。
  • ソ連外交などに関する20冊の書物を著し、晩年まで提言を続けていた。 最後の著作は、98歳だった2002年に出版している。回想録でピュリツァー賞を受賞している。
  • ニュージャージー州プリンストンの自宅で死去。死因などは不明。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2005.04.07掲載)




▲米国トルーマン政権下で対ソ連「封じ込め」政策を提唱し、米ソ冷戦時代の本格的幕開けを告げる役割を果たした元米外交官ジョージ・ケナン。

 


▲『アメリカ外交50年』
ジョージ・F.ケナン,著。 近藤晋一, 有賀貞, 飯田藤次 (岩波書店)





101年1ヶ月と2日の生涯

谷沢三之助
Sannosuke Yazawa   【日本最高齢プロボウラー】

(1903.06.25〜2004.07.27)
☆老衰で天寿全う☆---蟹座

     
  • 日本最高齢プロボウラー。静岡県出身。
  • 谷沢さんは65歳の時にボウリングと出合い、83歳の時には自己最高の285点を記録。
  • 100歳まで続けることを目標に掲げ、日本ボウリング場協会が決める長寿ボウラー番付で96年から8年連続で最長寿の「東の横綱」の座についていた。
  • 昨年6月には静岡市内のボウリング場で百歳記念大会があったほか、谷沢さんとボウリングをするツアーも開かれるなど、多くの人に愛されていた。昨年10月に体調を崩して約1ヶ月入院。今年6月には心不全で再入院した。老衰のため藤枝市内の病院で死去した。101歳だった。
  • 病院で迎えた101歳の誕生日には、看護婦に小型のピンを立ててもらい、ゴムのボールを投げてボウリングゲームを楽しんだという。
  • 夢のパーフェクト達成はかなわなかったが、百歳を過ぎるまで投げ続けたボウリング人生は、見事なパーフェクトだった。
  • 年下のボウリング仲間から「じっちゃん」と呼ばれていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    読売新聞2004.09.26朝刊「追悼妙」より抜粋。

(2004.10.01掲載)




▲65歳の時にボウリングと出合い、83歳の時には自己最高の285点を記録した谷沢三之助さん。右はかの中山律子さん。




101年1ヶ月と29日生涯

直原玉青
Gyokusei Jikihara    【現代南画の第一人者】

(1904.08.01〜2005.09.30午前6時47分)
心不全---獅子座


  • 淡路島出身。本名は正(タダシ)。戦前から、中国の南宗画の影響を受けて日本独自に発達した南画を学んだ。南画は水墨による線描が特徴で、文人画とも呼ばれる様式。
  • 俳人の高浜虚子にも師事し「万物は助け合って平和があり調和がある」とする東洋思想を基に、現代南画を創造した。
  • 兵庫県南あわじ市の国清禅寺を復興し住職をする傍ら、多くの作品を発表した。
  • 1960年、日本南画院創立に参加。1991年から日本南画院会長。1968年に「相忘」で文部大臣賞、1990年に「迷」で総理大臣賞を受賞。著書に「新しい南画と俳画の描き方」「水墨画入門」など。
  • もはや性差を越えた顔立ちである。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2005.10.14掲載)




▲南画の第一人者として知られる日本南画院会長の画家・直原玉青。
(写真:読売新聞訃報欄)


◆少年の頃 Shounen no koro
大浜海岸を手をひかれて歩く直原画伯の幼い頃の思い出を描いたもの。


◆明兆 Myouchou
室町時代の画僧で洲本で生まれた。雪舟とともに日本水墨画の祖と称せられている。この大作は直原画伯が描いた淡路三偉人像の一つ



◆幽霊Yuurei
高浜虚子自筆の幽霊の句讃で虚子の絵としては最も初期のものです。大正6年6月、毎月行っていた俳句の論講の席上、自分の俳句を酷評されたことに気を悪くし、酒を飲んだ揚句に描いたもので非常にめずらしいもの





101年4ヶ月と10日の生涯

有馬秀子
Hideko Arima  【銀座「ギルビーA」の名物ママ】

(1902.05.15〜2003.09.25)
心不全---牡羊座

     
  • 東京・銀座のコリドー街でバー「ギルビーA」を半世紀以上にわたって営んだ名物ママ。
  • 東京浅草生まれ。少女のころ日露戦争の選奨行列に旗を振った。「お嬢様学校」といわれた東京女学院で学生時代を送り、19歳で結婚。サラリーマンの妻だった46歳の時、どぶ川と柳並木のいまの通りに、「ギルビーA」を開き「銀座のママ」に。
  • 政治家の河野一郎や財界の永田重雄、作家の遠藤周作ら著名人が、木造二階建ての住宅を改造した店に通い詰めた時代もあった。
  • 「店が彼女の人生のすべてでした」(孫の清さん)。ウイスキーを覚えたのは90歳を過ぎてからだったという。
  • 「女はいくつになっても女でございます」。国文学の教授が、録音しておいた方がいいと、真顔で話したほど、上品な山の手言葉だった。
  • 最後の言葉はバーテンダーの中川福市さんへの一言「これから(病院へ)行くから、あとはお願いね」。
  • 有馬秀子の語録は「Lefty」(1)に詳しい。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    (1)「Lefty

(2009.05.23更新)




▲東京・銀座のコリドー街でバー「ギルビーA」を半世紀以上にわたって営んだ名物ママ・有馬秀子。




◆「100歳にもなって、一人で元気に暮らしながら商売をしているというのは、北海道から沖縄まで、 日本全国でも私一人でしょうね」

101年7ヶ月と7日の生涯

奥村土牛
Dogyuu Okumura   【「大器晩成」の日本画家】

(1889.02.18〜1990.09.25)
死因?---水瓶座

  • 日本画家。本名義三。東京生れ。
  • 梶田半古、小林古径に師事し、巽画会、中央美術展、院展に出品。古径の新古典主義に見られるきびしい気品を受け継ぎながら、豊かな現実感に満ちた画面を構成。
  • 1962年文化勲章。1990年長野県八千穂村に奥村土牛記念美術館開館。代表作『鴨』『鳴門』など。
  • 土牛はとても長生きをした。101歳というのは、長寿が多い日本画家の中でも、際だっている。また土牛は、長寿であっただけではなく、その晩年までも意欲的に創作を続けた。代表作の多くが、60歳を越えてから描かれていることからも、まさに「大器晩成」の画家。
  • 「鳴門」という作品は、土牛の代表作の一つで、緑色を主体とした画面に、鳴門海峡の渦潮がうねる様が簡潔に描かれている。土牛はこの作品のため揺れる船の上で、まるで記号のようなスケッチを何枚も描いたという。そうして頭のなかに刻みつけた新鮮な印象をもとに、作品にとりかかったという。この作品では、現場でのイメージを核にして、鳴門の渦潮を見た鮮烈な感動を表現している。しかも、渦潮はその迫力を失うことなく描かれ、土牛の確かな写実力を示している。
  • 「土牛」という雅号は、土牛のお父さんがつけたもので、中国の詩「土牛、石田を耕す」という一節からとったもの。ただし、雅号では「とぎゅう」と読ませている。土牛とは、古来中国の豊作を祈願する土製の牛のこと。そんな壊れやすい土牛でも、根気よく耕せば、石ころの多い荒れた田を美田に変えることができる、ひとつのことを根気よく続ければ、必ず成就される。「土牛」という雅号には、そんなお父さんの願いが込められている。老年に入ってなお、傑作を生みだし続けた「大器晩成」の画家土牛に、ぴったりの雅号であった。
  • 土牛は、子どものころ、おばあさんに連れていってもらってから、「絵の次に好き」というほど、歌舞伎に傾倒していた。
  • 土牛が長者番付に名を連ねたのは、1986年のこと。都内の土地を不動産屋にせがまれて手放した。時に97歳の時の言葉「土地でお金が入るなんて恥ずかしい」。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.10.26更新)



・肖像を探しています。

▲代表作の多くが、60歳を越えてから描かれている「大器晩成」の日本画家・奥村土牛。




101年7ヶ月と26日の生涯

エリザベス皇太后
Elizabeth the Queen Mother  【エリザベス2世の母】

(1900.08.04〜2002.03.30)
心臓血栓症---獅子座

  • 英国の王族、ジョ−ジ6世の妃、エリザベス2世の母。
  • 1923年、当時ヨーク公(Duke of York)であったGeorge6世と結婚。実際の所、夫ジョージ同様王位継承については消極的というより、夫の体を考えて絶対反対であった。
  • 異例な王の交替劇で、即位前には殆ど国民にその人物像を知られておらず、強度のどもりという言語障害を持っている事で、周囲からはそれが王としての責務を果たす上での妨げになるのでは、という不安を集めていたGeorge6世を、彼女は内助の功で支え、言語障害を克服させ、国民同様の平和な家庭を築いた。
  • 第二次大戦中もドイツ軍の空襲から逃れる為の疎開を拒否し、国民同様にロンドンに踏みとどまり、国民への奉仕と義務を率先し、『無名の王』から『良き王』へと国民の評価を上げた原動力こそがエリザベス王妃だった。
  • 彼女の人気は皇太后(Queen Mother)となってからも衰える事がなく、国民敬愛の的となっていた。
  • 夫George6世は、1952年2月6日の朝、肺ガン手術後の心臓血栓症が原因で他界。52歳だった。
  • 3月30日に101歳で死去したエリザベス英皇太后の葬儀が現地時間9日午前11時30分、ロンドン中心部のウェストミンスター寺院で厳かに営まれた。英国でこれほど厳粛な葬儀が行われるのは、1965年のチャーチル元首相が死亡した時以来だという。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:

(2003.08.18掲載)




▲英国の王族、ジョ−ジ6世の妃、エリザベス2世の母・エリザベス皇太后。

101年10ヶ月と21日の生涯

三浦敬三
Keizou Miura  【山岳スキーの草分け】

(1904.02.15〜2006.01.05 AM2:32)
多臓器不全---水瓶座

  • 青森県青森市生まれ。青森県立第三中学校、北海道帝国大学農学部卒業。
  • 北大在学中に八甲田での山スキーに魅せられ、卒業後、青森営林局に勤務。八甲田山のフィルム記録にスキーに滑降で参加。
    55歳で青森営林局を退職し、この頃から海外の山々で多くのスキー滑降を行う。
  • 70歳でエベレスト山麓のチャングリ氷河、77歳でキリマンジャロのスキー滑降に挑戦。さらに81歳でアルプスのシャモイー(フランス)からツェルマット(スイス)までの100キロを踏破。
  • 2004年2月には99歳でモンブランからのスキー滑降を成し遂げ、同年9月にはスポーツ振興への貢献により内閣総理大臣表彰を受けた。
  • 晩年は青森を離れ東京で生活したが、故郷の八甲田山をこよなく愛していた。 2006年1月5日、多臓器不全のため101歳で他界。
  • 息子三浦雄一郎と孫三浦豪太(元オリンピックモーグル代表選手)もまたスキーヤー・登山家であり、エベレスト山の登頂に成功している(雄一郎は世界最高齢での登頂)。
  • 「77歳でキリマンジャロを滑降した。81歳でアルプスの国境を越えた。長男の山岳プロスキーヤー雄一郎さん(73)、孫の雄大さん(39)と親子3代でモンブランの氷河を走破したのは白寿99歳の時である。1904年(明治37年)といえば日露開戦の年、青森県の山あいに生まれた。電気も、水道もない。天秤棒を肩に水くみが日課だった少年期を昨年、小学館「本の窓」で回想していた。雄一郎さん、孫の豪太さんとの鼎談である。つづく豪太さんの言葉がいい。「登山をすると、おじいちゃんが子供だった頃の生活を体験できます。山の中には電気も水道もコンビニもありませんし、携帯電話だって通じない」。皆で知恵を絞り、協力するしかないのだ、と」(1)。
  • この人は超人である。ボクは130歳くらいまでこの世に滞在するではと思っていた。

    ¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト:
    新聞各紙訃報欄
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    (1)読売新聞2006.01.10朝刊「編集手帳」より抜粋。

(2006.01.011更新)




▲日本の山岳スキーの草分け的存在で、百歳を超えてもスキーヤーとして活動していた三浦敬三。




 101歳のエポック!

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(2003.07.09)

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